世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

中学受験、大学受験(国立・私大とも)など数多くの受験をこなし、脱サラ後に西洋史を専攻、学費捻出のため塾講師や中高で世界史を担当しつつ、イギリスの大学院で歴史学のMSc(修士号)を取得、大学でも西洋史の講義を担当するなど西洋史を教える仕事に長年従事してきた管理人HANDが、受験世界史でポイントとなる部分を徹底解説!各校の過去問対策、受験対策のほか、世界史を理解する上で役に立つ視点や勉強法についての情報を随時更新していきます。

以下のような方はとくにオススメ!

・東大、一橋などの国公立や早稲田、慶応の受験を世界史で考えている。
・論述対策を進めたい。
・教科書やプリントだと不足している情報が多すぎて、背景にあるつながりが見えない。
・『詳説世界史』などを読むだけでは気づけない、専門的な歴史的視点を養いたい。
・世界史を覚えるのが苦手で、どうやって勉強したらよいのかわからない。
・世界史の教員になりたてだが、西洋史が専門ではないので少し突っ込んだ知見を知りたい。

※ 目標に向けて頑張る受験生の皆さんの一助になればと思って頑張って更新し、情報もチェックしておりますが、人間ですのでミスなどが出ることもあります。当サイトの情報をご利用の際はあくまでも自己責任でお願いいたします。

※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw また、大手予備校のHPからも閲覧できるかと思います。正規の問題が手元にあった方がわかりやすいと思います。


[19世紀~20世紀の朝鮮] 

・案外、朝鮮王朝(李氏朝鮮)がいつ頃からかがつながっていない人がいたりするので確認。

 1392 建国:両班による支配

    (倭寇討伐に功のあった李成桂が高麗を滅ぼして建国)

 

・その後の李氏朝鮮は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役/壬辰・丁酉の倭乱[1592-931597-98])と、清への服属(ホンタイジの時)のあたりで出てくる。

 

・世界史でその後李朝が問題になるのは19世紀後半に入ってから。このあたりは大学受験でも頻出の箇所なので、注意しておくとよいでしょう。ただ、教科書や参考書だと時期ごとにぶつ切りになっていたり、情報が不足していてなかなか全体像をとらえることができません。そこでまず、当時の朝鮮で起こった事件を追いながら、朝鮮国内またはそれに与する外国の勢力図がどのように変化していくのか見ていくことにしましょう。

 

1863 大院君(国王高宗の父)が摂政として実権掌握

:鎖国政策

 1873 閔妃政権の成立(大院君に対するクーデタ)

:開国政策への転換

 1875 江華島事件

→日朝修好条規(1876

  朝鮮の自主独立

  釜山・仁川・元山開港

  治外法権

  関税自主権喪失(双方無関税)

 1882 壬午軍乱:大院君のクーデタ

・賃金未払いを不満とする兵士の暴動を利用

・日本公使館員も多数殺傷される

   →清の袁世凱の支援で鎮圧

→閔氏が親日から親清へ

(事大党の形成=清の勢力下で李朝の安全維持を図る)

   ※以降、清は6000名の軍隊を朝鮮に駐留させる

    一方で、開化派の不満が高まる

→急進改革による朝鮮の近代化を図る金玉均・朴泳孝らが独立党を形成

 1884 甲申政変:独立党による対閔妃のクーデタ

・日本公使竹添進一郎と独立党が共謀、清仏戦争の隙をつく

    →高宗を擁立、閔氏の要人を殺害

  →閔妃を支援する清が鎮圧

(清仏戦争に敗北した清はメンツにかけても朝鮮へ出兵)

→金玉均は亡命(1894年に亡命先で暗殺される)

    ※この事件をうけて日清両国は天津条約(1885)締結

:日清両国の朝鮮からの撤兵と出兵時の事前通告を規定   

1894 甲午農民戦争

:東学を中心とする農民反乱

(創始者:崔済愚[チェジェウ]、指導者:全琫準[チョンボンジュン]

   →鎮圧に日清両軍が出兵、日清戦争

   →朝鮮では日本軍が出兵して閔氏を追放

・大院君を中心とする開化派政権が成立

・甲午改革の実施

     [両班制・科挙廃止、奴婢・人身売買の禁止など発表]

        →政権内部の対立、三国干渉によるロシアの影響力を利用した閔氏派の巻き返しで失敗。

1895 下関条約:朝鮮の完全独立承認

1896 乙未事変:日本の指揮下の訓練隊(朝鮮軍)と日本人士官が閔妃暗殺

(背景)ロシアの力を背景に巻き返しを図る閔妃と大院君が対立

 ・甲午改革を推進した金弘集内閣が再度近代化策を実施

 →開化派を支持する大院君と高宗の対立が決定的に

(守旧派が担ぐ高宗はロシアに接近:露館播遷[1896-97]

 1897 大韓帝国と国号を改称

 1898 1896年以降、朝鮮の立憲君主制樹立を目指してきた独立協会が弾圧される

1904-1905 日露戦争

  →日本の優勢によって朝鮮が日本の影響下に

1904 第1次日韓協約:日本からの財政・外交顧問の受け入れ

1905 ポーツマス条約:日本の韓国保護国化承認

→第2次日韓協約(1905

:韓国の外交権接収(保護国化)、統監府の設置(初代:伊藤博文)

   →反日義兵闘争の高まり、愛国啓蒙運動が激化

1907 ハーグ密使事件

   →第3次日韓協約(1907):韓国軍の解散、内政権を失う

1909 伊藤博文暗殺(安重根による)

1910 韓国併合:朝鮮総督府(初代:寺内正毅)

→武断政治、土地調査事業

 

ここがポイント 朝鮮内の勢力関係

 

朝鮮近代史を読み解く上で難しいのが朝鮮内における勢力関係ですね。たとえば、当初は保守派とされていた大院君が後になってなぜか開化派と仲良くしていたりとか、国王なのに高宗は開化派に担がれたり、後に対立したり…「いったいどっちなんだ!」と思うこともあるかと思います。でも、日本も幕末期には公武合体だー、とか攘夷だー、とか開国だーとか、やってますよね。当時の朝鮮も、諸外国の圧力の中で将来をどういう方向へ持って行ったら良いか模索している時期です。その時々の立場や情勢によって各人の立場が変わっていったのだと考えれば、それほど変なことでもないのですね。

 ここでは、頭をすっきりさせるために、いくつかの時期についてその勢力図を図示してみたいと思います。

 

[初期(1860年代~1870年代)の対立関係]

地域史②(朝鮮史)

 初期の対立関係は意外にシンプルです。幼少であった国王高宗の父である大院君が実権を握ると、大院君は保守的な鎖国政策を実施します。ところが、大院君の独裁に対する反発や、日本でも起こったような進歩的な考え方を持つ開化派からの反発が高まっていくんですね。そうした中で、もともとは大院君のお声がかりで妃におさまった閔妃は、舅との折り合いが悪くなって次第に険悪になっていきます。閔妃とその一族(閔氏)は反大院君の勢力を結集してクーデタを決行、これにより大院君が失脚してしまうのが1873年です。

 

[1870年代~1880年代]

 

地域史②(朝鮮史)2
 

 ところが、閔氏政権のもとでの開化政策は必ずしもうまくはいきませんでした。おりしも、江華島事件以降、朝鮮では清朝の冊封国としての地位を維持すべきとする守旧派(事大党)と、日本の力を利用して近代化を達成しようとする開化派の二派に分かれて争っていました。そんな中、開化派政策を推進する閔氏政権は大胆な軍制改革に着手し、旧式の軍隊とは異なる西洋式の新式軍隊「別技軍」を組織します。しかし、別技軍が好待遇を受ける一方でないがしろにされていると感じた旧軍の一派は、続いていた給与不払いをめぐる不満を暴発させて暴動を起こします。これに乗じて閔氏政権の転覆をはかったのが先に失脚させられていた大院君でした。これが壬午事変(壬午軍乱:1882)です。

 

 この事件に対して日本側は対応することができませんでした。反乱に巻き込まれた日本公使館員たちは何名かの死傷者を出しながら命からがら挑戦を脱出します。これに対し、清国側は当時洋務運動によって増強していた軍隊を朝鮮に出動させ、これを率いた袁世凱が反乱を鎮圧し、大院君を軟禁しました。この結果、政権に復帰した閔氏一派は、自分たちの政権維持を重視してそれまでの親日姿勢から親清姿勢へと鞍替えします。要は、「開化政策の推進」と「政権と権力の維持」を天秤にかけた結果、後者を選択したわけです。

地域史②(朝鮮史)3
 
 

 しかし、こうした閔氏政権の変節に不満を感じたのが親日派の開化派たちです。朝鮮でも日本式の近代化を実現しなくてはならないと考える開化派の金玉均(キムオッキュン)、朴泳孝(パクヨンヒョ)らは独立党を結成します。清への依存をはかる事大党に対して、朝鮮の自主独立を目指したわけですね。かれらのこの目標は当時開化派を支援していた日本政府の目的とも、最終的な利害はどうあれ合致します。そして、独立党は次第に閔氏政権との対立を深め、その中で同じく閔氏と対立する大院君と接近します。つまり、開化派(独立党)と大院君を結びつけたのは「敵の敵は味方」という構図です。

 そして、この両者は日本の力を借りて清が清仏戦争にかまけて朝鮮に目が向かない間隙をぬって、閔氏政権打倒のクーデタを敢行します。これが甲申政変です。

 

 ところが、この政変も清の軍隊によって鎮圧されてしまった結果、再度閔氏が政権に返り咲きます。そしてこれ以降、朝鮮国内では「閔氏政権vs開化派+大院君」と「清vs日本」という対立が深まっていきます。

 

[1890年代(日清戦争以降)]

 

 こうした中で日清戦争が勃発し、日本の勝利に終わると開化派と大院君は勢いづき、甲午改革と呼ばれる近代化策を進めます。ところが、一度は日本の力を借りて閔氏一派を一掃したと思われたのですが、閔氏一派は新たに朝鮮進出を狙うロシアの力を借りて巻き返しをはかります。こうした両派の対立の中で発生したのが乙未事変(1896:いつびじへん)です。この事件で閔妃が暗殺されてしまったわけですが、これに激怒したのが妻を殺された国王高宗です。これまでも父と妻の一族の間の権力争いでどこか蚊帳の外に置かれてきた高宗は怒り心頭、開化派と大院君とは決別して守旧派とともにロシア公館に遷り、ここで政務を執りました。この期間のことを露館播遷(1896-97)と言っています。嫁さん殺されてムキーってことですね。こうした流れの中で、それまでの清vs日本という構図はロシアvs日本という構図に置き換わってその後の朝鮮を巻き込んでいき、1904年からの日露戦争へとつながっていくのです。

 
地域史②(朝鮮史)4
 

 

 一橋の出題傾向分析では、大問3で中国史、なかでも明末から清にかけての3つのテーマが出題されやすい、という話をしましたので、せっかくですからこの3つのテーマを簡単におさらいしておきましょう。3つのテーマとはすなわち、

 

  清の建国期(ヌルハチ~遷界令解除まで)

  対外関係の変化(遷界令[海禁]~アヘン戦争まで)

  洋務運動から続く3つの改革運動と辛亥革命

 

この3つですね。そういう意味ではロシアとの国境紛争にプラスアルファ混ぜたりしてくる設問なんかもあるのかなとも思ったりします。イリ事件とか東大で出てるしね。それでは、以下これら3つについて簡単にまとめておきます。ご参考までに。

 

[①明末期から清建国期まで]

・明末の混乱[万暦帝の頃~]

 (混乱の原因)

1、政治混乱(東林派vs非東林派:魏忠賢の弾圧[1621-27]

  2、(伝統的に)北虜南倭

  3、壬辰・丁酉の倭乱で援軍

  4、女真の強大化(1619 サルフの戦い:遼東半島へ進出)

  これら1~4による財政難→重税→農民の窮乏化と反乱

 

・清の建国

 (経過)

1、満州で女真統一(ヌルハチ:後金国[1616]、満州八旗の組織)

  2、ホンタイジ(内モンゴル[チャハル部]進出1635、国号を清に1636

  3、李氏朝鮮を属国化1637

  この1~3の時期を通じて蒙古八旗、漢人八旗の組織化

  

4、李自成の乱による明滅亡(崇禎帝自害[1644]

  5、呉三桂による山海関開城

  6、順治帝の北京入城(清による華北統治の開始)

 

・朝鮮

 -明の冊封下→清による征服と新たな冊封→小中華思想

 

・三藩の乱(1673-81

  1、呉三桂(雲南)、尚可喜(広東)、耿継茂(福建)らが藩王に

    →江南において半独立化

  2、康熙帝の危機感と勢力削減策

  3、三藩が反乱開始、台湾の鄭氏が呼応

    →鎮圧(長江以南の完全支配、台湾滅亡と海禁の終了[中国支配完成]

 

[明・清の交易・対外関係の変遷]

(明)

<全体の流れ:初期の海禁~後期の海禁緩和>

・洪武帝の海禁(民間貿易の禁止)

-前期倭寇対策(南北朝騒乱・元末の混乱など)

-洪武帝の農本主義

   ・南海遠征(永楽帝期:鄭和)

     -朝貢貿易の促進

      -日本の冊封(勘合貿易:足利義満、堺・博多、硫黄・銅・刀剣・漆器[輸出]/銅銭・絹織物・生糸[輸入]

   ・銀の大量流入と後期倭寇の発生

Cf.)寧波の乱(1523):一時勘合貿易停止、日本人商人との私貿易活発化

   ・海禁緩和(1567

-ポルトガルのマカオ拠点化(1517来航、1557居住権)

→アユタヤ・マニラ・マラッカと結ぶ

     -中国人の移住(華人街の形成)

     -日本銀・メキシコ銀の流入(石見銀山[16世紀半ば~]

→一条鞭法(明)→地丁銀(清)

     -朱印船貿易(16世紀末~17世紀)

   ・オランダの進出

  バタヴィア(1619

  アンボイナ事件(1623

  台湾占領(ゼーランディア城:1624

  鎖国令(1639

(清)

  <初期の海禁>

・鄭氏台湾の成立(1661-1683

    →遷界令(1661

→鄭氏台湾の制圧(1683)と遷界令解除(1684

→海関の設置(1685:朝貢貿易の受け入れ港、広州・厦門・寧波・上海)

  <中期からの貿易制限>

 ・乾隆帝による貿易制限:広州(1757

   ・イギリスによる自由貿易要求

     -マカートニー、アマースト、ネイピア

     (一橋大学2015解説参照

   ・アヘン戦争(1840-1842)と南京条約、虎門追加条約(1843

     -5港開港、領事裁判権承認、関税自主権放棄

   ・アロー戦争と天津条約(1858)、北京条約(1860

     -総理各国事務衙門設置

 

[洋務運動・変法運動・光緒新政]

1、洋務運動

   ・1860s-1880s 同治帝時代 「同治の中興」

   ・「中体西用」(アロー戦争敗北による危機感)

    :中国の伝統的文化・国制を基礎に西洋技術を導入

   ・曽国藩・李鴻章・左宗棠・張之洞の主導

   ・表面的模倣と日清戦争敗北で限界露呈

 (洋務運動が挫折していく過程)

  ユエ条約(188384)によるヴェトナム保護国化と清仏戦争(1884-85)による敗北

    →ヴェトナムのフランスによる植民地化と天津条約(1885)による宗主権放棄

  1894-1895 日清戦争

 

2、変法運動

    ・日本の明治維新にならった抜本的改革(立憲君主制)の模索

    →1898 戊戌の変法(変法自強)

   ・康有為・梁啓超・譚嗣同らによる改革の進言を光緒帝が認める

・科挙改革・近代学校設立・官庁の統廃合準備

    →保守派(西太后)のクーデタ[戊戌の政変]、光緒帝は幽閉される

 

3、光緒新政

・義和団後、保守派が一度つぶした変法の線で改革を進める

(注意点)

  すでに改革派からは「保皇派」とみなされ、保守派扱いされる

  光緒帝は戊戌の変法の後に幽閉されているため、実際にこの政策を進めたのは    西太后を中心とする保守派

   

(光緒新政の内容) 

  科挙廃止(1905

  新軍準備

  憲法大綱の発布(1908)、国会開設公約(1908

  内閣大学士・軍機処の廃止→責任内閣制・総理大臣の設置

   

・同時期には革命運動が水面下で展開

  孫文による興中会(1894:ハワイ)、中国同盟会(1905:東京)の結成

  三民主義(民族独立・民権伸長・民生安定)

  四大綱領(駆除韃虜・創立民国・恢復中華・平均地権)

 

※ この時期に光緒新政を進める立憲派(保皇派)と、孫文率いる革命派の対立については一橋大学2013年度大問3のAでも出題されていますね。かなり細かい知識まで頻出事項だと思います。
 

 昨年(2016年試験)の受験用に、予想問題を作ったことがあるので紹介します。解答も下の方につけておくので、もしお時間があれば挑戦してみてください。

 

 

I  18世紀の啓蒙思想家ヴォルテールは、神聖ローマ帝国について「神聖ローマ帝国、と自らを呼んだ、そしていまだに呼んでいるこの政体はいかなる点においても神聖ではなく、ローマ的でもなく、帝国でもなかった。」と評したが、「神聖ローマ帝国」という称号を初めて用いたのは13世紀半ばに神聖ローマ皇帝コンラート4世と対立したホラント伯ヴィルヘルムであった。当時のドイツ地域の政情はいかなるものであったか、特に叙任権闘争終結以降のドイツとイタリアの関係について言及しつつ答えなさい。また、ドイツにおける13世紀半ばの政情混乱が最終的にどのように解決されたのかについても述べなさい。(400字以内)

 

 

Ⅱ 次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

 

 上の文章はドイツの哲学者カントが啓蒙について語った一節である。18世紀の西ヨーロッパで興り、合理的な世界観で人間性の解放を目指した啓蒙思想はその後のヨーロッパの政治や文化に大きな影響を与えるが、この啓蒙思想が起こった背景とその展開、また啓蒙思想がヨーロッパの政治と文化に与えた影響について述べなさい。(400字以内)

 

 

Ⅲ 次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

王妃の居住する王宮の一角には、おおよそ20人から25人程度の日本人が詰め掛けていた。彼らは奇妙なガウンを羽織っており、サーベルで武装していた。そのうち何人かはサーベルを鞘から抜いていた。複数の日本人兵士が宮殿のあちこちを捜索し、他の者は女王の居住区域になだれ込み、その場で見つけた女たちに襲い掛かっていた。私は日本人が王妃の居住区域で物をひっくり返したりしているのを観察し続けた。二人の日本人が女官たちの一人つかんで建物から引きずり出し、そして彼女を引っ張って階段を駆け下りたまた、日本人のうち一人は、私に向かって、英語で『王妃はどこだ? 答えろ!』と繰り返し聞いてきた。私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が日本人兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。

 

 上の文章は、日清戦争の終結した年の末に朝鮮で発生した「乙巳事変」という政変の様子を宮殿の警護に当たっていた「侍衛隊」と呼ばれる近衛隊とともにいたロシア人御用技師サバチンが語ったものである。朝鮮では1860年代以降、度重なる権力闘争に外国勢力が介入した結果、この事件で暗殺された「王妃」とこれに対抗する勢力が形成された。1890年代における「王妃側の勢力」と「王妃に対抗する勢力」がどのように形成されたのかについて、諸外国との関係に考慮しつつ述べなさい(400字以内)

 

[問題作成の基準]

 これらの問題を、何を基準に作ったかがわからないと意味があるのかないのか不明だと思いますので、問題を作った基準を示しておきます。

 (大問1)

  :やはり、一橋の予想問題ですからオーソドックスに神聖ローマ帝国史、中でも金印勅書についての問題がまだ出ていないんですよね。といっても、金印勅書ではさすがに作りづらいのではないかな~、と思います。世界史の教科書レベルですと他に関連情報があんまりないんですよ。正直、東大や一橋受ける人たちに金印勅書なんて出したらみんな解いちゃうでしょ。ですから、その前後のドイツ国内の情勢と国際関係を含めた少し大きな枠組みで出題してみたのがこれです。正直、15分で作ったので設問としても粗いですが、この時期の神聖ローマ帝国史の復習がてら見ておくのもいいかなと思いました。

   実際に出たのは聖トマスとアリストテレスの都市国家論比較ということで、「なんじゃこりゃ!」ということになりましたが、これでは多分どこの予想問題も当たらないですねw 問題自体もそれほど無理のあるものでは無かったので、予想を外してもある程度は解けてたみたいでほっとしてますw

 

 (大問2)

  :大問2は啓蒙ですよ!啓蒙!これはもう、正直鉄板じゃないかなぁと思っています。まだしばらくの間は出題されてもおかしくないテーマですね。出題傾向のところでも書きましたが、啓蒙とか宗教的寛容、場合によると理神論あたりなんかは一橋好きそうだなぁと個人的には思っています。最近出題されていたフランス革命がらみの出題も、正直啓蒙の延長線上としてとらえておりますので。エンゲルスなんか見ても、思想史系好きなのかなぁと。今後の一橋はこうした宗教を含む思想史系の出題と、アメリカが絡んでくる国際関係氏の大きくわけて二つのジャンルが出やすいのかなぁと思っているんです。

   そんな中、「だったらもう啓蒙全部復習させちゃおうw」というので作ったのがこの問題です。実際には出ませんでしたが、でも「宗教」が絡んでいる(ユグノーとか、ポーランド系カトリックとか)ことと、「啓蒙」が絡んでいること(フリードリヒ2世と宗教的寛容とかまんまですね)、あとは時期もほぼドンピシャでしたので、これはまぁ、アリかなって思いましたw

 

 (大問3)

   これは朝鮮近現代史ですね。やはり、一橋はこのあたり好きで狙ってくるんじゃないかなと思ってたんですが、冬休みの段階で朝鮮近現代史の完成度がもう一つ、という状況でしたので、これも練習のつもりで作ってみた問題です。同じく、実際にはこれまでの流れを打ち破って戦後史を一橋が出してきたせいで外れてしまいましたが、朝鮮と近現代史に意識が向いていたおかげでさすがに朝鮮戦争はそこそこ書けたみたいです。大問3は大枠は変えずにちょっと目先をかえた予想をたてたほうが良さそうですね。

 

【解 答】

ヴォルムス協約以降も皇帝によるイタリア政策は続き、特に北イタリアでは教皇党と皇帝党の争いを引き起こした。シュタウフェン家のフリードリヒ1世が皇帝となると、度々イタリア遠征を行ったが、ミラノを盟主とするロンバルディア同盟はレニャーノの戦いでこれを撃破した。しかし、シュタウフェン家の支配は次第に両シチリア王国にもおよび、フリードリヒ2世の時代には十字軍において条件付きながらイェルサレムを奪回し、パレルモを中心に文化的にも繁栄するなど帝国の勢力を拡大した。13世紀半ばにフリードリヒが死ぬとドイツでは大空位時代と呼ばれる皇帝不在の混乱期を迎え、これによりシュタウフェン家の所領であった両シチリア王国をフランスのアンジュー家に奪われるなど国力を衰退させたが、14世紀にはカール4世の金印勅書により7人の選帝侯が皇帝を選出することが決められて、皇帝選出をめぐる混乱は収まる一方、帝国の分権的体制は固定化された。

 

【論述のポイント】

  「ドイツの政情=大空位時代」であることを把握すること

  「叙任権闘争終結~大空位時代=シュタウフェン朝を中心とするイタリア政策の時代」であることを確認すること

  金印勅書の意義について言及すること

 

【採点ポイント】

  フリードリヒ1世もしくはシュタウフェン家によるイタリア政策

  ゲルフ(教皇党)とギベリン(皇帝党)

  ロンバルディア同盟

  ロンバルディア同盟がミラノを中心とする北イタリア諸都市によって結成されたこと

  レニャーノの戦い

  フリードリヒ2世もしくはシュタウフェン家が両シチリア王国に進出したこと

  フリードリヒ2世が第6回十字軍においてイェルサレムを奪回したこと

  パレルモもしくはナポリの繁栄(他にイスラーム・ギリシア文献の翻訳など)

  大空位時代

  ルドルフ1世もしくはハプスブルク家による神聖ローマ皇帝即位(1273年)

  シチリアをアンジュー家(またはシャルル=ダンジュー)に奪われたこと

  金印勅書

  金印勅書の内容と意義

 

以上をポイントに全体的なバランスを考慮することになる。

 

 

 

 

II

17世紀の科学革命により封建社会の中におけるキリスト教的世界観が動揺し、18世紀には人間・社会・国家のあり方を合理的に見直す啓蒙思想が現れた。ブルジョワが台頭したフランスで特に先駆的な動きが見られ、モンテスキューの三権分立などの国家論やルソーの社会契約説などが後のフランス革命に影響した。啓蒙思想は各国の君主と交流を持ったヴォルテールの活躍により東ヨーロッパにももたらされたが、地主貴族の力が強く、市民が十分に成長していなかった普・墺・露などでは、君主が自ら貴族・教会の力を抑え、近代化と国家権力の絶対化を進める啓蒙専制君主が現れ、フリードリヒ2世やエカチェリーナ2世らが啓蒙思想を利用した。啓蒙思想は政治面以外でも既存の価値観を打ち破る方向で働き、百科全書派の活動などに見られる世界観の世俗化や封建社会の矛盾をついて自由放任を主張するケネーなどの重農主義や、その後の古典派経済学の成立などへつながった。(400字)

 

【論述のポイント】

① 啓蒙思想成立の背景

② 啓蒙思想の特徴

③ 啓蒙思想の政治への影響

④ 啓蒙思想の文化への影響

 

【採点ポイント】

① 17世紀科学革命が合理的考え方を醸成したこと

② イギリス経験論・大陸合理論なども合理的考え方に寄与したこと(①または②で良い)

③ 啓蒙思想が人間の理性を重視し、個人・合理性・未来への前進などを志向したこと

④ ③から、啓蒙思想が既存の特権や教会等の権威を否定する傾向を持ったこと

⑤ 背景としてのブルジョワ階層の台頭

⑥ 啓蒙思想の政治的影響1:フランス革命に大きく影響したこと

⑦ 啓蒙思想の政治的影響2:啓蒙専制君主を出現させたこと

⑧ 啓蒙思想の具体例の適切な使用と例示

  モンテスキュー・ルソー:国家論、社会契約説

  ヴォルテール:フランスの後進性の指摘、宗教的寛容論など

  百科全書派(ディドロ・ダランベールなど):既存の価値観、キリスト教的世界観の打破

  重農主義(ケネーなど):国家による経済介入に対する否定的見解、自由放任(レッセ=フェール)

             →アダム=スミスの古典派経済学への継承

⑨ 啓蒙専制君主の出現した地域、西欧との差異、具体例

 

以上をポイントに全体のバランスを考慮する。

文化に与えた影響としては他に教育論、教育制度の発達と世俗化などを挙げることもできる。

また、啓蒙思想に対する反動として、19世紀初めごろから人間の感情・集団への帰属・過去の回顧を強調するロマン主義が生じ、ドイツの歴史主義・歴史学派などへとつながることになる。

鎖国攘夷政策を展開していた大院君が、1870年代に閔妃の一族に実権を奪われると、閔氏は当初開国・親日政策を採用して、江華島事件を機に日本と日朝修好条規を結んだ後は積極的な開化政策を行い、軍備の近代化を図ったが、新式軍隊に対して放置された旧式軍隊が不満を募らせたことや、開国による経済混乱から兵士への賃金未払いが生じた結果、壬午軍乱が発生した。これ以降閔氏は政権安定のために清と接近する事大主義をとり保守化へと転じたが、これに不満を持った金玉均などの開化派は日本に接近し、清朝からの独立や身分制度の廃止などの近代化を目指し、甲申政変を起こしたが清によって鎮圧された。事大党と開化派(独立党)の争いは日清戦争を引き起こした。日本が清を破ったことで1894年には開化派政権が誕生し甲午改革が行われたが、その後ロシアが朝鮮問題に介入してその影響力が強まって改革が弱まると、これに不満を感じた一派は乙巳事変を起こして閔妃を暗殺した。(400字)

 

【論述のポイント】

① 1860年代以降形成された「王妃側の勢力」について詳述すること

② 1890年代に「王妃に対抗する勢力」がどのように形成されたかについて詳述すること

③ 諸外国の影響が朝鮮国内の政治にどのように影響したのかについて言及すること

 

【採点ポイント】

① 1890年代時点における王妃側の勢力=閔妃(事大党)であることを示す

② 事大党の政治的立場について示す

③ 1890年当時の王妃に対抗する勢力=開化派(独立党)であることを示す

④ 開化派の政治的主張(清朝からの独立、身分制度の廃止、税制改革、議会制の導入)などを示す

⑤ 開化派の代表的人物(金玉均、朴泳孝など)を挙げる

⑥ 大院君と閔氏政権の違いについて示す(鎖国攘夷 / 開国親日)

⑦ 閔氏政権の変化について示す(開国親日 → 事大主義[親清・保守化]

⑧ 壬午軍乱について示す

⑨ 甲申事変について示す

⑩ 日清の対立と日清戦争について示す

⑪ 日清戦争後のロシアの影響力増大について示す

 

以上をポイントに全体のバランスを考慮する。

 
 

 

 

 

 

 

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