世界史リンク工房

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※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw 問題全てが手元にあった方がわかりやすいと思います。

ヘッダーイラスト:かるぱっちょ様

時折勘違いされるのですが、ベルリン封鎖(19481949)とベルリンの壁建設(1961)は同時期ではありませんし、原因も全く異なります。知っている人にとっては「なーんだ」な知識ですが、現代史に不慣れな現役生などは意外と見落としがちでもあるので、この点、注意しておかないと私大の時代整序問題などで間違えることになります。前者が西側占領地域での通貨改革にソ連が反発したことから、西ベルリンへの交通を検問などの方法によって遮断したのに対し、後者は東西ドイツの経済格差が拡大し、東ベルリンから西ベルリンへの亡命者が急拡大した時期に、そうした亡命を防ぐ目的で西ベルリン全域を取り囲む壁を築いたことによります。

 まず、この両者を理解するためには、当時のベルリンがどのような状態に置かれていたのかを正確に理解する必要があります。当時のベルリンは、ドイツ全域同様に四か国の分割占領下におかれたのですが、ベルリンの周辺地域は全てソ連の占領下にあり、そのためベルリンの米・英・仏による管理地域はソ連によって交通を遮断された場合、陸の孤島になることとなり、これがソ連によるベルリン封鎖を可能にさせた地理的条件でした。下の地図の白い丸で囲まれた部分がベルリンで、そのうちの青・緑・オレンジのついている部分が西ベルリンです。その周辺が真っ赤なソ連占領地域に囲まれているのがお分かりになるかと思います。

ドイツ4国分割占領_4国名入り_3
(ドイツの四国分割占領)

ベルリン4国分割占領_国名入り

(ベルリンの四国分割占領)

 一方、ベルリンの壁というのはこの西ベルリンを完全に壁で囲んでしまうというものです。もちろん、「壁」ですから転生モノよろしく「いでよ!壁!」みたいに一夜のうちにできるわけではなく、壁の建設に際しては軍による各所の封鎖が行われます。

kabe

Wikipedia「ベルリンの壁」より)

 封鎖以前は、西ベルリンとその周辺地域は物理的には閉鎖されていないので、人が行き来できる状態だったわけですが、その封鎖が急遽行われたために、急いで西側への脱出を試みようとする人がいたり、本来いるべき場所に戻れない人が出るなどして、多くの人々が東西に引き裂かれる結果を生みました。その後、封鎖された地域には最初は鉄条網、後には壁が建設されて、東側から西側へ亡命しようとする人を防ぐことになりました。壁の西側は何もないのに対し、壁の東側には逃亡者を防ぐための監視塔や、市域から数十メートルに及ぶ無人地帯、逃亡防止用の各種仕掛けが施されていたことは象徴的です。この壁は、1989年のベルリンの壁崩壊にいたるまで、ベルリン市民を東西に引き裂き続けることになります。

Structure_of_Berlin_Wall.svg

Wikipedia「ベルリンの壁」より)

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冷戦の展開の話をするときには、とかくマーシャル=プランとか、コメコンとか、NATOとかワルシャワ条約機構とか、分裂国家とかいうテーマに目が行きがちです。もちろんそれらも大切なのですが、そうした燦然ときらめく重要事項の中に一人ぽつんとたたずんでいるかのように見えるヤツがいます。そう、チェコスロヴァキアクーデタ(1948です。ですが、このチェコスロヴァキアのクーデタは実は結構な重要事項、冷戦構造を形作っていくきっかけの一つであり、いろいろなことと結びついています。何より、出題頻度が高い。早慶などの難関校では、特に正誤問題や並べ替え問題などの常連さんです。ここをしっかりおさえているかで点数に差がつくことも少なくない。

 

 第二次世界大戦期には、ミュンヘン会談(1938)だの、その後のドイツの支配だのでけちょんけちょんにされたチェコスロヴァキアですが、戦後にはミュンヘン会談後に亡命していた大統領ベネシュの下、再度議会制民主主義が復活し、非共産党系政党と共産党との連立政権が成立します。ところが、アメリカの出した欧州復興計画であるマーシャル=プランが打ち出されると、この受け入れをめぐって共産党が反発し、他勢力との対立が起こります。ソ連の後押しを受けた共産党は大衆を動員してデモ活動を行い、政府に圧力をかけます。共産党の様々な圧力に抗議した連立内閣の非共産党系政党の閣僚12名は、抗議の意思を示すため、ベネシュが受理しないであろうことを想定して辞表を提出しますが、国内の分裂と内戦、またソ連の介入を恐れたベネシュはこの辞表を受理してしまうんですね。これにより共産党勢力からなる政権が成立し、さらにその後の総選挙で共産党系の諸政党が圧倒的多数の得票を獲得したことを受けて、ベネシュは大統領を辞任しました。ベネシュはその数か月後に亡くなります。ベネシュはすでに1947年に脳卒中を患っており、その後も高血圧等の持病に悩まされて健康状態は非常に悪かったと言われています。どうもミュンヘン会談を含めていまいち根性入ってないように見えるベネシュですが、チェコスロヴァキアクーデタ当時にはこうした健康状態も影響していたのではないかと言われます。

Edvard_Beneš-1945
(ベネシュ:Wikipedia UKより)

 

 いずれにしても、一時はマーシャル=プランを受け入れるかに見られていた議会制民主主義国家チェコスロヴァキアが、急転直下共産化してソ連の影響下に入ることとなったことは、チャーチルをはじめとする西側首脳にとってはとんでもない衝撃でした。このことが、英・仏・ベネルクス三国による西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約:1948)という集団安全保障を結ぶにいたります。これがのちにアメリカを巻き込んで拡大すると北大西洋条約機構(NATO1949)になるわけです。

 

 ですから、このチェコスロヴァキアクーデタは、①マーシャル=プランをきっかけとし、②東西冷戦が避けられないと西側諸国に明確に知らしめ、③西ヨーロッパ連合条約締結のきっかけとなる、とかなり重要な位置を占める出来事になっています。ところが、これがストーリーとして理解できていないと並べ替え問題などには太刀打ちできないんですね。チェコスロヴァキアクーデタも西ヨーロッパ連合条約も1948年ですから、年号で覚えようとしてもどうにもなりません。現代史は情報量が多くそれぞれの出来事の間も詰まっていますから、現代史ほど年号ではなくストーリーで前後関係を把握することが大切です。チェコスロヴァキアクーデタをめぐる出来事の流れとして、少なくとも以下の流れはしっかりと確認しておくとよいでしょう。

 

①マーシャル=プラン

②チェコスロヴァキアクーデタ(共産党独裁の成立)

③西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)

④さらにNATOに拡大

 

 

 

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 2018年から、東京外国語大学の出題形式に変化があり、従来の「400字論述+100字論述」から2018年は「600字論述+30字論述」、2019年は「500字論述+40字論述」となったことについてはすでに述べました。2020年はどうなるのだろうと思っていましたが、2020年も2019年と同じく「500字論述+40字論述」となりました。また、このスタイルは2021年の問題でも共通しています。3年連続で「500字論述+40字論述」となっておりますので、しばらくはこのスタイルで定着するのではないかと思っています。東京外国語大学の過去問については、東京外国語大学の方で過去3年分の過去問を掲載しています(→こちら)が、問題文の一部が欠落している部分などもありますので、やはり赤本を購入されるか、各学習塾の過去問データベースなどを利用されるのが良いかと思います。

 ところで、2020年の東京外国語大学の出題ですが、これはかなり注目すべきものでした。と言いますのも、500字論述として出題された「オスマン帝国の政治的統合と思想」というテーマはほぼ前年の東京大学の出題の焼き直しと言ってもよい内容でしたし、類似の出題はさらにその前年の2018年の京都大学でも出題されていました。以前こちらのブログでも書きましたが、このテーマは以前から「ホットだな」と感じていたテーマで、当ブログではすでに2017年に予想問題として掲載していました(→こちら。実際に作成したのは2016年ですが)。また、2020年に東京外国語大学で出題された設問の史料の一つであるユスフ=アクチュラの『三つの政治路線』(1904年、所収は歴史学研究会編『世界史史料8』より)についても、当ブログで紹介した予想問題で使用した史料そのままでした。

 もっとも、資料が同じものになること自体は、このテーマに関心を持ってこのテーマに関する出題をしたいと思って史料を探せば、かなり高い確率で『世界史史料』(『世界史史料』については→こちら)は用いることになりますので、別に特筆すべきことではありません。重要なことは、東京大学、京都大学、東京外国語大学という主要な国公立大学において、3年という短い期間の間に同一のテーマで出題がなされるくらい、このテーマはホットであったということです。

 私が、本テーマについて「ホットだな」と感じた理由はいくつかあります。まず、一つ目は「以前よりもオスマン帝国近代史に関する教科書、参考書の記述量が増えてきた」こと。二つ目は「以前は、やや難しいと感じられていた近代オスマン帝国がらみの用語の出題が、むしろ一般的でよく出題されるものに変わってきている」こと。三つめは「帝国やナショナリズムについての注目度や出題頻度が上がっている」こと。四つ目は「受験生が出題に耐えるだけの環境が整った(教科書、参考書の記述の増加や、出題頻度の増加により、きちんと学習さえしていればやや込み入った内容のオスマン帝国近代史でも対応できるようになってきている。)」ことなどです。

 たとえば、『詳説世界史研究』などにおけるオスマン帝国の近代史についての叙述は、以前のものと比べると目に見えて詳しく、その実態が分かるような記述にかわってきています。私は、オスマン帝国史を中心とする歴史学は専門外なのですが、その背景には近年のオスマン帝国史の隆盛があるようです。近年のオスマン帝国史の発展については、Web上のものですが永田雄三「近年のオスマン史研究の回顧と展望」(→こちら)などをごらんになると概要がつかみやすいでしょう。また、各種史料についての紹介は公益財団法人東洋文庫研究部イスラーム地域研究史料室の「オスマン帝国史料解題」(→こちら)などで見ることができます。

 重要なことは、たしかにこうした歴史学会における研究の隆盛などもあるのですが、先にあげた東京大学・京都大学・東京外国語大学などは高校で教えられている世界史の実態も鑑みて、歴史学的にも重要でかつ受験生も解くことができる出題とそのテーマはどのあたりかという感覚を共有しているということです。それはかなり、現場の感覚とも近いものだということが言えるわけで、だとすれば教科書や参考書の中で「最近、記述の分量が増えてきた」と感じる部分や、「叙述の仕方に変化が表れてきた」と感じる部分には注目するべきだと思われます。中でも、単に記述量が増えたというだけでなく、全体としてそれらの変化がこれまでの世界観やストーリーを上書きするような内容となってきている部分には注意が必要でしょう。そういう意味では、東京大学の2020年問題で出題され、東京外国語大学の2020年問題でも40字論述(小論述)として出題された琉球の日清両属など、東アジアがヨーロッパの主権国家体制に巻き込まれていく過程での伝統的関係の変化などは注目すべきテーマの一つであると思います。

 

2020 東京外国語大学

【概観】

:大問1は、オスマン帝国内外の動向にかかわる三つの史料を用いて、関連する事項について問うもので、小問数7と大論述1(500字)という構成は前年と同様のものでした。また、大問2は、東アジアの境界地域とそこに暮らす人々についての文章を読み、関連事項を問うもので、小問数6に対して小論述1(40字)と、こちらも前年と同様のものでした。

 内容は、大問1の方がほぼ近代オスマン帝国の周辺史のみで解答できる内容であったのに対し、大問2の方は時代的にも地域的にもややバラエティーに富んだ出題がなされていました。問題の難易度についてですが、小問のレベルは前年よりもやや難しくなったのではないかと感じます。易しい問題と難しい問題がはっきりと分かれていて、難しい問題はかなりしっかりと世界史の勉強をしてきていないと解けないのではないかと思います。また、すでに前年、前々年と京都大学や東京大学で立て続けに出題されたとはいえ、オスマン帝国における帝国維持の動きと思想を問うテーマは、おそらく英語主体の勉強を進めてくるであろう東京外国語大学志望の受験生にとってはまだまだとっつきにくいテーマであったかと思いますので、大論述もやや難しいと感じたのではないでしょうか。例年であれば、小問は基本全問正解、落としても1、2題までにしたいところですが、この年はそれよりも取りこぼしたとしても仕方なかったのではないかと思います。

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【小問概要と解説】

(大問1-1)

概要:以下の絵を描いた人物と、その人物に代表される理性や規範よりも個性に重きを置く思潮の名称を答えよ。

解答:ドラクロワ / ロマン主義

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Wikipedia「キオス島の虐殺」より)

:ギリシア独立戦争に関連する頻出問題で、基本問題かと思います。強いて言えば、ドラクロワは出てもロマン主義が書けない人はいるかもしれません。関連事項としては、同時期に活躍し、ギリシア独立戦争に義勇兵として参加したものの熱病で亡くなったバイロンをおさえておくとよいでしょう。バイロンの代表作としては『チャイルド・ハロルドの巡礼(遍歴)』などがあります。

 

(大問1-2)

概要:ベルリン会議(1878)の調停を担当したドイツ帝国宰相は誰か。

解答:ビスマルク

 

:基本問題です。ただし、ベルリン会議の内容は私大などでも頻出事項ですから、細かいところまでしっかり確認しておきましょう。

 

(大問1-3)

概要:一時ロシアに割譲された後、パリ条約(1856)で一部が放棄され、ベルリン条約で改めて獲得した地域はどこか。

解答:ベッサラビア

 

:この設問は難しいです。各種模試で偏差値70UPなど、よく勉強している人であれば解けるかもしれませんが、そうでなければほとんどの受験生は書けないと思います。

 

(大問1-4) 

概要:アブデュルメジト1世により開始された改革の名称を答えよ。

解答:タンジマート

 

:基本問題です。これが解けないと正直この年の世界史は苦しいです。

 

(大問1-5) 

概要:エジプト遠征を指揮し、ピラミッドの戦いで勝利した軍人は誰か。

解答:ナポレオン=ボナパルト

 

:基本問題です。ですが、実際の設問は他にも多くの情報があり、それに惑わされると意外に思い浮かばないかもしれません。

 

(大問1-6) 

概要:反帝国主義とイスラーム世界の統一を訴え、当時のムスリム知識人に大きな影響を与えた思想家は誰か。

解答:アフガーニー

 

:一昔前であれば難しい設問でしたが、最近はすっかり定番の問題になりました。知識がきちんとアップデートされている先生の授業を受けていれば多分解けるはずです。

 

(大問1-7) 

概要:サイクス=ピコ協定を結んだ参加国はどこか

解答:イギリス、フランス、ロシア

 

:基本問題です。この協定は英・仏・露で結ばれましたが、よく出てくる下の地図にはロシアの支配地が描かれていません。これは、ロシアの支配地とされたのがボスフォラス・ダーダネルス両海峡周辺とされてこの地図の中におさまらないことが原因で、ロシアは同協定に参加しています。ですが、1917年にロシア革命が発生すると、この秘密協定は暴露されて、この協定を締結した主体であるロシア帝国は滅亡します。その結果、第一次世界大戦後の中東地域は英・仏を中心にその実質的支配下に置かれることとなりました。

サイクスピコ協定_勢力入り
サイクス・ピコ協定

(大問2-1) 

概要:倭寇の頭目、王直の拠点や、ポルトガル、オランダ、イギリス商船の拠点となった日本の島はどこか

解答:平戸

 

:この設問は少し難しいかと思います。ポルトガルが1550年に平戸を拠点に商館を設置した話は教科書、参考書等で出てくるので、そうした知識を丁寧に拾った人であれば解けるかもしれません。

 

(大問2-2) 

概要:アメリカ大陸(新大陸)の発見者は誰か。

解答:コロンブス

 

:超基本問題です。

 

(大問2-3) 

概要:7世紀前半に陸路でインドにおもむいた仏僧とその著作

解答:玄奘 / 『大唐西域記』

 

:基本問題です。同じく唐の時代の仏僧として義浄がいますが、義浄は海路での往復になりますのですぐに玄奘と特定できるはずです。漢字にだけ気をつける必要があるでしょう。

 

(大問2-4) 

概要:金を成立させた人物は誰か

解答:完顔阿骨打

 

:標準的な問題です。唐・宋の時代の周辺諸民族とその建国者はわりと良く出題される割に受験生が区別できていない&漢字の書けない部分です。逆に言えば、そこを身に着ければ点数になるということですので、どこかで確実に身につけておく必要があるでしょう。

 

(大問2-5) 

概要:大黒屋光太夫と親交のある、1792年に来日したロシア使節は誰か

解答:ラクスマン

 

:基本問題です。

 

(大問2-7) 

概要:2019年の法律で、日本で初めて法的に「先住民族」と認められた民族は何か

解答:アイヌ

 

:あまり世界史で出てくる内容ではなく、どちらかというと時事問題ですが、設問の文章から類推することは可能です。そもそも、「日本の先住民族」といった時にアイヌ以外の単語が思い浮かぶ受験生はそう多くないでしょうし、最近では『ゴールデンカムイ』なんかも人気でしたので、解けた人も多いのではないでしょうか。

 

【小論述解説(40字、大問2-6)】

概要:1870年代に琉球を舞台に発生した日清の対立について、その契機を指定語句を用いて40字以内で説明せよ。

解答例:日本が日清両属琉球王国沖縄県を設置する琉球処分を行ったため、清と対立した。(39字、下線部は設問の指定語句)

 

:標準的な小論述かと思います。40字と字数がややタイトなのでまとめるのに苦労するかもしれませんが、内容については知っていてほしい内容です。また、上述の通り2020年の東京問題の大論述でもテーマの一つとして出題された内容です。

 

【大論述解説(500字、大問1-8)】

(設問概要)

オスマン帝国に体制改革を必要とさせた当時の国際情勢について説明せよ。

19世紀~20世紀はじめのオスマン帝国で、為政者や知識人の間にあらわれた、人々を政治的に統合する思想について論ぜよ。

・史料[][]と問1~7の設問文を参考にせよ。

500字以内

・指定語句:ギュルハネ勅令 / ミドハト憲法 / 青年トルコ / パン=イスラーム主義 / ムスタファ=ケマル(使用した箇所全てに下線を付せ)

 

(史料[]) ベルリン条約

:第1条、第3条、第25条、第26条が示されています。出典は歴史学研究会編『世界史史料6』です。大論述を解くにあたって特に注意すべき内容はありませんが、セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立やブルガリアの自治、ボスニア=ヘルツェゴヴィナに対するオーストリアの統治権承認など、オスマン統治下にあったバルカン半島の諸民族が独立、自立化したことによる帝国の分裂や、それにつけこんだ列強の進出など、基本事項はしっかり押さえておくべきです。(もっとも、本史料は読まなくとも、持っている世界史の知識で事足ります。)

 

(史料[B]) ユスフ=アクチュラ『三つの政治路線』(1904年)

:この史料の詳細とその解釈の仕方については、以前掲載した予想問題とその解説の方に示してあります(→こちら)。東京外国語大学が引用した箇所もほぼ同じ個所(少し東京外国語大学の方が長く引用していますが)です。本史料から読み取れる重要なことは以下の3点です。

 

①三つの政治路線とは「オスマン国民」の創出、「パン=イスラミズム」、「トルコ人の政治的ナショナリティ」の形成の三つ

:この三つの政治路線がどういうものかということについては、東京大学2019年の問題解説で詳しく解説済みですので、こちらをお読みください。

 

②「オスマン国民」とは、オスマン政府の名のもとに多様な諸民族を同化すること

:つまり、オスマンの分裂の原因であった多様な民族の混在の原因を、諸民族の同化によって根本から絶つことを意図しています。その際、同化の中心にあるのは「オスマン政府」であり、これはつまり「オスマン帝国に所属していること」を根拠としてそこに住まうものはみな同じく同化されるべきであるという発想です。これは、主としてタンジマートの期間中に新オスマン人が追い求めた「オスマン主義」に他なりません。それまで複数の民族や宗教によって多種多様な民族の坩堝であったオスマン帝国を、法の下の平等をはじめとする諸改革によって等しくオスマン臣民(オスマン人)とし、一つにまとまった国民国家を形成しようとする考え方で、だからこそタンジマートは西欧式の行政・司法改革を進めていきます。

ところが、これについてアクチュラは「実行不可能である」と言い切っています。これは、当時オスマン帝国内の諸民族がその文化、宗教などの違いから分裂傾向にあったことを考えれば、現実的ではなかったからです。アクチュラによれば、「オスマン国民」という概念は「オスマン国家のすべての民族の意思に反して、外国の妨害にもかかわらず、オスマン政府の指導者の何人かが、いくつかのヨーロッパ諸国…を頼って創出しようとしたものなのだ!」と述べており、オスマン帝国の分裂を避けたいオスマンの指導層による無理な創出物に過ぎないと指摘し、「オスマン国民」という単一の民族・国民の創出は現実的に不可能であることを主張しています。

 

③「パン=イスラミズム」は、全てのイスラームを政治的に統一するが、オスマン朝はこれを自身の権力の強化に利用しようとしていること

:アクチュラは、パン=イスラミズム(パン=イスラーム主義)について「カリフ権がオスマン朝の君主にあることを利用して」とオスマン朝のスルタンがスルタン=カリフ制を利用してイスラームの連帯を隠れ蓑に自身の専制政治の強化を図っていることをはっきりと認識しています。史料中にそれについての言及はほとんどありませんが、世界史の教科書や参考書にはその点記載があるはずです。また、同時代にアブデュル=ハミト2世自身が示した『政治的回顧録』や彼の政策(ミドハト憲法の停止、アフガーニーの招聘、皇帝専制の強化など)、そしてその後の青年トルコ革命などを思い浮かべれば、アクチュラがパン=イスラミズムに対して期待を寄せていないであろうことは想像がつきます。

 

(史料[]) T..ロレンス『知恵の七柱』(1922年)

:トマス=エドワード=ロレンスは俗に「アラビアのロレンス」として知られるイギリスの軍人で、オスマン帝国に対抗して独立を目指すアラブ人の反乱を支援した人物です。昔の映画は場合によっては感覚が古すぎて見るのがつらいものもあるのですが、映画『アラビアのロレンス』は映像・音楽ともに今見ても新鮮さを感じさせる部分も多く、わりと安心してみることができます。ただ、昔の映画はとにかく長い!w この映画も今調べたら完全版227だそうなので、もしご覧になるのであれば、覚悟して鑑賞する必要があるかもしれません。

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Wikipedia「アラビアのロレンス」より、1963年のポスター)

本史料はそのロレンスから見たオスマントルコの状況について言及した部分になりますが、論述に関連するポイントを示すと以下のようになります。

 

① 「青年トルコ」革命はアラブにとって視野が明るくなるものだった

② パン=イスラーム主義を統治に利用しようとしたアブドュルハミトの野心

③ トルコは、ソヴィエトが公開したサイクス=ピコ協定を西欧に対抗する武器とした

 

ただし、注意しておきたいのはロレンスの史料は基本的にイギリス側からの見方であるということと、オスマン帝国内の諸民族をヨーロッパ的な「オリエント」という視点で混同しがちなことです。たとえば、①についてですが、たしかに青年トルコ革命はロレンスの史料内で述べられているように「主権国家の憲法理論に駆られ」た「自治と民族の自由を目指す」ものでありましたが、その基本理念はパン=トルコ主義(トルコ民族主義)でした。とすれば、青年トルコによる政権はトルコ人以外の民族についても帝国内の人々をトルコ人として扱おうとする、つまり同化圧力がかかるのであって、必ずしもアラブ人の自立や独立にプラスの影響を与えるものではなかったと言えます。(そもそも、青年トルコ革命にアラブ人が満足するのであれば、アラブ大反乱がおこる理由がありません。)そうした部分を割り引く必要はありますが、それでもパン=イスラーム主義とアブデュルハミト2世の専制強化との関係や、それに対する青年トルコの対抗、サイクス=ピコ協定に対するトルコ人の不満などは本史料から読み取ることが可能です。

 

(解答手順1:オスマン帝国に体制改革を必要とさせた当時の国際情勢を整理)

:本設問の要求は19世紀~20世紀はじめとなっていますので、「当時」とはこの時期で考えればよいでしょう。オスマン帝国の体制改革は、すでに18世紀末から19世紀はじめにかけて、セリム3世のニザーム=ジェディット(西洋式軍隊)の創設やマフムト2世によるイェニチェリの全廃などによって進められておりましたが、より大きな改革としてはアブドュルメジト1世のギュルハネ勅令を機に開始されたタンジマート(恩恵改革)があります。ですから、本設問は、なぜオスマン帝国がタンジマートをはじめとする諸改革を始めることになったのか、その背景となった国際情勢について言及すればよいことになります。それらをまとめれば以下のようなものになるでしょう。また、タンジマートは非常に長い期間にかけて展開された諸改革ですので、その過程において影響を与えた事柄として⑤についても言及するとよいかと思います。

 

① ロシアの南下

② ギリシアの独立をはじめとする各地域の自立化傾向

③ エジプト=トルコ戦争の敗北とエジプトの実質的独立

④ 欧州列強の進出と脅威

⑤ クリミア戦争

 

(解答手順2:政治的統合についての思想を整理する)

:上述の通り、政治的統合についての思想には以下の三つがあります。これは、設問に史料として提示されているユスフ=アクチュラの思想が『三つの政治路線』となっていることもヒントになるかと思います。

 

① オスマン主義

② パン=イスラーム主義

③ パン=トルコ主義(トルコ民族主義)

 

これらが、当時のオスマン帝国でどのような意味をもったのかについては、上述の通り、すでに2019年の東京大学大論述解説で示しておりますので、そちらをご覧ください(→こちら)。

 

(解答手順3:記述すべき内容の整理)

:今回は細かい部分の解説を過去の記事(東大2019年過去問や予想問題)に任せてしまったので、ここでどういった内容を解答に盛り込むべきか整理しておきたいと思います。

 

① ロシアの南下

② ギリシアの独立をはじめとする各地域の自立化傾向

③ エジプト=トルコ戦争の敗北とエジプトの実質的独立

④ 欧州列強の進出と脅威

:①~④によるタンジマートの開始

⑤ クリミア戦争

:オスマン帝国の財政破綻、西欧諸国への経済依存度の高まり

⑥ オスマン主義

:立憲制樹立に向けての「新オスマン人」の活動、国民国家創出を目指す

⑦ ミドハト憲法の制定と停止

:露土戦争を契機としたミドハト憲法の停止

⑧ アブデュルハミト2世によるスルタン専制とパン=イスラーム主義の利用

⑨ パン=イスラーム主義の内容

:アフガーニーによる反帝国主義とイスラーム世界の統一を目指す思想

⑩ 青年トルコの活動

:アブデュルハミト2世の退位とミドハト憲法の復活

⑪ パン=トルコ主義(トルコ民族主義)

⑫ 西欧の中東分割に対するトルコ人の反発

:サイクス=ピコ協定に対する反発、セーヴル条約とこれを締結したスルタン政府に対する反発

⑬ ムスタファ=ケマルとアンカラ国民議会による抵抗

:イズミルに侵入したギリシア軍の撃退、ローザンヌ条約(1923)の締結

⑭ スルタン制の廃止

⑮ トルコ共和国の樹立

⑯ 政教分離策と西欧的近代化の推進

 

時代的にどこまで書くべきかという問題がありますが、指定語句に「ムスタファ=ケマル」があることから考えても、トルコ共和国の建国までは書くべきだと思います。また、ムスタファ=ケマルの政教分離策が、スルタン専制支配につながるイスラーム色の排除を意図したものであったと考えれば、新しい国民統合の形として政教分離を選んだという部分もありますので、これについても言及して差し支えはないかと思います。

 

【解答例】

オスマン帝国は黒海北岸へのロシアの南下やギリシアの独立、ムハンマド=アリーとのエジプト=トルコ戦争の敗北などで衰退の度を増したため、アブドュルメジト1世のギュルハネ勅令でタンジマートを始めた。広範な西欧化改革を進めた背景には、法の下の平等により多様な民族をオスマン帝国臣民として統一せんとする新オスマン人と呼ばれる知識人層のオスマン主義があった。クリミア戦争敗北を機に立憲君主制を志向するまでに改革は進み、ミドハト憲法が制定されたが、財政破綻は西欧列強への依存度を高めた。露土戦争を口実にアブデュルハミト2世が憲法を停止し、パン=イスラーム主義を利用して専制を強化すると、失望した青年知識人層はトルコ民族主義を軸に憲政復活を目指す統一と進歩委員会を結成し、青年トルコ革命で憲法を復活させた。議会はスルタンから主導権を奪ったが、第一次世界大戦の敗北で解体した。権力の奪還を図るスルタン政府が連合国とセーヴル条約を締結すると、反発したムスタファ=ケマルとアンカラ国民議会はトルコ民族主義を高めて抵抗し、スルタン制を廃止してセーヴル条約を破棄し、トルコ共和国を建国して政教分離政策に基づく近代化を開始した。(500字)

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