世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

各校の過去問対策、受験対策のほか、世界史を理解する上で役に立つ視点や勉強法についての情報を随時更新していきます。

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※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw また、大手予備校のHPからも閲覧できるかと思います。正規の問題が手元にあった方がわかりやすいと思います。

早稲田大学の文化構想学部については毎年最後の大問でまとまった文化史の出題がされています。これまでも漠然と印象派周辺の絵画史に関する出題が多いなぁと感じておりましたので、今回は過去数年分の問題について傾向分析をしてみることにしました。(文化構想学部の全問題についての分析ではなく、あくまでも最終大問についての分析ですのでご注意ください。)

 

 まず、以下は年別に文化構想学部の最後の大問で出題された設問の解答と、解答に直接関係する(解答を導くヒントにダイレクトに直結する)と思われる関連事項について示したものです。(関連事項は基本的にリード文や設問の文章の中に含まれています。)

早稲田文化構想解答一覧 - コピー

 また、解答に結びつくいくつかのヒントがリード文や設問中には見られますが、それらのうちかなり直接的に解答に結びつく知識の一覧を示したものが以下の表になります。

早稲田文化構想関連知識一覧 - コピー

 

これを見ただけでもかなり印象派を中心とした19世紀以降の美術史に偏っているなという印象を受けましたので、数的に分析してみることにしました。ただし、「関連知識」については主観が入り込んだり、取捨選択がされてしまう部分もありますので、解答のみに絞って数を数えて分野別にまとめたところ、以下のような結果となりました。

 早稲田文化構想傾向分析 - コピー

  

 表中の「文化以外、その他」というのは、解答の用語自体は、文化史ではなくむしろメインは政治史などの文脈で出てくる用語になります。例を挙げると、「フランス学士院を設立したルイ13世の宰相」というヒントで出題された問題の解答「リシュリュー」は、フランス学士院との絡みで考えれば文化史の範疇に入るものですが、ルイ13世期の宰相としての側面が強い用語であることから、ここでは17世紀~18世紀の文化とは数えず、「文化以外、その他」の範疇として数えました。また、2014年の設問の解答は全てアジア史に関する設問でしかも古代史からの出題でした。その他の年の設問が基本的にヨーロッパを取り扱っておりますので、アジア史についても「その他」として扱いました。

上記のようなものを除外したにもかかわらず、年によって偏りはあるものの、やはり19世紀~20世紀の文化史の割合が多いように思われます(約52%)。ルネサンス以降、ということになれば8割弱(約77%)がそちらからの出題になります。また、19世紀~20世紀の文化史にかかわる解答のうち、「ドビュッシー」、「スメタナ」などの音楽分野や、「アインシュタイン」などの自然科学分野を除外し、印象派を中心とする19世紀以降の絵画史にのみ絞って数を数えたところ、全体の4割近くがこの分野から出題されていました。やはり、印象派などが多く出題されているという感覚はデータ的にも誤っていなかったことになります。

 

【対策】

 全体の傾向を見ますと、特に19世紀以降の文化史(できれば17世紀以降の文化史も含めて)については少し突っ込んだ内容まで覚えるようにし、中でも印象派についての知識はしっかりと入れておけば、大抵の場合には対応できる問題かと思います。ルネサンスまたはそれ以前についても出題されることはありますが、かなり基本的な知識ばかりで、重箱の隅をつついたような設問が出ることは2014年から2021年にかけてはありませんでした。(ラファエロだの、ミケランジェロのダヴィデ像だのはルネサンスの中でもやはり基本でしょう。) それ以外の文化については、通常の学習を進めていれば事足りるので、あえて特別な対策をする必要はないかなと思います。

 理想を言えば、ルネサンス以降、1718世紀のバロックやロココ、新古典などの美術を中心とした文化がどのような流れでつながっているのかについての簡単な理解に加えて、さらに19世紀からのロマン主義、自然主義、写実主義、印象派、アール=ヌーヴォーなどがどのようなものかということについての基本的な理解ができていることが望ましいかと思います。これらについては、学問的には正確ではないかもしれませんが、イメージの仕方というか、コツのようなものがありますので、時間に余裕のある時にテーマ史の方で取り組んでみたいなぁと以前から思っています。疲れるのがわかっているのでまだまとめられていませんw すみませんw 口頭で説明すると楽なことでも、文章にすると長くなるんですよねぇ。

 注意しておきたいのは、以上の傾向と対策はあくまでも「全体を見ればそういう傾向が(今のところは)ある」というだけで、「絶対にココが出る」というものではない、ということです。現に、2014年の問題なんかは印象派だの19世紀以降の文化だのやっていても全く意味はないですからね。最後には運になってしまうので、あまり傾向や予想に頼り切ってヤマをはった勉強の仕方をするのではなく、可能であればまんべんなくじっくりと取り組む形の学習を進めるべきかと思います。出題傾向は、そうした学習をしっかり積んだ上でプラスアルファとしてより重点的に学習する箇所を定めたい人か、逆に全く勉強が追い付いていない場合に、窮余の一策としてヤマをはりたい人向けのものかな、と個人的には考えています。

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 2020年の早大法学部論述はかなり変化球を出してきたなという印象でした。過去11年間の出題を見ても、近現代ヨーロッパまたは中国史が中心です。2019年の設問は時代について従来の傾向から外れてきましたが、それでも王道の設問であったので対処できる受験生も多かったのではないかと思えますが、2020年の本設問では受験会場で目が点になった人、天を仰いで神を呪った人などかなりいたのではないかと思います。

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 ただ、メキシコ史については確かに細かいディテールまで抑えている受験生は少なかったのではないかと思いますが、指定語句とその周辺についてある程度まとめていくことで対処できた受験生も一定数いたのではないかと思います。特に、本設問は正確にはメキシコ史ではなく、「アメリカ合衆国との関係」を問う問題でしたので、むしろアメリカ合衆国の歴史を通して知識として身についていた部分も多かったのではないでしょうか。

 本設問について少し注意しておきたいところがあるとすれば、メキシコ革命あたりでしょうか。感覚的にですが、近年メキシコ革命のディテールを問う設問が以前よりも増えてきている印象があります。メキシコ革命については『詳説世界史研究』などでもかなり細かいところまで説明されてきていますので、情報量の拡大が出題の増加につながっている部分もあるのかもしれません。また、これまでと同様「変遷」というテーマでの出題になっています。ただ、本設問の「変遷」は少しとってつけた感がないこともありません。米墨関係については「AだったものがBになったよねー」という大きな関係で語れるものではなく、「Aになって、Bになって、Cになって…」というかなり複雑なものです。たとえば、戦後についてはアメリカからの経済援助を受ける一方で外交的にはややソ連寄りだったり、社会政策についても左派寄りの政策を展開したり、かと思えば第三世界の一員としてふるまったりと色々な性格を見せます。こうしたメキシコと合衆国の変遷を200年近くにわたって述べるのに、250字から300字はいかにも少なすぎますね。出題者の方は、「高校受験生はメキシコのことなどあまり知らないから300字でいいだろう」くらいのつもりで出したのかもしれませんが、しっかり勉強している受験生は意外に書ける量が多すぎて、情報の取捨選択に困ったのではないでしょうか。逆に、メキシコ史が書けない受験生は300字どころか100字も書けなくて困ったとなってしまうのではないでしょうか。そういう意味でも、悪い問題だとは言いませんが、やや設問としてのバランスに欠ける印象がありました。少なくとも、良問ではないと思います。

 

【1、設問確認】

・時期:メキシコの独立(1821)~20世紀末(2000

メキシコとアメリカ合衆国の関係はどのように変遷したか

・指定語句:テキサス併合 / メキシコ革命 / キューバ革命 / 北米自由貿易協定

250字以上~300字以内

 

:上述しました通り、本設問でもっとも大切なのは「メキシコとアメリカ合衆国の関係の変遷」を問うているのであり、メキシコ史を概観すれば済む設問ではありません。字数も限られているので、かなりシビアに米墨関係に絞って書いていく必要があるでしょう。

 

【2、メキシコ史(独立以後)の確認】

:設問を解く上では、米墨関係に的を絞って関連事項を列挙していくだけでもそれなりの解答が作れるのではないかと思いますが、メキシコ史についての復習をする機会というのもそう多くはありませんので、ここでは簡単にメキシコの独立以降の歴史を概観してみたいと思います。もちろん、これからお話しする内容をすべて覚えていなければならないとか、そういうことではありません。(ですから、これからお話しするメキシコ史の概観では、教科書や参考書に載っているレベルの人名・単語についてのみ青字で示しました。)そもそも、世界史の教科書や参考書に書かれているメキシコ関係の記述はそれほど多くなく、記述箇所もあちらこちらに散らばっています。ですが、近年はメキシコ関係の記述が増えてきていることも確かです。一例をあげますと、1995年版の『詳説世界史研究』(山川出版社)ではメキシコ革命についての記述は以下の通りでした。

 

 「1911年マデロによるメキシコ革命がアメリカのウィルソン大統領の支援のもとに初めて成功し、大統領は強力な権限を持ち、民主的な憲法が制定された。」(p.414

 

今読むと色々「おいっ」って突っ込みたくなる記述ではあるのですが、この程度しか書いていなかったのです。ですが、最新版(2017年版)の『詳説世界史研究』では、メキシコ革命についてかなり詳しく(と言っても10行程度ですが)書かれており、用語の面でもマデロに限らず、「サパタ / ウエルタ / カランサ / 1917年に制定された憲法とその内容」 など、かなりメキシコ革命の流れや実態がつかみやすい文章になっています。この辺の情報量の拡大が早稲田に「よし、メキシコ史出そう」と思わせた一つの原因かと思われますので、今後もメキシコ史についてはところどころで目にする機会が(劇的にではないにせよ)増えてくるのではないかと思います。

 

① (前史):神父イダルゴ、神父モレーロスの独立運動

:宗主国スペインにおいてナポレオン支配に抵抗する半島戦争(1808-1814)が発生すると、この混乱の中でクリオーリョの司祭(神父)であったイダルゴに率いられた独立運動が開始され、メキシコ独立戦争(1810-1821)がはじまります。イダルゴは独立闘争の開始後まもなく捕らえられて処刑されますが、その後はメスティーソの司祭であったモレーロスの起こした反乱などが拡大していきます。モレーロス自身もヨーロッパにおいてナポレオン戦争が終結し、スペイン本国が落ち着きを取り戻し始めると逮捕・処刑されます。その後、独立運動は次第に鎮静化していきますが、1820年にスペインで立憲革命が発生し、自由主義的な改革が進められたことがメキシコの保守派クリオーリョを刺激し、元々は王党派のクリオーリョとして反乱軍を鎮圧する側であった人物(アグスティン=デ=イトゥルビデ)が皇帝に即位して立憲君主国として独立を果たすことになります。

 

② 独立と合衆国のモンロー宣言

1821年に立憲君主国として独立を果たしたメキシコでしたが、皇帝アグスティン1世(アグスティン=デ=イトゥルビデ)は建国後まもなく議会と対立し、後に独裁権力を握ることになるサンタ=アナなどが反乱軍を組織して共和政を宣言し、共和国として再出発します。メキシコが独立したころのラテンアメリカは、他の諸国でも独立を宣言する国があいつぎ、これに対して旧宗主国スペインだけでなく、ヨーロッパ諸国の干渉が懸念されました。これについては、成立したばかりのウィーン体制が正統主義を掲げて自由主義やナショナリズムを抑圧する体制であったことも想起すると良いかと思います。そして、1823年にスペイン立憲革命(1820)の波及を恐れた神聖同盟諸国がスペインへの武力干渉を決定し、フランス軍がスペインに侵入して自由主義勢力を破ると、ヨーロッパによるラテンアメリカへの干渉はさらに現実味を帯びて懸念されるようになりました。こうした中、アメリカ合衆国第5代大統領ジェームズ=モンローはいわゆる「モンロー宣言」を発してヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉を唱え、ラテンアメリカ諸国の独立を支持しました。

 

③ テキサスをめぐる対立と米墨戦争

 独立後まもなく共和政へと移行したメキシコでしたが、サンタ=アナによる独裁的中央集権体制が構築され始めると、これに反発する各地域で独立の機運が高まっていきます。中でも、アメリカ合衆国と境を接していたテキサスには、スペインが支配していた時代から土地の払い下げなどを受けてかなりの数の入植者が入り込んでいました。こうした中で、テキサスに住むアメリカ系住民とメキシコ政府の間に様々な対立が生まれていきます。(たとえば、宗教的自由を尊重するアメリカ系入植者に対してクリオーリョを中心とするメキシコ政府はカトリック信仰を押し付けましたし、奴隷制が依然として認められていたアメリカ南部から来た入植者に対し、メキシコをはじめとするラテンアメリカ諸国は奴隷制を廃止していきます。[メキシコでは1829年に廃止]

 こうした対立と独立闘争を経て、テキサスは1836年にテキサス共和国として独立します。そして、テキサス住民の意思に従って1845年にはアメリカ合衆国の28番目の州として併合されました。しかし、テキサス共和国の独立を認めていなかったメキシコはこれに反発し、翌1846年から米墨戦争(アメリカ=メキシコ戦争)が始まります。この戦争に敗れたメキシコは、さらにカリフォルニアとニューメキシコなどを失うことになりました。

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(アメリカ合衆国の領土拡張:Wikipediaより、一部改変)

 

④ 自由主義者の諸改革とナポレオン3世のメキシコ出兵(メキシコ内乱)

1850年代半ばにサンタ=アナの独裁が終わりを告げると、メキシコでは(ベニート=)フアレスら自由主義者の活動が活発化します。これに対し、保守派が抵抗を行った結果、メキシコは内戦へと突入します。アメリカはフアレスを支援し、この支援を受けて彼は先住民族から選出された初のメキシコ大統領に就任します。ところが、このフアレス政権が外債の利子の不払いを宣言したことを口実にフランスのナポレオン3世が軍事介入を行います。それまでフアレスの支援を行ってきた合衆国でしたが、当時は合衆国でも南北戦争(18611865)が開始されたばかりでしたので、このナポレオン3世の軍事介入に対しては効果的な手を打つことができませんでした。ナポレオン3世は、戦争を優位に進めるためにメキシコの保守層を取り込むことを画策し、メキシコの旧宗主国スペインの旧主であったハプスブルク家のマクシミリアン(当時のオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の弟)をメキシコ皇帝に据えた君主制国家をつくることを提案し、マクシミリアンもこれを受諾して1864年にはメキシコ皇帝の座につき、メキシコには二度目の帝政が成立します。

 ところが、1865年にアメリカ合衆国の南北戦争が終結すると、合衆国はフアレスら自由主義者への支援を再開し、モンロー主義に基づいてフランス軍の撤退を要求します。その結果、戦争はフアレスらに優位に展開し、フランス軍は撤退し、最終的には皇帝マクシリアンは捕縛され、諸国からの除名嘆願要求も無視されて処刑されました。この「マクシミリアンの処刑」を描いたエドゥアール=マネの絵画は非常に有名です。弟マクシミリアンの処刑の報を、オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世はオーストリア=ハンガリー二重帝国の成立にともなう祝賀式典に際して受け取り、弟を見捨てて撤兵したナポレオン3世に対し強い悪感情を抱いたと言われています。

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(「皇帝マクシリアンの処刑」Wikipediaより)

⑤ メキシコ革命

:フアレスが1872年に亡くなりしばらくすると、メスティーソの出身であったディアスが武装蜂起によって大統領に就任(在:1876-1911)し、その後数十年にわたって独裁を行います。ディアスは地主階級の指示と英米の資本に依存して鉄道・電信網の整備や銀行の設立、鉱工業をはじめとする経済の発展を達成し、国内の近代化を進めることに成功します。しかし、それらの発展は外債への依存度が高かったためその権益の多くが外国資本に握られることとなり、メキシコの経済発展の恩恵に浴することができたのはディアスと彼によって保護された一部の特権階級のみで、貧富の差は大きく拡大することとなりました。

 このような中で、貧富差の拡大やディアスの長期政権に反対する人々など、様々な層において不満が蓄積していきます。その結果、マデロカランサ、オブレゴンといった自由主義的で裕福な地主層から、サパタ、ビリャなどの貧しい農民層まで広範囲にわたる人々が参加する革命へとつながっていきます。

 

【メキシコ革命の流れ】

1910 革命の勃発

マデロを国外追放にしたディアスの強権政治に反対して全国で蜂起

1911 マデロ政権の成立

→農地改革をめぐりサパタと対立

サパタがゲリラ活動を展開し、ビリャが合流

1913 ウエルタ将軍のクーデタ

:公金の使い込み問題で対立し、クーデタを起こし、マデロを処刑し軍事独裁開始

アメリカ合衆国大統領ウィルソンはウエルタ政権を認めず

→反ウエルタ派がカランサを中心に反乱軍が形成され、ウエルタ政権を打倒

カランサ率いる自由主義的地主層とサパタ、ビリャ率いる農民層が対立

→自由主義的地主層のカランサ政権が成立1915

1917 1917年憲法の制定

   :大土地所有者の土地分配(農地改革)の実施に消極的なカランサに対し、オブレゴンなど周囲の将軍たちは農地改革や労働者の権利保護、信教の自由などの進歩的内容を盛り込んだ憲法制定を要求した結果できた憲法

   →憲法を無視して政治を行おうとするカランサの求心力が低下

   →サパタ・ビリャの暗殺(サパタ[1919]、ビリャ[1923]

   →オブレゴンと対立したカランサが殺害される(1920

 

 簡単に上記の通りまとめてみましたが、大切なところは「自由主義的地主層が大土地所有などに寛容で保守的であるのに対し、農民層は土地分配や旧来の制度の打破を目指して急進的であることから対立が絶えない」という点と、1917年憲法は当時の国の実態を知っていたカランサ側近によってカランサの意に反して民主的な憲法になったが、実態をともなって実施はされなかった」ということです。土地分配についてはこの後しばらくしてからカルデナス政権下で実施されていくことになります。

 

⑥ 内戦の終結とカルデナス政権の成立

:カランサが1920年に殺害されると、オブレゴンが大統領となりますが、その後も政治混乱は続きます。メキシコをはじめ、ラテンアメリカではカウディーリョと呼ばれる武力を背景に諸地域に支配力を及ぼす指導者が多数存在していました。19世紀初めに独裁権力を握ったサンタ=アナもカウディーリョの一人として数えられますし、農民指導者ビリャ、オブレゴンの後に大統領となったカリェスなどもそう考えられているようです。正直なところ、カウディーリョとは何かと言った場合にはっきりとした定義があるわけではなく、たとえば『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年版)では「農村部や地方都市を中心にカリスマ的権威と独自の武装集団を持つ」(p.349)とされていますし、コトバンク(日本大百科全書[小学館])では「独立後の旧スペイン領ラテンアメリカ諸国に輩出した強大なボス的政治指導者のこと」とされています。いずれにしても、カリスマ性を備えて雄弁さなどの個人的魅力や金、暴力などで多くの人間を従えた頭目、ボス的存在(ゴン蔵みたいですがw)であるカウディーリョがあちこちに存在していたラテンアメリカでは、独裁権力をめぐる争いが長く続くことになります。イタリアンじゃないけどゴッドファーザー的な世界ですねw

最終的に、メキシコに安定を取り戻したのは1934年に大統領となったカルデナスでした。カルデナスは大統領に就任すると、民主的な内容を定めながらも半ば空文化していた1917年憲法の中身を現実のものとしていきます。カルデナスの業績としては

・鉄道、石油産業の国有化

・中小企業の保護育成

・労働環境の整備

・教育改革

などが挙げられます。また、スペイン内戦に際して人民戦線政府を支援したり、内戦終結後の亡命者や、スターリンの粛清を逃れたトロツキーの亡命を受け入れた人物としても知られています(もっとも、それでもトロツキーはスターリンの刺客に襲われて殺されてしまうのですが)。全体としてやや左派寄りの印象を受ける政治姿勢ですが、共産主義者というわけではありません。ただ、カルデナスが実施した石油国有化は利権を有していたアメリカ合衆国などの反発を買い、両国関係は悪化します。

 

⑦ 第二次世界大戦後の制度的革命党(1946~)支配と米国との関係改善

:カルデナスの所属政党であった国民革命党は、その後メキシコ革命党(1938)、さらに制度的革命党(PRI1946に名称を変えてその後半世紀以上にわたってメキシコを支配します。すでに、第二次世界大戦でメキシコが連合国側で参戦したことでアメリカとの関係改善が進んでいましたが、戦後についてもメキシコはアメリカからの資本を受け入れつつ、産油国として工業化を達成し、経済発展を続けていきます。外交的には、アメリカ主導の米州機構(OASへの参加や、キューバ革命後の「進歩のための同盟」への参加など、親米路線をとることもありましたが、一方で第三世界の一員としての行動をとったり、時にはラテンアメリカの社会主義政権に接近するなど、親米一辺倒の路線を取っていたわけではありませんでした。制度的革命党の政治と外交は、右派と左派、資本主義と社会主義の様々な側面を包括したものでしたので、イデオロギー的にどちらと定義できるようなものではありませんでした。

 

⑧ 1980年代以降のメキシコ経済と北米自由貿易協定

:産油国として工業化を達成していたメキシコでしたが、1970年代の第三世界外交の展開によるアメリカとの関係悪化や、経済が石油価格の変動に影響を受けやすい脆弱な構造であったことなどが災いして、1980年代には累積債務問題が表面化し、国民生活は窮乏します。こうした中で、制度的革命党は従来の社会改革路線よりも市場経済重視の路線に転換します。大雑把に言えば、人々の生活にセーフティネットを拡充するよりも、貧富の差は拡大しても国全体の経済が発展するような方向にシフトします。このような流れの中で、メキシコは1992年に北米自由貿易協定(NAFTAをアメリカ合衆国(締結時はブッシュ[パパの方]、発効はクリントンの時[1994])とカナダとの間に締結します。これにより、メキシコは北米との経済的結びつきを強めましたが、NAFTAによって生活基盤が破壊されると考えた貧しい先住民や農民たちはサパティスタ民族解放軍(名称はサパタにちなむ)を結成し、1994年には武装蜂起を行います。さらに、制度的革命党の大統領候補が選挙中に殺害されるなど、政情不安が高まる中で、メキシコ経済の将来に不安を感じた投資資金が一挙に海外に流出し、ペソの価値が暴落するメキシコ通貨危機(1994年末、テキーラ=ショック)が発生します。こうした中、もともとは制度的革命党から派生した団体に過ぎなかった国民行動党(PAN)が、1990年代を通して政治の腐敗を批判し、政治の民主化を掲げると急速に支持が高まり、2000年の大統領選挙に勝利を収めたことで半世紀以上にわたった制度的革命党の支配は幕を閉じました。

 

(⑨ ドナルド=トランプとメキシコの壁問題)

:本設問とは時期的に無関係なのですが、トランプ大統領の就任とともにメキシコの壁についてもクローズアップされましたので、補足的にこちらに書いておきたいと思います。(実際、トランプが「NAFTA見直すどー」と言いまくっていたこともあったので、「メキシコ、NAFTAくらいだったら出るかもわからんでー」と一部では言っておりましたが、実際にはそこまで目にしませんでしたね↓) アメリカとメキシコ国境に壁を建設する計画は1990年代からすでに進められていましたが、その目的は麻薬の密輸と不法移民対策にありました。壁の建設にはむしろ国境警備隊員の増員や、移民を受け入れる制度の整備などの対策に予算を使うべきであるとする反対意見などもありましたが、2016年のアメリカ大統領選挙でドナルド=トランプが国境の壁建設を公約として掲げたことで大きな争点となりました。その後、壁の建設が完了することはなく、2020年にジョー=バイデンが大統領選挙に勝利したことで建設ならびに移民政策の見直しが打ち出されました。

 

【3、アメリカとの関係の変遷】

:これまで、メキシコ独立後の歴史について概観してきましたが、設問が要求しているのはあくまでも「メキシコとアメリカ合衆国の関係はどのように変遷したか」ですので、上記のメキシコ史の中から、特にアメリカ合衆国との関係の変化がわかるような部分を抜き出して整理する必要があります。いろいろな書き方がありうるかとは思いますが、重要なのは以下の内容でしょう。

 

① モンロー宣言によるラテンアメリカの独立支持

② メキシコ出兵におけるフアレス政権支持

③ メキシコ革命時の宣教師外交の失敗

④ カルデナス政権の石油国有化政策などによる米墨関係悪化

⑤ 第二次世界大戦による関係改善

⑥ 冷戦下での(原則としての)親米路線と米国資本の導入

⑦ 第三世界外交をはじめとする独自外交と経済の悪化

⑧ 北米自由貿易協定によるアメリカとの経済統合、諸問題の発生

 

【解答例】

米はモンロー宣言でメキシコ独立を支持したが、テキサス併合をめぐる対立から米墨戦争が起こると、メキシコはカリフォルニアなどを奪われた。メキシコ出兵では、米は南北戦争後にフアレス政権を支援しモンロー主義を堅持したが、パン=アメリカ会議を皮切りにラテンアメリカへ影響を拡大し、ウィルソンは宣教師外交でメキシコ革命に介入したが失敗した。カルデナス政権の石油国有化政策などで米墨関係は悪化したが、第二次世界大戦でメキシコが連合国として参戦すると関係が改善し、戦後の米州機構参加やキューバ革命後の進歩のための同盟を通して米からの経済援助を受け入れ、北米自由貿易協定の締結締結で米との経済的結びつきをさらに強めた。(300字)

 

    補足:メキシコ通貨危機(テキーラ=ショック)とは

 

本設問とは直接関係ないのですが、少しメキシコの通貨危機(1994)のお話をしてみたいと思います。近年、経済のグローバル化にともなってある国で発生した通貨危機が地域または世界全体へと波及する大規模な金融危機に拡大することが増えてきています。こうした世界規模の金融危機は特に冷戦後、経済のグローバル化や取引のIT化にともない、各国間の資金の流出入がより容易かつ迅速になったことと無関係ではありません。1994年に発生したメキシコの通貨危機(テキーラ=ショック)はそのような背景の下で起こった通貨危機でした。

大雑把な構造をお話ししますと、1990年代前半のアメリカでは景気の後退が見られたため、金利の引き下げ政策が展開されていました。1990年の段階で8%を超えていたFFレート(Federal funds rate:米国の政策金利)は、1993年までに3%まで引き下げられました。つまり、当時のアメリカでは銀行にお金を預けていても儲かりません。今の日本で銀行にお金を預けることを想像してもらえれば分かるかと思いますが、低金利のもとでは雀の涙程度の利息しかついてこないのです。こうした中で、アメリカのお金は有望な投資先を探し始めます。そのお眼鏡にかなったのが1992年に北米自由貿易協定を結び、アメリカとの経済的な結びつきを強めて経済の拡大が予想されたメキシコでした。実際のところ、当時のメキシコは貿易赤字が拡大し、財政状況も良くなかったのですが、それ以上に将来の経済的拡大と安い労働力を求めたアメリカ企業の投資資金がメキシコに勢いよく流れ込みます。つまり、アメリカに置いておいてもたいして儲からないお金を、新興国で高い成長が見込まれるメキシコにぶっこんだ方が高いリターンが得られると当時のアメリカの人びとは考えたわけです。

74戦後史③(戦後の世界経済)

 ところが、こうしたメキシコへの大量の資金流入は1994年に入ると急速に逆回転を始めていきます。まず、アメリカでは1994年ごろから低金利策が功を奏したのか景気の拡大がみられるようになっていました。クリントン政権のもと、多くのIT関連ベンチャー企業が設立され、いわゆるドットコム=バブルが本格化するのは1990年代の後半ですが、1994年はその端緒についた時期でした。

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(「NASDAQ総合指数の変遷」、Wikipediaより)

 景気の拡大局面においてそのまま低金利政策を続ければ極度のインフレやバブルを誘発することになってしまいますので、FRBFederal Reserve Board、連邦準備制度理事会、アメリカの中央銀行にあたる)は利上げを行います。当時のFRB議長のグリーンスパンは急な利上げが市場にダメージを与えることを避けるために緩やかに金利を引き上げましたが、それでも94年初頭に3%だったFFレートは95年初頭には6%に達しました。このように、アメリカ国内の金利が上がると、①まず資金の調達が難しくなります。(金利が上がれば銀行からの借り入れをした場合の返済利息も上がるから。) また、②国内に資金をとどめておいてもそれなりのリターンが見込めます。(極端な話、預金した場合の金利が上がるのであれば、安定して高いリターンが見込めるので、あえてリスクをとって高配当を求めに行くモチベーションは弱まります。) そのため、アメリカからメキシコに流れ込んでいた資金の流れは急速に弱まっていきます。

 また、1994年にはメキシコの政情不安が一気に顕在化します。NAFTAの発効に反対するサパティスタ民族解放軍の蜂起や、PRI(制度的革命党)の大統領候補の暗殺などが起こると、それまでアタマお花畑でメキシコにお金をつっこんできたアメリカの投資家は「はっ、おれは何をしてるんだ。こんなアブねー国に金突っ込むよりも大人しくアメリカの銀行に預金して高い利息つけてもらうか、景気の拡大し始めたアメリカの株式に金突っ込んだ方が良くないか。メキシコ投資とかハイリスクすぎるだろ。」と思い直します。その結果、ものすごい勢いでそれまでメキシコに突っ込まれていたお金がアメリカへと引き上げられていくわけです。

74戦後史③(戦後の世界経済)1

 メキシコ経済に対する信用の低下と資金の流出によってメキシコ=ペソは大暴落し、メキシコ政府はペソ買いによる為替介入を行いましたが暴落を止めることができず財政が破綻します。これがいわゆるメキシコ通貨危機(1994)です。この「外国から流入していた資金がカントリーリスクの顕在化によって急激に流出し、信用不安が止まらずに通貨危機が起こる」という構図は後のアジア通貨危機(1997)ともよく似ています。アジア通貨危機についてはポール=ブルースタイン著、東方雅美訳の『IMF』(楽工社、2013年)上・下巻を読むと、当時のIMF内部の動きや通貨危機を防ごうとする各国の対応や状況がよくわかります。ノンフィクションですがとても面白い本です。世界史の勉強というと、とかく暗記ものみたいなイメージがありますが、これからの歴史学を理解するためには簡単な経済のしくみを理解することは必須だと思います。

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妙に上智のTEAP関連記事のPV増えてるなと思ったら昨日だったのですね。
忙しくて充実させられずに申し訳ないです。
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