先日は2017年一橋の大問1向けに作成した予想問題のうちの一つをご紹介しましたが、続けてこちらも賞味期限切れではありますが、大問2(または3)向けに作成したもののうちの一つをご紹介したいと思います。先ごろ、東大向けに何か気になるテーマはありませんかというご質問にお答えした中でも言及したパン=イスラーム主義(パン=イスラム主義)に関する設問です。これに絡めて問題を作れないかなぁということで作ってみました。使用している史料の出典は同じく、岩波の『世界史史料』からのものです。(http://history-link-bottega.com/archives/11994047.html

 

【問題】

以下の(A)、(B)の二つの史料を参考に、続く問いに答えなさい。

 

(A) アブデュル=ハミト2世『政治的回顧録』(執筆年代不詳)

 

 カリフ制とシーア派

 

 イスラーム主義の本質を考えるとき、われわれは結束を強化すべきである。中国、インド、アフリカの中央部をはじめ、全世界のムスリムたちはお互いに密接な関係になることに有効性がある。このような時に、イランとの相互理解がなされていない事態は残念なことである。それゆえ、ロシアおよび英国にもてあそばれないように、イランはわれわれに接近することが重要である。

わがユルドゥズ宮殿で知識ある人として高名なセイド=ジェマレッディンは「スンナ派とシーア派は、誠実さを示すことによって統一は可能である」と私に進言して希望を持たせてくれた。もしこの言葉が実現すればイスラーム主義にとって崇高な状態をもたらすだろう。

 

(B) ユスフ=アクチュラ『三つの政治路線』(1904年刊)

 

 オスマン帝国において、西洋に感化されつつ、強化と進歩への願望が自覚されて以来、主として三つの政治的路線が構想され追求されてきたと私は考える。その第一は、オスマン政府に属する多様な諸民族を同化し、統一して一つのオスマン国民(ミッレト)を創出すること。第二には、カリフ権がオスマン朝の君主にあることを利用して、すべてのイスラーム教徒を上述の政府の統治下で政治的に統一すること(西洋人が「パン=イスラミズム」と呼ぶところのもの)。第三に、人種に依拠したトルコ人の政治的ナショナリティを形成することである。(中略)

 すなわち、オスマン国民は、オスマン国家のすべての民族の意思に反して、外国の妨害にもかかわらず、オスマン政府の指導者の何人かが、いくつかのヨーロッパ諸国…を頼って創出しようとしたものなのだ!(中略)要するに、国土の内外でこの政策[オスマン国民の創出]に全く適合しない環境が生じた。それゆえ私の考えでは、もはや、オスマン国民の創出に努力するのは、無駄な骨折りなのである。(中略)

 トルコ人の統一という政策の利益についていえば、オスマン帝国のトルコ人は、宗教的かつ人種的な紐帯によってきわめて緊密に、単に宗教的である以上に緊密に統合されるだろう。(中略)しかし、本質的で大きな利益として、それは、言語、人種、慣習、さらには大多数の宗教でさえ一つであり、アジア大陸の大部分とヨーロッパの東部に広がるトルコ人の統一に…寄与するだろう。また、この大きな集合体においてオスマン国家は、トルコ人社会の中で最も進歩的で最も文明的であることから、最も重要な役割を演ずるだろう。

(中略)オスマン国民の創出は、オスマン国家にとって利益があるが、実行不可能である。ムスリムあるいはトルコ人の統一に向けた政策は、オスマン国家にとって、利益と不利益が同等と言えるほど含まれている。実行面については、容易さと困難さはやはり同程度と言える。

それでは、そのどちらの採用に努めるべきであろうか。

 

問い

 

 19世紀以降、西洋諸国の進出に対抗するためにオスマン帝国はタンジマートをはじめとする諸改革を実行したが、19世紀後半になると様々な政治的・対外的混乱に巻き込まれて西欧諸国の植民地主義に十分に対応することはできなかった。こうした中で、オスマン帝国では史料中にもみられるように、様々な形で帝国の統一と強化を進めることを模索した。史料中に見られるアブドュル=ハミト2世の治世以降、オスマン帝国ではどのような理念のもとに国家の再編をはかり、それはどのような政治的展開をもたらしたかを説明しなさい。また、この19世紀末の政治的展開に始まるその後の変化は、20世紀前半までに長く続いたオスマン帝国を消滅させるにいたるが、この過程において(B)の史料中の下線部に示された「オスマン国民(ミッレト)」、「すべてのイスラーム教徒を上述の政府の統治下で政治的に統一すること(西洋人が「パン=イスラミズム」と呼ぶところのもの)」、「トルコ人の政治的ナショナリティ」がどのように関連を持つか、当時の思想的潮流と政治的展開に留意した上で論じなさい。

 

【解答】

 タンジマート以来の西洋化が進む一方で、諸民族の分裂が問題となったオスマン帝国では、統一を保つため「オスマン国民」意識の創出が試みられたが、多民族国家で、非イスラームにミッレトを通して一定の自治を認めていた帝国で共通の国民意識を創出することは困難だった。露土戦争を口実にミドハト憲法を停止したアブデュル=ハミト2世は皇帝専制を復活させ、パン=イスラーム主義を利用し帝国の再統一を図ったが、反動政治を嫌う人々はこれを保守的なものとして批判し、パン=トルコ主義を掲げて対抗した。青年トルコ革命でアブデュル=ハミト2世が退位するとこの傾向はさらに強まったが、これはバルカン半島などの非トルコ諸民族の反発をかった。第1次大戦後にスルタン制を廃止しトルコ共和国を成立させたムスタファ=ケマルは、民族主義と共に世俗主義を掲げてカリフ制を廃止し、イスラームの宗教的支配から政治・文化・教育を解放する西欧化を目指した。

400字)

 

【設問の要求とその前提】

 おそらく、お気づきになる方もいるのではないかと思いますが、この問題は問いとしては少々「くどい」ですw それというのも、これはそもそも「解かせる」ことを想定して作った問題、というよりはオスマン帝国末期の政治状況と当時の思潮を意識・整理させることを目的として作った問題だからです。

 オーストリアとカルロヴィッツ条約(1699)を締結してからのオスマン帝国の縮小・衰退の流れについては受験生にとっては必須の箇所ですから、いろいろとご存じの方も多いと思いますが、全体像や大きな流れとして語りましょう、といったときに流れるように話せる人はかなり少ないのではないでしょうか。どうしても、クリミア戦争や露土戦争などに目がいってしまい、オスマン帝国内部の変化からその衰退を語る視点というものはなかなか持てない受験生が多いように思います。

 そうした、オスマン衰退史について語ると本設問の論述ポイントから離れてしまいますので、それは別稿に譲ることにしますが、19世紀のオスマン帝国はその「分裂」に悩まされていました。宮廷とその周辺においては既存の保守勢力と西洋的な教育を受けた「新オスマン人」と呼ばれる人々の間の対立があり、一方で地方においてはイルティザーム制の導入以降力をつけたアーヤーンなどの地方勢力の自立化が見られました。

 こうした国内の混乱の中で、アブデュル=ハミト2世が即位します。そもそも、彼がスルタンに即位したのも、皇帝専制を目指すスルタン側と改革を目指す新オスマン人との間の軋轢の結果でした。アブデュル=ハミト2世の叔父にあたるアブデュル=アジーズは、オスマン帝国の西洋化・近代化を進める一方、断固として皇帝専制の維持を考えたために、これに不満を持った改革派であるミドハト=パシャをはじめとするグループによって退位に追い込まれます。このあたり、中国(清)の末期の「中体西用」とか「保皇派vs革命派」の雰囲気と似通ったところがありますね。アブデュル=アジーズを退位させたミドハト=パシャは、かねてから新オスマン人に理解を示してきたアブデュル=ハミト2世の兄であるムラト5世を即位させます。ところが、ムラト5世は即位後まもなく精神疾患によって退位を余儀なくされました。その結果、やむなくミドハト=パシャはムラト5世の弟であったアブデュル=ハミト2世に即位を要請します。

 このような事情があったことから、新しくスルタンになったアブデュル=ハミト2世と新オスマン人の間の関係はかなり微妙なものでした。アブデュル=ハミト2世にしてみれば、自分がスルタンになれたのはミドハト=パシャをはじめとする改革派のおかげですから、これを無視するわけにはいきません。一方で、改革派の側でも、紆余曲折を経てスルタンの位につけたアブデュル=ハミト2世ですから、この機嫌を損ねて再度政治的な危機を招くわけにもいきません。こうした中で制定されたミドハト憲法はある意味で両者の妥協の産物でした。アブデュル=ハミト2世は確かに改革派の言をいれた憲法の公布を認めましたが、その中で彼は「国益に反する人物を国外追放する権利」などの強力な君主権を残すことに成功します。その結果、アブデュル=ハミトはミドハト=パシャに反感を持つ保守派政治家と協力してミドハト=パシャを追放し、憲法を停止することに成功しました。その結果、アジアで初めて成立した立憲制はわずか1年ほどで終わり、アブデュル=ハミト2世による専制支配がはじまったのです。

 

 本設問に出てくる史料は、こうした前提のもとで読まなくてはなりません。その上で、本設問の要求を整理してみましょう。

 

①    アブデュル=ハミト2世の治世以降、オスマン帝国ではどのような理念のもとに国家の再編をはかったか。

②    ①の結果、どのような政治的展開をもたらしたか。

③    アブデュル=ハミト2世の治世から20世紀前半にオスマン帝国が消滅するにいたるまでの間に、史料中に登場する「オスマン国民」、「パン=イスラミズム」、「トルコ人の政治的ナショナリティ」はどのような意義をもったか。

 

あまり詳しく書くと問いをただ繰り返すだけになってしまいますので、少し大胆に要約すれば、上の3つにまとめることができます。その上で、史料の読解を進めてみましょう。

 

【史料の読解】

1、アブデュル=ハミト2世の『政治的回顧録』から読めることは何か

・イスラームの連帯=パン=イスラーム主義

:史料中には「イスラーム主義の本質を考えるとき、われわれは結束を強化すべきである」、「全世界のムスリムたちはお互いに密接な関係になることに有効性がある」など、イスラームの連帯を説いていることが読み取れます。

 

・列強に対抗する手段としてのパン=イスラーム主義

:さらに「ロシアおよび英国にもてあそばれないように」など、イスラームの連帯を通して列強の侵略に対抗する意図があることも読み取れます。

 

・宗派の壁を越えて、トルコと同様に英露の侵略をうけるイランへの呼びかけを図る

:「イランとの相互理解がなされていない事態は残念なことである」、「スンナ派とシーア派は、誠実さを示すことによって統一は可能である」など、イランとイスラームを紐帯とした協調関係を築こうとする意図が見えます。アブデュル=ハミト2世の統治していた頃、イランのカージャール朝は財政破綻から英露に王朝利権を切り売りせざるを得ない状況が続き、国民の不信をかっていました。こうした中で起きたタバコ=ボイコット運動がパン=イスラーム主義の影響を受けていたことはよく知られていますが、当時の時代状況と史料との関連を読み解くことが大切。

 

2、ユスフ=アクチュラの『三つの政治路線』から読めることは何か

・三つの政治路線とは「オスマン国民」の創出、「パン=イスラミズム」、「トルコ人の政治的ナショナリティ」の形成の三つ

 

・「オスマン国民」とは、オスマン政府の名のもとに多様な諸民族を同化すること

 :つまり、オスマンの分裂の原因であった多様な民族の混在の原因を、諸民族の同化によって根本から絶つことを意図しています。その際、同化の中心にあるのは「オスマン政府」であり、これはつまり「オスマン帝国に所属していること」を根拠としてそこに住まうものはみな同じく同化されるべきであるという発想です。ところが、これについてアクチュラは「実行不可能である」と言い切っています。これは、当時オスマン帝国内の諸民族がその文化、宗教などの違いから分裂傾向にあったことを考えれば、現実的ではないと考えるのは無理もないことです。アクチュラによれば、「オスマン国民」という概念は「オスマン国家のすべての民族の意思に反して、外国の妨害にもかかわらず、オスマン政府の指導者の何人かが、いくつかのヨーロッパ諸国…を頼って創出しようとしたものなのだ!」と述べており、オスマン帝国の分裂を避けたいオスマンの指導層による無理な創出物に過ぎないと指摘し、「オスマン国民」という単一の民族・国民の創出は現実的に不可能であることを主張しています。

 

・「パン=イスラミズム」は、全てのイスラームを政治的に統一するが、オスマン朝はこれを自身の権力の強化に利用しようとしていること

 :アクチュラは、パン=イスラミズムについて「カリフ権がオスマン朝の君主にあることを利用して」とオスマン朝のスルタンがスルタン=カリフ制を利用してイスラームの連帯を隠れ蓑に自身の専制政治の強化を図っていることをはっきりと認識しています。史料中にそれについての言及はほとんどありませんが、アブデュル=ハミト2世の『政治的回顧録』や彼の政策(ミドハト憲法の停止、アフガーニーの招聘、皇帝専制の強化など)、そしてその後の青年トルコ革命などを思い浮かべれば、アクチュラがパン=イスラミズムに対して期待を寄せていないであろうことは想像がつきます。

 

・トルコ人という「人種」に依拠した政治的ナショナリティの形成は、オスマン帝国の利益になる

:まず、アクチュラはトルコ人という「人種」に依拠した政治的ナショナリティの形成に言及していますが、これは後に青年トルコなどが主張する「パン=トルコ主義」の主張と同じです。そして彼は、この「パン=トルコ主義」は「オスマン帝国内のトルコ人」を「宗教的かつ人種的な紐帯によってきわめて緊密に」統合するであろうと主張し、「言語、人種、慣習、さらには大多数の宗教でさえ一つであり、アジア大陸の大部分とヨーロッパの東部に広がるトルコ人」を含めた連帯を可能にするであろうと主張します。つまり、トルコ人の民族主義はオスマン帝国内の連携強化に資するだけではなく、より大きな政治的勢力を形成してヨーロッパに対抗しうるし力を持つという主張です。アクチュラが目指していたのがこの「パン=トルコ主義」の採用にあったことは史料から明らかであると言えるでしょう。

 

【採点基準】

以上の史料読解と設問の要求から、以下のような内容を盛り込むことが必要となります。

 

①    オスマン帝国では、「オスマン国民」の創出や「パン=イスラーム主義」などを利用した国家の統一を、オスマン政府(またはスルタン)が中心となって展開してきたこと。

②    しかし、こうした主張はオスマン帝国内の諸民族の自立という現状の下では無力であり、またアブデュル=ハミト2世の専制強化とパン=イスラーム主義の利用は、オスマン帝国内ではかえってパン=イスラーム主義に対する否定的な評価を生み出すもとになってしまったということ。

③    史料の読解を通して、「オスマン国民」、「パン=イスラミズム」、「トルコ人の政治的ナショナリティ」の意味するところを正確に読み解き、これらを当時のオスマン帝国の政治状況と結びつけること。

④    最終的には、「パン=トルコ主義(トルコ人の政治的ナショナリティ)」に傾倒する青年トルコによって立憲革命が達成されたこと。

⑤    行き過ぎた「パン=トルコ主義」はオスマン帝国内のトルコ民族以外の諸民族の反発を買い、最終的にトルコ人はトルコ共和国を建国して諸改革を行ったこと。

 

正直なところ、⑤まで要求するのはどうかなとも思うのですが、設問の方に「20世紀前半までに長く続いたオスマン帝国を消滅させるにいたるが」とありますので、設問の射程が青年トルコ革命で終わりなのではないということは明らかかと思います。まぁ、あくまでも練習用に作成したものですので、これが本番の試験に出てどうこうということではないのですが、作成している側としては面白い設問でした。