(2021.9.28、解答例を追加しました。本稿執筆時は急いで仕上げたため、解答例を作る時間がないまましばらくほったらかしてありました。あらためて解答を作り、英仏植民地政策の差異などに焦点をあてながら進めたつもりですが、思いのほか作成にてこずり、当初解説で示した内容を十分には示せていないかと思います。ただ、解説自体は英・仏の植民地支配の差異ということを意識したという意味では有益な情報を多く含むと思いますので、あえて修正せず、そのまま残しました。)

先日ご依頼がありましたので、今回は東大2012年問題(アジア・アフリカにおける植民地独立とその後)を取り扱ってみたいと思います。こちらの設問は当時話題になっていたフランスの宗教的標章法が注付きとはいえ指示語として登場したということで話題になった問題ですが、それだけでなく、例年になく東大世界史の平均点が高かったということでも話題になった問題です。ですが、それは本設問が簡単だったかというわけではありません。むしろ、本設問は真正面から取り組むと例年になく難しい、まとめるのが非常に困難な設問であったと思われます。にもかかわらず平均点が例年より高く出たということは、もしかすると採点基準の方にいくらかの配慮がなされたのではないか、とも言われたりしています。実際のところはどうなのかわかりませんが、大切なことは平均点がどうのとか言うよりも、東大の側では受験生に何を求め、そして与えられた問題を解く側はどのようにすれば出題者の求めに応じることができ、かつ他の受験生よりも一歩先んじることができるのかを検討することでしょう。

 

【設問概要】

・アジア、アフリカにおける植民地独立の過程について論ぜよ。

・アジア、アフリカが独立した後の動向について論ぜよ。

・地域ごとの差異について考慮せよ。

・指示語は

 カシミール紛争 / ディエンビエンフー / スエズ運河国有化 / アルジェリア戦争

 ワフド党 / ドイモイ / 非暴力・不服従運動 / 宗教的標章法

 の8つで、下線を付すことが求められている。

・また、宗教的標章法には注で「公立学校におけるムスリム女性のスカーフ着用禁止」などを決めたフランスで制定された法律という簡単な説明が付されている。

18行(540字)以内で記せ。

  

(リード文から読み取れる留意点)

  旧宗主国(旧植民地本国)への経済的従属

  同化政策のもたらした旧宗主国との文化的結びつき

  旧植民地からの移民増加による旧宗主国内の社会問題

 以上のが植民地主義の遺産としてアジア、アフリカ諸国の独立後も長い影を落としており、また、

 A:植民地政策の差異

 B:社会主義や宗教運動

などの影響により地域により異なる様相を呈することが示されている。

 

【手順1:アジア、アフリカの植民地整理】

 指示語から整理しても良いのですが、設問は対象を「ヨーロッパ列強により植民地化されたアジア・アフリカの諸地域」と非常にアバウトに示しており、旧宗主国の限定などは行っていません。だとすれば、指示語につられ過ぎてしまうと手落ちになる部分が出てきてしまう可能性もあるので、簡単にでもよいのでヨーロッパ諸国によって植民地化されたアジア・アフリカの諸地域について確認してみると、世界史の教科書レベルで出てくるものとしてはおおよそ以下のようになります。

 

(アジア) 

植民地:仏領インドシナ(ディエンビエンフー、ドイモイ)

    英領マレー、インド(非暴力・不服従、カシミール紛争)

    蘭領東インド

   (保護国、委任統治領:中東、イランほか 自治領:ASNZ

(アフリカ)

植民地、保護国

:英領エジプト(ワフド党、スエズ運河国有化)、スーダン、南アフリカ

   南アフリカは1910以降自治領

 仏領サハラ(アルジェリア戦争、宗教的標章法)、モロッコ

 独領トーゴ、カメルーン、タンザニア、ナミビア

 その他ベルギーのコンゴ、ポルトガルのアンゴラ、モザンビークetc.

 

 上記のうち、( )付きで赤い文字になっているのは本設問の指示語です。ご覧になってわかるように、指示語8つすべてが英領植民地または仏領植民地に関連するものです。また、540字で「地域ごとの差異」について考慮せよ、と言っているところからも、ベースは英仏植民地政策の差異を受けて独立後の各地域がどのような様相を呈したか、で良いように思います。ただ、設問はあくまで英仏ではなくヨーロッパ諸国と言っていますので、そのほかの国と植民地の状況についても適宜さしはさむ必要はあるのではないでしょうか。

 

【解答手順2:手順1の整理、指定語、設問要求から、中心的な話題を選別】

 上述の通り、ベースは英仏でOKだと思います。だとすると指示語から絶対に欲しいのは

 

インド帝国(インド・パキスタン・ビルマ)、エジプト

仏領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)、アルジェリア

 

でしょう。まずは、この両者に差異がないかを検討してみることになります。ただ、一概に英は〇〇で、仏は××と言い切れるものではないので、いくつか差異として考えられるテーマを挙げてみたいと思います。

 

「英交渉や外交を通しての自治や独立」、「仏独立戦争などの武力闘争」

:イギリスは、民族運動が高まりを防ぐ際に一定の譲歩をしながら実質的な支配や利益を確保するという方法をとる傾向があります。エジプトの形式的な独立や、インドにおける度重なる譲歩(そして他方での弾圧)、中東支配のありかたなどを考えればそれは明白です。また、いずれの植民地においても激烈な独立戦争などは起こっていません。

 これに対し、フランス植民地では必ずしもそうではありません。特に、指示語と深いかかわりをもつ仏領インドシナではインドシナ戦争が、アルジェリアではアルジェリア戦争がそれぞれ発生しています。この背景としていわゆる「文明化の使命(アジア・アフリカの劣等人種に近代社会・思想を与えて<文明化>していくことが優越種たる白人やフランスの使命であるという考え方)」というフランスの統治姿勢が存在したことは平野千果子をはじめとする複数の研究者によって指摘されていますし、学会でもよく言及されます(学生時代、周りが猫も杓子も「文明化、文明化」言ってたので、「一体なんだ?」と思った記憶がありますw)ので、おそらく本設問でも意識していると思われます。(別に解答に文明化の使命云々を書く必要はありません。一つの視点として知っておくとよいでしょう。)

 

「英分割統治(宗教、民族、地域、階層)」

:イギリスのインドにおける分割統治は有名です。特に、ヒンドゥー教徒を中心とするインド国民会議派とムスリムを中心とする全インド=ムスリム連盟の対立を生み出したベンガル分割令などはよく知られています。ですが、イギリスの分割統治はそうしたことに留まらず、多岐にわたっていたことについては注意が必要でしょう。たとえば、藩王国間での競合を促したり、藩王国の支配層をインド帝国内において箔付けし、イギリス人と同じ支配階層として遇することで民衆との間に断絶を生み出したり、カースト間でも上位カーストと下位カースト間での差別意識や対立を植え付けたりと、かなりきめ細かな「分割」を行っています。(このような分割の仕方についてはたびたび言及していますが、デイヴィッド=キャナダイン[David Cannadine]の『オーナメンタリズム』[Ornamentalism]が面白いです。紹介すると言ったままになっちゃってますね。もうずいぶん古い本になってしまいましたが。

こうした「分割」は、その土地の人々が一丸となって支配者であるイギリスに反抗することを防ぐ効果を持っていました。こうした統治が最も組織立って行われたのはもちろんインド帝国でしたが、何もインドに限ったことではなく、他の土地でも見られました。(たとえば、南アフリカのブーア人を取り込んで黒人を支配させるなど)

 こうした英の植民地統治は、インドのコミュナリズムや階層間対立、南アフリカのアパルトヘイト、中東におけるアラブとイスラエルの対立、マレーにおける複合社会の形成とシンガポールの独立など、現代にもつながる諸問題へとつながっていきます。一方、フランスの側ではイギリスほど細かな社会の分断政策はとられませんでした。これもまた、フランス植民地における対立が「フランス人または入植者vs植民地の先住民」という形に比較的はっきりと分かれる原因であるかもしれません。

 

同化政策

:同化政策については、多かれ少なかれ試みられています。ただ、それが国家の主導で行われたかどうかや、ずっと同じように継続して行われたかどうかについては、時期や地域によって差があります。たとえば、インドにおける英語の導入についても、これが比較的広い範囲に導入されたのは偶然の要素も強かったようです。イギリスはインドにおけるイギリスの「協力者」は一部のエリート層であればよいと考えていたようです。一部エリートが英語を理解し、そして英国の統治に協力してくれれば良いという発想で、上述した分割統治のありかたにも合致します。それにもかかわらず、広範に一般の初等教育にまで英語教育が拡大した背景の一つとして、従来から機能していたインド独自の教育体制(日本の寺子屋的なもの)が、インド産業と農村の疲弊・崩壊によって機能不全に陥ったこと、またこれにかわる形でイギリス側が公教育機関を英式教育(英語含む)で整備したことなどがあるようです。この公教育の整備についてはイギリス本国ならびに植民地政府の間でも意見が割れていたようで、とても国をあげて同化政策を進めたと言い切れるようなものではありません。

 ただ、イギリスにせよフランスにせよ、本国と植民地の間で本国への「同化」をめぐる問題は独立前にも独立後も植民地社会に大きな影響を与えたことは間違いありません。独立前の影響としては、本国への留学を通した植民地支配層の形成や、知識人・民族資本家の成長、本国言語の習得などがあります。また、独立後の問題としては移民に対する旧宗主国内での「同化」圧力などがあげられます。たとえば、フランスのライシテ(政教分離)と宗教的標章法をめぐる問題などがそれです。

 ライシテについては、フランスではフランス革命以来、たびたびカトリック勢力を政治の場から切り離そうとする努力が行われてきました。(もっとも、それはウィーン体制下や第二帝政下などでは逆にカトリック勢力の復活が見られるなど一方通行の物ではなかったわけですが。)特に、19世紀の後半には従来から教育を担ってきたカトリック勢力と公教育を通して国民国家を確立させたい政府の間で学校教育をめぐる対立が先鋭化し、フェリー法(1882、小学校の無償化、義務化に加えて非宗教化が確立された)などの諸法などによって教育の場をはじめとする公共空間からは宗教性を排することが確立しました。つまり、ライシテとはもともとはカトリック勢力の排除のために進められていたものです。

 ところが、フランスへの移民の増加と、9.11テロ以降のムスリムに対する偏見の増大などから、公共の場からムスリムを排除することを正当化するための理論としてライシテが使われ始めます。その一つが宗教的標章法で、特にムスリムの女性のスカーフ(ヒジャブ)が標的にされ、何名かの女子生徒が退学処分となるなど大きな社会問題となりました。つまり、「フランスでは伝統的にキリスト教徒も学校では宗教的なものは排しているのだから、ムスリムもそうせい。」ということで、一見すると「同化」を要求しているのですが、実際にはフランス社会に亀裂を生み、むしろムスリムに対する差別を助長する要因の一つになっているようです。(フランスではその後もブルキニ[ヒジャブの一種ブルカとビキニの合成語で、ムスリム女性の水着]禁止令などが問題となりました。)

 

「英原材料調達のための植民地経営と市場化」

:イギリスは、比較的植民地を目的別に効率よく運用しようという意図が感じられます。そのせいか、その土地の名目的な支配権よりはむしろ、実質的な支配権や経済的利権の維持に腐心していました。原料供給地兼市場としてのインド帝国、錫や天然ゴムの生産基地としてのマレー連合州、スエズ運河という巨大利権を有するエジプトなど、イギリスの植民地経営がいかに経済的利益を追求していたかについては世界史の教科書レベルでもはっきりと出てきます。このことが、植民地に対して譲歩を重ねつつ実質的な支配権を維持するイギリス式植民地支配へとつながっていたように思われます。これに対し、フランスの植民地支配には目立った経済的利益獲得のための戦略のようなものが見られません。

 

社会主義との関係

:英仏ともに、独立した植民地においては多かれ少なかれ社会主義運動が展開されました。ただ、その運動のあり方や植民地支配との関係にはやはり英仏植民地間で差があるように思われます。たとえば、イギリスの植民地の独立については、社会主義政党はそれほど大きな力となって出てきていません。これはそもそも、イギリス植民地の独立の多くが交渉や外交によって成立したということもあるのですが、独立運動が激しく展開したインドやエジプトをとってみてもその中心は民族主義政党で社会主義政党ではありません。(もっとも、民族主義政党の指導者の中に社会主義思想の影響を受ける者がいなかったというわけではありません。)むしろ、イギリスの植民地は独立後に冷戦構造の展開の中で社会主義路線やソ連への接近を見せる国が多いように思われます。(インドの対ソ接近、ナセルのスエズ運河国有化、ガーナのエンクルマによる社会主義経済と一党独裁、ビルマのネ=ウィンなど。)

 これに対し、フランス植民地の場合、社会主義運動ははっきりと独立運動の中心に出てきます。最も有名なものはホー=チ=ミンが指導するインドシナ共産党やベトナム独立同盟でしょう。ベトナムと同じく独立戦争を戦ったアルジェリアのアルジェリア民族解放戦線も社会主義政党です。また、独立後のインドシナではポル=ポトのクメール=ルージュやラオスのパテト=ラオ(ラオス愛国戦線)などの共産主義革命勢力の活動が活発でした。

     

【解答手順3:ベースの4地域において独立過程とその後を整理】

 手順2のは、英仏すべての植民地で常に当てはまるというものではありません。ただ、大きな流れとして「これは使える」というものを適宜各植民地の状況に合わせて示しておくとよいでしょう。

 次の手順として、指示語が示しているベースとなる英仏の4つの植民地(インド・エジプト・インドシナ・アルジェリア)の独立過程を整理してみましょう。実際の試験の時には下に示すほど丁寧に整理するのは不可能ですので、手順2で示したのいずれかを意識しながら、それと特にかかわる部分は何か考えながら要所をまとめておくとよいでしょう。私がまとめるときには、「イギリスの分割統治や多重外交と交渉による植民地独立/独立後の植民地に残した問題」「フランスの強圧的統治がもたらした社会主義運動の激化と独立戦争/独立後の諸問題」のような形でまとめると思います。多分一番やりやすいので。

 

.英植民地と分割統治

(インド)

・藩王国と民衆

・宗教的分割(ex.ベンガル分割令)

 →1906 インド国民会議カルカッタ大会「スワラージ(自治)」

  同年 全インド=ムスリム連盟(親英団体)

    1909 モーリー=ミントー改革

     :インド参事会議員の一部にインド人を参加させる一方で、ムスリムに有利

 自治の約束(ex1919制定、1921施行のインド統治法)

  不十分な自治に対してたびたびインドの民族運動激化

  1927 サイモン委員会(憲政改革調査委員会):インド人なし

  1929 インド国民会議派ラホール大会「プールナ=スワラージ(完全独立)」

  1930~塩の行進、英印円卓会議

ハリジャンに対する選挙特別枠とガンディーの差別固定化に対する危惧

  1935 新インド統治法(地方自治に参加)

 →1937年地方選挙でインド国民会議派の圧勝、ムスリムの危機感

 アトリー労働党内閣成立(1945)とマウントバッテンによる分離独立裁定(1947

・独立後

  印パ間の対立(カシミール地方の帰属問題から印パ戦争19471965

  パキスタン(ジンナー)は西側(東南アジア条約機構[SEATO]、バグダード条約機構[METO]参加)

インド(ネルー)は東側に接近ネルーの社会主義経済路線

  バングラデシュの独立(1971、第3次印パ戦争)

  印パの核武装化

  中印国境紛争(イギリスによるシムラ条約1914とマクマホンライン[中国は拒否]がベース)

  カースト制度の残存、宗教対立の残存

近年のムスリム差別の激化(インド人民党の台頭、アヨーディヤ問題などのコミュナリズム)

インド人民党(BJP):ヒンドゥー至上主義、上位カースト出身者多数の民族主義政党

社会主義経済的なインド国民会議派に対して、自由主義経済の徹底を主張、首相にパジパイ(核実験再開)、モディ

コミュナリズム:宗教集団(コミュナルcommunal)が他の集団を排除しようとする動き

 

(エジプト)

・エジプトにおける民族運動激化と支配層の取り込み

 1919~ ワフド党(サアド=ザグルールの流刑をめぐり)

 1922  エジプト王国の独立を承認

(ムハンマド=アリー朝、エジプト防衛権、スーダン・スエズ駐兵権維持、経済的従属)

      ワフド党の与党化とムスリム同胞団の成立(1929、ハサン=アルバンナ)

  1936  エジプト=イギリス同盟条約(スエズ、スーダン駐兵権の維持)

  大戦後 アラブ民族主義の台頭と腐敗した王政への疑問

  1952 エジプト革命

    :ナギブ、ナセルなどの自由将校団による親英王政の打倒

  1956 ナセルによるスエズ運河国有化とスエズ戦争(1956-57

     :アラブ民族主義の高揚

  中東戦争:イギリスによる多重外交の産物

  アラブ民族主義に対するイスラーム原理主義の台頭(サダト暗殺)

  アラブの春

 

B、仏の強圧統治と独立闘争

(ベトナム)

 ・仏領インドシナにおける民族運動、独立運動の弾圧

  (ファン=ボイ=チャウ、ファン=チュー=チン、ホー=チ=ミン)

 ・ベトナム民主共和国の成立と社会主義

  インドシナ戦争(1946-54)、ディエンビエンフーの戦い、ジュネーヴ休戦協定

 ・ベトナム戦争と南北統一(ベトナム社会主義共和国1976

 ・冷戦構造の転換とともにドイモイ(共産党一党独裁を維持した市場経済の導入)

 ・ASEANへの加盟と経済的結びつきの強化

 

(ラオス・カンボジア)

 ・民族主義と社会主義の混在

 ・冷戦構造の影響を受ける

 ・冷戦終結による市場経済導入(政治的にはラオスはラオス人民革命党による一党独裁)

 

(アルジェリア)

 ・フランス統治と「文明化」 

cf).アブド=アル=カーディルに対するレジオン=ドヌール勲章

    ナポレオン3世の「アラブ王国」構想

 ・大戦後、FLN(アルジェリア民族解放戦線)結成1954?、ベン=ベラ)

  アルジェリア戦争開始(1954-62

 ・フランス人入植者(コロン)とFLNの対立

  フランス人入植者の反抗を抑えるためにド=ゴールが大統領就任、第五共和制発足

   大統領権限を強化したド=ゴールはコロンの不満を抑えてFLNと交渉、エヴィアン協定(1962

 ・ベン=ベラとその後のクーデタ政権下での社会主義路線

 ・経済の行き詰まり

  イスラーム原理主義の台頭(イスラーム救国戦線、FISの成立)

  →FLNによる一党独裁とアラブ化への不満からベルベル人との対立

  経済の行き詰まりとフランスの経済成長によりフランスへの移民増加

   (フランスにおけるライシテと人種差別問題:宗教的標章法)

 

【解答手順4:その他の地域で目立つ部分をテーマに沿って肉付け】

 正直なところ、手順の1~3の内容をまとめるだけでも540字では収まりません。また、この字数で「差異」を意識的に示さなくてはならないのに、複数の物の差異を無理に示そうとすると結局脈絡のない事実の羅列に終わってしまって、何が「差異」なのか伝わらないままになってしまいます。指示語を考えてもやはりここは英仏植民地とその差異を何らかの形でしっかりと示した上で、そのテーマに乗っけられるような部分をベースとして使った植民地(インド・エジプト・インドシナ・アルジェリア)以外の植民地から持ってきて示すくらいで良いのではないかと思います。その場合、使いやすいのは以下のような地域と事柄でしょう。

 

・マレー半島の植民地経営と人種間の分割(英人、華人、マレー人、印僑)

・ベルギー領コンゴとコンゴ動乱

・蘭領東インドと、独立後のナサコム(民族主義、共産主義、イスラーム) など

 

【解答例】

インドの分割統治、マレーの植民地経営など、英の支配は現実的利益を追求し抑圧を避けた。第一次世界大戦後に民族自決の声が高まると、インドではガンディーの非暴力・不服従運動を円卓会議開催で抑制し段階的自治を承認する一方、ヒンドゥーとムスリムの対立を煽った。これはインド・パキスタンの分離独立やカシミール紛争につながった。エジプトでも条件付き独立承認やワフド党の体制への取り込みを進めたが、ナセルのスエズ運河国有化に対してはスエズ戦争を起こし、国益が脅かされた場合には実力を行使した。一方、文明化の使命などの支配理念が追求された仏植民地では、蘭領東インドと同様に独立戦争につながることが多かった。植民地では戦争による経済・インフラの破壊から立ち直るために社会主義路線が採られたり、政治混乱を招いた。ディエンビエンフーの勝利で独立したベトナムは、間もなくベトナム戦争に巻き込まれ、ホー=チ=ミンの下で社会主義国家として統一されたが、冷戦構造の変化に伴ってドイモイにより市場経済を導入した。アルジェリア戦争は他のアフリカ諸国の独立を促し、ベルギー領コンゴの動乱も刺激した。同化政策と仏語教育で本国移住が容易だったムスリム移民が増加すると、仏の政教分離策と軋轢が生じ、宗教的標章法が制定された。(540字)