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2020年09月

今回は、一橋2012年のⅠ、ナントの勅令(王令)公布をめぐる問題について解説していきたいと思います。一橋では頻出の宗教と国家の関係を答えさせる問題です。この前年の2011年にもフス戦争をめぐる問題が出ましたが、フス戦争と比べるとナントの王令が公布されるまでの経緯、つまりユグノー戦争の経過について書くことは当時の受験生にとってもそう難しくない内容だったのではないかと思います。一方、そのディテールということになると細かい内容まで書ける人と書けない人で多少の差がつく問題だったのではないでしょうか。概要についてはみんながよく知っている内容である反面、情報の総量としては世界史の教科書や参考書に記載されている内容はそれほど多くはありません。

ためしに、現在の『詳説世界史B』(山川)と『世界史B』(東京書籍)の2016年版でユグノー戦争の箇所を見てみましたが、いわゆる3アンリの対立(ギーズ公アンリ、アンリ3世、ナヴァル王アンリ[アンリ4])などについては一切記述がなく、新旧両派の人物として名前が挙がっていたのは国王シャルル9世、摂政カトリーヌ=ド=メディシスとアンリ4世くらいのものでした。

一方、最新の『詳説世界史研究』(山川、2017年版)の方にはさすがにかなり詳しく載っています。シャルル9世やカトリーヌ=ド=メディシスはもちろん、ギーズ公フランソワとアンリの父子、コンデ公ルイ(アンリ4世のおじ)、アンリ3世(シャルル9世の弟、ヴァロワ朝最後の王)などの名前や、ユグノー戦争中の彼らの行動についても書かれていますので、ここに書いてある知識があるとかなり文章を作るのは楽になったのではないかと思います。これらはそこまで特別な知識というわけではなく、少なくとも高校生の頃の私は『詳説世界史研究』をベースに勉強していたこともあってコンデ公ルイ以外の名前は当時から知っていたというか、覚えておりました。また、ここには載っておりませんが、当時は確か載っていたコリニー提督(プロテスタント側の人物としてサン=バルテルミの虐殺で殺されてしまった人)も覚えてましたね。ホンマに、世界史だけはよく頑張っておりました。もうちょっと別の科目に力を振り分ければよかったのに…。

それでは、試験当時の2012年はどうだったのかなと思いましたので、旧版の『詳説世界史研究』(山川、2008年版)を確認してみましたところ、以下のような文章になっていました。

 

 「…ユグノーは、人口のうえでは少数であったが、王権による中央集権化に対抗する中小貴族、指導者としてブルボン家のナヴァル王アンリなど有力貴族も含み、社会的・政治的に無視できない勢力となった。カトリックの指導者である有力な貴族にはギーズ公がいて、ユグノーに強硬な姿勢をとった。ギーズ公は、国民の多数派のカトリック教徒に大きな影響力をもっただけに、王室にとっては警戒すべき存在であった。シャルル9世が幼少で即位して以来、宮廷ではメディチ家出身の母后カトリーヌ=ド=メディシスが実権を握っていたが、彼女は新旧両教徒を対立させたバランスのうえに王権の伸長をはかろうとした。

 1562年、新旧教派の流血事件を契機にユグノー戦争と呼ばれる宗教内乱が始まった。ギーズ公ら旧教派による新教派の大量虐殺がおこなわれたことで有名な1572年のサン=バルテルミの虐殺では、コリニー提督をはじめ、多数のユグノーが犠牲になった。

 この事件に関する死者は全国で3000人をこえたといわれる。この事件は、カトリーヌ=ド=メディシスの謀略とされ、対立をいっそう激化させた。旧教派はローマ教皇・スペインなどと結び、ユグノーはイギリス・スイス・ドイツ新教諸侯の支持をえ、国外からの影響も加わった。国王アンリ3世によるギーズ公の暗殺がおこなわれ、今度はそのアンリ3世が暗殺されるなどの混乱が続いた。

 アンリ3世が暗殺されてヴァロア朝が絶えると、1589年、ナヴァル王であったブルボン家のアンリ4世がフランス国王位に登った。プロテスタントであったアンリ4世は、即位に際してカトリックに改宗し、その一方、1598年にはナントの王令(勅令)を発して、ユグノーにも信仰の自由と市民権を認める政策をとった。こうして、内乱はようやく収拾され、フランスの王権は急速に強化された。」

(『詳説世界史研究』山川出版社、2016[2008年版第11]pp.306-307、人名や事件名の英語訳並びに人物の生没年、在位年等については省略)

 

 …もうこれが答えでよくないですかw? つまり、当時の受験生にとっても勉強の仕方によってはこちらの設問は十分に対処しうる設問であったことは間違いありません。(書いてあるのだから。)もちろん、これだけの情報を用意できない場合には、フランスでユグノーが拡大する前段階としてのドイツならびにスイスの宗教改革の詳細を書くという手もあるにはあると思います。(実際、私の解答例でもドイツ、スイスの宗教改革については言及しました。少なくともフランスでユグノー[カルヴァン派]が広がった背景としては示す必要があると思います。) ただ…、設問を見る限りどこにも「ヨーロッパの」政治状況及び宗教問題に焦点をあてろ、とは書いていませんし、設問の「当時の」が指す内容は「16世紀後半のフランスで30年にわたって続いていた長い戦乱」であることは明らかですから、やはりドイツ、スイスの内容でおなか一杯にしてしまう解答の書き方はどちらかといえば逃げの解答(悪いとは言いません。書けないときにはそうした逃げや不時着大切という)ではないかなと思います。


 
一橋2012 Ⅰ


【1、設問確認】

 ・ナント勅令(王令)[設問原文ママ]公布に至るまでの経緯と目的を説明せよ。

 ・当時の政治状況および宗教問題に焦点を当てよ。

 

:非常にすっきりとした要求です。リード文も短く、ここにいう「当時の」が「16世紀後半のフランスで30年にわたって続いていた長い戦乱」の時期のという意味であることは明らかですので、設問を読みかえると「ユグノー戦争の背景と経過を当時の政治状況と宗教問題に焦点をあてて説明し、ナントの王令公布の目的を合わせて説明せよ」ということになります。

 

【2、ナント勅令公布に至るまでの経緯】

 それでは、16世紀後半のフランスの政治状況、宗教問題に注目しつつ、ナント勅令(王令)が出されるまでの経緯についてポイントは何かを確認していきましょう。

 

①ドイツ、スイスの宗教改革

:ルターによる宗教改革開始と、カルヴァンによるスイス宗教改革におけるカルヴァン派の広がりについては前提条件として示しておいた方が良いと思います。また、カルヴァンの示した予定説と蓄財の肯定という教義はヨーロッパの北西部、商工業者を中心に支持者を急拡大していくことになります。(もっとも、フランスではむしろカルヴァン派[ユグノー]はフランス南部からフランス西部にかけて多く存在していました。)

Huguenot_in_17c
Wikipedia「ユグノー」より)

 

②フランスにおけるカルヴァン派(ユグノー)の拡大

 

③カトリックとユグノーの対立

:フランスではすでに16世紀の前半からユグノー人口が増え始めておりましたが、16世紀の中頃になるとブルボン家やコンデ家などの大貴族にユグノーが増えてきます。これは、当時彼らの政敵であったギーズ家に対抗するという政治的な事情からとも見られますが、こうした貴族間対立が生じ始めていたころ、アンリ2世がイタリア戦争終結(カトー=カンブレジ条約)に関連する祝宴での馬上試合で事故死してしまいます。(1559年) その後、長男フランソワがフランソワ2世として即位しますが、病弱であった彼はわずか即位後わずか1年、16歳で亡くなります。残されたアンリ2世妃、フランソワ2世母のカトリーヌ=ド=メディシスは幼少のシャルル9世を抱えて、フランスの大貴族がひしめく中難しいかじ取りを迫られます。摂政となった彼女が選んだのは、新旧両派が相争う中で調停者としてふるまい、両派に影響力を行使することで王室の権力を維持するという方法でしたが、これにより新教旧教両派の争いはさらに激しさを増していきます。

 

④ユグノー戦争の勃発(ヴァシーの虐殺、1562

:カトリックとユグノーが対立する中、カトリーヌ=ド=メディシスはユグノーに一定の条件下での信仰と礼拝を許可します。ところが、この条件を破る形でユグノーが礼拝していたことに憤慨したカトリック派の首領、ギーズ公フランソワはフランス北東部の町ヴァシーで多数のユグノーを虐殺しました。このヴァシーの虐殺に驚いたユグノー側の大貴族コンデ公ルイはカトリック側との戦端を開きます。これがユグノー戦争の開始です。

 

⑤サン=バルテルミの虐殺(1572

:その後、ギーズ公フランソワの暗殺(1563)やコンデ公ルイの戦死(1569)など、カトリック・ユグノー両派ともに多くの犠牲を出しつつ、ユグノー戦争は断続的に続いていきます。こうした中、カトリーヌ=ド=メディシスは国内をまとめるためにユグノーとの和解を模索し、自分の娘であった王女マルグリットとユグノーの盟主であったブルボン家のナヴァル王アンリとの結婚にこぎつけます。ところが、その婚礼祝いのために集まったカトリック・ユグノー両派の間で対立が生じ、最終的にはカトリック側(ギーズ公アンリ)によるユグノーの大量虐殺が発生します。(きっかけはユグノー派のコリニー提督暗殺未遂事件でした。この事件を聞いたカトリック側は、ユグノーからの報復を恐れて先手をとってコリニー提督を殺害してしまい、そこから大虐殺へ発展します。)これがサン=バルテルミの虐殺です。

san
Wikipedia「サン=バルテルミの虐殺」)

 

この虐殺事件により、新旧両派の対立は解決が困難な状態となり、内戦が泥沼化していきます。また、ユグノーの側には周辺のプロテスタント勢力(ドイツのルター派、イングランドなど)が肩入れし、カトリックの側にはカトリック勢力(特にスペインなど)が支援したことで国外勢力の動向も一定の影響を与えました。

 

⑥「3アンリ」の対立

:サン=バルテルミの虐殺以降、フランスは病死したシャルル9世に代わって即位した弟のアンリ3世(ヴァロワ家)、カトリックの指導者のギーズ公アンリ、ユグノーの指導者のナヴァル王アンリ(後のアンリ4世、ブルボン家)による三すくみの状態が続いていきます。しかし、ギーズ家の勢力拡大を嫌ったアンリ3世はギーズ公アンリを暗殺します。(1588年) 

Guise-Henri
Wikipedia「アンリ1世(ギーズ公)」)

 

どうでもいいことではあるのですが、ギーズ公の肖像画はどれ見ても意外にイケメンなんですよね…。神経質そうな顔はしてますが。アンリ4世がいかにもおっさん風で、日本史で言うと徳川家康風味なのと比べるとずいぶん違います。

Henry_IV
Wikipedia「アンリ4世(フランス王)」)

 

脱線してしまいましたが、このこととユグノー勢力との協調関係に入ったことがカトリック勢力から激しく糾弾され、アンリ3世自身もドミニコ会修道士ジャック=クレマンによって殺害されてしまいました。これにより、ヴァロワ朝は断絶しますが、死の床についたアンリ3世はナヴァル王アンリを呼び、後事を託しました。これにより、ブルボン家のナヴァル王アンリはアンリ4世としてブルボン朝を創始します。

 

⑦ナヴァル王アンリの国王即位(アンリ4世、ブルボン朝の開始)とカトリック改宗

:アンリ3世の遺言により国王に即したアンリ4世でしたが、アンリ3世自身がカトリックから敵視されていたこともあり、フランスの多数派であるカトリックはアンリ4世を国王として承認しませんでした。また、カトリックの側にはローマ教皇やスペインの支援などがなされていました。特に、カトリックが圧倒的多数であったパリは、新国王の入城を拒み続けていました。このような状況を見たアンリ4世は、カトリックに改宗します。(1593年)これを好感したフランス人たちは、長く続く戦争に疲弊していたこともあってアンリ4世の改宗を歓迎します。そしてアンリ4世は翌年ついにパリに入城します。その後、アンリ4世はスペインと結んで抵抗する残党を平定します。

 

⑧ナントの勅令(1598

:国内を安定化させることに成功したアンリ4世は、1598年にナントの勅令(王令)を公布し、一定の条件の下でユグノーに個人単位の信仰の自由を与えました。(ユグノーはカトリック教会への十分の一税の支払いが必要) また、あくまでもカトリックがフランスの国家的宗教であることを明示したため、これ以降フランス国内では目立った宗教対立は起こらず、ユグノー戦争は終結します。

 

    ナントの勅令については、本設問とは関係がありません(答えに書く必要は全くない)が1685年のルイ14世によるフォンテーヌブローの勅令(ナントの勅令廃止)と、商工業者の亡命までセットでおさえておくとよいと思います。

 

【3、ナント勅令の目的】

 ①国内の融和と内戦の終結

 ②商工業者の懐柔

:ナント勅令の目的としては、上記2点ほどをおさえておけばよいと思います。

 

【4、政治状況および宗教問題】

:上記の【2、ナント勅令公布に至るまでの経緯】をご覧いただければおおむねお分かりになるかと思いますが、ポイントだけ下にまとめてみたいと思います。

 

(政治)

 ・フランスはイタリア戦争で神聖ローマ皇帝と対立→ルター派諸侯との結びつき

 ・カトリーヌ=ド=メディシスのユグノーに対する融和姿勢と、ギーズ家に対する警戒

 ・王家、カトリック(ギーズ家)、ユグノー(ナヴァル王アンリ)の三すくみに

 ・周辺のプロテスタント勢力(ドイツのルター派、イングランドなど)やカトリック勢力(スペインなど)の介入 

 

(宗教)

 ・宗教改革の影響を受けたユグノー勢力の拡大

・カトリックvsユグノー(多数派はカトリック)

 ・ブルボン家、コンデ家の改宗(改革派に)

 ・1562年 ギーズ公フランソワによるユグノー虐殺(ヴァシー虐殺)

  →ユグノーのコンデ公ルイ(ブルボン家)による軍事行動

 ・サン=バルテルミの虐殺(1572年)

 ・内乱終結後、ガリカニスムの傾向強まる

 

【解答例】

 ルターの影響を受けてカルヴァンが予定説と蓄財の肯定を説くと、商工業者が共感し北西欧を中心にカルヴァン派の勢力が拡大した。フランスでもユグノーと呼ばれるカルヴァン派が改革派を形成した。フランスの多数派はカトリックで大貴族ギーズ家がその中心であったが、神聖ローマ皇帝と対立するフランスでは改革派への理解もあり、ギーズ家の政敵ブルボン家やコンデ家が改宗すると対立が深まりユグノー戦争へ発展した。カトリーヌ=ド=メディシスは調停を試みたがサン=バルテルミの虐殺が発生し失敗した。ギーズ公アンリと国王アンリ3世が相次いで暗殺されると、ユグノーのナヴァル王がアンリ4世として即位し、ヴァロワ朝に代わりブルボン朝を開いたが、パリ市やスペインに支援された旧教派がユグノーの新王を認めず抵抗したため、アンリ4世はカトリックに改宗し、さらに両派の融和を狙ってユグノーに個人単位の信仰の自由を与えるナントの勅令を発布した。(400字)

 

 解答例の方はできるだけ細かい知識を並べ立てるよりも、当時の政治状況や宗教問題、ユグノー戦争の展開、周辺諸国との関係などがつかめるような文章にしてみました。書き方次第では教科書レベルの知識でも十分に及第点の解答を書くことはできるとおもいますので、「知らない」で終わるのではなく、「16世紀後半の新旧両派の対立となるとフランス以外との関係はどうなるかな…」など頭を使ってみるのもアリなのではないかと思います。

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 しばらくさぼっておりました一橋の問題解説を進めていきたいと思います。ぶっちゃけ、一橋の過去問は何度も何度も解いておりまして、一応解説も昔作ったもののストックがあるにはあるのですが、過去問というのは面白いもので、時間がたってもう一度解いててみようかなと思うとまた違った見方ができたりしていくつかの解答が出来上がったりします。特に古い問題の場合には、最近の歴史学の研究動向の変化や新説などの登場によって、当時正解であった解答が現在も最適解かというと、必ずしもそうでなかったりするのですね。

そんなわけで、執筆するとなると再度検討して書き直すことになるのですが、最近少々忙しいもので、一度に同じ年度の大問1~大問3の解説を執筆しようとすると「いつまでたってもやらない(めんどくさがりなもので)」ことになります。昔オカンに「あんた、いつになったら勉強するの!」と怒鳴られた中高時代から全く変わっておりません。まぁ、そんなわけですので、しばらくの間は時間のある時に大問ごとに解説を執筆していきたいと思います。

 

一橋2013 Ⅰ

 

【1、設問確認】

①中世ドイツの東方植民の経緯を述べよ。

 (送り出した地域の当時の社会状況をふまえよ)

②植民を受け入れた地域が近代にいたるまでのヨーロッパ世界で果たした経済史的意義について論ぜよ。(その地域の社会状況の変化に言及せよ)

 

:設問の要求は非常にシンプルです。要は、東方植民の経緯とエルベ川以東の地域が世界史上果たした経済史的意義について書きなさい、ということです。

 

【2、東方植民の経緯】

:それではまず、東方植民の経緯について考えてみましょう。東方植民とは、11世紀~14世紀にかけて展開されたエルベ川以東を中心とするヨーロッパ北東部へのドイツ人の植民活動のことです。この経緯を書かなくてはならないのですが、「経緯」とは物事の筋道やいきさつ、顛末のことですから、通常は「どのようにして始まり、どのようにして展開し、最終的にどうなったか」を示すことになります。これを東方植民について示すのであればおおよそ以下のような内容になると思います。

 

ドイツの諸侯・騎士・修道会を中心にエルベ川以東のスラヴ人地域に植民を開始

(シュタウフェン朝時代が中心)

②シトー修道会などの修道会の開墾運動

③ドイツ騎士団の活動と布教

:ポーランドの招聘による。バルト海沿岸に進出、周辺のスラヴ系住民に布教

④この過程で新たなドイツ諸侯領が形成される

Ex.) ブランデンブルク辺境伯領、ドイツ騎士団領

以上のような内容を、「送り出した地域の当時の社会状況」と結びつけるような形で示す必要があるわけです。

 

<ドイツ騎士団領ならびにプロイセンについて>

余談ですが、ドイツ騎士団領とプロイセンの関係については受験生には見えづらい部分になりますので追加で説明しておきます。(ただし、本設問では送り出した地域、受け入れた地域双方の「社会状況」を踏まえた経緯説明を求められておりますので、政治史の一環としてのドイツ騎士団領形成は設問解答には一切含む必要はありません。もっとも、「経緯について述べよ」の部分には「社会状況を踏まえて」とはありますが、「社会状況のみを述べよ」とは書いてありませんので、物事の顛末としてのドイツ諸侯領形成を示すこと自体は問題ないと思います。(後に示しますが、諸侯領の形成自体がエルベ川以東の社会状況変化にかかわってくる部分もありますので、その限りにおいては問題ないということです。政治的な出来事としてのみ示すのはイケてないとおもいます。少なくとも、加点はされないのではないでしょうか。)

さて、ドイツ騎士団領は同地域のプロテスタント勢力が拡大するにしたがってカトリックの騎士修道会としての体裁を保つことが困難となりました。そのため、当時の騎士団総長アルブレヒト=フォン=ブランデンブルク=アンスバッハは騎士団総長を辞し、その配下の騎士たちとともにポーランド王からの授封を受けて世俗の領主となり、プロイセン公となりました(1525)。これにより、それまで騎士修道会領であったドイツ騎士団領はプロイセン公国という世俗君主領となります。

その後、17世紀の初めに初代プロイセン公アルブレヒトの男系血統が途絶えると、アルブレヒトの孫娘であったアンナの夫であるブランデンブルク選帝侯ヨハン=ジギスムントがプロイセン公国を継承することが認められ、この時点でブランデンブルク選帝侯国とプロイセン公国は同君連合となりました(1618、ブランデンブルク=プロイセンの成立)。ですが、この段階ではブランデンブルク選帝侯国は神聖ローマ帝国に属し、プロイセン公国はポーランド王の封土でした。

このような状況を変化させたのがフリードリヒ=ヴィルヘルム大選帝侯(位16401688です。フリードリヒ=ヴィルヘルムは世界史の教科書や参考書にも登場しますが、ブランデンブルク=プロイセンの時期の君主であり、後に成立するプロイセン王国の君主としては数えられないので注意が必要です。(ご先祖ではありますが。)2020年の早稲田の政経の問題にも登場していましたね。彼の時代に、ポーランドとスウェーデン間の争いから、プロイセン公国は一時スウェーデン王の封臣の地位に置かれます。ですが、その後スウェーデンへの軍事奉仕を提供する中で存在感を増したフリードリヒ=ヴィルヘルムは、当時のスウェーデン王カール10世に独立国としての地位を認めさせることに成功します(1656、ラビアウ条約)。さらに、その後同様の内容をポーランドにも承認させたプロイセン公国はポーランドの臣下でもスウェーデンの臣下でもない、独立した地歩を築くことに成功しました。フリードリヒ=ヴィルヘルムの子であるフリードリヒの時代にスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国を支援する見返りとして、当時の神聖ローマ皇帝レオポルト1世はフリードリヒに対してプロイセンにおける王号の使用を認めます(1701)。この時点で、高校世界史では「プロイセン王国」が成立したと考え、ザクセン選帝侯にしてプロイセン公であったフリードリヒは、プロイセン王フリードリヒ1世(位17011713)として即位します。彼の息子がプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位17131740:兵隊王、軍隊王)であり、孫が啓蒙専制君主のフリードリヒ2世(位:17401786)となります。

 

【3、当時の西欧、ドイツ(送り出した地域)の社会状況】

:さて、続いて東方植民を「送り出した地域」の社会状況についてです。問いの冒頭で「中世ドイツの」と言っているにもかかわらず、わざわざ「送り出した地域」という表現を用いているところに注目したいと思います。もし単純に送り出した地域をドイツとするのであれば、わざわざこうした表現はとらないのではないでしょうか。教科書的にも、東方植民は十字軍やレコンキスタ、東方貿易などと同様に西欧の膨張の一つとしてとらえられていますから、ここはやはり送り出した地域はドイツのみに限定するのではなく西ヨーロッパ世界全体としてとらえたいところかと思います。ただ、一方でよりミクロな視点、ドイツの実情に即した視点なども必要でしょう。以上を踏まえて当時の西欧・ドイツの社会状況をまとめると以下のようにまとめられるかと思います。

 

① 西欧の膨張(11c~ 十字軍、レコンキスタ、東方貿易etc.

(背景)

・農業技術の進歩(三圃制、重量有輪犂、繋駕法や水車の改良など)

・気候の温暖化

生産力の向上と人口増加

・宗教的な熱情の高まりと巡礼熱

Ex.)ドイツ騎士団、シトー修道会と大開墾   

② 人口増と西欧の膨張にともなう植民運動の発生

・人口増(困窮)、賦役貢納厳しい

土地の相続から排除された農民の子弟を中心に植民運動が発生

③ 領国開発を目指す諸侯による植民活動支援

・各地の諸侯が植民請負人に委託して入植者を招致

→入植者には開墾後の一定期間貢租を免除するなどの植民法が適用

 

 ほとんどは教科書や参考書に書いてある基本的な事柄ですから、全てをおさえられないにしてもある程度のレベルでまとめることは可能だと思います。

 

【4、エルベ川以東(受け入れた側)の社会状況の変化】

 つづいて、エルベ川以東の社会状況の変化についてまとめてみましょう。その前に、そもそもエルベ川とはどのように流れていて、「エルベ川以東」とはどのあたりのことを指すのか正確に把握しておきましょう。

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 正確に、と言っておきながらだいぶ大雑把な線ですみません。ただ、世界史では正確な地図よりも位置関係を把握することが大切です。よく、道に迷わない人は地図を見るのではなく、目印になるものを把握するのだと言われます。道順や形を覚えるのではなく、「目的地に向かうには郵便局のある角を右にまがる」という把握の仕方ですね。世界史は地図を書く科目でも正確で精緻な地理的知識を問う科目でもありませんから、自分がイメージできる程度にだいたいの地理を把握することが大切です。

 そのような把握の仕方ですと、エルベ川の把握の仕方は「ユトランド半島の付け根、西の方に河口があり、ドイツを袈裟懸けにバサーッとぶった切ったように流れる川で、河口にはハンブルク、上流にはドレスデンが位置している」という把握の仕方ができれば十分なのではないかと思います。この川以東、ということですから、東方植民に従事した人々が移住したのはドイツの北東部の肩のあたりからポーランド、バルト海方面にかけてということになります。

 それでは、東方植民の結果、これらの地域はどのように変化したのでしょうか。

 解答としてイケてないのは、「東方植民の結果、エルベ川以東にはブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの諸侯領が成立した。」でしょう。これは政治的な変化を示したものにすぎず、社会的な変化、つまり人々の生活の仕組みや価値観の変化には一切言及していません。むしろ、当たり前のことではありますが、農村や都市の発展などにより同地域の経済活動が活性化されたことを示してはどうでしょう。これであれば十分に人々の生活のしくみ、つまり社会状況の一面を示したことになります。また、同じ諸侯領について語る場合でも「ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの形成による政治的安定は周辺地域の経済活動の活発化や都市の発展につながった」とすれば、先ほどまでは「役立たず」であった諸侯領を、社会状況変化の原因の一つとして活用することができます。ちなみに、以下はドイツ騎士団領と騎士団の拠点分布を示したものです。

1920px-Deutscher_Orden_in_Europa_1300

Wikipedia「ドイツ騎士団」:1300年、バルト海沿岸の薄い青色が騎士団領)

 

また、設問がエルベ川以東の地域の「世界の中で果たした経済史的意義とその地域の社会状況の変化」を聞いていることから、教科書的にはすぐ「再版農奴制とグーツヘルシャフトの形成」や「東西ヨーロッパの国際分業体制」を思いつきますが、果たしてそれだけで良いものでしょうか。もちろん、それだけでも十分に立派な解答になりますし、おそらく出題者も究極的にはそこを求めているのだとは思います。ですが、東方植民の開始は11世紀後から、再版農奴制やグーツヘルシャフト、国際分業体制の成立は16世紀頃~17世紀にかけてで、いかにも離れすぎてしまう感があります。そのあたりのことを考えても、東方植民がバルト海沿岸地域を活性化させ、商業の復活の一翼を担ったことは示しても良いのではないかと思います。以上のことをまとめると以下のような内容になるかと思います。

 

① 東方植民の進展による農村や都市の発展

  Ex.) ダンツィヒなど

:ハンザ諸都市の通商網の中に組み込まれる

 日用品の取引(穀物、木材、毛皮、毛織物、ニシンなどの魚加工品)

② 再版農奴制

  ・農奴解放が進んだ西欧と対照的に領主による農奴の支配が続く

  ・16世紀以降、プロイセンなどの領主(グーツヘル)たちがグーツヘルシャフト(農場領主制またはそれによる大農園)を形成

   土地貴族(ユンカーの形成)

 

 補足しますと、ダンツィヒは14世紀にドイツ騎士団支配下で都市として成長し、国家建設にいそしんでいたドイツ騎士団が必要としていた木材や穀物などの取引に積極的にかかわり、それが安定すると今度はポーランド各地から集まるの品物の輸出なども展開します。

 また、東欧では農奴解放が進んだ西欧と違い再版農奴制が進みますが、ポーランドをはじめとした東欧各地では、西欧において農奴解放の原因の一つとされる14世紀のペストの発生率が比較的低かったことも指摘されています。

Pestilence_spreading_Japane
Wikipedia「ペストの歴史」より)

 

最後に、本設問とは直接関係はないのですが、再版農奴制の法的廃棄の開始は18世紀末か、19世紀に入ってからになります。

(オーストリア) 1781 農奴解放令(ヨーゼフ2世)

 (プロイセン)  1807~ シュタイン・ハルデンベルクの自由主義改革の時

 (ロシア)    1861 農奴解放令(アレクサンドル2世)

[クリミア戦争敗北が契機]

 

【5、エルベ川以東が近代にいたるまでのヨーロッパ史で果たした経済史的意義】

 最後に、すでに「4」である程度述べてしまっていますが、エルベ川以東の東方植民の対象となった地域が世界の中で果たした経済史的意義についてまとめておきます。

 

① 商業ルネサンス(商業の復活)の一翼を形成(12世紀以降)

 ・北海、バルト海交易の活発化 ex.)ダンツィヒの繁栄

  ドイツ騎士団領成立による政治的安定

 ・ハンザ同盟の通商網と連結、日用品の取引(魚加工品、穀物、毛皮、木材)

② 国際分業体制の形成

 ・商業革命を達成した西欧に対して穀物を輸出する農場領主制(グーツヘルシャフト)

 

 リード文が長く、思わせぶりな設問であるわりに設問の要求自体はシンプルで、聞かれている事柄も基本的な事柄、わかりやすい事柄であったのではないかと思います。一方で、基本的である分、どの程度まで細部を丁寧に示せるかは受験生の理解度が試される部分でもあったのではないでしょうか。一橋ではたびたび北海・バルト海沿岸地域や東欧地域の社会経済について問う問題が出題されますので、注意が必要かと思います。

 

【解答例】

11世紀頃から西欧では三圃制や重量有輪犂などの農業技術進歩と気候温暖化により、農業生産力が向上し人口が増加した。厳しい賦役貢納と土地不足により、余剰人口はエルベ川以東など周辺地域への植民活動を開始し、諸侯は植民請負人による入植者招致や、開墾後の一定期間貢租を免除する植民法の適用などでこれを奨励した。同時期の西欧における巡礼熱や宗教的熱情はシトー修道会の開墾運動やドイツ騎士団の入植運動を活発化させた。ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの形成による政治的安定と、植民者・開墾地の増加は周辺地域の経済活動を活発化させ、ダンツィヒなどの都市が発展し、バルト海沿岸は商業ルネサンスの一翼を担い、穀物や木材などの日用品取引でハンザ同盟の通商網と連結された。16世紀以降は再版農奴制により農奴支配を強化した領主がグーツヘルシャフトを形成し、商工業の発展した西欧へ東欧が穀物を輸出する国際分業体制を支えた。(400字)

 

【補足:(「ハンザ同盟」について)】

 ハンザ同盟についてですが、近年記述の見直しが進んでいます。昔は比較的結びつきの強い同盟のように描かれていて、共通の商取引の取り決めや、共通の軍隊を保有していたと書かれていることもありました。しかし、近年では各都市が自己の利益のために行動することがあったこと、あくまでも商業目的の各都市のゆるやかな連携にすぎず、自警力や都市の代表会議は持っていたけれども、常設・共有の軍隊は保持していなかったこと、「同盟」という語はその実態に比してやや響きが強すぎることなどが指摘されるようになりました。そのせいか、直近の『詳説世界史研究』ではハンザ同盟についてかなり記述量が減ってきています。また、山川の用語集の記述もかなりマイルドになってきています。

 

(例) 「13世紀~17世紀まで北ヨーロッパに存続した通商同盟ハンザ同盟は14世紀に最盛期を迎えた。」(『詳説世界史研究』山川出版社、2019[3]p.175

    …ちなみに、ハンザと結びつけない形でリューベック・ハンブルクなどの北ドイツ諸都市や北海・バルト海沿岸諸都市が行った木材・海産物・塩・毛皮・穀物・鉄・毛織物などの取引については別途示されています。

 

 一方で、教科書の方の記述は依然として内容をぼかしているもの、またははっきりと軍隊を保有していると書いているものなど様々で、まだ過渡期にあるようです。

 

(例2) 「とくにリューベックを盟主とするハンザ同盟は14世紀に北ヨーロッパ商業圏を支配し、共同で武力をもちいるなどして大きな政治勢力になった。」

(『改訂版詳説世界史B』山川出版社、2016年版、2020年発行)

(例3) 「北ドイツの諸都市は、リューベックを盟主とするハンザ同盟を結成して、君侯とならぶ政治勢力となった。」

     「(※ハンザ同盟の注として)→13世紀半ばにはじまり、最盛期には100以上の都市が加盟した。ロンドン、ブリュージュ、ベルゲン、ノヴゴロドなどに商館を置き、共同の海軍も保有した。」

(『世界史B』東京書籍、平成28年版、平成31年発行)

 

 この辺りの事情について、「世界史の窓」さん(いつも大変お世話になっておりますw)では高橋理先生の研究の影響などを指摘されています。また、ハンザ同盟の項目については同氏の『ハンザ「同盟」の歴史』創元社、2013年を参照されています(https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-070.html)。Wikipediaの方の記述もいつの間にかいやに詳細になっておりまして、そちらも出典はこちらの本のみに依拠しているようです。(Wikipediaハンザ同盟」) ちなみに、高橋理先生は弘前大、山梨大、立正大などで教鞭をとられていた歴史学教授です(2003年に退官されています)。

 では、受験生はどちらで覚えなくてはならないのだろうかということなのですが、歴史学会で出てくる新説を高校生が常に把握するなどということは到底不可能ですから、基本的には各教科書の記述に従って良いと思います。おそらく、「軍隊を持っていた」と書いたからと言って不正解にするような狭量なことは大学側もしないと思いますし、できないと思います。(教科書を持ってこられて「ほら、ここに書いてあるじゃないですか」と言われたらどうにもなりませんし、その主張を否定すれば公平性の観点から行っても問題があります。)ただ、こうした新しい視点を知っておくと理解が深まりますし、イメージも厚くなります。また、こうした新しい視点というのが往々にして大学入試のテーマの一つとして盛り込まれることもありますので、「最近はこういう風に変わってきているんだなぁ」くらいのイメージ・理解はしておいて損はないと思います。

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【2020年早稲田大学政治経済 Ⅳ-B-7(論述問題)】

 こちらの解説は早稲田大学政治経済2020の問題解説(http://history-link-bottega.com/archives/cat_397528.html)にも同じものを掲載しています。


(1、設問概要)

・世界恐慌時の米「大統領の実施した経済政策(ニューディール政策)」の具体的内容

・その政策は合衆国において支配的であった考え方とどのように異なるものであったか

・「大統領の名(フランクリン=ローズヴェルト)」を示す

・160字以内

→問題より、経済政策がニューディール政策であることと、大統領がフランクリン=ローズヴェルトであることはすぐにわかるので、これらは明記しておきたい。

 

(2、ニューディール政策の「具体的内容」を整理)

①価格調整[デフレ対策=インフレ誘導]のための生産制限

  ・AAA(農業調整法)‐農業生産制限

  ・NIRA(全国産業復興法)‐工業生産制限

②労働者保護

 ・NIRA‐全国復興局(NRA)設立と、最低賃金、週40時間労働制を定める

     労働組合結成と団体交渉権を認める

③失業者対策

 ・TVA‐テネシー川流域開発公社

 (・NIRAも公共事業局を設立して道路、学校、病院などの公共事業を促進)

 

(3、合衆国において支配的だった考え方との相違)

①従来‐自由競争を進め、独占を禁止する(革新主義または自由主義的資本主義)

②ニューディール政策‐修正資本主義(ケインズ)

            ・国家の経済への介入

            ・自由競争の抑制

            ・不況下のカルテルの公認

 →世界恐慌までの従来の合衆国における支配的な考え方が正確に示せるかどうかで少し差がついたかもしれませんが、その他の要素は基本的なものなので全体としては受験生が高得点を狙える論述問題だったと思います。古典派経済学の自由放任などを書いても必ずしも誤りではないですが、19世紀末から20世紀初めのアメリカで独占資本に対する一定の制限がかけられたことや、シャーマン反トラスト法(1890)、クレイトン反トラスト法(1914)などの知識は高校世界史の知識でも出てくる内容なので、これについてはどこかで言及したいところです(独占を禁止するということは、完全な「自由放任」ではない)。また、よく勉強している受験生であればセオドア=ローズヴェルトからの「革新主義(または進歩主義:高度な資本主義発達により生じた弊害を抑えるために野放しの自由放任主義を改めて独占の制限や抑制、労働者の保護を進めようとした考え方)」などについての知識もあるかもしれません。

 

【解答例】

 フランクリン=ローズヴェルトのニューディール政策は、農業調整法や全国産業復興法で生産や価格を調整し、労働条件を規制して労働者の保護を進め、失業対策としてTVAなどの公共事業拡大を行うなど、修正資本主義の影響を受け国家が経済に強力に介入するもので、独占を禁止して自由競争を保障する従来の自由主義的資本主義を転換するものだった。(160字)

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またしても久しぶりの更新になります。もう、何というか、コロナの影響でえらいことになっておりまして、とにかく状況に対応するのに必死といった感じでした。みなさまにおかれましてもお身体にお気をつけてお過ごしください。

そんなわけで、以前読者の方から「とても難しい問題だったので2020年の早稲田政経の解説をして欲しい」というご依頼があったことが心に残りつつもなかなか手を付けることができずにおりました。それでもどうにか落ち着きましたので、久しぶりの更新である今回は2020年早稲田大学政治経済学部の問題解説を進めたいと思います。

解いてみての感想ですが、たしかに例年と比べるとやや難しい問題かなと思います。ただ、同じ「難しい」問題でも、受験生の努力や思考力を問うために工夫された良質の「難しい」問題と、単に出題者の側が受験生の実態をよく把握していないがために生じる、高校世界史ではあまり一般的でない知識(よく勉強している受験生でも把握しきれない可能性がある知識)を問う「難しい」問題、いわゆる悪問の類がありまして、この年の政経にはこうした設問がいくらか混じっておりました。

もっとも、早稲田の政経を受けるくらいの受験生の中には当然「世界史の権化」みたいな受験生もおりまして、こうした受験生は『詳説世界史研究』や用語集の重箱の隅をつついたようなレベルの問題でも無双してしまい、場合によっては満点を取ってしまったりしますので、出題者側が満点を取らせないために意識してこうした設問を入れているのかもしれませんから、一概にそのこと自体が「悪い」と決めつけるわけにもいきません。

ただ、受験生の側としては「どの知識が比較的よく出てくる頻出の問題であるか」、「どの知識は深く勉強すれば身につく知識であるか」、「どの知識がどんなに教科書・参考書とにらめっこしても身につかない知識であるか」などは把握しておきたいところかと思いますので、解説の方ではところどころに「基本問題」「悪問」の表示をしておきました。

「基本問題」としてあるのは、ここでは「早稲田の政経を受験する平均的な受験生であれば、受験当日までにはおそらく身につけているであろう問題」という意味で、当日ここを取りこぼしてしまうと(世界史については)合格点がおぼつかないという意味ですので、別に「こんな問題はチョー簡単で基本問題だよね」みたいな見下した評価ではありません。また、受験当日までに身についていればよいので、その前の段階で身についていないからと言って悲観的になる必要もありません。同じく「悪問」としてあるものは「早稲田政経受験者のうち、一般的な高校世界史の知識をかなり深く勉強した受験生であっても知らない知識が、正解を導くために必要となる問題」だと思っていただければよいのではないと思います。

全体としては、設問数46に対して、「難しい」、「やや難しい」と感じられた問題が11(うち、悪問と感じられた問題が3)ありましたが、一方で基本問題と感じられた問題も11ありました。難しい問題をすべて落としたとしても35/46と、約75%ありますから、解けない問題にはこだわらずにきちんと解ける問題をしっかり拾っていければ合格点の取れる問題だったのではないかと思います。ただ、特に大問1については思考力や情報分析力を必要とする問題ですので、一概に設問の文章だけから難しい、難しくないを言うことはできないと思います。

 

2020年 早稲田大学政治経済学部解説】

 

Ⅰ‐問題数13 清朝

Ⅱ‐問題数15(要求回答数16) 中、近世ヨーロッパ

Ⅲ‐問題数6(要求回答数9) 港湾都市の地図と歴史

Ⅳ‐問題数12(要求回答数13、うち1問は論述問題[160]) 20世紀の経済

 

 

【概要】

:清朝期に関連する①~⑤の史料をベースとした設問です。この史料①から⑤を特定するのがかなり難しいです。まず、内容だけから各史料が何かを特定するのは困難です。ただ、設問の内容や選択肢から限定・特定できるのでいわゆる「悪問」ではありません。もっとも、この特定にもかなりの知識・思考力・注意力を必要としますので、困難であることには変わりがありません。Ⅰ~Ⅳまである2020年政経の大問の中ではまず間違いなく最も手間のかかる設問で、しかもそれが大問1で出てきたため、ここで時間をくってしまったり、戸惑ってしまった学生は十分に力を発揮できなかった恐れがあります。

 また、政経の問題は選択形式の問題をA、記述式の問題をBとしていますが、その中で文章中の下線部や空欄の記号が不規則な形で出題されます。(たとえば、空欄 a と下線部bがあり、空欄 a の問題が記述問題、下線部bの問題が選択型問題の場合、先に下線部bについての設問が出てきてしまう) ですが、2020年の政経に限って言いますと(他の年でもあることですが)、設問順ではなく文章中に出てくるabcの順に問題を解いた方が内容がよく理解できます。これは設問作成上の不備(先にaから順に設問を作った後で、無理やり選択肢問題と記述問題の種別で分けて整序するために、出題者の意図や用意したヒントがぶつ切りになってしまい分かりにくくなる)なのではないかという気がするのですが、そういった情報整理も含めての力を要求しているのかもしれませんし、何とも言えません。(ただ、単純なテクニックに左右されてしまうような力をはかっても意味はないのではないか、という気もします。)

 

【史料と特定の仕方】

(全体)

:まず、史料①~⑤が紹介されます。内容から中国のものだということはわかりますが、どの時代と特定はされていません。ただ、史料のあちこちに西洋人やキリスト教が登場することや、設問の選択肢がほぼ清朝期の出来事であること、史料⑤がマカートニーの日記であることが設問A-5で明言されていることなどから、清朝期の史料であることはすぐに特定できます。

 

①雍正帝期のキリスト教禁令にかんする上奏文 【難】

:史料中に空欄 a があり、戸惑いますが、先に設問B-1を見ると空欄 a に入るのは漢字1字ということがわかります。史料中で西洋人が「 a の作成や他の雑用に役立」つと言っていることや、各地に住まう「 a 法に通じ、技能のあるものを調べて、北京に送り届け」るように命じていることなどから、 a に入るのは「暦」で問題はないと思います。

 また、 a の答えがわからないままでも、技能のある人間は北京に送る一方、「他はマカオに送致して住まわせ、内地に潜伏させないように」という記述や「天主堂は、みな会館として使用し、これまで誤ってその教えに入った者は、厳しく説諭して改宗させます。もし以前のように人々を集めて経を唱える等のことがあれば、重く処罰します。」とありますので、宣教師のマカオへの退去やキリスト教禁令について述べていることは明らかです。

 典礼問題をきっかけとするキリスト教禁令は

 ・康熙帝の禁令(イエズス会以外の宣教師によるキリスト教布教を禁止)

 ・雍正帝の禁令(すべての宣教師によるキリスト教布教禁止)

がありますが、ここでは「これまで誤ってその教えに入った者は、厳しく説諭して改宗させ」とありますので、イエズス会であるかないかにかかわらずキリスト教全体が対象となっていることがわかりますので、雍正帝期の史料であることがわかります。

 

②北京条約(1860 【やや難】

:まず、設問A-2に清と b との間で結ばれた条約の一部とあります。

 さらに、史料中に「北京に駐在の b の欽差大臣(公使)」とありますので、少なくとも「外国公使の北京駐在」を認めた天津条約(1858)以降でなくてはならないでしょう。「天主教(キリスト教)信者が迫害を受けた際に没収された」施設や財産を b の公使に賠償するように命じていることから、 b はフランスであることがわかります(フランスがアロー戦争に参加した口実はフランス人宣教師の殺害)。

 正直、史料だけでは天津条約(1858)か北京条約(1860)かの区別はつきにくいですが、設問2-Aの正解である「800万両の賠償金」から北京条約と確定できます。(天津条約でのフランスへの賠償金は200万両であるため。もっとも、北京条約と確定しなくても設問は解けます。)

 

③康煕帝の勅諭 【やや難】

:設問A-3で「ある皇帝の勅諭」であることが示されます。史料中に「ロシアを討伐する際に」とあることからロシアと争ったことが分かりますが、高校世界史の知識で清朝期にロシアと争う可能性があるのはネルチンスク条約締結前と、イリ事件の前後あたりが思い浮かぶと思います。また、史料より西洋人が「 a 法(暦法)を管理し、先の戦役においては武器を調達し、勤勉に力を尽くしている」、「彼らの教えを邪教と見なして禁止するのは、まったくの冤罪というものである。」とあり、西洋人との協力関係や西洋人の人材・技術・キリスト教に対する肯定的評価がうかがえますので、西洋列強の中国侵略後ではありません。

 ロシアとの争いをネルチンスク条約締結前の軋轢、「先の戦役」を三藩の乱、キリスト教の教え自体を否定してないことを「イエズス会以外のキリスト教布教禁止(イエズス会はキリスト教布教をしても良い)」と対応させればしっくりきますので、同史料は康煕帝のものであると確定できます。

 

④クレメンス11世の命令 【易】

:これは史料より「いかなる理由であれキリスト教信徒はこれ(「 f と祖先に対して中国人が行っている慣習」=典礼)を実施したり、主宰したり、出席したりしてはならない」と、典礼を行うことを禁止しておりますので教皇側の命令であることは明らかです。設問A-4の選択肢に教皇は一人しかいませんので、クレメンス11世であることがわかります。この史料の確定は容易で、これが分からないようだとかなり苦戦すると思います。

 

⑤マカートニーの日記 【易】

:設問A-5の問題文に「イギリスから清に派遣された外交使節マカートニーの日記」とはっきり書かれていますので問題ありません。史料だけから理詰めで確定するのは難しい(カンでわかりますが、論拠を示すのは難しいです)ので、気づくのが遅れると大変だと思います。

 

以上のように、各史料がどういう性格のものか確定すると設問を解くことが容易になりますが、設問に目を通さないと史料の確定が難しく、同時並行的に進めなくてはならないのでかなり大変だと思います。

 

【Ⅰ-A設問】

1 正しい文章は「ニ」 【やや難】

:史料①は雍正帝期のもの。軍機処の設立は雍正帝のジュンガル遠征時ですからニが正解。

(誤文)

 イ:『皇輿全覧図』は康煕帝のとき

 ロ:理藩院の設立はホンタイジのチャハル部平定時

 ハ:ベトナムへの軍事介入は乾隆帝による西山朝に対するもの

 

2 正しい文章は「ロ」

:上記史料②の解説に記載。

(誤文)

 イ:ウスリー川以東の沿海地方(沿海州)を割譲したのはロシアに対して(北京条約)

 ハ:香港割譲はイギリスに対して(南京条約)

 ニ:フランスへのベトナム保護国化承認は清仏戦争後の天津条約(1885年)

 

3 正しい文章は「ニ」

:康煕帝の事績なので、鄭氏台湾の制圧が正しい。

(誤文)

 イ 辮髪令をはじめて出したのは1645年、順治帝のとき(睿親王ドルゴンによる)

 ロ 『四庫全書』編纂は乾隆帝の時

 ハ 国号を金から清にしたのはホンタイジの時

 

4 正解は「ニ」 【基本問題】

:上記史料④の解説に記載。

 

5 正しい文章は「ロ」

:消去法。

(誤文)

 イ 清初にキリスト教が弾圧された事実はない

 ハ 19世紀初頭とあるので、史料⑤のマカートニーが中国にやってきた1793年よりも後

 ニ 黄埔条約は1844年で、1793年よりも後

 

6 正しいものは「ニ」の三藩の乱

:上記史料③の解説に記載。

(他の選択肢)

 イ 「捻軍の乱」は1853-1868年に華北を中心におこった反乱

 ロ 「白蓮教徒の乱」は清朝では1796-1804の嘉慶白蓮教徒の乱が有名

 ハ 「清のジュンガル征服」は1758年の乾隆帝の時

 

7 正しい文章は「イ」 【やや難】

:康煕帝の時期には軍機処はまだ設立されていないため「ニ」が×となり、消去法で選べる。

(誤文)

 ロ 総理衙門の設置は北京条約の翌年(1861年)

 ハ 中書・門下・尚書の三省は唐の行政システム

 ニ 軍機処の設置は雍正帝の時

 

8 正しい文章は「ハ」

:消去法。2択まで絞るのは容易。

 イ 日本(長崎)へ向かう船の主な出航地は江南地方(寧波など)

 ロ 港は広州一行に限定されたが、他のヨーロッパ商人との貿易も行っている

 ニ 公行は広州での貿易を独占した

 

【Ⅰ-B設問】

1 暦

:上記史料①の解説に記載。

 

2 フランス

:上記史料②の解説に記載。

 

3 ネルチンスク条約

:上記史料③の解説に記載。

 

4 孔子 【基本問題】

:史料④の内容が典礼の禁止であることから明らか。

 

5 フランス革命

:マカートニーが中国に来たのが1793年であるので、同時期のヨーロッパにおける「大きな騒動や反乱」として最もありうるものを考えればわかる。

 

【概要】

:設問自体に大きな特徴はありません。ただ、高校世界史としてはあまり一般的ではない知識(重箱の隅をつついたような知識)を問うてくる設問が混じっているため、難しい設問が散見されました。もっとも、「難しい」というだけであり、その知識を入学試験で問う意義はあまり感じませんでした。

 

【Ⅱ-A設問】

1 「ハ」のグレゴリウス1世が正解 【基本問題】

 

2 正しい文章は「ロ」 【難、悪問】

:かなり無茶な消去法。または単純に「ロ」が正しいという知識を持っているかどうか。

(誤文)

 イ ミケランジェロに「天地創造」を書かせたのはユリウス2

 ハ サン=ピエトロ大聖堂の新築工事を始めたのもユリウス2

 ニ システィナ礼拝堂の着工は1473年、完成が1481年なので、レオ10世より前

 

3 順に並べたときに3番目にくるのは「イ」 【やや難】

 イ トリエント公会議招集は1545

 ロ ヘンリ8世の破門は首長法(1534年)の少し後で、1538

 ハ 禁書目録のリスト公示は少なくとも対抗宗教改革(トリエント公会議)の後

 ニ イエズス会の設立認可は1534

 →以上から、順番は「ニ」→「ロ」→「イ」→「ハ」

 

4 正しい組み合わせは「イ」 【やや難】

:やや無茶な消去法。または単純に「イ」が正しいという知識を持っているかどうか。(ファン=ダイクがチャールズ1世の肖像画家である、というのは文化史をきちんと勉強していれば知っていてもおかしくない知識なので、消去法よりは一本釣りの方が正解できそうです。)

(誤った組み合わせ)

 ロ ルーベンスは17世紀前半のフランドル画家で、ルイ13世の母である「マリ=ド=メディシスの生涯」などを描くなどしているが、ルイ13世期の人物でルイ14世の時代ではない。「ルイ14世の肖像」はイアサント=リゴーの作品。

 ハ ベラスケスは17世紀スペインの画家。カール5世(カルロス1世)は16世紀前半。「カール5世の騎馬像」はティツィアーノの作品。

 ニ ムリリョは17世紀スペインの画家だが、宗教画や子どもの絵が多い。「フェリペ4世の騎馬像」はベラスケスの作品。

 

5 順に並べたときに3番目にくるのは「ロ」

 イ スペイン継承戦争についてなので17011713/1714

 ロ カルロヴィッツ条約は1699

 ハ アウクスブルク同盟戦争はファルツ戦争または大同盟戦争のことなので16881697

 ニ 第二次ウィーン包囲のことなので1683

 →以上から、順番は「ニ」→「ハ」→「ロ」→「イ」

 

6 ヴェルサイユ宮殿で起こった出来事なので「ニ」 【やや難】

:国民議会が憲法制定まで解散しないことを誓ったのは「テニスコート(球戯場)の誓い」なので、舞台はヴェルサイユ宮殿(実際に改称されるのは約半月後の79日)

(誤文):高校世界史レベルの知識で自信をもって消去するのはかなり無理がある 

 イ 聖職者民事基本法(1790)は憲法制定議会による

 ロ 革命1周年ということは17907月頃なので、少なくともヴェルサイユ行進(178910月)以降のことであり、当時ルイ16世はテュイルリー宮殿にいたことはわかるため、これを消去することはカンの良い受験生であれば可能

 ハ 同業組合禁止などを定めたル=シャプリエ法は1791

 →フランス革命中の議会のほとんどはテュイルリー宮殿内の各施設(特に屋内馬術練習場[サル=デュ=マネージュ])で行われているため、ヴェルサイユ宮殿ではない。また、山川の『詳説世界史B』(平成28年度版)には、「国民議会もパリに移り」という記述がありますが(p.250)、授業内で教員の側が意識して教えない限り受験生の意識には残りづらいと思います。やはり、ロの選択肢(ヴェルサイユ行進の前か後か)がヒントになるかもしれません。

 

7 正しい文章は「ハ」 【難、悪問】

:消去法。

(誤文)

 イ 選帝侯としてのザクセンは公爵位(ザクセン公)で、辺境伯ではない

 ロ ザクセン選帝侯フリードリヒがルターをかくまったヴァルトブルク城は11世紀にはすでに築城されており、フリードリヒが「建設した」事実はない

 ニ ザクセンが王国に昇格するのは神聖ローマ帝国が消滅した1806年で、ティルジット条約(1807年)によってではない

 

8 正しい文章は「ニ」

:消去法。

(誤文)

 イ アンリ4世がカトリックに改宗するのは国王即位後のことであり、「旧教徒として国王に即位」した事実はない

 ロ サン=バルテルミの虐殺は1572年、ユグノー戦争は1562年~98年で、サン=バルテルミの虐殺からユグノー戦争終結までは26年であり、36年ではない

 ハ ナントの勅令(王令)はほぼカトリックと同等の権利を与えており、公職から追放された事実はない(ユグノーは、自分の教会とは別にカトリックの教会にも十分の一税を払うこと[二重課税]が求められただけ)

 

9 誤っている文章は「イ」 【難、悪問】

:テュイルリー宮殿建設を命じたのがカトリーヌ=ド=メディシス(ルイ13世妃はマリ=ド=メディシス)であることをする受験生はほとんどいないのではないかと思われるので、消去法で解くことになります(ロ・ハ・ニが正しいことから)が、「ハ」の国民公会の議場がテュイルリー宮殿内にあることを確定できる受験生はやはりいない(上述の通り、山川の『詳説世界史B』には国民議会がパリに移った記載はありますが、それ以降の議会と議場が常にパリのテュイルリー宮殿にあったことを確認できる形にはなっていません)のではないかと思われるのでかなり無理があります。ただ、2択までは絞れます。

 

【Ⅱ-B設問】

1 バロック 【基本問題】

:「17世紀」、「劇的な表現」などとあるのでバロックです。ルネサンス期の芸術が調和や均整を重視したのに対し、バロックは動きを出し、表現が派手で感情に訴えかけます。

 

2 幾何学 【やや難】

:漢字三文字で「 g 的庭園」という表現で出てきますし、ヴェルサイユ宮殿やシェーンブルン宮殿の名前が挙げられているので、答えを入れられる受験生もいるかもしれませんが、あまり一般的な問題ではありません。

 

3 マリア=テレジア 【基本問題】

:基本問題です。

 

4 シャルル10

:ひっかけ問題です。ブルボン朝最後のフランス国王はシャルル10世です。ちなみに、設問中にある病とは、瘰癧やてんかん、ある種の皮膚病などで、治療行為はいわゆる「ロイヤル=タッチ」と呼ばれる行為のことです。

 

5 ガリカニスム

:近年は頻出問題になってきました。

 

6 都市名:ポツダム  君主:フリードリヒ=ヴィルヘルム  【やや難】

:サン=スーシがポツダムにあることは有名ですが、1685年当時のプロイセン君主がフリードリヒ=ヴィルヘルムであることは丁寧に勉強していないと出てこないかもしれません。

 

【概要】

:港湾都市α~δ(長崎・バタヴィア・シンガポール・ザンジバル)の説明文と市街地図を示して、関連する設問を解かせるものです。近年歴史学会で「都市史」研究が進んできたことからここ十数年くらい都市図を示した設問が増えてきているように思います。このⅢの設問はⅠほど意欲的な工夫がなされているわけではありませんが、Ⅱのような無茶ぶりの設問は少なく、図表と説明文、そして設問の文章に工夫をすることで一定のレベルをキープしているバランスの取れた良問だと思います。この年に政経を受けた受験生は、この問題で確実に点を取れないとかなり苦しかったと思います。

 

【港湾都市(Ⅲ-B-1)】

:設問としては後に出てきますが、先に港湾都市を確定させた方がラクかと思います。

 

(都市α)=長崎

:「1641年以降は入港を許された外国船との貿易港として、東アジアの交易拠点の一つとなるとともに…」などの文章から日本の鎖国について書いてあることは自明です。

 

(都市β)=バタヴィア

:「17世紀初頭に a の東インド会社…の拠点」とあることや、「1830年から」の強制栽培制度に言及していることなどから、空欄 a がオランダであることと、その拠点バタヴィアであることは自明です。わかりやすい設問だと思います。

 

(都市γ)=シンガポール

:「1819年に地域のスルタンに自由港として開港させ」でラッフルズを思い浮かべられればOKですが、それが無理でも「インド洋交易と極東交易の接点」、「1867年には直轄植民地」、「第1次世界大戦後には海軍基地」などの文章からシンガポールと特定できます。また、空欄 b はイギリスです。ラッフルズが出た2012年一橋の過去問に目を通したことがある人はすぐピンときたかもしれませんが、そうでなければ少し難しい設問です。

 

(都市δ)=ザンジバル 【難】

:説明文と地図だけからザンジバルを特定することは難しいかもしれません。ザンジバルについてよく知っている受験生であれば、説明文はまさにザンジバルのことを説明していますが、「ポルトガル支配→オマーンの支配と丁子(クローブ)プランテーションの発展→イギリスの支配」といった流れは高校世界史における一般的知識ではありません(通常は、ザンジュやスワヒリ語圏の形成といった文脈で語られる)。ただ、アラブ人が活動していることや、奴隷貿易などの用語から、東アフリカ地域であることは想像できるかもしれません。となれば、キルワ、モンバサ、モザンビーク、マリンディなどと並んでザンジバルを思い浮かべる感じでしょうが、特定するとなると難しいかもしれません。

 

【Ⅲ-A設問】

1 正解は「ハ」

:上記説明から a がオランダ、 b がイギリス。

 

2 正しい文章は「ハ」

:消去法。

(誤文)

 イ 要塞や傭兵は少なくとも長崎にはないので間違いだと分かる

 ロ 民族間交流の禁止などは全ての都市の共通事項ではない

 ニ 全ての都市について後背地に至るまで水運が利用されているわけではない

 

3 共通で最大の理由とあるので「ニ」

:「共通」で「最大」の要因とあるので、常識的な判断で選べる。

 

4 誤っている文章は「ロ」

:現地住民が土着植物の絶滅を防ぐために植物園建設反対運動を繰り広げた事実はない。

 

【Ⅲ-B設問】

1 上記【港湾都市(Ⅲ-B-1)】の通り。

 

2 β、γ

:第二次世界大戦中に日本軍の占領を受けた都市はバタヴィア(ジャワ島)とシンガポール。

 

【概要】

20世紀の世界経済を問う政経らしい設問。きわめてオーソドックスな形式と内容で、世界恐慌やブレトン=ウッズ体制といったテーマも頻出のものですから、基本問題と言えると思います。この大問もしっかりと得点しておきたい設問で、論述以外はできれば全問正解したいところです。

 論述は160字でフランクリン=ローズヴェルトのニューディール政策を問うものですが、これも基本的な内容ですから、設問の要求をしっかりとらえて情報を丁寧に示せば、ほぼ満点解答が作れる問題です。

 

【Ⅳ-A設問】

1 正解は「ロ」で、順番は②→①→③→④

 ②:第二次世界大戦の開始がポーランド侵攻なのでこれが最初(1939.9

 ①:開戦後、英仏が本格的な対抗をする前に独がデンマーク・ノルウェーに侵攻(1940.4

 ③:デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーに侵攻後、パリ陥落(1940.6

 ④:英を除く西欧をひと通り制圧した後にバルカン方面に進出(1941~)

 

2 正しい文章は「イ」

:消去法

(誤文)

 ロ 1939年に満州国境付近で日本が敗れたのはノモンハン事件(対ソ連・モンゴル)

 ハ 日本の北部仏印進駐は1940.9で、日ソ中立条約よりも前

 ニ ヤルタ会談はドイツの無条件降伏(1945.5)の前(1945.2

 

3 正解は「ニ」の『雇用・利子および貨幣の一般理論』

(誤った選択肢)

 イ 『諸国民の富』はアダム=スミス

 ロ 『経済学及び課税の原理』はリカード

 ハ 『貨幣発行自由化論』はハイエク

 →一般に、ハイエクは高校世界史の知識ではあまり見られないので消去法よりは一本釣りで解く人の方が多いと思います。

 

4 誤りを含む文章は「ニ」 【基本問題】

:ブレトン=ウッズ体制は1970年代はじめのドル=ショックと変動相場制への移行で崩壊していると考えられるので、「ブレトンウッズ体制は、1980年代末…まで継続し」という部分がおかしい。

 

5 正解は「ニ」 【基本問題】 

:頻出問題かつ基本問題。世界恐慌前後の工業生産推移をグラフ化したものはセンター試験などでも頻出。世界恐慌の影響を受けない①がソ連、満州事変と満州国建国などで比較的早期に回復する②が日本、1932年に大きな落ち込みを見せる⑤がアメリカなどに注目すれば解ける。

 

【Ⅳ-B設問】

1 フーヴァー=モラトリアム

1931年であることと、1年間の戦債猶予という内容から明らか。

 

2 c 奉天 d 柳条湖 【基本問題】

:満州事変にかかわる問題で、基本問題。

 

3 犬養毅

1932年に「首相が暗殺」されているということで、五・一五事件の犬養毅。

 

4 関税 【基本問題】

:文章から関税であることは明らか。経済学部を受験するのであれば基本問題。

 

5 ブロック 【基本問題】

:同じく、世界恐慌期のブロック経済形成は基本問題。

 

6 福祉 【基本問題】

:世界史の知識では必ずしもないが、「スウェーデン」という国名や「北欧諸国」、「社会保障の充実や所得分配の平等化」などが示された上で、漢字二字指定で i 国家となれば「福祉」が入るのは常識の範囲内。基本問題。

 

【Ⅳ-B-7(論述問題)】

(1、設問概要)

・世界恐慌時の米「大統領の実施した経済政策(ニューディール政策)」の具体的内容

・その政策は合衆国において支配的であった考え方とどのように異なるものであったか

・「大統領の名(フランクリン=ローズヴェルト)」を示す

160字以内

→問題より、経済政策がニューディール政策であることと、大統領がフランクリン=ローズヴェルトであることはすぐにわかるので、これらは明記しておきたい。

 

(2、ニューディール政策の「具体的内容」を整理)

①価格調整[デフレ対策=インフレ誘導]のための生産制限

  ・AAA(農業調整法)‐農業生産制限

  ・NIRA(全国産業復興法)‐工業生産制限

②労働者保護

 ・NIRA‐全国復興局(NRA)設立と、最低賃金、週40時間労働制を定める

     労働組合結成と団体交渉権を認める

③失業者対策

 ・TVA‐テネシー川流域開発公社

 (・NIRAも公共事業局を設立して道路、学校、病院などの公共事業を促進)

 

(3、合衆国において支配的だった考え方との相違)

①従来‐自由競争を進め、独占を禁止する(革新主義または自由主義的資本主義)

②ニューディール政策‐修正資本主義(ケインズ)

            ・国家の経済への介入

            ・自由競争の抑制

            ・不況下のカルテルの公認

 →世界恐慌までの従来の合衆国における支配的な考え方が正確に示せるかどうかで少し差がついたかもしれませんが、その他の要素は基本的なものなので全体としては受験生が高得点を狙える論述問題だったと思います。古典派経済学の自由放任などを書いても必ずしも誤りではないですが、19世紀末から20世紀初めのアメリカで独占資本に対する一定の制限がかけられたことや、シャーマン反トラスト法(1890)、クレイトン反トラスト法(1914)などの知識は高校世界史の知識でも出てくる内容なので、これについてはどこかで言及したいところです(独占を禁止するということは、完全な「自由放任」ではない)。また、よく勉強している受験生であればセオドア=ローズヴェルトからの「革新主義(または進歩主義:高度な資本主義発達により生じた弊害を抑えるために野放しの自由放任主義を改めて独占の制限や抑制、労働者の保護を進めようとした考え方)」などについての知識もあるかもしれません。

 

【解答例】

 フランクリン=ローズヴェルトのニューディール政策は、農業調整法や全国産業復興法で生産や価格を調整し、労働条件を規制して労働者の保護を進め、失業対策としてTVAなどの公共事業拡大を行うなど、修正資本主義の影響を受け国家が経済に強力に介入するもので、独占を禁止して自由競争を保障する従来の自由主義的資本主義を転換するものだった。(160字)

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