世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

2016年10月

 東大2014年度問題解説の方でもお話していた通り、今回は受験生にはイマイチ理解できない露土戦争以降のサン=ステファノ条約とベルリン会議(ベルリン条約)の意味を確認しておきたいと思います。ついでといっては何ですが、ロシアの南下政策と東方問題を含めてまとめておいた方が良いかなと思いますので、19世紀全体にわたるロシアの黒海・バルカン方面進出とそれに対するイギリスの対応をまとめておきましょう。

 

 高校世界史で扱われる東方問題は基本的に19世紀のオスマン領をめぐる国際的諸問題を指します。山川の『改訂版 世界史Ⓑ用語集』(2012年版)には「東方問題」について「19世紀にオスマン帝国の領土と民族問題をめぐって生じた国際的諸問題を、西欧列強の側から表現した言葉。オスマン帝国の衰退に乗じて、支配下の諸民族の独立運動が激しくなり、それに西欧列強が干渉して起こった。」となっています。ただ、これは狭義の定義で、歴史学的には東方問題といった場合、もう少し広くとって18世紀ロシアの拡大政策から考えることもありますし、さらに広くとって14世紀頃からのオスマン対ヨーロッパの対立図式を指してこのように言うこともあります。

 実際に「東方問題」という言葉が歴史上作られていくのはギリシア独立戦争(1821-1829)が始まった時期です。大学受験をする際には、原則として山川大明神の言うことに従っておけば良いわけですが、より深い歴史的理解のためには、18世紀からのロシアの拡大が視野にある方が良いかもしれません。

 

 高校世界史では「東方問題」の書き出しをエジプト=トルコ戦争から書き出すことが多いです。ただ、前述の通り、ロシアの南下はすでに18世紀の段階から着実に進んでおります。中でも注目しておくべきなのはキュチュク=カイナルジ(カイナルジャ)条約(1774です。エカチェリーナ2世の時代に戦われたロシア=トルコ戦争(1768-1774、露土戦争は高校世界史では1877-1878の露土戦争だけが紹介されていますが、実際にはロシアとトルコの間には18世紀から19世紀を通して数次にわたる戦争が展開されています)の結果、両国はキュチュク=カイナルジ条約を締結し、①ロシアの黒海自由通行権、②ロシア商船のボスフォラス=ダーダネルス両海峡の通行権、③オスマン帝国内のギリシア正教徒保護権付与(ロシア皇帝に対して)、④オスマン帝国のクリム=ハン国に対する保護権、などの内容を取り決めました。これにより、ロシアは大きく黒海方面へと進出し、オスマン帝国が宗主権を放棄したクリム=ハン国は、この条約から間もない1783年にロシアによって併合されることになります。

こうしたロシアの南下はギリシア独立戦争とその末期におけるトルコーロシア間の戦争の結果としてのアドリアノープル条約によって一時的には成功をおさめたかに見えます。しかし、こうしたロシアの南下成功は、この後のイギリスを中心とする諸国の外交と干渉によって再三阻止されていくことになり、1877-1878年にかけての露土戦争とその後の戦後処理によって、ロシアのバルカン半島における南下は一時完全に停滞することになります。この一連の流れは19世紀を通して「ギリシア独立戦争→エジプト=トルコ戦争(第1次・第2次)→クリミア戦争→露土戦争」と続くわけですが、この流れ自体はかなり有名な流れですし、みなさんご存じのところでもあると思いますので、簡単に図示した上で、わかりにくい、または気づきにくいポイントをいくつか示しておきたいと思います。

 
東方問題図表
 

(クリック2回で拡大)

 

ポイント① ギリシア独立戦争とその結果

 

 さて、ギリシア独立戦争はギリシアがオスマン=トルコ帝国から独立しようとしたことがきっかけで起こる戦争ですが、このギリシアの独立は当時ヨーロッパ周辺で高揚していたナショナリズムと強い関連があります。ナポレオンのヨーロッパ大陸支配とフランス革命の理念である自由・平等という考え方の伝播は、「ナショナリズム」と「自由主義」という二つの大きな思潮を生み出しました。1815年のウィーン体制は、多民族国家を瓦解させかねない「ナショナリズム」と、君主による専制政治と貴族支配を脅かしかねない「自由主義」を抑圧するために墺・露が中心となって作り上げた体制でしたが、早くも1810年代からこれらの動きは大きなうねりとなってヨーロッパの各地で噴出します。1820年代にはデカブリストの乱(露)、カルボナリの運動(伊)、ラテンアメリカ諸国の独立など、各地でナショナリズム、自由主義の動きが渦巻いているわけですが、こうした動きの中にギリシアの独立運動も位置付けることができるわけです。当時、ギリシア独立を率いていたのはイプシランティ(イプシランティス)という人物でしたが、彼が所属した秘密結社「フィリキ=エテリア」はオスマン=トルコの「専制」支配から「ギリシア」と「ギリシア人」の政治を取り戻すための戦いを準備するわけで、これはまさに当時の風潮とピッタリなわけですね。

 

 こうしたギリシアの独立を支援したのもヨーロッパのロマン主義者でした。ところで、このロマン主義というのは実はナショナリズムと密接に関連しています。ロマン主義の起こる前、18世紀におけるヨーロッパの文化的トレンドはロココ、そして新古典主義でしたが、これらはどちらもその中心はフランス、ヴェルサイユでした。ロココなどはルイ15世の愛人、ポンパドゥール夫人を中心とする宮廷人のサロン文化の中で花開きますし、新古典はナポレオンが皇帝に即位したことで英雄主義的側面を強く打ち出すために発展します。18世紀のヨーロッパの人々はフランス文化、特にフランス絶対王政期の宮廷文化を最先端のモードとして受容していたわけです。

 ところが、ナポレオンの大陸支配以降は様子が違ってきます。旧支配階層はもちろんのこと、解放者かと思いきや結局は他国からやってきた支配者に過ぎなかったナポレオンに「自由・平等」を求めたヨーロッパの人々は失望し、反ナポレオン・反フランス感情を高めていきます。そうした中で、「最先端のフランス」に対する「憧れ」は消え失せ、新たに「自分たち自身のルーツや、良さとは何か」を探求するようになっていきます。これがつまり、土着の文化に価値を見出し、恋愛賛美・民族意識の称揚、中世への憧憬などの特徴を持つロマン主義になっていきます。グリム兄弟が土着の民話を収集していくなどを想定するとわかりやすいです(もっとも、グリムはどちらかというと後期ロマン主義に分類される人々ですが)。こうしたロマン主義者にとって、ヨーロッパの源流たる「ギリシア人」たちがイスラームの帝国オスマン=トルコの専制支配から自由と平等を取り戻すために闘う、というテーマはとても甘美で、彼らの心を動かすテーマだったわけで、バイロンなんかは熱に浮かされて燃え尽きちゃうわけですね。とっても中二病で素敵ですw

 
_1826
 

「バイロンの死(Wikipediaより)」

 

 こうした中で戦われたギリシア独立戦争ですが、ギリシアを支援した露・英・仏など各国の思惑は当然ロマン主義の熱によるものだけではありません。それぞれ、バルカン半島や黒海沿岸、地中海東岸地域へ進出する機会をうかがってのことです。ですが、オーストリアだけは自国が多民族国家であることもあり、ギリシアのナショナリズムを容認するわけにもいきません。ここはウィーン体制の原則に従い静観、ということになりました。

 1827年に英仏露連合艦隊とオスマン帝国との間に偶発的な衝突が起き、ナヴァリノの海戦が発生します。この戦争にトルコ軍が敗北したことで、この戦争は大きく転換していきます。戦争終盤の1828年に、ロシアはトルコと戦端を開きます。これに勝利した露は、オスマン帝国との間にアドリアノープル条約を締結します。戦勝による講和条約ですから、その内容は以下のようにロシアに有利な内容となっていました。

 

  ギリシアの自治承認

:トルコの影響力が減少する半面、独立運動を支えてきた露の影響力は大きく増大

  黒海沿岸地域の一部を露へ

  モルダヴィア、ワラキア(両地域が後のルーマニア)、セルビアの自治承認

:同じく、歴史的にスラヴ系民族が多く、ギリシア正教とも多い地域に対する露の影響力が増大します。


Rom1793-1812


1793-1812頃のルーマニア地域[モルダヴィア・ワラキア・トランシルヴァニア]

Wikipedia

 

  ボスフォラス、ダーダネルス両海峡のロシア船舶の通行権

:これは、ロシアの船舶が黒海からエーゲ海に出て地中海方面に進出することを可能にします。


 svg

(赤い部分がボスフォラス海峡、黄色がダーダネルス海峡:Wikipedia

 

 つまり、アドリアノープル条約は明確にロシアの南下を成功させた条約だったのですが、これにイギリスがかみつきます。特に、ギリシアの自治国化は、国としての立場が弱く、ロシアの影響力を受けやすくなると考えたことから、イギリスはギリシアの完全独立を主張してすでに1827年から開催されていたロンドン会議の席上でこれを認めさせます。これにより、ギリシアは1830年に完全な独立国として出発することになりました。

 

ポイント② エジプト=トルコ戦争とその結果

 

 続いて、このギリシア独立戦争でオスマン帝国の属国という立場で戦争協力をしたエジプトのムハンマド=アリーが見返りを要求したことが発端となって、2度にわたるエジプト=トルコ戦争が展開されます。戦争の経過については図表を参照していただければよいのですが、ポイントはやはりウンキャル=スケレッシ条約です。この条約の性質をよく理解できていない受験生が実は多いのですね。ウンキャル=スケレッシ条約というのは、トルコとロシアの間で締結された相互援助条約であり、一種の軍事同盟です。なぜ、ギリシア独立戦争では敵同士で、かつ南下政策を展開するロシアとトルコとの間でこのような条約ができたのでしょう。

 実は、この時期ロシアはトルコの属国化を狙っています。また、トルコの方では弱体化する中でエジプトをはじめとする外敵に対応するためにうまくロシアからの援助を引き出そうと狙っていました。こうした中で、エジプトとトルコの戦争が始まるとロシアはトルコの側を支援します。ところが、ロシアの東方地域におけるさらなる影響力拡大を懸念する英仏はトルコに圧力をかけて無理やり講和を結ばせます。これがキュタヒヤ条約(1833)ですが、この条約でトルコはエジプトにシリアをはじめとする広大な領域を割譲させられる羽目になりました。これに怒ったトルコはロシアとの相互援助条約であるウンキャル=スケレッシ条約を結び、その秘密条項においてロシア艦隊のボスフォラス、ダーダネルス両海峡の独占通行権を与えます。これは同地域におけるロシアの軍事的プレゼンスを大きく高める内容であったことから、英はこれに不満を持つことになります。

 その後、二度目のエジプト=トルコ戦争が起き、その講和会議であるロンドン会議が開かれると、イギリスの外相で、後に首相を務めることにもなるパーマストンがこの問題の調整に乗り出します。その結果、ここで締結されたロンドン条約では以下の内容が取り決められます。

 

  エジプトはエジプト・スーダンの世襲統治権が与えられた(オスマン宗主権下)

  シリアはエジプトからトルコに返還

  ボスフォラス、ダーダネルス両海峡の軍艦通行を禁止

 

 中でも、③の条項は先にロシアがトルコと単独で結んだウンキャル=スケレッシ条約を無効化することを意味していました。さらに、この時点では英・露・墺・普の間の取り決めにすぎませんでしたが、翌年に仏を加えて五国海峡協定として承認させます。これにより、パーマストンは「フランスが影響力を高めるエジプトが勢力を強めることを防ぐ」ということと、「ロシアの地中海東岸地域における軍事的プレゼンスの排除」という二つの目的を見事に達成し、外交的な勝利を手にしたのです。

 

ポイント③ クリミア戦争とパリ条約

 

 クリミア戦争は「聖地管理権問題が発端」ということはよく言われますが、これも受験生にはイマイチよくわからないところです。当時、キリスト教の聖地イェルサレムはオスマン帝国の支配下にあるのですが、オスマン帝国というのはイスラーム国家ではありますがその帝国内に多数の異教徒を抱えていました。カトリックもそうですし、旧ビザンツ領ではギリシア正教徒も多くいます。また、北アフリカやシリア・パレスチナ地域を中心に単性論の系統をひく諸宗派なども存在していました。イェルサレムにはこうしたキリスト教徒たちにとって信仰の対象となる街区(聖墳墓教会など)があるのですが、こうした部分の管理権は、16世紀ごろからフランス王がカピチュレーションの一環としてオスマン帝国から管理を認められていました。しかし、フランス革命の混乱の中でこの聖地管理権の所在がうやむやになります。こうした中で、ロシアの援助を受けた現地のギリシア正教徒たちが聖地管理権を1851年に獲得すると、国内のカトリックに対する人気取りを画策したフランスのナポレオン3世が横からしゃしゃり出てきてオスマン帝国に再度フランスが聖地を管理することを認めさせ、1852年にこれを回復します。これに不満をもったロシアが聖地管理権を要求し、またカトリックの多いフランスの管理やイスラームであるオスマン帝国の支配からギリシア正教徒を保護するのだということを口実に開戦するというのがクリミア戦争の直接の契機です。

 

 この戦争は難攻不落と思われたセヴァストーポリ要塞を落とされたロシアの敗色が濃い中で終結します。その講和条約として締結されたパリ条約では、1840-41年の取り決め(ロンドン条約や五国海峡協定)の内容が再確認されたほか、黒海の中立化・非武装化が新たに加えられた結果、黒海周辺にあるロシアの軍事施設はすべて撤去されることになりました。さらに、ロシアは1812年にトルコから獲得していた黒海北岸のベッサラビア(現モルドバ、一部はウクライナ)をモルダヴィアに割譲することになりました。

 

 800px-Ukraine-Bessarabia

20世紀のベッサラビア」(Wikipedia

 

 このようにして黒海周辺からはロシアの影響力がかなり排除されることになりました。一方で、すでにアドリアノープル条約で認められていたモルダヴィア、ワラキア、セルビアの自治は再度承認、確認されています。特に、モルダヴィアとワラキアは後にルーマニアとなる地域ですが、この地域は、形式上はオスマン帝国が宗主権を持っていますが、長らくロシアの軍政下に置かれていました。ところが、1840年代に入ると外国(ロシア)による保護制に反対する民族運動が高揚し、反乱が発生します。当時のモルダヴィアならびにワラキアはこれを鎮圧したロシア・トルコ両軍の制圧下にある状態でしたので、その扱いを再度確認する必要があったのです。ですから、これらの地域の自治を承認するということは、再度ロシアが同地域に影響力を与えるきっかけを与えかねないのですが、これを他の諸国は承認します。この段階において、同地域が自治権をもつことは、ロシアのみならずオーストリアをはじめとする諸国にもトルコに代わって同地域に影響力を及ぼすためには悪くないことだからです。つまり、たしかにパリ条約においてロシアは黒海沿岸地域から大きく後退させられましたが、一方的な敗北条約をのませられたというよりはいくらかの妥協の産物としてパリ条約を受け入れたわけです。

 

ポイント④ サン=ステファノ条約とベルリン会議

 

 さて、やっと私が本来書きたかった内容にやってこれました。と言っても、正直一言で済んでしまうのですが。この一言を書くために調子に乗って東方問題のまとめに首を突っ込んでしまったことを今はものすごく後悔していますw 自分の中では把握していることでも、説明するとなるとえらい手間がかかりますし、長くなるものです(;´・ω・)

 さて、それではサン=ステファノ条約とベルリン会議(またはベルリン条約:1878)とは一体何なのでしょうか。以下に、この二つの条約を理解するためのポイントをいくつか紹介していきます。

 

  サン=ステファノ条約は、露土戦争の講和条約で、二国間条約である。

:ある意味当たり前のことなのですが、サン=ステファノ条約はロシアとトルコ間の講和条約です。つまり、戦勝国であるロシアに有利な内容になっています。中でも、ブルガリアについての規定は決定的でした。スラヴ系民族の多いこの地域は、形式上はオスマン帝国の宗主権下で自治国となることが決められましたが、これを履行させるためという名目で、ブルガリアにはロシア軍が駐留することが決められました。実は、ご存じない方が多いのですが、ある地域に他国の軍隊が駐留するということは、「事実上保護国になる」ということとほぼ同義です。例えば、イギリスのエジプト支配についてもウラービー=パシャの反乱を鎮圧した後に「事実上保護国化した」という表現が出てきます。これは、軍隊がその地に駐屯することによって、同地域の治安維持ならびに外交権などに大きな影響を及ぼすことが可能になるためです。つまり、ブルガリアはこのサン=ステファノ条約で実質的にロシアの保護下に置かれることが決まりました。そして、問題であったのはその大ブルガリア公国の領土です。

 

 Bulgaria-SanStefano_-(1878)-byTodorBozhinov

Wikipedia

 

黒い太線でくくられれている部分がサン=ステファノ条約で決められたブルガリアの領土ですが、この領土がエーゲ海に面しているところが重要です。つまり、ロシアはこのブルガリアを事実上の保護下に置くことで、ボスフォラス、ダーダネルス両海峡を経ずして地中海に面する地域に進出することが可能となりました。これはロシアにとって南下政策の大きな進展に他ならなかったのですが、だからこそ英・墺の反発を呼ぶことになったのです。

 

  ベルリン会議(ベルリン条約)では、ブルガリアの性質が大きく変更となった。

(ロシアは地中海への道を閉ざされた)

  :さて、再度上のブルガリアの地図に注目してください。ベルリン会議の結果、ブルガリアの領土は3分割され、大きく縮小されます。ブルガリアは黒海に面した北部の緑がかった部分(うすーく「Principality of Bulgaria」とあるのが見えるでしょうか)のみとなり、黒海に面した南部の赤い部分(東ルメリア)と西南部の茶色っぽい地域(マケドニア)は別のものとされ、東ルメリアはオスマン帝国化の自治州となり、マケドニアはオスマン帝国に返還されてしまいました。つまり、新しいブルガリアは地中海に面する部分をすべて失ってしまったのであり、ロシアの南下政策は再度挫折してしまったのです。また、この時に領土を削減されたブルガリアは失った領土の奪還を目指し、執念を燃やす(大ブルガリア主義)ことになりますが、こうしたことが20世紀に入ってからのバルカン戦争へとつながっていきます。

 

  ベルリン条約では気づいたら英・墺が進出して楔を打ち込む形になっていた。

:これは皆さんご存知のことと思いますが、このベルリン会議でエジプトに利権を持ち、3C政策を展開するイギリスと、パン=ゲルマン主義に基づいて国家統合とバルカン進出を狙うオーストリアがどこを手に入れたのかを再度確認しておきましょう。

 

 キプロス

(キプロス島:イギリスが獲得)
 

 Map_of_Bosnia_Herzegovina_and_neighboring_countries

(ボスニア=ヘルツェゴヴィナ:墺が統治権を獲得)

http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/map/Bosnia_Herzegovina/Map_of_Bosnia_Herzegovina_and_neighboring_countries.htm

 

 英はエジプトの北、地中海東岸に位置し、オスマン帝国の首根っこをおさえるキプロス島を、墺はバルカン進出の要となるボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権を手に入れます。この状態ではロシアの南下政策は完全に「死に体」です。このベルリン会議をうけてロシアの南下政策は「挫折した」と表現されるのはこのような内容によるわけです。「東方問題」は時期によって国際関係の変化(露・墺関係の変化、ウィーン体制の意味など)もありますし、条約の内容もかなり細かいもので、なかなか把握しづらいものです。大きな枠組みは「ロシアの南下政策の挫折」で良いのですが、やはりしっかりと当時の政治状況を理解するためには地理的理解も含めた各条約の内容をしっかりと消化しておくことが大切でしょう。また、このあたりのことをしっかりと把握しておくと、青年トルコ革命や、そのどさくさに紛れた様々な動き(墺のボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合など)、さらにはバルカン戦争なども理解しやすくなると思います。


 

やっと復活できました。いえ、実際にはまだ本調子とは程遠いですね。ゲホゴホ咳ばっかり出ますが、どうにか体力的に余裕が出てきました。もう行事やら試験づくりやらで、本業が忙しくて。「一週間で戻ってくるぜ!」みたいに戦隊モノみたいな捨て台詞を残していたのに本当にすみません。これからまたちょくちょく更新していくつもりですので、なにとぞお見捨てなく。

 

さて、今回は予告しておりました通り、東大2014年の第1問、大論述ですね。個人的な感想ですが「やや難」です。ちなみに、当時の河合も「やや難」ですね、手元の資料見ると。正直、ロシアの拡大政策だけを書くなら東大クラスの受験生なら普通に書けます。多分。数学とか英語が得意で世界史は捨てた、とかではない限り。受験生が出しにくい部分は指定語句がちゃんと示してくれていますし、連想すればアイグン条約も北京条約も三国干渉も出てきますしね。ですから、「事項をただ並べるだけ」ならそれほど苦にはならないんです。

やはり、難しいのは「とりあえず並べてみた事項」を「当時の国際情勢の変化」と結びつけて述べる、というこの部分をどう処理するかにつきます。東大の好きそうなフレームワークの設定ですね。しかも、地味に難しいのは、この「変化」の中に、19世紀前半から後半へという時間的な「タテの変化」(具体的には露墺関係の変化)と、ロシアの進出先の転換という地理的な「ヨコの変化」(クリミア戦争後の中央アジア、極東地域への進出)、ある地域における国際情勢に変化をもたらす「局地的な変化」(極東地域におけるロシアのプレゼンス上昇と極東情勢の変化、日ロ対立の発生、日英の接近など)という複数の変化が混在しているところです。これを600字の中にどう入れるかということが問題になるのですが、やはり字数の関係上、うまく言葉を入れていかないと十分にこれらの変化を示せずに、結局露墺関係の変化と英露対立示して終わり、ってことになりかねないですね。 

 

2014 第1

 問 題 概 要 

(設問の要求)

・ロシアの対外政策がユーラシア各地の国際情勢にもたらした変化について論ぜよ。

・時期はウィーン会議から19世紀末までの間である。

 

(本文から読み取れる条件と留意点)

・西欧列強の対応に注意を払いなさい。

・隣接するさまざまな地域への拡大をロシアの対外政策の基本として示すべきである。

・ロシアの「動向」がカギとなって変化した国際情勢に注目すべきである。

・特にイギリスとの摩擦には注目する。(ただし、他の列強についても注意が必要)

 

(指定語句)

 アフガニスタン / イリ地方 / 沿海州

 クリミア戦争 / トルコマンチャーイ条約

 ベルリン会議(1878年) / ポーランド / 旅順  (順番通り)

 

 解 法 の 手 順 と 分 析、 採 点 基 準

(解法の手順)

1、指定語句の整理またはロシアの対外進出地域の整理

:指定語句の整理から行うこともできますが、19世紀ロシアの対外拡大政策を地域ごとに把握できている人は、まず大まかなユーラシア周辺の地図を頭に思い描くことから始めても良いと思います。というより、その方が時間的に早いかもしれません。この時期のロシアの対外拡大が進められている地域を大まかに分ければ、以下の地域をあげることが可能だと思います。

 

 ・ヨーロッパ(東欧、北欧)

 ・バルカン半島

 ・中央アジア(カフカス地方[コーカサス地方]、トルキスタン)

 ・イランおよびアフガニスタン

 ・極東地域

 

  一方、仮に指定語句を中心にロシアの進出地域をまとめたとしても、以下のように、ほぼ同じような構成になると思います。ちょっと中央アジアの分けがアバウトになる感じですね。こういう時、地理的にカフカス地方、西トルキスタン、東トルキスタンをしっかり把握できている人は中央アジアに対する理解が強いですね。カスピ海とパミール高原を基準にイメージすると割と簡単に把握できるのでそれも別稿で示しますね。

 

 ・ポーランド東欧

 ・クリミア戦争、ベルリン会議バルカン半島

 ・アフガニスタン、イリ地方、トルコマンチャーイ条約中央アジア

 ・沿海州、旅順極東

 

2、設問の要求を精査し、それに沿った形で書くべきテーマを見出す。

 :設問の要求から、書くべき主要な内容がロシアの南下政策とイギリスとの対立(広い意味でのグレート=ゲーム)にあることは容易に想像がつきます。ただ、いくつか条件が付されていることから、それ以外の点にも注意を払う必要が出てくるでしょう。

 

 A、国際情勢の「変化」の「変化」という語

   「変化」というからには、Aという状態や関係性がずっと続くのではなく、BまたはCという別の状態と関係性へと移り変わらなくてはなりません。つまり、関係性の移り変わりを示さずにただ歴史的事項を書き並べただけでは駄目だということ。そのようなものがあるか考えると、とりあえず以下の例を挙げることができるでしょう。

 

   -ウィーン体制における露墺の協調から世紀後半の対立への変化

   -英の独自外交とロシアの南下政策の対立(南下政策の進展と挫折)

   -北東欧地域へのロシア支配の進行とそれに対する民族的反発

   -中央アジアからイラン、アフガニスタン地域における英露の均衡状態の創出

   -極東地域におけるロシアのプレゼンス拡大

 

 B、西欧列強の対応に注意

   「対応」に注意を払えというのですから、対外政策を行うロシアに対して欧米列強が示した反応を中心にまとめればよいでしょう。わかりやすい例としてはエジプト=トルコ戦争後のロンドン会議と五国海峡協定、クリミア戦争とパリ条約、露土戦争とサンステファノ条約に対するベルリン会議(ベルリン条約)などですが、何もこれに限ったことではないと思います。

  

 C、ロシアの「動向」がカギとなる事柄に注目すべき

   これも設問からの理解ですが、基本の構図は「ロシアが動く西欧列強が反応する」というものであることを理解すると話が作りやすいです。

 

 D、イギリスとの摩擦を中心の軸として想定する、べきか?

   これは難しいところですね。設問に示されている部分を読めば、「こうした動きは、イギリスなど他の列強との間に摩擦を引き起こすこともあった」とあるので、英露対立を中心に書けばよいような気になってきます。具体的にはパーマストン外交の勝利、クリミア戦争、ベルリン会議、イラン・アフガニスタンをめぐる抗争とアフガニスタンの緩衝地帯化(グレートゲーム)、極東地域への進出と間接的干渉(アヘン戦争、アロー戦争、日英同盟)などです。

   ですが、設問の設定がウィーン会議を起点としていること、国際情勢の「変化」に注目することを要求している点などを鑑みれば、やはりここはオーストリアとの関係と、19世紀後半の普墺露間の外交関係(ビスマルク外交)を外すわけにはいかないでしょう。イメージで言えば、英4、墺、3、普1、極東1、その他(仏など)1くらいのつもりで書きたいものですが、さて、そううまくいきますかねぇ。

 

3、2から大きな流れを設定する

  :2で考察した内容を踏まえて、大きな流れを設定すると19世紀前半については以下の2点を示すことができます。

 

  A、ウィーン体制(露墺が主導したため、協調関係をとる)

露の南下政策の進展とウィーン体制崩壊によりバルカンをめぐる露墺対立へ

  B、ウィーン体制を主導する露と独自路線を打ち出す英

   露の南下政策をイギリスが阻止(cf. 3C政策)

 

   一方、19世紀後半については、以下のようにこうした流れに一定の変化が起こることについても注意しておくべきでしょう。

  

  C、クリミア戦争後のロシアは、確かにパリ条約の妥協的な内容によってバルカン方面における南下政策の一時的な中断を余儀なくされたが、一方で極東方面や中央アジア方面への進出は成功させた。(cf. アイグン条約、北京条約、ウズベク三ハン国併合、イリ事件etc.) ただし、露土戦争後の展開によってロシアのバルカン方面への南下は完全に頓挫した。

  D、ウィーン体制後のヨーロッパにおける国際関係の変化

    (cf.三帝同盟とその解消、ビスマルク外交、ベルリン会議、露仏同盟など)

 

 どうも、高校の世界史教科書では、やたらと「ロシアの南下政策を阻止した」という流れにしたいらしく、Cの前半部分を強調するのですが、実際にはロシアは中央アジアをガッツリ南下してイラン、アフガニスタンに迫りますし、極東でもしっかり南下を成功させているのですよね。だからこそ、イギリスはアフガニスタンを緩衝地帯化する必要に迫られるわけですし、極東でも次第にロシアの影響力があらわになってきて、最終的には三国干渉、日英同盟、日露戦争のあのおなじみの流れにつながっていくわけです。こうしたロシアをdisってイギリスを持ち上げる歴史の書かれ方はもしかするとヨーロッパ中心史観ならぬ西側中心史観の名残なのかもなぁと思ったりもします。

 冒頭でも書いたように、本設問の「変化」には時間的な「タテの変化」と地理的な「ヨコの変化」と「局地的な情勢変化」などさまざまな変化が混在しています。これをどうまとめるかが腕の見せ所なわけですが、それでもやはり、大きい軸を2本用意しろと言われたら英露関係と露墺関係でしょう。ですから、この部分だけは取りこぼしのないようにしっかりと幹を作って、その上でその他の細かな変化を肉付けしていく方が、間違いが少なくて良いのではないでしょうか。

 

4、1でまとめた地域ごとに関連事項を整理し、3で設定した流れやテーマに沿ってまとめる。

  :基本的には指定語句にプラスアルファしていく形でいいかなと思います。地域ごとの詳細をまた例によって表にしてみましたので参考にしてください。(間違いがあったので一部修正しました。[2016.10.19] ギリシア独立戦争が何故かエジプト独立戦争とかになってました[汗])
 

東大2014

(クリックして拡大) 

 

 解 答 例

 ウィーン議定書でフィンランドとポーランドの君主となりバルト海支配を強化した露は、支配地の民族運動を抑えるため墺と協調した。南下を進める露はトルコマンチャーイ条約でカージャール朝からアルメニアなどを奪い、オスマン支配下のギリシアやエジプトの混乱に乗じ地中海進出を図った。英印の連絡を重視するパーマストンはロンドン会議でウンキャル=スケレッシ条約破棄に成功し、露を妨害した。東方問題が深刻化する中で、クリミア戦争でも地中海進出を阻まれたことで露墺の協調関係が崩れ、独伊の統一やビスマルクによる新たな国際関係構築につながった。矛先を極東へ転じた露は、アイグン条約と北京条約で沿海州に進出、ウラジヴォストークを建設し不凍港を獲得した。また、中央アジアではウズベク3ハン国を併合し、イリ地方をめぐる争いで清との通商を拡大した。3C政策や中国進出を進める英は警戒し、イランへの進出を強め、アフガニスタンを緩衝地帯化して露との均衡状態を作った。汎スラヴ主義高揚で再度バルカン進出を図る露は露土戦争後のサン=ステファノ条約でブルガリアを影響下に置き、地中海への出口を確保したが、スエズ運河を持つ英と汎ゲルマン主義を掲げる墺の反発によるベルリン会議で南下を阻止され、三帝同盟は崩壊した。露は再度極東に進出、三国干渉後に清から旅順、大連の租借権を獲得し朝鮮へも影響力を拡大したことから英は光栄ある孤立を撤回し日に接近した。(600字、2016.10.19UP)
 

 とりあえずで作ってみました。解答としての出来は正直いまいちかなぁと感じてしまうのは、やはり我々世代のアタマだと英露対立をもっと総合的に見たい(だから、アヘン戦争やアロー戦争なんかももっと前面に出したいし、黒海周辺のせめぎあいも示したい)し、墺露(19世紀後半では普墺露)間の関係の変遷ももう少し詳しく示したいし、フランスの立ち位置も示したいのですね。大国主義~w

 ただ、それらを削って本設問に対する解答としての質が多少落ちたとしても、今回解答の中で示してみたいな~と思ったことを盛り込んでみました。それは「ロシアにとって、ヨーロッパって何だ?」っていうこと、そして「中央アジアとひとくくりにしてしまいがちだけど、その中身は地域によってだいぶ違うんだぜ」ということなどに触れておきたかったということです。
 まず、受験生の皆さんには周知のことですがロシアは北方戦争を機にスウェーデンにかわってバルト海に進出します。ピョートルの時ですね。その後もロシアは各方面への拡大を続けますが、特にエカチェリーナ2世期の拡大は目覚ましく、クリミア半島、ポーランドなどへと領土を拡大します。バルト海、ポーランド、黒海北岸…まさに19世紀のロシアの南下政策の前哨戦のようなことを18世紀を通じてやっているわけで、これらは連続しているのですね。そういう意味で、どうしてもウィーン体制というとポーランド立憲王国がクローズアップされがちなんですが、ここではフィンランドにもそれなりの意味を持たせたかった。それまでスウェーデンの支配下にあったフィンランドは1809年にロシアに割譲され、フィンランド大公国としてこの国の大公をロシア皇帝アレクサンドル1世が兼任し(フィンランド大公としてはアレクサンテリ1世)、それがウィーン会議で国際的に承認されます。ですから、まさにポーランドと同じような流れで実質的にロシアの支配下に入りますし、民族運動が強まることもポーランドと類似しています。何より、フィンランドとポーランドを支配下においたロシアはバルト海東岸地域の完全な支配者で、それまでとはヨーロッパに対して示す存在感が圧倒的に異なります。これをお見せしたかったんですね。下は、19世紀のロシアとその影響下にある地域の地図です。


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(http://www.globalsecurity.org/military/world/russia/maps-history.htm)

 また、中央アジアについてですが、当時ロシアが進出していたのは同じ中央アジアでも「カフカス地方」、「西トルキスタン」、「東トルキスタン」と複数あり、それぞれの地域で敵対する相手も、その地域の持つ意味合いもかなり異なります。まず、地理的な把握をしておきましょう。「カフカス地方」は別名を「コーカサス地方」ともいう、黒海とカスピ海に挟まれた地域になります(上の地図を参照)。ここには現在のグルジアやアゼルバイジャン、アルメニアなどがあり(下の図を参照)、豊富な天然資源(アゼルバイジャンのバクー油田などは有名です)もあり、民族構成も複雑で、現在でもチェチェンやナゴルノ=カラバフ、グルジア(ジョージア)などで紛争が起きました。当時ここをロシアと接していたのはカージャール朝イランで、建国したばかりのイランは南下するロシアとの戦いに巻き込まれていきます。トルコマンチャーイ条約が締結されるのはこの時です。

 Caucasus
(Wikipediaより引用)

 一方で、ウズベク人の3ハン国(ボハラ[ブハラ]、ヒヴァ、コーカンド)があるのは西トルキスタンで、これはカスピ海とアラル海をまたいだ地域になります。サマルカンドなんかはこの西トルキスタンの中心都市(現ウズベキスタン)になるわけです。

 torukistan

 こちらもイランと接していますが、この地域にある3ハン国を領有したこと、その後最後まで抵抗するトルクメンをギョクデぺの戦いで制したことは、より直接的にインドを植民地として持ち、イランへの進出を進めて3C政策を展開するイギリスにとっての脅威となりました。これは上の地図を見ればおわかりになるかと思います。そこでイギリスはアフガニスタンを緩衝地帯として保護国化、と言えば聞こえはいいですが、最後の最後でアフガニスタン人の抵抗にこっぴどくやられた結果完全支配することができず、外交面での帳尻合わせをしたに過ぎないかったわけですが、とにかくもロシアとの「住み分け」をする材料を手に入れます。この地域ではその後もしばらく緊張が続きますが、日露戦争でロシアが敗れたこととロシア第一革命(1905)を機に英露協商で同地域(イラン、アフガニスタン、チベット)の勢力圏が設定されることになります。

 また、東トルキスタンは現在の新疆ウイグル自治区です。よくシルクロードの地図ということで、タクラマカン砂漠を中心に天山北路、南路、西域南道などが出てくる地域ですね。実は、イリというのは現在の新疆ウイグル自治区で、まさにこの地域です。

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1944年の東トルキスタン
(http://blog.silkroad-j.lomo.jp/?day=20160106)

 この地域で起こったイスラームの反乱の混乱に乗じて、コーカンド=ハン国の軍人であるヤクブ=ベクが同地域を制圧します。実はヤクブ=ベクはその後イギリスから武器などを援助してもらっています。ヤクブ=ベクによって同地に駐留していた清軍は追い払われてしまったわけですが、この地域にロシア軍が進駐します(1871)。清は左宗棠を派遣してヤクブ=ベクの反乱を鎮圧するのですが、ロシアが占領していたイリ地方をめぐってその帰属が問題となり、最終的にはイリ地方は東部を清が、西部をロシアが領有し、同地におけるロシアの通商権を認めるというかなりロシア寄りの内容のイリ条約(1881)によって決着がつきます。こうした意味で、イリ事件は西トルキスタンをめぐる英露の対立構図も絡んできて、その性格が強い一方、ロシアの清への進出政策の一環としてもとらえうる事件となっています。こうしてみると、中央アジア、とひとくくりに語るのはかなり乱暴だということがお分かりになるのではないかなと思います。
 
 前に書いておいたサン=ステファノ条約とベルリン条約の関係については、別稿を設けてお話しすることにしたいと思います。ではでは。
 

どうも、週末体調崩していたので更新が遅れました、HANDです。東大の2014年解説の方も準備中ですが、ちょっと本業の方が忙しいものでもう少しかかります。一週間以内にはUPしたいなぁと思っておりますので、もう少し待ってくださいね。

さて、今日はそんなわけでとりあえず頭を絞らなくてもサクサク書けて、かつできる限りみなさんの役に立つようなことを書こうと思っていたのですが、思いついたのがコレです。

 

「先生、受験までどんな風に何を勉強したらいいですか?」

 

今日はこれについて、大まかな指針を示せればなぁと思っています。ついでに、いくらかの勉強法についても簡単に紹介します。さて、よくあるこの質問なのですが、個別の対応をすることはそれほど難しくありません。普段からその人の力量や授業に対する姿勢、質問の際の勘の良さ(または鈍さ)、志望校、現在進めている勉強の内容などなど、いくつかの質問をこちらからすれば、「ああ、この子ならこれぐらいの勉強をこういう形で進めるのがベストじゃないかなぁ」という絵がある程度は描けるからです。

もっとも、理想を言えば、こうしたアドバイスは後のケアもあわせてすることが大切ですね。たとえば、5月の段階で理想だと思った進め方でも、夏休みをはさんでその人がどんな勉強をしたかによって、9月の段階では理想形ではなくなることもあります。予想以上に学習が進んでいればペースアップを、逆に予定の量がこなせなかったら仕切り直しの調整をしてあげる必要があるのですね。

本当は、この微調整を各受験生が独自に行えるのが最もよいのです。「自分はこれだけのことができるようになった」とか「自分にはまだこの部分が足りない」ということをできるだけ具体的に把握して、そのための対処を練るということの繰り返しを自然に行える受験生は強い。勉強の仕方というものを心得ていますし、こうした自己分析を正確に行える人はその時々の模試の結果にも揺れません。たとえ一時的に成績が落ち込んだとしても、「ここをしっかり補強すれば大丈夫」、「むしろ今回のテストで覚えていないところがはっきりしてよかった」など、自分の力を伸ばす(成績を上げる、ではないところがミソですね)ためのヴィジョンを持っていますから、必要以上には気にしないわけですね。ただ、そうした「しっかりした人」でもやはり我々「教えること」を専門にしている人間とは経験値の差がありますから、不足している情報というのはどうしてもあります。そこをどうやって補ってあげたらいいのかを考えることは、アドバイスをする時の醍醐味でもありますし、気をつかうところでもあります。

 

ただ、上の質問(受験まで何をしたらいいか)に「汎用の答え」を用意しろ、と言われるとこれはなかなか難しいですよね。その人が高1なのか、高3なのか、浪人生なのかによっても違いますし、4月なのか、夏休みなのか、11月なのかによっても変わりますし、目指す目標によっても大きく変わります。ですから、今日お話しするのはあくまでもいくつかのケースを仮定の話として想定した場合、「最低限これだけはやっておくとあとは五分五分で勝負できるんじゃない?」というくらいの内容を示すつもりでいます。主に対象は高校3年生、または来年の受験を見すえた高校2年生に向けてのお話だと思ってください。高校3年生であれば、「自分はそれだけの量をこなしているかな?」というのを目安にしてもらえればいいですし、高校2年生であれば来年のその時期に「あ、最低でもこのくらいのペースでやればいいんだな」といった目安として活用してもらえればと思います。

 

よく聞かれるのですが、「最大でどれくらいやればいいですか」という質問に対しては「ねぇよ、そんなものわw」とお答えします。勉強に上限なんてありませんよ、できるなら体壊さない程度にやれるだけやったらよろしいのです。当たり前のことですが、体壊してしまったら何にもなりませんからね。でも、本当に勉強に上限はないですよね…マニュスクリプトはさすがに読めますが、曲がりなりにも歴史研究に携わってたくせに古英語もロクに読めなきゃラテン語もダメとか…ほんとに…落ち込むわぁ。やってもやってもキリがないのが学問というものですが、それでも当座の目標達成に必要なラインというものをクリアすることが大切です。高校世界史には幸い、ある一定の枠組みや上限が設定されています。まぁ、どんなにハイレベルな大学でも、『詳説世界史研究』1冊丸暗記できていれば、そうひどいことにはならないはずです。

さて、それではいくつかのケースにわけてどれくらいの量を消化すればいいかを考えてみましょう。具体的な勉強法などは別稿に譲ることにして、まずは分量としてどの程度を見ておけばいいのかを示しておきます。

 

[4月から勉強を開始する場合]

   すでにある程度の通史の履修(半分以上)を終えており、世界史の基礎的知識は頭の中に入っている。

A 目指すのは東大、一橋など論述がメインの難関国公立だ。

 →9月までを目処に以下のものを終わらせましょう。

 ・志望校過去問を過去20カ年にわたり、週1ペースで研究しましょう。

   (月4回だとして、5か月で[夏明けごろ]20カ年分が一周できます)

   ・『詳説世界史研究』、または同レベルの情報量を持つ参考書やプリントを使っての暗記作業。

   ・難関私大向けの問題集(記述式)を少なくとも1冊、できれば2冊。

    :具体的には、簡単なところで『東書の世界史B問題集』、『山川の世界史問題集』、『Z会の世界史100題』あたりは単元ごとに分かれているので使い勝手が良くていいですね。

   ・センター向けのマーク式問題集を1冊。

    :それほどの分量はいりません。駿台の青本(実戦問題集)1周程度で十分かと。

  B 目指すのは早稲田・慶応などの難関私大だ。

    →過去問演習は夏休みに入ってから少しずつで十分です。それまではとにかく通史の把握と暗記に力をさきましょう。9月までに以下のものを終わらせるつもりで。

    ・『詳説世界史研究』、または同レベルの情報量を持つ参考書やプリントを使っての暗記作業。

    ・難関私大向けの問題集(記述式)を2冊(基礎編と応用編)。

     :できれば2周以上行いたい。

    ・センター向けのマーク式問題集を1冊。

     :2度解く必要はないが、見直しに力を入れること。

  C マーチ志望、またはセンターレベルの問題で8割程度をとりたい。

    →9月までに以下のものをつかって通史を抑えましょう。

    ・『詳説世界史B』クラスの学校教科書1冊を丸暗記。余裕があるようであれば『詳説世界史研究』に切り替えも可。

    ・質の良い記述式問題集を1冊、じっくりと仕上げること。

     :解くだけで終わらせず、解きながら特に気になる箇所のまとめや、後で見直せるように問題へのチェックを怠らないこと。できれば、2周、3周と繰り返すと良いですね。

    ・センター向けのマーク式問題集を1冊。

     :同じく、見直しに力を入れること。

 

  全体を通しての注意点

1、見直しが命。

:問題は素早く解く。(論述は除く。大問1問に10分かけるようでは遅い。)見直しにはたっぷり時間をかける。(イメージとしては、大問4つを3040分で解いたら見直しには1時間半。)

2、東大の場合、日本史がメインの時は世界史にかける時間はそこまでこだわらなくてもよい場合もあります。たとえば、『詳説世界史研究』ではなく、『詳説世界史B』をはじめとする教科書で基礎を把握し、残りは問題を解く中で補っていくなど。ただし、これは社会であまり点数を期待していない(英・数・国で点を取りに行く)タイプの受験生に限ります。

3、早稲田や慶応でも、論述のある学部については東大などに準じた形の学習が理想。

    :特に、早稲田の法学部は本格的な論述対策が必要。慶応の場合はもう少し短い形の論述が多いが、経済の論述はデータ解析などの特殊型が主なので、やはり過去問にあたることが望ましい。他にも、短い論述の対策としては前に紹介したZ会の『段階式世界史論述のトレーニング』などや、東大の小論述で練習を積んでおくとよいでしょう。

4、マーチ志望、センター対策の場合はとにかく基礎力(=知識量)をつけること。

:各予備校の模試で偏差62くらいの成績が出るまでは正直なところ基礎的な知識が不足しています。A、B、Cランクの知識で言えばBランクの知識が完全には頭に入っていないです。A、B、Cランクの知識とは、Aランクが一番基礎だとすると「名誉革命」、「ファラオ」、「カノッサの屈辱」、「ハンムラビ法典」、「始皇帝」、「長安」あたりはAランク。Bランクというと「ユトレヒト条約」、「立法議会(仏)」、「鎬京」、「一条鞭法」、「ソロンの改革」あたり。Cランクというと「カルロヴィッツ条約」、「ラシュタット条約」、「アイン=ジャールートの戦い」、「マウントバッテン」、「コムネノス朝」あたりでしょうか。多少手加減はしてる感がありますが。覚えにくいものは挙げればきりがないですね。「ラクナウ協定」とか「呼韓邪単于」とか。要は、ストーリーを構築するうえで必要な要素である、国、王朝、君主、基本的国制、都、戦争、条約、経済・文化のうちメジャーなもの、などを代表的な国や王朝についてうろ覚えでなくしっかり覚えているかどうかということです。マーチやセンター受けるだけならチョーラ朝とパーンディヤ朝の細かい区別をガッツリ覚えている必要はないですし、五代十国のあたりの細かな知識(石敬瑭とか)もいりません。でも、「唐」とか「宋」とか「明」とか言われた時に、建国者や代表的な皇帝、都がうろ覚えでは困る。つまり、そういうことです。

 

   まだ世界史の世の字も入っていない気がする。

:どこを目指すにしても、まずは基礎力が絶対的に不足しています。基本的には①のCのケースをベースとして、急いで世界史の基礎知識の充足をはかりましょう。まだ十分間に合います。入り口として使うものが「詳説世界史B」レベルの教科書ではキツイという場合には、「自分に合う」と感じる教科書や参考書を使っても構いません。ただ、そうした場合でも、できるだけ情報量は多いものを使う方がよいと思います。「覚えていない」と感じていても、実際には何度も見ているうちに体や感覚が「何となく」覚えて、それが選択問題なので効果を発揮したりします。ですが、そもそも情報がゼロではそうした感覚も養いようがありません。「基礎部分だけを覚える」と目標を定めるにしても、まずは一通りの情報に目を通すこと、そして問題集を解くときには解説から目をそらさないことがとても重要です。

 

[10月以降、勉強を進めるのであれば]

   すでに4月から東大などの国公立、早稲田慶応向けの勉強を十分に進めてきた。

・過去問演習を繰り返します。

  :国公立の場合、演習量を増やすのは12月に入ってからでも構いません。直近510年分程度を手厚く、繰り返し演習してみましょう。他校の過去問にもそろそろとりかかかるべきかと思います。基本的には問題演習をベースとして、不足した情報を自分のまとめ教材に書き込む、それを暗記する、苦手箇所をチェックする…を反復することです。その際、必ず自分がどこで間違えたのかや、何点くらいとれたか(配点がわからないときは単純に問題数でパーセンテージ計算でもよい)をチェックしておくことです。1度解いて終わらせず、必ず後で再度解いて前回と比べてみるという作業が必要になります。論述問題については、時間がない場合、あまりにも昔の問題を繰り返す場合には、メモや表、マインドマップの作成で代用しても構いません。とにかく、きちんとした形で「自分の頭を使って整理」をし、「それが正しかったかを確認」する作業を行うことが大切です。

 ・本格的にセンターに取り組みます。

  :センター型の問題集やセンター過去問に取り組みましょう。基本的な目安としては、「実戦問題集2周+過去問5年分×3周(または過去問10年分×3周)」あたりが基本の目安です。これを、大学過去問と同じような手順で進めましょう。ここでも、見直しが命です。

 ・特に見直しておきたい部分だけ、単元別の問題集で復習したり、再度まとめノートをつくるなどする。

  :もうすでに、「書いてまとめる」作業は9月までの段階で終わっています。書いている時間はもうありませんが、どうしても再度関係性を把握したい場合などについてはまとめノートを作ってみるのも良いでしょう。

 ・9月までに解いた問題集の見直しを行う。それが十分にできている場合に限り、力試しに他の問題集を解き進めてみる。

 

 だいたいこんなところですね。1日に社会に取れる時間は2時間といったところでしょう。「週に過去問×2、センター×2、問題集の大問×4程度を解いて、残り二日はまとめの時間」くらいが妥当なのではないでしょうか。(もちろん、やる気になればもっとできますが、他教科との兼ね合い次第ですね。)それでも、「月に過去問×8、センター×8、問題集の単元×4を解いたう上でまとめ」くらいはできますから、12月の冬休み直前ごろまでには「過去問20年分(10年分×2)、センター20年分(10年分×2)、問題集の単元×12にプラスしてまとめや暗記をする時間」がとれることになりますね。あとは、連休や冬休みを利用してペースを巻いていけば、通常のペースで勉強したとしてもかなりの分量の勉強をこなすことができるはずです。その上で、センターが終わる前後からさらに2次試験に向けて大学過去問を繰り返すという作業になります。授業がある場合はその授業を効果的に使うと消費時間が節約できます。大切なことは、継続して、定期的に、大学過去問とセンター過去問やマーク問題集を交互に進めていくことです。いっぺんにやろうとすると必ずムラができます。

正直に言えば、この段階では塾はおすすめしません。塾は「わからないことを紐解く」、「知らないスキルを教わる」ための場所で、「自分の中に情報をインプットし、定着させる場所」であることは稀です。通常、人はスキルを教わってもすぐには活用できません。それを活用できるようになるにはいくらかの時間が必要になるわけで、10月を過ぎた段階でスキルを与えられるくらいなら、一つでも多く自分の中に情報をインプットする時間を確保するべきです。ただし、以下の条件に合う人、または塾に通っていることで自分の力が着実にレベルアップし、役に立っているという人はこの限りではありません。

 

 ・すでに「暗記」の段階は概ね終了したので、あとは「考えを練る」ことや「解答にいたる思考のプロセスやエッセンス」の方を特に重点的に学習したい。

 ・ある程度は「暗記」できている。そのため、塾で授業を聞いたり、問題を解いたりしているうちに自分が忘れていた箇所を自然に思い出すことができ、自分で勉強するよりも効率がいい。

 ・正直、全く理解できない部分があるので、とにかくそのわからない部分をすっきりさせないと前に進めないので塾で解説してほしい。

 

このような場合には、ある程度インプットのための時間を捨てても塾に通う意味はあるかと思います。

 

   9月までさぼっちゃって、まだ全然準備できてないよ…。

:これは正直やばいです。ちょっと荒療治が必要になります。

 

・まず、センター向けの練習(過去問・実戦問題集・マーク式問題集)は定期的に解く・見直しをする時間を作りましょう。

・用いる教科書はやはり「詳説世界史B」クラスの学校教科書が良いでしょう。その上で、試験に頻出の「お前、ここは覚えていないとさすがにやばいだろう」というところだけはみっちり覚えましょう。具体的には、古代ローマ・ギリシアとか、中国で言えば秦・漢・唐・宋・明・清あたり、近代史で言えば絶対王政・啓蒙専制君主・英仏米革命・ナポレオン・帝国主義、現代史なら一次大戦・世界恐慌・二次大戦あたりでしょうか。基準がわからなければ、学校の先生や塾の先生、世界史のよくできる友達に「ここだけは覚えろ章」をピックアップしてもらいましょう。そして、その他の部分は太字だけ覚えて話の流れを理解したらあとはシカトしましょう。

・その上で(あるいはそれと並行して)、「ここだけは落としたくない」大学の過去問を重点的に学習しましょう。各大学には大学ごとの、さらに学部がわかれている場合には学部ごとの設問の特徴のようなものが多かれ少なかれ存在します。それをしっかり把握していると、余分な労力を極力使わずに必要な部分だけをピックアップして強化することもある程度は可能です。ただし、その場合以下の3点に注意してください。

 

 A:「落としたくない大学」とは第一志望の大学とは限りません。たとえば、「第一志望に合格できなければ浪人も辞さず!」と思っている場合には第一志望の大学に重点をおいて勉強するので良いのですが、もし「どうしても現役で!」と考えている場合にはたとえば「この大学だったら行ってもいい第2志望、第3志望の大学の過去問を重点的に学習」という安全策もなくはないです。9月までの段階で全然勉強していないという前提であればむしろアリでしょう。

 B:科目ごとの相性にも気をつけましょう。たとえば、ある大学の社会の過去問を重点的に勉強して、「よし!世界史はばっちり!」と思ったらその大学の英語がどうしても苦手で、「別の大学の世界史をやっておけばよかった…」なんていうことは十分にあり得ます。どの大学の過去問を重点的に学習すればよいのかということは、世界史だけではなく、総合的に判断しましょう。

 C:以上の戦略はセンターについては度外視していることを忘れないでください。もし、一部の単元や項目だけに特化した学習の仕方をするのであれば、それとは別にセンター向けの勉強を少し厚めにやっておきましょう。もちろん、センターを受験しないというのであれば、その限りではありません。

 いずれにしても、この方法で身につくのは世界史のほんの一部に過ぎません。ちょっと視点を変えた問題や、過去問とは全く違う傾向の問題が出てきたときには完全にお手上げです。余裕が出てきたら、できる限り他の学校、単元、問題集にも手を出して、インプットの幅を広げることを忘れないでください。

 

 さて、以上になりますが、いかがでしたでしょうか。かなり簡潔にまとめたので十分に書けなかった部分もあります。特に、具体的な勉強法ですね。問題集はこんなふうに進めようとか、できなかったところのチェックはこうするとあとでわかりやすいとか…時間のある時にその辺の工夫もあげていければと思います。それ以外にも何かリクエストやご質問があればお時間あるときに対応させていただきますね(できる限りでですがw)。ひとによって状況は様々でしょうが、その時その時で適した学習法は異なってくるかと思います。遮二無二学習を進めることが何より大切ですが、少し余裕ができたら自分のすべきことを整理してみる時間も大切だと思います、頑張ってください!

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