世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

各校の過去問対策、受験対策のほか、世界史を理解する上で役に立つ視点や勉強法についての情報を随時更新していきます。

以下のような方はとくにオススメ!

・東大、一橋などの国公立や早稲田、慶応の受験を世界史で考えている。
・論述対策を進めたい。
・教科書やプリントだと不足している情報が多すぎて、背景にあるつながりが見えない。
・『詳説世界史』などを読むだけでは気づけない、専門的な歴史的視点を養いたい。
・世界史を覚えるのが苦手で、どうやって勉強したらよいのかわからない。
・世界史の教員になりたてだが、西洋史が専門ではないので少し突っ込んだ知見を知りたい。

※ 目標に向けて頑張る受験生の皆さんの一助になればと思って頑張って更新し、情報もチェックしておりますが、人間ですのでミスなどが出ることもあります。当サイトの情報をご利用の際はあくまでも自己責任でお願いいたします。

※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw また、大手予備校のHPからも閲覧できるかと思います。正規の問題が手元にあった方がわかりやすいと思います。


 今回は、東京大学「世界史」の大問1(大論述)について、その出題傾向を分析してみます。とはいっても、東大の出題傾向を分析することについては、正直なところ、一橋などの問題分析と比べて必要性をあまり感じていません。なぜならば、東大の問題はある意味とてもオーソドックスでかつ非常に良く練られており、時代・領域ともに広域にわたり、(後述するが)問題全体を貫く何かしらのテーマが設定されていることが多い問題です。まったくもって、「正当派」というにふさわしい問題であるにもかかわらず、比較的新しい歴史学上のテーマや現代に対する問題関心もうかがえ、いくばくかの冒険心を感じさせる設問です。ゆえに、私は東大の世界史論述を高く評価しています。私なんぞが高く評価したところでさしたる意味がないことはわかっていますが、個人的にはよくできていると思います。正直、早稲田の論述問題とは練度が違います(もっとも、出題の意図というか、求めるところが違うのでしょうから、同列で比較しても意味のないことではあります)。しかし、「正当派」であるということは「ヤマをはる」タイプの対策がたてづらいことを意味しています。つまり、東大の問題はどうしようもないくらい正攻法で攻めることが一番の対策なのです。

 

東大の問題は、まんべんなく世界史の知識に精通し、その内容をきちんと理解している受験生には正直それほど苦になる問題ではありません。必要な知識を、そのテーマにそって整理し、設問の要求に答える。こうした作業を丁寧に行うことができるのであれば、彼らにとって満点答案は作れないにしても、周囲と比較したときに十分に合格答案を作成することは可能です。おそらく、設問の難度としては時として一橋の方が上回ることがあるかもしれません。しかし、それは一橋がある種の時代やテーマに特化した出題をして、通常の受験生ではあまり深く掘り下げていないような知識・内容を聞いてくるからであって、そうした「一橋の独自性」をきちんと把握した受験生にとっては「全く太刀打ちできない」という類のものではありません。(もちろん、例外はあります。特に2003。あれはひどかったw 何を考えて出題したのかわかりません。)であるから、一橋の出題傾向には分析の価値があります。なぜなら、分析することによって打てる対策が明確になるとともに、その効果も十分に期待できるからです。ところが、東大はそうした類の問題とはタイプが異なります。これが、私が東大の問題分析に対して過大な期待を寄せたくない理由です。

 

しかし、だからと言って東大の問題分析に全く意味がないかと言うと、そういうわけではありません。たとえば、先ほども述べたように東大の世界史論述にはその設問全体を貫く大テーマ、一本の芯になるものがあることが多いです。こうしたテーマにどのようなものがあるかをあらかじめ知ることで、実際の受験の際には何を出題者が意図しているかを探ることが可能になります。別稿でも述べましたが、論述はコミュニケーションです。出題者の意図をくみとり、その要求に答えることは、高得点を狙うための絶対条件なのです。その意味でも、東大の問題分析を行うことはおそらく必要なことですし、有意義なことでもあります。しかしそれは、これまで述べてきたような意味で有意義なのであって、「東大には○○は出るけど××は出ないから××はやらなくていい」とか、「5年前にも3年前にも△△が出ているからここを重点的にやっておこう」などというような短絡的で場当たり的な対策をうつための材料としては、期待ほどの効果を発揮しないでしょう。たとえば、東大ではたびたびモンゴルについての出題も出ていますし、イスラームについての出題もされています。しかし、それでは全く同じような内容を解答として書いて、同じように点数が取れるかといえば、そんなことはありません。要求されている視点が違えば、当然答えるべき解答の内容も変わってくるのであり、そのためには関連する事項を様々な事象と関連づけて再整理するという作業が必ず必要になります。東大の問題分析は、そうした解答作成の方向性を見出だすための、ある種の心構えをしておくためのものだと考えておく方が、おそらく本番ではよい得点につながるのではないでしょうか。

 

 前置きが長くなりましたが、それではとりあえず過去30年において東大で出題された大論述の時代設定についてグラフ化したものを下に示しておきましょう。ただし、この手のデータは絶対的なものでないことには注意してください。データ信奉者が陥りがちなのですが、正直データというものはそれをまとめる際にもバイアスがかかるものですし(たとえば、「中世末」といった時にそれを13世紀末ととるか14世紀半ばととるか、15世紀初頭と取るかは、その「中世末」という言葉がどのような文脈の中で用いられ、それを読み取る人間がどのように考えるかで変化するのは当然のことです。問題なのは、その読み取りに根拠があり、その根拠に説得力があるかどうかです)、出されたデータがどんな意味を持つかは解釈によって変わります。データを扱う際に最も大切なことは、最終的にそのデータから、何を根拠としてどのような解釈を引き出すかということが大切なのであって、データそれ自体が重要なのではないことには注意してください。

 

東大出題傾向①(訂正版)
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 少し小さくて見づらいかもしれませんが、何しろ30年分なので勘弁してください。1989年の部分が2色になっているのは、(A)(B)という形で2題にわたっているためです。これを見ると、やはり1621世紀の近世・近代・現代史に出題が集中していることが見て取れます。目立つのはやはり2001年ですが、これは例の「エジプト5千年の歴史」ですw

 
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  個人的にはこういうはっちゃけた設問は嫌いではありませんが、やはりやや評判が悪かったのでしょうか、その後は同様の長期間にわたる歴史はあまり出題されていません。やや時期設定が長い設問ということになると、東大2007年大問1「11世紀から19世紀までに生じた農業生産の変化とその意義」、東大2010年大問1「オランダおよびオランダ系の人々の世界史における役割(中世から現代まで)」、東大2011年大問1「アラブ・イスラーム圏をめぐり生じた異なる文化との接触と、それにより生起した文化・生活様式の多様化や変化、他地域に与えた影響」などがあります。

 グラフを見て目を引くのは、現代史(20世紀史)の出題回数が群を抜いていることです。20世紀のみの設問だけでも6問ですが、20世紀に時期がまたがる設問ということになると30カ年中14問と実に半数を数えます。19世紀が関わる設問を数えれば、21問と、ほとんどの設問において1920世紀史から出題されていることがわかります。そう考えれば、東大の世界史における19世紀史、20世紀史の重要性は言うまでもないことですが、だからといって近現代史のみをやっておけばいいというわけではないことも明らかです。いくつかの問題は近現代とは全く無関係の古代・中世からの出題になっていますし、19世紀・20世紀をその内容に含む問題であっても、中世・近世・近代初期など、他の時代にまたがってその比較や関連性を問う問題も10題前後あることを考えると、「近現代史をやっておけば何とかなる」という考えは捨てたほうがいいとおもいます。また、第二問、第三問で点数を取ることは、大論述で点数を取ること以上に東大世界史では重要で、これらの問題では古代・中世に関わらず非常に広い範囲から出題されています。こうした留保はつくものの、とりあえずはグラフから読み取れることを下に箇条書きにしてみましょう。
 

 19世紀史、20世紀史からの出題頻度が高い。

 

・過去20年と比較すると、近年は比較的短い期間(1世期未満~3世紀程度)を設定とする出題が多く、中でも16世紀から21世紀に出題が集中している。

 

・時折、数世紀にわたる歴史を問う設問もある。

 

 続いて、出題内容について表に示してみましょう。下の表は、各年の大問1の大論述の内容を考慮して、「広域(時代・領域)」、「政治」、「経済」、「文化」、「宗教」、「戦争」、「外交」、「交易」、「民族」など、キーになるテーマごとにどの程度その要素が含まれているかを分析したものです。すでに上述したように、これにも私個人のバイアスが反映されていますし、「経済」と「交易」や「文化」と「宗教」など、本来は不可分の要素などもあります。そうしたことは承知の上で、特にその設問を解く上で重要と思われる事柄を重要度順に「◎→〇→△→無印」で分け、◎はピンク、○は黄色によって色分けしてあります。「広域(時代)」は時代的に長期間のスパンにわたっているもの(2001年問題など)、「広域(領域)」は地理的に広範囲を考慮する必要があるものです。その他の注意としては以下のことに気をつけてください。

 

 (注意)

・同じように地理的に広範囲にわたる設問であっても、単純な二地域間・三地域間の比較など、各地域を相対的に独立して考えて解答を整理できるものには△を、それとは異なり、複数の領域の関連性やダイナミズムを考慮する必要のある設問には〇をつけてある。

 ・「比較」の中で「★」は、はっきりとした比較を求められているものである。ただし、設問上では「比較して」と書いてあったとしても、その他の要素、テーマが色濃く入り込んで単純な二者間の対比によっては良質な解答を作ることが難しいと考えるものには星をつけていない。

 ・字数は大論述のみの字数であって、東大「世界史」全体の総字数ではない。

東大出題傾向2(訂正版)
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この表から見て取れることは以下のことです。

 

 ・時代的に長期にわたる設問よりは、地理的範囲として広域にわたる設問の方がはるかに多い。というより、ほとんどの設問が広域における各地域の関連性、交流を問う設問になっている。

 

・政治、経済史が圧倒的に多い。

 

・文化史や宗教は近年出題頻度が減少しているのに対し、戦争や外交、交易は依然として要素として入り込むことが多い。

 

・民族をテーマとする出題は減少傾向にある。

 

・かつてのような単純な比較史は出題されない。

 (例)東大1987年「世界史」 大問1

   「朝鮮戦争とヴェトナム戦争の原因・国際的影響・結果について両者を比較しながら18行以内で記述せよ」

 (例2)東大2016年「世界史」 大問1 

   「(米ソ、欧州以外の地域において「新冷戦」の時代に1990年代につながる変化が生じており、冷戦の終結が必ずしも世界史全体の転換点ではなかったことを踏まえつつ)1970年代後半から1980年代にかけての東アジア、中東、中南米の政治状況の変化について論ぜよ」

  →例1が比較的単純な二者比較によってもある程度解答が整理できるのに対して、例2では「1990年代につながる変化とは何か」など、一定のテーマ設定をした上で各地域で生じた歴史的事象の意義を考察し、位置づけることが求められる。

 

・かつてはかなり広範な話題が入り込む余地のある設問が多かった(色のついている部分が多い)のに対し、近年はある特定の要素に重点を置いた設問が増えている(色のついている部分が比較的少ない)。

  →これは、かつての設問がややアバウトな設問、何となく他者との関連性を考えた設問(単純な比較史など)を出せばいいだろうという設問であったのに対し、近年の設問が各設問の大テーマを意識し、そのテーマにそった設問を作ろうとしていることによると思われます。(たとえば、東大2015年世界史大問1と「モンゴル時代」または「13世紀世界システム」。「13世紀世界システム」については「東大への世界史①」を参照。)

 

・字数は一時期減少傾向にあったが、近年は増加傾向にある。

  (ちなみに、問題全体の総字数も概ね同様の傾向にあり、1990年代後半~2000年代初頭にかけては650-700字程度が多いですが、ここ5年ほどは840字~960字程度です。もっとも、東大を受験する受験生にとっては小論述や小問などで多少の字数変更があった程度で動揺しているようでは困るので、本表は大問1の字数のみに絞って計算しました。450字論述であるか600論述であるか、というのは練習を積むにしても本番で解答を組み立てるにしても心構えが大きく違ってきます。)

 

 以上が、過去30年の東大入試におけるデータ分析です。この分析から何を読み取るか、というのは人それぞれだと思いますが、私の方からこうした点に注意したほうがいい、ということをあげるのであれば、以下の点になるでしょう。

 

1、16世紀以降の近現代史はもれのないように学習しておくべき。

(「古代中世が必要ない」ということではなく、近現代を重点的にということ)

 

2、政治・経済史に対する深い理解が東大世界史攻略の基本。

 

3、どんなテーマでも、2~3世紀程度のスパンでの「タテの流れ」は把握しておくべき。

(背景・展開・影響などを中心に、短期の事柄に対する理解で満足せずに大きな流れをつかむことを常に心がけると良いと思います。教科書や参考書などの各章の冒頭などは全体の流れを把握するには役立つかもしれません。また、テーマごとに自分なりのまとめをする作業をしてみましょう。自分でするのが手間であれば、本HPでもテーマ史、地域史などをまとめていく予定でいるので参考にしてください。)

 

4、同時代の各地域の交流、関連を常に意識することが重要。

 

5、歴史を貫くテーマに敏感になろう。

(これは、東大の設問が用意する大テーマを感じ取るために必要となる意識だと思います。教科書や参考書を精読したり、各コラムなどに目を通していくと、何となくではあっても各時代において問題となるテーマなどが見えてきます。そのうち、そうしたテーマをつかむのに適した参考書、書籍などについても紹介していくつもりです。)

 

6、過去問を解こう!

※ただし、これは「猿マネ」をしろということではないことに注意してください。まず、「解答例」というものは基本的にあてになりません。平均的な高校生よりはある程度書けている解答例が多いとは思いますが、満点にはほど遠いです。もちろん、それはおそらく私が作る解答例も例外ではありません。ですから、なぜ自分がそういう解答例を作ったのかということを根拠として示すようにはしてありますが、我々は出題者ではないわけですから、そもそも「完全な解答」なるものを標榜すること自体が怪しい気がします。ただ、解答の精度を上げていくことはできますので、解答を参照する際は付属している解説部分を読みながら、自分でもその妥当性を常に検証してみましょう。また、同じような話題の設問でも、視点やテーマの設定の仕方次第で全く別物の問題になることはすでに何度も申しあげたとおりです。ですから、かつて似たような問題が出たからと言って、赤本を丸暗記したような内容を書いてもおそらくロクな点数はとれません。曲がりなりにも日本の最高峰である大学が、過去に出題した問題の丸暗記で済むような設問を作るはずがないということは肝に銘じておきましょう。また、それだからこそ合格する価値があるのだと思います。

※東大に限らず、様々な大学の過去問を解くことで、いろいろな視点に触れることができる、つまり東大の「大テーマ」が何かを解読する力をつけることができます。妙な効率主義はやめて、できるだけ多くの問題に触れましょう。解く時間がなければ解説部分を読むだけでもそれなりに意味はあると思います。

 

今回はデータ分析が主体で、「それでは東大ではどのような大テーマが出ている(もしくは出る可能性がある)のだろうか?」といったことについて触れることができませんでした。これについては東京大学「世界史」大論述出題傾向②を参照してください。


 今回は、中国儒学史について簡単にまとめてみようかと思う。一見するとさして重要ではないように思えるテーマだが、アジア思想史については東大ではたびたび出題されている。たとえば、東京大学1987年第2問のA「宋学(朱子学)が正統学派としてその後の中国の諸王朝や近隣諸国で受容された理由」や2010年第2問、問(1)-(a)「前漢半ばに儒学が他の思想から抜きんでた存在となった理由」などである(2003年の第2問にも朱熹を答えさせてその後の宋学の影響を答えさせる問題がある)。文化史の一部として出てくることが多く、東大でもその出題は宋学に集中していることからあまり儒学について古代から通してまとめようとする人はいないように思うので、ごく簡単にまとめておきたい。

 

[儒学史]

 

(春秋・戦国)

・孔子による儒学創始

:周代の政治の理想化、道徳(孝・悌)、礼、仁の重視

・孟子(性善説)、荀子(性悪説)による発展

 

(秦)

・始皇帝による焚書・坑儒[BC213212]

→儒教を伝える者や文書が一部離散

 

(漢)

[前漢] 武帝期

・董仲舒の献策で儒学官学化、統治理念として採用

・五経(詩経・書経・易経・礼記・春秋)と五経博士の設置

 

[後漢] 光武帝による保護・奨励

・国教化にともなう教義の固定化

・春秋左氏伝の発見と訓詁学の発展

:それまでの口伝である春秋公羊伝に対して秦以前の古代文字で書かれた左氏伝が発見され、以降古典の字句解釈を行う訓詁学が発展(訓詁学は後漢の馬融、鄭玄が大成)

 

(魏晋南北朝)

・漢の崩壊で儒学の権威失墜

→かわりに老荘思想が流行(清談・竹林の七賢)

 

(隋)

・九品中正を廃して科挙が整備される

 

(唐)

・太宗の指示で訓詁学の整理

孔穎達『五経正義』:解釈の統一

 -顔師古:五経の定本作成

  →儒学思想の固定化と思想的停滞

 

(唐代中期以降)

・古文復興運動[韓愈・柳宗元]

:門閥貴族に対抗する新興の科挙官僚が主導

・一方で、仏教や老荘思想を導入した古典の再解釈

→宋学の始まり

 

(宋代)

[北宋]

周敦頤『大極図説』

:宇宙の生成~士大夫の道徳までの論理体系

程顥・程頤

 

[南宋

異民族の圧迫(金・元)

→朱熹による朱子学の大成

「理気二元論」、「性即理」、『四書』の重視

(四書:論語・孟子・大学・中庸)

君臣の別・長幼の序・華夷の別・男尊女卑・大義名分論

 

(元)  

・科挙の廃止(1313 復活)

:モンゴル人第一主義・色目人の重用

 

(明)

・朱子学の官学化

→永楽帝の『四書大全』・『五経大全』編纂(解釈の固定化)

・陽明学の成立

:王陽明(王守仁)がはじめる

「致良知」(良心を磨く)

「知行合一(行いを一致させる)

「心即理」

・明末における宋学の観念論化と陽明学の行動主義

 →一時衰退

・考証学(古典の実証研究)の発展 「経世致用の学」

:黄宗羲・顧炎武など(明末)

 

(清)

・満漢偶数官制、科挙実施

・『古今図書集成』(康熙帝)、『四庫全書』(乾隆帝)編纂

・一方で文字の獄(思想・出版統制)

 →考証学が古典の字句解釈に没頭、経世致用の精神を喪失

・清末に公羊学派が孔子を社会改革者として再評価

 →清末の改革運動に影響(魏源・康有為など)

 

(アジア)

[朝鮮王朝(李朝)]

小中華思想・朱子学官学化・科挙導入・両班

[黎朝(ヴェトナム)]

科挙導入

[日本]

尊王論、『神皇正統記』北畠親房

明清交代期に明の学者が亡命

→江戸幕府へ

-湯島昌平坂学問所

-寛永異学の禁(松平定信)…官学化


(ヨーロッパ)
・ヴォルテール、ライプニッツなど 

 
 本当は理気二元論をはじめ、ポイントとなる思想について焦点をあてて詳述して世界史というよりはむしろ倫理にしたかったのですが、新学期が始まったこともあってめちゃくちゃ忙しいことと、東大と東京外語の過去問分析をまとめている最中で正直時間がありませんw リクエストなどあればそのうち加筆していきたいと思いますが、とりあえず今日は簡潔に箇条書きしたものでとどめておきます。 

 トルキスタン史というものは常に受験生の悩みの種であるようだ。そもそも、高校生の段階で「トルキスタン」というものを理論的かつ感覚的に理解できるとしたら、それはかなり熟練の学習マニアか、熱狂的なトルキスタンオタクか、親戚がトルキスタンの出身かだ。これは別に、高校生を侮って言っているのではない。人間の「理解」にはまず知識として体得する「知る」という段階と、その知識をイメージし、感覚として染み込ませる「実感」する段階があるわけだが、一般的な高校生がこうした実感をともなってトルキスタンを理解するには、あまりにも時間が足りなすぎるし、身近でもない。現に、私が高校の頃はトルキスタンとは何かと問われた時、正確なことを1語る間にウソや見当はずれのことを5つは語ったかもしれない。いや、そもそも「トルキスタンを正確に理解せねばならない」などとは思ってもみなかっただろう。

 

 しかし、志望校として東大を目指すものにはそれが求められる。なぜなら、東大は近年明確にユーラシアという領域を意識しているからだ。ユーラシアを意識してその中央に位置する中央アジア、トルキスタンが問題にならないなどということがあるだろうか。誠に不条理な世の中である。だが、ある一定のレベルを超えて正しく必要な情報を整理してインプットすることができれば、比較的早期にこの実感をともなうレベルの理解をすることも十分に可能だ。そこで、今回はトルキスタンとその歴史をある程度イメージとして保持できるようなトルキスタン史の整理を、世界史の枠組みの中で行ってみたいと思う。

 

[トルキスタン史1:トルキスタンの地理的理解]

 

 トルキスタンのような日常我々がなじみのない地域についてのイメージを確固たるものにする手段として有効な方法が二つある。それは、

 

・正確な地理情報を把握する

・その土地の風土、風俗についての追加情報を得る(映像が望ましい)

 

この二つである。世界史についての理解がもう一つ進まない場合、この手の地理情報がきちんと把握できていないことが多い。具体的な例をあげるのであれば、イリ事件でいうイリ地方とはどこか、沿海州とはどこか、ホラーサーンとはどのあたりか、ライン川はどこを流れているか…etc.

 

 そこで、まずはトルキスタンとはどこかということを漠然とでもよいので把握しておきたい。もちろん、トルキスタンという用語は歴史的なものでもあるため、時代によりその意味するところや地理的な範囲も異なるが、おおよそのイメージを示しておこう。

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http://www.silkroad-caravan.net/coa.history.htmlより引用、一部改変)

 

上の地図は中央アジアの地図を示したものであるが、このうち現在の新疆ウイグル自治区にあたる部分の東トルキスタンと、そこから西、アラル海とカスピ海に至る西トルキスタンがトルキスタンと呼ばれる地域である。この地図自体がややアバウトなものであるし、一枚だけではイメージしきれない部分もあるだろうから、さらに別の角度から見てみたい。


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Wikipedia「トルキスタン」より引用、一部改変)

 

 上の図にあるように、黄色の部分が新疆ウイグル自治区、すなわち東トルキスタンである。東西トルキスタンの間にある緑の矢印が示しているのはパミール高原で、この高原が東西トルキスタンを分ける一つの目印になる。このあたり一帯はいわゆるシルクロードの通る道としても有名なわけだが、それではこの東西トルキスタンをシルクロードという視点から把握しようとするとどうなるのか、別の地図で確認してみよう。
 

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https://twitter.com/HistoryMinstrelより引用)

 

上の地図中央にパミール高原があるので、その東、「タリム盆地」というのが東トルキスタンとほぼ同じ地域であることが確認できると思う。このタリム盆地の大部分はタクラマカン砂漠と呼ばれる砂漠地帯であり、この地域がよくシルクロードに関する設問で出てくるオアシス都市が点在する地域だ。


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Wikipedia「タリム盆地」より引用)

 

タリム盆地の南北には天山山脈と崑崙山脈があり、このうち天山山脈のふもとを南北に通るのが天山北路と天山南路、崑崙山脈の北側を通るのが西域南道である。


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http://www.club-t.com/kansai/special/abroad/silk-road/spot.htmより引用)

 

上の地図を見ると、中央のタクラマカン砂漠にいたる中国側の入り口が敦煌、パミール高原をまたいで西トルキスタン川の入り口がサマルカンドになっていることがわかると思う。このように、様々な方面から地理的情報を把握すると、無味乾燥な「敦煌」、「サマルカンド」「天山南路」などの用語は生きた知識として自身の身体に定着してくる。

 

[トルキスタン史2:トルキスタンの歴史的形成]

 

 これまで紹介した地域がなぜトルキスタンと呼ばれるのかといえば、この地域にテュルク系民族が移住し、いわゆる「トルコ化」が進んだためである。トルキスタンとはすなわち、トルコ人(テュルク人)の住む土地を指すわけだが、このトルコ人たちは、元々はシベリア方面に居住していたモンゴロイドであったらしい。これが、9世紀頃からのトルコ系民族であるウイグルの移住と定住によって現在のトルキスタン周辺に住みつき、イラン系ソグド人などとの混血を進めた結果、現在のような形になっていったとされる。下の地図は現在のテュルク系民族の分布を示したものである。

 

 スライド1

Wikipedia「テュルク系民族」より引用、一部改変)

 

こうしたテュルク系民族はかなり早い時期から歴史の中に登場してくる。中国の文献資料上に登場する丁零(紀元前3世紀頃)とか高車(5世紀頃)、鉄勒(6世紀頃)などはこのルーツである。この頃のトルコ系民族は隣接するモンゴル系民族の匈奴や柔然に従属する弱小民族でしかなかった。

 

 スライド2

Wikipedia「丁零」より引用、一部改変)

スライド3
 

Wikipedia「高車」より引用、一部改変)

  

 しかし、こうしたテュルク系民族は6世紀の突厥の出現によってモンゴル高原の覇者としての地位を築き上げる。突厥は、柔然を滅ぼして建国し、さらにササン朝と結んで中央アジアに存在したエフタルを挟撃して滅ぼして強大化するのである。そのご突厥は東西に分裂の上、東に起こった唐に圧迫されたために次第に衰退するが、この突厥にかわって起こったウイグルも同じくトルコ系民族であった。

 

 だが、突厥やウイグルは基本的に遊牧民族であり、決まった土地に定住するということはなくその活動域もモンゴル高原が主であったため、その広大な支配域に現在で言うトルキスタンが含まれていたにしても、この地域が「トルコ化」されることはなかった。状況に変化が生まれるのはこのウイグルが同じくトルコ系のキルギスによって滅ぼされてからである。モンゴル高原を追われたウイグルは西へと逃れ、9世紀頃に現在のトルキスタン方面に定住した。その結果、それまで同地で交易の民として暮らしていたイラン系ソグド人との混血を繰り返す中で同地が次第にトルコ化されていき、現在のトルキスタンの原型が形成されていったのである(ソグド人はトルコ人と同化する中で民族としての独自性を失い、消滅していく)。

 
スライド11
 

(ソグド人はソグディアナ[またはトランスオクシアナ]と呼ばれる上の赤い地域を中心に活動していた。地図はWikipedia「ソグディアナ」より引用。)

 

 そして、このようにトルコ化が進んだ中央アジアにはもう一つの大きな変化が進行していた。それが同地域のイスラーム化である。すでに同地域には8世紀頃からアラブ人たちが侵入し始め、東方の唐との間でタラス河畔の戦い(751)を戦うなどしていたが、本格的に同地の支配を始めるのはイラン系サーマーン朝の頃からである。サーマーン朝は支配したトルコ人を奴隷軍人として活用し始める。これがマムルークである(実際には、マムルーク自体はすでにアッバース朝期から存在した)。テュルク系民族(トルコ人)と境を接するサーマーン朝はさかんにマムルークを導入し、マムルークはイスラーム世界に定着していったが、一方でこうしたマムルークか軍事的に力を持ち始めると支配者であるイラン系のサーマーン朝に対抗しうる力を有するようになった。その結果、中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝であるカラ=ハン朝の成立を見ることになり、これ以降トルキスタンにおいてはトルコ化とイスラーム化が促進されることになる。

 

[トルキスタン史3:中国史から見たトルキスタン]
 

それでは、トルキスタンとは何か、ということがある程度整理できたところで、高校世界史上で頻出の中国とトルキスタンとの関わりについて簡潔にその概要を示しておきたいと思う。


(前漢)

・武帝:匈奴遠征(タリム盆地獲得:住民はイラン系)

-天山南北路、西域南道(シルクロード・オアシスの道)

    →前漢末に西域都護設置


(後漢)

・班超:甘英を大秦国派遣(条支国[シリア?]止まり)


(魏晋南北朝)

・仏図澄、鳩摩羅什などが亀茲から来訪

 ・6世紀に突厥が強大化(552に柔然を滅ぼして建国)

  →隋の建国期に東西に分裂(583

   [東突厥]:唐に服属(7c)→自立(突厥第二帝国)→ウイグルにより滅亡(8c

    [西突厥]:唐に服属(657)→滅亡(8c)


(唐)

 ・羈縻政策[唐に限らず類似の政策は歴代王朝でも]

  :都護を中央から派遣し、在地の族長を都督・刺史に任命

(自治を許す間接統治策)

→六都護府設置

1、    安東(平壌)

2、    安南(ハノイ)

3、    安西(亀茲)

4、    安北(外モンゴル)

5、    単于(内モンゴル)

6、    北庭(新疆ウイグル自治区方面)

 ・8世紀にウイグルが東突厥を滅ぼして建国、唐とは同盟関係


(唐末)

・キルギスにより、ウイグル国家が滅亡

→ウイグル人[トルコ系]が現在のトルキスタンに移住

→ソグド人などのイラン系住民と混血(トルコ化)

   =トルキスタンの形成

・サーマーン朝の侵入

 →イスラーム化の進行


(宋)

 ・カラ=ハン朝:東西トルキスタンを支配した初のトルコ系王朝

 →トルキスタンのイスラーム化を促進

11世紀に東西に分裂

 (東は西遼、西はホラズムにより滅亡)

・カラ=キタイ(西遼:モンゴル系、仏教):遼の王族・耶律大石が建国

→ナイマンに滅ぼされる

→チンギス=ハンの征服(ホラズムに至る通り道である点に注目)

→トルキスタンは後にチャガタイ=ハン国の支配下に

(明)

・ティムール帝国の勃興

・ティムール衰退後

[トルキスタン西部] チャガタイ=ハン国の残存勢力が割拠
           →のちにウズベク人が台頭 

[トルキスタン東部] オイラートが勢力拡大

→エセン=ハンの時に土木の変[1449]:正統帝捕虜に

→エセン暗殺後に分裂・再統合

(ジュンガル部の形成[ガルダン=ハン]

[さらに東部(モンゴル)] タタールが勢力拡大

  

  ※ 上記のうち、オイラート・タタールが「北虜」となる


(清)

・乾隆帝によるジュンガル部平定[1758]

→藩部に編入して「新疆」、理藩院による支配

1871 イリ事件

[流れ]

  太平天国の乱[1851-64]に乗じて新疆でコーカンド=ハン国のヤクブ=ベクほかイスラーム勢力の反乱が発生

  太平天国鎮圧後に左宗棠を派遣、鎮圧後に直轄化

  混乱に乗じてロシアが出兵、イリ地方占領[1871]

  左宗棠による再占領(ロシアが露土戦争で身動きできないうちに)

→イリ条約(1881):事態の収拾[東西に分割]

 以前にイリ事件をテーマとした設問が出題されたことから高3向けに中国とトルキスタンとの関わり合いを考えるために作った授業をベースにトルキスタン史を概観してみたが、こうしたくくりだけでなく、「トルコ民族史」としてのトルキスタン史を考えることももちろん可能である。トルコ民族というくくりで考えた場合には、地域的にはトルキスタンからは外れるが、ガズナ朝や奴隷王朝(アフガン~北インド)、セルジューク朝、ホラズム朝(イラン・西アジア)、マムルーク朝(エジプトなど)などのイスラーム王朝が名前としてあがることになるだろう。その場合、まず中央アジア地域でイスラーム化したトルコ人勢力が各地に拡大していく過程としてとらえると全体像をより把握しやすくなるだろう。それについては別稿に譲ることにしたい。

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