2020年の東京外語大の問題、実はまだ見ていなかったのですが、先日見て驚きました。ここでもオスマン帝国が出ていたのですね。しかも、以前作成した一橋向けの予想問題とクリソツでした。2017年にこの問題を作ってから、京大(2018)でも、東大(2019)でも、外語(2020)でも同様の内容が出題されたことになります。「問題の予想はそもそもできない、当たったらそれはたまたま」と自ら言いつつも、目の付け所は悪くなかったことが証明されて地味に嬉しい反面、何で肝心の一橋では出んのじゃコラと悲しく思うわけです。東大、京大で出たからさすがに何かしらで出るかなぁ。でも出るとしたら大問Ⅲだろうな。

 

 そんなわけで、オスマン帝国の近代化に際して現れた三つの思想的動き、すなわちオスマン主義、パン=イスラーム主義、パン=トルコ主義は非常にHOTなテーマであるわけです。もうすでに東大では出題されてしまったので今後出るかどうかはわかりませんが、トルコの近代化や東方問題、ナショナリズムやイスラームなど広げ方はいくらでもできる内容なので、他の大学でもおそらく形を変えて同様の内容が出題されることが増えてくると思います。そんなわけで、すでに東大2019解説に書いてある内容をテーマ史として独立させることにしました。

 

【オスマン帝国末期の三つの思想的動きについて】

 

オスマン主義

パン=イスラーム主義

パン=トルコ主義

 

 これらは、いずれもオスマン帝国を西欧に対抗するために一つにまとめ上げ、国力を強化していこうとする中で生まれた思想的潮流でしたが、発生した時期や発生の背景はかなり異なっていました。以下では、この3つの思想的潮流がいかなるものであったか、またオスマン帝国を維持しようとする動きとどのように関わってきたのかについて簡単に紹介していきたいと思います。

 

[①オスマン主義]

 :「オスマン主義」はオスマン帝国内に住む人々は宗教・民族の別なく、すべて平等な「オスマン人」であり、「オスマン人」の連帯を基礎として祖国(オスマン帝国)の政治的一体性を維持していこうという発想です。ただ、このような主張は必ずしも当時のオスマン帝国の実態には合致していませんでした。当時のオスマン帝国はバルカン半島のスラヴ系民族や西アジアにおけるアラブ人など複数の民族を抱える多民族国家であり、少なくともオスマン帝国内の人々が全て同じような「オスマン人」としては存在していませんでした。つまり、オスマン主義とは、実態としては多民族国家であったオスマン帝国が各地のナショナリズムの高揚や民族間の対立によって分裂の危機に瀕した時に、帝国を維持するために「創出」されたものであって、「オスマン人」というのもそのために「想像」ないしは「創造」された概念でした。(関連する知識として「創造の共同体」論)

 こうした「オスマン主義」を唱えた人々は、タンジマートによって西欧式教育の導入が進んだことにより、新しい思想に触れた「新オスマン人」と呼ばれる人々でした。この「新オスマン人」は、伝統的な官僚・ウラマーとは一線を画し、ヨーロッパの自由主義思想の影響を受けた改革派の官僚や知識人で、次第にスルタン専制に対する批判を強め、立憲制の導入を進めることになります。このような思想家の一人に、ナムク=ケマル(1840-88)がいました。彼は、憲法制定を目指す「新オスマン人協会」を設立(1865)し、各国を亡命する中で当時のスルタンであるアブドュルアジーズの専制を批判する言論活動を展開しました。このような流れの中で、ミドハト=パシャを中心とする改革派の運動が展開し、アブドュルアジーズはこの改革派のクーデタによって廃位され、その後幽閉の後に亡くなります。さらに、アブドュルアジーズのあとを継いだムラト5世も、病のため即位3か月で退位し、その弟であるアブドュルハミト2世が即位することになります。

 こうした一連の動きを見てみると、タンジマート自体に大きな矛盾が存在したことに気づきます。タンジマートは、たしかに法の下の平等など、西欧的な自由主義的思想を積極的に取り入れる改革運動で、歴代のスルタンも国力を強めるための西欧化には積極的でした。一方で、スルタンたちは自身の権力基盤を弱めるような諸改革、たとえば憲法制定による君主大権の制限や議会の設置などには消極的で、このような姿勢はよりドラスティックな改革を求める「新オスマン人」などの改革派には不満の残るものでした。アブドュルハミト2世が即位したときの状況は、このスルタンと改革派の対立とぴったり符合します。アブドュルハミト2世自身は自身の権力を弱めることになる「ミドハト憲法」の制定には極めて消極的でした。ですが、これに先立つクーデタなど、自身が即するに至った経緯を考えると、強く大宰相ミドハト=パシャらの改革派に異を唱えることもできません。一方、ミドハト=パシャら改革派の側でも、ムラト5世の退位などスルタン位をめぐる混乱が長引けば保守派の巻き返しを招く恐れがありました。ミドハト憲法は宗教の別を問わない全オスマン人の平等、人権の保障、二院制議会の設置など、極めて進歩的なアジア初の近代憲法となりましたが、一方できわめて強力な君主大権が残され、スルタンは戒厳令を発し、危険人物を国外追放に処することが可能とされました。これは当時のスルタンと改革派の関係がある種の妥協を要求されるものであったことを示しています。こうした、近代化を求めながらも自身の権力維持を追求する君主と、君主大権の制限など急進的な改革を進めたい改革派の協力と対立の構図は、19世紀以降のアジアの各地で見られる現象ですので、比較してみるのも面白いかもしれません。(中国における洋務運動~変法運動~光緒新政や朝鮮における閔氏政権など)

露土戦争が開始されるとアブドュルハミト2世は憲法の規定に従いミドハト=パシャを追放し、さらに露土戦争敗北によってスルタンに対する批判が高まったことに危機感を覚えたアブドュルハミト2世は議会を解散し、憲法を停止してスルタン専制へと復帰します。この新たに展開されたスルタン専制において、アブドュルハミト2世が利用しようと考えた思想がパン=イスラーム主義でした。

 

[②パン=イスラーム主義]

 :パン=イスラーム主義自体は19世紀の後半にアフガーニーを中心として高揚したイスラーム改革運動で、オスマン帝国のスルタン専制とは直接的な関係はありませんでした。ですが、当時のオスマン帝国のスルタンはイスラームの宗教的な最高権威であるカリフを兼ねており、これに目をつけたアブドュルハミト2世は自らを中心として民族・宗派をこえたイスラームの連帯を呼び掛けることで、自身の権威・権限の強化とスルタン専制の復活を目指しました。一方、それまでに「新オスマン人」たちが「創出」してきた「オスマン主義」は、いくつかの理由からその勢いが弱まっていきます。一つは、「オスマン主義」による帝国の維持を推進してきたミドハト=パシャの追放に見られるように、スルタン専制に批判的な「新オスマン人」たちがアブドュルハミト2世のスルタン専制(あるいはそれ以前から)によって政治の中心から遠ざけられ、弾圧されてしまったことです。そして、もう一つは、「オスマン主義」を掲げる「新オスマン人」たちの急激な西欧化改革がイスラーム社会の伝統や価値観を無視して進められたことから、ウラマーの一部やムスリムの民衆の間に強い不満が生まれることになり、その結果「オスマン主義」が目指した宗教・民族の区別のない平等なオスマン人の創出は挫折し、むしろ宗教的・民族的な対立を生み出すことになります。

 このような背景の中で、アブデュルハミト2世が掲げたパン=イスラーム主義は、西欧化改革に不満を持つムスリム層を取り込み、中央集権を強化して帝国の維持を図ろうとしたものでした。そのために、アブドュルハミト2世はパン=イスラーム主義の指導者であったアフガーニーをイスタンブルへ招聘します。ですが、アブデュルハミト2世のパン=イスラーム主義はアフガーニーの主張とは根本的に異なるものでした。アフガーニーは、確かにイスラームを紐帯として連帯することを主張しますが、一方でカージャール朝やオスマン帝国の専制については批判的でした。アフガーニーは宗教運動家でもありましたが、その主張はイスラーム社会の直面する様々な問題を解決しようとする目的のために展開されたものでした。彼の主張は、イスラーム社会に蔓延する矛盾や悪弊を一掃するためにイスラームの原点に回帰する復古主義・原理主義的な部分を持ちつつも、政治的には専制支配ではなく立憲制の樹立を主張し、イスラームの解釈についても時代に合わせた解釈のあり方を追求するなど、極めて進歩的で現実的なものでした。このようなアフガーニーの主張は、スルタンの権力強化の道具としてパン=イスラーム主義を利用しようとするアブドュルハミト2世の考えとは相いれないものでしたので、次第に両者の対立が明らかになっていきます。こうした中、イラン(カージャール朝)のナーセロッディーン=シャーがアフガーニーに影響を受けたケルマーニによって殺害される事件が起こると(1896)、かねてからアラブ人指導者などスルタンに批判的な勢力と接触を持っていたアフガーニーは幽閉され、イスタンブルで亡くなります(1897)。

 

[③パン=トルコ主義]

:アブデュルハミト2世が掲げたパン=イスラーム主義は、アフガーニーが本来主張したものとはかけ離れたものでしたが、それでもカリフ/スルタン権威をある程度高めることには成功しました。ですが、列強による各種利権の独占や、オスマン債務管理局の設立により帝国税収が直接的に列強に搾取されるなど、オスマン帝国の植民地化はさらに進行し、西欧化も進みました。スルタン専制と植民地化を阻止しようとする改革派は、「統一と進歩委員会(統一と進歩団)」などの秘密結社を中心に「青年トルコ人」運動を展開します。この運動の大きな目的は、憲政の回復(具体的にはミドハト憲法の復活)により、スルタン専制を打倒しようというものでしたが、運動の性質上、弾圧の対象となり、多くはヨーロッパ各地に亡命して運動を展開しました。この運動において、彼らが民族の団結と祖国の維持のために掲げた思想が「パン=トルコ主義」でした。彼らのような改革派は、民族対立や宗教対立を生む原因となった「オスマン主義」の幻影を追うことはもはやできませんでした。また、スルタン専制の道具とされてしまった「パン=イスラーム主義」も、彼ら改革派の目には時代遅れのものとして映りました。そんな彼らが団結のために掲げたものが「トルコ人、トルコ民族による連帯」により民族国家を成立させようという考え方である「パン=トルコ主義」でした。青年トルコの運動は、日論戦争における日本の勝利などにも刺激されて次第にオスマン帝国軍内の青年将校にも浸透し、1908年の青年トルコ革命へとつながっていきます。エンヴェル=パシャ率いる反乱軍の鎮圧に失敗したアブデュルハミト2世はミドハト憲法の復活を宣言し、スルタン専制は瓦解して憲政復活が実現しました。さらに、その翌年にはこの年に起こった反革命クーデタに関与した疑いでアブデュルハミト2世の退位が決定しました。このように、パン=トルコ主義はスルタン専制の打破には成功しましたが、「トルコ人」としての民族意識を要求する思想は各地の多民族の不満を強め、バルカン半島におけるスラヴ民族の独立運動や西アジアにおけるアラブ人たちの独立運動につながっていくことになります。

 

以上、タンジマートやアブドュルハミト2世のスルタン専制、そして青年トルコ革命にも絡むオスマン帝国末期の三つの思想的潮流(オスマン主義、パン=イスラーム主義、パン=トルコ主義)について概観してみました。最近の教科書や参考書(詳説世界史研究)などではこのトルコ末期の状況については新しい用語や記述が目立って増えてきています。たとえば、東京書籍の『世界史B』(平成30年度版)には以下のような記述があります。

 

帝国解体の危機にさらされたオスマン帝国では、1860年代から、オスマン帝国の臣民は民族・宗教のちがいをこえて一つの集団である、という主張があらわれた。このように主張した知識人は、自らを「新オスマン人」と称して、スルタンの専制を廃して立憲政をめざす運動を展開した。(p.319

 

オスマン帝国は元来、多民族、多宗教の国家であった。しかし、バルカン半島を失ったのち、オスマン帝国の住民の多数派であったトルコ人の間にも民族意識が広まり、帝国をトルコ人の民族国家ととらえ、それにふさわしい体制を求める知識人の運動がはじまった。彼らは自らを「青年トルコ人」と称し、1889年に「統一と進歩委員会」を結成して、スルタン専制を批判した。(p.320

 

 教科書の方にはパン=トルコ主義の記述はありませんが、図説の方には上に示した三つの思想的潮流を端的に示した図も出ています。下の図は、帝国書院の『最新世界史図説タペストリー(十六訂版)』の223ページに出ているものです。

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(『最新世界史図説タペストリー(十六訂版)』、p.223

 

図ですので多少単純化されてはいますが、わかりやすい図だと思います。ただ、それぞれの思想がどのようなものかといった詳細については書かれていませんし、まだまだ図説のページの端っこにちょっぴり載せられているに過ぎませんので、生徒が自学自習でこれを把握するのはかなり難しいでしょう。オスマン帝国末期の思想について生徒がきちんと把握できるかどうかはこうした図説や教科書、プリントなどを教える側がどう扱うかによってかなりの差が出るような気がします。また、『詳説世界史研究』(2017年版)の方には上述のナムク=ケマルなどの人名やオスマン債務管理局などの新出の用語も掲載されています。