世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

2019年02月

(本記事は最初の記事を急ぎで作りましたので、2019.10.17に加筆修正しました。)
 
 2019年のテーマは、第一次世界大戦後のヨーロッパの覇権の「揺らぎ」と「立て直し」がテーマです。すでに上智TEAPの傾向については別稿において述べていますので割愛しますが、上智の問題は「比較」や「対比」に加え、ある一つのテーマから複数(基本的には二つ)の見方、立場が見出せるものをリード文で紹介し、それを世界史の知識をベースに読解した上で整理せよ、というタイプの設問が多いように思います。今年度の問題は、過去5年の問題と比べると比較的解答が作りやすかった問題ではないかと思います。ただ、この「立て直し」の部分は難しいですね。とりあえず、解いてみたのでご紹介します。問題は赤本なり予備校なりから手に入れていただければと思います。

 まずは、今年度の小問の方から簡単に解説していきます。

 

設問1 a

第一次世界大戦直後のインドにおける反英運動となれば「a:アムリットサール事件」。インドでは、戦中よりイギリスから自治の約束が交わされていた(インド担当相モンタギューによる:1917)が、戦後制定された1919年のインド統治法では形式的な自治を与えるにとどめ、さらにこの法律と合わせてローラット法(令状なしの逮捕、裁判なしの投獄を定めた)を制定。これに対する反対運動が高まる中、民衆に対しイギリス軍が発表した事件がアムリットサ(-)ル事件。

 

他の選択肢ですが、ガンディーによる塩の行進は1930年から、国民会議派のカルカッタ大会で四大綱領(スワラージ、スワデーシ、ボイコット[英貨排斥]、民族教育)が決議されるのは1906年、シパーヒーの反乱(インド大反乱)は18571859にかけてです。

 

設問2 d

誤っている部分は以下の通り。

a-「×ニコライ2世はケレンスキーを首相に登用して」

 :ニコライ2世は1917年の革命で退位します。ケレンスキーは臨時政府の首班になるが、最初に臨時政府を率いたのはリヴォフ公(立憲民主党[カデット])。ちなみに、1905年のロシア第一革命で首相となるのはポーツマス条約のロシア側代表でもあったウィッテ。

b-「×自由主義者のウィッテと対立した」

:ウィッテは1915年に亡くなっていますので、レーニンの四月テーゼの時期にこれを批判することはできません。また、教科書などでもウィッテが最後に出てくるのはドゥーマの開設と首相就任まで。

c-「×1917年…レーニンは…血の日曜日事件を起こした」

 :血の日曜日事件は1905年の事件で、きっかけをつくったのはロシア正教の僧侶であったガポン。

 

設問3 b

 パリ講和会議に出席したのは立ち姿がくまモンっぽいクレマンソーです。

 クレマンソー

 

その他の選択肢ですが

a-マクマホン

:世界史に出てくる人物となると、ティエールの後の大統領(マクマオン)か、フサイン=マクマホン協定を結んだイギリスの高等弁務官。

c-ブリアン

:ケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)締結など、1920年代後半の国際協調に尽力したフランスの外務大臣。

d-ダラディエ

:ミュンヘン会談に参加したフランス首相。

 

設問4 c

:第一次世界大戦前のズデーテン地方はベーメン(チェコ)なのでオーストリア=ハンガリー帝国の一部。

 

設問5 d

:セーヴル条約はオスマン帝国のスルタン政府が締結した講和条約であるが、トルコ領土の大部分が失われる内容であったことから、ムスタファ=ケマル率いるアンカラ政府はこの条約の締結を拒否した。また、イズミルの奪還は19191922のギリシア・トルコ戦争において。

 

以上が小問です。普段から世界史をしっかりやっていないと解けない問題ですが、かといってものすごく難解でどうあがいても解けない、というレベルの問題でもありません。

 

設問6(論述問題:120字程度)

■設問概要

・中東欧に西欧の国民国家体制を適用する試みの問題点はどこにあるか。

・ハンナ=アーレントの引用文を踏まえて答えよ。

 

(ヒント1:アーレントの引用前の解説文)

・(中東欧諸国の独立は)いかなる国家によっても代表されず、保護されない少数民族や無国籍者の存在を浮かび上がらせた。

 

(ヒント2:アーレントの引用文)

・西欧の国民国家体制は全ヨーロッパには拡大できない。

・(国民国家において)「主権はどこでも他の民族の裏切られた願いに対立する形で貫徹されたため、主権を得た民族は最初から圧制者の役割を演ずる」ことになった。

・被抑圧民族=民族自決権と完全な主権なしに自由はあり得ないと確信

      =民族的熱望をないがしろにされ、人権をだまし取られたと感じた。

      =フランス革命を支えとした

      (フランス革命が国民主権と人権の享受を等置することにより築かれた)

 

■分析と解法

:設問のテーマ自体は古くからあるものです。第一次世界大戦後の民族自決に基づく東欧諸国の独立が少数民族問題を生み出すという問題点を持っていた、というものですね。これについて、東京書籍の『世界史B』では「しかし、もともと多数の民族が混在していた東欧では、一民族一国家を理念とする国民国家の形成は、事態をいっそう複雑にするものであった。敗戦国ハンガリーは領土の71%を失い、多数のハンガリー人が周辺のルーマニアやチェコスロヴァキアなどに少数民族として取り残された。独立を達成したチェコスロヴァキアには、ドイツ人が多数住むズデーテン地方がとりこまれた。また、セルビア人、クロアティア人、スロヴェニア人は、1918年、南スラヴ人としてまとまってオーストリアから独立したが、内紛が絶えず、29年には国王独裁のユーゴスラヴィア王国となった。」(pp.3565-356)とあります。つまり、西欧式の「一民族一国家」の理念に基づいた「国民国家」を形成すると、多くの民族が混在する東欧ではその枠組みの中におさまならい少数派が必ず生まれてしまうわけです。(もっとも、こうした問題は西欧においても見られることではありました。)基本的にはこのことを指摘すれば十分だと思います。

■解答例

 多くの民族が住む東欧に、一民族一国家の理念に基づく西欧型の国民国家体制が適用したことで、新興国家が少数民族を抱えて複雑な民族構成を持つことになっただけでなく、国外にも多数の自民族を残したため、民族運動の激化や各国間の対立を招く火種を残したから。(122字)

 より本文に即した形で解答をつくるのであれば、以下のような形でしょうか。
■解答例2
 新たに中東欧に成立した国家にはヴェルサイユ条約によって主権が与えられない少数民族や無国籍者が多数混在したため、構造的に主権を持つ民族が少数派の抑圧者となり、少数派は自決権や人権を侵害されたと感じたために、一つの国民としての統合が困難だったから。(122字)

 

設問7(350字)

■設問概要

・第一次大戦後の世界においてヨーロッパの覇権はどのような形で揺らいだか。 

・また、それはどのような形で立て直されたか。

・波線部に留意せよ。(リード文内に多数)

・指示語は

 ワシントン体制 / 旧オスマン帝国 / サイクス・ピコ協定 / 委任統治 / 植民地

 

手順1:指示語の分析

  やや指示語自体に偏りがあるように感じますが、それぞれの指示語が「揺らぎ」と「立て直し」とどのように関係するかを検討してみましょう。 

 

・ワシントン体制=揺らぎと立て直し  

    ‐ワシントン体制自体は「アメリカ主導」の東アジア・太平洋における国際秩序ですから、それまでのヨーロッパ主導から見ると「揺らぎ」の要素を備えています。このことは、九か国条約がアメリカがかつて発した「門戸開放宣言」の具体化であり、アメリカの対中進出の足掛かりになるものであることを考えてもわかります。

    ‐一方で、ワシントン体制はアメリカとイギリスの協調の結果であり、四か国条約に見られるように太平洋の現状維持などが確認されたため、ヨーロッパの勢力を極端に後退させるものではなかったということもできます。

    →以上から、ワシントン体制はヨーロッパの覇権をアメリカという新興国が揺るがせつつも、そのアメリカとの協調という形で保ったものであるということができます。

 

・旧オスマン帝国、サイクス・ピコ協定、委任統治=立て直し

    ‐これら三つの指示語が指し示しているところは、西アジア地域です。旧オスマン帝国領のうち、バルカン半島方面は第一次大戦以前にほぼオスマン帝国の支配下を脱しています(ギリシアの独立、セルビア、ルーマニア、モンテネグロの独立やブルガリアの自治と独立、アルバニアの反乱など)から、ここで言及すべきはイラク、シリア、パレスティナなど、サイクス=ピコ協定で分割の対象となった地域と考えていいでしょう。これらの地域の多くは第一次世界大戦後に委任統治領として実質英仏の支配下に入るので、これについてはヨーロッパの勢力拡大(立て直し)ととらえてよいと思います。

 

・植民地=揺らぎと立て直し

   ‐これらの地域については、平和に関する布告やウィルソンの十四ヵ条に示された「民族自 決」に刺激された民族運動や独立運動が激化するため、ヨーロッパ(特に英仏)による植民地支配は脅かされ、「揺らぐ」ことになりました。

   ‐一方で、パリ講和会議の結果、民族自決の適用はアジア・アフリカ植民地にはされないことが確認され、さらに英仏は、妥協と弾圧によってその後も植民地の支配を維持しえたわけですから、こうした政策をもって「立て直し」としての要素ととらえることも可能です。

■手順2:波線部の確認

「平和に関する布告」の一部として

(問題中の引用は歴史学研究会編『世界史史料10』岩波書店)

  ・公正な、または民主的な講和は、戦争で疲れ果て苦しみぬいているすべての交戦諸国の労働者階級と勤労者階級の圧倒的多数が待ち望んでいたもの

  ・政府がこのような講和とみなしているのは、無併合(すなわち、他国の土地を略奪することも他の諸国民を強制的に統合することもない)、無賠償の即時の講和である。

  ・政府が併合または他国の土地の略奪と理解しているのは、…弱小民族が同意または希望を正確に、明白に、自由意思で表明していないのに、強大な国家が弱小民族を統合することである。

  ・その民族がヨーロッパに住んでいるか、遠い海外諸国に住んでいるかにも関わりない。

リード文の一部として

  ・…ヴェルサイユ体制は、民族自決と国際協調を原則としながらも、敗戦国ドイツに敵対的で、共産主義国となったソ連を排除し、また世界一の経済大国となったアメリカを欠くなど、さまざまな矛盾を抱えていた。

  ・…民族自決の原理は、旧オスマン帝国が統治していた地域には適用されなかった。

 

■手順3:本文全体の構成

 ・ポール=ヴァレリーの『精神の危機』の引用を通して、第一次世界大戦後のヨーロッパ覇権の揺らぎについて述べています。

 ・続いて、ウィルソンの「十四ヵ条の平和原則」がロシア革命時の「平和に関する布告」を踏まえたものであることを示しつつ、両史料を民族自決に関する部分を中心に紹介。

 ・「平和に関する布告」については上記波線部に大部分が示されています。

 ・「十四ヵ条の平和原則」については普遍的かつ理想主義的な第5条とハプスブルク支配下にあった諸民族の処理について述べた第10条の二つを引用した上で、ヴェルサイユ体制が敗戦国に敵対的で、共産主義国ソ連を排除し、世界一の経済大国アメリカを欠いたために民族自決と国際協調を十分に達成できなかったとします。

 (十四ヵ条の平和原則:問題中の引用は歴史学研究会編『世界史史料10』岩波書店)

  五、すべての植民地に対する要求は、自由かつ偏見なしに、そして厳格な公正さをもって調整されねばならない。主権をめぐるあらゆる問題を決定する際には、対象となる人民の利害が、主権の決定をうけることになる政府の公正な要求と平等の重みをもつという原則を厳格に守らねばならない。

  一〇、われわれは、オーストリア=ハンガリーの人々が民族としての地位を保護され保障されることを望んでいる。彼らには自治的発展のため、最大限の自由な機会を与えられるべきである。

 ・続いて、第一次世界大戦中または戦後にロシア帝国、ハプスブルク帝国、オスマン帝国の3つ、さらにこれにドイツ帝国を加えて4つの帝国が終焉を迎えたことを述べ、これらのうちハプスブルク帝国とオスマン帝国は解体され、さらにこれらのうち民族自決が適用されたハプスブルク帝国は新たな問題と課題に直面することになったことをハンナ=アーレントの『全体主義の起源』を引用しながら指摘します。(アーレントの議論の概要は設問6の解説中で紹介)

 ・民族自決の原理は旧オスマン帝国支配地、アジア・アフリカの旧ドイツ植民地、英仏の植民地に適用されなかったことを指摘。

 ・本文の最後で、第一次世界大戦後のヨーロッパが「アジア大陸の小さな岬の一つ」となってしまったか「巨大な体躯の頭脳」の地位にとどまり得たかは、排他的な二者択一ではなく、両義的なものであり、その両義的性格を押さえることが重要と述べます。

■手順4:重要点の確認

・設問の要求が一次大戦後のヨーロッパの覇権の「揺らぎと立て直し」であること。
・本文最後にヨーロッパ覇権が揺らいだか、維持されたかは「両義的なものである」との指摘があることを確認。この部分が最重要。
リード文に依拠する部分は設問6と比較すると少ないと思います。リード文をそのまま読み取るのではなく、参考程度にして、「揺らぎ」とは何か、「立て直し」とは何かを考察することが大切であることを見抜く必要があるでしょう。

 

■手順5:第一次世界大戦後の「ヨーロッパの覇権の揺らぎ」とは何か
・大前提として、「ヨーロッパ」は敗戦国も含むヨーロッパであることを理解する必要あり。
・「ヨーロッパ」は第一次世界大戦によって大きく疲弊した。

    ‐敗戦国のドイツ、オーストリア…多くの領土や植民地を失う

    ‐戦勝国のイギリス、フランス…大戦中の国土荒廃、負債の増加(多くは対アメリカ)

 

 さらに、本文中波線部「敗戦国ドイツに敵対的で、共産主義国となったソ連を排除し、また世界一の経済大国となったアメリカを欠くなど、さまざまな矛盾を抱えていた。」の部分を参考にするだけでも以下の内容が見出せます。

 ・ヨーロッパにおける対立の残存と民族問題

  ‐英仏の対独強硬姿勢

  ‐旧ハプスブルク領の独立国における少数民族問題

 ・共産主義国ソ連の台頭と共産主義の脅威

  ‐対ソ干渉戦争の失敗

・アメリカの台頭(世界最大の債権国に、世界の半分に及ぶ金保有量)

  ‐ウォール街が金融の中心地に

  ‐イギリスが「世界の銀行」の地位を手放す

 ・国際秩序構築に対するアメリカの発言力増大

 (欧州のヴェルサイユ体制に対し、米主導のアジア・太平洋地域秩序であるワシントン体制)

 
 また、第一次世界大戦後のヨーロッパの覇権の揺らぎということから、各植民地、特にアジア各地での民族運動や独立運動の高揚があげられます。具体的には以下の通り。

・エジプト:ワフド党の活動・アフガニスタン:独立(1919
・インド:ローラット法への反発からのアムリットサル事件、サティヤーグラハ(第1次)
・ビルマ:タキン党の結成(1930)とアウン=サン
・インドシナ:ホー=チ=ミンの活動(ベトナム青年革命同志会1925、インドシナ共産党1930
・インドネシア:インドネシア共産党結成(1920)、スカルノとインドネシア国民党結成(1927
・韓国:三・一独立運動
・中国:五・四運動

 

かといって、これらを全て書く必要はないでしょう。

さらに、上記の現象が発生した原因には以下のようなことがありました。

[ヨーロッパの覇権動揺の原因]

・第一次世界大戦によるヨーロッパの分断と疲弊

 (戦争による国土荒廃、イギリスの経済封鎖による中立国オランダ・北欧諸国の通商制限)

・イギリスをはじめとする連合国の債務問題と債権国化したアメリカ

 (1924年段階で総額約210億ドル、うち100億ドルが対米債務)

・共産主義国家ソヴィエトの成立と社会主義運動の興隆

 (フランスは対ロシア投資が回収できず、国外資産の半分が消失)

・戦後経済の対米依存

・民族自決の理念に対する期待

・戦時における戦争協力と見返りとしての自治要求

・アジアにおける知識人層、民族資本家の成長と、民族運動の大衆化

 

 ■手順6:ヨーロッパの覇権の立て直しとは何か

 覇権の立て直しということは、手順5で示したようなヨーロッパにとって不利な状況を覆すまたは改善し対処するための様々な方策について考えればよいわけです。すると、単純に以下のような構図が浮かび上がります。

 

・ヨーロッパにおける争いと疲弊
 →国際協調路線への転換と軍縮推進による歳出圧縮
  速やかな平時体制への移行と経済の緩やかな回復
・対ソ連
 →早い段階では対ソ干渉戦争
  その後は国際社会の枠組みの中にソ連を組み込もうとする

・対アメリカ
 →十分な対応はできないものの、戦時債務の償還と経済復興

  また、国際連盟を通じた国際的発言力の強化(アメリカは不参加)

  ワシントン体制など、アメリカとの協調による実質的な支配の維持

・対植民地など
 →アフリカ支配の維持
  アジアにおける植民地の確保(民族自決はアジア・アフリカに適用せず)
  中東の委任統治による旧オスマン帝国領支配
  速やかな平時体制への移行と経済の緩やかな回復

  国際協調路線への転換と軍縮推進による歳出圧縮

 

■解答例1

 第一次世界大戦中の国土荒廃や経済封鎖よる貿易縮小などで欧州諸国は多大な経済的損失を被って巨額の対外債務を負い、さらにその債権の多くを米が握ったため、経済の中心が英のシティから米のウォール街に移り、さらにアジア・太平洋地域で米主導のワシントン体制が成立して、欧州の覇権に翳りが見られた。ロシア革命により仏の対露投資の回収が不可能となり、さらに中東を英・仏・露間で分割するサイクス・ピコ協定が暴露されると、アラブ人の反発や、民族自決を叫ぶ植民地の民族運動、社会主義運動が高揚するなど、各地でその政治的支配に揺らぎが見られた。しかし、民族自決をアジア・アフリカに適用せず、旧オスマン帝国領を英・仏が委任統治することで支配地域を維持・拡大し、国際協調と軍縮を推進して歳出面の負担を軽減し、経済の回復に努めた。(350字)

 
急ぎで作ったのであんまりイケてないかもしれませんが、練っても同じようなものかもしれませんw なるべく設問の要求に沿ってみたつもりではありますが、「覇権」という言葉自体がかなりアバウトなものなので、その中身をどうとらえるかによって幅のある問題かなぁと思います。

解答例2

 第一次世界大戦後、独墺は領土や植民地を失い英仏も負債を拡大して、その力を減退させた。英仏の強硬姿勢は独経済の復興を妨げ、十四ヵ条の民族自決に基づき東欧諸国が独立したが、少数民族問題は国内統一を遅らせた。世界最大の債権国となった米のウォール街が金融の中心となり、ソ連も対ソ干渉戦争を退けて五か年計画で急成長して台頭した。さらに植民地では民族運動が高揚したため欧州の地位は相対的に低下した。欧州各国は協調外交へ転換し、不戦条約を結ぶなど戦禍からの回復に努めた。英仏はワシントン体制で米と協調し太平洋の現状を維持する一方、国際連盟に独ソを組み入れ、対米発言力を確保した。植民地には妥協と弾圧により支配力を維持し、サイクス・ピコ協定に従い旧オスマン帝国領を委任統治で支配するなど、欧州覇権の立て直しを図った。(350字)

解答例1がやや教科書的に毒されているような気がしたので、「揺らぎ」と「立て直し」がよりはっきり出るようにもう一つ作ってみましたが、全体的なバランスは1の方がよい気がしますねぇ。練れば練るほどうぇっひゃっひゃっひゃっひゃの好例かもしれません。

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上智のTEAP利用型が始まって今年で5回目の試験になります。上智は2015年度からTEAPを活用した試験を導入してきましたが、この試験では世界史が採用されていて、さらにかなり本格的な史料読解と論述試験が採用されています。試験が始まってまだ歴史が浅く、試験の傾向分析にどの程度の意味があるのかは難しいところではありますが、TEAP型試験の情報があまりにも少ないので、簡単にまとめてみたいと思います。各年の問題分析については別途準備が整い次第UPしていきたいと思います。

先に申し上げておきますと、私は上智の世界史については「ん~?」となることがとても多く、良し悪しはともかくとしてはっきり言って嫌いですw それはなぜかと言いますと、おそらく私が実際に上智の試験(たしかできたてほやほやの地球環境法学部だったかとおもいますが…)を受験した際、世界史を解きながら「こんなのは世界史じゃねぇ!」と憤ったことが原因なのではないかと思います。ちなみに、今でも覚えているのはこんな問題でした。

 

・イタリアの国旗の色は右から順に何色か。次から選べ。

 ① 赤、白、緑  ② 緑、白、赤 …

・ローマの緯度とほぼ同じ都市を次のうちから選べ。

 ① 名古屋  ② 仙台  ③ 秋田  ④ 函館

 

みたいな感じだった気がします。いや、まぁ、イタリアくらいはいいんですよ。わかんねえことはないですからね。ちなみにこれ。

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でも、ローマの緯度はなぁ。あ、選択肢は適当につくりましたが、確かあんまり区別つかないようなところが選択肢だったんですよ。ちなみに、答えは函館です。(北緯41度)

 上智では、最近はそこまででもないのかもしれませんが、かつてはこんな感じでコツコツコツコツ世界史を積み重ねて「おれは英語と数学できねぇから世界史で稼ぐしか手がねぇんだよ」みたいに世界史に期待をかける人間を崖から突き落とすような問題を出すことがたまーにある(そして英語が鬼のように重い。上智だから当たり前―w)もので、あんまり好きじゃありませんw 私大向けの授業でもあんまり上智扱いませんw 個人的な好みの問題なので勘弁してください。(大学としてはとても良い大学だとうかがっていますw 学生が勉強面で苦労する大学は良い大学でしょう、きっと。)

 

 ですから、このTEAP型についてもちょっと後ろ向きだったのですが、受験生がたびたびこの問題の解説を聞きに持ってくるに及んで、「しょうがねぇ、やるか」ということで取り組んでみました。ところが、取り組んでみると意外に「使えそうだ」ということに気づきます。TEAP利用型の問題は、小問には特別見るべきものはありませんが、論述については意外に一橋に通じるものがあります。どの辺がかというと、史料を読ませ、その史料の内容と世界史の知識を合わせて適切な解答を用意するというプロセスが、近年の一橋の論述問題の一部と似ています。史料を読ませる、という意味では東京外語の問題とも似たところがありますが、外語の問題よりも史料に依拠する割合が高いですね。また、外語の小問数が多いのに対して上智の小問数は少なく、論述が占める割合が非常に高くなっています。おそらく、今後一橋の受験生を教える際には上智のTEAP型は良い練習として取り入れていくことになるでしょう。年によって良し悪しはありますが、全体的に論述問題としてはよく練られていて、質はかなり高いと思います。(個人的に、史料を読み取らせるタイプの設問は作るのが難しいことを知っているというのと、史料扱うのが好きなことからそう思うのかもしれませんが。)

 過去5年分の上智TEAP型の設問データは以下の通りです。

 上智TEAP出題傾向1

(時間・設問数・論述字数と全体のテーマ)

 上智TEAP出題傾向2

(論述問題内容一覧)

 

 設問の形式はわりとコロコロ変わりますね。大きな変化としては2018年から60分問題であったものが90分問題に変化した2019年の試験時間も90分だったと聞きましたが、一応後で確認を取りたいと思います)ことでしょうか。これはまぁ、無理もないでしょう。特に2017年の問題で60分は鬼の所業だと思いますw TEAPを利用して受けようという受験生で「世界史得意」っていう人はあんまりいない(勝手なイメージですが、普通英語に自信があるからTEAP利用するのでは)でしょうし、600字近い論述を含んで小問付き60分はあんまり余裕なかったのかなぁという気がしますね。こころなしか、2017以降の問題はだいぶ内容的にわかりやすくなっています。小問については、たしかに決して簡単ではないのですが、早慶上智を受けるレベルの受験生であることを考えれば、基礎とまでいかなくても解けて然るべき問題かなというレベルです。問題数が少ないことを合わせて考えても、やはり小問で取りこぼしはしたくないですね。

 全体のテーマも論述も近現代史が中心です。今のところは18世紀以降しか出題がされていません。また、地域としてはヨーロッパとその周辺が主ですね。アジア・アフリカでも植民地史や独立のプロセスなどはしっかり追っておくべきでしょう。小問などで結構出ています。テーマ自体は一橋よりも東大や外語に親和性がある気がします。2016年のスペイン領と13植民地の「対照的な」という表現は1998年東大のアメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国の対照的発展についての問題とそっくりですし、2018年のヨーロッパ統合の「加速」・「抑制」要因という表現は、2006年東大の戦争の助長要因と抑制要因についての問題を思い出させます。絶対とは言いませんが、出題側も一度は東大ほか他大の問題にひととおり目を通しているのではないですかね。

 

 対策ですが、ヤマはるんだったら近現代史やってくださいw 私大の過去問としては慶應の経済、法や早稲田の政経、法あたりは活用できるでしょう。論述の練習としては、東大過去問や東京外語過去問、あるいは論述用の問題集のうち近現代史をあつくやっておく方がよさそうです。一橋などの過去問は形式面で似たところもありますが、テーマが異なる部分も多いので上智のTEAP利用対策として一橋を解くのはおすすめめしません。もちろん、これまでの傾向がそうだからといって、これからもそれが続くわけではありません。一度でも中世史や古代史が出れば過去5年の傾向と対策なんてガタガタもいいところですからねw まんべんなくやっておくのが他の併願校対策にもなって結局は一番力になると思います。

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 2017年の東大大論述はある意味では珍しく、ある意味では東大らしい設問となりました。珍しかったのは、東大で古代史が出題されたことです。東大大論述で古代史が出たのは2001年のエジプト通史と1999年のイベリア半島史以来です。ただ、これもエジプトについては5000年の歴史を、イベリア半島についても2000年近くに及ぶ歴史を述べる中で古代も含まれる程度のもので、正面から古代を取り扱ったものではありませんでした。それ以前ということになると、1995年に出題されたローマ帝国の成立からビザンツ帝国滅亡までの地中海とその周辺地域における諸文明の交流と対立を問う問題までさかのぼることになりますので、実に20年以上も扱われていなかったことになります。このあたりを考えてみても、いわゆる問題の「傾向」なるものは傾向に過ぎないのであって、その年に何がテーマになるかを「予想」することは難しく、仮に当たったとしてもそれは偶然に過ぎないわけです。(もちろん、ある程度確率を高めることはできるのでしょうが、第2問、第3問があること、多くの人は私大を併願することを考えれば、「予想」に頼ってヤマはるよりも、きめ細かい学習を進めた方が無難な気がします。近現代史をあつく学習すべきなのは当然ですが。)当日、問題を見た受験生たちはきっと面食らったかと思います。ローマと春秋戦国ということですから、テーマとしては古代史の中でも頻出の部分なので、そこまでは身構えなかったかもしれませんけれども。

東大らしい、と感じた部分はまずテーマが「帝国」であったことです。これについては以前から東大が意識している大テーマとして「帝国」があるということは指摘してきましたので、ある意味納得のテーマではありました。もう一つ、東大らしい部分はこの設問に二つの仕掛けが施されていることですね。「二地域の(比較)」と「社会変化」という部分です。この部分が示す内容をしっかりと理解して、その要求に対してきちんと応えられたかどうかで、似たようなことを書いていたとしても点数はかなり変わったと思います。

 

【設問概要】

・時期:BC2C以後(ローマ)

    春秋時代以後(春秋時代含む、BC770~:黄河、長江流域)

・「古代帝国」が成立するまでの二地域の社会変化を論ぜよ。

 

(ヒント)

・各地域社会の歴史的展開は一つの法則の枠組みに収まらない(違いがある)

 Ex. 「帝国」統治者の呼び名の登場する経緯の違い

・指示語:漢字 / 私兵 / 諸侯 / 宗法 / 属州 / 第一人者 / 同盟市戦争 /

 

 設問自体は比較的短く、あっさりしたものですが、内容の方は読み解くのがかなり手ごわいです。焦って取り掛からないことをおすすめします。まず、最も重要なのは「社会変化を論ぜよ」ということは「政治変化(のみ)ではない」ということです。ここをはき違えて政治変化ばかり述べるとおそらく点数は伸びないと思います。ですから「犬戎の侵入で都が鎬京から洛邑(陽)に遷って春秋時代となり、覇者は尊王攘夷を掲げてどーたら、戦国時代には戦国の七雄がうんたら」などと書いてしまうとほとんど点が入らないことになると思います。設問が求めているのが、政治なのか、経済なのか、文化なのか、社会なのか、あるいはそれらのうち複数なのかを確認する作業は東大の大論述を解く際の基本であり、作法のようなものです。

 次に重要な点は古代帝国が成立する「まで」とありますので、「帝国期は(厳密には)含まない」ということを確認することが大切です。ローマでいえば、せいぜいオクタウィアヌスがプリンケプスを称するあたり、黄河・長江流域であれば秦王政が始皇帝を名乗るあたりまでですね。ですから、パクス=ロマーナとか五賢帝とか焚書坑儒とか言ってはいけません。

 また、「二地域」ということに注意するべきです。これはつまり、両者の間に「違いがある=比較できる」ということを暗示しています。東大の好きな比較の視点ですね。これは、リード文が従来は「帝国」というものが「法則的な」ものと見られていたけれども、実際には各地域社会がたどった歴史展開は一つの法則の枠組みにとどまるものではなく、大きな違いがあるものだ、という趣旨のことを語っていることからも明らかです。つまり、東大はこれまではモデル化されて語られてきた帝国だが、実際には違いがあることをローマと中国(黄河・長江流域)を例にとって示せ、と言っているわけです。ですから、設問に「比較せよ」と書かれていなくても比較の視点で両者を分析してその違いを示さなくてはなりません。

 

【手順1:各時期のフレームワークを確認】

 いきなり両地域の社会変化を思い浮かべてみても良いのですが、ローマと春秋戦国という頻出箇所であることを考えれば、政治史が中心になってしまうかもしれませんが、まずは大きな流れを確認してみましょう。

 

(ローマ):BC200~帝政成立まで[BC27]

 ローマで要求されているのは、共和政の時期ですが、この時期はいろいろなことが入り組んでいる複雑な時期ですので、まずは全体像をとらえてみましょう。

古代ローマ

 すんげぇアバウトですけど、でもまぁ、上の赤い部分が対象となる時期ですね。この時期にどんなことがあったのか大まかにまとめてみたいと思います。

 

BC2Cはすでに半島が統一され、属州経営が始まる頃

:第二次ポエニ戦争(BC219-201)がちょうどBC3Cの末期です。ということは、ローマはすでにシチリアを、そして新たにヒスパニアを属州として統治し始める時期ですね。ポエニ戦争は三度にわたって展開されますが(BC264-241218-201149-146)、第一次でシチリアを、第二次でヒスパニアを獲得し、第三次でカルタゴ本国を滅ぼします。また、この第三次ポエニ戦争の頃にローマはマケドニアとギリシアが合わせて属州とされます。合わせて覚えておくと時期を確認しやすいと思います。

 

・平民の政治参加は進み、新貴族(ノビレス)が登場する頃

:紀元前3世紀のローマでは、すでにリキニウス=セクスティウス法(BC367)、ホルテンシウス法(BC287)などが制定されて平民の政治参加が進んでいます。平民からもコンスルになるものが出始めましたが、当時のローマ官職は無給でしたから、実際に高官につき、ノビレスとなる者たちの数は少なく、プレブス(平民)の富裕層に限られました。こうしたノビレスたちは属州統治による大土地所有(ラティフンディア)で奴隷を酷使し、そのための徴税請負人としてエクイテス(騎士)と呼ばれる新興の商人たちが使われました。さらに、権力維持のために市民の支持拡大を必要としたノビレスと、ノビレスからの経済的援助や保護を必要としたプレブス下層の人々の間には相互依存関係が成立し、次第にノビレスの保護を受ける代わりにノビレスのために働く被保護者層(クリエンテス)と呼ばれる人々が形成されていきます。親分と子分みたいな関係ですね。こうした取り巻きが形成されると、次第に貴族感の対立が激化していくことになります。

 

・属州統治、ラティフンディア経営による貧富差拡大とグラックス兄弟の改革の失敗

:紀元前2世紀頃から、ローマは獲得した属州でラティフンディア経営を展開します。そのきっかけになったのはポエニ戦争です。上述した通り、ポエニ戦争ではシチリアやヒスパニアなどの広大な土地を属州として獲得します。こうした土地は原則としてローマが公有地として所有することになるのだが、その多くは富裕な市民に貸し出されることになりました。この借り受けた公有地に奴隷を投入してブドウやオリーブ、穀物などの食糧生産を行ったのがラティフンデイア(単数形はラティフンディウム)です。

 ラティフンディアでは奴隷という安価な労働力の使役、大規模で効率的な農場経営によって、中小規模の農民たちが作る作物よりも安価に作物を栽培することが可能でした。こうしてつくられた安価な穀物がローマに流入すると、中小農民は太刀打ちすることができません。結果、多くの中小農民は没落して土地を失い無産市民化します。対して、貴族(パトリキ・ノビレス)はそうした没落農民の土地を吸収してますます大土地所有を拡大します。このようにして市民間の貧富差が拡大してくわけです。また、それまで自腹を切って重装歩兵としての装備をととのえて市民軍の中核を担ってきた農民たちの没落は、そのままローマ市民軍の弱体化を意味していました。

 こうした中で、貧富差の拡大を抑えてローマの弱体化を防ごうと改革を行ったのがグラックス兄弟です。グラックス兄弟(ティベリウスとガイウス)の改革は「貴族による大土地所有を抑えて農民層の没落を防ぐ」ということにつきます。このために兄ティベリウスはかつてのリキニウス=セクスティウス法の「公有地占有は500ユゲラ(約125ヘクタール)までとする」という規定の厳格化を打ち出します。(この法の公有地占有の部分は長い間に半ば死文化していました) しかし、こうした改革(BC130sBC120sごろ)は元老院議員をはじめとする保守派や貴族の反感を買い、兄弟の改革は失敗しました。その結果、ローマの構造的な弱体化(共和政の原則の崩壊[政治の寡占化進行]、農民層の没落と貧富差の拡大、市民軍の弱体化、市民権をめぐる不平等など)はさらに進み、内乱の1世紀へと続いていきます。

 

・内乱の1世紀(シチリア奴隷反乱、同盟市戦争、平民派・閥族派の争いなど)

:すでに示した通り、ローマはその内部に構造的な問題を抱えていました。さらに、その問題を解決しようとしたグラックス兄弟の改革が挫折したことから、続く1世紀にはその問題が顕在化し、噴出します。「内乱の1世紀」です。内乱の1世紀は時期としては通常、グラックスの死からオクタウィアヌスによる帝政の開始までを指しますが、その開始の時期と終わりの時期については議論があります。また「内乱の」とあるのでどうしても国内の反乱事件などに目が行きがちですが、実際には共和政が危機にさらされて国内が動揺した時期のことを指しますので、そのような視点でこの時期にローマを動揺させて事件を列挙すると以下のようになります。

 

 ・シチリアの奴隷反乱(BC139

 ・ティベリウス=グラックスの死(BC133

・同盟市戦争(BC91-88

・マリウス(平民派:ポプラレス)とスラ(閥族派:オプティマテス)の闘争

 ・スパルタクスの反乱(BC73-71

 ・第1回三頭政治(BC60-49)

 ・カエサルの独裁と暗殺(暗殺がBC44

 ・第2回三頭政治(BC43-32)

 ・アクティウムの海戦とプトレマイオス朝エジプトの滅亡(ヘレニズム世界の終わり)

 ・元首政(プリンキパトゥス)の開始(BC27

 

(中国):BC770~秦による統一[BC221]

 中国についてはローマほど複雑ではないと思います。実際、解答を作ってみたらローマ7、中国5くらいの割合になりました。世界史の教科書レベルで載っている春秋戦国時代の情報はそこまで多いわけではありません。いきなり社会変化を見るのも難しいと思いますので、まずはこの時代に何があったのかということだけ確認するところから始めます。

 

・周の東遷と春秋時代の始まり(BC770

・春秋五覇の出現と「尊王攘夷」

:封建制による支配を作り上げた周は、BC770年に北方の遊牧民犬戎により都であった鎬京が落とされ、幽王が殺害されたために東の洛邑(後の洛陽)へと遷都します(周の東遷)。しかし、周王室の力は衰え、かわって諸侯が力を持ち、一部の諸侯は他の諸侯に対する指導的立場を確立して「尊王攘夷(周王室を支え、異民族を打ち払うこと)」を唱えて覇者となりました(春秋の五覇)。春秋の五覇は諸説ありますが、「管鮑の交わり」の名宰相管仲が支えたことで有名な斉の桓公や、長い亡命生活の後で晩年に覇者となった晋の文公が有名です。このあたりのことについては横山光輝『史記』を読むとわかりやすく面白いと思います。

 

・晋の三分と戦国時代の開始(BC5C~)、下剋上

:周王室の血をひく晋(かつて晋の文公が覇者となった国)が、家来筋にあたる韓・魏・趙によって三分された時から戦国時代が始まったと言われています。春秋時代の末期からは、それまでの「尊王攘夷」にかわり「下剋上」の風潮が強くなっていました。諸侯の下には卿・大夫・士と呼ばれる家臣がいたわけですがこれらの家臣の力が諸侯を凌駕したり、上下関係が崩れ始めて、それまでの封建制にほころびが見られるようになったのです。

 

 

・諸子百家の出現、法家の登場と秦の統一

:戦国時代にはいわゆる戦国の七雄(斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙)が現れてしのぎを削りますが、こうした諸国は富国強兵によって他国に勝る力を得ようとします。こうした中で、春秋時代の末期から戦国時代にかけて旧来の社会秩序が変化し、新しい道徳・世界観が求められるようになると諸子百家と呼ばれる思想家が出現し、一部の人々は国政に関わるようになります。

このうち、西方の秦を強国に押し上げたのが法家と呼ばれる思想家たちでした。秦の孝公の時代、法家の商鞅は「商鞅の変法」と呼ばれる改革を断行し、什伍の制という隣保組織をつくり、軍功爵により功績次第で爵位を与える実力主義をとり、一部では郡県制がすでに実施されました。商鞅は孝公が亡くなると改革に反対した保守派によって殺害されますが、秦の強国化の基盤をつくり、さらに秦王政の時代には李斯が登場して法家改革が進められていきます。このようにして徹底した実力主義と中央集権化を進めた秦は、BC221年に中国を統一しました。

 

【手順2:社会変化として挙げられるものを列挙】(最重要)

【手順3:「変化」として見られる部分を意識】(重要)

 さて、手順1では設問の扱う時期にどんなことがあったのかをローマと黄河・長江流域のそれぞれに分けてみてきましたが、それだけだは本設問の解答を作ることはできません。なぜなら、本設問が求めているのは「社会変化」であって、政治的な事柄のみを求めているからではないからです。言ってみれば、手順1で示した内容しか書かれていない解答は「あまり点数の入らない解答のお手本」のようなものになってしまいます。

 そこで、全体の流れを確認したら続いて絶対に行わなければならないのは、この時期に起こった社会変化はどのようなもので、全体の流れとどのように関連しているのかを確認することです。ですから、手順1の作業は極めて短い時間で確認する必要があります。早ければ1~2分、長くても5分弱でしょうか。ここでは解説や予備知識をご紹介するために長々と書いていますが、実際にはすべてを思い浮かべる必要はありません。中国については、手順1で頭に浮かべる必要があるのは下の表程度のことです。

春秋戦国

 このくらいであれば、短期間で確認することは十分可能なはずです。さて、それでは最も時間をかけて確認すべき「社会変化」について、どのようなものがあるかをローマと黄河・長江流域について確認していきましょう。

 

(ローマ)

・属州の獲得、奴隷制とラティフンディアの拡大

:これがローマ共和政期の社会を変える根本とも言っていい部分だと思います。ラティフンディアの拡大は、すでに述べた通り大きく分けて二つの影響を与えました。

 

①ノビレス・エクイテスなどの新しい社会階層の台頭と、貧富の差の拡大

②属州からの安価な穀物流入によるローマ本国の中小農民の没落

→市民軍の弱体化(かつては軍備を自弁する強固な市民軍)

 

この二つが大きな部分ですが、個々から派生して様々な変化が生じます。

 ・大土地所有の進展と貧富の差の拡大

→ノビレスの登場とパトリキとの階層同化

・政治権力の貴族層(パトリキ、ノビレス)による独占

・貴族層と平民の相互依存(パンとサーカス)

 

・分割統治や奴隷制に対する不満と内乱

:さて、ラティフンディアの拡大とは別に、当時のローマは人々の権利をめぐり大きな問題を抱えていました。そのうちの一つが分割統治によるローマ市民権をめぐる不平等です。ローマはローマ人と同等の市民権を与える「植民市」、一部の権利(自治・民法)が認められたが、軍事・裁判権はローマに握られていた「自治市」、諸権利を剥奪されていた「同盟市」などを支配下に置いていましたが、こうした待遇の差に不満を感じた同盟市は紀元前BC91-BC88年にかけて同盟市戦争を起こしました。最終的にはスラによって鎮圧されましたが、この後イタリア半島にすむ自由民全てがローマ市民権を持つことになります。教科書などにはあまり出てきませんが、同盟市戦争によって都市国家ローマのあり方は以下のように大きく変化していくことになります。

①都市国家ローマが本格的な領域国家へ

(都市ローマが他都市を支配するのではなく、半島内全ての都市市民が「ローマ人」)

②民会が実質的な機能不全に陥る

(各地の「ローマ人」がローマの民会に参加することは事実上不可能)

③ローマ法の適用される範囲が劇的に拡大

(「ローマ人」に対しては「ローマ法」が適用される→万民法としての発展の端緒)

 

・軍の「私兵化」と権力闘争の拡大

:ローマの軍の弱体化が進んでいく一方で、各地では反乱や対外戦争が頻発していました。先の同盟市戦争もそうですが、それ以前にもシチリアの奴隷反乱、キンブリ=テウトニ戦争(BC113-101:異民族キンブリ人・テウトニ人との戦争)、ユグルタ戦争(BC112-106:ヌミディア王ユグルタとの戦争)が、また同盟市戦争以降にはスパルタクスの反乱(BC73-71)がありました。

 こうした中、特にキンブリ=テウトニ戦争とユグルタ戦争に際してコンスルとなったマリウスは大規模な軍制改革を実施します。それまでの自弁で武具を持ち寄る市民軍制度から、国家が武器を配布し、志願者を統一的に訓練、指揮する志願兵制度へと変え、これにより没落していた無産市民を職業軍人として再編成することに成功します。このことは、弱体化していたローマ軍を立て直すことにつながりましたが、一方で装備や給与を支給し、日々の保護をしてくれる有力者のもとに兵が集中し、「私兵化」する現象が起こり、その結果政治的な権力闘争は武力を背景とした激烈なものへと変化し、マリウス(平民派)とスラ(閥族派)の対立へとつながっていきます。また、大土地所有、貴族(パトリキ・ノビレス)としての家柄、クリエンテスによる支持、私兵化された軍などの基盤を得た一部の政治家が発言力を増大させることにつながり、政治の寡占化が進んでいきます。後の二度にわたる三頭政治やカエサルの独裁などもこのような背景の中で現れてきます。

 つまり、「平民派VS閥族派」や、「三頭政治」、「カエサルの独裁」といったことは、ただ並べても政治的な事実の羅列にすぎず、「社会変化」を述べたことにはなりません。しかし、ローマの社会変化が軍の私兵化につながった結果、政治の寡占化へとつながったという文脈で語った場合、これらの政治的事実は「社会変化によるローマ共和政の変化」として強力な説得力を持つことになります。同じ歴史的事実でも、どのように述べるかが大切だというのは、つまりはそういうことなのです。

 

・地中海世界統一

:さて、紀元前2世紀から紀元前後に至る時期はローマの支配拡大が続き、地中海世界の統一が進められていく時期です。もちろん、本格的に地中海世界全体の統一が進んでいくのはその後のパクス=ロマーナの時期ですが、すでに紀元前1世紀頃にはその前提となる動きは生じていたと考えるべきでしょう。たとえば、交易圏の拡大です。プトレマイオス朝が滅亡するのがBC30ですから、まだアジア方面までは進出していません。(インド洋の季節風交易が始まるのは紀元前後からと言われています) ただ、地中海沿岸地域の交易が盛んになっていたことは想像に難くありません。また、それにともなう貨幣経済の発展と浸透も見られたことでしょう。さらには、ローマ支配が拡大するのかでラテン語圏の拡大なども見られたと考えることができます。

 

(中国)

・農業技術の改良(鉄製農具、牛耕)と農業生産力の向上(超重要)

:中国については、この部分が非常に重要です。もしかすると、これが書けていない場合には中国の部分ではほとんど点数が入らないのではないか、というくらいの根本となる変化です。ここにしっかり気づいたか、そうでなかったかで大きな差がつくものと思われます。教科書には書いてありますし、学校の先生がプリントを作るとしたらめちゃくちゃ強調する部分でもあるので、知らないということはないのでしょうが、政治史を中心に考えてしまったり、一問一答系の学習に慣れてしまっていると、こうした社会変化や経済変化は目立たないので見逃してしまうかもしれません。この農業技術改良と生産力の向上によって起こった社会変化には以下のようなものがあります。

 ①生産単位の縮小(宗族単位から家族単位の経営へ=氏族共同体の解体)

→宗族、宗法の影響力低下

②商工業の発展

 →都市の成長、青銅貨幣の流通

ちなみに、この時期の中国の社会変化に関する問題としては、1991年東大の第2問に3行問題で春秋戦国期の技術上・経済上の変化が出題されています。

 

 

・邑制国家の崩壊と領域国家の形成(諸侯の権力と国力の強化、富国強兵)

:さて、上述のような社会変化は政治の分野にも及んできます。というよりも、当時の政治自体が宗族といった氏族共同体と密接に関連したものですから、それが変化すれば否応なしに政治の在り方も変わっていくことになります。宗族の解体は、宗族のつながりを基本単位とする邑制(ゆうせい)国家の崩壊へとつながります。「邑制国家」というのは殷や周に代表されるように、数多くある邑(都市国家)の連合体として成立していた国家のことを言います。周の封建制も、周王が支配する邑と、諸侯の邑との相互の支配被支配関係のもとに成り立っています。また、諸侯の邑についても、その配下にある小邑と同じような相互関係を結んでいて、一種のネットワークによって国家としての体を為しています。周王は、諸侯にたいして命令を発し、諸侯はそれに従いますが、周王が諸侯の邑の内部についてあれこれ口出しをしたり、諸侯の配下にある小邑を直接管理するといったことはされません。中身には大きな違いがありますが、モデル化すると何となく社団国家に近い気もします。

 さて、各邑を構成しているのは宗族と呼ばれる氏族共同体です。氏族共同体って言われてもいまいちイメージわきづらいのですが、血縁で結ばれた大規模な集団ですよね。日本史でいうところの物部氏とか蘇我氏とかをイメージするとわかりやすいのでしょうか。昔は農作業の効率が悪いので、少ない人数で細々と農業やっても食べていけません。そこで、治水するにしても作業するにしてもそこに住んでいる人々全員で取り掛かる必要があります。かれらは数人単位の家族ではなく、数十人とか数百人とかからなる一族であり、部族です。ここからはじまれては食べていけませんから、宗族の掟(宗法)には厳格に従わなくてはなりませんし、ものすごい影響力を持ちます。邑っていうのは基本的にこの宗族によって形成されているわけですね。

 ところが、農業生産力が向上すると、必ずしも宗族単位で行動しなくても食べていけるようになります。十数人程度の家族単位(戸)でも食べていけるとなると、宗族の掟に絶対服従をしなければならないということはなくなっていきます。こうした流れの中で宗族などの氏族共同体が解体すると、それまではそれなりの自立性を維持していた小さな邑は力を失っていきます。そこに、より大きな力を持っていた諸侯が、各戸単位の支配の強化に乗り出すと、諸侯の命令がよりダイレクトに各戸、各個人に届く支配体制が形成されていきます。これがつまり、邑制国家の崩壊(諸侯が自立性の強かった旧来の邑の支配を強化)であり、都市国家の連合体から領域国家への変化です。

 このような社会全体の変化は、そこに暮らす人々の認識も大きく変えていくことにつながります。宗族的つながりを強く意識していた春秋時代には「尊王攘夷」が貴ばれていましたが、次第に人々は「下剋上」の風潮を持つようになります。また、それまでの社会道徳が通用しない中で諸子百家が登場し、戦国の世を生き抜くために諸侯はこうした諸子百家を招いて新たな思想を統治に活用しようと試み、富国強兵を進めたわけです。

 

・秦による統一、中央集権の完成と中国的な専制支配体制の成立

:戦国の七雄のなかで、最終的に強国化を達成して中国を統一することになったのは秦の王である政でした。秦は各国に先駆けて中央集権化を強力に推し進めた国で、中国を統一した後はそれまでの封建制に代わる郡県制を導入して徹底した中央集権と専制政治を進めていきます。それを象徴しているのが始皇帝という称号であり、度量衡や文字(小篆)、貨幣(半両銭)の統一でした。

 

【手順4:「二地域」の相違は何かを意識】(重要)

 以上がローマと中国の社会変化に関わる部分です。特にローマの社会変化に関しては有名な部分でもあるのでわりと書けた受験生が多いと思います。ですが、中国については農業技術の変化を氏族共同体の解体から邑制国家の崩壊へつなげることができなかった受験生の方が多かったのではないでしょうか。

 さて、最後に二つの地域の相違として考えられることは何か、検討してみたいと思います。これについてはリード文の方にすでにヒントが示されています。つまり、「各地域社会がたどった歴史的展開は一つの法則にあてはまらない」のであり、まずは両地域の社会変化を丁寧に述べることから始めましょう。さらに、両地域ではどちらも「帝国」が成立するが、「<帝国>統治者の呼び名が登場する経緯にも大きな違いがある」とあります。ですから、なぜローマでは「プリンキパトゥス」であり「プリンケプス」だったのか、なぜ中国では「始皇帝」だったのかその経緯に違いがあると言っているわけです。その違いについて考えてみると、概ね以下のような違いになると思います。

 

(ローマ)

:政治的寡占化は進むが、権力者と「市民」は相互依存関係にある。また、「市民」は法によって権利義務関係がはっきりと定められている。

→オクタウィアヌスは元老院からアウグストゥスという称号は送られるものの、元老院や市民に対する配慮から「第一の市民(プリンケプス)」を名乗る必要がある。

 

(中国)

:秦による統一は氏族社会の解体によって生じた戸という小さな民衆単位に対する支配権を諸侯が強化し、中央集権化が進んでいく中で達成され、統一した秦も郡県制を通して徹底した中央集権化と専制支配を展開した。

→諸侯をしのぎ、絶対的な権力を握った専制君主としての称号、「始皇帝」を名乗る

 

 表現の仕方はいろいろあると思いますが、この二つも、単に片方が「プリンケプス」で片方が「始皇帝」だと書くだけでは違いを示したことにはなりません。そのような名乗りをした背景には何があったのかという点について、どこまで社会変化と結びつけて論ずることができるかということが大切になります。また、こうした理由から私は本設問の解答では「アウグストゥス」を示すよりは「プリンケプス(第一の市民)」または「プリンキパトゥス(元首政)」の語を示すことを優先するべきだと思います。

 

【解答例】

 ローマ属州で拡大した、奴隷を用いた大規模農場経営であるラティフンディアの安価な穀物の流入は、中小農民の没落と市民軍の弱体化を招いた。属州の徴税請負を担ったエクイテスや、大土地所有と政界進出により貴族化したノビレスが出現し、貧富差拡大と権力寡占化が進んだ。市民権独占や奴隷制が抱える矛盾は内乱の形で噴出し、同盟市戦争後に市民権が拡大され、ローマ法拡大の端緒となった。内乱鎮圧のためのマリウスの兵制改革は軍の私兵化と権力闘争を招き、平民派と閥族派の抗争や三頭政治の原因となった。権力は市民の支持に依存したため、権力者は食と娯楽を提供し、オクタウィアヌスは市民の第一人者を自称する元首政を開始した。地中海世界統一と産業力向上は交易圏拡大につながり、貨幣経済が発展し、ラテン語やギリシア語が各地に広がった。一方、鉄製農具の使用や牛耕の開始により農業生産を向上させた黄河・長江流域では、生産単位縮小により宗族や宗法の影響力が低下し氏族共同体が解体した。また、商工業や都市が発展し、青銅貨幣が流通した。諸侯は自立性の強かったに対する支配を強化して周王朝からの自立性を強めたため、封建制は動揺し、諸侯の方針も尊王攘夷から下剋上へと変化した。諸侯は諸子百家を登用し富国強兵を進めたが、中国を統一した秦王政は、分裂していた度量衡や文字の統一を進めて漢字文化圏形成の基礎を築き、始皇帝を称して集権的専制支配を展開した。(600字)

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2018年の問題は「ついに来たなー」という感じのテーマでしたね。「女性」をテーマにした出題です。説明会などでは散々「女子学生の比率を増やしたいのだ―。」とのたまっている割に、女子の全体に対する比率は依然として18.6%と、アメリカ軍と同レベルの女子比率である東大でもついに女性が扱われました。もっとも、たぶん東大では以前から大論述で扱いたかったのではないかなーと思います。ただ、大論述で扱うには2つほど問題があったのではないでしょうか。

一つには、従来の教科書記述では女性に関する情報量が少なすぎて、大論述を構成するだけの情報がないという問題があったのではないでしょうか。この点、最近の教科書ではフランス革命期のグージュをはじめ、女性の活動についての記述が増えてきました。(山川の用語集の2012年版にはグージュについての記述はありません) 二つ目は、高校の教員や受験生側の認識の問題があります。たとえ教科書に新しく載ったとしても、高校の教員や受験生の側でそれは当然知っておくべき情報だという認識へと変化していくためにはいくらかの時間差が必要となりますから、そのあたりもある程度は考慮してくれていたのではないでしょうか。まぁ、この辺は推測にすぎませんけど。

 

ところで、今回の問題は採点の方で色々あったようで、どうもある程度何でもよいので具体例をひたすら書き込んだ答案の方が、点数が高く出る傾向にあったようです。これは、そもそも設問が「具体的に記述しなさい」という形で東大にしては珍しく「具体的に」という指示を出していたことと、女性の権利の歴史という慣れないテーマのせいで、一般論で終わってしまう受験生が多数であったことから、とりあえず設問条件を満たす具体例が入っている場合には一定の基準で加点したのではないか、という報告が某予備校の研究会ではされていました。本当かどうかは分かりませんが、そうしたこともあったのかもしれません。ただ、東大の設問の傾向は原則としてあくまでも設問が提示した一定のテーマに沿ってまとめた解答を評価するタイプのものですので、具体例をただ連ねただけの解答は本来であれば低評価となるはずです。そのあたり、今回の設問は東大の側でも一つのチャレンジであり、試験的なものだったのかもしれません。マイノリティの権利に関してはここのところホットな話題ですし、何かのきっかけでまた出るのかもしれませんね。黒人の歴史とか。少数民族史とか。…いや、可能性は低いかな。テキトー言いました、ごめんなさい。今回の問題は、テーマや求められている内容ともに非常にレベルの高いもので、「やや難」といったところかなと感じます。

それから、すでにあちこちで指摘されていることでもありますが、女性参政権については過去に一橋の方でこれを扱った問題が出題されています(一橋大2010年、大問2)。これについては別のところで解説していきたいと思います。

 

2018年第1

【問題概要】

19世紀~20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について具体的に記述せよ。

・女性参政権の歩みについて具体的に記述せよ。

・女性解放運動について具体的に記述せよ。

・指示語として、キュリー(マリー) / 産業革命 / 女性差別撤廃条約(1979 / 人権宣言 / 総力戦 / 4次選挙法改正(1918 / ナイティンゲール / フェミニズム

 

 設問を見ると、一橋と違って参政権のみを問題にしているのではないことがわかります。女性の活動全般についてかなり幅広く聞いてきています。これについて、東大ではリード文を長めに提示して受験生にヒントを与えていますね。受験生が不慣れであろう事柄について問う際には、東大の側でこのようにリード文を通してヒントを与えてくれることもあります。(例えばですが、2012年の宗教的標章法が指示語として与えられた、アジア・アフリカの植民地独立とその後などはリード文がかなり丁寧でした。また、この年の世界史平均点は例年と比較して高かったようですので、おそらく採点基準についても当初のものからかなり易化したのではないでしょうか。)

 

【解答手順1:リード文(中段)から、おおよその流れを確認】

・最初の段落の部分は18世紀までを意識して書かれているものです。ですが、設問の方の時期は19世紀~となっていますので、18世紀の内容はただ書いても加点要素とはなりません。フランスの人権宣言に女性の権利が明記されていないことに抗議して、『女性および女性市民の権利宣言』を発表したグージュなどはフランス革命期に処刑されていますので対象外です。

 

・中段をまとめると以下の通りです。

 

① 19世紀以降、男性の普通選挙要求と並行して進められた。

② 19世紀末から20世紀初頭に一部の国で女性参政権が認められた。

③ 日、仏では第二次世界大戦末期以降に女性参政権が認められた。

④ 参政権のみでは女性の権利や地位の平等は達成されず、20世紀後半には根強い差別からの解放運動が繰り広げられた。

 

 つまり、リード文自体が設問の要求する女性の活動、女性参政権獲得の歩み、女性解放運動のおおまかな流れを示していることに気づきます。このうち、②と③については一連のものとみなしてもいいと思います。大きく分けて3つの時期と内容に分けると比較的すっきりしますね。つまり、「女性が男性優位社会の中で活躍の場を見出そうとする時期(19世紀前半~後半にかけて)」、「女性の活動が参政権獲得運動と本格的に結びつき、運動が高揚して女性参政権が実現する時期(19世紀後半~第二次世界大戦)」、「参政権を獲得した女性が残存する差別の撤廃のために運動を展開する時期(第二次世界大戦後)」です。女性の権利のように、教科書に一つのテーマとしてまとめられていないことについて論述を構成する際には必ずこうした大きな見取り図を用意する必要がありますが、これをリード文が用意してくれるのはとても助かります。実際、ほっとしましたw

 

【解答手順3:解答手順2の①~④を意識しつつ、整理していく】

 解答手順2で示した①~④がおおまかな流れを示しているので、あとはそれに従って加点要素になりそうなものを整理していくと良いでしょう。

 

(①‐19世紀前半~:女性の地位と社会的活動)

:この時期は、まだ女性の参政権獲得運動は本格的には展開していません。(あったとしても男性の活動に付随する形で進んでいきます) ですから、この時期については女性がどのような地位にあったのかの確認と、男性中心社会における女性の社会的活動に焦点を当てると良いでしょう。

 

・産業革命以降、労働を担当する男性と家事を担当する女性の分業が進む

:従来、女性は、つねに労働の場から遠ざけられていたわけではありませんでした。たとえば、農村社会において農作業は男女共同で行う作業で、女性だけでなく子どもたちにすら何らかの役割があります。もうすでに古典となっていますが、フランスの歴史家であるフィリップ=アリエスは『アンシャン=レジーム期の子どもと家族生活(邦題:子供の誕生)』という研究書において、中世には大人と子どもの線引きが曖昧であったことを指摘しています。

 ところで、農村での共同の農作業の場合、家事労働は必ずしも生産労働から区別されません。乳児を背負いながら農作業を手伝うことも可能ですし、食事の支度はそのまま農作業を補助する役目となります。つまり、家事労働をこなしながら生産活動に従事することが可能で、こうした社会においては、時代や地域により差はあるものの、女性は一定の役割と権利を認められています。

 ところが、産業革命によって労働が賃雇いの工場労働に変化すると、特にイギリスでは家事労働は次第に生産活動の場から切り離されていきます。賃雇いの場合、時間と効率が重視されますから、子育てを片手間に行いながら労働していると工場長から睨まれます。また、労働者は家から離れた工場で働きますので、働きながら家事をこなすことはできません。さらに、工場労働は多くの場合、重労働の力仕事や過酷で劣悪な勤務条件であることが多く、子どもや女性に必ずしも適したものとは認められません。こうした流れの中で、シャフツベリ伯アシュリー=クーパーの尽力で1833年にイギリスで一般工場法が制定されたことを皮切りに女性やこどもに対する保護条項が定められていきます。(1844年と1847年の改正で女性と若年労働者の労働時間が制限された) つまり、この法律は重労働から女性やこどもを守る目的からのものでしたが、農村的生活から都市的生活への変化や、製造業を中心とする労働環境の厳しさは、家事労働と生産活動の分化を促進し、女性を家に閉じ込める結果にもつながっていきます。

「女性は家庭にいるのが理想」という発想は、福音主義のような倫理的・道徳的観念からも出てきますが、当時の社会的状況からも強化されていきます。当時の工場法が女性労働を制限しているのは、女性に対する過酷な労働環境が存在していたことの反映でもあります。労働者階級の女性たちは様々な困難があり生産活動の場から遠ざけられようとしながらも、家計を支えるためには何らかの形で稼ぎに出なくてはなりませんでした。そうした女性たちにとって、労働は権利というよりは「つらいこと」でした。それに対して、ジェントルマン階級の家庭では、女性が外に働きに出ることはありません。女性は子どもの教育をはじめ、来客の接待、家宰の一切を任されて、(実際には大変なのでしょうが)優雅に暮らしています。こうした対比がなされた時、「労働者階級の女性はつらいのに働きに出てかわいそう、裕福な家の女性は家のことだけしていいね」というイメージが「女性は家庭に」という理想像をさらに強化していくことにつながりました。このあたりの事情について読みやすいものとしてはジューン=パーヴィスの『ヴィクトリア時代の女性と教育』(ミネルヴァ書房)あたりが良いかと思います。

 

・女性の権利はなかなか認められなかった。

:これについてはいくつか具体例を挙げることができます。上述したグージュの『女性および女性市民の権利宣言』は、女性の権利が認められないことに対する抵抗としては良い例ですが、18世紀の例なので本設問では書きにくいです。同じフランスですが、フランス民法典(ナポレオン法典)などは良い例でしょう。ナポレオン法典は極めて近代的な内容の法典でしたが、家父長権を設定するなど古い家族関係を維持しようとする内容が含まれていたため、女性の権利は尊重されていませんでした。また、イギリスではメアリ=ウルストンクラフトが『女性の権利の擁護』(1792)で女性教育の重要性と教育の機会均等をを説き、その他にも男女同権を主張する著作を発表して有名になりましたが、この人も18世紀末に亡くなっています。

 

・一部の政治的活動に参加する女性の姿も見られたが、多くの場合女性の権利は黙殺されたり、社会活動を展開する女性が蔑視されたりもした。

:女性の政治的活動に対して否定的な社会においても、政治的権利を求める女性たちの活動は展開されましたが、男性優位の社会において、その活動はある種の妥協を強いられました。よくあるパターンは、男性たちが権利の主張をする際にそれに乗じる形で女性の権利を主張するパターンです。18世紀にはフランス革命期に女性の活動が見られましたし、19世紀に入ってからはイギリスのチャーティスト運動などでは女性チャーティスト協会などの婦人団体が参加していました。これは、その時の権利をめぐる対立構図の中心が「権利を持つ支配階層または資本家層 VS 権利を持っていない被支配階層または労働者」であって、「男性 VS 女性」という構図ではなかったことが原因です。ところが、ひとたび男性たちが権利を手にしてしまうと、共に闘っていた男性たちはそれに満足して女性の権利については無頓着になってしまいます。(似たような構図にアメリカにおける奴隷解放があります。奴隷を解放し、自由にするという流れの中で女性の解放というものも問題となりました。公民権運動にも似たような部分はあります。)

 

・女性たちが参加を許されたチャリティーなどの社会活動が存在した。

:このように、政治的活動や労働など、女性は社会的活動の場を19世紀の前半には失ってしまっていますが、そうした中でも許された社会活動にチャリティー(慈善活動)があります。家庭にいることを理想とされた女性たちでしたが、こうした発想のもとには福音主義や、当時の道徳観・倫理観がありました。聖書の中には、見方によっては女性が社会に出たり、指導的立場に立つことを否定していると解釈しうる部分や、家庭を維持し子育てをする女性や、弱者救済を行う人を称賛していると解釈できる部分があります。(例えば、「婦人たちは、教会では黙っていなさい」[コリント人への手紙。1434]など)こうしたことから、当時の倫理観では「女性は家庭にいて子育てや家事に従事すべきだが、弱者を救済する慈善活動は神の御心にかなう活動であり、女性が行ってもよい」という発想があったようです。女性を中心テーマにしたものではありませんが、イギリスのチャリティーについては金澤周作の『チャリティとイギリス近代』は非常に細かく近代イギリスにおけるチャリティのあり方を示しています。金澤周作先生については『海のイギリス史』なども読みやすくていいかと思います。金澤先生は元々は難破船に対する周辺社会の対応の在り方などを研究されていた方ですが、その後チャリティへと関心をむけられた研究者です。

 話がやや横道にそれましたが、このような背景を知っていると、19世紀前半のイギリスにおける自由主義運動とその成果は、必ずしも別のものではなく深く結びついていることが見えてきます。1833年は一般工場法が制定された年ですが、イギリスで奴隷制が廃止された年でもあります。工場法を推進したシャフツベリ伯も、奴隷制廃止運動を展開したウィルバーフォースも福音主義者でした。つまり、自由主義と福音主義は当時において密接に関連しています。また、女性の活動、といったときに真っ先に名前が思い浮かぶのはナイティンゲールですが、彼女が行っていたのも「看護活動」で政治的活動ではありません。もっとも、ナイチンゲール自身は単なる「召使い」としての看護婦ではなく、衛生状況の改善などを政府や軍に打診して実行し、統計学者や看護体制の改革者として力を発揮しました。ただ、そうした力のある女性であっても、教育を受ける際に姉の看護を口実としたり、社会的活動を行うにあたってその入り口が看護活動であったことは当時の世相を反映しているものです。

 

19世紀に活躍した女性の具体例(参政権や女性解放以外の分野で)

:世界史の教科書に出てくるような人で調べてみると、意外にその数が少ないことに驚きます。指示語にあるナイティンゲールとキュリー(マリ=キュリーまたはキュリー夫人)については良いでしょう。キュリーはラジウムの発見とノーベル物理学賞の受賞で有名ですが、政治的な活動は目立ったものがありません。このあたりのことを考えてみても、ナイティンゲールとキュリーについては、女性による参政権獲得運動が本格化する以前の、政治色のない女性の活動の例として挙げるにとどめるべきでしょう。また、指示語として示してある以上は、名前を挙げるだけでなく、関連した事項に触れておくことが大切です。ナイティンゲールについては、クリミア戦争への従軍、彼女の活動の影響を受けたアンリ=デュナンによる国際赤十字の設立などを挙げることができると思います。

 そのほかの19世紀女性となるとあまり見当たりません。使えそうなのはストウ夫人(『アンクルトムの小屋』の著者)で、奴隷解放運動と結びつけることは可能です。他だとヴィクトリア女王と津田梅子(岩倉使節団とともに渡米、留学。女子英学塾[現在の津田塾大学]の創始者で女子教育の先駆者)くらいしか思い浮かばないですねぇw ナイティンゲール・キュリー・ストウ・ヴィクトリア・津田梅子って何の脈絡もなくてガッタガタのラインナップ過ぎて笑えませんw

 ちなみに、看護活動などの社会活動で重要な人物として、世界史の教科書には出てきませんがアメリカのクララ=バートンがいます。南北戦争中に看護活動を行い、その後のアメリカ赤十字の設立に尽力した人物です。この人が世界史などでおなじみだと使い勝手が良いのですけどね。

 

(②19世紀末~20世紀初頭:女性参政権獲得への歩み)

・女性の権利の主張

:さて、19世紀は女性が活動するには世間の目や色々な制限があり難しい時代でしたが、それでもナイティンゲールやキュリーのように、慈善活動などの社会活動や学問の分野で活躍する人たちは見られました。19世紀後半ごろからは、政治的な権利を求める女性の活動が次第に熱を帯びていくことになります。その一つが、2010年の一橋大学出題の大問2リード文で示されたセネカ=フォールズ会議です。これ以降、アメリカでは女性参政権獲得運動が進められていきます。

女性参政権の歩み
(アメリカの女性参政権獲得の歩み)

 

 これらのうち、一般的な世界史の知識で引っ張り出せそうなのは「アメリカでは州単位では早い段階で女性参政権の導入があったこと」と「総力戦である第一次世界大戦への参戦と女性の戦争への協力が女性参政権の成立につながったこと」、「その時の政権がウィルソン政権であったこと」くらいでしょうか。また、一橋の問題を解いたことがあったという人であればセネカ=フォールズ会議について言及できた人もいたかもしれません。(そんなに数は多くはないでしょうが)

 一方、同じ時期にイギリスでも女性参政権獲得運動が展開していきます。一次大戦がきっかけで女性参政権が成立(第4回選挙法改正:1918)するのも同じですね。おおまかな流れは以下の通りです。


イギリスの女性参政権

 (イギリスの女性参政権獲得の歩み)

 

このうち、パンクハースト夫人は一部の教科書に掲載されています。また、2017年に改定された『詳説世界史研究』(山川出版社)にもパンクハーストは出てきます。また、第一次世界大戦と第4回選挙法改正の関係は教科書でもはっきり示してある重要箇所ですから、これについて記述することは十分可能ですし、必須です。総力戦であったこと、女性の軍需工場への動員が行われていたことなどは基本事項になりますので確認をしておきましょう。

 注意しておきたいのは、アメリカ・イギリスと同じく第一次世界大戦の時期に女性参政権が成立した国としてロシアとドイツがありますが、この二つの国については革命が大きな役割を果たしています。1917年にロシア革命が起こると、ソヴィエト政権は女性参政権を導入していきます。一方、ドイツでは20世紀初頭からすでにドイツ婦人参政権協会(1902)がアニタ=アウクスブルクの手により設立されていました。また、大戦中にはローザ=ルクセンブルクが社会主義運動を展開するなど政治的な動きも展開していきます。ドイツ革命の後、1919年にヴァイマル共和国が成立すると、女性参政権が成立します。社会主義の動きの拡大と男女同権論は密接な関連をもったものですから、19世紀後半からの社会主義の拡大と結びつけて論を展開することも可能です。

                                                      

・その他の地域における女性参政権

:女性参政権については、第一次世界大戦との関連が極めて重要ですが、その文脈からは離れた女性参政権の成立についてもまとめておきましょう。まず、世界で初めて女性参政権が成立した国は英領ニュージーランドです。ただし、被選挙権は1919年からの導入でした。続いてオーストラリア(1902)、フィンランド(1906)と続きます。女性解放の動きとしては、近年出題頻度が増えているなと感じるものにイプセンの『人形の家』(ノルウェー、1879があります。弁護士に猫かわいがりに可愛がられていた妻が、あることを境に夫の愛情が表面的なもの、妻の人格を尊重してのものではなく、人形に向けられるようなものと感じて、自立していくという内容のもので、女性の自立を一つのテーマにしています。イプセンは男性で、厳密には「女性の活躍」には含まれませんが、女性解放運動は女性だけが推進するものではありませんから、「女性参政権の歩み」や「女性解放運動」の一環として示すのであれば加点されるのではないでしょうか。

 そのほかにも、上述したように社会主義運動は女性同権と結びつきやすく、パリ=コミューンなどによる一時的導入が見られました(1871年)。ロシア革命を通して女性参政権が実現するのもこのあたりが関連していますね。また、トルコの近代化政策の中で、ムスタファ=ケマルが女性参政権を導入していきます。この際には、参政権だけではなく、チャドルの禁止や一夫一婦制の導入などが進められますが、こうした動きは女性解放というよりはむしろ当時のトルコ政府の政教分離政策(世俗化)と西欧的近代化志向の流れの中で出てきたもののようです。また、一部の教科書にはココ=シャネルについての記述がみられます。実は、シャネルというのは第一次世界大戦と女性の社会進出をテーマにするにあたっては非常に良い例です。シャネルはファッションの分野で有名になった人物ですが、1910年代に相次いで開店したシャネルは、コルセットが多用されていた当時のファッションに疑問を感じ、機能的で動きやすいシャネルスーツを発表してその後発展していきます。


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ココ=シャネル(Wikipedia)

 また、日本史を勉強している人であれば、日本における女性解放運動については比較的書きやすかったのではないかなと思います。たとえば、平塚らいてう(雷鳥)による『青鞜』創刊(1911)、や新婦人協会の設立(1919)、同じく新婦人協会設立に関わった市川房枝による婦人参政権獲得期成同盟(1924)などでしょうか。ちょうどこの頃は大正デモクラシーの時期でもありますね。1925年に普通選挙法が制定されますが、女性参政権は認められることがなく、さらに抱き合わせで治安維持法が制定されます。日本以外のアジア地域ではインドのラーム=モーハン=ローイがサティー(寡婦殉死)の禁止を訴えますし、インドネシア(オランダ領東インド)のカルティニはジャワ人の民族意識高揚や女性教育に尽力して若くして亡くなっています。

 

(③第2次世界大戦末期からの女性参政権)

:第二次世界大戦の末期から戦後にかけては、フランスと日本での女性参政権導入が進められます。フランスでは、パリがナチスから解放された後に、ド=ゴール臨時政府のオルドナンス(政令)による女性参政権導入が行われます。(1944) 日本では、1945年の選挙法改正で満20歳以上の男女に選挙権が与えられ、1946年には女性議員39名が当選します。ちなみに、上述の市川房江は1953年の参議院選挙から議員として当選しています。
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市川房枝(Wikipedia) 



(④女性解放運動)

:これまでに示した通り、第二次世界大戦の終わりごろまでには世界の主要国のほとんどで女性参政権が成立しますが、それが女性の完全な自由と解放を意味するものではありませんでした。これ以降、女性たちの新たな権利獲得のための闘争が始まります。

 ところが、多くの受験生はあまりこの部分が書けていないようです。設問が「1920世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について、また女性参政権獲得の歩みや女性解放運動について」と記しているところに注目したいところです。(もっとも、女性解放運動は広い意味でとらえた場合、参政権獲得を含めたあらゆる活動が含まれるものではあります)

 1950年、国連総会で世界人権宣言(指示語の「人権宣言」はここで使うことも可能です)が採択され、男女同権についての理念が明記されましたが、女性は政治的権利を手に入れたものの、さまざまな社会的制約(女性蔑視、賃金格差、労働環境、女性固有の諸権利への無理解など)に悩まされていました。こうした中で、1960年代から展開されるのがウーマン=リブ活動です。これは、女性を拘束する「家庭」や「女らしさ」イメージ、や男女の役割分担などの考えを打破することを目指したもので、黒人解放の公民権運動やベトナム反戦運動などと連動して拡大し、堕胎やピルの解禁運動などにもつながっていく運動です。このような運動によって、次第にポジティブ=アクション(性差別をなくすための積極的是正措置、アファーマティブ=アクションの一種)が拡大して次第に女性に対する差別が撤廃されていきます。1979年の女性差別撤廃条約はこうした中で国連総会において採択されました。
 ところが、戦後のこうした女性解放運動について、受験生はほとんど書けません。というよりは武器を与えられていないんですね。フェミニズムやウーマン=リブなどは教科書には基本載っていませんし、指示語の女性差別撤廃条約なども通り一遍の説明しかされていないことが多く、そのままでは文章にできません。ここで大切なことは二つのことに注意することです。

 

 ① 指示語は示しただけでは得点にならない。(追加情報を示す必要がある)

 ② 一般的に、女性に対するどのような差別があり、何が撤廃されてきたのかを想像する

 

 まず、①についてですが、条約の名前から女性に対する差別が撤廃された多国間条約であることは何となく想像できます。(あまり二国間で締結する類の条約ではありませんよね) ですから、かなり高確率で国連総会における採択だろうという予想はつきます。また、ちょっと公民や倫理・政経の授業を真面目に聞いてきた人であれば男女雇用機会均等法(1985)や男女共同参画社会基本法(1999)などの名前は聞いたことがあるはずです。だとすれば、「女性差別撤廃条約が国連総会で採択され、日本でも男女雇用機会均等法が制定されて就業機会の平等が図られ、さらに男女共同参画社会基本法により女性が能力を十分に発揮できる社会が目指された。」などの文章を作ることは十分に可能です。

 また、②については参政権以外で女性が直面した様々な差別を思い浮かべればよいと思います。最近よく話題となったのは「ガラスの天井」(資質や成果に関わらず、性別などの要素によって組織内での昇進が阻まれる現象や構造のこと)でしょうか。だとすれば、このガラスの天井を排除してきた女性の活躍について言及すれば良いので、女性政治家の活躍などはその最たるものでしょう。バンダラナイケ、インディラ=ガンディー、サッチャー、メルケル、日本なら土井たか子(社会党)とか。また、他にも産休・育休の取得などの職場内の環境改善や、女性に対する社会意識の変化に触れてもいいのではないでしょうか。「東大も積極的に女子学生の比率向上に努めるなど、教育現場においても女性の地位向上が図られている。」なんて書いたら東大の先生方はどんな顔するんでしょうねw こうしたことは、世界史の知識というよりは、普段から世界史という限られた範囲の学習ではなく、さまざまな知識に触れ、それを総合的に自分の血肉としているかどうかが問われる部分なのかなと思います。まさに、南風原東大副学長が言う「本分かり」ですね。それは「探究活動を通じて身につくこともあるし、本やネットで、ということもある。知識を深めるにも多様な方法があります。」ということですよね。だから、マンガで身につけても映画で身につけても世界史リンク工房で見たものであってもw、それがしっかりとした根拠、論拠に裏付けられたものであり、検証を怠りさえしなければそれでよいのです。リテラシーは大切ですが。

 

【解答例】

 仏の人権宣言で無視された女性の権利は、家長権を認めたフランス民法典でも抑圧された。産業革命は女性を労働から遠ざけて男女分業化を促進し、福音主義は男性に従い家庭に縛られる女性観を強化した。チャーティスト運動など男性主導の運動に加わり女性の権利拡大を求める動きも見られたが、社会進出はクリミア戦争で看護制度改革を進めたナイティンゲールや、ラジウム発見でノーベル賞を受賞したキュリー(マリー)など、慈善活動や教育といった一部の分野に限られた。米ではセネカ=フォールズ会議を皮切りに、奴隷解放運動と結びつき女性参政権を求める運動が拡大し、一部の州では導入された。英でもミルの男女同権論などから運動が拡大し、パンクハースト結成の女性社会政治同盟が闘争を展開した。総力戦となった第一次世界大戦に女性が貢献すると、米はウィルソン政権下で、英は4次選挙法改正(1918で、独・ソでは革命を通して女性参政権を導入し、戦間期にはムスタファ=ケマルのトルコへ拡大した。導入が遅れていた仏・日でも第二次世界大戦後に実現し、国連総会は世界人権宣言で性差別禁止を呼び掛けた。しかし、不当な蔑視や就職・賃金・昇進での差別などが残存したため、公民権運動やベトナム反戦運動と連動してフェミニズム運動が展開され、国連総会の女性差別撤廃条約(1979採択を契機に性差別の是正が進み、日本では男女雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法が成立した。(600字)

 

 解答は設問の要求している「女性の活躍」、「女性参政権獲得の歩み」、「女性解放運動」を意識してみました。上の「手順1」で示した3つないし4つの時期ですね。社会主義や、個別の活動など十分にカバーしきれていない部分もありますが、そこはある程度妥協しました。実際の入試では、サッチャーとか、カルティニとか、平塚らいてうとか指示語以外の女性を羅列した回答がそれなりに高い点数を取っていたらしいということは述べましたが、東大はあくまでも設問の意図に沿った、テーマを意識した解答を求めていると思いますので、おそらく今後東大で類似の問題が出題された場合、そうした構成の解答は点数が低く出ることになると思います。そのあたりのことを考慮して、あえて個別の人物名などを必要以上に挙げることよりも、設問の要求の方にこだわってみたわけです。「具体的に」述べよとありますので、ある程度各国の状況の詳細や固有名詞を出す必要がありますので、なかなか難しかったです。この年の東大の合格者ベース平均点は66%(文三)~69%(文一)とかなり高かったようですが、本来であれば歴史的事実に対する深い理解と、事柄を整理する総合力が要求されるレベルの高い良問だったのではないかと思います。

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 今日は朝「高校生新聞online」の方で面白い記事があったので。

 

 http://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/57

 

 かねてから東大、または大学が受験に何を求めているのかということを推し量るということをしてきましたが、こちらの記事は大学からのダイレクトなメッセージなので、とても興味深いものです。(もっとも、メディア向けに味付けされている部分もあるのでしょうが)

 こちらの記事は本来、東大が導入している推薦入試についてのものですが、読んでいくと一般入試に対する東大の意図がどのあたりにあるのかが見えてきます。こちらの記事にある一般入試について気になるところを挙げていくと以下の通りです。

 

① 記述中心型の一般入試には今後も変更がない。高校の各教科で習う内容を本当に深く理解すれば解ける問題を出題する。

② 機械的な暗記による知識ではなく、「高く深い」レベルの知識を問う。東大のアドミッションポリシーとして「知識を詰め込むことよりも、持っている知識を関連付けて解を導く能力の高さを重視」するとある。

③ 「記述試験は受験生との対話」である。

④ 採点の過程も対話であり、元からある採点基準も採点を通じて基準が洗練されていく。

⑤ センター試験があるから安心して深い記述問題が出題できる。

 

 ①については、おそらくそうだろうとかなり前から思っていたことですが、やはりそうなのですね。東大の問題は採点にものすごく手間がかかるであろうことを除けば、試験としての完成度は高いものです。⑤にもありますが、センター試験と併用することで基本的な知識を確認した上で、本人が内容をきちんと把握しているかを問う内容になっています。完成度が高く、蓄積のあるものをわざわざ変えることで何かメリットが生まれるのだろうかとかねてから疑問に思っていました。出題傾向は多少変わるかもしれませんが、大きく変化することはやはりなさそうです。これまでの東大過去問分析の価値が損なわれるものではないのでこちらとしても一安心ですw 無駄な手間が省けます。

 

 ②についても、おそらく多くの人がそのように感じていたであろうことをはっきりと確認できたということです。つまり、「きちんと理解する」のであれば、世界史については、いわゆる一問一答を全て丸暗記するよりも教科書ベースで内容把握する方が東大では点数が取れるということです。時折「一問一答やった方がいいですか?」という質問を受けますが「ケースバイケース」と答えることにしています。一問一答形式のテキストは「自分が覚えているかどうかを確認するため、または自分はこれだけ覚えているんだということを確認して安心感を得るためのツール」としては優れていると思いますが、初めて覚える、身に着けるためのテキストとして特に優れているとは思いません。(ただし、受験まで時間が限られていて緊急避難的にとりあえず知識を入れておきたい、ということであれば便利なツールだと思います。また、東大を受験する人でも早慶といった私大を併願していることがほとんどだと思います。こうした大学の受験をメインで考えている場合、それなりに役に立つ部分があることは否定しません。)

なぜかと言えば、どうしても付随する情報量が不足してしまうんですよね。テキスト、プリント、資料集、授業などでは、時間的なつながり、地域的な広がり、映像、関連する事項などが総合的に、自然に目と耳から入ってきます。一問一答ではそれがないので、一問一答「だけ」で覚えると、どうしても薄っぺらい知識で止まってしまいがちです。こうした知識は問題の形式が少し変わると対応できず、応用力を身につけることができません。何より致命的なこととして「ある情報について人に広く、深く伝えること」ができません。たとえば、友達から「○○って何?」と聞かれたときに、その一問一答に書かれた質問文以上の説明をすることができないことになります。そうすると「フランス革命って何だっけ?」に対して「1789年~1799年に展開された、フランス社会を根底から変革することとなった動き、だよ。」という答えが期待できる最大値で、それ以上が出てこないわけです。エルゴ=プラクシーで言うところのアントラージュっぽい答えになってしまいます。あ、古いしマイナーですね。はい。

 

きちんと勉強している人であれば、一見拙くは見えてもその答えにはいろいろな情報が含まれています。「えっとー、1789年にバスティーユが襲われてー、そんで第三身分の人たちがー、議会をつくってー、人権宣言で―…」のように、各事象や時系列が曖昧さや誤りがあることもあるにせよ見えてきます。しっかりと内容を把握して、かつ質問の意図を的確にとらえる人であれば、その説明はさらに洗練をされてよりはっきりとした像を結ぶことになります。「フランス革命って言ってもさw フランス革命の何が聞きたいのw?…あー、全体的な流れかぁ。私もあんまり覚えてないんだけど、まずは貴族への課税について三部会が開かれたけどモメて、第三身分が国民議会をつくって。そのあと立法議会、国民公会って形でかわっていくけど、それにつれて革命が急進化していく感じ。あれ?バスティーユ襲撃っていつ頃だっけ?」…まぁ、こんな答え方する高校生は一般的ではないでしょうがw

ですが、東大が言う②というのは、結局のところそうした能力です。不十分ではあっても「人に伝え、自分で考えを深められる」レベルで知識を体得している受験生が欲しいのでしょう。よく「知識はなくても考える力があればそれでいい」という人がいますが、これは半分正解ですが半分は誤っています。知識はなくても思考することはできますが、その思考を深め、発展させていくためにはさらに深い知識が必要になります。つまり、多くの知識を身につけていることは、それがない人間よりもより深い思考・思索を可能にする土台を身につけているということだからです。単純に考えて「知識がなく、思考力もない<知識はないが思考力はある<知識があり思考力もある」なのは自明です。(王欣太の『蒼天航路』であまりの書籍の数に驚嘆する劉備が「これ全部頭に入っているの?」と聞くのに対して曹操が「覚えていなくていなくてすごい奴もいるが、最後は覚えている奴が勝つ」という趣旨のことを言うシーンがありますが、まさにその通りだと思います。)

つまり、東大がお求めなのは、この「知識があり思考力もある」というおよそ「一般的ではない」高校生ですw ですがまぁ、しょうがないですよね、東大自体がおよそ一般的な大学ではないので。大学で、つまり高等教育機関で研究を進めるにあたり、「自分が知識を把握し、それを他者に伝え、他者に伝える中で新たな疑問や問題点を発見し、その解決のために新たな知識を求める」というプロセスは必須能力です。そうでなければ研究とは呼べませんし、それにあたって仕入れる知識の量は専門書の1冊や2冊程度では到底すみません。歴史の論文や専門書を読んでみればわかりますが、1200字程度の文章を書く間に注として用いる書籍の数が10冊なんていうのはザラでしょう。そうした環境に身を置くのだから、高校の教科書一冊分の情報量を入れる力は欲しいし、それはまったく詰め込みと言えるほどの量ではない、というのが東大ほか難関大の教員のスタンスだと思います。もっとも、高校生の立場になっていってみれば、確かに1教科で見れば教科書1冊分+α程度の知識かもしれないけれども、それを全教科にわたって要求されるわけですから、決して容易な量ではないことは疑いがありません。大変です。でも、しょうがないですよ、東大だもん。

 

 ③については、各大学の論述解説に際して繰り返しお伝えしてきた「論述はコミュニケーション」だという表現と全く同じ内容です。東大の先生方も同じスタンスなのだと確認出来てほっとしました。ですから、その辺の細かいニュアンスについては各校の論述対策をご覧いただければと思います。今回興味深かったのは、採点にまで踏み込んで説明して下さっているところですね。採点についても対話であって、「もとから採点基準はある」が、それを受験生の解答によっては変更していくこともあるということを示してくださっています。この点については、「多分見てくれてるとは思うよ、天下の東大だもん。」といいつつ、「でもなぁ、何千人もいるからなぁ、そこまで見てくれてるかなぁ。」という一抹の不安を抱いていましたが、副学長がおっしゃるのですから多分大丈夫でしょう。ですから、教科書をはみ出した知識であったり、理解であっても、設問の意図に照らして焦点が合った解答であり、かつ歴史的事実に基づいているのであれば、正解としてくれていると思います。また、東大側が本気で採点をしてくれている限り、多少マニアックな知識であってもちゃんと拾ってくれているはずです。それくらい東大をはじめとする難関大の教員や研究者のレベルはすんげぇのです。

 

 とりあえず、これまでの東大入試に関する認識に大きな誤りはなさそうですし、国からの妙な圧力がない限りは今後も東大世界史の問題について大きな変更はなさそうです。今年はどんな問題が出るんでしょうかねぇ。楽しみでもあります。

 

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