世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

各校の過去問対策、受験対策のほか、世界史を理解する上で役に立つ視点や勉強法についての情報を随時更新していきます。

以下のような方はとくにオススメ!

・東大、一橋などの国公立や早稲田、慶応の受験を世界史で考えている。
・論述対策を進めたい。
・教科書やプリントだと不足している情報が多すぎて、背景にあるつながりが見えない。
・『詳説世界史』などを読むだけでは気づけない、専門的な歴史的視点を養いたい。
・世界史を覚えるのが苦手で、どうやって勉強したらよいのかわからない。
・世界史の教員になりたてだが、西洋史が専門ではないので少し突っ込んだ知見を知りたい。

※ 目標に向けて頑張る受験生の皆さんの一助になればと思って頑張って更新し、情報もチェックしておりますが、人間ですのでミスなどが出ることもあります。当サイトの情報をご利用の際はあくまでも自己責任でお願いいたします。

※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw また、大手予備校のHPからも閲覧できるかと思います。正規の問題が手元にあった方がわかりやすいと思います。



 今回は、中国儒学史について簡単にまとめてみようかと思う。一見するとさして重要ではないように思えるテーマだが、アジア思想史については東大ではたびたび出題されている。たとえば、東京大学1987年第2問のA「宋学(朱子学)が正統学派としてその後の中国の諸王朝や近隣諸国で受容された理由」や2010年第2問、問(1)-(a)「前漢半ばに儒学が他の思想から抜きんでた存在となった理由」などである(2003年の第2問にも朱熹を答えさせてその後の宋学の影響を答えさせる問題がある)。文化史の一部として出てくることが多く、東大でもその出題は宋学に集中していることからあまり儒学について古代から通してまとめようとする人はいないように思うので、ごく簡単にまとめておきたい。

 

[儒学史]

 

(春秋・戦国)

・孔子による儒学創始

:周代の政治の理想化、道徳(孝・悌)、礼、仁の重視

・孟子(性善説)、荀子(性悪説)による発展

 

(秦)

・始皇帝による焚書・坑儒[BC213212]

→儒教を伝える者や文書が一部離散

 

(漢)

[前漢] 武帝期

・董仲舒の献策で儒学官学化、統治理念として採用

・五経(詩経・書経・易経・礼記・春秋)と五経博士の設置

 

[後漢] 光武帝による保護・奨励

・国教化にともなう教義の固定化

・春秋左氏伝の発見と訓詁学の発展

:それまでの口伝である春秋公羊伝に対して秦以前の古代文字で書かれた左氏伝が発見され、以降古典の字句解釈を行う訓詁学が発展(訓詁学は後漢の馬融、鄭玄が大成)

 

(魏晋南北朝)

・漢の崩壊で儒学の権威失墜

→かわりに老荘思想が流行(清談・竹林の七賢)

 

(隋)

・九品中正を廃して科挙が整備される

 

(唐)

・太宗の指示で訓詁学の整理

孔穎達『五経正義』:解釈の統一

 -顔師古:五経の定本作成

  →儒学思想の固定化と思想的停滞

 

(唐代中期以降)

・古文復興運動[韓愈・柳宗元]

:門閥貴族に対抗する新興の科挙官僚が主導

・一方で、仏教や老荘思想を導入した古典の再解釈

→宋学の始まり

 

(宋代)

[北宋]

周敦頤『大極図説』

:宇宙の生成~士大夫の道徳までの論理体系

程顥・程頤

 

[南宋

異民族の圧迫(金・元)

→朱熹による朱子学の大成

「理気二元論」、「性即理」、『四書』の重視

(四書:論語・孟子・大学・中庸)

君臣の別・長幼の序・華夷の別・男尊女卑・大義名分論

 

(元)  

・科挙の廃止(1313 復活)

:モンゴル人第一主義・色目人の重用

 

(明)

・朱子学の官学化

→永楽帝の『四書大全』・『五経大全』編纂(解釈の固定化)

・陽明学の成立

:王陽明(王守仁)がはじめる

「致良知」(良心を磨く)

「知行合一(行いを一致させる)

「心即理」

・明末における宋学の観念論化と陽明学の行動主義

 →一時衰退

・考証学(古典の実証研究)の発展 「経世致用の学」

:黄宗羲・顧炎武など(明末)

 

(清)

・満漢偶数官制、科挙実施

・『古今図書集成』(康熙帝)、『四庫全書』(乾隆帝)編纂

・一方で文字の獄(思想・出版統制)

 →考証学が古典の字句解釈に没頭、経世致用の精神を喪失

・清末に公羊学派が孔子を社会改革者として再評価

 →清末の改革運動に影響(魏源・康有為など)

 

(アジア)

[朝鮮王朝(李朝)]

小中華思想・朱子学官学化・科挙導入・両班

[黎朝(ヴェトナム)]

科挙導入

[日本]

尊王論、『神皇正統記』北畠親房

明清交代期に明の学者が亡命

→江戸幕府へ

-湯島昌平坂学問所

-寛永異学の禁(松平定信)…官学化


(ヨーロッパ)
・ヴォルテール、ライプニッツなど 

 
 本当は理気二元論をはじめ、ポイントとなる思想について焦点をあてて詳述して世界史というよりはむしろ倫理にしたかったのですが、新学期が始まったこともあってめちゃくちゃ忙しいことと、東大と東京外語の過去問分析をまとめている最中で正直時間がありませんw リクエストなどあればそのうち加筆していきたいと思いますが、とりあえず今日は簡潔に箇条書きしたものでとどめておきます。 

 トルキスタン史というものは常に受験生の悩みの種であるようだ。そもそも、高校生の段階で「トルキスタン」というものを理論的かつ感覚的に理解できるとしたら、それはかなり熟練の学習マニアか、熱狂的なトルキスタンオタクか、親戚がトルキスタンの出身かだ。これは別に、高校生を侮って言っているのではない。人間の「理解」にはまず知識として体得する「知る」という段階と、その知識をイメージし、感覚として染み込ませる「実感」する段階があるわけだが、一般的な高校生がこうした実感をともなってトルキスタンを理解するには、あまりにも時間が足りなすぎるし、身近でもない。現に、私が高校の頃はトルキスタンとは何かと問われた時、正確なことを1語る間にウソや見当はずれのことを5つは語ったかもしれない。いや、そもそも「トルキスタンを正確に理解せねばならない」などとは思ってもみなかっただろう。

 

 しかし、志望校として東大を目指すものにはそれが求められる。なぜなら、東大は近年明確にユーラシアという領域を意識しているからだ。ユーラシアを意識してその中央に位置する中央アジア、トルキスタンが問題にならないなどということがあるだろうか。誠に不条理な世の中である。だが、ある一定のレベルを超えて正しく必要な情報を整理してインプットすることができれば、比較的早期にこの実感をともなうレベルの理解をすることも十分に可能だ。そこで、今回はトルキスタンとその歴史をある程度イメージとして保持できるようなトルキスタン史の整理を、世界史の枠組みの中で行ってみたいと思う。

 

[トルキスタン史1:トルキスタンの地理的理解]

 

 トルキスタンのような日常我々がなじみのない地域についてのイメージを確固たるものにする手段として有効な方法が二つある。それは、

 

・正確な地理情報を把握する

・その土地の風土、風俗についての追加情報を得る(映像が望ましい)

 

この二つである。世界史についての理解がもう一つ進まない場合、この手の地理情報がきちんと把握できていないことが多い。具体的な例をあげるのであれば、イリ事件でいうイリ地方とはどこか、沿海州とはどこか、ホラーサーンとはどのあたりか、ライン川はどこを流れているか…etc.

 

 そこで、まずはトルキスタンとはどこかということを漠然とでもよいので把握しておきたい。もちろん、トルキスタンという用語は歴史的なものでもあるため、時代によりその意味するところや地理的な範囲も異なるが、おおよそのイメージを示しておこう。

スライド4
 

http://www.silkroad-caravan.net/coa.history.htmlより引用、一部改変)

 

上の地図は中央アジアの地図を示したものであるが、このうち現在の新疆ウイグル自治区にあたる部分の東トルキスタンと、そこから西、アラル海とカスピ海に至る西トルキスタンがトルキスタンと呼ばれる地域である。この地図自体がややアバウトなものであるし、一枚だけではイメージしきれない部分もあるだろうから、さらに別の角度から見てみたい。


1

 

Wikipedia「トルキスタン」より引用、一部改変)

 

 上の図にあるように、黄色の部分が新疆ウイグル自治区、すなわち東トルキスタンである。東西トルキスタンの間にある緑の矢印が示しているのはパミール高原で、この高原が東西トルキスタンを分ける一つの目印になる。このあたり一帯はいわゆるシルクロードの通る道としても有名なわけだが、それではこの東西トルキスタンをシルクロードという視点から把握しようとするとどうなるのか、別の地図で確認してみよう。
 

 スライド6

https://twitter.com/HistoryMinstrelより引用)

 

上の地図中央にパミール高原があるので、その東、「タリム盆地」というのが東トルキスタンとほぼ同じ地域であることが確認できると思う。このタリム盆地の大部分はタクラマカン砂漠と呼ばれる砂漠地帯であり、この地域がよくシルクロードに関する設問で出てくるオアシス都市が点在する地域だ。


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Wikipedia「タリム盆地」より引用)

 

タリム盆地の南北には天山山脈と崑崙山脈があり、このうち天山山脈のふもとを南北に通るのが天山北路と天山南路、崑崙山脈の北側を通るのが西域南道である。


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http://www.club-t.com/kansai/special/abroad/silk-road/spot.htmより引用)

 

上の地図を見ると、中央のタクラマカン砂漠にいたる中国側の入り口が敦煌、パミール高原をまたいで西トルキスタン川の入り口がサマルカンドになっていることがわかると思う。このように、様々な方面から地理的情報を把握すると、無味乾燥な「敦煌」、「サマルカンド」「天山南路」などの用語は生きた知識として自身の身体に定着してくる。

 

[トルキスタン史2:トルキスタンの歴史的形成]

 

 これまで紹介した地域がなぜトルキスタンと呼ばれるのかといえば、この地域にテュルク系民族が移住し、いわゆる「トルコ化」が進んだためである。トルキスタンとはすなわち、トルコ人(テュルク人)の住む土地を指すわけだが、このトルコ人たちは、元々はシベリア方面に居住していたモンゴロイドであったらしい。これが、9世紀頃からのトルコ系民族であるウイグルの移住と定住によって現在のトルキスタン周辺に住みつき、イラン系ソグド人などとの混血を進めた結果、現在のような形になっていったとされる。下の地図は現在のテュルク系民族の分布を示したものである。

 

 スライド1

Wikipedia「テュルク系民族」より引用、一部改変)

 

こうしたテュルク系民族はかなり早い時期から歴史の中に登場してくる。中国の文献資料上に登場する丁零(紀元前3世紀頃)とか高車(5世紀頃)、鉄勒(6世紀頃)などはこのルーツである。この頃のトルコ系民族は隣接するモンゴル系民族の匈奴や柔然に従属する弱小民族でしかなかった。

 

 スライド2

Wikipedia「丁零」より引用、一部改変)

スライド3
 

Wikipedia「高車」より引用、一部改変)

  

 しかし、こうしたテュルク系民族は6世紀の突厥の出現によってモンゴル高原の覇者としての地位を築き上げる。突厥は、柔然を滅ぼして建国し、さらにササン朝と結んで中央アジアに存在したエフタルを挟撃して滅ぼして強大化するのである。そのご突厥は東西に分裂の上、東に起こった唐に圧迫されたために次第に衰退するが、この突厥にかわって起こったウイグルも同じくトルコ系民族であった。

 

 だが、突厥やウイグルは基本的に遊牧民族であり、決まった土地に定住するということはなくその活動域もモンゴル高原が主であったため、その広大な支配域に現在で言うトルキスタンが含まれていたにしても、この地域が「トルコ化」されることはなかった。状況に変化が生まれるのはこのウイグルが同じくトルコ系のキルギスによって滅ぼされてからである。モンゴル高原を追われたウイグルは西へと逃れ、9世紀頃に現在のトルキスタン方面に定住した。その結果、それまで同地で交易の民として暮らしていたイラン系ソグド人との混血を繰り返す中で同地が次第にトルコ化されていき、現在のトルキスタンの原型が形成されていったのである(ソグド人はトルコ人と同化する中で民族としての独自性を失い、消滅していく)。

 
スライド11
 

(ソグド人はソグディアナ[またはトランスオクシアナ]と呼ばれる上の赤い地域を中心に活動していた。地図はWikipedia「ソグディアナ」より引用。)

 

 そして、このようにトルコ化が進んだ中央アジアにはもう一つの大きな変化が進行していた。それが同地域のイスラーム化である。すでに同地域には8世紀頃からアラブ人たちが侵入し始め、東方の唐との間でタラス河畔の戦い(751)を戦うなどしていたが、本格的に同地の支配を始めるのはイラン系サーマーン朝の頃からである。サーマーン朝は支配したトルコ人を奴隷軍人として活用し始める。これがマムルークである(実際には、マムルーク自体はすでにアッバース朝期から存在した)。テュルク系民族(トルコ人)と境を接するサーマーン朝はさかんにマムルークを導入し、マムルークはイスラーム世界に定着していったが、一方でこうしたマムルークか軍事的に力を持ち始めると支配者であるイラン系のサーマーン朝に対抗しうる力を有するようになった。その結果、中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝であるカラ=ハン朝の成立を見ることになり、これ以降トルキスタンにおいてはトルコ化とイスラーム化が促進されることになる。

 

[トルキスタン史3:中国史から見たトルキスタン]
 

それでは、トルキスタンとは何か、ということがある程度整理できたところで、高校世界史上で頻出の中国とトルキスタンとの関わりについて簡潔にその概要を示しておきたいと思う。


(前漢)

・武帝:匈奴遠征(タリム盆地獲得:住民はイラン系)

-天山南北路、西域南道(シルクロード・オアシスの道)

    →前漢末に西域都護設置


(後漢)

・班超:甘英を大秦国派遣(条支国[シリア?]止まり)


(魏晋南北朝)

・仏図澄、鳩摩羅什などが亀茲から来訪

 ・6世紀に突厥が強大化(552に柔然を滅ぼして建国)

  →隋の建国期に東西に分裂(583

   [東突厥]:唐に服属(7c)→自立(突厥第二帝国)→ウイグルにより滅亡(8c

    [西突厥]:唐に服属(657)→滅亡(8c)


(唐)

 ・羈縻政策[唐に限らず類似の政策は歴代王朝でも]

  :都護を中央から派遣し、在地の族長を都督・刺史に任命

(自治を許す間接統治策)

→六都護府設置

1、    安東(平壌)

2、    安南(ハノイ)

3、    安西(亀茲)

4、    安北(外モンゴル)

5、    単于(内モンゴル)

6、    北庭(新疆ウイグル自治区方面)

 ・8世紀にウイグルが東突厥を滅ぼして建国、唐とは同盟関係


(唐末)

・キルギスにより、ウイグル国家が滅亡

→ウイグル人[トルコ系]が現在のトルキスタンに移住

→ソグド人などのイラン系住民と混血(トルコ化)

   =トルキスタンの形成

・サーマーン朝の侵入

 →イスラーム化の進行


(宋)

 ・カラ=ハン朝:東西トルキスタンを支配した初のトルコ系王朝

 →トルキスタンのイスラーム化を促進

11世紀に東西に分裂

 (東は西遼、西はホラズムにより滅亡)

・カラ=キタイ(西遼:モンゴル系、仏教):遼の王族・耶律大石が建国

→ナイマンに滅ぼされる

→チンギス=ハンの征服(ホラズムに至る通り道である点に注目)

→トルキスタンは後にチャガタイ=ハン国の支配下に

(明)

・ティムール帝国の勃興

・ティムール衰退後

[トルキスタン西部] チャガタイ=ハン国の残存勢力が割拠
           →のちにウズベク人が台頭 

[トルキスタン東部] オイラートが勢力拡大

→エセン=ハンの時に土木の変[1449]:正統帝捕虜に

→エセン暗殺後に分裂・再統合

(ジュンガル部の形成[ガルダン=ハン]

[さらに東部(モンゴル)] タタールが勢力拡大

  

  ※ 上記のうち、オイラート・タタールが「北虜」となる


(清)

・乾隆帝によるジュンガル部平定[1758]

→藩部に編入して「新疆」、理藩院による支配

1871 イリ事件

[流れ]

  太平天国の乱[1851-64]に乗じて新疆でコーカンド=ハン国のヤクブ=ベクほかイスラーム勢力の反乱が発生

  太平天国鎮圧後に左宗棠を派遣、鎮圧後に直轄化

  混乱に乗じてロシアが出兵、イリ地方占領[1871]

  左宗棠による再占領(ロシアが露土戦争で身動きできないうちに)

→イリ条約(1881):事態の収拾[東西に分割]

 以前にイリ事件をテーマとした設問が出題されたことから高3向けに中国とトルキスタンとの関わり合いを考えるために作った授業をベースにトルキスタン史を概観してみたが、こうしたくくりだけでなく、「トルコ民族史」としてのトルキスタン史を考えることももちろん可能である。トルコ民族というくくりで考えた場合には、地域的にはトルキスタンからは外れるが、ガズナ朝や奴隷王朝(アフガン~北インド)、セルジューク朝、ホラズム朝(イラン・西アジア)、マムルーク朝(エジプトなど)などのイスラーム王朝が名前としてあがることになるだろう。その場合、まず中央アジア地域でイスラーム化したトルコ人勢力が各地に拡大していく過程としてとらえると全体像をより把握しやすくなるだろう。それについては別稿に譲ることにしたい。

 経済理論について、通り一遍の知識を身につけることはそれほど難しいことではない。レッセ=フェールといえばアダム=スミスだし、マルサスといえば『人口論』だ。だが、こうした経済学の流れや、そもそもなぜ種々の経済理論が生み出されては消えていったのかを理解することはなかなかに難しい。そこで、今回は特に近世以降のヨーロッパ経済の発展とともに変化してきた経済理論について簡単にまとめてみよう。

 

16世紀~18世紀)

 ・重商主義

-重金主義:スペイン・ポルトガル

-貿易差額主義:コルベール(仏)、クロムウェル(英)

(-産業保護主義:コルベール、ジョン=ケアリ[英・キャリコ論争]

 

18世紀後半)

・重農主義…ケネー・テュルゴー(仏)

:重商主義のような国家による経済介入を批判

「レッセ=フェール」による自由放任主義を唱える

 -ケネー(仏)『経済表』

 -テュルゴー(仏)

  ・古典派経済学(自由主義経済学)

:重農主義の自由放任主義を継承、近代資本主義の発達

-アダム=スミス(『諸国民の富』、レッセ=フェールの継承、労働価値説)

-リカード

(労働価値説、19世紀英自由貿易主義、『経済学および課税の原理』)

-マルサス(『人口論』)

JSミル(功利主義)

                

19世紀~、ドイツ)

・歴史学派経済学

:経済を発達段階的に理解する

経済後進国における保護貿易主義を説く

-リスト:ドイツ関税同盟(1834

 

19世紀後半~)

・マルクス経済学

:資本家による労働者搾取批判

 労働価値説の批判的継承による「剰余価値説」

-マルクス『資本論』

20世紀)

・修正資本主義

:国家による経済介入を肯定

-ケインズ:ニューディール政策

      『雇用、利子および貨幣の一般理論』

 

 ここがポイント

 

近代的な経済学が発展するのは16世紀に入ってからだが、これはいわゆる大航海時代(または大交易時代)の始まりと軌を一にしている。その萌芽はすでに15世紀イタリアにも見られるのだが、16世紀以降、商業革命が起こってからの交易はその規模が圧倒的に異なる。いずれにせよ、これ以降の近代経済学の発展は、それぞれの国が直面した経済状況に応じて変化してきた。新大陸の鉱山経営を進めてヨーロッパやアジアに莫大な銀をもたらしたスペインやポルトガルにおいて重金主義という考え方が生まれたことはその典型である。

 

 ところで、貴金属こそが国富であり、この国外流出を防ぐことが経済的繁栄をもたらすという考え方を重金主義であるとするなら、同じく16世紀のイギリスのトマス=グレシャムなどもこれに含めることができる。彼は王室財務顧問としてエドワード6世期からエリザベス1世期にかけて王室債務の軽減に尽力した人物だが、彼の「悪化は良貨を駆逐する」という考え方がどうも受験生には苦手らしい。簡単に説明すると、「悪化(品位の低い貨幣)と良貨(品位の高い)貨幣を比較したとき、人は通常良貨を退蔵して悪化を取引に用いるため、取引市場においては、良貨は姿を消し悪貨のみが流通することになる」ということを言っている。具体的に説明してみよう。たとえば、下は江戸時代に流通した小判であり、さらに表は2013年の慶應義塾大学経済学部の日本史で出題された江戸期の小判の金の含有量を示したものである。


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http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/A017c.htm

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 http://blog.livedoor.jp/otakarajoho/archives/6607231.html
 

 さて、仮にこれらの小判の額面が全て「1両」であったとして、同じ時期に流通したとしよう。金・銀・銅などの中で「金」が最も価値を持つと考えられるとした場合に、みなさんは取引の際に「慶長小判」と「元禄小判」のどちらを使うだろうか。多くの人は、「同じ1両として通用するなら、慶長小判の方が金をたくさん含んでいるからこれはタンスにでもしまっておいて、取引には金があまり含まれていない元禄小判を使おう」と考えるはずだ。これが続けば、実際の流通貨幣からは「良貨(慶長小判)」は駆逐され、「悪貨(元禄小判)」のみが取引で用いられるようになる。これがグレシャムの法則の基本的な考え方であり、かれはこの考え方に基づいてイギリスの通貨価値の是正を進言して王室財政の立て直しに成功する。このような考え方は基本的に「通貨それ自体」に価値がある場合に当てはまるものであり、通貨自体の価値(紙)が額面上の価値におよばない現在の信用貨幣の場合には当てはまらない。

 

 さて、話を戻すと、こうした重金主義の後に出てくるのが貿易差額主義である。17世紀に入って英・蘭・仏はそれぞれ東インド会社を設立して海外交易に乗り出すが、当初海外交易の覇権をにぎったのはオランダであった。これには、それぞれの会社の質も関係している。英・仏の東インド会社が当初は王室からの特許によって成立した一部の特権商人の集団であったにすぎなかったのに対し、商人貴族(レヘント)が国政を牛耳るオランダでは当初から国家的な後押しを期待することができた。フランスの東インド会社は15年の有限の特許状によるもので間もなく消滅してしまう(後にコルベールによって再建される[1664])。また、イギリスの東インド会社はジョイント=ストック=カンパニーと呼ばれる形態の会社で、各商人が無限責任を負って投資し、その投資した資金によって会社組織(施設、従業員など)を維持するというものであったのに対し、オランダの東インド会社は株式会社であった。要は、組織面や資金力において当初からオランダの方が強力だったのである。

 

こうした状況に変化が生まれるのはオリヴァー=クロムウェルが政権を担当するようになってからだ。航海法でよく知られるクロムウェルであるが、クロムウェル自身は航海法には反対だったようである。熱心なピューリタンとしてカトリックのアイルランド制圧などに乗り出し、同じくカトリック国フランスと対峙していたクロムウェルは、同じプロテスタント国家であるオランダと対立することにはあまり乗り気ではなかったらしい。むしろ、この航海法制定をクロムウェルに迫った(もしくは懇請した)のは議会の側だった。そして、その議会を構成する貴族やジェントリの多くは航海法による取引の拡大に少なからぬ利害関係を有していたのである。[Barry Coward, The Stuart Age : England 1603-1714 Third Edition (London: Longman, 2003) ほか]

アジア交易や大西洋交易が発展するに従い、輸出は良く、輸入は国富の流出につながるから良くないとする貿易差額主義が重金主義にかわってあらわれる。また、輸出を促進するための国内産業の育成が図られる中で、産業保護主義が唱えられるようになるのである(コルベールによるゴブラン織りの王立マニュファクチュア設立など)。

 

 一方、18世紀になるとフランスでは重農主義が、イギリスでは古典派経済学が出現する。実はこの二つの経済理論は密接に関連している、いやもしかすると発展の仕方こそ違えど本質的には同じものであったかもしれない。重農主義は、重商主義に対する批判の中で生まれてきた経済理論である。『経済表』を著したケネーは特に以下の点を経済発展の阻害要因として批判した。

 

 ・絶対王政の重商主義政策による一部特権商人の保護

 ・強力な地主の存在と過剰な統制による経済活動(流通など)の鈍化

 

要は、強大な権力が一部の特権を有するものに便宜を図ることで物価の上昇を招いたり新規参入の商人が現われなくなるなどの経済活動の萎縮が起こり、さらにこれが地方レベルにおいては地主権力による過剰な課税や関税徴収などの搾取により、経済発展を阻害すると言っているのだ。こうした考え方はイギリスの自由貿易主義とか、もっと乱暴に言ってしまえば楽市楽座の発想にも共通するものがある。しかし、当時は絶対王政下のフランスだ。経済が発展しないのは「あんたのせいだ!」と王室や貴族・聖職者連中に言ったところでまともに聞いてもらえないのはわかっている。そこでケネーは社会を地主・生産者(農民)・非生産者(商人)に大まかに区分し、「富の源泉は農業にある」と唱えてその富を最大効率で配分するために、「交易の自由化」や「関税の廃止」などによる経済の自由化(レッセ=フェール)を主張したのである。

 

 そして、この重農主義のレッセ=フェールを継承したのが古典派経済学であった。古典派経済学は産業革命による資本主義の発達に対応するために発展した経済理論である。アダム=スミスはケネーの重農主義を継承しつつ、国家の富の源泉を農業ではなく農地や設備に投下された労働にあると考えた。つまり、「どれだけ働いてものを作りだしたか」がそのものの価値を決めると考えたのである(労働価値説)。またスミスは、重農主義者のレッセ=フェールを発展させて、「個人が自由な市場において個々の利益を最大限にしようと経済活動を行う場合、最終的に全体としては最適な富の配分が達成される」という「見えざる手」を想定し、『国富論』の中で紹介した。

 

こうした考え方は、18世紀後半から19世紀初頭において展開するイギリスの自由貿易主義ともマッチするものであった。ここで、なぜこの時期にイギリスでは自由貿易主義が台頭してくるのかというその社会経済的背景について解説しておかなくてはならない。受験生はあまり把握していないことが多いのだが、この時代に台頭してくるのは「産業資本家」であって、「地主」や「東インド会社」はむしろこうした「産業資本家」とはその利害において対立関係にある。単純に図示すると下のような状態である。


貴族・地主・産業資本家
 

 

 単純に「支配層」と言っても一様ではなく、その中での対立が国の方針や政策に影響を与えることはある。こうした諸階層の対立や、18世紀イギリスの自由貿易主義などは商業・経済系の大学などでもたびたび出題される個所である(2012年一橋大学「世界史」大問32015年慶応経済学部「世界史」大問2の問6「キャリコ論争」など)。直接の因果関係があるとまでは言わないが、1832年に第1回選挙法改正があった翌年の1833年に東インド会社の諸特権(中国貿易独占権など)が廃止されることは印象的である。こうした19世紀の自由貿易主義を支えた古典派経済学はアダム=スミスの労働価値説を大成したリカードにおいて頂点に達した。ところが、古典派経済学は次第にその説得力を失っていく。新たに成立した資本主義経済下で定期的に発生する恐慌や、大規模な失業問題に対処することができなかったからである。

 

 その結果、世界には資本主義を前提とする古典派経済学を基礎としながらも、あらたな理論が各国の経済状況などに応じて考え出されていく。ナショナリズムが高揚する後発国ドイツにおいては、歴史学的に経済を考察した結果発展段階論にたどり着く。原始的未開→牧畜→農業→農工業→農工商業というように国家が段階的に発展すると考えたのである。もしそうであるとすれば、すでに高度に商業化されたイギリスと同様に後発国であるドイツが自由貿易を行った場合、イギリスの製品によってドイツ国内の産業が打撃を受けることは避けられない。ゆえに、リストはドイツが自国の産業を守るためには国内的には経済の自由化、対外的には関税政策を行うという保護貿易主義をとった。この考えに基づいて成立するのが1834年のドイツ関税同盟である。一方、資本主義の抱える矛盾を「資本家」と「労働者」間の階級闘争としてとらえ直し、共産主義を生み出したのがマルクスであり、その協力者エンゲルスであった。先に一橋の問題解説で示したように、共産主義においても発展段階説は継承されている。共産主義の理論は資本主義経済学と全く無関係に生まれたのではないということには注意が必要になるだろう。

 

 しかし、19世紀までの経済学は結局、20世紀に入ってからも経済の規模の拡大に十分に対応することができなかった。特に、1929年に始まる世界恐慌のような極端な需要と国際貿易の縮小の下では古典派経済学の言うようなレッセ=フェールでは対応できなかったのである。それまでの経済の常識に即して展開されたフーヴァー大統領の「なすにまかせよ」式の経済的無策と国内産業保護のための関税の引き上げはかえって世界貿易の縮小を促し、恐慌を拡大してしまう結果につながった。これを受けて、続くフランクリン=ローズヴェルトによる経済への積極的な国家介入政策であるニューディール政策がケインズの新たな修正資本主義経済学に基づき、展開されるのである。この後の第二次世界大戦後の新たな経済体制については後日執筆する金融史の方に譲りたいと思う。

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