世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

各校の過去問対策、受験対策のほか、世界史を理解する上で役に立つ視点や勉強法についての情報を随時更新していきます。

※ 目標に向けて頑張る受験生の皆さんの一助になればと思って頑張って更新し、情報もチェックしておりますが、人間ですのでミスなどが出ることもあります。当サイトの情報をご利用の際はあくまでも自己責任でお願いいたします。

※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw また、大手予備校のHPからも閲覧できるかと思います。正規の問題が手元にあった方がわかりやすいと思います。

  昨年(2016年試験)の受験用に、予想問題を作ったことがあるので紹介します。解答も下の方につけておくので、もしお時間があれば挑戦してみてください。

 

 18世紀の啓蒙思想家ヴォルテールは、神聖ローマ帝国について「神聖ローマ帝国、と自らを呼んだ、そしていまだに呼んでいるこの政体はいかなる点においても神聖ではなく、ローマ的でもなく、帝国でもなかった。」と評したが、「神聖ローマ帝国」という称号を初めて用いたのは13世紀半ばに神聖ローマ皇帝コンラート4世と対立したホラント伯ヴィルヘルムであった。当時のドイツ地域の政情はいかなるものであったか、特に叙任権闘争終結以降のドイツとイタリアの関係について言及しつつ答えなさい。また、ドイツにおける13世紀半ばの政情混乱が最終的にどのように解決されたのかについても述べなさい。(400字以内)

 

 次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

 

 上の文章はドイツの哲学者カントが啓蒙について語った一節である。18世紀の西ヨーロッパで興り、合理的な世界観で人間性の解放を目指した啓蒙思想はその後のヨーロッパの政治や文化に大きな影響を与えるが、この啓蒙思想が起こった背景とその展開、また啓蒙思想がヨーロッパの政治と文化に与えた影響について述べなさい。(400字以内)

 

 次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

王妃の居住する王宮の一角には、おおよそ20人から25人程度の日本人が詰め掛けていた。彼らは奇妙なガウンを羽織っており、サーベルで武装していた。そのうち何人かはサーベルを鞘から抜いていた。複数の日本人兵士が宮殿のあちこちを捜索し、他の者は女王の居住区域になだれ込み、その場で見つけた女たちに襲い掛かっていた。私は日本人が王妃の居住区域で物をひっくり返したりしているのを観察し続けた。二人の日本人が女官たちの一人つかんで建物から引きずり出し、そして彼女を引っ張って階段を駆け下りたまた、日本人のうち一人は、私に向かって、英語で『王妃はどこだ答えろ!』と繰り返し聞いてきた。私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が日本人兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。

 

 上の文章は、日清戦争の終結した年の末に朝鮮で発生した「乙巳事変」という政変の様子を宮殿の警護に当たっていた「侍衛隊」と呼ばれる近衛隊とともにいたロシア人御用技師サバチンが語ったものである。朝鮮では1860年代以降、度重なる権力闘争に外国勢力が介入した結果、この事件で暗殺された「王妃」とこれに対抗する勢力が形成された。1890年代における「王妃側の勢力」と「王妃に対抗する勢力」がどのように形成されたのかについて、諸外国との関係に考慮しつつ述べなさい(400字以内)

 

[問題作成の基準]

 これらの問題を、何を基準に作ったかがわからないと意味があるのかないのか不明だと思いますので、問題を作った基準を示しておきます。

 (大問1)

  :やはり、一橋の予想問題ですからオーソドックスに神聖ローマ帝国史、中でも金印勅書についての問題がまだ出ていないんですよね。といっても、金印勅書ではさすがに作りづらいのではないかな~、と思います。世界史の教科書レベルですと他に関連情報があんまりないんですよ。正直、東大や一橋受ける人たちに金印勅書なんて出したらみんな解いちゃうでしょ。ですから、その前後のドイツ国内の情勢と国際関係を含めた少し大きな枠組みで出題してみたのがこれです。正直、15分程度で作ったので設問としても粗いですが、この時期の神聖ローマ帝国史の復習がてら見ておくのもいいかなと思いました。

   実際に出たのは聖トマスとアリストテレスの都市国家論比較ということで、「なんじゃこりゃ!」ということになりましたが、これでは多分どこの予想問題も当たらないですねw 問題自体もそれほど無理のあるものでは無かったので、予想を外しても受験生たちはある程度は対応して解けていたみたいだったのでほっとしてますw

 

 (大問2)

  :大問2啓蒙ですよ!啓蒙!これはもう、正直鉄板じゃないかなぁと思っています。まだしばらくの間は出題されてもおかしくないテーマですね。出題傾向のところでも書きましたが、啓蒙とか宗教的寛容、場合によると理神論あたりなんかは一橋好きそうだなぁと個人的には思っています。最近出題されていたフランス革命がらみの出題も、正直啓蒙の延長線上としてとらえておりますので。エンゲルスなんか見ても、思想史系好きなのかなぁと。今後の一橋はこうした宗教を含む思想史系の出題と、アメリカが絡んでくる国際関係氏の大きくわけて二つのジャンルが出やすいのかなぁと思っているんです。

   そんな中、「だったらもう啓蒙全部復習させちゃおうw」というので作ったのがこの問題です。実際には出ませんでしたが、でも「宗教」が絡んでいる(ユグノーとか、ポーランド系カトリックとか)ことと、「啓蒙」が絡んでいること(フリードリヒ2世と宗教的寛容とかまんまですね)、あとは時期もほぼドンピシャでしたので、これはまぁ、アリだったのかなって思いましたw

 

 (大問3)

   これは朝鮮近現代史ですね。やはり、一橋はこのあたり好きで狙ってくるんじゃないかなと思ってたんですが、冬休みの段階で受験生の朝鮮近現代史の完成度がもう一つ、という状況でしたので、これも練習のつもりで作ってみた問題です。同じく、実際にはこれまでの流れを打ち破って戦後史を一橋が出してきたせいで外れてしまいましたが、朝鮮と近現代史に意識が向いていたおかげでさすがに朝鮮戦争はそこそこ書けたみたいです。大問3については従来の出題傾向の大枠を変えずにちょっと目先をかえた予想をたてたほうが今後は良さそうですね。

 

【解 答】

ヴォルムス協約以降も皇帝によるイタリア政策は続き、特に北イタリアでは教皇党と皇帝党の争いを引き起こした。シュタウフェン家のフリードリヒ1世が皇帝となると、度々イタリア遠征を行ったが、ミラノを盟主とするロンバルディア同盟はレニャーノの戦いでこれを撃破した。しかし、シュタウフェン家の支配は次第に両シチリア王国にもおよび、フリードリヒ2世の時代には十字軍において条件付きながらイェルサレムを奪回し、パレルモを中心に文化的にも繁栄するなど帝国の勢力を拡大した。13世紀半ばにフリードリヒが死ぬとドイツでは大空位時代と呼ばれる皇帝不在の混乱期を迎え、これによりシュタウフェン家の所領であった両シチリア王国をフランスのアンジュー家に奪われるなど国力を衰退させたが、14世紀にはカール4世の金印勅書により7人の選帝侯が皇帝を選出することが決められて、皇帝選出をめぐる混乱は収まる一方、帝国の分権的体制は固定化された。

 

【論述のポイント】

  「ドイツの政情=大空位時代」であることを把握すること

  「叙任権闘争終結~大空位時代=シュタウフェン朝を中心とするイタリア政策の時代」であることを確認すること

  金印勅書の意義について言及すること

 

【採点ポイント】

  フリードリヒ1世もしくはシュタウフェン家によるイタリア政策

  ゲルフ(教皇党)とギベリン(皇帝党)

  ロンバルディア同盟

  ロンバルディア同盟がミラノを中心とする北イタリア諸都市によって結成されたこと

  レニャーノの戦い

  フリードリヒ2世もしくはシュタウフェン家が両シチリア王国に進出したこと

  フリードリヒ2世が第6回十字軍においてイェルサレムを奪回したこと

  パレルモもしくはナポリの繁栄(他にイスラーム・ギリシア文献の翻訳など)

  大空位時代

  ルドルフ1世もしくはハプスブルク家による神聖ローマ皇帝即位(1273年)

  シチリアをアンジュー家(またはシャルル=ダンジュー)に奪われたこと

  金印勅書

  金印勅書の内容と意義

 

以上をポイントに全体的なバランスを考慮することになる。

  

II

17世紀の科学革命により封建社会の中におけるキリスト教的世界観が動揺し、18世紀には人間・社会・国家のあり方を合理的に見直す啓蒙思想が現れた。ブルジョワが台頭したフランスで特に先駆的な動きが見られ、モンテスキューの三権分立などの国家論やルソーの社会契約説などが後のフランス革命に影響した。啓蒙思想は各国の君主と交流を持ったヴォルテールの活躍により東ヨーロッパにももたらされたが、地主貴族の力が強く、市民が十分に成長していなかった普・墺・露などでは、君主が自ら貴族・教会の力を抑え、近代化と国家権力の絶対化を進める啓蒙専制君主が現れ、フリードリヒ2世やエカチェリーナ2世らが啓蒙思想を利用した。啓蒙思想は政治面以外でも既存の価値観を打ち破る方向で働き、百科全書派の活動などに見られる世界観の世俗化や封建社会の矛盾をついて自由放任を主張するケネーなどの重農主義や、その後の古典派経済学の成立などへつながった。(400字)

 

【論述のポイント】

 啓蒙思想成立の背景

 啓蒙思想の特徴

 啓蒙思想の政治への影響

 啓蒙思想の文化への影響

 

【採点ポイント】

 17世紀科学革命が合理的考え方を醸成したこと

 イギリス経験論・大陸合理論なども合理的考え方に寄与したこと(またはで良い)

 啓蒙思想が人間の理性を重視し、個人・合理性・未来への前進などを志向したこと

 から、啓蒙思想が既存の特権や教会等の権威を否定する傾向を持ったこと

 背景としてのブルジョワ階層の台頭

 啓蒙思想の政治的影響1:フランス革命に大きく影響したこと

 啓蒙思想の政治的影響2:啓蒙専制君主を出現させたこと

 啓蒙思想の具体例の適切な使用と例示

  モンテスキュー・ルソー:国家論、社会契約説

  ヴォルテール:フランスの後進性の指摘、宗教的寛容論など

  百科全書派(ディドロ・ダランベールなど):既存の価値観、キリスト教的世界観の打破

  重農主義(ケネーなど):国家による経済介入に対する否定的見解、自由放任(レッセ=フェール)アダム=スミスの古典派経済学への継承

 啓蒙専制君主の出現した地域、西欧との差異、具体例

 

以上をポイントに全体のバランスを考慮する。

文化に与えた影響としては他に教育論、教育制度の発達と世俗化などを挙げることもできる。

また、啓蒙思想に対する反動として、19世紀初めごろから人間の感情・集団への帰属・過去の回顧を強調するロマン主義が生じ、ドイツの歴史主義・歴史学派などへとつながることになる。

 

鎖国攘夷政策を展開していた大院君が、1870年代に閔妃の一族に実権を奪われると、閔氏は当初開国・親日政策を採用して、江華島事件を機に日本と日朝修好条規を結んだ後は積極的な開化政策を行い、軍備の近代化を図ったが、新式軍隊に対して放置された旧式軍隊が不満を募らせたことや、開国による経済混乱から兵士への賃金未払いが生じた結果、壬午軍乱が発生した。これ以降閔氏は政権安定のために清と接近する事大主義をとり保守化へと転じたが、これに不満を持った金玉均などの開化派は日本に接近し、清朝からの独立や身分制度の廃止などの近代化を目指し、甲申政変を起こしたが清によって鎮圧された。事大党と開化派(独立党)の争いは日清戦争を引き起こした。日本が清を破ったことで1894年には開化派政権が誕生し甲午改革が行われたが、その後ロシアが朝鮮問題に介入してその影響力が強まって改革が弱まると、これに不満を感じた一派は乙巳事変を起こして閔妃を暗殺した。(400字)

 

【論述のポイント】

 1860年代以降形成された「王妃側の勢力」について詳述すること

 1890年代に「王妃に対抗する勢力」がどのように形成されたかについて詳述すること

 諸外国の影響が朝鮮国内の政治にどのように影響したのかについて言及すること

 

【採点ポイント】

 1890年代時点における王妃側の勢力=閔妃(事大党)であることを示す

 事大党の政治的立場について示す

 1890年当時の王妃に対抗する勢力=開化派(独立党)であることを示す

 開化派の政治的主張(清朝からの独立、身分制度の廃止、税制改革、議会制の導入)などを示す

 開化派の代表的人物(金玉均、朴泳孝など)を挙げる

 大院君と閔氏政権の違いについて示す(鎖国攘夷 / 開国親日)

 閔氏政権の変化について示す(開国親日 事大主義[親清・保守化]

 壬午軍乱について示す

 甲申事変について示す

 日清の対立と日清戦争について示す

 日清戦争後のロシアの影響力増大について示す

 

以上をポイントに全体のバランスを考慮する。

 
 

 

 

 

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【問 題】

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

問題の概要は以下の通りです。

・中国をめぐる外交関係の展開を説明せよ。

 

ただし、設問導入部分の文章から以下の条件が想定できます。

・中華人民共和国の成立以降の話であること。

・その時々の国際関係による影響や、逆に中国が他国の外交政策に影響を及ぼしたことなどを考慮せよ。

・指定語句は「中ソ友好同盟相互援助条約 / 中ソ論争 / ニクソン・ドクトリン / 日華平和条約」の四語で、これらを「列記した順に用いて」解答することが求められています。(示した指定語句の順番は設問通り)

・指定字数は200字から250字です。

・所定の語句には下線を付せ。

 

早稲田はなんだかんだ言って中国好きそうですね。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

・設問の要求

:(中華人民共和国の成立以降の)中国をめぐる外交関係の展開を記せ

・留意点

:その時々の国際関係から中国の外交政策はどのような影響を受けたか。また、他国の外交政策にどのような影響を及ぼしたかに注目。

 

【解答手順2:指定語句分析】

・指定語句についてですが、「列記した順に用いて」とあるにもかかわらず、日華平和条約(1952)があるなど、起こった年代順ではないので注意が必要です。もっとも、このことが逆にヒントにもなっています。

 

・中ソ友好同盟相互援助条約(1950

:台湾の国民党政府がアメリカの支援を受けて「大陸反攻」を狙うことに対抗。米ソ冷戦下での軍事同盟、「向ソ一辺倒」。本条約のもとに中国は朝鮮戦争に「義勇軍」を派遣。

アメリカはアジアにおける防共圏の形成に腐心(対中封じ込め)

アメリカによる太平洋集団安全保障構想に基づく反共同盟や、関連する条約などは以下の表の通りです。

 

1951

米比相互防衛条約

太平洋安全保障条約(ANZUS

日米安全保障条約

(サンフランシスコ講和条約とともに)

1952

日華平和条約(本設問での使いどころはここではない)

1953

米韓相互防衛条約

1954

米華相互防衛条約

東南アジア条約機構(SEATO

 

 ワンポイント

 一見すると脈絡がなくて覚えにくい反共同盟にも、背景があります。たとえば、1951年の諸同盟について言えば、アジアでの冷戦激化にともない、米英では対日早期講和論が台頭してこの実現に向けた動きが強まりましたが、これに対し日本の軍国主義の再度の台頭を恐れるオーストラリア・ニュージーランド・フィリピンは反対し、むしろ「対日防衛」圏構築の必要性を訴えました。アメリカとしても集団安全保障体制に基づいて講和後も米軍が日本に駐留できれば日本の防衛と日本における軍国主義の抑制の双方を達成しうると判断して、日本を含めたNATO型の集団安全保障体制を形成しようとしましたが、オーストラリアとニュージーランドは日本と同盟国になることを拒否しました。このため、アメリカは両国との間にANZUS(オーストラリアのA、ニュージーランドでNZ、アメリカ合衆国でUSですね)を、フィリピンとの間に米比相互防衛条約を締結の上で、日本と講和して日米安全保障条約を締結する、という形で個々に反共同盟を構築する流れになったわけです。

 1953年の米韓相互防衛条約は朝鮮戦争の影響ですね。実はこの太平洋集団安全保障構想は1949年初めにフィリピンの提案に賛同した朝鮮の李承晩や台湾(中華民国)の蒋介石から持ち込まれたものでした。ところが、アメリカは1949年の段階ではこれらの国が内政の安定化のためにアメリカを利用しようとしているのではないかと考えて消極的だったんですね。アメリカが対日講和に本腰をいれるのは1949年の後半からで、反共同盟構築が促進されたのは朝鮮戦争が開戦した後のことです。また、米華相互防衛条約は、当初台湾に対する軍事援助を打ち切っていたアメリカが、他の中国周辺事態が鎮静化(1953年朝鮮戦争終結、1954年第1次インドシナ戦争停戦)したことで、矛先が台湾に向かうことを懸念したから締結されたものです。教科書的には「反共防衛圏を形成した」の一言で片づけられてしまうのですが、背景にはその時々での国際関係の変化や国民感情、国家間の利害対立が複雑に作用していました。結局、アメリカはこの太平洋集団安全保障構想の実現に失敗し、個別の対応をとらざるをえなくなりました。

・中ソ論争[1950年代以降の中ソ対立(中ソ論争)と米ソ接近]

1953年のフルシチョフによるスターリン批判と平和共存路線に毛沢東が反発

(中国の独自路線と米ソの接近)

1954 周・ネルー会談「平和五原則」

1955 バンドン会議「平和十原則」

1959 フルシチョフの訪米(アイゼンハウアーとの会談)

中ソ技術協定破棄(1959):ソ連技術者の中国からの引き上げ

中国は大躍進政策に失敗

 

 ・1960年代の中ソ対立激化

1962 キューバ危機:米ソ再対立とその解決

   中印国境紛争:ソ連がインドに武器支援

1963 部分的核実験停止条約

1969 中ソ国境紛争(ウスリー川のダマンスキー島での軍事衝突)

 

1970年代の米中接近(ニクソン=ドクトリン / 日華平和条約)

:ヴェトナム戦争の泥沼化とアメリカの財政赤字

アメリカが戦争を「ヴェトナム化」することを企図、中国への接近を図る

1969 ニクソン=ドクトリン

:ヴェトナムへの過度な軍事介入を避けることを言明中国に接近

1971 国連代表権が台湾から中華人民共和国へ

   1972 ニクソンの訪中:事実上の中国との国交正常化

日中共同声明と国交正常化

日華平和条約の失効、日本が台湾と断交

   1978 日中平和友好条約

   1979 米中国交樹立

 

【解答手順3:解答のポイント】

 設問の要求と指定語句を検討すれば、ここでは中国(中華人民共和国)をめぐる国際関係の大きな変化を示せばよいことがわかります。基本の流れは「当初は冷戦構造が成立する中でソ連に接近1950年代前半から中ソ論争中ソ論争の激化と軍事衝突(中ソ国境紛争)ヴェトナム戦争の泥沼化によるアメリカの方針転換と中国への接近1970年代に入り、日米中の平和共存」という流れになります。この流れ自体は早稲田の法学部を受験するのであれば作れるようにしておきたいですね。問題になるのは「日華平和条約」の使い方です。設問に「列記した順に用いて」とあるので、時系列で書いていくと締結時(1952)のタイミングでは使えません。やはりここは、日本と中国の関係改善にともなって本条約が失効した、という流れで話をまとめるべきでしょう。実際、これが論述の方向性のヒントにもなっているのですが、問題はかなりの数の受験生が「日華平和条約って何だ?」となってしまっていることですね。正直、試験会場でも日華平和条約に反応してきちんと内容も把握できた受験生は少数派で、世界史の得意な人たちでしょう。だとすれば、仮に日華平和条約の部分が書けなかったとしてもそれほど気にすることはありません。上述した大きな流れさえ外さずに書けていれば、きちんと7割~75分くらいは確保できるはずです。最悪でも6割を下回ることはありません。いつも申し上げていることですが、論述は満点解答を作成するよりも、大幅な点数の取りこぼしをしないことが重要です。まして、早稲田は他にも数多くの小問がありますから、全体として合格点にたどり着くことを重視してください。

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[問 題]

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

 概要を紹介すると以下のようになります。

・民族自決の考え方の世界への波及の仕方について述べなさい。

・時期は20世紀初頭から20世紀前半まで

 (表現としてどうかと思いますが、要は1901-1950まで)

・指定語句は「平和に関する布告 / 十四か条の平和原則 / 三・一独立運動 / 国際連合」の四語が示されています。(順番は設問通り)所定の語句に下線を付せという指示は例年通りです。 

・指定字数は200字から250字です。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

:設問の要求は「20世紀初頭から20世紀前半までにどのように民族自決という考え方が波及していったか」です。(期間は1901-1950年になります)

 

【解答手順2、指定語句分析】

 設問がややアバウトなので、まずは方向性を把握するために指定語句を精査します。正直なところ、「民族自決」について書こうと思えば東欧だろうとアジアだろうと中東だろうとあらゆるところをテーマに書けることが山ほどあるので、もう少し範囲や路線を絞って方向性を確認しないと書きようがありません。ですから、書き始める前に出題者が何を意図しているかを指定語句から推し量ることが必須です。

 逆に、指定語句の分析とその整理という作業さえ済んでしまえば、聞かれていることは基本的なことが多いのである程度は体裁を整えて書くことができると思います。

 

1 平和に関する布告(1917

:ロシア十一月革命(十月革命)を達成したボリシェヴィキが発布

:「無併合・無賠償・民族自決」の原則による講和の提唱

→1918 ブレスト=リトフスク条約によるドイツとの講和

 

2 十四か条の平和原則(1918

:ロシアの平和に関する布告に対抗してウィルソンが発表

[影響]

・第一次大戦後のパリ講和会議ならびにヴェルサイユ体制下において、フィンランド・エストニア・ラトヴィア・リトアニア・ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(1929年からユーゴスラヴィア)などの東欧諸国が独立

・アジア諸国やエジプトなどで民族自決を求める運動が激化

[問題点]

・一民族一国家の原則に基づいて東欧に国民国家が形成された結果、少数民族問題が発生

・民族自決の適用はヨーロッパのみであり、アジアには適用されなかった

 

 ワンポイント

 あまり世界史の教科書などでは言及されませんが、ウィルソンの十四か条の平和原則は、その前年にロシアのボリシェヴィキ(1918年からはロシア共産党)が発表した平和に関する布告に対抗する必要性から出された面があります。ボリシェヴィキが第一次世界大戦を帝国主義戦争と断罪し、その証拠としてロシア帝国時代に締結された秘密外交(サイクス=ピコ協定など)を次々に暴露したことで連合国側の戦争に対する大義名分は大きく揺らぎ、またロシアの戦争からの離脱によって東部戦線の維持が困難になり、協商国側は不利な立場に置かれることになりました。こうした中でウィルソンは新たな戦争目的として十四か条を示したのです。だから十四か条にも「秘密外交の禁止」という項目があるのですね。

 ですが、共産主義者であるレーニンが示した平和に関する布告と、英・仏などの植民地を多く抱えた協商国に配慮しなくてはならないウィルソンの十四か条では内容に大きな差がありました。本設問に関係する民族自決について言えば、平和に関する布告が民族自決を全面承認する内容になっていたのに対し、十四か条では「関係住民(植民地住民など)の利害が、法的権利を受けようとしている政府(支配国政府)の正当な請求と同等の重要性を有する」として、民族自決の重要性を認めながらも、それはあくまで本国政府が「正当」に有する権利と比較衡量された上で認められるべきものだとされています。さらに、その適用範囲も、第10条から第13条によって示されているように、基本的に敵対国の民族集団に適用されるものでした。

 ちなみに、第10条から第13条の内容をかいつまんで示すと以下のようになります。

 

 第10条:オーストリア=ハンガリー帝国の自治

 第11条:バルカン諸国の回復

 第12条:トルコ少数民族の保護

 第13条:ポーランドの独立

 

 ね?もう何というか、そのまんまドイツ・オーストリア・オスマン帝国が利害を持っていた地域でしょ?ですから、民族自決がヨーロッパにのみ適用されたというのは、何のことはない、要はこれら敵対国の解体を進めたに過ぎなかったからなんです。ですから、民族自決がアジアなどに適用されなかったのも無理はありません。だって、これらの地域は戦勝国の支配地なんですから。

 いずれにしても、ヴェルサイユ条約によって東欧諸国は独立を果たしました。もっとも、これはロシア革命がヨーロッパに波及することを防ぐこともその目的としていました。以下がこの時に独立した諸国です。


ヴェルサイユ体制(東欧)

 「東欧の地図なんて覚えても」と思う人がいるかもしれませんが、多くの受験生が世界史を覚えられない原因の一つに「地図を把握していない」ということがあると考えています。「中央アジア」とか「イベリア半島」と言われた時に「パッ」とその地域が目に浮かぶようにするとイメージ付けも簡単ですが、知らない情報の上に知らない情報を重ねようとしてもうまくいきません。また、東欧は中世では神聖ローマ帝国、近現代ではオスマントルコ、ロシアの南下政策、ドイツ・オーストリアの進出や戦後の共産化など、様々な分野で出題される地域にもなりますから、せめて「ポーランド」、「チェコスロヴァキア(このうち東部がチェコ[ベーメン])」、「ハンガリー」の位置関係くらいは把握しておきましょう。バルト三国が覚えづらい時は、エストニア・ラトヴィア・リトアニアの順だけ覚えておくと、「リトアニア=ポーランド大公国」があるからポーランドに近い方がリトアニアだ、と判断がつきます。ものを覚えるときに重要なのは、語呂合わせなどももちろん良いですが「常に同じ順番で覚える」など自分なりのルールを決めておくことです。

 

3 三・一独立運動(1919

[背景] 

・朝鮮総督府による武断政治と土地調査事業

・パリ講和会議に対する期待(東京で留学生が独立宣言とデモ)

[事件の発生と経過]

・高宗(ハーグ密使事件後日本の監視下に)の死

ソウルで数千人規模のデモ、独立宣言

3月から5月で延べ50200万人参加、死者数百~1万弱を出す全国規模の運動に発展

日本は文化政治への転換

李承晩は上海で大韓民国臨時政府を結成

 

4、国際連合成立(1945

[成立の背景と民族自決]

・大西洋憲章(1941

=枢軸国との戦争目的と戦後の国際協調についての英・米合意民族自決の明記

 ・サンフランシスコ会議(1945

国際連合憲章採択、半年後の10月に発足

[国際連合成立の民族自決にとっての意義]

 ・それまでは理念に過ぎなかった民族自決に国際法上の根拠が成立

インド・朝鮮の独立、その他東南アジア各国で独立運動

 

【解答手順3、解答のポイント】

 本設問のポイントは、何といっても「民族自決」を軸に解答を整理するということです。これにつきます。さらに、もう一点ポイントをあげるとすれば「国際連合の使い方」ですね。「平和に関する布告」や「十四か条の平和原則」、「三・一独立運動」が比較的近い時期(23年の間)におこった出来事であるのに対して、残り一つ「国際連合」だけは1945年設立と数十年もの開きがあります。流れでいったら「国際連盟」があってもいいのですが、そうではないのですね。そこにどのような意味を見出すか、これがポイントではないでしょうか。

 だとすれば、基本的な流れは「ボリシェヴィキの発表した平和に関する布告の中で民族自決が示されたことに対抗して、ウィルソンは十四か条の平和原則を発表したが、これは民族自決を敵対国の支配地であった東欧諸国に限定し、アジアなどの植民地には適用しないという限界があった。これに期待を裏切られたアジアなどの植民地では民族運動が激化し、朝鮮では三・一独立運動が起こった。(ちなみにこれで165字)」という流れだと思いますが、これに国際連合設立によって民族自決に国際法上の根拠が示されたこと、英仏に植民地を抑える力が残っていなかったことなどから、インドや朝鮮の独立や各地での独立運動へとつながったとまとめるとすっきりすると思います。様々な情報があって取捨選択することが難しいのは相変わらずですが、大切なことは設問の要求する大テーマを外さないこと、そして設問に含まれる意図をどこまで正確にくみ取るかということです。やはり、ここでもコミュニケーションが大切になるのですね。出題者の側は多少そっけないですがw

 

【解答例】

 ソヴィエト政権の平和に関する布告に対抗して、ウィルソンは十四ヵ条の平和原則で同じく民族自決を掲げたが、パリ講和会議では東欧諸国が独立したにとどまり、戦勝国の植民地が多いアジア・アフリカには民族自決が適用されなかった。これへの不満から朝鮮で三・一独立運動、中国では五・四運動が起こり、インド、インドネシア、エジプトなどでも独立を求める民族運動が高揚したが弾圧された。その後、英米間の大西洋憲章の中や国際連合の成立過程で民族自決が国際法における権利として示されたことで、朝鮮やインドの独立の根拠となった。(250字)

(この解答例もたしか自分で作ったはずですが、2年前に作ったものなので本当にそうか自信がありませんw 勘違いしていたら削除してまた作りますけど。[解答例は2020.3.7追加]

 

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