世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

中学受験、大学受験(国立・私大とも)など数多くの受験をこなし、脱サラ後に西洋史を専攻、学費捻出のため塾講師や中高で世界史を担当しつつ、イギリスの大学院で歴史学のMSc(修士号)を取得、大学でも西洋史の講義を担当するなど西洋史を教える仕事に長年従事してきた管理人HANDが、受験世界史でポイントとなる部分を徹底解説!各校の過去問対策、受験対策のほか、世界史を理解する上で役に立つ視点や勉強法についての情報を随時更新していきます。

以下のような方はとくにオススメ!

・東大、一橋などの国公立や早稲田、慶応の受験を世界史で考えている。
・論述対策を進めたい。
・教科書やプリントだと不足している情報が多すぎて、背景にあるつながりが見えない。
・『詳説世界史』などを読むだけでは気づけない、専門的な歴史的視点を養いたい。
・世界史を覚えるのが苦手で、どうやって勉強したらよいのかわからない。
・世界史の教員になりたてだが、西洋史が専門ではないので少し突っ込んだ知見を知りたい。

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 2015年は大問1と大問3が極めてオーソドックスな設問であったのに対して、大問2で一橋としてはかなり毛並みの変わった設問が出題されました。結局のところ、大問13でしっかりと解答を書けたかどうかが合格点をとるカギだったのではないでしょうか。ちなみに、2015年の河合の大問ごとの評価はⅠ-やや難、Ⅱ-やや難、Ⅲ-標準でした。個人的にはⅠ-標準、Ⅱ-難、Ⅲ-標準といったことろ。もっとも、大問2の採点基準がそこまで厳しいとは思えませんし、仮に採点基準が厳しかったところで、受験生間で解答に差がつくとは思われませんので、実際にはⅡもやや難と言ったところかもしれません。難しい問題が出るとつい見落としがちですが、結局その難しい問題を解いて合否の判断を下されるのは当日の受験生なのであり、要は問題の難易にかかわらず、周囲と比べてどれだけのものが用意できるかが問題となるので、会場で「おおぃ!こんな問題解けるかよ!」と焦ってはいけません。逆に、「自分が解けないなら周りもこんなもんだろ」と思えるくらいの準備をしておくことが肝心です。

 

2015 Ⅰ

■ 問 題 概 要 

・『フランク編年史』より引用された、ローマ人民がローマに滞在し、クリスマス・ミサのために聖ペテロ教会に出かけたカールを「至聖なるカール、神により戴冠されたる偉大にして平和を許すローマ人の皇帝に命と勝利を!」と称える様子が描かれた短い文章が示された上で、以下の点について説明することを求めている。(400字)

1、カールはなぜこの時ローマに滞在していたのか。

2、カールはなぜ「ローマ人の皇帝」ローマ人民から歓迎されたのか。

3、この出来事はヨーロッパの歴史にどのような影響を与えたか。

・これらについて、8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢の中で述べよ。

 

■ 解 答 例 

首位権や聖像崇拝問題でビザンツ帝国やコンスタンティノープル教会と対立し、頼るべき政治勢力を求めていたローマ教皇は、8世紀後半にピピンがクーデタでカロリング朝を創始するとこれを承認した。この見返りとしてピピンも教皇を圧迫したランゴバルド王国を討伐しラヴェンナ地方を寄進するなど、両者は次第に結びつきを深めた。その後、ピピンの子カールがランゴバルド王国を滅ぼしてイタリア半島に政治的安定をもたらし、さらにザクセン・アヴァール・後ウマイヤ朝と争って西ヨーロッパの主要部分を統一すると、ローマ人は彼をキリスト教の守護者とみなした。カールを自身の保護者として利用することを考えた教皇レオ3世は、その要請により軍を率いてローマに入ったカールに皇帝の冠を戴せた。カールの戴冠によりローマ教会とはビザンツ教会から自立し、カールの統治地域を中心に古典文化・キリスト教・ゲルマン文化の融合した西ヨーロッパ世界が成立した。(400字)

 

■ 採 点 基 準 

:設問中にある以下の質問や条件を踏まえて適切に答えることできるかどうかがカギ。

(1)『なぜローマに滞在していたのか』

①ローマ教皇レオ3世の要請よるものであったことを示す。

(2)『なぜ「ローマ人の皇帝」としてローマ人民により歓呼されたのか』

②キリスト教(アタナシウス派=カトリック)の守護者であることを示す。

③イタリア半島に政治的安定をもたらしたことに言及する。

→これらを述べる際に⑧と関連付けるとよい。

(3)『8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢のなかで述べる』

④首位権・聖像崇拝問題での東西教会の対立に言及する。④

⑤ローマ教皇が西ローマ皇帝やビザンツ帝国にかわる政治的な保護者を必要としていた

 ことを示す。

→⑤と関連付けて以下の⑥・⑦に言及する。

⑥ローマ教皇がフランク王国のピピンによるカロリング朝創始を承認したことを示す。

⑦ピピンが教皇にラヴェンナ地方を寄進したことを示す。

⑧カール大帝がランゴバルド・アヴァール・ザクセン・後ウマイヤを討伐したことを示す。

⑨カール大帝による西ヨーロッパの主要地域の政治的統一に言及する。

(4)『この出来事がヨーロッパの歴史に与えた影響について説明しなさい』

⑩ローマ教会がビザンツ帝国の影響から分離してローマ=カトリックが成立したことを示す。

⑪西ヨーロッパがビザンツ帝国の政治的影響力を脱して西ローマ帝国が復活したことに

 言及する。

⑫西ヨーロッパに古典(ローマ)文化・キリスト教・ゲルマン文化の融合した独自の

 西ヨーロッパ世界が成立したことを示す。


■ 分 析 

●出題分野

何度も繰り返しますが、一橋の大問1では、神聖ローマ帝国に関わる分野が頻出で、特に中世ドイツ史の出題率が高いです。(2008年度、2010年度、2011年度、2013年度)

今回のようにカール大帝を題材とした出題としては2009年度の問題があります。2009年の出題では「カール大帝の帝国成立の経緯」についてイタリア・東地中海の政治情勢・ムハンマドとの関係に言及しながら述べさせるもので、「西ヨーロッパ世界の成立」という大テーマが共通しているなど、今回の出題と重なる部分も多いです。

 

●解答のポイント

   ・設問に条件が複数示されているので、これらの条件をきちんと踏まえることが大前提となります。「8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢の中で述べる」と時期・コンテクストが指定されていることから、8世紀前半の事項(聖像禁止令など)に必要以上に言及する必要はなく、東西教会の対立の原因として軽く触れる程度で良いでしょう。また、2009年度の問題では重要な要素であったイスラームの影響はここでは主な要素として言及する必要はありません。

   ・カールがローマに滞在していいた理由について問う部分は難しく、教科書のレベルを超えています。カールの戴冠は、戴冠の前年に教皇の反対派から教皇を保護したカールが教皇の要請で軍を率いてローマに滞在していた折に、クリスマスのミサに出席するため訪れたサン=ピエトロ大聖堂における突発的な出来事であったと言われています。そのため、「教皇からローマ皇帝の冠を授かるために」とするのは誤りで、「教皇を保護するため」、「教皇の要請により」などとしておく方が無難。

   ・「ローマ人民がカール皇帝として歓呼した理由」についても直接的に教科書では言及されていないのでやや難しいですが、カールの業績を考慮すればキリスト教(アタナシウス派)の保護者であることやイタリア半島に安定をもたらした人物に対する敬意であることを推測して導くことは十分可能です。

   ・「8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢」について述べる部分では、教会の東西対立と教皇とカロリング朝(ピピン・カール)の接近を軸にまとめればよいので、平易。

   ・「カールの戴冠がヨーロッパに与えた影響」についてはローマ・カトリックの成立と西ヨーロッパ世界の成立という重要なテーマをすぐに思いつく必要があります。

・採点基準の④~⑫については一橋の受験者にとっては基本事項であり、この部分がきちんと書けるかどうかが重要。字数に限りがあるが、単なる事実の列挙にとどまらず各要素の関連も考えながらまとめる必要があるでしょう。各要素の関連や①~③をどう盛り込むかは難しいものの、できれば3分の2程度の得点は確保したいところです。

 

2015 Ⅱ

■ 問 題 概 要 

・ヨーロッパ共同体と東南アジア諸国連合という2つの機構の歴史的役割について、その共通点と相違点を示せ。(400字以内)

 

■ 解 答 例 

ヨーロッパ共同体は、大戦を招いた独仏対立の解消と欧州の平和的復興をその出発点とする。OEECを皮切りに超国家的に資源と市場を共有する経済統合を発展させるにつれ、欧州は米ソ両大国に対する発言力を次第に回復し、多極化の一因をつくった。イギリス加盟以降のEC拡大に伴い、貿易制限撤廃と単一市場形成による競争力強化を目指したECは、冷戦終結後に超国家機構EUを発足させ、単一通貨ユーロを採用した。東南アジア諸国連合は、ベトナム戦争中に東南アジアの共産化を恐れた米国の主導で成立し当初は反共同盟としての性格が強かったが、次第に政治的中立を宣言して経済協力機構としての性格を強めた。冷戦後には社会主義国のベトナムや軍政のミャンマーなど、東南アジア全ての国が参加し、EUと同様に関税障壁撤廃などの市場統合を進めて地域共同体としての役割を強めたが、一方で加盟国の主権に対する拘束力がないため政治的影響力に限界がある。(400字)

 

■ 採 点 基 準 

難問。設問の要求が明確(というよりは単純)な分だけ、ECとASEANについてどれだけ正確な知識を持ち、設問の条件に沿って(または出題者の意図を推し量って)解答を作成できるかで大きな差がつく問題。単純にECとASEANの共通点・相違点を列挙するのではなく、それぞれの歴史的役割をきちんと示しながらまとめる視点と文章力が要求されている。

 

(1) ECの歴史的役割

         2度の世界大戦の原因をつくった独仏両国の対立を解消する目的が、ECの前身たるOEECをはじめとする組織構築のきっかけとなった。

         同じく、大戦によって荒廃したヨーロッパを平和的に復興する目的がECの前身を作り上げた。

         その発展とともに米ソに対抗する第3極として多極化の一端を担ったことを示す。

         冷戦後にEUとして発展したことを示す。

(2) ASEANの歴史的役割

⑤ベトナム戦争中に東南アジアの共産化を恐れた米国が主導して結成された反共色の強い組織であったことを示す。

⑥ベトナム戦争終結期である1971年に中立地帯宣言を発し、その後は経済協力機構としての役割を強めたことを示す。

→この中で、1980年代からのアジア地域の経済発展について述べることもできる。

⑦冷戦終結後のベトナム・ミャンマー加盟などによりさらにイデオロギー色を薄めた地域共同体として活動していることを示す。

(3) ECとASEANの共通点

⑧通商上の障壁を取り除き、市場統合を進めた経済的な地域共同体であり、経済的発展を

もたらした点。

⑨経済的な結びつきを主軸に地域統合をもたらした地域共同体としての性格を持つ点。

(4) ECとASEANの相違点

⑩ECは部分的ではあるが主権国家としての枠組みを超えた超国家的結合であり、それが発展したEUについても加盟国の主権の一部を拘束する中央議会と共通通貨を有する点。

⑪ASEANはEUと異なり各加盟国に対して主権を制限する権限を持たないために政治的な

結合力が弱く、ベトナム戦争以降は主に経済共同体としての役割を担っている点。

 

(⑫域外協力についてはASEANのAPEC参加などが教科書レベルの要素としてあげられるが、ECについても1973年のスイス・リヒテンシュタインなどとのFTAをはじめとする域外協力を行っているので、むしろ共通点として挙げるべきものである。ただ、この設問ではこのことを書けと求められているとは思えない。)

 

■ 分 析 

●出題分野

・大問2は、近現代欧米史が出題されますが、その出題の範囲・形式は非常に多様であるため、的を絞ることは難しいです。ただ、今年度のように戦後史が問われることは比較的少ないです。(2000年、2005年、2012年) 2000年、2005年はそれぞれヴェトナム戦争、冷戦と核兵器についてその歴史的経緯を問う比較的オーソドックスな問題でした。2012年も国際連盟と国際連合設立の歴史的背景と両機関の課題について問う基礎的な問題でしたが、二つの国際機関を比較するという視点を必要とした点で今回の設問と共通する部分も見受けられます。今回のテーマは「ECとASEANの歴史的役割について共通点と相違点を説明」するというもので、2012年の設問と同様に比較的視点が要求されている点では共通しているものの、あまり問われることのない両機構の「歴史的役割」について問う設問で、やや難しいです。ここ最近本格的な戦後史が56年に一度の頻度での出題であったことを合わせると、かなり取り組みづらい設問であったことが予想されます。

 

●解答のポイント

 (1)EC・ASEANの歴史的役割を確認する

   どちらも経済発展をもたらした地域共同体であることは常識的なことなので、ここで要求されていることがより深い内容であることに気付かなくてはならないでしょう。ECが大戦後の欧州復興に際して「大戦を招いた対立を解消する目的で設立されたこと」や「発展の過程において多極化の一因をつくったこと」、ASEANが当初「米国に主導された反共同盟としての性質を有していたこと」などについて思い出す必要があります。

 

(2)EC・ASEANの歴史的役割についての共通点と相違点をまとめる

   設立の背景の違いについては上述の歴史的役割を確認する中で述べることができます。両者の歴史的役割について、共通点については比較的容易に思いつくので、ここでは相違点について深く考える必要があります。その際、この「歴史的役割」とはいったいどの時期を対象としているのかを考えると、特定することは難しいです。ものによっては、ECがOEECとは異なることをことさら強調したり、ECとEUは違うのであるからEUについては言及してはいけないとする解説も見られ、そうした判断にも一理ありますが、ECやASEANはたえずその政治的、経済的性質を変化させてきたものであり、当然その前身である諸組織や発展形態としてのEU、ASEAN10などとも連続性を有するものです。ですから、それらの前身や発展形態と断絶したものとしてとらえることは、ECやASEANの本質を見るにあたって有益なことではないでしょう。だとすれば、設問が指定する視野や時代設定はかなり広いものになる可能性があるので、一時期における歴史的役割のみを取り出してその相違を示すよりも、最終的にECやASEASNがどのように変化していったのかを示す方がよいと思います。そうした観点からすれば、ECやその発展形態であるEUが超国家的結合であり、主権国家の枠を越えたものとなっていった一方、ASEANはあくまでも主権国家間の経済協定の枠内に依然としてとどまるものである点に注意を払う必要があるでしょう。その方が、単純な両組織比較よりも、国民国家という枠組みの崩壊とその後の超国家的紐帯の形成という最近の各大学の問題関心に近く、出題者の意図から外れないものになるのではないでしょうか。

 

2015 Ⅲ

■ 問 題 

イーニアス・アンダーソン著・加藤憲市訳『マカートニー奉使記』より引用された、清朝の対外関係を示すやや長い史料が付された上で、以下の点について説明するように要求されている。(400字)

1、文中に登場する下線①が付された「皇帝」の名前を記せ。

2、また、その皇帝によって語られた清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程を説明せよ。

 

ちなみに、本史料中で「皇帝」が英国使節に謁見する年は1793年である。

 

■ 解 答 例 

乾隆帝。清朝の対外関係は周辺諸国と形式上の君臣関係を結ぶ冊封体制と朝貢国に対する恩恵的な貿易形態である朝貢貿易に基づいており、条約による主権国家間の対等な関係に基づくヨーロッパ諸国の外交関係とは異なっていた。清はイギリスとの貿易を広州一港に限定し、公行という特権商人がこの貿易を独占したが、これに不満を持つイギリスは自由貿易を求めて使節を派遣したが失敗した。その後アヘン戦争に敗れた清は南京条約で開港や公行廃止を強要され、続く諸条約で欧米諸国に領事裁判権・最恵国待遇を与え、清の関税自主権喪失を認める条約関係を結び、自由貿易体制に組み込まれ始めた。続くアロー戦争敗北後の北京条約で外国公使の北京駐在を認め、外交を一元的に処理する総理衙門を設置した。さらに、清仏戦争後の天津条約で阮朝越南国に対する宗主権を、日清戦争後の下関条約で李氏朝鮮に対する宗主権を相次いで失ったことで清朝の冊封体制は崩壊した。(400字)

 

■ 採 点 基 準 

・「清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程」と清朝側からの視点で解答作成することが要求されていることと、400字で一問という字数の長さを考えると、イギリスとの貿易関係の変遷についてのみ述べたのでは不十分であろう。やはりここは、朝貢・冊封体制の特徴とその崩壊過程としてまとめることが要求される。

 

(1) 下線①の皇帝の名前

 乾隆帝

:年代から判断できなくとも、対外交易を広州一港限定した人物で英国の使者と謁見した皇帝であることを考えれば乾隆帝であることはすぐに導ける。イギリスが派遣した人物にはマカートニー(1793)、アマースト(1816)、ネイピア(1834)らがいるが、乾隆帝はこのうちマカートニーと謁見している。乾隆帝の統治期間は17351795とかなり長期にわたるので注意。ちなみに、アマーストは嘉慶帝に三跪九叩頭問題で謁見することができなかった。また、ネイピアは1833年に東インド会社の中国貿易独占権が廃止されたことにともない、英国本国から派遣された貿易監督官であり、当時の中国に対して強硬姿勢であたろうとしていたパーマストン外相とジャーディン=マセソン商会の意向をうけて任につくも、中国側と武力衝突事件を起こした後でマラリヤによって亡くなっている。

(2) 清朝の対外関係の特徴

①朝貢貿易の内容(朝貢してきた国に対する恩恵的な貿易形態)について示す。

②冊封体制の内容(周辺国との形式的な君臣関係)について示す。

→これを示す際に朝貢貿易と冊封体制をはっきり分けて示す方が良い。

(3) 清朝の対英貿易とイギリスとの対立

③イギリスとの交易が乾隆帝の時代に広州一港に限定されたことを示す。

④広州での貿易は公行という清の特権商人によって独占されていたことを示す。

⑤イギリスが自由貿易を要求していたことを示す。

→使節派遣の例を示すのであれば、ここでは乾隆帝が資料中に出てくることからマカートニーが望ましいが、おそらく使節の名前にまで言及する字数の余裕はない。

→設問はイギリスとの対立や通商関係に焦点をあてたものではないので、片貿易や三角貿易の詳細について述べる必要はなく、字数的な余裕もない。

(4) アヘン戦争・アロー戦争による対外関係の変化

⑥アヘン戦争と南京条約の内容

5港開港、公行廃止など。対外・交易関係を考えればよいので香港割譲は述べる必要なし。

⑦アヘン戦争後に締結された諸条約(虎門寨追加条約・望厦条約・黄埔条約)とその内容

→領事裁判権、片務的最恵国待遇、清の関税自主権の喪失などの不平等条約

⑧アロー戦争と天津・北京条約の内容

→天津・南京など11港開港、外交を一元的に処理する外交官庁としての総理各国事務衙門の設置

⑨清がイギリスの自由貿易体制の中に組み込まれていった点を示す。

(5) 清の対外関係の崩壊過程

⑩周辺の朝貢国・冊封国に対する宗主権の喪失による朝貢・冊封体制の崩壊を示す。

→具体例として「琉球王国(台湾出兵、琉球処分)」、「阮朝越南国(清仏戦争)」、「李氏朝鮮(日清戦争・下関条約)」などに対して清が宗主権を失ったことを示せばよい。

 

■ 分 析 

●出題分野

この年の「清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程」というテーマは、過去に清朝の国内情勢・朝鮮をはじめとする周辺諸国との関係・列強のアジア進出などがたびたび出題されていることを考えれば十分予測可能な出題であり、王道的な設問であると言えます。今回の設問に近い出題としては2012年大問3の(2)で出題された「19世紀のヨーロッパ諸国に対する清朝の交易体制とその変化」について200字で述べさせる問題がある。

●解答のポイント

(1)清朝の対外関係=朝貢・冊封体制であることを把握する。

2012年の問題が「対ヨーロッパ交易」に限定されているのに対し、今回の設問は資料中に「外国と条約関係に入るということ=清の伝統的国是にもとる」などの記述があることや設問も「清朝の対外関係」とヨーロッパとの通商に限定していないことなどから、朝貢・冊封体制というより大きな視点で述べるべきです。

(2)対英貿易の変化と朝貢・冊封体制の変化という二つの軸を確認する

 ・資料中にイギリス側からの通商関係の改善要求があったことが示されていることから、清側による対英交易の制限と、その後の戦争による開港と不平等条約の締結という流れを軸として設定します。この際、単に事実を羅列するよりもイギリスが自由貿易体制を確立しようとしていたことに言及すると、清とイギリスとの対立やその後の変化の意味が明確になります。

 ・「清朝の対外関係=朝貢・冊封体制」であるとすれば、「その崩壊」について述べることが要求されているので、いかにして清の朝貢・冊封体制が崩壊するのかを明示する必要があります。そのためには、アヘン戦争後の開港や不平等条約の締結に言及するだけでは不十分であり、朝貢体制とは何か、冊封体制とは何かをはっきり示した上で、これらが崩壊したと言うに足る事実を示す必要があります。ここまで考えることで、「外国と条約関係による国際関係を成立させること(=清の伝統的国是の放棄)」、こうした外国との交渉窓口としての「総理各国事務衙門の設置(対等な主権国家間の外交処理とその一元化)」、「列強の進出による朝貢国・冊封国の喪失(宗主権の放棄)」などによる朝貢・冊封体制の崩壊という図式が見えてきます。特に、最後の朝貢国・冊封国の喪失などは対英交易のみに視点が限定されてしまうとなかなか出てこないので注意が必要です。

 ・要求されている知識は基本的なものであるが、単なる事実の列挙にとどまらない、テーマを理解した文章を作れるかどうかが差をつけるポイントです。最初にテーマを把握しないとイギリスとの通商関係に限定しすぎて片貿易や三角貿易などの詳細を述べるなど、的外れな解答をつくってしまいがちなので注意。
 

それでは、2016年の一橋「世界史」の過去問解答例と分析を行っていきましょう。ちなみに、この年の一橋の問題について、河合塾は(Ⅰ-やや難、Ⅱ-やや難、Ⅲ-標準)、代ゼミは(Ⅰ-標準、Ⅱ-標準、Ⅲ-標準)としていました。駿台についてはすいません、業務多忙だったせいもあり、手元に資料を保存していないので各自で駿台のHPにでも行ってご確認ください。

 個人的には、Ⅰ-やや易、Ⅱ-やや難、Ⅲ-標準といったところでしょうか。満点を取ると仮定すれば難しい問題なのですが、合格点をとるということを考えればそれほど難しい問題とは思えません。Ⅰは中世都市とポリスの比較をする基本問題ですし、Ⅱもユグノーについてとフリードリヒの啓蒙専制が書ければ、シュレジェンなどの情報が十分に書けなくても半分はとれるでしょう。同じく、Ⅲも台湾の部分が十分に書けなかったとしても半分程度の解答を作成することは可能ですから、全体として6割を確保しにいくことは例年と比べても難しくなかったかなという印象です。あとは、史資料の読解と歴史に対する総合的理解を要求される設問に対して平均点がどう動くかということと、どうやって周りから一歩抜け出すかが問題となった年でしょう。比較的多くの生徒が合格した年でしたが、合格した生徒によれば「世界史はわりととれました!」とのことでしたから、普段から歴史の全体像を気にして、設問の読みがしっかりできる生徒にとってはやはり解きやすい設問だったように思います。

 

2016年 Ⅰ 

■ 問 題 概 要 

 

国公立の問題は、あちこちの学習塾や場合によっては大学などでも公開されているので概要だけを示します。というか、志望校であれば是非赤本を買いましょうw 手元にあるのとないのとでは大きな差があると思います。

[設問概要]
・聖トマスとアリストテレスの「都市国家論」の相違がなぜ生じたのかを考察しなさい。(400字)
・条件:両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ論じること。
・本文として、
上田辰之助『トマス・アクィナス研究』より引用された文章が付されているが、その文章の中でも以下の部分に下線が付されている。

 聖トマスにおいてcivitasは「都市国家」ではあるが、「都市」という地理的・経済的方面に要点が存するに反し、アリストテレースは「都市国家」を主として政治組織として考察し、経済生活の問題はこれを第二次的にしか取り扱っていない

 

■ 解 答 例 

アリストテレスと聖トマスの都市国家論の相違は、前者が政治的共同体としての側面が強いポリス、後者が経済活動を基礎とした中世都市という異なる歴史的実態を持つ都市社会を論の前提としていることからきている。前者が想定する、アテネに代表されるポリスでは軍役に参加する成人男子市民が全て民会を通じて政治に参加する直接民主制が成立し、官職も抽選で選出されるなどの政治的平等が達成された。ギリシア人は植民市を築き商工業や交易も発展させたが、経済活動は政治的活動に比して副次的なものと考えられ、農作業など労働の多くは奴隷に委ねられた。一方、後者が前提とした中世都市は、商工業や交易で得た資金で自治を獲得し防衛を傭兵に頼るなど、経済力に基礎をおいた。都市内部では手工業者がツンフト闘争を通して市政に参入するなどの変化はあったが、基本的にはギルドを形成する大商人による寡頭政治が行われ、親方と徒弟といった階級秩序が存在した。(400字)

■ 採 点 基 準 

:設問にある要求は以下の2点。

(1)聖トマス(トマス=アクィナス)とアリストテレスの「都市国家論」の相違が生じた理由

(2)両者が念頭に置いていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させる

 

よって、以上の2点に対する答えを明確に示しつつ、必要な事項を整理する必要がある。

(1)に対する答えを用意するためにも、まずは「両者が念頭に置いていた都市社会の相違とは何か」と「両者の都市国家論の相違点とは何か」を整理することから始めるのが解答への近道。

 

【A:両者が念頭においていた都市社会(ポリスと中世都市)の相違】

① ポリス(アテネ)の特徴について示す。

 :民会と直接民主政、奴隷制に立脚、将軍職以外の官職を抽選で決定、商工業も発展、など

② 中世都市の特徴について示す

 :商工業、交易活動の発展、自治権の獲得、都市内部の身分秩序(ギルド・ツンフト)、など

 

【B:両者の都市国家論の相違】

③ アリストテレスの前提=ポリス(特にアテネを想定)

④ アリストテレスの都市国家論:政治的組織として考察、経済生活は第二次的なもの

⑤ 聖トマスの前提=中世都市 

⑥ 聖トマスの都市国家論:地理的・経済的な要素を重視し、都市を「完全社会」とみる 

 (理由):中世都市には各種の階級や組合などが存在し、人間生活が自給自足されることで「他力の補助」を必要とせず、これにより「完全性」が保たれるから。さらに、この「経済上の自給自足」が「精神生活の充足(よき生活)」を支えているとする。

 

以上のA・Bを整理すれば、両者の都市国家論の相違が、両者が前提としている都市社会の相違と対応していることが読み取れるので、それをもとに「アリストテレスの都市国家論」と「聖トマスの都市国家論」の相違を際立たせるような都市社会の歴史的実態を拾い上げて、両者の違いが生じた理由として示してやればよい。

 

【C:両者の都市国家論の相違が生じた理由】

⑦ ポリスが政治的共同体としての側面が強かったのに対し、中世都市は経済的な繁栄を形成の前提とした(自治権の獲得など) 

⑧ ポリスの市民が労働を奴隷に委ねて経済活動から遠ざかったのに対して、中世都市市民の活動の中心は政治的活動よりも手工業・商業・交易活動といった経済活動であった 

⑨ ポリス市民(市民に奴隷は含まれない)は政治的に平等であったのに対し、中世都市では原則として政治に携わるのは経済力の豊かな大商人や親方階層であり、階級秩序が存在した。

 

本設問については、歴史的な知識の有無よりも、設問の意図をくんで適切な論を構築することと、できた論の整合性に重きが置かれていると思われる。

 

■ 解 法 

1、とにかく、まずは史資料を熟読する。その上で、本文が聖トマスならびにアリストテレスについてどのような見方をしているか、以下のように整理しましょう。

 

 [聖トマス]

 ・都市の完全性を二因に帰する。①経済上の自給自足(物)

                 ②精神生活の充足(霊) 

「霊物両生活の充足(4行目)」

 ・物の完全性=自足性に存する

(不完全である物は他力を必要とし、その程度が大きいほど不完全である)

 ・特に、聖トマスは経済的自足性(物)を重視

  →「生活資料のすべてについての生活自足は完全社会たる都市において得られる」

  →「都市はすべての人間社会中最後にしてもっとも完全なるもの」

   (理由)都市には各種の階級や組合などが存在し、人間生活の自給自足にあてられるから

 ・都市の経済性を重視すること=中世ヨーロッパの実情に即している(経済都市)

      

[アリストテレス]

・論の進め方は聖トマスと類似しているが「実質的には著しき差異」がある

 →聖トマスのcivitas:地理的・経済的要素を重視している

 →アリストテレスの都市国家:政治組織として考察(経済は二次的なもの)

 

2、ポリスと中世都市の特徴を整理

[ポリス(アテネ)]

 :民会と直接民主政、奴隷制に立脚、将軍職以外の官職を抽選で決定、商工業も発展、など

 

[中世都市]

 :商工業、交易活動の発展、自治権の獲得、都市内部の身分秩序(ギルド・ツンフト)、など

 

  大切なことは、いくつかある特徴の中から、設問本文に即してどの特徴について論ずるのが適切であるかを見極めること。そう考えれば、政治的組織としての点を重視するアリストテレスの立場から、同じギリシアのポリスでもスパルタではなくアテネ民主政について言及すべきであることは自明ですし、聖トマスが「各種の階級・組合」に注目していることから、中世都市の身分秩序に触れるべきことは明白です。また、ここでは対比が要求されるわけですから、アテネ民主政に対する中世都市の政治システム、中世都市の身分秩序に対するギリシアの奴隷制といったように、必要な部分が何か、よく考えてまとめるべきでしょう。

 

●解答作成のポイント

 (1)両者が前提とする都市社会の歴史的実態の対比

設問がアリストテレス時代の都市社会(=ポリス[特にアテネ])と聖トマス時代の都市社会(中世都市)の歴史的実態を対比することを求めていることに気づくのは必須条件です。 両者の特徴を書き連ねるのはそれほど難しい作業ではありません。

 (2)両者の論の相違と前提とする都市社会の相違の関連性について検討

ポリスと中世都市の相違が、どのように両者の「都市国家論」の相違と関連するのかを考察する必要があります。これは世界史で教わる知識ではないので、資料の読解と二つの異なる「都市社会」の特徴からの考察によって導くしかありません。文章から「聖トマス=地理的・経済的方面(言い換えれば物的側面)を重視」しているのに対し、「アリストテレス=政治組織として都市をとらえる」という違いが存在することを読み取り、両「都市社会」の相違とうまく結び付けてやればよいでしょう。

 

 

ワンポイント

最後に、本設問の解答とは無関係ですが、聖トマスはアリストテレス哲学を受容して神中心主義と人間中心主義を調和させ、スコラ哲学を大成した人物であるからこそ、ここで両者の都市国家論の対比がなされているのだということは知っておいてよいでしょう。両者は無関係の二人ではなく、ヨーロッパの思想体系の中でつながっているのです。

 

2016年 Ⅱ

■ 問 題 概 要 

 
・ベルリンにある、「フランス大聖堂」と「聖ヘートヴィヒ聖堂」という2つの聖堂が建設された理由を比較しつつ、建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明せよ(400字)
・フランス大聖堂と聖へ―トヴィヒ聖堂について紹介する文が付されていますが、特に以下の2か所に下線が付されています。
 「
フランス大聖堂は、その名の通り、ベルリンに定住した約6千人のユグノーのために特別に建てられた」
 「
聖ヘートヴィヒ聖堂は、ポーランド系新住民のために建設されたカトリック教会です。」
・また、両聖堂の建設開始と完成の年も示されており、それによればフランス大聖堂は1701年開始・1705年完成、聖ヘートヴィヒ聖堂は1747年開始、1773年完成である。
 

 

■ 解 答 例 

1685年のルイ14世によるナントの勅令廃止で信仰の自由を失ったフランスのユグノーたちは北欧各国へ亡命した。新教国プロイセンは、産業振興のため商工業者が多いユグノーを受け入れ、王国に昇格してホーエンツォレルン家領を統合した1701年には彼らのためフランス大聖堂を建設した。18世紀前半にフリードリヒ=ヴィルヘルム1世がユンカーを登用して官僚制や軍隊を整備し、王権の強化を進めた後、1740年に即位したフリードリヒ2世はオーストリア継承戦争と七年戦争でオーストリアのマリア=テレジアと争い、ハプスブルク家が領有していた鉱工業地帯シュレジェンを獲得して軍備の強化に努めた。近代化を進めるために啓蒙思想を受容した彼の統治下では、旧ハプスブルク領のカトリックに対して寛容な宗教政策がとられて聖ヘートヴィヒ聖堂が建設され、1772年の第1回ポーランド分割で新たに支配下に入ったポーランド系カトリックに対する受け皿ともなった。400字)
(2016.11.23、一部を訂正しました。[プロイセンの王権について、絶対王政を確立したという表現を使っておりましたが、少々表現として強かったように思いましたので王権の強化を進めたとしておきました。]) 

 

■ 採 点 基 準 

:設問が求めるのはユグノーのためのフランス大聖堂とポーランド系住民(カトリック)のための聖ヘートヴィヒ聖堂という二つの聖堂の建設について、

 

(1)建設された理由を比較せよ

 (2)建設をめぐる宗教的背景を説明せよ

 (3)建設をめぐる政治的背景を説明せよ    という3点である。

 

 論点は整理しやすいですが、建設時期がフランス大聖堂の18世紀初頭(プロイセン公フリードリヒ1世の時期)と聖ヘートヴィヒ聖堂の18世紀半ば~後半(フリードリヒ2世の時期)と異なる時期にまたがっていることには注意を払う必要があるでしょう。

 

【A. 宗教的背景】

① 1685年のルイ14世によるナントの勅令廃止(仏)

② ナントの勅令廃止によるユグノーの北欧各国への亡命

③ フリードリヒ2世の啓蒙専制君主としての国家建設と宗教的寛容との関係

 (③は設問文章中の「パンテオン」などの語からも想起することができる)

④ 新たに獲得したシュレジェン(またはハプスブルク家の領地)にカトリック(またはポーランド系住民)が多いこと。

(予備校の模範解答などにはシュレジェンにポーランド系カトリックが多いことなどが示されていますが、これは教科書や通常の参考書のレベルをこえた要求であり、少なくとも2016年度の受験生がこれを示すことは望むべくもありません。むしろ、ハプスブルク領がプロイセン支配下に入ることにどのような宗教的意義があるかを見出す想像力が重要。ただし、ポーランド分割[1772]を聖堂建設の理由[1747-]に結びつけることは時期的に無理なので注意。)

 

【B.政治的背景】

④ 18世紀初頭のプロイセンにおける軍国主義的絶対王政の形成

 - 1701  フリードリヒ1世時代にプロイセン王国としてホーエンツォレルン家領を統合

 - 1713~ フリードリヒ=ヴィルヘルムによるユンカー出身者を用いた軍隊・官僚制の整備

⑤ フリードリヒ2世の即位と近代化策

⑥ オーストリア継承戦争(1740-48)と七年戦争によるオーストリアとの争いとシュレジェン獲得

⑦ シュレジェンが鉱工業地帯であること

⑧ 第1回ポーランド分割(1772) [2回・第3回分割にもプロイセンは参加しているが、1773年に完成した聖ヘートヴィヒ聖堂の「建設理由」を問う本設問では必ずしも言及の必要はありません。ただ、「新たに加わったポーランド系カトリックの受け皿となった」とは言えるでしょう。]

 

【C.両聖堂が建設された理由】(A.Bとの重複箇所あり。適切に統合できるかがカギ)

(フランス大聖堂)≒なぜ、ユグノーを受け入れたか

⑨ プロイセンがドイツ地域を代表する新教国であること

⑩ 国内の産業育成のために亡命してきたユグノーを受け入れたこと

 

(聖ヘートヴィヒ聖堂)≒なぜ、ポーランド系カトリックが統治下に入ったのか

⑪ シュレジェンの領有とポーランド分割(ただし、ポーランド分割開始時には建設はほぼ完成)

⑫ 宗教的寛容・移民や新たな住民の受け入れ


■ 解 法 

Iほどではないが、同じく資料文が参考にはなるので、まずは読解と整理を。

 

1701年にユグノーに対して建てられたフランス大聖堂(1705年完成)

→亡命ユグノーを想起する必要あり(1685年 ナントの勅令廃止)

1747年に建設が開始された聖ヘートヴィヒ聖堂(ポーランド系の「新」住民のため)

1740-1748 オーストリア継承戦争:シュレジェンの獲得

 時期に注目できるかどうか。

1773年に完成した聖ヘートヴィヒ聖堂の円形聖堂

=ローマのパンテオンを模して造られたもの

 =当時の国王(フリードリヒ2世:1740-1786)の基本思想

  「君主は国家第一の下僕」(啓蒙専制君主)

 →ここから「啓蒙」と「宗教的寛容」を結びつけて論ずることができるかどうか。


●解答のポイント

 (1)文章の読解と分析

  一橋の大問Ⅰ・Ⅱでは史料・文章の読解と分析が必須です。ベルリンが当時のプロイセンの都であること、18世紀がプロイセンにとっての発展期であり、その世紀の半ばからは啓蒙専制君主フリードリヒ2世の統治下で近代化が図られたことなどは必ず想起しなくてはならないでしょう。

 

 (2)当時のヨーロッパの宗教事情の確認

  ユグノーという単語から、一橋の受験者であれば1685年のフランスにおけるナントの王令廃止とそれにともなうユグノー(多くの商工業者を含む)の北西欧地域への亡命はすぐに思いつくことができます。問題は、もう一つのカトリックをどのように処理するかということですが、18世紀ドイツ地域においてプロイセンと覇を競いあうハプスブルク家の支配下ではカトリックの勢いが強いことは教科書レベルの知識であっても引き出すことは可能なはずです。

 

 (3)プロイセンにおける宗教の意義と、政治的状況との関係性についての考察

  プロイセンが新教国であり、富国強兵策を展開していたことから、商工業者の多い亡命ユグノーが保護の対象となったことや、フリードリヒ2世が啓蒙思想に傾倒していたことから宗教的寛容が国策として打ち出されたことを指摘するべきでしょう。

 

 

 ★ ワンポイント

 「啓蒙」は今後一橋の大問2を説くうえでキーになる概念になるかもしれないので良く理解しておきましょう。最近の歴史学会の動向としても「宗教的寛容」や「啓蒙」といったテーマは注目されています。西欧で絶対王政が成立したのに対し、地主貴族が優勢だった東欧地域では啓蒙専制君主という形で、君主が啓蒙思想を利用しながら国家の近代化と権力の集中を図るスタイルが成立したわけですが、その際、君主が啓蒙思想を利用してその力を抑えたのは当時力を持っていた旧来からの地主貴族や教会勢力でした。つまり、啓蒙専制君主は国の近代化を進めると同時にこうした教会勢力の伸張をおさえる意味でも啓蒙思想を利用したわけですが、それは啓蒙思想が宗教的寛容の要素を色濃く持っていたからだ。フランスにおける百科全書派と教会との対立や、オーストリアのヨーゼフ2世による宗教寛容令の失敗などを想起すれば、啓蒙と宗教的寛容の関係について思い出すことができるでしょう。啓蒙については2015年の冬期講習で予想問題として作ったものをあげておきましたのでご参照ください。 

 

2016年 Ⅲ

■ 問 題 概 要 

・1945年以降の朝鮮半島の情勢を説明せよ。
・また、朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響を論ぜよ。(以上、2点について400字)
・これに関して、1950年8月の周恩来による対朝鮮戦争戦略が紹介されている。
(中共中央文献研究室編『周恩来年譜1949-1976』より引用。但し、一部改変)
 その内容を要約すると、
 1、米帝は朝鮮半島を世界大戦の前線基地にしようとしている。
 2、朝鮮は世界、中でも東アジアにおける闘争の焦点となっている(下線部)
 3、朝鮮問題は単に隣接する地域との利害関係を超えた国際問題である。
 4、朝鮮支援のためには台湾解放を先送りにしてでもその防衛のための軍隊を組織すべきである。

 

■ 解 答 

日本の降伏により朝鮮では朝鮮人民共和国が建国を宣言したが、間もなく北緯38度線を境界とする米ソの軍政下におかれた。一時は大国による信託統治も検討されたが、これに反対する朝鮮の世論は左右に分極化し、米ソの対立も深刻化する中で朝鮮は南北に分裂し、金日成を主席とする朝鮮民主主義人民共和国と李承晩率いる大韓民国が成立した。冷戦の拡大にともない南北の対立も深まり、1950年に朝鮮戦争が勃発し、北の侵攻に対して米は国連軍を派遣したが、中国が人民義勇軍を組織して対抗したため戦線が膠着し、1953年に板門店で休戦協定が結ばれた。この戦争の結果、毛沢東率いる中国共産党は指導力を強め、土地改革や第一次五か年計画などの社会主義化を進めるとともに本格的な核開発に着手した。一方、台湾は米の支援を受けて蒋介石率いる国民党の独裁が確立し開発独裁が展開されるとともに米華相互防衛条約を締結して米の反共軍事包囲網の一角に組み込まれた。(398字)

 

■ 採 点 基 準 

設問で要求されているのは次の2点。

 

① 1945年以降の朝鮮半島の情勢についての説明

② 朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響

 

以上について論じる素直な設問であり、提示されている史料についても特に深い読みは必要としません。(文章中からは人民義勇軍の組織・冷戦などが示唆されるが、これらは特に意識しなくても思いつくことができます。ただし、「台湾の解放を先送りにし」、朝鮮戦争への介入を周恩来が主張しているこの史料からは朝鮮戦争が中国共産党による台湾への圧力を弱めることになったことが読み取れるのでこの点については注意が必要。)

 

【A.1945年以降の朝鮮半島の情勢】

① 朝鮮人民共和国の成立(朝鮮の人々が主体となった臨時政府の樹立)

② 北緯38度線を境界とした分割占領(北:ソ連、南:アメリカの軍政下)

③ 信託統治をめぐる朝鮮世論の左右分極化 

④ 冷戦の拡大 

⑤ 朝鮮民主主義人民共和国(金日成)と大韓民国(李承晩)の独立宣言と南北分裂 

⑥ 朝鮮戦争(1950-53)の勃発とその進展 

⑦ アメリカによる国連軍の派遣と、中国人民義勇軍の参戦 

⑧ 板門店での休戦協定締結 

 

【B.朝鮮戦争が中国及び台湾の政治に与えた影響】

⑨ 中華人民共和国における毛沢東率いる中国共産党の指導体制の確立 

⑩ 中国における土地改革の実施・第一次五か年計画の推進による社会主義国化の進展 

⑪ 中国における核開発の本格化 

⑫ 太平洋地域におけるアメリカの反共軍事包囲網の構築

⑬ 米華相互防衛条約(1954)の締結 

⑭ 中国の台湾侵攻の先送り 

⑮ 台湾における蒋介石率いる中国国民党の指導体制の確立 

⑯ 蒋介石指導下における開発独裁の展開 

 

【C.補足事項】

⑰ 中国における国共内戦と中華人民共和国の建国(蒋介石の台湾への逃亡)

 

 以上をバランスよく配分することが必要となります。朝鮮戦争中の経過を詳述してもあまり意味はなく、戦争に至るまでの経過と、戦争後の中台への影響をどれだけ丁寧に盛り込めるかが高得点を狙うカギとなるでしょう。

 

●解答のポイント

(1)1945年以降の朝鮮半島情勢について説明する

  戦後の朝鮮半島情勢というとすぐに朝鮮戦争につなげがちですが、戦争に至るまでの状況についても留意しましょう。北緯38度線における南北分割占領、大韓民国ならびに朝鮮民主主義人民共和国の成立、冷戦の影響などの基本事項については必ず抑えておくべきですが、それほど難しい内容ではなく、むしろ得点源になったのではないでしょうか。

 

(2)朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響について論ずる

  本設問においてもっとも得点に差がつく部分であり、ここをきちんと書けたかどうかが勝負の分かれ目となります。朝鮮戦争に中国が参戦することはよく知られた事実ですが、ここで注意しなくてはいけないことは人民義勇軍が朝鮮戦争に参戦したことは正確に言えば「中国が」・「朝鮮に」与えた影響であって、「朝鮮戦争が」・「中国に」与えた影響ではないということです。設問の要求に従えば、朝鮮戦争によってその後の中国・台湾がどのように変化したのかについて説明する必要があるでしょう。

 [中国への影響]

① 米軍を中心とする国連軍と痛み分けに持ち込んだことで、成立直後の中国共産党指導部の国内における権威が高まり、これを背景に毛沢東は本格的な社会主義化に着手し、土地改革や第一次五か年計画を進めることになった。

 ② 戦争後、中国は本格的な核開発に着手した。

 [台湾への影響]

  アメリカが構築する反共包囲網の中に組み込まれ、1954年に米華相互防衛条約を締結するとともに、アメリカの支援を得た蒋介石率いる国民党の独裁が確立した。



【論述問題についての一般的な知識と注意】

 

 最も重要なことは、その設問が「求めているものは何か」ということと、「設問の意図」をくみ取ることです。また、設問が付している条件や注意に十分留意する必要があります。設問の要求や条件を満たしていない場合、どんなに歴史的な知識や用語を盛り込んだとしても、点数は大きく下がるものと思っていいでしょう。

例えて言えば、母親から「ちょっとー、今日夕飯食べるの~?」と聞かれたのに対して「8時~」と答えるようなものです。母ちゃんは夕メシを食うか、食わないかを聞いているのであり、時間を聞いているのではありません。「8時って言ってるんだからその時間にメシを食うって意味だって分かれよ」というのは傲慢というものです。そんなことができるのは斉木楠雄だけです。

 
saiki
 

 

論述とは、出題者の意図した質問に対して、正確かつ明確にこたえることが要求されるものです。つまり、論述では出題者とのコミュニケーション能力を問われています。「論述対策とは何ですか?」と問われた場合、「それはコミュニケーション能力を養うことです」と私は答えたい。普段から単語だけで済ませるような会話で人に接するのではなく、主語と述語の関係を明確に示したり、時系列や因果関係をはっきりと示して物事を説明するコミュニケーションをとっていれば、それが自ずと論述力を高めることにつながると考えてよいでしょう。

 もっとも、世界史の論述対策として示すにあたって、「国語力を鍛えろ」というだけではいかにも無責任ですので(真実ではあるのですが…)、世界史の論述を組み立てるにあたり、知っておくと良いと思われるいくつかの知識と注意点は示しておきたいと思います。

 

1、種類

 A 事項説明型

 B 展開・経過説明

 C 変化説明

 D 比較・相違説明

 E 特徴説明

 F 意義説明

 G 背景・理由説明

 H 結果・影響説明

 

 これだけではありませんが、基本的な枠組みを知っておくほうが論述を進める際には便利です。

 

2、字数

 30字から600字程度の論述まで多岐にわたりますが、基本的な基準としては60字論述に3つから4つほどの採点基準が入ってくると考えていいでしょう。60字論述であればこの中に通常は一つから三つの短文が入り、対比・経過・特徴などの説明がされることになります。

 

ex.1)「設問:上座部仏教と大乗仏教の教えの違いを60字以内で示しなさい」

 

(A)上座部仏教では出家者が自己の解脱を目指して修行を行うことを重視したが(B)大乗仏教では菩薩信仰を中心に万人の救済を目指した。 (60字)

 

  この例ではAとBの対比と、上座部仏教・大乗仏教の内容説明になります。

 

ex.2)「設問:クシャーナ朝が栄えた理由を、交易という観点から60字以内で説明しなさい」

 

(A)クシャーナ朝は(A)西北インドから中央アジアを支配し(B)中国とローマを結ぶ交通の要衝をおさえ(C)東西交易によって経済的に栄えた  60字)

 この例ではAで地理的な支配地域を示し、Bで交易が盛んになる前提や対象を示し、Cでどのような種類の交易を行っているかを示しています。

 

  例題もZ段階式世界史論述トレーニング改定版)引用

 

【論述を書く際にありがちな誤りと注意】

 

1、文章にねじれがある(主語が判然としない、述語が正確に使われていないなど)

:長い文章を書いているうちに文全体の主語とその後の述語にねじれが生じてしまうということはよくあることです。こうした誤りは物事の関係性が正確に読み取れない原因を作ることになるため、採点のしようがなく、減点対象となってしまいます。

 

(例)「設問:秦が郡県制を採用したのはなぜか」

 

「不十分な解答例:反乱がおさえられ、皇帝に権力を集中するため」

  →この場合、設問が要求している通り主語が「秦」であるとすれば「反乱」は「秦」が「おさえる」ものです。「おさえられ」では主語が「反乱」になってしまいます。よって、以下のようにするのが正しいです。

 

「良い解答例:(秦が)反乱をおさえ、皇帝に権力を集中するため」

 

2、助詞などを正確に使えていない

 

(例)「郡県制は中央集権的である各地に中央から役人を派遣したのに対し、郡国制は都の周辺は役人を派遣したのを、地方は土地を与えて王として封じた。」

    →このように不正確な助詞を用いると、文章の意味自体が変わってしまったり、文意が取れなくなってしまいます。(たとえば、「中央集権的である各地」としてしまうと「中央集権的であること」は「各地」の形容詞になってしまいます。「中央集権的であり、各地に中央から役人を派遣した」が正しい。)

 

このように、文章自体がしっかりしたものでないと、歴史的な用語や必要な要素に誤りがなかったとしても正解にはしてもらえなくなるので注意が必要です。

 

  上記のような文法上の誤りを避けるためには、以下の2点に注意すると良いでしょう。

  ① 「主語は何であるか」に注意を払うこと

  ② 長い文章としてつなげる前に、まず短い文章を複数作ること。

   (たとえば、「ローマ教会は東ローマ帝国と対立していた」という文と「ローマ教会は政治的な後ろ盾を欲していた」という文を頭の中でつくり、最終的に「ローマ教会は東ローマ帝国と対立していたため、政治的な後ろ盾を欲していたから」という文章としてまとめ、関係にねじれがないかを確認する)

 

他にも多くの注意点はありますが、それについては各校の論述対策や別の記事の中で示していくことにしたいとおもいます。

 

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