今年もセンター試験が終わりました。色々とテストをめぐっては形式が変化するの、しないのと、受験生は振り回されて大変そうです。前にもどこかで書きましたが、私自身も昔旧課程と新課程のはざまでそれなりにワリをくったものですから、いい加減にしてあげてほしいなぁとも思います。ただ、今年のセンター試験を見る限り、多少の形式変更はあっても世界史については従来型の勉強で対応できる内容だったかと思います。文化史の比率が多かったので、そのあたりで得意・不得意は分かれたのかもしれません。今年も解説を作ってみましたが、チェックが行き届かないところもあるかと思いますので、もし間違いなどありましたらご勘弁いただきたいと思います。その辺のところをご了解いただいてご覧ください。また、これから私大や国立の受験を控えているみなさんは、ぜひ体調に気をつけて頑張ってください。

 

問1 ① 

【解説】

②両シチリア王国を占領したのはガリバルディ。

③オスマン帝国の支配地にモロッコは入っていない。また、20世紀に入ってモロッコを支配下に置くのはフランス(とスペイン)。

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(オスマン帝国の領土拡大‐Wikipedia「オスマン帝国」より)

④ヴァチカン市国の独立を認めたのはムッソリーニのラテラン条約(1929年)。ミラノ勅令はキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の勅令(313年)。

 

問2  

:公行は、対外貿易を広州一港に限定した際に独占的に交易を任された商人集団。

【解説】

①シャンパーニュは内陸部の地方で、中世に大市が発展した。

GATTは自由貿易を推進することを目的とした。

④カルカッタ(現コルカタ)を根拠地としたのはイギリス。イギリス拠点は他にボンベイ(現ムンバイ)・マドラス(現チェンナイ)など。

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問3 ② 

:中世、フランスではトゥルバドゥール、ドイツ地域ではミンネジンガーと呼ばれる吟遊詩人が活躍した。

【解説】

①王義之は東晋の書家、「蘭亭序」などが有名。「女史箴図」は顧愷之。

③モネは印象派を代表するフランスの画家。印象派が活躍するのは19世紀。

 17世紀スペイン宮廷で活躍した画家としてはベラスケスなど。

④ポツダムにあるサンスーシ宮殿はロココ建築。

 

問4 ① 

:ミケーネ文明を建設したアカイア人はギリシア人の一派

【解説】

②陶片追放(オストラキスモス/オストラシズム)は僭主の出現を防ぐためにクレイステネスの改革で導入された。

③3大悲劇詩人はアイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデス。フェイディアスはペリクレス時代の彫刻家。

④スパルタはドーリア人のポリス。

 

問5 ①(公開された解答では解答者全員正解) 

:三国時代の魏では屯田制が施行された。消去法で解ける(他の3つの文が明らかな誤文)ので個人的にはこの措置(全員正解)はどうかと思います。三国時代の魏ではなく戦国時代の魏と読み間違える可能性があるからというのが今回の措置の理由なのだそうですが、そんなこと言いだしたら宋とか、唐(春秋時代の諸侯国として存在する)とかキリがないので問題作れないですよ(汗)。「キングダム」とか「達人伝」とかで戦国時代の魏の知名度が上がってるせいなのでしょうかねぇ。

【解説】

②プロノイア制が導入されたのはビザンツ帝国。

③ベルンシュタインはドイツの社会主義者、修正主義の提唱者。

 農民解放などを進めたのはプロイセン改革時のシュタインやハルデンベルク。

④アトリーはイギリスの労働党内閣。

 

問6 ② 

【解説】

bが誤文。ヘレニズムの影響を受けて発展するのがガンダーラ美術であるので、関係性が逆。

 

問7 ① 

:授時暦は元の時代に郭守敬が作成したもの。

 

問8 ② 

:フィリピン共和国はマロロス共和国とも言う。マロロス共和国で覚えていた受験生はやや困ったかと思うが、残りの選択肢を落ち着いて消去すれば解ける。

【解説】

①朱元璋は明の建国者であり、元末の紅巾の乱の中で台頭した。

③ンクルマ(エンクルマ)はガーナ独立の父。

④サッチャーは保守党の政治家。

 

問9 ④ 

:マヤ文明の20進法などは過去にもセンターで出題されている。

【解説】

①棍棒外交を展開したのはセオドア=ローズヴェルト。カーターは人権外交で知られる。

②米州機構には現在ではカナダも加盟しているが、原加盟国ではない。また、結成の中心となったのはアメリカ合衆国。

③マクシミリアンはフランスのナポレオン3世によるメキシコ出兵時にメキシコ皇帝として担がれたが、後に殺害された。

 

問10 ④ 

a ユトレヒト条約でハドソン湾地方を獲得するのはイギリスの側。イギリスは他にもアカディア・ニューファンドランドをフランスから獲得した。

b 百年戦争を開始したイギリス王はエドワード3世。ウィリアム1世はノルマン朝の開祖。

ユトレヒト1

(ユトレヒト条約における仏から英への割譲地)
ユトレヒト2

(ユトレヒト条約における西→英への割譲地)

 

問11 ④ 

【解説】

①合衆国は1819年にフロリダをスペインから買収した。

②オランダが西ポンメルンを領有した事実はない。ポンメルンはユトランド半島の東、北ドイツにある土地だが、ウェストファリア条約でスウェーデンがこれを領有した。

③フィウメ(現リエカ)をユーゴスラヴィアと争ったのはイタリア。1919年、一時期イタリアの愛国者ダヌンツィオが占領し、その後1924年にムッソリーニ政権下のイタリアが併合した。

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(フィウメ[現リエカ]の位置 Wikipedia「リエカ」より)

 

問12 ② 

:スワヒリ語は現地バントゥー語とアラビア語などが混ざり合って成立した言語。

【解説】

①サンスクリットは古代インドの言語。グプタ朝期にサンスクリット文学が発展したことからもムガル帝国期の成立ではないことが分かる。ムガル帝国における公用語はペルシア語。

③ビザンツ帝国の公用語はギリシア語。

④南インドで文学などに寄与した言語としてはタミル語などがある。マレー語はマレー半島周辺で使用された言語。

 

問13 ① 

:門戸開放を提唱するのはアメリカ合衆国。合衆国は1899年と1900年の二度にわたり、国務長官ジョン=ヘイが門戸開放宣言を発表した。

 

問14 ② 

【解説】

①コミンテルンはロシア革命後、1919年に設立された各国の共産党が革命を志向するための機関。

③ネップ(新経済政策)は戦時共産主義で落ち込んだ経済を回復されるために導入された。ネップの後に第一次五か年計画が来るので、順序が逆。ロシア革命後の経済政策の変遷はセンター試験では頻出の箇所。

④ミハイル=ロマノフはロマノフ朝の開祖。西欧化を進めたのはその後のピョートル1世など。

 

問15 ② 

:コメコン結成は1949年、ソ連のアフガニスタンからの撤兵は冷戦終了間際の1988年から1989年にかけて。SALT1はニクソン政権下の1972年に調印。

 

問16 ③ 

【解説】 

澶淵の盟(1004)では、宋が遼に銀・絹織物を贈るので、関係が逆。

②パレスチナ暫定自治協定(1993)を仲介したのはクリントン。イスラエルのラビンとPLO議長のアラファトの間で結ばれた。

④シュレジェン奪回のためにマリア=テレジアが同盟したのはフランス。(外交革命)

 

問17 ④ 

:第二次五か年計画(大躍進)の失敗を受け、劉少奇と鄧小平は調整政策を展開したが、復権をもくろむ毛沢東によるプロレタリア文化大革命では走資派と呼ばれて批判され、鄧小平は一時左遷された。

①中国における新生活運動は蒋介石によって提唱された精神運動。共産党に対する牽制や儒教的理念を利用した国家総動員を目指したファシズム運動の一種。

②ネルーと会談したのは周恩来。(1954

③毛沢東にかわって国家主席となった人物としては、大躍進失敗後の劉少奇がいる。

 

問18 ③ 

1970年代の米中接近は大統領補佐官キッシンジャーの準備の下、ニクソンの訪中によってなされた。また、中越戦争は中国が支援するポル=ポト政権下のカンボジアにベトナムが侵攻したことから発生した。

 

問19 ② 

:ファーティマ朝の成立は909年。やや難しいが、ハールーン=アッラシードがアッバース朝全盛期の君主であったことや、アッバース朝衰退の原因をつくったザンジュの乱(869-883)が9世紀の後半であったことなどから、建国年をしらなくてもある程度判断はできる。

 

問20 ② 

①パピルスはエジプトで用いられた記録媒体。インダス文字はインド。

③キープが利用されたのはアンデス山脈のインカ帝国。アステカはメキシコ。

④楔形文字はアッカド人よりも前にシュメール人が用いている。アッカド人も用いてはいるが、これはシュメール人が使っていた文字を借用したもので、発明ではない。

 

問21 ① 

:鳩摩羅什(クマラジーヴァ)は亀茲(クチャ)の出身。5世紀初めに中国に来て多くの仏典を漢訳した。同じく亀茲(クチャ)出身の仏図澄(ブドチンガ)は4世紀に中国に来て中国仏教の基礎を築いたが、仏典漢訳は行っていない。

②李自珍は『本草綱目』の著者で、薬草学者。ユークリッド(エウクレイデス)の幾何学を紹介した『幾何原本』は徐光啓とマテオ=リッチによるもの。

③アッバース朝の知恵の館(バイト=アルヒクマ)ではギリシア語文献がアラビア語に翻訳

された。

④ルターが翻訳したのはドイツ語。

 

問22 ④ 

:よく見ると下線部の直前に「インドの」とある。設問に直接関係ないが、インドの植民地化と関連するのはスリランカのみで、他の選択肢はアフリカの植民地化に関連付けた誤文。

【解説】

①ベルギーはアフリカ分割のきっかけとなったコンゴのみを領有。アンゴラはポルトガル領。

②イタリアの植民地としてはリビア・エリトリア・イタリア領ソマリランドなど。(20世紀に一時エチオピアを占領)

③ソマリランドを領有していたのは英・仏・伊の三国。(仏領ソマリ=ジブチ)ドイツが領有していたのはトーゴ・カメルーン・ドイツ領南西アフリカ(ナミビア)・ドイツ領ヒガシアフリカ(タンガニーカ)。

アフリカ分割_作成
Wikipedia「アフリカ分割」より)

問23 ①  

:どちらも正しい文章。

 

問24 ② 

①ニコライ2世の退位は1917年のロシア革命(二月革命/三月革命)の際。

③ディアス独裁が終了するのは1910-1917年にかけてのメキシコ革命の時。

④七月革命は1830年。

 

問25 ② 

:イギリスなのでオーウェン。ロバート=オーウェンはスコットランドにニュー=ラナーク村(現在では世界遺産)を建設して資本家と労働者の協力のもとに理想村建設を考えた人物で、現在の生活協同組合のもとを作った人物。

:フーリエもオーウェンと同様、ファランジュと呼ばれる共同体建設を考えた空想的社会主義者だが、フランスの人物。

:人身保護法は1679年に王と対立していた議会からの要求で成立した法。

:工場法が成立する1833年は、他にも奴隷制の廃止や東インド会社の中国貿易独占権廃止と商業活動の停止などがあり、またその前年の1832年には第1回選挙法改正があるなど、イギリスの自由主義的諸改革が進んだ時期で、私大などでもよく出題されることがあるので意識しておくとよい。

 

問26 ① 

:ダンツィヒはポーランド回廊に存在した港湾都市。

 

問27 ③ 

:マヌ法典はヒンドゥー教の法典だが、ヒンドゥー教自体がバラモン教をベースに発展した宗教であるので、ヴァルナについての記載はあり、財産の相続や婚姻に関する細かい規定が存在する。

 

【解説】

①ユスティニアヌスは6世紀の人物で、5世紀ではない。また、ユスティニアヌスの統治下で『ローマ法大全』を編纂した人物はトリボニアヌス。

②『古今図書集成』は清代のもの。康煕帝の時期から編纂が始まり、雍正帝の時期に完成。

③『百科全書』はフランス。哲学者・美術評論家などをしていたディドロと数学者・物理学者のダランベールなどが編纂にかかわる。

 

問28 ① 

【解説】

②党錮の禁は2世紀後半(166169)で後漢の末期。(武帝は前漢の人物)

③府兵制が導入されたのは西魏の時代(6世紀頃)で、前漢よりも後の時代。

④武帝の時代に専売制が敷かれたのは塩・鉄・酒で、茶ではない。

 

問29 ② 

:マニ教は唐が同盟関係にあったウイグルの宗教なので、都長安にも寺院は存在した。

【解説】

①周の都はもともと鎬京だったが、後に異民族の侵入により洛邑(洛陽)へとうつされた。

③北宋の都開封を占領するのは金。(靖康の変)

④プラノ=カルピニは教皇インノケンティウス4世がモンゴルの様子を探るために派遣した人物で、グユク=ハンに謁見した。(元成立よりも前) 大都でカトリック布教に尽力したのはモンテ=コルヴィノ。

 

問30 ① 

【解説】

②甘英は後漢の西域都護班超に派遣された人物だが、派遣先はローマ(大秦国)。ただし、たどり着いたのは条支国(シリア)まで。彼が派遣されたのは1世紀末で、この時期すでにプトレマイオス朝エジプトは滅亡している。

③バクトリアの中心はバクトラで、アフガニスタン一帯から北西インドにかけてが支配領域。クテシフォンはイランの諸王国(パルティア・ササン朝)が拠点とした土地。

④ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス(大秦国王安敦)の使者が着いたとされるのは日南郡で楽浪郡ではない。

 

問31 ④ 

【解説】

1840年代のジャガイモ飢饉によりアイルランドからの移住者が増えたのはアメリカ合衆国であり、ハワイではない。また、ハワイが合衆国領になるのは1898年。

②バビロン捕囚は新バビロニア(カルデア人)のネブカドネザル2世によるもの。

③マレー半島で農園労働者として働いたのは中国人やインドから来たタミル人など。

 

問32 ① 

【解説】

②李舜臣がたたかった相手は日本。(豊臣秀吉の朝鮮出兵[壬辰・丁酉倭乱]の際)

③アロー号はイギリス領香港船籍(ただし、期限切れ)。

④第五福竜丸事件はアメリカによるビキニ環礁での水爆実験が原因。

 

問33 ④ 

:隋代に音曲に合わせてうたう「詞」が流行したのは宋代。(始まったのは唐代)琴などを伴奏にして詩をうたうもの。東京書籍版の世界史B(平成31年)の178ページには「…韻文では、唐代の誌に対して、民謡から発展した叙情的な詞が流行した。」とある。

 

問34 ④ 

1956年にブダペストの大規模デモをきっかけに発生したハンガリー反ソ暴動を受けて新たに首相に就任したナジ=イムレは改革を図り、ワルシャワ条約機構からの離脱などを表明したが、介入したソ連軍によって暴動は鎮圧され、捕らえられたナジ=イムレは処刑された。

【解説】

①ブルムはフランスの人民戦線内閣。

②チャウシェスクはルーマニアの指導者。

③ドプチェクはチェコスロヴァキアのプラハの春(1968)を指導した人物。一時失脚したが、東欧革命の後に連邦議会の議長に就任した。

 

問35 ③ 

:ディアスが喜望峰に到達したのは1488年。

【解説】

①イベリア半島に国家を建設したのは西ゴート王国で、西ゴートはゲルマン人。

②ヒクソスが流入したのは中王国末期。

④ロシア革命時に亡命先のスイスから帰国したのはレーニン。

 

問36 ③ 

a セルビアの独立はサン=ステファノ条約またはベルリン条約によるものだが、どちらも露土戦争が終結した後の1878年。グラフで死者数が6万人を超えるのは1876年であるので、誤った文章である。

b  オーストリア皇太子夫妻が殺害されたサライェヴォ事件は1914年の発生。この翌年の1915年に死亡者数が20万を超えているので正しい文章である。