世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

2019年02月

 この2年くらい「パン=イスラミズムくる(かもしれない)で~。くる(かもしれない)で~」と言い続けて、特に誰にも要求されていないのに講習でもトルコトルコしてたのに女性参政権とかでかわされ続けてましたが、ようやく出てくれましたね。これで「全然出ないじゃないですかw」と嘲笑されずにすみますw もっとも、はじめから予想する気ないし、当たってもどうせまぐれ当たりとは言い続けていますが、それでも出ると嬉しいw
 これで多分、私大の方でもアフガーニーの出題頻度また増えるんでしょうねぇ。問題としてはすごく普通でしたが、トルコ史がっつりパン=イスラム&パン=トルコ込みでやっていく受験生は少数派かもしれないから大変だったのかもしれません。 

 個人的には、むしろ大問2の方が難しいな、と感じました。知っているようでいて正確には書けない問題が多いですね。いずれにしても近いうちにUPしたいと思います。(仕事に余裕があれば)

パン=イスラーム主義やパン=トルコ主義については、

http://history-link-bottega.com/archives/cat_329049.html

http://history-link-bottega.com/archives/cat_213042.html


東方問題については 

http://history-link-bottega.com/archives/cat_253756.html

など、あちこちに言及していますのでご参考までに。 


 

2017年の東京外語は、ある意味ではいつも通りの設問なのですが、例年と比べると時間的な制約を感じる部分が多く、これまで以上に設問を解くにあたってある種の「コツ」が必要になることを意識させる問題となりました。

 東京外語の問題で重要なのは、何と言っても「小問」です。「小問」をいかに取りこぼさないようにするかというのが最重要だと考えてください。外語の小問は「ほぼ」史料とは無関係の一問一答形式で、問題の難度もそれほど高いものではなく、かつ配点の比率が非常に高いです。(2017年については100点満点中70点が小問) ですから、この小問で満点、悪くても1問の取りこぼしですめば、あとは論述で3割~半分も点数が取れれば80点に届きます。それでなくても東京外語は英語がメインの大学で、他の受験生も基本的に「英語好き」、「英語得意」な人で、いわゆる「世界史マニア」が紛れ込んでいる率はそれほど高くありません。ですから、論述のような高度な問題については「どうせ周りもたいしたことは書けやしねぇ」とある程度開き直ることも必要です。ただ、小問の多くのレベルは本当にセンターレベルですので、ここはしっかり拾える勉強くらいはしないと、世界史で足を引っ張ってしまいかねませんので注意してください。

 2017年の問題のレベルを個人的な体感で表にすると以下のようになります。

 2017東京外語設問一覧

 

 以下の解説では、このうち特に解説の必要な小問と、各論述問題について取り上げていきます。

 

【小問解説】

 何度も言いますが、東京外語の小問の多くは、史料を読まなくても、場合によっては設問の大部分を読まなくても解ける一問一答形式の設問がほとんどです。たとえば、以下は大問1の問2の設問です。

 

 下線部②に関連して、アメリカ大陸の銀を掌握したスペインは、香辛料の獲得とカトリック布教を目指して東南アジアに進出し、先行するポルトガルと競合しつつ、フィリピン諸島の領有に成功した。当時、中国商人が運んでくる生糸や陶磁器などの奢侈品を、大型帆船(ガレオン)で太平洋を横断してメキシコのアカプルコまで運び、商品の対価としてメキシコ銀を積載してフィリピンに戻り、これを中国商人が自国の船で中国へ持ち帰っていた。こうしたガレオン交易の拠点で、スペインが1571年にルソン島に建設した都市の名を答えなさい。

 

 長ぇーよw まぁ、この設問を解くのに必要な情報は、ぶっちゃけ赤で示した部分だけです。(これだけでも十分「マニラ」という答えを導くことは可能です。)このように、外語の小問はそのほとんどが設問の末尾の部分だけ見ればわかるようになっています。(このあたりは親切な問題の作りですね。)もし末尾だけ見てもわからない場合には、一通り設問に目を通せばよいわけです。

 普段から外語は時間的な制約がかなりキツイ学校ではあるのですが、今回の設問では大問1の論述が妙に凝っているためにかなり手間がかかり、いつもよりも時間的な制約がタイトになっています。というより「無茶言うな」って感じです。私がこの年の受験生であったならば、まずダッシュで小問を解き、ついで大問2の論述を10分~15分程度で片付けたあとで残り時間は全部大問1の解答作成に使います。それでは、外語の小問を解く時間は何分くらいと想定すべきかというと、かかっても5分です。大問1の論述を考えるとそれ以上はかけられません。なかなか思い出せない問題やわからない問題はとりあえず置いておいて、論述問題に試験時間60分のうちの大半を使うことになると思います。

 

(大問1-問3)

:ポイントは「南ドイツの銀山経営」という部分です。これでアウクスブルクのフッガー家の話をしているということはわかりますが、設問を丁寧に確認しないとミスをします。設問は「(  ③  )の商人」という表現を用いているので、③にはアウクスブルクを入れることができますが、設問が要求しているのはあくまでも「(  ③  )の商人の家名」ですので、解答はフッガー家です。

 

(大問1-問4)

:これはおそらく、マドラスかボンベイかで迷わなければ問題ありません。イギリスのインド拠点はボンベイ・マドラス・カルカッタですが、このうち、「ベンガル湾に面していて南インドにある」という条件を満たすのはマドラス(現チェンナイ)だけです。

 

インド拠点
 

(大問2―問2)

:この問題は難しいですね。つい最近、国立西洋美術館は世界遺産登録をされましたが、その時のニュースをよく見ていた人や美術に普段から関心のある人であれば解けたかもしれません。西美(国立西洋美術館)を設計したのは近代建築の巨匠、ル=コルビュジエです。下は西洋美術館です。

国立西洋美術館
(「国立西洋美術館」Wikipedia)

 

問題とは全く無関係なのですが、私は同じく近代建築の巨匠であるフランク=ロイド=ライトのデザインが好きで、ペンや名刺入れなどもACMEのフランク=ロイド=ライトのデザインをモチーフにしたものを使ったりしていますw とても好きですが、ペンは替え芯の値が少し張ります。もうちょっと安いと嬉しいのですが…。



 フランクロイドライト2

ⒸACME
(大問2-問4)

:一見難しいのですが…。設問の中でも「リーバイ・ストラウス社」と言っているではないですかw リーバイスですよね…。これで違ったら完全に悪意があるとしか思えませんw

 急いで解くと、小さな見落としやミスが生じがちですので注意してください。「急いで解く」と「丁寧に解く」は十分に両立する行為です。この年の小問で、落としていいのは大問2の問2だけだと思います。それで65点を確保し、あとは残りの論述30点のうち何点をもぎ取れるか、という問題ではないでしょうか。

 

【大問1論述(400字)】

(設問概要)

・新大陸の銀がどのような経路をたどってアジアに到達したか説明せよ

・(新大陸の銀が)世界の交易にどのような影響を与えたのか説明せよ

[A][D]の史料、問1~8の設問やそれらの解答を参考にし、利用せよ

・解答の冒頭で、史料[A]の記述をもとに、新大陸産の銀がスペイン本国に運ばれるまでの具体的な流れを簡潔に説明せよ(★)

・指示語:黒人奴隷、生糸、ガレオン交易(使用した箇所に下線)

400字以内

 

 時期は明示されてはいませんが、新大陸の銀の流入がテーマであることと、冒頭のリード文に「現代のグローバルな市場経済の成立の起点は、16世紀半ばのアメリカ大陸における銀山の開発(新大陸銀)と、銀の世界市場への大量流入にあった」とありますので、16世紀以降を想定しておけば良いと思います。この論述は、かなり細々と条件が付いていて、これらを完全にクリアするには相当な手間がかかります。そもそも、外大の論述で完全解答を目指せるのは相当な世界史の知識と短時間で情報を整理し、それを文章として表現するかなりの国語能力を持った人だけです。ですから、完璧な解答を作成することを目指すよりも、まずは小問で確実に得点すること、そして論述ではある程度の点数を確実にキープすることを狙う方が良いと思います。

 その上で、確実に点数をのばすには、設問の要求をきちんとおさえて、それに答えることが重要となります。ですが、史料の読解や設問をなめるように見ながら同時に論述の構成を考えることは非常に困難で時間を使います。そこで、本設問では困難を分割し、まずは解答の大枠をつくること、そして設問要求として挙げられている(★)の部分の答えを考えること、最後に史料をチェックして細かい見落としや話の流れに間違いがないかを確認する、という3段階で進めることをおすすめします。

 

(解答手順1:「解答の大枠」をつくる)

 まずは本設問の二つの主な要求である「①新大陸の銀がどのような経路をたどってアジアに到達したか」と「②新大陸の銀が世界の交易にどのような影響を与えたのか」を考えてみたいと思います。これは、世界史的な知識の問題ですし、少なくとも現在のところは歴史的事実と考えられている内容ですから、史料の内容によって大きく左右される内容ではありません。細かい修正は必要になるでしょうが、全体の流れをまず把握した上で史料に目を通した方が、各資料の「使いどころ」もわかりますし、頭も整理しやすいかと思います。

 

①新大陸の銀がどのような経路をたどってアジアに到達したか

:いろいろなルートはありますが、主要なルートは次のようなものでしょう。

・アカプルコ貿易(ポトシ→メキシコ[アカプルコ]→フィリピン[マニラ]→アジア各地)

・インド航路(喜望峰→インド)→アジア各地

・地中海→レヴァント地方→紅海ルートまたは内陸を経由してアラビア海→アジア各地

・シルクロード、ステップロード

 

このうち、アカプルコ貿易とインド航路が大航海時代以降に特徴的なルートです。対して、伝統的に東方貿易で使われたルートやシルクロード・ステップロードは古くから使われてきたルートです。本設問では設問の意図を考えた場合、アカプルコ貿易やインド航路を利用したルートに重点を置くことを想定しておくと良いでしょう。

 ちなみに、銀の大循環については以前東大への世界史」の中で非常に重要なテーマとしてご紹介したことがあります。こちらに示したAG・フランクの『リオリエント』に掲載されている銀の流入ルートを見ると、当時15世紀~18世紀の銀のおおまかな動きを理解することができると思います。

 

②新大陸の銀が世界の交易にどのような影響を与えたのか

 これについては、実は大問1の冒頭リード文にヒントらしき分が載っています。「国際的な決済手段として十分な量が供給された銀は、国際通貨として、世界各地に展開していた交易圏どうしを結びつけ、大西洋・インド洋・太平洋という3つの大洋を連結する国際的市場経済への道を開いた」という文章からは、銀流入の影響の一つとしてばらばらだった各地の交易圏を結び付けてグローバルな市場経済を成立させたことを想定していることがわかります。また、その舞台として、大西洋・インド洋・太平洋があることもわかります。

 

 これを踏まえた上で、まずは新大陸の銀が各地に与えた影響に関して、教科書的な内容だけさっと挙げてみましょう。

 

[大西洋(ヨーロッパ・新大陸)]

・価格革命

・商業革命(地中海から大西洋沿岸地域へ)

・生活革命

・大西洋三角貿易の成立

・アフリカにおける奴隷市場の形成と人口バランスの崩壊

・アメリカ大陸におけるプランテーションの発展とモノカルチャー経済

[インド洋]

・ヨーロッパの進出とムスリム商人との競合

・中継点としてのイスファハンの繁栄

・インドにおける英仏の進出

・ムスリム商人の交易ルート変更と東南アジアのイスラーム化(スンダ海峡ルート)

[太平洋]

・ヨーロッパの進出(香辛料貿易の独占、日中などをつなぐ中継貿易)

・中国などにおける税制の変化(一条鞭法、地丁銀)

・沿岸部の都市か発展と内陸部の穀倉地帯化

・商品経済の発展や都市化にともなう物価の高騰と農村の窮乏

 

これらは、必ずしも「世界の交易」に影響を与えた内容ではないので、特に「世界の交易」に対する影響として注意した方がいいものをこの中からピックアップすることになります。その辺を意識しながら大枠をまとめると、だいたい以下のような流れは骨組みとして用意できるかと思います。

 

ボリビアのポトシ銀山で採掘された銀は、メキシコのアカプルコ港を通してアジアに、カリブ海を経由してヨーロッパに流入し、商業の中心が北イタリア諸都市から大西洋岸の都市に移った。新大陸では鉱山やプランテーション経営の労働力として西アフリカから黒人奴隷が運ばれ、銀や商品作物をヨーロッパへ送り、ヨーロッパの製品が新大陸やアフリカに輸出される大西洋三角貿易が成立した。アジアには、スペインがマニラに運んだ銀が交易を活発化させ、日中間の中継貿易などが盛んにおこなわれた。銀は香辛料貿易を独占したポルトガルによってインド航路経由でももたらされ、陸海交易の中継点であるイスファハンの繁栄や、インド沿岸諸都市の発展を促し、英仏のインド進出につながった。また、ポルトガルがマラッカ海峡を押さえたことでムスリム商人たちは交易をスンダ海峡経由のルートに変化させ、周辺地域のイスラーム化が進んだが、17世紀からはオランダが代わって香辛料貿易を独占し、台湾を拠点に東・南シナ海域の中継貿易を展開した。(435字)

 

これはあくまで、頭の中で「だいたいこんな流れかなー」というものを文章化したもの(実際の試験場では書きません!そんな時間はありませんw)で、解答というわけではありません。(そもそも設問が400字以内ですから。) この骨組みを確認しつつ、設問の条件や史料の内容に合わせて削ったり、つけ足したりしていきます。

 

(解答手順2:「★」の部分の答えを用意する)

 本設問では、解答の冒頭に「史料[A]の記述をもとに、新大陸産の銀がスペイン本国に運ばれるまでの具体的な流れを簡潔に説明せよ」という要求があります。これは比較的はっきりとした答えを用意できる部分(少なくとも、史料を読めば答えが書いてある部分)なので、取りこぼしのないように丁寧に作っておきたい部分ですね。ただ、この設問の言う「具体的な流れ」というのが何のことを示しているのか漠然としています。この「流れ」というのが、「手順・手続き上の流れ」なのか、「交易のルートや商品が運ばれる流れ」なのかが判然としません。ただ、史料[A]を読むと、出てくる地名は新大陸の中で完結していて、ヨーロッパにいたる交易のルートを読み取ることはできませんので、求められているのは「手順・手続き上の流れ」であることが分かります。

 史料[A]において、鉱脈が発見された後、ヨーロッパに銀が運ばれるまでの描写を読み取ると、以下のような内容を読み取ることができます。

 

①発見した鉱脈を登記し、坑打する

(坑打は問題文中に注有:採鉱者が一定の空間を自己のものとして印付けすること)

②法廷で申告する

③採掘分の五分の一を税として王室に支払う

④スペイン人、インディオが集い、採掘のための街が形成される

⑤船団によって本国に運ばれる

(⑥会計局で課税のための計量が行われ、王室帳簿に記される)

 

これらのうち、⑥はラテンアメリカから運び出されるときに行われたのか、本国に運ばれてから行われたのか判然としなかったのでカッコにしました。ですから、銀が本国に運ばれるまでの流れをまとめると以下のようになるでしょう。

 

 銀鉱を登記・坑打して法廷で申告して採掘された銀は五分の一が王室に納められ、ガレオン船団で本国に運ばれた。(52字)

 

(解答手順3:史料、設問、指示語をチェックする)

 さて、解答手順1と2をまとめるだけでも、内容がしっかりしたものであれば、おそらく設問全体の半分くらいの点数は来るはずです。この論述問題が20点なので、小問に取りこぼしがなければそれだけでも80点ですね。たしかに、この年の問題は時間的にはかなり厳しく、問題のレベルも高く難しいのですが、他の受験生との相対的な評価でとればそれほど焦る必要はなく、あきらめずに丁寧に解答を作ることはやはり大切なのだなぁと思います。

 ただ、解答手順1はもともと自分の中にある世界史的な知識をもとにつくったもので、本当に本設問の史料の内容に沿っているかどうかは分かりません。そこで、最後に史料、設問、指示語を確認して解答の精度を上げていくことになります。[A][D]の史料のうち、[A]の史料には交易ルートに関する記述がほとんどないことは解答手順2で確認済みですので、史料[B][D]を確認していきます。

 

①史料B(「カール5世への手紙」(16世紀)

:この史料は一読するとフッガー家からカール5世に対する借金返済の督促にすぎませんので、内容を熟読する必要はなく、時間もそうはかかりません。

 ただ、この史料については2点注意が必要です。1点目は、商取引の決済だけでなく国家の戦費の貸し出しをフッガー家などの豪商が担っていたことです。もっとも、フッガー家の債権回収は失敗しますし、この史料からはフッガー家が戦費の供出をしていたことは分かっても、その戦費が国外へと流出したことやその経路などは示されていませんから、これをもとに銀の流れの中に組み込むのはどうかなぁと思います。(大航海時代の銀の大きな流れを作ったのは、やはりヨーロッパ産の金銀よりも新大陸産の金銀に求めるべきでしょう)

また、フッガー家の文書であることには注意を払うべきでしょう。フッガー家はアウクスブルクの富豪ですが、その財の源はティロルの銀山やシュレジエンの金山などの鉱山経営でした。フッガー家は、新大陸からの大量の銀が流入したことで経営が悪化して没落します。この点に注目して、商業革命(商業の中心地が北イタリアなどの地中海沿岸都市から大西洋岸都市へ移る)などと結びつけてフッガー家の没落に言及するのはアリかなと思います。

 

②史料C(『ムガル帝国誌』17世紀)

:この史料は銀の経路と交易については多くの情報をもたらしてくれます。特に、受験生があまりイメージできていない中東からインドにかけての交易の様子が具体的に描かれていますので、全部とはいかないまでも一部は解答に取り入れたいところです。この史料から読み取れることは以下の通りです。

 

・インド(ヒンドゥスターン)では米、麦がとれる

・絹、綿、インディゴ、その他エジプトの商品であふれている

・インドでは絨緞、錦、刺繍、金銀糸の布や絹、綿を用いた工業製品が生産、輸出される

・金銀は世界をめぐった後に一部がインドに流入、蓄積される

・金銀の流入経路は「新大陸→ヨーロッパ→トルコ→インド」

または「スミルナ→ペルシア→インド」(地中海航路)

・トルコ、イエーメン(イエメン)、ペルシア(イラン)はインドの商品を購入するため、自国の金銀をインドに運ぶ

・バーブ=エル=マンデブの都市モカ、ペルシア湾に臨むバスラ、ホルムズに近いゴメロン(バンダル=アッバース)から金銀はインドに輸出される

・インドの商品は、インド、オランダ、イギリス、ポルトガルの船によってペグー、テナッセリム、シャム、セイロン、アチェン、マカッサル、モルディヴ群島、モザンビクなどに運ばれる(逆に、これらの地域からは金銀がインドに流れ込む)

・日本の金銀もオランダによりインドに流れ込む

・ポルトガルやフランスなど、ヨーロッパから直接インドに流入する

・インドは、銅、クローブ、ナツメグ、シナモン、象のほか、オランダ人が日本やモルッカ諸島、セイロンから運ぶ品々を購入する

・インドは馬を大量に必要としている(カンダハールからペルシアを経由したり、エティオピア、アラブ諸国からモカ、バスラ、バンダルアッバースの港を経由してインドへ)

 

 よく知らない地名もあると思うので、地名については解答を一通りしめした後に解説したいと思います。ここで注意したいことは、「インドにかなりの量の金銀が流入していること」、「取引の決済手段として金銀が用いられていること」、「流入ルートは大きく三つ(①東地中海地域やアラビア半島から紅海、ペルシア湾を経由、②アジア方面からの流入、③ヨーロッパから直接運ばれる喜望峰をまわるインド航路)」などの情報を読み取ることです。

 

③史料D(『折りたく柴の記』、18世紀初)

:史料Dは主に東アジア地域に関する情報です。史料Cと比較すると情報は少ないですが、大切な情報も含まれています。

・鎖国が行われたこと

・一方で、密貿易が増加したこと

・日本から海外に金銀が大量に流出していたこと

 

④指示語(「黒人奴隷」、「生糸」、「ガレオン交易」)

:最後に指示語ですが、「黒人奴隷」はすでに解答手順2で示した大枠の中に出てきますね。新大陸の労働力となったこと、大西洋三角貿易を入れれば十分でしょう。

「生糸」については基本的には中国産と考えて良いと思います。日本でも生糸は生産されてはいますが、大航海時代の頃の日本の生糸の品質は中国産には全く及ばず、むしろ日本は中国産生糸の輸入国です。鎖国によって中国産生糸がそれまでより入手しづらくなったことから、日本の各藩は養蚕業の改良に乗り出してその質が改善されるのは江戸時代の中期以降のことです。また、ビザンツ帝国をはじめヨーロッパの各地でも養蚕業自体はありますが、やはり中国産生糸や絹の品質は抜きんでていました。

 最後に、「ガレオン交易」は新大陸からの銀の輸送船団として用いれば十分だと思います。

 

(解答例:大問1論述)

 新大陸スペイン領では、銀山経営者は銀鉱を登記・坑打して法廷で申告し、採掘した銀の五分の一を王室に納め、本国に運んだ。カリブ海経由での銀流入で商業の中心は北伊から大西洋岸に移り、物価が高騰し、フッガー家没落や東西ヨーロッパの国際分業につながった。西アフリカからの黒人奴隷を労働力に産出したポトシの銀はガレオン交易でアカプルコからマニラに運ばれ、中国産生糸などを扱う中継貿易を活発化させ、日本銀もアジアに流入した。銀はポルトガルの香辛料貿易や西アジア諸国の絨毯や錦などインド物産購入によってインド航路や紅海、ペルシア湾経由でアジアに流入し、陸海交易の中継点であるイスファハンや、インド沿岸諸都市の発展を促した。欧州諸国の進出と銀の大量流入は銀を決済手段として世界各地の交易圏を連結した国際的市場経済を成立させたが、ムスリム商人が交易をスンダ海峡経由のルートに変化させるなど従来の交易ルートの変更も促した。(400字)

 

 この設問については出題者の意図がくみ取りづらいところがありました。それは、出題者が史料の深い読み取りを要求して、時代ごとの変遷や各交易ルートにおける商品、担い手などの変遷まで書かせようとしているのか、それとも史料はあくまでも味付け程度で、一般的に理解されている世界史の知識をつかって、設問の要求に合わせた概要を書けばよいと考えているのか、どちらなのかいまいち読めませんでした。設問の指示を素直に読めば、求められているのは前者の解答なのですが、正直なところ、前者の解答を用意するには400字では無茶もいいところですし、まして60分では到底仕上がりません。ですから、あまり細部にこだわりすぎてガタガタな文章になってしまうよりも、早い段階で見切りをつけて後者の視点で解答を作ってしまう方が良いと思います。上の解答例はそうした妥協の産物だとご理解くださいw 解いてみての感想ですが、例年と比べてこの年の設問は練れていないというか、実際の受験生や解く側のことをあまり考えていないような気がするというか、バランス悪い感じがしました。

 東京外語は本当に交易と世界の一体化好きですね。また、他の大学ではインド洋海域って問題が作りづらいせいかあまり出ないのですが、東京外語はわりとがっぷり四つに組んだインド洋海域問題出してきます。2014年の外語の問題もヨーロッパのインド洋、アジア諸地域への進出と世界の一体化がテーマの問題でした。まだご覧になっていないかたは是非一度ご覧になると良いと思います。

 

(補足:史料中に示された地理的要素について)

 さて、それでは特に史料Cの中で示された地名やルートがどういったものなのかを確認したいと思います。まず、トルコ、イエメン、ペルシアのおおよその位置関係です。イエメンはアラビア半島の南端、ペルシアは今のイランですね。ただ、この時代の「トルコ」はオスマン帝国のことですから、厳密には東地中海一帯はトルコの扱いになりますね。また、「ペルシア」は16世紀以降はサファヴィー朝のことだと考えて差し支えありません。

紅海アラビア海1


 オスマン帝国

(「オスマン帝国」Wikipedia

 

史料の中に登場するバーブ=エル=マンデブはアラビア半島と東アフリカによって作られた紅海の出口の海峡のことで、モカというのはそこにあるイエメンの都市です。世界史でも出てくるアデンがすぐそばにあります。

モカ
「モカ」(Wikipedia

また、バスラはイラン南東部、ティグリス・ユーフラテス両河川の合流してできるシャトゥルアラブ川の沿岸都市、さらにゴメロンことバンダル(レ)=アッバースはホルムズに面してイラン側にある港湾都市です。

ペルシア湾岸


つまり、何のことはない、要はこの史料で書かれているのは世界史でよく出てくる紅海ルートと、東地中海からティグリス・ユーフラテス両河川を下ってペルシア湾岸に出てくるルートで銀がインド方面に流入していく様子を描いているにすぎません。

 また、ペグーはビルマ、テナッセリムはマレーシア、シャムはタイ、アチェンは多分アチェーでスマトラ北部、マカッサルはインドネシア(スラウェシ島)の都市ですし、モルディヴはインド西南の島、モザンビ(-)クは東アフリカですから、これらはインド洋海域をぐるっと取り囲むような各地域を示しています。史料からは、インドを中心に各地域に放射上にインドの物産が出ていく様子(逆に銀がインドに集中していく様子)を思い描くことができます。(もっとも、実際には沿岸を行くので、インド洋をドカンと横断するような命知らずな航路を思い描かれると困りますがw)

インド洋交易
 

また、取引されていた商品についてです。

・インディゴ

:植物性の青い染料です。藍のことですね。

・絨緞

:ペルシア絨緞は有名ですね。イラン周辺では羊毛や綿を用いた織物生産が盛んです。

320px-Ardabil_Carpet
(「ペルシア絨毯」Wikipedia)

・クローブ(丁子)

:モルッカ諸島原産の香辛料です。名前の通り「丁」の字に似ているのが面白いです。

丁子
(「クローブ」Wikipedia)

・ナツメグ

:同じくモルッカ諸島原産の香辛料で、肉や魚料理の匂い消しなどに使われます。

natumegu
(「ナツメグ」Wikipedia)

・馬

:インドでは従来は戦闘などでも象が使われていましたが、インドにムスリムが進出する中で次第に先頭の中心が馬へと変化します。ヴィジャヤナガル王国などは西アジアからかなりの頭数の馬を輸入していたようで、これについては近年あちこちの教科書に記載されるようになりましたが、教科書によっていくらか記述の仕方には差があるようです。(東京書籍『世界史B』平成30年度版には、本文ではなく注の部分に写真付きで「交易するポルトガル商人」のレリーフの写真と解説文が掲載されています。(p.222) 東京外語で出題されたところを見ると、今後もしかすると出題の頻度が上がるかもしれませんね。

 

【大問2論述(100字)】

(設問概要)

・(1920年代から1930年代にかけての)アメリカの繁栄がもたらされた経緯について説明せよ。

・その後の社会の変化について説明せよ。

・指示語:第一次世界大戦 / フォード / 移民法

100字以内

 

(解答手順:指示語の分析)

 えらくアバウトな条件設定の設問です。そもそも、1930年代のアメリカは世界恐慌のまっただ中ですので、とても「アメリカ社会の繁栄」の時期ではないような気がします。おそらく出題者は1920年代の繁栄を意図しているのでしょうが、1929年には世界恐慌ですし、その後はニューディール政策ですから、1930年代と言われると、「その時期にかけてのアメリカ社会の繁栄」って言っちゃっていいものなのかなぁと疑問を感じます。

また、「1930年にかけて」であれば1920年から1930年で時期を設定してもいいのですが、「1930年代にかけて」と言われると「1930年代のどこまでにかけてじゃい」と突っ込みたくなります。多分、元々は「アメリカ的生活様式は1920年代から30年代にかけて形成されるものなんだよな~」、と何となく考えて文章をつくりつつ、「1920年代から30年代にかけて<の>アメリカ社会の繁栄」と文章をつないでしまったためにおかしなことになってしまったんじゃないかなぁと思います。

 ただ、設問自体が100字ですし、それほど入り組んだことを聞いているわけでもないと思いますので、基本的には1920年代のアメリカ社会の繁栄について書けばよいだろうと思います。また、字数が短いので指示語を分析・活用していけば自然に解答の輪郭は見えてくるでしょう。

 

①第一次世界大戦

:第一次大戦中の物資供給による債権国への上昇や、戦後のヨーロッパの荒廃と、ヨーロッパに物資を輸出したアメリカの繁栄について書けばよいでしょう。1920年代、アメリカはハーディング・クーリッジ・フーヴァーと3代続く共和党政権のもとで経済界の利益を重視する政策がとられ、国内的には自由放任、対外的には高関税を課す保護貿易政策がとられました。高関税政策にもかかわらずアメリカの輸出が不振にならなかった原因は、終戦直後のヨーロッパでは荒廃がひどく、物資の輸入やアメリカ資本を受け入れざるを得なかったからです。ですが、ヨーロッパ経済が回復するとアメリカでは生産過剰によるモノ余りが進行し、これが価格下落と企業業績の悪化につながり、世界恐慌の背景となります。1920年代の成功に味をしめたフーヴァー大統領のスムート=ホーレー法(超高関税による国内産業の保護政策)は逆にアメリカの輸出不振を招き、さらに欧州のブロック経済形成による国際貿易の急激な縮小につながり不況を長引かせることになりました。

②フォード

:ベルトコンベア方式による大量生産によるフォードT型の普及について言及するべきでしょう。当然、大衆消費社会の到来についても合わせて示すべきです。

③移民法

:アメリカへの移民の増加は、奴隷解放宣言によって終了した奴隷制に代わる安価な労働力の供給源として重要でした。労働力が安価に供給されることでアメリカの工業化はその推進力を得ていたわけです。ですが、移民の増加は移民に対する風当たりを強くし、その制限などが行われました。1924年の移民法では日本人移民の禁止に加えて南欧・東欧系の移民の実質的な制限が行われました。

 

(解答例)

 第一次世界大戦中の物資供給で米は債権国となり繁栄した。フォードの大量生産は自動車普及に象徴される大衆消費社会を現出したが、WASPなどは保守的価値観を持ち、移民の入国を禁止・制限する移民法制定につながった。(100字)

 

まぁ、100字ならこんなものではないでしょうか。

 インド史は、情報量自体は少ないにもかかわらず、馴染みがないせいか受験生にとってはとっつきにくい分野のようです。ですが、このインド史はとてもコスパが良い!何と言ってもわずかプリント数枚分の情報量なのに、各模試では下手すりゃ大問1個分ドカンと出たりします。受験でも特に近現代史については頻出の箇所だったりします。ただ、近現代史については、教科書でもプリントでも情報が断片的に出てくることが多く、特にムガル帝国衰退以降のインド史、なかでも民族運動の全体像がつかめないという受験生は多いようです。

 そこで、今回はアウラングゼーブの死以降からインドとパキスタンの分離独立のあたりまでを一つの流れとして示してみたいと思います。私の頭の中で、ムガル以降のインド史は下のような形でまとめられています。

 

① バーブル~アウラングゼーブまでを君主ごとに特徴まとめ(16世紀~18世紀初)

② アウラングゼーブの死以降のムガル帝国分裂とイギリスの進出(18世紀初~19世紀)

③ 東インド会社の変容(18世紀後半~19世紀前半)

④ インド大反乱とムガル帝国滅亡(1857-59)からインド帝国の成立(1877

⑤ 民族資本家・知識人の成長と民族運動の展開(19世紀後半)

  A、国民会議派の形成期(1880s

  B、国民会議派の急進化とヒンドゥーとムスリムの対立(1905~)

  C、第一次世界大戦と第一次サティヤー=グラハ(1910s半ば~1920s初)

  D、インド独立運動の再燃(1920s後半~)

⑥ インド・パキスタンの分離独立(1947

 

 ある地域の通史を効率よく思い出すには、こうした特定の時代ごとにいくつかのブロックにわけて整理するやり方が効果的です。(もっとも、本当の意味で歴史を理解するためには重層的な理解が必要になるので、過度のモデル化や単純化は避けた方が良いのですが。)

今回は、この区分けに従って②~⑤の流れを示してみたいと思います。

 

(アウラングゼーブの死以降)

 アウラングゼーブが亡くなるのは1707年、ちょうどイギリスでグレートブリテン王国が成立(スコットランドとの合同)した年のことです。アウラングゼーブは、かつて3代皇帝アクバルが進めたヒンドゥー教徒(ラージプート諸侯)との融和政策を転換し、ジズヤの復活やヒンドゥー寺院の破壊やモスクへの建て替えを進めたため、ラージプート諸侯の反発を買い、帝国は分裂を始めます。「ラージプート」というのは、ムガル帝国進出前からインドにいたヒンドゥー教を信仰する支配階層カーストのことです。彼らからすれば、ヒンドゥー教を信仰している限り「上位カースト=えらい」が生まれながらに保障されるわけですから、ヒンドゥー教信仰はとても大事なわけです。

 さて、ムガル帝国が分裂に向かう頃、インドではイギリスとフランスが勢力争いを展開していました。当初、両国は貿易のため沿岸地域に拠点を構えました。イギリスはカルカッタ、マドラス、ボンベイに、フランスはポンディシェリとシャンデルナゴルにです。

 インド英仏拠点

 

ところが、ムガル帝国の分裂が進み、各地に小諸侯が事実上の独立国として乱立し始めると様子が変わってきます。特に、イギリスの拠点マドラスとフランス拠点ポンディシェリがあったインドの東南岸(カーナティック[カルナータカ])地方では、地元の諸侯の内紛や対立が発生して政治的に極めて不安定で、英仏の活動の余地が拡大していきます。こうした中で、ヨーロッパにおいてオーストリア継承戦争が1740年から開始されたことで、インドにおける英仏両拠点間の緊張も高まっていきました。この緊張の中でイギリス側がフランス船を拿捕したことがきっかけでカーナティック戦争(1744-4850-5458-61)がはじまります。

 このカーナティック戦争を皮切りに、イギリスはフランス勢力をインドから排除していきます。プラッシーの戦い(1757)でフランスと同盟したベンガル太守軍を打ち破ったのち、ブクサールの戦い(1764)でムガル皇帝やベンガル太守などの連合軍を打ち破って、ベンガル・オリッサ・ビハールのディーワーニー(徴税権)を手に入れます。ディーワーニーとは、帝国財務大臣または各州の財務長官(ディーワーン)の持つ権限のことで、主に徴税権などのことでした。イギリスは形式上、ムガル帝国のベンガル・オリッサ・ビハールの州財務長官となり、その権限を行使しますが、さらにこれを拡大して各州の行政権を手に入れ、実質的な太守の座を獲得します。

 ここで重要なことは、それまでは商取引による収入の拡大とそのための拠点づくりが主な目的であった東インド会社の業務の中に、土地管理・行政が加わったという点です。そして、これ以降イギリスはマイソール戦争(1767-6980-8490-92:南インド)、マラータ戦争(1775-821803-051817-18:デカン高原)、シク戦争(1845-4648-49:パンジャーブ地方)などを通して各地方勢力を撃破し、その支配領域に勢力を拡大していくことになります。世界史で押さえておくべきこの時期のインドのイメージは3点でしょうか。

 

① ムガル帝国の衰退と諸侯の分立

② イギリスが商取引中心の活動から土地支配にも乗り出す

③ 東南から西北に北上するような形で支配領域を拡大。

  (カーナティック戦争、プラッシーの戦い以降)

 インド戦争

 

 上がその地図です。アバウトですが。赤が一部カシミールにかかっちゃってますね。でもまぁ、いつも申し上げるように世界史では正確な地図より位置関係の把握の方が重要ですので、この程度の把握でも十分ですw

 

(東インド会社の変容)

 上述のように、イギリス東インド会社は次第にインドの土地支配を拡大していきます。その中で成立していく制度がザミンダーリー制とライヤットワーリー制です。この両制度は近年の東大の問題でも出題されるなど、だんだんと受験生の間でも周知されるようになってきました。この両制度の違いは、イギリスと民衆の中間にザミンダール(地主)をはさむかどうかということです。地主を介するのがザミンダーリー制、そうでなく農民(ライヤット)から直接イギリスが租税を徴収するシステムがライヤットワーリー制です。 

ザミンダーリー制、ライヤットワーリー制

 ザミンダーリー制が1793年にベンガルで初めて導入されて以降、ベンガル地方を中心に展開されたのに対して、ライヤットワーリー制は19世紀初めからイギリスが併合していく中部~南インドにかけて導入されたという地理的な違いにも一応注意を向けておくと良いかと思います。

 また、東インド会社がディーワーニーを獲得し、土地と人民の支配を開始したことでイギリス本国政府は東インド会社に対する監督を強めていきます。従来から、イギリスはボンベイ、マドラス、カルカッタの3都市に商館を置いていました。プラッシーの戦いの後、イギリスはカルカッタ周辺の一部の土地支配権を獲得します。それぞれの商館が獲得した支配地域は管区としてそれぞれに知事が置かれることになりました。プラッシーの戦いで活躍したクライヴは、初代のベンガル知事に就任しています(1758年)。中でも、重要性を増したベンガル知事は、1773年にベンガル総督に昇格され、インドの全ての管区はこのベンガル総督の監督下におかれることになりました。その初代ベンガル総督に就任したのがヘースティングズです。(参考書によっては「ベンガル総督」ではなく後に改称される「インド総督」とされています。)

 当初、こうした知事職または総督職はイギリス東インド会社の役員会によって決められていましたが、1784年にイギリス本国政府がインド庁を発足させると、東インド会社に対するインド庁の発言権が次第に増大し、実質的にベンガル総督の人事も本国政府の意向によって決定されるようになります。また、東インド会社の商業活動にも次第に制限が課せられるようになりました。その背景には、本国イギリスで本格化した産業革命と、産業資本家の台頭により、一部の特権商人が商取引で利益を上げる東インド会社のような特許会社の存在よりも、イギリスで製造した綿織物をはじめとする工業製品を他国に輸出することで利益を上げるための自由貿易の方が重視されたことがありました。1813年には東インド会社のインドにおける貿易独占権が廃止され、さらに1833年には中国の貿易独占権が廃止されたことで、商業活動が停止されます。この商業活動が停止された1833年の特許法において、ベンガル総督はインド総督と改称されます。世界史においておさえておくべきこの時期の知識としては、

 

① ザミンダーリー制とライヤットワーリー制

② 東インド会社の活動内容の変容(商取引から土地支配へ)

③ 東インド会社の特権の廃止と本国の自由貿易体制への移行、その背景

④ 初代ベンガル(インド)総督がヘースティングズであること

 

などを押さえておけば十分だと思います。

 

(インド大反乱とムガル帝国滅亡)

 東インド会社の諸特権が廃止され、イギリス本国の監督が強化されるに従い、インドにはイギリスからの綿製品が大量に流入することとなりました。

インド産綿布、イギリス産綿布

(東京書籍『世界史Bp.324

 その結果、インドの重要な産業であった手作業に依存した綿織物業は安価なイギリスの工場で生産された綿織物によって駆逐され、壊滅的な打撃を受けることになりました。その結果、職人たちが失業し、イギリスへの綿花の供給地へと転落したインド経済は低迷を続けます。さらに、イギリスはマイソール戦争、マラータ戦争、シク戦争などを通してインド支配を拡大する際に、各地方の小勢力を根絶やしにするのではなく、イギリスに協力的な勢力には一定の条件の下で自治を認める政策をとりました。このように、イギリスのインド支配下で一定の自治を与えられた諸侯のことを藩王国といいます。

これらの藩王国は、インド大反乱(1857-1859)の後にはインドにおける貴族として扱われ、保護される対象となります。イギリスは、本国において成立していた社会的ヒエラルキー(庶民‐ジェントルマン・貴族etc)に類似のヒエラルキーをインドにもおいても式典や儀礼などを通して可視化し、それを統治に利用していきます。イギリスのインド統治に関しては「分割統治(分割して統治せよ)」が有名ですが、これは様々な面に及んでいて、各藩王国同士を分断して競わせるだけではなく、身分・社会的地位・財産などによる分断、宗派による分断などを通して、インドに住む人々が一致団結してイギリスに反抗しないようにするという発想が根幹にあり、カースト制度の利用や、ヒンドゥー・ムスリム間の対立を煽ることなども行われました。(このあたりの事情のうち、イギリスによる藩王国統治が大英帝国内の装飾的秩序の中でどのように位置づけられていたのかについては、デイヴィッド=キャナダイン著、平田雅博・細川道久訳『虚飾の帝国‐オリエンタリズムからオーナメンタリズムへ』などを見ると面白いと思います。)

ただ、藩王国の保護とヒエラルキー的な諸秩序が形成されていくのは、インド大反乱の後、インド帝国が形成されていく中でのことで、インド大反乱前の藩王国はイギリスからかなり厳しい扱いを受けていました。中でも諸侯から恨みを買うことになった政策が「失権の原則」で、藩王国の君主に嫡子がいない場合にはその藩王国の自治を取り上げてイギリスの支配下に置く(要は「お家お取り潰し」)というものです。これにより、多数の没落した旧支配層が発生していました(江戸時代でいえば浪人ですね。)。さらに、インドの領土拡大が完成を見たことで、かねてから東インド会社が軍事力として活用してきたシパーヒーの解雇が進んだことで、ここでも多くの失業者が発生します。つまり、インド大反乱前夜のインドでは、以下のような食い詰めた人々、そして人々の不満がたまっていました。

 

・インド綿産業の壊滅にともなう大量の失業者と経済の低迷

・藩王国の取り潰しによる没落した支配層の増加

・不要となり、解雇され始めたシパーヒー

 

 インド大反乱ことシパーヒーの乱では、従来はそのきっかけとなった弾薬包に獣脂が染み込まされているという噂が広まったこと(豚であればムスリムにとって不浄で、牛であればヒンドゥーにとっては神聖なので、薬包を口に含むことが禁忌となる)がクローズアップされてきましたが、反乱の背景となる要因が多数存在したこと、実際の反乱に参加した人々がシパーヒーだけではなく、多様な階層にわたったことなどから、最近ではインド大反乱の呼称が使われているようです。(平成30年度版の東京書籍『世界史B』はインド大反乱、最新版の『詳説世界史研究』では索引でシパーヒーの大反乱が使われ、本文では<インド人傭兵(シパーヒー)による大反乱>とされています)

 この反乱に際して、すでに力を失っていたムガル皇帝バハードゥル=シャー2世は反乱軍の最高指導者として祭り上げられます。とはいっても、生年が1775年なので、当時は御年80歳を超えていますので、完全に名目上の指導者でした。ですが、反乱鎮圧後はその罪を問われてビルマへの流刑となり、ここにムガル帝国は滅亡(1858)します。さらに、東インド会社はインド統治が不十分であったことの責任を負って解散(1858)となりました。この時からイギリスによるインドの直轄支配がはじまることになります。

バハードゥルシャー

流刑前のバハードゥル=シャー2世(Wikipedia

 

 その後、インドでは上述のような藩王国の保護と秩序の再編が進んでいきます。そして1877年、ディズレーリ内閣はヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させ、形の上では同君連合ですが実質的な植民地としてインドをイギリスの完全な支配下におさめました。世界史における知識としては、

 

①イギリス産綿製品の流入とインド綿産業の壊滅

②インド大反乱とその背景

③ムガル帝国の滅亡(1858

④イギリス東インド会社の解散(1858

⑤インド帝国の成立(皇帝:ヴィクトリア、ディズレーリ内閣の時)

 

あたりを押さえておけば十分かと思います。

 

(民族資本家・知識人の成長と民族運動の展開)

[A、国民会議派の形成期(1880s]

 イギリスによるインド支配は、もともと住んでいたインド人に対して非常に差別的で、政治的な諸権利も認められていませんでした。具体的には、英語の強制や土着言語での出版の禁止、司法制度の不平等などです。こうした諸政策に対する反発から、バネルジーは1876年にインド人協会を、1883年には全インド国民協議会を結成します。一方、イギリスはこうした動きを牽制するために、1885年にインド人の上層階層やイギリスに協力的な知識人からなる親英組織であるインド国民会議を結成させます(第1回会議はボンベイ)。バネルジーの運動はまもなくこのインド国民会議に吸収されます。(1886年に全インド国民協議会がインド国民会議に合流。) そして、インド国民会議と彼らに同調して行動する政治集団は、インド国民会議派と呼ばれる一派を形成することになります。こうした政治団体が作られるようになった背景には、イギリスの英語教育や、分割統治によるインド人上流階級の保護と形成、民族資本家の成長などにより、西欧式の教育を受け、西欧の思想に触れる人々が増加してきたことがありました。

 

[B、国民会議派の急進化とヒンドゥーとムスリムの対立(1905~)]

 インド国民会議は当初親英団体でしたが、その性格を大きく帰る事件が起こります。これが1905年に制定されたベンガル分割令(カーゾン法)です。当時のインド総督カーゾンは、親英団体インド国民会議の中でも次第に台頭してきた反英的な急進派や、その他の民族運動に神経をとがらせていましたが、行政の効率化と民族運動牽制のために、当時民族運動が盛んであったベンガル地方の行政区画の再編を行います。その結果、新しい行政区画では各行政区における人口比が激変し、従来の行政区であれば多数派であったヒンドゥー教徒の意見が、新行政区ではムスリム住民の比重が増し、ムスリムの意見が反映されやすい状態になってしまいます。これに怒ったヒンドゥー教徒中心のインド国民会議では、急速にティラク率いる急進派の発言力が増大します。その結果、彼らは穏健派のバネルジーなどを批判しつつ、1906年の国民会議カルカッタ大会において、「スワラージ(自治)、スワデーシ(国産品愛用)、ボイコット(英貨排斥)、民族教育」からなる反英的な四大綱領を採択しました。こうして、国民会議の親英的ムードは吹き飛び、その後は反英運動の中心になっていきます。ただし、この段階では穏健派と急進派の分裂やティラクの投獄などもあって、これ以上運動が拡大することはありませんでした。一方、イギリスはこれに対抗させるために1906年に全インド=ムスリム連盟を結成させ、宗教対立を利用してイギリスへの攻撃でインドの人々が団結しないように画策します。

 

[C、第一次世界大戦と第一次サティヤー=グラハ(1910s半ば~1920s初)]

 その後、第一次世界大戦がはじまると、ムスリムの立場に微妙な変化が生まれます。その原因は、イスラームの宗教的権威の象徴であるカリフとカリフ制を擁護するヒラーファト(キラーファト)運動がインドで高揚したことによります。当時、カリフはオスマン帝国のスルタンが兼任するスルタン=カリフ制がとられていました。そして、第一次世界大戦においてオスマン帝国はイギリスの敵国でした。それまではヒンドゥー教徒との対抗上、親英団体としての性格を有していた全インド=ムスリム連盟でしたが、カリフと敵対するイギリスに対する立場は徐々に変化していきます。

 このように、ムスリムとイギリスの間に距離ができ始めていた頃に、インドの自治をめぐる諸問題が持ち上がります。イギリスは、第一次世界大戦中にインドを戦争に協力させるためにイギリス本国のインド担当大臣モンタギューがインドの自治を推進する方針を示したことから、自治獲得への期待が高まっていました。また、第一次世界大戦の末期には、ソヴィエト政権の「平和に関する布告」やウィルソンの発した「十四ヵ条の平和原則」において民族自決の理念が示されたこともあり、戦争に協力したインドの人々が期待するのも無理からぬものがありました。しかし、イギリスは1919年にきわめて形式的で限定的なインド人の政治参加を認めるインド統治法(「インド統治法」と名の付く法律はこれだけではなく、複数回出されていることに注意)を制定します。このインド統治法は中央政府にはインド人に決定権を与えず、地方自治に参加を限定した上で、その地方行政においても保健行政や教育などにインド人を関わらせる一方で、より重要な徴税・司法・治安維持などについては原則としてイギリス人が管理する内容でした。このインド統治法は当然インド人の期待を裏切るものでしたが、さらにインド人の怒りに火をつけたのがローラット法と呼ばれる弾圧立法で、この法律ではインド人に対する令状なしの逮捕、裁判なしの投獄が認められていました。こうしたイギリスのごまかしに憤りを感じたインド人は抗議行動を激化させていきますが、アムリットサルに集まった一万数千ともいわれる群衆にイギリス軍准将率いる一個大隊が発砲し、数千名に及ぶ死傷者が出るアムリットサル事件が発生します。この段階において、インド人の反英感情は急激に高まっていきます。

 こうした中で現れた民族指導者ガンディーは、暴力ではなく非暴力・不服従を貫くことを通しての反英運動であるサティヤー=グラハ(真理の要求)と称される運動を展開していきます(第一次非暴力・不服従運動)。ガンディーは本来敵対関係にあったムスリムにも協力を呼び掛けて、運動は急速に発展していきました。しかし、運動の急進化・暴力化を危惧したガンディーが運動の停止を宣言したことや、ムスリムのヒラーファト運動がトルコ共和国におけるカリフ制の廃止(1924)によって意味をなくしてしまったことなどから、インドの民族運動は一時的に落ち着きを取り戻します。

 

 [D、インド独立運動の再燃(1920s後半~)]

 一時的にやや沈静化していたインドの民族運動でしたが、1920年代後半に再度激しさを増します。そのきっかけになったのは、1919年のインド統治法の見直しのために組織された憲政改革委員会(サイモン委員会)の委員にインド人が一人も含まれていなかったことでした。これをきっかけに国民会議派や全インド=ムスリム連盟などの政治団体はその活動を活発化させていきます。国民会議派は1929年に開かれたラホール大会で、指導者のネルーが中心となり、「プールナ=スワラージ(完全独立)」を決議して運動の理念としましたが、ヒンドゥーとムスリムは選挙制度などをめぐる対立が再燃して足並みはそろいませんでした。一方、ガンディーは大衆を指導する第二次非暴力・不服従運動を展開し、イギリスに対する不服従の象徴として、イギリスによる塩の専売に抵抗する「塩の行進」運動を展開します(1930年)。

 こうしたインドにおける民族運動の再燃を受けて、イギリスは(英印)円卓会議の開催を提案し、ガンディーをはじめとする民族運動指導者をロンドンに集め、3度にわたる会議を開きます(ガンディーはこのうち第二回の会議に参加します)。ところが、この会議にはガンディーだけではなく、数多くの少数派の代表が招かれていたことから、ガンディーの主張は各派の対立の中で埋もれてしまい、各代表は自分の利害のみを主張することに終始して、会議は成果を上げることができず、帰国して運動を再開しようとしたガンディーは逮捕・投獄されます。しかし、憲政改革委員会と3度の円卓会議を経て、1935年には新インド統治法が制定されます。この統治法では相変わらずインド人は中央政府の政治には関与できませんでしたが、インド人は州の政治において州議会と州政府を選挙によって構成することが可能となりました。ただ、これも最終決定権はインド総督が任命するイギリス人州知事が握っているという不完全な自治でした。この法に基づいて行われた選挙において、多数派を占めたのはヒンドゥー教徒中心の国民会議派でした。これは人口比から考えて当然の結果でしたが、国民会議派が地方選挙で圧勝したことに対し、かねてから選挙制度をめぐってヒンドゥーと対立していたムスリムは危機感を高め、次第に宗派対立が激化をしていきます。

 

 このように、インドにおける民族運動は、19世紀後半から開始され、いくつかの波を経ながら第二次世界大戦の時期を迎えることになります。このあたりが模試や受験では頻出の箇所なのですが、教科書や参考書の記述があちこちに飛んでいたり、一部省略されていることもあって、全体像がとらえられない人が多いようです。この時期の出来事で世界史において必要な部分をまとめると以下のようになります。

 

1880s) バネルジーによる民族運動の展開

      インド国民会議ボンベイ大会の開催(1885、親英団体として)

1905~) ベンガル分割令(カーゾン法)の制定

      インド国民会議カルカッタ大会の開催と四大綱領の採択(ティラク、急進化)

      全インドムスリム連盟の結成

(第一次大戦~) ヒラーファト運動の高揚

1919~) インド統治法ならびにローラット法の制定

      アムリットサル事件の発生

      第一次非暴力・不服従運動の展開(ガンディー)

1920s後半~) サイモン委員会(憲政改革委員会)に対するインド人による批判

         国民会議派ラホール大会(ネルー、プールナ=スワラージ)

         第二次非暴力・不服従運動

         英印円卓会議

1935~) 新インド統治法

      ヒンドゥーVSムスリムの対立激化

         

 今回も書いてみてエライ後悔しましたが、とりあえず簡単にまとめてみました。(話すのは楽なんですが、文章に書き起こすとなるとかなり厄介です。)内容が入り組んでいてまとめにくく、かつ試験によく出てくる部分は冒頭の分けですと⑤民族資本家・知識人の成長と民族運動の展開(19世紀後半)」の部分だと思います。一問一答形式の設問もなくはないですが、正誤問題や並べ替えの問題が良く出てくると思いますので、よく確認してみてください。

今年度の早稲田法学部問題を見た時の感想は、一言でいうと「普通」です。何だか突然よく見たことのある問題が出されました。(批判しているわけではありません。頻出ということは、その分、何度も使われるくらい良い問題だということでもあります。)ただ、過去9年間で近代よりも前の時代をテーマにした出題は一度もありませんでしたので、今回の中世という時代設定は意表を突いたものではあります。もしかするとそれもあって、問題の内容自体を過度に難しくすることは避けたのかもしれません。早稲田の論述については試験時間についての制約もありますので。

 ただ、それにしてもワセ法の受験生にとっては基本的に解ける「よっしゃ来た」問題だったかもしれません。逆に差がつかない分世界史で点を稼ぎたい人は「何だと―!」という気分だったかもしれないです。たとえば、今手元にある『段階式世界史論述のトレーニング』の問題の中には京都府立大の過去問が載っていますが、この問題概要は以下のようなものです。

 

・中世ヨーロッパにおける教皇権の確立の過程について200

・指示語:インノケンティウス3世、ヴォルムス協約、カノッサ

 

まぁ、こんな感じでそのものズバリではなくても、中世ヨーロッパにおける教皇権の確立や神聖ローマ帝国における帝国教会制などはあちこちの問題集に転がっている問題だと思います。ただ、早稲田の問題について注意しておきたいのは、聖俗関係の「変遷」を聞いているところです。指示語にオットー1世が入っていることも、この「変遷」に注意を払うように警告していますね。叙任権闘争ばかりに目が行ってしまうとこの「変遷」の部分は見逃しがちです。やはり、早稲田も物事の変化や関係性といったものを重視する姿勢は変わっていないようで、世界史のメインテーマの一つを問題として持ってくるところなどを見ても、以前に書いた出題傾向から大きく外れて、ガラッと出題の本質が変わった感じはありません。個人的には2017年の時みたいには萌えませんでした。

 また、この聖と俗との関係や叙任権闘争については、2010年の一橋大問1でも出題されています。こちらの問題は単に叙任権闘争や聖俗関係の変遷を問うものではなく、この争いが「現実の政治・社会生活に持った意義とは何か」を問う問題となっていて、より突っ込んだ難しい内容になっています(時期は11世紀~13世紀)。今回の問題の発展形として練習してみるのも良いかもしれません。

 

【問題概要】

・時期:10世紀~12世紀(901-1200

・中世ドイツにおける「聖(教皇権)」と「俗(世俗権力)」の関係の歴史的変遷

・指示語:オットー1世、グレゴリウス7世、カノッサの屈辱、ヴォルムス協約

250字~300

 

【解答手順1:全体の流れの確認】

:今回のように、歴史のメインテーマで大きな枠組みをすぐに思い浮かべることができるものについては、まずは全体の流れを把握してしまうことから入りましょう。と言っても、今回確認すべき大枠は下に示したもの程度で十分です。

 

①神聖ローマ帝国の成立と帝国教会制

②叙任権闘争の展開とその結果

 

【解答手順2:聖俗の関係性の変遷とは何かに注目する】

:これについては、解答手順1に沿って聖俗関係を整理すれば足ります。

 

①帝国教会政策の下では、聖職者の任免権(叙任権)は神聖ローマ帝国に属し、神聖ローマ皇帝は叙任権を通して帝国内の教会勢力を支配することによってその権力基盤を強化していたこと。

②グレゴリウス7世の教会改革において、教皇が叙任権を自らが持つことを主張したことから神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との間に対立が起き、「カノッサの屈辱」では皇帝ハインリヒ4世が一時的にではあっても膝を屈して教皇の至上性が示されたこと。

③その後も教皇と皇帝の対立は続いたが、最終的には1122年にカリストゥス2世とハインリヒ5世の間でヴォルムス協約が結ばれて、叙任権は教皇が持つ一方で、世俗権力の授与やドイツ地域内の教会支配権を保持することで両者の妥協が図られた。

 

【解答手順3:細かい部分に注意する】

:解答手順1と2でほとんど解答の大枠は用意できるのですが、十分に注意を払って書かなくてはならない場所や、手順1と2では拾い切れていない細かい部分がありますので、そうした部分をきちんと詰めていきます。

 

①帝国教会政策

:レヒフェルトの戦い(955)に勝利してマジャール人を撃退し、962年に教皇ヨハネス12世から皇帝冠を授けられたオットー1世は神聖ローマ帝国の基礎を形作っていきます。その際、オットー以下歴代の神聖ローマ皇帝が聖職者の叙任権を利用して中央集権を進めた背景には以下のようなものがありました。

 

・各部族勢力に対抗するため、聖職者とそれに付随する教会領の力を利用する

 ‐レヒフェルトの戦い前の東フランクは、各部族の対立が深刻で国王オットーの指導力も十分に確立されてはいませんでした。異民族マジャールの侵入が対立していた各部族の結束を強める方向に働きました。

・ゲルマン社会において、教会はその建設に貢献したものに属するという考え方が一般的であったこと

・キリスト教を国教にしたのは古代ローマの皇帝テオドシウスであり、皇帝には教会関連の事柄に対する決定権があるという考えが存在したこと

10世紀頃の教会が腐敗の温床となっていたこと

 

このような背景の中で神聖ローマ皇帝が帝国教会政策を進めることは、皇帝に近い者を聖職者として叙任することによる勢力の拡大、聖職者を中心とする官僚制の整備と世襲化の防止、腐敗した教会の立て直しなど、統治に必要な様々な効果が得られることになりました。よく、神聖ローマ帝国と聞くと「分裂している」とか、「皇帝の権力が弱い」などのイメージが先行しがちですが、帝国教会政策が展開している頃の神聖ローマ帝国は、もちろん各部族勢力は強い力を有していましたがそれなりに帝権の強化が進んだ時期でもありました。

 

②「世俗権力」とは何か

:「世俗権力」と聞くとすぐに教皇に対比して皇帝を思い浮かべます。それはそれでよいのですが、「世俗権力」といった場合には皇帝に限らず、各地の諸侯をも内包している点には注意が必要かと思います。

 

③カノッサの屈辱の意義

:教科書的にはカノッサの屈辱は教皇グレゴリウス7世が皇帝ハインリヒ4世を屈服させ、皇帝権に対して教皇権が優越した事件として説明されることがあります。ただ、ことはそう単純ではありません。この時ハインリヒが膝を屈した背景には当時の神聖ローマ帝国の国内事情など、複雑な事情が絡み合った結果であり、「教皇権VS皇帝権」で教皇権が強かった、という単純な対立構図では説明できないものです。現に、カノッサでは「勝利」したはずのグレゴリウス7世は、国内のまとまりを強化した後のハインリヒ4世が率いる軍によってローマからサレルノへ追放されてしまいますし、叙任権闘争自体もその後数十年にわたって解決されませんでした。この辺の事情は惣領冬美『チェーザレ』の中でとてもイメージ豊かに描かれています。

 

④ヴォルムス協約の正確な理解

:ヴォルムス協約についての正確な理解ができている受験生はそう多くはありません。これはなぜかというと、教科書や参考書がこれまであまりヴォルムス協約の内容や叙任権闘争の終結について正確な記述を行ってこなかったからです。ただこれは、別にそうした教科書や参考書が劣っているというわけではなく、高校生に教えるにあたっては正確さよりもある程度の単純さを追い求めた方が分かりやすいと判断した結果なのではないかと思います。例を挙げますと、「ヴォルムス協約で政教分離の妥協が成立し、皇帝は聖職者の任命権を失った。」(東京書籍『世界史B』平成30年度版、p.152)、「1122年、司教杖での司教叙任と王笏での封土授与とを区別するヴォルムス協約によって一応の解決を見た。」(『詳説世界史研究』山川出版社、2017年度版、p.165)などとなっています。この点について比較的正確に説明されていたのは山川の『改訂版世界史Ⓑ用語集』(ちなみに私が見たのは手元にあった2012年度版)で、「聖職叙任権について、教皇カリクトゥス2世と皇帝ハインリヒ5世の間で結ばれた協約。叙任権そのものは教皇が持つが、ドイツ領内では皇帝が教会・修道院の領地の承認権を持つという内容の妥協案で、これにより叙任権闘争は一応終結した。」とあります。

 ヴォルムス協約についてのポイントは以下のようになります。

 

・叙任権は教皇が持つ

・授封権(封土支配権などの世俗的諸権利の付与)は皇帝が持つ

・ただし、ドイツにおける叙任に際しては、それに先んじて皇帝が授封する

 (つまり、皇帝が認めた者しか教皇は叙任することができない)

・神聖ローマ帝国内のドイツ以外の地域(イタリアなど)については教皇が叙階し、叙階されたものはその後速やかに皇帝により授封される

 

つまり、このヴォルムス協約では、たしかに教皇は叙任権を有し、特にイタリア地域については教皇の叙任権が皇帝に優越することを互いに確認しましたが、一方でドイツ国内の叙任は皇帝が授封した者に限られたため、叙任にあたっては実質的に皇帝の承認が必要なシステムになっていました。ですから、ヴォルムス協約によって皇帝のドイツ教会に対する影響力が教皇に完全に奪われたと考えるのは誤りです。むしろドイツについては皇帝が実質的な叙任権を保持し、イタリアなどその他の地域については教皇の叙任権が優先するという一種の住み分けがなされたということです。

 

⑤ヴォルムス協約以降はどうか

 ヴォルムス協約は1122年で、12世紀の前半です。12世紀、という設問の時代設定ですと、その後丸々80年近くは残っているわけですが、この間の聖俗両権の関係はどのようなものだったのでしょうか。少なくとも、ヴォルムス協約は完全な決着ではありませんでしたし、12世紀のイタリアはシュタウフェン朝のイタリア政策に頭を悩ませることになります。また、その過程でゲルフ(教皇党)とギベリン(皇帝党)の対立なども発生します。

 一方で、ヴォルムス協約以降、長らく開かれていなかった公会議(宗教会議)が開かれることとなり、公会議において決定されたカノン(教会法など)は教会内部や信徒の生活などを規定し、それは各地域の教会にも採用されて徐々に教会組織のヒエラルキーが確固としたものになると同時に、教皇権も強化されていきます。教皇権の絶頂期と言われるインノケンティウス3世が教皇に選出されたのは1198年のことです。ただ、それまでの間は、ヴォルムス協約によって叙任権をめぐる問題に決着がついたとはいっても、聖俗両権のせめぎ合いは12世紀を通じて長く続いていたと考えていいと思います。

 

【解答例】

オットー1世が創始した神聖ローマ帝国では、皇帝が帝国内の聖職者を任命する帝国教会政策により皇帝権を強化したが、教会改革を進める教皇グレゴリウス7世は聖職叙任権が教皇に属すると主張し皇帝と対立した。ハインリヒ4世が教皇に膝を屈したカノッサの屈辱は教皇権の世俗権に対する優越を印象付けたが、叙任権闘争は続いた。カリストゥス2世とハインリヒ5世によるヴォルムス協約では、叙任権は教皇が持つとされて皇帝は帝国教会政策を放棄したが、帝国内のドイツ地域では実質的な教会支配権を保持したため、聖俗両権のせめぎ合いが続いた。その後、公会議や教会法を通して教会の組織化と民衆支配の浸透が進み、次第に教皇権が強化された。(300字)

 

解説のところで公会議云々の話をしたので、解答に盛り込んでみましたが、高校世界史の知識では公会議がどうの、ということを知ることは難しいと思います。ですから、もし書くのだとすればゲルフとかギベリンなどを入れつつ、「その後も北イタリアではゲルフやギベリンの対立が続くなど聖俗両権のせめぎあいは続いたが、次第に教皇がその権威を高めた。」なんて書き方もできるのではないでしょうか。

 忙しさにかまけてずいぶん長いことほったらかしになっていた2018年の一橋の問題についてですが、この年の問題はこれまで以上に史料読解の比重が高い設問となりました。2017年の問題が、それ以前の数年の問題と比較すると史料を読んでも読まなくても大きな差がなかったので、今後どのようになるかと注目していましたが、2018年の問題は史料読解力に重きをおくここ数年の流れに復帰したことになります。個人的には、歴史的な知識をベースに史料読解力、論理的思考力、国語力に重きをおく2018年のような問題の方が2017年のような問題よりも難しくはあるが良問だと感じますので、おそらく一橋が目指しているのはこちらのタイプの設問なのでしょう。

 すでに一橋の出題傾向分析や問題解説で紹介している通り、史料読解型の設問を出題している大学としては東京外国語大学がありますが、これよりもむしろ一橋型の出題に近いと感じるのが上智のTEAP利用型の世界史設問です。(TEAP利用型についてはつい最近、分析と解説をUPしました。)まだ始まって日の浅いこちらの受験型と問題でまだまだ過渡期にあるかと思いますし、年によって問題に良し悪しがありますが(上智TEAP利用型を受験する受験生にとって適切かそうでないかという点で)、しっかりとリード文を読まないと解けないという意味では一橋の問題に近いものがあります。ただ、一橋の方がかなり深い歴史的知識を要求することがある一方で、上智のTEAP型は基本的な歴史的知識があればよく、あとは国語力の問題であることが多い気がします。(これは「上智の方が問題が簡単」だ、ということではなく、上智の難しい問題は高校生レベルの世界史知識では到底太刀打ちできるものではなく、ほとんどの受験生はリード文の読解に頼らざるを得ず、知識面での差はほとんどつかない、という意味です。チャアダーエフの哲学書簡から生じた西欧派とスラブ派の論争を高校生が知識として持ってたら怖いわ。)いずれにしても、東大・東京外語・上智TEAP利用型は一橋の問題の練習としてはそれなりに役立つかと思います。

 

2018 Ⅰ

 

■問題概要

・ヨーロッパの歴史において、1113世紀にかけて見られたと考えられる「空間革命」はどのようなきっかけでおこったか、考察せよ。

・「空間革命」の結果としてヨーロッパでどのような経済・社会・文化上の変化が生じたか、考察せよ。

400字以内

 

(リード文概要)

:リード文に使われているのはカール=シュミットの『陸と海と』です。カール=シュミットは20世紀を代表する思想家の一人ですが、詳述の必要はあまりないかと思います。Wikipediaに載っているのでこちらをご参照下さいw

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88

 本設問のリード文では、カール=シュミットの「空間革命」についての文章を示しています。彼の『陸と海と』では、大航海時代以降、ヨーロッパ人が海を中心とする世界観を獲得することによって従来の世界観が大きく変化し、さらに20世紀の空への世界の拡大と新たな世界観がどのようなものになるかという考察がなされています。本設問は、そうした空間概念の変化や世界観の変質が、ヨーロッパにおいては11世紀~13世紀に起こったと考えた場合、それはどのようなものかということを問うています。勘の良い人であればシュミットの「空間革命」が何を言っているのかということがピンとくると思いますが、大部分の受験生は丁寧にリード文を読まないと、何を言っているのか実感として把握するのは難しいかと思います。

 リード文の前半では、人間のもつ「空間」に対する意識は、その人が置かれた状況によって異なってくるということを示しています。都会の人間と農夫の世界は違う、ということを言っていますので、このあたりはつかみやすいと思います。また、こうした「空間」概念は、個々の生活や職業のみならず歴史によっても違うと言っているわけです。これはつまり、古代世界の住人と現代の世界の住人が全く異なる「空間」概念、または実際の生活空間を持っているということを言っているわけですね。

 リード文の後半ではこうした「空間」概念は歴史的に変化するものだということが示されています。コロンブスとコペルニクスが引き合いに出されていますが、大切なことはこうした変化が、学問や人間の認識が先に来て変化するのではなく、「歴史的な諸力」、実際に人間が活動して動くことによって生じる「歴史の力の新しい前進」によって起こるということです。人が活動し、歴史が動くことで、「新しい土地、新しい海が人間の全体意識の範囲のうちに入って」来て、それにより「歴史的存在の空間もまた変わってゆく」ことになります。これを11世紀~13世紀のヨーロッパに当てはめた時に、何のことについて言っていることになるのか。おわかりでしょうか。そう、「西ヨーロッパ世界の膨張」が本設問のテーマとなります。

 と、長々と解説してきましたが、実はこの設問、過去にそれも一橋で出題されたことがあります。なんと1982年w!設問の内容もほとんど同じです。でも、さすがに40年も前の問題にまで目を通すのはコスパを考えた時にどうかなぁと思います。11年分毎日解いたとしても1か月半ですからね…。特に現役生であれば、それよりも先にすべきことは私大対策を含めたくさんあるような気はします。受験生であった頃の私なら40年前の世界史の過去問対策するよりも英語か数学に時間を割いたと思いますw でもまぁ、そこは人それぞれでしょう。

 

 閑話休題。

ちなみに、ある解答では「気候が温暖化し、マジャール人ら異民族の活動も止んで社会的安定が訪れると、三圃制など新農業技術の導入もあり、生産力が拡大し人口も増加して西ヨーロッパの拡大が始まった。」となっていました。これをご存じの方からは、私の解答例について「お前、マネしてるだけじゃねーか」と言われてしまいそうですが、そういうわけではないです。まず、私が解答を作成するにあたり最初に参考にしたのは東京書籍の『世界史B』教科書ですが、この平成30年度版には西欧の膨張について取り扱う部分について冒頭の文章がこうなっています。

 

11世紀になると、気候が温暖になり、外部勢力の侵入による混乱もおさまって、西ヨーロッパの社会も安定してきた。」(p.150

 

ちなみに、私が最初に書いた文章は「11世紀以降、気候温暖化やノルマン人・マジャール人など外部勢力の侵入による混乱が収まると、西欧世界は安定化した。」で、字数などの都合から削って解答例のようになったわけです。もちろん各予備校の解答や赤本の解答など一通り目は通しますが、別にplagiarisingしようとかそういうわけではないですw 表現が似通ってるときは、半ば定型化された表現(12世紀ルネサンスなんかそうですね。「アラビア語文献がラテン語文献に翻訳され」とか笑いが起こるレベルで定型文です。)になっているか、教科書などを参考にしたらたまたま参考にした場所が同じだったかどちらかかと思います。

 いろいろと参考にしながらも自分だったらどうするかなぁというのを検討して書いていきます。たとえば、上述の某予備校の解答では異民族の活動については具体例としてあがっているのはマジャール人だけで、ノルマン人についてはそれ以降に「南イタリアやシチリアを占領した」という形で膨張の例として出てきます。これはこれで良いと思います。ただ、ノルマン人の移動は9世紀頃から本格化します。ロロがノルマンディー公国を建てるのは910年ですし、デーン人がイングランドに侵入を繰り返すのもそのあたりですね。設問は11世紀以降の話をしていますので、私のようにノルマン人の活動を「かつて西欧世界を脅かした異民族の活動の一例」としても別に間違いではないわけです。また、ここには出ていませんが、イスラームも異民族の侵入には含まれます。すでに8世紀にはイベリア半島からウマイヤ朝が侵入していますし、シチリアにはアッバース朝支配下にあったアグラブ朝が侵入します。正解というのは一つとは限らないというところがミソかなぁと思います。

 今回は設問が①「空間革命のきっかけ」を示せ、②「空間革命」の結果としての経済・社会・文化の変化を示せ、ということだったので、特に「きっかけ」の部分については単に「西欧世界が膨張したよ」、ではなく「西ヨーロッパの人々の空間認識のあり方が変わったんだよ」という部分が出るように工夫してみました。また、結果の部分についても極力「人々の空間認識や世界観が変わるようなこと」を中心に挙げようと努めたつもりです。その分、歴史用語の数など要素としては犠牲にした部分もあるかなぁという気はしますが、まぁそれはそれでよいかなと思います。

 

■分析

設問の要求は何度も申し上げました通り。

①ヨーロッパの歴史において、1113世紀にかけて見られたと考えられる「空間革命」はどのようなきっかけでおこったか、考察せよ。

②「空間革命」の結果としてヨーロッパでどのような経済・社会・文化上の変化が生じたか、考察せよ。

 

 そこで、まず問題になるのは11世紀~13世紀にかけてヨーロッパで生じた「空間革命」とは何を指しているのか、ということです。これについてはリード文にコロンブスなどが出てきますので、15世紀~16世紀に起こった大航海時代に似た現象が1113世紀にあったか、ということが問題になります。ここでそれが「西ヨーロッパの膨張」にともなう人々の空間認識や生活空間、世界観の変化であると気づければ、あとは基本事項なのかなぁという気がします。社会経済系の出来事を理解するのが苦手、印象に残りにくいという人には解きづらいかもしれません。

 西ヨーロッパの膨張の原因は11世紀以降の各種農業技術の進歩による農業生産の増大とこれにともなう商業の発展ならびに人口増加です。余剰生産ができればそれを別のものと交換したいと考えるのは自然な欲求です。食料が豊富にとれるところばかりではないですから、そうしたところは余剰の農産物と交換すべく特産品を作って交換しますから商業が発展します。いつまでも物々交換では不便ですから貨幣経済も…と、あまりにモデル化されていてどうかと思いますが、基本的にはこのような流れですね。

 また、食糧に困らなくなれば、栄養状態が悪くてなくなってしまう人、特に乳幼児死亡率が低下しますので人口が増加します。ところが、社会の方は急激に増加した人口を吸収するようにその仕組みがまだ出来上がっていないんですね。生産量は増えても富のほとんどは荘園領主のもとに吸い上げられますから、農村では人口が増えても場合によっては厄介者、人によっては食っていけません。そこで、付加価値の創出によりより富の集まる都市へと人口者集中していき、人々は都市に流入し、そこでは新たな富の分配と生産のシステムが確立していきます。これがギルドだったり徒弟制度だったりするわけです。また、人数が増えたら食っていけないのは貴族も同じ。ゲルマン社会では当初分割相続が基本でしたが、分割相続ですと家の存続が難しくなることから、次第に長子相続へと変化していきます。そうすると、増えた兄弟は「部屋住み」の一生うだつが上がらない状態になってしまいますので、「このままここにいてもしょうがねぇ、いっちょ一旗揚げてやるぜ!」ということで政情不安定な南イタリアや東地中海世界、まだ見ぬ未開のエルベ川以東に新天地を求めて旅立っていくわけです。だいぶ乱暴な議論ではありますがw、こう理解しておくととりあえずわかりやすいですし、大航海時代の空気に近いものもありますよね。

 そんなわけで、1113世紀の「空間革命」のきっかけとして必須のものはだいたい以下のようになります。

・農業技術の進歩(三圃制・重量有輪犂など)

・大開墾による耕地拡大(ベネディクト派やシトー修道会など)

・農業生産の増大

・人口の増加

・余剰生産物の発生と定期市、商業の発達

・都市の成長と遠隔地商業の発展

・人の移動の活発化(巡礼など)

・十字軍、レコンキスタ、東方貿易、東方植民

(西欧の膨張実例、または直接的契機として)

 本来であれば「きっかけ」とあるのではっきりとした事象が示せればよいのですが、「空間革命」自体が(設問によれば)2世紀にわたる(現代的な視点からすれば)緩やかな変化ですし、地域も広大です。そもそも、人々の意識や生活空間、世界観の変化といったものはある程度の時間をかけてゆっくりと進行していくもの(常にそうであるとは限りませんが)だと思いますし、要因も多岐にわたります。おそらく、設問の方も「空間革命」を進展させることになった複数の要因を指して「きっかけ」としているつもりなのだと思いますので、上に列挙したものを各変化と結びつけて示せば良いと思います。ただ、そうした中であえて一つ「きっかけ」を挙げろと言われれば、私は農業技術の進歩による生産の増大を挙げたいと思います。理由は、「空間革命」を進展させる要因となった様々な変化の多くが、この農業技術の進歩をもとにしているからです。ただ、実際の変化はそう単純なモデルなのではないのだろうとは思いますが。

 

 さて、そうしますと続いて「空間革命」の結果として、経済・社会・文化上どのような変化がおこったかですが、教科書的には以下の通りになります。

 

・経済面‐遠隔地商業の発展、貨幣経済の浸透

・社会面‐農村への貨幣経済の浸透、古典荘園から地代(純粋)荘園へ、封建制の変質開始

    (ちなみに、純粋荘園化するのは仏で13世紀、英では14世紀頃)

     都市内部の秩序の形成

・文化面‐12世紀ルネサンス(イスラーム文化の流入、大学・スコラ学の発展)

 

設問の方は「空間革命」自体を説明せよというものではないので、概ね上に書いた内容でよいかとは思います。ただ、「空間革命」の結果とあるので、何かしら人々がいた空間の変化や、空間認識の変化、世界観の変化というものを意識するとよいかなと思います。

 

■解答例

気候温暖化やノルマン人・マジャール人などの侵入による混乱が収まると、西欧は安定化した。三圃制や重量有輪犂の導入、シトー会主導の大開墾の進展で生産余剰が生まれると商業活動が活発化して都市と交通が発達し、増大した人口は移動を活発化させ西欧世界は膨張した。十字軍は東地中海、レコンキスタはイベリア半島、東方植民はエルベ川以東の世界を切り拓き、東方貿易やバルト海交易などの遠隔地交易はイスラームをはじめ他の世界とのつながりを認識させた。その結果、北伊を中心に中世都市が発展し、徒弟制度など独自の社会構造が発展した。各都市は連結され物・情報・人の移動が活発化し、定期市が発達し、貨幣経済が浸透し、農村にも影響を与えて地代荘園への変化を促し、封建社会の変質をもたらした。トレドやパレルモではアラビア語文献のラテン語翻訳を通して古典・イスラーム文化が流入し、大学やスコラ学の発展などの12世紀ルネサンスをもたらした。(400字)

※ 本設問とは無関係ですが、中世の人々がどのような感覚をもっていたのか、ということについての歴史学における入門書の一つに、アナール派の第三世代の一人であるジャック=ル=ゴフの『中世の身体』があります。もうずいぶん昔に古典となってしまっているものですが、なかなか歴史には登場しない「身体」やそれに付随する感覚を取り扱った名著です。面白いですよ。

 

2018年 Ⅱ

 

■問題概要

・歴史学派経済学と近代歴史学の相違は何か。

・両者の相違はどのようにして生じたか、両者の成立した歴史的コンテクストを対比させつつ考察せよ。

400字以内

 

(ヒント)

・「歴史学派[経済学]におけるものと[近代歴史学の]古典古代学におけるものとは、研究への志向の動機においても、事象の対象化の方法においてもひとしからざるものが存する…」

=歴史学派経済学と近代歴史学は、研究動機もその方法も異なる

 

・「歴史学派経済学はその根本の性格においては依然として経済学なのであってー即ち歴史学ではないのであってー古代にも生活の一特殊価値たる経済を発見せんとすることが最も主要な研究契機」

・「歴史学派においては全ヨーロッパ的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列することが問題になってゐる」

・「古代の事象は、それが経済世界を構成する方向において対象化せられるのが歴史学派経済学」

=歴史学派経済学の根本は経済学であることにあり、その目的は古代の生活の中に経済的事象を発見・対象化し、さらにそれを全ヨーロッパ的経済発展のあるべき位置に配置することにある。

 

・「(近代歴史学の)古典古代学にあっては、経済をもそのうちに含むところの古代世界への親炙が研究契機」

・(近代歴史学の)「古典古代学においては、古代と現代とを本来等質の両世界として…表象することが主要問題」

・(近代歴史学の)「古典古代学においては、古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する方向において対象化せられる。」

=近代歴史学の研究動機は、経済のみならず、古代世界がどのようなものか、経済を含む全体像を構築することにあり、さらに古代と現代の間に優劣や発展などの差は存在せず、基本的には等質のものであるとの前提にたって対象化がなされる。

 

■分析

 この問題はとても難しいです。一方で、最近の一橋らしい設問でもあります。史料を読み取らせ、その情報をベースに受験生が持っている歴史的知識と結びつけて考察せよ、というスタイルの設問で、比較という視点が入っていることも合わせると、2016年一橋の大問1(聖トマス[トマス=アクィナス]とアリストテレスの都市国家論比較)が一番近いものかと思います。

 「難しいな」と感じるのはトマス=アクィナスとアリストテレス、中世都市とポリスというのが一橋受験者にとってはおそらく基本事項の範囲に入っていたのに対し、今回比較考察の対象になっているリストとランケ、そして何より歴史学派経済学と近代歴史学というものが、一橋受験者にとってもかなりハードルの高い知識であって、かつ教科書や参考書で詳しく書かれているものではないからです。リストとドイツ関税同盟くらいは基本事項なのでしょうが、リストの歴史学派経済学の詳細と関税同盟との関連性やランケとなるとややレベルの高い知識でかなり勉強している人でないと知らない知識になりますし、近代歴史学の詳細となりますとこれはもうハイレベルな知識で、普通の受験生に手におえるものではありません。ですから、もし赤本を解いていて全然知らない、わからないからと言って特に悲観することはありません。他の大方の受験生も知りません。ためしに駿台の分析を見てみましたが、大問1と大問3が「標準」となっているのに対し、大問2については「難」となっていました。難しいですよね、やっぱり。

 ただ、それでは本設問が「悪問」か、と言われれば、私はそうは思いません。(無茶なこと言うなぁとは思いますがw)その理由は二つあります。まず、設問が聞いているのは歴史学派経済学と近代歴史学についての世界史的知識を問うているのではない、という点です。本設問が聞いているのはあくまでも両者の「相違」とその相違が生じた「原因」です。「歴史的コンテクスト」についてはこれらを答えるにあたっての添え物(というのは少し言い過ぎかもしれませんが)にすぎません。もっとも、この添え物を適切に記述することが思いのほかに難しいのですが。二つ目に、本設問はある意味で世界史的知識がなくても解ける設問です。つまり、史料をじっくり読解することによって、世界史では習っていない部分の知識を補って答えることができます。史料の読解と最低限の世界史知識をうまく組み合わせれば、他の受験生と同等、場合によっては一歩抜け出た解答を構築することが可能です。世界史の問題というよりは国語の要素が強い設問です。やはり、ここでも知らないからと言ってあきらめてしまうのではなく、どのように不時着させるかが重要になってきます。私がこの年の受験生であれば、まず大問1と大問3についてできるだけ短時間でしっかりとした解答を仕上げ、残された時間をこの大問2にじっくりかける、という解き方をしたと思います。しかし、大問2に全く歯が立たない(リスト、ランケを知らない、歴史学派経済学、近代歴史学が何か、いつごろのものか知らないなど)場合には、史料から読み取れる部分だけをまとめて、あとは大問1と大問3を完璧なものに仕上げるために時間を割くのが無難でしょう。

 

【分析の手順1:歴史学派経済学と近代歴史学の整理】

 それでは、分析を始めたいと思います。設問が求めているうちのひとつ目、「歴史学派経済学と近代歴史学の相違」についてですが、これはリード文の中に示されています。つまり、世界史の知識から絞り出してくるのではなく、史料の読解によって答えを見出すことになります。(もとより知っている人は別ですが、それでもリード文の内容は確認してそれに沿ったものにすべきだと思います)

実は史料読解の大半は上述の問題概要のところで示してあります。それを再度まとめてみますと、以下のようになります。

 

A 歴史学派経済学

・根本的には経済学

・古代の生活の中に経済的事象を発見・対象化することが目的

・発見した経済的事象を全ヨーロッパ的経済発展のあるべき位置に配置することが目的

 

B 近代歴史学

・古代世界とは何かを明らかにすることが目的

・古代世界は経済的事象のみではなく、他の様々な事象を含む総体としてとらえられる

・古代世界の内部においては発展や衰退が存在しても、古代と現代は等質的関係にあり、両者の間に優劣や発展といった関係は存在しない、と考える

 

 このABの内容を読み取り、違いを示すだけでも「歴史学派経済学と近代歴史学の相違」を示したことにはなります。リード文という限られた情報源からの判断にはなってしまいますが、そのリード文自体、出題している側が示しているものですから、一定の真実を含んでいると判断してよいでしょう。つまり、世界史的な知識を持っていなくても両者の相違を示すことは可能です。

重要なポイントは、歴史学派経済学があくまでも経済学の視点から古代世界をとらえようとしているのに対し、近代歴史学は古代世界そのものに親炙(あるものに親しく接してその教えを受けること、感化をうけること)することを目的としているという点。次に、歴史学者経済学が人類の歴史が次第に発展していくという歴史観を持ち、その中に古代世界の経済を位置づけようとしているのに対して、近代歴史学は古代世界と現代をそれぞれ独立した固有のものとしてとらえ、歴史学派経済学が持つような発展史観は持ち合わせていないという点です

 そこで問題になるのは設問の要求する残り二つの部分、こうした「両者の相違はどのようにして生じたのか」ということと、「両者が成立した歴史的コンテクスト」とは何か、です。これについてはある程度は世界史の知識に頼らざるをえません。どこまで世界史の教科書・参考書・授業などから習得できるかは後でご紹介することにして、まずは歴史学派経済学と近代歴史学の概要について簡単にご紹介しておきましょう。

 

(歴史学派経済学)

:歴史学派経済学もそうですが、「歴史学派」というのは19世紀ドイツの一つの思想的、学問的潮流です。歴史学派の考え方を一言で表現するのは難しいのですが、つまり「経済にせよ、法にせよ、人間生活の様々な制度や仕組みが成立する過程においては、地域固有の特徴が深くかかわるものであるから、成立した経済や法も固有のものであり、普遍的なものではない。ゆえに、各地域の経済や法などを研究する際にはその地域の固有の特徴、つまり歴史を考察しなければならないし、経済政策や法の適用を行う際には各地域の実態に即して進めなければならない」という考え方です。

歴史学派ないし歴史主義が成立するのは19世紀初頭のドイツと言われますが、この当時のヨーロッパ全体の思潮には大きな変化がありました。18世紀啓蒙思想から19世紀ロマン主義への転換です。啓蒙思想で貴ばれたものは理性・合理・普遍・個人・進歩・発展といったものでしたが、ロマン主義はこれらの概念に批判的で、むしろ感情や主観に重きを置き、世界を合理的に割り切れるものとしてとらえるのではなく、さまざまな要素が入り混じった有機的なものとしてとらえ、そうであるがゆえに理性では割り切れない感情、個人の奥底に存在し、さらに個人がさまざまな形で影響を受ける集団、現在を形作ることになった過去、などに注目し、これらを重視する立場をとりました。ロマン主義が感情的(ロマンティック)で、恋愛や民族意識を称賛し、中世などの過去に憧れる傾向にあったのはこのような理由によります。(ロマン主義については、以前掲載した「東方問題」のバイロンのくだりで簡単に触れています。)

 つまり、「歴史学派」というのは啓蒙思想が重視した「普遍的で合理的なもの」よりも「固有の特徴(歴史)」を重視し、その方法も啓蒙的な「抽象的思考方法」のように、物事を概念としてとらえて理性をもとに普遍的なモデルを組みたてていくやり方よりも、「状況論的思考方法」、つまりその土地、時代、状況において何があったのかを検証し、そこから考察するという方法をとる考え方のことを言うわけです。

 ですから、歴史学派をとらえるにあたって非常に重要なことは、19世紀初頭のロマン主義とナショナリズムをしっかりと理解した上で、歴史学派自体がこのロマン主義やナショナリズムと密接に関連しているということを理解することだと思います。

 さて、このような前提を理解した上で、歴史学派経済学をドイツのリストが提唱したことを思い返してみると、これまでよりもリストの提唱した学説の内容が良く理解できると思います。リストは世界史の教科書や授業では1834年に成立したドイツ関税同盟を結成したということで強調されます。それ自体は間違いではないのですが、リストの重要な点は、イギリスが新しく世界に出現した資本主義社会を説明するために作り出した学問、つまりアダム=スミスの古典派経済学を批判的にとらえて歴史学派経済学を創始し、ドイツのその後の経済政策に大きな影響を与えたところにあります。アダム=スミスの古典派経済学は、ケネーの重農主義の影響を受けながら、啓蒙的な発想のもとに人間生活の諸活動を一般化し、モデル化し、普遍的に適用しうる理論として打ち立てられます。(このあたりのことは「近現代経済理論」の方で簡単に紹介しました) しかし、古典派経済学の中心理論である自由主義経済理論は、イギリスのように産業革命を達成して圧倒的な工業力を手に入れた国にとっては好都合な理論でしたが、ドイツのように産業化が十分でない後発国にとっては当てはまらないものでした。産業力に劣るドイツがイギリスとの間で自由貿易を展開した場合、より安価で品質の高い商品を関税なしでイギリスはドイツに輸出することが可能になり、その結果ドイツの国内産業は壊滅してしまします。(実際、歴史上似たようなことはよく起こります。リストの前の時代には1786年にフランスがイギリスとの通商条約[イーデン条約]で関税引き下げに応じましたが、このことが原因で綿工業をはじめとするフランス産業は打撃を受け、フランス革命につながる要素の一つとなりました。また、英産綿布の流入によりインド綿産業が壊滅したのも同じことです。) ですから、ドイツが自国産業の成長を図るにあたっては保護貿易を採用することが求められました。そこで、というわけでもないのでしょうが、リストが展開したのは、領邦国家が分立し封建的束縛が残存して経済発展を阻害している国内経済に対しては規制の撤廃や市場の統合という啓蒙的要素の色濃い政策を提唱しながらも、対外的には古典派経済学の自由貿易主義を批判して自国産業育成のための保護貿易を主張し、そのような主張をドイツの固有の状況に対応するものだとして正当化しました。これが(初期の)歴史学派経済学成立の背景です。ですから、リストの経済学は基本的には普遍性を批判し、固有性を主張するところに特徴があります。ですが、経済学というのは基本的にはその社会の経済の発展を目的として研究される学問です。また、先にも述べた通り、当時のドイツが経済発展を推進するためには、国内に残存して経済的な障壁となっている封建的諸特権を排除することが急務でした。その結果、歴史学派経済学は啓蒙的諸要素を批判しつつも、その内部に発展段階論という発展史観・進歩思考を残存させるという形で成立することになります。

 

(近代歴史学)

 これに対して、近代歴史学の祖と言われるのはランケです。ランケは、歴史学派経済学がとったような楽観的で進歩的な発展段階論は基本的には取りませんでした。それまでの歴史は旧来からの教訓主義や18世紀啓蒙思想の影響から発生した進歩主義的な歴史がほとんどで、描きたい歴史を描こうとするあまり、そのもととなる史料の扱いがおろそかになっていました。そこでランケが提唱したのが徹底した史料批判によって、歴史のあるがままを描き出そうとした実証主義的な歴史研究法です。こうした研究手法によって、ランケはそれまでの「歴史家」とは一線を画し、「歴史学者」として科学的で客観的な近代歴史学を確立したと言われています。

 ランケの研究手法のベースにあるものは徹底した史料の読解とその批判的解釈です。史料にはひとつとして同じものはありませんから、史料読解の上に構築される歴史像というのは自然に固有のものとして描き出されることになり、普遍的なものとはなりえません。また、啓蒙的な進歩主義の批判から成立したものでもありましたから、リストが残していたような発展史観をとることはありませんでした。これがつまり「古代世界への親炙」であり、「古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する」ということであり、「古代と現代とを本来等質の両世界として…表象すること」です。

 ただ、ランケについては注意しなくてはならないことがあります。ランケはたしかに方法論、研究手法としては客観的で科学的ともいえる歴史学の方法を提唱しましたが、その実践面においては必ずしもそうではありませんでした。彼は確かに史料に基づいて歴史を書きましたが、その史料の選択については時に恣意的で限定した範囲の史料を用い、多くの隠喩が用いられてはっきりとした事実を示すことが少なく、歴史学の著作というよりは依然として文学的な匂いを色濃く残すものとなりました。史料に基づいていたとしても自分の望むように歴史を描くことは十分可能なのですよ。自分に都合の良い史料だけ集めたり、書いてある内容を自分の都合の良いように解釈すればよいわけですから。マンガなんかでもありますが、「強敵」と書いてあったって「とも」と読んだら内容全然違ってきます。「こっちにくるな、バカヤロー!」って書いてあった場合、「AさんとBさんは仲が悪い」と解釈することも可能ですが、前後の状況を見ると「(こっちにくると二人とも命の危険にさらされてしまう。おれは愛するお前を危険にさらしたくはない。だから)こっちにくるな、バカヤロー」だったりもするわけで、この場合、その部分だけ断片的に史料を抜き出してきたとしてもあまり意味はなく、むしろやりようによっては捏造出来たりしてしまうわけです。理系なんかで行われる実験データの改竄、とまでいかなくても隠蔽などは近いものがありますね。「データとしてある」から信用があるかどうかは、そのデータを作る人間や扱う人間がどれだけ真摯にそれと向かい合っているかがとても重要だということです。

 さて、そうしたわけでランケの描き出した歴史は実はロマン主義と密接にかかわる内容となっていました。史料読解の上に描き出された固有の歴史でありながらも、一方でロマン主義の影響を受けて復古主義的でした。ベルリン大学の教授として勤めていたこと、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世と深いかかわりを有していた点からも、自国の体制寄りでナショナリスティツクな歴史をランケは描き出すことになります。

 

【分析の手順2:歴史学派経済学・近代歴史学成立の要因と歴史的コンテクスト】

 

さて、上述のように歴史学派経済学と近代歴史学についてはその概要を整理してきましたが、その成立の背景としてどのような要因があったかを整理すると以下のようになります。

 

(共通)

・ロマン主義の影響(ナショナリズムとのかかわり)

・啓蒙的普遍性の批判と固有の歴史的過程の重視

(リスト)

・ドイツのおかれた当時の経済状況(産業革命の出遅れと国内経済の封建的状況)

・古典派経済学批判

(ランケ)

・教訓主義や進歩史観の否定

・厳密な史料批判

 

ですから、解答の作り方としては、歴史学派経済学と近代歴史学成立の背景として共通しているロマン主義の高揚と啓蒙的普遍性の批判に触れつつ、リストならびにランケがおかれた当時の状況を鑑みた上で、両者の差異(「発展」に対する姿勢の違いなど)について言及するというのが良いかと思います。

 

【「世界史」のレベルで押さえておかなくてはならないところはどこか】

 さて、ここまでは「世界史」の枠をはみ出してかなり詳しい内容まで解説してきましたが、今まで解説した内容を自分のものとして、かつ整理できる受験生などそうはいるものではありません。ですが、「世界史」の範囲でも通常抑えておくべき内容があるのも確かです。私が「世界史」の知識として本設問に関して受験生が解答に盛り込んだ方が良いと思う内容は以下の通りです。

 

・歴史学派経済学=リスト

・近代歴史学=ランケ

・リストの提唱によって1834年に北ドイツを中心としたドイツ関税同盟が結成

・関税同盟は、産業革命を達成したイギリスに対抗して国内産業を守るためのもの

・歴史学派経済学が古典派経済学の自由主義を批判して保護貿易を主張したこと

・近代歴史学が厳密な史料批判によって成り立っていること

 

 せいぜいこのくらいではないでしょうか。こうした「世界史」の知識と、リード文からの読み取れる部分をもとに解答を作ると以下のようになるかと思います。

 

■解答例

ロマン主義の影響を受けて歴史学派経済学を提唱したドイツのリストは、イギリスに比して遅れた自国の経済状況を考慮した場合、アダム=スミス以来の古典派経済学と自由放任がドイツ国内産業の成長を妨げると考え、ドイツ固有の発展段階に合わせた経済政策である保護主義を主張し、これがドイツ関税同盟の結成につながったが、一方で経済的事象を全ヨーロッパ的発展の上に配置するという発展段階論を残していた。近代歴史学の祖であるドイツのランケは、同じくロマン主義の影響を受けつつも、従来の歴史学がよって立つ教訓主義や進歩・発展などの啓蒙的概念を歴史に当てはめることを否定し、徹底した史料批判によって個々の歴史的事実を明らかにしようとした。また、近代歴史学は経済のみならず、世界全体を考察の対象とし、古代と現代を優劣のない等質の世界として分析しようと試みたが、描き出された各民族固有の歴史はナショナリズムの形成と深く結びついた。(400字)

 

 もちろん、書き方によっては当時の「歴史的コンテクスト」の方に重点を置いた解答を作成することも可能だとは思いますし、その方が世界史の解答らしくはなるのですが、私自身は本設問において主となるのはあくまでも「相違」と「相違が生じた要因」の方にあると思っています。高校生がリストとランケに関する知識をそうは持ち合わせていないことを考えても、設問の意図はおそらく史料読解と受験生が持っている知識の統合・整理能力を問う方にあると考えますので、そちらを重視してみました。

 

2018年 Ⅲ

 

■問題概要

・この文章(ある朝鮮人革命家がアメリカのジャーナリストに語った回想をもとに書かれた文章)全体で描写されている運動と下線①(「中国は山東半島の一部を日本に引き渡す運びとなった日英の秘密条約が発覚してからそれに応じてきた」)が示す運動について、それぞれの名称を示せ。(問1)

・下線②(「ヴェルサイユの裏切り」)で示されている会議に言及しつつ、両運動の背景および展開過程、意義を論ぜよ。(問2)

・問1、問2合わせて400字以内。

 

■分析

史料が扱われてはいますが、問題を解く上で難しい読解は必要ありません。引用されている『アリランの歌』(ニム=ウェールズ著、松平いを子訳)は朝鮮人革命家キム=サン(本名:張志楽)とアメリカのジャーナリスト(ニム=ウェールズ、本名:ヘレン=フォスター=スノー)による共著で、戦間期の朝鮮・中国情勢を知る上での史料となるもので、岩波(岩波文庫版が本設問で史料として引用されている松平氏訳です)などからも邦訳が出版されています。とても面白い作品ではありますが、ジャーナリストが革命家から伝え聞いた話を出版したものであり、かつ革命家がジャーナリストに語り聞かせた内容であることを考えると、「第1級の史料である」とか言われちゃうと1718世紀の議事録とか個人書簡を読んでいた自分からすると、「うーん?現代史研究とはそういうものなのか?」と思う部分もあります。ただ、そうした知識は本設問を解く上で全く必要はなく、そのあたりを考えると大問2とは大きな差があります。

 

 本史料の読み取るべき重要な部分は下線①・②に加えて以下の部分です。

・朝鮮独立宣言がなされたこと

・デモがあり、大衆集会が開かれ、新たな独立宣言が読まれたこと。

・独立宣言は国際主義的で平和や国際的信義の擁護をうたっていたこと

 

 下線部と上の各部分を考察した場合、時期が第一次世界大戦後のパリ講和会議が開催されていた時期のことであり、運動がそれぞれ朝鮮の三・一独立運動と中国の五・四運動であることは推測が可能かと思います。

 また、下線部①に書かれている「中国は山東半島の一部を日本に引き渡す運びとなった日英の秘密条約が発覚してからそれに応じてきた」という部分の「日英の秘密条約」とは1917年にイギリスが日本に対して行った、日本の山東半島におけるドイツ権益を引き継ぐことを認める密約のことを指しています。私、日本史と現代史は専門ではないもので、この部分がどうしてもわかりませんで。かつ、各予備校やらの解説を見てもなぜかこの部分についてはスルーされているものですから、困ってしまって結局『アリランの歌』買っちゃいましたw そうしたらやはり、この本の補注のところに載っておりましたので、ようやくすっきりできました。1917年の密約ですし、この密約の内容から鑑みてヴェルサイユ条約で中国代表による返還要求を無視したことともつながりますから、やはり中国については五・四運動で確定で良いと思います。

 さらに、下線②の「ヴェルサイユの裏切り」はヴェルサイユ条約のことですから、示されている会議はパリ講和会議ですね。あとの問題は、三・一独立運動の背景・展開過程・意義、そして同じく五・四運動の背景・展開過程・意義についてまとめていけばよいということになります。一橋の大問3ではたびたび朝鮮史が出題されてきたことや、時代が近現代であったことを考えれば十分に対応可能な問題だったと思いますし、大問1よりも取り組みやすかったのではないでしょうか。

 

(三・一独立運動)

:この運動の直接のきっかけは高宗の死ですが、当時パリでは講和会議が開かれており(19191月~)、ウィルソンの十四ヵ条の平和原則に沿って、アジアにおいても民族自決の原則が適用されるのではという期待が高まっていました。こうした中で日本の朝鮮支配に反対し、独立を宣言してその正当性を世界にアピールすることを計画した33名の人々が、高宗の葬儀に合わせて行動を計画したことで発生したのが三・一独立運動です。独立宣言をつくった33名の人々は逮捕されましたが、その内容に共感した数千におよぶ人々が京城(今のソウル)にあるパゴダ公園に集結し、その後独立万歳を叫びながら市内を行進する数万人規模の運動に発展し、さらに各地における運動へと波及していきました。

 この運動が高揚した背景には、上述した「民族自決」の理念への期待感もありましたが、それまでの日本の朝鮮統治が「武断政治」と呼ばれる軍人による強圧的民衆統治が展開されていたことにも注意が必要です。朝鮮総督府の統治に反対する政治活動などは禁止され、軍の憲兵が一般警察官を兼任しました。このあたりのところを覚えていれば、三・一運動の意義としてその後の文化政治への転換を指摘することは可能だと思います。また、この三・一独立運動の影響を受けて、海外で運動を展開中だった李承晩らが上海で大韓民国臨時政府を樹立しました。朝鮮国内での独立運動が困難になったことから、朝鮮の独立を目指す動きは亡命者たちによっても進められ、必然的に国際色を帯びることになります。まとめると、三・一独立運動については以下のような内容を最低限用意しておくと良いでしょう。

 

①背景

 ・日本による武断政治

 ・「平和に関する布告」やウィルソンの「十四ヵ条の平和原則」と民族自決

→世界的なナショナリズムの高まり

 ・パリ講和会議への期待感

②展開

 ・高宗の死をきっかけとした独立宣言

 ・京城における民衆デモと運動の全国展開

 ・日本による弾圧

③意義

 ・文化政治への転換

 ・朝鮮独立運動の国際化(ex.李承晩による大韓民国臨時政府の結成[@上海:1919]

 

(五・四運動)

:続いて、五・四運動について考えてみましょう。五・四運動発生の直接の原因が、パリ講和会議における「日本による、ドイツから奪った山東半島権益の承認」にあったことはご存知の方も多いと思います。ですから、五・四運動は朝鮮で起こった三・一独立運動と共通の背景(民族自決の理念とナショナリズムの高揚など)をもっていたのは確かです。ただ、注意しておきたいのは、中国には朝鮮とは異なる固有の背景があった点です。このあたりのところを雑にしてしまって全て民族自決で片付けてしまうのはまずいと思います。

 まず、中国ではすでに1910年代から「新文化運動」と呼ばれる啓蒙運動が展開していました。陳独秀の『新青年(青年雑誌)』は有名ですし、頻出ですね。そのほかにも、李大釗、魯迅、胡適、蔡元培といった知識人や教育者が、白話運動や西洋思想の紹介を通して儒教批判や進歩的思想の取り入れなどを主張していきます。この運動の中心が北京大学であることを考えると、五・四運動がまず北京の学生によるデモから発生したことの意味が見えてくるのではないかと思います。また、李大釗のマルクス主義紹介や、陳独秀のマルクス主義への傾倒(後に陳独秀は中国共産党の初代委員長となります)などからは、ロシア革命の影響を見ることもできます。

政治的背景としては袁世凱政権による二十一ヵ条要求の受諾と、その後継となった各軍閥の指導者と日本・列強との癒着が、中国民衆のナショナリズムを刺激したことが挙げられます。安徽派の段祺瑞に対して日本から行われた借款で日本に対して中国利権を与えることが示されたことに中国の人々は不快感を示しました。また、中国に先んじて、朝鮮で三・一独立運動が発生していたこと自体が、中国におけるナショナリズムをさらに刺激したことも挙げられるかと思います。

 こうした中で、北京の学生たちが中心となってヴェルサイユ条約調印反対を唱えるデモが発生しました。さらにこれが全国的な反帝国主義運動(商店の休業やストライキ、日本製品の排斥など)へと波及していきます。当初、中国政府はこの運動を弾圧しました(当時の中国は日本が支配しているわけではないので、弾圧の主体は朝鮮と異なり日本ではありません)が、運動の広がりに屈して最終的には政府としてヴェルサイユ条約への調印拒否を決定しました。ヴェルサイユ条約の第1篇は国際連盟規約となっていましたから、この段階では中華民国(北京政府)は国際連盟に加盟していませんが、サン=ジェルマン条約の第1篇も同じく国際連盟規約となっており、中国はこちらの条約の方には調印を行っています。(東京書籍『世界史B』平成30年版にはこのあたりの事情について「北京政府は条約調印を命じたが、パリの中国代表団はそれを無視し、サン=ジェルマン条約で国際連盟への加盟が実現できることを確認したうえで、調印を拒否した。」(p.367)とあります。

 五・四運動の評価は、特に指導層が一定の富裕層ないし知識人に限定されていたのか、それとも労働者階層が運動の中心的な推進役であったのかについては論争があるようです。ただ、孫文がこの運動によって刺激を受け、大衆運動の力を認識したことが中国国民党の結成(1919)につながったことは言えると思います。また、この運動には多数の共産主義者も参加しており、孫文をはじめとする知識人、革命家に次第に共産主義への理解が深まっていったこと、そして1921年の中国共産党の結成へとつながっていきます。その後の展開としてはもちろん、1924年の第一次国共合作へとつながっていくのですが、この国共合作を本設問の解答として盛り込むかどうかは個人的には悩ましいところです。本設問では五・四運動の「展開過程」と「意義」が要求されていますが、少なくとも国共合作は五・四運動の「展開過程」ではありません。また、国共合作を五・四運動の「意義」と言ってしまってよいのかというと、国共合作結成には五・四運動以上に固有の要素(カラハン宣言、コミンテルンの指導、孫文・ヨッフェ会談etc)が大きくかかわっていることからためらってしまいます。教科書的な流れとしては国共合作まで示した方が間違いなくバランスは良いのですが、大衆運動の高揚と中国国民党ならびに中国共産党の結成までの方が設問の要求する内容にはしっくりくる気もします。(もっとも、出題者が出題時点で国共合作まで視野に入れている可能性を否定はしません。)以上のことから、五・四運動にかんしては以下のような内容をそろえておけば解答の大筋から外れることはないと思います。

 

①背景

 ・「平和に関する布告」やウィルソンの「十四ヵ条の平和原則」と民族自決

→世界的なナショナリズムの高まり

 ・それまでのパリ講和会議への期待感

 ・新文化運動

 ・ヴェルサイユ条約で二十一ヵ条要求破棄の要求が無視されたこと

 ・軍閥に対する失望と反発

②展開

 ・北京の学生を中心とした、二十一か条要求破棄を無視されたことに対する抗議デモ

 ・全国的な反帝国主義運動の拡大

 ・中国政府による弾圧とその断念

 ・中国北京政府によるヴェルサイユ条約調印拒否

③意義

 ・大衆運動の高揚

 ・中国国民党の結成

 ・中国共産党の結成

 

■解答例

三・一独立運動、五・四運動。ロシア革命後にソヴィエト政府が平和に関する布告を発し、対抗してウィルソンが十四ヵ条の平和原則を示したことは、社会主義や、民族自決に基づく民族運動の高揚を促し、パリ講和会議への期待を高めた。日本の武断政治に不満を感じた朝鮮の人々は高宗の死を契機に京城で独立を宣言してデモを行い三・一独立運動が開始され、全国に拡大した。朝鮮総督府は運動を弾圧したが文治政治への転換を余儀なくされ、李承晩が上海で大韓民国臨時政府を樹立するなど運動の国際化も進んだ。中国では北京大学を中心に新文化運動が進められていたが、パリ講和会議で日本の山東省旧ドイツ権益継承が認められると、これに抗議する北京の学生を中心とするデモを契機に全国的な反帝運動に発展した五・四運動が発生し、大衆の力を目にした孫文は中華革命党を大衆政党の中国国民党に改組し、さらに中国共産党も結成されるなど政治運動の大衆化が進んだ。(400字)

 

 上に書いてきた要素をまとめてみました。本来、「平和に関する布告」は教科書的な流れで書くのであれば必要ないかもしれません。ただ、1910年代後半から1920年代にかけての世界各地における反帝国主義運動や反植民地運動の中に、社会主義が重要な要素として含まれていたことは間違いのないことなので、書いたからと言って間違いではないと思います。(たとえば、インドネシア共産党が結成されるのは1920年のことです。)また、「ここからここは民族運動で、ここからここは社会主義運動」のようにはっきりと区別できるものでは必ずしもない(新文化運動などもそんな感じです。陳独秀が共産主義に傾倒していくのに対して、これについていけない胡適は次第に『新青年』から離れていきます。)ですし、さらに本設問の最後が「中国共産党の結成」もしくは「国共合作」で終わることを考えると、社会主義の語を一言も出さずに大衆運動の高揚だけをもって「ハイ、共産党」っていうのは何だか唐突な気もします。そこで、あえて社会主義の要素も入るように書いたらどうなるかなぁということで解答を作ってみました。少なくとも、上に示してきた各要素はきちんと示してありますので、設問の要求を大きく踏み外したものにはなっていないのではないかと思います。

↑このページのトップヘ