時折勘違いされるのですが、ベルリン封鎖(19481949)とベルリンの壁建設(1961)は同時期ではありませんし、原因も全く異なります。知っている人にとっては「なーんだ」な知識ですが、現代史に不慣れな現役生などは意外と見落としがちでもあるので、この点、注意しておかないと私大の時代整序問題などで間違えることになります。前者が西側占領地域での通貨改革にソ連が反発したことから、西ベルリンへの交通を検問などの方法によって遮断したのに対し、後者は東西ドイツの経済格差が拡大し、東ベルリンから西ベルリンへの亡命者が急拡大した時期に、そうした亡命を防ぐ目的で西ベルリン全域を取り囲む壁を築いたことによります。

 まず、この両者を理解するためには、当時のベルリンがどのような状態に置かれていたのかを正確に理解する必要があります。当時のベルリンは、ドイツ全域同様に四か国の分割占領下におかれたのですが、ベルリンの周辺地域は全てソ連の占領下にあり、そのためベルリンの米・英・仏による管理地域はソ連によって交通を遮断された場合、陸の孤島になることとなり、これがソ連によるベルリン封鎖を可能にさせた地理的条件でした。下の地図の白い丸で囲まれた部分がベルリンで、そのうちの青・緑・オレンジのついている部分が西ベルリンです。その周辺が真っ赤なソ連占領地域に囲まれているのがお分かりになるかと思います。

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Wikipedia「連合軍軍政期(ドイツ)」より、一部改変)

 一方、ベルリンの壁というのはこの西ベルリンを完全に壁で囲んでしまうというものです。もちろん、「壁」ですから転生物よろしく「いでよ!壁!」みたいに一夜のうちにできるわけではなく、壁の建設に際しては軍による各所の封鎖が行われます。

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Wikipedia「ベルリンの壁」より)

 封鎖以前は、西ベルリンとその周辺地域は物理的には閉鎖されていないので、人が行き来できる状態だったわけですが、その封鎖が急遽行われたために、急いで西側への脱出を試みようとする人がいたり、本来いるべき場所に戻れない人が出るなどして、多くの人々が東西に引き裂かれる結果を生みました。その後、封鎖された地域には最初は鉄条網、後には壁が建設されて、東側から西側へ亡命しようとする人を防ぐことになりました。壁の西側は何もないのに対し、壁の東側には逃亡者を防ぐための監視塔や、市域から数十メートルに及ぶ無人地帯、逃亡防止用の各種仕掛けが施されていたことは象徴的です。この壁は、1989年のベルリンの壁崩壊にいたるまで、ベルリン市民を東西に引き裂き続けることになります。

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Wikipedia「ベルリンの壁」より)