世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

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記事中の特にエクセルベースで作成した図表の方が開くと読み取れない状態になっていますが、順次修正していきます。(とりあえず東大の出題傾向と2018-2014解説については修正済みです)

 2017年の東大大論述はある意味では珍しく、ある意味では東大らしい設問となりました。珍しかったのは、東大で古代史が出題されたことです。東大大論述で古代史が出たのは2001年のエジプト通史と1999年のイベリア半島史以来です。ただ、これもエジプトについては5000年の歴史を、イベリア半島についても2000年近くに及ぶ歴史を述べる中で古代も含まれる程度のもので、正面から古代を取り扱ったものではありませんでした。それ以前ということになると、1995年に出題されたローマ帝国の成立からビザンツ帝国滅亡までの地中海とその周辺地域における諸文明の交流と対立を問う問題までさかのぼることになりますので、実に20年以上も扱われていなかったことになります。このあたりを考えてみても、いわゆる問題の「傾向」なるものは傾向に過ぎないのであって、その年に何がテーマになるかを「予想」することは難しく、仮に当たったとしてもそれは偶然に過ぎないわけです。(もちろん、ある程度確率を高めることはできるのでしょうが、第2問、第3問があること、多くの人は私大を併願することを考えれば、「予想」に頼ってヤマはるよりも、きめ細かい学習を進めた方が無難な気がします。近現代史をあつく学習すべきなのは当然ですが。)当日、問題を見た受験生たちはきっと面食らったかと思います。ローマと春秋戦国ということですから、テーマとしては古代史の中でも頻出の部分なので、そこまでは身構えなかったかもしれませんけれども。

東大らしい、と感じた部分はまずテーマが「帝国」であったことです。これについては以前から東大が意識している大テーマとして「帝国」があるということは指摘してきましたので、ある意味納得のテーマではありました。もう一つ、東大らしい部分はこの設問に二つの仕掛けが施されていることですね。「二地域の(比較)」と「社会変化」という部分です。この部分が示す内容をしっかりと理解して、その要求に対してきちんと応えられたかどうかで、似たようなことを書いていたとしても点数はかなり変わったと思います。

 

【設問概要】

・時期:BC2C以後(ローマ)

    春秋時代以後(春秋時代含む、BC770~:黄河、長江流域)

・「古代帝国」が成立するまでの二地域の社会変化を論ぜよ。

 

(ヒント)

・各地域社会の歴史的展開は一つの法則の枠組みに収まらない(違いがある)

 Ex. 「帝国」統治者の呼び名の登場する経緯の違い

・指示語:漢字 / 私兵 / 諸侯 / 宗法 / 属州 / 第一人者 / 同盟市戦争 /

 

 設問自体は比較的短く、あっさりしたものですが、内容の方は読み解くのがかなり手ごわいです。焦って取り掛からないことをおすすめします。まず、最も重要なのは「社会変化を論ぜよ」ということは「政治変化(のみ)ではない」ということです。ここをはき違えて政治変化ばかり述べるとおそらく点数は伸びないと思います。ですから「犬戎の侵入で都が鎬京から洛邑(陽)に遷って春秋時代となり、覇者は尊王攘夷を掲げてどーたら、戦国時代には戦国の七雄がうんたら」などと書いてしまうとほとんど点が入らないことになると思います。設問が求めているのが、政治なのか、経済なのか、文化なのか、社会なのか、あるいはそれらのうち複数なのかを確認する作業は東大の大論述を解く際の基本であり、作法のようなものです。

 次に重要な点は古代帝国が成立する「まで」とありますので、「帝国期は(厳密には)含まない」ということを確認することが大切です。ローマでいえば、せいぜいオクタウィアヌスがプリンケプスを称するあたり、黄河・長江流域であれば秦王政が始皇帝を名乗るあたりまでですね。ですから、パクス=ロマーナとか五賢帝とか焚書坑儒とか言ってはいけません。

 また、「二地域」ということに注意するべきです。これはつまり、両者の間に「違いがある=比較できる」ということを暗示しています。東大の好きな比較の視点ですね。これは、リード文が従来は「帝国」というものが「法則的な」ものと見られていたけれども、実際には各地域社会がたどった歴史展開は一つの法則の枠組みにとどまるものではなく、大きな違いがあるものだ、という趣旨のことを語っていることからも明らかです。つまり、東大はこれまではモデル化されて語られてきた帝国だが、実際には違いがあることをローマと中国(黄河・長江流域)を例にとって示せ、と言っているわけです。ですから、設問に「比較せよ」と書かれていなくても比較の視点で両者を分析してその違いを示さなくてはなりません。

 

【手順1:各時期のフレームワークを確認】

 いきなり両地域の社会変化を思い浮かべてみても良いのですが、ローマと春秋戦国という頻出箇所であることを考えれば、政治史が中心になってしまうかもしれませんが、まずは大きな流れを確認してみましょう。

 

(ローマ):BC200~帝政成立まで[BC27]

 ローマで要求されているのは、共和政の時期ですが、この時期はいろいろなことが入り組んでいる複雑な時期ですので、まずは全体像をとらえてみましょう。

古代ローマ

 すんげぇアバウトですけど、でもまぁ、上の赤い部分が対象となる時期ですね。この時期にどんなことがあったのか大まかにまとめてみたいと思います。

 

BC2Cはすでに半島が統一され、属州経営が始まる頃

:第二次ポエニ戦争(BC219-201)がちょうどBC3Cの末期です。ということは、ローマはすでにシチリアを、そして新たにヒスパニアを属州として統治し始める時期ですね。ポエニ戦争は三度にわたって展開されますが(BC264-241218-201149-146)、第一次でシチリアを、第二次でヒスパニアを獲得し、第三次でカルタゴ本国を滅ぼします。また、この第三次ポエニ戦争の頃にローマはマケドニアとギリシアが合わせて属州とされます。合わせて覚えておくと時期を確認しやすいと思います。

 

・平民の政治参加は進み、新貴族(ノビレス)が登場する頃

:紀元前3世紀のローマでは、すでにリキニウス=セクスティウス法(BC367)、ホルテンシウス法(BC287)などが制定されて平民の政治参加が進んでいます。平民からもコンスルになるものが出始めましたが、当時のローマ官職は無給でしたから、実際に高官につき、ノビレスとなる者たちの数は少なく、プレブス(平民)の富裕層に限られました。こうしたノビレスたちは属州統治による大土地所有(ラティフンディア)で奴隷を酷使し、そのための徴税請負人としてエクイテス(騎士)と呼ばれる新興の商人たちが使われました。さらに、権力維持のために市民の支持拡大を必要としたノビレスと、ノビレスからの経済的援助や保護を必要としたプレブス下層の人々の間には相互依存関係が成立し、次第にノビレスの保護を受ける代わりにノビレスのために働く被保護者層(クリエンテス)と呼ばれる人々が形成されていきます。親分と子分みたいな関係ですね。こうした取り巻きが形成されると、次第に貴族感の対立が激化していくことになります。

 

・属州統治、ラティフンディア経営による貧富差拡大とグラックス兄弟の改革の失敗

:紀元前2世紀頃から、ローマは獲得した属州でラティフンディア経営を展開します。そのきっかけになったのはポエニ戦争です。上述した通り、ポエニ戦争ではシチリアやヒスパニアなどの広大な土地を属州として獲得します。こうした土地は原則としてローマが公有地として所有することになるのだが、その多くは富裕な市民に貸し出されることになりました。この借り受けた公有地に奴隷を投入してブドウやオリーブ、穀物などの食糧生産を行ったのがラティフンデイア(単数形はラティフンディウム)です。

 ラティフンディアでは奴隷という安価な労働力の使役、大規模で効率的な農場経営によって、中小規模の農民たちが作る作物よりも安価に作物を栽培することが可能でした。こうしてつくられた安価な穀物がローマに流入すると、中小農民は太刀打ちすることができません。結果、多くの中小農民は没落して土地を失い無産市民化します。対して、貴族(パトリキ・ノビレス)はそうした没落農民の土地を吸収してますます大土地所有を拡大します。このようにして市民間の貧富差が拡大してくわけです。また、それまで自腹を切って重装歩兵としての装備をととのえて市民軍の中核を担ってきた農民たちの没落は、そのままローマ市民軍の弱体化を意味していました。

 こうした中で、貧富差の拡大を抑えてローマの弱体化を防ごうと改革を行ったのがグラックス兄弟です。グラックス兄弟(ティベリウスとガイウス)の改革は「貴族による大土地所有を抑えて農民層の没落を防ぐ」ということにつきます。このために兄ティベリウスはかつてのリキニウス=セクスティウス法の「公有地占有は500ユゲラ(約125ヘクタール)までとする」という規定の厳格化を打ち出します。(この法の公有地占有の部分は長い間に半ば死文化していました) しかし、こうした改革(BC130sBC120sごろ)は元老院議員をはじめとする保守派や貴族の反感を買い、兄弟の改革は失敗しました。その結果、ローマの構造的な弱体化(共和政の原則の崩壊[政治の寡占化進行]、農民層の没落と貧富差の拡大、市民軍の弱体化、市民権をめぐる不平等など)はさらに進み、内乱の1世紀へと続いていきます。

 

・内乱の1世紀(シチリア奴隷反乱、同盟市戦争、平民派・閥族派の争いなど)

:すでに示した通り、ローマはその内部に構造的な問題を抱えていました。さらに、その問題を解決しようとしたグラックス兄弟の改革が挫折したことから、続く1世紀にはその問題が顕在化し、噴出します。「内乱の1世紀」です。内乱の1世紀は時期としては通常、グラックスの死からオクタウィアヌスによる帝政の開始までを指しますが、その開始の時期と終わりの時期については議論があります。また「内乱の」とあるのでどうしても国内の反乱事件などに目が行きがちですが、実際には共和政が危機にさらされて国内が動揺した時期のことを指しますので、そのような視点でこの時期にローマを動揺させて事件を列挙すると以下のようになります。

 

 ・シチリアの奴隷反乱(BC139

 ・ティベリウス=グラックスの死(BC133

・同盟市戦争(BC91-88

・マリウス(平民派:ポプラレス)とスラ(閥族派:オプティマテス)の闘争

 ・スパルタクスの反乱(BC73-71

 ・第1回三頭政治(BC60-49)

 ・カエサルの独裁と暗殺(暗殺がBC44

 ・第2回三頭政治(BC43-32)

 ・アクティウムの海戦とプトレマイオス朝エジプトの滅亡(ヘレニズム世界の終わり)

 ・元首政(プリンキパトゥス)の開始(BC27

 

(中国):BC770~秦による統一[BC221]

 中国についてはローマほど複雑ではないと思います。実際、解答を作ってみたらローマ7、中国5くらいの割合になりました。世界史の教科書レベルで載っている春秋戦国時代の情報はそこまで多いわけではありません。いきなり社会変化を見るのも難しいと思いますので、まずはこの時代に何があったのかということだけ確認するところから始めます。

 

・周の東遷と春秋時代の始まり(BC770

・春秋五覇の出現と「尊王攘夷」

:封建制による支配を作り上げた周は、BC770年に北方の遊牧民犬戎により都であった鎬京が落とされ、幽王が殺害されたために東の洛邑(後の洛陽)へと遷都します(周の東遷)。しかし、周王室の力は衰え、かわって諸侯が力を持ち、一部の諸侯は他の諸侯に対する指導的立場を確立して「尊王攘夷(周王室を支え、異民族を打ち払うこと)」を唱えて覇者となりました(春秋の五覇)。春秋の五覇は諸説ありますが、「管鮑の交わり」の名宰相管仲が支えたことで有名な斉の桓公や、長い亡命生活の後で晩年に覇者となった晋の文公が有名です。このあたりのことについては横山光輝『史記』を読むとわかりやすく面白いと思います。

 

・晋の三分と戦国時代の開始(BC5C~)、下剋上

:周王室の血をひく晋(かつて晋の文公が覇者となった国)が、家来筋にあたる韓・魏・趙によって三分された時から戦国時代が始まったと言われています。春秋時代の末期からは、それまでの「尊王攘夷」にかわり「下剋上」の風潮が強くなっていました。諸侯の下には卿・大夫・士と呼ばれる家臣がいたわけですがこれらの家臣の力が諸侯を凌駕したり、上下関係が崩れ始めて、それまでの封建制にほころびが見られるようになったのです。

 

 

・諸子百家の出現、法家の登場と秦の統一

:戦国時代にはいわゆる戦国の七雄(斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙)が現れてしのぎを削りますが、こうした諸国は富国強兵によって他国に勝る力を得ようとします。こうした中で、春秋時代の末期から戦国時代にかけて旧来の社会秩序が変化し、新しい道徳・世界観が求められるようになると諸子百家と呼ばれる思想家が出現し、一部の人々は国政に関わるようになります。

このうち、西方の秦を強国に押し上げたのが法家と呼ばれる思想家たちでした。秦の孝公の時代、法家の商鞅は「商鞅の変法」と呼ばれる改革を断行し、什伍の制という隣保組織をつくり、軍功爵により功績次第で爵位を与える実力主義をとり、一部では郡県制がすでに実施されました。商鞅は孝公が亡くなると改革に反対した保守派によって殺害されますが、秦の強国化の基盤をつくり、さらに秦王政の時代には李斯が登場して法家改革が進められていきます。このようにして徹底した実力主義と中央集権化を進めた秦は、BC221年に中国を統一しました。

 

【手順2:社会変化として挙げられるものを列挙】(最重要)

【手順3:「変化」として見られる部分を意識】(重要)

 さて、手順1では設問の扱う時期にどんなことがあったのかをローマと黄河・長江流域のそれぞれに分けてみてきましたが、それだけだは本設問の解答を作ることはできません。なぜなら、本設問が求めているのは「社会変化」であって、政治的な事柄のみを求めているからではないからです。言ってみれば、手順1で示した内容しか書かれていない解答は「あまり点数の入らない解答のお手本」のようなものになってしまいます。

 そこで、全体の流れを確認したら続いて絶対に行わなければならないのは、この時期に起こった社会変化はどのようなもので、全体の流れとどのように関連しているのかを確認することです。ですから、手順1の作業は極めて短い時間で確認する必要があります。早ければ1~2分、長くても5分弱でしょうか。ここでは解説や予備知識をご紹介するために長々と書いていますが、実際にはすべてを思い浮かべる必要はありません。中国については、手順1で頭に浮かべる必要があるのは下の表程度のことです。

春秋戦国

 このくらいであれば、短期間で確認することは十分可能なはずです。さて、それでは最も時間をかけて確認すべき「社会変化」について、どのようなものがあるかをローマと黄河・長江流域について確認していきましょう。

 

(ローマ)

・属州の獲得、奴隷制とラティフンディアの拡大

:これがローマ共和政期の社会を変える根本とも言っていい部分だと思います。ラティフンディアの拡大は、すでに述べた通り大きく分けて二つの影響を与えました。

 

①ノビレス・エクイテスなどの新しい社会階層の台頭と、貧富の差の拡大

②属州からの安価な穀物流入によるローマ本国の中小農民の没落

→市民軍の弱体化(かつては軍備を自弁する強固な市民軍)

 

この二つが大きな部分ですが、個々から派生して様々な変化が生じます。

 ・大土地所有の進展と貧富の差の拡大

→ノビレスの登場とパトリキとの階層同化

・政治権力の貴族層(パトリキ、ノビレス)による独占

・貴族層と平民の相互依存(パンとサーカス)

 

・分割統治や奴隷制に対する不満と内乱

:さて、ラティフンディアの拡大とは別に、当時のローマは人々の権利をめぐり大きな問題を抱えていました。そのうちの一つが分割統治によるローマ市民権をめぐる不平等です。ローマはローマ人と同等の市民権を与える「植民市」、一部の権利(自治・民法)が認められたが、軍事・裁判権はローマに握られていた「自治市」、諸権利を剥奪されていた「同盟市」などを支配下に置いていましたが、こうした待遇の差に不満を感じた同盟市は紀元前BC91-BC88年にかけて同盟市戦争を起こしました。最終的にはスラによって鎮圧されましたが、この後イタリア半島にすむ自由民全てがローマ市民権を持つことになります。教科書などにはあまり出てきませんが、同盟市戦争によって都市国家ローマのあり方は以下のように大きく変化していくことになります。

①都市国家ローマが本格的な領域国家へ

(都市ローマが他都市を支配するのではなく、半島内全ての都市市民が「ローマ人」)

②民会が実質的な機能不全に陥る

(各地の「ローマ人」がローマの民会に参加することは事実上不可能)

③ローマ法の適用される範囲が劇的に拡大

(「ローマ人」に対しては「ローマ法」が適用される→万民法としての発展の端緒)

 

・軍の「私兵化」と権力闘争の拡大

:ローマの軍の弱体化が進んでいく一方で、各地では反乱や対外戦争が頻発していました。先の同盟市戦争もそうですが、それ以前にもシチリアの奴隷反乱、キンブリ=テウトニ戦争(BC113-101:異民族キンブリ人・テウトニ人との戦争)、ユグルタ戦争(BC112-106:ヌミディア王ユグルタとの戦争)が、また同盟市戦争以降にはスパルタクスの反乱(BC73-71)がありました。

 こうした中、特にキンブリ=テウトニ戦争とユグルタ戦争に際してコンスルとなったマリウスは大規模な軍制改革を実施します。それまでの自弁で武具を持ち寄る市民軍制度から、国家が武器を配布し、志願者を統一的に訓練、指揮する志願兵制度へと変え、これにより没落していた無産市民を職業軍人として再編成することに成功します。このことは、弱体化していたローマ軍を立て直すことにつながりましたが、一方で装備や給与を支給し、日々の保護をしてくれる有力者のもとに兵が集中し、「私兵化」する現象が起こり、その結果政治的な権力闘争は武力を背景とした激烈なものへと変化し、マリウス(平民派)とスラ(閥族派)の対立へとつながっていきます。また、大土地所有、貴族(パトリキ・ノビレス)としての家柄、クリエンテスによる支持、私兵化された軍などの基盤を得た一部の政治家が発言力を増大させることにつながり、政治の寡占化が進んでいきます。後の二度にわたる三頭政治やカエサルの独裁などもこのような背景の中で現れてきます。

 つまり、「平民派VS閥族派」や、「三頭政治」、「カエサルの独裁」といったことは、ただ並べても政治的な事実の羅列にすぎず、「社会変化」を述べたことにはなりません。しかし、ローマの社会変化が軍の私兵化につながった結果、政治の寡占化へとつながったという文脈で語った場合、これらの政治的事実は「社会変化によるローマ共和政の変化」として強力な説得力を持つことになります。同じ歴史的事実でも、どのように述べるかが大切だというのは、つまりはそういうことなのです。

 

・地中海世界統一

:さて、紀元前2世紀から紀元前後に至る時期はローマの支配拡大が続き、地中海世界の統一が進められていく時期です。もちろん、本格的に地中海世界全体の統一が進んでいくのはその後のパクス=ロマーナの時期ですが、すでに紀元前1世紀頃にはその前提となる動きは生じていたと考えるべきでしょう。たとえば、交易圏の拡大です。プトレマイオス朝が滅亡するのがBC30ですから、まだアジア方面までは進出していません。(インド洋の季節風交易が始まるのは紀元前後からと言われています) ただ、地中海沿岸地域の交易が盛んになっていたことは想像に難くありません。また、それにともなう貨幣経済の発展と浸透も見られたことでしょう。さらには、ローマ支配が拡大するのかでラテン語圏の拡大なども見られたと考えることができます。

 

(中国)

・農業技術の改良(鉄製農具、牛耕)と農業生産力の向上(超重要)

:中国については、この部分が非常に重要です。もしかすると、これが書けていない場合には中国の部分ではほとんど点数が入らないのではないか、というくらいの根本となる変化です。ここにしっかり気づいたか、そうでなかったかで大きな差がつくものと思われます。教科書には書いてありますし、学校の先生がプリントを作るとしたらめちゃくちゃ強調する部分でもあるので、知らないということはないのでしょうが、政治史を中心に考えてしまったり、一問一答系の学習に慣れてしまっていると、こうした社会変化や経済変化は目立たないので見逃してしまうかもしれません。この農業技術改良と生産力の向上によって起こった社会変化には以下のようなものがあります。

 ①生産単位の縮小(宗族単位から家族単位の経営へ=氏族共同体の解体)

→宗族、宗法の影響力低下

②商工業の発展

 →都市の成長、青銅貨幣の流通

ちなみに、この時期の中国の社会変化に関する問題としては、1991年東大の第2問に3行問題で春秋戦国期の技術上・経済上の変化が出題されています。

 

 

・邑制国家の崩壊と領域国家の形成(諸侯の権力と国力の強化、富国強兵)

:さて、上述のような社会変化は政治の分野にも及んできます。というよりも、当時の政治自体が宗族といった氏族共同体と密接に関連したものですから、それが変化すれば否応なしに政治の在り方も変わっていくことになります。宗族の解体は、宗族のつながりを基本単位とする邑制(ゆうせい)国家の崩壊へとつながります。「邑制国家」というのは殷や周に代表されるように、数多くある邑(都市国家)の連合体として成立していた国家のことを言います。周の封建制も、周王が支配する邑と、諸侯の邑との相互の支配被支配関係のもとに成り立っています。また、諸侯の邑についても、その配下にある小邑と同じような相互関係を結んでいて、一種のネットワークによって国家としての体を為しています。周王は、諸侯にたいして命令を発し、諸侯はそれに従いますが、周王が諸侯の邑の内部についてあれこれ口出しをしたり、諸侯の配下にある小邑を直接管理するといったことはされません。中身には大きな違いがありますが、モデル化すると何となく社団国家に近い気もします。

 さて、各邑を構成しているのは宗族と呼ばれる氏族共同体です。氏族共同体って言われてもいまいちイメージわきづらいのですが、血縁で結ばれた大規模な集団ですよね。日本史でいうところの物部氏とか蘇我氏とかをイメージするとわかりやすいのでしょうか。昔は農作業の効率が悪いので、少ない人数で細々と農業やっても食べていけません。そこで、治水するにしても作業するにしてもそこに住んでいる人々全員で取り掛かる必要があります。かれらは数人単位の家族ではなく、数十人とか数百人とかからなる一族であり、部族です。ここからはじまれては食べていけませんから、宗族の掟(宗法)には厳格に従わなくてはなりませんし、ものすごい影響力を持ちます。邑っていうのは基本的にこの宗族によって形成されているわけですね。

 ところが、農業生産力が向上すると、必ずしも宗族単位で行動しなくても食べていけるようになります。十数人程度の家族単位(戸)でも食べていけるとなると、宗族の掟に絶対服従をしなければならないということはなくなっていきます。こうした流れの中で宗族などの氏族共同体が解体すると、それまではそれなりの自立性を維持していた小さな邑は力を失っていきます。そこに、より大きな力を持っていた諸侯が、各戸単位の支配の強化に乗り出すと、諸侯の命令がよりダイレクトに各戸、各個人に届く支配体制が形成されていきます。これがつまり、邑制国家の崩壊(諸侯が自立性の強かった旧来の邑の支配を強化)であり、都市国家の連合体から領域国家への変化です。

 このような社会全体の変化は、そこに暮らす人々の認識も大きく変えていくことにつながります。宗族的つながりを強く意識していた春秋時代には「尊王攘夷」が貴ばれていましたが、次第に人々は「下剋上」の風潮を持つようになります。また、それまでの社会道徳が通用しない中で諸子百家が登場し、戦国の世を生き抜くために諸侯はこうした諸子百家を招いて新たな思想を統治に活用しようと試み、富国強兵を進めたわけです。

 

・秦による統一、中央集権の完成と中国的な専制支配体制の成立

:戦国の七雄のなかで、最終的に強国化を達成して中国を統一することになったのは秦の王である政でした。秦は各国に先駆けて中央集権化を強力に推し進めた国で、中国を統一した後はそれまでの封建制に代わる郡県制を導入して徹底した中央集権と専制政治を進めていきます。それを象徴しているのが始皇帝という称号であり、度量衡や文字(小篆)、貨幣(半両銭)の統一でした。

 

【手順4:「二地域」の相違は何かを意識】(重要)

 以上がローマと中国の社会変化に関わる部分です。特にローマの社会変化に関しては有名な部分でもあるのでわりと書けた受験生が多いと思います。ですが、中国については農業技術の変化を氏族共同体の解体から邑制国家の崩壊へつなげることができなかった受験生の方が多かったのではないでしょうか。

 さて、最後に二つの地域の相違として考えられることは何か、検討してみたいと思います。これについてはリード文の方にすでにヒントが示されています。つまり、「各地域社会がたどった歴史的展開は一つの法則にあてはまらない」のであり、まずは両地域の社会変化を丁寧に述べることから始めましょう。さらに、両地域ではどちらも「帝国」が成立するが、「<帝国>統治者の呼び名が登場する経緯にも大きな違いがある」とあります。ですから、なぜローマでは「プリンキパトゥス」であり「プリンケプス」だったのか、なぜ中国では「始皇帝」だったのかその経緯に違いがあると言っているわけです。その違いについて考えてみると、概ね以下のような違いになると思います。

 

(ローマ)

:政治的寡占化は進むが、権力者と「市民」は相互依存関係にある。また、「市民」は法によって権利義務関係がはっきりと定められている。

→オクタウィアヌスは元老院からアウグストゥスという称号は送られるものの、元老院や市民に対する配慮から「第一の市民(プリンケプス)」を名乗る必要がある。

 

(中国)

:秦による統一は氏族社会の解体によって生じた戸という小さな民衆単位に対する支配権を諸侯が強化し、中央集権化が進んでいく中で達成され、統一した秦も郡県制を通して徹底した中央集権化と専制支配を展開した。

→諸侯をしのぎ、絶対的な権力を握った専制君主としての称号、「始皇帝」を名乗る

 

 表現の仕方はいろいろあると思いますが、この二つも、単に片方が「プリンケプス」で片方が「始皇帝」だと書くだけでは違いを示したことにはなりません。そのような名乗りをした背景には何があったのかという点について、どこまで社会変化と結びつけて論ずることができるかということが大切になります。また、こうした理由から私は本設問の解答では「アウグストゥス」を示すよりは「プリンケプス(第一の市民)」または「プリンキパトゥス(元首政)」の語を示すことを優先するべきだと思います。

 

【解答例】

 ローマ属州で拡大した、奴隷を用いた大規模農場経営であるラティフンディアの安価な穀物の流入は、中小農民の没落と市民軍の弱体化を招いた。属州の徴税請負を担ったエクイテスや、大土地所有と政界進出により貴族化したノビレスが出現し、貧富差拡大と権力寡占化が進んだ。市民権独占や奴隷制が抱える矛盾は内乱の形で噴出し、同盟市戦争後に市民権が拡大され、ローマ法拡大の端緒となった。内乱鎮圧のためのマリウスの兵制改革は軍の私兵化と権力闘争を招き、平民派と閥族派の抗争や三頭政治の原因となった。権力は市民の支持に依存したため、権力者は食と娯楽を提供し、オクタウィアヌスは市民の第一人者を自称する元首政を開始した。地中海世界統一と産業力向上は交易圏拡大につながり、貨幣経済が発展し、ラテン語やギリシア語が各地に広がった。一方、鉄製農具の使用や牛耕の開始により農業生産を向上させた黄河・長江流域では、生産単位縮小により宗族や宗法の影響力が低下し氏族共同体が解体した。また、商工業や都市が発展し、青銅貨幣が流通した。諸侯は自立性の強かったに対する支配を強化して周王朝からの自立性を強めたため、封建制は動揺し、諸侯の方針も尊王攘夷から下剋上へと変化した。諸侯は諸子百家を登用し富国強兵を進めたが、中国を統一した秦王政は、分裂していた度量衡や文字の統一を進めて漢字文化圏形成の基礎を築き、始皇帝を称して集権的専制支配を展開した。(600字)

2018年の問題は「ついに来たなー」という感じのテーマでしたね。「女性」をテーマにした出題です。説明会などでは散々「女子学生の比率を増やしたいのだ―。」とのたまっている割に、女子の全体に対する比率は依然として18.6%と、アメリカ軍と同レベルの女子比率である東大でもついに女性が扱われました。もっとも、たぶん東大では以前から大論述で扱いたかったのではないかなーと思います。ただ、大論述で扱うには2つほど問題があったのではないでしょうか。

一つには、従来の教科書記述では女性に関する情報量が少なすぎて、大論述を構成するだけの情報がないという問題があったのではないでしょうか。この点、最近の教科書ではフランス革命期のグージュをはじめ、女性の活動についての記述が増えてきました。(山川の用語集の2012年版にはグージュについての記述はありません) 二つ目は、高校の教員や受験生側の認識の問題があります。たとえ教科書に新しく載ったとしても、高校の教員や受験生の側でそれは当然知っておくべき情報だという認識へと変化していくためにはいくらかの時間差が必要となりますから、そのあたりもある程度は考慮してくれていたのではないでしょうか。まぁ、この辺は推測にすぎませんけど。

 

ところで、今回の問題は採点の方で色々あったようで、どうもある程度何でもよいので具体例をひたすら書き込んだ答案の方が、点数が高く出る傾向にあったようです。これは、そもそも設問が「具体的に記述しなさい」という形で東大にしては珍しく「具体的に」という指示を出していたことと、女性の権利の歴史という慣れないテーマのせいで、一般論で終わってしまう受験生が多数であったことから、とりあえず設問条件を満たす具体例が入っている場合には一定の基準で加点したのではないか、という報告が某予備校の研究会ではされていました。本当かどうかは分かりませんが、そうしたこともあったのかもしれません。ただ、東大の設問の傾向は原則としてあくまでも設問が提示した一定のテーマに沿ってまとめた解答を評価するタイプのものですので、具体例をただ連ねただけの解答は本来であれば低評価となるはずです。そのあたり、今回の設問は東大の側でも一つのチャレンジであり、試験的なものだったのかもしれません。マイノリティの権利に関してはここのところホットな話題ですし、何かのきっかけでまた出るのかもしれませんね。黒人の歴史とか。少数民族史とか。…いや、可能性は低いかな。テキトー言いました、ごめんなさい。今回の問題は、テーマや求められている内容ともに非常にレベルの高いもので、「やや難」といったところかなと感じます。

それから、すでにあちこちで指摘されていることでもありますが、女性参政権については過去に一橋の方でこれを扱った問題が出題されています(一橋大2010年、大問2)。これについては別のところで解説していきたいと思います。

 

2018年第1

【問題概要】

19世紀~20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について具体的に記述せよ。

・女性参政権の歩みについて具体的に記述せよ。

・女性解放運動について具体的に記述せよ。

・指示語として、キュリー(マリー) / 産業革命 / 女性差別撤廃条約(1979 / 人権宣言 / 総力戦 / 4次選挙法改正(1918 / ナイティンゲール / フェミニズム

 

 設問を見ると、一橋と違って参政権のみを問題にしているのではないことがわかります。女性の活動全般についてかなり幅広く聞いてきています。これについて、東大ではリード文を長めに提示して受験生にヒントを与えていますね。受験生が不慣れであろう事柄について問う際には、東大の側でこのようにリード文を通してヒントを与えてくれることもあります。(例えばですが、2012年の宗教的標章法が指示語として与えられた、アジア・アフリカの植民地独立とその後などはリード文がかなり丁寧でした。また、この年の世界史平均点は例年と比較して高かったようですので、おそらく採点基準についても当初のものからかなり易化したのではないでしょうか。)

 

【解答手順1:リード文(中段)から、おおよその流れを確認】

・最初の段落の部分は18世紀までを意識して書かれているものです。ですが、設問の方の時期は19世紀~となっていますので、18世紀の内容はただ書いても加点要素とはなりません。フランスの人権宣言に女性の権利が明記されていないことに抗議して、『女性および女性市民の権利宣言』を発表したグージュなどはフランス革命期に処刑されていますので対象外です。

 

・中段をまとめると以下の通りです。

 

① 19世紀以降、男性の普通選挙要求と並行して進められた。

② 19世紀末から20世紀初頭に一部の国で女性参政権が認められた。

③ 日、仏では第二次世界大戦末期以降に女性参政権が認められた。

④ 参政権のみでは女性の権利や地位の平等は達成されず、20世紀後半には根強い差別からの解放運動が繰り広げられた。

 

 つまり、リード文自体が設問の要求する女性の活動、女性参政権獲得の歩み、女性解放運動のおおまかな流れを示していることに気づきます。このうち、②と③については一連のものとみなしてもいいと思います。大きく分けて3つの時期と内容に分けると比較的すっきりしますね。つまり、「女性が男性優位社会の中で活躍の場を見出そうとする時期(19世紀前半~後半にかけて)」、「女性の活動が参政権獲得運動と本格的に結びつき、運動が高揚して女性参政権が実現する時期(19世紀後半~第二次世界大戦)」、「参政権を獲得した女性が残存する差別の撤廃のために運動を展開する時期(第二次世界大戦後)」です。女性の権利のように、教科書に一つのテーマとしてまとめられていないことについて論述を構成する際には必ずこうした大きな見取り図を用意する必要がありますが、これをリード文が用意してくれるのはとても助かります。実際、ほっとしましたw

 

【解答手順3:解答手順2の①~④を意識しつつ、整理していく】

 解答手順2で示した①~④がおおまかな流れを示しているので、あとはそれに従って加点要素になりそうなものを整理していくと良いでしょう。

 

(①‐19世紀前半~:女性の地位と社会的活動)

:この時期は、まだ女性の参政権獲得運動は本格的には展開していません。(あったとしても男性の活動に付随する形で進んでいきます) ですから、この時期については女性がどのような地位にあったのかの確認と、男性中心社会における女性の社会的活動に焦点を当てると良いでしょう。

 

・産業革命以降、労働を担当する男性と家事を担当する女性の分業が進む

:従来、女性は、つねに労働の場から遠ざけられていたわけではありませんでした。たとえば、農村社会において農作業は男女共同で行う作業で、女性だけでなく子どもたちにすら何らかの役割があります。もうすでに古典となっていますが、フランスの歴史家であるフィリップ=アリエスは『アンシャン=レジーム期の子どもと家族生活(邦題:子供の誕生)』という研究書において、中世には大人と子どもの線引きが曖昧であったことを指摘しています。

 ところで、農村での共同の農作業の場合、家事労働は必ずしも生産労働から区別されません。乳児を背負いながら農作業を手伝うことも可能ですし、食事の支度はそのまま農作業を補助する役目となります。つまり、家事労働をこなしながら生産活動に従事することが可能で、こうした社会においては、時代や地域により差はあるものの、女性は一定の役割と権利を認められています。

 ところが、産業革命によって労働が賃雇いの工場労働に変化すると、特にイギリスでは家事労働は次第に生産活動の場から切り離されていきます。賃雇いの場合、時間と効率が重視されますから、子育てを片手間に行いながら労働していると工場長から睨まれます。また、労働者は家から離れた工場で働きますので、働きながら家事をこなすことはできません。さらに、工場労働は多くの場合、重労働の力仕事や過酷で劣悪な勤務条件であることが多く、子どもや女性に必ずしも適したものとは認められません。こうした流れの中で、シャフツベリ伯アシュリー=クーパーの尽力で1833年にイギリスで一般工場法が制定されたことを皮切りに女性やこどもに対する保護条項が定められていきます。(1844年と1847年の改正で女性と若年労働者の労働時間が制限された) つまり、この法律は重労働から女性やこどもを守る目的からのものでしたが、農村的生活から都市的生活への変化や、製造業を中心とする労働環境の厳しさは、家事労働と生産活動の分化を促進し、女性を家に閉じ込める結果にもつながっていきます。

「女性は家庭にいるのが理想」という発想は、福音主義のような倫理的・道徳的観念からも出てきますが、当時の社会的状況からも強化されていきます。当時の工場法が女性労働を制限しているのは、女性に対する過酷な労働環境が存在していたことの反映でもあります。労働者階級の女性たちは様々な困難があり生産活動の場から遠ざけられようとしながらも、家計を支えるためには何らかの形で稼ぎに出なくてはなりませんでした。そうした女性たちにとって、労働は権利というよりは「つらいこと」でした。それに対して、ジェントルマン階級の家庭では、女性が外に働きに出ることはありません。女性は子どもの教育をはじめ、来客の接待、家宰の一切を任されて、(実際には大変なのでしょうが)優雅に暮らしています。こうした対比がなされた時、「労働者階級の女性はつらいのに働きに出てかわいそう、裕福な家の女性は家のことだけしていいね」というイメージが「女性は家庭に」という理想像をさらに強化していくことにつながりました。このあたりの事情について読みやすいものとしてはジューン=パーヴィスの『ヴィクトリア時代の女性と教育』(ミネルヴァ書房)あたりが良いかと思います。

 

・女性の権利はなかなか認められなかった。

:これについてはいくつか具体例を挙げることができます。上述したグージュの『女性および女性市民の権利宣言』は、女性の権利が認められないことに対する抵抗としては良い例ですが、18世紀の例なので本設問では書きにくいです。同じフランスですが、フランス民法典(ナポレオン法典)などは良い例でしょう。ナポレオン法典は極めて近代的な内容の法典でしたが、家父長権を設定するなど古い家族関係を維持しようとする内容が含まれていたため、女性の権利は尊重されていませんでした。また、イギリスではメアリ=ウルストンクラフトが『女性の権利の擁護』(1792)で女性教育の重要性と教育の機会均等をを説き、その他にも男女同権を主張する著作を発表して有名になりましたが、この人も18世紀末に亡くなっています。

 

・一部の政治的活動に参加する女性の姿も見られたが、多くの場合女性の権利は黙殺されたり、社会活動を展開する女性が蔑視されたりもした。

:女性の政治的活動に対して否定的な社会においても、政治的権利を求める女性たちの活動は展開されましたが、男性優位の社会において、その活動はある種の妥協を強いられました。よくあるパターンは、男性たちが権利の主張をする際にそれに乗じる形で女性の権利を主張するパターンです。18世紀にはフランス革命期に女性の活動が見られましたし、19世紀に入ってからはイギリスのチャーティスト運動などでは女性チャーティスト協会などの婦人団体が参加していました。これは、その時の権利をめぐる対立構図の中心が「権利を持つ支配階層または資本家層 VS 権利を持っていない被支配階層または労働者」であって、「男性 VS 女性」という構図ではなかったことが原因です。ところが、ひとたび男性たちが権利を手にしてしまうと、共に闘っていた男性たちはそれに満足して女性の権利については無頓着になってしまいます。(似たような構図にアメリカにおける奴隷解放があります。奴隷を解放し、自由にするという流れの中で女性の解放というものも問題となりました。公民権運動にも似たような部分はあります。)

 

・女性たちが参加を許されたチャリティーなどの社会活動が存在した。

:このように、政治的活動や労働など、女性は社会的活動の場を19世紀の前半には失ってしまっていますが、そうした中でも許された社会活動にチャリティー(慈善活動)があります。家庭にいることを理想とされた女性たちでしたが、こうした発想のもとには福音主義や、当時の道徳観・倫理観がありました。聖書の中には、見方によっては女性が社会に出たり、指導的立場に立つことを否定していると解釈しうる部分や、家庭を維持し子育てをする女性や、弱者救済を行う人を称賛していると解釈できる部分があります。(例えば、「婦人たちは、教会では黙っていなさい」[コリント人への手紙。1434]など)こうしたことから、当時の倫理観では「女性は家庭にいて子育てや家事に従事すべきだが、弱者を救済する慈善活動は神の御心にかなう活動であり、女性が行ってもよい」という発想があったようです。女性を中心テーマにしたものではありませんが、イギリスのチャリティーについては金澤周作の『チャリティとイギリス近代』は非常に細かく近代イギリスにおけるチャリティのあり方を示しています。金澤周作先生については『海のイギリス史』なども読みやすくていいかと思います。金澤先生は元々は難破船に対する周辺社会の対応の在り方などを研究されていた方ですが、その後チャリティへと関心をむけられた研究者です。

 話がやや横道にそれましたが、このような背景を知っていると、19世紀前半のイギリスにおける自由主義運動とその成果は、必ずしも別のものではなく深く結びついていることが見えてきます。1833年は一般工場法が制定された年ですが、イギリスで奴隷制が廃止された年でもあります。工場法を推進したシャフツベリ伯も、奴隷制廃止運動を展開したウィルバーフォースも福音主義者でした。つまり、自由主義と福音主義は当時において密接に関連しています。また、女性の活動、といったときに真っ先に名前が思い浮かぶのはナイティンゲールですが、彼女が行っていたのも「看護活動」で政治的活動ではありません。もっとも、ナイチンゲール自身は単なる「召使い」としての看護婦ではなく、衛生状況の改善などを政府や軍に打診して実行し、統計学者や看護体制の改革者として力を発揮しました。ただ、そうした力のある女性であっても、教育を受ける際に姉の看護を口実としたり、社会的活動を行うにあたってその入り口が看護活動であったことは当時の世相を反映しているものです。

 

19世紀に活躍した女性の具体例(参政権や女性解放以外の分野で)

:世界史の教科書に出てくるような人で調べてみると、意外にその数が少ないことに驚きます。指示語にあるナイティンゲールとキュリー(マリ=キュリーまたはキュリー夫人)については良いでしょう。キュリーはラジウムの発見とノーベル物理学賞の受賞で有名ですが、政治的な活動は目立ったものがありません。このあたりのことを考えてみても、ナイティンゲールとキュリーについては、女性による参政権獲得運動が本格化する以前の、政治色のない女性の活動の例として挙げるにとどめるべきでしょう。また、指示語として示してある以上は、名前を挙げるだけでなく、関連した事項に触れておくことが大切です。ナイティンゲールについては、クリミア戦争への従軍、彼女の活動の影響を受けたアンリ=デュナンによる国際赤十字の設立などを挙げることができると思います。

 そのほかの19世紀女性となるとあまり見当たりません。使えそうなのはストウ夫人(『アンクルトムの小屋』の著者)で、奴隷解放運動と結びつけることは可能です。他だとヴィクトリア女王と津田梅子(岩倉使節団とともに渡米、留学。女子英学塾[現在の津田塾大学]の創始者で女子教育の先駆者)くらいしか思い浮かばないですねぇw ナイティンゲール・キュリー・ストウ・ヴィクトリア・津田梅子って何の脈絡もなくてガッタガタのラインナップ過ぎて笑えませんw

 ちなみに、看護活動などの社会活動で重要な人物として、世界史の教科書には出てきませんがアメリカのクララ=バートンがいます。南北戦争中に看護活動を行い、その後のアメリカ赤十字の設立に尽力した人物です。この人が世界史などでおなじみだと使い勝手が良いのですけどね。

 

(②19世紀末~20世紀初頭:女性参政権獲得への歩み)

・女性の権利の主張

:さて、19世紀は女性が活動するには世間の目や色々な制限があり難しい時代でしたが、それでもナイティンゲールやキュリーのように、慈善活動などの社会活動や学問の分野で活躍する人たちは見られました。19世紀後半ごろからは、政治的な権利を求める女性の活動が次第に熱を帯びていくことになります。その一つが、2010年の一橋大学出題の大問2リード文で示されたセネカ=フォールズ会議です。これ以降、アメリカでは女性参政権獲得運動が進められていきます。

女性参政権の歩み
(アメリカの女性参政権獲得の歩み)

 

 これらのうち、一般的な世界史の知識で引っ張り出せそうなのは「アメリカでは州単位では早い段階で女性参政権の導入があったこと」と「総力戦である第一次世界大戦への参戦と女性の戦争への協力が女性参政権の成立につながったこと」、「その時の政権がウィルソン政権であったこと」くらいでしょうか。また、一橋の問題を解いたことがあったという人であればセネカ=フォールズ会議について言及できた人もいたかもしれません。(そんなに数は多くはないでしょうが)

 一方、同じ時期にイギリスでも女性参政権獲得運動が展開していきます。一次大戦がきっかけで女性参政権が成立(第4回選挙法改正:1918)するのも同じですね。おおまかな流れは以下の通りです。


イギリスの女性参政権

 (イギリスの女性参政権獲得の歩み)

 

このうち、パンクハースト夫人は一部の教科書に掲載されています。また、2017年に改定された『詳説世界史研究』(山川出版社)にもパンクハーストは出てきます。また、第一次世界大戦と第4回選挙法改正の関係は教科書でもはっきり示してある重要箇所ですから、これについて記述することは十分可能ですし、必須です。総力戦であったこと、女性の軍需工場への動員が行われていたことなどは基本事項になりますので確認をしておきましょう。

 注意しておきたいのは、アメリカ・イギリスと同じく第一次世界大戦の時期に女性参政権が成立した国としてロシアとドイツがありますが、この二つの国については革命が大きな役割を果たしています。1917年にロシア革命が起こると、ソヴィエト政権は女性参政権を導入していきます。一方、ドイツでは20世紀初頭からすでにドイツ婦人参政権協会(1902)がアニタ=アウクスブルクの手により設立されていました。また、大戦中にはローザ=ルクセンブルクが社会主義運動を展開するなど政治的な動きも展開していきます。ドイツ革命の後、1919年にヴァイマル共和国が成立すると、女性参政権が成立します。社会主義の動きの拡大と男女同権論は密接な関連をもったものですから、19世紀後半からの社会主義の拡大と結びつけて論を展開することも可能です。

                                                      

・その他の地域における女性参政権

:女性参政権については、第一次世界大戦との関連が極めて重要ですが、その文脈からは離れた女性参政権の成立についてもまとめておきましょう。まず、世界で初めて女性参政権が成立した国は英領ニュージーランドです。ただし、被選挙権は1919年からの導入でした。続いてオーストラリア(1902)、フィンランド(1906)と続きます。女性解放の動きとしては、近年出題頻度が増えているなと感じるものにイプセンの『人形の家』(ノルウェー、1879があります。弁護士に猫かわいがりに可愛がられていた妻が、あることを境に夫の愛情が表面的なもの、妻の人格を尊重してのものではなく、人形に向けられるようなものと感じて、自立していくという内容のもので、女性の自立を一つのテーマにしています。イプセンは男性で、厳密には「女性の活躍」には含まれませんが、女性解放運動は女性だけが推進するものではありませんから、「女性参政権の歩み」や「女性解放運動」の一環として示すのであれば加点されるのではないでしょうか。

 そのほかにも、上述したように社会主義運動は女性同権と結びつきやすく、パリ=コミューンなどによる一時的導入が見られました(1871年)。ロシア革命を通して女性参政権が実現するのもこのあたりが関連していますね。また、トルコの近代化政策の中で、ムスタファ=ケマルが女性参政権を導入していきます。この際には、参政権だけではなく、チャドルの禁止や一夫一婦制の導入などが進められますが、こうした動きは女性解放というよりはむしろ当時のトルコ政府の政教分離政策(世俗化)と西欧的近代化志向の流れの中で出てきたもののようです。また、一部の教科書にはココ=シャネルについての記述がみられます。実は、シャネルというのは第一次世界大戦と女性の社会進出をテーマにするにあたっては非常に良い例です。シャネルはファッションの分野で有名になった人物ですが、1910年代に相次いで開店したシャネルは、コルセットが多用されていた当時のファッションに疑問を感じ、機能的で動きやすいシャネルスーツを発表してその後発展していきます。


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ココ=シャネル(Wikipedia)

 また、日本史を勉強している人であれば、日本における女性解放運動については比較的書きやすかったのではないかなと思います。たとえば、平塚らいてう(雷鳥)による『青鞜』創刊(1911)、や新婦人協会の設立(1919)、同じく新婦人協会設立に関わった市川房枝による婦人参政権獲得期成同盟(1924)などでしょうか。ちょうどこの頃は大正デモクラシーの時期でもありますね。1925年に普通選挙法が制定されますが、女性参政権は認められることがなく、さらに抱き合わせで治安維持法が制定されます。日本以外のアジア地域ではインドのラーム=モーハン=ローイがサティー(寡婦殉死)の禁止を訴えますし、インドネシア(オランダ領東インド)のカルティニはジャワ人の民族意識高揚や女性教育に尽力して若くして亡くなっています。

 

(③第2次世界大戦末期からの女性参政権)

:第二次世界大戦の末期から戦後にかけては、フランスと日本での女性参政権導入が進められます。フランスでは、パリがナチスから解放された後に、ド=ゴール臨時政府のオルドナンス(政令)による女性参政権導入が行われます。(1944) 日本では、1945年の選挙法改正で満20歳以上の男女に選挙権が与えられ、1946年には女性議員39名が当選します。ちなみに、上述の市川房江は1953年の参議院選挙から議員として当選しています。
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市川房枝(Wikipedia) 



(④女性解放運動)

:これまでに示した通り、第二次世界大戦の終わりごろまでには世界の主要国のほとんどで女性参政権が成立しますが、それが女性の完全な自由と解放を意味するものではありませんでした。これ以降、女性たちの新たな権利獲得のための闘争が始まります。

 ところが、多くの受験生はあまりこの部分が書けていないようです。設問が「1920世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について、また女性参政権獲得の歩みや女性解放運動について」と記しているところに注目したいところです。(もっとも、女性解放運動は広い意味でとらえた場合、参政権獲得を含めたあらゆる活動が含まれるものではあります)

 1950年、国連総会で世界人権宣言(指示語の「人権宣言」はここで使うことも可能です)が採択され、男女同権についての理念が明記されましたが、女性は政治的権利を手に入れたものの、さまざまな社会的制約(女性蔑視、賃金格差、労働環境、女性固有の諸権利への無理解など)に悩まされていました。こうした中で、1960年代から展開されるのがウーマン=リブ活動です。これは、女性を拘束する「家庭」や「女らしさ」イメージ、や男女の役割分担などの考えを打破することを目指したもので、黒人解放の公民権運動やベトナム反戦運動などと連動して拡大し、堕胎やピルの解禁運動などにもつながっていく運動です。このような運動によって、次第にポジティブ=アクション(性差別をなくすための積極的是正措置、アファーマティブ=アクションの一種)が拡大して次第に女性に対する差別が撤廃されていきます。1979年の女性差別撤廃条約はこうした中で国連総会において採択されました。
 ところが、戦後のこうした女性解放運動について、受験生はほとんど書けません。というよりは武器を与えられていないんですね。フェミニズムやウーマン=リブなどは教科書には基本載っていませんし、指示語の女性差別撤廃条約なども通り一遍の説明しかされていないことが多く、そのままでは文章にできません。ここで大切なことは二つのことに注意することです。

 

 ① 指示語は示しただけでは得点にならない。(追加情報を示す必要がある)

 ② 一般的に、女性に対するどのような差別があり、何が撤廃されてきたのかを想像する

 

 まず、①についてですが、条約の名前から女性に対する差別が撤廃された多国間条約であることは何となく想像できます。(あまり二国間で締結する類の条約ではありませんよね) ですから、かなり高確率で国連総会における採択だろうという予想はつきます。また、ちょっと公民や倫理・政経の授業を真面目に聞いてきた人であれば男女雇用機会均等法(1985)や男女共同参画社会基本法(1999)などの名前は聞いたことがあるはずです。だとすれば、「女性差別撤廃条約が国連総会で採択され、日本でも男女雇用機会均等法が制定されて就業機会の平等が図られ、さらに男女共同参画社会基本法により女性が能力を十分に発揮できる社会が目指された。」などの文章を作ることは十分に可能です。

 また、②については参政権以外で女性が直面した様々な差別を思い浮かべればよいと思います。最近よく話題となったのは「ガラスの天井」(資質や成果に関わらず、性別などの要素によって組織内での昇進が阻まれる現象や構造のこと)でしょうか。だとすれば、このガラスの天井を排除してきた女性の活躍について言及すれば良いので、女性政治家の活躍などはその最たるものでしょう。バンダラナイケ、インディラ=ガンディー、サッチャー、メルケル、日本なら土井たか子(社会党)とか。また、他にも産休・育休の取得などの職場内の環境改善や、女性に対する社会意識の変化に触れてもいいのではないでしょうか。「東大も積極的に女子学生の比率向上に努めるなど、教育現場においても女性の地位向上が図られている。」なんて書いたら東大の先生方はどんな顔するんでしょうねw こうしたことは、世界史の知識というよりは、普段から世界史という限られた範囲の学習ではなく、さまざまな知識に触れ、それを総合的に自分の血肉としているかどうかが問われる部分なのかなと思います。まさに、南風原東大副学長が言う「本分かり」ですね。それは「探究活動を通じて身につくこともあるし、本やネットで、ということもある。知識を深めるにも多様な方法があります。」ということですよね。だから、マンガで身につけても映画で身につけても世界史リンク工房で見たものであってもw、それがしっかりとした根拠、論拠に裏付けられたものであり、検証を怠りさえしなければそれでよいのです。リテラシーは大切ですが。

 

【解答例】

 仏の人権宣言で無視された女性の権利は、家長権を認めたフランス民法典でも抑圧された。産業革命は女性を労働から遠ざけて男女分業化を促進し、福音主義は男性に従い家庭に縛られる女性観を強化した。チャーティスト運動など男性主導の運動に加わり女性の権利拡大を求める動きも見られたが、社会進出はクリミア戦争で看護制度改革を進めたナイティンゲールや、ラジウム発見でノーベル賞を受賞したキュリー(マリー)など、慈善活動や教育といった一部の分野に限られた。米ではセネカ=フォールズ会議を皮切りに、奴隷解放運動と結びつき女性参政権を求める運動が拡大し、一部の州では導入された。英でもミルの男女同権論などから運動が拡大し、パンクハースト結成の女性社会政治同盟が闘争を展開した。総力戦となった第一次世界大戦に女性が貢献すると、米はウィルソン政権下で、英は4次選挙法改正(1918で、独・ソでは革命を通して女性参政権を導入し、戦間期にはムスタファ=ケマルのトルコへ拡大した。導入が遅れていた仏・日でも第二次世界大戦後に実現し、国連総会は世界人権宣言で性差別禁止を呼び掛けた。しかし、不当な蔑視や就職・賃金・昇進での差別などが残存したため、公民権運動やベトナム反戦運動と連動してフェミニズム運動が展開され、国連総会の女性差別撤廃条約(1979採択を契機に性差別の是正が進み、日本では男女雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法が成立した。(600字)

 

 解答は設問の要求している「女性の活躍」、「女性参政権獲得の歩み」、「女性解放運動」を意識してみました。上の「手順1」で示した3つないし4つの時期ですね。社会主義や、個別の活動など十分にカバーしきれていない部分もありますが、そこはある程度妥協しました。実際の入試では、サッチャーとか、カルティニとか、平塚らいてうとか指示語以外の女性を羅列した回答がそれなりに高い点数を取っていたらしいということは述べましたが、東大はあくまでも設問の意図に沿った、テーマを意識した解答を求めていると思いますので、おそらく今後東大で類似の問題が出題された場合、そうした構成の解答は点数が低く出ることになると思います。そのあたりのことを考慮して、あえて個別の人物名などを必要以上に挙げることよりも、設問の要求の方にこだわってみたわけです。「具体的に」述べよとありますので、ある程度各国の状況の詳細や固有名詞を出す必要がありますので、なかなか難しかったです。この年の東大の合格者ベース平均点は66%(文三)~69%(文一)とかなり高かったようですが、本来であれば歴史的事実に対する深い理解と、事柄を整理する総合力が要求されるレベルの高い良問だったのではないかと思います。

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