今回はイタリア史、中でも両シチリア王国とイタリア戦争に焦点をあててみたいと思います。中世イタリア史というと、よく出てくるのは叙任権闘争とか、ゲルフとギベリンとか、東方貿易とか、まぁ定番のところがよく出てくるわけですが、案外受験生の悩みの種になるのがこの「イタリア戦争」ってやつです。よく「イタリア戦争の頃から主権国家体制が成立し始めてウェストファリア条約で確立した」とか「イタリア戦争によってイタリア=ルネサンスが終焉を迎えた」とかその意義ばかりが強調されるのですが、肝心のイタリア戦争の背景やらがあんまり書いてないんですね。かといって、ネットでWikiipediaやらあちこち調べても今度は逆に詳しすぎたりしてどうも全体像が見えない。そこで今回は思い切って不要な情報をできるだけカットしてイタリア戦争を単純化して理解するためのまとめを、イタリア戦争と同様に受験生を悩ませがちな両シチリア王国とセットにしてやってみたいと思います。
[10世紀以降のイタリア]
・神聖ローマ皇帝のイタリア政策
→教皇党(ゲルフ)vs皇帝党(ギベリン)
cf.) シュタウフェン朝(フリードリヒ1世・2世)
[中世末期~ルネサンス期のイタリア]
・諸侯・都市国家の分立
(フィレンツェ・ミラノ・ヴェネツィア・ジェノヴァ・教皇領・ナポリ王国など)
・イタリアへのフランス・スペインの介入
(ex. シチリア王位:1130年にルッジェーロ2世が王位を得て建国[オートヴィル朝])
[シチリア王位の変遷]
1194 |
婚姻でシュタウフェン朝のハインリヒ6世がシチリア王に |
(ハインリヒ6世はフリードリヒ1世の子、フリードリヒ2世の父) |
|
1266 |
フランスのアンジュー伯アンリ(シャルル=ダンジュー)がシチリア王に |
(フリードリヒ2世の庶子マンフレーディによる簒奪に教皇と |
|
仏王ルイ9世が反発したため) |
|
1282 |
シチリアの晩鐘(晩禱) |
:シチリア島の対シャルル反乱 |
|
→シャルル=ダンジューが王位を失う |
|
→アラゴン家のペドロ3世即位 |
|
※ |
これ以降、アンジュー家はナポリ王位のみを継承 |
(シチリア…アラゴン家 / ナポリ…アンジュー家) |
|
1442 |
アルフォンソ5世(アラゴン家)のナポリ王位承認 |
:先王ジョヴァンナの後継指名混乱による |
|
→アンジュー家のルネ=ダンジューが追放される |
[イタリア戦争(1494-1559)]
1494 仏王シャルル8世[ヴァロワ家]のイタリア侵入(ナポリ王位の要求)
→神聖ローマ皇帝[ハプスブルク家]との対立
Cf.) フランソワ1世vsカール5世(カルロス1世=フェリペ2世父)
※ この時期、ハプスブルク家がオスマン帝国とも抗争していたことに注目
・オスマンのバルカン進出拡大
1526 モハーチの戦い:ハンガリーに進出
1529 第一次ウィーン包囲
・フランスと協力関係を構築(カピチュレーションなど)
1559 カトー=カンブレジ和約(アンリ2世・フェリペ2世・エリザベス1世)
:ハプスブルク家の優位確定
[イタリア戦争の意義]
・フランス(ヴァロワ家)に対するハプスブルク家の優位が確定する
(フランスはイタリア進出を断念)
・主権国家体制の形成
(常備軍と官僚制の整備、領域内の内政・外交権が次第に一元化され始める)
・イタリア=ルネサンスの終焉
(カール5世によるローマ劫略[サッコ=ディ=ローマ]が決定的な打撃)
・軍事革命
(火砲の使用による歩兵の重要性→当初は傭兵、後に常備軍整備[封建領主の没落])
【★ここがポイント:両シチリア王国】
みなさんは両シチリア王国といえば「ノルマン系貴族のルッジェーロ2世が1130年に建国した国」ということはご存じだと思いますが、「そもそもなぜイタリアにノルマン系の貴族がやってきて国王になっちゃうの?」とか、「その後シチリア王国とかナポリ王とか出てくるけど、両シチリア王国はどうなってるの?」ということまではご存じないかもしれません。まず、両シチリア王国の原型を作るのは、ルッジェーロ2世ではなく、その伯父さんのロベール=ギスカール(ロベルト=グィスカルド)とルッジェーロ2世の父であるルッジェーロ1世です。
ところが、当然のことではありますが、フランスが次第に安定化してくると、そこでの立身栄華の機会というのは限られてきます。混乱の時代であれば略奪でもなんでもしてぶんどってしまえばいいわけで、ジャイアニズムが通用するのですが、ある程度秩序だった世界ではそういうことをするとより強い連中によって叩かれ、おさえつけられてしまうわけですね。ですから、貴族として立身が約束されているとか、その家の長男であればよいのですが、次男坊、三男坊ということになると、もう分けてもらうパイがありません。実際、ギスカール自身もノルマンディーで村の領主のようなことをやっていたオートヴィル家の六男坊だったそうです。食い詰めたこうした連中は、政情が不安定で働き次第で自身の栄達を狙える土地へと乗り出していきます。12世紀においては、各地の小国、ローマ教皇、神聖ローマ帝国などの諸勢力が割拠し、イスラームの影響まであるイタリア、中でも南イタリアはねらい目の土地でした。
こうした中でルッジェーロの息子であったルッジェーロ2世はシチリアを支配した後、伯父であったギスカールの孫であるグリエルモが亡くなったことでナポリの支配権を得て、これを当時の対立教皇アナクレトゥス2世から認められて1130年にシチリア王として封ぜられます。これが両シチリア王国の起源となるわけです。まぁ、要は父親と伯父さんの領地を(結果的に)継承したわけですね。
つまり、シチリアとかナポリというのは、本来は異なる爵位になりますし、元々は伯爵位だったり公爵位だったりしたわけで、別物なんですね。それが後に王位に格上げされるわけですが、それでもこの二つは本来別のものです。ナポリ王はナポリ王、シチリア王はシチリア王なわけです。ただ、この二つの王位を一人の人物が兼ねる、ということはあるわけです。シチリア王にしてナポリ王みたいにですね。近代的にいえば「同君連合」ってやつですね。これは中世以降のヨーロッパでは別に難しいことではありません。ちなみに、後のハプスブルク家の肩書はこんな感じだそうです。
オーストリア皇帝、ハンガリー、ベーメン、ダルマティア、クロアティア、スラヴォニア、ガリツィア、ロドメリアおよびイリリアの王、イェルサレム王その他、オーストリア太子、トスカナおよびクラクフ大公、ロートリンゲン公、サルツブルク、スティリア、ケルンテン、クライン、ブゴヴィナ公、トランシルヴァニア大公、モラヴィア辺境伯、上下シレジア公、モデナ、パルマ、ピアチェンツァおよびぐアステラ公…(これでもまだ4分の1くらいでしょうか)
ただ、ルッジェーロ2世の両シチリア王国(または19世紀に成立した別の「両シチリア王国」と区別するためにノルマン=シチリア王国と呼ばれることもあります)が成立すると、通常はシチリアと南イタリア(後のナポリ王国)を総称して「(両)シチリア王国」と呼ぶようになります。再度シチリア王位とナポリ王位が分割されるのは、アラゴン系シチリアとアンジュー系ナポリに分割される13世紀以降のことです。
いずれにせよ、このような経緯でできた両シチリア王国でしたが、その後の婚姻関係や争いの結果、ルッジェーロ2世からはじまるオートヴィル家が断絶すると、シチリア王家は「シュタウフェン家→アンジュー家→アラゴン家」というように変化していきます(上述の年表を参照)。この3家がそのまま神聖ローマ帝国、フランス、アラゴン王国(後のスペイン)と関係の深い家だということに注意してください。つまり、この3国はシチリアとナポリの王位に深く食い込んで因縁があるわけですね。
こうした中、一度はフランス系の貴族である「アンジュー家のシャルル」ことシャルル=ダンジュー(Charles
d'Anjou、つまりシャルル=ド=アンジューなわけですが)がシチリアとナポリを領有しますが、シチリアの晩鐘で追い出されてしまい、さらにキープしていたナポリ王位も後にアラゴン家が所有することになります。こうした中で「アンジュー家からのナポリ王位継承」を口実にイタリアへの影響力を拡大しようとしたシャルル8世が北イタリアに侵攻した、というのがイタリア戦争です。この際、フランスが侵攻した背景にはそれまで北イタリアのフィレンツェで勢力をはっていたロレンツォ=デ=メディチがコロンブスの新大陸発見と同じ年の1492年に亡くなったことなどがあるわけですが、このあたりの事情は最近だとマンガ『チェーザレ(作:惣領冬実)』を読むと雰囲気がつかめます。
いずれにしても、このフランスの侵攻は、当時分立はしながらも比較的安定していたイタリア諸国の間に激震となって伝わります。のみならず、イタリアに深い利害関係を有していた神聖ローマ帝国も断続的に発生するイタリアの争いに巻き込まれていきました。特に、この戦争はフランスヴァロワ家のフランソワ1世とそれに協力するオスマン帝国スレイマン1世、これらに対抗する神聖ローマ皇帝にしてスペイン国王ともなるハプスブルク家のカール5世(カルロス1世)という構図になっていきます。しかし、最終的にこの戦争後にヨーロッパの各地に勢力を有していたのはヴァロワ家ではなくハプスブルク家でした。ハプスブルク家はドイツ地域、スペインのみならず、ナポリ、シチリア、ネーデルラントといった地域に勢力をはり、フランスを取り囲んでしまいます。このハプスブルク家の優位は1618年からの三十年戦争を経て、1648年のウェストファリア条約でフランスのブルボン家がこの大勢を覆すまで続くことになります。
(Wikipedia「ハプスブルク家」より)
コメント