世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

2020年01月

2017年のTEAP利用型世界史の試験は、これまでに出題されたTEAP利用型世界史問題の中でも、受験生にとって一番きつい試験だったのではないかなと思います。テーマ自体が難解でしたし、史料の読解もかなりの力を必要とします。試験時間が十分に確保されていれば論述問題自体は難しくともどうにか問題として成立するのではないか(むしろ、論述の一つ目、設問2は良問ではないか)と思うのですが、一番あり得ないと思ったのは試験時間です。この問題を60分で解けというのは正直ピーの所業なのではないかと思います。日常生活でもたまにいますね、そういう無茶ぶりをする人。本人全く悪気がないのに「うそぉ!?」っていう振りをする人がいます。私は昔、サークルの先輩に寝ている間にすね毛にライターで火をつけられたことがありまして、「痛ぇっ!」と思ってガバ起きしたら足元に先輩がジッポ構えて座ってました。「何してるんすか!?」と言ったら「いや、燃えるかと思って…」と悪びれもせず言ってましたが、上智の問題を見てるとたまにそういうムードを感じます。

 論述問題は時間の制約がなければまだ分かるのですが、私がおおいに疑問を感じたのはむしろ小問の方です。後述しますが、何を対象として聞いているのか判然としない部分があるために、正答が選びにくい、下手すると選べないのです。回答者全員が正解となった今年(2020年)のセンター問5なんかよりよっぽど判断がつきづらいですよ。私、試験会場でこの問題の正解を導く自信あんまりありません。まぁ、色々な意味でこの年のTEAP利用問題は実は悪問なのではないかと密かに考えているのですが、単に私の理解力が足りないだけなのかもしれませんので、「うーん?悪問かもなぁ?」くらいで留めておきます。でもやっぱり悪問だと思う。

ちょっとこの年の受験生はかわいそうですね。そのせい?か、翌年からは同じ字数で90分に試験時間が変更になりました。問題形式等についてはすでにこちらでご紹介しています。

 

設問1-1 (c)

:下線部周辺は「(あの)世界を震撼させた野蛮な遊牧民(が、ヨーロッパを襲う前にわれわれの住む土地を横切らなかったら)」とある。この「われわれの住む土地」は著者がチャアダーエフ(ロシア人)なのでロシア。ロシアを横切りヨーロッパを襲った民族であるので解答はモンゴル人である。

 

設問1-2 

:下線部の「偉大な人物」は「われわれを文明化しようと試み」、「啓蒙に対する興味を喚起させ」たが、ロシア人は「啓蒙に少しも触れることはなかった」とあります。文明化(西欧化・近代化)をロシアで進めた君主と言えばピョートル1世とエカチェリーナ2世がまず思い浮かびますが、これらのうちロシア人が「啓蒙に少しも触れることがない」と評価されるとすれば時期的にもピョートル1世でしょう。もっとも、選択肢がピョートルの他は

・イヴァン4世(16世紀半ば~後半、雷帝)

・ウラディミル1世(10世紀末~11世紀のキエフ大公、ギリシア正教に改宗)

・ストルイピン(第一次ロシア革命後にミールの解体などを進める一方、革命運動を弾圧した首相)

 ですので、選ぶことはそう難しくありません。

 

設問1-3 

:下線部の「偉大な君主」は、「われわれを勝利者としてヨーロッパの端から端まで導き」ましたが、凱旋後のロシアは「もろもろの愚かな思想と致命的な誤り」により「われわれを半世紀も後ろへ放り投げてしま」ったとあります。ヨーロッパの端から端まで軍を展開することができたのはナポレオン戦争時のアレクサンドル1世ですし、その後の反動体制(ウィーン体制、「ヨーロッパの憲兵」)を思い浮かべれば内容も合致します。「反動化」ということばは世界史では頻出しますが、進歩的変革やそれを行う諸勢力の動きに反対し、既存の体制の維持や旧体制の復活などの保守的行動に出ることを指します。

 

設問1-4 

:設問としてはアバウトで、どの地域・時代のことを指しているか明確ではないのであまり良い問題とは言えません。下線部は「農民を土地つきで解放する」とあり、この文章を書いているのはロシアの作家ドストエフスキーなので、おそらくロシアのことを指すのだろうと類推することは可能ですが、選択肢には「西ヨーロッパに」など異なる地域についての言及もあり、設問の指示にも「ロシアで」などの明示がないためにロシアのことを指しているのかどうか、またいつ頃の話をしているのかどうかをはっきりさせる確証のない設問です。

それでも、正しいのは⒟で、農民は多くの場合、身分的に解放されても土地を有償で買い取る必要がありました。この文章は「どこで」という指定がないので、ヨーロッパ全般を指すのかロシアの状況を指すのか不明ですが、ヨーロッパ全般で考えたとしてもフランス革命後の封建的諸特権の有償廃止や、プロイセン改革における農奴解放を考えた場合、間違いではありませんし、ロシアの場合だとしても1861年のアレクサンドル2世による農奴解放令は土地の有償分与とミールへの帰属が示されましたから問題ありません。

 

⒜:エカチェリーナ2世はプガチョフの乱以降反動化し、農奴に対する締め付けを強化します。

⒝:上記にあるようにロシアで農奴解放令が出されたのはクリミア戦争(1853-1856)後の1861年です。もっとも、クリミア戦争に参加したのは英・仏・伊・オスマン帝国などの諸国も同様なので、ここでいう「解放令」がどの国の解放令なのかは上記の類推と、「ああ、多分1861のロシアの農奴解放令のことを聞きたいんだろうなぁ」という回答者側が気を利かせること以外にロシアであると判断する方法はありません。

⒞:西ヨーロッパ全土に当初から独立自営農民がいたわけではありませんし、独立自営農民(イギリスではヨーマン)が比較的多かったイギリスにおいても、農民全てがヨーマンだったわけではありません。ただ、これも時期と地域によっては異なる判断が出る余地があるため、あまり良い問題ではありません。

 

設問1-5 ⒝

:この設問は本当にどうなのかと思います。下線部は「正教」で、たしかにロシア正教会の総主教座はモスクワに置かれました。ですが、そもそも正教会は東ローマ帝国の国教であるギリシア正教から発展してくるものであり、総主教座はコンスタンティノープルなどに、しかも複数置かれていました。モスクワに総主教座がおかれるのは16世紀末のことですし、そもそもロシア正教の出発点がどこにあるのかといったことが曖昧です。さらに、設問では「正教」がそもそもロシア正教のことを指すのかギリシア正教のことを指すのか、他の定義で使っているのかはっきりしません。そのため、この⒝の文章は見方によって正しいとも誤っているとも取れてしまう文章です。

⒜:グラゴール文字を考案したのはキリル文字の名前の由来ともなったキュリロスという人物です。「グラゴール」というのは人名ではなく、当初文字自体に名称はついていなかったようですが、後に古スラヴ語の「話すこと、言葉」といった意味から名づけられたものです。また、キュリロスが当初布教の目的地としたのはモラヴィア王国(現在のチェコ周辺)ですから、南スラヴではなく西スラヴです。

⒞:微妙な文章です。「モスクワ大公国の時に正教がロシアの国教となった」とあります。何が微妙かと言いますと、そもそも「ロシアとは何か」が曖昧です。文章自体が曖昧というより、厳密な意味を考えた時に「ロシア」が何を指すかはっきりさせようがないのですね。そもそも、モスクワ大公国は「ロシア」という国家なのか(イヴァン4世自身はそれを自称しましたが)、また仮にこれを「ロシア地域」だと考えた場合、そもそもロシア地域とはどこを指すのか、そしてモスクワ大公国は「ロシア地域」全土を支配していたのか、それはいつの時期か、などまぁ、キリがありません。また、「キエフ公国とモスクワ大公国との間に<ロシア>としてのまたは一つの国家としての連続性を見出すことができるか」ということになるともっと曖昧です。また、そもそもこの「正教」は何を指しているのか以下略。(上記の説明をご覧ください) たしかに、ロシア地域に存在した国家としてはキエフ公国の方が先で、そのキエフ公国はギリシア正教を国教として受容していますから、キエフ公国とモスクワ大公国にロシアとしての一体性を見出すのであればモスクワ大公国の時にはじめて正教がロシアの国教となったという表現は誤りを含むものです。(もっとも、設問の方には「はじめて」という表現もありません。おそらく「なった」という表現に「はじめて」のニュアンスがあるから読み取れということなのだと思いますが、もし、モスクワ大公国がキエフ公国から独立した存在だと考えた場合、モスクワ大公国のとき(にも)、正教はロシア(地域)の国教になっていますから、正しい文として読むこともできてしまいます。あまり良い選択肢ではないと思います。もし、選択肢として用意するなら「モスクワ大公国の時に、正教がはじめてロシア地域において国教として導入された。」くらいにしないと間違いとして選べません。

⒟:ローマ=カトリック教会とギリシア正教会の完全分裂は1054年で11世紀ですので誤っています。この選択肢で「ギリシア正教会」なんて書くからますます「正教」が何を指すのか曖昧になるんですよね…。

 

設問2(論述1)

【設問概要】

・チャアダーエフとドストエフスキーの考えの相違点について説明せよ。

19世紀のロシアの国内の現実とロシアをめぐる国際関係に即して説明せよ。

・指示語は「西欧化政策 / 農奴制 / 農村共同体(ミール) / 帝国主義 / 東方問題」で、初出の場合には下線を付せ。

250字以上300字以内

 

【手順1:チャアダーエフとドストエフスキーの考えの整理】

(チャアダーエフ:時期は1836

・冒頭の文章に「ロシアにおける西欧の自由主義的な価値を範とする思想の先駆け」とあります。

・「われわれ(=ロシア)」の思想的現状に極めて悲観的です。

 ①社会的意識にどのような痕跡も留めなかった

 ②自らの思想が拠り所とすべき固有のものは何もない

 ③人類の伝統的思想も受容しなかった

 ④われわれの賢者や思想家はいったいどこにいるのか(反語。つまり、どこにもいない)

 ⑤科学の領域でさえも、ロシアの歴史は何物にも結び付かず、説明せず、証明しない。

 ⑥歴史的にも、偉大な君主が文明の光をたびたび投げかけるが、ロシアはそれを受容しない。

 →つまり、ロシアは思想的に重要なものは何も持っていない。

・これに対し、彼はロシア以外のヨーロッパが不完全ながらも文明的で個性や歴史、思想的遺産を持つと考えます。

 ①ロシアと異なり他の諸民族は文明的で個性を持つ

 ②諸民族は、ロシアが持たない思想を礎石とし、これから未来が現れ、精神的発展が生じる

 ③ヨーロッパの(ロシア以外の)諸民族には共通の相貌や家族的類似性(一般的性格)があるが、この他にも固有の性格、つまり歴史と伝統を持ち、これが諸民族の思想的遺産をなす。

 ④その思想的遺産とは、義務・正義・権利・秩序に関する考え方のことである。

 ⑤こうした思想的遺産が、これらを持つ国々の社会体制の不可欠な要素を形作っている。

 ⑥今日のヨーロッパ社会には不完全・欠点・とがめるべきものがあるが、それでも神の王国が実現している。

 ⑦ヨーロッパは、自らのなかに無限の進歩という原理や、しっかりした生に不可欠な要素を内包している。

 

 つまりチャアダーエフは、ヨーロッパが持つ思想的遺産(歴史と伝統)は、人々が進歩し、根を下ろした生を営むにあたって不可欠な要素であるにもかかわらず、ロシアはこれを持っていないと考えています。ですから、ロシアが「他の文明的な諸民族のように個性を持ちたいなら、人類が受けた全教育を何らかの方法で再度施すことが不可欠」なのであり、東洋と西洋が持つ想像力と理性という知的本質、偉大な原理を「自らの中で融合し、われわれの歴史の中に結合させるべき」であると考えます。

 

(ドストエフスキー:時期は1873-81

・冒頭の文章に「ロシアの伝統に根ざした発展を志向する思想へとつなが」るものであるとあります。

・また、設問からチャアダーエフの考え方とは対極にある考え方であることは明白です。

・ロシア以外のヨーロッパの思想や現状に対しては批判的または懐疑的です。

 ①ヨーロッパの農奴解放は、有償であったり、暴力や流血を伴う不十分なもの、または人格的には解放されても経済的には搾取されたもの(「プロレタリアの原理に基づいて、完全に奴隷の姿で解放された」もの)にすぎず、そもそもわれわれ(=ロシア)が学ぶようなものではない

 ②ヨーロッパはロシアがこれを愛そうと努めたにもかかわらず、一度もロシアを愛したことがなく、そもそも愛するつもりがない

 ③ロシアにとってヨーロッパは、「決定的な衝突」をする相手であると同時に「新しく、強力で、実り多い原理に立った最終的な団結」をなす相手でもある

・一方で、ロシアの歴史的な遺産と、近年達成された視野の拡大に対しては極めて肯定的です。

 ①「世界のいかなる国民にも前例のない、視野の拡大という結果を得た」

 ②18世紀以前のロシアは、活動的で堅固であり、統一を成し遂げて辺境を固め、「他にまたとない宝物たる正教」を持ち、キリストの真理の守護者であることを「ただひとり」理解していた

 ③ロシアが数世紀の遺産として受け継ぎ、遵守してきた偉大な理念(スラヴ民族の大同団結)は裏切ることのできないものである

 ④また、スラヴ民族の大同団結は「侵略でも暴力でもない、全人類への奉仕のためのもの」

 ⑤ロシアは、全東方キリスト教や地上における未来の正教の運命全体と団結のためになくてはならない存在

 ⑥東方問題には、ロシアの課題がすべて含まれ、この解決こそが「歴史の完全さにつながる唯一の出口」につながる

 ⑦ロシア、またはロシア人はヨーロッパの矛盾に最終的和解をもたらすよう努めるべきであり、それは「全人類的な、すべてを結合させる」ロシア的精神のなかにヨーロッパを包摂し、「兄弟愛をもって」スラヴ民族、最終的にはすべての民族を「キリストの福音による掟にしたがって」完全に和合させることによって達成される

 

 つまり、ドストエフスキーはヨーロッパの思想よりもロシアの伝統、歴史、宗教(正教)といった遺産こそがキリスト教的な真理を体現するものであると考えています。一方で、彼にとって長らくロシアでもてはやされてきたヨーロッパの進歩的思想、自由や平等の理念などは見せかけだけのものに過ぎず、参考に値するものではありませんでした。彼は、「ヨーロッパの矛盾」、つまり普遍的であることを装いつつ、その実自己の利益を追求する姿勢はロシアの精神によって解決されるべきであり、最終的には広い視野を獲得し、すべてを結合させる愛と真理を持ち合わせたロシアこそがスラヴ民族をはじめ全ての民族を包摂すべきなのであり、それはスラヴ民族の大同団結と同じく「侵略でも暴力でもない、全人類への奉仕のためのもの」と考えています。

 

【手順2:チャアダーエフとドストエフスキーの考え方の相違点を整理】

(異なっている点)

チャアダーエフが、西洋の自由主義的価値観を模範とすることで、ロシアが持てなかった個性や歴史を持つことができ、文明化が可能となると考えるのに対し、ドストエフスキーはロシアの伝統、歴史、正教という遺産こそがキリスト教的真理を唯一保持するものであり、スラヴ民族の大同団結やその後の諸民族の和合のために欠かせない要素であると考えています。

(共通する点)

 どちらも、ロシアは現状の諸問題は将来においてロシアが解決すべきまたは解決しうるという未来志向型の考えを持っています。ロシア独自の個性を「いつか持たなくてはならないvsすでに持っている」という点では対立していますが、個性それ自体を重視する姿勢は同じです。

 

【手順3:手順1、2で整理した両者の考えを、ロシアの国内問題、国際関係に即して考える】

・指示語には注意しましょう。

「西欧化政策 / 農奴制 / 農村共同体(ミール) / 帝国主義 / 東方問題」

 

①西欧化政策

:これについては両者ともに関係づけることが可能です。ロシアの西欧化はピョートル1世の頃やエカチェリーナ2世の頃などに進められますが、反発や反動化が起こるなどして必ずしも十分なものではありませんでした。これを不十分なものだからさらに進めるべきだというのがチャアダーエフで、逆にそれまでの西欧化の努力は無駄とまでは言えないが間違った方向性であるとするのがドストエフスキーなので、彼らの主張に絡めて述べればよいと思います。

 

②農奴制

:農奴制についてはロシアの農奴解放令についての言及は必須。ロシアではクリミア戦争の敗北などを受けてアレクサンドル2世が1861年に農奴解放令を出します。これにより農奴は身分的自由を得ましたが、土地の取得は有償で地代の十数倍に及ぶ対価を支払う必要がありました。多くの場合、一度に対価を支払うことができないため、政府が年賦で資金の貸し付けを行うなどの方法で支払われましたが、取得した土地は取得費用を連帯保証したミールに帰属するために個人は依然としてミールに行動を制約されることになりました。

 

③農村共同体(ミール)

:ロシアの地縁的共同体である農村共同体(ミール)は、租税や賦役の連帯責任を負う農民の自治・連帯基盤ですが、農民個人の生活を縛るものでもありました。上記の通り、ミールは土地取得の連帯保証を行うことで農民個人の解放の実質的な障害となっていたため、ロシアの農奴解放は十分に進展しません。第一次ロシア革命(1905)以降、近代化・工業化を進めるために農奴解放のさらなる進展を必要としたロシアはストルイピンの指導のもと、ミールの解体を進めることになります。

 

④帝国主義

:こちらは、時期的にも内容的にもドストエフスキーの論と絡めて書く方が良いでしょう。帝国主義は産業革命やその後の独占資本の形成が各国の植民地拡大政策と結びついていくものですから、その中心は19世紀の後半から20世紀の前半です。チャアダーエフの議論は1836年のものですから、こちらを帝国主義政策云々と結びつけるのは無理があるかと思います。対して、ドストエフスキーの論では東方問題や「ヨーロッパの矛盾」についての言及があります。文章中には、土地付きでの農奴解放を主張しながら歴史的にはそのような解放がなされるには暴力や流血に頼らざるを得なかったこと、カトリック(カトリックの語義はギリシア語の「普遍的」に由来)的な同胞愛を説きながらロシアを決して愛そうとはしなかったことなどの「矛盾」が示されていますから、ここでドストエフスキーが示したいのは普遍的であることを装いつつ、その実は自己の利益を追求するヨーロッパの偽善であり、これはそのまま「文明化」などを掲げつつ植民地支配を正当化するヨーロッパの帝国主義政策に通じるものがありますので、その点を指摘すればよいでしょう。

 

⑤東方問題

:東方問題については同じくドストエフスキーが言及しています。時期を考えればクリミア戦争後~露土戦争の時期を考えておけばよく、彼の議論からは東方問題にロシアが解決すべき課題があり、ヨーロッパの帝国主義政策はロシアの遺産によって形作られるスラヴ民族の大同団結によって打ち破られるべきであり、それがあってこそヨーロッパとの最終的な和合、つまりロシア的伝統によるヨーロッパの一体化が図れると考えていることがうかがえますので、そこを指摘しましょう。

 

【解答例】

 西欧の自由主義的な価値に重きを置くチャアダーエフは、西欧化政策や啓蒙思想がロシアに根付かないことを嘆き、進歩にはヨーロッパの思想的遺産とこれが作る個性・歴史が不可欠と考えた。クリミア戦争敗北後、アレクサンドル2世は農奴解放令で農奴制を廃止したが、個人が農村共同体(ミール)に縛られる不十分なものだった。ドストエフスキーは自由・平等を謳う西欧諸国も当初は農奴解放が十分な形ではなく、普遍性を標榜しつつ帝国主義政策を進めるなど矛盾を抱えていることを指摘。堅固な伝統と歴史、キリスト教的真理を宿す正教を有する稀有な国であるロシアがパン=スラヴ主義を通して西欧列強を破り、東方問題を解決すべきであると考えた。(300字)

 

設問3(論述2

【設問概要】

・チャアダーエフとドストエフスキーが書いた文章の持つ文明論的意味について、実例を挙げて論ぜよ

 

(ヒント[リード文から]

・両者のようなタイプの知識人、社会改革家が、近代以降は日本やトルコなどのアジア地域に現れて論争し、政治社会運動に加わっていた

 

【手順1:設問の意図を理解する】

 まず、何よりも設問が言う「文明論的意味」とはどのようなことを聞いているのかを把握する必要があるのですが、おそらく多くの受験生がここで「?」となったことと思います。文明論という言葉自体があまり明確に定義されていないように思います。(検索すると福沢諭吉の『文明論之概略』がよく出てくるけれども、150年も前の著作の定義をそのまんま鵜呑みにするわけにもいかないでしょう)

 

「文明」を辞書で引きますと以下のように出てきます。(三省堂『スーパー大辞林3.0』)

 

①文字をもち、交通網が発達し、都市化が進み、国家的政治体制のもとで経済状態・技術水準などが高度化した文化を指す。

②人知がもたらした技術的・文化的所産。[「学問や教養があり立派なこと」の意で「書経」にある。明治期に英語civilizationの訳語となった。西周「百学連環」(18701871年)にある。「文明開化」という成語の流行により一般化]

 

 また、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典」の「文明」の項目では以下のようにあります。

 

「文化と同義に用いられることが多いが,アメリカ,イギリスの人類学では,特にいわゆる「未開社会」との対比において,より複雑な社会の文化をさして差別的に用いられてきた。すなわち国家や法律が存在し,階層秩序,文字,芸術などが比較的発達している社会を文明社会とする。しかし今日では,都市化と文字の所有を文明の基本要素として区別し,無文字 (前文字) 社会には文化の語を用いる学者も多い。この立場では文明は文化の一形態,下位概念とされる。」

 

 つまり、「文明」という言葉自体が時代や状況によって指す内容や使われ方、伝わるニュアンスが異なるものですので、本来は設問の方で「ここでいう文明論とはなんぞや」ということをある程度指し示してやる必要があると思うのですが、そこは上智のことですので「わかってんだろ?言わなくても」みたいなお前はチャラ男かホストかみたいに阿吽の呼吸を要求してきます。すげえ。

 こういう場合、正確な定義を読み取ろうとする努力は徒労に終わってしまいますので、ひとまず、文明論というのは上記にあげた①の「文字をもち、交通網が発達し、都市化が進み、国家的政治体制のもとで経済状態・技術水準などが高度化した文化」それ自体や、そこに暮らす人々の共通の価値観について論ずること・またはその理論を指すと考えておきましょう。

 

【手順2:チャアダーエフとドストエフスキーの「タイプ」を考える】

 両者を知識人や社会改革家として類型化した場合、どのような型にはまるかということを考える必要があります。一番整理しやすいのは、ヒントに日本やトルコが上がっているので、これらの地域において西洋思想を取り入れようとした論者とチャアダーエフもしくはドストエフスキーの共通点を探すことでしょう。このように考えると、チャアダーエフとドストエフスキーは以下の二つのタイプとして分類することができます。

 

①チャアダーエフ型

:自国の後進性を指摘し、西欧的価値観や思想の積極的導入による近代化を図ろうとする思想家

 

②ドストエフスキー型

:自国の文化・伝統・歴史を重視し、価値あるものと考えてそれをもとに西欧に打ち勝とうとする思想家

 

 ①のタイプについては枚挙にいとまがありません。日本でいえば幕末の開国派や蘭学者、明治維新以降の進歩的思想家や改革者は多かれ少なかれそういう要素を持っています。トルコでいえば実例はタンジマートでしょう。また、タンジマートのもとで西欧の教育を受けた新オスマン人などもそうです。一方、②の場合には水戸学や尊王攘夷論者、イスラーム圏ではアフガーニーのパン=イスラーム主義(その立憲主義などは範を西欧にとるわけですが)、中国なら洋務運動の「中体西用」の思想(もっとも、技術については西洋技術を積極的に導入)などに近いものを見ることができるかもしれません。

 気をつけておきたいのは、②のタイプの論者であってもその中身は様々です。上にも書いたように、「中体西用」のような発想は、「体」つまり根幹となる部分については自国の伝統的制度・思想を重視しますが、西欧的なものを全て拒絶するわけではなく、技術面については積極的に西洋のものを導入します。こうした発想は「和魂洋才」のような言葉にも見ることができますが、19世紀末から20世紀前半にかけての時期に国家の近代化を図ろうとした場合、多かれ少なかれ西欧の何かを導入せざるを得ないケースが大半でしたから、「Aは西欧LoveBは西欧拒絶」といった形で完全に区分けするのはなかなか難しいということには注意しておくべきでしょう。

 

 ①・②のいずれにせよ、自身が属する文明とそれとは異なる文明について、独自の考え方(文明論)を持っていたことは間違いありません。チャアダーエフのような見方は、後にロシアで西欧派と呼ばれる西欧市民社会を理想化し、個人の自由の実現を目指す一派を形成していきますし、ロマン主義の流れから生まれた国粋主義的な思想潮流を持つスラヴォフィル(スラヴ派)と呼ばれる一派は西欧派と対立し、のちのパン=スラヴ主義を形成する一つの要素となっていきます。ドストエフスキーはこの思想的潮流にあるわけですね。

 

 設問は、チャアダーエフの文章とドストエフスキーの文章の持つ文明論的意味を、実例を挙げながら論ぜよとなっています。「実例をあげながら」となっておりますので、①と②に分類した上でアジア地域における実例を挙げればよいのではないかと思います。

 

【解答例】

 西欧近代文明に直面したアジアでは、ロシアの論者と同様に対照的な二つの議論とそれに基づく改革が進められた。チャアダーエフのように自国の後進性を指摘し、西欧的価値観や思想の積極的導入を図ろうとする立場には、日本の開国派や明治維新期の進歩的思想家、トルコのタンジマートやミドハト憲法制定に尽力した新オスマン人などが挙げられる。ドストエフスキーのように自国の文化・伝統・歴史を重視し、保持する立場は日本の水戸学派や尊王攘夷論者、アフガーニーのパン=イスラーム主義、中国の洋務運動が掲げた「中体西用」などに見ることができる。どちらも、自己の属する文明に西洋文明を対置して直面する課題の克服を試みた点で共通する。(300字)

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前年(2018)の問題がかなり史資料読解の力を要求するとともに、テーマも主流からやや外れた一般の受験生には難しい内容であった(http://history-link-bottega.com/archives/cat_384107.html)のに対し、2019年の問題は設問の内容、テーマともにそれほど難しいと感じる内容ではありませんでした。テーマは「身分制議会の中世から近代にかけての変化」、「1763年のパリ条約までの英仏植民地戦争の背景・経緯・影響」、「中国共産党(ならびにソ連)と中国国民党との関係と1949年にいたる変遷」と、世界史の中でもメインテーマと呼べるものが問われています。一橋の過去問でも、ほとんどの設問で似たような問題が何度か出されています。にもかかわらず、全ての問題に一橋特有のクセがなく、平易な内容になっているために、一橋よりはどちらかというと東大くさい匂い(または早稲田の法とか)がします。「東大くさい」点はテーマだけでなく、東大の大好きな「変化」であるとか「変遷」といった言葉がやたら使われているところからも見て取れます。  

もっとも、一橋では変化や変遷を問わないわけではありません。直近の2018年にもありますが、ほかにも2013年の大問1などにも見られますし、物事の推移を追うことで実質的には変化を述べさせているに等しい設問も出てきます。ただ、2019年の問題はテーマが王道ということもあってやたらと「一橋っぽくない感じ」がします。最近の一橋はこうした王道の東大くさい設問が出る年と、いかにも一橋っぽい「うわー、そんなことそんな聞き方しちゃうの?」みたいな設問を出す年がコロコロと変わるので狙いが本当に絞りにくいです。絞りにくいなりに出題傾向の分析や出題予想(というほどのものでもない当てずっぽう)は時々やっていますが、ためしに昔書いた出題傾向を見てみたら2年前の記述に大問1では「議会制の発達」、大問3に「国民党と共産党」ってしっかり書いてますね。(http://history-link-bottega.com/archives/11929768.html) 2年前に出て欲しいなぁw

まぁ、それなりの情報量を持ったテーマをしっかり書かせるということになれば、選べるテーマも限られてくるということなのでしょう。

 

2019 Ⅰ

 

【設問概要】

問1 

10世紀にカトリックに改宗して国家形成した東ヨーロッパの王国を三つ答えよ

 

問2 

13世紀後半から14世紀にかけて現れた、君主と諸身分が合議して国を統治する仕組みについて、以下の①~③について説明せよ。

 ① この仕組みは何か。

 ② 複数の具体的事例を挙げよ。

 ③ 中世から近代にかけての変化を視野に入れよ。

 

(問1、問2合わせて400字)

 

【リード文概要】

 今回、リード文自体は短いものでした。内容も、直接設問に関連するものではなく、史料読解の重要度は低かったと思います。史料として引用された『彩色年代記(Chronicon Pictum)』は、14世紀後半に成立したとされるハンガリー王国の挿絵入り年代記です。150近いミニアチュールがあり、これらの絵からは当時のハンガリー文化や宮廷生活、人々の衣装や装飾などを読み取ることができる史料です。東欧史は専門外ですので、あまり詳しいことを知らなかったので簡単に調べてみたところ、英語版のWikipediaの方にハンガリー王ラヨシュ1世から、フランス王シャルル5世の手に渡ったとの記述がありました。(娘カタリンがシャルル5世の子、オルレアン公ルイと婚約した際のことです。当時のカタリナは4歳、そして7歳には没しておりますので、この婚儀は実際には行われませんでした。)

 

chronicon pictum
Chronicon Pictumの表紙 Wikipedia[英語版]Chronicon Pictumより)

 

【設問分析】

問1 

答えはハンガリー王国、ベーメン王国、ポーランド王国、クロアティア王国の中から三つ。カトリックを受容した東ヨーロッパの国としてはチェコからスロヴァキアにかけて栄えたモラヴィア王国もありますが、モラヴィア王国は建国が9世紀ごろで、10世紀初頭には滅亡しますので設問の要求に合致しません。

東ヨーロッパの国々とカトリックの受容を問うことは難しく見えますが、一橋ではたびたび東欧史が出題されていることや、2014年の大問2が非常に目立つ設問で同じく西スラブをテーマとした設問であったことなどを考えると(http://history-link-bottega.com/archives/cat_211847.html)、一橋受験者は比較的しっかりと押さえてきている部分からの設問ですので、基本問題だったかと思います。   

 

問2

 まず、設問の一つ目の要求である「この仕組み」ですが、これは「身分制議会」ということで問題はないかと思います。最初「議会」という風に思いついた人でも、書いていくうちに「身分制議会」として示す方が良いことに気が付くのではないでしょうか。設問にも「君主と諸身分が合議」って書いてありますしね。身分制議会についての設問は一橋でも過去に出題がありますし、他校の過去問でも頻出の問題です。設問が示す13世紀後半から14世紀にかけてということになれば、やはり受験生がすぐ思い浮かべるのはイギリスの議会とフランスの三部会でしょう。また、イベリア半島のキリスト教国家の多くもこの時期に身分制議会(コルテス)を成立させています。神聖ローマ帝国ではかなり早く(場合によってはカール大帝の頃から)から王とその側近による会議が開かれていましたが、12世紀のシュタウフェン朝の頃から次第に形式が整い、14世紀のカール4世による金印勅書(1356)で明文化され、帝国議会が成立します。

 とりあえず、イギリスとフランスの身分制議会を中心に議会制の発展について下に簡単にまとめてみます。

 

<イギリス身分制議会の発展>

イギリス身分制議会


 

<フランス身分制議会の発展>

フランス身分制議会

 

<イベリア半島諸国の身分制議会>

12世紀末  レオン王国で身分制議会(コルテス)成立

13世紀初  ポルトガルで成立

13世紀半ば カスティーリャ、アラゴンで成立

 

<神聖ローマ帝国>

1356年 金印勅書で帝国議会が明文化

 

<東欧諸国>

16世紀頃から身分制議会が本格的に形成される(ポーランドのセイムなど)

 

 議会制の発展というものは、特に中世については慣習的なものから立ち上がってくるものであって、「○○年に××が決まったから、ハイ、議会!」と言えるものではないので、上に書いてあるものもあくまで参考程度にというものです。ただ、英仏の議会発展については概ね教科書等でモデル化されています。ですから、本設問の要求する「具体的な事例と変化」についてはこの英仏身分制議会制の発展をまとめれば良いでしょう。あとは、「近代にかけて」がどのあたりまでかという問題ですが、少なくともルネサンス以降までは見ることになりますので、両国の絶対王政期くらいまでを見ておけばよいのではないでしょうか。設問の対象はあくまで「身分制議会」ですし、国民主権の下で選挙によって選ばれた議員が立法にたずさわる近代の議会制度とは内容の異なるものです。イギリスではピューリタン革命の頃から次第に議会の権能・機能が変化していきますし、フランスではフランス革命の頃に三部会が開かれるまでざっと150年ほどの断絶がありますから、やはり英仏の絶対王政期あたりまで、長く見積もってもイギリスでは政党政治が始まる頃まで、フランスではフランス革命まででしょう。

 

【解答例】

 身分制議会。議会は聖職者・貴族・都市代表などの諸身分から構成され、戦費徴収や臨時の課税など国内の同意が必要な時に召集された。イギリスでは、大憲章を守らないヘンリ3世に反抗したシモン=ド=モンフォール等貴族が開いた議会を契機に、エドワード1世期には聖職者・貴族・州、都市代表が集う模範議会が召集され、14世紀には貴族院と庶民院の原型が作られた。フランスでは、ボニファティウス8世と対立したフィリップ4世が聖職者・貴族・平民の三身分からなる三部会を開催したことを皮切りに、聖職者に対する課税、テンプル騎士団の廃止、戦費の徴収などが話し合われた。また、神聖ローマ帝国では帝国議会、イベリア半島では各国にコルテスが成立した。これらの身分制議会は国王に対する諮問機関として機能し、フランスにおける三部会の停止のように政治状況に左右されることも多かったが、市民層の台頭とともに王権に対抗する手段となることもあった。(400字)

 

 さて、本設問の解説を書くにあたって指摘しておいた方が良いことが何点かありましたので、以下に示しておきたいと思います。

 

(召集と招集)

 召集と招集のどっち使ったらいいのだろうと迷ってしまうという人ももしかするといらっしゃるのではないかなぁと思います。私も最初は「国会が召集なんだから召集でよくね?」と思っていたのですが、そもそもヨーロッパの身分制議会成立期の議会は「国会」なのか?とかいろいろ考えていくと「うーむ」という気分にもなります。とりあえず、手元にある電子辞書にあります『三省堂スーパー大辞林3.0』によりますと、

 

・召集 

①大勢の人を呼び出して集めること。

②国会を開会するため…集合することを命ずること。[地方議会の場合は招集と表記する]

③旧憲法下において…軍隊に編入するために呼び集めること。

・招集

①人を招き集めること。

②地方議会、社団法人の社員総会…などの合議体の構成員に対し集合を要求する行為。

 

となっておりますが、辞書によっては色々と違うことなども書いてあります。仕方ないので手元の教科書や参考書を見てみましたが、『世界史B』(東京書籍、平成31年度版)は「召集(模範議会について)」、『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年版)は「招集(模範議会について)」、または「召集(三部会について)」、『世界史用語集』(山川出版社、20018年度版)は「招集(模範議会と三部会について)」となっておりました。…もうどっちでもよくねw 原語日本語じゃないしw ただまぁ、日本語で地方議会と国会で招集と召集を使い分けているのは間違いのないところなので、模範議会とか三部会レベルであれば召集でいいんじゃないかなぁと思ったので、解答例はこちらで書いています。

 

(アナーニ事件)

 アナーニ事件については、これまでは「聖職者に対する課税をめぐり、教皇と対立して…」という説明がなされることがほとんどでしたが、最近このあたりの記述に変化が見られます。『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年版)のp.181には以下のように記されています。

 

[…ボニファティウスは教皇だけが聖職者への課税を許可できると主張し、国王の課税に従わないよう聖職者に求めた。それに対抗して、フィリップはフランスからの貴金属や貨幣の持ち出しを禁じた。収入が減少したためボニファティウスは譲歩し、国王は緊急の場合には聖職者に課税することが許された。1301年にフィリップは国王を中傷したパミエ司教を逮捕することでボニファティウスを挑発し、翌年には自らの立場を正当化し宣伝するために、聖職者・貴族・都市住民をパリに召集し、のちの三部会の起源となる集会を開催した。]

 

 一方、『世界史B』(東京書籍、平成31年度版)の方では[教皇と対立したフィリップ4世は、1302年に聖職者・貴族・平民の3身分代表からなる三部会を召集し、王権の基盤の強化に成功した。]p.161)となっており、『世界史用語集』(山川出版社、20018年度版)では[フィリップ4世が国内世論を味方につけるために招集したものが最初。](「三部会」)となっていて、聖職者への課税云々のところは示されていないんですね。どうも、当時の状況がやや入り組んでいるので「教皇と対立した国王が国内の支持を取り付けるために開いた」という部分だけ示せれば良い(それはそれで良いことだと思いますが)と、情報の取捨選択をしているところなのかもしれません。どこに示されていたかは忘れましたが、以前は「ウナム・サンクタム」(三部会に対抗して出された教皇権の至上性を主張したボニファティウス8世による教皇勅書)なども参考書等には載っていたように思いますが、必要以上に情報量を増やすとその整理に手間取りますから、今の記述の方がすっきりしていてよいのかもしれません。

 

 

2019 Ⅱ

 

【設問概要】

・第二次百年戦争について

 ①両国の対立の背景

 ②1763年までの戦いの経緯

 ③この争いの結末がその後の世界史に及ぼした影響

 について述べよ。

 

【設問分析】

 非常にすっきりとした内容の設問だと思います。英仏植民地争いは一橋以外の受験でも頻出の箇所ですから、王道路線ですね。かつて一橋が出していた問題からすると面白味がない設問ではありますが、知識量や情報の整理・処理能力を問う設問としては良い問題だと思いますし、受験生の方も比較的解きやすい問題で、勉強した量と身につけている内容がそのまま点数に反映される問題なのではないかと思います。

 第二次百年戦争は、基本的には17世紀末から19世紀初めにかけて展開された英仏間の植民地ならびにヨーロッパにおける争いの総称です。通常、その開始はファルツ継承戦争(1688-97)ならびにウィリアム王戦争(1689-1697)であり、ナポレオン戦争の終わり(1815)をもってこれが終結したと考えます。設問では1763年までとなっておりますので、七年戦争(1756-63)ならびにフレンチ=インディアン戦争(1755-63)までと考えられますが、問題は設問が要求している三つ目の「この争いの結末がその後の世界史に及ぼした影響」の中にある「この争い」をどのようにとらえるかです。「この争い」を第二次百年戦争ととれば、当然その後の影響は1815年以降でなくてはなりませんが、「この争い」を1763年にいたるまでの戦いととらえれば、その後の影響は1763年以降、つまり18世紀後半からを見ればよいことになります。

 ここでは、英による産業革命の進展やアメリカ独立革命、フランス革命などを影響として示す方が自然で、内容的にも豊かになると考えましたので、「この争い」は1763年までにいたるまでの戦いとして考えてみたいと思います。

 

(①両国の対立の背景)

 示しておきたいことはやはり両国の重商主義政策かと思います。争いの初期には宗教上の理由や両国の国防上の問題なども密接に関わってくる(※1)のですが、その後の植民地争いまで視野に入れた場合、やはり対立の背景は重商主義政策の展開、なかでも北米とインドをめぐる覇権争いに求めるべきでしょう。北米について、フランスは17世紀初めにカナダにケベック市を建設し、その後の進出の拠点としていくのに対し、イギリスは17世紀のはじめにヴァージニア植民地を建設するなどして進出を始めます。イギリスが東インド会社の活動により早くからインド各地に拠点(マドラス[1639]・ボンベイ[1661]・カルカッタ[1690]、ボンベイについては東インド会社ではなく、チャールズ1世と結婚したポルトガル王女カタリナの持参金として獲得)を建設していったのに対し、フランスがアジア方面に進出を本格化するのはコルベールによって東インド会社を復活させた1664年以降でした(※2)。フランスは、インドにシャンデルナゴル(1673)やポンディシェリ(1674)を建設してイギリスに対抗しようともくろみます。また、ラ=サールがミシシッピ川河口に到達してその流域一帯を国王ルイ14世にちなんでルイジアナと名付けました。北米とインドをめぐる両国の争いの芽はこの頃から育ち始めたと考えてよいでしょう。そして、かねてからルイ14世と争いを繰り広げていたプロテスタントのオランダ総督ウィレム3世がイギリス国王ウィリアム3世として即位した頃から英仏両国は北米・インドをめぐる長い戦いの中に入っていくことになります。

 

インド拠点
(青がイギリス拠点、赤がフランス拠点)

(スラトはイギリスが1608年に寄港して1612年に商館を立てた初期の拠点)

 

ルイジアナ
Wikipedia「フランス領ルイジアナ」より)

 

※1 イギリスはプロテスタント国家、フランスはカトリック国家ですが、両国の対立図式は実際にはそこまで単純ではありません。イギリスでは、1660年に王政復古があり、フランスに亡命していたチャールズ2世が国王となります。王政復古後の議会は王党派が中心ではありましたが、フランスの台頭やカトリック信仰に対しては厳しい目を向けていました。こうした中、次第に王室費の管理(要は、議会が承認しないと王様のお小遣いが出ない)によって議会が王権に一定の制限をかけるシステムが成立していきます。一方、国王チャールズ2世は隠れカトリック、その後継者とされた王弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)は思いっきりカトリックでした。ピューリタンに父親を殺された上に亡命中はフランスにお世話になっているわけですから無理からぬことではありますが。

   ですから、1660年から名誉革命までの英仏関係を、単純に新教・旧教国同士敵対していると考えるのは誤りです。そうでないとドーヴァーの密約(1670年)の説明がつきません。この密約は、お小遣い支払いを議会によってしぶられていたチャールズ2世が、ルイ14世からの資金援助を得る代わりに、当時ルイ14世が対立していたオランダとの戦いの際にはイギリスがフランス側に立って参戦するという内容の密約で、国王が独断で結んだものであり、外部には内緒でした。ただ、当時議会は重商主義政策の下、すでに二度の英蘭戦争を戦っておりましたので、議会はフランスが起こしたオランダ侵略戦争(167278)に乗っかって第3次英蘭戦争(167274)を起こします。ですが、戦局が思わしくないことや、フランスの脅威拡大に対して議会が危機感を高めたことから戦争を離脱します。その後、国王の親仏路線や公然たるカトリックの王弟ジェームズの後継問題に端を発したトーリとウィッグ(ホイッグ)の争いなど、国内の不満を抑える必要があったことなどから、王弟ジェームズの娘メアリ(後のメアリ2世)とオランダ総督ウィレム3世(後の英王ウィリアム3世)の政略結婚が進められました。(この時期に公職をイギリス国教徒に限定してカトリックへの寛容を否定する審査法[1673]、や臣民の理由なき逮捕・投獄を禁じた人身保護法[1679]などが成立しているのは、国王の親仏路線、後継問題、カトリックへの寛容問題などをめぐる議会と国王との対立を反映しています。)

   こうした背景がある中で、1688年から1689年にかけて名誉革命が起こったことは、英仏関係にとって大きな転機でした。それまで内心は親仏・親カトリックであった国王が追放され、新たに国王として招かれたのは長年フランスと争いを繰り広げてきた(南ネーデルラント継承戦争:1667-68、オランダ侵略戦争:1672-78)プロテスタント国家オランダの総督であったウィレム3世だったわけですから、英仏両国の対立は、「宗教問題」・「国防上の問題」・「植民地をめぐる対立」と決定的なものになります。世界史の教科書や参考書には出てきませんが、第二次英仏百年戦争が名誉革命と同じ時期に発生したことにはこのような背景があったわけです。

 

※2 フランス東インド会社は1604年にアンリ4世のもとで設立されていますが、当時のフランス東インド会社は有期限(15年)の特許状によって設立されたもので、オランダ東インド会社とは異なり株式会社の形態をとらず、資金力においても脆弱なものであったため、フランスにおいて東インド会社によるアジア交易を開拓しようとする努力は一時立ち消えになってしまいます。重商主義政策を採る財務総監コルベールによって再組織されて国営の貿易会社として再出発するのはルイ14世統治下の1664年でした。

 

(②1763年までの戦いの経緯)

 これについては、「ヨーロッパにおける戦争、北米における戦争、インドにおける戦争と、それぞれがどのように連動しているか」、「戦争の講和条約は何か」、「講和条件は何か」などを一度自分で表にしてみると良いでしょう。私自身も高校生の頃に全体像がつかめなくて教科書や史料集をひっくり返しながら表を書き上げました。

 

英仏百年戦争
 

上の表のうち、ピンクで示したところは超頻出箇所なので、知らないということがないようにしておいた方が良いと思います。各地の戦争に対する主要な講和条約とその内容については、ユトレヒト条約、ラシュタット条約、パリ条約を押さえておけば十分だとは思いますが、念のため一通り示しておきたいと思います。

 

・ライスワイク条約(1697

:ファルツ継承戦争の講和条約。戦争が痛み分け的な内容のため、細かい領土変更はあるものの世界史で記憶しなくてはならないような内容はそれほどありません。覚えておいた方が良いのは、サン=ドマング(後のハイチ)がフランス領となったこと、ウィリアム3世の英国王即位をルイ14世が認めたことくらいでしょう。

 

・ユトレヒト条約(1713

:スペイン継承戦争ならびにアン女王戦争の講和条約。締結国は仏・西に対して英・蘭・プロイセンなどで、内容としては圧倒的にイギリスに有利な内容での条約となります。本条約とその内容は受験生必須の内容で、1763年のパリ条約同様、必ず頭に入れておく方が良いものです。領土の割譲は覚えにくいのですが、フランスからはケベックとルイジアナを除く北米植民地をイギリスが獲得して北米への進出を本格化させ、スペインからは地中海への入り口をイギリスが確保したと考えておくと覚えやすいと思います。

 

1.フェリペ5世(ルイ14世孫)のスペイン王位継承承認(仏・西の合邦は禁止)

2.イギリスに、フランスからニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方割譲

3.イギリスに、スペインからジブラルタル・ミノルカ島割譲

4.イギリスに、スペインからアシエント(奴隷供給特権)の譲渡

5.プロイセンが王国に昇格

 

ユトレヒト条約
(ユトレヒト条約でフランスからイギリスに割譲)

 ユトレヒト条約2
(ユトレヒト条約でスペインからイギリスに割譲)

 

・ラシュタット条約(1714

:スペイン継承戦争の講和のうち、フランスと神聖ローマ帝国間で結ばれた講和条約。細かい内容はいくつかありますが、重要なのはスペイン=ハプスブルク家の多くの所領がオーストリア=ハプスブルク家に継承されることが確認された点。(スペインは継承戦争後にスペイン=ブルボン家となることが確認されたため。) その結果、オーストリアはスペイン領ネーデルラント、ミラノ公国、ナポリ王国、サルデーニャを獲得することとなります。

 

・アーヘンの和約(1748

:オーストリア継承戦争の講和条約。この条約で重要なのは何と言っても普墺間の関係で、シュレジェンが墺から普へと割譲、そしてマリア=テレジアによるハプスブルク家相続権の承認です。一方、英仏の植民地争いにおいては全体として痛み分けに終わったので、目立った内容はありません。

 

・パリ条約(1763

:フレンチ=インディアン戦争ならびにカーナティック戦争の講和条約で、英・仏・西の三国間で締結されました。七年戦争の講和条約は普・墺間で締結されたフベルトゥスブルク条約です。(世界史では、パリ条約が有名なものだけでも三つ出てくるので注意が必要です。[残り二つは1783年のアメリカ独立戦争の講和条約と1856年のクリミア戦争の講和条約]

 1763年のパリ条約は、北米・インドにおけるイギリスの優越を決定づけた条約として非常に重要な条約です。

 

1.フランスからイギリスへケベックなどを割譲(イギリスがカナダを獲得)

2.フランスからイギリスへミシシッピ以東のルイジアナを割譲

3.フランスからスペインへミシシッピ以西のルイジアナを割譲(フランスが北米撤退)

4.スペインからイギリスへフロリダを割譲

5.インドにおけるイギリスの優越の確立

6.その他、西インド諸島のドミニカ、アフリカ西岸のセネガルなどが仏から英へ

 

 戦いの経緯については以上になりますが、この争いの背景が重商主義政策の展開を背景とした植民地争いですから、その植民地争いの結果につながるような重要な戦い・講和条約とその内容をピックアップしてまとめていくのが良いと思います。最終的には「北米・インドともにイギリスが植民地争いに勝利し、イギリスによる第一次植民地帝国の完成を見た」というところでまとまるかと思います。

 

(③この争いの結末がその後の世界史に及ぼした影響)

上記に示しました通り、「北米・インドともにイギリスが植民地争いに勝利し、イギリスによる第一次植民地帝国の完成を見た」ことが世界史に及ぼした重要な意義の一つであることは間違いありません。ですが、「植民地争いの結果、イギリスが勝って、広大な植民地を獲得した」が結論ではあまりにも面白くありません。「世界史」に及ぼした意義というのですから、単純な戦争の帰結以外にも、長年にわたる英仏の争いがその後の歴史にどのような影響を及ぼしたのかについて立ち止まって考えてみる必要があると思います。

 

1.イギリスによる植民地帝国形成

1763年のパリ条約が締結されるまでに、イギリスは北米・インドを中心に広大な植民地を確保することに成功します。これらのうち、北米では13植民地が独立戦争の末に1783年のパリ条約で独立を果たしますが、合衆国以外の北米植民地は依然として残りました。特にインドはイギリスにとって重要な植民地となっていきます。

 

2.産業革命の進展

:広大な海外植民地は、イギリスに安価な原材料の供給地と製品の市場、のちには投資の場をもたらすこととなりました。これにより、イギリスは経済発展に必要な条件を確保し、すでに国内で始められていた経済上・技術上の創意工夫を支えるに足る資本が供給されることとなり、18世紀後半には産業革命が急速に進展していきます。

 

3.アメリカ合衆国の独立

:七年戦争と並行して北米で展開されたフレンチ=インディアン戦争の結果、フランスは北米大陸から撤兵し、イギリスにとっての脅威は取り除かれました。これにより、イギリスは従来どちらかと言えば放任してきた13植民地への統制を強め、重商主義政策と重税策を展開し始めます。実は、七年戦争以前にもイギリスは13植民地の経済活動を制限したり課税したりする諸法を制定していました。(羊毛品法[1699]・帽子法[1732]・糖蜜法[1733]・鉄法[1750]など)

 ですが、これらの法は制定されても運用面ではかなりのザル法だったと言われています。つまり、これらの法律に反しての輸出入は原則禁止なのですが‛密輸‘する者たちがたくさんいるんですね。そしてまた、取り締まりをする側もあまり本腰を入れてこれを追求しない。七年戦争以前は、13植民地を取り囲むようにしてフランスの植民地(ヌーベル=フランス)がありましたので、13植民地を敵に回すことは本国イギリスとしてもはばかられることであったわけです。

 ところが、七年戦争(フレンチ=インディアン戦争)が終わってフランスの脅威がなくなれば、植民地に遠慮する必要はありません。それまでの法についても厳格な取り締まりが始まります。‛密輸‘を当然の権利であって、自分たちは「善良な商人」であり、‛密輸業者’ではないと感じていた植民地の人々は、それまでと同じ行動をしているにも関わらず取り締まりの対象とされていきます。このあたりの関係は駐車違反とか、軽微な法令違反に何だか近い感覚がありますね。人のいない田舎道で車来ないから赤信号をヒョイと渡ったら「ピピピピピー!」で、「2万円以下の罰金または科料だ―!」みたいな。これを毎度やられたら「エー!」ってなるのは分かる気がしなくもないです。

 さらに、イギリス本国からすれば、「13植民地をフランスの魔の手から守ってやったのはおれたちだ」という意識がありますから、「その戦費を13植民地が負担するのは当然だろう」という理屈になります。その結果、印紙法[1765]・タウンゼンド諸法[1767:植民地からの税収増や貿易統制に関して財務大臣タウンゼンドによって定められた諸法]・茶法[1773]といった諸法令が制定されていきます。これがアメリカ独立へとつながる契機となったことは有名です。つまり、「1763年までの英仏植民地争い」の結果は、「フランス勢力駆逐→植民地への本国の統制強化→アメリカ独立革命」という形でアメリカ合衆国の独立を招いたということは十分に可能です。

 

4.フランス革命(アンシャン=レジームの崩壊)

:「1763年までの争い」の影響というにはやや遠いかもしれませんが、17世紀末から18世紀半ばにかけてのイギリスとの植民地争いをはじめとする一連の戦争は、フランスの財政を傾けていきます。イギリスが徴税システムの刷新とイングランド銀行設立ならびに国債の発行によって、巨額の資金調達を行うことが可能となった(財政=軍事国家)のに対し、フランスの側は旧態依然とした徴税システムの中、富の集中した特権身分からは税を徴収することができませんでした。戦争のたびに平民に重税を課すことにも限界が来ており、オーストリア継承戦争・七年戦争を戦ったルイ15世の頃にフランスの国家財政は大きく傾いていきます。また、七年戦争とその講和条約であるパリ条約の結果、広大な植民地をイギリスに奪われたことも、フランスの財政悪化に拍車をかけることとなりました。さらに、その後のアメリカ独立革命に際して、ルイ16世はアメリカ合衆国側で参戦することを決定しますが、この戦費は悪化していたフランス財政にとどめを刺すこととなり、特権身分への課税という改革は、三部会の召集とフランス革命へとつながっていきます。

 

 「この争い」は英仏間の第二次百年戦争を指しますから、同時期に進行していた戦争の帰結とはいえ、プロイセンのシュレジェン獲得や、ドイツ地域におけるプロイセンの台頭などは特に示す必要はないと思います。焦点はあくまでも英仏間の戦争にあると考えてよいでしょう。

 

【解答例】

 仏王ルイ14世と蘭総督ウィレム3世は宗教や国防をめぐり争ってきたが、ウィレムが名誉革命で英王に即位すると次第に重商主義政策による植民地をめぐる対立も鮮明となり、ファルツ継承戦争がウィリアム王戦争として北米へ拡大するなど、ヨーロッパの戦いは北米やインドをめぐる戦争へ発展した。スペイン継承戦争と北米のアン女王戦争の講和条約であるユトレヒト条約で英は仏からハドソン湾地方などの北米諸地域を、西からジブラルタルなど地中海への入り口を確保し、七年戦争に際しては北米のフレンチ=インディアン戦争やインドのプラッシーの戦いに勝利して、パリ条約によりミシシッピ以東のルイジアナを奪って仏勢力を北米から駆逐し、インドにおける優位を確定させた。広大な植民地帝国を築き上げた英では産業革命が進展したが、戦費補填のため重税を課したことで北米13植民地は独立した。また、多大な戦費負担と財政の悪化は仏でも革命を招く一因となった。(400字)

 

400字だとこんなものでしょうかねぇ。もちろん、全ての戦争や獲得した植民地をひたすら列挙するというやり方もあるとは思うのですが、美しくないんですよね。採点基準にもよるのですが、仮に採点基準が「ユトレヒト条約で英が仏から獲得した土地で1ポイント」とかなっていると「ニューファンドランド、アカディア、ハドソン湾地方」って書いても1ポイントですし。「ファルツ継承戦争と連動した北米のウィリアム墺戦争を戦った後に起こったスペイン継承戦争と連動した北米のアン女王戦争に勝利した英は、ユトレヒト条約で仏からニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方を、西からジブラルタル・ミノルカ島とアシエント特権を獲得し…」なんて書くと「うわーっ(汗)」っていう感じになりませんかね? 「戦いの経緯」を書け、となっているわけですから、もう少しコンパクトにまとめてもいいと思うんですよね。ただ、あまりコンパクトにまとめ過ぎてしまうと「英は…北米に進出し…北米の支配権を確立し…」みたいにえらく漠然とした内容や同じ内容の繰り返しになって、肝心の歴史的用語や事象がおろそかになってしまって点数が伸びなくなってしまったりしますし、バランスが難しいところですね。

 

2019 Ⅲ

 

【設問概要】

・空欄  ①  に入る語句を記せ。(問1)

「…1949年には空前の大失敗。つまりソ連と  ①  は最も卑劣であくどい手段と、最も残暴な武力をもって中国大陸を占拠したのである。」

・文章中で対立する両勢力の関係についてまとめよ。また、1949年に至る両勢力の関係の変遷についてまとめよ。(問2)

 

【設問分析】

 史料を読解する問題ではありますが、その読み取りは比較的平易です。まず、引用されている史料が蒋経国の『わが父を語る』となっていること。蒋経国は蒋介石の後継者で、台湾における経済建設への大規模投資と、民主化への変化を打ち出すことになる指導者ですから、この文章が中国国民党(または中華民国)の立場から書かれていることは明らかです。このあたりのことは、蒋経国が孫文を「先生」や「国父」と呼んでいることからも読み取れます。その立場から空欄  ①  がソ連とともに「最も卑劣であくどい手段と、最も残暴な武力をもって中国大陸を占拠した」というわけですから、空欄  ①  に入るのは中国共産党または中華人民共和国であることが分かりますので、問1についてはそれほど難しいものではありません。問2では、中国国民党(または中華民国)と中国共産党(または中華人民共和国)の関係と1949年、つまり国民党が中国大陸を追われて台湾に逃れ、大陸で中華人民共和国が成立した年、にいたるまでの両勢力の関係の「変遷」についてまとめよと要求していますから、いわゆる「国共合作」について述べるべきであることは明白です。ですから、「両党の結成→二度にわたる国共合作→国共内戦と中華民国・中華人民共和国の成立」というのが解答に書くべき内容となります。内容的にも基本的な内容ですし、一橋の大問3で清朝末期以降の中国史・朝鮮史が出題されることは受験生にとって想定の範囲内でしょうから、この問題を落としてしまうようだとかなりのダメージになったのではないかと思います。しっかりと拾っておきたい設問です。

 

【解答例】

 五・四運動に刺激を受けて大衆政党中国国民党を結成した孫文は、カラハン宣言やヨッフェとの会談、コミンテルンの下で中国共産党を結成した陳独秀との接触などを通して「連ソ・容共・扶助工農」の新三民主義を掲げて第一次国共合作を成立させ、国民党への共産党員の加入を認め、軍閥勢力打倒による中国統一と帝国主義列強への対抗を目指した。しかし孫文が死ぬと浙江財閥とつながる蒋介石は国民党左派ならびに共産党との対立を深め、上海クーデタでこれらを弾圧したため連携は瓦解した。蒋介石は共産党への攻撃を続けたが、毛沢東は長征中に八・一宣言で抗日民族統一戦線の結成を呼び掛け、呼応した張学良は西安事件で蒋介石の説得にあたった。盧溝橋事件を契機に日中戦争が起こると蒋介石は第二次国共合作を決断して共産党と共闘した。しかし次第に両党は対立を深め、戦後の国共内戦に敗れた国民党は台湾に逃れ、共産党は中国本土で中華人民共和国を建国した。(400字)

 

※カラハン宣言

:ソヴィエト政権の外務人民委員であったカラハンが、帝政ロシア時代に獲得した利権の無償返還や秘密条約の破棄を約束した宣言で、1919年と1920年の二度にわたり出された。

 

※ヨッフェ

:ソヴィエト政権の全権代表として中国共産党の指導に当たり、1923年には孫文と会談してカラハン宣言の実施と中国の国民革命実現に向けての援助を約束した人物。

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