世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

各校の過去問対策、受験対策のほか、世界史を理解する上で役に立つ視点や勉強法についての情報を随時更新していきます。

以下のような方はとくにオススメ!

・東大、一橋などの国公立や早稲田、慶応の受験を世界史で考えている。
・論述対策を進めたい。
・教科書やプリントだと不足している情報が多すぎて、背景にあるつながりが見えない。
・『詳説世界史』などを読むだけでは気づけない、専門的な歴史的視点を養いたい。
・世界史を覚えるのが苦手で、どうやって勉強したらよいのかわからない。
・世界史の教員になりたてだが、西洋史が専門ではないので少し突っ込んだ知見を知りたい。

※ 目標に向けて頑張る受験生の皆さんの一助になればと思って頑張って更新し、情報もチェックしておりますが、人間ですのでミスなどが出ることもあります。当サイトの情報をご利用の際はあくまでも自己責任でお願いいたします。

※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw また、大手予備校のHPからも閲覧できるかと思います。正規の問題が手元にあった方がわかりやすいと思います。


 今日は朝「高校生新聞online」の方で面白い記事があったので。

 

 http://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/57

 

 かねてから東大、または大学が受験に何を求めているのかということを推し量るということをしてきましたが、こちらの記事は大学からのダイレクトなメッセージなので、とても興味深いものです。(もっとも、メディア向けに味付けされている部分もあるのでしょうが)

 こちらの記事は本来、東大が導入している推薦入試についてのものですが、読んでいくと一般入試に対する東大の意図がどのあたりにあるのかが見えてきます。こちらの記事にある一般入試について気になるところを挙げていくと以下の通りです。

 

① 記述中心型の一般入試には今後も変更がない。高校の各教科で習う内容を本当に深く理解すれば解ける問題を出題する。

② 機械的な暗記による知識ではなく、「高く深い」レベルの知識を問う。東大のアドミッションポリシーとして「知識を詰め込むことよりも、持っている知識を関連付けて解を導く能力の高さを重視」するとある。

③ 「記述試験は受験生との対話」である。

④ 採点の過程も対話であり、元からある採点基準も採点を通じて基準が洗練されていく。

⑤ センター試験があるから安心して深い記述問題が出題できる。

 

 ①については、おそらくそうだろうとかなり前から思っていたことですが、やはりそうなのですね。東大の問題は採点にものすごく手間がかかるであろうことを除けば、試験としての完成度は高いものです。⑤にもありますが、センター試験と併用することで基本的な知識を確認した上で、本人が内容をきちんと把握しているかを問う内容になっています。完成度が高く、蓄積のあるものをわざわざ変えることで何かメリットが生まれるのだろうかとかねてから疑問に思っていました。出題傾向は多少変わるかもしれませんが、大きく変化することはやはりなさそうです。これまでの東大過去問分析の価値が損なわれるものではないのでこちらとしても一安心ですw 無駄な手間が省けます。

 

 ②についても、おそらく多くの人がそのように感じていたであろうことをはっきりと確認できたということです。つまり、「きちんと理解する」のであれば、世界史については、いわゆる一問一答を全て丸暗記するよりも教科書ベースで内容把握する方が東大では点数が取れるということです。時折「一問一答やった方がいいですか?」という質問を受けますが「ケースバイケース」と答えることにしています。一問一答形式のテキストは「自分が覚えているかどうかを確認するため、または自分はこれだけ覚えているんだということを確認して安心感を得るためのツール」としては優れていると思いますが、初めて覚える、身に着けるためのテキストとして特に優れているとは思いません。(ただし、受験まで時間が限られていて緊急避難的にとりあえず知識を入れておきたい、ということであれば便利なツールだと思います。また、東大を受験する人でも早慶といった私大を併願していることがほとんどだと思います。こうした大学の受験をメインで考えている場合、それなりに役に立つ部分があることは否定しません。)

なぜかと言えば、どうしても付随する情報量が不足してしまうんですよね。テキスト、プリント、資料集、授業などでは、時間的なつながり、地域的な広がり、映像、関連する事項などが総合的に、自然に目と耳から入ってきます。一問一答ではそれがないので、一問一答「だけ」で覚えると、どうしても薄っぺらい知識で止まってしまいがちです。こうした知識は問題の形式が少し変わると対応できず、応用力を身につけることができません。何より致命的なこととして「ある情報について人に広く、深く伝えること」ができません。たとえば、友達から「○○って何?」と聞かれたときに、その一問一答に書かれた質問文以上の説明をすることができないことになります。そうすると「フランス革命って何だっけ?」に対して「1789年~1799年に展開された、フランス社会を根底から変革することとなった動き、だよ。」という答えが期待できる最大値で、それ以上が出てこないわけです。エルゴ=プラクシーで言うところのアントラージュっぽい答えになってしまいます。あ、古いしマイナーですね。はい。

 

きちんと勉強している人であれば、一見拙くは見えてもその答えにはいろいろな情報が含まれています。「えっとー、1789年にバスティーユが襲われてー、そんで第三身分の人たちがー、議会をつくってー、人権宣言で―…」のように、各事象や時系列が曖昧さや誤りがあることもあるにせよ見えてきます。しっかりと内容を把握して、かつ質問の意図を的確にとらえる人であれば、その説明はさらに洗練をされてよりはっきりとした像を結ぶことになります。「フランス革命って言ってもさw フランス革命の何が聞きたいのw?…あー、全体的な流れかぁ。私もあんまり覚えてないんだけど、まずは貴族への課税について三部会が開かれたけどモメて、第三身分が国民議会をつくって。そのあと立法議会、国民公会って形でかわっていくけど、それにつれて革命が急進化していく感じ。あれ?バスティーユ襲撃っていつ頃だっけ?」…まぁ、こんな答え方する高校生は一般的ではないでしょうがw

ですが、東大が言う②というのは、結局のところそうした能力です。不十分ではあっても「人に伝え、自分で考えを深められる」レベルで知識を体得している受験生が欲しいのでしょう。よく「知識はなくても考える力があればそれでいい」という人がいますが、これは半分正解ですが半分は誤っています。知識はなくても思考することはできますが、その思考を深め、発展させていくためにはさらに深い知識が必要になります。つまり、多くの知識を身につけていることは、それがない人間よりもより深い思考・思索を可能にする土台を身につけているということだからです。単純に考えて「知識がなく、思考力もない<知識はないが思考力はある<知識があり思考力もある」なのは自明です。(王欣太の『蒼天航路』であまりの書籍の数に驚嘆する劉備が「これ全部頭に入っているの?」と聞くのに対して曹操が「覚えていなくていなくてすごい奴もいるが、最後は覚えている奴が勝つ」という趣旨のことを言うシーンがありますが、まさにその通りだと思います。)

つまり、東大がお求めなのは、この「知識があり思考力もある」というおよそ「一般的ではない」高校生ですw ですがまぁ、しょうがないですよね、東大自体がおよそ一般的な大学ではないので。大学で、つまり高等教育機関で研究を進めるにあたり、「自分が知識を把握し、それを他者に伝え、他者に伝える中で新たな疑問や問題点を発見し、その解決のために新たな知識を求める」というプロセスは必須能力です。そうでなければ研究とは呼べませんし、それにあたって仕入れる知識の量は専門書の1冊や2冊程度では到底すみません。歴史の論文や専門書を読んでみればわかりますが、1200字程度の文章を書く間に注として用いる書籍の数が10冊なんていうのはザラでしょう。そうした環境に身を置くのだから、高校の教科書一冊分の情報量を入れる力は欲しいし、それはまったく詰め込みと言えるほどの量ではない、というのが東大ほか難関大の教員のスタンスだと思います。もっとも、高校生の立場になっていってみれば、確かに1教科で見れば教科書1冊分+α程度の知識かもしれないけれども、それを全教科にわたって要求されるわけですから、決して容易な量ではないことは疑いがありません。大変です。でも、しょうがないですよ、東大だもん。

 

 ③については、各大学の論述解説に際して繰り返しお伝えしてきた「論述はコミュニケーション」だという表現と全く同じ内容です。東大の先生方も同じスタンスなのだと確認出来てほっとしました。ですから、その辺の細かいニュアンスについては各校の論述対策をご覧いただければと思います。今回興味深かったのは、採点にまで踏み込んで説明して下さっているところですね。採点についても対話であって、「もとから採点基準はある」が、それを受験生の解答によっては変更していくこともあるということを示してくださっています。この点については、「多分見てくれてるとは思うよ、天下の東大だもん。」といいつつ、「でもなぁ、何千人もいるからなぁ、そこまで見てくれてるかなぁ。」という一抹の不安を抱いていましたが、副学長がおっしゃるのですから多分大丈夫でしょう。ですから、教科書をはみ出した知識であったり、理解であっても、設問の意図に照らして焦点が合った解答であり、かつ歴史的事実に基づいているのであれば、正解としてくれていると思います。また、東大側が本気で採点をしてくれている限り、多少マニアックな知識であってもちゃんと拾ってくれているはずです。それくらい東大をはじめとする難関大の教員や研究者のレベルはすんげぇのです。

 

 とりあえず、これまでの東大入試に関する認識に大きな誤りはなさそうですし、国からの妙な圧力がない限りは今後も東大世界史の問題について大きな変更はなさそうです。今年はどんな問題が出るんでしょうかねぇ。楽しみでもあります。

 

2019年センター「世界史B」 解答・解説



今年もセンター試験を解きました。余裕があれば後ほど色々加えるとして、今日は取り急ぎとりあえず各設問ごとのポイントになる事項を書いておきました。急いで作って確認もとれておりませんので、誤字やミスなどがある可能性がありますので、その旨ご承知おきの上でご覧ください。

 

問1 ③ 

:アンコール=ワットはカンボジア、クメール人のアンコール朝、スールヤヴァルマン2世が建てたヒンドゥー教寺院。ジャヤヴァルマン7世の時代に仏教寺院となった。

【解説】

①ヴェルサイユ宮殿はルイ14世時代に建てられたバロック建築

②スレイマン=モスクはスレイマン1世の命でミマール=スィナンがイスタンブルに建てたオスマン帝国のモスク

④アルハンブラ宮殿はナスル朝グラナダの宮殿

 

問2  

:黄巾の乱は後漢末期の184年、太平道の張角によって起こされた農民反乱。その後の群雄割拠を経て、中国は魏・蜀・呉の三国時代を迎える。

【解説】

①トゥサン=ルヴェルチュールはハイチの黒人指導者。

②ステンカ=ラージンの乱は1670年、ロマノフ朝ロシアのアレクセイ統治下で起こったコサックの反乱

③マルヌの戦いはシュリーフェン=プランに基づき、ベルギーを侵犯してパリに迫ったドイツ軍がパリ近郊マルヌでその進撃を阻止された戦い。

 

問3 ② 

:チャールズ1世はピューリタン革命により、1649年に処刑された。

【解説】

①エドワード1世の時期の模範議会は1295年で13世紀。

③ハーグリーブズの発明したジェニー紡績機は産業革命期で18世紀。

④労働組合法が定められたのは1871年、グラッドストン自由党内閣。

 

問4 ① 

【解説】

②高麗の建国者は王建。大祚栄は渤海の建国者。

③朝鮮の開国は1875年江華島事件の翌年の1876年日朝修好条規で、当時の政権は閔氏政権。また、大院君の基本的な政治方針は鎖国政策だった。

④日韓基本条約は1965年、朴正煕政権の時。

 

問5 ⑥ 

【解説】

a チェルノブイリ原発事故はゴルバチョフ統治下の1986

b 日中平和友好条約は1978年、福田赳夫首相。

c キューバ危機は1962年、ケネディとフルシチョフの時。

 

問6 ③ 

【解説】

スペインはアルタミラ、フランスがラスコー

 

問7 ④ 

1956年、フルシチョフによるスターリン批判をきっかけとして、ポーランドのポズナニ、ハンガリーのブダペストで暴動が発生した。ポーランドではゴムウカが事態を収拾し、ハンガリーでは自由化を進めたナジ=イムレ首相がソ連に捕らえられ処刑され、かわってカーダール共産党政権が成立した。

【解説】

①コペルニクスはポーランド人だが、唱えたのは地動説。

②コシューシコは第2回ポーランド分割(1793)に抵抗した人物だが、普仏戦争の際のパリ=コミューンに参加した事実はない。コシューシコはむしろアメリカ独立戦争でワシントンとともに戦ったことが有名。

③ピウスツキは第一次世界大戦後にポーランドの独裁権を握る人物。第二次世界大戦後のポーランドは共産化されている。

 

問8 ② 

 

問9 ② 

:一国社会主義論を唱えたのはスターリン。レーニンやトロツキーは世界革命を目指した。そのための組織としてコミンテルンがある。

 

問10 ② 

①クヌートはデーン人。

③グスタフ=アドルフは三十年戦争(1618-1648)中のリュッツェンの戦い(1632)で戦死する人物。対して、ファルツ継承戦争はルイ14世の時代、1688-1697に発生した戦争

④航海法を制定したのはクロムウェル(1651)。

 

問11 ② 

:ドイツはカメルーンをはじめとして、トーゴ、タンガニーカ(ドイツ領東アフリカ)、ナミビア(ドイツ領南西アフリカ)などを領有した。

【解説】

①フォークランド紛争(戦争)はアルゼンチンとイギリス。

③ホルムズを占領するのはポルトガル。16世紀末にイスファハンを建設したサファヴィー朝のアッバース1世に奪回された。

④ニューファンドランドを領有していたのはフランス。1713年のユトレヒト条約で、アカディアやハドソン湾地方とともにイギリスに割譲された。

 

問12 ③ 

:バイユーのタペストリーには1066年のノルマンコンクエストの様子が描かれているので、ノルマン人が正しい。マジャール人はハンガリーの主要民族。

 

問13 ③ 

:金は女真族の国で、建国者は完顔部の阿骨打(完顔阿骨打)。耶律大石は西遼を建国した人物で、契丹人。

 

問14 ① 

【解説】

②ワールシュタットの戦い(1241)はチンギス=ハンの長子ジュチの子であるバトゥの率いたモンゴル軍とポーランド・ドイツ連合軍の戦い。ワールシュタットはドイツ語で「死体の山」の意。戦いのあった場所からリーグニッツの戦いとも言う。

③大都は元の都で、遷都はフビライの時。

④チャハル部を制圧したのは清のホンタイジの時。

 

問15 ③ 

:アンカラの戦いは1402年、ティムールがオスマン帝国のバヤジット1世を捕虜にした戦い。アンカラの場所が問題だが、トルコ共和国を建国したムスタファ=ケマルが基盤としたのがアンカラ政府(大国民議会)であったことを覚えていると、アナトリア半島であるということを類推することは可能。

 

問16 ③ 

:イギリス東インド会社の拠点は、ボンベイ・マドラス・カルカッタ。

【解説】 

①ムガル帝国の最大領域はアウラングゼーブの時。

②チョーラ朝は前期がBC3CAD3C、後期が9世紀~13世紀で、ヨーロッパの進出する前。

④従来、象を主戦力としていたインドであったが、ヴィジャヤナガル王国は騎兵への切り替えを進めて馬を輸入した。

 

問17 ① 

:ヘロドトスの『歴史』はペルシア戦争を描いたものだが、この時のペルシアはアケメネス朝。トゥキディデスの『歴史』がペロポネソス戦争を描いていることと区別すること。

 

問18 ① 

【解説】

②古代ローマの貴族はパトリキ。平民がプレブス。新貴族はノビレス。騎士はエクイテス。

③門閥貴族が力を持っていた唐代と違い、宋代には新興地主層である形勢戸が科挙を通じて官戸となり、教養を備えた地主貴族層である士大夫階級を形成した。その背景に、趙匡胤による文治主義と科挙改革(殿試の導入など)があったことに注意。

④貴族は第二身分。第一身分は聖職者。

 

問19 ③ 

:フランクリン=ローズヴェルトのニューディール政策では、生産過剰と価格下落に対処するためのAAA(農業調整法)とNIRA(全国産業復興法)とともに、TVA(テネシー―川流域開発公社)による雇用拡大が図られた。

①アメリカは第一次大戦で債権国となった。金融の中心はロンドンのシティ(ロンバード街)からニューヨークのウォール街へうつった。

②アメリカでは南北戦争後の南北経済圏統一による工業化の進展の中で、1880年代ごろから独占資本が形成され始めるが、革新主義は独占資本の肥大化と政治腐敗を制限しようとするもので、セオドア=ローズヴェルトにより打ち出された。これを引き継いで「新しい事由」を打ち出したウィルソン政権のもとでクレイトン反トラスト法(1914)が成立する。

④米英戦争は別名を第二次独立戦争ともいい、アメリカ北部のイギリスからの経済的自立を促した。

 

問20 ③ 

:ベトナムは一時明の永楽帝の支配下にあったが、黎朝の時に独立を回復した。

①モザンビークはポルトガル領。本国で起こった革命(カーネーション革命1974)の影響で独立。

②ギリシアは1821-29のギリシア独立戦争を経て、オスマン帝国から独立した。

④シンガポールはマレーシアから分離独立した。(1965

 

問21 ① 

:スターリング=ブロックというイギリスの経済ブロックを形成したのはオタワ会議(1932)。これにより、イギリスは自治領ならびに植民地と特恵関税などによるブロック経済のもとで貿易を進めることになるので、カナダとの貿易額は拡大されることが予想されるので、折れ線はaが正しい。

 

問22 ② 

:テキサスはメキシコからテキサス共和国として独立した後、合衆国に併合された(1845)。これに反発したメキシコとの間に米墨(アメリカ=メキシコ)戦争(1846-48)が発生し、負けたメキシコはアメリカにカリフォルニアとニューメキシコを割譲した。

【解説】

①イングランドとスコットランドの合同はアン女王統治下の1707年。

③トリエステ・南チロルなどの未回収のイタリアをめぐり争ったのはイタリアとオーストリア。

EFTAECへの参加を拒否されたイギリスが形成した自由貿易連合で、ECSCとは関係がない。

 

問23 ①  

aの地図はカルロス1世(カール5世)の頃のハプスブルク家で、スペイン、ネーデルラント、ミラノ、ナポリなどを領有している。Bはマリア=テレジアの頃のハプスブルク領で、オーストリア、ベーメン、ハンガリー、南ネーデルラントを領有している。

 

問24 ④ 

:バルカン戦争などを通してセルビアやロシアと対立したオスマン帝国は第一次世界大戦では同盟国側についた。

1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国が失うのはオスマン帝国領ハンガリーなど。エジプトは少なくともムハンマド=アリーが19世紀に事実上の独立を果たすまではオスマン帝国領。

②カピチュレーションはオスマン帝国がフランスなどの外国商人に与えた通商特権。

③テマ制はビザンツ帝国の制度。

 

問25 ② 

【解説】

①サンチャゴ=デ=コンポステラへの巡礼熱が高まるのは9世紀ごろから。

③ピルグリム=ファ-ザーズはイギリスの国教会支配を嫌ったピューリタンの集団。

④マンサ=ムーサはマリ王国の王。

 

問26 ① 

1260年、マムルーク朝はバイバルスなどの活躍でイル=ハン国の軍をアイン=ジャールートの戦いで撃破した。

【解説】

②イェルサレムはアイユーブ朝のサラディンが奪回して以来、一貫してイスラーム勢力の支配下にある。(ただし、フリードリヒ2世が一時的に交渉により期限付きで回復している時期がある)

③・④マムルーク朝の支配領域を考えた場合、あり得ない。

 

問27 ④ 

:アッバース朝カリフの権威が弱まると、すでにアッバース朝カリフの権威を否定してイベリア半島に成立していた後ウマイヤとともに、エジプトを中心とする北アフリカを支配するファーティマ朝もカリフを名乗って、三カリフ鼎立の時代となった。

【解説】

①ピラミッド建設は古王国時代。

325年のニケ―ア公会議はアタナシウス派を正統、アリウス派を異端とした公会議。

③むしろ法家思想。

 

問28 ① 

【解説】

②カイロネイアの戦いではマケドニアのフィリッポス2世がアテネ・テーベの連合軍を打ち破った。

③テミストクレスはサラミスの海戦で活躍した人物。アクティウムの海戦はオクタウィアヌスがアントニウスを打ち破り、プトレマイオス朝滅亡へとつながった戦い。

④デロス同盟の盟主はアテネ。

 

問29 ③ 

:ピピンの寄進は756年。判断の仕方としては、ピピンの父であるカール=マルテルの時代のトゥール=ポワティエの戦いは西ゴートを滅ぼしたイスラーム勢力(ウマイヤ朝)との戦いなので、ピピンの寄進は西ゴート滅亡よりも後。また、ピピンの子のカール大帝の戴冠が800年、またアルクィンはカール大帝の進めたカロリング=ルネサンスにおける文化人なので、ピピンの寄進はアルクィンの没よりは前。

 

問30 ③ 

【解説】

①『愚神礼賛』はエラスムス。ラブレーは『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』の作者。

②全権委任法はドイツのヒトラーが1933年に成立させた法律。

④ヘシオドスは神々の系譜を整理した『神統記(テオゴニア)』や労働の尊さを示す『労働と日々』の作者。喜劇による政治風刺で有名なギリシアの文化人はアリストファネスで『女の平和』や『女の議会』が有名。

 

問31 ① 

:呉楚七国の乱は、前漢の景帝の時代に進められた中央集権化に反発した諸王の反乱。この反乱を鎮圧したことにより郡国制から実質的な郡県制へと移行し、中央集権化が進んだ。こうしたなかで前漢の最盛期を迎えるのが武帝の時代。

【解説】

②三省・六部は唐の律令国家体制におけるもの。

③土木の変は明代、オイラートのエセン=ハンに明の正統帝が捕虜とされた事件。1449年。

④八王の乱は西晋の時代の内乱。

 

問32 ④ 

:朱子学では、従来の儒教が重視した五経に代わって、『大学』・『論語』・『孟子』・『中庸』の四書が重視された。

【解説】

①顧炎武は考証学の学者。陽明学は南宋の陸九淵の思想を王陽明が引き継いで成立した学問。

②韓愈や柳宗元といった唐代の文人は、魏晋南北朝期の貴族文化や四六駢儷体ではなく、それ以前の力強い文体である古文の復興を唱えた。

③『四庫全書』は清の乾隆帝の命によるもの。

 

問33 ③ 

726年にビザンツ皇帝レオン3世が出した聖像禁止令は東西教会の対立を激化させた。

【解説】

①平城郊外の雲崗にあるのは仏教遺跡。

②ミトラ教は古代ローマで流行した宗教。

④イル=ハン国のガザン=ハンの時にイスラームに改宗した。

 

問34 ③ 

:ラーはエジプト。インカはペルーに成立した古代文明。

 

問35 ② 

①ピサロが滅ぼしたのはインカ。アステカはコルテスによる。

③ポトシは銀山。

④トルデシリャス条約(1494)はスペインとポルトガル間の条約。

 

問36 ③ 

:ゲルニカの爆撃はスペイン内戦中。


 今年度の早稲田の法学部論述も300字(250字以上)となりました。2016年の入試以降、3年連続で300字論述が出題されたことになりますので、この形式はほぼ定着したと言っても良いかと思います。

 また、今回の論述もかなり「東大くさい」出題となりました。いわゆるロシアの「南下政策」については、東大ではたびたび出題される頻出問題です。つい最近でも、2014年の「ロシアの対外政策とユーラシアの国際情勢」が記憶に新しいところかと思います。以前、早稲田の法学部の出題傾向でもお話ししましたが、東大の問題をマイナーチェンジしたような出題がされることが多いので、東大の過去問(特に大論述)に目を通しておくことはわりと役に立つ気がします。また、2017年の問題解説で「今回はイギリスを中心に複数の要素を抱えるテーマについて説明するという形のものでしたが、場合によってはむしろ地理的に広い範囲のもの同士の関係を問う(いわゆるグローバルな展開の)設問が出題される可能性もあると思います」とお話ししていましたが、今回の設問はまさにその通りの形になりました。同じ「南下政策」でもバルカン方面に視点を集中させるのではなく、東アジア方面に目を向けろ、と言うことですね。ただ、それ以外の部分では特に大きな注意点はないかと思います。ロシアの南下政策の基本をおさえた上で、東アジア方面でのポイントを示せれば良いわけですね。「東アジア」ですので、字数的にも2014年の東大で要求されていた「中央アジア」の部分については(原則)示す必要がありません。ロシアの「南下政策」のような言葉は使われる文脈によって何を意味するかが変わってくるので、注意が必要です。

難度で言えば昨年の問題の方が難しかったかと思います。

 

 ちなみに、「東アジア」というのはユーラシア大陸の東部にあたるモンゴル高原、中国大陸、朝鮮半島、台湾などの「極東」と呼ばれる地域とほぼ同義です。私が世界史で説明するときにはおおまかに「東アジア=日中韓」で説明します。地理的には以下の地域です。


1

Wikipedia「東アジア」より)

 

 もっとも、地理的な概念も同じく幅や揺れのあるものですから、使われる文脈によっては変化します。例えば、外務省のHPでは東アジアとして以下の地図が示されていたりします。これはつまり、日中韓を含む極東地域を「北東アジア」、その南にあるインドシナ半島やマレー半島、フィリピン、スマトラ、ジャワなどを含む地域を「東南アジア」として全体を「東アジア」としてとらえているということです。

2

(外務省HPより)

 

 もっとも、世界史で東アジアをこうした形で認識することはまれですので、みなさんは「東アジア≒日中韓(+台湾・モンゴル)」で理解してもらってそれほど差し支えありません。いずれにしても、論述を解く際には「設問の要求にこたえる」ことが最優先になりますので、個々の言葉・用語がどういう意味をもっているかをとらえるということはとても重要です。時代だけでなく、「東アジア」、「中央アジア」、「南アジア」などの地理概念が世界史ではどのような意味で使われているかということには普段から注意を向けておく必要があると思います。

 

早稲田大学法学部世界史2018年論述問題

(問題概要・解説とポイント)

 

【問題概要】

・時期は18世紀から19世紀末(17011900

・同時期のロシアの「南下政策」の経緯を示せ

・同じく、ロシアの「東アジア進出」について示せ

・指定語句を全て用いよ(クリミア戦争/サン=ステファノ条約/ベルリン条約/北京条約)

・指定字数は250字から300

・指定語句には下線を付せ。句読点、数字は1字に数える。

 

問題の全文は早稲田大学の入学センターのHPにもありますし、各予備校が公開していますので、そちらも参照してください。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

 設問の要求

:設問の要求は明快です。ただし、時期には注意した方が良いでしょう。問題文を正確におこすと、<18世紀から19世紀末までの時期におけるロシアの「南下政策」の経緯と「東アジア進出」について>説明せよとなっています。ですので、よく出てくる19世紀のロシアの「東方問題」だけではなく、18世紀の進出についても言及しなくてはならない点はきちんとおさえておきましょう。

 

【解答手順2:南下政策の経緯をまとめる】

 ロシアの南下政策については、大枠をしっかりとらえておくことが良いかと思います。18世紀以降ということになると、その大枠は以下の通りです。

 

① 18世紀

 エカチェリーナ2世のときにクリミア半島に進出(キュチュク=カイナルジャ条約)

② 19世紀

  不凍港と地中海への出口を求めて、

  A:ウンキャル=スケレッシ条約でボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡の独占通行権を得た、かと思いきや

  B:その後のロンドン会議、クリミア戦争後のパリ条約で挫折し、

  C:露土戦争後のベルリン会議で再度挫折した

 

ものすごく単純化すると以上のようになります。ロシアの南下政策と東方問題の詳細については「2014年東大の問題解説」と、「あると便利なテーマ史⑦(東方問題とロシアの南下政策)」に述べてありますので、こちらをご参照ください。

 

ちなみに、地理的な情報としてクリミア半島を示しておきます。


3

 
  赤い丸で囲まれた部分がクリミア半島です。青い丸で囲まれている部分は問題の中で言及されていたアゾフ海になります。また、オレンジ色で囲んだ部分にあるのがボスフォラス海峡、緑色で囲んだ部分がダーダネルス海峡になります。ギリシア独立戦争でロシア・トルコが締結したアドリアノープル条約や、同じくロシア・トルコが締結した相互援助条約であるウンキャル=スケレッシ条約などで通行に関する諸権利を得た部分です。見ての通り、黒海からエーゲ海(地中海方面)に抜けるための超重要な海峡です。

 

【解答手順3:ロシアの東アジア進出についてまとめる】

続いて、ロシアの「東アジア進出」についてまとめます。厳密にいえば、ロシアの東方への進出はすでに17世紀のピョートル1世の頃(ネルチンスク条約)から始まっています。18世紀には、1727年のキャフタ条約やベーリングのカムチャッカ・オホーツク探検などもありますが、字数や設問の意図を考えても、本設問では省いてしまって良いと思います。

「東アジア進出」の中心になるのは指示語にも見られる「北京条約」と「旅順」でしょう。ここでいう北京条約は1860年にロシアがアロー戦争の仲介を行ったことで清との間に締結した露清間での北京条約のことです。また、「旅順」については日清戦争後の三国干渉と、その後のロシアによる租借を思い浮かべればよいかと思います。ですから、この設問での「東アジア進出」は、教科書や参考書でよく出てくる(露清)北京条約締結にいたるまでのロシアの動きと、日清戦争後のロシアの南下についてまとめれば十分、ということになります。

 

<露清北京条約締結までの流れ>

1847 ムラヴィヨフの東シベリア総督就任

1858 アイグン条約:アロー戦争(1856-1860)に乗じて結ぶ

 ‐アムール川(黒竜江)以北をロシア領に

 ‐沿海州が清とロシアの共同管理に

1860 (露清)北京条約:アロー戦争の講和を調停した見返り

 ‐沿海州がロシア領に→ウラジヴォストークの建設開始

 

<三国干渉とロシアの南下>

 1895 三国干渉:ロシア・フランス・ドイツの圧力により日本が遼東半島を清に返還

    乙未事変:ロシアを背景に権力奪回を図ろうとした閔妃を日本が暗殺

 1896 東清鉄道の敷設権獲得→露仏同盟以降建設が進められていたシベリア鉄道と連結

 1898 遼東半島の旅順・大連を租借

 

 それぞれ、地理情報を掲載しておきます。まず、したの赤丸で囲まれた部分が沿海州です。現在はロシア領となっています。「海沿いの州」なので、ある意味わかりやすいネーミングです。ちなみに、この沿海州の西の境にはウスリー川(ウスリー江)が流れていて、現在の中国とロシアの国境となっています。1969年に発生した中ソ国境紛争の舞台となったダマンスキー島(珍宝島)はこのウスリー江の中州です。

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(沿海州)

 また、下の地図はロシアが敷設権を獲得した東清鉄道の本線と支線を簡略化した図です。青い色の支線のうち、長春‐旅順間は日露戦争後のポーツマス条約で日本へと譲渡され、これが南満州鉄道(満鉄)になります。

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(東清鉄道)

 
ロシアは17世紀末から日本にも進出しています。日本も「東アジア」ですから、もし字数に余裕があったり、上記の内容が思い出せないようでしたら、以下のことに言及するのも手ではあります。ただ、指示語からうかがえる設問の意図は明らかに上に書いた「北京条約」や「三国干渉」だと思われますので、下に挙げたものは何も書けないときの緊急避難的なものだと思ってください。

 

<日本周辺へのロシアの進出>

1792 ラクスマンの根室来航と大黒屋光太夫の帰国

1804 レザノフの長崎来航

1855 日露和親条約

1875 樺太千島交換条約  など

 

【解答例】

 18世紀にトルコに勝利したエカチェリーナ2世は、キュチュク=カイナルジャ条約でクリミア半島を奪った。19世紀には、ギリシア独立戦争やエジプト・トルコ戦争に介入し、ボスフォラス・ダーダネルス海峡を通る地中海への出口を確保したが、ロンドン会議やクリミア戦争の敗北で妨げられた。その後、露土戦争に勝利しサン=ステファノ条約で再度南下を図ったが、列強とのベルリン条約で挫折した。東アジアでは、アロー戦争に乗じた北京条約で沿海州を獲得し、ウラジヴォストーク建設に着手した。日本の開国後、樺太にも進出し、三国干渉の見返りとして旅順・大連を租借し、東清鉄道の敷設権を得て、露仏同盟後に建設したシベリア鉄道と連結させた。(300字)

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