世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

各校の過去問対策、受験対策のほか、世界史を理解する上で役に立つ視点や勉強法についての情報を随時更新していきます。

以下のような方はとくにオススメ!

・東大、一橋などの国公立や早稲田、慶応の受験を世界史で考えている。
・論述対策を進めたい。
・教科書やプリントだと不足している情報が多すぎて、背景にあるつながりが見えない。
・『詳説世界史』などを読むだけでは気づけない、専門的な歴史的視点を養いたい。
・世界史を覚えるのが苦手で、どうやって勉強したらよいのかわからない。
・世界史の教員になりたてだが、西洋史が専門ではないので少し突っ込んだ知見を知りたい。

※ 目標に向けて頑張る受験生の皆さんの一助になればと思って頑張って更新し、情報もチェックしておりますが、人間ですのでミスなどが出ることもあります。当サイトの情報をご利用の際はあくまでも自己責任でお願いいたします。

※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw また、大手予備校のHPからも閲覧できるかと思います。正規の問題が手元にあった方がわかりやすいと思います。


 この2年くらい「パン=イスラミズムくる(かもしれない)で~。くる(かもしれない)で~」と言い続けて、特に誰にも要求されていないのに講習でもトルコトルコしてたのに女性参政権とかでかわされ続けてましたが、ようやく出てくれましたね。これで「全然出ないじゃないですかw」と嘲笑されずにすみますw もっとも、はじめから予想する気ないし、当たってもどうせまぐれ当たりとは言い続けていますが、それでも出ると嬉しいw
 これで多分、私大の方でもアフガーニーの出題頻度また増えるんでしょうねぇ。問題としてはすごく普通でしたが、トルコ史がっつりパン=イスラム&パン=トルコ込みでやっていく受験生は少数派かもしれないから大変だったのかもしれません。 

 個人的には、むしろ大問2の方が難しいな、と感じました。知っているようでいて正確には書けない問題が多いですね。いずれにしても近いうちにUPしたいと思います。(仕事に余裕があれば)

パン=イスラーム主義やパン=トルコ主義については、

http://history-link-bottega.com/archives/cat_329049.html

http://history-link-bottega.com/archives/cat_213042.html


東方問題については 

http://history-link-bottega.com/archives/cat_253756.html

など、あちこちに言及していますのでご参考までに。 


 

2017年の東京外語は、ある意味ではいつも通りの設問なのですが、例年と比べると時間的な制約を感じる部分が多く、これまで以上に設問を解くにあたってある種の「コツ」が必要になることを意識させる問題となりました。

 東京外語の問題で重要なのは、何と言っても「小問」です。「小問」をいかに取りこぼさないようにするかというのが最重要だと考えてください。外語の小問は「ほぼ」史料とは無関係の一問一答形式で、問題の難度もそれほど高いものではなく、かつ配点の比率が非常に高いです。(2017年については100点満点中70点が小問) ですから、この小問で満点、悪くても1問の取りこぼしですめば、あとは論述で3割~半分も点数が取れれば80点に届きます。それでなくても東京外語は英語がメインの大学で、他の受験生も基本的に「英語好き」、「英語得意」な人で、いわゆる「世界史マニア」が紛れ込んでいる率はそれほど高くありません。ですから、論述のような高度な問題については「どうせ周りもたいしたことは書けやしねぇ」とある程度開き直ることも必要です。ただ、小問の多くのレベルは本当にセンターレベルですので、ここはしっかり拾える勉強くらいはしないと、世界史で足を引っ張ってしまいかねませんので注意してください。

 2017年の問題のレベルを個人的な体感で表にすると以下のようになります。

 2017東京外語設問一覧

 

 以下の解説では、このうち特に解説の必要な小問と、各論述問題について取り上げていきます。

 

【小問解説】

 何度も言いますが、東京外語の小問の多くは、史料を読まなくても、場合によっては設問の大部分を読まなくても解ける一問一答形式の設問がほとんどです。たとえば、以下は大問1の問2の設問です。

 

 下線部②に関連して、アメリカ大陸の銀を掌握したスペインは、香辛料の獲得とカトリック布教を目指して東南アジアに進出し、先行するポルトガルと競合しつつ、フィリピン諸島の領有に成功した。当時、中国商人が運んでくる生糸や陶磁器などの奢侈品を、大型帆船(ガレオン)で太平洋を横断してメキシコのアカプルコまで運び、商品の対価としてメキシコ銀を積載してフィリピンに戻り、これを中国商人が自国の船で中国へ持ち帰っていた。こうしたガレオン交易の拠点で、スペインが1571年にルソン島に建設した都市の名を答えなさい。

 

 長ぇーよw まぁ、この設問を解くのに必要な情報は、ぶっちゃけ赤で示した部分だけです。(これだけでも十分「マニラ」という答えを導くことは可能です。)このように、外語の小問はそのほとんどが設問の末尾の部分だけ見ればわかるようになっています。(このあたりは親切な問題の作りですね。)もし末尾だけ見てもわからない場合には、一通り設問に目を通せばよいわけです。

 普段から外語は時間的な制約がかなりキツイ学校ではあるのですが、今回の設問では大問1の論述が妙に凝っているためにかなり手間がかかり、いつもよりも時間的な制約がタイトになっています。というより「無茶言うな」って感じです。私がこの年の受験生であったならば、まずダッシュで小問を解き、ついで大問2の論述を10分~15分程度で片付けたあとで残り時間は全部大問1の解答作成に使います。それでは、外語の小問を解く時間は何分くらいと想定すべきかというと、かかっても5分です。大問1の論述を考えるとそれ以上はかけられません。なかなか思い出せない問題やわからない問題はとりあえず置いておいて、論述問題に試験時間60分のうちの大半を使うことになると思います。

 

(大問1-問3)

:ポイントは「南ドイツの銀山経営」という部分です。これでアウクスブルクのフッガー家の話をしているということはわかりますが、設問を丁寧に確認しないとミスをします。設問は「(  ③  )の商人」という表現を用いているので、③にはアウクスブルクを入れることができますが、設問が要求しているのはあくまでも「(  ③  )の商人の家名」ですので、解答はフッガー家です。

 

(大問1-問4)

:これはおそらく、マドラスかボンベイかで迷わなければ問題ありません。イギリスのインド拠点はボンベイ・マドラス・カルカッタですが、このうち、「ベンガル湾に面していて南インドにある」という条件を満たすのはマドラス(現チェンナイ)だけです。

 

インド拠点
 

(大問2―問2)

:この問題は難しいですね。つい最近、国立西洋美術館は世界遺産登録をされましたが、その時のニュースをよく見ていた人や美術に普段から関心のある人であれば解けたかもしれません。西美(国立西洋美術館)を設計したのは近代建築の巨匠、ル=コルビュジエです。下は西洋美術館です。

国立西洋美術館
(「国立西洋美術館」Wikipedia)

 

問題とは全く無関係なのですが、私は同じく近代建築の巨匠であるフランク=ロイド=ライトのデザインが好きで、ペンや名刺入れなどもACMEのフランク=ロイド=ライトのデザインをモチーフにしたものを使ったりしていますw とても好きですが、ペンは替え芯の値が少し張ります。もうちょっと安いと嬉しいのですが…。



 フランクロイドライト2

ⒸACME
(大問2-問4)

:一見難しいのですが…。設問の中でも「リーバイ・ストラウス社」と言っているではないですかw リーバイスですよね…。これで違ったら完全に悪意があるとしか思えませんw

 急いで解くと、小さな見落としやミスが生じがちですので注意してください。「急いで解く」と「丁寧に解く」は十分に両立する行為です。この年の小問で、落としていいのは大問2の問2だけだと思います。それで65点を確保し、あとは残りの論述30点のうち何点をもぎ取れるか、という問題ではないでしょうか。

 

【大問1論述(400字)】

(設問概要)

・新大陸の銀がどのような経路をたどってアジアに到達したか説明せよ

・(新大陸の銀が)世界の交易にどのような影響を与えたのか説明せよ

[A][D]の史料、問1~8の設問やそれらの解答を参考にし、利用せよ

・解答の冒頭で、史料[A]の記述をもとに、新大陸産の銀がスペイン本国に運ばれるまでの具体的な流れを簡潔に説明せよ(★)

・指示語:黒人奴隷、生糸、ガレオン交易(使用した箇所に下線)

400字以内

 

 時期は明示されてはいませんが、新大陸の銀の流入がテーマであることと、冒頭のリード文に「現代のグローバルな市場経済の成立の起点は、16世紀半ばのアメリカ大陸における銀山の開発(新大陸銀)と、銀の世界市場への大量流入にあった」とありますので、16世紀以降を想定しておけば良いと思います。この論述は、かなり細々と条件が付いていて、これらを完全にクリアするには相当な手間がかかります。そもそも、外大の論述で完全解答を目指せるのは相当な世界史の知識と短時間で情報を整理し、それを文章として表現するかなりの国語能力を持った人だけです。ですから、完璧な解答を作成することを目指すよりも、まずは小問で確実に得点すること、そして論述ではある程度の点数を確実にキープすることを狙う方が良いと思います。

 その上で、確実に点数をのばすには、設問の要求をきちんとおさえて、それに答えることが重要となります。ですが、史料の読解や設問をなめるように見ながら同時に論述の構成を考えることは非常に困難で時間を使います。そこで、本設問では困難を分割し、まずは解答の大枠をつくること、そして設問要求として挙げられている(★)の部分の答えを考えること、最後に史料をチェックして細かい見落としや話の流れに間違いがないかを確認する、という3段階で進めることをおすすめします。

 

(解答手順1:「解答の大枠」をつくる)

 まずは本設問の二つの主な要求である「①新大陸の銀がどのような経路をたどってアジアに到達したか」と「②新大陸の銀が世界の交易にどのような影響を与えたのか」を考えてみたいと思います。これは、世界史的な知識の問題ですし、少なくとも現在のところは歴史的事実と考えられている内容ですから、史料の内容によって大きく左右される内容ではありません。細かい修正は必要になるでしょうが、全体の流れをまず把握した上で史料に目を通した方が、各資料の「使いどころ」もわかりますし、頭も整理しやすいかと思います。

 

①新大陸の銀がどのような経路をたどってアジアに到達したか

:いろいろなルートはありますが、主要なルートは次のようなものでしょう。

・アカプルコ貿易(ポトシ→メキシコ[アカプルコ]→フィリピン[マニラ]→アジア各地)

・インド航路(喜望峰→インド)→アジア各地

・地中海→レヴァント地方→紅海ルートまたは内陸を経由してアラビア海→アジア各地

・シルクロード、ステップロード

 

このうち、アカプルコ貿易とインド航路が大航海時代以降に特徴的なルートです。対して、伝統的に東方貿易で使われたルートやシルクロード・ステップロードは古くから使われてきたルートです。本設問では設問の意図を考えた場合、アカプルコ貿易やインド航路を利用したルートに重点を置くことを想定しておくと良いでしょう。

 ちなみに、銀の大循環については以前東大への世界史」の中で非常に重要なテーマとしてご紹介したことがあります。こちらに示したAG・フランクの『リオリエント』に掲載されている銀の流入ルートを見ると、当時15世紀~18世紀の銀のおおまかな動きを理解することができると思います。

 

②新大陸の銀が世界の交易にどのような影響を与えたのか

 これについては、実は大問1の冒頭リード文にヒントらしき分が載っています。「国際的な決済手段として十分な量が供給された銀は、国際通貨として、世界各地に展開していた交易圏どうしを結びつけ、大西洋・インド洋・太平洋という3つの大洋を連結する国際的市場経済への道を開いた」という文章からは、銀流入の影響の一つとしてばらばらだった各地の交易圏を結び付けてグローバルな市場経済を成立させたことを想定していることがわかります。また、その舞台として、大西洋・インド洋・太平洋があることもわかります。

 

 これを踏まえた上で、まずは新大陸の銀が各地に与えた影響に関して、教科書的な内容だけさっと挙げてみましょう。

 

[大西洋(ヨーロッパ・新大陸)]

・価格革命

・商業革命(地中海から大西洋沿岸地域へ)

・生活革命

・大西洋三角貿易の成立

・アフリカにおける奴隷市場の形成と人口バランスの崩壊

・アメリカ大陸におけるプランテーションの発展とモノカルチャー経済

[インド洋]

・ヨーロッパの進出とムスリム商人との競合

・中継点としてのイスファハンの繁栄

・インドにおける英仏の進出

・ムスリム商人の交易ルート変更と東南アジアのイスラーム化(スンダ海峡ルート)

[太平洋]

・ヨーロッパの進出(香辛料貿易の独占、日中などをつなぐ中継貿易)

・中国などにおける税制の変化(一条鞭法、地丁銀)

・沿岸部の都市か発展と内陸部の穀倉地帯化

・商品経済の発展や都市化にともなう物価の高騰と農村の窮乏

 

これらは、必ずしも「世界の交易」に影響を与えた内容ではないので、特に「世界の交易」に対する影響として注意した方がいいものをこの中からピックアップすることになります。その辺を意識しながら大枠をまとめると、だいたい以下のような流れは骨組みとして用意できるかと思います。

 

ボリビアのポトシ銀山で採掘された銀は、メキシコのアカプルコ港を通してアジアに、カリブ海を経由してヨーロッパに流入し、商業の中心が北イタリア諸都市から大西洋岸の都市に移った。新大陸では鉱山やプランテーション経営の労働力として西アフリカから黒人奴隷が運ばれ、銀や商品作物をヨーロッパへ送り、ヨーロッパの製品が新大陸やアフリカに輸出される大西洋三角貿易が成立した。アジアには、スペインがマニラに運んだ銀が交易を活発化させ、日中間の中継貿易などが盛んにおこなわれた。銀は香辛料貿易を独占したポルトガルによってインド航路経由でももたらされ、陸海交易の中継点であるイスファハンの繁栄や、インド沿岸諸都市の発展を促し、英仏のインド進出につながった。また、ポルトガルがマラッカ海峡を押さえたことでムスリム商人たちは交易をスンダ海峡経由のルートに変化させ、周辺地域のイスラーム化が進んだが、17世紀からはオランダが代わって香辛料貿易を独占し、台湾を拠点に東・南シナ海域の中継貿易を展開した。(435字)

 

これはあくまで、頭の中で「だいたいこんな流れかなー」というものを文章化したもの(実際の試験場では書きません!そんな時間はありませんw)で、解答というわけではありません。(そもそも設問が400字以内ですから。) この骨組みを確認しつつ、設問の条件や史料の内容に合わせて削ったり、つけ足したりしていきます。

 

(解答手順2:「★」の部分の答えを用意する)

 本設問では、解答の冒頭に「史料[A]の記述をもとに、新大陸産の銀がスペイン本国に運ばれるまでの具体的な流れを簡潔に説明せよ」という要求があります。これは比較的はっきりとした答えを用意できる部分(少なくとも、史料を読めば答えが書いてある部分)なので、取りこぼしのないように丁寧に作っておきたい部分ですね。ただ、この設問の言う「具体的な流れ」というのが何のことを示しているのか漠然としています。この「流れ」というのが、「手順・手続き上の流れ」なのか、「交易のルートや商品が運ばれる流れ」なのかが判然としません。ただ、史料[A]を読むと、出てくる地名は新大陸の中で完結していて、ヨーロッパにいたる交易のルートを読み取ることはできませんので、求められているのは「手順・手続き上の流れ」であることが分かります。

 史料[A]において、鉱脈が発見された後、ヨーロッパに銀が運ばれるまでの描写を読み取ると、以下のような内容を読み取ることができます。

 

①発見した鉱脈を登記し、坑打する

(坑打は問題文中に注有:採鉱者が一定の空間を自己のものとして印付けすること)

②法廷で申告する

③採掘分の五分の一を税として王室に支払う

④スペイン人、インディオが集い、採掘のための街が形成される

⑤船団によって本国に運ばれる

(⑥会計局で課税のための計量が行われ、王室帳簿に記される)

 

これらのうち、⑥はラテンアメリカから運び出されるときに行われたのか、本国に運ばれてから行われたのか判然としなかったのでカッコにしました。ですから、銀が本国に運ばれるまでの流れをまとめると以下のようになるでしょう。

 

 銀鉱を登記・坑打して法廷で申告して採掘された銀は五分の一が王室に納められ、ガレオン船団で本国に運ばれた。(52字)

 

(解答手順3:史料、設問、指示語をチェックする)

 さて、解答手順1と2をまとめるだけでも、内容がしっかりしたものであれば、おそらく設問全体の半分くらいの点数は来るはずです。この論述問題が20点なので、小問に取りこぼしがなければそれだけでも80点ですね。たしかに、この年の問題は時間的にはかなり厳しく、問題のレベルも高く難しいのですが、他の受験生との相対的な評価でとればそれほど焦る必要はなく、あきらめずに丁寧に解答を作ることはやはり大切なのだなぁと思います。

 ただ、解答手順1はもともと自分の中にある世界史的な知識をもとにつくったもので、本当に本設問の史料の内容に沿っているかどうかは分かりません。そこで、最後に史料、設問、指示語を確認して解答の精度を上げていくことになります。[A][D]の史料のうち、[A]の史料には交易ルートに関する記述がほとんどないことは解答手順2で確認済みですので、史料[B][D]を確認していきます。

 

①史料B(「カール5世への手紙」(16世紀)

:この史料は一読するとフッガー家からカール5世に対する借金返済の督促にすぎませんので、内容を熟読する必要はなく、時間もそうはかかりません。

 ただ、この史料については2点注意が必要です。1点目は、商取引の決済だけでなく国家の戦費の貸し出しをフッガー家などの豪商が担っていたことです。もっとも、フッガー家の債権回収は失敗しますし、この史料からはフッガー家が戦費の供出をしていたことは分かっても、その戦費が国外へと流出したことやその経路などは示されていませんから、これをもとに銀の流れの中に組み込むのはどうかなぁと思います。(大航海時代の銀の大きな流れを作ったのは、やはりヨーロッパ産の金銀よりも新大陸産の金銀に求めるべきでしょう)

また、フッガー家の文書であることには注意を払うべきでしょう。フッガー家はアウクスブルクの富豪ですが、その財の源はティロルの銀山やシュレジエンの金山などの鉱山経営でした。フッガー家は、新大陸からの大量の銀が流入したことで経営が悪化して没落します。この点に注目して、商業革命(商業の中心地が北イタリアなどの地中海沿岸都市から大西洋岸都市へ移る)などと結びつけてフッガー家の没落に言及するのはアリかなと思います。

 

②史料C(『ムガル帝国誌』17世紀)

:この史料は銀の経路と交易については多くの情報をもたらしてくれます。特に、受験生があまりイメージできていない中東からインドにかけての交易の様子が具体的に描かれていますので、全部とはいかないまでも一部は解答に取り入れたいところです。この史料から読み取れることは以下の通りです。

 

・インド(ヒンドゥスターン)では米、麦がとれる

・絹、綿、インディゴ、その他エジプトの商品であふれている

・インドでは絨緞、錦、刺繍、金銀糸の布や絹、綿を用いた工業製品が生産、輸出される

・金銀は世界をめぐった後に一部がインドに流入、蓄積される

・金銀の流入経路は「新大陸→ヨーロッパ→トルコ→インド」

または「スミルナ→ペルシア→インド」(地中海航路)

・トルコ、イエーメン(イエメン)、ペルシア(イラン)はインドの商品を購入するため、自国の金銀をインドに運ぶ

・バーブ=エル=マンデブの都市モカ、ペルシア湾に臨むバスラ、ホルムズに近いゴメロン(バンダル=アッバース)から金銀はインドに輸出される

・インドの商品は、インド、オランダ、イギリス、ポルトガルの船によってペグー、テナッセリム、シャム、セイロン、アチェン、マカッサル、モルディヴ群島、モザンビクなどに運ばれる(逆に、これらの地域からは金銀がインドに流れ込む)

・日本の金銀もオランダによりインドに流れ込む

・ポルトガルやフランスなど、ヨーロッパから直接インドに流入する

・インドは、銅、クローブ、ナツメグ、シナモン、象のほか、オランダ人が日本やモルッカ諸島、セイロンから運ぶ品々を購入する

・インドは馬を大量に必要としている(カンダハールからペルシアを経由したり、エティオピア、アラブ諸国からモカ、バスラ、バンダルアッバースの港を経由してインドへ)

 

 よく知らない地名もあると思うので、地名については解答を一通りしめした後に解説したいと思います。ここで注意したいことは、「インドにかなりの量の金銀が流入していること」、「取引の決済手段として金銀が用いられていること」、「流入ルートは大きく三つ(①東地中海地域やアラビア半島から紅海、ペルシア湾を経由、②アジア方面からの流入、③ヨーロッパから直接運ばれる喜望峰をまわるインド航路)」などの情報を読み取ることです。

 

③史料D(『折りたく柴の記』、18世紀初)

:史料Dは主に東アジア地域に関する情報です。史料Cと比較すると情報は少ないですが、大切な情報も含まれています。

・鎖国が行われたこと

・一方で、密貿易が増加したこと

・日本から海外に金銀が大量に流出していたこと

 

④指示語(「黒人奴隷」、「生糸」、「ガレオン交易」)

:最後に指示語ですが、「黒人奴隷」はすでに解答手順2で示した大枠の中に出てきますね。新大陸の労働力となったこと、大西洋三角貿易を入れれば十分でしょう。

「生糸」については基本的には中国産と考えて良いと思います。日本でも生糸は生産されてはいますが、大航海時代の頃の日本の生糸の品質は中国産には全く及ばず、むしろ日本は中国産生糸の輸入国です。鎖国によって中国産生糸がそれまでより入手しづらくなったことから、日本の各藩は養蚕業の改良に乗り出してその質が改善されるのは江戸時代の中期以降のことです。また、ビザンツ帝国をはじめヨーロッパの各地でも養蚕業自体はありますが、やはり中国産生糸や絹の品質は抜きんでていました。

 最後に、「ガレオン交易」は新大陸からの銀の輸送船団として用いれば十分だと思います。

 

(解答例:大問1論述)

 新大陸スペイン領では、銀山経営者は銀鉱を登記・坑打して法廷で申告し、採掘した銀の五分の一を王室に納め、本国に運んだ。カリブ海経由での銀流入で商業の中心は北伊から大西洋岸に移り、物価が高騰し、フッガー家没落や東西ヨーロッパの国際分業につながった。西アフリカからの黒人奴隷を労働力に産出したポトシの銀はガレオン交易でアカプルコからマニラに運ばれ、中国産生糸などを扱う中継貿易を活発化させ、日本銀もアジアに流入した。銀はポルトガルの香辛料貿易や西アジア諸国の絨毯や錦などインド物産購入によってインド航路や紅海、ペルシア湾経由でアジアに流入し、陸海交易の中継点であるイスファハンや、インド沿岸諸都市の発展を促した。欧州諸国の進出と銀の大量流入は銀を決済手段として世界各地の交易圏を連結した国際的市場経済を成立させたが、ムスリム商人が交易をスンダ海峡経由のルートに変化させるなど従来の交易ルートの変更も促した。(400字)

 

 この設問については出題者の意図がくみ取りづらいところがありました。それは、出題者が史料の深い読み取りを要求して、時代ごとの変遷や各交易ルートにおける商品、担い手などの変遷まで書かせようとしているのか、それとも史料はあくまでも味付け程度で、一般的に理解されている世界史の知識をつかって、設問の要求に合わせた概要を書けばよいと考えているのか、どちらなのかいまいち読めませんでした。設問の指示を素直に読めば、求められているのは前者の解答なのですが、正直なところ、前者の解答を用意するには400字では無茶もいいところですし、まして60分では到底仕上がりません。ですから、あまり細部にこだわりすぎてガタガタな文章になってしまうよりも、早い段階で見切りをつけて後者の視点で解答を作ってしまう方が良いと思います。上の解答例はそうした妥協の産物だとご理解くださいw 解いてみての感想ですが、例年と比べてこの年の設問は練れていないというか、実際の受験生や解く側のことをあまり考えていないような気がするというか、バランス悪い感じがしました。

 東京外語は本当に交易と世界の一体化好きですね。また、他の大学ではインド洋海域って問題が作りづらいせいかあまり出ないのですが、東京外語はわりとがっぷり四つに組んだインド洋海域問題出してきます。2014年の外語の問題もヨーロッパのインド洋、アジア諸地域への進出と世界の一体化がテーマの問題でした。まだご覧になっていないかたは是非一度ご覧になると良いと思います。

 

(補足:史料中に示された地理的要素について)

 さて、それでは特に史料Cの中で示された地名やルートがどういったものなのかを確認したいと思います。まず、トルコ、イエメン、ペルシアのおおよその位置関係です。イエメンはアラビア半島の南端、ペルシアは今のイランですね。ただ、この時代の「トルコ」はオスマン帝国のことですから、厳密には東地中海一帯はトルコの扱いになりますね。また、「ペルシア」は16世紀以降はサファヴィー朝のことだと考えて差し支えありません。

紅海アラビア海1


 オスマン帝国

(「オスマン帝国」Wikipedia

 

史料の中に登場するバーブ=エル=マンデブはアラビア半島と東アフリカによって作られた紅海の出口の海峡のことで、モカというのはそこにあるイエメンの都市です。世界史でも出てくるアデンがすぐそばにあります。

モカ
「モカ」(Wikipedia

また、バスラはイラン南東部、ティグリス・ユーフラテス両河川の合流してできるシャトゥルアラブ川の沿岸都市、さらにゴメロンことバンダル(レ)=アッバースはホルムズに面してイラン側にある港湾都市です。

ペルシア湾岸


つまり、何のことはない、要はこの史料で書かれているのは世界史でよく出てくる紅海ルートと、東地中海からティグリス・ユーフラテス両河川を下ってペルシア湾岸に出てくるルートで銀がインド方面に流入していく様子を描いているにすぎません。

 また、ペグーはビルマ、テナッセリムはマレーシア、シャムはタイ、アチェンは多分アチェーでスマトラ北部、マカッサルはインドネシア(スラウェシ島)の都市ですし、モルディヴはインド西南の島、モザンビ(-)クは東アフリカですから、これらはインド洋海域をぐるっと取り囲むような各地域を示しています。史料からは、インドを中心に各地域に放射上にインドの物産が出ていく様子(逆に銀がインドに集中していく様子)を思い描くことができます。(もっとも、実際には沿岸を行くので、インド洋をドカンと横断するような命知らずな航路を思い描かれると困りますがw)

インド洋交易
 

また、取引されていた商品についてです。

・インディゴ

:植物性の青い染料です。藍のことですね。

・絨緞

:ペルシア絨緞は有名ですね。イラン周辺では羊毛や綿を用いた織物生産が盛んです。

320px-Ardabil_Carpet
(「ペルシア絨毯」Wikipedia)

・クローブ(丁子)

:モルッカ諸島原産の香辛料です。名前の通り「丁」の字に似ているのが面白いです。

丁子
(「クローブ」Wikipedia)

・ナツメグ

:同じくモルッカ諸島原産の香辛料で、肉や魚料理の匂い消しなどに使われます。

natumegu
(「ナツメグ」Wikipedia)

・馬

:インドでは従来は戦闘などでも象が使われていましたが、インドにムスリムが進出する中で次第に先頭の中心が馬へと変化します。ヴィジャヤナガル王国などは西アジアからかなりの頭数の馬を輸入していたようで、これについては近年あちこちの教科書に記載されるようになりましたが、教科書によっていくらか記述の仕方には差があるようです。(東京書籍『世界史B』平成30年度版には、本文ではなく注の部分に写真付きで「交易するポルトガル商人」のレリーフの写真と解説文が掲載されています。(p.222) 東京外語で出題されたところを見ると、今後もしかすると出題の頻度が上がるかもしれませんね。

 

【大問2論述(100字)】

(設問概要)

・(1920年代から1930年代にかけての)アメリカの繁栄がもたらされた経緯について説明せよ。

・その後の社会の変化について説明せよ。

・指示語:第一次世界大戦 / フォード / 移民法

100字以内

 

(解答手順:指示語の分析)

 えらくアバウトな条件設定の設問です。そもそも、1930年代のアメリカは世界恐慌のまっただ中ですので、とても「アメリカ社会の繁栄」の時期ではないような気がします。おそらく出題者は1920年代の繁栄を意図しているのでしょうが、1929年には世界恐慌ですし、その後はニューディール政策ですから、1930年代と言われると、「その時期にかけてのアメリカ社会の繁栄」って言っちゃっていいものなのかなぁと疑問を感じます。

また、「1930年にかけて」であれば1920年から1930年で時期を設定してもいいのですが、「1930年代にかけて」と言われると「1930年代のどこまでにかけてじゃい」と突っ込みたくなります。多分、元々は「アメリカ的生活様式は1920年代から30年代にかけて形成されるものなんだよな~」、と何となく考えて文章をつくりつつ、「1920年代から30年代にかけて<の>アメリカ社会の繁栄」と文章をつないでしまったためにおかしなことになってしまったんじゃないかなぁと思います。

 ただ、設問自体が100字ですし、それほど入り組んだことを聞いているわけでもないと思いますので、基本的には1920年代のアメリカ社会の繁栄について書けばよいだろうと思います。また、字数が短いので指示語を分析・活用していけば自然に解答の輪郭は見えてくるでしょう。

 

①第一次世界大戦

:第一次大戦中の物資供給による債権国への上昇や、戦後のヨーロッパの荒廃と、ヨーロッパに物資を輸出したアメリカの繁栄について書けばよいでしょう。1920年代、アメリカはハーディング・クーリッジ・フーヴァーと3代続く共和党政権のもとで経済界の利益を重視する政策がとられ、国内的には自由放任、対外的には高関税を課す保護貿易政策がとられました。高関税政策にもかかわらずアメリカの輸出が不振にならなかった原因は、終戦直後のヨーロッパでは荒廃がひどく、物資の輸入やアメリカ資本を受け入れざるを得なかったからです。ですが、ヨーロッパ経済が回復するとアメリカでは生産過剰によるモノ余りが進行し、これが価格下落と企業業績の悪化につながり、世界恐慌の背景となります。1920年代の成功に味をしめたフーヴァー大統領のスムート=ホーレー法(超高関税による国内産業の保護政策)は逆にアメリカの輸出不振を招き、さらに欧州のブロック経済形成による国際貿易の急激な縮小につながり不況を長引かせることになりました。

②フォード

:ベルトコンベア方式による大量生産によるフォードT型の普及について言及するべきでしょう。当然、大衆消費社会の到来についても合わせて示すべきです。

③移民法

:アメリカへの移民の増加は、奴隷解放宣言によって終了した奴隷制に代わる安価な労働力の供給源として重要でした。労働力が安価に供給されることでアメリカの工業化はその推進力を得ていたわけです。ですが、移民の増加は移民に対する風当たりを強くし、その制限などが行われました。1924年の移民法では日本人移民の禁止に加えて南欧・東欧系の移民の実質的な制限が行われました。

 

(解答例)

 第一次世界大戦中の物資供給で米は債権国となり繁栄した。フォードの大量生産は自動車普及に象徴される大衆消費社会を現出したが、WASPなどは保守的価値観を持ち、移民の入国を禁止・制限する移民法制定につながった。(100字)

 

まぁ、100字ならこんなものではないでしょうか。

 インド史は、情報量自体は少ないにもかかわらず、馴染みがないせいか受験生にとってはとっつきにくい分野のようです。ですが、このインド史はとてもコスパが良い!何と言ってもわずかプリント数枚分の情報量なのに、各模試では下手すりゃ大問1個分ドカンと出たりします。受験でも特に近現代史については頻出の箇所だったりします。ただ、近現代史については、教科書でもプリントでも情報が断片的に出てくることが多く、特にムガル帝国衰退以降のインド史、なかでも民族運動の全体像がつかめないという受験生は多いようです。

 そこで、今回はアウラングゼーブの死以降からインドとパキスタンの分離独立のあたりまでを一つの流れとして示してみたいと思います。私の頭の中で、ムガル以降のインド史は下のような形でまとめられています。

 

① バーブル~アウラングゼーブまでを君主ごとに特徴まとめ(16世紀~18世紀初)

② アウラングゼーブの死以降のムガル帝国分裂とイギリスの進出(18世紀初~19世紀)

③ 東インド会社の変容(18世紀後半~19世紀前半)

④ インド大反乱とムガル帝国滅亡(1857-59)からインド帝国の成立(1877

⑤ 民族資本家・知識人の成長と民族運動の展開(19世紀後半)

  A、国民会議派の形成期(1880s

  B、国民会議派の急進化とヒンドゥーとムスリムの対立(1905~)

  C、第一次世界大戦と第一次サティヤー=グラハ(1910s半ば~1920s初)

  D、インド独立運動の再燃(1920s後半~)

⑥ インド・パキスタンの分離独立(1947

 

 ある地域の通史を効率よく思い出すには、こうした特定の時代ごとにいくつかのブロックにわけて整理するやり方が効果的です。(もっとも、本当の意味で歴史を理解するためには重層的な理解が必要になるので、過度のモデル化や単純化は避けた方が良いのですが。)

今回は、この区分けに従って②~⑤の流れを示してみたいと思います。

 

(アウラングゼーブの死以降)

 アウラングゼーブが亡くなるのは1707年、ちょうどイギリスでグレートブリテン王国が成立(スコットランドとの合同)した年のことです。アウラングゼーブは、かつて3代皇帝アクバルが進めたヒンドゥー教徒(ラージプート諸侯)との融和政策を転換し、ジズヤの復活やヒンドゥー寺院の破壊やモスクへの建て替えを進めたため、ラージプート諸侯の反発を買い、帝国は分裂を始めます。「ラージプート」というのは、ムガル帝国進出前からインドにいたヒンドゥー教を信仰する支配階層カーストのことです。彼らからすれば、ヒンドゥー教を信仰している限り「上位カースト=えらい」が生まれながらに保障されるわけですから、ヒンドゥー教信仰はとても大事なわけです。

 さて、ムガル帝国が分裂に向かう頃、インドではイギリスとフランスが勢力争いを展開していました。当初、両国は貿易のため沿岸地域に拠点を構えました。イギリスはカルカッタ、マドラス、ボンベイに、フランスはポンディシェリとシャンデルナゴルにです。

 インド英仏拠点

 

ところが、ムガル帝国の分裂が進み、各地に小諸侯が事実上の独立国として乱立し始めると様子が変わってきます。特に、イギリスの拠点マドラスとフランス拠点ポンディシェリがあったインドの東南岸(カーナティック[カルナータカ])地方では、地元の諸侯の内紛や対立が発生して政治的に極めて不安定で、英仏の活動の余地が拡大していきます。こうした中で、ヨーロッパにおいてオーストリア継承戦争が1740年から開始されたことで、インドにおける英仏両拠点間の緊張も高まっていきました。この緊張の中でイギリス側がフランス船を拿捕したことがきっかけでカーナティック戦争(1744-4850-5458-61)がはじまります。

 このカーナティック戦争を皮切りに、イギリスはフランス勢力をインドから排除していきます。プラッシーの戦い(1757)でフランスと同盟したベンガル太守軍を打ち破ったのち、ブクサールの戦い(1764)でムガル皇帝やベンガル太守などの連合軍を打ち破って、ベンガル・オリッサ・ビハールのディーワーニー(徴税権)を手に入れます。ディーワーニーとは、帝国財務大臣または各州の財務長官(ディーワーン)の持つ権限のことで、主に徴税権などのことでした。イギリスは形式上、ムガル帝国のベンガル・オリッサ・ビハールの州財務長官となり、その権限を行使しますが、さらにこれを拡大して各州の行政権を手に入れ、実質的な太守の座を獲得します。

 ここで重要なことは、それまでは商取引による収入の拡大とそのための拠点づくりが主な目的であった東インド会社の業務の中に、土地管理・行政が加わったという点です。そして、これ以降イギリスはマイソール戦争(1767-6980-8490-92:南インド)、マラータ戦争(1775-821803-051817-18:デカン高原)、シク戦争(1845-4648-49:パンジャーブ地方)などを通して各地方勢力を撃破し、その支配領域に勢力を拡大していくことになります。世界史で押さえておくべきこの時期のインドのイメージは3点でしょうか。

 

① ムガル帝国の衰退と諸侯の分立

② イギリスが商取引中心の活動から土地支配にも乗り出す

③ 東南から西北に北上するような形で支配領域を拡大。

  (カーナティック戦争、プラッシーの戦い以降)

 インド戦争

 

 上がその地図です。アバウトですが。赤が一部カシミールにかかっちゃってますね。でもまぁ、いつも申し上げるように世界史では正確な地図より位置関係の把握の方が重要ですので、この程度の把握でも十分ですw

 

(東インド会社の変容)

 上述のように、イギリス東インド会社は次第にインドの土地支配を拡大していきます。その中で成立していく制度がザミンダーリー制とライヤットワーリー制です。この両制度は近年の東大の問題でも出題されるなど、だんだんと受験生の間でも周知されるようになってきました。この両制度の違いは、イギリスと民衆の中間にザミンダール(地主)をはさむかどうかということです。地主を介するのがザミンダーリー制、そうでなく農民(ライヤット)から直接イギリスが租税を徴収するシステムがライヤットワーリー制です。 

ザミンダーリー制、ライヤットワーリー制

 ザミンダーリー制が1793年にベンガルで初めて導入されて以降、ベンガル地方を中心に展開されたのに対して、ライヤットワーリー制は19世紀初めからイギリスが併合していく中部~南インドにかけて導入されたという地理的な違いにも一応注意を向けておくと良いかと思います。

 また、東インド会社がディーワーニーを獲得し、土地と人民の支配を開始したことでイギリス本国政府は東インド会社に対する監督を強めていきます。従来から、イギリスはボンベイ、マドラス、カルカッタの3都市に商館を置いていました。プラッシーの戦いの後、イギリスはカルカッタ周辺の一部の土地支配権を獲得します。それぞれの商館が獲得した支配地域は管区としてそれぞれに知事が置かれることになりました。プラッシーの戦いで活躍したクライヴは、初代のベンガル知事に就任しています(1758年)。中でも、重要性を増したベンガル知事は、1773年にベンガル総督に昇格され、インドの全ての管区はこのベンガル総督の監督下におかれることになりました。その初代ベンガル総督に就任したのがヘースティングズです。(参考書によっては「ベンガル総督」ではなく後に改称される「インド総督」とされています。)

 当初、こうした知事職または総督職はイギリス東インド会社の役員会によって決められていましたが、1784年にイギリス本国政府がインド庁を発足させると、東インド会社に対するインド庁の発言権が次第に増大し、実質的にベンガル総督の人事も本国政府の意向によって決定されるようになります。また、東インド会社の商業活動にも次第に制限が課せられるようになりました。その背景には、本国イギリスで本格化した産業革命と、産業資本家の台頭により、一部の特権商人が商取引で利益を上げる東インド会社のような特許会社の存在よりも、イギリスで製造した綿織物をはじめとする工業製品を他国に輸出することで利益を上げるための自由貿易の方が重視されたことがありました。1813年には東インド会社のインドにおける貿易独占権が廃止され、さらに1833年には中国の貿易独占権が廃止されたことで、商業活動が停止されます。この商業活動が停止された1833年の特許法において、ベンガル総督はインド総督と改称されます。世界史においておさえておくべきこの時期の知識としては、

 

① ザミンダーリー制とライヤットワーリー制

② 東インド会社の活動内容の変容(商取引から土地支配へ)

③ 東インド会社の特権の廃止と本国の自由貿易体制への移行、その背景

④ 初代ベンガル(インド)総督がヘースティングズであること

 

などを押さえておけば十分だと思います。

 

(インド大反乱とムガル帝国滅亡)

 東インド会社の諸特権が廃止され、イギリス本国の監督が強化されるに従い、インドにはイギリスからの綿製品が大量に流入することとなりました。

インド産綿布、イギリス産綿布

(東京書籍『世界史Bp.324

 その結果、インドの重要な産業であった手作業に依存した綿織物業は安価なイギリスの工場で生産された綿織物によって駆逐され、壊滅的な打撃を受けることになりました。その結果、職人たちが失業し、イギリスへの綿花の供給地へと転落したインド経済は低迷を続けます。さらに、イギリスはマイソール戦争、マラータ戦争、シク戦争などを通してインド支配を拡大する際に、各地方の小勢力を根絶やしにするのではなく、イギリスに協力的な勢力には一定の条件の下で自治を認める政策をとりました。このように、イギリスのインド支配下で一定の自治を与えられた諸侯のことを藩王国といいます。

これらの藩王国は、インド大反乱(1857-1859)の後にはインドにおける貴族として扱われ、保護される対象となります。イギリスは、本国において成立していた社会的ヒエラルキー(庶民‐ジェントルマン・貴族etc)に類似のヒエラルキーをインドにもおいても式典や儀礼などを通して可視化し、それを統治に利用していきます。イギリスのインド統治に関しては「分割統治(分割して統治せよ)」が有名ですが、これは様々な面に及んでいて、各藩王国同士を分断して競わせるだけではなく、身分・社会的地位・財産などによる分断、宗派による分断などを通して、インドに住む人々が一致団結してイギリスに反抗しないようにするという発想が根幹にあり、カースト制度の利用や、ヒンドゥー・ムスリム間の対立を煽ることなども行われました。(このあたりの事情のうち、イギリスによる藩王国統治が大英帝国内の装飾的秩序の中でどのように位置づけられていたのかについては、デイヴィッド=キャナダイン著、平田雅博・細川道久訳『虚飾の帝国‐オリエンタリズムからオーナメンタリズムへ』などを見ると面白いと思います。)

ただ、藩王国の保護とヒエラルキー的な諸秩序が形成されていくのは、インド大反乱の後、インド帝国が形成されていく中でのことで、インド大反乱前の藩王国はイギリスからかなり厳しい扱いを受けていました。中でも諸侯から恨みを買うことになった政策が「失権の原則」で、藩王国の君主に嫡子がいない場合にはその藩王国の自治を取り上げてイギリスの支配下に置く(要は「お家お取り潰し」)というものです。これにより、多数の没落した旧支配層が発生していました(江戸時代でいえば浪人ですね。)。さらに、インドの領土拡大が完成を見たことで、かねてから東インド会社が軍事力として活用してきたシパーヒーの解雇が進んだことで、ここでも多くの失業者が発生します。つまり、インド大反乱前夜のインドでは、以下のような食い詰めた人々、そして人々の不満がたまっていました。

 

・インド綿産業の壊滅にともなう大量の失業者と経済の低迷

・藩王国の取り潰しによる没落した支配層の増加

・不要となり、解雇され始めたシパーヒー

 

 インド大反乱ことシパーヒーの乱では、従来はそのきっかけとなった弾薬包に獣脂が染み込まされているという噂が広まったこと(豚であればムスリムにとって不浄で、牛であればヒンドゥーにとっては神聖なので、薬包を口に含むことが禁忌となる)がクローズアップされてきましたが、反乱の背景となる要因が多数存在したこと、実際の反乱に参加した人々がシパーヒーだけではなく、多様な階層にわたったことなどから、最近ではインド大反乱の呼称が使われているようです。(平成30年度版の東京書籍『世界史B』はインド大反乱、最新版の『詳説世界史研究』では索引でシパーヒーの大反乱が使われ、本文では<インド人傭兵(シパーヒー)による大反乱>とされています)

 この反乱に際して、すでに力を失っていたムガル皇帝バハードゥル=シャー2世は反乱軍の最高指導者として祭り上げられます。とはいっても、生年が1775年なので、当時は御年80歳を超えていますので、完全に名目上の指導者でした。ですが、反乱鎮圧後はその罪を問われてビルマへの流刑となり、ここにムガル帝国は滅亡(1858)します。さらに、東インド会社はインド統治が不十分であったことの責任を負って解散(1858)となりました。この時からイギリスによるインドの直轄支配がはじまることになります。

バハードゥルシャー

流刑前のバハードゥル=シャー2世(Wikipedia

 

 その後、インドでは上述のような藩王国の保護と秩序の再編が進んでいきます。そして1877年、ディズレーリ内閣はヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させ、形の上では同君連合ですが実質的な植民地としてインドをイギリスの完全な支配下におさめました。世界史における知識としては、

 

①イギリス産綿製品の流入とインド綿産業の壊滅

②インド大反乱とその背景

③ムガル帝国の滅亡(1858

④イギリス東インド会社の解散(1858

⑤インド帝国の成立(皇帝:ヴィクトリア、ディズレーリ内閣の時)

 

あたりを押さえておけば十分かと思います。

 

(民族資本家・知識人の成長と民族運動の展開)

[A、国民会議派の形成期(1880s]

 イギリスによるインド支配は、もともと住んでいたインド人に対して非常に差別的で、政治的な諸権利も認められていませんでした。具体的には、英語の強制や土着言語での出版の禁止、司法制度の不平等などです。こうした諸政策に対する反発から、バネルジーは1876年にインド人協会を、1883年には全インド国民協議会を結成します。一方、イギリスはこうした動きを牽制するために、1885年にインド人の上層階層やイギリスに協力的な知識人からなる親英組織であるインド国民会議を結成させます(第1回会議はボンベイ)。バネルジーの運動はまもなくこのインド国民会議に吸収されます。(1886年に全インド国民協議会がインド国民会議に合流。) そして、インド国民会議と彼らに同調して行動する政治集団は、インド国民会議派と呼ばれる一派を形成することになります。こうした政治団体が作られるようになった背景には、イギリスの英語教育や、分割統治によるインド人上流階級の保護と形成、民族資本家の成長などにより、西欧式の教育を受け、西欧の思想に触れる人々が増加してきたことがありました。

 

[B、国民会議派の急進化とヒンドゥーとムスリムの対立(1905~)]

 インド国民会議は当初親英団体でしたが、その性格を大きく帰る事件が起こります。これが1905年に制定されたベンガル分割令(カーゾン法)です。当時のインド総督カーゾンは、親英団体インド国民会議の中でも次第に台頭してきた反英的な急進派や、その他の民族運動に神経をとがらせていましたが、行政の効率化と民族運動牽制のために、当時民族運動が盛んであったベンガル地方の行政区画の再編を行います。その結果、新しい行政区画では各行政区における人口比が激変し、従来の行政区であれば多数派であったヒンドゥー教徒の意見が、新行政区ではムスリム住民の比重が増し、ムスリムの意見が反映されやすい状態になってしまいます。これに怒ったヒンドゥー教徒中心のインド国民会議では、急速にティラク率いる急進派の発言力が増大します。その結果、彼らは穏健派のバネルジーなどを批判しつつ、1906年の国民会議カルカッタ大会において、「スワラージ(自治)、スワデーシ(国産品愛用)、ボイコット(英貨排斥)、民族教育」からなる反英的な四大綱領を採択しました。こうして、国民会議の親英的ムードは吹き飛び、その後は反英運動の中心になっていきます。ただし、この段階では穏健派と急進派の分裂やティラクの投獄などもあって、これ以上運動が拡大することはありませんでした。一方、イギリスはこれに対抗させるために1906年に全インド=ムスリム連盟を結成させ、宗教対立を利用してイギリスへの攻撃でインドの人々が団結しないように画策します。

 

[C、第一次世界大戦と第一次サティヤー=グラハ(1910s半ば~1920s初)]

 その後、第一次世界大戦がはじまると、ムスリムの立場に微妙な変化が生まれます。その原因は、イスラームの宗教的権威の象徴であるカリフとカリフ制を擁護するヒラーファト(キラーファト)運動がインドで高揚したことによります。当時、カリフはオスマン帝国のスルタンが兼任するスルタン=カリフ制がとられていました。そして、第一次世界大戦においてオスマン帝国はイギリスの敵国でした。それまではヒンドゥー教徒との対抗上、親英団体としての性格を有していた全インド=ムスリム連盟でしたが、カリフと敵対するイギリスに対する立場は徐々に変化していきます。

 このように、ムスリムとイギリスの間に距離ができ始めていた頃に、インドの自治をめぐる諸問題が持ち上がります。イギリスは、第一次世界大戦中にインドを戦争に協力させるためにイギリス本国のインド担当大臣モンタギューがインドの自治を推進する方針を示したことから、自治獲得への期待が高まっていました。また、第一次世界大戦の末期には、ソヴィエト政権の「平和に関する布告」やウィルソンの発した「十四ヵ条の平和原則」において民族自決の理念が示されたこともあり、戦争に協力したインドの人々が期待するのも無理からぬものがありました。しかし、イギリスは1919年にきわめて形式的で限定的なインド人の政治参加を認めるインド統治法(「インド統治法」と名の付く法律はこれだけではなく、複数回出されていることに注意)を制定します。このインド統治法は中央政府にはインド人に決定権を与えず、地方自治に参加を限定した上で、その地方行政においても保健行政や教育などにインド人を関わらせる一方で、より重要な徴税・司法・治安維持などについては原則としてイギリス人が管理する内容でした。このインド統治法は当然インド人の期待を裏切るものでしたが、さらにインド人の怒りに火をつけたのがローラット法と呼ばれる弾圧立法で、この法律ではインド人に対する令状なしの逮捕、裁判なしの投獄が認められていました。こうしたイギリスのごまかしに憤りを感じたインド人は抗議行動を激化させていきますが、アムリットサルに集まった一万数千ともいわれる群衆にイギリス軍准将率いる一個大隊が発砲し、数千名に及ぶ死傷者が出るアムリットサル事件が発生します。この段階において、インド人の反英感情は急激に高まっていきます。

 こうした中で現れた民族指導者ガンディーは、暴力ではなく非暴力・不服従を貫くことを通しての反英運動であるサティヤー=グラハ(真理の要求)と称される運動を展開していきます(第一次非暴力・不服従運動)。ガンディーは本来敵対関係にあったムスリムにも協力を呼び掛けて、運動は急速に発展していきました。しかし、運動の急進化・暴力化を危惧したガンディーが運動の停止を宣言したことや、ムスリムのヒラーファト運動がトルコ共和国におけるカリフ制の廃止(1924)によって意味をなくしてしまったことなどから、インドの民族運動は一時的に落ち着きを取り戻します。

 

 [D、インド独立運動の再燃(1920s後半~)]

 一時的にやや沈静化していたインドの民族運動でしたが、1920年代後半に再度激しさを増します。そのきっかけになったのは、1919年のインド統治法の見直しのために組織された憲政改革委員会(サイモン委員会)の委員にインド人が一人も含まれていなかったことでした。これをきっかけに国民会議派や全インド=ムスリム連盟などの政治団体はその活動を活発化させていきます。国民会議派は1929年に開かれたラホール大会で、指導者のネルーが中心となり、「プールナ=スワラージ(完全独立)」を決議して運動の理念としましたが、ヒンドゥーとムスリムは選挙制度などをめぐる対立が再燃して足並みはそろいませんでした。一方、ガンディーは大衆を指導する第二次非暴力・不服従運動を展開し、イギリスに対する不服従の象徴として、イギリスによる塩の専売に抵抗する「塩の行進」運動を展開します(1930年)。

 こうしたインドにおける民族運動の再燃を受けて、イギリスは(英印)円卓会議の開催を提案し、ガンディーをはじめとする民族運動指導者をロンドンに集め、3度にわたる会議を開きます(ガンディーはこのうち第二回の会議に参加します)。ところが、この会議にはガンディーだけではなく、数多くの少数派の代表が招かれていたことから、ガンディーの主張は各派の対立の中で埋もれてしまい、各代表は自分の利害のみを主張することに終始して、会議は成果を上げることができず、帰国して運動を再開しようとしたガンディーは逮捕・投獄されます。しかし、憲政改革委員会と3度の円卓会議を経て、1935年には新インド統治法が制定されます。この統治法では相変わらずインド人は中央政府の政治には関与できませんでしたが、インド人は州の政治において州議会と州政府を選挙によって構成することが可能となりました。ただ、これも最終決定権はインド総督が任命するイギリス人州知事が握っているという不完全な自治でした。この法に基づいて行われた選挙において、多数派を占めたのはヒンドゥー教徒中心の国民会議派でした。これは人口比から考えて当然の結果でしたが、国民会議派が地方選挙で圧勝したことに対し、かねてから選挙制度をめぐってヒンドゥーと対立していたムスリムは危機感を高め、次第に宗派対立が激化をしていきます。

 

 このように、インドにおける民族運動は、19世紀後半から開始され、いくつかの波を経ながら第二次世界大戦の時期を迎えることになります。このあたりが模試や受験では頻出の箇所なのですが、教科書や参考書の記述があちこちに飛んでいたり、一部省略されていることもあって、全体像がとらえられない人が多いようです。この時期の出来事で世界史において必要な部分をまとめると以下のようになります。

 

1880s) バネルジーによる民族運動の展開

      インド国民会議ボンベイ大会の開催(1885、親英団体として)

1905~) ベンガル分割令(カーゾン法)の制定

      インド国民会議カルカッタ大会の開催と四大綱領の採択(ティラク、急進化)

      全インドムスリム連盟の結成

(第一次大戦~) ヒラーファト運動の高揚

1919~) インド統治法ならびにローラット法の制定

      アムリットサル事件の発生

      第一次非暴力・不服従運動の展開(ガンディー)

1920s後半~) サイモン委員会(憲政改革委員会)に対するインド人による批判

         国民会議派ラホール大会(ネルー、プールナ=スワラージ)

         第二次非暴力・不服従運動

         英印円卓会議

1935~) 新インド統治法

      ヒンドゥーVSムスリムの対立激化

         

 今回も書いてみてエライ後悔しましたが、とりあえず簡単にまとめてみました。(話すのは楽なんですが、文章に書き起こすとなるとかなり厄介です。)内容が入り組んでいてまとめにくく、かつ試験によく出てくる部分は冒頭の分けですと⑤民族資本家・知識人の成長と民族運動の展開(19世紀後半)」の部分だと思います。一問一答形式の設問もなくはないですが、正誤問題や並べ替えの問題が良く出てくると思いますので、よく確認してみてください。

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