世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

2016年09月

山川『世界史B用語集(改訂版)』

全国歴史教育研究協議会編、山川出版社(2012年版)

 

 あ

 

 そもそも解説の必要があるのかなとも思ったのですが、案外参考書や問題集関係の情報は需要があるみたいなので、載せておきます。言わずと知れた「山川の用語集」こと『世界史B用語集』(山川出版社)です。世界史に登場する基礎的な用語を全て網羅している優れもの用語集として、受験生ばかりでなく教育機関含め各所で愛用されている基礎参考書の一つですね。ただ、一言だけ言っておきたい。

 

 少なくとも、HANDは受験生の頃、これを持っていませんでした。

 

もちろん、全然使ったことがないわけでも見たことがないわけでもなかったですが、少なくとも普段使う参考書の中にこの本は全く入っていませんでしたね。正直、逐一この用語集を調べるくらいでしたらまず例の『詳説世界史研究』をあたりましたし、そんな時間があれば一問でも多くセンターや大学の過去問あたりました。実際、それでも十分に偏差70以上は確保できます。あれば便利なのでしょうが、成績を取る上で絶対に必要かと言われればそこまでのものでもないでしょう。

 

別に、この参考書がダメだと言っているんではありません。この参考書はとても優れた参考書で、私も重用しています。今手元にあるのは2012年版(すいません、新しいのは職場においてきましたw 今あるのは部屋にある私物です)ですが、ボロボロになっています。それくらい使っているということですね。ただ、私思うんですが、この参考書は「受験生がこれをもとに世界史通史を勉強するための参考書」ではないと思うんですよ。この参考書はそのタイトルにもあるように「単なる辞書、用語集」なのです。

 

たしかに、各用語は時代ごとに配置されていますし、順番に出てきます。でも、だからといって一つ一つの用語が教科書や参考書にあるように話の流れの中で配置されているわけでもなければ、それぞれの関係性も見えません。ヨコの流れもなければタテの流れもない、基本的には一語一語が断絶している、そういうものなんです。たとえば、国語の辞書を引いた時に、「秋」の次に「悪」が出てきたとしますよね?関係ありますか?英語の用語集で、’vocational(職業の)の次に’pertinent(関連のある)が出てきたとしても同じように関連はないでしょう。いや、pertinentだから関連はあるとか、そういうことではなく。つまり、これはあくまで「用語集」なんです。その範囲では素晴らしい出来ですが、だからといって教科書や、参考書や、問題集の代用になれるものではない。

 

ところが、受験生の中にはそれをはき違えてこの用語集を「参考書」状態にして使う人がいるんですね。付箋はりまくって、マーカー引きまくり、文字書きまくりで。多分、コンパクトだから持ち運びはしやすいし、試験に出てくる用語は全部載っているんだからそれでいいじゃんと思っているのでしょう。ですが、先ほども述べた通り、それではタテ・ヨコの流れはつかめませんし、用語集には地理情報も載っていません。たとえ、用語集に複数の戦いの名前や事件(たとえば、アドリアノープル遷都に、コソヴォの戦いやニコポリスの戦い、アンカラの戦い)が載っていたからといって、オスマンがまさにバルカン半島へ奥深く侵入しようとするルートや、それをティムールに阻まれる様子を思い描くことは難しい。

 

ですから、この用語集を使う際には、あくまでも「用語集」としての長所を生かした使い方をしてあげるべきでしょう。本当は、学校の先生が使う場合と受験生が使う場合とで便利な使い方のようなものを分けて示してあげたりした方が親切なのですが、そこはさすが天下の山川ですから、エンドユーザーの顔まで見た気づかいは微塵も感じさせませんw 通り一遍の「使用上の留意点」と「まえがき」がついているだけですね。それでも売れるだけの質を兼ね備えているからできることなのでしょうが、何十年も出しているんだからもう少しサービス精神があってもいいような気はしますw ただ、ベストセラーなだけあって、下にあげたような短所長所はありますが、労力を惜しまず作られた良書であることには変わりがありません。一冊あれば便利であることには違いないでしょう。

 

[長所]

・「世界史B」教科書11冊から学習に必要と思われる用語を選んだ、と豪語するだけあって、さすがに基本的な用語はきちんとそろっています。国王の生没年と在位年が分けてあるところや、文化人の生没年が付してあるところなども素晴らしいですね。教科書や参考書では前後関係が不明確になってしまう場合には重宝します。

・通常の教科書ではおろそかになりがちな文化史に関する用語に詳しい説明がついていることも良いです。文化史が覚えにくいのはやはり「その作品がどんな話なのか」など、作者や作品のバックグラウンドに関する情報不足からくることが多いです。(ダンテがベアトリーチェLoveなあたりがルネサンスなんだ!とかが伝われば『神曲』や『新生』に対する愛着もわこうというものです。)同じく、必ずしも十分ではありませんが思想史に関する事柄も、ある程度内容がわかるようになっている点は、この用語集を使うにあたり特に受験生が重宝すると思います。

・索引が丁寧に作られており、求める語が引きやすいです。

・各項目も、極力その内容をくみ取りやすいように書かれています。(たとえば、「ユトレヒト条約」の項目については、この条約がどのようなものかという概略が簡単に示された上で、受験でよく出題されるこの条約で割譲された各地方(ハドソン湾地方、アカディア、ニューファンドランド、ジブラルタル、ミノルカ)が出題頻度とともに別途示されています。

・教科書11冊に出てくる頻度が①、⑧などの形で示されています。

 

[短所]

・あくまでも「用語集」なのであり、タテ、ヨコのつながりがわかるほどではありません。

・地図、図表などは当然のことながらまったくありません。

 

 ここまではそもそも本書が「用語集」なのですから当たり前といえば当たり前で、むしろ使う側が「使い方を間違えて短所にしてしまっている」部分があります。ですが、以下の短所については改善の余地があるでしょう。

 

・初めて手に取る受験生などはどのように活用したらいいか意外に見当がつきません。そのため、買うべきか買わざるべきか、限られたお小遣いの中で迷う人もいるようです。

①、⑧といった頻度はあくまでも「教科書11冊」を調べた中で判明した登場頻度であって、これが受験で出題される頻度とは必ずしも一致しません。ところが、これをはき違えている受験生が非常に多いんですね。ですから、本来は本書の冒頭にこの点に関して注意を喚起する注意書きがあってしかるべきかと思います。

実際の受験現場では本書に登場しない用語からも多数出題されています。たとえば、『詳説世界史研究』では登場するフィチーノなどは本書には出てこないようです。おそらく、用語的な穴という意味では『詳説世界史研究』の方が少ない気がします。(もっとも、どんな参考書を用いたとしても穴は存在します。ただ、本書の場合、早慶などの難関私大の受験を考えた場合、看過してよいものかどうか迷うレベルだということです。やはり、複数の参考書や問題集に目を通すことが一番だと思います。)

 

(おススメの人)

・時間はたっぷりある人(すくなくとも1年)

・細かいところに気を配る丁寧な学習を心がけている人。

・文化史、思想史などの背景を「手軽に」、「簡潔に」知りたい人。

・本書をあくまでも「用語集」として使うつもりの人。

(おススメしない人)

・時間に余裕のない人(受験まで数か月)

・そもそも、細かいところまで気にせずざっくり歴史を学べれば十分という人。

・文化史、思想史の背景を「深く」知りたい人。

・タテ、ヨコのつながりや地理的情報を入れたい人。

・参考書や問題集の代用として使うつもりの人。
 

さて、昨日イタリア戦争の中でバーゼル公会議とフェラーラ公会議について書いていて思い出しましたので、HANDがこれまでに扱った一橋の難問・奇問の中でもとびきりの悪問であると感じている一橋「世界史」過去問(2003年、大問1)を取り上げてみたいと思います。この問題を取り上げたいのは、確かに「おいおい、それはいくら何でも無茶ってもんだろっ!」というツッコミにも似た感情を皆さんにも共有していただきたいという、いささか野次馬根性的な部分も確かにございますが、それ以上に、このレベルの悪問に対して受験生はいったい何をして、どう対処すべきか、ということを示してみたいと思うからです。

 

 受験というのは非情です。先日、HANDが浪人した時のセンター試験旧課程数学がいかに凶悪であったかというお話をしましたが、どんなに凶悪な事態が発生したとしても、「お上(大学当局など)」が「特に対応はいたしません」といえば何の救済もなされないわけで、受験生は泣き寝入りするしかありません。だからHANDはその時のことをセンター試験に「失敗した」と書くわけです。結局当時HANDは二次試験で挽回する自信はありながらも「足切りで試験すら受けられない」という事態を回避するために東大を受けずに一橋を受験したわけですが、その判断もセンターで点数が取れなかったことも含めて結局は「自分の失敗」なのです。同じように受験しながらも堂々と怪しげもなく東大に進学する人もいるわけですから、なぜ失敗したのですかと言われればそれはセンター試験のせいではなく自分の失敗なのですね。

ちなみにHANDは「家から遠い」という理由で、結局一橋ではなくワセ法に進学しましたw ぶっちゃけ、学歴とかは後からどうにでもなります(多分)。極論言ってしまえば、大学をどこに進学したとしても、ハーバードやケンブリッジに留学してそこを出てしまえば最終学歴はハーバードです。大学に進学して最も大切なのは、そこでどのような先生や学問と出会い、それを突き詰めて自分を高めていけるかということにつきます。そう考えると、マーチクラスの大学にも優秀な先生方はたくさんいますし、東大・早慶であっても学問的・人間的にどうしようもない教授陣もいます。受験に成功する、自分の目標を達成することはもちろん大切なことですし、立派なことですが、多分一番大切なのは入ってからどの先生について何の勉強をするかということですね。それをはき違えてしまうと妙な学歴信仰者、お受験マニアで終わってしまうので気をつけましょう。ただ、設備や国からの助成、研究費の支給、留学などはやっぱり東大・早慶は強いですね。これらの難関大学の他より優れているところあげなさいと言われれば、そうした面で優遇されているということと、教授陣や学生たちのインテリジェンスの平均値が高いために学習しやすいという面があるということでしょう。

 

脱線してしまいましたが、受験生としては、一見すると不公正な問題の格差や「悪問」に出会うという「不測の事態」に遭遇する危険性は常に付きまとうわけで、だとすればそこでどういう対応をするか、その対応力も含めて問われることになります。問題が「悪問」だからというのは慰めにはなっても言い訳にはならないのです。そこで、そうした場合にどういう対処が可能なのか、2003年一橋の問題を例に取り上げてみたいと思います。

 

 2003年一橋の大問1は、問題自体が短いものですし、内容を見てみないとどの辺が「まずい」のかというニュアンスが伝わらないかと思いますので、概要を示すのではなく全文を示したいと思います。

 

  Ⅰ

 15世紀イタリア社会の動向は、オスマントルコの小アジア、バルカン地方への進出と深く関係していた。トルコ勢力の攻勢の前に領土縮小を余儀なくされたビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き、援軍の要請を行ってイタリア社会に大きな影響を与えたし、この時期多数のギリシヤ人が到来して、この地の文化活動にも影響を与えたからである。オスマントルコの進出に伴うこの東西キリスト教世界の交流と、それが15世紀イタリア社会に与えた影響について論じなさい。(400字以内)

 

 これがその問題です。ちなみに、私は一橋の設問が常に悪問や奇問の類だとは思わないと考えています。一橋が、受験生に材料を示した上で「歴史学的なものの考え方をさせたい」と考えたある意味では良問とも言える設問を出題しているということについては、一橋大学「世界史」出題傾向②で示した通りですが、それにしてもこの2003年の問題はひどいです。何がひどいかといえば、まず、近年の設問では必ず用意されている「受験生の知らない歴史的知識のヒントとなる材料」が全く示されていません。近年の問題では与えられた史資料などをもとに読解・推量によってある程度解答への道筋をつけることができるのですが、本設問では全くそれがありません。さらに、本設問が要求している内容は完全に高校生の学習内容を逸脱しており、教科書・参考書のどこをみてもほとんど記述らしい記述がありません。

 

 それでは、どのような設問なのか解説を進めていきましょう。まず、設問の内容を確認します。

 

[設問の要求]

 ①「オスマントルコの進出に伴うこの東西キリスト教世界の交流」について論ぜよ

 ②「①が15世紀イタリア社会に与えた影響について答えよ」

 

 ここで、①の「この」とは何かを確認すると、直前に「トルコ勢力の攻勢の前に領土縮小を余儀なくされたビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き、援軍の要請を行ってイタリア社会に大きな影響を与えたし、この時期多数のギリシヤ人が到来して、この地の文化活動にも影響を与えた」とあります。ここでさらに「この地」がどこかを確認すると「多数のギリシヤ人が到来し」た地であるからこれは「イタリア」のことを指しています。ですから、「この」東西キリスト教世界の交流とは一言で言えば「イタリアとビザンツ(ローマ=カトリック教会とギリシア正教会)の交流」ということなのですが、そもそも問題文自体が「このこのこの」状態なのでとてもわかりづらいです。大学受験レベルの設問で指示語連発は正直やめて欲しいです。言葉の一語一句、その意味にこだわるべき歴史家が作る設問だとは思えません。

 設問とほぼ同じ内容をわかりやすく書くとこうなります。「オスマン=トルコの攻勢により領土縮小を余儀なくされたビザンツ帝国では、皇帝が自ら西欧に赴いてイタリアの社会に大きな影響を与えるとともに、帝国内のギリシア人が多数イタリアに到来したことで、文化活動にも影響を与えた。」です。だいぶ意味が取りやすくなりませんか?あんまり変わらないですかねw 

 

 さて、本設問のイカンところは何も設問の文章が稚拙だということにあるのではありません。設問の要求について分析してみましょう。

 

[設問の要求に対する分析]

・まず、①に該当する内容は世界史の教科書・参考書・用語集ともに全く載っていません。受験生にとって、「ビザンツ帝国からイタリアへの援軍要請」というと真っ先に思い浮かぶのはアレクシオス1世ですが、これは11世紀にセルジューク=トルコにより圧迫されたことが原因ですから、本設問とは無関係なのは明らかです。「15世紀に皇帝自らが西欧に赴いて援軍要請した」ということになると、該当するのは昨日のイタリア史補足の中で紹介したパラエオロゴス朝のヨハネス8世です。彼が、バーゼル公会議(1431)、フェッラーラ・フィレンツェ公会議(1438-1439)で西欧からの援助を得るために東西教会の統合を提案してオスマン=トルコに対する十字軍を要請したことは書いた通りです。彼のこの提案にローマ教会側も同調し、最終的には東西教会の合同会議と将来の東西教会合同の署名を交わすことが実現しました。

・次に、②についてですが、東西教会による公会議の影響と成果についてまとめると、おそらく以下のようになると思います。

 

A 最終的に東西教会の合同は実現せず

:東側が十分な合意形成を行わず反対論が噴出したこと、政治的な思惑から来たものであったことから失敗。

B アルメニアの教会の一部がローマ教皇の教皇権を認めるアルメニア典礼カトリック教会が成立。

C ルネサンスへの刺激

:ギリシアから多くの知識人が亡命し、ギリシア語文献が伝わったことで、これまでプラトン哲学などに関心を示しながらもギリシア語が読めなかったフィレンツェなどの人文主義者たちがギリシア哲学に触れることが可能に。

   

以上の3点になります。中でも、Cについてはまず、ビザンツ学者のプレトンによるプラトン哲学講義によってフィレンツェのプラトン熱が高揚したため、コジモ=デ=メディチによるプラトン=アカデミーがはじめられます。この中で、フィチーノをはじめとする人文主義者が集い、愛や美をめぐる知的な討論、異教的な思想が醸成されていきます。また、フィレンツェでは美術面でもボッティチェリ「春」、「ヴィーナスの誕生」などが生まれる思想的土壌を育んだと言えるでしょう。ですが、上にあげたA~Cのうち、設問の要求である「15世紀イタリア社会に与えた影響」として適切なものはCのみです。また、かろうじて世界史の教科書に出てくるレベルの知識もCのみですが、それにしても内容的には薄いでしょう。「東西キリスト教世界の交流」については書きようがありません。バーゼル公会議(1431)にフェラーラ公会議・フィレンツェ公会議(1437-39)なんて『詳説世界史研究』にすら一字も出てきません。ちなみに、比較的2003年に近い2000年版の『詳説世界史研究』にはこのあたりの事情について以下のような記述になっています。

 

P.191に「後期ビザンツ帝国」の項目があり、パラエオロゴス朝(1261-1453)についても記述がありますが、「…ニコポリスの戦い(1396)で敗れ、その後も敗退を続けた。そして1453年メフメト2世率いるオスマン軍によりコンスタンティノープルが陥落…」と、見事に該当箇所はすっ飛ばされています。

P.306に「オスマン帝国の拡大」の項目がありますが、ここも「1402年アナトリアに侵入したティムールにアンカラの戦いにおいて敗れ、捕虜のみのまま死去し、これによってオスマン朝の征服戦は一時中断した。メフメト2世は、1453年コンスタンティノープルを約10万の兵を率いて包囲…」とあり、こちらも一字も言及されていません。

P.228には「参考」としてメディチ家のプラトン=アカデミーについてのコラムがやや詳しく載っています。コジモ、ロレンツォなどのパトロンの名やブルネレスキ・ギベルティ・マルシリオ=フィチーノといった文化人の名はいくらか挙げられていますが、ビザンツとの絡みは一切かかれていません。

・おそらく、唯一当時のビザンツのルネサンスへの影響について示されているのは、P.192の「ビザンツ文化」の項目です。ここにはビザンツ文化の歴史的意義のひとつとして12世紀ルネサンスをあげた上で「さらにイタリア=ルネサンスの開花にも影響を与えた」としか書いていません。

 

 つまり、2003年当時の受験生にとって、この年の一橋の大問1は「どうしようもない」、「手の出しようがない」のです。では、彼らにはどんな道が残されていたのでしょうか。解答作成への道を探ってみたいと思います。

 

[解答作成の道順] 

・高得点を取ることは至難。というより不可能に近い。

・世界史の参考書レベルの知識でどうにかするとすれば以下の流れがベスト。

 

  オスマンのバルカン進出について軽くアピールする

:もっとも、コソヴォの戦い(1389)、ニコポリスの戦い(1396)はともに14世紀末なので厳密には不適切な上、アンカラの戦い(1402)でオスマンのバヤジット1世はティムールに敗れるので、使い方が難しいです。実際のところ、アンカラの戦いでオスマンのバルカン進撃が停滞したということをきちんと把握している受験生がどれだけいるでしょうか。

  とりあえず、ビザンツ皇帝が援軍を求めにやってきたことを書く。

:これは、設問に書いてあるから書けますね。ヨハネスの名前は出せなくても、時期的にビザンツの最後の王朝ですからパラエオロゴス朝の名前をあげることは不可能ではありません。

  ギリシアの学者や文献の流入がルネサンスを刺激したことを示す。

:これも、12世紀ルネサンスの流れが理解できていれば、イタリア=ルネサンス期に 同様の流れがあったことを理解することは難しくありませんし、多分きちんと勉強している受験生なら知っていることです。

   ルネサンスとギリシア哲学を結びつけることが可能な具体例を探す。

:なかなか実例が出てこなくて困るかもしれませんが、幸いなことにルネサンスの中心であるフィレンツェがこうした舞台なわけですから、フィレンツェにおけるルネサンスの展開を思い出してみましょう。その中で「プラトン=アカデミー」の名前を思いだせたらしめたものです。「プラトン→ギリシア!」の連想から、少し膨らませて書いてみましょう。『詳説世界史研究』を舐めるように読んでいる人であれば、他にもフィチーノ、人文主義者などのキーワードを思いつくことは可能なはずです。『チェーザレ』を読んでいれば『ニコマコス倫理学』なんていうワードももしかしたら出てくるかもしれませんw

 

以上の①~④をふまえて、「何とか周りの受験生とは差がつかない程度の不時着的な解答をつくるとすればどのあたりが限界か」を考えてつくった解答が以下のものになります。

 

[解答例]

 コソヴォの戦いやニコポリスの戦いでセルビアやハンガリーの一部を支配したものの、ティムールにアンカラの戦いで敗れたことでバルカン半島への進出を停滞させていたオスマン帝国は、15世紀前半にバルカン地域への拡大を再開した。この動きに脅威を抱いたパラエオロゴス朝の皇帝は、西欧諸国に対して援助を請うため自ら西欧へと赴いたが、これを契機に多くのビザンツの学者が東方貿易によって富を蓄積して発展していた北イタリア諸都市の貴族や人文主義者たちと交流することになった。ビザンツ帝国の学者との交流や書籍の流入はイタリアの人々の古代ギリシア哲学への理解を深めさせることにつながり、イタリア=ルネサンスが花開く一つの原因ともなった。特に、銀行業などによってメディチ家が力をつけてきていたフィレンツェでは、当主であるコジモによってプラトン=アカデミーと呼ばれる人文主義者の集まりが開かれ、フィチーノなどの人文主義者を輩出した。(400字)

 

正直、このあたりが限界でしょう。逆に言えば、このくらいの解答であれば「書こうと思えば書ける」レベルのものであるということになります。当然、上の解答は十分に設問の要求には答えきれていない、満点解答にはほど遠い内容のものです。(たとえば、「東西キリスト教世界の交流」のあたりはほぼスルーしていますね)。ですが、「周りの受験生と比べたときに、大きく減点はされない」という視点から見れば、この解答は十分に合格答案なのです。俗に「悪問」と呼ばれる類の問題が出た場合、「いかに他の受験生と差がつかないようにするか」を考えることが最善手です。なぜなら、その問題が本当に「悪問」であれば「他の受験生も同じように書けない」からです。ここは重要です。もし他の受験生が書けてしまうようであればそれは「悪問」ではなく、単に「その人にとって難しい設問」であるにすぎません。

 では、どうすれば「他の受験生と差がつかない」ようにすることができるでしょうか。方法はいくつかありますが、まず何よりも大切なのは「設問の要求を外さない」ことです。これは何度も言いますが論述問題を解く際の基本です。どんなに無茶な要求であっても、大きな方向性として設問の要求から外れてはいけません。次に、「歴史的事実に基づいて書く」ということです。いくらわからないからと言って全くのウソを書いてしまっては意味がありません。自分の知っている知識の範囲で、関連するものはないか必死に絞り出してみましょう。さらに「設問から読み取れることをヒントにする」ことも大切です。今回の設問は、情報的には少ないとはいえ、「ビザンツ皇帝が西欧に自ら援軍を求めてきたこと」は読み取れました。ここからは「オスマン帝国がバルカン半島への進出を再開したこと」がかなり確証をもって推測できますので、これを15世紀初頭のアンカラの戦いと結びつけて書けば、一定の歴史的事実をしめすことができます。また、「パラエオロゴス朝」が導かれたのも設問をヒントとしてです。そして最後に「情報を総合して確度の高い推量を行う」ことです。今回で言えば、「イタリア社会に与えた影響」というのがルネサンスへの刺激であったこと、そしてそれがギリシア文化人とフィレンツェを中心とする人文主義者との交流にあったことなどはおそらく間違いのないことだということは推量できます。こうしたことを積み重ねていけば、2003年のようなどうしようもない「悪問」が出たとしても何とか対処することはできるわけです。

 

いかがだったでしょうか?「そんなことできるわけがない」と思うかもしれませんし、「何だ、この程度しか書けないのか」と思われるかもしれません。もちろん、先に示した解答例ほどのものが書けなくてもよいのです。要は、「周りの受験生と比べて遜色ないものに仕上げること。」この部分をしっかりとらえていけば、どんな事態にも落ち着いて対処できると思います。そしてこれは多分、「悪問」や「奇問」が出たときだけのことではありません。結局受験というものは、「(その大学を受験する)平均的受験生よりも、自分は一歩先を行けたか」ということに尽きるからです。もし「不測の事態」に出会ったとしても自信を持って対処してください。みなさんの努力はきっとそういう時に何かしらの形で力になってくれると思います。

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 先日、ブログを友人に見せたところ「イタリア戦争の項目って面白いけど、これ両シチリア王国の話でイタリア戦争の部分ほとんどなくねw」と言われましたw しかり、ごもっとも。ただ、これは何もHANDが手抜きをしたからとかいうことではなくて、単純に受験生に必要な情報に絞って書いたらこうなりましたよ、ということなんです。イタリア戦争については戦争の経過自体よりも「戦争に至るまでのイタリア周辺の政治状況の概略」と「イタリア戦争中に形成される大きな構図(ヴァロワ家フランスvsハプスブルク家)」、「イタリア戦争の意義(ルネサンスの衰退・主権国家体制の形成開始など)」が世界史では問われるので、そこに情報を絞ったんですね。ただ、こちらをご覧になる方の中にはイタリア戦争自体の概略を知りたい、という方もいらっしゃるかと思いますので、少し視点を変えてイタリア戦争について詳述しておきたいと思います。(この部分は特に世界史で頻出というわけではありませんし、おそらく知らなくてもどうにかなる部分かとは思いますので注意して下さい。ただし、稀に一橋などでちょっとはっちゃけちゃった場合に出題されることがありますw)

 

 まずは、イタリア戦争までのイタリア周辺の政治状況を概観してみましょう。おおざっぱにいうと、11世紀頃までのイタリアは北イタリアを神聖ローマ帝国、南イタリアを東ローマ帝国、シチリアをイスラーム勢力、さらには教皇領と4分されていました。ただし、この勢力図は実際には名目上のもので、イタリアの各地にはコムーネをはじめとする小国家が成立しており、これがその時々の勢力に応じて神聖ローマ帝国ないし東ローマ帝国の権威に服したり、逆に同盟を組んでこれらに対抗したりしていました。簡単に整理すればこのようになります。

 

(北イタリア)

 フランクによる制圧までは東ゴート王国→東ローマ帝国→ランゴバルドの支配、9世紀以降は中部フランクの支配下に入ります。この時期において特筆すべきことは、ラヴェンナが東ローマのイタリア支配の拠点となっていくことでしょう。本来、東ローマの派遣した部隊長的立場にあった東ゴート王国(テオドリックは東ローマ皇帝ゼノンによって派遣されています)のイタリア支配に否定的だったユスティニアヌスは東ゴートを征服してラヴェンナを占領。以降、この地は東ローマのイタリア支配の中心となる総督府がおかれる都市となります。サン=ヴィターレ聖堂(548年完成)に例のユスティニアヌスと皇后テオドラの肖像が描かれたモザイクがあるのはこのことによります。


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Wikipedia「サン=ヴィターレ聖堂」より引用)

 

 ですが、東ローマの影響力の低下とローマ教皇との対立の中で、東ローマのイタリア支配は難しくなり、8世紀の前半にはランゴバルド族にここを奪われます。その後は、フランク王国の侵入とピピンの寄進にいたるまでの受験生にはおなじみの流れになりますね。10世紀頃からは神聖ローマ帝国のイタリア政策に悩まされます。典型的なものがシュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝)のフリードリヒ1世などですが、これに対抗してイタリアでは1167年にロンバルディア同盟がミラノを中心にボローニャ・パルマ・マントヴァ・パドヴァなどのロンバルディア諸都市により結成され、1176年にレニャーノの戦いでフリードリヒ1世の軍を撃退した後も継続され、イタリアの教皇党(ゲルフ)の中心となります。一方で、イタリア内の皇帝党(ギベリン)の存在や、ローマ教皇との関係などにより、神聖ローマ皇帝がどの程度の影響力を有していたかは時代によってたえず変化しました。

 

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クリーム:ビザンツ帝国

オレンジ:ランゴバルド系の諸国

ピンク:係争地

Wikipediaより引用、8世紀初頭のイタリアです。)

 

(中部・南イタリア)

 南イタリアの多くの部分はランゴバルド系のベネヴェント公国の支配下に入りましたが、周辺諸地域は東ローマ(ビザンツ)帝国や、これから派生したアマルフィ公国、イスラームが支配するシチリア首長国などが乱立していました。理解しておきたいのは東ローマの影響力低下にともない、イスラーム勢力の浸透が見られたことです。もともとは東ローマの支配下におかれていたシチリアでしたが、この島を治めていた総督が東ローマに反乱を起こした際に援助を求めたことがきっかけで、アッバース朝支配下の独立政権アグラブ朝がシチリア島に侵入、これを段階的に制圧します。これにより、シチリアにはおよそ200年にわたってアグラブ朝系のイスラーム勢力であるシチリア首長国(831-1072)が成立することになりました。よく、シチリア島で育ったシュタウフェン朝のフリードリヒ2世の宗教的寛容性やイスラーム文化の受容、近代的視点などが言われ、テレビの特集番組などで紹介されることがありますが、その背景にはこうしたシチリア島や南イタリアの歴史的背景があるのです。

 

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10世紀末イタリア」

WikipediaList of historic states of Italy」より引用)

 

 その後、こうした様々な勢力が割拠していたイタリアに、ノルマン人たち、なかでもフランス・ノルマンディー公国で次第に貴族化したノルマン系貴族たちが入り込んできます。そのきっかけははっきりしませんが、「サレルノ伝承」と呼ばれる半伝説的な記録によれば、イスラームからの貢納要求に困っていた当地の領主のために働いたことがきっかけで、南イタリアで傭兵として働けばかなりの褒賞を得ることができるという噂が当時ヨーロッパで盛んになってきていた巡礼者の口を通して伝わったことからであるようです。このようにして入り込んできたノルマン系貴族の中に、ロベール=ギスカールとルッジェーロ1世がいたわけですね。彼らは、教皇のお墨付きをいただいて南イタリアの各地を統合していきます。


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1112年イタリア」

WikipediaList of historic states of Italy」より引用)

 

 その後、彼らが征した南イタリアをルッジェーロ1世の子、ルッジェーロ2世が継承して(両)シチリア王国となったことは以前「あると便利なテーマ史に書いた通りです。


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http://imillecoloridinapolii.blogspot.jp/より引用)

 

13世紀以降のイタリア)

 さて、それ以後のイタリアですが、皆さんもご存じの通り、北イタリアでは各地にコムーネと呼ばれる都市共和国や、シニョリーア制(もともとは都市共和国などであったものが、臨時に独裁官を任命することをきっかけに終身、世襲の僭主となること)などから発展した公国が成立します。代表的なものにはヴェネツィア、フィレンツェ、ジェノヴァ、シエナなどのコムーネやミラノ公国(ヴィスコンティ家)やフェラーラ公国(エステ家)などがあります。

 

 また、南イタリアでは、12世紀から13世紀にかけてはシュタウフェン朝が統治していた(両)シチリア王国(当時はシチリアと後のナポリ王国の領域を含めた全域が「シチリア王国」とよばれていました)でしたが、フリードリヒ2世死後の後継者争いの中で、教皇の支持を受けたフランス貴族アンジュー家のシャルル(シャルル=ダンジュー、ルイ8世子、ルイ9世弟)が兄ルイ9世の承認を受けてシチリア王国に侵入し、フリードリヒ2世の庶子であったマンフレーディを敗死させてカルロ1世としてシチリア王に即位しました(1266年)。

 

 ところが、突然やってきたこのフランス系貴族の支配にシチリア王国の民衆は不満を募らせていきます。当時、カルロ1世(シャルル=ダンジュー)は姻戚関係から滅亡したラテン帝国(1261年滅亡、最後の皇帝ボードゥアン2世の息子フィリップがシャルル=ダンジューの娘婿)の継承権を主張して東ローマ帝国のミカエル8世(パラエオロゴス朝)と対立していたため、住民から強制徴発などを行っていたとも言われます。こうしたカルロ1世に対する不満が噴出したのが1282年のシチリアの晩鐘(晩祷)とよばれる暴動事件です。事件の背後にはアンジュー家による地中海支配を恐れるイベリア半島のアラゴン家や、東ローマ皇帝ミカエル8世の謀略があったとする説もありますが、いずれにせよこの暴動事件に端を発する混乱の中でカルロ1世はシチリア島からの撤退を余儀なくされ、シチリア島にはこの混乱に乗じてカルロ1世を破ったアラゴン家のペドロ3世が侵入して、カルロ1世に敗れて死んだかつてのシチリア王マンフレーディの娘婿であることを理由として王位につきました。一方、シチリア島を追い出されたカルロ1世は南イタリアに逃れてこの地を確保し、あらためてナポリ王として即位します。その結果、それまでは「シチリア王」という称号のもとに統治されていたシチリア島とイタリア半島南部は「シチリア王国(アラゴン家)」と「ナポリ王国(アンジュー家)」の二つの王国に分割されていくことになります。

 

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14世紀イタリア」

https://jp.pinterest.com/pin/534309943262026426/より引用)

 

 

 その後、しばらくの間ナポリ王国はアンジュー家の支配下にありますが、15世紀に出たジョヴァンナ2世(女性)に後継者がなく、ジョヴァンナがその後継者に一度はアラゴン王アルフォンソ5世を指名したことなどがきっかけとなって、ジョヴァンナの死後にアンジュー家とアルフォンソ5世がナポリの領有をめぐって争います。この戦いに勝利したアルフォンソ5世はナポリ王位を獲得し、これ以降シチリア、ナポリともにアラゴン系の家系がこれを領有していくことになります。このように、南部においてシュタウフェン家→アンジュー家→アラゴン家とそれぞれ神聖ローマ帝国、フランス、イベリア半島と縁の深い家系が覇を競う一方で、北方のコムーネや諸侯国も周辺の大国や教皇との力関係の中で割拠する状態にありました。

 

 ですが、15世紀半ばのルネサンスが花開かんとしつつも群雄が割拠する時代に、イタリア半島全土を揺るがす大事件が起こります。オスマン帝国のメフメト2世によるコンスタンティノープル占領(1453)です。この事件が起こる前兆はすでに十数年前からイタリアにも届いていました。東ローマ皇帝ヨハネス8世(パラエオロゴス朝)が参加したバーゼル公会議(1431)とフェラーラ公会議(1438-39)です。両公会議は、1054年の正式分裂以来東西に分かれていたギリシア正教会ならびにローマ=カトリック教会の合同を餌として、オスマン帝国に対する十字軍の協力を西欧諸国から得るためにヨハネス8世が画策して開かれたものでした。ちなみに、この会議の際に多くのギリシア人学者がイタリアに来たことが、ルネサンスをさらに促進させることにつながったと言われています。一時は東西教会合同の署名が交わされるまでにいたった両会議でしたが、東ローマにおける人々の反対は根強く、ヨハネス8世の意に反してこの署名は教会、人民の総反対のもとで反故にされてしまいます。また、何とかこの合意に基づいて教皇の要請により派遣されたハンガリー王兼ポーランド王ウラースロー1世(ヴワディスワフ3世)の軍はオスマン帝国のムラト2世の軍に敗れ、ウラースロー自身も戦死してしまいました。

 

 実は、オスマン帝国のバルカン半島への進軍は15世紀の初めにある事情で停止していました。アンカラの戦い(1402)です。ムラト1世以来、アドリアノープル遷都(1366)、コソヴォの戦い(1389)、ニコポリスの戦い(1396)と、14世紀後半に着実にバルカン半島の奥へと侵攻してきていたオスマン帝国でしたが、後方に起こったティムールと雌雄を決したアンカラの戦いで皇帝バヤジット1世は捕らえられ、帝国は一時大混乱に陥ります。このため、バルカン半島への進行もストップします。

 

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ムラト1世時代の支配域の拡大

Wikipedia「ムラト1世」より引用)

 

 オスマンの攻勢に手を焼いていた東ローマ帝国では、ヨハネス8世の父であるマヌエル2世がこの好機をとらえて外交交渉に腐心し、オスマン帝国メフメト1世との間に友好的な外交関係を築き上げることに成功しました。しかし、その子のヨハネス8世はオスマン帝国に対する強硬策を主張し、メフメト1世の後を継いだばかりのムラト2世に対抗する、対立スルタンを擁立するという奸計を巡らせた上に失敗します。つまり、寝かしつけた虎の尾を踏んで起こしてしまったのです。先のバーゼル公会議、フェラーラ公会議は、オスマン帝国に追い詰められたヨハネス8世の苦肉の策でした。しかし、それも成果を上げることはなく、東ローマ帝国はヨハネス8世の次のコンスタンティノス11世がコンスタンティノープルでその命を散らした時に長い歴史に幕を下ろしました。

 

さて、この事態に驚いたのがイタリアの諸国です。それまでは自分たちの利益ばかり考えて半島内の勢力争いを行っていましたが、オスマン帝国が迫ってくるとなると話は別です。当面の争いは置いておいて、まずは共同戦線をはろうということで、イタリア半島の国際関係を安定させることにしました。その結果結ばれたのが「ローディの和(1454)」と呼ばれる和約です。イタリアを代表する当時の五大国(教皇領、ナポリ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア)が交わしたこの和平協定によりイタリアの政局は安定し、その後数十年にわたる盛期ルネサンス時代が訪れます。ボッティチェリも、レオナルド=ダ=ヴィンチも、ミケランジェロも、ラファエロもみんなこの時代に現われたのです。「イタリア戦争」が始まったのは、こうした15世紀の繁栄が終わりを告げようという、また一方では新たな世界への扉が開かれんとする、そんな時代だったのです。

 

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1494年、イタリア半島

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Italy_1494_AD.pngより引用)

 

(イタリア戦争)

ローディの和の一角が崩れ始めたのは1492年、コロンブスが新大陸を「発見」したこの年に、フィレンツェのロレンツォ=デ=メディチが病没します。メディチ家を継いだのは若干20歳のピエロ=デ=メディチでした。

 

 ロレンツォの死

©惣領冬実『チェーザレ』(一部編集)

 

このことが周辺諸国の不安を煽ります。中でも不安に陥ったのはミラノ公国の実質的な支配者であったルドヴィーコ=スフォルツァでした。背後に大国フランスを抱えるミラノ公国の状況をよく知るルドヴィーコは、ロレンツォのいなくなったフィレンツェとの同盟関係の見直しに入ります。当時、ルドヴィーコは、甥のジャン=ガレアッツォから実権を奪う形でミラノ公国を取り仕切っていました。そして、そのジャンが1494年に亡くなったことをきっかけに正式にミラノ公位につきます。ところが、ジャンの妻であるイザベラ=ダラゴーナがナポリ王アルフォンソ2世の娘であったことからアルフォンソがこれに異議を唱えます。こうして、イタリア半島内における自身の立場が怪しくなったことを悟ったルドヴィーコはフランスに接近し、フランス王シャルル8世にナポリ王位の正式な継承権はフランス王家にあるのではないかとたきつけて自領の通行権を認め、フランス軍を北イタリアに引き入れます。フィレンツェのピエロはこの際、戦乱を嫌うフィレンツェ市民によって追放されてしまいました。フィレンツェはナポリ王位を要求して南イタリアへと進軍するシャルル8世のフランス軍の通行を許可します。イタリア戦争の始まりです。(ちなみに、この出来事を予見していたとされたサヴォナローラがその後フィレンツェで信望を集め、フィレンツェでは数年間彼の神権政治が展開されます。)

 

一時は2万を超す大軍を擁してイタリア入りしたシャルル8世でしたが、ナポリをはじめ、ナポリの親類筋のスペイン(カスティーリャ・アラゴン)や、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ教皇、神聖ローマ帝国、さらに一度はフランスについていたはずのミラノ公国のルドヴィーコらが連合軍を組織したことで追い詰められ、目的(ナポリ王位の継承)を果たせぬままに撤退します。その後、シャルル8世の後を継いだルイ12世(シャルル8世の義兄)は、再度遺恨の残るミラノ公国やナポリ王国への進軍を計画しますが、失敗に終わります。

その後もいくつかの小競り合いが続きますが、イタリア情勢が新展開を見せるのは1519年の神聖ローマ皇帝選出選挙です。この選挙ではフランスのフランソワ1世が対立候補として名乗りを挙げましたが、ハプスブルク家を継いだカール5世(カルロス1世)がこれを撃退し、神聖ローマ皇帝に選出されます。このことで、自領をハプスブルク領に囲まれることになったフランソワ1世は、自国防衛の拠点を確保するため、ピレネー山脈やネーデルラントで軍事行動を起こし、さらに停止していたイタリアでの戦闘も再開されました。

 

 ハプスブルク家

http://tabisuru-c.com/travel/germany_201205/germany_history/germany6.htmより引用した地図を一部改変)

 

この戦いの中で、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国とスペイン、教皇とそれに味方するイタリア諸侯、イングランド(当時はヘンリー8世)などを敵に回し、国際的に孤立したフランソワ1世は、遠く離れたオスマン帝国のスレイマン1世の宮廷へ使節を派遣し、カール5世と対抗させる同盟関係を構築することになります。(この中で、後のカピチュレーション[オスマン帝国による恩恵的諸特権]の素地が作られていくことになるわけです。)このようにしてヨーロッパのみならず、地中海全域を巻き込んだ戦いはヴァロワ家、ハプスブルク家の双方を疲弊させ、財政難にあえがせることになりました。カール5世の退位(1556年)をきっかけとして、これらの国々の次代の王たち(フランスのアンリ2世、スペインのフェリペ2世)によってカトー=カンブレジ和約が締結されたのは1559年のことです。イタリア戦争は、アンジュー家のシャルルの頃から続くイタリア領有の夢をかなえることなく、ハプスブルク家の優位を16世紀ヨーロッパにつくりだして終わりました。フランスが、ハプスブルク家に対してその遺恨を晴らすのは、三十年戦争後の1648年、ウェストファリア条約を締結するブルボン家の統治においてでした。

 


詳説世界史ノート

(詳説世界史ノート編集部編、山川出版社、2014年版)

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 山川は「〇〇ノート」と名のつく学習ノート形式のものを非常に数多く出しています。これらの学習ノートは外見も非常に似ており、本屋の店頭に行くとこれでもかというくらいにおいてあるので、受験生からすると「そもそもこいつらは役に立つのか。いや、それ以前にこれらはどのような違いがあるのだろう」と迷ってしまうというのがこの山川の学習ノート群です。ためしに、いくつか例を挙げてみると、

 

・『詳説世界史ノート』

・『授業用 詳説世界史B整理ノート』

・『詳説世界史学習ノート:上』

・『詳説世界史学習ノート:下』

・『流れ図で攻略詳説世界史』

・『詳説世界史スタンダードテスト』

 

などなど。とにかく似ています。そっくりです。どれくらい似ているのか。

まず、学校の教科書などとして使われている「詳説世界史B」です。

 

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つづいて、『詳説世界史ノート(本書)』です。

 

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『流れ図で攻略:詳説世界史B』です。

 

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詳説世界史スタンダードテストです。

 

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これらが同じような水色の表紙に包まれて本屋に陳列されている様は
さながらスライムなのか水色のぷよぷよなのかわからない連中が群れをなしているかのようです。開いてみると、内容的にも一見、「む、どこに差があるのだろうか」と思わせるほどよく似ています。その違いはおいおい解説していきますが、これだけ似ているものを、そっくりなタイトルでドカドカと同じ場所において、ろくに各参考書、問題集の使い方の区別をユーザーに丁寧に示さないというのはどれだけ殿様商売なんだ、と思いますw 用語集にもその手の傲慢さは透けて見えますねw「オラ、オレ様は山川の用語集だぞ?受験生なんだろ?買えよ!は?使い方?そんなもんはテメーで考えろ!」みたいなw くぬどんかよw

 
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これらの学習ノート・問題集群の中でおそらくもっともよく見かけ、さらに受験用のまとめに適しているだろうと思われるのがこの『詳説世界史ノート』です。本書の「使い方」として、表紙カバーには以下のようにあります。

 

このノートは、『詳説世界史』の流れに沿ったノートです。教科書に完全準拠しているので、授業の予習・復習はもちろん、受験のための自宅学習にも最適です。

 

また、本書の冒頭にある「内容と使用法」にはこのように書いてあります。

 

 『詳説世界史』に完全準拠しており、教科書の構成・本文の流れに忠実に沿ってつくられています。内容は教科書の記述を逸脱せず、過不足なく整理されております。

 

たしかに、その通りなのでしょう。実際、私もその通りだと思います。学習ノートとしてよく練ってあると思いますし、仮にこれを一般の中高における世界史プリントとしてそのまま用いたとしても、特に問題なく使用できるレベルに仕上がっていると思います。

 

ただ、ここで注意しなくてはならない点があります。それは、ここでいう『詳説世界史』とは、高校の教科書として用いられる『詳説世界史B』のことをさしているのであって、私が最初に紹介した受験生のバイブル『詳説世界史研究』のことを言っているのではない、ということ(多分)です。実際、本書を手に取って実際に進めてみると、『詳説世界史研究』と比べるとやや内容が薄いことに気付きます。このことが何を意味しているかというと、本書を解き進めるだけで東大をはじめとする難関国公立ならびに早慶の難関学部に対応するだけの学力が身につくかは「微妙」だということです(身につかない、と言っているのではありません。使い方次第です。)要は、『詳説世界史研究』の方が情報が濃いのです。これは本書の出来が悪いと言っているのではなく、単純にその目的とするハードルが違うのです。つまり、本書はあくまでも教科書『詳説世界史B』のまとめ用の学習ノートに過ぎず、『詳説世界史研究』のまとめ用学習ノートではない、ということです。ちなみに、『詳説世界史研究』はこちらです。


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このことさえ踏まえれば、本書は『詳説世界史B』を教科書として使っている学校の定期考査対策としては十分に使えます。また、大学受験用としても、ある程度のレベルであれば十分対応は可能でしょう。私の感覚としては、偏差60強までの大学とセンター試験であればかなり対応できるのではないでしょうか。また、この学習ノートをもとにしてよりレベルの高い大学用の勉強を進めることも可能です。要は、情報量が足りないのならば足してやればいいわけで、たとえば『詳説世界史研究』を傍らにおきながら、本書を進めていき、足りない情報があれば本書に直接書き加えていくという方法を取ればよいわけです。

 

もっとも、そうした方法はすでに自分で『詳説世界史研究』をベースに効果的な学習スタイルを確立している人には必要ないでしょう。たとえば、学校の先生が作る副教材(プリントなど)が十分に東大、早慶に対応するに足る内容を備えていて、それらを使って学習を進めている場合や、自学自習で『詳説世界史研究』レベルの内容を自らノートにまとめている場合、『詳説世界史研究』にダイレクトにチェックペンひいて頭に叩き込んでいる場合などです。

 

いつもと同じことですが、要は使いようなわけです。教科書に準拠して同じ出版社から出ているものですから、出来としては十分です。ただ、「純粋に」本書だけで学習した場合、偏差70近辺の大学で高得点を狙うことは難しいでしょう。一方で、少し背伸びをして通史を学習したいと考えている「世界史を習って半年~1年目くらいの高校1年生または高校2年生」や、ざっと通史を教科書レベルの内容でおさらいしておきたい高3生には向いていると思います。ですが、図表・地図が少ない&コラムが少ないのは短所ですね。良くも悪くも「教科書を逸脱しない」内容になっていて、遊び心と言うか、面白みに欠ける気がします。
 
 正直、
HANDとしては地図が少ないという時点で、かなり減点です。まとめ用のノートですから、地理的なことは知っているだろうという前提でそうしているのでしょうが、世界史を覚える作業において地理情報の有無は大きくその成果を左右します。また、多くの場合世界史を勉強している受験生の多くが地理的な情報を十分に自分のものとして消化していないのが現状です。みなさんは、「イラン」といったらどこ、「トルキスタン」といったらどこ、と言うように頭の中におおまかな地図が出てくるでしょうか。こういった、「地名を聞けばだいたいどこのことか分かる」という感覚は世界史を勉強する上でとても重要です。HAND自身が授業をする時は、くどいくらいに地理的な位置関係を示しつつ(実際に画像を見せつつ)説明します。しかし、多くの先生方や学習参考書は、(私の経験上ですが)一度解説してしまった地理情報はほとんど説明しません。そうすると、生徒は「バルカン半島」と言われると「あー、なんとなくヨーロッパの東の方?」のような理解でとどまってしまっているのに、先生の方ではセルブ=クロアート=スロヴェーン王国であるとか、セルビア、ルーマニア、モンテネグロの独立なんてことを滔々と語りだすというギャップが生じます。こうなると「理解したつもりで実は全然理解していない」受験生の出来上がりです。もし地名を聞いた時に「まだイメージとして自然にはわいてこないな…」と感じるときには、こうした地理的な情報に敏感になるように注意して、基本的な位置関係だけは押さえるようにすると理解も深まり、学習効率も大きく上がってくると思いますよ。東欧については、ベーメン、ハンガリー、ポーランド、ブルガリア、ルーマニア、セルビアと言われた時におよその位置関係はつかめる、くらいになっているというのが理想です。

 

 ちょっと脱線してしまいましたが、本書はこんな感じになっています。

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右側に内容がプリント風にまとめてあって、左側に番号に入る言葉を入れていく形式ですね。ですが、HANDはこのやり方で本書を利用することはおすすめしません。HANDがもし本書を使うならこうします。

スライド2
おわかりになるでしょうか?つまり、ダイレクトに書きこんでいってしまうということです。本気で覚えるつもりなら絶対にこうしたほうがいいです。理由は二つあります。一つは、もし左の「解答欄」に答えを書き入れた場合、必ず目は「右→左→右→左…」というように往復を繰り返します。これが思いのほかに負担になりますし、なにより時間のロスにつながります。二つ目ですが、経験則で申し訳ないのですが、HANDは記憶にとって「視覚情報」は非常に重要だと思っています。「目で」見た印象というのは意外に頭に残っていたり、忘れてしまったとしても何かの拍子に「ひょいっ」と飛び出してくるものなのです。直接書き込んだ場合、その単語を見たときの視覚情報はその周辺の情報も連れてきてくれる、引き出してくれる可能性がありますが、「解答欄」に書きこんでしまった場合、右の「まとめページ」の情報と左の「解答欄」の情報が断絶してしまい、「視覚情報」からは何も引き出せなくなってしまいます。これが本番では意外に大きな差となって出てくる、というのがHANDの印象です。こうしたことは、本書の活用に限らず、たとえば地図を覚えるときにも当てはまります。下の例を見てみましょう。(ちなみに、この地図はHANDが無料の白地図サイトから保存したフランスの地図を加工して作ったもので、本書の内容とは無関係です。)

 

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Aはダメな例、Bが良い例です。一目瞭然だと思いますが、Bの方は名前を覚えると同時にその都市がある「場所」の情報も一緒に視覚情報として取り入れることができます。何かを覚えて、自分の知識として消化する場合、こうした何気ない小さなことが大きな差となってあらわれることがありますので、「なかなか覚えられないな」という風に感じている人は、自分の学習方法に何か改善できる点があるのではないかと疑ってみましょう。

 

[本書が向いている人]

・世界史を習い始めたが、自分で「世界史B」の教科書レベルの内容をある程度まとめて、覚えてみたいという人。(高1、高2)←とくにオススメ!

・様々な理由から、「世界史B」の教科書レベルの通史をざっとおさらいをしたいという人(高2、高3)

・あまり細かい説明はどうでもいいので、とりあえず必要最低限のつながりと用語だけ頭に叩き込んでおきたいという人。

・センター試験レベルの世界史に最低限対応できる力を急遽(2か月~半年程度)で身につけたいという人。

・東大、早慶クラスは正直あまり考えていないという人。

・『詳説世界史研究』を用いて自学自習しているが、その前提となる書き込み用教材が欲しいという人。←かなりオススメ!(ただし、余白はあまりないのですごく細かくなる覚悟を)

・学校や塾の先生がめんどくさがりであまり副教材を作ってくれない&板書もしょぼくてまとめのしようがない、という人。←特にオススメ!

 

[本書をあまりオススメしない人]

・東大、早慶レベルの世界史に真っ向から立ち向かって高得点をゲットしたい人。

・話の細かい流れ、説明がないと満足できない人、覚えにくい人。

・図表や地理情報も含めて世界史を理解したい人。

・すでに偏差65以上の成績を模試で取ることができる人。

・学校や塾の先生から十分なレベルのプリントなどの副教材を与えられている人。

・学校や塾の先生の板書が充実していて、それをまとめれば教科書レベルの内容はきちんとわかるようになっている人。

・『詳説世界史研究』を用いて自学自習が進められている人。

 


HANDのところにはよく「プリントが全然覚えられないんです。頑張って勉強はしているんですが、間に合わなくて…」という子が相談に来ます。実際「ものすごく」とまでは言わないにせよ自分が使える時間の中できちんとそれなりの時間をかけてやっている様子ですから、本人が困っている様子は伝わってきます。

 

ちなみにHANDにとって「ものすごく頑張る」といった場合、吐き気をもよおすレベルで勉強することを指しています。HANDが高校の頃は「10時間ぶっ通しで『詳説世界史』とにらめっこ」、「10行分の文章丸ごと暗唱」とかはザラでしたw 英単語ターゲットは14001900の両方をセンター試験が終わってから購入して、早稲田の2次試験までの一か月強で全部覚えました。HANDは高3の頃は全然勉強していなかったので、そもそもターゲットの存在自体を知りませんでしたw 国語と社会の偏差が70upで平常運転(平均点次第で変わるんですが72-78くらいですか。マークだと満点とっても70前半が限界ですしw)だったので「英語と数学できなくても行けるかなー(楽観)」と思ってたんですが、甘かったですねw 当時の英語と数学の偏差は下手すると50を割ってくるレベルでした。ところが、ターゲット覚えただけで英語の偏差は10以上上がりましたね。いかに自分が勉強していなかったかがよくわかりましたw 元々知ってましたけどw おかげで数学に集中できたので最終的には普通に東大や一橋に通るだろうくらいの成績までは上がりました。

 

 現代文ができる人は、英語は英単語さえ覚えれば長文の内容が何となくわかるようになりますので、あとは努力次第でどうにかなりますよ。HANDが英語をそれなりに扱えるようになったのは30歳過ぎてイギリスに留学してからですね。さすがに自分のお金で後がない勉強を強いられるとやりますねw 英語は英文の学術専門書の1~3冊も真面目に自力で読むようになれば自然と身につきますので、高校生のうちに苦手だからと言って気にしなくても大丈夫です。会話はしゃべらないとだめですねw そのうち留学の話なんかもUPしてみようかな。手続きとかえらい面倒でしたし。

あ、大学受験の結果は、浪人して一橋・早稲田×4・慶応などに合格しました。119勝でしたね。落ちたのは上智の法(上智の英語はエグイ!大問1題あたりかけられる時間が10分ないって何だw)と、東大の後期が思ったよりも基準高くてやられました。センター試験で失敗したんですよねぇ。その年は旧課程と新課程の入れ替わりの時期で、高3生と浪人生で数学の問題が違ったんですが、浪人生の方が数学で20点以上平均点が低い超凶悪な問題でしたw 普通数学受けさせたら浪人生の方が高くなるはずなのに現役の方が20点も高いんですからねw そのあおりをくらっちゃいました。今の高3生と高2生がちょうど制度の入れ替え期ですから、そういう意味でも十分に注意してほしいところですね。

 

あ、脱線しまくりですね。そうそう、生徒が「プリントが覚えられない」と困っているとき、HANDは「これは指導が必要かな」と思ったらマンツーマンで(生徒が複数の時もありますが)、「覚え方」から指導しています。これはごくごく基本的な方法で別に目新しくも何にもありませんし、HANDが高校生の頃にも普通にやっていたことなんですが、どうもやり方を知らない子たちがたくさんいるみたいなんですね。そこで、この方法を示してあげて一緒に暗記してみると「全然覚えられない」と言っていた子でもそれなりに頭に入るようになります。人によっては急激に改善して覚えることが苦にならない子も出てきます。そこで、今回は実際にプリントを使いながら、どうやって覚えるのか、その手順を示していきたいと思います。ちなみに、今回使うプリントはHANDが講習のために作った通貨・金融史のプリントの解答です。

 

  まず、絶対にしてはいけないのが、ページ全体に目を通して覚えて、再度一番前に戻る、という手順を繰り返すやり方です。(画像はクリックで拡大、さらにクリックでもっと拡大できます。)

 

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これははっきり言って一度にインプットする量が多すぎて処理しきれません。冒頭に戻った時にはすでに内容を忘れているから、また読んで…の繰り返しで非常に効率が悪いです。効率を高めるためにも、まず以下の手順を試してみてください。

 

  とりあえず、何が書いてあるのか話の概要を理解する。

:「人類の誕生」について書いてあるのか「フランス革命」について書いてあるのかくらいの大雑把な内容くらいは把握しておきましょう。

 

  プリント全体の地図を描く(プリント全体をブロック化する)

:上のプリント(画像)で言えば、1に「鋳造貨幣」、2に「紙幣」についての話が書いてあるんだな、くらいの理解で十分です。

 

  ③で理解したテーマごとに、自分がまず覚えるべきブロックを見定めます。


スライド2
 

テーマを確認するためにも、これから自分が覚えようとする内容が何であるか、見出し語には注意を払いましょう。


 スライド3

 

  少し量が多いかな、と感じたらそのブロックをキリのいいところでさらに細分化してみましょう。基準としては、覚えるべき内容が4語~10語程度が無理もなくて最適です。


 スライド4

 

  自分で決めたブロックだけを集中してものすごく短い時間で覚えます。覚えるべき言葉が4語であれば、長くて2分もあれば十分でしょう。肝心なのは、2分と時間を決めたらそこでやめること。また、周辺の内容もある程度は把握しておきましょう。


スライド5

 

  2分経ったら、覚えているかどうかをチェックしましょう。一人でやってもいいですが、友達と出し合いっこをする方が手間もかからず時間も省けて効果的です。もし、半分程度しか覚えていないようでしたら再度時間を短くして覚えます。おそらく、これが終わる段階で覚えている内容がゼロ、ということはあまりないはずです。



  終わったら、次のブロックも同じ手順を繰り返します。できるだけ、単語だけに目をとらわれるのではなく、関連事項と結びつけるようにしましょう。それがヒントになって思い出せることが増えてきます。


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  いくらか進んで一つのテーマがおわったら、全体を把握するために再度目を通して頭の中に入れた知識を「ならし」ます。2~3分で十分でしょう。

 

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  最初のブロックが終わったら次に進みます。


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おそらく、プリント1枚につき4~5分割くらいが一回に覚えるのに最適な分量です。「無理がない」というのが一つのポイントです。過度な負担をかけると、疲労感だけがたまって肝心の内容が頭に入っていないということになりがちです。全ての作業が終わることには、20分から30分程度でプリント一枚分の暗記が完了しています。

 

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基本的な手順は以上の通りなのですが、効果的に行うためにも、以下の点に注意しておくとよいでしょう。

 

・ダラダラとはやらない。超短期、超集中!なので、疲れてきたら休みましょう。その意味でも、一夜漬けはおススメしません。1時間、長くて2時間半が限度でしょう。

・中国史の場合、漢字の書きがあっているかどうかにこの段階でこだわるのはやめましょう。まずは「ことば」と「内容」が頭に入っているかどうかにこだわって、漢字などの細かい部分は最後の「ならし」の時に確認して、怪しいものがあればマーカーや目印などでチェックをつけておきましょう。できるだけ一度にいれる情報量が少なくなるようにするのがコツ。

やりっぱなしにしない。一度覚えたら、その日のうち、3日後、一週間後、どこでもいいですから必ず「思い出す」作業を行いましょう。一度覚えたことは、3日~1週間たつと急激に失われるそうですが、それまでに再度「思い出す」ことで定着を図ることができます。その際、実際にプリントを開く必要は必ずしもありません。むしろ、自分で「思い出す」作業を行うことが肝心です。極端な話、授業を聞いた後で帰りの電車の中で「今日はHAND先生は何の授業をしてたっけなー」と考えるだけでもかなりの意味があります。

・何度かやっているうちに、「いつもここだけ忘れている」、「ここだけは注意しないと」というところがあれば、そこにマーカーなりで印をつけておくとやり直すときに便利です。やり直しをする時には、すでに覚えているところは省いて、覚えていないところだけを集中してインプットするようにすれば、時間も労力も短縮できる上に、自分が覚えなくてはならない対象に集中することができます。勉強すればするほど自分の労力が減るような学習をすることが効果的です。

 

今回の「プリント暗記法」は以上です。他にもいろいろ工夫の仕方はありますが、まずは自分の出来る範囲で試してみてくださいね!
 

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