世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

各校の過去問対策、受験対策のほか、世界史を理解する上で役に立つ視点や勉強法についての情報を随時更新していきます。

以下のような方はとくにオススメ!

・東大、一橋などの国公立や早稲田、慶応の受験を世界史で考えている。
・論述対策を進めたい。
・教科書やプリントだと不足している情報が多すぎて、背景にあるつながりが見えない。
・『詳説世界史』などを読むだけでは気づけない、専門的な歴史的視点を養いたい。
・世界史を覚えるのが苦手で、どうやって勉強したらよいのかわからない。
・世界史の教員になりたてだが、西洋史が専門ではないので少し突っ込んだ知見を知りたい。

※ 目標に向けて頑張る受験生の皆さんの一助になればと思って頑張って更新し、情報もチェックしておりますが、人間ですのでミスなどが出ることもあります。当サイトの情報をご利用の際はあくまでも自己責任でお願いいたします。

※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw また、大手予備校のHPからも閲覧できるかと思います。正規の問題が手元にあった方がわかりやすいと思います。


 ここ十数年ほどの間に、それまでは日本の歴史学者の間(あるいは、それに遅れて政治・経済学者の間)でもてはやされていたウォーラーステインの「世界システム論」が、次第に受験生のレベルにまで知識として降りてきている。これはやはり、東大の研究者がこうした世界システム論を消化した上で、大学受験の設問の中に一国史のレベルをこえて、複数の地域や政治的・経済的、文化的集団の関わり合いを見ることで生まれる、より広い歴史観を盛り込もうとしてきたことによる。東大入試の世界史に、いわゆる「海から見た歴史」であるとか、ユーラシア全体としての諸集団の交流などが出題されるようになったことは、まさにこうした問題意識からである。

 ところが、いざ教科書や参考書のレベルになると、その肝心の世界システム論とは何か、ということが意外に見えてこない。これは、この世界システム論が大阪大学のイギリス(経済)史家、川北稔によって紹介され、歴史家の間に広まり始めたのが1980年代と、比較的新しい理論であることから、十分な知識が高校教科書のレベルにまで還元されていなかったことによる。しかし、ここ十年ほどは受験生のあいだでも「近代世界システム」という言葉は特に東大を目指すトップクラスの受験生にとってはある意味常識のようなものになってきている。しかし、それでは「近代世界システムとは何か、説明せよ」と言われると、戸惑う向きも多いのではないだろうか。

 

 そこで、今回はこの近代世界システムについて簡単に概観するとともに、その世界システムに対する批判、検証などの中から新たに生まれてきた近年の(といっても、やはり登場から十数年ほどは経ているのだが)歴史理論についても簡単に触れておきたい。

 

[世界システム論]

 世界システム論とは、イマニュエル=ウォーラーステインによって提唱された、一つの国や地域をこえた広大な領域の中に存在する複数の文化体によって構築された分業体制である。そして、この分業体制はその基本的な原則として、中心(となる文化体)にその周辺の経済的余剰を移送するはたらき(システム)を有している。ところが、このシステムは複数の文化体によって構成され、統一的に全体を統括する政治機構を有していないため、中心と周辺の間に存在する不均衡を是正するような働きが生じることは少ない。そのため、このシステムは基本的に経済的不均衡を是正するよりはむしろ拡大する方向にはたらき、このシステムの中心に位置した文化体は「覇権(ヘゲモニー)」と称される他を圧倒する力(生産力・流通力・金融力)を有することになる。つまり、図示するとこのようなイメージである。 

近代世界システム図

 
 小難しく説明したが、この世界システムはまとめると以下のような特徴を持っている。

 

・中央、半周辺、周辺の3要素が存在し、これらが分業を行っている。

・この近代世界システムは16世紀に成立し、その後も原則としては継続している。

・中央は、周辺の経済的余剰を「不等価に」集中する(搾取する)

・ただし、周辺は必ずしも衰退せず、周辺も中央とともに発展するが、周辺の発展は中央のそれと比して「不均等」なもの(中央の方が大きく発展)であるため、このシステム中に存在する格差はむしろ拡大する。

・「覇権(ヘゲモニー)国家」となったのは歴史上、オランダ→イギリス→アメリカである。

・ヘゲモニーにおける優位は、生産、流通、金融の順に発展し、衰退する。

 

  近代世界システムの具体的な例としては、18世紀末から産業革命によって他を圧する生産力を持ったイギリスが、19世紀には世界金融の中心となり、その後一次大戦の負債によってその地位をアメリカウォール街に譲ったこと(または、さらにその後の二次大戦における武器のリースによって莫大な対英債権を獲得したアメリカが、それまでのポンドを基軸とする世界経済を、ブレトン=ウッズ体制と呼ばれるドル中心の経済へと変化させたこと)や、発展段階論的にいけばいつかは先進国との経済的格差が縮まるはずの発展途上国が依然として低開発地域としてとどめ置かれていることなどがあげられる。

 

  ところが、こうしたウォーラーステインの世界システム論は、様々な面からその問題点が指摘されてもいる。特に、ウォーラーステインの世界システム論が16世紀以降のヨーロッパに焦点をあてすぎているというその西洋中心主義に対する批判は根強い。こうした中で、ウォーラーステインの世界システム論、すなわち一国を超えたより広い枠組みでの複数地域の連関という基本のフレームは前提としながらも、それを異なる視点から見直そうという動きが近年の歴史学の中でうまれた。代表的なものにジャネット=アブー=ルゴドの「13世紀世界システム」と、アンドレ=グンター=フランクの『リオリエント』の中で明らかにされた世界の銀循環をもとにしたアジア中心論がある。

 

[13世紀世界システム]

 ウォーラーステインが、16世紀にはじまる近代世界システム以前の各地のシステムが、政治的統合をともなう「世界帝国」か政治的統合を伴わない「世界経済」のいずれか2種に大別され、最終的には消滅したと考えたのに対し、ルゴドは13世紀の時点ですでに世界の各地に「世界システム」は複数存在したと主張する。また、ルゴドは西洋の勃興は、西洋の内的な力によってなされたものではなく、むしろそれ以前に存在していた世界システムの崩壊に伴って初めて生じえたと論じた。下が、ルゴドの唱える13世紀世界システムの概念図である。(当然、このシステムにはモンゴルによるユーラシアの一体化が強く意識されている。)
 

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 (Wikipedia「ジャネット・アブー=ルゴド」より引用)

 

『リオリエント』

 

  一方、アンドレ=グンター=フランクはウォーラーステインの西洋中心史観に真っ向から対抗し、西洋が世界の中心たりえたのは最近のほんの数百年のことに過ぎず、それまでの世界はむしろアジア、特に中国が圧倒的な力を有していたことを、様々な交易データをもとにして論証しようとした。フランクは『リオリエント』日本語版の序文において明確にこう述べている。

 

  「本書が、その新しい知見として示そうとしているのは、世界経済におけるアジア、特に中国の優位性が、少なくとも1800年までは継続していたということである」(アンドレ=グンター=フランク著『リオリエント』山下範久訳、藤原書店、2000年、p.4.

 

A・G・フランクの議論の中でも、世界の銀が最終的に中国へと集中していくことを述べた第2章のくだりは非常に印象的である。以下は同書147ページに所収の地図「14001800年の主要な環地球交易ルート」であるが、これを見ると銀の流れる方向の向かう最終地が中国であることが見て取れる。

 

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もちろん、フランクの議論をそのまま鵜呑みにすることはできないし、細かな批判は数多く挙げられている。フランク自身がもともとは従属理論を研究していた経済学者であったし、かれの理論の前提とされている多くのデータは原典に拠った実証的な研究に基づいたものではなく、他者が行った諸研究に基づいた巨視的なものであるため、細かな反証をあげようと思えば数限りなくあげることができるからだ。書評の中にはこうしたフランクの理論の細かい穴をあげつらって彼の理論全体を批判した気になっているものもあるようだが、しかしそれでは彼が提唱している議論の本質、すなわち、ウォーラーステインの西洋中心史観の転換という点を見すごしてしまうことになるだろう。

 

[東大過去問との関連]

  ところで、東大の過去問を解き進めている受験生であれば、ウォーラーステインの世界システム論、ルゴドの13世紀世界システム、A・G・フランクの『リオリエント』などが、近年の東大の設問と非常高い親和性を有していることに気付くだろう。たとえば、オランダやイギリスのヘゲモニーをテーマとした出題は東大では頻出の問題だ。さすがにあまりに使い古された感があるので近年はすこし違う角度からの出題が多いものの、2008年東大の「1850年から70年代までに世界の諸地域がパクス=ブリタニカにどのように組み込まれたか」を問う設問や、2010年に出題された「オランダおよびオランダ系の人々の世界史的役割」を問う問題などはその典型といえる。また、ここ数年はユーラシアをテーマとした設問が続いている(東大2014年「19世紀ロシアの対外政策とユーラシア各地の国際情勢」や同じく2015年「13世紀から14世紀の日本からヨーロッパにいたる広域[ユーラシア]において見られた交流の諸相」)が、こうした出題からは明らかにルゴド的な広大な領域内における複数の政治体・経済体・文化体間の交流という視座を読み解くことができる。また、『リオリエント』日本版が刊行されて間もない2004年に東大で出題された「16世紀から18世紀における銀を中心とした世界経済の一体化の流れの概観」などは、かなりヨーロッパ的な要素を含んではいるものの、東アジアを中心とした銀経済圏を十分に意識した設問であったといえる。すでに一橋出題傾向紹介ていことではあるが、近年の歴史研究のトレンドや出題する研究者の専門などは、その大学の出題内容と無関係ではない。特に東大の場合、明らかに「世界史」の中で個別の事象がどのような意義を有したかという視点が常に問われている。今後も、高校生にとっては聞きなれない歴史理論であっても、その出題に影響を与えるようなものは出てくるだろう。(個人的には大陸も続いたし、羽田さんのお弟子さん筋がどうも東アフリカを中心とした港市国家間の交流みたいなことをやっていた気がするから、だんだん東アフリカからアラビアとかが出ても面白いかな~という気はしている。スワヒリ語とか、ザンジュとか、カーリミーとか、マリンディとか…。まだ高校教育の現場で浸透してないからあまりにも時期尚早なので出ない気もするが…。)単なる用語の暗記に留まらず、各種教科書、参考書、問題集、図説などの「コラム」のような場所にも目を通しておくとよいだろう。ああ、もちろん、当HP「世界史リンク工房」に隅から隅まで目を通すこともオススメしておくw

今回はイタリア史、中でも両シチリア王国とイタリア戦争に焦点をあててみたいと思います。中世イタリア史というと、よく出てくるのは叙任権闘争とか、ゲルフとギベリンとか、東方貿易とか、まぁ定番のところがよく出てくるわけですが、案外受験生の悩みの種になるのがこの「イタリア戦争」ってやつです。よく「イタリア戦争の頃から主権国家体制が成立し始めてウェストファリア条約で確立した」とか「イタリア戦争によってイタリア=ルネサンスが終焉を迎えた」とかその意義ばかりが強調されるのですが、その肝心の戦争までの背景やらがあんまり書いてないんですね。かといって、ネットでWikiipediaやらあちこち調べても今度は逆に詳しすぎたりしてどうも全体像が見えない。そこで今回は思い切って不要な情報をできるだけカットしてイタリア戦争の単純な理解のためのまとめを、イタリア戦争と同様に受験生を悩ませがちな両シチリア王国とセットにしてやってみたいと思います。

 

[10世紀以降のイタリア]

 

 ・神聖ローマ皇帝のイタリア政策

→教皇党(ゲルフ)vs皇帝党(ギベリン)

  cf.) シュタウフェン朝(フリードリヒ1世・2世)

 

[中世末期~ルネサンス期のイタリア]

 

 ・諸侯・都市国家の分立

(フィレンツェ・ミラノ・ヴェネツィア・ジェノヴァ・教皇領・ナポリ王国など)

 ・イタリアへのフランス・スペインの介入

 (ex. シチリア王位:1130年にルッジェーロ2世が王位を得て建国[オートヴィル朝]

 

[シチリア王位の変遷]

  1194

婚姻でシュタウフェン朝のハインリヒ6世がシチリア王に

(ハインリヒ6世はフリードリヒ1世の子、フリードリヒ2世の父)

1266

フランスのアンジュー伯アンリ(シャルル=ダンジュー)がシチリア王に

(フリードリヒ2世の庶子マンフレーディによる簒奪に教皇と

 仏王ルイ9世が反発したため)

1282

シチリアの晩鐘(晩禱)

:シチリア島の対シャルル反乱

→シャルル=ダンジューが王位を失う

→アラゴン家のペドロ3世即位

これ以降、アンジュー家はナポリ王位のみを継承

(シチリア…アラゴン家 / ナポリ…アンジュー家)

1442

アルフォンソ5世(アラゴン家)のナポリ王位承認

:先王ジョヴァンナの後継指名混乱による

→アンジュー家のルネ=ダンジューが追放される

 

 

[イタリア戦争(1494-1559]

 

  1494 仏王シャルル8[ヴァロワ家]のイタリア侵入(ナポリ王位の要求)

   →神聖ローマ皇帝[ハプスブルク家]との対立

   Cf.)  フランソワ1vsカール5世(カルロス1世=フェリペ2世父)

  この時期、ハプスブルク家がオスマン帝国とも抗争していたことに注目

・オスマンのバルカン進出拡大

1526 モハーチの戦い:ハンガリーに進出

1529 第一次ウィーン包囲

・フランスと協力関係を構築(カピチュレーションなど)

1559 カトー=カンブレジ和約(アンリ2世・フェリペ2世・エリザベス1世)

  :ハプスブルク家の優位確定

 

[イタリア戦争の意義]

・フランス(ヴァロワ家)に対するハプスブルク家の優位が確定する

 (フランスはイタリア進出を断念)

・主権国家体制の形成

 (常備軍と官僚制の整備、領域内の内政・外交権が次第に一元化され始める)

・イタリア=ルネサンスの終焉

 (カール5世によるローマ劫略[サッコ=ディ=ローマ]が決定的な打撃)

・軍事革命

 (火砲の使用による歩兵の重要性→当初は傭兵、後に常備軍整備[封建領主の没落]

 

ここがポイント 両シチリア王国


 
みなさんは両シチリア王国といえば「ノルマン系貴族のルッジェーロ2世が1130年に建国した国」ということはご存じだと思いますが、「そもそもなぜイタリアにノルマン系の貴族がやってきて国王になっちゃうの?」とか、「その後シチリア王国とかナポリ王とか出てくるけど、両シチリア王国はどうなっちゃってるの?」ということまでご存じの方はそれほど多くないかと思います。まず、両シチリア王国の原型を作るのは、ルッジェーロ2世ではなく、そのおじさんのロベール=ギスカール(ロベルト=グィスカルド)とルッジェーロ2世の父であるルッジェーロ1世です。


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 ギスカールとルッジェーロ(1世)は、フランスのノルマンディー地方からやってきた戦士団(傭兵)の一族でした。ノルマンディー地方といえば、911年にノルマン人ロロが当時のフランス王シャルル3世から半ばぶんどったノルマンディー公国を築いた土地です。当初のノルマン人はフランス王によって公爵に封ぜられたとはいえ、その実態はヴァイキングだったわけですが、こうした連中も長期間にわたり周辺のフランス人たちと交わるうちに次第にヴァイキングちっくなフランス貴族、すなわち「ノルマン系貴族」と呼ばれる者へと変化していきます。こうした「ノルマン系貴族」の一人がギスカールであり、さらにその弟のルッジェーロだったわけです。

ところが、当然のことではありますが、フランスが次第に安定化してくると、そこでの立身栄華の機会というのは限られてきます。混乱の時代であれば略奪でもなんでも働いでぶんどってしまえばいいわけですが、ある程度秩序だった世界ではそういうことをするとより強い連中によって叩かれ、抑えつけられてしまうわけですね。ですから、貴族として立身が約束されているとか、その家の長男であればよいのですが、次男坊、三男坊ということになると、もう分けてもらうパイがありません。実際、ギスカール自身もノルマンディーで村の領主のようなことをやっていたオートヴィル家の六男坊だったそうです。食い詰めたこうした連中は、政情が不安定で働き次第で自身の栄達を狙える土地へと乗り出していきます。12世紀においては、各地の小国、ローマ教皇、神聖ローマ帝国などの諸勢力が割拠し、イスラームの影響まであるイタリア、中でも南イタリアでした。


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 (http://www.emersonkent.com/map_archive/italy_11th_century.htmより引用)

 

11世紀のイタリアの地図です。南の方はビザンツとかランゴバルド系のサレルノ公国とか、ベネヴェント公国とかもうぐっちゃんぐっちゃんですねw ギスカールとルッジェーロは、南イタリアのプッリャ(イタリアのかかとの部分)に領地を持っていた兄の後を継ぐ形でこの混迷を極める地に乗り込むと武力で南イタリアの各地とシチリアを占領します。こうした中、当時神聖ローマ皇帝と対立していたローマ教皇ニコラウス2世は、彼らの征服活動にお墨付きを与え、彼らを征服した各地の伯や公として封じました。そのうち、南イタリア地域(後のナポリ王国)をギスカールが、シチリア地域をルッジェーロがシチリア伯として治めることになりました。

 

こうした中でルッジェーロの息子であったルッジェーロ2世はシチリアを支配した後、伯父であったギスカールの孫であるグリエルモが亡くなったことでナポリの支配権を得て、これを当時の対立教皇アナクレトゥス2世から認められて1130年にシチリア王として封ぜられます。これが両シチリア王国の起源となるわけです。まぁ、要は父親と伯父さんの領地を継承したわけですね。

 

 つまり、シチリアとかナポリというのは、本来は異なる爵位になりますし、元々は伯爵位だったり公爵位だったりしたわけで、別物なんですね。それが後に王位に格上げされるわけですが、それでも二つは本来は別のものです。ナポリ王はナポリ王、シチリア王はシチリア王なわけです。ただ、この二つの王位を一人の人物が兼ねる、ということはあるわけです。シチリア王にしてナポリ王みたいにですね。近代的にいえば「同君連合」ってやつですね。これは中世以降のヨーロッパでは別に難しいことではありません。ちなみに、後のハプスブルク家の肩書はこんな感じですよ。

 

  オーストリア皇帝、ハンガリー、ベーメン、ダルマティア、クロアティア、スラヴォニア、ガリツィア、ロドメリアおよびイリリアの王、イェルサレム王その他、オーストリア太子、トスカナおよびクラクフ大公、ロートリンゲン公、サルツブルク、スティリア、ケルンテン、クライン、ブゴヴィナ公、トランシルヴァニア大公、モラヴィア辺境伯、上下シレジア公、モデナ、パルマ、ピアチェンツァおよびぐアステラ公…(これでもまだ4分の1くらいでしょうか)

 

ただ、ルッジェーロ2世の両シチリア王国(または19世紀に成立した別の「両シチリア王国」と区別するためにノルマン=シチリア王国と呼ばれることもあります)が成立すると、通常はシチリアと南イタリア(後のナポリ王国)を総称して「(両)シチリア王国」と呼ぶようになります。再度シチリア王位とナポリ王位が分割されるのは、アラゴン系シチリアとアンジュー系ナポリに分割される13世紀以降のことです。
 いずれにせよ、このような経緯でできた両シチリア王国でしたが、その後の婚姻関係や争いの結果、ルッジェーロ2世からはじまるオートヴィル家が断絶すると、シチリア王家は
「シュタウフェン家→アンジュー家→アラゴン家」というように変化していきます(上述の年表を参照)。この3家がそのまま神聖ローマ帝国、フランス、アラゴン王国(後のスペイン)と関係の深い家だということに注意してください。つまり、この3国はシチリアとナポリの王位に深く食い込んで因縁があるわけですね。

 こうした中、一度はフランス系の貴族である「アンジュー家のシャルル」ことシャルル=ダンジュー(
Charles d'Anjou、つまりシャルル・ド・アンジューなわけですが)がシチリアとナポリを領有しますが、シチリアの晩鐘で追い出されてしまい、さらにキープしていたナポリ王位も後にアラゴン家が所有することになります。こうした中で「アンジュー家からのナポリ王位継承」を口実にイタリアへの影響力を拡大しようとしたシャルル8世が北イタリアに侵攻した、というのがイタリア戦争です。この際、フランスが侵攻した背景にはそれまで北イタリアのフィレンツェで勢力をはっていたロレンツォ=デ=メディチがコロンブスの新大陸発見と同じ年の1492年に亡くなったことなどがあるわけですが、このあたりの事情は最近だとマンガ『チェーザレ(作:惣領冬実)』を読むと雰囲気がつかめます。


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 © 惣領冬実『チェーザレ 4』講談社

 

 いずれにしても、このフランスの侵攻は、当時分立はしながらも比較的安定していたイタリア諸国の間に激震となって伝わります。のみならず、イタリアに深い利害関係を有していた神聖ローマ帝国も断続的に発生するイタリアの争いに巻き込まれていきました。特に、この戦争はフランスヴァロワ家のフランソワ1世とそれに協力するオスマン帝国スレイマン1世、これらに対抗する神聖ローマ皇帝にしてスペイン国王ともなるハプスブルク家のカール5世(カルロス1世)という構図になっていきます。しかし、最終的にはこの戦争後にヨーロッパの各地に勢力を有していたのはヴァロワ家ではなくハプスブルク家でした。ハプスブルク家はドイツ地域、スペインのみならず、ナポリ、シチリア、ネーデルラントといった地域に勢力をはり、フランスを取り囲んでしまいます。このハプスブルク家の優位は1618年からの三十年戦争を経て、1648年のウェストファリア条約でフランスのブルボン家がこの大勢を覆すまで続くことになります。

 
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1547年の時点でのハプスブルク家の領土(緑の地域)
(Wikipedia「ハプスブルク家」より引用) 

 


[19世紀~20世紀の朝鮮] 

・案外、朝鮮王朝(李氏朝鮮)がいつ頃からかがつながっていない人がいたりするので確認。

 1392 建国:両班による支配

    (倭寇討伐に功のあった李成桂が高麗を滅ぼして建国)

 

・その後の李氏朝鮮は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役/壬辰・丁酉の倭乱[1592-931597-98])と、清への服属(ホンタイジの時)のあたりで出てくる。

 

・世界史でその後李朝が問題になるのは19世紀後半に入ってから。このあたりは大学受験でも頻出の箇所なので、注意しておくとよいでしょう。ただ、教科書や参考書だと時期ごとにぶつ切りになっていたり、情報が不足していてなかなか全体像をとらえることができません。そこでまず、当時の朝鮮で起こった事件を追いながら、朝鮮国内またはそれに与する外国の勢力図がどのように変化していくのか見ていくことにしましょう。

 

1863 大院君(国王高宗の父)が摂政として実権掌握

:鎖国政策

 1873 閔妃政権の成立(大院君に対するクーデタ)

:開国政策への転換

 1875 江華島事件

→日朝修好条規(1876

  朝鮮の自主独立

  釜山・仁川・元山開港

  治外法権

  関税自主権喪失(双方無関税)

 1882 壬午軍乱:大院君のクーデタ

・賃金未払いを不満とする兵士の暴動を利用

・日本公使館員も多数殺傷される

   →清の袁世凱の支援で鎮圧

→閔氏が親日から親清へ

(事大党の形成=清の勢力下で李朝の安全維持を図る)

   ※以降、清は6000名の軍隊を朝鮮に駐留させる

    一方で、開化派の不満が高まる

→急進改革による朝鮮の近代化を図る金玉均・朴泳孝らが独立党を形成

 1884 甲申政変:独立党による対閔妃のクーデタ

・日本公使竹添進一郎と独立党が共謀、清仏戦争の隙をつく

    →高宗を擁立、閔氏の要人を殺害

  →閔妃を支援する清が鎮圧

(清仏戦争に敗北した清はメンツにかけても朝鮮へ出兵)

→金玉均は亡命(1894年に亡命先で暗殺される)

    ※この事件をうけて日清両国は天津条約(1885)締結

:日清両国の朝鮮からの撤兵と出兵時の事前通告を規定   

1894 甲午農民戦争

:東学を中心とする農民反乱

(創始者:崔済愚[チェジェウ]、指導者:全琫準[チョンボンジュン]

   →鎮圧に日清両軍が出兵、日清戦争

   →朝鮮では日本軍が出兵して閔氏を追放

・大院君を中心とする開化派政権が成立

・甲午改革の実施

     [両班制・科挙廃止、奴婢・人身売買の禁止など発表]

        →政権内部の対立、三国干渉によるロシアの影響力を利用した閔氏派の巻き返しで失敗。

1895 下関条約:朝鮮の完全独立承認

1896 乙未事変:日本の指揮下の訓練隊(朝鮮軍)と日本人士官が閔妃暗殺

(背景)ロシアの力を背景に巻き返しを図る閔妃と大院君が対立

 ・甲午改革を推進した金弘集内閣が再度近代化策を実施

 →開化派を支持する大院君と高宗の対立が決定的に

(守旧派が担ぐ高宗はロシアに接近:露館播遷[1896-97]

 1897 大韓帝国と国号を改称

 1898 1896年以降、朝鮮の立憲君主制樹立を目指してきた独立協会が弾圧される

1904-1905 日露戦争

  →日本の優勢によって朝鮮が日本の影響下に

1904 第1次日韓協約:日本からの財政・外交顧問の受け入れ

1905 ポーツマス条約:日本の韓国保護国化承認

→第2次日韓協約(1905

:韓国の外交権接収(保護国化)、統監府の設置(初代:伊藤博文)

   →反日義兵闘争の高まり、愛国啓蒙運動が激化

1907 ハーグ密使事件

   →第3次日韓協約(1907):韓国軍の解散、内政権を失う

1909 伊藤博文暗殺(安重根による)

1910 韓国併合:朝鮮総督府(初代:寺内正毅)

→武断政治、土地調査事業

 

ここがポイント 朝鮮内の勢力関係

 

朝鮮近代史を読み解く上で難しいのが朝鮮内における勢力関係ですね。たとえば、当初は保守派とされていた大院君が後になってなぜか開化派と仲良くしていたりとか、国王なのに高宗は開化派に担がれたり、後に対立したり…「いったいどっちなんだ!」と思うこともあるかと思います。でも、日本も幕末期には公武合体だー、とか攘夷だー、とか開国だーとか、やってますよね。当時の朝鮮も、諸外国の圧力の中で将来をどういう方向へ持って行ったら良いか模索している時期です。その時々の立場や情勢によって各人の立場が変わっていったのだと考えれば、それほど変なことでもないのですね。

 ここでは、頭をすっきりさせるために、いくつかの時期についてその勢力図を図示してみたいと思います。

 

[初期(1860年代~1870年代)の対立関係]

地域史②(朝鮮史)

 初期の対立関係は意外にシンプルです。幼少であった国王高宗の父である大院君が実権を握ると、大院君は保守的な鎖国政策を実施します。ところが、大院君の独裁に対する反発や、日本でも起こったような進歩的な考え方を持つ開化派からの反発が高まっていくんですね。そうした中で、もともとは大院君のお声がかりで妃におさまった閔妃は、舅との折り合いが悪くなって次第に険悪になっていきます。閔妃とその一族(閔氏)は反大院君の勢力を結集してクーデタを決行、これにより大院君が失脚してしまうのが1873年です。

 

[1870年代~1880年代]

 

地域史②(朝鮮史)2
 

 ところが、閔氏政権のもとでの開化政策は必ずしもうまくはいきませんでした。おりしも、江華島事件以降、朝鮮では清朝の冊封国としての地位を維持すべきとする守旧派(事大党)と、日本の力を利用して近代化を達成しようとする開化派の二派に分かれて争っていました。そんな中、開化派政策を推進する閔氏政権は大胆な軍制改革に着手し、旧式の軍隊とは異なる西洋式の新式軍隊「別技軍」を組織します。しかし、別技軍が好待遇を受ける一方でないがしろにされていると感じた旧軍の一派は、続いていた給与不払いをめぐる不満を暴発させて暴動を起こします。これに乗じて閔氏政権の転覆をはかったのが先に失脚させられていた大院君でした。これが壬午事変(壬午軍乱:1882)です。

 

 この事件に対して日本側は対応することができませんでした。反乱に巻き込まれた日本公使館員たちは何名かの死傷者を出しながら命からがら挑戦を脱出します。これに対し、清国側は当時洋務運動によって増強していた軍隊を朝鮮に出動させ、これを率いた袁世凱が反乱を鎮圧し、大院君を軟禁しました。この結果、政権に復帰した閔氏一派は、自分たちの政権維持を重視してそれまでの親日姿勢から親清姿勢へと鞍替えします。要は、「開化政策の推進」と「政権と権力の維持」を天秤にかけた結果、後者を選択したわけです。

地域史②(朝鮮史)3
 
 

 しかし、こうした閔氏政権の変節に不満を感じたのが親日派の開化派たちです。朝鮮でも日本式の近代化を実現しなくてはならないと考える開化派の金玉均(キムオッキュン)、朴泳孝(パクヨンヒョ)らは独立党を結成します。清への依存をはかる事大党に対して、朝鮮の自主独立を目指したわけですね。かれらのこの目標は当時開化派を支援していた日本政府の目的とも、最終的な利害はどうあれ合致します。そして、独立党は次第に閔氏政権との対立を深め、その中で同じく閔氏と対立する大院君と接近します。つまり、開化派(独立党)と大院君を結びつけたのは「敵の敵は味方」という構図です。

 そして、この両者は日本の力を借りて清が清仏戦争にかまけて朝鮮に目が向かない間隙をぬって、閔氏政権打倒のクーデタを敢行します。これが甲申政変です。

 

 ところが、この政変も清の軍隊によって鎮圧されてしまった結果、再度閔氏が政権に返り咲きます。そしてこれ以降、朝鮮国内では「閔氏政権vs開化派+大院君」と「清vs日本」という対立が深まっていきます。

 

[1890年代(日清戦争以降)]

 

 こうした中で日清戦争が勃発し、日本の勝利に終わると開化派と大院君は勢いづき、甲午改革と呼ばれる近代化策を進めます。ところが、一度は日本の力を借りて閔氏一派を一掃したと思われたのですが、閔氏一派は新たに朝鮮進出を狙うロシアの力を借りて巻き返しをはかります。こうした両派の対立の中で発生したのが乙未事変(1896:いつびじへん)です。この事件で閔妃が暗殺されてしまったわけですが、これに激怒したのが妻を殺された国王高宗です。これまでも父と妻の一族の間の権力争いでどこか蚊帳の外に置かれてきた高宗は怒り心頭、開化派と大院君とは決別して守旧派とともにロシア公館に遷り、ここで政務を執りました。この期間のことを露館播遷(1896-97)と言っています。嫁さん殺されてムキーってことですね。こうした流れの中で、それまでの清vs日本という構図はロシアvs日本という構図に置き換わってその後の朝鮮を巻き込んでいき、1904年からの日露戦争へとつながっていくのです。

 
地域史②(朝鮮史)4
 

 

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