世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

各校の過去問対策、受験対策のほか、世界史を理解する上で役に立つ視点や勉強法についての情報を随時更新していきます。

以下のような方はとくにオススメ!

・東大、一橋などの国公立や早稲田、慶応の受験を世界史で考えている。
・論述対策を進めたい。
・教科書やプリントだと不足している情報が多すぎて、背景にあるつながりが見えない。
・『詳説世界史』などを読むだけでは気づけない、専門的な歴史的視点を養いたい。
・世界史を覚えるのが苦手で、どうやって勉強したらよいのかわからない。
・世界史の教員になりたてだが、西洋史が専門ではないので少し突っ込んだ知見を知りたい。

※ 目標に向けて頑張る受験生の皆さんの一助になればと思って頑張って更新し、情報もチェックしておりますが、人間ですのでミスなどが出ることもあります。当サイトの情報をご利用の際はあくまでも自己責任でお願いいたします。

※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw また、大手予備校のHPからも閲覧できるかと思います。正規の問題が手元にあった方がわかりやすいと思います。


 経済理論について、通り一遍の知識を身につけることはそれほど難しいことではない。レッセ=フェールといえばアダム=スミスだし、マルサスといえば『人口論』だ。だが、こうした経済学の流れや、そもそもなぜ種々の経済理論が生み出されては消えていったのかを理解することはなかなかに難しい。そこで、今回は特に近世以降のヨーロッパ経済の発展とともに変化してきた経済理論について簡単にまとめてみよう。

 

16世紀~18世紀)

 ・重商主義

-重金主義:スペイン・ポルトガル

-貿易差額主義:コルベール(仏)、クロムウェル(英)

(-産業保護主義:コルベール、ジョン=ケアリ[英・キャリコ論争]

 

18世紀後半)

・重農主義…ケネー・テュルゴー(仏)

:重商主義のような国家による経済介入を批判

「レッセ=フェール」による自由放任主義を唱える

 -ケネー(仏)『経済表』

 -テュルゴー(仏)

  ・古典派経済学(自由主義経済学)

:重農主義の自由放任主義を継承、近代資本主義の発達

-アダム=スミス(『諸国民の富』、レッセ=フェールの継承、労働価値説)

-リカード

(労働価値説、19世紀英自由貿易主義、『経済学および課税の原理』)

-マルサス(『人口論』)

JSミル(功利主義)

                

19世紀~、ドイツ)

・歴史学派経済学

:経済を発達段階的に理解する

経済後進国における保護貿易主義を説く

-リスト:ドイツ関税同盟(1834

 

19世紀後半~)

・マルクス経済学

:資本家による労働者搾取批判

 労働価値説の批判的継承による「剰余価値説」

-マルクス『資本論』

20世紀)

・修正資本主義

:国家による経済介入を肯定

-ケインズ:ニューディール政策

      『雇用、利子および貨幣の一般理論』

 

 ここがポイント

 

近代的な経済学が発展するのは16世紀に入ってからだが、これはいわゆる大航海時代(または大交易時代)の始まりと軌を一にしている。その萌芽はすでに15世紀イタリアにも見られるのだが、16世紀以降、商業革命が起こってからの交易はその規模が圧倒的に異なる。いずれにせよ、これ以降の近代経済学の発展は、それぞれの国が直面した経済状況に応じて変化してきた。新大陸の鉱山経営を進めてヨーロッパやアジアに莫大な銀をもたらしたスペインやポルトガルにおいて重金主義という考え方が生まれたことはその典型である。

 

 ところで、貴金属こそが国富であり、この国外流出を防ぐことが経済的繁栄をもたらすという考え方を重金主義であるとするなら、同じく16世紀のイギリスのトマス=グレシャムなどもこれに含めることができる。彼は王室財務顧問としてエドワード6世期からエリザベス1世期にかけて王室債務の軽減に尽力した人物だが、彼の「悪化は良貨を駆逐する」という考え方がどうも受験生には苦手らしい。簡単に説明すると、「悪化(品位の低い貨幣)と良貨(品位の高い)貨幣を比較したとき、人は通常良貨を退蔵して悪化を取引に用いるため、取引市場においては、良貨は姿を消し悪貨のみが流通することになる」ということを言っている。具体的に説明してみよう。たとえば、下は江戸時代に流通した小判であり、さらに表は2013年の慶應義塾大学経済学部の日本史で出題された江戸期の小判の金の含有量を示したものである。


Koban
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/A017c.htm

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 http://blog.livedoor.jp/otakarajoho/archives/6607231.html
 

 さて、仮にこれらの小判の額面が全て「1両」であったとして、同じ時期に流通したとしよう。金・銀・銅などの中で「金」が最も価値を持つと考えられるとした場合に、みなさんは取引の際に「慶長小判」と「元禄小判」のどちらを使うだろうか。多くの人は、「同じ1両として通用するなら、慶長小判の方が金をたくさん含んでいるからこれはタンスにでもしまっておいて、取引には金があまり含まれていない元禄小判を使おう」と考えるはずだ。これが続けば、実際の流通貨幣からは「良貨(慶長小判)」は駆逐され、「悪貨(元禄小判)」のみが取引で用いられるようになる。これがグレシャムの法則の基本的な考え方であり、かれはこの考え方に基づいてイギリスの通貨価値の是正を進言して王室財政の立て直しに成功する。このような考え方は基本的に「通貨それ自体」に価値がある場合に当てはまるものであり、通貨自体の価値(紙)が額面上の価値におよばない現在の信用貨幣の場合には当てはまらない。

 

 さて、話を戻すと、こうした重金主義の後に出てくるのが貿易差額主義である。17世紀に入って英・蘭・仏はそれぞれ東インド会社を設立して海外交易に乗り出すが、当初海外交易の覇権をにぎったのはオランダであった。これには、それぞれの会社の質も関係している。英・仏の東インド会社が当初は王室からの特許によって成立した一部の特権商人の集団であったにすぎなかったのに対し、商人貴族(レヘント)が国政を牛耳るオランダでは当初から国家的な後押しを期待することができた。フランスの東インド会社は15年の有限の特許状によるもので間もなく消滅してしまう(後にコルベールによって再建される[1664])。また、イギリスの東インド会社はジョイント=ストック=カンパニーと呼ばれる形態の会社で、各商人が無限責任を負って投資し、その投資した資金によって会社組織(施設、従業員など)を維持するというものであったのに対し、オランダの東インド会社は株式会社であった。要は、組織面や資金力において当初からオランダの方が強力だったのである。

 

こうした状況に変化が生まれるのはオリヴァー=クロムウェルが政権を担当するようになってからだ。航海法でよく知られるクロムウェルであるが、クロムウェル自身は航海法には反対だったようである。熱心なピューリタンとしてカトリックのアイルランド制圧などに乗り出し、同じくカトリック国フランスと対峙していたクロムウェルは、同じプロテスタント国家であるオランダと対立することにはあまり乗り気ではなかったらしい。むしろ、この航海法制定をクロムウェルに迫った(もしくは懇請した)のは議会の側だった。そして、その議会を構成する貴族やジェントリの多くは航海法による取引の拡大に少なからぬ利害関係を有していたのである。[Barry Coward, The Stuart Age : England 1603-1714 Third Edition (London: Longman, 2003) ほか]

アジア交易や大西洋交易が発展するに従い、輸出は良く、輸入は国富の流出につながるから良くないとする貿易差額主義が重金主義にかわってあらわれる。また、輸出を促進するための国内産業の育成が図られる中で、産業保護主義が唱えられるようになるのである(コルベールによるゴブラン織りの王立マニュファクチュア設立など)。

 

 一方、18世紀になるとフランスでは重農主義が、イギリスでは古典派経済学が出現する。実はこの二つの経済理論は密接に関連している、いやもしかすると発展の仕方こそ違えど本質的には同じものであったかもしれない。重農主義は、重商主義に対する批判の中で生まれてきた経済理論である。『経済表』を著したケネーは特に以下の点を経済発展の阻害要因として批判した。

 

 ・絶対王政の重商主義政策による一部特権商人の保護

 ・強力な地主の存在と過剰な統制による経済活動(流通など)の鈍化

 

要は、強大な権力が一部の特権を有するものに便宜を図ることで物価の上昇を招いたり新規参入の商人が現われなくなるなどの経済活動の萎縮が起こり、さらにこれが地方レベルにおいては地主権力による過剰な課税や関税徴収などの搾取により、経済発展を阻害すると言っているのだ。こうした考え方はイギリスの自由貿易主義とか、もっと乱暴に言ってしまえば楽市楽座の発想にも共通するものがある。しかし、当時は絶対王政下のフランスだ。経済が発展しないのは「あんたのせいだ!」と王室や貴族・聖職者連中に言ったところでまともに聞いてもらえないのはわかっている。そこでケネーは社会を地主・生産者(農民)・非生産者(商人)に大まかに区分し、「富の源泉は農業にある」と唱えてその富を最大効率で配分するために、「交易の自由化」や「関税の廃止」などによる経済の自由化(レッセ=フェール)を主張したのである。

 

 そして、この重農主義のレッセ=フェールを継承したのが古典派経済学であった。古典派経済学は産業革命による資本主義の発達に対応するために発展した経済理論である。アダム=スミスはケネーの重農主義を継承しつつ、国家の富の源泉を農業ではなく農地や設備に投下された労働にあると考えた。つまり、「どれだけ働いてものを作りだしたか」がそのものの価値を決めると考えたのである(労働価値説)。またスミスは、重農主義者のレッセ=フェールを発展させて、「個人が自由な市場において個々の利益を最大限にしようと経済活動を行う場合、最終的に全体としては最適な富の配分が達成される」という「見えざる手」を想定し、『国富論』の中で紹介した。

 

こうした考え方は、18世紀後半から19世紀初頭において展開するイギリスの自由貿易主義ともマッチするものであった。ここで、なぜこの時期にイギリスでは自由貿易主義が台頭してくるのかというその社会経済的背景について解説しておかなくてはならない。受験生はあまり把握していないことが多いのだが、この時代に台頭してくるのは「産業資本家」であって、「地主」や「東インド会社」はむしろこうした「産業資本家」とはその利害において対立関係にある。単純に図示すると下のような状態である。


貴族・地主・産業資本家
 

 

 単純に「支配層」と言っても一様ではなく、その中での対立が国の方針や政策に影響を与えることはある。こうした諸階層の対立や、18世紀イギリスの自由貿易主義などは商業・経済系の大学などでもたびたび出題される個所である(2012年一橋大学「世界史」大問32015年慶応経済学部「世界史」大問2の問6「キャリコ論争」など)。直接の因果関係があるとまでは言わないが、1832年に第1回選挙法改正があった翌年の1833年に東インド会社の諸特権(中国貿易独占権など)が廃止されることは印象的である。こうした19世紀の自由貿易主義を支えた古典派経済学はアダム=スミスの労働価値説を大成したリカードにおいて頂点に達した。ところが、古典派経済学は次第にその説得力を失っていく。新たに成立した資本主義経済下で定期的に発生する恐慌や、大規模な失業問題に対処することができなかったからである。

 

 その結果、世界には資本主義を前提とする古典派経済学を基礎としながらも、あらたな理論が各国の経済状況などに応じて考え出されていく。ナショナリズムが高揚する後発国ドイツにおいては、歴史学的に経済を考察した結果発展段階論にたどり着く。原始的未開→牧畜→農業→農工業→農工商業というように国家が段階的に発展すると考えたのである。もしそうであるとすれば、すでに高度に商業化されたイギリスと同様に後発国であるドイツが自由貿易を行った場合、イギリスの製品によってドイツ国内の産業が打撃を受けることは避けられない。ゆえに、リストはドイツが自国の産業を守るためには国内的には経済の自由化、対外的には関税政策を行うという保護貿易主義をとった。この考えに基づいて成立するのが1834年のドイツ関税同盟である。一方、資本主義の抱える矛盾を「資本家」と「労働者」間の階級闘争としてとらえ直し、共産主義を生み出したのがマルクスであり、その協力者エンゲルスであった。先に一橋の問題解説で示したように、共産主義においても発展段階説は継承されている。共産主義の理論は資本主義経済学と全く無関係に生まれたのではないということには注意が必要になるだろう。

 

 しかし、19世紀までの経済学は結局、20世紀に入ってからも経済の規模の拡大に十分に対応することができなかった。特に、1929年に始まる世界恐慌のような極端な需要と国際貿易の縮小の下では古典派経済学の言うようなレッセ=フェールでは対応できなかったのである。それまでの経済の常識に即して展開されたフーヴァー大統領の「なすにまかせよ」式の経済的無策と国内産業保護のための関税の引き上げはかえって世界貿易の縮小を促し、恐慌を拡大してしまう結果につながった。これを受けて、続くフランクリン=ローズヴェルトによる経済への積極的な国家介入政策であるニューディール政策がケインズの新たな修正資本主義経済学に基づき、展開されるのである。この後の第二次世界大戦後の新たな経済体制については後日執筆する金融史の方に譲りたいと思う。

 ここ十数年ほどの間に、それまでは日本の歴史学者の間(あるいは、それに遅れて政治・経済学者の間)でもてはやされていたウォーラーステインの「世界システム論」が、次第に受験生のレベルにまで知識として降りてきている。これはやはり、東大の研究者がこうした世界システム論を消化した上で、大学受験の設問の中に一国史のレベルをこえて、複数の地域や政治的・経済的、文化的集団の関わり合いを見ることで生まれる、より広い歴史観を盛り込もうとしてきたことによる。東大入試の世界史に、いわゆる「海から見た歴史」であるとか、ユーラシア全体としての諸集団の交流などが出題されるようになったことは、まさにこうした問題意識からである。

 ところが、いざ教科書や参考書のレベルになると、その肝心の世界システム論とは何か、ということが意外に見えてこない。これは、この世界システム論が大阪大学のイギリス(経済)史家、川北稔によって紹介され、歴史家の間に広まり始めたのが1980年代と、比較的新しい理論であることから、十分な知識が高校教科書のレベルにまで還元されていなかったことによる。しかし、ここ十年ほどは受験生のあいだでも「近代世界システム」という言葉は特に東大を目指すトップクラスの受験生にとってはある意味常識のようなものになってきている。しかし、それでは「近代世界システムとは何か、説明せよ」と言われると、戸惑う向きも多いのではないだろうか。

 

 そこで、今回はこの近代世界システムについて簡単に概観するとともに、その世界システムに対する批判、検証などの中から新たに生まれてきた近年の(といっても、やはり登場から十数年ほどは経ているのだが)歴史理論についても簡単に触れておきたい。

 

[世界システム論]

 世界システム論とは、イマニュエル=ウォーラーステインによって提唱された、一つの国や地域をこえた広大な領域の中に存在する複数の文化体によって構築された分業体制である。そして、この分業体制はその基本的な原則として、中心(となる文化体)にその周辺の経済的余剰を移送するはたらき(システム)を有している。ところが、このシステムは複数の文化体によって構成され、統一的に全体を統括する政治機構を有していないため、中心と周辺の間に存在する不均衡を是正するような働きが生じることは少ない。そのため、このシステムは基本的に経済的不均衡を是正するよりはむしろ拡大する方向にはたらき、このシステムの中心に位置した文化体は「覇権(ヘゲモニー)」と称される他を圧倒する力(生産力・流通力・金融力)を有することになる。つまり、図示するとこのようなイメージである。 

近代世界システム図

 
 小難しく説明したが、この世界システムはまとめると以下のような特徴を持っている。

 

・中央、半周辺、周辺の3要素が存在し、これらが分業を行っている。

・この近代世界システムは16世紀に成立し、その後も原則としては継続している。

・中央は、周辺の経済的余剰を「不等価に」集中する(搾取する)

・ただし、周辺は必ずしも衰退せず、周辺も中央とともに発展するが、周辺の発展は中央のそれと比して「不均等」なもの(中央の方が大きく発展)であるため、このシステム中に存在する格差はむしろ拡大する。

・「覇権(ヘゲモニー)国家」となったのは歴史上、オランダ→イギリス→アメリカである。

・ヘゲモニーにおける優位は、生産、流通、金融の順に発展し、衰退する。

 

  近代世界システムの具体的な例としては、18世紀末から産業革命によって他を圧する生産力を持ったイギリスが、19世紀には世界金融の中心となり、その後一次大戦の負債によってその地位をアメリカウォール街に譲ったこと(または、さらにその後の二次大戦における武器のリースによって莫大な対英債権を獲得したアメリカが、それまでのポンドを基軸とする世界経済を、ブレトン=ウッズ体制と呼ばれるドル中心の経済へと変化させたこと)や、発展段階論的にいけばいつかは先進国との経済的格差が縮まるはずの発展途上国が依然として低開発地域としてとどめ置かれていることなどがあげられる。

 

  ところが、こうしたウォーラーステインの世界システム論は、様々な面からその問題点が指摘されてもいる。特に、ウォーラーステインの世界システム論が16世紀以降のヨーロッパに焦点をあてすぎているというその西洋中心主義に対する批判は根強い。こうした中で、ウォーラーステインの世界システム論、すなわち一国を超えたより広い枠組みでの複数地域の連関という基本のフレームは前提としながらも、それを異なる視点から見直そうという動きが近年の歴史学の中でうまれた。代表的なものにジャネット=アブー=ルゴドの「13世紀世界システム」と、アンドレ=グンター=フランクの『リオリエント』の中で明らかにされた世界の銀循環をもとにしたアジア中心論がある。

 

[13世紀世界システム]

 ウォーラーステインが、16世紀にはじまる近代世界システム以前の各地のシステムが、政治的統合をともなう「世界帝国」か政治的統合を伴わない「世界経済」のいずれか2種に大別され、最終的には消滅したと考えたのに対し、ルゴドは13世紀の時点ですでに世界の各地に「世界システム」は複数存在したと主張する。また、ルゴドは西洋の勃興は、西洋の内的な力によってなされたものではなく、むしろそれ以前に存在していた世界システムの崩壊に伴って初めて生じえたと論じた。下が、ルゴドの唱える13世紀世界システムの概念図である。(当然、このシステムにはモンゴルによるユーラシアの一体化が強く意識されている。)
 

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 (Wikipedia「ジャネット・アブー=ルゴド」より引用)

 

『リオリエント』

 

  一方、アンドレ=グンター=フランクはウォーラーステインの西洋中心史観に真っ向から対抗し、西洋が世界の中心たりえたのは最近のほんの数百年のことに過ぎず、それまでの世界はむしろアジア、特に中国が圧倒的な力を有していたことを、様々な交易データをもとにして論証しようとした。フランクは『リオリエント』日本語版の序文において明確にこう述べている。

 

  「本書が、その新しい知見として示そうとしているのは、世界経済におけるアジア、特に中国の優位性が、少なくとも1800年までは継続していたということである」(アンドレ=グンター=フランク著『リオリエント』山下範久訳、藤原書店、2000年、p.4.

 

A・G・フランクの議論の中でも、世界の銀が最終的に中国へと集中していくことを述べた第2章のくだりは非常に印象的である。以下は同書147ページに所収の地図「14001800年の主要な環地球交易ルート」であるが、これを見ると銀の流れる方向の向かう最終地が中国であることが見て取れる。

 

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もちろん、フランクの議論をそのまま鵜呑みにすることはできないし、細かな批判は数多く挙げられている。フランク自身がもともとは従属理論を研究していた経済学者であったし、かれの理論の前提とされている多くのデータは原典に拠った実証的な研究に基づいたものではなく、他者が行った諸研究に基づいた巨視的なものであるため、細かな反証をあげようと思えば数限りなくあげることができるからだ。書評の中にはこうしたフランクの理論の細かい穴をあげつらって彼の理論全体を批判した気になっているものもあるようだが、しかしそれでは彼が提唱している議論の本質、すなわち、ウォーラーステインの西洋中心史観の転換という点を見すごしてしまうことになるだろう。

 

[東大過去問との関連]

  ところで、東大の過去問を解き進めている受験生であれば、ウォーラーステインの世界システム論、ルゴドの13世紀世界システム、A・G・フランクの『リオリエント』などが、近年の東大の設問と非常高い親和性を有していることに気付くだろう。たとえば、オランダやイギリスのヘゲモニーをテーマとした出題は東大では頻出の問題だ。さすがにあまりに使い古された感があるので近年はすこし違う角度からの出題が多いものの、2008年東大の「1850年から70年代までに世界の諸地域がパクス=ブリタニカにどのように組み込まれたか」を問う設問や、2010年に出題された「オランダおよびオランダ系の人々の世界史的役割」を問う問題などはその典型といえる。また、ここ数年はユーラシアをテーマとした設問が続いている(東大2014年「19世紀ロシアの対外政策とユーラシア各地の国際情勢」や同じく2015年「13世紀から14世紀の日本からヨーロッパにいたる広域[ユーラシア]において見られた交流の諸相」)が、こうした出題からは明らかにルゴド的な広大な領域内における複数の政治体・経済体・文化体間の交流という視座を読み解くことができる。また、『リオリエント』日本版が刊行されて間もない2004年に東大で出題された「16世紀から18世紀における銀を中心とした世界経済の一体化の流れの概観」などは、かなりヨーロッパ的な要素を含んではいるものの、東アジアを中心とした銀経済圏を十分に意識した設問であったといえる。すでに一橋出題傾向紹介ていことではあるが、近年の歴史研究のトレンドや出題する研究者の専門などは、その大学の出題内容と無関係ではない。特に東大の場合、明らかに「世界史」の中で個別の事象がどのような意義を有したかという視点が常に問われている。今後も、高校生にとっては聞きなれない歴史理論であっても、その出題に影響を与えるようなものは出てくるだろう。(個人的には大陸も続いたし、羽田さんのお弟子さん筋がどうも東アフリカを中心とした港市国家間の交流みたいなことをやっていた気がするから、だんだん東アフリカからアラビアとかが出ても面白いかな~という気はしている。スワヒリ語とか、ザンジュとか、カーリミーとか、マリンディとか…。まだ高校教育の現場で浸透してないからあまりにも時期尚早なので出ない気もするが…。)単なる用語の暗記に留まらず、各種教科書、参考書、問題集、図説などの「コラム」のような場所にも目を通しておくとよいだろう。ああ、もちろん、当HP「世界史リンク工房」に隅から隅まで目を通すこともオススメしておくw

今回はイタリア史、中でも両シチリア王国とイタリア戦争に焦点をあててみたいと思います。中世イタリア史というと、よく出てくるのは叙任権闘争とか、ゲルフとギベリンとか、東方貿易とか、まぁ定番のところがよく出てくるわけですが、案外受験生の悩みの種になるのがこの「イタリア戦争」ってやつです。よく「イタリア戦争の頃から主権国家体制が成立し始めてウェストファリア条約で確立した」とか「イタリア戦争によってイタリア=ルネサンスが終焉を迎えた」とかその意義ばかりが強調されるのですが、その肝心の戦争までの背景やらがあんまり書いてないんですね。かといって、ネットでWikiipediaやらあちこち調べても今度は逆に詳しすぎたりしてどうも全体像が見えない。そこで今回は思い切って不要な情報をできるだけカットしてイタリア戦争の単純な理解のためのまとめを、イタリア戦争と同様に受験生を悩ませがちな両シチリア王国とセットにしてやってみたいと思います。

 

[10世紀以降のイタリア]

 

 ・神聖ローマ皇帝のイタリア政策

→教皇党(ゲルフ)vs皇帝党(ギベリン)

  cf.) シュタウフェン朝(フリードリヒ1世・2世)

 

[中世末期~ルネサンス期のイタリア]

 

 ・諸侯・都市国家の分立

(フィレンツェ・ミラノ・ヴェネツィア・ジェノヴァ・教皇領・ナポリ王国など)

 ・イタリアへのフランス・スペインの介入

 (ex. シチリア王位:1130年にルッジェーロ2世が王位を得て建国[オートヴィル朝]

 

[シチリア王位の変遷]

  1194

婚姻でシュタウフェン朝のハインリヒ6世がシチリア王に

(ハインリヒ6世はフリードリヒ1世の子、フリードリヒ2世の父)

1266

フランスのアンジュー伯アンリ(シャルル=ダンジュー)がシチリア王に

(フリードリヒ2世の庶子マンフレーディによる簒奪に教皇と

 仏王ルイ9世が反発したため)

1282

シチリアの晩鐘(晩禱)

:シチリア島の対シャルル反乱

→シャルル=ダンジューが王位を失う

→アラゴン家のペドロ3世即位

これ以降、アンジュー家はナポリ王位のみを継承

(シチリア…アラゴン家 / ナポリ…アンジュー家)

1442

アルフォンソ5世(アラゴン家)のナポリ王位承認

:先王ジョヴァンナの後継指名混乱による

→アンジュー家のルネ=ダンジューが追放される

 

 

[イタリア戦争(1494-1559]

 

  1494 仏王シャルル8[ヴァロワ家]のイタリア侵入(ナポリ王位の要求)

   →神聖ローマ皇帝[ハプスブルク家]との対立

   Cf.)  フランソワ1vsカール5世(カルロス1世=フェリペ2世父)

  この時期、ハプスブルク家がオスマン帝国とも抗争していたことに注目

・オスマンのバルカン進出拡大

1526 モハーチの戦い:ハンガリーに進出

1529 第一次ウィーン包囲

・フランスと協力関係を構築(カピチュレーションなど)

1559 カトー=カンブレジ和約(アンリ2世・フェリペ2世・エリザベス1世)

  :ハプスブルク家の優位確定

 

[イタリア戦争の意義]

・フランス(ヴァロワ家)に対するハプスブルク家の優位が確定する

 (フランスはイタリア進出を断念)

・主権国家体制の形成

 (常備軍と官僚制の整備、領域内の内政・外交権が次第に一元化され始める)

・イタリア=ルネサンスの終焉

 (カール5世によるローマ劫略[サッコ=ディ=ローマ]が決定的な打撃)

・軍事革命

 (火砲の使用による歩兵の重要性→当初は傭兵、後に常備軍整備[封建領主の没落]

 

ここがポイント 両シチリア王国


 
みなさんは両シチリア王国といえば「ノルマン系貴族のルッジェーロ2世が1130年に建国した国」ということはご存じだと思いますが、「そもそもなぜイタリアにノルマン系の貴族がやってきて国王になっちゃうの?」とか、「その後シチリア王国とかナポリ王とか出てくるけど、両シチリア王国はどうなっちゃってるの?」ということまでご存じの方はそれほど多くないかと思います。まず、両シチリア王国の原型を作るのは、ルッジェーロ2世ではなく、そのおじさんのロベール=ギスカール(ロベルト=グィスカルド)とルッジェーロ2世の父であるルッジェーロ1世です。


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 ギスカールとルッジェーロ(1世)は、フランスのノルマンディー地方からやってきた戦士団(傭兵)の一族でした。ノルマンディー地方といえば、911年にノルマン人ロロが当時のフランス王シャルル3世から半ばぶんどったノルマンディー公国を築いた土地です。当初のノルマン人はフランス王によって公爵に封ぜられたとはいえ、その実態はヴァイキングだったわけですが、こうした連中も長期間にわたり周辺のフランス人たちと交わるうちに次第にヴァイキングちっくなフランス貴族、すなわち「ノルマン系貴族」と呼ばれる者へと変化していきます。こうした「ノルマン系貴族」の一人がギスカールであり、さらにその弟のルッジェーロだったわけです。

ところが、当然のことではありますが、フランスが次第に安定化してくると、そこでの立身栄華の機会というのは限られてきます。混乱の時代であれば略奪でもなんでも働いでぶんどってしまえばいいわけですが、ある程度秩序だった世界ではそういうことをするとより強い連中によって叩かれ、抑えつけられてしまうわけですね。ですから、貴族として立身が約束されているとか、その家の長男であればよいのですが、次男坊、三男坊ということになると、もう分けてもらうパイがありません。実際、ギスカール自身もノルマンディーで村の領主のようなことをやっていたオートヴィル家の六男坊だったそうです。食い詰めたこうした連中は、政情が不安定で働き次第で自身の栄達を狙える土地へと乗り出していきます。12世紀においては、各地の小国、ローマ教皇、神聖ローマ帝国などの諸勢力が割拠し、イスラームの影響まであるイタリア、中でも南イタリアでした。


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 (http://www.emersonkent.com/map_archive/italy_11th_century.htmより引用)

 

11世紀のイタリアの地図です。南の方はビザンツとかランゴバルド系のサレルノ公国とか、ベネヴェント公国とかもうぐっちゃんぐっちゃんですねw ギスカールとルッジェーロは、南イタリアのプッリャ(イタリアのかかとの部分)に領地を持っていた兄の後を継ぐ形でこの混迷を極める地に乗り込むと武力で南イタリアの各地とシチリアを占領します。こうした中、当時神聖ローマ皇帝と対立していたローマ教皇ニコラウス2世は、彼らの征服活動にお墨付きを与え、彼らを征服した各地の伯や公として封じました。そのうち、南イタリア地域(後のナポリ王国)をギスカールが、シチリア地域をルッジェーロがシチリア伯として治めることになりました。

 

こうした中でルッジェーロの息子であったルッジェーロ2世はシチリアを支配した後、伯父であったギスカールの孫であるグリエルモが亡くなったことでナポリの支配権を得て、これを当時の対立教皇アナクレトゥス2世から認められて1130年にシチリア王として封ぜられます。これが両シチリア王国の起源となるわけです。まぁ、要は父親と伯父さんの領地を継承したわけですね。

 

 つまり、シチリアとかナポリというのは、本来は異なる爵位になりますし、元々は伯爵位だったり公爵位だったりしたわけで、別物なんですね。それが後に王位に格上げされるわけですが、それでも二つは本来は別のものです。ナポリ王はナポリ王、シチリア王はシチリア王なわけです。ただ、この二つの王位を一人の人物が兼ねる、ということはあるわけです。シチリア王にしてナポリ王みたいにですね。近代的にいえば「同君連合」ってやつですね。これは中世以降のヨーロッパでは別に難しいことではありません。ちなみに、後のハプスブルク家の肩書はこんな感じですよ。

 

  オーストリア皇帝、ハンガリー、ベーメン、ダルマティア、クロアティア、スラヴォニア、ガリツィア、ロドメリアおよびイリリアの王、イェルサレム王その他、オーストリア太子、トスカナおよびクラクフ大公、ロートリンゲン公、サルツブルク、スティリア、ケルンテン、クライン、ブゴヴィナ公、トランシルヴァニア大公、モラヴィア辺境伯、上下シレジア公、モデナ、パルマ、ピアチェンツァおよびぐアステラ公…(これでもまだ4分の1くらいでしょうか)

 

ただ、ルッジェーロ2世の両シチリア王国(または19世紀に成立した別の「両シチリア王国」と区別するためにノルマン=シチリア王国と呼ばれることもあります)が成立すると、通常はシチリアと南イタリア(後のナポリ王国)を総称して「(両)シチリア王国」と呼ぶようになります。再度シチリア王位とナポリ王位が分割されるのは、アラゴン系シチリアとアンジュー系ナポリに分割される13世紀以降のことです。
 いずれにせよ、このような経緯でできた両シチリア王国でしたが、その後の婚姻関係や争いの結果、ルッジェーロ2世からはじまるオートヴィル家が断絶すると、シチリア王家は
「シュタウフェン家→アンジュー家→アラゴン家」というように変化していきます(上述の年表を参照)。この3家がそのまま神聖ローマ帝国、フランス、アラゴン王国(後のスペイン)と関係の深い家だということに注意してください。つまり、この3国はシチリアとナポリの王位に深く食い込んで因縁があるわけですね。

 こうした中、一度はフランス系の貴族である「アンジュー家のシャルル」ことシャルル=ダンジュー(
Charles d'Anjou、つまりシャルル・ド・アンジューなわけですが)がシチリアとナポリを領有しますが、シチリアの晩鐘で追い出されてしまい、さらにキープしていたナポリ王位も後にアラゴン家が所有することになります。こうした中で「アンジュー家からのナポリ王位継承」を口実にイタリアへの影響力を拡大しようとしたシャルル8世が北イタリアに侵攻した、というのがイタリア戦争です。この際、フランスが侵攻した背景にはそれまで北イタリアのフィレンツェで勢力をはっていたロレンツォ=デ=メディチがコロンブスの新大陸発見と同じ年の1492年に亡くなったことなどがあるわけですが、このあたりの事情は最近だとマンガ『チェーザレ(作:惣領冬実)』を読むと雰囲気がつかめます。


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 © 惣領冬実『チェーザレ 4』講談社

 

 いずれにしても、このフランスの侵攻は、当時分立はしながらも比較的安定していたイタリア諸国の間に激震となって伝わります。のみならず、イタリアに深い利害関係を有していた神聖ローマ帝国も断続的に発生するイタリアの争いに巻き込まれていきました。特に、この戦争はフランスヴァロワ家のフランソワ1世とそれに協力するオスマン帝国スレイマン1世、これらに対抗する神聖ローマ皇帝にしてスペイン国王ともなるハプスブルク家のカール5世(カルロス1世)という構図になっていきます。しかし、最終的にはこの戦争後にヨーロッパの各地に勢力を有していたのはヴァロワ家ではなくハプスブルク家でした。ハプスブルク家はドイツ地域、スペインのみならず、ナポリ、シチリア、ネーデルラントといった地域に勢力をはり、フランスを取り囲んでしまいます。このハプスブルク家の優位は1618年からの三十年戦争を経て、1648年のウェストファリア条約でフランスのブルボン家がこの大勢を覆すまで続くことになります。

 
Habsburg_Map_1547
1547年の時点でのハプスブルク家の領土(緑の地域)
(Wikipedia「ハプスブルク家」より引用) 

 


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