今回は、一橋2012年のⅠ、ナントの勅令(王令)公布をめぐる問題について解説していきたいと思います。一橋では頻出の宗教と国家の関係を答えさせる問題です。この前年の2011年にもフス戦争をめぐる問題が出ましたが、フス戦争と比べるとナントの王令が公布されるまでの経緯、つまりユグノー戦争の経過について書くことは当時の受験生にとってもそう難しくない内容だったのではないかと思います。一方、そのディテールということになると細かい内容まで書ける人と書けない人で多少の差がつく問題だったのではないでしょうか。概要についてはみんながよく知っている内容である反面、情報の総量としては世界史の教科書や参考書に記載されている内容はそれほど多くはありません。

ためしに、現在の『詳説世界史B』(山川)と『世界史B』(東京書籍)の2016年版でユグノー戦争の箇所を見てみましたが、いわゆる3アンリの対立(ギーズ公アンリ、アンリ3世、ナヴァル王アンリ[アンリ4])などについては一切記述がなく、新旧両派の人物として名前が挙がっていたのは国王シャルル9世、摂政カトリーヌ=ド=メディシスとアンリ4世くらいのものでした。

一方、最新の『詳説世界史研究』(山川、2017年版)の方にはさすがにかなり詳しく載っています。シャルル9世やカトリーヌ=ド=メディシスはもちろん、ギーズ公フランソワとアンリの父子、コンデ公ルイ(アンリ4世のおじ)、アンリ3世(シャルル9世の弟、ヴァロワ朝最後の王)などの名前や、ユグノー戦争中の彼らの行動についても書かれていますので、ここに書いてある知識があるとかなり文章を作るのは楽になったのではないかと思います。これらはそこまで特別な知識というわけではなく、少なくとも高校生の頃の私は『詳説世界史研究』をベースに勉強していたこともあってコンデ公ルイ以外の名前は当時から知っていたというか、覚えておりました。また、ここには載っておりませんが、当時は確か載っていたコリニー提督(プロテスタント側の人物としてサン=バルテルミの虐殺で殺されてしまった人)も覚えてましたね。ホンマに、世界史だけはよく頑張っておりました。もうちょっと別の科目に力を振り分ければよかったのに…。

それでは、試験当時の2012年はどうだったのかなと思いましたので、旧版の『詳説世界史研究』(山川、2008年版)を確認してみましたところ、以下のような文章になっていました。

 

 「…ユグノーは、人口のうえでは少数であったが、王権による中央集権化に対抗する中小貴族、指導者としてブルボン家のナヴァル王アンリなど有力貴族も含み、社会的・政治的に無視できない勢力となった。カトリックの指導者である有力な貴族にはギーズ公がいて、ユグノーに強硬な姿勢をとった。ギーズ公は、国民の多数派のカトリック教徒に大きな影響力をもっただけに、王室にとっては警戒すべき存在であった。シャルル9世が幼少で即位して以来、宮廷ではメディチ家出身の母后カトリーヌ=ド=メディシスが実権を握っていたが、彼女は新旧両教徒を対立させたバランスのうえに王権の伸長をはかろうとした。

 1562年、新旧教派の流血事件を契機にユグノー戦争と呼ばれる宗教内乱が始まった。ギーズ公ら旧教派による新教派の大量虐殺がおこなわれたことで有名な1572年のサン=バルテルミの虐殺では、コリニー提督をはじめ、多数のユグノーが犠牲になった。

 この事件に関する死者は全国で3000人をこえたといわれる。この事件は、カトリーヌ=ド=メディシスの謀略とされ、対立をいっそう激化させた。旧教派はローマ教皇・スペインなどと結び、ユグノーはイギリス・スイス・ドイツ新教諸侯の支持をえ、国外からの影響も加わった。国王アンリ3世によるギーズ公の暗殺がおこなわれ、今度はそのアンリ3世が暗殺されるなどの混乱が続いた。

 アンリ3世が暗殺されてヴァロア朝が絶えると、1589年、ナヴァル王であったブルボン家のアンリ4世がフランス国王位に登った。プロテスタントであったアンリ4世は、即位に際してカトリックに改宗し、その一方、1598年にはナントの王令(勅令)を発して、ユグノーにも信仰の自由と市民権を認める政策をとった。こうして、内乱はようやく収拾され、フランスの王権は急速に強化された。」

(『詳説世界史研究』山川出版社、2016[2008年版第11]pp.306-307、人名や事件名の英語訳並びに人物の生没年、在位年等については省略)

 

 …もうこれが答えでよくないですかw? つまり、当時の受験生にとっても勉強の仕方によってはこちらの設問は十分に対処しうる設問であったことは間違いありません。(書いてあるのだから。)もちろん、これだけの情報を用意できない場合には、フランスでユグノーが拡大する前段階としてのドイツならびにスイスの宗教改革の詳細を書くという手もあるにはあると思います。(実際、私の解答例でもドイツ、スイスの宗教改革については言及しました。少なくともフランスでユグノー[カルヴァン派]が広がった背景としては示す必要があると思います。) ただ…、設問を見る限りどこにも「ヨーロッパの」政治状況及び宗教問題に焦点をあてろ、とは書いていませんし、設問の「当時の」が指す内容は「16世紀後半のフランスで30年にわたって続いていた長い戦乱」であることは明らかですから、やはりドイツ、スイスの内容でおなか一杯にしてしまう解答の書き方はどちらかといえば逃げの解答(悪いとは言いません。書けないときにはそうした逃げや不時着大切という)ではないかなと思います。


 
一橋2012 Ⅰ


【1、設問確認】

 ・ナント勅令(王令)[設問原文ママ]公布に至るまでの経緯と目的を説明せよ。

 ・当時の政治状況および宗教問題に焦点を当てよ。

 

:非常にすっきりとした要求です。リード文も短く、ここにいう「当時の」が「16世紀後半のフランスで30年にわたって続いていた長い戦乱」の時期のという意味であることは明らかですので、設問を読みかえると「ユグノー戦争の背景と経過を当時の政治状況と宗教問題に焦点をあてて説明し、ナントの王令公布の目的を合わせて説明せよ」ということになります。

 

【2、ナント勅令公布に至るまでの経緯】

 それでは、16世紀後半のフランスの政治状況、宗教問題に注目しつつ、ナント勅令(王令)が出されるまでの経緯についてポイントは何かを確認していきましょう。

 

①ドイツ、スイスの宗教改革

:ルターによる宗教改革開始と、カルヴァンによるスイス宗教改革におけるカルヴァン派の広がりについては前提条件として示しておいた方が良いと思います。また、カルヴァンの示した予定説と蓄財の肯定という教義はヨーロッパの北西部、商工業者を中心に支持者を急拡大していくことになります。(もっとも、フランスではむしろカルヴァン派[ユグノー]はフランス南部からフランス西部にかけて多く存在していました。)

Huguenot_in_17c
Wikipedia「ユグノー」より)

 

②フランスにおけるカルヴァン派(ユグノー)の拡大

 

③カトリックとユグノーの対立

:フランスではすでに16世紀の前半からユグノー人口が増え始めておりましたが、16世紀の中頃になるとブルボン家やコンデ家などの大貴族にユグノーが増えてきます。これは、当時彼らの政敵であったギーズ家に対抗するという政治的な事情からとも見られますが、こうした貴族間対立が生じ始めていたころ、アンリ2世がイタリア戦争終結(カトー=カンブレジ条約)に関連する祝宴での馬上試合で事故死してしまいます。(1559年) その後、長男フランソワがフランソワ2世として即位しますが、病弱であった彼はわずか即位後わずか1年、16歳で亡くなります。残されたアンリ2世妃、フランソワ2世母のカトリーヌ=ド=メディシスは幼少のシャルル9世を抱えて、フランスの大貴族がひしめく中難しいかじ取りを迫られます。摂政となった彼女が選んだのは、新旧両派が相争う中で調停者としてふるまい、両派に影響力を行使することで王室の権力を維持するという方法でしたが、これにより新教旧教両派の争いはさらに激しさを増していきます。

 

④ユグノー戦争の勃発(ヴァシーの虐殺、1562

:カトリックとユグノーが対立する中、カトリーヌ=ド=メディシスはユグノーに一定の条件下での信仰と礼拝を許可します。ところが、この条件を破る形でユグノーが礼拝していたことに憤慨したカトリック派の首領、ギーズ公フランソワはフランス北東部の町ヴァシーで多数のユグノーを虐殺しました。このヴァシーの虐殺に驚いたユグノー側の大貴族コンデ公ルイはカトリック側との戦端を開きます。これがユグノー戦争の開始です。

 

⑤サン=バルテルミの虐殺(1572

:その後、ギーズ公フランソワの暗殺(1563)やコンデ公ルイの戦死(1569)など、カトリック・ユグノー両派ともに多くの犠牲を出しつつ、ユグノー戦争は断続的に続いていきます。こうした中、カトリーヌ=ド=メディシスは国内をまとめるためにユグノーとの和解を模索し、自分の娘であった王女マルグリットとユグノーの盟主であったブルボン家のナヴァル王アンリとの結婚にこぎつけます。ところが、その婚礼祝いのために集まったカトリック・ユグノー両派の間で対立が生じ、最終的にはカトリック側(ギーズ公アンリ)によるユグノーの大量虐殺が発生します。(きっかけはユグノー派のコリニー提督暗殺未遂事件でした。この事件を聞いたカトリック側は、ユグノーからの報復を恐れて先手をとってコリニー提督を殺害してしまい、そこから大虐殺へ発展します。)これがサン=バルテルミの虐殺です。

san
Wikipedia「サン=バルテルミの虐殺」)

 

この虐殺事件により、新旧両派の対立は解決が困難な状態となり、内戦が泥沼化していきます。また、ユグノーの側には周辺のプロテスタント勢力(ドイツのルター派、イングランドなど)が肩入れし、カトリックの側にはカトリック勢力(特にスペインなど)が支援したことで国外勢力の動向も一定の影響を与えました。

 

⑥「3アンリ」の対立

:サン=バルテルミの虐殺以降、フランスは病死したシャルル9世に代わって即位した弟のアンリ3世(ヴァロワ家)、カトリックの指導者のギーズ公アンリ、ユグノーの指導者のナヴァル王アンリ(後のアンリ4世、ブルボン家)による三すくみの状態が続いていきます。しかし、ギーズ家の勢力拡大を嫌ったアンリ3世はギーズ公アンリを暗殺します。(1588年) 

Guise-Henri
Wikipedia「アンリ1世(ギーズ公)」)

 

どうでもいいことではあるのですが、ギーズ公の肖像画はどれ見ても意外にイケメンなんですよね…。神経質そうな顔はしてますが。アンリ4世がいかにもおっさん風で、日本史で言うと徳川家康風味なのと比べるとずいぶん違います。

Henry_IV
Wikipedia「アンリ4世(フランス王)」)

 

脱線してしまいましたが、このこととユグノー勢力との協調関係に入ったことがカトリック勢力から激しく糾弾され、アンリ3世自身もドミニコ会修道士ジャック=クレマンによって殺害されてしまいました。これにより、ヴァロワ朝は断絶しますが、死の床についたアンリ3世はナヴァル王アンリを呼び、後事を託しました。これにより、ブルボン家のナヴァル王アンリはアンリ4世としてブルボン朝を創始します。

 

⑦ナヴァル王アンリの国王即位(アンリ4世、ブルボン朝の開始)とカトリック改宗

:アンリ3世の遺言により国王に即したアンリ4世でしたが、アンリ3世自身がカトリックから敵視されていたこともあり、フランスの多数派であるカトリックはアンリ4世を国王として承認しませんでした。また、カトリックの側にはローマ教皇やスペインの支援などがなされていました。特に、カトリックが圧倒的多数であったパリは、新国王の入城を拒み続けていました。このような状況を見たアンリ4世は、カトリックに改宗します。(1593年)これを好感したフランス人たちは、長く続く戦争に疲弊していたこともあってアンリ4世の改宗を歓迎します。そしてアンリ4世は翌年ついにパリに入城します。その後、アンリ4世はスペインと結んで抵抗する残党を平定します。

 

⑧ナントの勅令(1598

:国内を安定化させることに成功したアンリ4世は、1598年にナントの勅令(王令)を公布し、一定の条件の下でユグノーに個人単位の信仰の自由を与えました。(ユグノーはカトリック教会への十分の一税の支払いが必要) また、あくまでもカトリックがフランスの国家的宗教であることを明示したため、これ以降フランス国内では目立った宗教対立は起こらず、ユグノー戦争は終結します。

 

    ナントの勅令については、本設問とは関係がありません(答えに書く必要は全くない)が1685年のルイ14世によるフォンテーヌブローの勅令(ナントの勅令廃止)と、商工業者の亡命までセットでおさえておくとよいと思います。

 

【3、ナント勅令の目的】

 ①国内の融和と内戦の終結

 ②商工業者の懐柔

:ナント勅令の目的としては、上記2点ほどをおさえておけばよいと思います。

 

【4、政治状況および宗教問題】

:上記の【2、ナント勅令公布に至るまでの経緯】をご覧いただければおおむねお分かりになるかと思いますが、ポイントだけ下にまとめてみたいと思います。

 

(政治)

 ・フランスはイタリア戦争で神聖ローマ皇帝と対立→ルター派諸侯との結びつき

 ・カトリーヌ=ド=メディシスのユグノーに対する融和姿勢と、ギーズ家に対する警戒

 ・王家、カトリック(ギーズ家)、ユグノー(ナヴァル王アンリ)の三すくみに

 ・周辺のプロテスタント勢力(ドイツのルター派、イングランドなど)やカトリック勢力(スペインなど)の介入 

 

(宗教)

 ・宗教改革の影響を受けたユグノー勢力の拡大

・カトリックvsユグノー(多数派はカトリック)

 ・ブルボン家、コンデ家の改宗(改革派に)

 ・1562年 ギーズ公フランソワによるユグノー虐殺(ヴァシー虐殺)

  →ユグノーのコンデ公ルイ(ブルボン家)による軍事行動

 ・サン=バルテルミの虐殺(1572年)

 ・内乱終結後、ガリカニスムの傾向強まる

 

【解答例】

 ルターの影響を受けてカルヴァンが予定説と蓄財の肯定を説くと、商工業者が共感し北西欧を中心にカルヴァン派の勢力が拡大した。フランスでもユグノーと呼ばれるカルヴァン派が改革派を形成した。フランスの多数派はカトリックで大貴族ギーズ家がその中心であったが、神聖ローマ皇帝と対立するフランスでは改革派への理解もあり、ギーズ家の政敵ブルボン家やコンデ家が改宗すると対立が深まりユグノー戦争へ発展した。カトリーヌ=ド=メディシスは調停を試みたがサン=バルテルミの虐殺が発生し失敗した。ギーズ公アンリと国王アンリ3世が相次いで暗殺されると、ユグノーのナヴァル王がアンリ4世として即位し、ヴァロワ朝に代わりブルボン朝を開いたが、パリ市やスペインに支援された旧教派がユグノーの新王を認めず抵抗したため、アンリ4世はカトリックに改宗し、さらに両派の融和を狙ってユグノーに個人単位の信仰の自由を与えるナントの勅令を発布した。(400字)

 

 解答例の方はできるだけ細かい知識を並べ立てるよりも、当時の政治状況や宗教問題、ユグノー戦争の展開、周辺諸国との関係などがつかめるような文章にしてみました。書き方次第では教科書レベルの知識でも十分に及第点の解答を書くことはできるとおもいますので、「知らない」で終わるのではなく、「16世紀後半の新旧両派の対立となるとフランス以外との関係はどうなるかな…」など頭を使ってみるのもアリなのではないかと思います。