世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

各校の過去問対策、受験対策のほか、世界史を理解する上で役に立つ視点や勉強法についての情報を随時更新していきます。

以下のような方はとくにオススメ!

・東大、一橋などの国公立や早稲田、慶応の受験を世界史で考えている。
・論述対策を進めたい。
・教科書やプリントだと不足している情報が多すぎて、背景にあるつながりが見えない。
・『詳説世界史』などを読むだけでは気づけない、専門的な歴史的視点を養いたい。
・世界史を覚えるのが苦手で、どうやって勉強したらよいのかわからない。
・世界史の教員になりたてだが、西洋史が専門ではないので少し突っ込んだ知見を知りたい。

※ 目標に向けて頑張る受験生の皆さんの一助になればと思って頑張って更新し、情報もチェックしておりますが、人間ですのでミスなどが出ることもあります。当サイトの情報をご利用の際はあくまでも自己責任でお願いいたします。

※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw また、大手予備校のHPからも閲覧できるかと思います。正規の問題が手元にあった方がわかりやすいと思います。


 忙しさにかまけてずいぶん長いことほったらかしになっていた2018年の一橋の問題についてですが、この年の問題はこれまで以上に史料読解の比重が高い設問となりました。2017年の問題が、それ以前の数年の問題と比較すると史料を読んでも読まなくても大きな差がなかったので、今後どのようになるかと注目していましたが、2018年の問題は史料読解力に重きをおくここ数年の流れに復帰したことになります。個人的には、歴史的な知識をベースに史料読解力、論理的思考力、国語力に重きをおく2018年のような問題の方が2017年のような問題よりも難しくはあるが良問だと感じますので、おそらく一橋が目指しているのはこちらのタイプの設問なのでしょう。

 すでに一橋の出題傾向分析や問題解説で紹介している通り、史料読解型の設問を出題している大学としては東京外国語大学がありますが、これよりもむしろ一橋型の出題に近いと感じるのが上智のTEAP利用型の世界史設問です。(TEAP利用型についてはつい最近、分析と解説をUPしました。)まだ始まって日の浅いこちらの受験型と問題でまだまだ過渡期にあるかと思いますし、年によって問題に良し悪しがありますが(上智TEAP利用型を受験する受験生にとって適切かそうでないかという点で)、しっかりとリード文を読まないと解けないという意味では一橋の問題に近いものがあります。ただ、一橋の方がかなり深い歴史的知識を要求することがある一方で、上智のTEAP型は基本的な歴史的知識があればよく、あとは国語力の問題であることが多い気がします。(これは「上智の方が問題が簡単」だ、ということではなく、上智の難しい問題は高校生レベルの世界史知識では到底太刀打ちできるものではなく、ほとんどの受験生はリード文の読解に頼らざるを得ず、知識面での差はほとんどつかない、という意味です。チャアダーエフの哲学書簡から生じた西欧派とスラブ派の論争を高校生が知識として持ってたら怖いわ。)いずれにしても、東大・東京外語・上智TEAP利用型は一橋の問題の練習としてはそれなりに役立つかと思います。

 

2018 Ⅰ

 

■問題概要

・ヨーロッパの歴史において、1113世紀にかけて見られたと考えられる「空間革命」はどのようなきっかけでおこったか、考察せよ。

・「空間革命」の結果としてヨーロッパでどのような経済・社会・文化上の変化が生じたか、考察せよ。

400字以内

 

(リード文概要)

:リード文に使われているのはカール=シュミットの『陸と海と』です。カール=シュミットは20世紀を代表する思想家の一人ですが、詳述の必要はあまりないかと思います。Wikipediaに載っているのでこちらをご参照下さいw

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88

 本設問のリード文では、カール=シュミットの「空間革命」についての文章を示しています。彼の『陸と海と』では、大航海時代以降、ヨーロッパ人が海を中心とする世界観を獲得することによって従来の世界観が大きく変化し、さらに20世紀の空への世界の拡大と新たな世界観がどのようなものになるかという考察がなされています。本設問は、そうした空間概念の変化や世界観の変質が、ヨーロッパにおいては11世紀~13世紀に起こったと考えた場合、それはどのようなものかということを問うています。勘の良い人であればシュミットの「空間革命」が何を言っているのかということがピンとくると思いますが、大部分の受験生は丁寧にリード文を読まないと、何を言っているのか実感として把握するのは難しいかと思います。

 リード文の前半では、人間のもつ「空間」に対する意識は、その人が置かれた状況によって異なってくるということを示しています。都会の人間と農夫の世界は違う、ということを言っていますので、このあたりはつかみやすいと思います。また、こうした「空間」概念は、個々の生活や職業のみならず歴史によっても違うと言っているわけです。これはつまり、古代世界の住人と現代の世界の住人が全く異なる「空間」概念、または実際の生活空間を持っているということを言っているわけですね。

 リード文の後半ではこうした「空間」概念は歴史的に変化するものだということが示されています。コロンブスとコペルニクスが引き合いに出されていますが、大切なことはこうした変化が、学問や人間の認識が先に来て変化するのではなく、「歴史的な諸力」、実際に人間が活動して動くことによって生じる「歴史の力の新しい前進」によって起こるということです。人が活動し、歴史が動くことで、「新しい土地、新しい海が人間の全体意識の範囲のうちに入って」来て、それにより「歴史的存在の空間もまた変わってゆく」ことになります。これを11世紀~13世紀のヨーロッパに当てはめた時に、何のことについて言っていることになるのか。おわかりでしょうか。そう、「西ヨーロッパ世界の膨張」が本設問のテーマとなります。

 と、長々と解説してきましたが、実はこの設問、過去にそれも一橋で出題されたことがあります。なんと1982年w!設問の内容もほとんど同じです。でも、さすがに40年も前の問題にまで目を通すのはコスパを考えた時にどうかなぁと思います。11年分毎日解いたとしても1か月半ですからね…。特に現役生であれば、それよりも先にすべきことは私大対策を含めたくさんあるような気はします。受験生であった頃の私なら40年前の世界史の過去問対策するよりも英語か数学に時間を割いたと思いますw でもまぁ、そこは人それぞれでしょう。

 

 閑話休題。

ちなみに、ある解答では「気候が温暖化し、マジャール人ら異民族の活動も止んで社会的安定が訪れると、三圃制など新農業技術の導入もあり、生産力が拡大し人口も増加して西ヨーロッパの拡大が始まった。」となっていました。これをご存じの方からは、私の解答例について「お前、マネしてるだけじゃねーか」と言われてしまいそうですが、そういうわけではないです。まず、私が解答を作成するにあたり最初に参考にしたのは東京書籍の『世界史B』教科書ですが、この平成30年度版には西欧の膨張について取り扱う部分について冒頭の文章がこうなっています。

 

11世紀になると、気候が温暖になり、外部勢力の侵入による混乱もおさまって、西ヨーロッパの社会も安定してきた。」(p.150

 

ちなみに、私が最初に書いた文章は「11世紀以降、気候温暖化やノルマン人・マジャール人など外部勢力の侵入による混乱が収まると、西欧世界は安定化した。」で、字数などの都合から削って解答例のようになったわけです。もちろん各予備校の解答や赤本の解答など一通り目は通しますが、別にplagiarisingしようとかそういうわけではないですw 表現が似通ってるときは、半ば定型化された表現(12世紀ルネサンスなんかそうですね。「アラビア語文献がラテン語文献に翻訳され」とか笑いが起こるレベルで定型文です。)になっているか、教科書などを参考にしたらたまたま参考にした場所が同じだったかどちらかかと思います。

 いろいろと参考にしながらも自分だったらどうするかなぁというのを検討して書いていきます。たとえば、上述の某予備校の解答では異民族の活動については具体例としてあがっているのはマジャール人だけで、ノルマン人についてはそれ以降に「南イタリアやシチリアを占領した」という形で膨張の例として出てきます。これはこれで良いと思います。ただ、ノルマン人の移動は9世紀頃から本格化します。ロロがノルマンディー公国を建てるのは910年ですし、デーン人がイングランドに侵入を繰り返すのもそのあたりですね。設問は11世紀以降の話をしていますので、私のようにノルマン人の活動を「かつて西欧世界を脅かした異民族の活動の一例」としても別に間違いではないわけです。また、ここには出ていませんが、イスラームも異民族の侵入には含まれます。すでに8世紀にはイベリア半島からウマイヤ朝が侵入していますし、シチリアにはアッバース朝支配下にあったアグラブ朝が侵入します。正解というのは一つとは限らないというところがミソかなぁと思います。

 今回は設問が①「空間革命のきっかけ」を示せ、②「空間革命」の結果としての経済・社会・文化の変化を示せ、ということだったので、特に「きっかけ」の部分については単に「西欧世界が膨張したよ」、ではなく「西ヨーロッパの人々の空間認識のあり方が変わったんだよ」という部分が出るように工夫してみました。また、結果の部分についても極力「人々の空間認識や世界観が変わるようなこと」を中心に挙げようと努めたつもりです。その分、歴史用語の数など要素としては犠牲にした部分もあるかなぁという気はしますが、まぁそれはそれでよいかなと思います。

 

■分析

設問の要求は何度も申し上げました通り。

①ヨーロッパの歴史において、1113世紀にかけて見られたと考えられる「空間革命」はどのようなきっかけでおこったか、考察せよ。

②「空間革命」の結果としてヨーロッパでどのような経済・社会・文化上の変化が生じたか、考察せよ。

 

 そこで、まず問題になるのは11世紀~13世紀にかけてヨーロッパで生じた「空間革命」とは何を指しているのか、ということです。これについてはリード文にコロンブスなどが出てきますので、15世紀~16世紀に起こった大航海時代に似た現象が1113世紀にあったか、ということが問題になります。ここでそれが「西ヨーロッパの膨張」にともなう人々の空間認識や生活空間、世界観の変化であると気づければ、あとは基本事項なのかなぁという気がします。社会経済系の出来事を理解するのが苦手、印象に残りにくいという人には解きづらいかもしれません。

 西ヨーロッパの膨張の原因は11世紀以降の各種農業技術の進歩による農業生産の増大とこれにともなう商業の発展ならびに人口増加です。余剰生産ができればそれを別のものと交換したいと考えるのは自然な欲求です。食料が豊富にとれるところばかりではないですから、そうしたところは余剰の農産物と交換すべく特産品を作って交換しますから商業が発展します。いつまでも物々交換では不便ですから貨幣経済も…と、あまりにモデル化されていてどうかと思いますが、基本的にはこのような流れですね。

 また、食糧に困らなくなれば、栄養状態が悪くてなくなってしまう人、特に乳幼児死亡率が低下しますので人口が増加します。ところが、社会の方は急激に増加した人口を吸収するようにその仕組みがまだ出来上がっていないんですね。生産量は増えても富のほとんどは荘園領主のもとに吸い上げられますから、農村では人口が増えても場合によっては厄介者、人によっては食っていけません。そこで、付加価値の創出によりより富の集まる都市へと人口者集中していき、人々は都市に流入し、そこでは新たな富の分配と生産のシステムが確立していきます。これがギルドだったり徒弟制度だったりするわけです。また、人数が増えたら食っていけないのは貴族も同じ。ゲルマン社会では当初分割相続が基本でしたが、分割相続ですと家の存続が難しくなることから、次第に長子相続へと変化していきます。そうすると、増えた兄弟は「部屋住み」の一生うだつが上がらない状態になってしまいますので、「このままここにいてもしょうがねぇ、いっちょ一旗揚げてやるぜ!」ということで政情不安定な南イタリアや東地中海世界、まだ見ぬ未開のエルベ川以東に新天地を求めて旅立っていくわけです。だいぶ乱暴な議論ではありますがw、こう理解しておくととりあえずわかりやすいですし、大航海時代の空気に近いものもありますよね。

 そんなわけで、1113世紀の「空間革命」のきっかけとして必須のものはだいたい以下のようになります。

・農業技術の進歩(三圃制・重量有輪犂など)

・大開墾による耕地拡大(ベネディクト派やシトー修道会など)

・農業生産の増大

・人口の増加

・余剰生産物の発生と定期市、商業の発達

・都市の成長と遠隔地商業の発展

・人の移動の活発化(巡礼など)

・十字軍、レコンキスタ、東方貿易、東方植民

(西欧の膨張実例、または直接的契機として)

 本来であれば「きっかけ」とあるのではっきりとした事象が示せればよいのですが、「空間革命」自体が(設問によれば)2世紀にわたる(現代的な視点からすれば)緩やかな変化ですし、地域も広大です。そもそも、人々の意識や生活空間、世界観の変化といったものはある程度の時間をかけてゆっくりと進行していくもの(常にそうであるとは限りませんが)だと思いますし、要因も多岐にわたります。おそらく、設問の方も「空間革命」を進展させることになった複数の要因を指して「きっかけ」としているつもりなのだと思いますので、上に列挙したものを各変化と結びつけて示せば良いと思います。ただ、そうした中であえて一つ「きっかけ」を挙げろと言われれば、私は農業技術の進歩による生産の増大を挙げたいと思います。理由は、「空間革命」を進展させる要因となった様々な変化の多くが、この農業技術の進歩をもとにしているからです。ただ、実際の変化はそう単純なモデルなのではないのだろうとは思いますが。

 

 さて、そうしますと続いて「空間革命」の結果として、経済・社会・文化上どのような変化がおこったかですが、教科書的には以下の通りになります。

 

・経済面‐遠隔地商業の発展、貨幣経済の浸透

・社会面‐農村への貨幣経済の浸透、古典荘園から地代(純粋)荘園へ、封建制の変質開始

    (ちなみに、純粋荘園化するのは仏で13世紀、英では14世紀頃)

     都市内部の秩序の形成

・文化面‐12世紀ルネサンス(イスラーム文化の流入、大学・スコラ学の発展)

 

設問の方は「空間革命」自体を説明せよというものではないので、概ね上に書いた内容でよいかとは思います。ただ、「空間革命」の結果とあるので、何かしら人々がいた空間の変化や、空間認識の変化、世界観の変化というものを意識するとよいかなと思います。

 

■解答例

気候温暖化やノルマン人・マジャール人などの侵入による混乱が収まると、西欧は安定化した。三圃制や重量有輪犂の導入、シトー会主導の大開墾の進展で生産余剰が生まれると商業活動が活発化して都市と交通が発達し、増大した人口は移動を活発化させ西欧世界は膨張した。十字軍は東地中海、レコンキスタはイベリア半島、東方植民はエルベ川以東の世界を切り拓き、東方貿易やバルト海交易などの遠隔地交易はイスラームをはじめ他の世界とのつながりを認識させた。その結果、北伊を中心に中世都市が発展し、徒弟制度など独自の社会構造が発展した。各都市は連結され物・情報・人の移動が活発化し、定期市が発達し、貨幣経済が浸透し、農村にも影響を与えて地代荘園への変化を促し、封建社会の変質をもたらした。トレドやパレルモではアラビア語文献のラテン語翻訳を通して古典・イスラーム文化が流入し、大学やスコラ学の発展などの12世紀ルネサンスをもたらした。(400字)

※ 本設問とは無関係ですが、中世の人々がどのような感覚をもっていたのか、ということについての歴史学における入門書の一つに、アナール派の第三世代の一人であるジャック=ル=ゴフの『中世の身体』があります。もうずいぶん昔に古典となってしまっているものですが、なかなか歴史には登場しない「身体」やそれに付随する感覚を取り扱った名著です。面白いですよ。

 

2018年 Ⅱ

 

■問題概要

・歴史学派経済学と近代歴史学の相違は何か。

・両者の相違はどのようにして生じたか、両者の成立した歴史的コンテクストを対比させつつ考察せよ。

400字以内

 

(ヒント)

・「歴史学派[経済学]におけるものと[近代歴史学の]古典古代学におけるものとは、研究への志向の動機においても、事象の対象化の方法においてもひとしからざるものが存する…」

=歴史学派経済学と近代歴史学は、研究動機もその方法も異なる

 

・「歴史学派経済学はその根本の性格においては依然として経済学なのであってー即ち歴史学ではないのであってー古代にも生活の一特殊価値たる経済を発見せんとすることが最も主要な研究契機」

・「歴史学派においては全ヨーロッパ的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列することが問題になってゐる」

・「古代の事象は、それが経済世界を構成する方向において対象化せられるのが歴史学派経済学」

=歴史学派経済学の根本は経済学であることにあり、その目的は古代の生活の中に経済的事象を発見・対象化し、さらにそれを全ヨーロッパ的経済発展のあるべき位置に配置することにある。

 

・「(近代歴史学の)古典古代学にあっては、経済をもそのうちに含むところの古代世界への親炙が研究契機」

・(近代歴史学の)「古典古代学においては、古代と現代とを本来等質の両世界として…表象することが主要問題」

・(近代歴史学の)「古典古代学においては、古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する方向において対象化せられる。」

=近代歴史学の研究動機は、経済のみならず、古代世界がどのようなものか、経済を含む全体像を構築することにあり、さらに古代と現代の間に優劣や発展などの差は存在せず、基本的には等質のものであるとの前提にたって対象化がなされる。

 

■分析

 この問題はとても難しいです。一方で、最近の一橋らしい設問でもあります。史料を読み取らせ、その情報をベースに受験生が持っている歴史的知識と結びつけて考察せよ、というスタイルの設問で、比較という視点が入っていることも合わせると、2016年一橋の大問1(聖トマス[トマス=アクィナス]とアリストテレスの都市国家論比較)が一番近いものかと思います。

 「難しいな」と感じるのはトマス=アクィナスとアリストテレス、中世都市とポリスというのが一橋受験者にとってはおそらく基本事項の範囲に入っていたのに対し、今回比較考察の対象になっているリストとランケ、そして何より歴史学派経済学と近代歴史学というものが、一橋受験者にとってもかなりハードルの高い知識であって、かつ教科書や参考書で詳しく書かれているものではないからです。リストとドイツ関税同盟くらいは基本事項なのでしょうが、リストの歴史学派経済学の詳細と関税同盟との関連性やランケとなるとややレベルの高い知識でかなり勉強している人でないと知らない知識になりますし、近代歴史学の詳細となりますとこれはもうハイレベルな知識で、普通の受験生に手におえるものではありません。ですから、もし赤本を解いていて全然知らない、わからないからと言って特に悲観することはありません。他の大方の受験生も知りません。ためしに駿台の分析を見てみましたが、大問1と大問3が「標準」となっているのに対し、大問2については「難」となっていました。難しいですよね、やっぱり。

 ただ、それでは本設問が「悪問」か、と言われれば、私はそうは思いません。(無茶なこと言うなぁとは思いますがw)その理由は二つあります。まず、設問が聞いているのは歴史学派経済学と近代歴史学についての世界史的知識を問うているのではない、という点です。本設問が聞いているのはあくまでも両者の「相違」とその相違が生じた「原因」です。「歴史的コンテクスト」についてはこれらを答えるにあたっての添え物(というのは少し言い過ぎかもしれませんが)にすぎません。もっとも、この添え物を適切に記述することが思いのほかに難しいのですが。二つ目に、本設問はある意味で世界史的知識がなくても解ける設問です。つまり、史料をじっくり読解することによって、世界史では習っていない部分の知識を補って答えることができます。史料の読解と最低限の世界史知識をうまく組み合わせれば、他の受験生と同等、場合によっては一歩抜け出た解答を構築することが可能です。世界史の問題というよりは国語の要素が強い設問です。やはり、ここでも知らないからと言ってあきらめてしまうのではなく、どのように不時着させるかが重要になってきます。私がこの年の受験生であれば、まず大問1と大問3についてできるだけ短時間でしっかりとした解答を仕上げ、残された時間をこの大問2にじっくりかける、という解き方をしたと思います。しかし、大問2に全く歯が立たない(リスト、ランケを知らない、歴史学派経済学、近代歴史学が何か、いつごろのものか知らないなど)場合には、史料から読み取れる部分だけをまとめて、あとは大問1と大問3を完璧なものに仕上げるために時間を割くのが無難でしょう。

 

【分析の手順1:歴史学派経済学と近代歴史学の整理】

 それでは、分析を始めたいと思います。設問が求めているうちのひとつ目、「歴史学派経済学と近代歴史学の相違」についてですが、これはリード文の中に示されています。つまり、世界史の知識から絞り出してくるのではなく、史料の読解によって答えを見出すことになります。(もとより知っている人は別ですが、それでもリード文の内容は確認してそれに沿ったものにすべきだと思います)

実は史料読解の大半は上述の問題概要のところで示してあります。それを再度まとめてみますと、以下のようになります。

 

A 歴史学派経済学

・根本的には経済学

・古代の生活の中に経済的事象を発見・対象化することが目的

・発見した経済的事象を全ヨーロッパ的経済発展のあるべき位置に配置することが目的

 

B 近代歴史学

・古代世界とは何かを明らかにすることが目的

・古代世界は経済的事象のみではなく、他の様々な事象を含む総体としてとらえられる

・古代世界の内部においては発展や衰退が存在しても、古代と現代は等質的関係にあり、両者の間に優劣や発展といった関係は存在しない、と考える

 

 このABの内容を読み取り、違いを示すだけでも「歴史学派経済学と近代歴史学の相違」を示したことにはなります。リード文という限られた情報源からの判断にはなってしまいますが、そのリード文自体、出題している側が示しているものですから、一定の真実を含んでいると判断してよいでしょう。つまり、世界史的な知識を持っていなくても両者の相違を示すことは可能です。

重要なポイントは、歴史学派経済学があくまでも経済学の視点から古代世界をとらえようとしているのに対し、近代歴史学は古代世界そのものに親炙(あるものに親しく接してその教えを受けること、感化をうけること)することを目的としているという点。次に、歴史学者経済学が人類の歴史が次第に発展していくという歴史観を持ち、その中に古代世界の経済を位置づけようとしているのに対して、近代歴史学は古代世界と現代をそれぞれ独立した固有のものとしてとらえ、歴史学派経済学が持つような発展史観は持ち合わせていないという点です

 そこで問題になるのは設問の要求する残り二つの部分、こうした「両者の相違はどのようにして生じたのか」ということと、「両者が成立した歴史的コンテクスト」とは何か、です。これについてはある程度は世界史の知識に頼らざるをえません。どこまで世界史の教科書・参考書・授業などから習得できるかは後でご紹介することにして、まずは歴史学派経済学と近代歴史学の概要について簡単にご紹介しておきましょう。

 

(歴史学派経済学)

:歴史学派経済学もそうですが、「歴史学派」というのは19世紀ドイツの一つの思想的、学問的潮流です。歴史学派の考え方を一言で表現するのは難しいのですが、つまり「経済にせよ、法にせよ、人間生活の様々な制度や仕組みが成立する過程においては、地域固有の特徴が深くかかわるものであるから、成立した経済や法も固有のものであり、普遍的なものではない。ゆえに、各地域の経済や法などを研究する際にはその地域の固有の特徴、つまり歴史を考察しなければならないし、経済政策や法の適用を行う際には各地域の実態に即して進めなければならない」という考え方です。

歴史学派ないし歴史主義が成立するのは19世紀初頭のドイツと言われますが、この当時のヨーロッパ全体の思潮には大きな変化がありました。18世紀啓蒙思想から19世紀ロマン主義への転換です。啓蒙思想で貴ばれたものは理性・合理・普遍・個人・進歩・発展といったものでしたが、ロマン主義はこれらの概念に批判的で、むしろ感情や主観に重きを置き、世界を合理的に割り切れるものとしてとらえるのではなく、さまざまな要素が入り混じった有機的なものとしてとらえ、そうであるがゆえに理性では割り切れない感情、個人の奥底に存在し、さらに個人がさまざまな形で影響を受ける集団、現在を形作ることになった過去、などに注目し、これらを重視する立場をとりました。ロマン主義が感情的(ロマンティック)で、恋愛や民族意識を称賛し、中世などの過去に憧れる傾向にあったのはこのような理由によります。(ロマン主義については、以前掲載した「東方問題」のバイロンのくだりで簡単に触れています。)

 つまり、「歴史学派」というのは啓蒙思想が重視した「普遍的で合理的なもの」よりも「固有の特徴(歴史)」を重視し、その方法も啓蒙的な「抽象的思考方法」のように、物事を概念としてとらえて理性をもとに普遍的なモデルを組みたてていくやり方よりも、「状況論的思考方法」、つまりその土地、時代、状況において何があったのかを検証し、そこから考察するという方法をとる考え方のことを言うわけです。

 ですから、歴史学派をとらえるにあたって非常に重要なことは、19世紀初頭のロマン主義とナショナリズムをしっかりと理解した上で、歴史学派自体がこのロマン主義やナショナリズムと密接に関連しているということを理解することだと思います。

 さて、このような前提を理解した上で、歴史学派経済学をドイツのリストが提唱したことを思い返してみると、これまでよりもリストの提唱した学説の内容が良く理解できると思います。リストは世界史の教科書や授業では1834年に成立したドイツ関税同盟を結成したということで強調されます。それ自体は間違いではないのですが、リストの重要な点は、イギリスが新しく世界に出現した資本主義社会を説明するために作り出した学問、つまりアダム=スミスの古典派経済学を批判的にとらえて歴史学派経済学を創始し、ドイツのその後の経済政策に大きな影響を与えたところにあります。アダム=スミスの古典派経済学は、ケネーの重農主義の影響を受けながら、啓蒙的な発想のもとに人間生活の諸活動を一般化し、モデル化し、普遍的に適用しうる理論として打ち立てられます。(このあたりのことは「近現代経済理論」の方で簡単に紹介しました) しかし、古典派経済学の中心理論である自由主義経済理論は、イギリスのように産業革命を達成して圧倒的な工業力を手に入れた国にとっては好都合な理論でしたが、ドイツのように産業化が十分でない後発国にとっては当てはまらないものでした。産業力に劣るドイツがイギリスとの間で自由貿易を展開した場合、より安価で品質の高い商品を関税なしでイギリスはドイツに輸出することが可能になり、その結果ドイツの国内産業は壊滅してしまします。(実際、歴史上似たようなことはよく起こります。リストの前の時代には1786年にフランスがイギリスとの通商条約[イーデン条約]で関税引き下げに応じましたが、このことが原因で綿工業をはじめとするフランス産業は打撃を受け、フランス革命につながる要素の一つとなりました。また、英産綿布の流入によりインド綿産業が壊滅したのも同じことです。) ですから、ドイツが自国産業の成長を図るにあたっては保護貿易を採用することが求められました。そこで、というわけでもないのでしょうが、リストが展開したのは、領邦国家が分立し封建的束縛が残存して経済発展を阻害している国内経済に対しては規制の撤廃や市場の統合という啓蒙的要素の色濃い政策を提唱しながらも、対外的には古典派経済学の自由貿易主義を批判して自国産業育成のための保護貿易を主張し、そのような主張をドイツの固有の状況に対応するものだとして正当化しました。これが(初期の)歴史学派経済学成立の背景です。ですから、リストの経済学は基本的には普遍性を批判し、固有性を主張するところに特徴があります。ですが、経済学というのは基本的にはその社会の経済の発展を目的として研究される学問です。また、先にも述べた通り、当時のドイツが経済発展を推進するためには、国内に残存して経済的な障壁となっている封建的諸特権を排除することが急務でした。その結果、歴史学派経済学は啓蒙的諸要素を批判しつつも、その内部に発展段階論という発展史観・進歩思考を残存させるという形で成立することになります。

 

(近代歴史学)

 これに対して、近代歴史学の祖と言われるのはランケです。ランケは、歴史学派経済学がとったような楽観的で進歩的な発展段階論は基本的には取りませんでした。それまでの歴史は旧来からの教訓主義や18世紀啓蒙思想の影響から発生した進歩主義的な歴史がほとんどで、描きたい歴史を描こうとするあまり、そのもととなる史料の扱いがおろそかになっていました。そこでランケが提唱したのが徹底した史料批判によって、歴史のあるがままを描き出そうとした実証主義的な歴史研究法です。こうした研究手法によって、ランケはそれまでの「歴史家」とは一線を画し、「歴史学者」として科学的で客観的な近代歴史学を確立したと言われています。

 ランケの研究手法のベースにあるものは徹底した史料の読解とその批判的解釈です。史料にはひとつとして同じものはありませんから、史料読解の上に構築される歴史像というのは自然に固有のものとして描き出されることになり、普遍的なものとはなりえません。また、啓蒙的な進歩主義の批判から成立したものでもありましたから、リストが残していたような発展史観をとることはありませんでした。これがつまり「古代世界への親炙」であり、「古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する」ということであり、「古代と現代とを本来等質の両世界として…表象すること」です。

 ただ、ランケについては注意しなくてはならないことがあります。ランケはたしかに方法論、研究手法としては客観的で科学的ともいえる歴史学の方法を提唱しましたが、その実践面においては必ずしもそうではありませんでした。彼は確かに史料に基づいて歴史を書きましたが、その史料の選択については時に恣意的で限定した範囲の史料を用い、多くの隠喩が用いられてはっきりとした事実を示すことが少なく、歴史学の著作というよりは依然として文学的な匂いを色濃く残すものとなりました。史料に基づいていたとしても自分の望むように歴史を描くことは十分可能なのですよ。自分に都合の良い史料だけ集めたり、書いてある内容を自分の都合の良いように解釈すればよいわけですから。マンガなんかでもありますが、「強敵」と書いてあったって「とも」と読んだら内容全然違ってきます。「こっちにくるな、バカヤロー!」って書いてあった場合、「AさんとBさんは仲が悪い」と解釈することも可能ですが、前後の状況を見ると「(こっちにくると二人とも命の危険にさらされてしまう。おれは愛するお前を危険にさらしたくはない。だから)こっちにくるな、バカヤロー」だったりもするわけで、この場合、その部分だけ断片的に史料を抜き出してきたとしてもあまり意味はなく、むしろやりようによっては捏造出来たりしてしまうわけです。理系なんかで行われる実験データの改竄、とまでいかなくても隠蔽などは近いものがありますね。「データとしてある」から信用があるかどうかは、そのデータを作る人間や扱う人間がどれだけ真摯にそれと向かい合っているかがとても重要だということです。

 さて、そうしたわけでランケの描き出した歴史は実はロマン主義と密接にかかわる内容となっていました。史料読解の上に描き出された固有の歴史でありながらも、一方でロマン主義の影響を受けて復古主義的でした。ベルリン大学の教授として勤めていたこと、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世と深いかかわりを有していた点からも、自国の体制寄りでナショナリスティツクな歴史をランケは描き出すことになります。

 

【分析の手順2:歴史学派経済学・近代歴史学成立の要因と歴史的コンテクスト】

 

さて、上述のように歴史学派経済学と近代歴史学についてはその概要を整理してきましたが、その成立の背景としてどのような要因があったかを整理すると以下のようになります。

 

(共通)

・ロマン主義の影響(ナショナリズムとのかかわり)

・啓蒙的普遍性の批判と固有の歴史的過程の重視

(リスト)

・ドイツのおかれた当時の経済状況(産業革命の出遅れと国内経済の封建的状況)

・古典派経済学批判

(ランケ)

・教訓主義や進歩史観の否定

・厳密な史料批判

 

ですから、解答の作り方としては、歴史学派経済学と近代歴史学成立の背景として共通しているロマン主義の高揚と啓蒙的普遍性の批判に触れつつ、リストならびにランケがおかれた当時の状況を鑑みた上で、両者の差異(「発展」に対する姿勢の違いなど)について言及するというのが良いかと思います。

 

【「世界史」のレベルで押さえておかなくてはならないところはどこか】

 さて、ここまでは「世界史」の枠をはみ出してかなり詳しい内容まで解説してきましたが、今まで解説した内容を自分のものとして、かつ整理できる受験生などそうはいるものではありません。ですが、「世界史」の範囲でも通常抑えておくべき内容があるのも確かです。私が「世界史」の知識として本設問に関して受験生が解答に盛り込んだ方が良いと思う内容は以下の通りです。

 

・歴史学派経済学=リスト

・近代歴史学=ランケ

・リストの提唱によって1834年に北ドイツを中心としたドイツ関税同盟が結成

・関税同盟は、産業革命を達成したイギリスに対抗して国内産業を守るためのもの

・歴史学派経済学が古典派経済学の自由主義を批判して保護貿易を主張したこと

・近代歴史学が厳密な史料批判によって成り立っていること

 

 せいぜいこのくらいではないでしょうか。こうした「世界史」の知識と、リード文からの読み取れる部分をもとに解答を作ると以下のようになるかと思います。

 

■解答例

ロマン主義の影響を受けて歴史学派経済学を提唱したドイツのリストは、イギリスに比して遅れた自国の経済状況を考慮した場合、アダム=スミス以来の古典派経済学と自由放任がドイツ国内産業の成長を妨げると考え、ドイツ固有の発展段階に合わせた経済政策である保護主義を主張し、これがドイツ関税同盟の結成につながったが、一方で経済的事象を全ヨーロッパ的発展の上に配置するという発展段階論を残していた。近代歴史学の祖であるドイツのランケは、同じくロマン主義の影響を受けつつも、従来の歴史学がよって立つ教訓主義や進歩・発展などの啓蒙的概念を歴史に当てはめることを否定し、徹底した史料批判によって個々の歴史的事実を明らかにしようとした。また、近代歴史学は経済のみならず、世界全体を考察の対象とし、古代と現代を優劣のない等質の世界として分析しようと試みたが、描き出された各民族固有の歴史はナショナリズムの形成と深く結びついた。(400字)

 

 もちろん、書き方によっては当時の「歴史的コンテクスト」の方に重点を置いた解答を作成することも可能だとは思いますし、その方が世界史の解答らしくはなるのですが、私自身は本設問において主となるのはあくまでも「相違」と「相違が生じた要因」の方にあると思っています。高校生がリストとランケに関する知識をそうは持ち合わせていないことを考えても、設問の意図はおそらく史料読解と受験生が持っている知識の統合・整理能力を問う方にあると考えますので、そちらを重視してみました。

 

2018年 Ⅲ

 

■問題概要

・この文章(ある朝鮮人革命家がアメリカのジャーナリストに語った回想をもとに書かれた文章)全体で描写されている運動と下線①(「中国は山東半島の一部を日本に引き渡す運びとなった日英の秘密条約が発覚してからそれに応じてきた」)が示す運動について、それぞれの名称を示せ。(問1)

・下線②(「ヴェルサイユの裏切り」)で示されている会議に言及しつつ、両運動の背景および展開過程、意義を論ぜよ。(問2)

・問1、問2合わせて400字以内。

 

■分析

史料が扱われてはいますが、問題を解く上で難しい読解は必要ありません。引用されている『アリランの歌』(ニム=ウェールズ著、松平いを子訳)は朝鮮人革命家キム=サン(本名:張志楽)とアメリカのジャーナリスト(ニム=ウェールズ、本名:ヘレン=フォスター=スノー)による共著で、戦間期の朝鮮・中国情勢を知る上での史料となるもので、岩波(岩波文庫版が本設問で史料として引用されている松平氏訳です)などからも邦訳が出版されています。とても面白い作品ではありますが、ジャーナリストが革命家から伝え聞いた話を出版したものであり、かつ革命家がジャーナリストに語り聞かせた内容であることを考えると、「第1級の史料である」とか言われちゃうと1718世紀の議事録とか個人書簡を読んでいた自分からすると、「うーん?現代史研究とはそういうものなのか?」と思う部分もあります。ただ、そうした知識は本設問を解く上で全く必要はなく、そのあたりを考えると大問2とは大きな差があります。

 

 本史料の読み取るべき重要な部分は下線①・②に加えて以下の部分です。

・朝鮮独立宣言がなされたこと

・デモがあり、大衆集会が開かれ、新たな独立宣言が読まれたこと。

・独立宣言は国際主義的で平和や国際的信義の擁護をうたっていたこと

 

 下線部と上の各部分を考察した場合、時期が第一次世界大戦後のパリ講和会議が開催されていた時期のことであり、運動がそれぞれ朝鮮の三・一独立運動と中国の五・四運動であることは推測が可能かと思います。

 また、下線部①に書かれている「中国は山東半島の一部を日本に引き渡す運びとなった日英の秘密条約が発覚してからそれに応じてきた」という部分の「日英の秘密条約」とは1917年にイギリスが日本に対して行った、日本の山東半島におけるドイツ権益を引き継ぐことを認める密約のことを指しています。私、日本史と現代史は専門ではないもので、この部分がどうしてもわかりませんで。かつ、各予備校やらの解説を見てもなぜかこの部分についてはスルーされているものですから、困ってしまって結局『アリランの歌』買っちゃいましたw そうしたらやはり、この本の補注のところに載っておりましたので、ようやくすっきりできました。1917年の密約ですし、この密約の内容から鑑みてヴェルサイユ条約で中国代表による返還要求を無視したことともつながりますから、やはり中国については五・四運動で確定で良いと思います。

 さらに、下線②の「ヴェルサイユの裏切り」はヴェルサイユ条約のことですから、示されている会議はパリ講和会議ですね。あとの問題は、三・一独立運動の背景・展開過程・意義、そして同じく五・四運動の背景・展開過程・意義についてまとめていけばよいということになります。一橋の大問3ではたびたび朝鮮史が出題されてきたことや、時代が近現代であったことを考えれば十分に対応可能な問題だったと思いますし、大問1よりも取り組みやすかったのではないでしょうか。

 

(三・一独立運動)

:この運動の直接のきっかけは高宗の死ですが、当時パリでは講和会議が開かれており(19191月~)、ウィルソンの十四ヵ条の平和原則に沿って、アジアにおいても民族自決の原則が適用されるのではという期待が高まっていました。こうした中で日本の朝鮮支配に反対し、独立を宣言してその正当性を世界にアピールすることを計画した33名の人々が、高宗の葬儀に合わせて行動を計画したことで発生したのが三・一独立運動です。独立宣言をつくった33名の人々は逮捕されましたが、その内容に共感した数千におよぶ人々が京城(今のソウル)にあるパゴダ公園に集結し、その後独立万歳を叫びながら市内を行進する数万人規模の運動に発展し、さらに各地における運動へと波及していきました。

 この運動が高揚した背景には、上述した「民族自決」の理念への期待感もありましたが、それまでの日本の朝鮮統治が「武断政治」と呼ばれる軍人による強圧的民衆統治が展開されていたことにも注意が必要です。朝鮮総督府の統治に反対する政治活動などは禁止され、軍の憲兵が一般警察官を兼任しました。このあたりのところを覚えていれば、三・一運動の意義としてその後の文化政治への転換を指摘することは可能だと思います。また、この三・一独立運動の影響を受けて、海外で運動を展開中だった李承晩らが上海で大韓民国臨時政府を樹立しました。朝鮮国内での独立運動が困難になったことから、朝鮮の独立を目指す動きは亡命者たちによっても進められ、必然的に国際色を帯びることになります。まとめると、三・一独立運動については以下のような内容を最低限用意しておくと良いでしょう。

 

①背景

 ・日本による武断政治

 ・「平和に関する布告」やウィルソンの「十四ヵ条の平和原則」と民族自決

→世界的なナショナリズムの高まり

 ・パリ講和会議への期待感

②展開

 ・高宗の死をきっかけとした独立宣言

 ・京城における民衆デモと運動の全国展開

 ・日本による弾圧

③意義

 ・文化政治への転換

 ・朝鮮独立運動の国際化(ex.李承晩による大韓民国臨時政府の結成[@上海:1919]

 

(五・四運動)

:続いて、五・四運動について考えてみましょう。五・四運動発生の直接の原因が、パリ講和会議における「日本による、ドイツから奪った山東半島権益の承認」にあったことはご存知の方も多いと思います。ですから、五・四運動は朝鮮で起こった三・一独立運動と共通の背景(民族自決の理念とナショナリズムの高揚など)をもっていたのは確かです。ただ、注意しておきたいのは、中国には朝鮮とは異なる固有の背景があった点です。このあたりのところを雑にしてしまって全て民族自決で片付けてしまうのはまずいと思います。

 まず、中国ではすでに1910年代から「新文化運動」と呼ばれる啓蒙運動が展開していました。陳独秀の『新青年(青年雑誌)』は有名ですし、頻出ですね。そのほかにも、李大釗、魯迅、胡適、蔡元培といった知識人や教育者が、白話運動や西洋思想の紹介を通して儒教批判や進歩的思想の取り入れなどを主張していきます。この運動の中心が北京大学であることを考えると、五・四運動がまず北京の学生によるデモから発生したことの意味が見えてくるのではないかと思います。また、李大釗のマルクス主義紹介や、陳独秀のマルクス主義への傾倒(後に陳独秀は中国共産党の初代委員長となります)などからは、ロシア革命の影響を見ることもできます。

政治的背景としては袁世凱政権による二十一ヵ条要求の受諾と、その後継となった各軍閥の指導者と日本・列強との癒着が、中国民衆のナショナリズムを刺激したことが挙げられます。安徽派の段祺瑞に対して日本から行われた借款で日本に対して中国利権を与えることが示されたことに中国の人々は不快感を示しました。また、中国に先んじて、朝鮮で三・一独立運動が発生していたこと自体が、中国におけるナショナリズムをさらに刺激したことも挙げられるかと思います。

 こうした中で、北京の学生たちが中心となってヴェルサイユ条約調印反対を唱えるデモが発生しました。さらにこれが全国的な反帝国主義運動(商店の休業やストライキ、日本製品の排斥など)へと波及していきます。当初、中国政府はこの運動を弾圧しました(当時の中国は日本が支配しているわけではないので、弾圧の主体は朝鮮と異なり日本ではありません)が、運動の広がりに屈して最終的には政府としてヴェルサイユ条約への調印拒否を決定しました。ヴェルサイユ条約の第1篇は国際連盟規約となっていましたから、この段階では中華民国(北京政府)は国際連盟に加盟していませんが、サン=ジェルマン条約の第1篇も同じく国際連盟規約となっており、中国はこちらの条約の方には調印を行っています。(東京書籍『世界史B』平成30年版にはこのあたりの事情について「北京政府は条約調印を命じたが、パリの中国代表団はそれを無視し、サン=ジェルマン条約で国際連盟への加盟が実現できることを確認したうえで、調印を拒否した。」(p.367)とあります。

 五・四運動の評価は、特に指導層が一定の富裕層ないし知識人に限定されていたのか、それとも労働者階層が運動の中心的な推進役であったのかについては論争があるようです。ただ、孫文がこの運動によって刺激を受け、大衆運動の力を認識したことが中国国民党の結成(1919)につながったことは言えると思います。また、この運動には多数の共産主義者も参加しており、孫文をはじめとする知識人、革命家に次第に共産主義への理解が深まっていったこと、そして1921年の中国共産党の結成へとつながっていきます。その後の展開としてはもちろん、1924年の第一次国共合作へとつながっていくのですが、この国共合作を本設問の解答として盛り込むかどうかは個人的には悩ましいところです。本設問では五・四運動の「展開過程」と「意義」が要求されていますが、少なくとも国共合作は五・四運動の「展開過程」ではありません。また、国共合作を五・四運動の「意義」と言ってしまってよいのかというと、国共合作結成には五・四運動以上に固有の要素(カラハン宣言、コミンテルンの指導、孫文・ヨッフェ会談etc)が大きくかかわっていることからためらってしまいます。教科書的な流れとしては国共合作まで示した方が間違いなくバランスは良いのですが、大衆運動の高揚と中国国民党ならびに中国共産党の結成までの方が設問の要求する内容にはしっくりくる気もします。(もっとも、出題者が出題時点で国共合作まで視野に入れている可能性を否定はしません。)以上のことから、五・四運動にかんしては以下のような内容をそろえておけば解答の大筋から外れることはないと思います。

 

①背景

 ・「平和に関する布告」やウィルソンの「十四ヵ条の平和原則」と民族自決

→世界的なナショナリズムの高まり

 ・それまでのパリ講和会議への期待感

 ・新文化運動

 ・ヴェルサイユ条約で二十一ヵ条要求破棄の要求が無視されたこと

 ・軍閥に対する失望と反発

②展開

 ・北京の学生を中心とした、二十一か条要求破棄を無視されたことに対する抗議デモ

 ・全国的な反帝国主義運動の拡大

 ・中国政府による弾圧とその断念

 ・中国北京政府によるヴェルサイユ条約調印拒否

③意義

 ・大衆運動の高揚

 ・中国国民党の結成

 ・中国共産党の結成

 

■解答例

三・一独立運動、五・四運動。ロシア革命後にソヴィエト政府が平和に関する布告を発し、対抗してウィルソンが十四ヵ条の平和原則を示したことは、社会主義や、民族自決に基づく民族運動の高揚を促し、パリ講和会議への期待を高めた。日本の武断政治に不満を感じた朝鮮の人々は高宗の死を契機に京城で独立を宣言してデモを行い三・一独立運動が開始され、全国に拡大した。朝鮮総督府は運動を弾圧したが文治政治への転換を余儀なくされ、李承晩が上海で大韓民国臨時政府を樹立するなど運動の国際化も進んだ。中国では北京大学を中心に新文化運動が進められていたが、パリ講和会議で日本の山東省旧ドイツ権益継承が認められると、これに抗議する北京の学生を中心とするデモを契機に全国的な反帝運動に発展した五・四運動が発生し、大衆の力を目にした孫文は中華革命党を大衆政党の中国国民党に改組し、さらに中国共産党も結成されるなど政治運動の大衆化が進んだ。(400字)

 

 上に書いてきた要素をまとめてみました。本来、「平和に関する布告」は教科書的な流れで書くのであれば必要ないかもしれません。ただ、1910年代後半から1920年代にかけての世界各地における反帝国主義運動や反植民地運動の中に、社会主義が重要な要素として含まれていたことは間違いのないことなので、書いたからと言って間違いではないと思います。(たとえば、インドネシア共産党が結成されるのは1920年のことです。)また、「ここからここは民族運動で、ここからここは社会主義運動」のようにはっきりと区別できるものでは必ずしもない(新文化運動などもそんな感じです。陳独秀が共産主義に傾倒していくのに対して、これについていけない胡適は次第に『新青年』から離れていきます。)ですし、さらに本設問の最後が「中国共産党の結成」もしくは「国共合作」で終わることを考えると、社会主義の語を一言も出さずに大衆運動の高揚だけをもって「ハイ、共産党」っていうのは何だか唐突な気もします。そこで、あえて社会主義の要素も入るように書いたらどうなるかなぁということで解答を作ってみました。少なくとも、上に示してきた各要素はきちんと示してありますので、設問の要求を大きく踏み外したものにはなっていないのではないかと思います。

 2019年のテーマは、第一次世界大戦後のヨーロッパの覇権の揺らぎと「立て直し」がテーマです。すでに上智TEAPの傾向については別稿において述べていますので割愛します。今年度の問題は、過去5年の問題と比べると比較的解答が作りやすかった問題ではないかと思います。ただ、この「立て直し」の部分は難しいですね。とりあえず、解いてみたのでご紹介します。問題は赤本なり予備校なりから手に入れていただければと思います。

 まずは、今年度の小問の方から簡単に解説していきます。

 

設問1 a

第一次世界大戦直後のインドにおける反英運動となれば「a:アムリットサール事件」。インドでは、戦中よりイギリスから自治の約束が交わされていた(インド担当相モンタギューによる:1917)が、戦後制定された1919年のインド統治法では形式的な自治を与えるにとどめ、さらにこの法律と合わせてローラット法(令状なしの逮捕、裁判なしの投獄を定めた)を制定。これに対する反対運動が高まる中、民衆に対しイギリス軍が発表した事件がアムリットサ(-)ル事件。

 

他の選択肢ですが、ガンディーによる塩の行進は1930年から、国民会議派のカルカッタ大会で四大綱領(スワラージ、スワデーシ、ボイコット[英貨排斥]、民族教育)が決議されるのは1906年、シパーヒーの反乱(インド大反乱)は18571859にかけてです。

 

設問2 d

誤っている部分は以下の通り。

a-「×ニコライ2世はケレンスキーを首相に登用して」

 :ニコライ2世は1917年の革命で退位します。ケレンスキーは臨時政府の首班になるが、最初に臨時政府を率いたのはリヴォフ公(立憲民主党[カデット])。ちなみに、1905年のロシア第一革命で首相となるのはポーツマス条約のロシア側代表でもあったウィッテ。

b-「×自由主義者のウィッテと対立した」

:ウィッテは1915年に亡くなっていますので、レーニンの四月テーゼの時期にこれを批判することはできません。また、教科書などでもウィッテが最後に出てくるのはドゥーマの開設と首相就任まで。

c-「×1917年…レーニンは…血の日曜日事件を起こした」

 :血の日曜日事件は1905年の事件で、きっかけをつくったのはロシア正教の僧侶であったガポン。

 

設問3 b

 パリ講和会議に出席したのは立ち姿がくまモンっぽいクレマンソーです。

 クレマンソー

 

その他の選択肢ですが

a-マクマホン

:世界史に出てくる人物となると、ティエールの後の大統領(マクマオン)か、フサイン=マクマホン協定を結んだイギリスの高等弁務官。

c-ブリアン

:ケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)締結など、1920年代後半の国際協調に尽力したフランスの外務大臣。

d-ダラディエ

:ミュンヘン会談に参加したフランス首相。

 

設問4 c

:第一次世界大戦前のズデーテン地方はベーメン(チェコ)なのでオーストリア=ハンガリー帝国の一部。

 

設問5 d

:セーヴル条約はオスマン帝国のスルタン政府が締結した講和条約であるが、トルコ領土の大部分が失われる内容であったことから、ムスタファ=ケマル率いるアンカラ政府はこの条約の締結を拒否した。また、イズミルの奪還は19191922のギリシア・トルコ戦争において。

 

以上が小問です。普段から世界史をしっかりやっていないと解けない問題ですが、かといってものすごく難解でどうあがいても解けない、というレベルの問題でもありません。

 

設問6(論述問題:120字)

■設問概要

・中東欧に西欧の国民国家体制を適用する試みの問題点はどこにあるか。

・ハンナ=アーレントの引用文を踏まえて答えよ。

 

(ヒント1:アーレントの引用前の解説文)

・(中東欧諸国の独立は)いかなる国家によっても代表されず、保護されない少数民族や無国籍者の存在を浮かび上がらせた。

 

(ヒント2:アーレントの引用文)

・西欧の国民国家体制は全ヨーロッパには拡大できない。

・(国民国家において)「主権はどこでも他の民族の裏切られた願いに対立する形で貫徹されたため、主権を得た民族は最初から圧制者の役割を演ずる」ことになった。

・被抑圧民族=民族自決権と完全な主権なしに自由はあり得ないと確信

      =民族的熱望をないがしろにされ、人権をだまし取られたと感じた。

      =フランス革命を支えとした

      (フランス革命が国民主権と人権の享受を等置することにより築かれた)

 

■分析と解法

:設問のテーマ自体は古くからあるものです。第一次世界大戦後の民族自決に基づく東欧諸国の独立が少数民族問題を生み出すという問題点を持っていた、というものですね。これについて、東京書籍の『世界史B』では「しかし、もともと多数の民族が混在していた東欧では、一民族一国家を理念とする国民国家の形成は、事態をいっそう複雑にするものであった。敗戦国ハンガリーは領土の71%を失い、多数のハンガリー人が周辺のルーマニアやチェコスロヴァキアなどに少数民族として取り残された。独立を達成したチェコスロヴァキアには、ドイツ人が多数住むズデーテン地方がとりこまれた。また、セルビア人、クロアティア人、スロヴェニア人は、1918年、南スラヴ人としてまとまってオーストリアから独立したが、内紛が絶えず、29年には国王独裁のユーゴスラヴィア王国となった。」(pp.3565-356)とあります。つまり、西欧式の「一民族一国家」の理念に基づいた「国民国家」を形成すると、多くの民族が混在する東欧ではその枠組みの中におさまならい少数派が必ず生まれてしまうわけです。(もっとも、こうした問題は西欧においても見られることではありました。)基本的にはこのことを指摘すれば十分だと思います。

■解答例

 多くの民族が住む東欧に、一民族一国家の理念に基づく西欧型の国民国家体制が適用したことで、新興国家が少数民族を抱えて複雑な民族構成を持つことになっただけでなく、国外にも多数の自民族を残したため、民族運動の激化や各国間の対立を招く火種を残した。

 

設問7(350字)

■設問概要

・第一次大戦後の世界においてヨーロッパの覇権はどのような形で揺らいだか。 

・また、それはどのような形で立て直されたか。

・波線部に留意せよ。(リード文内に多数)

・指示語は

 ワシントン体制 / 旧オスマン帝国 / サイクス・ピコ協定 / 委任統治 / 植民地

 

■分析と解法

:もっとも重要な点はそれまでのヨーロッパ(特にイギリス)の覇権に対し、あらたにアメリカ合衆国、ソヴィエト連邦の台頭やアジアにおける民族運動などによってヨーロッパの覇権が揺らぎ始めた、という点でしょう。具体的には以下のようなものです。

[ヨーロッパの覇権の動揺]

・金融の中心がイギリスからアメリカへ

(ロンバード街[シティ]からウォール街へ)

・国際秩序構築に対するアメリカの発言力増大

(ヨーロッパのヴェルサイユ体制に対してアメリカ主導のアジア・太平洋地域秩序であるワシントン体制)

・植民地における民族運動の高まりと自治の要求

(インド、ビルマ、エジプト、ヴェトナム、インドネシア…)

 

さらに、これらの現象が発生した原因には以下のようなことがありました。

[ヨーロッパの覇権動揺の原因]

・第一次世界大戦によるヨーロッパの分断と疲弊

 (戦争による国土荒廃、イギリスの経済封鎖による中立国オランダ・北欧諸国の通商制限)

・イギリスをはじめとする連合国の債務問題と債権国化したアメリカ

 (1924年段階で総額約210億ドル、うち100億ドルが対米債務)

・共産主義国家ソヴィエトの成立と社会主義運動の興隆

 (フランスは対ロシア投資が回収できず、国外資産の半分が消失)

・戦後経済の対米依存

・民族自決の理念に対する期待

・戦時における戦争協力と見返りとしての自治要求

・アジアにおける知識人層、民族資本家の成長と、民族運動の大衆化

 

 最も気をつかわなくてはならないのはヨーロッパの覇権がどのような形で「立て直されたのか」という部分です。リード文中にもありますが、戦間期(第一次世界大戦~第二次世界大戦の間の時期)はヨーロッパ(イギリス)の覇権がアメリカへと移る過渡期です。リード文はヨーロッパが「アジア大陸の小さな岬の一つ」になってしまうのか「巨大な体躯の頭脳」のまま留まるかという問いに対して「おそらくは排他的な二者択一ではなく、両方が同に当てはまるようなものであるだろう。その両義的な性格を押さえることが重要である。」としています。ヨーロッパがその覇権を立て直すということがどのようなことなのかを探るには、ヨーロッパがどういった部分で覇権を維持し続けられたのかを確認することが一番です。第一次世界大戦後にヨーロッパが力を保持し続けた部分というと以下のようなものが確認できます。

[ヨーロッパによる覇権の立て直し]

・アフリカ支配の維持

・アジアにおける植民地の確保(民族自決はアジア・アフリカに適用せず)

・中東の委任統治による旧オスマン領支配

・速やかな平時体制への移行と経済の緩やかな回復

・国際協調路線への転換と軍縮推進による歳出圧縮

 

■解答例

 第一次世界大戦中の国土荒廃や経済封鎖よる貿易縮小などで欧州諸国は多大な経済的損失を被って巨額の対外債務を負い、さらにその債権の多くを米が握ったため、経済の中心が英のシティから米のウォール街に移り、さらにアジア・太平洋地域で米主導のワシントン体制が成立して、欧州の覇権に翳りが見られた。ロシア革命により仏の対露投資の回収が不可能となり、さらに中東を英・仏・露間で分割するサイクス・ピコ協定が暴露されると、アラブ人の反発や、民族自決を叫ぶ植民地の民族運動、社会主義運動が高揚するなど、各地でその政治的支配に揺らぎが見られた。しかし、民族自決をアジア・アフリカに適用せず、旧オスマン帝国領を英・仏が委任統治することで支配地域を維持・拡大し、国際協調と軍縮を推進して歳出面の負担を軽減し、経済の回復に努めた。(350字)

 
急ぎで作ったのであんまりイケてないかもしれませんが、練っても同じようなものかもしれませんw なるべく設問の要求に沿ってみたつもりではありますが、「覇権」という言葉自体がかなりアバウトなものなので、その中身をどうとらえるかによって幅のある問題かなぁと思います。


上智のTEAP利用型が始まって今年で5回目の試験になります。上智は2015年度からTEAPを活用した試験を導入してきましたが、この試験では世界史が採用されていて、さらにかなり本格的な史料読解と論述試験が採用されています。試験が始まってまだ歴史が浅く、試験の傾向分析にどの程度の意味があるのかは難しいところではありますが、TEAP型試験の情報があまりにも少ないので、簡単にまとめてみたいと思います。各年の問題分析については別途準備が整い次第UPしていきたいと思います。

先に申し上げておきますと、私は上智の世界史については「ん~?」となることがとても多く、良し悪しはともかくとしてはっきり言って嫌いですw それはなぜかと言いますと、おそらく私が実際に上智の試験(たしかできたてほやほやの地球環境法学部だったかとおもいますが…)を受験した際、世界史を解きながら「こんなのは世界史じゃねぇ!」と憤ったことが原因なのではないかと思います。ちなみに、今でも覚えているのはこんな問題でした。

 

・イタリアの国旗の色は右から順に何色か。次から選べ。

 ① 赤、白、緑  ② 緑、白、赤 …

・ローマの緯度とほぼ同じ都市を次のうちから選べ。

 ① 名古屋  ② 仙台  ③ 秋田  ④ 函館

 

みたいな感じだった気がします。いや、まぁ、イタリアくらいはいいんですよ。わかんねえことはないですからね。ちなみにこれ。

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でも、ローマの緯度はなぁ。あ、選択肢は適当につくりましたが、確かあんまり区別つかないようなところが選択肢だったんですよ。ちなみに、答えは函館です。(北緯41度)

 上智では、最近はそこまででもないのかもしれませんが、かつてはこんな感じでコツコツコツコツ世界史を積み重ねて「おれは英語と数学できねぇから世界史で稼ぐしか手がねぇんだよ」みたいに世界史に期待をかける人間を崖から突き落とすような問題を出すことがたまーにある(そして英語が鬼のように重い。上智だから当たり前―w)もので、あんまり好きじゃありませんw 私大向けの授業でもあんまり上智扱いませんw 個人的な好みの問題なので勘弁してください。(大学としてはとても良い大学だとうかがっていますw 学生が勉強面で苦労する大学は良い大学でしょう、きっと。)

 

 ですから、このTEAP型についてもちょっと後ろ向きだったのですが、受験生がたびたびこの問題の解説を聞きに持ってくるに及んで、「しょうがねぇ、やるか」ということで取り組んでみました。ところが、取り組んでみると意外に「使えそうだ」ということに気づきます。TEAP利用型の問題は、小問には特別見るべきものはありませんが、論述については意外に一橋に通じるものがあります。どの辺がかというと、史料を読ませ、その史料の内容と世界史の知識を合わせて適切な解答を用意するというプロセスが、近年の一橋の論述問題の一部と似ています。史料を読ませる、という意味では東京外語の問題とも似たところがありますが、外語の問題よりも史料に依拠する割合が高いですね。また、外語の小問数が多いのに対して上智の小問数は少なく、論述が占める割合が非常に高くなっています。おそらく、今後一橋の受験生を教える際には上智のTEAP型は良い練習として取り入れていくことになるでしょう。年によって良し悪しはありますが、全体的に論述問題としてはよく練られていて、質はかなり高いと思います。(個人的に、史料を読み取らせるタイプの設問は作るのが難しいことを知っているというのと、史料扱うのが好きなことからそう思うのかもしれませんが。)

 過去5年分の上智TEAP型の設問データは以下の通りです。

 上智TEAP出題傾向1

(時間・設問数・論述字数と全体のテーマ)

 上智TEAP出題傾向2

(論述問題内容一覧)

 

 設問の形式はわりとコロコロ変わりますね。大きな変化としては2018年から60分問題であったものが90分問題に変化した2019年の試験時間も90分だったと聞きましたが、一応後で確認を取りたいと思います)ことでしょうか。これはまぁ、無理もないでしょう。特に2017年の問題で60分は鬼の所業だと思いますw TEAPを利用して受けようという受験生で「世界史得意」っていう人はあんまりいない(勝手なイメージですが、普通英語に自信があるからTEAP利用するのでは)でしょうし、600字近い論述を含んで小問付き60分はあんまり余裕なかったのかなぁという気がしますね。こころなしか、2017以降の問題はだいぶ内容的にわかりやすくなっています。小問については、たしかに決して簡単ではないのですが、早慶上智を受けるレベルの受験生であることを考えれば、基礎とまでいかなくても解けて然るべき問題かなというレベルです。問題数が少ないことを合わせて考えても、やはり小問で取りこぼしはしたくないですね。

 全体のテーマも論述も近現代史が中心です。今のところは18世紀以降しか出題がされていません。また、地域としてはヨーロッパとその周辺が主ですね。アジア・アフリカでも植民地史や独立のプロセスなどはしっかり追っておくべきでしょう。小問などで結構出ています。テーマ自体は一橋よりも東大や外語に親和性がある気がします。2016年のスペイン領と13植民地の「対照的な」という表現は1998年東大のアメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国の対照的発展についての問題とそっくりですし、2018年のヨーロッパ統合の「加速」・「抑制」要因という表現は、2006年東大の戦争の助長要因と抑制要因についての問題を思い出させます。絶対とは言いませんが、出題側も一度は東大ほか他大の問題にひととおり目を通しているのではないですかね。

 

 対策ですが、ヤマはるんだったら近現代史やってくださいw 私大の過去問としては慶應の経済、法や早稲田の政経、法あたりは活用できるでしょう。論述の練習としては、東大過去問や東京外語過去問、あるいは論述用の問題集のうち近現代史をあつくやっておく方がよさそうです。一橋などの過去問は形式面で似たところもありますが、テーマが異なる部分も多いので上智のTEAP利用対策として一橋を解くのはおすすめめしません。もちろん、これまでの傾向がそうだからといって、これからもそれが続くわけではありません。一度でも中世史や古代史が出れば過去5年の傾向と対策なんてガタガタもいいところですからねw まんべんなくやっておくのが他の併願校対策にもなって結局は一番力になると思います。

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