世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

各校の過去問対策、受験対策のほか、世界史を理解する上で役に立つ視点や勉強法についての情報を随時更新していきます。

以下のような方はとくにオススメ!

・東大、一橋などの国公立や早稲田、慶応の受験を世界史で考えている。
・論述対策を進めたい。
・教科書やプリントだと不足している情報が多すぎて、背景にあるつながりが見えない。
・『詳説世界史』などを読むだけでは気づけない、専門的な歴史的視点を養いたい。
・世界史を覚えるのが苦手で、どうやって勉強したらよいのかわからない。
・世界史の教員になりたてだが、西洋史が専門ではないので少し突っ込んだ知見を知りたい。

※ 目標に向けて頑張る受験生の皆さんの一助になればと思って頑張って更新し、情報もチェックしておりますが、人間ですのでミスなどが出ることもあります。当サイトの情報をご利用の際はあくまでも自己責任でお願いいたします。

※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw また、大手予備校のHPからも閲覧できるかと思います。正規の問題が手元にあった方がわかりやすいと思います。


上智のTEAP利用型が始まって今年で5回目の試験になります。上智は2015年度からTEAPを活用した試験を導入してきましたが、この試験では世界史が採用されていて、さらにかなり本格的な史料読解と論述試験が採用されています。試験が始まってまだ歴史が浅く、試験の傾向分析にどの程度の意味があるのかは難しいところではありますが、TEAP型試験の情報があまりにも少ないので、簡単にまとめてみたいと思います。各年の問題分析については別途準備が整い次第UPしていきたいと思います。

先に申し上げておきますと、私は上智の世界史については「ん~?」となることがとても多く、良し悪しはともかくとしてはっきり言って嫌いですw それはなぜかと言いますと、おそらく私が実際に上智の試験(たしかできたてほやほやの地球環境法学部だったかとおもいますが…)を受験した際、世界史を解きながら「こんなのは世界史じゃねぇ!」と憤ったことが原因なのではないかと思います。ちなみに、今でも覚えているのはこんな問題でした。

 

・イタリアの国旗の色は右から順に何色か。次から選べ。

 ① 赤、白、緑  ② 緑、白、赤 …

・ローマの緯度とほぼ同じ都市を次のうちから選べ。

 ① 名古屋  ② 仙台  ③ 秋田  ④ 函館

 

みたいな感じだった気がします。いや、まぁ、イタリアくらいはいいんですよ。わかんねえことはないですからね。ちなみにこれ。

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でも、ローマの緯度はなぁ。あ、選択肢は適当につくりましたが、確かあんまり区別つかないようなところが選択肢だったんですよ。ちなみに、答えは函館です。(北緯41度)

 上智では、最近はそこまででもないのかもしれませんが、かつてはこんな感じでコツコツコツコツ世界史を積み重ねて「おれは英語と数学できねぇから世界史で稼ぐしか手がねぇんだよ」みたいに世界史に期待をかける人間を崖から突き落とすような問題を出すことがたまーにある(そして英語が鬼のように重い。上智だから当たり前―w)もので、あんまり好きじゃありませんw 私大向けの授業でもあんまり上智扱いませんw 個人的な好みの問題なので勘弁してください。(大学としてはとても良い大学だとうかがっていますw 学生が勉強面で苦労する大学は良い大学でしょう、きっと。)

 

 ですから、このTEAP型についてもちょっと後ろ向きだったのですが、受験生がたびたびこの問題の解説を聞きに持ってくるに及んで、「しょうがねぇ、やるか」ということで取り組んでみました。ところが、取り組んでみると意外に「使えそうだ」ということに気づきます。TEAP利用型の問題は、小問には特別見るべきものはありませんが、論述については意外に一橋に通じるものがあります。どの辺がかというと、史料を読ませ、その史料の内容と世界史の知識を合わせて適切な解答を用意するというプロセスが、近年の一橋の論述問題の一部と似ています。史料を読ませる、という意味では東京外語の問題とも似たところがありますが、外語の問題よりも史料に依拠する割合が高いですね。また、外語の小問数が多いのに対して上智の小問数は少なく、論述が占める割合が非常に高くなっています。おそらく、今後一橋の受験生を教える際には上智のTEAP型は良い練習として取り入れていくことになるでしょう。年によって良し悪しはありますが、全体的に論述問題としてはよく練られていて、質はかなり高いと思います。(個人的に、史料を読み取らせるタイプの設問は作るのが難しいことを知っているというのと、史料扱うのが好きなことからそう思うのかもしれませんが。)

 過去5年分の上智TEAP型の設問データは以下の通りです。

 上智TEAP出題傾向1

(時間・設問数・論述字数と全体のテーマ)

 上智TEAP出題傾向2

(論述問題内容一覧)

 

 設問の形式はわりとコロコロ変わりますね。大きな変化としては2018年から60分問題であったものが90分問題に変化した2019年の試験時間も90分だったと聞きましたが、一応後で確認を取りたいと思います)ことでしょうか。これはまぁ、無理もないでしょう。特に2017年の問題で60分は鬼の所業だと思いますw TEAPを利用して受けようという受験生で「世界史得意」っていう人はあんまりいない(勝手なイメージですが、普通英語に自信があるからTEAP利用するのでは)でしょうし、600字近い論述を含んで小問付き60分はあんまり余裕なかったのかなぁという気がしますね。こころなしか、2017以降の問題はだいぶ内容的にわかりやすくなっています。小問については、たしかに決して簡単ではないのですが、早慶上智を受けるレベルの受験生であることを考えれば、基礎とまでいかなくても解けて然るべき問題かなというレベルです。問題数が少ないことを合わせて考えても、やはり小問で取りこぼしはしたくないですね。

 全体のテーマも論述も近現代史が中心です。今のところは18世紀以降しか出題がされていません。また、地域としてはヨーロッパとその周辺が主ですね。アジア・アフリカでも植民地史や独立のプロセスなどはしっかり追っておくべきでしょう。小問などで結構出ています。テーマ自体は一橋よりも東大や外語に親和性がある気がします。2016年のスペイン領と13植民地の「対照的な」という表現は1998年東大のアメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国の対照的発展についての問題とそっくりですし、2018年のヨーロッパ統合の「加速」・「抑制」要因という表現は、2006年東大の戦争の助長要因と抑制要因についての問題を思い出させます。絶対とは言いませんが、出題側も一度は東大ほか他大の問題にひととおり目を通しているのではないですかね。

 

 対策ですが、ヤマはるんだったら近現代史やってくださいw 私大の過去問としては慶應の経済、法や早稲田の政経、法あたりは活用できるでしょう。論述の練習としては、東大過去問や東京外語過去問、あるいは論述用の問題集のうち近現代史をあつくやっておく方がよさそうです。一橋などの過去問は形式面で似たところもありますが、テーマが異なる部分も多いので上智のTEAP利用対策として一橋を解くのはおすすめめしません。もちろん、これまでの傾向がそうだからといって、これからもそれが続くわけではありません。一度でも中世史や古代史が出れば過去5年の傾向と対策なんてガタガタもいいところですからねw まんべんなくやっておくのが他の併願校対策にもなって結局は一番力になると思います。

記事中の特にエクセルベースで作成した図表の方が開くと読み取れない状態になっていますが、順次修正していきます。(とりあえず東大の出題傾向と2018-2014解説については修正済みです)

 2017年の東大大論述はある意味では珍しく、ある意味では東大らしい設問となりました。珍しかったのは、東大で古代史が出題されたことです。東大大論述で古代史が出たのは2001年のエジプト通史と1999年のイベリア半島史以来です。ただ、これもエジプトについては5000年の歴史を、イベリア半島についても2000年近くに及ぶ歴史を述べる中で古代も含まれる程度のもので、正面から古代を取り扱ったものではありませんでした。それ以前ということになると、1995年に出題されたローマ帝国の成立からビザンツ帝国滅亡までの地中海とその周辺地域における諸文明の交流と対立を問う問題までさかのぼることになりますので、実に20年以上も扱われていなかったことになります。このあたりを考えてみても、いわゆる問題の「傾向」なるものは傾向に過ぎないのであって、その年に何がテーマになるかを「予想」することは難しく、仮に当たったとしてもそれは偶然に過ぎないわけです。(もちろん、ある程度確率を高めることはできるのでしょうが、第2問、第3問があること、多くの人は私大を併願することを考えれば、「予想」に頼ってヤマはるよりも、きめ細かい学習を進めた方が無難な気がします。近現代史をあつく学習すべきなのは当然ですが。)当日、問題を見た受験生たちはきっと面食らったかと思います。ローマと春秋戦国ということですから、テーマとしては古代史の中でも頻出の部分なので、そこまでは身構えなかったかもしれませんけれども。

東大らしい、と感じた部分はまずテーマが「帝国」であったことです。これについては以前から東大が意識している大テーマとして「帝国」があるということは指摘してきましたので、ある意味納得のテーマではありました。もう一つ、東大らしい部分はこの設問に二つの仕掛けが施されていることですね。「二地域の(比較)」と「社会変化」という部分です。この部分が示す内容をしっかりと理解して、その要求に対してきちんと応えられたかどうかで、似たようなことを書いていたとしても点数はかなり変わったと思います。

 

【設問概要】

・時期:BC2C以後(ローマ)

    春秋時代以後(春秋時代含む、BC770~:黄河、長江流域)

・「古代帝国」が成立するまでの二地域の社会変化を論ぜよ。

 

(ヒント)

・各地域社会の歴史的展開は一つの法則の枠組みに収まらない(違いがある)

 Ex. 「帝国」統治者の呼び名の登場する経緯の違い

・指示語:漢字 / 私兵 / 諸侯 / 宗法 / 属州 / 第一人者 / 同盟市戦争 /

 

 設問自体は比較的短く、あっさりしたものですが、内容の方は読み解くのがかなり手ごわいです。焦って取り掛からないことをおすすめします。まず、最も重要なのは「社会変化を論ぜよ」ということは「政治変化(のみ)ではない」ということです。ここをはき違えて政治変化ばかり述べるとおそらく点数は伸びないと思います。ですから「犬戎の侵入で都が鎬京から洛邑(陽)に遷って春秋時代となり、覇者は尊王攘夷を掲げてどーたら、戦国時代には戦国の七雄がうんたら」などと書いてしまうとほとんど点が入らないことになると思います。設問が求めているのが、政治なのか、経済なのか、文化なのか、社会なのか、あるいはそれらのうち複数なのかを確認する作業は東大の大論述を解く際の基本であり、作法のようなものです。

 次に重要な点は古代帝国が成立する「まで」とありますので、「帝国期は(厳密には)含まない」ということを確認することが大切です。ローマでいえば、せいぜいオクタウィアヌスがプリンケプスを称するあたり、黄河・長江流域であれば秦王政が始皇帝を名乗るあたりまでですね。ですから、パクス=ロマーナとか五賢帝とか焚書坑儒とか言ってはいけません。

 また、「二地域」ということに注意するべきです。これはつまり、両者の間に「違いがある=比較できる」ということを暗示しています。東大の好きな比較の視点ですね。これは、リード文が従来は「帝国」というものが「法則的な」ものと見られていたけれども、実際には各地域社会がたどった歴史展開は一つの法則の枠組みにとどまるものではなく、大きな違いがあるものだ、という趣旨のことを語っていることからも明らかです。つまり、東大はこれまではモデル化されて語られてきた帝国だが、実際には違いがあることをローマと中国(黄河・長江流域)を例にとって示せ、と言っているわけです。ですから、設問に「比較せよ」と書かれていなくても比較の視点で両者を分析してその違いを示さなくてはなりません。

 

【手順1:各時期のフレームワークを確認】

 いきなり両地域の社会変化を思い浮かべてみても良いのですが、ローマと春秋戦国という頻出箇所であることを考えれば、政治史が中心になってしまうかもしれませんが、まずは大きな流れを確認してみましょう。

 

(ローマ):BC200~帝政成立まで[BC27]

 ローマで要求されているのは、共和政の時期ですが、この時期はいろいろなことが入り組んでいる複雑な時期ですので、まずは全体像をとらえてみましょう。

古代ローマ

 すんげぇアバウトですけど、でもまぁ、上の赤い部分が対象となる時期ですね。この時期にどんなことがあったのか大まかにまとめてみたいと思います。

 

BC2Cはすでに半島が統一され、属州経営が始まる頃

:第二次ポエニ戦争(BC219-201)がちょうどBC3Cの末期です。ということは、ローマはすでにシチリアを、そして新たにヒスパニアを属州として統治し始める時期ですね。ポエニ戦争は三度にわたって展開されますが(BC264-241218-201149-146)、第一次でシチリアを、第二次でヒスパニアを獲得し、第三次でカルタゴ本国を滅ぼします。また、この第三次ポエニ戦争の頃にローマはマケドニアとギリシアが合わせて属州とされます。合わせて覚えておくと時期を確認しやすいと思います。

 

・平民の政治参加は進み、新貴族(ノビレス)が登場する頃

:紀元前3世紀のローマでは、すでにリキニウス=セクスティウス法(BC367)、ホルテンシウス法(BC287)などが制定されて平民の政治参加が進んでいます。平民からもコンスルになるものが出始めましたが、当時のローマ官職は無給でしたから、実際に高官につき、ノビレスとなる者たちの数は少なく、プレブス(平民)の富裕層に限られました。こうしたノビレスたちは属州統治による大土地所有(ラティフンディア)で奴隷を酷使し、そのための徴税請負人としてエクイテス(騎士)と呼ばれる新興の商人たちが使われました。さらに、権力維持のために市民の支持拡大を必要としたノビレスと、ノビレスからの経済的援助や保護を必要としたプレブス下層の人々の間には相互依存関係が成立し、次第にノビレスの保護を受ける代わりにノビレスのために働く被保護者層(クリエンテス)と呼ばれる人々が形成されていきます。親分と子分みたいな関係ですね。こうした取り巻きが形成されると、次第に貴族感の対立が激化していくことになります。

 

・属州統治、ラティフンディア経営による貧富差拡大とグラックス兄弟の改革の失敗

:紀元前2世紀頃から、ローマは獲得した属州でラティフンディア経営を展開します。そのきっかけになったのはポエニ戦争です。上述した通り、ポエニ戦争ではシチリアやヒスパニアなどの広大な土地を属州として獲得します。こうした土地は原則としてローマが公有地として所有することになるのだが、その多くは富裕な市民に貸し出されることになりました。この借り受けた公有地に奴隷を投入してブドウやオリーブ、穀物などの食糧生産を行ったのがラティフンデイア(単数形はラティフンディウム)です。

 ラティフンディアでは奴隷という安価な労働力の使役、大規模で効率的な農場経営によって、中小規模の農民たちが作る作物よりも安価に作物を栽培することが可能でした。こうしてつくられた安価な穀物がローマに流入すると、中小農民は太刀打ちすることができません。結果、多くの中小農民は没落して土地を失い無産市民化します。対して、貴族(パトリキ・ノビレス)はそうした没落農民の土地を吸収してますます大土地所有を拡大します。このようにして市民間の貧富差が拡大してくわけです。また、それまで自腹を切って重装歩兵としての装備をととのえて市民軍の中核を担ってきた農民たちの没落は、そのままローマ市民軍の弱体化を意味していました。

 こうした中で、貧富差の拡大を抑えてローマの弱体化を防ごうと改革を行ったのがグラックス兄弟です。グラックス兄弟(ティベリウスとガイウス)の改革は「貴族による大土地所有を抑えて農民層の没落を防ぐ」ということにつきます。このために兄ティベリウスはかつてのリキニウス=セクスティウス法の「公有地占有は500ユゲラ(約125ヘクタール)までとする」という規定の厳格化を打ち出します。(この法の公有地占有の部分は長い間に半ば死文化していました) しかし、こうした改革(BC130sBC120sごろ)は元老院議員をはじめとする保守派や貴族の反感を買い、兄弟の改革は失敗しました。その結果、ローマの構造的な弱体化(共和政の原則の崩壊[政治の寡占化進行]、農民層の没落と貧富差の拡大、市民軍の弱体化、市民権をめぐる不平等など)はさらに進み、内乱の1世紀へと続いていきます。

 

・内乱の1世紀(シチリア奴隷反乱、同盟市戦争、平民派・閥族派の争いなど)

:すでに示した通り、ローマはその内部に構造的な問題を抱えていました。さらに、その問題を解決しようとしたグラックス兄弟の改革が挫折したことから、続く1世紀にはその問題が顕在化し、噴出します。「内乱の1世紀」です。内乱の1世紀は時期としては通常、グラックスの死からオクタウィアヌスによる帝政の開始までを指しますが、その開始の時期と終わりの時期については議論があります。また「内乱の」とあるのでどうしても国内の反乱事件などに目が行きがちですが、実際には共和政が危機にさらされて国内が動揺した時期のことを指しますので、そのような視点でこの時期にローマを動揺させて事件を列挙すると以下のようになります。

 

 ・シチリアの奴隷反乱(BC139

 ・ティベリウス=グラックスの死(BC133

・同盟市戦争(BC91-88

・マリウス(平民派:ポプラレス)とスラ(閥族派:オプティマテス)の闘争

 ・スパルタクスの反乱(BC73-71

 ・第1回三頭政治(BC60-49)

 ・カエサルの独裁と暗殺(暗殺がBC44

 ・第2回三頭政治(BC43-32)

 ・アクティウムの海戦とプトレマイオス朝エジプトの滅亡(ヘレニズム世界の終わり)

 ・元首政(プリンキパトゥス)の開始(BC27

 

(中国):BC770~秦による統一[BC221]

 中国についてはローマほど複雑ではないと思います。実際、解答を作ってみたらローマ7、中国5くらいの割合になりました。世界史の教科書レベルで載っている春秋戦国時代の情報はそこまで多いわけではありません。いきなり社会変化を見るのも難しいと思いますので、まずはこの時代に何があったのかということだけ確認するところから始めます。

 

・周の東遷と春秋時代の始まり(BC770

・春秋五覇の出現と「尊王攘夷」

:封建制による支配を作り上げた周は、BC770年に北方の遊牧民犬戎により都であった鎬京が落とされ、幽王が殺害されたために東の洛邑(後の洛陽)へと遷都します(周の東遷)。しかし、周王室の力は衰え、かわって諸侯が力を持ち、一部の諸侯は他の諸侯に対する指導的立場を確立して「尊王攘夷(周王室を支え、異民族を打ち払うこと)」を唱えて覇者となりました(春秋の五覇)。春秋の五覇は諸説ありますが、「管鮑の交わり」の名宰相管仲が支えたことで有名な斉の桓公や、長い亡命生活の後で晩年に覇者となった晋の文公が有名です。このあたりのことについては横山光輝『史記』を読むとわかりやすく面白いと思います。

 

・晋の三分と戦国時代の開始(BC5C~)、下剋上

:周王室の血をひく晋(かつて晋の文公が覇者となった国)が、家来筋にあたる韓・魏・趙によって三分された時から戦国時代が始まったと言われています。春秋時代の末期からは、それまでの「尊王攘夷」にかわり「下剋上」の風潮が強くなっていました。諸侯の下には卿・大夫・士と呼ばれる家臣がいたわけですがこれらの家臣の力が諸侯を凌駕したり、上下関係が崩れ始めて、それまでの封建制にほころびが見られるようになったのです。

 

 

・諸子百家の出現、法家の登場と秦の統一

:戦国時代にはいわゆる戦国の七雄(斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙)が現れてしのぎを削りますが、こうした諸国は富国強兵によって他国に勝る力を得ようとします。こうした中で、春秋時代の末期から戦国時代にかけて旧来の社会秩序が変化し、新しい道徳・世界観が求められるようになると諸子百家と呼ばれる思想家が出現し、一部の人々は国政に関わるようになります。

このうち、西方の秦を強国に押し上げたのが法家と呼ばれる思想家たちでした。秦の孝公の時代、法家の商鞅は「商鞅の変法」と呼ばれる改革を断行し、什伍の制という隣保組織をつくり、軍功爵により功績次第で爵位を与える実力主義をとり、一部では郡県制がすでに実施されました。商鞅は孝公が亡くなると改革に反対した保守派によって殺害されますが、秦の強国化の基盤をつくり、さらに秦王政の時代には李斯が登場して法家改革が進められていきます。このようにして徹底した実力主義と中央集権化を進めた秦は、BC221年に中国を統一しました。

 

【手順2:社会変化として挙げられるものを列挙】(最重要)

【手順3:「変化」として見られる部分を意識】(重要)

 さて、手順1では設問の扱う時期にどんなことがあったのかをローマと黄河・長江流域のそれぞれに分けてみてきましたが、それだけだは本設問の解答を作ることはできません。なぜなら、本設問が求めているのは「社会変化」であって、政治的な事柄のみを求めているからではないからです。言ってみれば、手順1で示した内容しか書かれていない解答は「あまり点数の入らない解答のお手本」のようなものになってしまいます。

 そこで、全体の流れを確認したら続いて絶対に行わなければならないのは、この時期に起こった社会変化はどのようなもので、全体の流れとどのように関連しているのかを確認することです。ですから、手順1の作業は極めて短い時間で確認する必要があります。早ければ1~2分、長くても5分弱でしょうか。ここでは解説や予備知識をご紹介するために長々と書いていますが、実際にはすべてを思い浮かべる必要はありません。中国については、手順1で頭に浮かべる必要があるのは下の表程度のことです。

春秋戦国

 このくらいであれば、短期間で確認することは十分可能なはずです。さて、それでは最も時間をかけて確認すべき「社会変化」について、どのようなものがあるかをローマと黄河・長江流域について確認していきましょう。

 

(ローマ)

・属州の獲得、奴隷制とラティフンディアの拡大

:これがローマ共和政期の社会を変える根本とも言っていい部分だと思います。ラティフンディアの拡大は、すでに述べた通り大きく分けて二つの影響を与えました。

 

①ノビレス・エクイテスなどの新しい社会階層の台頭と、貧富の差の拡大

②属州からの安価な穀物流入によるローマ本国の中小農民の没落

→市民軍の弱体化(かつては軍備を自弁する強固な市民軍)

 

この二つが大きな部分ですが、個々から派生して様々な変化が生じます。

 ・大土地所有の進展と貧富の差の拡大

→ノビレスの登場とパトリキとの階層同化

・政治権力の貴族層(パトリキ、ノビレス)による独占

・貴族層と平民の相互依存(パンとサーカス)

 

・分割統治や奴隷制に対する不満と内乱

:さて、ラティフンディアの拡大とは別に、当時のローマは人々の権利をめぐり大きな問題を抱えていました。そのうちの一つが分割統治によるローマ市民権をめぐる不平等です。ローマはローマ人と同等の市民権を与える「植民市」、一部の権利(自治・民法)が認められたが、軍事・裁判権はローマに握られていた「自治市」、諸権利を剥奪されていた「同盟市」などを支配下に置いていましたが、こうした待遇の差に不満を感じた同盟市は紀元前BC91-BC88年にかけて同盟市戦争を起こしました。最終的にはスラによって鎮圧されましたが、この後イタリア半島にすむ自由民全てがローマ市民権を持つことになります。教科書などにはあまり出てきませんが、同盟市戦争によって都市国家ローマのあり方は以下のように大きく変化していくことになります。

①都市国家ローマが本格的な領域国家へ

(都市ローマが他都市を支配するのではなく、半島内全ての都市市民が「ローマ人」)

②民会が実質的な機能不全に陥る

(各地の「ローマ人」がローマの民会に参加することは事実上不可能)

③ローマ法の適用される範囲が劇的に拡大

(「ローマ人」に対しては「ローマ法」が適用される→万民法としての発展の端緒)

 

・軍の「私兵化」と権力闘争の拡大

:ローマの軍の弱体化が進んでいく一方で、各地では反乱や対外戦争が頻発していました。先の同盟市戦争もそうですが、それ以前にもシチリアの奴隷反乱、キンブリ=テウトニ戦争(BC113-101:異民族キンブリ人・テウトニ人との戦争)、ユグルタ戦争(BC112-106:ヌミディア王ユグルタとの戦争)が、また同盟市戦争以降にはスパルタクスの反乱(BC73-71)がありました。

 こうした中、特にキンブリ=テウトニ戦争とユグルタ戦争に際してコンスルとなったマリウスは大規模な軍制改革を実施します。それまでの自弁で武具を持ち寄る市民軍制度から、国家が武器を配布し、志願者を統一的に訓練、指揮する志願兵制度へと変え、これにより没落していた無産市民を職業軍人として再編成することに成功します。このことは、弱体化していたローマ軍を立て直すことにつながりましたが、一方で装備や給与を支給し、日々の保護をしてくれる有力者のもとに兵が集中し、「私兵化」する現象が起こり、その結果政治的な権力闘争は武力を背景とした激烈なものへと変化し、マリウス(平民派)とスラ(閥族派)の対立へとつながっていきます。また、大土地所有、貴族(パトリキ・ノビレス)としての家柄、クリエンテスによる支持、私兵化された軍などの基盤を得た一部の政治家が発言力を増大させることにつながり、政治の寡占化が進んでいきます。後の二度にわたる三頭政治やカエサルの独裁などもこのような背景の中で現れてきます。

 つまり、「平民派VS閥族派」や、「三頭政治」、「カエサルの独裁」といったことは、ただ並べても政治的な事実の羅列にすぎず、「社会変化」を述べたことにはなりません。しかし、ローマの社会変化が軍の私兵化につながった結果、政治の寡占化へとつながったという文脈で語った場合、これらの政治的事実は「社会変化によるローマ共和政の変化」として強力な説得力を持つことになります。同じ歴史的事実でも、どのように述べるかが大切だというのは、つまりはそういうことなのです。

 

・地中海世界統一

:さて、紀元前2世紀から紀元前後に至る時期はローマの支配拡大が続き、地中海世界の統一が進められていく時期です。もちろん、本格的に地中海世界全体の統一が進んでいくのはその後のパクス=ロマーナの時期ですが、すでに紀元前1世紀頃にはその前提となる動きは生じていたと考えるべきでしょう。たとえば、交易圏の拡大です。プトレマイオス朝が滅亡するのがBC30ですから、まだアジア方面までは進出していません。(インド洋の季節風交易が始まるのは紀元前後からと言われています) ただ、地中海沿岸地域の交易が盛んになっていたことは想像に難くありません。また、それにともなう貨幣経済の発展と浸透も見られたことでしょう。さらには、ローマ支配が拡大するのかでラテン語圏の拡大なども見られたと考えることができます。

 

(中国)

・農業技術の改良(鉄製農具、牛耕)と農業生産力の向上(超重要)

:中国については、この部分が非常に重要です。もしかすると、これが書けていない場合には中国の部分ではほとんど点数が入らないのではないか、というくらいの根本となる変化です。ここにしっかり気づいたか、そうでなかったかで大きな差がつくものと思われます。教科書には書いてありますし、学校の先生がプリントを作るとしたらめちゃくちゃ強調する部分でもあるので、知らないということはないのでしょうが、政治史を中心に考えてしまったり、一問一答系の学習に慣れてしまっていると、こうした社会変化や経済変化は目立たないので見逃してしまうかもしれません。この農業技術改良と生産力の向上によって起こった社会変化には以下のようなものがあります。

 ①生産単位の縮小(宗族単位から家族単位の経営へ=氏族共同体の解体)

→宗族、宗法の影響力低下

②商工業の発展

 →都市の成長、青銅貨幣の流通

ちなみに、この時期の中国の社会変化に関する問題としては、1991年東大の第2問に3行問題で春秋戦国期の技術上・経済上の変化が出題されています。

 

 

・邑制国家の崩壊と領域国家の形成(諸侯の権力と国力の強化、富国強兵)

:さて、上述のような社会変化は政治の分野にも及んできます。というよりも、当時の政治自体が宗族といった氏族共同体と密接に関連したものですから、それが変化すれば否応なしに政治の在り方も変わっていくことになります。宗族の解体は、宗族のつながりを基本単位とする邑制(ゆうせい)国家の崩壊へとつながります。「邑制国家」というのは殷や周に代表されるように、数多くある邑(都市国家)の連合体として成立していた国家のことを言います。周の封建制も、周王が支配する邑と、諸侯の邑との相互の支配被支配関係のもとに成り立っています。また、諸侯の邑についても、その配下にある小邑と同じような相互関係を結んでいて、一種のネットワークによって国家としての体を為しています。周王は、諸侯にたいして命令を発し、諸侯はそれに従いますが、周王が諸侯の邑の内部についてあれこれ口出しをしたり、諸侯の配下にある小邑を直接管理するといったことはされません。中身には大きな違いがありますが、モデル化すると何となく社団国家に近い気もします。

 さて、各邑を構成しているのは宗族と呼ばれる氏族共同体です。氏族共同体って言われてもいまいちイメージわきづらいのですが、血縁で結ばれた大規模な集団ですよね。日本史でいうところの物部氏とか蘇我氏とかをイメージするとわかりやすいのでしょうか。昔は農作業の効率が悪いので、少ない人数で細々と農業やっても食べていけません。そこで、治水するにしても作業するにしてもそこに住んでいる人々全員で取り掛かる必要があります。かれらは数人単位の家族ではなく、数十人とか数百人とかからなる一族であり、部族です。ここからはじまれては食べていけませんから、宗族の掟(宗法)には厳格に従わなくてはなりませんし、ものすごい影響力を持ちます。邑っていうのは基本的にこの宗族によって形成されているわけですね。

 ところが、農業生産力が向上すると、必ずしも宗族単位で行動しなくても食べていけるようになります。十数人程度の家族単位(戸)でも食べていけるとなると、宗族の掟に絶対服従をしなければならないということはなくなっていきます。こうした流れの中で宗族などの氏族共同体が解体すると、それまではそれなりの自立性を維持していた小さな邑は力を失っていきます。そこに、より大きな力を持っていた諸侯が、各戸単位の支配の強化に乗り出すと、諸侯の命令がよりダイレクトに各戸、各個人に届く支配体制が形成されていきます。これがつまり、邑制国家の崩壊(諸侯が自立性の強かった旧来の邑の支配を強化)であり、都市国家の連合体から領域国家への変化です。

 このような社会全体の変化は、そこに暮らす人々の認識も大きく変えていくことにつながります。宗族的つながりを強く意識していた春秋時代には「尊王攘夷」が貴ばれていましたが、次第に人々は「下剋上」の風潮を持つようになります。また、それまでの社会道徳が通用しない中で諸子百家が登場し、戦国の世を生き抜くために諸侯はこうした諸子百家を招いて新たな思想を統治に活用しようと試み、富国強兵を進めたわけです。

 

・秦による統一、中央集権の完成と中国的な専制支配体制の成立

:戦国の七雄のなかで、最終的に強国化を達成して中国を統一することになったのは秦の王である政でした。秦は各国に先駆けて中央集権化を強力に推し進めた国で、中国を統一した後はそれまでの封建制に代わる郡県制を導入して徹底した中央集権と専制政治を進めていきます。それを象徴しているのが始皇帝という称号であり、度量衡や文字(小篆)、貨幣(半両銭)の統一でした。

 

【手順4:「二地域」の相違は何かを意識】(重要)

 以上がローマと中国の社会変化に関わる部分です。特にローマの社会変化に関しては有名な部分でもあるのでわりと書けた受験生が多いと思います。ですが、中国については農業技術の変化を氏族共同体の解体から邑制国家の崩壊へつなげることができなかった受験生の方が多かったのではないでしょうか。

 さて、最後に二つの地域の相違として考えられることは何か、検討してみたいと思います。これについてはリード文の方にすでにヒントが示されています。つまり、「各地域社会がたどった歴史的展開は一つの法則にあてはまらない」のであり、まずは両地域の社会変化を丁寧に述べることから始めましょう。さらに、両地域ではどちらも「帝国」が成立するが、「<帝国>統治者の呼び名が登場する経緯にも大きな違いがある」とあります。ですから、なぜローマでは「プリンキパトゥス」であり「プリンケプス」だったのか、なぜ中国では「始皇帝」だったのかその経緯に違いがあると言っているわけです。その違いについて考えてみると、概ね以下のような違いになると思います。

 

(ローマ)

:政治的寡占化は進むが、権力者と「市民」は相互依存関係にある。また、「市民」は法によって権利義務関係がはっきりと定められている。

→オクタウィアヌスは元老院からアウグストゥスという称号は送られるものの、元老院や市民に対する配慮から「第一の市民(プリンケプス)」を名乗る必要がある。

 

(中国)

:秦による統一は氏族社会の解体によって生じた戸という小さな民衆単位に対する支配権を諸侯が強化し、中央集権化が進んでいく中で達成され、統一した秦も郡県制を通して徹底した中央集権化と専制支配を展開した。

→諸侯をしのぎ、絶対的な権力を握った専制君主としての称号、「始皇帝」を名乗る

 

 表現の仕方はいろいろあると思いますが、この二つも、単に片方が「プリンケプス」で片方が「始皇帝」だと書くだけでは違いを示したことにはなりません。そのような名乗りをした背景には何があったのかという点について、どこまで社会変化と結びつけて論ずることができるかということが大切になります。また、こうした理由から私は本設問の解答では「アウグストゥス」を示すよりは「プリンケプス(第一の市民)」または「プリンキパトゥス(元首政)」の語を示すことを優先するべきだと思います。

 

【解答例】

 ローマ属州で拡大した、奴隷を用いた大規模農場経営であるラティフンディアの安価な穀物の流入は、中小農民の没落と市民軍の弱体化を招いた。属州の徴税請負を担ったエクイテスや、大土地所有と政界進出により貴族化したノビレスが出現し、貧富差拡大と権力寡占化が進んだ。市民権独占や奴隷制が抱える矛盾は内乱の形で噴出し、同盟市戦争後に市民権が拡大され、ローマ法拡大の端緒となった。内乱鎮圧のためのマリウスの兵制改革は軍の私兵化と権力闘争を招き、平民派と閥族派の抗争や三頭政治の原因となった。権力は市民の支持に依存したため、権力者は食と娯楽を提供し、オクタウィアヌスは市民の第一人者を自称する元首政を開始した。地中海世界統一と産業力向上は交易圏拡大につながり、貨幣経済が発展し、ラテン語やギリシア語が各地に広がった。一方、鉄製農具の使用や牛耕の開始により農業生産を向上させた黄河・長江流域では、生産単位縮小により宗族や宗法の影響力が低下し氏族共同体が解体した。また、商工業や都市が発展し、青銅貨幣が流通した。諸侯は自立性の強かったに対する支配を強化して周王朝からの自立性を強めたため、封建制は動揺し、諸侯の方針も尊王攘夷から下剋上へと変化した。諸侯は諸子百家を登用し富国強兵を進めたが、中国を統一した秦王政は、分裂していた度量衡や文字の統一を進めて漢字文化圏形成の基礎を築き、始皇帝を称して集権的専制支配を展開した。(600字)

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