世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

2019年09月

 先日ご要望が寄せられたことからこちらの方では世界史の中でも経済・金融に関する事柄を中心にまとめたものを示していきたいと思います。元々はプリントの形にしていたものをブログ記事として改変しているので、面白みに欠けるまたは読みづらいなどの部分もあろうかとは思いますが、その辺は勘弁してください。また、本当の意味で通貨や金融の歴史を書いていくとすれば、内容や地域など他にもたくさん書くことが出てくると思うのですが、こちらでご紹介する話は原則として「教科書や参考書に登場するものとその周辺」の話であり、受験に出てくるようなものと、直接受験には出てこないのだけれども、知っておくと理解がしやすいことが中心になっているとご理解いただきたいと思います。

 もともと、この内容でまとめてみようと考えたのは、この内容をまとめた時期にちょうど金融に関する事柄が大きくクローズアップされていた(リーマンショックだのアベノミクスだのFRBだの)こともあり「もしかして金融とかぼちぼち受験に出るんでねーべか」と思ったからです。実際にいくつかのテーマはあちこちの入試問題で散見されたわけですが、もうECBではドラギの任期も終わろうかとしている現在では、やや賞味期限切れの感があるかもしれません。(でも近いうちにまた金融関係のニュースが吹き荒れそうな気はします。)

金融関連のニュースの流行り廃りもあるのですが、高校生が経済史(というより、経済的な仕組み全般)を苦手としているというのは確かにそうなのかなとも思うので、簡単に概要をまとめておいて損はないでしょう。かなりの分量がありますので、「中国通貨史」、「中国産業史・交易史」、「西洋・西アジア通貨金融史」などいくつかの項目に分けて書いていきたいと思います。

 

【中国通貨史1:鋳造貨幣の使用と普及】

 鋳造貨幣の使用以前には一部地域で貝貨が用いられておりましたが、これは商業のために流通させるというよりは、儀礼上や贈答用として用いられていたようです。

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Wikipedia「貝貨」より)

 

春秋・戦国時代に入り、商業の発展が見られるようになると、物々交換以外にも各地で鋳造された青銅貨幣が用いられるようになります。この青銅貨幣の種類と流通地域については、時折入試などでも出題されるものになるので注意が必要です。

 

(青銅貨幣の種類と流通地域)

・刀銭(貨):斉・燕・趙で使用(東北部)

・蟻鼻銭:楚で使用(南部)

・布銭[鋤を模したもの]:韓・魏・趙で使用(中央部)

・環銭[円銭]:秦・趙・魏で使用(西北部)

 

戦国の七雄の位置関係が最もよく問われるところはここでしょうね。出題頻度としてはやはり環銭(円銭)と蟻鼻銭が一番高いのかなぁと思いますが、その他のものも早稲田などでは出ています。写真もよく出ますよね。個別に国と青銅貨幣を結び付けて覚えるやり方だと忘れてしまいますので、戦国の七雄の位置関係をしっかり把握した上で、どの通貨がどの地域(東北部・南部・中央部・西部)で使われていたのかを理解した方が忘れずに定着しそうな気がします。

 

 ところが、秦の始皇帝によって中国全土が統一されると、地域によって異なっていた貨幣は度量衡や文字などとともに統一されることになります。これが半両銭です。


 半兩錢

Wikipedia「半両銭」)

「半両」というのは重さの単位を示したもので、約8gです。秦では孝公に仕えた商鞅の頃に一斤(約250g)を16両とし、1両(約16g)を24銖とする重さの単位が定められていましたから、1両の半分(16g÷28g)で半両となるわけですね。ちなみに、武帝の時の「五銖銭」も重さの単位を表しています。(ちなみに、「五銖」は武帝期の重さでは3.35g相当だそうです。)いずれにしても、この秦の半両銭の円形方孔(円の形で中央の穴は四角)の形状はその後の東アジア地域において流通する鋳造貨幣の基本形になります。受験では、始皇帝の半両銭と武帝の五銖銭の区別をしっかりつけることが大切になりますので、注意してください。(もっとも、この両者の区別は銭に限ったことではなくあらゆる面で重要です。)

 

 その後、漢代に入ると軽量化が図られます。軽い方が便利ということもありますが、軽量化された原因の一つとして、漢王朝が民間での貨幣鋳造(私鋳)を認めたこともあるようです。原料となる銅を使う量が少なければ少ないほど、鋳造する人間にとっては旨味が大きいですからね。ところが、品質の粗悪な私鋳銭の流通はインフレにつながりやすくなりますし、国家以外の通貨発行主体が複数存在することは、国家体制の安定を脅かすことにつながりかねません。実際、紀元前154年に発生した呉楚七国の乱において、呉が一時大きな勢力を持つことができたのは、呉が銅貨鋳造と製塩によって莫大な富を有していたところが大きいと言われています。(実はこの辺の話は以前ご紹介した横山光輝『史記』にも出てきます。マンガすげぇ。)

ちなみに、「塩」というのは経済上重要な意味を持つ商品です。塩は、人間にとって必需品ですが、特に内陸部においては塩分の摂取方法は限られます。(日本でも、「敵に塩を送る」の由来として武田信玄と上杉謙信のエピソードは有名です。史実としての信用性は怪しいようですが。)ですから、確実に必要であるという意味で、塩は時に通貨に匹敵する価値を持つ商品です。その重要性は古代中国王朝が塩の専売制を取り入れていることからも見て取れます。(ただ、これも国の専売制の目を逃れて勝手に塩をつくる密売人はいつの時代も存在したわけです。このように考えると唐末の黄巣の乱の首謀者である黄巣が塩の密売人であった事実も意味を持って理解することができます。)

 話が脱線しましたが、以上のような理由から漢の時代、中央集権化が進むと文帝の頃には私鋳が禁止されていきます。そして武帝の頃には五銖銭の鋳造が行われました。武帝期は、前漢の全盛期とされますが、外征や土木工事の増加により国家財政は逼迫していました。こうした中で、桑弘羊(そうくよう)の活躍などにより均輸・平準法の導入や塩・鉄・酒の専売制が行われ、財政の立て直しが図られます。これにより、国家財政は安定しましたが、一方で商人層はこうした施策を国家による利益の不当な独占であると反発し、武帝死後の塩鉄会議などで桑弘洋ら財務官僚と対立します。この内容は『塩鉄論』にまとめられていますが、今からはるか二千年も前の時代に国家による経済統制の是非、経済の自由と規制、物価統制と民生の安定などの極めて高度な経済事象が議論の俎上にのせられていることに驚かされます。また、財政の安定と国防の関係や当時の生活・文化の様子がうかがい知れる部分も非常に興味深いものです。(『塩鉄論』は岩波などから文庫版も出ています。ただ、岩波の文庫版は高校生には難しくて扱えないと思います。)

 

 前漢は王莽(莽の字の草冠の下は「大」ではなく「犬」)の簒奪と新の建国によって幕を閉じました。王莽の政策については色々と評価は分かれますが、教科書的には「周代の政治を理想とし」など、復古主義的な政策を採ったことが書かれていることが多いです。そうした内容と関連させて王莽の政治を見てみると、刀銭・布貨などをあらたに鋳造し、さらに金銀や貝までもまじえた30種近い貨幣の採用(王莽銭)がなされましたが、この政策は複雑かつ不便であったために五銖銭の私鋳と流通を招きました。さらに、王田制(周の井田制にならった土地の国有化)や奴婢売買の禁止などを打ち出しますが、どれも当時の経済の状況にそぐわなかったことから経済混乱へとつながりました。


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王莽による小刀を模した貨幣(Wikipedia「王莽」)

 その後の中国の通貨は、安定した統一王朝による通貨政策が持続しなかったことから、五銖銭を模した形状の銭が国家や私鋳され、統一された形の通貨は作られませんでした。隋代に入ってようやく通貨の統一が図られましたが、隋は短い年月で滅亡してしまったため、律令制や科挙などとと同じく、統一通貨も唐のもとで作られます。これが開元通宝です。開元通宝の重さは約3.7gほどでしたが、この通貨は従来の通貨とは異なり、重さが表示されない貨幣でした。開元というと玄宗の開元の治を想定してしまいますが、開元とは唐という国家が新たに建国されたことを喜ぶもので、発行されたのは唐の高祖李淵の時代です。また、この開元通宝を模して日本でも和同開珎などの貨幣が鋳造されたことも知られています。


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開元通宝(Wikipedia「開元通宝」)

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和同開珎(写真は銅銭鋳造前に一時鋳造された銀銭:Wikipedia「和同開珎」)

 開元通宝は唐末の混乱と五代十国時代にも流通し、宋代に入ってからも使われましたが、宋代に入ると新たに大量の貨幣(宋元通宝など)が鋳造され、いわゆる宋銭の鋳造量は歴代の中国王朝で最大となりました。これらの宋銭はアジアの多くの国々で流通し、日本でも平安時代末期に平清盛が日宋貿易を行ったころからその流通が拡大し、鎌倉時代には絹などにかわる決済手段としても用いられるようになっていきます。

 一方、中国の四川地方や陝西地方では銅貨ではなく鉄銭が用いられたこともあったようです。この背景には、四川や陝西に面する地域に存在した西夏や遼といった異民族との対立関係から銅銭の流出を警戒したこと、経済地域として四川、陝西がその他の地域とは異なる独自の経済圏を形成していた(こうした地方の商業圏・商業都市が形成され始めるのが宋代で、さらにそれらが結ばれる遠隔地交易が発展していくのは明代に入ってのことになります)ことなどが挙げられています。いずれにせよ、唐末から宋代にかけて、銅や鉄で鋳造された貨幣は決済手段として極めて重要になりますが、経済規模や地域の拡大とともにその重量や輸送の手間などが問題になってくると様々な工夫が生み出されることになり、飛銭などの手形決済や紙幣の誕生につながることになります。


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(現在の四川省と陝西省:Wikipediaより)



 

 先日ご依頼がありましたので、今回は東大2012年問題(アジア・アフリカにおける植民地独立とその後)を取り扱ってみたいと思います。こちらの設問は当時話題になっていたフランスの宗教的標章法が注付きとはいえ指示語として登場したということで話題になった問題ですが、それだけでなく、例年になく東大世界史の平均点が高かったということでも話題になった問題です。ですが、それは本設問が簡単だったかというわけではありません。むしろ、本設問は真正面から取り組むと例年になく難しい、まとめるのが非常に困難な設問であったと思われます。にもかかわらず平均点が例年より高く出たということは、もしかすると採点基準の方にいくらかの配慮がなされたのではないか、とも言われたりしています。実際のところはどうなのかわかりませんが、大切なことは平均点がどうのとか言うよりも、東大の側では受験生に何を求め、そして与えられた問題を解く側はどのようにすれば出題者の求めに応じることができ、かつ他の受験生よりも一歩先んじることができるのかを検討することでしょう。

 

【設問概要】

・アジア、アフリカにおける植民地独立の過程について論ぜよ。

・アジア、アフリカが独立した後の動向について論ぜよ。

・地域ごとの差異について考慮せよ。

・指示語は

 カシミール紛争 / ディエンビエンフー / スエズ運河国有化 / アルジェリア戦争

 ワフド党 / ドイモイ / 非暴力・不服従運動 / 宗教的標章法

 の8つで、下線を付すことが求められている。

・また、宗教的標章法には注で「公立学校におけるムスリム女性のスカーフ着用禁止」などを決めたフランスで制定された法律という簡単な説明が付されている。

18行(540字)以内で記せ。

 

 

(リード文から読み取れる留意点)

 ① 旧宗主国(旧植民地本国)への経済的従属

 ② 同化政策のもたらした旧宗主国との文化的結びつき

 ③ 旧植民地からの移民増加による旧宗主国内の社会問題

 以上の①~③が植民地主義の遺産としてアジア、アフリカ諸国の独立後も長い影を落としており、また、

 A:植民地政策の差異

 B:社会主義や宗教運動

などの影響により地域により異なる様相を呈することが示されている。

 

【手順1:アジア、アフリカの植民地整理】

 指示語から整理しても良いのですが、設問は対象を「ヨーロッパ列強により植民地化されたアジア・アフリカの諸地域」と非常にアバウトに示しており、旧宗主国の限定などは行っていません。だとすれば、指示語につられ過ぎてしまうと手落ちになる部分が出てきてしまう可能性もあるので、簡単にでもよいのでヨーロッパ諸国によって植民地化されたアジア・アフリカの諸地域について確認してみると、世界史の教科書レベルで出てくるものとしてはおおよそ以下のようになります。

 

(アジア) 

植民地:仏領インドシナ(ディエンビエンフー、ドイモイ)

    英領マレー、インド(非暴力・不服従、カシミール紛争)

    蘭領東インド

   (保護国、委任統治領:中東、イランほか 自治領:ASNZ

(アフリカ)

植民地、保護国

:英領‐エジプト(ワフド党、スエズ運河国有化)、スーダン、南アフリカ

   →南アフリカは1910以降自治領

 仏領‐サハラ(アルジェリア戦争、宗教的標章法)、モロッコ

 独領‐トーゴ、カメルーン、タンザニア、ナミビア

 その他‐ベルギーのコンゴ、ポルトガルのアンゴラ、モザンビークetc.

 

 上記のうち、( )付きで赤い文字になっているのは本設問の指示語です。ご覧になってわかるように、指示語8つすべてが英領植民地または仏領植民地に関連するものです。また、540字で「地域ごとの差異」について考慮せよ、と言っているところからも、ベースは英仏植民地政策の差異を受けて独立後の各地域がどのような様相を呈したか、で良いように思います。ただ、設問はあくまで英仏ではなくヨーロッパ諸国と言っていますので、そのほかの国と植民地の状況についても適宜さしはさむ必要はあるのではないでしょうか。

 

【解答手順2:手順1の整理、指定語、設問要求から、中心的な話題を選別】

 上述の通り、ベースは英仏でOKだと思います。だとすると指示語から絶対に欲しいのは

 

英‐インド帝国(インド・パキスタン・ビルマ)、エジプト

仏‐仏領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)、アルジェリア

 

でしょう。まずは、この両者に差異がないかを検討してみることになります。ただ、一概に英は〇〇で、仏は××と言い切れるものではないので、いくつか差異として考えられるテーマを挙げてみたいと思います。

 

①「英‐交渉や外交を通しての自治や独立」、「仏‐独立戦争などの武力闘争」

:イギリスは、民族運動が高まりを防ぐ際に一定の譲歩をしながら実質的な支配や利益を確保するという方法をとる傾向があります。エジプトの形式的な独立や、インドにおける度重なる譲歩(そして他方での弾圧)、中東支配のありかたなどを考えればそれは明白です。また、いずれの植民地においても激烈な独立戦争などは起こっていません。

 これに対し、フランス植民地では必ずしもそうではありません。特に、指示語と深いかかわりをもつ仏領インドシナではインドシナ戦争が、アルジェリアではアルジェリア戦争がそれぞれ発生しています。この背景としていわゆる「文明化の使命(アジア・アフリカの劣等人種に近代社会・思想を与えて<文明化>していくことが優越種たる白人やフランスの使命であるという考え方)」というフランスの統治姿勢が存在したことは平野千果子をはじめとする複数の研究者によって指摘されていますし、学会でもよく言及されます(学生時代、周りが猫も杓子も「文明化―、文明化―」言ってたので、「一体なんだ?」と思った記憶がありますw)ので、おそらく本設問でも意識していると思われます。(別に解答に文明化の使命云々を書く必要はありません。一つの視点として知っておくとよいでしょう。)

 

②「英‐分割統治(宗教、民族、地域、階層)」

:イギリスのインドにおける分割統治は有名です。特に、ヒンドゥー教徒を中心とするインド国民会議派とムスリムを中心とする全インド=ムスリム連盟の対立を生み出したベンガル分割令などはよく知られています。ですが、イギリスの分割統治はそうしたことに留まらず、多岐にわたっていたことについては注意が必要でしょう。たとえば、藩王国間での競合を促したり、藩王国の支配層をインド帝国内において箔付けし、イギリス人と同じ支配階層として遇することで民衆との間に断絶を生み出したり、カースト間でも上位カーストと下位カースト間での差別意識や対立を植え付けたりと、かなりきめ細かな「分割」を行っています。(このような分割の仕方についてはたびたび言及していますが、デイヴィッド=キャナダイン[David Cannadine]の『オーナメンタリズム』[Ornamentalism]が面白いです。紹介すると言ったままになっちゃってますね。もうずいぶん古い本になってしまいましたが。

こうした「分割」は、その土地の人々が一丸となって支配者であるイギリスに反抗することを防ぐ効果を持っていました。こうした統治が最も組織立って行われたのはもちろんインド帝国でしたが、何もインドに限ったことではなく、他の土地でも見られました。(たとえば、南アフリカのブーア人を取り込んで黒人を支配させるなど)

 こうした英の植民地統治は、インドのコミュナリズムや階層間対立、南アフリカのアパルトヘイト、中東におけるアラブとイスラエルの対立、マレーにおける複合社会の形成とシンガポールの独立など、現代にもつながる諸問題へとつながっていきます。一方、フランスの側ではイギリスほど細かな社会の分断政策はとられませんでした。これもまた、フランス植民地における対立が「フランス人または入植者vs植民地の先住民」という形に比較的はっきりと分かれる原因であるかもしれません。

 

③同化政策

:同化政策については、多かれ少なかれ試みられています。ただ、それが国家の主導で行われたかどうかや、ずっと同じように継続して行われたかどうかについては、時期や地域によって差があります。たとえば、インドにおける英語の導入についても、これが比較的広い範囲に導入されたのは偶然の要素も強かったようです。イギリスはインドにおけるイギリスの「協力者」は一部のエリート層であればよいと考えていたようです。一部エリートが英語を理解し、そして英国の統治に協力してくれれば良いという発想で、上述した分割統治のありかたにも合致します。それにもかかわらず、広範に一般の初等教育にまで英語教育が拡大した背景の一つとして、従来から機能していたインド独自の教育体制(日本の寺子屋的なもの)が、インド産業と農村の疲弊・崩壊によって機能不全に陥ったこと、またこれにかわる形でイギリス側が公教育機関を英式教育(英語含む)で整備したことなどがあるようです。この公教育の整備についてはイギリス本国ならびに植民地政府の間でも意見が割れていたようで、とても国をあげて同化政策を進めたと言い切れるようなものではありません。

 ただ、イギリスにせよフランスにせよ、本国と植民地の間で本国への「同化」をめぐる問題は独立前にも独立後も植民地社会に大きな影響を与えたことは間違いありません。独立前の影響としては、本国への留学を通した植民地支配層の形成や、知識人・民族資本家の成長、本国言語の習得などがあります。また、独立後の問題としては移民に対する旧宗主国内での「同化」圧力などがあげられます。たとえば、フランスのライシテ(政教分離)と宗教的標章法をめぐる問題などがそれです。

 ライシテについては、フランスではフランス革命以来、たびたびカトリック勢力を政治の場から切り離そうとする努力が行われてきました。(もっとも、それはウィーン体制下や第二帝政下などでは逆にカトリック勢力の復活が見られるなど一方通行の物ではなかったわけですが。)特に、19世紀の後半には従来から教育を担ってきたカトリック勢力と公教育を通して国民国家を確立させたい政府の間で学校教育をめぐる対立が先鋭化し、フェリー法(1882、小学校の無償化、義務化に加えて非宗教化が確立された)などの諸法などによって教育の場をはじめとする公共空間からは宗教性を排することが確立しました。つまり、ライシテとはもともとはカトリック勢力の排除のために進められていたものです。

 ところが、フランスへの移民の増加と、9.11テロ以降のムスリムに対する偏見の増大などから、公共の場からムスリムを排除することを正当化するための理論としてライシテが使われ始めます。その一つが宗教的標章法で、特にムスリムの女性のスカーフ(ヒジャブ)が標的にされ、何名かの女子生徒が退学処分となるなど大きな社会問題となりました。つまり、「フランスでは伝統的にキリスト教徒も学校では宗教的なものは排しているのだから、ムスリムもそうせい。」ということで、一見すると「同化」を要求しているのですが、実際にはフランス社会に亀裂を生み、むしろムスリムに対する差別を助長する要因の一つになっているようです。(フランスではその後もブルキニ[ヒジャブの一種ブルカとビキニの合成語で、ムスリム女性の水着]禁止令などが問題となりました。)

 

④「英‐原材料調達のための植民地経営と市場化」

:イギリスは、比較的植民地を目的別に効率よく運用しようという意図が感じられます。そのせいか、その土地の名目的な支配権よりはむしろ、実質的な支配権や経済的利権の維持に腐心していました。原料供給地兼市場としてのインド帝国、錫や天然ゴムの生産基地としてのマレー連合州、スエズ運河という巨大利権を有するエジプト…など、イギリスの植民地経営がいかに経済的利益を追求していたかについては世界史の教科書レベルでもはっきりと出てきます。このことが、植民地に対して譲歩を重ねつつ実質的な支配権を維持するイギリス式植民地支配へとつながっていたように思われます。これに対し、フランスの植民地支配には目立った経済的利益獲得のための戦略のようなものが見られません。

 

⑤社会主義との関係

:英仏ともに、独立した植民地においては多かれ少なかれ社会主義運動が展開されました。ただ、その運動のあり方や植民地支配との関係にはやはり英仏植民地間で差があるように思われます。たとえば、イギリスの植民地の独立については、社会主義政党はそれほど大きな力となって出てきていません。これはそもそも、イギリス植民地の独立の多くが交渉や外交によって成立したということもあるのですが、独立運動が激しく展開したインドやエジプトをとってみてもその中心は民族主義政党で社会主義政党ではありません。(もっとも、民族主義政党の指導者の中に社会主義思想の影響を受ける者がいなかったというわけではありません。)むしろ、イギリスの植民地は独立後に冷戦構造の展開の中で社会主義路線やソ連への接近を見せる国が多いように思われます。(インドの対ソ接近、ナセルのスエズ運河国有化、ガーナのエンクルマによる社会主義経済と一党独裁、ビルマのネ=ウィンなど。)

 これに対し、フランス植民地の場合、社会主義運動ははっきりと独立運動の中心に出てきます。最も有名なものはホー=チ=ミンが指導するインドシナ共産党やベトナム独立同盟でしょう。ベトナムと同じく独立戦争を戦ったアルジェリアのアルジェリア民族解放戦線も社会主義政党です。また、独立後のインドシナではポル=ポトのクメール=ルージュやラオスのパテト=ラオ(ラオス愛国戦線)などの共産主義革命勢力の活動が活発でした。

     

【解答手順3:ベースの4地域において独立過程とその後を整理】

 手順2の①~⑤は、英仏すべての植民地で常に当てはまるというものではありません。ただ、大きな流れとして「これは使える」というものを適宜各植民地の状況に合わせて示しておくとよいでしょう。

 次の手順として、指示語が示しているベースとなる英仏の4つの植民地(インド・エジプト・インドシナ・アルジェリア)の独立過程を整理してみましょう。実際の試験の時には下に示すほど丁寧に整理するのは不可能ですので、手順2で示した①~⑤のいずれかを意識しながら、それと特にかかわる部分は何か考えながら要所をまとめておくとよいでしょう。私がまとめるときには、「イギリスの分割統治や多重外交と交渉による植民地独立/独立後の植民地に残した問題」「フランスの強圧的統治がもたらした社会主義運動の激化と独立戦争/独立後の諸問題」のような形でまとめると思います。多分一番やりやすいので。

 

.英植民地と分割統治

(インド)

・藩王国と民衆

・宗教的分割(ex.ベンガル分割令)

 1906 インド国民会議カルカッタ大会「スワラージ(自治)」

  同年 全インド=ムスリム連盟(親英団体)

    1909 モーリー=ミントー改革

     :インド参事会議員の一部にインド人を参加させる一方で、ムスリムに有利

 →自治の約束(ex1919制定、1921施行のインド統治法)

  不十分な自治に対してたびたびインドの民族運動激化

  1927 サイモン委員会(憲政改革調査委員会):インド人なし

  1929 インド国民会議派ラホール大会「プールナ=スワラージ(完全独立)」

  1930~塩の行進、英印円卓会議

ハリジャンに対する選挙特別枠とガンディーの差別固定化に対する危惧

  1935 新インド統治法(地方自治に参加)

 →1937年地方選挙でインド国民会議派の圧勝、ムスリムの危機感

 →アトリー労働党内閣成立(1945)とマウントバッテンによる分離独立裁定(1947

・独立後

  印パ間の対立(カシミール地方の帰属問題から印パ戦争19471965

  パキスタン(ジンナー)は西側(東南アジア条約機構[SEATO]、バグダード条約機構[METO]参加)

インド(ネルー)は東側に接近→ネルーの社会主義経済路線

  バングラデシュの独立(1971、第3次印パ戦争)

  印パの核武装化

  中印国境紛争(イギリスによるシムラ条約1914とマクマホンライン[中国は拒否]がベース)

  カースト制度の残存、宗教対立の残存

近年のムスリム差別の激化(インド人民党の台頭、アヨーディヤ問題などのコミュナリズム)

 

※インド人民党(BJP):ヒンドゥー至上主義、上位カースト出身者多数の民族主義政党

          社会主義経済的なインド国民会議派に対して、自由主義経済の徹底を主張

          首相にパジパイ(核実験再開)、モディ

※コミュナリズム:宗教集団(コミュナルcommunal)が他の集団を排除しようとする動き

 

(エジプト)

・エジプトにおける民族運動激化と支配層の取り込み

 1919~ ワフド党(サアド=ザグルールの流刑をめぐり)

 1922  エジプト王国の独立を承認

(ムハンマド=アリー朝、エジプト防衛権、スーダン・スエズ駐兵権維持、経済的従属)

      ワフド党の与党化とムスリム同胞団の成立(1929、ハサン=アルバンナ)

  1936  エジプト=イギリス同盟条約(スエズ、スーダン駐兵権の維持)

  大戦後 アラブ民族主義の台頭と腐敗した王政への疑問

  1952 エジプト革命

    :ナギブ、ナセルなどの自由将校団による親英王政の打倒

  1956 ナセルによるスエズ運河国有化とスエズ戦争(1956-57

     :アラブ民族主義の高揚

  中東戦争:イギリスによる多重外交の産物

  アラブ民族主義に対するイスラーム原理主義の台頭(サダト暗殺)

  アラブの春

 

B、仏の強圧統治と独立闘争

(ベトナム)

 ・仏領インドシナにおける民族運動、独立運動の弾圧

  (ファン=ボイ=チャウ、ファン=チュー=チン、ホー=チ=ミン)

 ・ベトナム民主共和国の成立と社会主義

  →インドシナ戦争(1946-54)、ディエンビエンフーの戦い、ジュネーヴ休戦協定

 ・ベトナム戦争と南北統一(ベトナム社会主義共和国1976

 ・冷戦構造の転換とともにドイモイ(共産党一党独裁を維持した市場経済の導入)

 ・ASEANへの加盟と経済的結びつきの強化

 

(ラオス・カンボジア)

 ・民族主義と社会主義の混在

 ・冷戦構造の影響を受ける

 ・冷戦終結による市場経済導入(政治的にはラオスはラオス人民革命党による一党独裁)

 

(アルジェリア)

 ・フランス統治と「文明化」 cf).アブド=アル=カーディルに対するレジオン=ドヌール勲章

                 ナポレオン3世の「アラブ王国」構想

 ・大戦後、FLN(アルジェリア民族解放戦線)結成1954?、ベン=ベラ)

  →アルジェリア戦争開始(1954-62

 ・フランス人入植者(コロン)とFLNの対立

  →フランス人入植者の反抗を抑えるためにド=ゴールが大統領就任、第五共和制発足

   大統領権限を強化したド=ゴールはコロンの不満を抑えてFLNと交渉、エヴィアン協定(1962

 ・ベン=ベラとその後のクーデタ政権下での社会主義路線

 ・経済の行き詰まり

  →イスラーム原理主義の台頭(イスラーム救国戦線、FISの成立)

  →FLNによる一党独裁とアラブ化への不満からベルベル人との対立

  →経済の行き詰まりとフランスの経済成長によりフランスへの移民増加

   (フランスにおけるライシテと人種差別問題:宗教的標章法)

 

【解答手順4:その他の地域で目立つ部分をテーマに沿って肉付け】

 正直なところ、手順の1~3の内容をまとめるだけでも540字では収まりません。また、この字数で「差異」を意識的に示さなくてはならないのに、複数の物の差異を無理に示そうとすると結局脈絡のない事実の羅列に終わってしまって、何が「差異」なのか伝わらないままになってしまいます。指示語を考えてもやはりここは英仏植民地とその差異を何らかの形でしっかりと示した上で、そのテーマに乗っけられるような部分をベースとして使った植民地(インド・エジプト・インドシナ・アルジェリア)以外の植民地から持ってきて示すくらいで良いのではないかと思います。その場合、使いやすいのは以下のような地域と事柄でしょう。

 

・マレー半島の植民地経営と人種間の分割(英人、華人、マレー人、印僑)

・ベルギー領コンゴとコンゴ動乱

・蘭領東インドと、独立後のナサコム(民族主義、共産主義、イスラーム) など

 

 解答例示すべきなのですが、昔作った解答がどこかに行ってしまいまして、ちょっと時間もないことからとりあえず割愛して、時間のある時に追加したいと思います。また、本稿自体あまりまとめる時間がありませんでしたので、ところどころ時間のある時に手直しするかもしれません。余裕がなくてすみませんw

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