世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

2016年08月

[設問概要]

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

 問題の概要は以下の通り。

 

・「ナポレオンによるドイツ支配からドイツ帝国の誕生にいたるまでの歴史的過程」を250字から300字で説明せよ。

・条件1:オーストリアの歴史的役割に留意しなさい。

・条件2:指定語句を列記した順に用い、所定の語句には下線を付せ。

    (指定語句:ライン同盟 / ウィーン体制 / 1848年革命 / ビスマルク)

 

【解答手順1:設問内容の確認】

:設問の要求はナポレオンによるドイツ支配~ドイツ帝国の誕生に至るまでの歴史的過程を記述せよというものです。「オーストリアの役割に留意せよ」という部分を以下に処理するかが問題となります。

 

【解答手順2、指定語句分析】

:簡単に指定語句についてまとめておくと以下のようになります。

 

1、ライン同盟

1806年にナポレオンが西南ドイツ諸邦支配のために結成させた傀儡同盟

 これを受けて神聖ローマ皇帝フランツ2世が退位し、神聖ローマ帝国が完全消滅した

2、ウィーン体制

181415年にかけて開催されたウィーン会議によって成立した国際体制

 メッテルニヒの主導によって成立した反動体制

 タレーランの提唱による正統主義と勢力均衡を基本原理とする

31848年革命

1848年に発生したフランス2月革命が各地へ波及

ベルリン3月革命・ウィーン3月革命

メッテルニヒ亡命、ウィーン体制の一部が崩壊

その後、ドイツではフランクフルト国民議会、ヨーロッパ各地でも自由主義と民族主義の運動が高揚

4、ビスマルク

:ヴィルヘルム1世によって宰相に任命される

自由主義的な議会と対立しながらも鉄血政策を推進
  (プロイセンによる「上からの統一」)

デンマーク、オーストリア、フランスを戦争で打ち破ってドイツ帝国を成立させる

 

3、関連事項の把握と必要事項の整理】

:それでは、指定語句にそって関連事項を整理していきましょう。設問では、「オーストリア」に注意するように言っておりますので、オーストリアの動きで特に関連するものは赤字で、その他のものでドイツ統一に深く関連する事項は青地で示していきます。双方に関連するものもありますが、ここではあまり気にしないでください。

 

A、ナポレオンのドイツ支配の開始

アウステルリッツの戦い(1805年)

ライン同盟の結成(1806年)

神聖ローマ帝国の消滅(フランツ2世の退位)

・イエナの戦いティルジット条約(1807年)

プロイセン領の削減とワルシャワ大公国成立

 プロイセン改革(シュタイン・ハルデンベルク)

ナショナリズムの高揚(フィヒテ)

 

 ナポレオンがドイツ支配を始めるためには、当時のドイツ地域における二大領邦であるプロイセンとオーストリアを撃破しなければなりません。また、この両国はフランス革命(1789)の起こった後にルイ16世を支援してフランスに干渉戦争をしかけてきていますから、その流れからしてもナポレオンは両国と敵対します。

 こうした中で、ナポレオンはオーストリアとロシアをアウステルリッツの三帝会戦(1805年)で撃破し、これがきっかけでオーストリアのドイツ諸邦に対する影響力が弱まると同時に西南ドイツ諸邦はナポレオンの占領下におかれました。そして、名目上神聖ローマ帝国に属していた諸邦にナポレオンが強制的に締結させたのがライン同盟です。ライン同盟の成立によって完全にその存在意義をなくした神聖ローマ帝国は、皇帝フランツ2世の退位をもってその幕を下ろします。

 つづいて、ナポレオンは北ドイツの雄、プロイセンをもイエナの戦い(1806年:またはイエナ=アウエルシュタットの戦い)で撃破します。これによりナポレオンはプロイセンの首都ベルリンに入城し、大陸封鎖令(1806年)を発してイギリスとの戦いに備えるのです。続く1807年にはナポレオンはティルジット条約をプロイセン・ロシアと締結して、プロイセンの領土の大幅な削減(エルベ川東岸はウェストファリア王国となり、ナポレオンの弟ジェロームが王となる。また、ポーランド分割で手にしていたプロイセン領ポーランドはワルシャワ大公国となり、ザクセン公が大公位を兼ねた)と、ダンツィヒの自由市化、ロシアによる大陸封鎖令の順守などが決定され、ドイツからポーランドにかけてはナポレオンの影響下に入ることになりました。

 

 ワンポイント

 勘違い、というか正確に把握していない受験生も多いのですが、当時のプロイセンとオーストリアは同じドイツ地域にありますが別の国(領邦)です。ですから、オーストリアを撃破したからといって自動的にプロイセンも支配下に入るわけではありません。プロイセンがナポレオンの影響下に置かれるのはイエナの戦いの後です。イエナの戦いでプロイセンを破ったからこそ、ナポレオンは「ベルリン勅令(大陸封鎖令)」を発することができるわけです。ベルリンはプロイセンの都ですから。また、この後のシュタインとハルデンベルクらによる「プロイセン改革」もあくまで「プロイセン」での出来事なのだということは確認しておきましょう。

 同じようなことは、1848年のベルリン3月革命やウィーン3月革命にも言うことができますね。つまり、当時はドイツ各地の領邦で同じような革命運動が起きていて、その代表的なものがプロイセン首都のベルリンやオーストリア首都のウィーンで起こったものなわけです。こうしたドイツ各地の自由主義者が集まって結成するのがフランクフルト国民議会、というわけですね。日本の幕末で言えば、西郷隆盛や桂小五郎に坂本龍馬といったお歴々が京都に集まってもし「議会をつくるどー」って言ったら京都国民議会、みたいなイメージでしょうか。

 

B、ウィーン体制(ワーテルローでのナポレオンの敗北による)

メッテルニヒ(オーストリア外相)が主導

オーストリアが国際協調を主導する中で、ドイツ連邦の盟主としてドイツへの影響力回復

(ただし、これはオーストリアがドイツ地域の支配権を手に入れたことを意味するのではなく、むしろ「勢力均衡」の縮図)

プロイセンは関税同盟(1834)をリストの提唱で結成=北ドイツの経済的統一進む

 

ウィーン体制は入試でも頻出の箇所で内容も盛りだくさんですが、ここではドイツ統一の過程を、オーストリアを中心に見ればよいので、関連する事項も絞られます。やはり、ここではオーストリアがこの会議を主導したことに注目した上で、ドイツ地域にどのような影響を及ぼしたかを考えるべきでしょう。

 その際、注目すべきはドイツ連邦です。ドイツ連邦は確かにオーストリアを連邦議会議長とするドイツ諸邦の連邦国家で、ライン同盟とフランスの影響力は消失しました。ですが、これはオーストリアが連邦に所属する諸邦を支配したことを意味しません。ホルシュタインの君主はデンマーク王国でしたし、ハノーファーはイギリス国王の実家です。むしろ、このドイツ地域は会議に参加した大国同士の「勢力均衡」の場とされ、ドイツ統一からはむしろ遠ざかるものでした。これは、ナショナリズムを嫌悪する多民族国家オーストリアの宰相となるメッテルニヒの目的にも敵ったものであったといえます。

 一方で、地域的な統合はまず経済面から達成されていきます。それが経済学者リストの提唱によって成立したプロイセンを中心とする北ドイツ諸邦の関税同盟であるドイツ関税同盟(1834)です。

 

C、1848年革命

・ウィーン体制の崩壊

・ドイツナショナリズムの高揚(ベルリン3月革命、ウィーン3月革命)

フランクフルト国民議会(大ドイツ主義と小ドイツ主義)

小ドイツ主義の勝利と、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の戴冠拒否によるフランクフルト国民議会の自然消滅と「下からのドイツ統一」の挫折

 

 フランス2月革命のあおりをうけて、それまで抑圧されてきた自由主義運動とナショナリズムが高揚、ドイツ地域ではフランクフルト国民議会による「下からの統一」が模索されます。

 この際、オーストリアを含む(大ドイツ主義)か含まない(小ドイツ主義)かが議論されましたが、多民族国家でドイツ統一によるナショナリズムの高揚が国家分裂につながりかねないオーストリアが統一ドイツに参加する見込みも立たず、議論は小ドイツ主義が優勢となり、国民会議はあらたな旗印としてプロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世にドイツ皇帝就任への要請を行います。しかし、革命的な自由主義者に国王であるフリードリヒが好意を抱いているはずもありませんし、まして彼らに担がれてオーストリアを敵に回すのもまっぴらごめんということで、この就任要請はすげなく断られてしまい、ドイツにおける「下からのドイツ統一」は挫折を余儀なくされてしまいました。

 

D、ビスマルクの鉄血政策とドイツ帝国の誕生(「上からのドイツ統一」の完成)

・フランクフルト国民議会によるドイツ統一の挫折「上からのドイツ統一」へ

・デンマーク戦争(1864

・普墺戦争(1866

ドイツ連邦の解体と北ドイツ連邦の成立(1867

オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立(1867

・普仏戦争(1870-1871

ナポレオン3世を破る(セダンで捕虜に)

アルザス・ロレーヌ獲得、ドイツ帝国の成立

  (オーストリアが統一ドイツから除かれる)

 

 あとは、ビスマルクとヴィルヘルム1世が率いるプロイセンによるドイツ統一の過程を書いていけばよいことになりますね。やはり注目しておくべきなのは北ドイツ連邦の成立と、オーストリア=ハンガリー帝国の成立、さらにドイツ帝国の成立でしょう。オーストリアに注目することを要求されている本設問では、やはりオーストリアが統一ドイツから除外されたことは強調しておきたいところです。

ここまでまとめられれば、以上のA~Dの内容を設問の要求に沿って整理していくだけになります。いろいろ情報があって取捨選択が難しいですが、「当初ナポレオンが支配を及ぼしたことで影響力をそがれたオーストリアが、ウィーン体制によって新たな国際秩序を築いたものの、自由主義とナショナリズムを抑えきれずにその体制も崩壊した。しかし、「下からの統一」も挫折した後に、鉄血政策によって国力を増強させたプロイセンがドイツ帝国を成立させてドイツ統一を成し遂げ、オーストリアはドイツ地域から除外された」(ちなみにこれで171字)のような大きな流れをつくってしまえば、あとはどこをどう肉付けするかという問題だと思います。できるだけ本論にそった事柄を選んで、余計な情報は極力カットしていかないと300字以内でまとめるのは難しいかと思います。頑張ってください。

 

3、解答例】

 ライン同盟の成立で神聖ローマ帝国が消滅したことで墺はドイツ地域への影響力を失ったが、ウィーン体制下ではドイツ連邦を成立させて影響力を回復し、自由主義やナショナリズムとともに高揚した統一への動きを抑圧した。一方、北ドイツではプロイセンがドイツ関税同盟結成で経済的統一を進めた。1848年革命の余波を受けて墺が混乱したことで、フランクフルト国民議会では小ドイツ主義による統一が模索されたが挫折した。その後、ビスマルクの鉄血政策を通して統一を進めていたプロイセンは普墺戦争に勝利して北ドイツ連邦を成立させてドイツ地域に影響力を拡大した後、普仏戦争に勝利しオーストリアを除くドイツ地域はドイツ帝国として統一された。(300字)

解答例はたしか自前でつくったはずですが、ちょっと昔過ぎて覚えていません。(解答例=2020.3.7追加) もし勘違いだったら消しますね。

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最近、私大でも論述問題が課せられることが多く、その対策に苦労しているらしい人たちからの相談が多いもので、早稲田の法学部と慶応の経済学部を中心に論述対策を行っています。まぁ、歴史的な知識と理解さえしっかり身につければ、各校ごとの対策というのは出題傾向の確認と練習程度の意味合いしかないのですけれどもw ただ、大学によっては出題傾向を把握してその周辺の歴史に強くなっておくことで、ある程度の耐性をつけることは確かにできると思います。「侮らず、過信せず」程度で考えておくのが良いでしょう。まして、「ヤマをはればイケる!」なんていうのは運任せのギャンブル的な発想ですね。嫌いではないですがw

今回は早稲田法学部の論述問題の紹介と出題傾向の分析、過去問の解説などを行っていきたいと思います。まずは出題傾向なのですが、下の表が早稲田の法学部で過去7年間に出題された問題のテーマです。

早稲田法論述一覧2010-16
 

[形式1]

 過去6年間では必ず大問5に設置されています。2010年から2015年までは一貫して200字以上250字以内という字数指定でしたが、昨年の問題では250字から300字と50字分量が増しましたただ、それも決して大きな変化とは言えず、基本的な形式に変化はありません。

[形式2]

 例年、4語の指定語句が示されています。設問の要求がかなりアバウトなこともありますので、この指定語句がないと論述の方向が定まらないこともあり、早稲田法学部の論述を解く上でこの指定語句の分析と整理は極めて重要になります。

[出題傾向1]

 大きく分けて、ヨーロッパ近現代史と中国近現代史から出題されています。時期的には16世紀以降を意識しておくとよいでしょう。内容も教科書や参考書の中で一大テーマとなるような重要な箇所が多く、あまりマイナーなテーマが出題されることはありません。

      東大のように非常に大きな枠組みを意識しないと解けないような広い視点も必要なく、一橋のように特定の分野についてやや深い歴史的理解や知識が求められることもありません。オーソドックスな問題で、よく言えばシンプル、悪く言えば単純でアバウトな出題になっていると思います。

[出題傾向2]

 あまり言い方は良くありませんが、東大や一橋で出題された問題をやや簡単にしてアレンジしたような出題がされることがあるように感じます。ですから、早稲田の法学部の論述を解いてしまって練習材料がなくなってしまった、ということがもしあれば、その時は東大の論述対策用テキスト(ベタですが、『東大の世界史25カ年』とか、『テーマ別東大世界史論述問題集(駿台受験シリーズ)』など)のうち、近現代史を重点的に練習しておくとよいでしょう。ここ7年の間、近現代史しか出ていないからといってそれ以外の範囲から出題されない保証はありませんが、仮に近現代史以外から出題されたとしても、だれでも一度は聞いたことのあるテーマからの出題になるでしょうから、基本的な知識さえまとめてあれば他の受験生に大きく差をつけられることにはならないのではないかと思います。

 

[解法・その他]

 基本的な解法としては指定語句を参考に関連事項を思い浮かべ、設問が求める解答へ導くために整理するという手順となります。設問に多少の変化が出たとしても、200字から300字程度で経過説明や背景・理由説明、結果・影響説明などを行う設問であると考えれば、特に戸惑う必要はなく、ブレイン・ストーミングからの整理、論述をいつもと同じようにこなせばよいでしょう。ただし、時間配分には注意すること。

内容としては、かつては一国史が多かったのですが、近年は近現代の国際関係を問うものなどが多く、複数の要素の対比や関係性を問おうとする出題者の意図が感じられます。正直、まだ過渡期にあるのではないでしょうか。東大などと比べると「まだ練れていないな」といった印象のある出題ですが、次第に洗練されてきている印象で、どこかでレベルが大きく変化するということもあり得るのかもしれません。早稲田は近年グローバル化への対応を大学全体で打ち出しているので、今後も国際関係史やそれに準ずる内容が出る可能性は高いと思います。

 

出題傾向については以上です。各年の過去問解説については早稲田大学法学部「世界史」論述対策(問題・解説と分析)をご参照ください。
 

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ここでは、教科書や参考書になかなかまとまった記述のないベーメン(ボヘミア)の歴史についてまとめていきたいと思います。教科書や参考書にあまり記述がないので、受験にも出ないと思われがちですが、このベーメンという地域はハプスブルク家との絡みで出題されることも多く、その際にぶつ切りの単語を覚えているだけよりは大きな流れを知っておく方が何倍も理解が深まり、実際の試験の場でも役に立つと思います。

 ベーメン、というと神聖ローマ皇帝やハプスブルク家という連想をしがちですが、神聖ローマ皇帝が常にベーメン王位を兼ねていたわけではないですし、ベーメン王位を常にハプスブルク家が継承していたわけでもありません。神聖ローマ皇帝位、オーストリア大公位やハンガリー王位と同様に、ベーメン王位は別に存在していたわけで、それを誰が継承したのかは時代によっても異なります。地域的に北方のポーランドなどとも以外に関わりの深い地域です。とはいっても、あまり深入りしてもきりがないので、簡単な通史を紹介した上で、注目すべきポイントをいくつか示しておきたいと思います。

 

[ベーメン王国の王朝の変遷]

まず、ベーメンの王位については、大きく4王朝の交代があったことを確認しておきましょう。

  プシェミスル朝(10c-14c

:建国、シュタウフェン朝の弱体化に乗じた拡大、東方植民の受け入れ

  ルクセンブルク朝(14c-15c

:神聖ローマ皇帝カール4世(カレル1世)によるベーメン王兼任

:ジギスムント(ニコポリスの戦い・コンスタンツ公会議、フスの火刑)

  ヤゲヴォ朝(15c-16c初)

:モハーチの戦い(1526)におけるラヨシュ2世戦死
(ラヨシュ2世はハンガリー王位も兼ねた)

  ハプスブルク朝:(15c16c~)

:ジギスムントの死後にハプスブルク家のアルブレヒト2世が一時ベーメン王となるが、フス派の混乱の中でヤゲヴォ朝に交代。モハーチの戦い以降再度ハプスブルク家のフェルディナント1世がベーメン王となった。

 

[ベーメン王国史]

8c-9c:チェック人がモラヴィア王国(建国者:モイミール)の支配下に入る

→10c初めにモラヴィアがマジャール人によって衰退してチェック人が自立

10c:チェック人(プシェミスル家)によるベーメン国家の成立、ベーメン公を名乗る

→11c後半に「ベーメン王」号を認められ、神聖ローマ帝国を構成する一部に

13c半ば:神聖ローマ帝国のシュタウフェン朝が弱体化し、かわってベーメン王国が強大化

ドイツ人による東方植民の積極的受入れと領内の開拓

  →神聖ローマ帝国内の最有力諸侯に
    (大空位時代にハプスブルク家を擁する諸侯と対立)

  

神聖ローマ皇帝をうかがうベーメン王

(オタカル2世)

VS

これを阻止する諸侯の推すハプスブルク家

(ルドルフ1世)

   

1278   マルヒフェルトの戦い

:オタカル2世の戦死

ベーメン(プシェミスル朝)の弱体化

14c:プシェミスル朝断絶ルクセンブルク朝の成立

  ベーメン王カレル1世が神聖ローマ皇帝に(カール4世)
   ・「金印勅書」でベーメン王を選帝侯に

・都プラハの繁栄、プラハ大学(カレル大学)の設立
   ・最盛期を迎えるも、ヨーロッパ全体としては戦乱・分裂期[百年戦争、大シスマ]

14c-15c:フス派の台頭

1414-1418:コンスタンツ公会議(神聖ローマ皇帝ジギスムントが主導して開催)

     ・大シスマの終了(1417

・ウィクリフ、フスの異端決定、フスの火刑

      ・フス戦争(1419-1436、フス派過激派 vs フス派穏健派 vs カトリック)

15c半ば:ハプスブルク家との対立の中でフス派のイジーがベーメン王に選出される

    フス派諸侯と教皇が対立する中で教皇派のハンガリー王マーチャーシュ1世(フニャディ朝)がベーメンの対立王に推されるが、急死

    ベーメン、ハンガリー地域の政治的混乱

1526:モハーチの戦い

   ・ベーメン王兼ハンガリー王ラヨシュ2世が戦死

(オスマン帝国のスレイマン1世に敗れる)

   後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世(カール5世弟)がベーメン王に

=ハプスブルク朝の成立

16c半ば:兄であるカール5世の退位に伴い、オーストリア大公にしてハンガリー王、ベーメン王であったフェルディナントが神聖ローマ皇帝フェルディナント1世として即位

    ベーメンはオーストリア=ハプスブルク家の一部に

1618:三十年戦争開始(ベーメンで新教徒の反乱)

反乱は鎮圧されて、以降はハプスブルク家の支配力が強化された

 

 

 以上がベーメンの簡単な通史です。普通の教科書や参考書では一連の流れがなかなかとらえづらいのでまとめ直してみました。必要があれば参考にして下さい。ベーメン史は特に一橋の受験を考える受験生には必須の(2016年時点では)知識かと思われます。一橋2011年の大問1などは良い例でしょう。また、17世紀以降のベーメン史については一橋大学過去問「世界史」2014年(問題、解答、解説・解法と分析の大問2の解説中に示しておきました。

 やはり、ポイントになるのはジギスムントとフス派や三十年戦争あたりでしょうか。そういえば、フス戦争を題材にした『乙女戦争』なるマンガがあるらしいのですが、なぜか本屋に行くと常に最新刊しか置いていないので、大人買い派の私としては未だに食指が動きません。個人的には、厳密にはハンガリー史ではあるものの、ハンガリーの水戸黄門ことマーチャーシュ1世が好きです。ハンガリーでその手の番組をやってたりしないのでしょうか


01

 

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思えば、一橋の問題について「あっ、これは今までと明らかに違う!」という印象をもったのはこの年からだったように思います。2014年といえば、大問2のエンゲルスの「歴史なき民」についての問題が有名で、試験直後にはコアなファンが出現するほどでしたw ただ、それを抜きにしても、それまでは「史料問題」と銘打ちながら史料自体にはそれほどの意味が付されていないことが多かった一橋の問題が、設問の本文や史資料の読解にはっきりと意味を持たせた出題に変化した、と感じました。それは、大問1のワット=タイラーの乱についての出題からもくみとることができます。ですから、この年の一橋の問題がある意味「伝説」になってしまったのは、そうした一橋大学の出題傾向の変化に対し、従来型の考えしかできなかった受験生が固まってしまった、というのが本当のところだと思います。これについてはすでに一橋大学「世界史」出題傾向2でも示してありますが、今後大きな変化がなければ、一橋大学の世界史の問題を解くにあたっては設問本文と史料の読解が重要なカギとなることは間違いないでしょう。

 

2014 

 問 題 概 要 

・まず、ワット=タイラーの乱について書かれた史料が歴史学研究会編『世界史史料 5』より引用されて紹介されています。内容を紹介すると以下の通り。

1、1381年の農民反乱は拡大し、国王に対していくつかの要求をつきつけた。

2、ワット・タイラーは国王に対し、以下の要求を行った。

-国王と法に対する反逆者を捕え、彼らを処刑する。

-民衆は農奴ではなく領主に対する臣従も奉仕の義務もない。

-地代は1エーカーにつき4ペンスとする。

-誰しも自らの意志と正規の契約の下でなければ働かなくてよい。

これに対し、国王は特許状を与えて認めた。

3、これを受けて、カンタベリー大司教シモン・サドベリ、財務府長官ロバート・ヘイルズ等、国王側近は民衆によってとらえられ、首をはねられた。

4、翌日、再びタイラーは国王に対して以下の要求を行った。

-ウィンチェスター法以外の法は存在しないこと。

-同法以外の法の執行過程での法外処置を禁止すること。

-民衆に対する領主権の廃止と国王を除く全国民の身分的差別を撤廃すること。

5、ところが、タイラーはその直後にロンドン市長によって刺殺された。

 ・この文章を受けて、ワット=タイラーの乱が起こった原因あるいは背景として考えられる14世紀半ば以降にイギリスが直面していた政治的事件と社会的事象を示し、それらの事象が史料中で問題とされている「国王側近」「民衆に対する領主権」とワット=タイラーの乱にいたるまでとどのように関連していたかを説明することを求めています。字数はいつも通り400字ですね。

 

 解 答 例 

政治的事件は百年戦争,社会的事象は封建制の動揺である。14世紀半ばに始まった百年戦争は,イギリスの優勢で展開したものの戦争は長期化したため,戦費確保のために「国王側近」が人頭税の導入を実施した。また,14世紀半ばのペストの流行により農村人口が激減し,領主は労働力の確保のために地代を軽減させ,農民の身分的束縛を緩和したため農民の待遇は改善された。特にイギリスでは,貨幣経済の普及に伴って特に地代の金納化が進んでいたこともあり, ヨーマンと呼ばれる独立自営農民が増加した。しかし,農奴解放が進んだことで経済的に困窮した領主は,賦役を復活させるなど「民衆に対する領主権」を強化した。こうした百年戦争に伴う課税の強化や封建反動の動きに対する農民の不満が高まり,さらにウィクリフの教会改革に影響を受けて身分制度を批判するジョン=ボールも合流し,ワット=タイラーは領主権の廃止や身分制の撤廃などを求めて蜂起した。(398字)

 

 採 点 基 準 

政治的事件(百年戦争)

  政治的事件=百年戦争であることを明示

 「国王側近」との関連

:百年戦争の戦費調達のために「国王側近」が課税強化(人頭税を導入)

 

社会的事象(封建制の動揺)

 社会的事象=封建制の動揺(ペストの流行でも許容)であることを明示

 農民の地位向上

  貨幣経済の普及貨幣地代の普及

  ペストの流行農村人口の激減

  領主が労働力確保のために農民の待遇を改善

  イギリスでは独立自営農民(ヨーマン)が増加

 封建反動

  「民衆に対する領主権」との関連:困窮した領主が「民衆に対する領主権」(賦役etcの農民への身分的束縛)を強化

 

ワット=タイラーの乱の勃発

 人頭税の導入・封建反動に対する農民の反発

 ジョン=ボールの合流

:ウィクリフの影響を受けて身分制を批判、ワット=タイラーの乱に合流

 

 解 法 

やはり、設問と史料をよく読むことが大切です。もちろん、設問の「14世紀半ば以降にイギリスが直面していた政治的事件と社会的事象」という部分から考えるだけでもある程度は解くことができますが、この問題にさらに「上の資料で問題とされている「国王側近」「民衆に対する領主権」と、この乱にいたるまでどのように関連していたか論じなさい」という条件が付されていることを考えると、史料を読まないわけにはいかないでしょう。特に、下線を引いた「国王側近」の部分は教科書レベルの知識では到底思いつかない内容になるので注意が必要です。そこで、史料を読んでいくと以下のようなポイントを示すことができます。

 

  ワット=タイラーの指導した反乱は国王の存在は否定していない

『国王と法に対する反逆者を捕え、彼らを処刑する。』

『翌日、再びタイラーは国王に対し、「(中略)民衆に対する領主権の廃止と国王を除く全国民の身分的差別を撤廃する等」を要求した。

これらの文章からは、国民を統治する国王の権威は否定されず、むしろ認められていることが読み取れます。

 

  農民の待遇改善、特に領主権の廃止、農奴的な身分的束縛の制限、地代の軽減を要求

『民衆は農奴ではなく領主に対する臣従も奉仕の義務もない、地代は1エーカーにつき4ペンスとする、誰しも自らの意志と正規の契約の下でなければ働かなくてよい』

『民衆に対する領主権の廃止と国王を除く全国民の身分的差別を撤廃する等」を要求した』

こうした事柄を当時の農奴解放や封建反動などと結びつけて考えるのは当然ですが、同時に農民を指導していたジョン=ボールがウィクリフの影響を受けた聖書主義、身分的平等を唱える人物だったことにも注意する必要があると思います。

 

  おそらく、重税、財政に関することがらが問題となっている

『ワット・タイラーと民衆は、(中略)財務府長官ロバート・ヘイルズ等、国王側近を捕え、首をはねた。』
で地代をめぐる争いがあることや、財務府の長官が目の敵にされていることなどから、税金をめぐり問題が起こっていることがうかがえます。
 以上のをふまえたうえで、百年戦争についてと中世末期の封建制の崩壊をワット=タイラーの乱と結びつけて論じれば、おそらく十分な内容と分量を確保することができるでしょう。

 

 ワンポイント
 通常は、ワット=タイラーの乱との関連と「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが領主(ジェントルマン)であったか」という言葉で有名なジョン=ボールですが、彼がウィクリフの流れをくむロラード派の僧侶だったことをご存知の方はあまりいないかもしれません。ローマ=カトリックを批判して聖書主義の先駆となったジョン=ウィクリフ(1320-1384)の教えは、その後のイングランドにおいてロラード派という人々に受け継がれ、ロラード派はローマ=カトリックの改革を要求しました。ジョン=ボールはこのロラード派に属し、その影響から社会的不平等を告発したわけです。こうした背景を知っていると、ジョン=ボールに対する見方も単なる農民反乱に共感した聖職者、といったものにとどまらないのではないでしょうか。また、同じくウィクリフの影響を受けた人物として有名な人にベーメンのフスがいますが、このベーメンをめぐる宗教問題は一橋を受験する受験生にとってはおなじみのものでしょう。そう考えると、ワット=タイラーの乱を扱ったこの年の問題は、イギリスに関する設問ではあったものの、ある意味で一橋らしい設問であったとも言えるのではないでしょうか。

 

 分 析 

出題分野】

・大問1では神聖ローマ帝国に関わる分野が頻出であり、2014年のようにイギリス史単独のテーマが出題されるのは稀です。(イギリス史が単独で出題されたのは,過去には「イギリス史におけるノルマン=コンクエストの意義:1999年」程度)

【解答のポイント】

・まず、解答の冒頭でイギリスが直面していた政治的事件が「百年戦争」、社会的事象が「封建制の動揺」であることを明示することが重要です。その上で、百年戦争と封建制の動揺のそれぞれに分けて関連を述べていけば解答はまとめやすいと思います。

・百年戦争中の人頭税の導入は教科書レベルを超えた知識で、述べることは難しいと思います。(ただし山川の「詳説世界史研究」には記述があります。)ただ、上述のように、設問の読解をしっかりした上で類推すれば「人頭税」とは書けなくとも、百年戦争と重税の関係を指摘することは十分に可能なはずです。

・封建制の動揺については,教科書レベルの知識で十分に対応できます。「ペストの流行で農民人口減少領主が農民の待遇を改善特に貨幣地代の発達していたイギリスでは独立自営農民が増大困窮した領主による封建反動」という流れはしっかり述べたいところです。

・百年戦争と封建制の動揺だけでは字数にだいぶ余りが出ます。そこで、ジョン=ボールの活用の仕方が問題となります。問題の史料中の「『国王を除く全国民の身分的差別を撤廃する等』を要求した」という部分と、乱の指導者のジョン=ボールが身分制を批判したことを結びつけることができれば想起することは十分可能です。一部の教科書にも、ジョン=ボールがウィクリフの教会改革に同調し社会的平等を説いたということが説明されているものはあります。論述を書くためには、図版の説明やコラムなども含めてしっかり読み込んでおくことが必要です。

 

2014 

 問 題 概 要 

・まず、一橋大学で教鞭をとっていた良知力の「48年革命における歴史なき民によせて」『向う岸からの世界史』より引用されたやや長文の文章が紹介されます。この中で、良知は、エンゲルスの「悪名高き一文」を紹介します。

「ヘーゲルが言っているように、歴史の歩みによって情容赦なく踏み潰された民族のこれらの成れの果て、これらの民族の残り屑は、完全に根だやしされた民族ではなくなってしまうまで、いつまでも反革命の狂信的な担い手であろう。およそかれらの全存在が偉大な歴史的革命にたいする一つの異議なのだ」

良知がこの文章を紹介したのは、1848年のヨーロッパについて「歴史なき民」が「歴史のおもてに現われ」さらに「歴史に積極的にかかわるかもしれず」、この年に「歴史」または「歴史の価値が崩れる」という、「選ばれた民」からすれば「歴史に対する冒涜と反動」であるとエンゲルスの歴史観、価値観を説明するためです。さらに良知は、エンゲルスの頭に「パン=スラヴ主義の担い手たち、すなわちポーランド人をのぞく西スラヴ人と南スラヴ人、それにヴァラキア人(ロマン人、すなわちルーマニア人)など」が思い浮かべられており、エンゲルスの視点からはこれらの諸民族に「未来もなければ、歴史もない。……これらの民族は、放置しておけばトルコ人に侵され、回教徒にされてしまうであろうから、そのくらいならドイツ人やマジャール人に吸収同化してもらえるだけありがたく思わねばならぬ」と述べていたことを紹介しています。

・これをうけて、設問は以下のことを要求しています。

1、文章を参考にして、エンゲルスが「歴史の歩み」と「歴史なき民」の関係をどのように理解しているかを説明せよ。

2、それを批判的に踏まえながら、ポーランド人を除く西スラヴ人の17世紀頃から21世紀までの 政治的立場を論ぜよ。

 解 答 例 

エンゲルスは唯物史観に基づき,階級闘争により資本主義から社会主義へと発展することを「歴史の歩み」と考え,異民族の支配を受ける「歴史なき民」が自民族の国家建設をめざす動きは,階級闘争による「歴史の歩み」を妨げると考えた。西スラヴのチェック人はハプスブルク家の支配に対し,17世紀には三十年戦争の契機となるベーメン反乱を起こした。反乱鎮圧後は同家の支配が強化され,1848年にはスラヴ民族会議を開いたが弾圧された。第一次世界大戦後は,マジャール人の支配を受けていた同じ西スラヴのスロヴァキア人とともにチェコスロヴァキアとして独立したが,ナチス=ドイツにより国家は解体された。第二次世界大戦後は社会主義国としてソ連に従属,「プラハの春」はソ連に抑圧されたが,1989年の東欧革命では社会主義体制を崩壊させ,冷戦終結後はチェコとスロヴァキアに分離,EUにも加盟するなど,独立した民族国家として重要な役割を果たしている。(398字)

 

 採 点 基 準 

「歴史の歩み」と「歴史なき民」の関係

  「歴史の歩み」

:(唯物史観に基づき、)階級闘争により資本主義から社会主義へ発展すること

  「歴史なき民」との関係

:「歴史なき民」(多民族みの支配を受け、自民族の国家を持たない民族)の民族主義(民族の独立をめざす動き)は階級闘争による歴史の発展(労働者による革命)の動きと反する

 

「ポーランド人をのぞく西スラヴ人」(チェック人・スロヴァキア人)の政治的地位

 スロヴァキア人:マジャール人の支配を受ける

 17世紀:ハプスブルク家の支配に対しベーメンで反乱三十年戦争の契機に

 ベーメン反乱鎮圧後はハプスブルク家の支配が強まる

 1848年:(パラツキーが)スラヴ民族会議を開催弾圧される

 第一次世界大戦後:チェック人とスロヴァキア人がチェコスロヴァキアとして独立

 ナチス=ドイツの侵攻チェコスロヴァキア解体

 第二次世界大戦後:社会主義国となりソ連に従属

 1968年:「プラハの春」(ドプチェクによる自由化)弾圧される

 1989年:東欧革命で社会主義体制崩壊

 1993年:チェコとスロヴァキアに分離

 2004年:チェコとスロヴァキアがEUに加盟

 

 解 法 

1、まずは設問の要求を確認します。かなり込み入った内容なので、設問の要求を正確に把握しないと答えがあらぬ方向へ飛んでいきかねません。設問の要求は以下の3つです。

 エンゲルスの、「歴史の歩み」と「歴史なき民」の関係に対する理解を示す

 ポーランド人をのぞく西スラヴ人(=チェック人とスロヴァキア人)の17世紀頃から21世紀までを視野に入れた政治的地位について論ずる

 その際、エンゲルスの理解を批判的に踏まえる(この場合の「批判的」とは必ずしも反対意見を示すことではなく、その可否に検討を加えて評価すること) 

2、エンゲルスの歴史観と彼のいう「歴史の歩み」と「歴史なき民」とは何かを確認します。

  まず、世界史的知識として、エンゲルスは共産主義を奉ずる人間なのであり、彼の歴史観は基本的には共産主義における「唯物史観」がそのベースにあることに注意する必要があります。 

 ワンポイント

*唯物史観

:生産力の発展に照応してその生産関係が移行していくとする発展論的な歴史観。生産力と生産関係の間に矛盾が生じた際にそれを解消すべく進歩が起こり、これがあらたな生産関係を導くという考え方です。具体的には、

 

「原始共産制」(共同狩猟と食糧採集)

「古代奴隷制」(大地主と奴隷)

「中世封建制」(封建領主と農奴)

「ブルジョワ革命(中世封建社会の矛盾による階級闘争)」

「近代資本主義」(資本家と労働者、国民国家の形成と資本主義の発展、帝国主義)

「社会主義革命(資本主義社会の矛盾による階級闘争)」

「共産主義(国家という社会抑圧のための装置の消滅)」

 

以上のような変化をたどると主張します。 

こうした共産主義における発展段階説を知っていればより理解しやすいのですが、仮にこうした知識がなくとも、設問文からエンゲルスの考え方を読み取ることは可能です。まず、エンゲルスが「歴史なき民」が「歴史のおもてに現れる」こと、つまり歴史に積極的にかかわることは「選ばれた民」にとっては歴史の「冒涜」であると考えているということをしっかり読み取りましょう。その上で、史料中の「歴史なき民」や「選ばれた民」に対応する語や表現としてどのようなものがあるかを示すと下のようになります。

 

(歴史なき民)

=歴史の歩みによって踏みつぶされた民族の成れの果て、残り屑

=反革命の担い手であり、偉大な歴史的革命に対する一つの異議

=「パン=スラヴ主義の担い手たち」

=ポーランド人を除く西・南スラヴ人とルーマニア人

=これら諸民族には未来もなければ歴史もない

=ドイツやマジャール人に吸収同化される分だけありがたく思わねばならぬ             

 

(選ばれた民)=ドイツ人やマジャール人

 

つまり、エンゲルスの歴史観によれば、「チェック人やスロヴァキア人」が「歴史にかかわること」は社会主義革命という「偉大な革命」に反する「冒涜」であり「反動」なのです。

3、では、なぜエンゲルスはチェック人やスロヴァキア人に「歴史がない」と断じ、その活動を否定するのか

:共産主義の発展段階説的に考えれば、

 

「各地の封建領主」「民族ごとの小集団」「国民国家」「国家消滅」

 

となるはずであり、この段階にいたって抑圧は消滅し、社会的平等が達成されるはずです。だとすれば、「国民国家」の段階に至っているとエンゲルスが考えていた時(1848年当時)からあえて「民族ごとの小集団」への回帰を求める人々の動きは「反革命」的であり、歴史の流れに逆行する「冒涜」であるとエンゲルスにはうつるわけです。ゆえに、エンゲルスからすれば、チェック人やスロヴァキア人のように、ブルジョワジーの力が弱体で国民国家を独立して形成できなかった「歴史なき民」は、強力で国民国家を独自に形成しえたドイツ人(ドイツ・オーストリア)やマジャール人(ハンガリー)のような人々に吸収同化されて「国民国家」の一部として消滅すべき民族である(そうであるがゆえにロシアの実質的支配下にあるとはいえ、ポーランド王国を形成しているポーランドは対象から除かれることになる)ということになります。 

4、以上のエンゲルスの歴史観を、全てではないにせよある程度は踏まえた上で、チェック人とスロヴァキア人の歴史を確認し、エンゲルスの歴史観を批判的に考察すればよいでしょう。となれば、基本の路線は「エンゲルスはチェック人やスロヴァキア人が国民国家を建設することに批判的だが、実際には両地域の人々はその後彼ら自身の国家を建設するにいたった」という方向になると思います。最後に、簡単にチェック人とスロヴァキア人の歴史(17世紀以降)を表にしたものを下に示しておきます。

1
 分 析 

出題分野】

・今回のテーマは「17世紀から現在に至るチェコ人・スロヴァキア人の歴史」です。一橋大ではドイツ史が頻出ですが、ドイツと関わりの深いハンガリー・チェコ・ポーランドなど東欧の歴史が出題されることも多いので、これらの地域についてはドイツとの関係をふまえながらタテの流れを確認しておくことが不可欠です。

・過去にチェコやスロヴァキアが出題された例としては「フス戦争とその歴史的意義」(2011年の)、「近現代のポーランドとチェコスロヴァキア」(1992年の)などがあります。

解答のポイント】

要求:エンゲルスが『歴史の歩み』と『歴史なき民』の関係をどのように理解しているか

・まず、エンゲルスにとっての「歴史の歩み」=唯物史観であり、唯物史観が「階級闘争による歴史の発展」であることを短い字数で述べる必要があります。

・エンゲルスの歴史観では「歴史なき民」が他民族の支配を受け、自民族の国を持たない民族であるということは、史料から分かると思います。史料中の「およそかれらの全存在が偉大な歴史的革命にたいする一つの異議なのだ」という部分から「歴史なき民」が自民族の国家を求める動きが、偉大な歴史的革命である階級闘争を妨げるものであるとエンゲルスが考えていたということを読み取ってほしいと思います。国際的な労働者の連帯をめざす動き(インターナショナリズム)と、国民主義・民族主義(ナショナリズム)が基本的には相容れないものであることについて、しっかり理解しておく必要があるでしょう。

 

要求1721世紀のポーランドを除く西スラヴ人の政治的地位

・ポーランドを除く西スラヴ人がチェック人とスロヴァキア人であることが分かれば、17世紀のベーメン反乱、1848年のスラヴ民族会議、第一次世界大戦後のチェコスロヴァキアの独立、第二次世界大戦直前のナチス=ドイツによる国家解体、第二次世界大戦後は社会主義国となりソ連の影響下に入る、プラハの春、東欧革命時のビロード革命、チェコとスロヴァキアに分離、EUへの加盟など教科書レベルの知識で対処することは十分可能です。もっとも、この年の受験生にはポーランドを除く西スラヴ人がチェック人とスロヴァキア人であることをしっかり確認できなかった人もかなりの数いたと思います。そうなるとこの問題は対処のしようがないですね…。個人的には「史資料を読ませる」という点からは難しくもあるが意欲的で良い設問だと思うのですが、ある一つの知識の有無によって問題全体が解けなくなってしまうという点では、設問としてのバランスはあまりよくないと思います。そこに不満を感じた受験生も多かったのではないでしょうか。

・エンゲルスの歴史観を批判的にふまえる必要があるので、エンゲルスの予測に反して「チェック人とスロヴァキア人は自民族の国家を持ちながら歴史の中で一定の役割を果たしている」という筋でまとめるようにすればよいでしょう。

 

2015 

 問 題 概 要 

久芳崇『東アジアの兵器革命』より引用された、16世紀から17世紀末にかけて変動した東アジア情勢の一端を伝える文章が紹介され、空欄A・Bが示されます。

(Aのヒント)

-万暦47年(1619)年、サルフ山の戦いでの大敗以降、明朝は徐光啓をはじめとする官僚の努力により、( A )のポルトガル人と深い関係を持つ人間を通して新式火器の導入が進められた。

-Aはポルトガルの拠点であった。

(Bのヒント)

-北京や寧遠などといった軍事拠点と同じ重要な軍事拠点で、( A )から購入した火器が投入された。

・この文章を受けて、設問は以下の問1、問2を要求します。

1

・空欄(A.   )(B.   )に当てはまる地名を答えよ。

・清朝から明朝への交替の経緯を様々な要因をしめして説明せよ。(240)

2 

16世紀末から17世紀末にかけての朝鮮・明朝・女真・清朝との関係の変遷を説明せよ。(160) その際、[壬辰の倭乱 ホンタイジ 冊封]の三語を使用しなさい。

 

 解 答 例 

問1

Aマカオ,B山海関。明は北虜南倭への対応に苦しみ,朝鮮への援軍で財政が悪化,東林党と非東林党の党争で政治も混乱した。また国際商業の発展に伴う産業の発達や銀経済の浸透により貧富の差が拡大,重税も重なり民衆が困窮し,各地で反乱が起こった。中国東北部ではヌルハチが女真族を統合し,八旗を組織して支配体制を整えた。明が李自成の乱で滅びると,清は呉三桂の先導で李自成を倒して北京を占領した。その後,清は呉三桂らの三藩の乱を鎮圧し,台湾で清への抵抗を続ける鄭氏を降して中国支配を確立した。(238字)

問2

朝鮮は明から冊封を受けており,壬辰の倭乱の際は明の援軍を受けて豊臣秀吉の遠征軍を撃退した。女真が後金を建国し,国号を清と改めた後も,明との冊封関係から女真に従うことを拒否したが,ホンタイジの侵攻を受けて清に服属し,冊封国となった。しかし,明の滅亡後は,清を夷とみなし,朝鮮が中華文明の継承者とする小中華思想を強めた。(158字)

 

 採 点 基 準 

問1

空欄(A  )(B  )の語句

 Aマカオ・B山海関

 

明の衰退・滅亡

 北虜南倭への対応に苦慮

 (豊臣秀吉の侵攻を受けた)朝鮮への援軍財政難に

 政治の混乱:東林党と非東林党の党争

 社会経済の発展:国際商業の発展産業が発達、銀が大量に流入

 民衆の困窮:社会経済の発展に伴う貧富の差の拡大,財政難に伴う重税

 

清の台頭・中国支配

 清の台頭:ヌルハチが女真族を統一,八旗の整備で支配体制を確立

 中国支配の開始:明が李自成の乱で滅亡呉三桂の先導で北京入城李自成を倒す

 呉三桂らによる三藩の乱を鎮圧

 台湾の鄭氏を平定

 

問2

明との関係

 明から冊封を受ける

 壬辰の倭乱:豊臣秀吉が朝鮮に出兵明は宗主国として援軍を送る

 

女真・清朝との関係

 女真族が後金を建国国号を清に変更

 朝鮮は女真への臣従を拒否

 ホンタイジの侵攻清の冊封国に

 明の滅亡清を夷とみなし小中華意識を強める

 

 分 析 

出題分野

・問1のテーマは「明清交代の要因と経緯」です。明清交代期の中国は頻出テーマであり、過去には「鄭氏の活動と17世紀のオランダのアジア交易」、「三藩の乱とその歴史的意義」(いずれも2011年)、「清朝の軍事・社会制度」、「典礼問題」(いずれも2006年)が出題されています。さらに1998年には「1644年以降の清朝の中国支配の確立」という今年と類似の問題が出題されています。大問3の出題傾向については一橋大学出題傾向1をご参照ください。

・問2のテーマは「16世紀末~17世紀末の朝鮮と明・女真・清朝との関係」でした。朝鮮史も頻出テーマで、その中でも19世紀後半~日本の植民地時代がよく出題されます。今年(2014年)のような明清交代期の朝鮮の問題としては、過去には「1719世紀の朝鮮と日本・清との関係の変化」(1998年)があります。

 

解答のポイント】

問1

・空欄補充は、Bの山海関を答えるのが難しいかもしれません。

・要求は「清朝が明朝に替わって中国を支配するようになった経緯」です。どこまで言及するのかについては「李自成の乱で明が滅亡して清が北京を占領した所まで」、「三藩の乱の鎮圧と鄭氏台湾を平定して中国全土の支配を確立した所まで」の2通りが考えられますが、240字という字数を考えるとのパターンで述べるべきでしょう。

・「明の弱体化」、「女真の台頭」、「清の中国支配」の3点についてまとめていけばよいでしょう。明の弱体化については、北虜南倭、朝鮮への援軍などによる財政難、東林派と非東林党の党争などに言及します。女真の台頭については、ヌルハチの女真族統一、八旗の整備などに言及します。清の中国支配については、李自成の乱で明が滅亡したこと、呉三桂の先導で清が北京に入城したこと、三藩の乱鎮圧、台湾の鄭氏を平定したことを時系列にまとめていけばよいでしょう。教科書レベルの知識のレベルで十分に対応できる問題だとおもいます。

問2

・明と朝鮮の関係として、明から冊封を受けたこと、壬辰の倭乱の際に明が援軍を派遣したことを述べておきましょう。女真との関係としては、ホンタイジの侵攻で清の属国(冊封国)となったことは述べられると思います。

・明の滅亡後、小中華意識を強めたことを想起できるかが差のつくポイントです。旧課程の教科書では記述はありませんが、新課程の教科書には「ついで清が成立すると、侵攻を受けて服属し、冊封・朝貢関係をもったが、清を「夷」とみて,朝鮮が正統な中華文明の継承者であるという意識をもった。」などと記述されているものもあります。

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2015年は大問1と大問3が極めてオーソドックスな設問であったのに対して、大問2で一橋としてはかなり毛並みの変わった設問が出題されました。結局のところ、大問13でしっかりと解答を書けたかどうかが合格点をとるカギだったのではないでしょうか。ちなみに、2015年の河合の大問ごとの評価は-やや難、-やや難、-標準でした。個人的には-標準、-難、-標準といったことろ。もっとも、大問2の採点基準がそこまで厳しいとは思えませんし、仮に採点基準が厳しかったところで、受験生間で解答に差がつくとは思われませんので、実際にはもやや難と言ったところかもしれません。難しい問題が出るとつい見落としがちですが、結局その難しい問題を解いて合否の判断を下されるのは当日の受験生なのであり、要は問題の難易にかかわらず、周囲と比べてどれだけのものが用意できるかが問題となるので、会場で「おおぃ!こんな問題解けるかよ!」と焦ってはいけません。逆に、「自分が解けないなら周りもこんなもんだろ」と思えるくらいの準備をしておくことが肝心です。

 

2015 

 問 題 概 要 

・『フランク編年史』より引用された、ローマ人民がローマに滞在し、クリスマス・ミサのために聖ペテロ教会に出かけたカールを「至聖なるカール、神により戴冠されたる偉大にして平和を許すローマ人の皇帝に命と勝利を!」と称える様子が描かれた短い文章が示された上で、以下の点について説明することを求めています。(400字)

1、カールはなぜこの時ローマに滞在していたのか。

2、カールはなぜ「ローマ人の皇帝」ローマ人民から歓迎されたのか。

3、この出来事はヨーロッパの歴史にどのような影響を与えたか。

・これらについて、8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢の中で述べよ。

 

 解 答 例 

首位権や聖像崇拝問題でビザンツ帝国やコンスタンティノープル教会と対立し、頼るべき政治勢力を求めていたローマ教皇は、8世紀後半にピピンがクーデタでカロリング朝を創始するとこれを承認した。この見返りとしてピピンも教皇を圧迫したランゴバルド王国を討伐しラヴェンナ地方を寄進するなど、両者は次第に結びつきを深めた。その後、ピピンの子カールがランゴバルド王国を滅ぼしてイタリア半島に政治的安定をもたらし、さらにザクセン・アヴァール・後ウマイヤ朝と争って西ヨーロッパの主要部分を統一すると、ローマ人は彼をキリスト教の守護者とみなした。カールを自身の保護者として利用することを考えた教皇レオ3世は、その要請により軍を率いてローマに入ったカールに皇帝の冠を戴せた。カールの戴冠によりローマ教会とはビザンツ教会から自立し、カールの統治地域を中心に古典文化・キリスト教・ゲルマン文化の融合した西ヨーロッパ世界が成立した。(400字)

 

 採 点 基 準 

:設問中にある以下の質問や条件を踏まえて適切に答えることできるかどうかがカギとなります。

 

(1)『なぜローマに滞在していたのか』

ローマ教皇レオ3世の要請よるものであったことを示す。

 

(2)『なぜ「ローマ人の皇帝」としてローマ人民により歓呼されたのか』

キリスト教(アタナシウス派=カトリック)の守護者であることを示す。

イタリア半島に政治的安定をもたらしたことに言及する。

これらを述べる際にと関連付けるとよいでしょう。

 

(3)『8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢のなかで述べる』

首位権・聖像崇拝問題での東西教会の対立に言及する。

ローマ教皇が西ローマ皇帝やビザンツ帝国にかわる政治的な保護者を必要としていた

 ことを示す。(これと関連付けて以下のに言及する。)

ローマ教皇がフランク王国のピピンによるカロリング朝創始を承認したことを示す。

ピピンが教皇にラヴェンナ地方を寄進したことを示す。

カール大帝がランゴバルド・アヴァール・ザクセン・後ウマイヤを討伐したことを示す。

カール大帝による西ヨーロッパの主要地域の政治的統一に言及する。

 

(4)『この出来事がヨーロッパの歴史に与えた影響について説明しなさい』

ローマ教会がビザンツ帝国の影響から分離してローマ=カトリックが成立したことを示す。

西ヨーロッパがビザンツ帝国の政治的影響力を脱して西ローマ帝国が復活したことに

 言及する。

西ヨーロッパに古典(ローマ)文化・キリスト教・ゲルマン文化の融合した独自の

 西ヨーロッパ世界が成立したことを示す。

 

 分 析 

【出題分野】

何度も繰り返しますが、一橋の大問1では、神聖ローマ帝国に関わる分野が頻出で、特に中世ドイツ史の出題率が高いです。(2008年度、2010年度、2011年度、2013年度) 今回のようにカール大帝を題材とした出題としては2009年度の問題があります。2009年の出題では「カール大帝の帝国成立の経緯」についてイタリア・東地中海の政治情勢・ムハンマドとの関係に言及しながら述べさせるもので、「西ヨーロッパ世界の成立」という大テーマが共通しているなど、今回の出題と重なる部分も多いです。

 

【解答のポイント】

・設問に条件が複数示されているので、これらの条件をきちんと踏まえることが大前提となります。「8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢の中で述べる」と時期・コンテクストが指定されていることから、8世紀前半の事項(聖像禁止令など)に必要以上に言及する必要はなく、東西教会の対立の原因として軽く触れる程度で良いでしょう。また、2009年度の問題では重要な要素であったイスラームの影響はここでは主な要素として言及する必要はありません。

・カールがローマに滞在していいた理由について問う部分は難しく、教科書のレベルを超えています。カールの戴冠は、戴冠の前年に教皇の反対派から教皇を保護したカールが教皇の要請で軍を率いてローマに滞在していた折に、クリスマスのミサに出席するため訪れたサン=ピエトロ大聖堂における突発的な出来事であったと言われています。そのため、「教皇からローマ皇帝の冠を授かるために」とするのは誤りで、「教皇を保護するため」、「教皇の要請により」などとしておく方が無難です。

・「ローマ人民がカール皇帝として歓呼した理由」についても直接的に教科書では言及されていないのでやや難しいですが、カールの業績を考慮すればキリスト教(アタナシウス派)の保護者であることやイタリア半島に安定をもたらした人物に対する敬意であることを推測して導くことは十分可能です。

・「8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢」について述べる部分では、教会の東西対立と教皇とカロリング朝(ピピン・カール)の接近を軸にまとめればよいので、平易。

・「カールの戴冠がヨーロッパに与えた影響」についてはローマ・カトリックの成立と西ヨーロッパ世界の成立という重要なテーマをすぐに思いつく必要があります。

・採点基準のについては一橋の受験者にとっては基本事項であり、この部分がきちんと書けるかどうかが重要。字数に限りがあるが、単なる事実の列挙にとどまらず各要素の関連も考えながらまとめる必要があるでしょう。各要素の関連やをどう盛り込むかは難しいものの、できれば3分の2程度の得点は確保したいところです。

 

2015 

 問 題 概 要 

・ヨーロッパ共同体と東南アジア諸国連合という2つの機構の歴史的役割について、その共通点と相違点を示せ。(400字以内)

 

 解 答 例 

ヨーロッパ共同体は、大戦を招いた独仏対立の解消と欧州の平和的復興をその出発点とする。OEECを皮切りに超国家的に資源と市場を共有する経済統合を発展させるにつれ、欧州は米ソ両大国に対する発言力を次第に回復し、多極化の一因をつくった。イギリス加盟以降のEC拡大に伴い、貿易制限撤廃と単一市場形成による競争力強化を目指したECは、冷戦終結後に超国家機構EUを発足させ、単一通貨ユーロを採用した。東南アジア諸国連合は、ベトナム戦争中に東南アジアの共産化を恐れた米国の主導で成立し当初は反共同盟としての性格が強かったが、次第に政治的中立を宣言して経済協力機構としての性格を強めた。冷戦後には社会主義国のベトナムや軍政のミャンマーなど、東南アジア全ての国が参加し、EUと同様に関税障壁撤廃などの市場統合を進めて地域共同体としての役割を強めたが、一方で加盟国の主権に対する拘束力がないため政治的影響力に限界がある。(400字)

 

 採 点 基 準 

難問です。設問の要求が明確(というよりは単純)な分だけ、ECとASEANについてどれだけ正確な知識を持ち、設問の条件に沿って(または出題者の意図を推し量って)解答を作成できるかで大きな差がつく問題です。単純にECとASEANの共通点・相違点を列挙するのではなく、それぞれの歴史的役割をきちんと示しながらまとめる視点と文章力が要求されています。

 

(1) ECの歴史的役割

 2度の世界大戦の原因をつくった独仏両国の対立を解消する目的が、ECの前身たるOEECをはじめとする組織構築のきっかけとなった。

  同じく、大戦によって荒廃したヨーロッパを平和的に復興する目的がECの前身を作り上げた。

 その発展とともに米ソに対抗する第3極として多極化の一端を担ったことを示す。

 冷戦後にEUとして発展したことを示す。

 

(2) ASEANの歴史的役割

ベトナム戦争中に東南アジアの共産化を恐れた米国が主導して結成された反共色の強い組織であったことを示す。

ベトナム戦争終結期である1971年に中立地帯宣言を発し、その後は経済協力機構としての役割を強めたことを示す。

この中で、1980年代からのアジア地域の経済発展について述べることもできる。

冷戦終結後のベトナム・ミャンマー加盟などによりさらにイデオロギー色を薄めた地域共同体として活動していることを示す。

 

(3) ECとASEANの共通点

通商上の障壁を取り除き、市場統合を進めた経済的な地域共同体であり、経済的発展を

もたらした点。

経済的な結びつきを主軸に地域統合をもたらした地域共同体としての性格を持つ点。

 

(4) ECとASEANの相違点

ECは部分的ではあるが主権国家としての枠組みを超えた超国家的結合であり、それが発展したEUについても加盟国の主権の一部を拘束する中央議会と共通通貨を有する点。

ASEANはEUと異なり各加盟国に対して主権を制限する権限を持たないために政治的な

結合力が弱く、ベトナム戦争以降は主に経済共同体としての役割を担っている点。

 

域外協力についてはASEANのAPEC参加などが教科書レベルの要素としてあげられますが、ECについても1973年のスイス・リヒテンシュタインなどとのFTAをはじめとする域外協力を行っているので、むしろ共通点として挙げるべきものです。ただ、この設問ではこのことを書けと求められているとは思えません。)

 

 分 析 

【出題分野】

・大問2は、近現代欧米史が出題されますが、その出題の範囲・形式は非常に多様であるため、的を絞ることは難しいです。ただ、今年度のように戦後史が問われることは比較的少ないです。(2000年、2005年、2012年) 2000年、2005年はそれぞれヴェトナム戦争、冷戦と核兵器についてその歴史的経緯を問う比較的オーソドックスな問題でした。2012年も国際連盟と国際連合設立の歴史的背景と両機関の課題について問う基礎的な問題でしたが、二つの国際機関を比較するという視点を必要とした点で今回の設問と共通する部分も見受けられます。今回のテーマは「ECとASEANの歴史的役割について共通点と相違点を説明」するというもので、2012年の設問と同様に比較的視点が要求されている点では共通しているものの、あまり問われることのない両機構の「歴史的役割」について問う設問で、やや難しいです。ここ最近本格的な戦後史が56年に一度の頻度での出題であったことを合わせると、かなり取り組みづらい設問であったことが予想されます。

 

【解答のポイント】

(1)EC・ASEANの歴史的役割を確認する

どちらも経済発展をもたらした地域共同体であることは常識的なことなので、ここで要求されていることがより深い内容であることに気付かなくてはならないでしょう。ECが大戦後の欧州復興に際して「大戦を招いた対立を解消する目的で設立されたこと」や「発展の過程において多極化の一因をつくったこと」、ASEANが当初「米国に主導された反共同盟としての性質を有していたこと」などについて思い出す必要があります。

 

(2)EC・ASEANの歴史的役割についての共通点と相違点をまとめる

設立の背景の違いについては上述の歴史的役割を確認する中で述べることができます。両者の歴史的役割について、共通点については比較的容易に思いつくので、ここでは相違点について深く考える必要があります。その際、この「歴史的役割」とはいったいどの時期を対象としているのかを考えると、特定することは難しいです。ものによっては、ECがOEECとは異なることをことさら強調したり、ECとEUは違うのであるからEUについては言及してはいけないとする解説も見られ、そうした判断にも一理ありますが、ECやASEANはたえずその政治的、経済的性質を変化させてきたものであり、当然その前身である諸組織や発展形態としてのEU、ASEAN10などとも連続性を有するものです。ですから、それらの前身や発展形態と断絶したものとしてとらえることは、ECやASEANの本質を見るにあたって有益なことではないでしょう。だとすれば、設問が指定する視野や時代設定はかなり広いものになる可能性があるので、一時期における歴史的役割のみを取り出してその相違を示すよりも、最終的にECやASEASNがどのように変化していったのかを示す方がよいと思います。そうした観点からすれば、ECやその発展形態であるEUが超国家的結合であり、主権国家の枠を越えたものとなっていった一方、ASEANはあくまでも主権国家間の経済協定の枠内に依然としてとどまるものである点に注意を払う必要があるでしょう。その方が、単純な両組織比較よりも、国民国家という枠組みの崩壊とその後の超国家的紐帯の形成という最近の各大学の問題関心に近く、出題者の意図から外れないものになるのではないでしょうか。

 

2015 

 問 題 

・イーニアス・アンダーソン著・加藤憲市訳『マカートニー奉使記』より引用された、清朝の対外関係を示すやや長い史料が付された上で、以下の点について説明するように要求されています。(400字)

1、文中に登場する下線が付された「皇帝」の名前を記せ。

2、また、その皇帝によって語られた清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程を説明せよ。

 

ちなみに、本史料中で「皇帝」が英国使節に謁見する年は1793年です。

 

 解 答 例 

乾隆帝。清朝の対外関係は周辺諸国と形式上の君臣関係を結ぶ冊封体制と朝貢国に対する恩恵的な貿易形態である朝貢貿易に基づいており、条約による主権国家間の対等な関係に基づくヨーロッパ諸国の外交関係とは異なっていた。清はイギリスとの貿易を広州一港に限定し、公行という特権商人がこの貿易を独占したが、これに不満を持つイギリスは自由貿易を求めて使節を派遣したが失敗した。その後アヘン戦争に敗れた清は南京条約で開港や公行廃止を強要され、続く諸条約で欧米諸国に領事裁判権・最恵国待遇を与え、清の関税自主権喪失を認める条約関係を結び、自由貿易体制に組み込まれ始めた。続くアロー戦争敗北後の北京条約で外国公使の北京駐在を認め、外交を一元的に処理する総理衙門を設置した。さらに、清仏戦争後の天津条約で阮朝越南国に対する宗主権を、日清戦争後の下関条約で李氏朝鮮に対する宗主権を相次いで失ったことで清朝の冊封体制は崩壊した。(400字)

 

 採 点 基 準 

・「清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程」と清朝側からの視点で解答作成することが要求されていることと、400字で一問という字数の長さを考えると、イギリスとの貿易関係の変遷についてのみ述べたのでは不十分でしょう。やはりここは、朝貢・冊封体制の特徴とその崩壊過程としてまとめることが要求されると思います。

 

(1) 下線の皇帝の名前

 乾隆帝

:年代から判断できなくとも、対外交易を広州一港限定した人物で英国の使者と謁見した皇帝であることを考えれば乾隆帝であることはすぐに導けます。イギリスが派遣した人物にはマカートニー(1793)、アマースト(1816)、ネイピア(1834)らがいますが、乾隆帝はこのうちマカートニーと謁見しています。乾隆帝の統治期間は17351795とかなり長期にわたるので注意が必要です。ちなみに、アマーストは嘉慶帝に三跪九叩頭問題で謁見することができませんでした。また、ネイピアは1833年に東インド会社の中国貿易独占権が廃止されたことにともない、英国本国から派遣された貿易監督官で、当時の中国に対して強硬姿勢であたろうとしていたパーマストン外相とジャーディン=マセソン商会の意向をうけて任につきましたが、中国側と武力衝突事件を起こした後でマラリヤによって亡くなっています。

 

(2) 清朝の対外関係の特徴

朝貢貿易の内容(朝貢してきた国に対する恩恵的な貿易形態)について示す。

冊封体制の内容(周辺国との形式的な君臣関係)について示す。

これを示す際に朝貢貿易と冊封体制をはっきり分けて示す方が良いと思います。

 

(3) 清朝の対英貿易とイギリスとの対立

イギリスとの交易が乾隆帝の時代に広州一港に限定されたことを示す。

広州での貿易は公行という清の特権商人によって独占されていたことを示す。

イギリスが自由貿易を要求していたことを示す。

使節派遣の例を示すのであれば、ここでは乾隆帝が資料中に出てくることからマカートニーが望ましいですが、おそらく使節の名前にまで言及する字数の余裕はないでしょう。

設問はイギリスとの対立や通商関係に焦点をあてたものではないので、片貿易や三角貿易の詳細について述べる必要はなく、字数的な余裕もありません。

 

(4) アヘン戦争・アロー戦争による対外関係の変化

アヘン戦争と南京条約の内容

→5港開港、公行廃止など。対外・交易関係を考えればよいので香港割譲は述べる必要なし。

アヘン戦争後に締結された諸条約(虎門寨追加条約・望厦条約・黄埔条約)とその内容

領事裁判権、片務的最恵国待遇、清の関税自主権の喪失などの不平等条約

アロー戦争と天津・北京条約の内容

天津・南京など11港開港、外交を一元的に処理する外交官庁としての総理各国事務衙門の設置

清がイギリスの自由貿易体制の中に組み込まれていった点を示す。

 

(5) 清の対外関係の崩壊過程

周辺の朝貢国・冊封国に対する宗主権の喪失による朝貢・冊封体制の崩壊を示す。

具体例として「琉球王国(台湾出兵、琉球処分)」、「阮朝越南国(清仏戦争)」、「李氏朝鮮(日清戦争・下関条約)」などに対して清が宗主権を失ったことを示せばよいでしょう。

 

 分 析 

【出題分野】

この年の「清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程」というテーマは、過去に清朝の国内情勢・朝鮮をはじめとする周辺諸国との関係・列強のアジア進出などがたびたび出題されていることを考えれば十分予測可能な出題であり、王道的な設問であると言えます。今回の設問に近い出題としては2012年大問3の(2)で出題された「19世紀のヨーロッパ諸国に対する清朝の交易体制とその変化」について200字で述べさせる問題があります。

 

【解答のポイント】

(1)清朝の対外関係=朝貢・冊封体制であることを把握する。

2012年の問題が「対ヨーロッパ交易」に限定されているのに対し、今回の設問は資料中に「外国と条約関係に入るということ=清の伝統的国是にもとる」などの記述があることや設問も「清朝の対外関係」とヨーロッパとの通商に限定していないことなどから、朝貢・冊封体制というより大きな視点で述べるべきです。

 

(2)対英貿易の変化と朝貢・冊封体制の変化という二つの軸を確認する

・資料中にイギリス側からの通商関係の改善要求があったことが示されていることから、清側による対英交易の制限と、その後の戦争による開港と不平等条約の締結という流れを軸として設定します。この際、単に事実を羅列するよりもイギリスが自由貿易体制を確立しようとしていたことに言及すると、清とイギリスとの対立やその後の変化の意味が明確になります。

・「清朝の対外関係=朝貢・冊封体制」であるとすれば、「その崩壊」について述べることが要求されているので、いかにして清の朝貢・冊封体制が崩壊するのかを明示する必要があります。そのためには、アヘン戦争後の開港や不平等条約の締結に言及するだけでは不十分であり、朝貢体制とは何か、冊封体制とは何かをはっきり示した上で、これらが崩壊したと言うに足る事実を示す必要があります。ここまで考えることで、「外国と条約関係による国際関係を成立させること(=清の伝統的国是の放棄)」、こうした外国との交渉窓口としての「総理各国事務衙門の設置(対等な主権国家間の外交処理とその一元化)」、「列強の進出による朝貢国・冊封国の喪失(宗主権の放棄)」などによる朝貢・冊封体制の崩壊という図式が見えてきます。特に、最後の朝貢国・冊封国の喪失などは対英交易のみに視点が限定されてしまうとなかなか出てこないので注意が必要です。

・要求されている知識は基本的なものであるが、単なる事実の列挙にとどまらない、テーマを理解した文章を作れるかどうかが差をつけるポイントです。最初にテーマを把握しないとイギリスとの通商関係に限定しすぎて片貿易や三角貿易などの詳細を述べるなど、的外れな解答をつくってしまいがちなので注意しましょう。

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