世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

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 今回の東大大論述では、昨年の660字から600字と元の形に戻りました。そのかわり、東大にしては珍しく史料読解をさせる問題でした。ただ、こうした形式がこれまでにまったくないというわけでもなく、例えば2000年のフランスの啓蒙思想と中国の思想や社会制度との関係について問う問題では、リード文の中に挿入される形ではありましたがヴォルテール、レーナル、モンテスキューの中国文化に対する評価が示されており、今回の設問と類似の形をとっていると見ることができます。また、1992年問題では、史料ではありませんが、南北アメリカ・東ヨーロッパ・東南アジアにおける主権国家体制の下にある地域の変遷を地図で示してその読解を求めるものでした。ただし、本設問では「○○は××だった(史料A)。」のような形で史料番号を挙げて論述問題の事例として用いよという指示があるので、こうした指示をきちんと見落とさずに対応することが大切かと思います。

 テーマ自体は明・清時代の冊封体制を中心に記述させるもので、地域的・時代的な広がりを考慮しなければならないことを除けば一橋などでは頻出のテーマです。史料を読ませるあたりもかなり一橋くさい設問で、たびたび申し上げておりますが最近東大と一橋の設問が何となく似てきたなぁという印象があります。奇しくも、2020年の一橋の大問3も小中華思想について問う問題でした。史料の内容自体は分量も少なく、意図も比較的はっきりとくみとれますので、扱いが難しいものではありません。また、テーマも一般の教科書や授業のテーマとしてもかなりしっかりと扱われる部分でもありますので、特に書きにくいという類のものではなかったと思います。ただ、そのわりに本設問の解答をしっかり書こうとするとかなり深いです。特に明代から清代にかけての東アジア国際秩序の変容はいろいろな分野にまたがるもので、本当の意味で示そうとすると各事象に対する非常に深い理解が必要となります。そうした意味で、本設問は半分くらいまでは多くの受験生が書けるけれども、満点を取ろうとするとえらく難しい設問かなと思います。多くの受験生が基本となる部分はしっかりおさえてくるはずですので、いかに基本を外すことなく、他の受験生が十分に書けない部分を示すことができるかで差がついてくるのかなという設問でした。

 第2問、第3問も含めた全体の印象としては、第2問の比重がやや重いかなという気がします。第2問は難しいとまでは言えませんが、受験生が正確にスンナリ書けるかと言われるとかなり怪しいと思います。書ける人と書けない人で設問ごとに細かい差がついて全体としてかなりの差が出る設問だったのではないでしょうか。一方、第3問は設問自体に特にひねりもなく、平易です。もちろん、東大の設問だから平易と思うのであって、他の大学や学部で出されたのであれば正答率はかなり低くなるのは間違いないと思います。第3問で間違えたとしても1問まで、第2問で2問分程度失点したとして、第1問の大論述で半分確実に取りに行ったとして3741点というところでしょうから、全体としても得点は取りやすい(その分、基本を取りこぼしてはいけない)設問のように感じます。一応、某予備校さんの評価を見ますと全て「標準」となっていますね。妥当な評価だと思いますが、上述のように個人的には第1問はかなり奥深い設問だなぁと感じました。

 

【第1問】

(設問概要)

・時期:15世紀頃から19世紀末(1401年ごろ~1900年)

・東アジアの伝統的な国際関係のあり方について具体的に記述せよ。

・近代における東アジアの伝統的な国際関係の変容について具体的に記述せよ。

・朝鮮とベトナムの事例を中心に記述せよ。

20行以内(600字)

・指定語:薩摩 / 下関条約 / 小中華 / 条約 / 清仏戦争 / 朝貢

 

(ヒント[リード文より]

・東アジアの伝統的な国際関係は、各国の国内支配とも密接なかかわりを持ち、国内支配の強化や異なる説明による(支配の)正当化に用いられた。

・近隣諸国の君主は中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味したわけではなかった。

・東アジアの伝統的な国際関係は、近代にヨーロッパで形づくられた国際関係(=主権国家体制)が近代になって持ち込まれると、現実と理念の両面で変容を余儀なくされた。

 

(解答手順1:文章の読みかえ)

:とりあえず、設問の中心である「東アジアの伝統的な国際関係」とは何かですが、これについては冊封体制と朝貢関係で特に問題はないと思います。リード文の方にも「近隣諸国の君主は中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだ」とありますので、冊封体制のありかたについてはしっかりと記述しておきましょう。

 また、この冊封体制と朝貢関係を近代に入って変容させる「ヨーロッパで形づくられた国際関係」とは何かということですが、これについても主権国家体制で良いと思います。

 そうしますと、本設問は「中国を中心とする冊封体制のあり方を示し、その上で冊封体制がヨーロッパで形づくられた主権国家体制によりいかに変容するかを朝鮮・ベトナムの事例を中心に示す」という設問であるということになります。

 

(解答手順2:冊封体制のあり方について整理)

:つづいて、冊封体制について整理する必要があるでしょう。冊封体制は「中国の皇帝が周辺諸国の支配者に位階を与え、君臣関係を結ぶことによって形成された国際秩序。東アジア諸国は朝貢国として交流を保障される一方、中国の権威を内政の安定に利用した。」(全国歴史教育研究協議会編『世界史用語集:改訂版』山川出版社、2018年、p.126)です。「冊封体制」という言葉自体は戦後中国古代史研究者である西嶋定生が提唱した歴史用語です。西嶋は東アジア社会に一定の相互連関があることを指摘した上で、その背景に何があるのかを考察するために儒教が国際関係をどのようにとらえているかというその論理構造に着目して、冊封とそれを支える論理(中華思想)が「東アジア世界」という他の世界とは区別される完結した世界を作っていたと主張しました。この冊封体制について早稲田大学の東洋史学者である李成市の説明では「…中国の皇帝は、漢代以降、周辺諸国、諸民族の君長にも中国の官爵(爵位・官職)を与えて君臣関係を結び、そのことを通して両者に国書(外交文書)を媒介とする朝貢関係が必然化することによって、それに基づき中国の文物が伝播・受容されたのである。こうして皇帝と周辺諸国、諸民族の君長との間に官爵の授受を介して結ばれた関係は、冊命(任命書)によって封ぜられる行為にちなんで冊封体制と名付けられている。」とまとめています。(歴史学研究会編『史料から考える世界史20講』岩波書店、2014年、p.3、李成市「諸王たちのモニュメント‐東アジア世界の形成」) いずれにせよ、冊封体制については

 

・中国皇帝と周辺国が形式的な君臣関係を結んだこと

・その際には朝貢が行われることが一般的であったこと

・朝貢国はこの関係を国内支配の強化や支配の正当化、朝貢貿易などに利用したこと

 

などが示してあれば、フレームワークとしては十分でしょう。

 

(解答手順3:近代以降の冊封体制の変容について整理)

:冊封体制と朝貢関係がいかに変容するかということは本設問の重要なテーマの一つです。もちろん、最終的にはヨーロッパの進出によって清の外交政策が大きく転換したことや、それまで清の宗主権下にあった諸国が新たにヨーロッパなど主権国家体制のもとにある国家の影響下に入ったことなどによって崩壊するというのが大きなフレームワークです。(ちなみに、この清朝末期における冊封体制の崩壊については、近いところでは2015年の一橋大3が扱っています。また、本ブログでもテーマ史など所々で言及しています。)ただ、そこにいたるまでにも段階的な変容が見られるわけで、そうした変容をどこまで示せるかで他の受験生との差がついてくるかと思います。ただ、最初にそうした細かい変容について突っ込んでしまうと収拾がつかなくなってしまう(これについては手順6で後述します)ので、まずは全体の大きなフレームワークを確実に作っておくべきでしょう。清末における冊封体制の崩壊については、

 

・イギリスによる自由貿易要求と清による拒否(マカートニー、アマーストetc.

・アヘン戦争後の開国と不平等条約

・北京条約(1860)による外国公使の北京駐在と翌年の総理各国事務衙門設置

・阮朝の宗主権移動(清仏戦争と仏領インドシナの形成)

・朝鮮に対する清の宗主権否定(1895、下関条約)

 

あたりが具体的な事例として挙げられる内容かと思います。この時点で、設問の言う「朝鮮とベトナムの事例を中心に」の意図が見えてきますね。少なくとも、朝鮮とベトナムがそれぞれ日本、フランスの進出によって清の宗主権下から離れていくことは具体的な事例として記述する必要があります。それぞれ、簡単にまとめていくと以下のようになるでしょう。

 

[阮朝]

1858-62 仏越戦争(1862:サイゴン条約[1]

:仏によるコーチシナ東部3省割譲

1867 コーチシナ西部3省占領

1874 第2次サイゴン条約

:ベトナムの独立主権を認め、一方でフランス支配下にあるコーチシナ全省の割譲を承認

18831884 第1次ユエ条約(アルマン条約)、第2次ユエ条約(パトノートル条約)

:ベトナムの保護国化(アンナン[ベトナム中部]、トンキン[ベトナム北部]を支配下に)

1884-85 清仏戦争(1885:天津条約)

:清のベトナムに対する宗主権放棄、仏による保護権の承認(李鴻章‐パトノートル)

1887 フランス領インドシナ連邦の形成



仏領インドシナ1

Wikipedia「仏領インドシナ」より、フランスの支配下に入った年代)

 仏領インドシナ2

Wikipedia「仏領インドシナ」より、トンキン・アンナン・コーチシナ)

 

[朝鮮]

1875 江華島事件

1876 日朝修好条規

:日本・朝鮮間で朝鮮の自主独立の確認、朝鮮3港開港(仁川・元山・釜山)、不平等条約

1894-95 日清戦争(1895、下関条約)

:清の朝鮮に対する宗主権の否定、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲

(伊藤博文・陸奥宗光‐李鴻章)

 

いずれにせよ、これらの事例を挙げることによって清の冊封体制と朝貢関係が崩壊することを示すことができます。南京条約による開国と自由貿易の開始によって朝貢貿易は崩壊していきますし、総理各国事務衙門設置による欧州諸国との対等な外交関係成立により清朝は主権国家体制の枠内に組み込まれていきます。また、朝鮮や阮朝が日本やフランスの影響下におかれる過程で清は宗主権を放棄し、周辺の朝貢国との関係が断ち切られていきました。(日本はヨーロッパではありませんが、設問は「ヨーロッパで形づくられた国際関係[=主権国家体制]」としておりますので問題はないかと思います。)おおよそ、このあたりのことがしっかり書けていれば全体の三分の一程度は点数として確保できると考えてよいでしょう。

 

(解答手順4:指定語の確認・整理)

:指定語と史料は当然設問の確認時に目を通すべきだと思いますが、最初からこれだけを手掛かりに解答を作ってしまうと時々設問の要求から外れてしまったり、細かい点の指摘に終わってしまって大テーマを見失ってしまうことがあるので、一通り目を通して何となくの方向性を確認したら、まずは(手順1)~(手順3)のようにして設問全体のフレームワークを意識し、その上で指定語や史料をどのように活用するか考える方が、間違いが少ないかと思います。指定語は「薩摩 / 下関条約 / 小中華 / 条約 / 清仏戦争 / 朝貢」ですが、これらのうち「下関条約 / 清仏戦争 / 朝貢」はすでにお話した内容で十分に使えるかと思いますので、あとは「薩摩 / 小中華 / 条約」をどう使うかという問題になるかと思います。

 

(薩摩)

:これについてはやはり尚氏が支配する琉球王国の日中両属関係について述べるのが良いでしょう。琉球王国は1609年に薩摩家久による侵攻を受けて薩摩藩ならびに江戸幕府に従属しましたが、中国との密貿易がもたらす利益を薩摩藩が重視したことから琉球の明・清に対する朝貢を認めていました。しかし、明治政府が成立すると、西欧式の主権国家として主権の所在を明確にすることを考えた日本は、琉球王国を自国の主権下に組み込むために琉球藩を設置(1872)し、さらに1879年には琉球藩を廃止して沖縄県を設置(琉球処分)し、日本支配下の一地域としました。

 

(小中華)

:小中華思想は朝鮮が唯一中国の伝統文化を継承しているという考え方です。中華思想を自国の統治の正当化に用いる事例自体は珍しいものではなく、中国の周辺諸国では国内統治に儒教や中華思想を援用して、自身の統治が「天命」によるものであり、周辺諸地域は夷狄であるとする考え方を示すことがよくありました。上述した李成市の文章(李成市「諸王たちのモニュメント‐東アジア世界の形成」)では、高句麗や新羅の世界観を例にとってそのあたりのところを紹介しています。

 明滅亡後の朝鮮王朝では、女真族である清の征服によって中国が夷狄化し、明以降の正当な中華を継承しているのは自分たちであるという考え方が成立します。こうした考え方は、リード文にある「異なる説明による(支配の)正当化」と対応しますので、小中華はこの事例の一つとして挙げれば良いでしょう。

 

(条約)

:一見すると何の変哲もない用語ですし、受験生によっては「まぁ、下関条約で条約使っているし」とか、「なんでもいいから適当な条約挙げて消化してしまおう」と考えるかもしれません。ただ、この「条約」という指定語はなかなか曲者です。指定語に示すからには、東大としてもそれなりの意図をもってこの用語を指定していると考えなくてはなりません。ですから、行き当たりばったりでこの用語を使ってもおそらく加点にはつながらないでしょう。そのように考えると、やはりこれはヨーロッパ式の主権国家体制に中国(清)が組み込まれていく過程で用いるべきだと思います。一般に、条約は文書による国家間合意であり、このような合意自体は古代から存在していました。ですが、中華思想と冊封体制に支えられた東アジア世界、中でも中国においては、周辺諸国との間に「主権」を認め合い、「対等な」立場から締結される近代的意味での条約は原則として存在していません。もちろん、周辺諸国との取り決めは存在していましたが、それはあくまでも世界の中心たる中国の皇帝とその徳を慕う周辺国の長という関係の下でなされる約束事でした。これは、実質的に遼や西夏に圧迫されていた北宋が結んだ澶淵の盟(1004)や慶暦の和約(1044)が形式的な兄弟関係や君臣関係のもとでかわされたことなどからも見て取れます。また、南宋が結んだ紹興の和約(1141)では南宋が臣下で金が君主という関係性の逆転こそ見られたものの、朝貢関係とそれを支える論理構造自体が破綻していたわけではありませんでした。(もっとも、こうした事例を従来の冊封体制論の中でどのように考えるか、という問いはあってしかるべきかと思います。)

 ですから、ヨーロッパでウェストファリア条約(1648)以降成立する、たがいに主権を持つ国家同士が国際法的な効力を持つ条約を締結するという近代的国際関係は、イギリスが中国に持ち込む(というか強要する)ことによってはじめて成立するのであり、その意味で本設問の「条約」は、イギリスに強要された南京条約(1842)もしくは初めて主権国家間で対等に展開される外交を取り扱う官庁として設立された総理各国事務衙門を成立させるきっかけとなった北京条約などと絡めつつ、清が主権国家体制のもとに組み込まれたことを示す際に用いるのが適切な使い方だと思います。

 

(解答手順5:史料の確認・整理)

:上述の通り、指定語・史料は当然設問の確認と同時に行うものですが、じっくり吟味するのは全体のフレームワークを何となく組み立ててからでも遅くはありません。これまでにしめした(手順1)~(手順4)の内容をおさえながら、各史料について検討してみましょう。

 

(史料A)

 なぜ、(私は)今なお崇禎という年号を使うのか。清人が中国に入って主となり、古代の聖王の制度は彼らのものに変えられてしまった。その東方の数千里の国土を持つわが朝鮮が、鴨緑江を境として国を立て、古代の聖王の制度を独り守っているのは明らかである。(中略)崇禎百五十六年(1780年)、記す。

 

 こちらの史料は史料中に「わが朝鮮」とありますし、時期が1780年とありますので明らかに朝鮮王朝(李氏朝鮮)の史料です。文章の内容からも、小中華思想を示すにあたって適切な史料であることが見て取れます。ちなみに、「崇禎」は明の最後の皇帝である崇禎帝(毅宗)の頃に用いられた元号[1628-1644]です。崇禎帝が自害するのが李自成の乱による1644年のことですから、百五十年以上も使ってたのですね。それはそれですごいですがw まぁ、西暦なんかもう2020年ですが、元号で百年超えるとすごいなぁって思います。

 

(史料B)

 1875年から1878年までの間においても、わが国(フランス)の総督や領事や外交官たちの眼前で、フエの宮廷は何のためらいもなく使節団を送り出した。そのような使節団を3年ごとに北京に派遣して清に服従の意を示すのが、この宮廷の慣習であった。

 

 史料Bについては、「フエ」(ユエ)とありますし、フランスの総督や領事とありますので、阮朝越南国についての史料であることが分かります。1875年から1878年当時の阮朝は、上述の通り1874年の第2次サイゴン条約によって「ベトナムの独立主権」が確認され、さらにコーチシナ全域をフランスに奪われて、実質的なフランスの保護下にありました。

ところで、1876年の日本‐朝鮮間で締結された日朝修好条規にも「朝鮮の自主独立」が内容に入ってきますが、こうした内容は受験生は何となく見過ごしがちなのですけれども、実は「清の宗主権を否定する」という重要な性格を持っています。あくまでも二国間条約ではありますが、日本と朝鮮、またはフランスと阮朝の間では「わたしの国(朝鮮、阮朝)は自主独立の国ですよー」と認めさせることで「清は関係ないだろう、引っ込んでろ」という理論を展開するわけです。ただ、こうした取り決めはあくまでも日本と朝鮮、またはフランスと阮朝という二国間でのみ確認された内容であって、条約を締結していない清の立場を拘束するものではないんですね。ですから、清との間に対立が生じて清仏戦争(1884-85)や日清戦争(1894-1895)が起こることになりますし、清が敗れた後の講和条約である天津条約(1885)や下関条約(1895)では、清の宗主権放棄が確認され、フランスによる阮朝保護国化の承認や、朝鮮の自主独立の確認がなされることになるわけです。

さて、少し話がそれましたが、そんなわけですからフランスはこの史料が言及している時期に実質的に阮朝を保護下においているし、清の宗主権を否定させているわけですね。にもかかわらず、阮朝の人間は臆面もなくそれまでの慣習にしたがって清に対して朝貢の使節を派遣するわけです。これは清の宗主権を認める行為にほかなりませんから、フランスの総督・領事・外交官からすれば「いったいこいつらは何を考えているんだ?」となるのでしょうが、東アジアにはヨーロッパとは異なる東アジアの世界観・論理が存在しているわけです。この史料の背景としては以上の通りですので、この史料を用いるとすれば清との朝貢関係を示す事例や後の清仏戦争を導く原因として扱うのが良いでしょう。

 

(史料C)

 琉球国は南海の恵まれた地域に立地しており、朝鮮の豊かな文化を一手に集め、明とは上下のあごのような、日本とは唇と歯のような密接な関係にある。この二つの中間にある琉球はまさに理想郷といえよう。貿易船を操って諸外国との間の架け橋となり、異国の珍品・至宝が国中に満ちあふれている。

 

 この史料は日中両属についてと、朝貢貿易に携わることにより、朝貢国が利益を受ける事例として示すのが良いと思います。琉球の両属関係については、(手順4)の(薩摩)の項目ですでに示してありますので、そちらをご覧ください。設問は「朝鮮とベトナムの事例を中心に」とありますが、この史料があることから記述の内容を朝鮮・ベトナムに限定する必要はないことが見て取れます。(もっとも、史料中には琉球が「朝鮮の豊かな文化を一手に集め」ていることや「南海の恵まれた地域に立地して」いることなどが示されていますので、朝鮮やベトナムを結ぶ中継地として示すことも可能ではあります。琉球は華北・朝鮮・日本を含む東シナ海交易圏と江南・ベトナム・タイ・東南アジア島嶼部などを含む南シナ海交易圏の結節点にあり、明の海禁の緩和(1567)によって中国とアジア諸国(日本を除く)の直接取引が認められ、東南アジア方面をポルトガルによって抑えられるまでは東アジアから東南アジア諸国を中継貿易で結ぶ重要拠点でした。ただ、大航海時代でヨーロッパ商人の進出が顕著になるとマラッカをはじめとする東南アジア方面の貿易は打撃を受けますし、17世紀には日本と清双方の海禁策(鎖国と遷界令)により東アジア交易の規模縮小に見舞われることとなります。このあたりの事情については、最近(2017年)全面改訂された『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年)のp.226にある「琉球」というコラムに詳しく書かれています。

 

(解答手順6:東アジアの伝統的な国際関係の「変容」を確認)

:これまでの(手順1)から(手順5)で概ね全体の流れは作れると思います。

 

・明が朝鮮や黎朝などと形式上の君臣関係を結ぶ冊封体制を形成

・朝貢による文物の交流を通して漢字・儒教文化圏による東アジア世界の一体化

・朝貢国は朝貢貿易により莫大な利益を得る

・明との貿易で巨利を得つつも交易の拡大とともに中国と薩摩藩の双方に臣従した琉球のような国も現れた(史料C)

・周辺国は中国の権威を利用して自国支配の強化に努める

・明に代わって正当な中華文化を継承したと考える朝鮮王朝の小中華思想のように、中国の儒教や中華思想を援用して支配正当化の理論とする国も存在した(史料A)

・当初はヨーロッパ諸国も朝貢関係の下で交易

・自由貿易要求を拒否されたイギリスがアヘン戦争を起こして南京条約によって清に開国と自由貿易を強要

・アロー戦争後の北京条約を機に対等な外交関係を扱う官庁として総理各国事務衙門が設置されると、中国は主権を持つ対等な諸国が条約によって国際関係を形成するヨーロッパ式の主権国家体制に組み込まれた

・清は、フランスによる実質的な保護下に置かれながらも自国に使節を派遣した(史料B)阮朝の宗主権をめぐる清仏戦争で敗れてベトナムに対する宗主権を放棄

・日清戦争と下関条約で朝鮮の自主独立を認めて宗主権を放棄

・中国と周辺国との朝貢・冊封関係も崩壊した。

 

こんなところでしょうか。これらが示せていれば少なくとも半分は点数がもらえるのではないでしょうか。大きなテーマはやはり「冊封体制・朝貢関係→主権国家体制・自由貿易」なんですよね。ただ、いわゆる冊封体制と朝貢関係からなる東アジアの伝統的な国際秩序は、イギリスの進出によって急激に変化したわけではなく、徐々にその形を変えていった部分もあります。これはたとえば、琉球の日清両属関係もその一つですし、朝鮮王朝における小中華思想も中華思想や儒教的世界観が変容した一形態ととらえることもできます。また、中国の支配者が明から清へと変容したことも大きな変化です。(手順3)の冒頭でもお話ししましたが、こうした様々な変容がありますので、時系列に沿って明・清代の対外関係に注目して関連事項を整理する必要があるでしょう。

 

(明)

・海禁策(倭寇対策としての民間貿易取り締まりと朝貢貿易による海上秩序再編)

・永楽帝の大越国支配

・鄭和の南海遠征と朝貢国の増加

・日明貿易(足利義満と勘合貿易)

・黎朝の独立と朝貢

・北虜南倭と明の冊封・朝貢体制の動揺

・壬辰・丁酉倭乱

・李自成の乱

 

明についてはこのようなところでしょうか。注意しておきたいのは、ひとことで冊封関係といっても各王朝において常に一様ではないという点です。何が言いたいかと言いますと、本設問では15世紀から19世紀末までにおける東アジアの伝統的な国際関係の変容を聞いています。これはつまり、明から清にかけての変容を聞いているわけですが、明の前には宋・元が構築した国際関係が存在したのであり、これは必ずしも明の築き上げた国際関係と全く同一のものではありませんでした。つまり、明の建国とそれにともなう国際秩序の再編があったのであり、明の成立した時期も東アジアの国際関係は変容の過渡期にあったととらえることも可能なのです。『詳説世界史研究』(2017年)はこのあたりのことを「朝貢関係の形成」の中で以下のように示しています。

 

 「宋・元時代の東アジアでは、朝貢といった国家間の正式の関係よりは、民間の商業ベースの交易の方が盛んであった。それに対し、明朝においては、民間の海外貿易を禁じて朝貢貿易に一本化しようとする政府の厳しい対外貿易禁止政策がとられた点に特徴がある。元末の動乱期、東アジアの海上秩序は乱れ、「倭寇」とよばれる海賊集団が東アジア海域に多数出没していた。洪武帝の一つの課題は反明勢力とも結びつきかねないこのような海賊集団を取り締まり、海上の秩序を回復することであった。すなわち、「海禁」(民間海上貿易の禁止)をおこなって海賊集団の財源を絶つとともに、明の新政権に対する周辺諸国の支持を取りつけ、それら諸国の協力を得て海上秩序を再建することが目指された。したがって明は建国当初より周辺諸国に対し朝貢勧誘をおこなった。しかし、洪武帝の時代は国内の統治を固めることに重心がおかれ、積極的な対外政策をとる余裕はあまりなかった。明の対外関係が大きく発展するのは永楽帝の時代になってからであった。…」(木村靖二ほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年、pp.224-225

 

たとえば、上記のような流れの中で朝鮮王朝・黎朝・琉球を扱うことも可能でしょう。

 

(清)

・支配地域の拡大(中国東北・直轄領・藩部・朝貢国)

・藩部の支配[モンゴル・新疆・チベット]

:中国皇帝としての顔と北方・西方民族のハンとしての顔

・朝貢関係の多様化

:琉球(日清両属)、互市の国(朝貢ではなく貿易を行うのみ)

・朝鮮における小中華思想の形成

・ロシアの接近(ネルチンスク条約、キャフタ条約)

・イギリスによる自由貿易要求

・アヘン戦争後の開国と自由貿易体制

・アロー戦争後の総理衙門設置と主権国家体制

・朝鮮、越南(阮朝)に対する宗主権の放棄と冊封体制の崩壊

 

清についてはおおよそこのような内容になるかと思います。注意しておきたいことは、清は確かに中国の伝統的な諸制度・世界観を継承しましたが、それは必ずしもそれまで存在していた冊封体制、朝貢関係、中華思想をそのままの形で受け継いだわけではないということです。上記にあるように冊封・朝貢関係は多様化していきますし、それらを理論面で支えた中華思想(または華夷思想)も大きく変化していきます。これらについては、『詳説世界史研究』(2017年)のp.236の記述と、p.237のコラム「多民族国家清朝」に詳しく書かれています。

 

「…清朝支配者の目から見て、その支配地域は必ずしもこの範囲にとどまるものではなかった。朝鮮・琉球など、清朝に定期的に朝貢使を派遣する周辺諸国も、またベトナムやタイのように政権交代や国内の紛争などで清朝の権威を借りることが必要なときのみ朝貢してくる国々も、現実の支配はおよばなかったとはいえ、理念的には天子の勢力のもとにあった。また、広州に来航するヨーロッパ船など、朝貢でなく貿易をおこなうのみの外国(「互市の国」)も、清朝の目から見れば、天子の徳を慕ってはるばるやってくるという意味で、潜在的な支配関係の枠組みのなかで認識されていた。…」(『詳説世界史研究』、p.236

 

「清朝の皇帝は…多民族国家清朝の正当性を支える統一的な論理をつくり上げようと試みた。例えば雍正帝は、『大義覚迷録』という書物の中で、おおむねつぎのように述べている。[満州人は満州人の、漢人は漢人の、モンゴル人はモンゴル人の、それぞれの言語や風俗をもつ。もし漢人を華としそれ以外を夷とよぶなら、そうよんでもよいが、その場合、華と夷は価値の上下をあらわすものではなく、たんに出自の集団や地域の違いをあらわすだけである。人としての上下は、言語や風俗の違いにかかわらず、目上を敬い、罪を犯さず、秩序を守ってなごやかに暮すという、普遍的な倫理を守っているかどうかにある。天は、華夷の別なく、もっとも徳のあるものに天命を下して天下を支配させるのであり、現に清朝が広大な領域を平和に統治しえているという事実こそ、清朝皇帝の徳の証明である。…]」(『詳説世界史研究』、p.237

 

このように、清における冊封、朝貢関係では、「周辺国が偉大な中国皇帝の徳を慕って従う」という儒教的道徳観や理論的な柱に変化はありませんが、その形態は「藩部」、「朝貢国」、「互市の国」など様々だったのであり、また朱子学が官学であった明代には「華夷の別」が明による支配正当化理論の柱の一つであったのに対し、女真族による征服王朝であった清代にはこの「華夷の別」の重要性はむしろ否定されました。しかし、一方で易姓革命論的な天命論を重視することによって中国皇帝が中心であり、その徳を慕う周辺諸国という構図自体は維持されました。以下に示すのは清の時代の直轄領・藩部・朝貢国を示す図ですが、清の冊封・朝貢関係がアジアのかなり広範囲(東アジア・東南アジア・中央アジアの多くの地域)にわたっていたことが分かります。

 清領域

(『詳説世界史研究』山川出版社、2017年、p.234

 

以上のような明から清にかけての様々な変容を全て示すのは限られた時間の中で整理して答案を仕上げる本番の試験では至難だと思います。ですから、戦略としては(手順1)~(手順5)で示したような大きなフレームワークを意識しながら、(手順6)の中に出てきた細かな変容をどれだけ自分の論述の中に組み込み、それらをどのように意味づけるかで他の受験生に差をつけていく解答をつくる、ということを目指すことになるでしょう。

 

【解答例】

明は海禁策の一方で周辺国に朝貢を促し、朝鮮や黎朝と形式上の君臣関係を結ぶことで冊封体制を再編した。南海遠征後は日本・琉球・マラッカなどとの朝貢貿易が拡大し東アジアの一体化が進んだが、北虜南倭や壬辰・丁酉倭乱への対処で明の冊封体制は動揺し、明の滅亡後は清がこれを継承・再構築した。朝貢関係は多様化し、清と対等なネルチンスク条約を結んだロシアや広州で交易するイギリスなどの互市の国、朝貢貿易の利益を得るために清と薩摩藩双方に臣従する琉球が現れ(史料C)、藩部など支配形態も多様化したが、その根本には伝統的な中華思想が存在した。しかし、征服王朝である清は儒教を保護しつつも、支配正当化のために華夷の別より易姓革命論的世界観を重視した。一方、小中華思想で正当な中華文明の継承者を自認する朝鮮(史料A)や皇帝を称する阮朝など、中華思想の援用で支配を正当化する周辺国も存在した。自由貿易要求を拒否されたイギリスが19世紀にアヘン戦争で勝利すると、清は開国を迫られて自由貿易を強要された。アロー戦争後には外国公使の北京駐在が決定して清は総理衙門を設置し、対等な国家が条約によって国際関係を形成する主権国家体制に組み込まれた。さらに、清に朝貢を続ける阮朝(史料B)をめぐって清仏戦争が起こり、清は敗れてベトナムに対する宗主権を放棄し、日清戦争後の下関条約では朝鮮に対する宗主権を放棄したため、冊封体制は完全に崩壊した。(600字)

 

時系列でひたすら朝鮮とベトナムとの関係のみに焦点を合わせて書き連ねていく人もいるのでしょうが、それだと地域的な広がりが見えなかったり、変化がうわべだけのものに見えてしまったりするかなぁと思ったので、個々の歴史的事実はいくらか削ってでも、論述内で示す事象が「明・清の冊封・朝貢関係の中でどのような意味を持つのか」ということを示す方に重点をおいて書いてみました。しっかり詰め込もうとするとかなり体力のいる設問だと思います。ぶっ通しで解説作った後でやっつけ仕事で解答作ったので疲れ果てましたw 今日はもう寝ます。

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2018年の東京外大の問題が斬新な内容であった件についてはすでに前の記事で書きましたが、2019年も従来とはやや違った設問形式での出題となりました。従来の問題は400字論述と100字論述の計500字による出題、2018年が600字論述と30字論述の計630字による出題であったのに対し、2019年は500字論述と40字論述の計540字と、昨年度よりは字数を削っての出題となりました。

小問については大問1で論述(500字)を除いて7問、大問2で小論述(40字)を除いて6問の計14問で、内容的に難しいものはほとんどありませんでした。ですから、この年は論述以外の小問は全問正解または落としても1問までにとどめたい内容だったのではないかと思います。

また、大論述・小論述ともに難解な資料読解や知識は必要のないものでした。大論述の方は多少知識の整理に手間取ったり、見落としなどが出る可能性はありましたが、基本的には東京外大クラスを受験する受験生の知識で十分対応できる内容で、2018年度問題のようなとっつきにくさ、難しさはなかったのではなかったように感じます。ただ、やはり60分という時間を考えると知識整理をかなり迅速に行わなければならず、丁寧さと正確さと速さが要求されるという意味で大変な設問だったのではないでしょうか。小問にかけられる時間は長くても5分といったところでしょう。小論述に2分でしょうか。実際に私の方でやってみたところ、「小問、小論述(5分強)→リード文の冒頭部分を読む(1分)→大論述の設問部分[8]を読む(1分)→リード文をかなり丁寧に読む(8分)」の計15分でしたので、論述の構想・記述にかけられる時間は45分でした。実際に会場で解く受験生は緊張やらもあると思いますので実際にはもっと時間がかかるとして、それでも論述の構想・記述に35分はかけたいところでしょう。そうやって書いた論述が半分~3分の2くらいの点数をもらえれば御の字といった感じでしょうか。

理想形は「小問・小論述取りこぼしなしの75点+大論述3分の2で16点程度の90点前後」、落としたとして「小問・小論述で2問落としての6065点、大論述で半分もらっての1213点の計75点~80点」は確保したいですね。あとは英語でどの程度補えるか(または英語[]どの程度補えるかw)でしょうか。

もっとも、これはあくまでも2019年問題についての感想です。年によっては難しかったり、より時間のかかる問題もあると思います。ですから、本番で小問をかなりの数落としてしまったり、時間が予想していたよりもかかったからといって、落ち込んだり焦ったりする必要はありません。結果は出るまでだれにも分からないのですから、結果が出るまでは「自分がこれだけ苦戦しているのだから、周りも似たようなもんだろう」と思って解くのが吉です。もっとも、なかなかそう上手く感情のコントロールができるものではないのですが、コントロールできた方が良いことも確かですから、それくらいの心構えで臨むのが良いということですね。

 

 2019東京外大小問

  

【小問解説】

(大問1-1) 魯迅、『阿Q正伝』

:白話運動は1910年代の新文化運動(文学革命)における中心的な運動で、それまで士大夫階層において正統と重んじられてきた文語文から脱して、それまで低俗な民衆語と蔑まれていた白話により文章を書くことを重視しようという文化運動です。白話運動の提唱者というとまず胡適が出てきますが、具体的な作品名まで出てくるとなると世界史の教科書・参考書ではまず魯迅の『狂人日記』と『阿Q正伝』しか出てきません。あとは、作品の内容から『狂人日記』か『阿Q正伝』かを判断することになりますが、一応用語集にはそれぞれの作品の内容が簡単には載っておりますので、解けないこともないと思います。気の利いた先生であれば教える時に簡単な概要は伝えるでしょうし(文化史は、人物・作品について最低限他のものと区別できるだけの情報を与えないことには学習する意味がありません)、もし判断材料がなかったとしてもまぁ、2分の1の確率で当たりますw

 ちなみに、胡適、魯迅ともに留学経験ありですが、胡適がアメリカのデューイに師事したプラグマティストであることや、魯迅が日本に留学したことや『藤野先生』の著者であることはわりと有名な話ですので、そちらの知識から特定できた人もいるかもしれません。

 

(大問1-2) 平和に関する布告

:大問1-8の指定語句にも指定されているくらいですので、おそらく解ける前提の設問です。

 

(大問1-3) 治安維持法

:日本史をやっている人にはさほど難しい知識ではありませんが、世界史の授業の中ではあまり強調されないこともあるかと思いますので、解きにくい設問かもしれません。ただ、一応教科書等には記述があります。1925年に普通選挙法と抱き合わせで制定されたことから「飴と鞭」の関係で言及されることがあります。

 

(大問1-4) 山東半島

:半島名を答えよとのことですから、山東半島で問題ないでしょう。山東半島には膠州湾とその都市青島があります。

 

(大問1-5) 蔣介石

 

(大問1-6) 対ソ干渉戦争

 

(大問1-7) チョイバルサン

:モンゴル人民党の指導者としてはチョイバルサンとスヘバートルがいますが、スヘバートルは用語集の方でもチョイバルサンの項目でチラリと出てくるだけですので、そもそもチョイバルサンしか知らないという受験生も多かったかもしれません。スヘバートルは1923年には亡くなっておりますから、設問の「1930年代後半にモンゴル人民共和国の最高指導者として…」の部分からもチョイバルサンで問題ないことが確認できます。

 

(大問2-1) コモン=センス

 

(大問2-2) リンネ

:リンネを覚えている受験生はあまり多くないでしょうが、実は設問としてはわりとよく出題される人物です。「分類学の父であること」と「スウェーデンの博物学者」ということをおさえておけば十分で、出題される場合も概ねこのヒントで出題されます。植物の学名では学名の後に命名者が記されますが、そこに「L.」とある場合はリンネが命名したことを示します。一文字の略称があるのはリンネのみだそうです。何だかデスノートみたいですが。

 

(大問2-3) アリストテレス

 

(大問2-4) カピチュレーション

 

(大問2-5) アンゲラ=メルケル

:メルケルさん、もう2005年からずーっと首相やっていますので、時事問題ですらない気がします。普段からニュースに関心を払っている人であれば難なく解ける問題だと思います。

 

(大問2-6) ジョン

 

【小論述解説(40字、大問2-7)】

(解答例1)

:ユダヤ系軍人ドレフュスがドイツのスパイとされた冤罪事件で、ゾラにより批判された。(40字)

(解答例2)

:ユダヤ系軍人ドレフュスがドイツのスパイとされたが、後に無罪となった冤罪事件。(38字)

 

【大論述解説(500字、大問1-8)】

(設問概要)

・アジア各地域の人々が、成立後間もないソヴィエト=ロシアをどのように受け入れ、関係を築いたのかについて論ぜよ。

・上記を論ずるにあたり、以下の3点について留意せよ。

①アジアと資本主義の関係

②ソヴィエト=ロシアと資本主義列強の関係

③アジア各地の運動家とソヴィエト=ロシアの関係

・史料[A][B]と出題者による注記、問1~7の設問文を参考にせよ。

500字以内

・指定語句:三一運動 / 民族解放 / 陳独秀 / 大問12の解答(平和に関する布告)

 

(史料[][]

史料A=陳独秀「社会主義批評―広州公立法政学校での演説」『新青年』第9巻第3号、192171

:陳独秀は『新青年(発刊当初は青年雑誌)』を創刊した新文化運動の指導者で、次第にマルクス主義に傾倒して1921年には中国共産党の初代委員長となった人物です。本史料は中国共産党が結成された年のものですから、当然社会主義・共産主義的な視点が史料中には盛り込まれています。

 

史料B=極東勤労者大会で採択された決議「ワシントン会議の結果と極東の情勢」(出典はコミンテルン編、高屋定国/辻野功訳『極東勤労者大会』合同出版、1970年)

:極東勤労者大会は1922年にコミンテルンがモスクワとペトログラードで開催した国際会議で、日本・中国・モンゴル・朝鮮などの社会主義者を招いて開かれたものです。基本的にはアジア諸地域での共産主義運動の拡大を目指すことを確認するもので、日本共産党結成の原点とも称される大会でした。

 

(解答手順1:ソヴィエト=ロシアと他地域との関係の大まかな構図を思い浮かべる)

:東京外語大の大論述は、場合によっては資料をかなりしっかりと読み取らないと十分な解答が得られないこともあります。ただ、本設問は特に史料を精緻に読み込まなくても、世界史の知識のみで大まかな構図を思い浮かべることは可能です。(細かい部分については資料を読んで確認する必要が出てきます。)そこで、まずは大まかにソヴィエト=ロシアを受け入れないものと受け入れたものに分けて整理してみると良いと思います。ここで、ソヴィエト=ロシアとは、1917年のロシア十一月(十月)革命から1922年までのソ連成立までの時期のロシアを便宜上指す(この期間はロシア帝国ともソ連ともいえないため)言葉です。

 

①受け入れない

列強諸国 / 帝国主義 / 資本家 など

②受け入れる

陳独秀・李大釗 / 中国共産党 / モンゴル人民党 / ホー=チ=ミン / インドネシア共産党 など

 

ものすごく大雑把ですが、このような区分けで良いと思います。設問は「アジア各地域がいかにソヴィエト=ロシアを受け入れたか」を問うていますが、同時に「ソヴィエト=ロシアと資本主義列強」の関係も踏まえよと言っています。当時の資本主義列強とはすなわち欧米の(あるいは日本も含む)帝国主義諸国を指しますので、ソヴィエト=ロシアを受け入れなかった側に言及しても全く問題ありません。となると、大きな枠組みとしては「資本主義列強はソヴィエト=ロシアを受け入れずに対ソ干渉戦争となったが、ロシア革命の影響やコミンテルンの活動からアジア各地で社会主義・共産主義の運動が活発化し、次第にソヴィエト=ロシアを受け入れる個人・集団・国が出現した」という構図で問題ないのではないでしょうか。この構図は、大問1のリード文の冒頭の一部「民族解放運動や反帝国主義運動の展開、英米などの資本主義列強とソヴィエト=ロシアとの対立といった情勢の下で、20世紀のアジアの歴史はロシア革命、ソヴィエト=ロシアと結びつきながら展開されていくことになる」という内容ともぴったり一致します。

 

(解答手順2:留意すべき①~③について検討する)

:続きまして、留意すべき①~③の要素について検討してみます。

 

①アジアと資本主義の関係

 暗記主体の知識ですと一番まとめにくいのがこの部分なのではないかと思います。何となくは分かっていても文章にはしづらい部分です。設問の文章にはいくつかヒントが示されていますので、まずはそちらを確認してみましょう。

 史料[]には以下のような記述がみられます。

 

「資本主義の生産と分配の方法がなくならなければ、侵略的な軍国主義がなくなる道理はない。アメリカのウィルソン大統領の十四ヵ条(の平和原則)という大言が実現を見なかったのはなぜか。資本制度が国際的な侵略や戦争の根本の原因であることを、彼が分かっていなかったからである。」

「彼ら(文中より英・仏のこと)の国家組織は資本主義の上に成り立っており、もしも侵略主義や軍国主義を放棄したりすれば、彼らの国の大量の余剰生産物はどうやって売ればよいのか、経済危機をどうやって救えばよいのか、彼ら資本階級の地位はどうやって維持すればよいのか。」

 

ここで確認しておきたいのは、資本主義世界の発展と帝国主義政策の拡大は非常に密接な関係を持っていたということです。産業革命によって生み出された大量の資本や、産業資本家の台頭と労働者の増加という社会変化は、それまでの世界とは異なる新たな資本主義社会を生み出すに至ります。その中で、各国では(程度の差こそあれ)独占資本が形成されますが、成長した資本家たちは彼らが利益を最大限に享受できる環境を用意できるように政治に対して様々な形で働きかけます。最大限に享受できる環境とはつまり、「安価に原材料を手に入れること」ができ、「自分たちの生産物を売りつける市場」を確保し、「得た資本を投下して利益をさらに拡大する投資の場」を得ること、すなわち植民地を獲得することでした。植民地を獲得するためには、競合する諸国を力尽くで退ける軍事力と工業力を持つ必要があります。こうした中で経済と工業の発展ならびに軍備の拡張を国是とする帝国主義政策が各国において採用されることになるわけですが、[]の史料で書かれていることはそのことを指摘しているわけです。

 また、[]の史料でも以下のような記述がみられます。

 

「…ワシントン会議は、極東問題が現在、世界の帝国主義者たちの政治の最も重要な問題であるということを具体的に証明した。[中略]ワシントン会議は太平洋の支配をめぐる新しい帝国主義戦争の勃発を一時延期した。しかし、この条件付きの延期は、すでに抑圧されている極東の人民をさらに奴隷化することによって得られた。ワシントン会議では、…朝鮮に関して一言も語られていない。[中略]…中国の「門戸開放」政策実行についての合意は、中国の略奪における帝国主義者の強盗の特権の平等を公式に認めたものであり…その代わり日本は、朝鮮、(  ④:山東半島  )、満州での搾取を続け、自治モンゴル…や、ソヴィエト=ロシアの方向へ、その支配を広げていく特権を与えられた。」

(「…」部分は問題文を適宜省略した)

 

こちらの史料では、帝国主義諸国によるアジアへの進出についてより具体的に語っています。もっとも、世界史で勉強するワシントン体制と内容的にはほぼ合致するので、史料が読み取れなくてもある程度世界史の知識だけで対応することもできます。まずは、ワシントン会議についてその概要をご紹介しておきましょう。

 

ワシントン会議では、3つの条約が締結されます。四か国条約、九か国条約、ワシントン海軍軍縮条約です。これらの条約によって成立したいわゆるワシントン体制は「アメリカが主導した東アジア・太平洋地域における新しい国際秩序」であり、その意味することろは「急激な日本のアジア・太平洋地域への進出抑制」と「同地域に対するアメリカの発言力増大と進出の拡大」です。四か国条約は米・英・仏・日間で太平洋における領土・権益の相互尊重と現状維持を取り決めたものでしたが、この条約により1902年以来、日本拡大の背景となってきた日英同盟は更新されず発展的に解消されたとされました。また、「九か国条約」は中国に対する門戸開放、機会均等、主権尊重、領土保全などを求めたものです。アメリカはすでに1899年と1900年の2度にわたり国務長官ジョン=ヘイがしめした門戸開放宣言(門戸開放通牒)の中で九か国条約と同様の内容を示していますが、門戸開放宣言が単なる外交通牒に過ぎず、各国から無視をされたのに対して、九か国条約は第一次世界大戦により東アジア・太平洋地域に対する英仏の影響力が後退し、アメリカがそのプレゼンスを増す中で締結された国際条約でした。つまり、この九か国条約は単なる掛け声にすぎなかった門戸開放宣言を国際条約(国際法)のレベルで具体化させたものでした。この条約により、第一次世界大戦中に結ばれた石井=ランシング協定は解消され、この条約に基づく形で日本は山東懸案解決に関する条約(1922)を中華民国と締結して山東省権益を中国に返還することとなりました。また、ワシントン海軍軍縮条約では各国の主力艦保有トン数比は5:5:3:1.671.67(米・英・日・仏・伊)とされ、対米7割を主張した日本の主張は容れられませんでした。

 一般に、ワシントン体制は上述の通り日本の進出をアメリカが中心となって抑制したものと考えられています。(たとえば、平成31年度版東京書籍『世界史B』のP.356にはワシントン体制について「合衆国が中心となって日本の進出をおさえ、各国の利害を調整するとともに、高揚する民族運動に共同で対処しようとするものであった」と書かれています。)実際、その通りなのですが、一方で日本は満蒙における特殊権益については列強から容認されることになった点は注意が必要です。また、太平洋の現状維持が認められたということは、日本は第一次世界大戦中に占領下ドイツ領南洋諸島についてもその実質的な領有(委任統治による)が認められました。ですから、確かにワシントン体制は日本の進出を抑制はしましたが、日本が勢力を戦前と比べて拡大していなかったわけではありません。そして、中国・太平洋地域に大きく進出した日本と、特に中国への経済進出を考えるアメリカとの関係は、ワシントン会議以降次第に悪化していきます。

 

さて、以上がワシントン会議の概要になりますが、それを踏まえて上述の史料[]を見ますと、「帝国主義諸国が太平洋支配をめぐり争っているが、一定の妥協を成立させたこと」、「朝鮮半島への言及がないこと」、「門戸開放についての合意は帝国主義列強による中国の反植民地化をさらに進めること」、「日本が朝鮮、山東半島、満州での搾取と、モンゴル、ソヴィエト=ロシア方面への進出を進めることが認められたこと」などが読み取れます。以上の内容をまとめますと、アジアと資本主義の関係については、「資本主義の発展が帝国主義政策の原因となっていること」、「アジアは列強の帝国主義政策の餌食となっていること」、「具体的な例としてアメリカの中国進出(九か国条約)や、日本の進出が挙げられること」などを確認しておけば良いでしょう。

 

②ソヴィエト=ロシアと資本主義列強の関係

 第一次世界大戦の頃のソヴィエト=ロシアと資本主義列強の関係としてまず思い浮かべなければならないことは、対ソ干渉戦争(19181922)です。これについては直接史料中には出てきませんが、超重要事項(かつ基本事項)ですし、リード文の冒頭にも「英米など資本主義列強とソヴィエト=ロシアの対立」と書かれておりますので、思い浮かべるのはそう難しいことではないと思います。対ソ干渉戦争には英・仏・米・日などが参加し、英・仏軍はザカフカースやウクライナ、バルト海方面などから、日・米はシベリア方面から進軍しましたが、対ソ干渉戦争が開始された19188月当時はまだ第一次世界大戦が終了しておりませんでした(戦争の終結は1918年の11月)から、西部戦線で依然としてドイツと戦う英・仏は効果的な進軍はできず、主力となったのは日・米のシベリア方面軍であり、またロシア国内の反革命派(白軍)に対しての支援も行われました。一方のソヴィエト=ロシアは、赤軍の組織化、戦時共産主義の実施、コミンテルンの創設などによって対抗し、中でもコミンテルンは資本主義諸国における共産主義者との連携による革命の達成のために活動することになりました。

 干渉戦争自体は1922年に日本が撤兵したことで終結します。その後の資本主義諸国とソヴィエト=ロシアの関係については、1922年にドイツがラパロ条約によってソヴィエト=ロシアを承認したことで敗戦国ドイツと共産主義国ソヴィエト=ロシアの孤立化を他の列強が危惧したことや、ヨーロッパが国際協調路線に転じたこと、ソヴィエト=ロシアのネップ(新経済政策)への転換をイギリスなどが歓迎したことなどから次第に国際承認が進み、英仏は1924年、日本は1925年にソ連を承認し、遅かったアメリカがソ連を承認するのが1933年、1934年にソ連は国際連盟に加盟しました。ただ、本設問についてはソ連成立前の「ソヴィエト=ロシア」と資本主義列強の関係となっていることから、いわゆる「ソ連の承認」については言及の必要はないと思います。

 

③アジア各地の運動家とソヴィエト=ロシアの関係

 この部分は本設問の中では比較的書きやすいところかなという気がします。要は、ソヴィエト=ロシアまたはコミンテルンの活動などがアジア各地の共産主義運動や民族運動に影響を与えたことと、その具体的な例を示せば良いでしょう。史料に陳独秀があることから、中国共産党の結成については書けると思いますし、史料中や設問でモンゴルについての言及もあることから、モンゴル人民党やスヘ=バートル、チョイバルサン、モンゴル人民共和国(世界で2番目の社会主義国家)などについて(全ては無理にしても)思い浮かべることは可能だと思います。最近、アジアにおける社会主義・共産主義の話をする際にモンゴルについて言及する設問が増えてきている印象があります。設問全体の傾向として、一国史的な観点をやめてより広範な視点でモノを見ようという流れがありますから、主流の内容を抑えつつその周辺にも気を配るという形の設問はおそらく増加してくるのではないでしょうか。その意味でも、今後はやはり地理的な理解をしっかりしておかないと、全体像をイメージしにくくなって、点数に差が出てくるかもしれませんね。

 さて、史料中、アジア各地の運動家とソヴィエト=ロシアの関係についてわかる部分というと以下のようなところがあげられるかと思います。

 

[]

「それ(=資本主義)に取って代わるのは当然に社会主義の生産、分配の方法であり、そうしてはじめて、剰余価値や余剰生産といった弊害をとりのぞけるのだと断言することができる…」

 

[]

「…彼ら(=朝鮮、中国、モンゴル)自身の団結と、すべての侵略者に対する組織的な闘争と、国際プロレタリアートやソヴィエト=ロシアとの団結によってのみ、彼らは独立と自由を獲得できるということを証明したのである。」

「革命的華南はその民族的存在のために闘っており、華北の軍国主義者から攻撃される危険に常にさらされており、国全体の民族的、民主主義的革命の勝利なしには、その地位を強化するのぞみはない。」

「…中国の勤労大衆は、ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国を指導者にして、帝国主義に対する断固たる戦いをすでに始めている。」

「武装闘争と友好的なソヴィエト=ロシアの赤軍との協力によって、外国人抑圧者―ロシア白軍や日本帝国主義の案内人である中国の帝国主義者―の支配から自らを解放して、モンゴルはついに自らのことを自らの方法で決める機会を確保した。」

 

[設問]

・陳独秀 / 『新青年』が後に共産党の機関紙としての役割果たす / 民族自決に対するソヴィエト=ロシアの肯定的姿勢 / 日本では労働運動や農民運動が活発化 / 極東勤労者大会には中国国民党からも代表 / 孫文による共産党の受け入れ強化 / モンゴル人民党(モンゴル人民革命党)…etc.

 

以上の記述から、中国、朝鮮、モンゴル、日本についてはかなりの部分記述することが可能になると思います。また、ソヴィエト=ロシアが設立したコミンテルンと当時のアジアにおける社会主義運動を考えた場合、インドシナ(ベトナム)のホー=チ=ミン(パリ講和会議にグエン=アイ=クォック(阮愛國)として参加した後、1920年にフランス共産党の結成に参加、その後ソ連にわたりコミンテルンの指示でベトナム青年革命同志会を結成)や1920年結成のインドネシア共産党に言及することも可能ではあります。ただ、設問と史料から考えた場合、必須の内容ではないかもしれません。

 

(解答手順3:指定語句の使いどころを検討する)

指定語句は、「三一運動 / 民族解放 / 陳独秀 / 平和に関する布告」の四つでした。使い方としては以下のような使い方があるでしょう。

 

・三一運動

:ロシアの平和に関する布告やウィルソンの十四ヵ条の平和原則の中に謳われた「民族自決」に刺激を受けた朝鮮の民衆と、その運動を抑えようとした日本との摩擦から発生した民族運動、それを黙殺したパリ講和会議やワシントン会議における資本主義・帝国主義諸国の論理

 

・民族解放

:民族自決に刺激を受けた各地での民族解放運動、その方法の一つとしての共産主義

 

・陳独秀

:中国共産党の初代委員長、中国共産党の結成、コミンテルンの指導と国民党との接近

 

・平和に関する布告

:ロシア革命とボリシェヴィキ、帝国主義諸国に対する非難、民族自決、ウィルソンの十四ヵ条の平和原則への影響

 

上に書いたもの以外にももちろんあると思いますが、一般にすぐ思いつく内容としてはこんなところでしょう。解答手順1でつくった大きな枠組みに肉付けをしていくとすれば、以下のような感じではないでしょうか。

 

①ロシア革命と平和に関する布告の民族自決が、アジア諸国の民族運動と共産主義を刺激

②ソヴィエト=ロシアは資本主義・帝国主義列強を批判

③資本主義列強はソヴィエト=ロシアを受け入れずに対ソ干渉戦争

④コミンテルンの創設とアジア各地の共産党への指導

⑤パリ講和会議やワシントン会議は資本主義諸国の論理を優先して民族自決を顧みず

⑥民族運動の激化とともにソヴィエト=ロシアを受け入れる個人や団体が増加

⑦アジア各地で共産主義運動の高揚や共産党の結成が見られる

⑧ロシアに続く社会主義国としてのモンゴル人民共和国の建国

 

概ね、このような流れで解答を作成することを意識していきます。

 

(解答例)

 ロシア革命で一党独裁を達成したボリシェヴィキが平和に関する布告で民族自決を呼びかけると、資本主義列強の支配下にあったアジアでは民族運動と共産主義が刺激された。共産主義拡大を危惧した列強は対ソ干渉戦争を起こしたが、ソヴィエト=ロシアは赤軍の組織化、戦時共産主義やコミンテルン創設による共産主義者の連携で対抗した。秘密外交暴露などで帝国主義政策と批判された第一次世界大戦への参戦を決めたアメリカのウィルソンは十四ヵ条の平和原則で秘密外交廃止や民族自決を訴え、これに刺激された朝鮮では日本からの独立運動である三一運動が発生したが弾圧された。さらに、戦後のヴェルサイユ・ワシントン体制では資本主義列強の論理が優先され民族自決が顧みられなかったため、中国の五四運動やインドのサティヤーグラハなどの民族解放運動が激化した。コミンテルンの活動でソヴィエト=ロシア受け入れも進み、陳独秀を委員長とする中国共産党の結成、ホー=チ=ミンのコミンテルン参加、孫文による国共合作への動きが見られ、モンゴルでは日本が支援するウンゲルンをチョイバルサンらのモンゴル人民党が赤軍の支援を受けて駆逐し、モンゴル人民共和国を建国した。500字)

 

こんな感じでしょうか。赤字のところが「アジアと資本主義列強の関係」、青字のところが「ソヴィエト=ロシアと資本主義列強の関係」、緑字のところが「アジア各地の運動家とソヴィエト=ロシアの関係」を主に示しています。アジア各地の「運動家」とありましたので、できるだけ個人名が出るようにしてみました。メインのソヴィエト=ロシアの受け入れと関係については、民族運動や共産主義の刺激につながったことやソヴィエト=ロシアを受け入れる動きにつながったことで示せているかと思います。

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2017年のTEAP利用型世界史の試験は、これまでに出題されたTEAP利用型世界史問題の中でも、受験生にとって一番きつい試験だったのではないかなと思います。テーマ自体が難解でしたし、史料の読解もかなりの力を必要とします。試験時間が十分に確保されていれば論述問題自体は難しくともどうにか問題として成立するのではないか(むしろ、論述の一つ目、設問2は良問ではないか)と思うのですが、一番あり得ないと思ったのは試験時間です。この問題を60分で解けというのは正直ピーの所業なのではないかと思います。日常生活でもたまにいますね、そういう無茶ぶりをする人。本人全く悪気がないのに「うそぉ!?」っていう振りをする人がいます。私は昔、サークルの先輩に寝ている間にすね毛にライターで火をつけられたことがありまして、「痛ぇっ!」と思ってガバ起きしたら足元に先輩がジッポ構えて座ってました。「何してるんすか!?」と言ったら「いや、燃えるかと思って…」と悪びれもせず言ってましたが、上智の問題を見てるとたまにそういうムードを感じます。

 論述問題は時間の制約がなければまだ分かるのですが、私がおおいに疑問を感じたのはむしろ小問の方です。後述しますが、何を対象として聞いているのか判然としない部分があるために、正答が選びにくい、下手すると選べないのです。回答者全員が正解となった今年(2020年)のセンター問5なんかよりよっぽど判断がつきづらいですよ。私、試験会場でこの問題の正解を導く自信あんまりありません。まぁ、色々な意味でこの年のTEAP利用問題は実は悪問なのではないかと密かに考えているのですが、単に私の理解力が足りないだけなのかもしれませんので、「うーん?悪問かもなぁ?」くらいで留めておきます。でもやっぱり悪問だと思う。

ちょっとこの年の受験生はかわいそうですね。そのせい?か、翌年からは同じ字数で90分に試験時間が変更になりました。問題形式等についてはすでにこちらでご紹介しています。

 

設問1-1 (c)

:下線部周辺は「(あの)世界を震撼させた野蛮な遊牧民(が、ヨーロッパを襲う前にわれわれの住む土地を横切らなかったら)」とある。この「われわれの住む土地」は著者がチャアダーエフ(ロシア人)なのでロシア。ロシアを横切りヨーロッパを襲った民族であるので解答はモンゴル人である。

 

設問1-2 

:下線部の「偉大な人物」は「われわれを文明化しようと試み」、「啓蒙に対する興味を喚起させ」たが、ロシア人は「啓蒙に少しも触れることはなかった」とあります。文明化(西欧化・近代化)をロシアで進めた君主と言えばピョートル1世とエカチェリーナ2世がまず思い浮かびますが、これらのうちロシア人が「啓蒙に少しも触れることがない」と評価されるとすれば時期的にもピョートル1世でしょう。もっとも、選択肢がピョートルの他は

・イヴァン4世(16世紀半ば~後半、雷帝)

・ウラディミル1世(10世紀末~11世紀のキエフ大公、ギリシア正教に改宗)

・ストルイピン(第一次ロシア革命後にミールの解体などを進める一方、革命運動を弾圧した首相)

 ですので、選ぶことはそう難しくありません。

 

設問1-3 

:下線部の「偉大な君主」は、「われわれを勝利者としてヨーロッパの端から端まで導き」ましたが、凱旋後のロシアは「もろもろの愚かな思想と致命的な誤り」により「われわれを半世紀も後ろへ放り投げてしま」ったとあります。ヨーロッパの端から端まで軍を展開することができたのはナポレオン戦争時のアレクサンドル1世ですし、その後の反動体制(ウィーン体制、「ヨーロッパの憲兵」)を思い浮かべれば内容も合致します。「反動化」ということばは世界史では頻出しますが、進歩的変革やそれを行う諸勢力の動きに反対し、既存の体制の維持や旧体制の復活などの保守的行動に出ることを指します。

 

設問1-4 

:設問としてはアバウトで、どの地域・時代のことを指しているか明確ではないのであまり良い問題とは言えません。下線部は「農民を土地つきで解放する」とあり、この文章を書いているのはロシアの作家ドストエフスキーなので、おそらくロシアのことを指すのだろうと類推することは可能ですが、選択肢には「西ヨーロッパに」など異なる地域についての言及もあり、設問の指示にも「ロシアで」などの明示がないためにロシアのことを指しているのかどうか、またいつ頃の話をしているのかどうかをはっきりさせる確証のない設問です。

それでも、正しいのは⒟で、農民は多くの場合、身分的に解放されても土地を有償で買い取る必要がありました。この文章は「どこで」という指定がないので、ヨーロッパ全般を指すのかロシアの状況を指すのか不明ですが、ヨーロッパ全般で考えたとしてもフランス革命後の封建的諸特権の有償廃止や、プロイセン改革における農奴解放を考えた場合、間違いではありませんし、ロシアの場合だとしても1861年のアレクサンドル2世による農奴解放令は土地の有償分与とミールへの帰属が示されましたから問題ありません。

 

⒜:エカチェリーナ2世はプガチョフの乱以降反動化し、農奴に対する締め付けを強化します。

⒝:上記にあるようにロシアで農奴解放令が出されたのはクリミア戦争(1853-1856)後の1861年です。もっとも、クリミア戦争に参加したのは英・仏・伊・オスマン帝国などの諸国も同様なので、ここでいう「解放令」がどの国の解放令なのかは上記の類推と、「ああ、多分1861のロシアの農奴解放令のことを聞きたいんだろうなぁ」という回答者側が気を利かせること以外にロシアであると判断する方法はありません。

⒞:西ヨーロッパ全土に当初から独立自営農民がいたわけではありませんし、独立自営農民(イギリスではヨーマン)が比較的多かったイギリスにおいても、農民全てがヨーマンだったわけではありません。ただ、これも時期と地域によっては異なる判断が出る余地があるため、あまり良い問題ではありません。

 

設問1-5 ⒝

:この設問は本当にどうなのかと思います。下線部は「正教」で、たしかにロシア正教会の総主教座はモスクワに置かれました。ですが、そもそも正教会は東ローマ帝国の国教であるギリシア正教から発展してくるものであり、総主教座はコンスタンティノープルなどに、しかも複数置かれていました。モスクワに総主教座がおかれるのは16世紀末のことですし、そもそもロシア正教の出発点がどこにあるのかといったことが曖昧です。さらに、設問では「正教」がそもそもロシア正教のことを指すのかギリシア正教のことを指すのか、他の定義で使っているのかはっきりしません。そのため、この⒝の文章は見方によって正しいとも誤っているとも取れてしまう文章です。

⒜:グラゴール文字を考案したのはキリル文字の名前の由来ともなったキュリロスという人物です。「グラゴール」というのは人名ではなく、当初文字自体に名称はついていなかったようですが、後に古スラヴ語の「話すこと、言葉」といった意味から名づけられたものです。また、キュリロスが当初布教の目的地としたのはモラヴィア王国(現在のチェコ周辺)ですから、南スラヴではなく西スラヴです。

⒞:微妙な文章です。「モスクワ大公国の時に正教がロシアの国教となった」とあります。何が微妙かと言いますと、そもそも「ロシアとは何か」が曖昧です。文章自体が曖昧というより、厳密な意味を考えた時に「ロシア」が何を指すかはっきりさせようがないのですね。そもそも、モスクワ大公国は「ロシア」という国家なのか(イヴァン4世自身はそれを自称しましたが)、また仮にこれを「ロシア地域」だと考えた場合、そもそもロシア地域とはどこを指すのか、そしてモスクワ大公国は「ロシア地域」全土を支配していたのか、それはいつの時期か、などまぁ、キリがありません。また、「キエフ公国とモスクワ大公国との間に<ロシア>としてのまたは一つの国家としての連続性を見出すことができるか」ということになるともっと曖昧です。また、そもそもこの「正教」は何を指しているのか以下略。(上記の説明をご覧ください) たしかに、ロシア地域に存在した国家としてはキエフ公国の方が先で、そのキエフ公国はギリシア正教を国教として受容していますから、キエフ公国とモスクワ大公国にロシアとしての一体性を見出すのであればモスクワ大公国の時にはじめて正教がロシアの国教となったという表現は誤りを含むものです。(もっとも、設問の方には「はじめて」という表現もありません。おそらく「なった」という表現に「はじめて」のニュアンスがあるから読み取れということなのだと思いますが、もし、モスクワ大公国がキエフ公国から独立した存在だと考えた場合、モスクワ大公国のとき(にも)、正教はロシア(地域)の国教になっていますから、正しい文として読むこともできてしまいます。あまり良い選択肢ではないと思います。もし、選択肢として用意するなら「モスクワ大公国の時に、正教がはじめてロシア地域において国教として導入された。」くらいにしないと間違いとして選べません。

⒟:ローマ=カトリック教会とギリシア正教会の完全分裂は1054年で11世紀ですので誤っています。この選択肢で「ギリシア正教会」なんて書くからますます「正教」が何を指すのか曖昧になるんですよね…。

 

設問2(論述1)

【設問概要】

・チャアダーエフとドストエフスキーの考えの相違点について説明せよ。

19世紀のロシアの国内の現実とロシアをめぐる国際関係に即して説明せよ。

・指示語は「西欧化政策 / 農奴制 / 農村共同体(ミール) / 帝国主義 / 東方問題」で、初出の場合には下線を付せ。

250字以上300字以内

 

【手順1:チャアダーエフとドストエフスキーの考えの整理】

(チャアダーエフ:時期は1836

・冒頭の文章に「ロシアにおける西欧の自由主義的な価値を範とする思想の先駆け」とあります。

・「われわれ(=ロシア)」の思想的現状に極めて悲観的です。

 ①社会的意識にどのような痕跡も留めなかった

 ②自らの思想が拠り所とすべき固有のものは何もない

 ③人類の伝統的思想も受容しなかった

 ④われわれの賢者や思想家はいったいどこにいるのか(反語。つまり、どこにもいない)

 ⑤科学の領域でさえも、ロシアの歴史は何物にも結び付かず、説明せず、証明しない。

 ⑥歴史的にも、偉大な君主が文明の光をたびたび投げかけるが、ロシアはそれを受容しない。

 →つまり、ロシアは思想的に重要なものは何も持っていない。

・これに対し、彼はロシア以外のヨーロッパが不完全ながらも文明的で個性や歴史、思想的遺産を持つと考えます。

 ①ロシアと異なり他の諸民族は文明的で個性を持つ

 ②諸民族は、ロシアが持たない思想を礎石とし、これから未来が現れ、精神的発展が生じる

 ③ヨーロッパの(ロシア以外の)諸民族には共通の相貌や家族的類似性(一般的性格)があるが、この他にも固有の性格、つまり歴史と伝統を持ち、これが諸民族の思想的遺産をなす。

 ④その思想的遺産とは、義務・正義・権利・秩序に関する考え方のことである。

 ⑤こうした思想的遺産が、これらを持つ国々の社会体制の不可欠な要素を形作っている。

 ⑥今日のヨーロッパ社会には不完全・欠点・とがめるべきものがあるが、それでも神の王国が実現している。

 ⑦ヨーロッパは、自らのなかに無限の進歩という原理や、しっかりした生に不可欠な要素を内包している。

 

 つまりチャアダーエフは、ヨーロッパが持つ思想的遺産(歴史と伝統)は、人々が進歩し、根を下ろした生を営むにあたって不可欠な要素であるにもかかわらず、ロシアはこれを持っていないと考えています。ですから、ロシアが「他の文明的な諸民族のように個性を持ちたいなら、人類が受けた全教育を何らかの方法で再度施すことが不可欠」なのであり、東洋と西洋が持つ想像力と理性という知的本質、偉大な原理を「自らの中で融合し、われわれの歴史の中に結合させるべき」であると考えます。

 

(ドストエフスキー:時期は1873-81

・冒頭の文章に「ロシアの伝統に根ざした発展を志向する思想へとつなが」るものであるとあります。

・また、設問からチャアダーエフの考え方とは対極にある考え方であることは明白です。

・ロシア以外のヨーロッパの思想や現状に対しては批判的または懐疑的です。

 ①ヨーロッパの農奴解放は、有償であったり、暴力や流血を伴う不十分なもの、または人格的には解放されても経済的には搾取されたもの(「プロレタリアの原理に基づいて、完全に奴隷の姿で解放された」もの)にすぎず、そもそもわれわれ(=ロシア)が学ぶようなものではない

 ②ヨーロッパはロシアがこれを愛そうと努めたにもかかわらず、一度もロシアを愛したことがなく、そもそも愛するつもりがない

 ③ロシアにとってヨーロッパは、「決定的な衝突」をする相手であると同時に「新しく、強力で、実り多い原理に立った最終的な団結」をなす相手でもある

・一方で、ロシアの歴史的な遺産と、近年達成された視野の拡大に対しては極めて肯定的です。

 ①「世界のいかなる国民にも前例のない、視野の拡大という結果を得た」

 ②18世紀以前のロシアは、活動的で堅固であり、統一を成し遂げて辺境を固め、「他にまたとない宝物たる正教」を持ち、キリストの真理の守護者であることを「ただひとり」理解していた

 ③ロシアが数世紀の遺産として受け継ぎ、遵守してきた偉大な理念(スラヴ民族の大同団結)は裏切ることのできないものである

 ④また、スラヴ民族の大同団結は「侵略でも暴力でもない、全人類への奉仕のためのもの」

 ⑤ロシアは、全東方キリスト教や地上における未来の正教の運命全体と団結のためになくてはならない存在

 ⑥東方問題には、ロシアの課題がすべて含まれ、この解決こそが「歴史の完全さにつながる唯一の出口」につながる

 ⑦ロシア、またはロシア人はヨーロッパの矛盾に最終的和解をもたらすよう努めるべきであり、それは「全人類的な、すべてを結合させる」ロシア的精神のなかにヨーロッパを包摂し、「兄弟愛をもって」スラヴ民族、最終的にはすべての民族を「キリストの福音による掟にしたがって」完全に和合させることによって達成される

 

 つまり、ドストエフスキーはヨーロッパの思想よりもロシアの伝統、歴史、宗教(正教)といった遺産こそがキリスト教的な真理を体現するものであると考えています。一方で、彼にとって長らくロシアでもてはやされてきたヨーロッパの進歩的思想、自由や平等の理念などは見せかけだけのものに過ぎず、参考に値するものではありませんでした。彼は、「ヨーロッパの矛盾」、つまり普遍的であることを装いつつ、その実自己の利益を追求する姿勢はロシアの精神によって解決されるべきであり、最終的には広い視野を獲得し、すべてを結合させる愛と真理を持ち合わせたロシアこそがスラヴ民族をはじめ全ての民族を包摂すべきなのであり、それはスラヴ民族の大同団結と同じく「侵略でも暴力でもない、全人類への奉仕のためのもの」と考えています。

 

【手順2:チャアダーエフとドストエフスキーの考え方の相違点を整理】

(異なっている点)

チャアダーエフが、西洋の自由主義的価値観を模範とすることで、ロシアが持てなかった個性や歴史を持つことができ、文明化が可能となると考えるのに対し、ドストエフスキーはロシアの伝統、歴史、正教という遺産こそがキリスト教的真理を唯一保持するものであり、スラヴ民族の大同団結やその後の諸民族の和合のために欠かせない要素であると考えています。

(共通する点)

 どちらも、ロシアは現状の諸問題は将来においてロシアが解決すべきまたは解決しうるという未来志向型の考えを持っています。ロシア独自の個性を「いつか持たなくてはならないvsすでに持っている」という点では対立していますが、個性それ自体を重視する姿勢は同じです。

 

【手順3:手順1、2で整理した両者の考えを、ロシアの国内問題、国際関係に即して考える】

・指示語には注意しましょう。

「西欧化政策 / 農奴制 / 農村共同体(ミール) / 帝国主義 / 東方問題」

 

①西欧化政策

:これについては両者ともに関係づけることが可能です。ロシアの西欧化はピョートル1世の頃やエカチェリーナ2世の頃などに進められますが、反発や反動化が起こるなどして必ずしも十分なものではありませんでした。これを不十分なものだからさらに進めるべきだというのがチャアダーエフで、逆にそれまでの西欧化の努力は無駄とまでは言えないが間違った方向性であるとするのがドストエフスキーなので、彼らの主張に絡めて述べればよいと思います。

 

②農奴制

:農奴制についてはロシアの農奴解放令についての言及は必須。ロシアではクリミア戦争の敗北などを受けてアレクサンドル2世が1861年に農奴解放令を出します。これにより農奴は身分的自由を得ましたが、土地の取得は有償で地代の十数倍に及ぶ対価を支払う必要がありました。多くの場合、一度に対価を支払うことができないため、政府が年賦で資金の貸し付けを行うなどの方法で支払われましたが、取得した土地は取得費用を連帯保証したミールに帰属するために個人は依然としてミールに行動を制約されることになりました。

 

③農村共同体(ミール)

:ロシアの地縁的共同体である農村共同体(ミール)は、租税や賦役の連帯責任を負う農民の自治・連帯基盤ですが、農民個人の生活を縛るものでもありました。上記の通り、ミールは土地取得の連帯保証を行うことで農民個人の解放の実質的な障害となっていたため、ロシアの農奴解放は十分に進展しません。第一次ロシア革命(1905)以降、近代化・工業化を進めるために農奴解放のさらなる進展を必要としたロシアはストルイピンの指導のもと、ミールの解体を進めることになります。

 

④帝国主義

:こちらは、時期的にも内容的にもドストエフスキーの論と絡めて書く方が良いでしょう。帝国主義は産業革命やその後の独占資本の形成が各国の植民地拡大政策と結びついていくものですから、その中心は19世紀の後半から20世紀の前半です。チャアダーエフの議論は1836年のものですから、こちらを帝国主義政策云々と結びつけるのは無理があるかと思います。対して、ドストエフスキーの論では東方問題や「ヨーロッパの矛盾」についての言及があります。文章中には、土地付きでの農奴解放を主張しながら歴史的にはそのような解放がなされるには暴力や流血に頼らざるを得なかったこと、カトリック(カトリックの語義はギリシア語の「普遍的」に由来)的な同胞愛を説きながらロシアを決して愛そうとはしなかったことなどの「矛盾」が示されていますから、ここでドストエフスキーが示したいのは普遍的であることを装いつつ、その実は自己の利益を追求するヨーロッパの偽善であり、これはそのまま「文明化」などを掲げつつ植民地支配を正当化するヨーロッパの帝国主義政策に通じるものがありますので、その点を指摘すればよいでしょう。

 

⑤東方問題

:東方問題については同じくドストエフスキーが言及しています。時期を考えればクリミア戦争後~露土戦争の時期を考えておけばよく、彼の議論からは東方問題にロシアが解決すべき課題があり、ヨーロッパの帝国主義政策はロシアの遺産によって形作られるスラヴ民族の大同団結によって打ち破られるべきであり、それがあってこそヨーロッパとの最終的な和合、つまりロシア的伝統によるヨーロッパの一体化が図れると考えていることがうかがえますので、そこを指摘しましょう。

 

【解答例】

 西欧の自由主義的な価値に重きを置くチャアダーエフは、西欧化政策や啓蒙思想がロシアに根付かないことを嘆き、進歩にはヨーロッパの思想的遺産とこれが作る個性・歴史が不可欠と考えた。クリミア戦争敗北後、アレクサンドル2世は農奴解放令で農奴制を廃止したが、個人が農村共同体(ミール)に縛られる不十分なものだった。ドストエフスキーは自由・平等を謳う西欧諸国も当初は農奴解放が十分な形ではなく、普遍性を標榜しつつ帝国主義政策を進めるなど矛盾を抱えていることを指摘。堅固な伝統と歴史、キリスト教的真理を宿す正教を有する稀有な国であるロシアがパン=スラヴ主義を通して西欧列強を破り、東方問題を解決すべきであると考えた。(300字)

 

設問3(論述2

【設問概要】

・チャアダーエフとドストエフスキーが書いた文章の持つ文明論的意味について、実例を挙げて論ぜよ

 

(ヒント[リード文から]

・両者のようなタイプの知識人、社会改革家が、近代以降は日本やトルコなどのアジア地域に現れて論争し、政治社会運動に加わっていた

 

【手順1:設問の意図を理解する】

 まず、何よりも設問が言う「文明論的意味」とはどのようなことを聞いているのかを把握する必要があるのですが、おそらく多くの受験生がここで「?」となったことと思います。文明論という言葉自体があまり明確に定義されていないように思います。(検索すると福沢諭吉の『文明論之概略』がよく出てくるけれども、150年も前の著作の定義をそのまんま鵜呑みにするわけにもいかないでしょう)

 

「文明」を辞書で引きますと以下のように出てきます。(三省堂『スーパー大辞林3.0』)

 

①文字をもち、交通網が発達し、都市化が進み、国家的政治体制のもとで経済状態・技術水準などが高度化した文化を指す。

②人知がもたらした技術的・文化的所産。[「学問や教養があり立派なこと」の意で「書経」にある。明治期に英語civilizationの訳語となった。西周「百学連環」(18701871年)にある。「文明開化」という成語の流行により一般化]

 

 また、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典」の「文明」の項目では以下のようにあります。

 

「文化と同義に用いられることが多いが,アメリカ,イギリスの人類学では,特にいわゆる「未開社会」との対比において,より複雑な社会の文化をさして差別的に用いられてきた。すなわち国家や法律が存在し,階層秩序,文字,芸術などが比較的発達している社会を文明社会とする。しかし今日では,都市化と文字の所有を文明の基本要素として区別し,無文字 (前文字) 社会には文化の語を用いる学者も多い。この立場では文明は文化の一形態,下位概念とされる。」

 

 つまり、「文明」という言葉自体が時代や状況によって指す内容や使われ方、伝わるニュアンスが異なるものですので、本来は設問の方で「ここでいう文明論とはなんぞや」ということをある程度指し示してやる必要があると思うのですが、そこは上智のことですので「わかってんだろ?言わなくても」みたいなお前はチャラ男かホストかみたいに阿吽の呼吸を要求してきます。すげえ。

 こういう場合、正確な定義を読み取ろうとする努力は徒労に終わってしまいますので、ひとまず、文明論というのは上記にあげた①の「文字をもち、交通網が発達し、都市化が進み、国家的政治体制のもとで経済状態・技術水準などが高度化した文化」それ自体や、そこに暮らす人々の共通の価値観について論ずること・またはその理論を指すと考えておきましょう。

 

【手順2:チャアダーエフとドストエフスキーの「タイプ」を考える】

 両者を知識人や社会改革家として類型化した場合、どのような型にはまるかということを考える必要があります。一番整理しやすいのは、ヒントに日本やトルコが上がっているので、これらの地域において西洋思想を取り入れようとした論者とチャアダーエフもしくはドストエフスキーの共通点を探すことでしょう。このように考えると、チャアダーエフとドストエフスキーは以下の二つのタイプとして分類することができます。

 

①チャアダーエフ型

:自国の後進性を指摘し、西欧的価値観や思想の積極的導入による近代化を図ろうとする思想家

 

②ドストエフスキー型

:自国の文化・伝統・歴史を重視し、価値あるものと考えてそれをもとに西欧に打ち勝とうとする思想家

 

 ①のタイプについては枚挙にいとまがありません。日本でいえば幕末の開国派や蘭学者、明治維新以降の進歩的思想家や改革者は多かれ少なかれそういう要素を持っています。トルコでいえば実例はタンジマートでしょう。また、タンジマートのもとで西欧の教育を受けた新オスマン人などもそうです。一方、②の場合には水戸学や尊王攘夷論者、イスラーム圏ではアフガーニーのパン=イスラーム主義(その立憲主義などは範を西欧にとるわけですが)、中国なら洋務運動の「中体西用」の思想(もっとも、技術については西洋技術を積極的に導入)などに近いものを見ることができるかもしれません。

 気をつけておきたいのは、②のタイプの論者であってもその中身は様々です。上にも書いたように、「中体西用」のような発想は、「体」つまり根幹となる部分については自国の伝統的制度・思想を重視しますが、西欧的なものを全て拒絶するわけではなく、技術面については積極的に西洋のものを導入します。こうした発想は「和魂洋才」のような言葉にも見ることができますが、19世紀末から20世紀前半にかけての時期に国家の近代化を図ろうとした場合、多かれ少なかれ西欧の何かを導入せざるを得ないケースが大半でしたから、「Aは西欧LoveBは西欧拒絶」といった形で完全に区分けするのはなかなか難しいということには注意しておくべきでしょう。

 

 ①・②のいずれにせよ、自身が属する文明とそれとは異なる文明について、独自の考え方(文明論)を持っていたことは間違いありません。チャアダーエフのような見方は、後にロシアで西欧派と呼ばれる西欧市民社会を理想化し、個人の自由の実現を目指す一派を形成していきますし、ロマン主義の流れから生まれた国粋主義的な思想潮流を持つスラヴォフィル(スラヴ派)と呼ばれる一派は西欧派と対立し、のちのパン=スラヴ主義を形成する一つの要素となっていきます。ドストエフスキーはこの思想的潮流にあるわけですね。

 

 設問は、チャアダーエフの文章とドストエフスキーの文章の持つ文明論的意味を、実例を挙げながら論ぜよとなっています。「実例をあげながら」となっておりますので、①と②に分類した上でアジア地域における実例を挙げればよいのではないかと思います。

 

【解答例】

 西欧近代文明に直面したアジアでは、ロシアの論者と同様に対照的な二つの議論とそれに基づく改革が進められた。チャアダーエフのように自国の後進性を指摘し、西欧的価値観や思想の積極的導入を図ろうとする立場には、日本の開国派や明治維新期の進歩的思想家、トルコのタンジマートやミドハト憲法制定に尽力した新オスマン人などが挙げられる。ドストエフスキーのように自国の文化・伝統・歴史を重視し、保持する立場は日本の水戸学派や尊王攘夷論者、アフガーニーのパン=イスラーム主義、中国の洋務運動が掲げた「中体西用」などに見ることができる。どちらも、自己の属する文明に西洋文明を対置して直面する課題の克服を試みた点で共通する。(300字)

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