インド史は、情報量自体は少ないにもかかわらず、馴染みがないせいか受験生にとってはとっつきにくい分野のようです。ですが、このインド史はとてもコスパが良い!何と言ってもわずかプリント数枚分の情報量なのに、各模試では下手すりゃ大問1個分ドカンと出たりします。受験でも特に近現代史については頻出の箇所だったりします。ただ、近現代史については、教科書でもプリントでも情報が断片的に出てくることが多く、特にムガル帝国衰退以降のインド史、なかでも民族運動の全体像がつかめないという受験生は多いようです。

 そこで、今回はアウラングゼーブの死以降からインドとパキスタンの分離独立のあたりまでを一つの流れとして示してみたいと思います。私の頭の中で、ムガル以降のインド史は下のような形でまとめられています。

 

① バーブル~アウラングゼーブまでを君主ごとに特徴まとめ(16世紀~18世紀初)

② アウラングゼーブの死以降のムガル帝国分裂とイギリスの進出(18世紀初~19世紀)

③ 東インド会社の変容(18世紀後半~19世紀前半)

④ インド大反乱とムガル帝国滅亡(1857-59)からインド帝国の成立(1877

⑤ 民族資本家・知識人の成長と民族運動の展開(19世紀後半)

  A、国民会議派の形成期(1880s

  B、国民会議派の急進化とヒンドゥーとムスリムの対立(1905~)

  C、第一次世界大戦と第一次サティヤー=グラハ(1910s半ば~1920s初)

  D、インド独立運動の再燃(1920s後半~)

⑥ インド・パキスタンの分離独立(1947

 

 ある地域の通史を効率よく思い出すには、こうした特定の時代ごとにいくつかのブロックにわけて整理するやり方が効果的です。(もっとも、本当の意味で歴史を理解するためには重層的な理解が必要になるので、過度のモデル化や単純化は避けた方が良いのですが。)

今回は、この区分けに従って②~⑤の流れを示してみたいと思います。

 

(アウラングゼーブの死以降)

 アウラングゼーブが亡くなるのは1707年、ちょうどイギリスでグレートブリテン王国が成立(スコットランドとの合同)した年のことです。アウラングゼーブは、かつて3代皇帝アクバルが進めたヒンドゥー教徒(ラージプート諸侯)との融和政策を転換し、ジズヤの復活やヒンドゥー寺院の破壊やモスクへの建て替えを進めたため、ラージプート諸侯の反発を買い、帝国は分裂を始めます。「ラージプート」というのは、ムガル帝国進出前からインドにいたヒンドゥー教を信仰する支配階層カーストのことです。彼らからすれば、ヒンドゥー教を信仰している限り「上位カースト=えらい」が生まれながらに保障されるわけですから、ヒンドゥー教信仰はとても大事なわけです。

 さて、ムガル帝国が分裂に向かう頃、インドではイギリスとフランスが勢力争いを展開していました。当初、両国は貿易のため沿岸地域に拠点を構えました。イギリスはカルカッタ、マドラス、ボンベイに、フランスはポンディシェリとシャンデルナゴルにです。

 インド英仏拠点

 

ところが、ムガル帝国の分裂が進み、各地に小諸侯が事実上の独立国として乱立し始めると様子が変わってきます。特に、イギリスの拠点マドラスとフランス拠点ポンディシェリがあったインドの東南岸(カーナティック[カルナータカ])地方では、地元の諸侯の内紛や対立が発生して政治的に極めて不安定で、英仏の活動の余地が拡大していきます。こうした中で、ヨーロッパにおいてオーストリア継承戦争が1740年から開始されたことで、インドにおける英仏両拠点間の緊張も高まっていきました。この緊張の中でイギリス側がフランス船を拿捕したことがきっかけでカーナティック戦争(1744-4850-5458-61)がはじまります。

 このカーナティック戦争を皮切りに、イギリスはフランス勢力をインドから排除していきます。プラッシーの戦い(1757)でフランスと同盟したベンガル太守軍を打ち破ったのち、ブクサールの戦い(1764)でムガル皇帝やベンガル太守などの連合軍を打ち破って、ベンガル・オリッサ・ビハールのディーワーニー(徴税権)を手に入れます。ディーワーニーとは、帝国財務大臣または各州の財務長官(ディーワーン)の持つ権限のことで、主に徴税権などのことでした。イギリスは形式上、ムガル帝国のベンガル・オリッサ・ビハールの州財務長官となり、その権限を行使しますが、さらにこれを拡大して各州の行政権を手に入れ、実質的な太守の座を獲得します。

 ここで重要なことは、それまでは商取引による収入の拡大とそのための拠点づくりが主な目的であった東インド会社の業務の中に、土地管理・行政が加わったという点です。そして、これ以降イギリスはマイソール戦争(1767-6980-8490-92:南インド)、マラータ戦争(1775-821803-051817-18:デカン高原)、シク戦争(1845-4648-49:パンジャーブ地方)などを通して各地方勢力を撃破し、その支配領域に勢力を拡大していくことになります。世界史で押さえておくべきこの時期のインドのイメージは3点でしょうか。

 

① ムガル帝国の衰退と諸侯の分立

② イギリスが商取引中心の活動から土地支配にも乗り出す

③ 東南から西北に北上するような形で支配領域を拡大。

  (カーナティック戦争、プラッシーの戦い以降)

 インド戦争

 

 上がその地図です。アバウトですが。赤が一部カシミールにかかっちゃってますね。でもまぁ、いつも申し上げるように世界史では正確な地図より位置関係の把握の方が重要ですので、この程度の把握でも十分ですw

 

(東インド会社の変容)

 上述のように、イギリス東インド会社は次第にインドの土地支配を拡大していきます。その中で成立していく制度がザミンダーリー制とライヤットワーリー制です。この両制度は近年の東大の問題でも出題されるなど、だんだんと受験生の間でも周知されるようになってきました。この両制度の違いは、イギリスと民衆の中間にザミンダール(地主)をはさむかどうかということです。地主を介するのがザミンダーリー制、そうでなく農民(ライヤット)から直接イギリスが租税を徴収するシステムがライヤットワーリー制です。 

ザミンダーリー制、ライヤットワーリー制

 ザミンダーリー制が1793年にベンガルで初めて導入されて以降、ベンガル地方を中心に展開されたのに対して、ライヤットワーリー制は19世紀初めからイギリスが併合していく中部~南インドにかけて導入されたという地理的な違いにも一応注意を向けておくと良いかと思います。

 また、東インド会社がディーワーニーを獲得し、土地と人民の支配を開始したことでイギリス本国政府は東インド会社に対する監督を強めていきます。従来から、イギリスはボンベイ、マドラス、カルカッタの3都市に商館を置いていました。プラッシーの戦いの後、イギリスはカルカッタ周辺の一部の土地支配権を獲得します。それぞれの商館が獲得した支配地域は管区としてそれぞれに知事が置かれることになりました。プラッシーの戦いで活躍したクライヴは、初代のベンガル知事に就任しています(1758年)。中でも、重要性を増したベンガル知事は、1773年にベンガル総督に昇格され、インドの全ての管区はこのベンガル総督の監督下におかれることになりました。その初代ベンガル総督に就任したのがヘースティングズです。(参考書によっては「ベンガル総督」ではなく後に改称される「インド総督」とされています。)

 当初、こうした知事職または総督職はイギリス東インド会社の役員会によって決められていましたが、1784年にイギリス本国政府がインド庁を発足させると、東インド会社に対するインド庁の発言権が次第に増大し、実質的にベンガル総督の人事も本国政府の意向によって決定されるようになります。また、東インド会社の商業活動にも次第に制限が課せられるようになりました。その背景には、本国イギリスで本格化した産業革命と、産業資本家の台頭により、一部の特権商人が商取引で利益を上げる東インド会社のような特許会社の存在よりも、イギリスで製造した綿織物をはじめとする工業製品を他国に輸出することで利益を上げるための自由貿易の方が重視されたことがありました。1813年には東インド会社のインドにおける貿易独占権が廃止され、さらに1833年には中国の貿易独占権が廃止されたことで、商業活動が停止されます。この商業活動が停止された1833年の特許法において、ベンガル総督はインド総督と改称されます。世界史においておさえておくべきこの時期の知識としては、

 

① ザミンダーリー制とライヤットワーリー制

② 東インド会社の活動内容の変容(商取引から土地支配へ)

③ 東インド会社の特権の廃止と本国の自由貿易体制への移行、その背景

④ 初代ベンガル(インド)総督がヘースティングズであること

 

などを押さえておけば十分だと思います。

 

(インド大反乱とムガル帝国滅亡)

 東インド会社の諸特権が廃止され、イギリス本国の監督が強化されるに従い、インドにはイギリスからの綿製品が大量に流入することとなりました。

インド産綿布、イギリス産綿布

(東京書籍『世界史Bp.324

 その結果、インドの重要な産業であった手作業に依存した綿織物業は安価なイギリスの工場で生産された綿織物によって駆逐され、壊滅的な打撃を受けることになりました。その結果、職人たちが失業し、イギリスへの綿花の供給地へと転落したインド経済は低迷を続けます。さらに、イギリスはマイソール戦争、マラータ戦争、シク戦争などを通してインド支配を拡大する際に、各地方の小勢力を根絶やしにするのではなく、イギリスに協力的な勢力には一定の条件の下で自治を認める政策をとりました。このように、イギリスのインド支配下で一定の自治を与えられた諸侯のことを藩王国といいます。

これらの藩王国は、インド大反乱(1857-1859)の後にはインドにおける貴族として扱われ、保護される対象となります。イギリスは、本国において成立していた社会的ヒエラルキー(庶民‐ジェントルマン・貴族etc)に類似のヒエラルキーをインドにもおいても式典や儀礼などを通して可視化し、それを統治に利用していきます。イギリスのインド統治に関しては「分割統治(分割して統治せよ)」が有名ですが、これは様々な面に及んでいて、各藩王国同士を分断して競わせるだけではなく、身分・社会的地位・財産などによる分断、宗派による分断などを通して、インドに住む人々が一致団結してイギリスに反抗しないようにするという発想が根幹にあり、カースト制度の利用や、ヒンドゥー・ムスリム間の対立を煽ることなども行われました。(このあたりの事情のうち、イギリスによる藩王国統治が大英帝国内の装飾的秩序の中でどのように位置づけられていたのかについては、デイヴィッド=キャナダイン著、平田雅博・細川道久訳『虚飾の帝国‐オリエンタリズムからオーナメンタリズムへ』などを見ると面白いと思います。)

ただ、藩王国の保護とヒエラルキー的な諸秩序が形成されていくのは、インド大反乱の後、インド帝国が形成されていく中でのことで、インド大反乱前の藩王国はイギリスからかなり厳しい扱いを受けていました。中でも諸侯から恨みを買うことになった政策が「失権の原則」で、藩王国の君主に嫡子がいない場合にはその藩王国の自治を取り上げてイギリスの支配下に置く(要は「お家お取り潰し」)というものです。これにより、多数の没落した旧支配層が発生していました(江戸時代でいえば浪人ですね。)。さらに、インドの領土拡大が完成を見たことで、かねてから東インド会社が軍事力として活用してきたシパーヒーの解雇が進んだことで、ここでも多くの失業者が発生します。つまり、インド大反乱前夜のインドでは、以下のような食い詰めた人々、そして人々の不満がたまっていました。

 

・インド綿産業の壊滅にともなう大量の失業者と経済の低迷

・藩王国の取り潰しによる没落した支配層の増加

・不要となり、解雇され始めたシパーヒー

 

 インド大反乱ことシパーヒーの乱では、従来はそのきっかけとなった弾薬包に獣脂が染み込まされているという噂が広まったこと(豚であればムスリムにとって不浄で、牛であればヒンドゥーにとっては神聖なので、薬包を口に含むことが禁忌となる)がクローズアップされてきましたが、反乱の背景となる要因が多数存在したこと、実際の反乱に参加した人々がシパーヒーだけではなく、多様な階層にわたったことなどから、最近ではインド大反乱の呼称が使われているようです。(平成30年度版の東京書籍『世界史B』はインド大反乱、最新版の『詳説世界史研究』では索引でシパーヒーの大反乱が使われ、本文では<インド人傭兵(シパーヒー)による大反乱>とされています)

 この反乱に際して、すでに力を失っていたムガル皇帝バハードゥル=シャー2世は反乱軍の最高指導者として祭り上げられます。とはいっても、生年が1775年なので、当時は御年80歳を超えていますので、完全に名目上の指導者でした。ですが、反乱鎮圧後はその罪を問われてビルマへの流刑となり、ここにムガル帝国は滅亡(1858)します。さらに、東インド会社はインド統治が不十分であったことの責任を負って解散(1858)となりました。この時からイギリスによるインドの直轄支配がはじまることになります。

バハードゥルシャー

流刑前のバハードゥル=シャー2世(Wikipedia

 

 その後、インドでは上述のような藩王国の保護と秩序の再編が進んでいきます。そして1877年、ディズレーリ内閣はヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させ、形の上では同君連合ですが実質的な植民地としてインドをイギリスの完全な支配下におさめました。世界史における知識としては、

 

①イギリス産綿製品の流入とインド綿産業の壊滅

②インド大反乱とその背景

③ムガル帝国の滅亡(1858

④イギリス東インド会社の解散(1858

⑤インド帝国の成立(皇帝:ヴィクトリア、ディズレーリ内閣の時)

 

あたりを押さえておけば十分かと思います。

 

(民族資本家・知識人の成長と民族運動の展開)

[A、国民会議派の形成期(1880s]

 イギリスによるインド支配は、もともと住んでいたインド人に対して非常に差別的で、政治的な諸権利も認められていませんでした。具体的には、英語の強制や土着言語での出版の禁止、司法制度の不平等などです。こうした諸政策に対する反発から、バネルジーは1876年にインド人協会を、1883年には全インド国民協議会を結成します。一方、イギリスはこうした動きを牽制するために、1885年にインド人の上層階層やイギリスに協力的な知識人からなる親英組織であるインド国民会議を結成させます(第1回会議はボンベイ)。バネルジーの運動はまもなくこのインド国民会議に吸収されます。(1886年に全インド国民協議会がインド国民会議に合流。) そして、インド国民会議と彼らに同調して行動する政治集団は、インド国民会議派と呼ばれる一派を形成することになります。こうした政治団体が作られるようになった背景には、イギリスの英語教育や、分割統治によるインド人上流階級の保護と形成、民族資本家の成長などにより、西欧式の教育を受け、西欧の思想に触れる人々が増加してきたことがありました。

 

[B、国民会議派の急進化とヒンドゥーとムスリムの対立(1905~)]

 インド国民会議は当初親英団体でしたが、その性格を大きく帰る事件が起こります。これが1905年に制定されたベンガル分割令(カーゾン法)です。当時のインド総督カーゾンは、親英団体インド国民会議の中でも次第に台頭してきた反英的な急進派や、その他の民族運動に神経をとがらせていましたが、行政の効率化と民族運動牽制のために、当時民族運動が盛んであったベンガル地方の行政区画の再編を行います。その結果、新しい行政区画では各行政区における人口比が激変し、従来の行政区であれば多数派であったヒンドゥー教徒の意見が、新行政区ではムスリム住民の比重が増し、ムスリムの意見が反映されやすい状態になってしまいます。これに怒ったヒンドゥー教徒中心のインド国民会議では、急速にティラク率いる急進派の発言力が増大します。その結果、彼らは穏健派のバネルジーなどを批判しつつ、1906年の国民会議カルカッタ大会において、「スワラージ(自治)、スワデーシ(国産品愛用)、ボイコット(英貨排斥)、民族教育」からなる反英的な四大綱領を採択しました。こうして、国民会議の親英的ムードは吹き飛び、その後は反英運動の中心になっていきます。ただし、この段階では穏健派と急進派の分裂やティラクの投獄などもあって、これ以上運動が拡大することはありませんでした。一方、イギリスはこれに対抗させるために1906年に全インド=ムスリム連盟を結成させ、宗教対立を利用してイギリスへの攻撃でインドの人々が団結しないように画策します。

 

[C、第一次世界大戦と第一次サティヤー=グラハ(1910s半ば~1920s初)]

 その後、第一次世界大戦がはじまると、ムスリムの立場に微妙な変化が生まれます。その原因は、イスラームの宗教的権威の象徴であるカリフとカリフ制を擁護するヒラーファト(キラーファト)運動がインドで高揚したことによります。当時、カリフはオスマン帝国のスルタンが兼任するスルタン=カリフ制がとられていました。そして、第一次世界大戦においてオスマン帝国はイギリスの敵国でした。それまではヒンドゥー教徒との対抗上、親英団体としての性格を有していた全インド=ムスリム連盟でしたが、カリフと敵対するイギリスに対する立場は徐々に変化していきます。

 このように、ムスリムとイギリスの間に距離ができ始めていた頃に、インドの自治をめぐる諸問題が持ち上がります。イギリスは、第一次世界大戦中にインドを戦争に協力させるためにイギリス本国のインド担当大臣モンタギューがインドの自治を推進する方針を示したことから、自治獲得への期待が高まっていました。また、第一次世界大戦の末期には、ソヴィエト政権の「平和に関する布告」やウィルソンの発した「十四ヵ条の平和原則」において民族自決の理念が示されたこともあり、戦争に協力したインドの人々が期待するのも無理からぬものがありました。しかし、イギリスは1919年にきわめて形式的で限定的なインド人の政治参加を認めるインド統治法(「インド統治法」と名の付く法律はこれだけではなく、複数回出されていることに注意)を制定します。このインド統治法は中央政府にはインド人に決定権を与えず、地方自治に参加を限定した上で、その地方行政においても保健行政や教育などにインド人を関わらせる一方で、より重要な徴税・司法・治安維持などについては原則としてイギリス人が管理する内容でした。このインド統治法は当然インド人の期待を裏切るものでしたが、さらにインド人の怒りに火をつけたのがローラット法と呼ばれる弾圧立法で、この法律ではインド人に対する令状なしの逮捕、裁判なしの投獄が認められていました。こうしたイギリスのごまかしに憤りを感じたインド人は抗議行動を激化させていきますが、アムリットサルに集まった一万数千ともいわれる群衆にイギリス軍准将率いる一個大隊が発砲し、数千名に及ぶ死傷者が出るアムリットサル事件が発生します。この段階において、インド人の反英感情は急激に高まっていきます。

 こうした中で現れた民族指導者ガンディーは、暴力ではなく非暴力・不服従を貫くことを通しての反英運動であるサティヤー=グラハ(真理の要求)と称される運動を展開していきます(第一次非暴力・不服従運動)。ガンディーは本来敵対関係にあったムスリムにも協力を呼び掛けて、運動は急速に発展していきました。しかし、運動の急進化・暴力化を危惧したガンディーが運動の停止を宣言したことや、ムスリムのヒラーファト運動がトルコ共和国におけるカリフ制の廃止(1924)によって意味をなくしてしまったことなどから、インドの民族運動は一時的に落ち着きを取り戻します。

 

 [D、インド独立運動の再燃(1920s後半~)]

 一時的にやや沈静化していたインドの民族運動でしたが、1920年代後半に再度激しさを増します。そのきっかけになったのは、1919年のインド統治法の見直しのために組織された憲政改革委員会(サイモン委員会)の委員にインド人が一人も含まれていなかったことでした。これをきっかけに国民会議派や全インド=ムスリム連盟などの政治団体はその活動を活発化させていきます。国民会議派は1929年に開かれたラホール大会で、指導者のネルーが中心となり、「プールナ=スワラージ(完全独立)」を決議して運動の理念としましたが、ヒンドゥーとムスリムは選挙制度などをめぐる対立が再燃して足並みはそろいませんでした。一方、ガンディーは大衆を指導する第二次非暴力・不服従運動を展開し、イギリスに対する不服従の象徴として、イギリスによる塩の専売に抵抗する「塩の行進」運動を展開します(1930年)。

 こうしたインドにおける民族運動の再燃を受けて、イギリスは(英印)円卓会議の開催を提案し、ガンディーをはじめとする民族運動指導者をロンドンに集め、3度にわたる会議を開きます(ガンディーはこのうち第二回の会議に参加します)。ところが、この会議にはガンディーだけではなく、数多くの少数派の代表が招かれていたことから、ガンディーの主張は各派の対立の中で埋もれてしまい、各代表は自分の利害のみを主張することに終始して、会議は成果を上げることができず、帰国して運動を再開しようとしたガンディーは逮捕・投獄されます。しかし、憲政改革委員会と3度の円卓会議を経て、1935年には新インド統治法が制定されます。この統治法では相変わらずインド人は中央政府の政治には関与できませんでしたが、インド人は州の政治において州議会と州政府を選挙によって構成することが可能となりました。ただ、これも最終決定権はインド総督が任命するイギリス人州知事が握っているという不完全な自治でした。この法に基づいて行われた選挙において、多数派を占めたのはヒンドゥー教徒中心の国民会議派でした。これは人口比から考えて当然の結果でしたが、国民会議派が地方選挙で圧勝したことに対し、かねてから選挙制度をめぐってヒンドゥーと対立していたムスリムは危機感を高め、次第に宗派対立が激化をしていきます。

 

 このように、インドにおける民族運動は、19世紀後半から開始され、いくつかの波を経ながら第二次世界大戦の時期を迎えることになります。このあたりが模試や受験では頻出の箇所なのですが、教科書や参考書の記述があちこちに飛んでいたり、一部省略されていることもあって、全体像がとらえられない人が多いようです。この時期の出来事で世界史において必要な部分をまとめると以下のようになります。

 

1880s) バネルジーによる民族運動の展開

      インド国民会議ボンベイ大会の開催(1885、親英団体として)

1905~) ベンガル分割令(カーゾン法)の制定

      インド国民会議カルカッタ大会の開催と四大綱領の採択(ティラク、急進化)

      全インドムスリム連盟の結成

(第一次大戦~) ヒラーファト運動の高揚

1919~) インド統治法ならびにローラット法の制定

      アムリットサル事件の発生

      第一次非暴力・不服従運動の展開(ガンディー)

1920s後半~) サイモン委員会(憲政改革委員会)に対するインド人による批判

         国民会議派ラホール大会(ネルー、プールナ=スワラージ)

         第二次非暴力・不服従運動

         英印円卓会議

1935~) 新インド統治法

      ヒンドゥーVSムスリムの対立激化

         

 今回も書いてみてエライ後悔しましたが、とりあえず簡単にまとめてみました。(話すのは楽なんですが、文章に書き起こすとなるとかなり厄介です。)内容が入り組んでいてまとめにくく、かつ試験によく出てくる部分は冒頭の分けですと⑤民族資本家・知識人の成長と民族運動の展開(19世紀後半)」の部分だと思います。一問一答形式の設問もなくはないですが、正誤問題や並べ替えの問題が良く出てくると思いますので、よく確認してみてください。