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カテゴリ: 一橋大学対策

ずいぶん長いことほったらかしておりましたが、ぼちぼち一橋の2020年問題の解説をしていきたいと思います。とはいっても、やはりいっぺんにUPするのは難しいので、とりあえず大問1からで勘弁してください。できれば今年中に間に合えばなぁとは思っています。

 

まずは、全体を概観したいと思います。

 

大問1については、近年の一橋の良さが良く出た設問で、私としては良問ではないかと思います。高校受験生の世界史知識をベースに、史料の読解を通して考えさせ、正解を導くというスタイルの設問で、近年ですと2016年や2014年の大問1が似たようなスタイルの設問ではないかと思います。世界史の問題の多くがこのような形で作れるのであればそれはとても良いことですが、生徒の知識量と扱える史資料のバランスを考えたとき、こうした設問を用意するのはなかなか難しいので、一橋の先生方も本当によく工夫されているなぁと思います。西洋史を学ぶ、ということは単に知識を詰め込むという作業ではありません。総合的に各種情報を整理・分析する能力が必須なんですね。本気で取り組もうと思った場合、かなりハードに情報収集・分析・整理を行って、その上に想像力を活用しなくてはならない、極めて高度な知的作業だと思います。だから、欧米だとわりと歴史本格的に勉強した人は尊敬されるというか、民間企業でもわりと良い扱い受けたりするみたいですね。日本だけじゃないでしょうか、ここまで冷遇されているのはw

もっとも、日本では大学院レベルでもそれ(各種情報の整理や総合的な分析)ができる人とできない人はかなりシビアに分かれてくるのではないかなぁと思います。まぁ、言っちゃあ何ですけどできない人の方が多いですよねw それが(冷遇の)原因なのかなぁ。でも、それができる人は多分、他の学問分野であったとしても「できる」人じゃないかなと思います。多分こういう人は学問だけじゃなくて仕事させてもソツなくこなすでしょうし、視野が広いから起業もできるタイプの人じゃないですかねぇ。そういう人の研究や報告を聞くと、知性の光というか、「ああ、そうか。アタマっていうのはこうやって使うんだなぁ」というある種の感動を覚えることがあって、そうした研究に出会えることは大学や大学院における最大の楽しみでもあるわけです。

 

脱線しましたが、続いて大問2についてです。テーマとしてはよくあるスタイルの設問で、新しさのあるテーマではありません。イギリスからアメリカへの覇権交代に関する論述問題で、他大学や模試などでもなどではわりと良く見られるテーマではないかと思います。では、簡単かというとそれがそうでもないんですよねぇ。難しくはないのですが、いかんせん要求されている範囲が広すぎます。19世紀後半以降から第二次世界大戦・冷戦・脱植民地化ですからね。もちろん、重点をおくのは後半部分なわけですが、この内容を400字に詰め込もうとするとひたすら用語の羅列になってしまって何を言っているのだかわからない文章が出来上がってしまいそうで怖いですね。必要以上に怖がる必要はないですが、注意の必要な設問だったかと思います。

 

大問3については、いわゆる朝鮮王朝における小中華思想と、朝鮮王朝末期の大院君統治期の攘夷思想との関係性を問う設問ですね。奇しくも、同じ年の東大でもこの小中華思想を扱っています。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_394128.html) 大院君については通常の受験生ですとやや厳しい(知識が身についていない)のかもしれませんが、一橋を受験する受験生にとっては必須のテーマで、以前にも何度か大院君以降の朝鮮政治史については取り扱っています。おそらく、この大問3は普段から一橋の過去問に触れて周辺を勉強している受験生にとっては一番取り組みやすかったのではないでしょうか。

 

全体を見ると、大問2、大問3については平均的な一橋受験生であればそこそこ書けそうです。ですから、実質的に差がついたのは大問1できちんと設問の要求に沿った解答が書けたかどうかにあったのではないかと思います。

 

2020 Ⅰ

 

【1、設問確認】

:本設問は、1524年に発生したドイツ農民戦争に関してルターが述べた著作を史料としています。もっとも、設問中ではルターがこの著作を「1525年に書いた」ことと、「その前年に起こった農民反乱」について語っていることしか示されていませんが、これらからこの農民反乱をドイツ農民戦争であると確定するのは基本事項ではないかと思います。その上で、以下の問1、問2を合わせて400字で書きなさい、というのが本設問の要求です。

 

問1 

・下線部は具体的にどのような要求であったか

(下線部は以下の通り)

 「農民たちが創世記1章、2章を引き合いに出して、いっさいの事物は、自由にそして[すべての人びとの]共有物として創造せられたものであると言い、また私たちはみなひとしく洗礼をうけたのだと詐称してみても」

 

問2

・「農民たち」が考える「聖書のみ」と、資料中で「ルターが」表明している「意見」の相違はどのようなものか

・上記の相違はどのような理由で生じたと考えられるか

 

【2、下線部の要求(問1)】

:それでは、まず「下線部の要求」の具体的な内容から確認していきたいと思います。

この史料で語られているのはドイツ農民戦争についてですので、まずはドイツ農民戦争についてのディテールを確認しておいた方が史料(下線部)の読み取りが楽になります。

 

(ドイツ農民戦争[1524-25]

指導者:トマス=ミュンツァー

内容:①ルターの宗教改革に影響を受けたドイツの農民反乱。

   ②農民たちは1525年に「十二か条要求」を掲げた(後述)

   ③ルターは当初農民に同情的だったが、反乱の過激化とともに態度を硬化させた

 

以上の内容を確認したうえで、下線部を分析していきます。

 

(下線部の分析)

・農民たちが使用している根拠:創世記1章、2

:このことは、農民たちが自分たちの主張は「聖書」に書かれているので正しいと考えていることが分かります。ルターの聖書主義の影響です。

 

・いっさいの事物は自由にそして[すべての人びとの]共有物として創造せられた

:文章をそのまま読めば、「すべてのものは自由に使える共有物として神がつくった」ということですから、この文章からは「地代の軽減・廃止」や、「共有物の適切な仕様(入会地の共有や狩猟の自由など)」などの内容を想定することができます。また、こうした要求は農民たちの掲げた「十二か条要求」の一部でもありました。

 

・わたしたちはみなひとしく洗礼を受けた

:これは、キリスト教信徒の神の前の平等のことを言っています。ここからは例えば「身分制の否定(農奴制の廃止)」や「万人祭司主義」などを論点として想定することができます。

 

(聖書主義について)

:ここで、聖書主義について少し説明しておきましょう。聖書主義というのは、神の言葉や権威は教会や聖職者に存在するのではなく、聖書の中の文言にこそそれが示されているという考え方で、すでに14世紀イギリスのウィクリフやその影響を受けたフスに聖書主義の考え方が見られます。その背景には、当時の教会の堕落がありました。当時の人びとの大多数は字、特にラテン語についての素養がありませんでしたから、「神様が何を言ったか」とか「キリストが何をしたか」などは教会のミサで司祭が行う説教を通して知ることになります。ところが、その説教がピンキリなんですね。司祭によってはまともな学識がなかったり、自分たちに都合のいいように話を盛ってしまったりということは普通にあるわけです。それでも、その司祭や教会が人格高潔で清貧に耐えて人々のために働く、というのであればよかったのでしょうが、当時の教会はすっかり世俗権力とも仲良し、教会は分裂や対立を繰り返して(教皇のバビロン捕囚や大シスマ)、一般民衆からは搾り取れるだけ搾り取っていきます。中でも世俗権力の分立傾向が強く、多くの教会領を抱えていたドイツ地域の農民たちは「ローマの牝牛」という言葉が生まれるほどに搾取されていました。こうなると、教会による支配に対する不満や疑問が強くなってきます。

 こうした中で、ルターの宗教改革が始まると「聖書主義」はプロテスタントがカトリック教会に対抗する中心的な考え方の一つになっていきます。ただ、この聖書主義にはいくつか問題がありました。「聖書に神の言葉が書かれているから教会は必要ない、聖書を読めばいい」とはいっても、①民衆の多くはラテン語を読めないし、知りません。②本の値段はべらぼうに高いです。そこで、これらを解決する方法が必要でした。①の問題については、「聖書の口語訳」という形で解決されていきます。ウィクリフやルターが聖書の英語訳、ドイツ語訳を作ったこと、フスがチェコ語での大学講義や説教を求めたことなどはこのような文脈の中で理解する必要があります。また、②についてはグーテンベルクの活版印刷術の実用化による書籍の低価格化が聖書普及に貢献していきます。これによって、めちゃくちゃな金持ちでないと手に入らなかった書籍が、ちょっとした小金持ちであれば買えるくらいの値段におさまるようになりました。(イメージで言うと、高級外車買うor一戸建て建てるぐらいの価値だったものが、高級家電を買うくらいまでは落ちてきたようです。) それでも、一般の農民には夢のまた夢、聖書を買うなんてできないし、字も読めません。では、どうして農民は聖書の内容が分かるのか。想像してみましょう。ある村の小金持ちのおっさん。これまで買うことができなかった高級品、「聖書」が安くなったので買うことができました。自慢したくして仕方ありません。そこで、自分の土地で働いている小作人を呼びつけて「おい、そこのお前。いいものを見せてやろう。Ta-da! これが聖書だ!お前みたいな教養のない奴は見たことがないだろう。何?字が読めない?仕方ないなぁ、読んで聞かせてやろうではないか。心して耳を澄まして聞けよ。『光あれ!』」 とまぁ、こんなことが本当にあったかどうかは知りませんが、ありそうな話ではありますw 要は、「回し読み」や口伝えによるわけですね。カラーテレビが初めて出たころに、ご近所さんが見に来るみたいなイメージでしょうか。それでも、活版印刷術の普及によって、グーテンベルクが印刷した42行聖書(15世紀半ば)が2050グルデンであったのに対し、ルターのドイツ語訳聖書は12グルデンほどであったそうなので、かなり聖書を持つ人口自体は増加します。当然、聖書の「生の」情報に触れる人口もそれに伴って増えることになります。

少し話はそれますが、当時のカトリックのミサでは当然のことながらラテン語が使用されていました。ですが、ラテン語というのは一般ピーポーにとってはちんぷんかんぷんの魔法の言葉みたいなものです。だから、内容がわからないわけですけれど、でも「そこがいい」という部分もあります。

dagasorega

©原哲夫『花の慶次‐雲のかなたに‐』)

 

どういうことかといいますと、ラテン語によるミサというのは「それ自体がある種の魔法的、呪術的な雰囲気を醸し出していて、そこに価値を見出す部分もある」ということです。例えば、われわれはお葬式などの際に仏教徒であればお坊さんを呼んでお経をあげてもらうわけですが、お坊さんが何やら「にゃむにゃむ」言いながら「おーんあーぼきゃーべーろーしゃーのーまーかーぼだーだーらーまーにーはんどーまーじーんばーらはーらーはーりたーやウーン」とか言われても「なんのこっちゃねん」と思いつつ、立派な袈裟を着た坊さんの洗練された所作、香のにおい、お経や真言などの舞台装置によって「なんとなーく」、「ありがたそーうな」雰囲気を感じて、故人を偲ぶわけです。

ところが、「聖書を口語訳する」というのはこの舞台装置をぶっ壊してしまうわけですね。想像してみましょう。葬式に呼んだ坊さんが、ロン毛に茶髪、アロハ着て「ハーイ、皆の衆、元気?これから仏様のありがたーいお話、聞かせてやるから聞けよ、ロッケンロールだぜぇえ~!ヤー、ハー!」とかやりだしたら「ふざけんな」って言ってたたき出されると思いませんか?ちょっと前に「般若心経を現代語訳した」みたいなネタが流行っていましたが、あれも近いものがありますね(https://grapee.jp/97528)。ハリーポッターだって、かっこよく呪文唱えてますけど、ほとんどラテン語由来の造語で、日本語訳しちゃったら雰囲気もへったくれもないわけです。ですから、カトリックの側が当時のルター派やカルヴァン派などのプロテスタントを異端として忌み嫌ったのは、単に自分たちに逆らっているからというだけではなくて、こうした感覚的な嫌悪感というものもあったのではないかなぁと想像してみたりします。その理解が正しいかどうかはともかくとして、そういうイメージを持つとより「聖書主義」というかたい言葉を柔らかく理解することができるようになります。

 

【3、「農民たち」と「ルター」の見解の相違とは何か】

:大問1の要求の肝になる部分です。ここを取り違えてしまったり、関係のないことを書いてしまったりすると加点されないことになるので、丁寧に確認する必要があるでしょう。

 

(農民たち)

①教会の権威に意味はなく、神の言葉は「聖書のみ」に示されており、その聖書の創世記に事物の共有とキリスト教徒の平等が示されているのであるから、富の偏在や現行の教会制度、教会による財物の搾取、身分制などには誤りがあるとしています。つまり、聖書主義に基づいて自分たちの主張の正当化を試みているわけです。

 

ドイツ農民戦争(1524年)の「十二か条」要求

:トマス=ミュンツァーが指導するドイツ農民戦争は以下の「十二か条」を掲げました。最新版(2017年版)の山川出版社『詳説世界史研究』には、「十二か条」全ては出ていませんが、以下の内容は示されています。

・農奴制廃止

・地代の軽減

・農村共同体による聖職者の選出

・聖職者を養うための十分の一税の適正使用

(ちなみに、山川出版社『詳説世界史B』には「農奴制の廃止」、東京書籍『世界史B』には「領主制の廃止」や「土地の共用」が示されていました。)

 

(ルター)

:ルターが史料中で述べている意見をそのまま解釈すると以下のようになります。

①農民が根拠にしている『創世記』は『旧約聖書』中のものであり、キリストが誕生して以降の『新約聖書』においては意味をなさない。(『新約聖書』の記述が優先される)

②『新約聖書』ではキリストの言葉において、人々の身体も財産も、皇帝とこの世の法に従わせている

=身分制など、現行(当時)の社会秩序の肯定

③パウロもローマ13章において、洗礼を受けたすべてのキリスト者に「だれでも上に立つ権威に従うべきである」と言っている

 =領主などの世俗権力の権威の肯定

④農民反乱の鎮圧は農民にとっての「救済」であり、その義務を果たす中で落命する騎士は祝福される

 

【4、農民とルターの意見の相違はどのような原因で生じたか】

①聖書解釈の違い

:まず一つに、農民の聖書解釈とルターの聖書解釈に差があることが挙げられます。これについてはルターが史料中で「なぜなら、モーセは新約聖書においては発言権を持たないからである」や「そこ(新約聖書)には、私たちの主キリストが立ちたもうて…」などと述べていますので、そこから推測して検討すればよいと思います。

②農民反乱の過激化や秩序破壊に対するルターの危惧

③ルター自身がザクセン選帝侯フリードリヒによって庇護されていたこと

④ルター派の教義を根付かせるためにルター派諸侯の協力が必要であったこと

:②~④については、いろいろな教科書・参考書等で目にすることもありますし、ちょっと気の利いた先生であれば一言加えてくれるのではないかと思います。

 

はっきり言ってしまうと、農民とルターの意見の相違が「なぜ」生じたかの本質的・根本的な部分は内面的な問題になりますので、当時のルターにインタビューでもしない限り分かりません。もしかすると「気分で」と言われるかもしれませんw また、学説的に「正しい」見解も、ルターの研究書を全て高校受験生が読めるはずもないので、高校受験生には知りようがありません。ですから、この設問では受験生が知りうる世界史の知識をベースにして「ありそうな」原因を検討して示せばそれで十分だと思います。大切なことは、ルターの「意見」だけを書いて「原因」を書いた気にならないということ。これが重要です。「原因」というのは「ルターがなぜ、農民とは違うルターの意見(身分制の肯定や農民反乱の鎮圧支持など)を持つにいたったかということ」を示すことですので、そこをはき違えないようにする必要があると思います。

 

【解答例】

問1、地代の廃止、共有物の適正使用、農奴制の廃止、農村共同体による聖職者の選出など。問2、トマス=ミュンツァーに率いられた農民たちは、信仰の根拠を聖書のみに求めて教会の権威を否定し、創世記中の記述を根拠に地代や農奴制の廃止、農村共同体による聖職者選出や十分の一税の適正使用を訴え、ローマ教皇を頂点とする当時の教会制度や領主が農奴を支配する封建的社会秩序を否定し、教会や領主による農奴からの搾取を批判した。これに対しルターは、新約聖書の記述が旧約聖書中の創世記に優越することを主張し、社会秩序の維持や世俗権力の権威の尊重を説き、農民反乱鎮圧は反乱者にとっての救済であると主張した。これらの相違の背景には、聖書解釈の相違に加えてルターが農民反乱の過激化や秩序破壊に危機感を抱いたことや、ルター自身がザクセン公の庇護下にあり、ルター派教義の普及のためにルター派諸侯の協力を必要としていたことなどがあった。(合わせて400字)

【2020.11.5:模範解答の「世俗権力の」の部分が「皇帝・教皇」になっていましたので、訂正しました。(ルターは当時、ローマ教皇と対立関係にありますので、教皇はまずいと思います。史料中の文言が「皇帝」となっておりますので、皇帝・領主とすればアリかとも思いますが、当時のカール5世との対立等を考えますと「世俗権力」としておくのが良いでしょう。)

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今回は、一橋2012年のⅠ、ナントの勅令(王令)公布をめぐる問題について解説していきたいと思います。一橋では頻出の宗教と国家の関係を答えさせる問題です。この前年の2011年にもフス戦争をめぐる問題が出ましたが、フス戦争と比べるとナントの王令が公布されるまでの経緯、つまりユグノー戦争の経過について書くことは当時の受験生にとってもそう難しくない内容だったのではないかと思います。一方、そのディテールということになると細かい内容まで書ける人と書けない人で多少の差がつく問題だったのではないでしょうか。概要についてはみんながよく知っている内容である反面、情報の総量としては世界史の教科書や参考書に記載されている内容はそれほど多くはありません。

ためしに、現在の『詳説世界史B』(山川)と『世界史B』(東京書籍)の2016年版でユグノー戦争の箇所を見てみましたが、いわゆる3アンリの対立(ギーズ公アンリ、アンリ3世、ナヴァル王アンリ[アンリ4])などについては一切記述がなく、新旧両派の人物として名前が挙がっていたのは国王シャルル9世、摂政カトリーヌ=ド=メディシスとアンリ4世くらいのものでした。

一方、最新の『詳説世界史研究』(山川、2017年版)の方にはさすがにかなり詳しく載っています。シャルル9世やカトリーヌ=ド=メディシスはもちろん、ギーズ公フランソワとアンリの父子、コンデ公ルイ(アンリ4世のおじ)、アンリ3世(シャルル9世の弟、ヴァロワ朝最後の王)などの名前や、ユグノー戦争中の彼らの行動についても書かれていますので、ここに書いてある知識があるとかなり文章を作るのは楽になったのではないかと思います。これらはそこまで特別な知識というわけではなく、少なくとも高校生の頃の私は『詳説世界史研究』をベースに勉強していたこともあってコンデ公ルイ以外の名前は当時から知っていたというか、覚えておりました。また、ここには載っておりませんが、当時は確か載っていたコリニー提督(プロテスタント側の人物としてサン=バルテルミの虐殺で殺されてしまった人)も覚えてましたね。ホンマに、世界史だけはよく頑張っておりました。もうちょっと別の科目に力を振り分ければよかったのに…。

それでは、試験当時の2012年はどうだったのかなと思いましたので、旧版の『詳説世界史研究』(山川、2008年版)を確認してみましたところ、以下のような文章になっていました。

 

 「…ユグノーは、人口のうえでは少数であったが、王権による中央集権化に対抗する中小貴族、指導者としてブルボン家のナヴァル王アンリなど有力貴族も含み、社会的・政治的に無視できない勢力となった。カトリックの指導者である有力な貴族にはギーズ公がいて、ユグノーに強硬な姿勢をとった。ギーズ公は、国民の多数派のカトリック教徒に大きな影響力をもっただけに、王室にとっては警戒すべき存在であった。シャルル9世が幼少で即位して以来、宮廷ではメディチ家出身の母后カトリーヌ=ド=メディシスが実権を握っていたが、彼女は新旧両教徒を対立させたバランスのうえに王権の伸長をはかろうとした。

 1562年、新旧教派の流血事件を契機にユグノー戦争と呼ばれる宗教内乱が始まった。ギーズ公ら旧教派による新教派の大量虐殺がおこなわれたことで有名な1572年のサン=バルテルミの虐殺では、コリニー提督をはじめ、多数のユグノーが犠牲になった。

 この事件に関する死者は全国で3000人をこえたといわれる。この事件は、カトリーヌ=ド=メディシスの謀略とされ、対立をいっそう激化させた。旧教派はローマ教皇・スペインなどと結び、ユグノーはイギリス・スイス・ドイツ新教諸侯の支持をえ、国外からの影響も加わった。国王アンリ3世によるギーズ公の暗殺がおこなわれ、今度はそのアンリ3世が暗殺されるなどの混乱が続いた。

 アンリ3世が暗殺されてヴァロア朝が絶えると、1589年、ナヴァル王であったブルボン家のアンリ4世がフランス国王位に登った。プロテスタントであったアンリ4世は、即位に際してカトリックに改宗し、その一方、1598年にはナントの王令(勅令)を発して、ユグノーにも信仰の自由と市民権を認める政策をとった。こうして、内乱はようやく収拾され、フランスの王権は急速に強化された。」

(『詳説世界史研究』山川出版社、2016[2008年版第11]pp.306-307、人名や事件名の英語訳並びに人物の生没年、在位年等については省略)

 

 …もうこれが答えでよくないですかw? つまり、当時の受験生にとっても勉強の仕方によってはこちらの設問は十分に対処しうる設問であったことは間違いありません。(書いてあるのだから。)もちろん、これだけの情報を用意できない場合には、フランスでユグノーが拡大する前段階としてのドイツならびにスイスの宗教改革の詳細を書くという手もあるにはあると思います。(実際、私の解答例でもドイツ、スイスの宗教改革については言及しました。少なくともフランスでユグノー[カルヴァン派]が広がった背景としては示す必要があると思います。) ただ…、設問を見る限りどこにも「ヨーロッパの」政治状況及び宗教問題に焦点をあてろ、とは書いていませんし、設問の「当時の」が指す内容は「16世紀後半のフランスで30年にわたって続いていた長い戦乱」であることは明らかですから、やはりドイツ、スイスの内容でおなか一杯にしてしまう解答の書き方はどちらかといえば逃げの解答(悪いとは言いません。書けないときにはそうした逃げや不時着大切という)ではないかなと思います。


 
一橋2012 Ⅰ


【1、設問確認】

 ・ナント勅令(王令)[設問原文ママ]公布に至るまでの経緯と目的を説明せよ。

 ・当時の政治状況および宗教問題に焦点を当てよ。

 

:非常にすっきりとした要求です。リード文も短く、ここにいう「当時の」が「16世紀後半のフランスで30年にわたって続いていた長い戦乱」の時期のという意味であることは明らかですので、設問を読みかえると「ユグノー戦争の背景と経過を当時の政治状況と宗教問題に焦点をあてて説明し、ナントの王令公布の目的を合わせて説明せよ」ということになります。

 

【2、ナント勅令公布に至るまでの経緯】

 それでは、16世紀後半のフランスの政治状況、宗教問題に注目しつつ、ナント勅令(王令)が出されるまでの経緯についてポイントは何かを確認していきましょう。

 

①ドイツ、スイスの宗教改革

:ルターによる宗教改革開始と、カルヴァンによるスイス宗教改革におけるカルヴァン派の広がりについては前提条件として示しておいた方が良いと思います。また、カルヴァンの示した予定説と蓄財の肯定という教義はヨーロッパの北西部、商工業者を中心に支持者を急拡大していくことになります。(もっとも、フランスではむしろカルヴァン派[ユグノー]はフランス南部からフランス西部にかけて多く存在していました。)

Huguenot_in_17c
Wikipedia「ユグノー」より)

 

②フランスにおけるカルヴァン派(ユグノー)の拡大

 

③カトリックとユグノーの対立

:フランスではすでに16世紀の前半からユグノー人口が増え始めておりましたが、16世紀の中頃になるとブルボン家やコンデ家などの大貴族にユグノーが増えてきます。これは、当時彼らの政敵であったギーズ家に対抗するという政治的な事情からとも見られますが、こうした貴族間対立が生じ始めていたころ、アンリ2世がイタリア戦争終結(カトー=カンブレジ条約)に関連する祝宴での馬上試合で事故死してしまいます。(1559年) その後、長男フランソワがフランソワ2世として即位しますが、病弱であった彼はわずか即位後わずか1年、16歳で亡くなります。残されたアンリ2世妃、フランソワ2世母のカトリーヌ=ド=メディシスは幼少のシャルル9世を抱えて、フランスの大貴族がひしめく中難しいかじ取りを迫られます。摂政となった彼女が選んだのは、新旧両派が相争う中で調停者としてふるまい、両派に影響力を行使することで王室の権力を維持するという方法でしたが、これにより新教旧教両派の争いはさらに激しさを増していきます。

 

④ユグノー戦争の勃発(ヴァシーの虐殺、1562

:カトリックとユグノーが対立する中、カトリーヌ=ド=メディシスはユグノーに一定の条件下での信仰と礼拝を許可します。ところが、この条件を破る形でユグノーが礼拝していたことに憤慨したカトリック派の首領、ギーズ公フランソワはフランス北東部の町ヴァシーで多数のユグノーを虐殺しました。このヴァシーの虐殺に驚いたユグノー側の大貴族コンデ公ルイはカトリック側との戦端を開きます。これがユグノー戦争の開始です。

 

⑤サン=バルテルミの虐殺(1572

:その後、ギーズ公フランソワの暗殺(1563)やコンデ公ルイの戦死(1569)など、カトリック・ユグノー両派ともに多くの犠牲を出しつつ、ユグノー戦争は断続的に続いていきます。こうした中、カトリーヌ=ド=メディシスは国内をまとめるためにユグノーとの和解を模索し、自分の娘であった王女マルグリットとユグノーの盟主であったブルボン家のナヴァル王アンリとの結婚にこぎつけます。ところが、その婚礼祝いのために集まったカトリック・ユグノー両派の間で対立が生じ、最終的にはカトリック側(ギーズ公アンリ)によるユグノーの大量虐殺が発生します。(きっかけはユグノー派のコリニー提督暗殺未遂事件でした。この事件を聞いたカトリック側は、ユグノーからの報復を恐れて先手をとってコリニー提督を殺害してしまい、そこから大虐殺へ発展します。)これがサン=バルテルミの虐殺です。

san
Wikipedia「サン=バルテルミの虐殺」)

 

この虐殺事件により、新旧両派の対立は解決が困難な状態となり、内戦が泥沼化していきます。また、ユグノーの側には周辺のプロテスタント勢力(ドイツのルター派、イングランドなど)が肩入れし、カトリックの側にはカトリック勢力(特にスペインなど)が支援したことで国外勢力の動向も一定の影響を与えました。

 

⑥「3アンリ」の対立

:サン=バルテルミの虐殺以降、フランスは病死したシャルル9世に代わって即位した弟のアンリ3世(ヴァロワ家)、カトリックの指導者のギーズ公アンリ、ユグノーの指導者のナヴァル王アンリ(後のアンリ4世、ブルボン家)による三すくみの状態が続いていきます。しかし、ギーズ家の勢力拡大を嫌ったアンリ3世はギーズ公アンリを暗殺します。(1588年) 

Guise-Henri
Wikipedia「アンリ1世(ギーズ公)」)

 

どうでもいいことではあるのですが、ギーズ公の肖像画はどれ見ても意外にイケメンなんですよね…。神経質そうな顔はしてますが。アンリ4世がいかにもおっさん風で、日本史で言うと徳川家康風味なのと比べるとずいぶん違います。

Henry_IV
Wikipedia「アンリ4世(フランス王)」)

 

脱線してしまいましたが、このこととユグノー勢力との協調関係に入ったことがカトリック勢力から激しく糾弾され、アンリ3世自身もドミニコ会修道士ジャック=クレマンによって殺害されてしまいました。これにより、ヴァロワ朝は断絶しますが、死の床についたアンリ3世はナヴァル王アンリを呼び、後事を託しました。これにより、ブルボン家のナヴァル王アンリはアンリ4世としてブルボン朝を創始します。

 

⑦ナヴァル王アンリの国王即位(アンリ4世、ブルボン朝の開始)とカトリック改宗

:アンリ3世の遺言により国王に即したアンリ4世でしたが、アンリ3世自身がカトリックから敵視されていたこともあり、フランスの多数派であるカトリックはアンリ4世を国王として承認しませんでした。また、カトリックの側にはローマ教皇やスペインの支援などがなされていました。特に、カトリックが圧倒的多数であったパリは、新国王の入城を拒み続けていました。このような状況を見たアンリ4世は、カトリックに改宗します。(1593年)これを好感したフランス人たちは、長く続く戦争に疲弊していたこともあってアンリ4世の改宗を歓迎します。そしてアンリ4世は翌年ついにパリに入城します。その後、アンリ4世はスペインと結んで抵抗する残党を平定します。

 

⑧ナントの勅令(1598

:国内を安定化させることに成功したアンリ4世は、1598年にナントの勅令(王令)を公布し、一定の条件の下でユグノーに個人単位の信仰の自由を与えました。(ユグノーはカトリック教会への十分の一税の支払いが必要) また、あくまでもカトリックがフランスの国家的宗教であることを明示したため、これ以降フランス国内では目立った宗教対立は起こらず、ユグノー戦争は終結します。

 

    ナントの勅令については、本設問とは関係がありません(答えに書く必要は全くない)が1685年のルイ14世によるフォンテーヌブローの勅令(ナントの勅令廃止)と、商工業者の亡命までセットでおさえておくとよいと思います。

 

【3、ナント勅令の目的】

 ①国内の融和と内戦の終結

 ②商工業者の懐柔

:ナント勅令の目的としては、上記2点ほどをおさえておけばよいと思います。

 

【4、政治状況および宗教問題】

:上記の【2、ナント勅令公布に至るまでの経緯】をご覧いただければおおむねお分かりになるかと思いますが、ポイントだけ下にまとめてみたいと思います。

 

(政治)

 ・フランスはイタリア戦争で神聖ローマ皇帝と対立→ルター派諸侯との結びつき

 ・カトリーヌ=ド=メディシスのユグノーに対する融和姿勢と、ギーズ家に対する警戒

 ・王家、カトリック(ギーズ家)、ユグノー(ナヴァル王アンリ)の三すくみに

 ・周辺のプロテスタント勢力(ドイツのルター派、イングランドなど)やカトリック勢力(スペインなど)の介入 

 

(宗教)

 ・宗教改革の影響を受けたユグノー勢力の拡大

・カトリックvsユグノー(多数派はカトリック)

 ・ブルボン家、コンデ家の改宗(改革派に)

 ・1562年 ギーズ公フランソワによるユグノー虐殺(ヴァシー虐殺)

  →ユグノーのコンデ公ルイ(ブルボン家)による軍事行動

 ・サン=バルテルミの虐殺(1572年)

 ・内乱終結後、ガリカニスムの傾向強まる

 

【解答例】

 ルターの影響を受けてカルヴァンが予定説と蓄財の肯定を説くと、商工業者が共感し北西欧を中心にカルヴァン派の勢力が拡大した。フランスでもユグノーと呼ばれるカルヴァン派が改革派を形成した。フランスの多数派はカトリックで大貴族ギーズ家がその中心であったが、神聖ローマ皇帝と対立するフランスでは改革派への理解もあり、ギーズ家の政敵ブルボン家やコンデ家が改宗すると対立が深まりユグノー戦争へ発展した。カトリーヌ=ド=メディシスは調停を試みたがサン=バルテルミの虐殺が発生し失敗した。ギーズ公アンリと国王アンリ3世が相次いで暗殺されると、ユグノーのナヴァル王がアンリ4世として即位し、ヴァロワ朝に代わりブルボン朝を開いたが、パリ市やスペインに支援された旧教派がユグノーの新王を認めず抵抗したため、アンリ4世はカトリックに改宗し、さらに両派の融和を狙ってユグノーに個人単位の信仰の自由を与えるナントの勅令を発布した。(400字)

 

 解答例の方はできるだけ細かい知識を並べ立てるよりも、当時の政治状況や宗教問題、ユグノー戦争の展開、周辺諸国との関係などがつかめるような文章にしてみました。書き方次第では教科書レベルの知識でも十分に及第点の解答を書くことはできるとおもいますので、「知らない」で終わるのではなく、「16世紀後半の新旧両派の対立となるとフランス以外との関係はどうなるかな…」など頭を使ってみるのもアリなのではないかと思います。

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 しばらくさぼっておりました一橋の問題解説を進めていきたいと思います。ぶっちゃけ、一橋の過去問は何度も何度も解いておりまして、一応解説も昔作ったもののストックがあるにはあるのですが、過去問というのは面白いもので、時間がたってもう一度解いててみようかなと思うとまた違った見方ができたりしていくつかの解答が出来上がったりします。特に古い問題の場合には、最近の歴史学の研究動向の変化や新説などの登場によって、当時正解であった解答が現在も最適解かというと、必ずしもそうでなかったりするのですね。

そんなわけで、執筆するとなると再度検討して書き直すことになるのですが、最近少々忙しいもので、一度に同じ年度の大問1~大問3の解説を執筆しようとすると「いつまでたってもやらない(めんどくさがりなもので)」ことになります。昔オカンに「あんた、いつになったら勉強するの!」と怒鳴られた中高時代から全く変わっておりません。まぁ、そんなわけですので、しばらくの間は時間のある時に大問ごとに解説を執筆していきたいと思います。

 

一橋2013 Ⅰ

 

【1、設問確認】

①中世ドイツの東方植民の経緯を述べよ。

 (送り出した地域の当時の社会状況をふまえよ)

②植民を受け入れた地域が近代にいたるまでのヨーロッパ世界で果たした経済史的意義について論ぜよ。(その地域の社会状況の変化に言及せよ)

 

:設問の要求は非常にシンプルです。要は、東方植民の経緯とエルベ川以東の地域が世界史上果たした経済史的意義について書きなさい、ということです。

 

【2、東方植民の経緯】

:それではまず、東方植民の経緯について考えてみましょう。東方植民とは、11世紀~14世紀にかけて展開されたエルベ川以東を中心とするヨーロッパ北東部へのドイツ人の植民活動のことです。この経緯を書かなくてはならないのですが、「経緯」とは物事の筋道やいきさつ、顛末のことですから、通常は「どのようにして始まり、どのようにして展開し、最終的にどうなったか」を示すことになります。これを東方植民について示すのであればおおよそ以下のような内容になると思います。

 

ドイツの諸侯・騎士・修道会を中心にエルベ川以東のスラヴ人地域に植民を開始

(シュタウフェン朝時代が中心)

②シトー修道会などの修道会の開墾運動

③ドイツ騎士団の活動と布教

:ポーランドの招聘による。バルト海沿岸に進出、周辺のスラヴ系住民に布教

④この過程で新たなドイツ諸侯領が形成される

Ex.) ブランデンブルク辺境伯領、ドイツ騎士団領

以上のような内容を、「送り出した地域の当時の社会状況」と結びつけるような形で示す必要があるわけです。

 

<ドイツ騎士団領ならびにプロイセンについて>

余談ですが、ドイツ騎士団領とプロイセンの関係については受験生には見えづらい部分になりますので追加で説明しておきます。(ただし、本設問では送り出した地域、受け入れた地域双方の「社会状況」を踏まえた経緯説明を求められておりますので、政治史の一環としてのドイツ騎士団領形成は設問解答には一切含む必要はありません。もっとも、「経緯について述べよ」の部分には「社会状況を踏まえて」とはありますが、「社会状況のみを述べよ」とは書いてありませんので、物事の顛末としてのドイツ諸侯領形成を示すこと自体は問題ないと思います。(後に示しますが、諸侯領の形成自体がエルベ川以東の社会状況変化にかかわってくる部分もありますので、その限りにおいては問題ないということです。政治的な出来事としてのみ示すのはイケてないとおもいます。少なくとも、加点はされないのではないでしょうか。)

さて、ドイツ騎士団領は同地域のプロテスタント勢力が拡大するにしたがってカトリックの騎士修道会としての体裁を保つことが困難となりました。そのため、当時の騎士団総長アルブレヒト=フォン=ブランデンブルク=アンスバッハは騎士団総長を辞し、その配下の騎士たちとともにポーランド王からの授封を受けて世俗の領主となり、プロイセン公となりました(1525)。これにより、それまで騎士修道会領であったドイツ騎士団領はプロイセン公国という世俗君主領となります。

その後、17世紀の初めに初代プロイセン公アルブレヒトの男系血統が途絶えると、アルブレヒトの孫娘であったアンナの夫であるブランデンブルク選帝侯ヨハン=ジギスムントがプロイセン公国を継承することが認められ、この時点でブランデンブルク選帝侯国とプロイセン公国は同君連合となりました(1618、ブランデンブルク=プロイセンの成立)。ですが、この段階ではブランデンブルク選帝侯国は神聖ローマ帝国に属し、プロイセン公国はポーランド王の封土でした。

このような状況を変化させたのがフリードリヒ=ヴィルヘルム大選帝侯(位16401688です。フリードリヒ=ヴィルヘルムは世界史の教科書や参考書にも登場しますが、ブランデンブルク=プロイセンの時期の君主であり、後に成立するプロイセン王国の君主としては数えられないので注意が必要です。(ご先祖ではありますが。)2020年の早稲田の政経の問題にも登場していましたね。彼の時代に、ポーランドとスウェーデン間の争いから、プロイセン公国は一時スウェーデン王の封臣の地位に置かれます。ですが、その後スウェーデンへの軍事奉仕を提供する中で存在感を増したフリードリヒ=ヴィルヘルムは、当時のスウェーデン王カール10世に独立国としての地位を認めさせることに成功します(1656、ラビアウ条約)。さらに、その後同様の内容をポーランドにも承認させたプロイセン公国はポーランドの臣下でもスウェーデンの臣下でもない、独立した地歩を築くことに成功しました。フリードリヒ=ヴィルヘルムの子であるフリードリヒの時代にスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国を支援する見返りとして、当時の神聖ローマ皇帝レオポルト1世はフリードリヒに対してプロイセンにおける王号の使用を認めます(1701)。この時点で、高校世界史では「プロイセン王国」が成立したと考え、ザクセン選帝侯にしてプロイセン公であったフリードリヒは、プロイセン王フリードリヒ1世(位17011713)として即位します。彼の息子がプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位17131740:兵隊王、軍隊王)であり、孫が啓蒙専制君主のフリードリヒ2世(位:17401786)となります。

 

【3、当時の西欧、ドイツ(送り出した地域)の社会状況】

:さて、続いて東方植民を「送り出した地域」の社会状況についてです。問いの冒頭で「中世ドイツの」と言っているにもかかわらず、わざわざ「送り出した地域」という表現を用いているところに注目したいと思います。もし単純に送り出した地域をドイツとするのであれば、わざわざこうした表現はとらないのではないでしょうか。教科書的にも、東方植民は十字軍やレコンキスタ、東方貿易などと同様に西欧の膨張の一つとしてとらえられていますから、ここはやはり送り出した地域はドイツのみに限定するのではなく西ヨーロッパ世界全体としてとらえたいところかと思います。ただ、一方でよりミクロな視点、ドイツの実情に即した視点なども必要でしょう。以上を踏まえて当時の西欧・ドイツの社会状況をまとめると以下のようにまとめられるかと思います。

 

① 西欧の膨張(11c~ 十字軍、レコンキスタ、東方貿易etc.

(背景)

・農業技術の進歩(三圃制、重量有輪犂、繋駕法や水車の改良など)

・気候の温暖化

生産力の向上と人口増加

・宗教的な熱情の高まりと巡礼熱

Ex.)ドイツ騎士団、シトー修道会と大開墾   

② 人口増と西欧の膨張にともなう植民運動の発生

・人口増(困窮)、賦役貢納厳しい

土地の相続から排除された農民の子弟を中心に植民運動が発生

③ 領国開発を目指す諸侯による植民活動支援

・各地の諸侯が植民請負人に委託して入植者を招致

→入植者には開墾後の一定期間貢租を免除するなどの植民法が適用

 

 ほとんどは教科書や参考書に書いてある基本的な事柄ですから、全てをおさえられないにしてもある程度のレベルでまとめることは可能だと思います。

 

【4、エルベ川以東(受け入れた側)の社会状況の変化】

 つづいて、エルベ川以東の社会状況の変化についてまとめてみましょう。その前に、そもそもエルベ川とはどのように流れていて、「エルベ川以東」とはどのあたりのことを指すのか正確に把握しておきましょう。

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 正確に、と言っておきながらだいぶ大雑把な線ですみません。ただ、世界史では正確な地図よりも位置関係を把握することが大切です。よく、道に迷わない人は地図を見るのではなく、目印になるものを把握するのだと言われます。道順や形を覚えるのではなく、「目的地に向かうには郵便局のある角を右にまがる」という把握の仕方ですね。世界史は地図を書く科目でも正確で精緻な地理的知識を問う科目でもありませんから、自分がイメージできる程度にだいたいの地理を把握することが大切です。

 そのような把握の仕方ですと、エルベ川の把握の仕方は「ユトランド半島の付け根、西の方に河口があり、ドイツを袈裟懸けにバサーッとぶった切ったように流れる川で、河口にはハンブルク、上流にはドレスデンが位置している」という把握の仕方ができれば十分なのではないかと思います。この川以東、ということですから、東方植民に従事した人々が移住したのはドイツの北東部の肩のあたりからポーランド、バルト海方面にかけてということになります。

 それでは、東方植民の結果、これらの地域はどのように変化したのでしょうか。

 解答としてイケてないのは、「東方植民の結果、エルベ川以東にはブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの諸侯領が成立した。」でしょう。これは政治的な変化を示したものにすぎず、社会的な変化、つまり人々の生活の仕組みや価値観の変化には一切言及していません。むしろ、当たり前のことではありますが、農村や都市の発展などにより同地域の経済活動が活性化されたことを示してはどうでしょう。これであれば十分に人々の生活のしくみ、つまり社会状況の一面を示したことになります。また、同じ諸侯領について語る場合でも「ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの形成による政治的安定は周辺地域の経済活動の活発化や都市の発展につながった」とすれば、先ほどまでは「役立たず」であった諸侯領を、社会状況変化の原因の一つとして活用することができます。ちなみに、以下はドイツ騎士団領と騎士団の拠点分布を示したものです。

1920px-Deutscher_Orden_in_Europa_1300

Wikipedia「ドイツ騎士団」:1300年、バルト海沿岸の薄い青色が騎士団領)

 

また、設問がエルベ川以東の地域の「世界の中で果たした経済史的意義とその地域の社会状況の変化」を聞いていることから、教科書的にはすぐ「再版農奴制とグーツヘルシャフトの形成」や「東西ヨーロッパの国際分業体制」を思いつきますが、果たしてそれだけで良いものでしょうか。もちろん、それだけでも十分に立派な解答になりますし、おそらく出題者も究極的にはそこを求めているのだとは思います。ですが、東方植民の開始は11世紀後から、再版農奴制やグーツヘルシャフト、国際分業体制の成立は16世紀頃~17世紀にかけてで、いかにも離れすぎてしまう感があります。そのあたりのことを考えても、東方植民がバルト海沿岸地域を活性化させ、商業の復活の一翼を担ったことは示しても良いのではないかと思います。以上のことをまとめると以下のような内容になるかと思います。

 

① 東方植民の進展による農村や都市の発展

  Ex.) ダンツィヒなど

:ハンザ諸都市の通商網の中に組み込まれる

 日用品の取引(穀物、木材、毛皮、毛織物、ニシンなどの魚加工品)

② 再版農奴制

  ・農奴解放が進んだ西欧と対照的に領主による農奴の支配が続く

  ・16世紀以降、プロイセンなどの領主(グーツヘル)たちがグーツヘルシャフト(農場領主制またはそれによる大農園)を形成

   土地貴族(ユンカーの形成)

 

 補足しますと、ダンツィヒは14世紀にドイツ騎士団支配下で都市として成長し、国家建設にいそしんでいたドイツ騎士団が必要としていた木材や穀物などの取引に積極的にかかわり、それが安定すると今度はポーランド各地から集まるの品物の輸出なども展開します。

 また、東欧では農奴解放が進んだ西欧と違い再版農奴制が進みますが、ポーランドをはじめとした東欧各地では、西欧において農奴解放の原因の一つとされる14世紀のペストの発生率が比較的低かったことも指摘されています。

Pestilence_spreading_Japane
Wikipedia「ペストの歴史」より)

 

最後に、本設問とは直接関係はないのですが、再版農奴制の法的廃棄の開始は18世紀末か、19世紀に入ってからになります。

(オーストリア) 1781 農奴解放令(ヨーゼフ2世)

 (プロイセン)  1807~ シュタイン・ハルデンベルクの自由主義改革の時

 (ロシア)    1861 農奴解放令(アレクサンドル2世)

[クリミア戦争敗北が契機]

 

【5、エルベ川以東が近代にいたるまでのヨーロッパ史で果たした経済史的意義】

 最後に、すでに「4」である程度述べてしまっていますが、エルベ川以東の東方植民の対象となった地域が世界の中で果たした経済史的意義についてまとめておきます。

 

① 商業ルネサンス(商業の復活)の一翼を形成(12世紀以降)

 ・北海、バルト海交易の活発化 ex.)ダンツィヒの繁栄

  ドイツ騎士団領成立による政治的安定

 ・ハンザ同盟の通商網と連結、日用品の取引(魚加工品、穀物、毛皮、木材)

② 国際分業体制の形成

 ・商業革命を達成した西欧に対して穀物を輸出する農場領主制(グーツヘルシャフト)

 

 リード文が長く、思わせぶりな設問であるわりに設問の要求自体はシンプルで、聞かれている事柄も基本的な事柄、わかりやすい事柄であったのではないかと思います。一方で、基本的である分、どの程度まで細部を丁寧に示せるかは受験生の理解度が試される部分でもあったのではないでしょうか。一橋ではたびたび北海・バルト海沿岸地域や東欧地域の社会経済について問う問題が出題されますので、注意が必要かと思います。

 

【解答例】

11世紀頃から西欧では三圃制や重量有輪犂などの農業技術進歩と気候温暖化により、農業生産力が向上し人口が増加した。厳しい賦役貢納と土地不足により、余剰人口はエルベ川以東など周辺地域への植民活動を開始し、諸侯は植民請負人による入植者招致や、開墾後の一定期間貢租を免除する植民法の適用などでこれを奨励した。同時期の西欧における巡礼熱や宗教的熱情はシトー修道会の開墾運動やドイツ騎士団の入植運動を活発化させた。ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの形成による政治的安定と、植民者・開墾地の増加は周辺地域の経済活動を活発化させ、ダンツィヒなどの都市が発展し、バルト海沿岸は商業ルネサンスの一翼を担い、穀物や木材などの日用品取引でハンザ同盟の通商網と連結された。16世紀以降は再版農奴制により農奴支配を強化した領主がグーツヘルシャフトを形成し、商工業の発展した西欧へ東欧が穀物を輸出する国際分業体制を支えた。(400字)

 

【補足:(「ハンザ同盟」について)】

 ハンザ同盟についてですが、近年記述の見直しが進んでいます。昔は比較的結びつきの強い同盟のように描かれていて、共通の商取引の取り決めや、共通の軍隊を保有していたと書かれていることもありました。しかし、近年では各都市が自己の利益のために行動することがあったこと、あくまでも商業目的の各都市のゆるやかな連携にすぎず、自警力や都市の代表会議は持っていたけれども、常設・共有の軍隊は保持していなかったこと、「同盟」という語はその実態に比してやや響きが強すぎることなどが指摘されるようになりました。そのせいか、直近の『詳説世界史研究』ではハンザ同盟についてかなり記述量が減ってきています。また、山川の用語集の記述もかなりマイルドになってきています。

 

(例) 「13世紀~17世紀まで北ヨーロッパに存続した通商同盟ハンザ同盟は14世紀に最盛期を迎えた。」(『詳説世界史研究』山川出版社、2019[3]p.175

    …ちなみに、ハンザと結びつけない形でリューベック・ハンブルクなどの北ドイツ諸都市や北海・バルト海沿岸諸都市が行った木材・海産物・塩・毛皮・穀物・鉄・毛織物などの取引については別途示されています。

 

 一方で、教科書の方の記述は依然として内容をぼかしているもの、またははっきりと軍隊を保有していると書いているものなど様々で、まだ過渡期にあるようです。

 

(例2) 「とくにリューベックを盟主とするハンザ同盟は14世紀に北ヨーロッパ商業圏を支配し、共同で武力をもちいるなどして大きな政治勢力になった。」

(『改訂版詳説世界史B』山川出版社、2016年版、2020年発行)

(例3) 「北ドイツの諸都市は、リューベックを盟主とするハンザ同盟を結成して、君侯とならぶ政治勢力となった。」

     「(※ハンザ同盟の注として)→13世紀半ばにはじまり、最盛期には100以上の都市が加盟した。ロンドン、ブリュージュ、ベルゲン、ノヴゴロドなどに商館を置き、共同の海軍も保有した。」

(『世界史B』東京書籍、平成28年版、平成31年発行)

 

 この辺りの事情について、「世界史の窓」さん(いつも大変お世話になっておりますw)では高橋理先生の研究の影響などを指摘されています。また、ハンザ同盟の項目については同氏の『ハンザ「同盟」の歴史』創元社、2013年を参照されています(https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-070.html)。Wikipediaの方の記述もいつの間にかいやに詳細になっておりまして、そちらも出典はこちらの本のみに依拠しているようです。(Wikipediaハンザ同盟」) ちなみに、高橋理先生は弘前大、山梨大、立正大などで教鞭をとられていた歴史学教授です(2003年に退官されています)。

 では、受験生はどちらで覚えなくてはならないのだろうかということなのですが、歴史学会で出てくる新説を高校生が常に把握するなどということは到底不可能ですから、基本的には各教科書の記述に従って良いと思います。おそらく、「軍隊を持っていた」と書いたからと言って不正解にするような狭量なことは大学側もしないと思いますし、できないと思います。(教科書を持ってこられて「ほら、ここに書いてあるじゃないですか」と言われたらどうにもなりませんし、その主張を否定すれば公平性の観点から行っても問題があります。)ただ、こうした新しい視点を知っておくと理解が深まりますし、イメージも厚くなります。また、こうした新しい視点というのが往々にして大学入試のテーマの一つとして盛り込まれることもありますので、「最近はこういう風に変わってきているんだなぁ」くらいのイメージ・理解はしておいて損はないと思います。

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[2020.11.5.大問1解答例訂正:問1と問2合わせて400字でしたが、問1の解答が含まれていなかったので問1を含めて400字の形に訂正しました]

前年(2018)の問題がかなり史資料読解の力を要求するとともに、テーマも主流からやや外れた一般の受験生には難しい内容であった(http://history-link-bottega.com/archives/cat_384107.html)のに対し、2019年の問題は設問の内容、テーマともにそれほど難しいと感じる内容ではありませんでした。テーマは「身分制議会の中世から近代にかけての変化」、「1763年のパリ条約までの英仏植民地戦争の背景・経緯・影響」、「中国共産党(ならびにソ連)と中国国民党との関係と1949年にいたる変遷」と、世界史の中でもメインテーマと呼べるものが問われています。一橋の過去問でも、ほとんどの設問で似たような問題が何度か出されています。にもかかわらず、全ての問題に一橋特有のクセがなく、平易な内容になっているために、一橋よりはどちらかというと東大くさい匂い(または早稲田の法とか)がします。「東大くさい」点はテーマだけでなく、東大の大好きな「変化」であるとか「変遷」といった言葉がやたら使われているところからも見て取れます。  

もっとも、一橋では変化や変遷を問わないわけではありません。直近の2018年にもありますが、ほかにも2013年の大問1などにも見られますし、物事の推移を追うことで実質的には変化を述べさせているに等しい設問も出てきます。ただ、2019年の問題はテーマが王道ということもあってやたらと「一橋っぽくない感じ」がします。最近の一橋はこうした王道の東大くさい設問が出る年と、いかにも一橋っぽい「うわー、そんなことそんな聞き方しちゃうの?」みたいな設問を出す年がコロコロと変わるので狙いが本当に絞りにくいです。絞りにくいなりに出題傾向の分析や出題予想(というほどのものでもない当てずっぽう)は時々やっていますが、ためしに昔書いた出題傾向を見てみたら2年前の記述に大問1では「議会制の発達」、大問3に「国民党と共産党」ってしっかり書いてますね。(http://history-link-bottega.com/archives/11929768.html) 2年前に出て欲しいなぁw

まぁ、それなりの情報量を持ったテーマをしっかり書かせるということになれば、選べるテーマも限られてくるということなのでしょう。

 

2019 Ⅰ

 

【設問概要】

問1 

10世紀にカトリックに改宗して国家形成した東ヨーロッパの王国を三つ答えよ

 

問2 

13世紀後半から14世紀にかけて現れた、君主と諸身分が合議して国を統治する仕組みについて、以下の①~③について説明せよ。

 ① この仕組みは何か。

 ② 複数の具体的事例を挙げよ。

 ③ 中世から近代にかけての変化を視野に入れよ。

 

(問1、問2合わせて400字)

 

【リード文概要】

 今回、リード文自体は短いものでした。内容も、直接設問に関連するものではなく、史料読解の重要度は低かったと思います。史料として引用された『彩色年代記(Chronicon Pictum)』は、14世紀後半に成立したとされるハンガリー王国の挿絵入り年代記です。150近いミニアチュールがあり、これらの絵からは当時のハンガリー文化や宮廷生活、人々の衣装や装飾などを読み取ることができる史料です。東欧史は専門外ですので、あまり詳しいことを知らなかったので簡単に調べてみたところ、英語版のWikipediaの方にハンガリー王ラヨシュ1世から、フランス王シャルル5世の手に渡ったとの記述がありました。(娘カタリンがシャルル5世の子、オルレアン公ルイと婚約した際のことです。当時のカタリナは4歳、そして7歳には没しておりますので、この婚儀は実際には行われませんでした。)

 

chronicon pictum
Chronicon Pictumの表紙 Wikipedia[英語版]Chronicon Pictumより)

 

【設問分析】

問1 

答えはハンガリー王国、ベーメン王国、ポーランド王国、クロアティア王国の中から三つ。カトリックを受容した東ヨーロッパの国としてはチェコからスロヴァキアにかけて栄えたモラヴィア王国もありますが、モラヴィア王国は建国が9世紀ごろで、10世紀初頭には滅亡しますので設問の要求に合致しません。

東ヨーロッパの国々とカトリックの受容を問うことは難しく見えますが、一橋ではたびたび東欧史が出題されていることや、2014年の大問2が非常に目立つ設問で同じく西スラブをテーマとした設問であったことなどを考えると(http://history-link-bottega.com/archives/cat_211847.html)、一橋受験者は比較的しっかりと押さえてきている部分からの設問ですので、基本問題だったかと思います。   

 

問2

 まず、設問の一つ目の要求である「この仕組み」ですが、これは「身分制議会」ということで問題はないかと思います。最初「議会」という風に思いついた人でも、書いていくうちに「身分制議会」として示す方が良いことに気が付くのではないでしょうか。設問にも「君主と諸身分が合議」って書いてありますしね。身分制議会についての設問は一橋でも過去に出題がありますし、他校の過去問でも頻出の問題です。設問が示す13世紀後半から14世紀にかけてということになれば、やはり受験生がすぐ思い浮かべるのはイギリスの議会とフランスの三部会でしょう。また、イベリア半島のキリスト教国家の多くもこの時期に身分制議会(コルテス)を成立させています。神聖ローマ帝国ではかなり早く(場合によってはカール大帝の頃から)から王とその側近による会議が開かれていましたが、12世紀のシュタウフェン朝の頃から次第に形式が整い、14世紀のカール4世による金印勅書(1356)で明文化され、帝国議会が成立します。

 とりあえず、イギリスとフランスの身分制議会を中心に議会制の発展について下に簡単にまとめてみます。

 

<イギリス身分制議会の発展>

イギリス身分制議会


 

<フランス身分制議会の発展>

フランス身分制議会

 

<イベリア半島諸国の身分制議会>

12世紀末  レオン王国で身分制議会(コルテス)成立

13世紀初  ポルトガルで成立

13世紀半ば カスティーリャ、アラゴンで成立

 

<神聖ローマ帝国>

1356年 金印勅書で帝国議会が明文化

 

<東欧諸国>

16世紀頃から身分制議会が本格的に形成される(ポーランドのセイムなど)

 

 議会制の発展というものは、特に中世については慣習的なものから立ち上がってくるものであって、「○○年に××が決まったから、ハイ、議会!」と言えるものではないので、上に書いてあるものもあくまで参考程度にというものです。ただ、英仏の議会発展については概ね教科書等でモデル化されています。ですから、本設問の要求する「具体的な事例と変化」についてはこの英仏身分制議会制の発展をまとめれば良いでしょう。あとは、「近代にかけて」がどのあたりまでかという問題ですが、少なくともルネサンス以降までは見ることになりますので、両国の絶対王政期くらいまでを見ておけばよいのではないでしょうか。設問の対象はあくまで「身分制議会」ですし、国民主権の下で選挙によって選ばれた議員が立法にたずさわる近代の議会制度とは内容の異なるものです。イギリスではピューリタン革命の頃から次第に議会の権能・機能が変化していきますし、フランスではフランス革命の頃に三部会が開かれるまでざっと150年ほどの断絶がありますから、やはり英仏の絶対王政期あたりまで、長く見積もってもイギリスでは政党政治が始まる頃まで、フランスではフランス革命まででしょう。

 

【解答例】

問1、ハンガリー、ベーメン、ポーランド。問2、身分制議会。聖職者・貴族・都市代表などから構成され、臨時課税など国内の同意が必要な時に召集された。英では、大憲章を守らないヘンリ3世に反抗したシモン=ド=モンフォールらが開いた議会から始まり、エドワード1世期には聖職者・貴族・州、都市代表が集う模範議会が召集され、14世紀には貴族院と庶民院の原型が作られた。仏では、ボニファティウス8世と対立したフィリップ4世が聖職者・貴族・平民の三身分からなる三部会を開催したことを皮切りに、聖職者に対する課税、テンプル騎士団の廃止、戦費の徴収などが話し合われた。また、神聖ローマ帝国では帝国議会、イベリア半島では各国にコルテスが成立した。これらの身分制議会は国王に対する諮問機関として機能し、仏における三部会の停止のように政治状況に左右されることも多かったが、市民層の台頭とともに王権に対抗する手段となることもあった。(400字)

 

 さて、本設問の解説を書くにあたって指摘しておいた方が良いことが何点かありましたので、以下に示しておきたいと思います。

 

(召集と招集)

 召集と招集のどっち使ったらいいのだろうと迷ってしまうという人ももしかするといらっしゃるのではないかなぁと思います。私も最初は「国会が召集なんだから召集でよくね?」と思っていたのですが、そもそもヨーロッパの身分制議会成立期の議会は「国会」なのか?とかいろいろ考えていくと「うーむ」という気分にもなります。とりあえず、手元にある電子辞書にあります『三省堂スーパー大辞林3.0』によりますと、

 

・召集 

①大勢の人を呼び出して集めること。

②国会を開会するため…集合することを命ずること。[地方議会の場合は招集と表記する]

③旧憲法下において…軍隊に編入するために呼び集めること。

・招集

①人を招き集めること。

②地方議会、社団法人の社員総会…などの合議体の構成員に対し集合を要求する行為。

 

となっておりますが、辞書によっては色々と違うことなども書いてあります。仕方ないので手元の教科書や参考書を見てみましたが、『世界史B』(東京書籍、平成31年度版)は「召集(模範議会について)」、『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年版)は「招集(模範議会について)」、または「召集(三部会について)」、『世界史用語集』(山川出版社、20018年度版)は「招集(模範議会と三部会について)」となっておりました。…もうどっちでもよくねw 原語日本語じゃないしw ただまぁ、日本語で地方議会と国会で招集と召集を使い分けているのは間違いのないところなので、模範議会とか三部会レベルであれば召集でいいんじゃないかなぁと思ったので、解答例はこちらで書いています。

 

(アナーニ事件)

 アナーニ事件については、これまでは「聖職者に対する課税をめぐり、教皇と対立して…」という説明がなされることがほとんどでしたが、最近このあたりの記述に変化が見られます。『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年版)のp.181には以下のように記されています。

 

[…ボニファティウスは教皇だけが聖職者への課税を許可できると主張し、国王の課税に従わないよう聖職者に求めた。それに対抗して、フィリップはフランスからの貴金属や貨幣の持ち出しを禁じた。収入が減少したためボニファティウスは譲歩し、国王は緊急の場合には聖職者に課税することが許された。1301年にフィリップは国王を中傷したパミエ司教を逮捕することでボニファティウスを挑発し、翌年には自らの立場を正当化し宣伝するために、聖職者・貴族・都市住民をパリに召集し、のちの三部会の起源となる集会を開催した。]

 

 一方、『世界史B』(東京書籍、平成31年度版)の方では[教皇と対立したフィリップ4世は、1302年に聖職者・貴族・平民の3身分代表からなる三部会を召集し、王権の基盤の強化に成功した。]p.161)となっており、『世界史用語集』(山川出版社、20018年度版)では[フィリップ4世が国内世論を味方につけるために招集したものが最初。](「三部会」)となっていて、聖職者への課税云々のところは示されていないんですね。どうも、当時の状況がやや入り組んでいるので「教皇と対立した国王が国内の支持を取り付けるために開いた」という部分だけ示せれば良い(それはそれで良いことだと思いますが)と、情報の取捨選択をしているところなのかもしれません。どこに示されていたかは忘れましたが、以前は「ウナム・サンクタム」(三部会に対抗して出された教皇権の至上性を主張したボニファティウス8世による教皇勅書)なども参考書等には載っていたように思いますが、必要以上に情報量を増やすとその整理に手間取りますから、今の記述の方がすっきりしていてよいのかもしれません。

 

 

2019 Ⅱ

 

【設問概要】

・第二次百年戦争について

 ①両国の対立の背景

 ②1763年までの戦いの経緯

 ③この争いの結末がその後の世界史に及ぼした影響

 について述べよ。

 

【設問分析】

 非常にすっきりとした内容の設問だと思います。英仏植民地争いは一橋以外の受験でも頻出の箇所ですから、王道路線ですね。かつて一橋が出していた問題からすると面白味がない設問ではありますが、知識量や情報の整理・処理能力を問う設問としては良い問題だと思いますし、受験生の方も比較的解きやすい問題で、勉強した量と身につけている内容がそのまま点数に反映される問題なのではないかと思います。

 第二次百年戦争は、基本的には17世紀末から19世紀初めにかけて展開された英仏間の植民地ならびにヨーロッパにおける争いの総称です。通常、その開始はファルツ継承戦争(1688-97)ならびにウィリアム王戦争(1689-1697)であり、ナポレオン戦争の終わり(1815)をもってこれが終結したと考えます。設問では1763年までとなっておりますので、七年戦争(1756-63)ならびにフレンチ=インディアン戦争(1755-63)までと考えられますが、問題は設問が要求している三つ目の「この争いの結末がその後の世界史に及ぼした影響」の中にある「この争い」をどのようにとらえるかです。「この争い」を第二次百年戦争ととれば、当然その後の影響は1815年以降でなくてはなりませんが、「この争い」を1763年にいたるまでの戦いととらえれば、その後の影響は1763年以降、つまり18世紀後半からを見ればよいことになります。

 ここでは、英による産業革命の進展やアメリカ独立革命、フランス革命などを影響として示す方が自然で、内容的にも豊かになると考えましたので、「この争い」は1763年までにいたるまでの戦いとして考えてみたいと思います。

 

(①両国の対立の背景)

 示しておきたいことはやはり両国の重商主義政策かと思います。争いの初期には宗教上の理由や両国の国防上の問題なども密接に関わってくる(※1)のですが、その後の植民地争いまで視野に入れた場合、やはり対立の背景は重商主義政策の展開、なかでも北米とインドをめぐる覇権争いに求めるべきでしょう。北米について、フランスは17世紀初めにカナダにケベック市を建設し、その後の進出の拠点としていくのに対し、イギリスは17世紀のはじめにヴァージニア植民地を建設するなどして進出を始めます。イギリスが東インド会社の活動により早くからインド各地に拠点(マドラス[1639]・ボンベイ[1661]・カルカッタ[1690]、ボンベイについては東インド会社ではなく、チャールズ1世と結婚したポルトガル王女カタリナの持参金として獲得)を建設していったのに対し、フランスがアジア方面に進出を本格化するのはコルベールによって東インド会社を復活させた1664年以降でした(※2)。フランスは、インドにシャンデルナゴル(1673)やポンディシェリ(1674)を建設してイギリスに対抗しようともくろみます。また、ラ=サールがミシシッピ川河口に到達してその流域一帯を国王ルイ14世にちなんでルイジアナと名付けました。北米とインドをめぐる両国の争いの芽はこの頃から育ち始めたと考えてよいでしょう。そして、かねてからルイ14世と争いを繰り広げていたプロテスタントのオランダ総督ウィレム3世がイギリス国王ウィリアム3世として即位した頃から英仏両国は北米・インドをめぐる長い戦いの中に入っていくことになります。

 

インド拠点
(青がイギリス拠点、赤がフランス拠点)

(スラトはイギリスが1608年に寄港して1612年に商館を立てた初期の拠点)

 

ルイジアナ
Wikipedia「フランス領ルイジアナ」より)

 

※1 イギリスはプロテスタント国家、フランスはカトリック国家ですが、両国の対立図式は実際にはそこまで単純ではありません。イギリスでは、1660年に王政復古があり、フランスに亡命していたチャールズ2世が国王となります。王政復古後の議会は王党派が中心ではありましたが、フランスの台頭やカトリック信仰に対しては厳しい目を向けていました。こうした中、次第に王室費の管理(要は、議会が承認しないと王様のお小遣いが出ない)によって議会が王権に一定の制限をかけるシステムが成立していきます。一方、国王チャールズ2世は隠れカトリック、その後継者とされた王弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)は思いっきりカトリックでした。ピューリタンに父親を殺された上に亡命中はフランスにお世話になっているわけですから無理からぬことではありますが。

   ですから、1660年から名誉革命までの英仏関係を、単純に新教・旧教国同士敵対していると考えるのは誤りです。そうでないとドーヴァーの密約(1670年)の説明がつきません。この密約は、お小遣い支払いを議会によってしぶられていたチャールズ2世が、ルイ14世からの資金援助を得る代わりに、当時ルイ14世が対立していたオランダとの戦いの際にはイギリスがフランス側に立って参戦するという内容の密約で、国王が独断で結んだものであり、外部には内緒でした。ただ、当時議会は重商主義政策の下、すでに二度の英蘭戦争を戦っておりましたので、議会はフランスが起こしたオランダ侵略戦争(167278)に乗っかって第3次英蘭戦争(167274)を起こします。ですが、戦局が思わしくないことや、フランスの脅威拡大に対して議会が危機感を高めたことから戦争を離脱します。その後、国王の親仏路線や公然たるカトリックの王弟ジェームズの後継問題に端を発したトーリとウィッグ(ホイッグ)の争いなど、国内の不満を抑える必要があったことなどから、王弟ジェームズの娘メアリ(後のメアリ2世)とオランダ総督ウィレム3世(後の英王ウィリアム3世)の政略結婚が進められました。(この時期に公職をイギリス国教徒に限定してカトリックへの寛容を否定する審査法[1673]、や臣民の理由なき逮捕・投獄を禁じた人身保護法[1679]などが成立しているのは、国王の親仏路線、後継問題、カトリックへの寛容問題などをめぐる議会と国王との対立を反映しています。)

   こうした背景がある中で、1688年から1689年にかけて名誉革命が起こったことは、英仏関係にとって大きな転機でした。それまで内心は親仏・親カトリックであった国王が追放され、新たに国王として招かれたのは長年フランスと争いを繰り広げてきた(南ネーデルラント継承戦争:1667-68、オランダ侵略戦争:1672-78)プロテスタント国家オランダの総督であったウィレム3世だったわけですから、英仏両国の対立は、「宗教問題」・「国防上の問題」・「植民地をめぐる対立」と決定的なものになります。世界史の教科書や参考書には出てきませんが、第二次英仏百年戦争が名誉革命と同じ時期に発生したことにはこのような背景があったわけです。

 

※2 フランス東インド会社は1604年にアンリ4世のもとで設立されていますが、当時のフランス東インド会社は有期限(15年)の特許状によって設立されたもので、オランダ東インド会社とは異なり株式会社の形態をとらず、資金力においても脆弱なものであったため、フランスにおいて東インド会社によるアジア交易を開拓しようとする努力は一時立ち消えになってしまいます。重商主義政策を採る財務総監コルベールによって再組織されて国営の貿易会社として再出発するのはルイ14世統治下の1664年でした。

 

(②1763年までの戦いの経緯)

 これについては、「ヨーロッパにおける戦争、北米における戦争、インドにおける戦争と、それぞれがどのように連動しているか」、「戦争の講和条約は何か」、「講和条件は何か」などを一度自分で表にしてみると良いでしょう。私自身も高校生の頃に全体像がつかめなくて教科書や史料集をひっくり返しながら表を書き上げました。

 

英仏百年戦争
 

上の表のうち、ピンクで示したところは超頻出箇所なので、知らないということがないようにしておいた方が良いと思います。各地の戦争に対する主要な講和条約とその内容については、ユトレヒト条約、ラシュタット条約、パリ条約を押さえておけば十分だとは思いますが、念のため一通り示しておきたいと思います。

 

・ライスワイク条約(1697

:ファルツ継承戦争の講和条約。戦争が痛み分け的な内容のため、細かい領土変更はあるものの世界史で記憶しなくてはならないような内容はそれほどありません。覚えておいた方が良いのは、サン=ドマング(後のハイチ)がフランス領となったこと、ウィリアム3世の英国王即位をルイ14世が認めたことくらいでしょう。

 

・ユトレヒト条約(1713

:スペイン継承戦争ならびにアン女王戦争の講和条約。締結国は仏・西に対して英・蘭・プロイセンなどで、内容としては圧倒的にイギリスに有利な内容での条約となります。本条約とその内容は受験生必須の内容で、1763年のパリ条約同様、必ず頭に入れておく方が良いものです。領土の割譲は覚えにくいのですが、フランスからはケベックとルイジアナを除く北米植民地をイギリスが獲得して北米への進出を本格化させ、スペインからは地中海への入り口をイギリスが確保したと考えておくと覚えやすいと思います。

 

1.フェリペ5世(ルイ14世孫)のスペイン王位継承承認(仏・西の合邦は禁止)

2.イギリスに、フランスからニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方割譲

3.イギリスに、スペインからジブラルタル・ミノルカ島割譲

4.イギリスに、スペインからアシエント(奴隷供給特権)の譲渡

5.プロイセンが王国に昇格

 

ユトレヒト条約
(ユトレヒト条約でフランスからイギリスに割譲)

 ユトレヒト条約2
(ユトレヒト条約でスペインからイギリスに割譲)

 

・ラシュタット条約(1714

:スペイン継承戦争の講和のうち、フランスと神聖ローマ帝国間で結ばれた講和条約。細かい内容はいくつかありますが、重要なのはスペイン=ハプスブルク家の多くの所領がオーストリア=ハプスブルク家に継承されることが確認された点。(スペインは継承戦争後にスペイン=ブルボン家となることが確認されたため。) その結果、オーストリアはスペイン領ネーデルラント、ミラノ公国、ナポリ王国、サルデーニャを獲得することとなります。

 

・アーヘンの和約(1748

:オーストリア継承戦争の講和条約。この条約で重要なのは何と言っても普墺間の関係で、シュレジェンが墺から普へと割譲、そしてマリア=テレジアによるハプスブルク家相続権の承認です。一方、英仏の植民地争いにおいては全体として痛み分けに終わったので、目立った内容はありません。

 

・パリ条約(1763

:フレンチ=インディアン戦争ならびにカーナティック戦争の講和条約で、英・仏・西の三国間で締結されました。七年戦争の講和条約は普・墺間で締結されたフベルトゥスブルク条約です。(世界史では、パリ条約が有名なものだけでも三つ出てくるので注意が必要です。[残り二つは1783年のアメリカ独立戦争の講和条約と1856年のクリミア戦争の講和条約]

 1763年のパリ条約は、北米・インドにおけるイギリスの優越を決定づけた条約として非常に重要な条約です。

 

1.フランスからイギリスへケベックなどを割譲(イギリスがカナダを獲得)

2.フランスからイギリスへミシシッピ以東のルイジアナを割譲

3.フランスからスペインへミシシッピ以西のルイジアナを割譲(フランスが北米撤退)

4.スペインからイギリスへフロリダを割譲

5.インドにおけるイギリスの優越の確立

6.その他、西インド諸島のドミニカ、アフリカ西岸のセネガルなどが仏から英へ

 

 戦いの経緯については以上になりますが、この争いの背景が重商主義政策の展開を背景とした植民地争いですから、その植民地争いの結果につながるような重要な戦い・講和条約とその内容をピックアップしてまとめていくのが良いと思います。最終的には「北米・インドともにイギリスが植民地争いに勝利し、イギリスによる第一次植民地帝国の完成を見た」というところでまとまるかと思います。

 

(③この争いの結末がその後の世界史に及ぼした影響)

上記に示しました通り、「北米・インドともにイギリスが植民地争いに勝利し、イギリスによる第一次植民地帝国の完成を見た」ことが世界史に及ぼした重要な意義の一つであることは間違いありません。ですが、「植民地争いの結果、イギリスが勝って、広大な植民地を獲得した」が結論ではあまりにも面白くありません。「世界史」に及ぼした意義というのですから、単純な戦争の帰結以外にも、長年にわたる英仏の争いがその後の歴史にどのような影響を及ぼしたのかについて立ち止まって考えてみる必要があると思います。

 

1.イギリスによる植民地帝国形成

1763年のパリ条約が締結されるまでに、イギリスは北米・インドを中心に広大な植民地を確保することに成功します。これらのうち、北米では13植民地が独立戦争の末に1783年のパリ条約で独立を果たしますが、合衆国以外の北米植民地は依然として残りました。特にインドはイギリスにとって重要な植民地となっていきます。

 

2.産業革命の進展

:広大な海外植民地は、イギリスに安価な原材料の供給地と製品の市場、のちには投資の場をもたらすこととなりました。これにより、イギリスは経済発展に必要な条件を確保し、すでに国内で始められていた経済上・技術上の創意工夫を支えるに足る資本が供給されることとなり、18世紀後半には産業革命が急速に進展していきます。

 

3.アメリカ合衆国の独立

:七年戦争と並行して北米で展開されたフレンチ=インディアン戦争の結果、フランスは北米大陸から撤兵し、イギリスにとっての脅威は取り除かれました。これにより、イギリスは従来どちらかと言えば放任してきた13植民地への統制を強め、重商主義政策と重税策を展開し始めます。実は、七年戦争以前にもイギリスは13植民地の経済活動を制限したり課税したりする諸法を制定していました。(羊毛品法[1699]・帽子法[1732]・糖蜜法[1733]・鉄法[1750]など)

 ですが、これらの法は制定されても運用面ではかなりのザル法だったと言われています。つまり、これらの法律に反しての輸出入は原則禁止なのですが‛密輸‘する者たちがたくさんいるんですね。そしてまた、取り締まりをする側もあまり本腰を入れてこれを追求しない。七年戦争以前は、13植民地を取り囲むようにしてフランスの植民地(ヌーベル=フランス)がありましたので、13植民地を敵に回すことは本国イギリスとしてもはばかられることであったわけです。

 ところが、七年戦争(フレンチ=インディアン戦争)が終わってフランスの脅威がなくなれば、植民地に遠慮する必要はありません。それまでの法についても厳格な取り締まりが始まります。‛密輸‘を当然の権利であって、自分たちは「善良な商人」であり、‛密輸業者’ではないと感じていた植民地の人々は、それまでと同じ行動をしているにも関わらず取り締まりの対象とされていきます。このあたりの関係は駐車違反とか、軽微な法令違反に何だか近い感覚がありますね。人のいない田舎道で車来ないから赤信号をヒョイと渡ったら「ピピピピピー!」で、「2万円以下の罰金または科料だ―!」みたいな。これを毎度やられたら「エー!」ってなるのは分かる気がしなくもないです。

 さらに、イギリス本国からすれば、「13植民地をフランスの魔の手から守ってやったのはおれたちだ」という意識がありますから、「その戦費を13植民地が負担するのは当然だろう」という理屈になります。その結果、印紙法[1765]・タウンゼンド諸法[1767:植民地からの税収増や貿易統制に関して財務大臣タウンゼンドによって定められた諸法]・茶法[1773]といった諸法令が制定されていきます。これがアメリカ独立へとつながる契機となったことは有名です。つまり、「1763年までの英仏植民地争い」の結果は、「フランス勢力駆逐→植民地への本国の統制強化→アメリカ独立革命」という形でアメリカ合衆国の独立を招いたということは十分に可能です。

 

4.フランス革命(アンシャン=レジームの崩壊)

:「1763年までの争い」の影響というにはやや遠いかもしれませんが、17世紀末から18世紀半ばにかけてのイギリスとの植民地争いをはじめとする一連の戦争は、フランスの財政を傾けていきます。イギリスが徴税システムの刷新とイングランド銀行設立ならびに国債の発行によって、巨額の資金調達を行うことが可能となった(財政=軍事国家)のに対し、フランスの側は旧態依然とした徴税システムの中、富の集中した特権身分からは税を徴収することができませんでした。戦争のたびに平民に重税を課すことにも限界が来ており、オーストリア継承戦争・七年戦争を戦ったルイ15世の頃にフランスの国家財政は大きく傾いていきます。また、七年戦争とその講和条約であるパリ条約の結果、広大な植民地をイギリスに奪われたことも、フランスの財政悪化に拍車をかけることとなりました。さらに、その後のアメリカ独立革命に際して、ルイ16世はアメリカ合衆国側で参戦することを決定しますが、この戦費は悪化していたフランス財政にとどめを刺すこととなり、特権身分への課税という改革は、三部会の召集とフランス革命へとつながっていきます。

 

 「この争い」は英仏間の第二次百年戦争を指しますから、同時期に進行していた戦争の帰結とはいえ、プロイセンのシュレジェン獲得や、ドイツ地域におけるプロイセンの台頭などは特に示す必要はないと思います。焦点はあくまでも英仏間の戦争にあると考えてよいでしょう。

 

【解答例】

 仏王ルイ14世と蘭総督ウィレム3世は宗教や国防をめぐり争ってきたが、ウィレムが名誉革命で英王に即位すると次第に重商主義政策による植民地をめぐる対立も鮮明となり、ファルツ継承戦争がウィリアム王戦争として北米へ拡大するなど、ヨーロッパの戦いは北米やインドをめぐる戦争へ発展した。スペイン継承戦争と北米のアン女王戦争の講和条約であるユトレヒト条約で英は仏からハドソン湾地方などの北米諸地域を、西からジブラルタルなど地中海への入り口を確保し、七年戦争に際しては北米のフレンチ=インディアン戦争やインドのプラッシーの戦いに勝利して、パリ条約によりミシシッピ以東のルイジアナを奪って仏勢力を北米から駆逐し、インドにおける優位を確定させた。広大な植民地帝国を築き上げた英では産業革命が進展したが、戦費補填のため重税を課したことで北米13植民地は独立した。また、多大な戦費負担と財政の悪化は仏でも革命を招く一因となった。(400字)

 

400字だとこんなものでしょうかねぇ。もちろん、全ての戦争や獲得した植民地をひたすら列挙するというやり方もあるとは思うのですが、美しくないんですよね。採点基準にもよるのですが、仮に採点基準が「ユトレヒト条約で英が仏から獲得した土地で1ポイント」とかなっていると「ニューファンドランド、アカディア、ハドソン湾地方」って書いても1ポイントですし。「ファルツ継承戦争と連動した北米のウィリアム墺戦争を戦った後に起こったスペイン継承戦争と連動した北米のアン女王戦争に勝利した英は、ユトレヒト条約で仏からニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方を、西からジブラルタル・ミノルカ島とアシエント特権を獲得し…」なんて書くと「うわーっ(汗)」っていう感じになりませんかね? 「戦いの経緯」を書け、となっているわけですから、もう少しコンパクトにまとめてもいいと思うんですよね。ただ、あまりコンパクトにまとめ過ぎてしまうと「英は…北米に進出し…北米の支配権を確立し…」みたいにえらく漠然とした内容や同じ内容の繰り返しになって、肝心の歴史的用語や事象がおろそかになってしまって点数が伸びなくなってしまったりしますし、バランスが難しいところですね。

 

2019 Ⅲ

 

【設問概要】

・空欄  ①  に入る語句を記せ。(問1)

「…1949年には空前の大失敗。つまりソ連と  ①  は最も卑劣であくどい手段と、最も残暴な武力をもって中国大陸を占拠したのである。」

・文章中で対立する両勢力の関係についてまとめよ。また、1949年に至る両勢力の関係の変遷についてまとめよ。(問2)

 

【設問分析】

 史料を読解する問題ではありますが、その読み取りは比較的平易です。まず、引用されている史料が蒋経国の『わが父を語る』となっていること。蒋経国は蒋介石の後継者で、台湾における経済建設への大規模投資と、民主化への変化を打ち出すことになる指導者ですから、この文章が中国国民党(または中華民国)の立場から書かれていることは明らかです。このあたりのことは、蒋経国が孫文を「先生」や「国父」と呼んでいることからも読み取れます。その立場から空欄  ①  がソ連とともに「最も卑劣であくどい手段と、最も残暴な武力をもって中国大陸を占拠した」というわけですから、空欄  ①  に入るのは中国共産党または中華人民共和国であることが分かりますので、問1についてはそれほど難しいものではありません。問2では、中国国民党(または中華民国)と中国共産党(または中華人民共和国)の関係と1949年、つまり国民党が中国大陸を追われて台湾に逃れ、大陸で中華人民共和国が成立した年、にいたるまでの両勢力の関係の「変遷」についてまとめよと要求していますから、いわゆる「国共合作」について述べるべきであることは明白です。ですから、「両党の結成→二度にわたる国共合作→国共内戦と中華民国・中華人民共和国の成立」というのが解答に書くべき内容となります。内容的にも基本的な内容ですし、一橋の大問3で清朝末期以降の中国史・朝鮮史が出題されることは受験生にとって想定の範囲内でしょうから、この問題を落としてしまうようだとかなりのダメージになったのではないかと思います。しっかりと拾っておきたい設問です。

 

【解答例】

 五・四運動に刺激を受けて大衆政党中国国民党を結成した孫文は、カラハン宣言やヨッフェとの会談、コミンテルンの下で中国共産党を結成した陳独秀との接触などを通して「連ソ・容共・扶助工農」の新三民主義を掲げて第一次国共合作を成立させ、国民党への共産党員の加入を認め、軍閥勢力打倒による中国統一と帝国主義列強への対抗を目指した。しかし孫文が死ぬと浙江財閥とつながる蒋介石は国民党左派ならびに共産党との対立を深め、上海クーデタでこれらを弾圧したため連携は瓦解した。蒋介石は共産党への攻撃を続けたが、毛沢東は長征中に八・一宣言で抗日民族統一戦線の結成を呼び掛け、呼応した張学良は西安事件で蒋介石の説得にあたった。盧溝橋事件を契機に日中戦争が起こると蒋介石は第二次国共合作を決断して共産党と共闘した。しかし次第に両党は対立を深め、戦後の国共内戦に敗れた国民党は台湾に逃れ、共産党は中国本土で中華人民共和国を建国した。(400字)

 

※カラハン宣言

:ソヴィエト政権の外務人民委員であったカラハンが、帝政ロシア時代に獲得した利権の無償返還や秘密条約の破棄を約束した宣言で、1919年と1920年の二度にわたり出された。

 

※ヨッフェ

:ソヴィエト政権の全権代表として中国共産党の指導に当たり、1923年には孫文と会談してカラハン宣言の実施と中国の国民革命実現に向けての援助を約束した人物。

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 忙しさにかまけてずいぶん長いことほったらかしになっていた2018年の一橋の問題についてですが、この年の問題はこれまで以上に史料読解の比重が高い設問となりました。2017年の問題が、それ以前の数年の問題と比較すると史料を読んでも読まなくても大きな差がなかったので、今後どのようになるかと注目していましたが、2018年の問題は史料読解力に重きをおくここ数年の流れに復帰したことになります。個人的には、歴史的な知識をベースに史料読解力、論理的思考力、国語力に重きをおく2018年のような問題の方が2017年のような問題よりも難しくはあるが良問だと感じますので、おそらく一橋が目指しているのはこちらのタイプの設問なのでしょう。

 すでに一橋の出題傾向分析や問題解説で紹介している通り、史料読解型の設問を出題している大学としては東京外国語大学がありますが、これよりもむしろ一橋型の出題に近いと感じるのが上智のTEAP利用型の世界史設問です。(TEAP利用型についてはつい最近、分析と解説をUPしました。)まだ始まって日の浅いこちらの受験型と問題でまだまだ過渡期にあるかと思いますし、年によって問題に良し悪しがありますが(上智TEAP利用型を受験する受験生にとって適切かそうでないかという点で)、しっかりとリード文を読まないと解けないという意味では一橋の問題に近いものがあります。ただ、一橋の方がかなり深い歴史的知識を要求することがある一方で、上智のTEAP型は基本的な歴史的知識があればよく、あとは国語力の問題であることが多い気がします。(これは「上智の方が問題が簡単」だ、ということではなく、上智の難しい問題は高校生レベルの世界史知識では到底太刀打ちできるものではなく、ほとんどの受験生はリード文の読解に頼らざるを得ず、知識面での差はほとんどつかない、という意味です。チャアダーエフの哲学書簡から生じた西欧派とスラブ派の論争を高校生が知識として持ってたら怖いわ。)いずれにしても、東大・東京外語・上智TEAP利用型は一橋の問題の練習としてはそれなりに役立つかと思います。

 

2018 Ⅰ

 

■問題概要

・ヨーロッパの歴史において、1113世紀にかけて見られたと考えられる「空間革命」はどのようなきっかけでおこったか、考察せよ。

・「空間革命」の結果としてヨーロッパでどのような経済・社会・文化上の変化が生じたか、考察せよ。

400字以内

 

(リード文概要)

:リード文に使われているのはカール=シュミットの『陸と海と』です。カール=シュミットは20世紀を代表する思想家の一人ですが、詳述の必要はあまりないかと思います。Wikipediaに載っているのでこちらをご参照下さいw

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88

 本設問のリード文では、カール=シュミットの「空間革命」についての文章を示しています。彼の『陸と海と』では、大航海時代以降、ヨーロッパ人が海を中心とする世界観を獲得することによって従来の世界観が大きく変化し、さらに20世紀の空への世界の拡大と新たな世界観がどのようなものになるかという考察がなされています。本設問は、そうした空間概念の変化や世界観の変質が、ヨーロッパにおいては11世紀~13世紀に起こったと考えた場合、それはどのようなものかということを問うています。勘の良い人であればシュミットの「空間革命」が何を言っているのかということがピンとくると思いますが、大部分の受験生は丁寧にリード文を読まないと、何を言っているのか実感として把握するのは難しいかと思います。

 リード文の前半では、人間のもつ「空間」に対する意識は、その人が置かれた状況によって異なってくるということを示しています。都会の人間と農夫の世界は違う、ということを言っていますので、このあたりはつかみやすいと思います。また、こうした「空間」概念は、個々の生活や職業のみならず歴史によっても違うと言っているわけです。これはつまり、古代世界の住人と現代の世界の住人が全く異なる「空間」概念、または実際の生活空間を持っているということを言っているわけですね。

 リード文の後半ではこうした「空間」概念は歴史的に変化するものだということが示されています。コロンブスとコペルニクスが引き合いに出されていますが、大切なことはこうした変化が、学問や人間の認識が先に来て変化するのではなく、「歴史的な諸力」、実際に人間が活動して動くことによって生じる「歴史の力の新しい前進」によって起こるということです。人が活動し、歴史が動くことで、「新しい土地、新しい海が人間の全体意識の範囲のうちに入って」来て、それにより「歴史的存在の空間もまた変わってゆく」ことになります。これを11世紀~13世紀のヨーロッパに当てはめた時に、何のことについて言っていることになるのか。おわかりでしょうか。そう、「西ヨーロッパ世界の膨張」が本設問のテーマとなります。

 と、長々と解説してきましたが、実はこの設問、過去にそれも一橋で出題されたことがあります。なんと1982年w!設問の内容もほとんど同じです。でも、さすがに40年も前の問題にまで目を通すのはコスパを考えた時にどうかなぁと思います。11年分毎日解いたとしても1か月半ですからね…。特に現役生であれば、それよりも先にすべきことは私大対策を含めたくさんあるような気はします。受験生であった頃の私なら40年前の世界史の過去問対策するよりも英語か数学に時間を割いたと思いますw でもまぁ、そこは人それぞれでしょう。

 

 閑話休題。

ちなみに、ある解答では「気候が温暖化し、マジャール人ら異民族の活動も止んで社会的安定が訪れると、三圃制など新農業技術の導入もあり、生産力が拡大し人口も増加して西ヨーロッパの拡大が始まった。」となっていました。これをご存じの方からは、私の解答例について「お前、マネしてるだけじゃねーか」と言われてしまいそうですが、そういうわけではないです。まず、私が解答を作成するにあたり最初に参考にしたのは東京書籍の『世界史B』教科書ですが、この平成30年度版には西欧の膨張について取り扱う部分について冒頭の文章がこうなっています。

 

11世紀になると、気候が温暖になり、外部勢力の侵入による混乱もおさまって、西ヨーロッパの社会も安定してきた。」(p.150

 

ちなみに、私が最初に書いた文章は「11世紀以降、気候温暖化やノルマン人・マジャール人など外部勢力の侵入による混乱が収まると、西欧世界は安定化した。」で、字数などの都合から削って解答例のようになったわけです。もちろん各予備校の解答や赤本の解答など一通り目は通しますが、別にplagiarisingしようとかそういうわけではないですw 表現が似通ってるときは、半ば定型化された表現(12世紀ルネサンスなんかそうですね。「アラビア語文献がラテン語文献に翻訳され」とか笑いが起こるレベルで定型文です。)になっているか、教科書などを参考にしたらたまたま参考にした場所が同じだったかどちらかかと思います。

 いろいろと参考にしながらも自分だったらどうするかなぁというのを検討して書いていきます。たとえば、上述の某予備校の解答では異民族の活動については具体例としてあがっているのはマジャール人だけで、ノルマン人についてはそれ以降に「南イタリアやシチリアを占領した」という形で膨張の例として出てきます。これはこれで良いと思います。ただ、ノルマン人の移動は9世紀頃から本格化します。ロロがノルマンディー公国を建てるのは910年ですし、デーン人がイングランドに侵入を繰り返すのもそのあたりですね。設問は11世紀以降の話をしていますので、私のようにノルマン人の活動を「かつて西欧世界を脅かした異民族の活動の一例」としても別に間違いではないわけです。また、ここには出ていませんが、イスラームも異民族の侵入には含まれます。すでに8世紀にはイベリア半島からウマイヤ朝が侵入していますし、シチリアにはアッバース朝支配下にあったアグラブ朝が侵入します。正解というのは一つとは限らないというところがミソかなぁと思います。

 今回は設問が①「空間革命のきっかけ」を示せ、②「空間革命」の結果としての経済・社会・文化の変化を示せ、ということだったので、特に「きっかけ」の部分については単に「西欧世界が膨張したよ」、ではなく「西ヨーロッパの人々の空間認識のあり方が変わったんだよ」という部分が出るように工夫してみました。また、結果の部分についても極力「人々の空間認識や世界観が変わるようなこと」を中心に挙げようと努めたつもりです。その分、歴史用語の数など要素としては犠牲にした部分もあるかなぁという気はしますが、まぁそれはそれでよいかなと思います。

 

■分析

設問の要求は何度も申し上げました通り。

①ヨーロッパの歴史において、1113世紀にかけて見られたと考えられる「空間革命」はどのようなきっかけでおこったか、考察せよ。

②「空間革命」の結果としてヨーロッパでどのような経済・社会・文化上の変化が生じたか、考察せよ。

 

 そこで、まず問題になるのは11世紀~13世紀にかけてヨーロッパで生じた「空間革命」とは何を指しているのか、ということです。これについてはリード文にコロンブスなどが出てきますので、15世紀~16世紀に起こった大航海時代に似た現象が1113世紀にあったか、ということが問題になります。ここでそれが「西ヨーロッパの膨張」にともなう人々の空間認識や生活空間、世界観の変化であると気づければ、あとは基本事項なのかなぁという気がします。社会経済系の出来事を理解するのが苦手、印象に残りにくいという人には解きづらいかもしれません。

 西ヨーロッパの膨張の原因は11世紀以降の各種農業技術の進歩による農業生産の増大とこれにともなう商業の発展ならびに人口増加です。余剰生産ができればそれを別のものと交換したいと考えるのは自然な欲求です。食料が豊富にとれるところばかりではないですから、そうしたところは余剰の農産物と交換すべく特産品を作って交換しますから商業が発展します。いつまでも物々交換では不便ですから貨幣経済も…と、あまりにモデル化されていてどうかと思いますが、基本的にはこのような流れですね。

 また、食糧に困らなくなれば、栄養状態が悪くてなくなってしまう人、特に乳幼児死亡率が低下しますので人口が増加します。ところが、社会の方は急激に増加した人口を吸収するようにその仕組みがまだ出来上がっていないんですね。生産量は増えても富のほとんどは荘園領主のもとに吸い上げられますから、農村では人口が増えても場合によっては厄介者、人によっては食っていけません。そこで、付加価値の創出によりより富の集まる都市へと人口者集中していき、人々は都市に流入し、そこでは新たな富の分配と生産のシステムが確立していきます。これがギルドだったり徒弟制度だったりするわけです。また、人数が増えたら食っていけないのは貴族も同じ。ゲルマン社会では当初分割相続が基本でしたが、分割相続ですと家の存続が難しくなることから、次第に長子相続へと変化していきます。そうすると、増えた兄弟は「部屋住み」の一生うだつが上がらない状態になってしまいますので、「このままここにいてもしょうがねぇ、いっちょ一旗揚げてやるぜ!」ということで政情不安定な南イタリアや東地中海世界、まだ見ぬ未開のエルベ川以東に新天地を求めて旅立っていくわけです。だいぶ乱暴な議論ではありますがw、こう理解しておくととりあえずわかりやすいですし、大航海時代の空気に近いものもありますよね。

 そんなわけで、1113世紀の「空間革命」のきっかけとして必須のものはだいたい以下のようになります。

・農業技術の進歩(三圃制・重量有輪犂など)

・大開墾による耕地拡大(ベネディクト派やシトー修道会など)

・農業生産の増大

・人口の増加

・余剰生産物の発生と定期市、商業の発達

・都市の成長と遠隔地商業の発展

・人の移動の活発化(巡礼など)

・十字軍、レコンキスタ、東方貿易、東方植民

(西欧の膨張実例、または直接的契機として)

 本来であれば「きっかけ」とあるのではっきりとした事象が示せればよいのですが、「空間革命」自体が(設問によれば)2世紀にわたる(現代的な視点からすれば)緩やかな変化ですし、地域も広大です。そもそも、人々の意識や生活空間、世界観の変化といったものはある程度の時間をかけてゆっくりと進行していくもの(常にそうであるとは限りませんが)だと思いますし、要因も多岐にわたります。おそらく、設問の方も「空間革命」を進展させることになった複数の要因を指して「きっかけ」としているつもりなのだと思いますので、上に列挙したものを各変化と結びつけて示せば良いと思います。ただ、そうした中であえて一つ「きっかけ」を挙げろと言われれば、私は農業技術の進歩による生産の増大を挙げたいと思います。理由は、「空間革命」を進展させる要因となった様々な変化の多くが、この農業技術の進歩をもとにしているからです。ただ、実際の変化はそう単純なモデルなのではないのだろうとは思いますが。

 

 さて、そうしますと続いて「空間革命」の結果として、経済・社会・文化上どのような変化がおこったかですが、教科書的には以下の通りになります。

 

・経済面‐遠隔地商業の発展、貨幣経済の浸透

・社会面‐農村への貨幣経済の浸透、古典荘園から地代(純粋)荘園へ、封建制の変質開始

    (ちなみに、純粋荘園化するのは仏で13世紀、英では14世紀頃)

     都市内部の秩序の形成

・文化面‐12世紀ルネサンス(イスラーム文化の流入、大学・スコラ学の発展)

 

設問の方は「空間革命」自体を説明せよというものではないので、概ね上に書いた内容でよいかとは思います。ただ、「空間革命」の結果とあるので、何かしら人々がいた空間の変化や、空間認識の変化、世界観の変化というものを意識するとよいかなと思います。

 

■解答例

気候温暖化やノルマン人・マジャール人などの侵入による混乱が収まると、西欧は安定化した。三圃制や重量有輪犂の導入、シトー会主導の大開墾の進展で生産余剰が生まれると商業活動が活発化して都市と交通が発達し、増大した人口は移動を活発化させ西欧世界は膨張した。十字軍は東地中海、レコンキスタはイベリア半島、東方植民はエルベ川以東の世界を切り拓き、東方貿易やバルト海交易などの遠隔地交易はイスラームをはじめ他の世界とのつながりを認識させた。その結果、北伊を中心に中世都市が発展し、徒弟制度など独自の社会構造が発展した。各都市は連結され物・情報・人の移動が活発化し、定期市が発達し、貨幣経済が浸透し、農村にも影響を与えて地代荘園への変化を促し、封建社会の変質をもたらした。トレドやパレルモではアラビア語文献のラテン語翻訳を通して古典・イスラーム文化が流入し、大学やスコラ学の発展などの12世紀ルネサンスをもたらした。(400字)

※ 本設問とは無関係ですが、中世の人々がどのような感覚をもっていたのか、ということについての歴史学における入門書の一つに、アナール派の第三世代の一人であるジャック=ル=ゴフの『中世の身体』があります。もうずいぶん昔に古典となってしまっているものですが、なかなか歴史には登場しない「身体」やそれに付随する感覚を取り扱った名著です。面白いですよ。

 

2018年 Ⅱ

 

■問題概要

・歴史学派経済学と近代歴史学の相違は何か。

・両者の相違はどのようにして生じたか、両者の成立した歴史的コンテクストを対比させつつ考察せよ。

400字以内

 

(ヒント)

・「歴史学派[経済学]におけるものと[近代歴史学の]古典古代学におけるものとは、研究への志向の動機においても、事象の対象化の方法においてもひとしからざるものが存する…」

=歴史学派経済学と近代歴史学は、研究動機もその方法も異なる

 

・「歴史学派経済学はその根本の性格においては依然として経済学なのであってー即ち歴史学ではないのであってー古代にも生活の一特殊価値たる経済を発見せんとすることが最も主要な研究契機」

・「歴史学派においては全ヨーロッパ的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列することが問題になってゐる」

・「古代の事象は、それが経済世界を構成する方向において対象化せられるのが歴史学派経済学」

=歴史学派経済学の根本は経済学であることにあり、その目的は古代の生活の中に経済的事象を発見・対象化し、さらにそれを全ヨーロッパ的経済発展のあるべき位置に配置することにある。

 

・「(近代歴史学の)古典古代学にあっては、経済をもそのうちに含むところの古代世界への親炙が研究契機」

・(近代歴史学の)「古典古代学においては、古代と現代とを本来等質の両世界として…表象することが主要問題」

・(近代歴史学の)「古典古代学においては、古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する方向において対象化せられる。」

=近代歴史学の研究動機は、経済のみならず、古代世界がどのようなものか、経済を含む全体像を構築することにあり、さらに古代と現代の間に優劣や発展などの差は存在せず、基本的には等質のものであるとの前提にたって対象化がなされる。

 

■分析

 この問題はとても難しいです。一方で、最近の一橋らしい設問でもあります。史料を読み取らせ、その情報をベースに受験生が持っている歴史的知識と結びつけて考察せよ、というスタイルの設問で、比較という視点が入っていることも合わせると、2016年一橋の大問1(聖トマス[トマス=アクィナス]とアリストテレスの都市国家論比較)が一番近いものかと思います。

 「難しいな」と感じるのはトマス=アクィナスとアリストテレス、中世都市とポリスというのが一橋受験者にとってはおそらく基本事項の範囲に入っていたのに対し、今回比較考察の対象になっているリストとランケ、そして何より歴史学派経済学と近代歴史学というものが、一橋受験者にとってもかなりハードルの高い知識であって、かつ教科書や参考書で詳しく書かれているものではないからです。リストとドイツ関税同盟くらいは基本事項なのでしょうが、リストの歴史学派経済学の詳細と関税同盟との関連性やランケとなるとややレベルの高い知識でかなり勉強している人でないと知らない知識になりますし、近代歴史学の詳細となりますとこれはもうハイレベルな知識で、普通の受験生に手におえるものではありません。ですから、もし赤本を解いていて全然知らない、わからないからと言って特に悲観することはありません。他の大方の受験生も知りません。ためしに駿台の分析を見てみましたが、大問1と大問3が「標準」となっているのに対し、大問2については「難」となっていました。難しいですよね、やっぱり。

 ただ、それでは本設問が「悪問」か、と言われれば、私はそうは思いません。(無茶なこと言うなぁとは思いますがw)その理由は二つあります。まず、設問が聞いているのは歴史学派経済学と近代歴史学についての世界史的知識を問うているのではない、という点です。本設問が聞いているのはあくまでも両者の「相違」とその相違が生じた「原因」です。「歴史的コンテクスト」についてはこれらを答えるにあたっての添え物(というのは少し言い過ぎかもしれませんが)にすぎません。もっとも、この添え物を適切に記述することが思いのほかに難しいのですが。二つ目に、本設問はある意味で世界史的知識がなくても解ける設問です。つまり、史料をじっくり読解することによって、世界史では習っていない部分の知識を補って答えることができます。史料の読解と最低限の世界史知識をうまく組み合わせれば、他の受験生と同等、場合によっては一歩抜け出た解答を構築することが可能です。世界史の問題というよりは国語の要素が強い設問です。やはり、ここでも知らないからと言ってあきらめてしまうのではなく、どのように不時着させるかが重要になってきます。私がこの年の受験生であれば、まず大問1と大問3についてできるだけ短時間でしっかりとした解答を仕上げ、残された時間をこの大問2にじっくりかける、という解き方をしたと思います。しかし、大問2に全く歯が立たない(リスト、ランケを知らない、歴史学派経済学、近代歴史学が何か、いつごろのものか知らないなど)場合には、史料から読み取れる部分だけをまとめて、あとは大問1と大問3を完璧なものに仕上げるために時間を割くのが無難でしょう。

 

【分析の手順1:歴史学派経済学と近代歴史学の整理】

 それでは、分析を始めたいと思います。設問が求めているうちのひとつ目、「歴史学派経済学と近代歴史学の相違」についてですが、これはリード文の中に示されています。つまり、世界史の知識から絞り出してくるのではなく、史料の読解によって答えを見出すことになります。(もとより知っている人は別ですが、それでもリード文の内容は確認してそれに沿ったものにすべきだと思います)

実は史料読解の大半は上述の問題概要のところで示してあります。それを再度まとめてみますと、以下のようになります。

 

A 歴史学派経済学

・根本的には経済学

・古代の生活の中に経済的事象を発見・対象化することが目的

・発見した経済的事象を全ヨーロッパ的経済発展のあるべき位置に配置することが目的

 

B 近代歴史学

・古代世界とは何かを明らかにすることが目的

・古代世界は経済的事象のみではなく、他の様々な事象を含む総体としてとらえられる

・古代世界の内部においては発展や衰退が存在しても、古代と現代は等質的関係にあり、両者の間に優劣や発展といった関係は存在しない、と考える

 

 このABの内容を読み取り、違いを示すだけでも「歴史学派経済学と近代歴史学の相違」を示したことにはなります。リード文という限られた情報源からの判断にはなってしまいますが、そのリード文自体、出題している側が示しているものですから、一定の真実を含んでいると判断してよいでしょう。つまり、世界史的な知識を持っていなくても両者の相違を示すことは可能です。

重要なポイントは、歴史学派経済学があくまでも経済学の視点から古代世界をとらえようとしているのに対し、近代歴史学は古代世界そのものに親炙(あるものに親しく接してその教えを受けること、感化をうけること)することを目的としているという点。次に、歴史学者経済学が人類の歴史が次第に発展していくという歴史観を持ち、その中に古代世界の経済を位置づけようとしているのに対して、近代歴史学は古代世界と現代をそれぞれ独立した固有のものとしてとらえ、歴史学派経済学が持つような発展史観は持ち合わせていないという点です

 そこで問題になるのは設問の要求する残り二つの部分、こうした「両者の相違はどのようにして生じたのか」ということと、「両者が成立した歴史的コンテクスト」とは何か、です。これについてはある程度は世界史の知識に頼らざるをえません。どこまで世界史の教科書・参考書・授業などから習得できるかは後でご紹介することにして、まずは歴史学派経済学と近代歴史学の概要について簡単にご紹介しておきましょう。

 

(歴史学派経済学)

:歴史学派経済学もそうですが、「歴史学派」というのは19世紀ドイツの一つの思想的、学問的潮流です。歴史学派の考え方を一言で表現するのは難しいのですが、つまり「経済にせよ、法にせよ、人間生活の様々な制度や仕組みが成立する過程においては、地域固有の特徴が深くかかわるものであるから、成立した経済や法も固有のものであり、普遍的なものではない。ゆえに、各地域の経済や法などを研究する際にはその地域の固有の特徴、つまり歴史を考察しなければならないし、経済政策や法の適用を行う際には各地域の実態に即して進めなければならない」という考え方です。

歴史学派ないし歴史主義が成立するのは19世紀初頭のドイツと言われますが、この当時のヨーロッパ全体の思潮には大きな変化がありました。18世紀啓蒙思想から19世紀ロマン主義への転換です。啓蒙思想で貴ばれたものは理性・合理・普遍・個人・進歩・発展といったものでしたが、ロマン主義はこれらの概念に批判的で、むしろ感情や主観に重きを置き、世界を合理的に割り切れるものとしてとらえるのではなく、さまざまな要素が入り混じった有機的なものとしてとらえ、そうであるがゆえに理性では割り切れない感情、個人の奥底に存在し、さらに個人がさまざまな形で影響を受ける集団、現在を形作ることになった過去、などに注目し、これらを重視する立場をとりました。ロマン主義が感情的(ロマンティック)で、恋愛や民族意識を称賛し、中世などの過去に憧れる傾向にあったのはこのような理由によります。(ロマン主義については、以前掲載した「東方問題」のバイロンのくだりで簡単に触れています。)

 つまり、「歴史学派」というのは啓蒙思想が重視した「普遍的で合理的なもの」よりも「固有の特徴(歴史)」を重視し、その方法も啓蒙的な「抽象的思考方法」のように、物事を概念としてとらえて理性をもとに普遍的なモデルを組みたてていくやり方よりも、「状況論的思考方法」、つまりその土地、時代、状況において何があったのかを検証し、そこから考察するという方法をとる考え方のことを言うわけです。

 ですから、歴史学派をとらえるにあたって非常に重要なことは、19世紀初頭のロマン主義とナショナリズムをしっかりと理解した上で、歴史学派自体がこのロマン主義やナショナリズムと密接に関連しているということを理解することだと思います。

 さて、このような前提を理解した上で、歴史学派経済学をドイツのリストが提唱したことを思い返してみると、これまでよりもリストの提唱した学説の内容が良く理解できると思います。リストは世界史の教科書や授業では1834年に成立したドイツ関税同盟を結成したということで強調されます。それ自体は間違いではないのですが、リストの重要な点は、イギリスが新しく世界に出現した資本主義社会を説明するために作り出した学問、つまりアダム=スミスの古典派経済学を批判的にとらえて歴史学派経済学を創始し、ドイツのその後の経済政策に大きな影響を与えたところにあります。アダム=スミスの古典派経済学は、ケネーの重農主義の影響を受けながら、啓蒙的な発想のもとに人間生活の諸活動を一般化し、モデル化し、普遍的に適用しうる理論として打ち立てられます。(このあたりのことは「近現代経済理論」の方で簡単に紹介しました) しかし、古典派経済学の中心理論である自由主義経済理論は、イギリスのように産業革命を達成して圧倒的な工業力を手に入れた国にとっては好都合な理論でしたが、ドイツのように産業化が十分でない後発国にとっては当てはまらないものでした。産業力に劣るドイツがイギリスとの間で自由貿易を展開した場合、より安価で品質の高い商品を関税なしでイギリスはドイツに輸出することが可能になり、その結果ドイツの国内産業は壊滅してしまします。(実際、歴史上似たようなことはよく起こります。リストの前の時代には1786年にフランスがイギリスとの通商条約[イーデン条約]で関税引き下げに応じましたが、このことが原因で綿工業をはじめとするフランス産業は打撃を受け、フランス革命につながる要素の一つとなりました。また、英産綿布の流入によりインド綿産業が壊滅したのも同じことです。) ですから、ドイツが自国産業の成長を図るにあたっては保護貿易を採用することが求められました。そこで、というわけでもないのでしょうが、リストが展開したのは、領邦国家が分立し封建的束縛が残存して経済発展を阻害している国内経済に対しては規制の撤廃や市場の統合という啓蒙的要素の色濃い政策を提唱しながらも、対外的には古典派経済学の自由貿易主義を批判して自国産業育成のための保護貿易を主張し、そのような主張をドイツの固有の状況に対応するものだとして正当化しました。これが(初期の)歴史学派経済学成立の背景です。ですから、リストの経済学は基本的には普遍性を批判し、固有性を主張するところに特徴があります。ですが、経済学というのは基本的にはその社会の経済の発展を目的として研究される学問です。また、先にも述べた通り、当時のドイツが経済発展を推進するためには、国内に残存して経済的な障壁となっている封建的諸特権を排除することが急務でした。その結果、歴史学派経済学は啓蒙的諸要素を批判しつつも、その内部に発展段階論という発展史観・進歩思考を残存させるという形で成立することになります。

 

(近代歴史学)

 これに対して、近代歴史学の祖と言われるのはランケです。ランケは、歴史学派経済学がとったような楽観的で進歩的な発展段階論は基本的には取りませんでした。それまでの歴史は旧来からの教訓主義や18世紀啓蒙思想の影響から発生した進歩主義的な歴史がほとんどで、描きたい歴史を描こうとするあまり、そのもととなる史料の扱いがおろそかになっていました。そこでランケが提唱したのが徹底した史料批判によって、歴史のあるがままを描き出そうとした実証主義的な歴史研究法です。こうした研究手法によって、ランケはそれまでの「歴史家」とは一線を画し、「歴史学者」として科学的で客観的な近代歴史学を確立したと言われています。

 ランケの研究手法のベースにあるものは徹底した史料の読解とその批判的解釈です。史料にはひとつとして同じものはありませんから、史料読解の上に構築される歴史像というのは自然に固有のものとして描き出されることになり、普遍的なものとはなりえません。また、啓蒙的な進歩主義の批判から成立したものでもありましたから、リストが残していたような発展史観をとることはありませんでした。これがつまり「古代世界への親炙」であり、「古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する」ということであり、「古代と現代とを本来等質の両世界として…表象すること」です。

 ただ、ランケについては注意しなくてはならないことがあります。ランケはたしかに方法論、研究手法としては客観的で科学的ともいえる歴史学の方法を提唱しましたが、その実践面においては必ずしもそうではありませんでした。彼は確かに史料に基づいて歴史を書きましたが、その史料の選択については時に恣意的で限定した範囲の史料を用い、多くの隠喩が用いられてはっきりとした事実を示すことが少なく、歴史学の著作というよりは依然として文学的な匂いを色濃く残すものとなりました。史料に基づいていたとしても自分の望むように歴史を描くことは十分可能なのですよ。自分に都合の良い史料だけ集めたり、書いてある内容を自分の都合の良いように解釈すればよいわけですから。マンガなんかでもありますが、「強敵」と書いてあったって「とも」と読んだら内容全然違ってきます。「こっちにくるな、バカヤロー!」って書いてあった場合、「AさんとBさんは仲が悪い」と解釈することも可能ですが、前後の状況を見ると「(こっちにくると二人とも命の危険にさらされてしまう。おれは愛するお前を危険にさらしたくはない。だから)こっちにくるな、バカヤロー」だったりもするわけで、この場合、その部分だけ断片的に史料を抜き出してきたとしてもあまり意味はなく、むしろやりようによっては捏造出来たりしてしまうわけです。理系なんかで行われる実験データの改竄、とまでいかなくても隠蔽などは近いものがありますね。「データとしてある」から信用があるかどうかは、そのデータを作る人間や扱う人間がどれだけ真摯にそれと向かい合っているかがとても重要だということです。

 さて、そうしたわけでランケの描き出した歴史は実はロマン主義と密接にかかわる内容となっていました。史料読解の上に描き出された固有の歴史でありながらも、一方でロマン主義の影響を受けて復古主義的でした。ベルリン大学の教授として勤めていたこと、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世と深いかかわりを有していた点からも、自国の体制寄りでナショナリスティツクな歴史をランケは描き出すことになります。

 

【分析の手順2:歴史学派経済学・近代歴史学成立の要因と歴史的コンテクスト】

 

さて、上述のように歴史学派経済学と近代歴史学についてはその概要を整理してきましたが、その成立の背景としてどのような要因があったかを整理すると以下のようになります。

 

(共通)

・ロマン主義の影響(ナショナリズムとのかかわり)

・啓蒙的普遍性の批判と固有の歴史的過程の重視

(リスト)

・ドイツのおかれた当時の経済状況(産業革命の出遅れと国内経済の封建的状況)

・古典派経済学批判

(ランケ)

・教訓主義や進歩史観の否定

・厳密な史料批判

 

ですから、解答の作り方としては、歴史学派経済学と近代歴史学成立の背景として共通しているロマン主義の高揚と啓蒙的普遍性の批判に触れつつ、リストならびにランケがおかれた当時の状況を鑑みた上で、両者の差異(「発展」に対する姿勢の違いなど)について言及するというのが良いかと思います。

 

【「世界史」のレベルで押さえておかなくてはならないところはどこか】

 さて、ここまでは「世界史」の枠をはみ出してかなり詳しい内容まで解説してきましたが、今まで解説した内容を自分のものとして、かつ整理できる受験生などそうはいるものではありません。ですが、「世界史」の範囲でも通常抑えておくべき内容があるのも確かです。私が「世界史」の知識として本設問に関して受験生が解答に盛り込んだ方が良いと思う内容は以下の通りです。

 

・歴史学派経済学=リスト

・近代歴史学=ランケ

・リストの提唱によって1834年に北ドイツを中心としたドイツ関税同盟が結成

・関税同盟は、産業革命を達成したイギリスに対抗して国内産業を守るためのもの

・歴史学派経済学が古典派経済学の自由主義を批判して保護貿易を主張したこと

・近代歴史学が厳密な史料批判によって成り立っていること

 

 せいぜいこのくらいではないでしょうか。こうした「世界史」の知識と、リード文からの読み取れる部分をもとに解答を作ると以下のようになるかと思います。

 

■解答例

ロマン主義の影響を受けて歴史学派経済学を提唱したドイツのリストは、イギリスに比して遅れた自国の経済状況を考慮した場合、アダム=スミス以来の古典派経済学と自由放任がドイツ国内産業の成長を妨げると考え、ドイツ固有の発展段階に合わせた経済政策である保護主義を主張し、これがドイツ関税同盟の結成につながったが、一方で経済的事象を全ヨーロッパ的発展の上に配置するという発展段階論を残していた。近代歴史学の祖であるドイツのランケは、同じくロマン主義の影響を受けつつも、従来の歴史学がよって立つ教訓主義や進歩・発展などの啓蒙的概念を歴史に当てはめることを否定し、徹底した史料批判によって個々の歴史的事実を明らかにしようとした。また、近代歴史学は経済のみならず、世界全体を考察の対象とし、古代と現代を優劣のない等質の世界として分析しようと試みたが、描き出された各民族固有の歴史はナショナリズムの形成と深く結びついた。(400字)

 

 もちろん、書き方によっては当時の「歴史的コンテクスト」の方に重点を置いた解答を作成することも可能だとは思いますし、その方が世界史の解答らしくはなるのですが、私自身は本設問において主となるのはあくまでも「相違」と「相違が生じた要因」の方にあると思っています。高校生がリストとランケに関する知識をそうは持ち合わせていないことを考えても、設問の意図はおそらく史料読解と受験生が持っている知識の統合・整理能力を問う方にあると考えますので、そちらを重視してみました。

 

2018年 Ⅲ

 

■問題概要

・この文章(ある朝鮮人革命家がアメリカのジャーナリストに語った回想をもとに書かれた文章)全体で描写されている運動と下線①(「中国は山東半島の一部を日本に引き渡す運びとなった日英の秘密条約が発覚してからそれに応じてきた」)が示す運動について、それぞれの名称を示せ。(問1)

・下線②(「ヴェルサイユの裏切り」)で示されている会議に言及しつつ、両運動の背景および展開過程、意義を論ぜよ。(問2)

・問1、問2合わせて400字以内。

 

■分析

史料が扱われてはいますが、問題を解く上で難しい読解は必要ありません。引用されている『アリランの歌』(ニム=ウェールズ著、松平いを子訳)は朝鮮人革命家キム=サン(本名:張志楽)とアメリカのジャーナリスト(ニム=ウェールズ、本名:ヘレン=フォスター=スノー)による共著で、戦間期の朝鮮・中国情勢を知る上での史料となるもので、岩波(岩波文庫版が本設問で史料として引用されている松平氏訳です)などからも邦訳が出版されています。とても面白い作品ではありますが、ジャーナリストが革命家から伝え聞いた話を出版したものであり、かつ革命家がジャーナリストに語り聞かせた内容であることを考えると、「第1級の史料である」とか言われちゃうと1718世紀の議事録とか個人書簡を読んでいた自分からすると、「うーん?現代史研究とはそういうものなのか?」と思う部分もあります。ただ、そうした知識は本設問を解く上で全く必要はなく、そのあたりを考えると大問2とは大きな差があります。

 

 本史料の読み取るべき重要な部分は下線①・②に加えて以下の部分です。

・朝鮮独立宣言がなされたこと

・デモがあり、大衆集会が開かれ、新たな独立宣言が読まれたこと。

・独立宣言は国際主義的で平和や国際的信義の擁護をうたっていたこと

 

 下線部と上の各部分を考察した場合、時期が第一次世界大戦後のパリ講和会議が開催されていた時期のことであり、運動がそれぞれ朝鮮の三・一独立運動と中国の五・四運動であることは推測が可能かと思います。

 また、下線部①に書かれている「中国は山東半島の一部を日本に引き渡す運びとなった日英の秘密条約が発覚してからそれに応じてきた」という部分の「日英の秘密条約」とは1917年にイギリスが日本に対して行った、日本の山東半島におけるドイツ権益を引き継ぐことを認める密約のことを指しています。私、日本史と現代史は専門ではないもので、この部分がどうしてもわかりませんで。かつ、各予備校やらの解説を見てもなぜかこの部分についてはスルーされているものですから、困ってしまって結局『アリランの歌』買っちゃいましたw そうしたらやはり、この本の補注のところに載っておりましたので、ようやくすっきりできました。1917年の密約ですし、この密約の内容から鑑みてヴェルサイユ条約で中国代表による返還要求を無視したことともつながりますから、やはり中国については五・四運動で確定で良いと思います。

 さらに、下線②の「ヴェルサイユの裏切り」はヴェルサイユ条約のことですから、示されている会議はパリ講和会議ですね。あとの問題は、三・一独立運動の背景・展開過程・意義、そして同じく五・四運動の背景・展開過程・意義についてまとめていけばよいということになります。一橋の大問3ではたびたび朝鮮史が出題されてきたことや、時代が近現代であったことを考えれば十分に対応可能な問題だったと思いますし、大問1よりも取り組みやすかったのではないでしょうか。

 

(三・一独立運動)

:この運動の直接のきっかけは高宗の死ですが、当時パリでは講和会議が開かれており(19191月~)、ウィルソンの十四ヵ条の平和原則に沿って、アジアにおいても民族自決の原則が適用されるのではという期待が高まっていました。こうした中で日本の朝鮮支配に反対し、独立を宣言してその正当性を世界にアピールすることを計画した33名の人々が、高宗の葬儀に合わせて行動を計画したことで発生したのが三・一独立運動です。独立宣言をつくった33名の人々は逮捕されましたが、その内容に共感した数千におよぶ人々が京城(今のソウル)にあるパゴダ公園に集結し、その後独立万歳を叫びながら市内を行進する数万人規模の運動に発展し、さらに各地における運動へと波及していきました。

 この運動が高揚した背景には、上述した「民族自決」の理念への期待感もありましたが、それまでの日本の朝鮮統治が「武断政治」と呼ばれる軍人による強圧的民衆統治が展開されていたことにも注意が必要です。朝鮮総督府の統治に反対する政治活動などは禁止され、軍の憲兵が一般警察官を兼任しました。このあたりのところを覚えていれば、三・一運動の意義としてその後の文化政治への転換を指摘することは可能だと思います。また、この三・一独立運動の影響を受けて、海外で運動を展開中だった李承晩らが上海で大韓民国臨時政府を樹立しました。朝鮮国内での独立運動が困難になったことから、朝鮮の独立を目指す動きは亡命者たちによっても進められ、必然的に国際色を帯びることになります。まとめると、三・一独立運動については以下のような内容を最低限用意しておくと良いでしょう。

 

①背景

 ・日本による武断政治

 ・「平和に関する布告」やウィルソンの「十四ヵ条の平和原則」と民族自決

→世界的なナショナリズムの高まり

 ・パリ講和会議への期待感

②展開

 ・高宗の死をきっかけとした独立宣言

 ・京城における民衆デモと運動の全国展開

 ・日本による弾圧

③意義

 ・文化政治への転換

 ・朝鮮独立運動の国際化(ex.李承晩による大韓民国臨時政府の結成[@上海:1919]

 

(五・四運動)

:続いて、五・四運動について考えてみましょう。五・四運動発生の直接の原因が、パリ講和会議における「日本による、ドイツから奪った山東半島権益の承認」にあったことはご存知の方も多いと思います。ですから、五・四運動は朝鮮で起こった三・一独立運動と共通の背景(民族自決の理念とナショナリズムの高揚など)をもっていたのは確かです。ただ、注意しておきたいのは、中国には朝鮮とは異なる固有の背景があった点です。このあたりのところを雑にしてしまって全て民族自決で片付けてしまうのはまずいと思います。

 まず、中国ではすでに1910年代から「新文化運動」と呼ばれる啓蒙運動が展開していました。陳独秀の『新青年(青年雑誌)』は有名ですし、頻出ですね。そのほかにも、李大釗、魯迅、胡適、蔡元培といった知識人や教育者が、白話運動や西洋思想の紹介を通して儒教批判や進歩的思想の取り入れなどを主張していきます。この運動の中心が北京大学であることを考えると、五・四運動がまず北京の学生によるデモから発生したことの意味が見えてくるのではないかと思います。また、李大釗のマルクス主義紹介や、陳独秀のマルクス主義への傾倒(後に陳独秀は中国共産党の初代委員長となります)などからは、ロシア革命の影響を見ることもできます。

政治的背景としては袁世凱政権による二十一ヵ条要求の受諾と、その後継となった各軍閥の指導者と日本・列強との癒着が、中国民衆のナショナリズムを刺激したことが挙げられます。安徽派の段祺瑞に対して日本から行われた借款で日本に対して中国利権を与えることが示されたことに中国の人々は不快感を示しました。また、中国に先んじて、朝鮮で三・一独立運動が発生していたこと自体が、中国におけるナショナリズムをさらに刺激したことも挙げられるかと思います。

 こうした中で、北京の学生たちが中心となってヴェルサイユ条約調印反対を唱えるデモが発生しました。さらにこれが全国的な反帝国主義運動(商店の休業やストライキ、日本製品の排斥など)へと波及していきます。当初、中国政府はこの運動を弾圧しました(当時の中国は日本が支配しているわけではないので、弾圧の主体は朝鮮と異なり日本ではありません)が、運動の広がりに屈して最終的には政府としてヴェルサイユ条約への調印拒否を決定しました。ヴェルサイユ条約の第1篇は国際連盟規約となっていましたから、この段階では中華民国(北京政府)は国際連盟に加盟していませんが、サン=ジェルマン条約の第1篇も同じく国際連盟規約となっており、中国はこちらの条約の方には調印を行っています。(東京書籍『世界史B』平成30年版にはこのあたりの事情について「北京政府は条約調印を命じたが、パリの中国代表団はそれを無視し、サン=ジェルマン条約で国際連盟への加盟が実現できることを確認したうえで、調印を拒否した。」(p.367)とあります。

 五・四運動の評価は、特に指導層が一定の富裕層ないし知識人に限定されていたのか、それとも労働者階層が運動の中心的な推進役であったのかについては論争があるようです。ただ、孫文がこの運動によって刺激を受け、大衆運動の力を認識したことが中国国民党の結成(1919)につながったことは言えると思います。また、この運動には多数の共産主義者も参加しており、孫文をはじめとする知識人、革命家に次第に共産主義への理解が深まっていったこと、そして1921年の中国共産党の結成へとつながっていきます。その後の展開としてはもちろん、1924年の第一次国共合作へとつながっていくのですが、この国共合作を本設問の解答として盛り込むかどうかは個人的には悩ましいところです。本設問では五・四運動の「展開過程」と「意義」が要求されていますが、少なくとも国共合作は五・四運動の「展開過程」ではありません。また、国共合作を五・四運動の「意義」と言ってしまってよいのかというと、国共合作結成には五・四運動以上に固有の要素(カラハン宣言、コミンテルンの指導、孫文・ヨッフェ会談etc)が大きくかかわっていることからためらってしまいます。教科書的な流れとしては国共合作まで示した方が間違いなくバランスは良いのですが、大衆運動の高揚と中国国民党ならびに中国共産党の結成までの方が設問の要求する内容にはしっくりくる気もします。(もっとも、出題者が出題時点で国共合作まで視野に入れている可能性を否定はしません。)以上のことから、五・四運動にかんしては以下のような内容をそろえておけば解答の大筋から外れることはないと思います。

 

①背景

 ・「平和に関する布告」やウィルソンの「十四ヵ条の平和原則」と民族自決

→世界的なナショナリズムの高まり

 ・それまでのパリ講和会議への期待感

 ・新文化運動

 ・ヴェルサイユ条約で二十一ヵ条要求破棄の要求が無視されたこと

 ・軍閥に対する失望と反発

②展開

 ・北京の学生を中心とした、二十一か条要求破棄を無視されたことに対する抗議デモ

 ・全国的な反帝国主義運動の拡大

 ・中国政府による弾圧とその断念

 ・中国北京政府によるヴェルサイユ条約調印拒否

③意義

 ・大衆運動の高揚

 ・中国国民党の結成

 ・中国共産党の結成

 

■解答例

三・一独立運動、五・四運動。ロシア革命後にソヴィエト政府が平和に関する布告を発し、対抗してウィルソンが十四ヵ条の平和原則を示したことは、社会主義や、民族自決に基づく民族運動の高揚を促し、パリ講和会議への期待を高めた。日本の武断政治に不満を感じた朝鮮の人々は高宗の死を契機に京城で独立を宣言してデモを行い三・一独立運動が開始され、全国に拡大した。朝鮮総督府は運動を弾圧したが文治政治への転換を余儀なくされ、李承晩が上海で大韓民国臨時政府を樹立するなど運動の国際化も進んだ。中国では北京大学を中心に新文化運動が進められていたが、パリ講和会議で日本の山東省旧ドイツ権益継承が認められると、これに抗議する北京の学生を中心とするデモを契機に全国的な反帝運動に発展した五・四運動が発生し、大衆の力を目にした孫文は中華革命党を大衆政党の中国国民党に改組し、さらに中国共産党も結成されるなど政治運動の大衆化が進んだ。(400字)

 

 上に書いてきた要素をまとめてみました。本来、「平和に関する布告」は教科書的な流れで書くのであれば必要ないかもしれません。ただ、1910年代後半から1920年代にかけての世界各地における反帝国主義運動や反植民地運動の中に、社会主義が重要な要素として含まれていたことは間違いのないことなので、書いたからと言って間違いではないと思います。(たとえば、インドネシア共産党が結成されるのは1920年のことです。)また、「ここからここは民族運動で、ここからここは社会主義運動」のようにはっきりと区別できるものでは必ずしもない(新文化運動などもそんな感じです。陳独秀が共産主義に傾倒していくのに対して、これについていけない胡適は次第に『新青年』から離れていきます。)ですし、さらに本設問の最後が「中国共産党の結成」もしくは「国共合作」で終わることを考えると、社会主義の語を一言も出さずに大衆運動の高揚だけをもって「ハイ、共産党」っていうのは何だか唐突な気もします。そこで、あえて社会主義の要素も入るように書いたらどうなるかなぁということで解答を作ってみました。少なくとも、上に示してきた各要素はきちんと示してありますので、設問の要求を大きく踏み外したものにはなっていないのではないかと思います。

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