世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

2022年02月

先日、ジャック=ル=ゴフの『中世の身体』を再読いたしましたので、ちょっとご紹介しようかなぁと思います。

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以前から身体史というのは一つの分野を作っていまして、わりと盛んです。身体のことというのは身近に感じることでもありますので、人気もあるようで、書店に行くとわりと人間の身体にまつわる歴史の本がかなりの数、置かれています。また、たとえば学習院大学などでは身体表象文化学なるものを専攻する場所を大学院(人文科学研究科)に設置し、演劇・映画からマンガ・アニメにいたるまで歴史学という分野に限ることなく身体表象全般について学んだりもしています。同専攻によれば「視覚優位の現代文化において、身体の表象(イメージ化) やパフォーミング・アーツ(舞合芸術)はきわめて重要な役割をはたして」おり、「それらを大きな文化的枠組みのなかで研究することは、現代世界の理解になくてはならない学問領域」だとして「マンガ・アニメ、映画や演劇・ジェンダー研究に興味のある学生が、各々のジャンルの深さに新たな感動を味わい、芸術と学問のより高度な段階に上がれる」場所を提供するとしています。(学習院大学大学院人文科学研究科身体表象文化学専攻HPより)

では、身体史とは演劇やマンガについて学ぶものなのかというとそういうわけではありません。身体史とは、およそ人間の身体にまつわるあらゆる事柄について、歴史の中でどのように扱われ、イメージされ、存在し、意味を持ってきたかを探るものです。それはたとえば食事の内容やマナー、服飾、生活空間、性、生理現象など、本当に多岐にわたります。テーブルマナーにおけるナイフの置き方や扱い方にどのような意味があるか、女性の身体が同性や異性からどのようにイメージされ扱われてきたか、排泄行為をある時代、ある地域の人々がどのようにとらえてきたか、人間の抱く感情がどのようにイメージされ、意味を持ってきたかなど、本当に様々です。

大切なことは、こうした事柄のすべてが「現在私たちが暮らしているこの世界と同じではない」という前提に立つことです。歴史を深く読み解くうえで大切なことは、事象としては同じであっても、その事象がどの時代、どの地域、どういった人々と関わっていたかによって、事象の持つ意味が大きく変わってくるということを理解することにあります。たとえば、古代中国における残酷な刑罰を、現代の感覚で忌避したり、古代ギリシア悲劇を現代的な感覚で鑑賞し、「素晴らしい」とか「よくわからん」とか評することは簡単です。ですが、歴史学ではそうした過去の事象が当時の人々に「どのようにとらえられていたか」、どのようなイメージを与えていたか」、「果たしていた機能は何か」などをとらえなければなりません。となれば必然、当時の人々が世界や自分自身をどのように把握していたかという、人々の思考様式や感覚をとらえられなければ、各事象の正しい意味・意義を知ることはできません。

こうした理解のもと、人々の思考様式や感覚、つまり心性(マンタリテ)について研究する「心性史」が、特にフランスの歴史家を中心として生まれたのが20世紀の前半頃でした。リュシアン=フェーブルやマルク=ブロックのグループから始まるいわゆるアナール学派が、従来の歴史学が重視してきた「事件史(特定の大事件などに注目する)」や「大人物史(特定の「偉大な」人物とその周辺に注目する)」を離れ、むしろ民衆の生活文化や、社会全体の集合的記憶などに注目し、それらを明らかにするために他の学問領域(人類学や言語学、経済学や統計学など)の手法を取り入れていわゆる「社会史」を発展させる中で、人間の身体について考察する「身体史」も生まれてきたのです。とまぁ、結構真面目な話なのですが、何も知らずに史学科に入った私が、フランス史関連の講義に出席した時に教授が真面目な顔でいきなり「アナールが」と話し出した時には、自分も真面目な顔をしつつ「むむ?(笑)」となるのをおさえきれませんでしたw 何の話かと思いましたよ。

さて、フェーブルやブロックを第一世代、これに続くフェルナン=ブローデルを第二世代とした時、本書の著者であるジャック=ル=ゴフはこのアナール学派の第三世代に位置する人物です。

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(ジャック=ル=ゴフ[Wikipedia英語版より]

ル=ゴフはなぜ(中世の)身体を問題にするのかについて、『中世の身体』の序文で以下のように述べています。

 

「身体は歴史の重要な欠落の一つであり、歴史家は身体をほとんど忘れ去っているからである。事実、伝統的な歴史は肉体を欠いていた。歴史は男たちに関心を向け、付随的ながら女性たちに関心を向けてきた。しかし、ほとんどいつも身体が不在だったのである。まるで身体の生命は時間と空間の外に置かれ、人類は不変であるという思い込みの中に閉じ込められてしまっているかのように。ほとんどの場合問題となるのは、権力者、王や聖人、それに軍人、貴族たちを描くこと、あるいは、過ぎ去った世界の重要人物たちを、時代の大義や必要に応じてしかるべく見出し、美化し、そしてときには神話化することであった。水面から浮かび出た顔のみに還元されたこれらの人物たちは、肉体を奪われていた。彼らの身体は、象徴、表象、肖像にすぎず、彼らの行為とは、権力の継承、数々の秘跡、戦闘、事件に限られていた。列挙され、記録され、世界史を画するとされる石碑のように置かれた人物たち。これら偉人たちの栄光や失墜を取り巻き、それに手を貸した一群の人々はといえば、彼らの歴史、感情、行動、逸脱、苦しみを語るためには、ただ「下層民」あるいは「民衆」という名を用いれば十分だとされていたのである。」

(池田健二・菅沼潤訳、J=ル=ゴフ『中世の身体』藤原書店、2006 [原書が出版されたのは2003]

 

こちらを一読するだけでも、ル=ゴフが身体を考えることにどのような意義を見出していたのかがひしひしと伝わってきます。こうした問題意識の下に、ル=ゴフは自分自身の研究のほかにも数多くの歴史家の研究も参照しつつ、中世ヨーロッパにおける身体史の様々な側面を紹介し、全体像を描き出そうとしています。ル=ゴフは2014年に90歳で亡くなりますが、80歳を迎えようかという歴史家の著作とは思えないほどみずみずしく、それでいて丁寧な表現で書かれた文体は読みやすく、まろやかです。(もっとも、邦訳しか読んでおりませんが。)そんな本書は、研究書というよりは中世身体史に関する研究を総合的にかみくだいて紹介する内容となっているため、歴史学を専門とはしていない人にとっても刺激的な著作ではないかと思います。もちろん、多くの研究者や諸研究が登場しますので、あらかじめそれらの歴史家についてある程度知っていれば、より深く本書を愉しむことができるかと思います。

 個人的には、キリスト教における身体観、「体は魂の忌まわしい衣である」とともに「体は聖霊のための聖櫃である」という非常にアンビバレントな存在であるということについて、様々な例を挙げながら示していく第1章「四旬節と謝肉祭の闘い」を非常に興味深く読みました。どの章も面白いのですが、禁欲、精液と血液、性の営み、労働、涙、夢、笑いなど、いろいろな題材をもとに中世の人々が抱いていたイメージと、それらを生んだキリスト教の抑圧、あるいは聖性を持つものとしての意味付けや称賛の関係が丁寧に示されていてとても面白いです。ついこの間、映画『薔薇の名前』を見直す機会があったのですが、本書に書かれた内容が頭に入っているとより深く味わって楽しむことができるように思います。

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ショーン=コネリー主演の映画『薔薇の名前』(1986)でも

信仰と笑いの関係が議論されるシーンがあります

 

また、面白いだけでなくとても参考になります。イギリスの大学院で医学史の講義を受講する機会があったのですが、政治・宗教史ばたけの私でもこの本をあらかじめ読んでいたおかげでだいぶイメージがしやすく授業が楽になった記憶があります。ほかには、第4章の「メタファーとしての身体」はとても参考になりました。「心」のありかはどこか、「心臓」のイメージの変化、邪淫の座に貶められた肝臓、手の両義性など、言われてみればなるほどそうかと思えることがらが紹介・整理されていて刺激的でしたが、こちらはもう少し厚みがあってもよかったかなと思いました。歴史を考えるにあたって、あらためて当時の人々の心性、認識がいかに大切かを感じさせられた本でした。それなりの値段はしますが、面白いと思いますよ。

 

 

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【難関大】
 清とロシアの国境をめぐる事柄については、難関大では近年頻出の内容ですが、教科書や参考書ではそれぞれ違う部分で語られることが多いため、一連の流れとして把握するのが難しいです。また、関連する地域については世界史の他の箇所で出てくることもないため、地理的把握が十分でないことが多く、文章で示されても「それっていったいドコ?」と、どのように領土が変遷していくのか分からないケースも想定されます。そこで、この地域の様子を示す地図と、各条約の詳細や背景をまとめた表を作成してみました。

清露国境

濃青:アルグン川  緑:スタノヴォイ山脈

オレンジ:アムール川  水色:ウスリー川(ウスリー江)

このあたりの地理で一番わかりにくいところは、実はアルグン川もアムール川もウスリー川もそれぞれがつながっているということを知らないことが多く、どこからどこまでを指しているのか把握しづらいということです。上の図の通り、アルグン川はアムール川の上流部分(濃青)のことで、スタノヴォイ山脈(緑色)と結ぶと康煕帝とピョートル1世との間で結ばれたネルチンスク条約(1689)の国境線となります(黄色いライン)。また、ネルチンスク条約の締結された当時は外モンゴル方面の国境線が定まっておりませんでしたが、17世紀末に康煕帝が外モンゴルのハルハ部を支配下に置くと、同地とロシアの国境画定が問題となりました。その結果、雍正帝の頃に結ばれたのがキャフタ条約(1727)です(ピンクのライン)。

一方、19世紀に入ると欧州列強の清への進出が激しくなりました。こうした中、アイグン条約(1858)が結ばれます。この条約でロシア領とされた「アムール川以北」というのは、「ネルチンスク条約で国境とされたスタノヴォイ山脈よりも南、アムール川よりも北で囲まれた部分」のことを指します。アムール川とは上の地図のオレンジのラインで引かれた部分のことです。ものによっては「アムール川以北」のことを「アムール川左岸」と書いてあったりして分かりにくいんですよね。「左岸」というのは、川を上流から下流に向かってながめたときに左側のことを左岸と言いますが、特別な必要がない限り言葉はできるだけわかりやすく伝えた方がいいかと思いますので、「アムール川以北」の方が個人的には好きですね。

また、同じくアイグン条約では清とロシアの共同管理地、続く[露清]北京条約(1860)ではロシア領とされた沿海州は、水色で示されたウスリー川ならびにその下流のアムール川より東の土地のことを指します。これは「海沿いの州=沿海州」なので分かりやすいですね。

露清国境画定条約一覧 - コピー

上の表が清とロシアとの国境を画定させた主な条約の一覧です。イリ条約は一連の国境画定の流れの中で出てくることはまれなのですが、最近はロシアの南下政策と絡めてユーラシア全体を把握させようとする設問が見られる(例:東大2014など)ことから、念のため追加しました。

 これら諸条約で一番大切かつよく出題されるのはもちろん「どの条約がどのように国境を画定したのか」ということなのですが、意外に清とロシアの通商関係が問題になっていることに気付きます。こうした通商関係をめぐる設問も見られるようになってきていますし(例:東京外国語大学2016)、朝貢体制の外で展開された「互市」という関係を視野におさめた設問や参考書も増えてきました。(例:東大2020 / 『詳説世界史研究』、山川出版社、2017年版、p.236) 私が高校生くらいの頃はこれらの条約の内容を把握しておくだけでも「すごいな」とか「どんだけ世界史やっとんねん。」という感じだったのですが、今後は諸条約をまとめるだけではなく、通商や対外関係なども含めたより広い視点で把握する力が難関大では求められてくるかもしれません。

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東大第3問(小問記述など)の解答または解答に関連する事項のみ一覧にしたものを作成してみました。1988年より以前になると第3問でも小論述が中心になってきてしまい、かえって全体の傾向を把握できないので、今回は1989年~2021年までを対象としています。東大過去問を思い切り昔までさかのぼって確認したい場合には、教学社から出ている『東大の世界史○か年』シリーズや駿台の『東大入試詳解○年世界史』シリーズなどが出ていますので、こちらを用いると良いでしょう。また、ネット上でも「世界史教室」さんなど、過去問や解説が見れるサイトがありますので、そちらからでも良いかと思います。

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(東大第3問解答等一覧[1989-2021]

 

今回の一覧作成にあたっては、手元に『東大の世界史25か年[2]from1985to2009』(教学社)がありますのでそちらと、あとは手元にある最近の東大過去問を見ながら一通り解き直してみました。古い本は取っておくものだわ、かさばるけど。その上で、頻出のものや、高校生に対して聞く設問としてはいささかエグイと思われるものなどをピックアップして色分けしてみました。一覧表を作ってからの確認になるので、一部頻出であるにもかかわらず見逃しているものなどあるかもしれませんが、「あー、これはよぉ出るわw」と思えるものはだいたいチェックしてあるかと思います。(「新大陸産作物のジャガイモ、サツマイモ、トウモロコシ」なんてのはどんだけ好きやねんレベルで出てきます。)

 

全体を比較できるように、上の表は1989年~2021年の33年か年分すべてをまとめてありますが、もしかすると表示が小さくて見にくい部分もあるかと思いますので、以下には198820012002201120122021に細かく分けたものを示しておきます。

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(東大第3問解答等一覧[1989-2001]

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(東大第3問解答等一覧[2002-2011]

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(東大第3問解答等一覧[2012-2021]

 

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昨日、ブログをお読みいただいている方からエンコミエンダ制とアシエンダ制の区別についてご質問をいただいたので、それについて書いてみたいと思います。こちらの区別は正直専門外ですので、私自身もよく把握していないのですが、とりあえずは高校世界史で紹介されている定義と、私の方で「こういうものかな?」と理解している事柄について書いた上で、「この辺をおさえておけばOK」という点をまとめてみたいと思います。分かりやすくまとめるのが主眼ですので、私自身がイメージしていることについては一部不正確な部分があるかもしれませんが、そのあたりをご理解の上でお読みください。

 

まず、すでにご存じかとは存じますが、エンコミエンダ制とアシエンダ制の高校世界史における基本的な定義は以下のようになっています。

 

エンコミエンダ制

:スペイン王室の認可を受けて、ラテンアメリカに入植したスペイン人植民者が、一定地域の先住民に対するキリスト教化の義務を負う一方で、同地の土地の利用や住民を労働力として使役する権利が認められた制度。

アシエンダ制

:スペイン人大土地所有者が現地人を債務奴隷として労働力とする大農園経営の形態。その地主であり経営者であるスペイン人入植者は現地のインディオの債務者を債務奴隷として家父長的に支配しながら経営した。「世界史の窓」、アシエンダ制より)

 

エンコミエンダの説明は私の方で理解していることを文章にしてみました。アシエンダについての説明は「世界史の窓」さんに書かれていたものを引用させていただきました。ついでに、教科書や参考書に書かれている定義は以下の通りです。(用語集は今手元にないので、後で付け足しておきます。)

 

・『詳説世界史B改訂版』(山川出版社)2016年版

・『新世界史B改訂版』(山川出版社)2017年版

:索引に記載がありません。

 

・『世界史B』(東京書籍)

:スペインの植民地では、17世紀前半から、アシエンダ制とよばれる大土地所有にもとづく農園経営が広がり、大農園主は負債を負った農民(ペオン)を使って、農業や牧畜を営んだ。17世紀半ばから銀の生産が減少に向かって、交易がおとろえると、アシエンダ制はいっそう拡大した。(p.207

:ラテンアメリカ諸国では、19世紀初頭の独立後も大土地所有制(アシエンダ制)が存続し、植民地時代からの階層的な社会構成のもとで、極端な貧富格差と社会的不平等が残った。(p.303


・『詳説世界史研究』(山川出版社)2017年版

:…16世紀末以降エンコミエンダ制にかわってアシエンダ(大農園)制が広がり、スペインの植民地支配は維持された。先住民の減少で不足する労働力を補うためには、アフリカから黒人奴隷が導入された。(P.253

:…マニラ開港とともに、サトウキビ・タバコ・マニラ麻などの輸出向け商品作物生産がさかんになった。こうした商品作物栽培は、商人・高利貸しやスペイン人や修道会による大所有地(アシエンダ)を生み出した。(p.379

 

以上を確認してみると、高校世界史の中で紹介されている両制度の定義の基本的な区別は、エンコミエンダが先住民(インディオ)の強制徴収と半奴隷化によって成り立っているのに対し、アシエンダではインディオにかわる労働力として債務奴隷が用いられたこと。また、その成立の背景から、エンコミエンダが成立するのは基本的にはスペインによる征服時からインディオの人口減少により経営が難しくなり、さらにエンコミエンダに対する批判が強まる16世紀末ごろまでで、アシエンダが成立するのはそれと入れ替わるようにして17世紀以降からだということです。

ただ、私自身もこうした定義、特に「アシエンダとは何か」ということについて、昔はさっぱりイメージがわきませんでした。「エンコミエンダとどこが違うのか」、「そもそもインディオの激減で人口が減ったからアシエンダに変わるのにインディオの債務奴隷って何だ」とか、「債務奴隷ってどうやってできてどういう連中なんだ」とか、「黒人奴隷はどうなるんだ」、などです。

これらの疑問を解決して自分なりに納得するためには、高校世界史で紹介されている定義を離れて、そもそもアシエンダとはどういうものなのかを理解しておく必要があるように思います。そこで、アシエンダについて私なりに理解していることをご紹介して思います。厳密には正しくないこともあるかもしれませんが、イメージはしやすくなるように思います。

 

・アシエンダとは、スペイン植民地などで何らかの労働力を用いて経営される大土地所有制のことを言う。

・この場合の労働力は、地域によって様々であり、先住民、黒人奴隷、債務奴隷などが用いられる。多くの場合、奴隷以外の労働力は何らかの形で土地所有者に対して経済的な「負債」を負っており、その対価として労働することになっている。(たとえば、土地を利用するにあたり必要な初期投資を地主に拠出してもらったとか、生活に必要な物資を工面してもらったなど) エンコミエンダとの違いは、エンコミエンダが「王室からの認可」によってその土地の統治を委任されているのに対し、アシエンダの場合は、地主は土地所有者であり、先住民の教化などの義務を負ったり、王室からの認可を(原則)必要とはしない点にある。

・土地の利用の仕方も様々で、商品作物栽培用のプランテーションが経営されることもあれば、その土地の自給自足のために小麦や食肉生産が行われることもあれば、鉱山などが近くにあれば鉱山経営がなされることもあり、そうした大土地経営全てをアシエンダと呼ぶ。(エンコミエンダが富の収奪に主眼が置かれるため、鉱山経営やプランテーション経営に偏りがちなことを考えると、アシエンダの自給自足型土地経営はややエンコミエンダと趣が異なる。)

・概念としては古代ローマにおけるラティフンディアに近く、ただ労働力が奴隷制のみに依存していない点でラティフンディアとは異なる。

・「アシエンダ」という呼称が用いられるかどうかや、その持つ意味も、各地によって異なる。たとえば、メキシコでアシエンダと呼ばれる大土地所有ないし大規模不動産は、アルゼンチンなどではエスタンシアと呼ばれ、このエスタンシアはアルゼンチンでは多くの場合、牛や羊の放牧地として使われる。(代表的な場所が地理などで良く出てくるパンパ。)

・ラテンアメリカに限らず、フィリピンなどのスペイン領植民地でも成立している。

 

だいたいこんな感じが「アシエンダ」のイメージになります。ですから、「アシエンダ制」という名前がついているにもかかわらず、そもそも「制度」ではない気がします。(エンコミエンダは「制」で構わないと思いますが。) イメージしやすくするために、プエルトリコにあるかつてのコーヒー農園だったアシエンダをご紹介しておきます。今ではこうしたアシエンダの一部はリゾート用の宿泊所にもなっているようですね。

enko

:プエルトリコのアシエンダ[復元] かつてはコーヒー農園で、
労働力として奴隷と地元住民が使役された。
Wikipedia英語版「Hacienda Lealtad」より)

enko2

:罰を受ける奴隷がつながれた場所
Wikipedia英語版「Hacienda Lealtad」より)

また、その利用形態、使われる労働力、利用目的も地域や時期によってバラバラなので、これらを一括して何らかの統一された内容を示す用語として定義すること自体にかなり無理があると思います。より広義の概念を示す用語としてとらえた方がよさそうです。例として適切かはわかりませんが、イメージとしては、日本のものも、ヨーロッパのものも、時代も無視して全部ひっくるめた「荘園」という語のイメージに近いですねw ですから、そもそもエンコミエンダ制と対置できる概念なのかかなり疑問です。

ひと通り見てきましたが、高校世界史でエンコミエンダ制とアシエンダ(制)の両者の区別をするにあたっては、まず「エンコミエンダ制とは何か」をしっかりと理解した上で(エンコミエンダ制の方が定義がはっきりしているので)、以下のことをおさえておくと良いでしょう。

 

・エンコミエンダ制が展開されるのが16世紀であるのに対し、アシエンダ(制)が本格的に展開されるのが17世紀以降であること

・アシエンダ(制)は地域によって様々な形態があるが労働力としては主に負債を負った農民が用いられていること

・アシエンダ(制)はラテンアメリカだけでなく、フィリピンなどのスペイン領植民地でも展開されたこと

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(追記:起きたらものすごい数の方にご覧いただいていて正直驚きました。ありがとうございます。一部、画像の使い方に問題があるのではないかとお𠮟りをいただき、私の方でもそのように感じましたので、削除・編集いたしました。[ⓒ石田スイ『東京喰種トーキョーグール』集英社、ⓒ『機動戦士ガンダム』、ⓒカルロ・ゼン『幼女戦記』、ご関係者の皆様にはご迷惑をおかけいたしました。])

ものすごく古い問題なのですが、慶應義塾大学経済学部で1994年に出題された設問が個人的に「イイ!すごくイイ!」とちょっと興奮するレベルなのでご紹介できればと思います。
さすがに30年も前の出題の1部なので、こちらについては引用したいと思います。(もっとも、こちらの問題は私も人づての紹介なので、原典を確認したわけではありません。)

 

問 次の文章[A]は、イギリス産業革命の社会的影響についての1つの見解であるが、使う資料によっては別の見解も成り立ちうる。[B]に示されたイギリスに関する4つの資料を使って別の見解を組み立てて書きなさい。(200250字以内)

  注意:解答は諸君自身が[A]に賛成かどうかを問うものではない。

 

[]

 産業革命によってしだいに経済力を強めた資本家階級は、第1次選挙法改正によって政治上の支配権を握り、さらに穀物法撤廃によって地主階級から経済上の実権を奪った。他方、大規模な機械制工場生産の確立にともなって創出された労働者の生活水準は低下し、貧困化が進んだ。

 

[]

表1 イギリス下院の構成比

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表2 国民所得の階級別分布(1867年)

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表3 国民所得の推移

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表4 賃金指数の推移

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いかがでしょう。たまらんですよ!たまりません!いやー、これは本当にイイものだ!(マ=クベ的に) 

以前にお話したことがありますが、歴史の醍醐味の一つに、ある事実を多角的に見ることによって全く別の姿が浮かび上がることがある、という点があります。本設問はまさにそうしたことを高校レベルの世界史知識と示された史資料によって体験させ得る設問で、かつ難しい問題ではあるのですが「激ムズ」とか、「悪問」の類ではない絶妙な難しさになっています。正直、このレベルの史料問題が作れたら「ああ!これは史料問題だ!」と胸を張って言えるレベルです。その辺に蔓延している(というか、私自身も楽なので安直によく作ってしまう)ただ単にグラフの年号を読み取らせて「この年には何が起こりましたか」レベルの設問を出して「これは史資料を使った問題です(ドヤ)」と言い張っている設問と比べると、その質は雲泥の差と言ってよいでしょう。はっきり言って、美しい問題です。初めてこの問題を見たときには、この設問を作った先生は歴史学とは何ぞやということを本当によくわかっていらっしゃるとうれしくなる始末でした。

 さて、散々ほめ倒した上で、どの辺がイイのかということを解説していきます。まず、文[]の内容を要約すると、「産業革命が起こって産業資本家が台頭したので、産業資本家たちは政治上の支配権を握った上、地主から経済上の実権も奪いましたよ。一方で労働者の生活水準は低下して貧困化しましたよ。」となります。設問はこの文[]の見解について「別の見解が成り立ちうることを、資料を用いて考えよ」というものでこの数十年長らく問題となってきている「生徒にアタマを使わせる」設問になっています。「解答は諸君自身が[]に賛成かどうかを問うものではない」っていう注意書きがまた、たまりません。「諸君」とか上から目線で言われても仕方ねぇかなって思えてきちゃいますね。

 []の見解は教科書等ではよく見られる説明で、実際にこのように解説され、理解している受験生も多いはずです。また、このような見方は歴史学的に見ても必ずしも間違っているものではありません。実際に、産業資本家たちは1832年の選挙法改正で選挙権を手にしますし、自由主義を掲げて貿易についての様々な既存の特権・障壁を撤廃し(東インド会社、穀物法、航海法など)、奴隷制を廃止します。また、産業革命の進展は労働問題、都市問題などを引き起こし、労働者の貧困や権利要求は19世紀を通して大きなテーマとなっていきます。

 にもかかわらず、本設問の資料の用い方、読み取り方次第ではまったく異なる見解を導きうるというところに、この問題の面白さがあります。また、さらに問題を解いた後で「どうして異なる見解が生じるのだろう」、「どちらの見解が正しいのだろう」と考えさせる余地があるところに本設問の本当の凄みがあります。歴史というのは知識を暗記する学問であり、「知る」学問だと勘違いしている人が多いのですが、実際には歴史学において「知る」というのはあくまで前提であり、知識を収集して「知り」、情報を集めて分析した上でそれらをもとに「考える、想像する」ところに歴史学の肝があります。本設問は、高校生にその入り口を垣間見させることができる貴重な設問だといえるでしょう。

 

では、どのように資料を読み取れば別の見解が成り立つのでしょうか。まず、表1を見てみましょう。こちらはイギリスの下院(庶民院)構成比を示しています。

表1 - コピー

[]の見解によれば、「産業資本家たちは政治上の支配権を握った」とされています。だとすれば、もっと多くの産業資本家(表中では「製造業者」などの層)が庶民院の議席を占めていなければなりません。にもかかわらず、産業資本家が議席を得た第一回選挙法改正(1832)の前後で、庶民院の構成比にはほとんど変化がありません。この表だけを見る限り、「産業資本家が政治的実権を握った」とはとても読み取れないように思えます。

 また、同じく[]の見解によれば、「(産業資本家たちは)穀物法撤廃により地主階級から経済上の実権を奪った。」ことになっていますが、これも表2を見ると否定されます。表2の注意書きでは*1の「上流階級」が主に貴族とジェントリから成り、*2の「中産階級(上層)」が製造業者、商人、銀行家(つまり、この階層が産業資本家層)から成るとされています。ところが、この表は1867年のものであるにもかかわらず、「上流階級」が所得のほとんどを占めていることが見て取れます。「上流階級」は家族数が全体の0.5%しかいないのに、国民所得の26.3%を占めています。「中産階級(上層)」が全体の1.5%の家族数で10.6%の所得ですので、仮に家族数を上流階層と同じ0.5%でそろえたと仮定した場合には10.6÷33.53の所得となり、家族一つあたりの経済規模は上流階層の7分の18分の1程度しかありません。ちなみに、同表をもとに家族1単位あたりの国民所得比をざっと算出すると以下のようになります。

国民所得比(再計算) - コピー

つまり、貴族やジェントリなどの地主階層(上流階層)は、産業資本家層の約78倍、それより下の一般市民に対しては50100倍以上の所得を得ていた計算になります。表21867年と示してあることから年間国民所得と思われます。現在の感覚に直すと、2022年現在の日本の平均所得がざっと400万程度とのことですから、少し低く見積もって中間階層(下層)の平均所得を仮に300万くらいだとすると、産業資本家層は20003000万、上流階層は15000万ほどが年収でしょうか。この状態で産業資本家が「経済上の実権を奪った。」というのは少し難しそうです。

 最後に、[]は「労働者の生活水準の低下」と「貧困化」を挙げています。たしかに、上の表を見る限り、労働者階級は上流階級や産業資本家層と比べると得ている所得は極めて低いです。また、表3を見ると一人あたりの国民所得は多少の増減はあるものの概ね20ポンド前半を行ったり来たりしていて大きな変化はありません。しかし、一方で物価指数は大きく下落しており、1800年の物価指数を100とした場合、1846年時点の物価指数は69しかなく、約50年の間に物価が半分近くに下がっていることが見て取れます。所得(給与)に変化がないのに物価が下がっているわけですから、1800年より1846年の方が暮らしやすくなっているはずです。

表3 - コピー

そのことを裏付けるように、表4では、名目賃金指数に変動はないものの、実質賃金指数は1800年から1850年にかけて、46.2から100へと倍増しています。つまり、所得額が一定のまま物価が半減したために、実質的に購買力が2倍になったことを示しているわけです。以上のデータから、労働者の生活水準の低下と貧困化を言うことは難しくなります。

 ですから、解答を組み立てるとすれば以下の内容をまとめることになります。

 

① 表1より、庶民院の議員構成比に、第1回選挙法改正の前後で変化がないため、資本家階級が政治上の実権を奪ったとはいえない。

② 表2より、国民所得の多くを少ない数の上流階級が得ており、かつ中産階級の1家族当たりの所得は上流階級のそれと比べてかなり少ないため、資本家階級が地主階級から経済上の利益を奪ったとはいえない。

③ 表3より、一人当たり国民所得に大きな増減はないが、物価の下落によって実質賃金指数は上昇しており、人々の購買力は徐々に上昇しているため、労働者の生活水準の低下と貧困化を表の中から読み取ることはできない。

→以上の分析から、[]の見解が正とは一概に言えない。

 

 とまぁ、こんな感じで史資料を読み解くことになるのではないかと思います。(もっとも、私が知っているのは問題だけで、模範解答は手元にないので合っているかどうかはわかりませんが。)

 ただ、この設問の良いところは、答えを出したところで終わらないところですね。これを材料にしてさらに新たな問いを設定することができるのです。つまり、「なぜ歴史の教科書で説明されているような[]の見解とは相反する内容が表1~表4には示されているのか。」です。見解[]が間違っているのでしょうか。それとも、表のデータが間違っているのでしょうか。いえ、おそらくはどちらも正しいのです。ここからは私個人が推測して読み取った内容で、別に文献や史料の裏付けがあってお話しているわけではないので、間違いがあるかもしれませんがそのつもりでお読みください。

 まず、表1のイギリス庶民院の構成比が変化していない件についてです。たとえばですが、議員の数に変化がないからと言って資本家階層の政治的影響力が増していないとは言い切れません。被選挙権を行使して立候補はしていなくても、投票行動によって政治的な圧力を加えていたかもしれません。また、研究によってこの時期のイギリスでは盛んに「ロビー活動」と呼ばれる議会への働きかけが非常に積極的になされていたことがわかっています。また、表中の「貴族」「ジェントリおよび貴族の縁故者」、「製造業者、商人、銀行家」の中身は、果たして1831年と1865年では同じなのでしょうか。あくまでもたとえばですが、非常に大きな経済力をつけた資本家階層が、(まぁ、そのクラスがいきなり大貴族と親戚関係になることはないでしょうが)逆に没落したジェントリおよび貴族の縁故者などに取り入って婿をもらう、嫁をもらうなどして社会的上昇を果たした場合、それは「ジェントリおよび貴族の縁故者」に分類されるのでしょうか、それとも「製造業者、商人、銀行家」として分類されるのでしょうか。また、産業革命後に到来したヴィクトリア朝期には、従来の価値観が変化し、それまでは必ずしも「立派な」職業とはみなされていなかった職業が「ジェントルマンらしい」職業として人々から受け取られるようになったことも知られています。(例えば軍人[将校]など) つまり、19世紀は変化の時代であって、それまでの時代よりも社会的流動性は高く、30年前に産業資本家として分類されていた人物が30年たった後もそのままの階層に分類されるかはわかりません。表1には、そのあたりの注意書き等はありませんので、一見すると変化がないように見えてもそれは数字上のことで、実態としてはかつての資本家階層が社会的上昇を遂げて政治的影響力を大きく増しているのかもしれません。つまり、本資料は読み取り方次第でどのようにも取れてしまう可能性があるのです。

 表2についても同じことが言えます。つまり、1867年時点での「産業資本家」と第1回選挙法改正前の「産業資本家」が同一の内容・実態を持った社会集団かどうかは分からないのです。また、仮にそれが同一のものであったとしても中産階級(上層)の家族数は上流階級(下層)のそれの3倍にのぼり、国民所得においても中産階級が上流階級の5分の2に及ぶものを得ているとなれば、その経済力は決して無視できるものではない、という見方もできるでしょう。こちらも、資料の読み取り方ひとつでガラッと社会の姿が変わることになります。また、表3や表4についても、たしかに物価は下がっていますがここで示されている国民所得は平均値です。もしかしたら労働者は平均値よりかなり離れた低い賃金で働いていたかもしれません(実際、表2の国民所得の階級別分布をみるとそのように見えます)。また、一人の稼ぐ賃金の額面に変化がなかったとしても、その稼ぎ手が多くの家族を養っていたとすればどうでしょう。19世紀のイギリスは人口増加の時代であり、かつその人口の大半が若年層であったことが知られています。一説によると、19世紀前半のイングランドでは4割から5割が15歳以下であったと言われています(Eric J. Evans, Britain Before the Reform Act: Politics and Society 1815-1832,Longman,1989)。だとすれば、特に労働者階層では多くの若年家族を抱えた労働者が増えない賃金のもとで生活をしていたとも読めるわけで、そうした場合、たとえ物価が下がっていたとしても住環境や食事などは劣悪な状態であったかもしれません。

 このように、慶應経済学部1994年の設問は、問題を解くだけでなく解いた後も、「一つの事実からこういう見方もできるんだ」とか「あるデータがあったとしてもその読み取りにはこういう読み方もできるんだ」ということを具体的に伝えることができる優秀な教材として活用することができるわけで、歴史学の入門としては非常に使い勝手の良いものとなっています。下手をすると院生ですら、史料の文言や得られたデータの表面にだけ拘泥してしまい、一方通行の見方しかできないこともある中で、こうした深みのある設問を作れるということからは、作問者の歴史学に対する深い理解をうかがい知ることができるように思います。慶應すげー。星三つですね。

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