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カテゴリ: 一橋大学対策

一橋大学「世界史」について、「今年(2017年)の予想問題はないのですか」というご質問がありました。すでにご質問にはお答えしておりますが、そちらでお答えした通り、作ってあるには作ってあるのですが、大人の事情により公開を自粛中ですw そういうわけで残念ながら問題を公開することはできないのですが、代わりに今年の予想問題を作成するにあたり、私が気を配った点についてご紹介しておこうかと思います。ただ、予想はあくまでも予想でして、正直なところ一橋の先生方が気まぐれで「よし、今年は猿人・原人祭りだ!」とか言ってアウストラロったりピテクスってしまったりした場合にはまったく意味をなしませんw 当たらないことの方が多いかもしれませんが、そこは気休めぐらいのつもりでご参考になればと思います。「余計な先入観を持ちたくない!」という方はむしろお読みにならずに飛ばしてください。

 

まず、私が今年の予想問題を作るとすれば、基本的には「史料読解をベースにした、例年の一橋の出題とは少し外れたものを作る」と思います。理由はいくつかあります。第一に、一橋を受験される方であればすでに本ブログでも公開しております「一橋の伝統的な出題範囲」についてはすでにふまえていて、ある程度の知識は入っているだろうと思われることです。こうした「伝統的な出題範囲」に関しては各種参考書もそれなりに東大や一橋など難関校で出題された内容を意識して作ってあると思いますし、過去問もありますから、こうしたものを日々練習してきた受験生の方にあらためて同じようなものを示す必要はない、というよりは、こちらが示すとすればむしろ優先すべきものは別にあると考えるからです。

 

これと関連しますが、二つ目の理由として、「近年の一橋はその範囲とは少しずれた出題をすることがあるので、受験生に対してはむしろそちらの補強をしてあげた方がよい」ということがあげられます。従来は中世であれば「神聖ローマ帝国とその周辺史」、近世~近現代であれば「フランス史」、「アメリカ史」、大問3のアジア史であれば「清朝建国期、清朝交易史、清朝末期の諸改革と混乱」、または「李朝末期以降の朝鮮史」とある程度その出題範囲を読むことができました(http://history-link-bottega.com/archives/5935036.html)が、近年は必ずしもこうした出題範囲に限定されず、より広い範囲からの出題がされています。(http://history-link-bottega.com/archives/5936916.html)こうしたことを考えますと、伝統的な基本路線は外すことなく、それをやや拡大していくのが予想問題を作成する際の基本姿勢となります。その際、一橋の研究者の専門分野に気を配っていることは同じく過去の記事ですでに述べました。

 

三つ目の理由は文句なしに「近年の一橋では史料読解型の設問がかなり出題されている」ということです。最先端(とまでいかなくても、わりと進んだ)の歴史学における成果を、生の史料や二次文献などの史資料から読み取れるようにして、ヒントとして受験生に示した上で、その読解をもとに歴史的知識・理解を整理させるスタイルの設問が非常に多く見受けられます。こうした設問は従来の一橋の設問とは明らかに一線を画すものですし、東大型の設問とも少し異なります(東大の設問は基本的には高校で学習する内容を逸脱するものではないように思います。要求されるレベルは高いですが)。そうした意味で、こうした史料読解問題に慣れていないであろう一橋受験生のために、この手の史料読解問題を作っておいた方がいいだろう、と思って今年の予想問題は作成しました。

 

ちなみに、この手の予想問題を作成するには史料が必要になりますが、教科書や資料集レベルに記載されている史料では分量・内容ともに物足りないですし、探すのに骨が折れます。そこで今回私が使用したのは、たとえば一橋2015年大問1でも出題された『フランク年代記』も掲載されております『世界史史料』(歴史学研究会編、岩波書店)シリーズです。この本については本ブログで簡単に紹介しています。(http://history-link-bottega.com/archives/11994047.html少なくとも高校生が目を通して参考になるようなものではありません。ただ、数多くの基本史料が掲載されておりますので学校の先生がちょっと気の利いた史料を使いたいなと思って調べるにはそれなりに重宝します。もちろん、歴史の専門書とか、ダイレクトに1次文献をあたることもできなくはないのですが、専門の分野で12題を作成するならともかく、広い範囲から複数題作るとなると正直なところ手間がかかりすぎますので、私の場合はまずこちらから史料をあたりました。

 

 以上のことを考えて、今年の一橋受験を準備する上で役に立ちそうなことを述べるとすれば以下の3点です。

 

1、伝統的な出題範囲の理解はしっかりとしておくこと。

2、史料読解や2次文献の内容把握ができる読解力をつけておくこと。

3、下に示すような分野など、穴になっている部分の詳細をまとめておくこと。

 

 上の3で言う「下に示すような分野」とは、一例を挙げれば以下のようになります。

 

(大問1)

:中世ヨーロッパ史の中でも、一連の流れを持っているもの、政治・経済・社会・文化など複数の要素が絡んでくるものなど(例:ビザンツ史 / 教会と各国君主の中央集権[またはその地域差] / イタリア都市 / 議会制の発達 / 大空位時代と金印勅書 / 宗教政策、宗教改革と各地への影響 など)

 

某予備校のオープンで出たロシア史とかも悪くないと思いますよ。少し素直すぎるかなという気はしましたが、東欧史をついてくるというのは一橋の基本だと思います。

 

(大問2)

:基本的には啓蒙の周辺。フランス史、アメリカ史で思想的な内容の絡むものは特に注意が必要。また、アメリカ史については現代史も含めて注意。その際、防共圏の設定など国際的な枠組みが作られるような動きについては特に注意を向けておく。(例:科学革命と啓蒙 / ドナウ帝国 / アメリカ独立戦争と啓蒙 / 大西洋革命 / 19世紀ラテンアメリカとヨーロッパ / 1819世紀プロイセン / ウィーン体制下の民族運動 / アイルランド併合と英議会制度 / 19世紀後半の社会主義・労働運動 / 19世紀トルコとパン=イスラーム / フィリピンの独立 / アメリカのカリブ・太平洋進出 / 冷戦 / 戦後のラテンアメリカ / 中東戦争とアラブ など)

 

(大問3)

:明末以降の中国史や李朝末期以降の朝鮮史がベースであることには変化はないが、それをさらに時代的に広げておく。また、地域的にもインド・ヴェトナム・フィリピン・チベットあたりには目を向けておく。(例:辛亥革命以降の中国の動向 / 国民党と共産党 / 土地改革~文革 / 中ソ対立 / 改革・開放 / 朝鮮保護国化 / 19世紀後半から戦後までのインド民族運動 / インドシナ戦争~ヴェトナム戦争 / 東南アジアの民族運動 / 戦後インドネシア / 中印国境紛争 など)

 

何度も繰り返しになりますが、上に示した分野というのは、一橋の受験に「出る」というよりは、「万が一出た場合に一橋用の勉強をしてきている受験生には穴になりかねない」部分で比較的狙われそうな一連の流れ・テーマを持っているものをピックアップしたものです。一橋の設問は付け焼刃の知識やヤマ張りでどうにかなる、という類のものではないということは、過去問を解いたことのある方ならすでにご存じのことと思います。ですから、これらの分野を集中してやり直すというより、まずは基本となる勉強をしっかりとした上で、余裕があればこうした脇道の部分にも目を通しておく、というくらいがよいのかなとおもいます。「HANDのいうことはあてにならん」というくらいの捉え方の方が正しいと思いますし、こちらとしても気が楽ですw 頑張って分析したり作ったりはしますが、人間のすることですから。

 

微力ではありますが、みなさんが目標を達成できることを心からお祈りして、できる限り細々と更新していきたいと思います。

さて、昨日イタリア戦争の中でバーゼル公会議とフェラーラ公会議について書いていて思い出しましたので、HANDがこれまでに扱った一橋の難問・奇問の中でもとびきりの悪問であると感じている一橋「世界史」過去問(2003年、大問1)を取り上げてみたいと思います。この問題を取り上げたいのは、確かに「おいおい、それはいくら何でも無茶ってもんだろっ!」というツッコミにも似た感情を皆さんにも共有していただきたいという、いささか野次馬根性的な部分も確かにございますが、それ以上に、このレベルの悪問に対して受験生はいったい何をして、どう対処すべきか、ということを示してみたいと思うからです。

 

 受験というのは非情です。先日、HANDが浪人した時のセンター試験旧課程数学がいかに凶悪であったかというお話をしましたが、どんなに凶悪な事態が発生したとしても、「お上(大学当局など)」が「特に対応はいたしません」といえば何の救済もなされないわけで、受験生は泣き寝入りするしかありません。だからHANDはその時のことをセンター試験に「失敗した」と書くわけです。結局当時HANDは二次試験で挽回する自信はありながらも「足切りで試験すら受けられない」という事態を回避するために東大を受けずに一橋を受験したわけですが、その判断もセンターで点数が取れなかったことも含めて結局は「自分の失敗」なのです。同じように受験しながらも堂々と怪しげもなく東大に進学する人もいるわけですから、なぜ失敗したのですかと言われればそれはセンター試験のせいではなく自分の失敗なのですね。

ちなみにHANDは「家から遠い」という理由で、結局一橋ではなくワセ法に進学しましたw ぶっちゃけ、学歴とかは後からどうにでもなります(多分)。極論言ってしまえば、大学をどこに進学したとしても、ハーバードやケンブリッジに留学してそこを出てしまえば最終学歴はハーバードです。大学に進学して最も大切なのは、そこでどのような先生や学問と出会い、それを突き詰めて自分を高めていけるかということにつきます。そう考えると、マーチクラスの大学にも優秀な先生方はたくさんいますし、東大・早慶であっても学問的・人間的にどうしようもない教授陣もいます。受験に成功する、自分の目標を達成することはもちろん大切なことですし、立派なことですが、多分一番大切なのは入ってからどの先生について何の勉強をするかということですね。それをはき違えてしまうと妙な学歴信仰者、お受験マニアで終わってしまうので気をつけましょう。ただ、設備や国からの助成、研究費の支給、留学などはやっぱり東大・早慶は強いですね。これらの難関大学の他より優れているところあげなさいと言われれば、そうした面で優遇されているということと、教授陣や学生たちのインテリジェンスの平均値が高いために学習しやすいという面があるということでしょう。

 

脱線してしまいましたが、受験生としては、一見すると不公正な問題の格差や「悪問」に出会うという「不測の事態」に遭遇する危険性は常に付きまとうわけで、だとすればそこでどういう対応をするか、その対応力も含めて問われることになります。問題が「悪問」だからというのは慰めにはなっても言い訳にはならないのです。そこで、そうした場合にどういう対処が可能なのか、2003年一橋の問題を例に取り上げてみたいと思います。

 

 2003年一橋の大問1は、問題自体が短いものですし、内容を見てみないとどの辺が「まずい」のかというニュアンスが伝わらないかと思いますので、概要を示すのではなく全文を示したいと思います。

 

  Ⅰ

 15世紀イタリア社会の動向は、オスマントルコの小アジア、バルカン地方への進出と深く関係していた。トルコ勢力の攻勢の前に領土縮小を余儀なくされたビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き、援軍の要請を行ってイタリア社会に大きな影響を与えたし、この時期多数のギリシヤ人が到来して、この地の文化活動にも影響を与えたからである。オスマントルコの進出に伴うこの東西キリスト教世界の交流と、それが15世紀イタリア社会に与えた影響について論じなさい。(400字以内)

 

 これがその問題です。ちなみに、私は一橋の設問が常に悪問や奇問の類だとは思わないと考えています。一橋が、受験生に材料を示した上で「歴史学的なものの考え方をさせたい」と考えたある意味では良問とも言える設問を出題しているということについては、一橋大学「世界史」出題傾向②で示した通りですが、それにしてもこの2003年の問題はひどいです。何がひどいかといえば、まず、近年の設問では必ず用意されている「受験生の知らない歴史的知識のヒントとなる材料」が全く示されていません。近年の問題では与えられた史資料などをもとに読解・推量によってある程度解答への道筋をつけることができるのですが、本設問では全くそれがありません。さらに、本設問が要求している内容は完全に高校生の学習内容を逸脱しており、教科書・参考書のどこをみてもほとんど記述らしい記述がありません。

 

 それでは、どのような設問なのか解説を進めていきましょう。まず、設問の内容を確認します。

 

[設問の要求]

 ①「オスマントルコの進出に伴うこの東西キリスト教世界の交流」について論ぜよ

 ②「①が15世紀イタリア社会に与えた影響について答えよ」

 

 ここで、①の「この」とは何かを確認すると、直前に「トルコ勢力の攻勢の前に領土縮小を余儀なくされたビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き、援軍の要請を行ってイタリア社会に大きな影響を与えたし、この時期多数のギリシヤ人が到来して、この地の文化活動にも影響を与えた」とあります。ここでさらに「この地」がどこかを確認すると「多数のギリシヤ人が到来し」た地であるからこれは「イタリア」のことを指しています。ですから、「この」東西キリスト教世界の交流とは一言で言えば「イタリアとビザンツ(ローマ=カトリック教会とギリシア正教会)の交流」ということなのですが、そもそも問題文自体が「このこのこの」状態なのでとてもわかりづらいです。大学受験レベルの設問で指示語連発は正直やめて欲しいです。言葉の一語一句、その意味にこだわるべき歴史家が作る設問だとは思えません。

 設問とほぼ同じ内容をわかりやすく書くとこうなります。「オスマン=トルコの攻勢により領土縮小を余儀なくされたビザンツ帝国では、皇帝が自ら西欧に赴いてイタリアの社会に大きな影響を与えるとともに、帝国内のギリシア人が多数イタリアに到来したことで、文化活動にも影響を与えた。」です。だいぶ意味が取りやすくなりませんか?あんまり変わらないですかねw 

 

 さて、本設問のイカンところは何も設問の文章が稚拙だということにあるのではありません。設問の要求について分析してみましょう。

 

[設問の要求に対する分析]

・まず、①に該当する内容は世界史の教科書・参考書・用語集ともに全く載っていません。受験生にとって、「ビザンツ帝国からイタリアへの援軍要請」というと真っ先に思い浮かぶのはアレクシオス1世ですが、これは11世紀にセルジューク=トルコにより圧迫されたことが原因ですから、本設問とは無関係なのは明らかです。「15世紀に皇帝自らが西欧に赴いて援軍要請した」ということになると、該当するのは昨日のイタリア史補足の中で紹介したパラエオロゴス朝のヨハネス8世です。彼が、バーゼル公会議(1431)、フェッラーラ・フィレンツェ公会議(1438-1439)で西欧からの援助を得るために東西教会の統合を提案してオスマン=トルコに対する十字軍を要請したことは書いた通りです。彼のこの提案にローマ教会側も同調し、最終的には東西教会の合同会議と将来の東西教会合同の署名を交わすことが実現しました。

・次に、②についてですが、東西教会による公会議の影響と成果についてまとめると、おそらく以下のようになると思います。

 

A 最終的に東西教会の合同は実現せず

:東側が十分な合意形成を行わず反対論が噴出したこと、政治的な思惑から来たものであったことから失敗。

B アルメニアの教会の一部がローマ教皇の教皇権を認めるアルメニア典礼カトリック教会が成立。

C ルネサンスへの刺激

:ギリシアから多くの知識人が亡命し、ギリシア語文献が伝わったことで、これまでプラトン哲学などに関心を示しながらもギリシア語が読めなかったフィレンツェなどの人文主義者たちがギリシア哲学に触れることが可能に。

   

以上の3点になります。中でも、Cについてはまず、ビザンツ学者のプレトンによるプラトン哲学講義によってフィレンツェのプラトン熱が高揚したため、コジモ=デ=メディチによるプラトン=アカデミーがはじめられます。この中で、フィチーノをはじめとする人文主義者が集い、愛や美をめぐる知的な討論、異教的な思想が醸成されていきます。また、フィレンツェでは美術面でもボッティチェリ「春」、「ヴィーナスの誕生」などが生まれる思想的土壌を育んだと言えるでしょう。ですが、上にあげたA~Cのうち、設問の要求である「15世紀イタリア社会に与えた影響」として適切なものはCのみです。また、かろうじて世界史の教科書に出てくるレベルの知識もCのみですが、それにしても内容的には薄いでしょう。「東西キリスト教世界の交流」については書きようがありません。バーゼル公会議(1431)にフェラーラ公会議・フィレンツェ公会議(1437-39)なんて『詳説世界史研究』にすら一字も出てきません。ちなみに、比較的2003年に近い2000年版の『詳説世界史研究』にはこのあたりの事情について以下のような記述になっています。

 

P.191に「後期ビザンツ帝国」の項目があり、パラエオロゴス朝(1261-1453)についても記述がありますが、「…ニコポリスの戦い(1396)で敗れ、その後も敗退を続けた。そして1453年メフメト2世率いるオスマン軍によりコンスタンティノープルが陥落…」と、見事に該当箇所はすっ飛ばされています。

P.306に「オスマン帝国の拡大」の項目がありますが、ここも「1402年アナトリアに侵入したティムールにアンカラの戦いにおいて敗れ、捕虜のみのまま死去し、これによってオスマン朝の征服戦は一時中断した。メフメト2世は、1453年コンスタンティノープルを約10万の兵を率いて包囲…」とあり、こちらも一字も言及されていません。

P.228には「参考」としてメディチ家のプラトン=アカデミーについてのコラムがやや詳しく載っています。コジモ、ロレンツォなどのパトロンの名やブルネレスキ・ギベルティ・マルシリオ=フィチーノといった文化人の名はいくらか挙げられていますが、ビザンツとの絡みは一切かかれていません。

・おそらく、唯一当時のビザンツのルネサンスへの影響について示されているのは、P.192の「ビザンツ文化」の項目です。ここにはビザンツ文化の歴史的意義のひとつとして12世紀ルネサンスをあげた上で「さらにイタリア=ルネサンスの開花にも影響を与えた」としか書いていません。

 

 つまり、2003年当時の受験生にとって、この年の一橋の大問1は「どうしようもない」、「手の出しようがない」のです。では、彼らにはどんな道が残されていたのでしょうか。解答作成への道を探ってみたいと思います。

 

[解答作成の道順] 

・高得点を取ることは至難。というより不可能に近い。

・世界史の参考書レベルの知識でどうにかするとすれば以下の流れがベスト。

 

  オスマンのバルカン進出について軽くアピールする

:もっとも、コソヴォの戦い(1389)、ニコポリスの戦い(1396)はともに14世紀末なので厳密には不適切な上、アンカラの戦い(1402)でオスマンのバヤジット1世はティムールに敗れるので、使い方が難しいです。実際のところ、アンカラの戦いでオスマンのバルカン進撃が停滞したということをきちんと把握している受験生がどれだけいるでしょうか。

  とりあえず、ビザンツ皇帝が援軍を求めにやってきたことを書く。

:これは、設問に書いてあるから書けますね。ヨハネスの名前は出せなくても、時期的にビザンツの最後の王朝ですからパラエオロゴス朝の名前をあげることは不可能ではありません。

  ギリシアの学者や文献の流入がルネサンスを刺激したことを示す。

:これも、12世紀ルネサンスの流れが理解できていれば、イタリア=ルネサンス期に 同様の流れがあったことを理解することは難しくありませんし、多分きちんと勉強している受験生なら知っていることです。

   ルネサンスとギリシア哲学を結びつけることが可能な具体例を探す。

:なかなか実例が出てこなくて困るかもしれませんが、幸いなことにルネサンスの中心であるフィレンツェがこうした舞台なわけですから、フィレンツェにおけるルネサンスの展開を思い出してみましょう。その中で「プラトン=アカデミー」の名前を思いだせたらしめたものです。「プラトン→ギリシア!」の連想から、少し膨らませて書いてみましょう。『詳説世界史研究』を舐めるように読んでいる人であれば、他にもフィチーノ、人文主義者などのキーワードを思いつくことは可能なはずです。『チェーザレ』を読んでいれば『ニコマコス倫理学』なんていうワードももしかしたら出てくるかもしれませんw

 

以上の①~④をふまえて、「何とか周りの受験生とは差がつかない程度の不時着的な解答をつくるとすればどのあたりが限界か」を考えてつくった解答が以下のものになります。

 

[解答例]

 コソヴォの戦いやニコポリスの戦いでセルビアやハンガリーの一部を支配したものの、ティムールにアンカラの戦いで敗れたことでバルカン半島への進出を停滞させていたオスマン帝国は、15世紀前半にバルカン地域への拡大を再開した。この動きに脅威を抱いたパラエオロゴス朝の皇帝は、西欧諸国に対して援助を請うため自ら西欧へと赴いたが、これを契機に多くのビザンツの学者が東方貿易によって富を蓄積して発展していた北イタリア諸都市の貴族や人文主義者たちと交流することになった。ビザンツ帝国の学者との交流や書籍の流入はイタリアの人々の古代ギリシア哲学への理解を深めさせることにつながり、イタリア=ルネサンスが花開く一つの原因ともなった。特に、銀行業などによってメディチ家が力をつけてきていたフィレンツェでは、当主であるコジモによってプラトン=アカデミーと呼ばれる人文主義者の集まりが開かれ、フィチーノなどの人文主義者を輩出した。(400字)

 

正直、このあたりが限界でしょう。逆に言えば、このくらいの解答であれば「書こうと思えば書ける」レベルのものであるということになります。当然、上の解答は十分に設問の要求には答えきれていない、満点解答にはほど遠い内容のものです。(たとえば、「東西キリスト教世界の交流」のあたりはほぼスルーしていますね)。ですが、「周りの受験生と比べたときに、大きく減点はされない」という視点から見れば、この解答は十分に合格答案なのです。俗に「悪問」と呼ばれる類の問題が出た場合、「いかに他の受験生と差がつかないようにするか」を考えることが最善手です。なぜなら、その問題が本当に「悪問」であれば「他の受験生も同じように書けない」からです。ここは重要です。もし他の受験生が書けてしまうようであればそれは「悪問」ではなく、単に「その人にとって難しい設問」であるにすぎません。

 では、どうすれば「他の受験生と差がつかない」ようにすることができるでしょうか。方法はいくつかありますが、まず何よりも大切なのは「設問の要求を外さない」ことです。これは何度も言いますが論述問題を解く際の基本です。どんなに無茶な要求であっても、大きな方向性として設問の要求から外れてはいけません。次に、「歴史的事実に基づいて書く」ということです。いくらわからないからと言って全くのウソを書いてしまっては意味がありません。自分の知っている知識の範囲で、関連するものはないか必死に絞り出してみましょう。さらに「設問から読み取れることをヒントにする」ことも大切です。今回の設問は、情報的には少ないとはいえ、「ビザンツ皇帝が西欧に自ら援軍を求めてきたこと」は読み取れました。ここからは「オスマン帝国がバルカン半島への進出を再開したこと」がかなり確証をもって推測できますので、これを15世紀初頭のアンカラの戦いと結びつけて書けば、一定の歴史的事実をしめすことができます。また、「パラエオロゴス朝」が導かれたのも設問をヒントとしてです。そして最後に「情報を総合して確度の高い推量を行う」ことです。今回で言えば、「イタリア社会に与えた影響」というのがルネサンスへの刺激であったこと、そしてそれがギリシア文化人とフィレンツェを中心とする人文主義者との交流にあったことなどはおそらく間違いのないことだということは推量できます。こうしたことを積み重ねていけば、2003年のようなどうしようもない「悪問」が出たとしても何とか対処することはできるわけです。

 

いかがだったでしょうか?「そんなことできるわけがない」と思うかもしれませんし、「何だ、この程度しか書けないのか」と思われるかもしれません。もちろん、先に示した解答例ほどのものが書けなくてもよいのです。要は、「周りの受験生と比べて遜色ないものに仕上げること。」この部分をしっかりとらえていけば、どんな事態にも落ち着いて対処できると思います。そしてこれは多分、「悪問」や「奇問」が出たときだけのことではありません。結局受験というものは、「(その大学を受験する)平均的受験生よりも、自分は一歩先を行けたか」ということに尽きるからです。もし「不測の事態」に出会ったとしても自信を持って対処してください。みなさんの努力はきっとそういう時に何かしらの形で力になってくれると思います。

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 昨年(2016年試験)の受験用に、予想問題を作ったことがあるので紹介します。解答も下の方につけておくので、もしお時間があれば挑戦してみてください。

 

 

I  18世紀の啓蒙思想家ヴォルテールは、神聖ローマ帝国について「神聖ローマ帝国、と自らを呼んだ、そしていまだに呼んでいるこの政体はいかなる点においても神聖ではなく、ローマ的でもなく、帝国でもなかった。」と評したが、「神聖ローマ帝国」という称号を初めて用いたのは13世紀半ばに神聖ローマ皇帝コンラート4世と対立したホラント伯ヴィルヘルムであった。当時のドイツ地域の政情はいかなるものであったか、特に叙任権闘争終結以降のドイツとイタリアの関係について言及しつつ答えなさい。また、ドイツにおける13世紀半ばの政情混乱が最終的にどのように解決されたのかについても述べなさい。(400字以内)

 

 

Ⅱ 次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

 

 上の文章はドイツの哲学者カントが啓蒙について語った一節である。18世紀の西ヨーロッパで興り、合理的な世界観で人間性の解放を目指した啓蒙思想はその後のヨーロッパの政治や文化に大きな影響を与えるが、この啓蒙思想が起こった背景とその展開、また啓蒙思想がヨーロッパの政治と文化に与えた影響について述べなさい。(400字以内)

 

 

Ⅲ 次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

王妃の居住する王宮の一角には、おおよそ20人から25人程度の日本人が詰め掛けていた。彼らは奇妙なガウンを羽織っており、サーベルで武装していた。そのうち何人かはサーベルを鞘から抜いていた。複数の日本人兵士が宮殿のあちこちを捜索し、他の者は女王の居住区域になだれ込み、その場で見つけた女たちに襲い掛かっていた。私は日本人が王妃の居住区域で物をひっくり返したりしているのを観察し続けた。二人の日本人が女官たちの一人つかんで建物から引きずり出し、そして彼女を引っ張って階段を駆け下りたまた、日本人のうち一人は、私に向かって、英語で『王妃はどこだ? 答えろ!』と繰り返し聞いてきた。私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が日本人兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。

 

 上の文章は、日清戦争の終結した年の末に朝鮮で発生した「乙巳事変」という政変の様子を宮殿の警護に当たっていた「侍衛隊」と呼ばれる近衛隊とともにいたロシア人御用技師サバチンが語ったものである。朝鮮では1860年代以降、度重なる権力闘争に外国勢力が介入した結果、この事件で暗殺された「王妃」とこれに対抗する勢力が形成された。1890年代における「王妃側の勢力」と「王妃に対抗する勢力」がどのように形成されたのかについて、諸外国との関係に考慮しつつ述べなさい(400字以内)

 

[問題作成の基準]

 これらの問題を、何を基準に作ったかがわからないと意味があるのかないのか不明だと思いますので、問題を作った基準を示しておきます。

 (大問1)

  :やはり、一橋の予想問題ですからオーソドックスに神聖ローマ帝国史、中でも金印勅書についての問題がまだ出ていないんですよね。といっても、金印勅書ではさすがに作りづらいのではないかな~、と思います。世界史の教科書レベルですと他に関連情報があんまりないんですよ。正直、東大や一橋受ける人たちに金印勅書なんて出したらみんな解いちゃうでしょ。ですから、その前後のドイツ国内の情勢と国際関係を含めた少し大きな枠組みで出題してみたのがこれです。正直、15分で作ったので設問としても粗いですが、この時期の神聖ローマ帝国史の復習がてら見ておくのもいいかなと思いました。

   実際に出たのは聖トマスとアリストテレスの都市国家論比較ということで、「なんじゃこりゃ!」ということになりましたが、これでは多分どこの予想問題も当たらないですねw 問題自体もそれほど無理のあるものでは無かったので、予想を外してもある程度は解けてたみたいでほっとしてますw

 

 (大問2)

  :大問2は啓蒙ですよ!啓蒙!これはもう、正直鉄板じゃないかなぁと思っています。まだしばらくの間は出題されてもおかしくないテーマですね。出題傾向のところでも書きましたが、啓蒙とか宗教的寛容、場合によると理神論あたりなんかは一橋好きそうだなぁと個人的には思っています。最近出題されていたフランス革命がらみの出題も、正直啓蒙の延長線上としてとらえておりますので。エンゲルスなんか見ても、思想史系好きなのかなぁと。今後の一橋はこうした宗教を含む思想史系の出題と、アメリカが絡んでくる国際関係氏の大きくわけて二つのジャンルが出やすいのかなぁと思っているんです。

   そんな中、「だったらもう啓蒙全部復習させちゃおうw」というので作ったのがこの問題です。実際には出ませんでしたが、でも「宗教」が絡んでいる(ユグノーとか、ポーランド系カトリックとか)ことと、「啓蒙」が絡んでいること(フリードリヒ2世と宗教的寛容とかまんまですね)、あとは時期もほぼドンピシャでしたので、これはまぁ、アリかなって思いましたw

 

 (大問3)

   これは朝鮮近現代史ですね。やはり、一橋はこのあたり好きで狙ってくるんじゃないかなと思ってたんですが、冬休みの段階で朝鮮近現代史の完成度がもう一つ、という状況でしたので、これも練習のつもりで作ってみた問題です。同じく、実際にはこれまでの流れを打ち破って戦後史を一橋が出してきたせいで外れてしまいましたが、朝鮮と近現代史に意識が向いていたおかげでさすがに朝鮮戦争はそこそこ書けたみたいです。大問3は大枠は変えずにちょっと目先をかえた予想をたてたほうが良さそうですね。

 

【解 答】

ヴォルムス協約以降も皇帝によるイタリア政策は続き、特に北イタリアでは教皇党と皇帝党の争いを引き起こした。シュタウフェン家のフリードリヒ1世が皇帝となると、度々イタリア遠征を行ったが、ミラノを盟主とするロンバルディア同盟はレニャーノの戦いでこれを撃破した。しかし、シュタウフェン家の支配は次第に両シチリア王国にもおよび、フリードリヒ2世の時代には十字軍において条件付きながらイェルサレムを奪回し、パレルモを中心に文化的にも繁栄するなど帝国の勢力を拡大した。13世紀半ばにフリードリヒが死ぬとドイツでは大空位時代と呼ばれる皇帝不在の混乱期を迎え、これによりシュタウフェン家の所領であった両シチリア王国をフランスのアンジュー家に奪われるなど国力を衰退させたが、14世紀にはカール4世の金印勅書により7人の選帝侯が皇帝を選出することが決められて、皇帝選出をめぐる混乱は収まる一方、帝国の分権的体制は固定化された。

 

【論述のポイント】

  「ドイツの政情=大空位時代」であることを把握すること

  「叙任権闘争終結~大空位時代=シュタウフェン朝を中心とするイタリア政策の時代」であることを確認すること

  金印勅書の意義について言及すること

 

【採点ポイント】

  フリードリヒ1世もしくはシュタウフェン家によるイタリア政策

  ゲルフ(教皇党)とギベリン(皇帝党)

  ロンバルディア同盟

  ロンバルディア同盟がミラノを中心とする北イタリア諸都市によって結成されたこと

  レニャーノの戦い

  フリードリヒ2世もしくはシュタウフェン家が両シチリア王国に進出したこと

  フリードリヒ2世が第6回十字軍においてイェルサレムを奪回したこと

  パレルモもしくはナポリの繁栄(他にイスラーム・ギリシア文献の翻訳など)

  大空位時代

  ルドルフ1世もしくはハプスブルク家による神聖ローマ皇帝即位(1273年)

  シチリアをアンジュー家(またはシャルル=ダンジュー)に奪われたこと

  金印勅書

  金印勅書の内容と意義

 

以上をポイントに全体的なバランスを考慮することになる。

 

 

 

 

II

17世紀の科学革命により封建社会の中におけるキリスト教的世界観が動揺し、18世紀には人間・社会・国家のあり方を合理的に見直す啓蒙思想が現れた。ブルジョワが台頭したフランスで特に先駆的な動きが見られ、モンテスキューの三権分立などの国家論やルソーの社会契約説などが後のフランス革命に影響した。啓蒙思想は各国の君主と交流を持ったヴォルテールの活躍により東ヨーロッパにももたらされたが、地主貴族の力が強く、市民が十分に成長していなかった普・墺・露などでは、君主が自ら貴族・教会の力を抑え、近代化と国家権力の絶対化を進める啓蒙専制君主が現れ、フリードリヒ2世やエカチェリーナ2世らが啓蒙思想を利用した。啓蒙思想は政治面以外でも既存の価値観を打ち破る方向で働き、百科全書派の活動などに見られる世界観の世俗化や封建社会の矛盾をついて自由放任を主張するケネーなどの重農主義や、その後の古典派経済学の成立などへつながった。(400字)

 

【論述のポイント】

① 啓蒙思想成立の背景

② 啓蒙思想の特徴

③ 啓蒙思想の政治への影響

④ 啓蒙思想の文化への影響

 

【採点ポイント】

① 17世紀科学革命が合理的考え方を醸成したこと

② イギリス経験論・大陸合理論なども合理的考え方に寄与したこと(①または②で良い)

③ 啓蒙思想が人間の理性を重視し、個人・合理性・未来への前進などを志向したこと

④ ③から、啓蒙思想が既存の特権や教会等の権威を否定する傾向を持ったこと

⑤ 背景としてのブルジョワ階層の台頭

⑥ 啓蒙思想の政治的影響1:フランス革命に大きく影響したこと

⑦ 啓蒙思想の政治的影響2:啓蒙専制君主を出現させたこと

⑧ 啓蒙思想の具体例の適切な使用と例示

  モンテスキュー・ルソー:国家論、社会契約説

  ヴォルテール:フランスの後進性の指摘、宗教的寛容論など

  百科全書派(ディドロ・ダランベールなど):既存の価値観、キリスト教的世界観の打破

  重農主義(ケネーなど):国家による経済介入に対する否定的見解、自由放任(レッセ=フェール)

             →アダム=スミスの古典派経済学への継承

⑨ 啓蒙専制君主の出現した地域、西欧との差異、具体例

 

以上をポイントに全体のバランスを考慮する。

文化に与えた影響としては他に教育論、教育制度の発達と世俗化などを挙げることもできる。

また、啓蒙思想に対する反動として、19世紀初めごろから人間の感情・集団への帰属・過去の回顧を強調するロマン主義が生じ、ドイツの歴史主義・歴史学派などへとつながることになる。

鎖国攘夷政策を展開していた大院君が、1870年代に閔妃の一族に実権を奪われると、閔氏は当初開国・親日政策を採用して、江華島事件を機に日本と日朝修好条規を結んだ後は積極的な開化政策を行い、軍備の近代化を図ったが、新式軍隊に対して放置された旧式軍隊が不満を募らせたことや、開国による経済混乱から兵士への賃金未払いが生じた結果、壬午軍乱が発生した。これ以降閔氏は政権安定のために清と接近する事大主義をとり保守化へと転じたが、これに不満を持った金玉均などの開化派は日本に接近し、清朝からの独立や身分制度の廃止などの近代化を目指し、甲申政変を起こしたが清によって鎮圧された。事大党と開化派(独立党)の争いは日清戦争を引き起こした。日本が清を破ったことで1894年には開化派政権が誕生し甲午改革が行われたが、その後ロシアが朝鮮問題に介入してその影響力が強まって改革が弱まると、これに不満を感じた一派は乙巳事変を起こして閔妃を暗殺した。(400字)

 

【論述のポイント】

① 1860年代以降形成された「王妃側の勢力」について詳述すること

② 1890年代に「王妃に対抗する勢力」がどのように形成されたかについて詳述すること

③ 諸外国の影響が朝鮮国内の政治にどのように影響したのかについて言及すること

 

【採点ポイント】

① 1890年代時点における王妃側の勢力=閔妃(事大党)であることを示す

② 事大党の政治的立場について示す

③ 1890年当時の王妃に対抗する勢力=開化派(独立党)であることを示す

④ 開化派の政治的主張(清朝からの独立、身分制度の廃止、税制改革、議会制の導入)などを示す

⑤ 開化派の代表的人物(金玉均、朴泳孝など)を挙げる

⑥ 大院君と閔氏政権の違いについて示す(鎖国攘夷 / 開国親日)

⑦ 閔氏政権の変化について示す(開国親日 → 事大主義[親清・保守化]

⑧ 壬午軍乱について示す

⑨ 甲申事変について示す

⑩ 日清の対立と日清戦争について示す

⑪ 日清戦争後のロシアの影響力増大について示す

 

以上をポイントに全体のバランスを考慮する。

 
 

 

 

 

 

 

思えば、一橋の問題について「あっ、これは今までと明らかに違う!」という印象をもったのはこの年からだったように思います。2014年といえば、大問2のエンゲルスの「歴史なき民」についての問題が有名で、試験直後にはコアなファンが出現するほどでしたw ただ、それを抜きにしても、それまでは「史料問題」と銘打ちながら史料自体にはそれほどの意味が付されていないことが多かった一橋の問題において、設問の本文や史資料の読解にはっきりと意味を持たせた出題に変化している、と感じました。それは、大問1のワット=タイラーの乱についての出題からもくみとることができます。ですから、この年の一橋の問題がある意味「伝説」になってしまったのは、そうした一橋大学の出題傾向の変化に対し、従来型の考えしかできなかった受験生が固まってしまった、というのが本当のところだと思います。これについてはすでに一橋大学「世界史」出題傾向2でも示してありますが、今後大きな変化がなければ、一橋大学の世界史の問題を解くにあたっては設問本文と史料の読解が重要なカギとなることは間違いないでしょう。

 

2014 

 問 題 概 要 

・まず、ワット=タイラーの乱について書かれた史料が歴史学研究会編『世界史史料 5』より引用されて紹介されています。内容を紹介すると以下の通り。

1、1381年の農民反乱は拡大し、国王に対していくつかの要求をつきつけた。

2、ワット・タイラーは国王に対し、以下の要求を行った。

-国王と法に対する反逆者を捕え、彼らを処刑する。

-民衆は農奴ではなく領主に対する臣従も奉仕の義務もない。

-地代は1エーカーにつき4ペンスとする。

-誰しも自らの意志と正規の契約の下でなければ働かなくてよい。

これに対し、国王は特許状を与えて認めた。

3、これを受けて、カンタベリー大司教シモン・サドベリ、財務府長官ロバート・ヘイルズ等、国王側近は民衆によってとらえられ、首をはねられた。

4、翌日、再びタイラーは国王に対して以下の要求を行った。

-ウィンチェスター法以外の法は存在しないこと。

-同法以外の法の執行過程での法外処置を禁止すること。

-民衆に対する領主権の廃止と国王を除く全国民の身分的差別を撤廃すること。

5、ところが、タイラーはその直後にロンドン市長によって刺殺された。

 ・この文章を受けて、ワット=タイラーの乱が起こった原因あるいは背景として考えられる14世紀半ば以降にイギリスが直面していた政治的事件と社会的事象を示し、それらの事象が史料中で問題とされている「国王側近」「民衆に対する領主権」とワット=タイラーの乱にいたるまでとどのように関連していたかを説明することを求めています。字数はいつも通り400字ですね。

 

 解 答 例 

政治的事件は百年戦争,社会的事象は封建制の動揺である。14世紀半ばに始まった百年戦争は,イギリスの優勢で展開したものの戦争は長期化したため,戦費確保のために「国王側近」が人頭税の導入を実施した。また,14世紀半ばのペストの流行により農村人口が激減し,領主は労働力の確保のために地代を軽減させ,農民の身分的束縛を緩和したため農民の待遇は改善された。特にイギリスでは,貨幣経済の普及に伴って特に地代の金納化が進んでいたこともあり, ヨーマンと呼ばれる独立自営農民が増加した。しかし,農奴解放が進んだことで経済的に困窮した領主は,賦役を復活させるなど「民衆に対する領主権」を強化した。こうした百年戦争に伴う課税の強化や封建反動の動きに対する農民の不満が高まり,さらにウィクリフの教会改革に影響を受けて身分制度を批判するジョン=ボールも合流し,ワット=タイラーは領主権の廃止や身分制の撤廃などを求めて蜂起した。(398字)

 

 採 点 基 準 

政治的事件(百年戦争)

  政治的事件=百年戦争であることを明示

 「国王側近」との関連

:百年戦争の戦費調達のために「国王側近」が課税強化(人頭税を導入)

社会的事象(封建制の動揺)

 社会的事象=封建制の動揺(ペストの流行でも許容)であることを明示

 農民の地位向上

  貨幣経済の普及貨幣地代の普及

  ペストの流行農村人口の激減

  領主が労働力確保のために農民の待遇を改善

  イギリスでは独立自営農民(ヨーマン)が増加

 封建反動

  「民衆に対する領主権」との関連:困窮した領主が「民衆に対する領主権」(賦役etcの農民への身分的束縛)を強化

ワット=タイラーの乱の勃発

 人頭税の導入・封建反動に対する農民の反発

 ジョン=ボールの合流

:ウィクリフの影響を受けて身分制を批判、ワット=タイラーの乱に合流

 

 解 法 

やはり、設問と史料をよく読むことが大切。もちろん、設問の「14世紀半ば以降にイギリスが直面していた政治的事件と社会的事象」という部分から考えるだけでもある程度は解くことができるが、この問題にさらに「上の資料で問題とされている「国王側近」「民衆に対する領主権」と、この乱にいたるまでどのように関連していたか論じなさい」という条件が付されていることを考えると、史料を読まないわけにはいかない。特に、下線を引いた「国王側近」の部分は教科書レベルの知識では到底思いつかない内容になるので注意が必要だ。

 

 そこで、史料を読んでいくと以下のようなポイントを示すことができる。

 

  ワット=タイラーの指導した反乱は国王の存在は否定していない

『国王と法に対する反逆者を捕え、彼らを処刑する。』

『翌日、再びタイラーは国王に対し、「(中略)民衆に対する領主権の廃止と国王を除く全国民の身分的差別を撤廃する等」を要求した。

 

これらの文章からは、国民を統治する国王の権威は否定されず、むしろ認められている。

 

  農民の待遇改善、特に領主権の廃止、農奴的な身分的束縛の制限、地代の軽減を要求

 『民衆は農奴ではなく領主に対する臣従も奉仕の義務もない、地代は1エーカーにつき4ペンスとする、誰しも自らの意志と正規の契約の下でなければ働かなくてよい』

 『民衆に対する領主権の廃止と国王を除く全国民の身分的差別を撤廃する等」を要求した』

 

こうした事柄は当時の農奴解放や封建反動などと結びつけて考えるのは当然だが、同時に農民を指導していたジョン=ボールがウィクリフの影響を受けた聖書主義、身分的平等を唱える人物だったことにも注意する必要がある。

 

  おそらく、重税、財政に関することがらが問題となっている

 『ワット・タイラーと民衆は、(中略)財務府長官ロバート・ヘイルズ等、国王側近を捕え、首をはねた。』

 

 で地代をめぐる争いがあることや、財務府の長官が目の敵にされていることなどから、税金をめぐり問題が起こっていることがわかる。

 

  以上のをふまえたうえで、百年戦争についてと中世末期の封建制の崩壊をワット=タイラーの乱と結びつけて論じれば、おそらく十分な内容と分量を確保することができるだろう。

 

 ワンポイント

 

    通常は、ワット=タイラーの乱との関連と「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが領主(ジェントルマン)であったか」という言葉で有名なジョン=ボールだが、彼がウィクリフの流れをくむロラード派の僧侶だったことを知っている人はどれくらいいるだろうか。ローマ=カトリックを批判して聖書主義の先駆となったジョン=ウィクリフ(1320-1384)の教えは、その後のイングランドにおいてロラード派という人々に受け継がれ、ロラード派はローマ=カトリックの改革を要求した。ジョン=ボールはこのロラード派に属し、その影響から社会的不平等を告発したのだ。こうした背景を知っていると、ジョン=ボールに対する見方も単なる農民反乱に共感した聖職者、といったものにとどまらないものになるだろう。また、同じくウィクリフの影響を受けた人物として有名な人にベーメンのフスがいるが、このベーメンをめぐる宗教問題は一橋を受験する受験生にとってはおなじみのものだろう。そう考えると、ワット=タイラーの乱を扱ったこの年の問題は、イギリスに関する設問ではあったものの、ある意味で一橋らしい設問であったとも言えるのではないだろうか。

 

 分 析 

出題分野

・大問1では,神聖ローマ帝国に関わる分野が頻出であり、2014年のようにイギリス史単独のテーマが出題されるのは稀。(イギリス史が単独で出題されたのは,過去には「イギリス史におけるノルマン=コンクエストの意義:1999年」程度)

解答のポイント

 ・まず,解答の冒頭で,イギリスが直面していた政治的事件が「百年戦争」,社会的事象が「封建制の動揺」であることを明示することが重要。その上で,百年戦争と封建制の動揺のそれぞれに分けて関連を述べていけば解答はまとめやすい。

 ・百年戦争中の人頭税の導入は教科書レベルを超えた知識であり,述べることは難しい。(ただし,山川の「詳説世界史研究」には記述がある)

  ただ、上述のように、設問の読解をしっかりした上で類推すれば「人頭税」とは書けなくとも、百年戦争と重税の関係を指摘することは十分に可能なはずだ。

 ・封建制の動揺については,教科書レベルの知識で十分に対応できる。「ペストの流行で農民人口減少領主が農民の待遇を改善特に貨幣地代の発達していたイギリスでは独立自営農民が増大困窮した領主による封建反動」という流れはしっかり述べたい。

 ・百年戦争と封建制の動揺だけでは字数にだいぶ余りが出る。そこで,ジョン=ボールの活用の仕方が問題となる。問題の史料中の「『国王を除く全国民の身分的差別を撤廃する等』を要求した」という部分と,乱の指導者のジョン=ボールが身分制を批判したことを結びつけることができれば想起は可能であろう。一部の教科書にも,ジョン=ボールがウィクリフの教会改革に同調し,社会的平等を説いたということが説明されているものはある。論述を書くためには,図版の説明やコラムなども含めてしっかり読み込んでおくことが必要だ。

 

2014 

 問 題 概 要 

・まず、一橋大学で教鞭をとっていた良知力の「48年革命における歴史なき民によせて」『向う岸からの世界史』より引用されたやや長文の文章が紹介されます。この中で、良知は、エンゲルスの「悪名高き一文」を紹介します。

「ヘーゲルが言っているように、歴史の歩みによって情容赦なく踏み潰された民族のこれらの成れの果て、これらの民族の残り屑は、完全に根だやしされた民族ではなくなってしまうまで、いつまでも反革命の狂信的な担い手であろう。およそかれらの全存在が偉大な歴史的革命にたいする一つの異議なのだ」

良知がこの文章を紹介したのは、1848年のヨーロッパについて「歴史なき民」が「歴史のおもてに現われ」さらに「歴史に積極的にかかわるかもしれず」、この年に「歴史」または「歴史の価値が崩れる」という「選ばれた民」からすれば「歴史に対する冒涜と反動」であるとエンゲルスの歴史観、価値観を説明するためです。

さらに、良知は、エンゲルスの頭に「パン=スラヴ主義の担い手たち、すなわちポーランド人をのぞく西スラヴ人と南スラヴ人、それにヴァラキア人(ロマン人、すなわちルーマニア人)など」が思い浮かべられており、エンゲルスの視点からはこれらの諸民族に「未来もなければ、歴史もない。……これらの民族は、放置しておけばトルコ人に侵され、回教徒にされてしまうであろうから、そのくらいならドイツ人やマジャール人に吸収同化してもらえるだけありがたく思わねばならぬ」と述べていたことを紹介しています。

・これをうけて、設問は以下のことを要求しています。

1、文章を参考にして、エンゲルスが「歴史の歩み」と「歴史なき民」の関係をどのように理解しているかを説明せよ。

2、それを批判的に踏まえながら、ポーランド人を除く西スラヴ人の17世紀頃から21世紀までの 政治的立場を論ぜよ。

 

 解 答 例 

エンゲルスは唯物史観に基づき,階級闘争により資本主義から社会主義へと発展することを「歴史の歩み」と考え,異民族の支配を受ける「歴史なき民」が自民族の国家建設をめざす動きは,階級闘争による「歴史の歩み」を妨げると考えた。西スラヴのチェック人はハプスブルク家の支配に対し,17世紀には三十年戦争の契機となるベーメン反乱を起こした。反乱鎮圧後は同家の支配が強化され,1848年にはスラヴ民族会議を開いたが弾圧された。第一次世界大戦後は,マジャール人の支配を受けていた同じ西スラヴのスロヴァキア人とともにチェコスロヴァキアとして独立したが,ナチス=ドイツにより国家は解体された。第二次世界大戦後は社会主義国としてソ連に従属,「プラハの春」はソ連に抑圧されたが,1989年の東欧革命では社会主義体制を崩壊させ,冷戦終結後はチェコとスロヴァキアに分離,EUにも加盟するなど,独立した民族国家として重要な役割を果たしている。(398字)

 

 採 点 基 準 

「歴史の歩み」と「歴史なき民」の関係

  「歴史の歩み」

:(唯物史観に基づき、)階級闘争により資本主義から社会主義へ発展すること

  「歴史なき民」との関係

:「歴史なき民」(多民族みの支配を受け、自民族の国家を持たない民族)の民族主義(民族の独立をめざす動き)は階級闘争による歴史の発展(労働者による革命)の動きと反する

「ポーランド人をのぞく西スラヴ人」(チェック人・スロヴァキア人)の政治的地位

 スロヴァキア人:マジャール人の支配を受ける

 17世紀:ハプスブルク家の支配に対しベーメンで反乱三十年戦争の契機に

 ベーメン反乱鎮圧後はハプスブルク家の支配が強まる

 1848年:(パラツキーが)スラヴ民族会議を開催弾圧される

 第一次世界大戦後:チェック人とスロヴァキア人がチェコスロヴァキアとして独立

 ナチス=ドイツの侵攻チェコスロヴァキア解体

 第二次世界大戦後:社会主義国となりソ連に従属

 1968年:「プラハの春」(ドプチェクによる自由化)弾圧される

 1989年:東欧革命で社会主義体制崩壊

 1993年:チェコとスロヴァキアに分離

 2004年:チェコとスロヴァキアがEUに加盟

 

 解 法 

1、まずは設問の要求を確認する。かなり込み入った内容なので、設問の要求を正確に把握しないと答えがあらぬ方向へ飛んでいきかねない。設問の要求は以下の3つ。

 エンゲルスの、「歴史の歩み」と「歴史なき民」の関係に対する理解を示す

 ポーランド人をのぞく西スラヴ人(=チェック人とスロヴァキア人)の17世紀頃から21世紀までを視野に入れた政治的地位について論ずる

 その際、エンゲルスの理解を批判的に踏まえる(この場合の「批判的」とは必ずしも反対意見を示すことではなく、その可否に検討を加えて評価すること)

 

2、エンゲルスの歴史観と、彼のいう「歴史の歩み」と「歴史なき民」とは何かを確認する。

  まず、世界史的知識として、エンゲルスは共産主義を奉ずる人間なのであり、彼の歴史観は基本的には共産主義における「唯物史観」がそのベースにあることに注意する必要がある。

 

 ワンポイント

*唯物史観:生産力の発展に照応してその生産関係が移行していくとする発展論的な歴史観。生産力と生産関係の間に矛盾が生じた際にそれを解消すべく進歩が起こり、これがあらたな生産関係を導くとする。

   具体的には、

「原始共産制」(共同狩猟と食糧採集)

「古代奴隷制」(大地主と奴隷)

「中世封建制」(封建領主と農奴)

「ブルジョワ革命(中世封建社会の矛盾による階級闘争)」

「近代資本主義」(資本家と労働者、国民国家の形成と資本主義の発展、帝国主義)

「社会主義革命(資本主義社会の矛盾による階級闘争)」

「共産主義(国家という社会抑圧のための装置の消滅)」  となる 

 

こうした共産主義における発展段階説を知っていればより理解しやすいが、仮にこうした知識がなくとも、設問文からエンゲルスの考え方を読み取ることは可能だ。まず、エンゲルスが「歴史なき民」が「歴史のおもてに現れる」こと、つまり歴史に積極的にかかわることは、「選ばれた民」にとっては歴史の「冒涜」であると考えているということをしっかり読み取ろう。その上で、史料中の「歴史なき民」や「選ばれた民」に対応する語や表現としてどのようなものがあるかを示すと下のようになる。

 

 (歴史なき民)=歴史の歩みによって踏みつぶされた民族の成れの果て、残り屑

        =反革命の担い手であり、偉大な歴史的革命に対する一つの異議

=「パン=スラヴ主義の担い手たち」

=ポーランド人を除く西・南スラヴ人とルーマニア人

        =これら諸民族には未来もなければ歴史もない

        =ドイツやマジャール人に吸収同化される分だけありがたく思わねばならぬ             

(選ばれた民)=ドイツ人やマジャール人

 

つまり、エンゲルスの歴史観によれば、「チェック人やスロヴァキア人」が「歴史にかかわること」は社会主義革命という「偉大な革命」に反する「冒涜」であり「反動」なのである

 

3、では、なぜチェック人やスロヴァキア人に「歴史がない」と断じ、その活動を否定するのか

 ・共産主義の発展段階説的に考えれば、

 

「各地の封建領主」「民族ごとの小集団」「国民国家」「国家消滅」

 

となるはずであり、この段階にいたって抑圧は消滅し、社会的平等が達成されるはずである。だとすれば、「国民国家」の段階に至っている現在(1848年当時)からあえて「民族ごとの小集団」への回帰を求める人々の動きは「反革命」的であり、歴史の流れに逆行する「冒涜」である

 

・ゆえに、エンゲルスからすれば、チェック人やスロヴァキア人のように、ブルジョワジーの力が弱体で国民国家を独立して形成できなかった「歴史なき民」は強力で国民国家を独自に形成しえたドイツ人(ドイツ・オーストリア)やマジャール人(ハンガリー)のような人々に吸収同化されて「国民国家」の一部として消滅すべき民族である(そうであるがゆえにロシアの実質的支配下にあるとはいえ、ポーランド王国を形成しているポーランドは対象から除かれることになる)ということになる。

 

4、以上のエンゲルスの歴史観を、全てではないにせよある程度は踏まえた上で、チェック人とスロヴァキア人の歴史を確認し、エンゲルスの歴史観を批判的に考察すればよい。となれば、基本の路線は「エンゲルスはチェック人やスロヴァキア人が国民国家を建設することに批判的だが、実際には両地域の人々はその後彼ら自身の国家を建設するにいたった」という方向になるだろう。最後に、簡単にチェック人とスロヴァキア人の歴史(17世紀以降)を表にしたものを下に示しておく。

ベーメン史
 分 析 

出題分野

・今回のテーマは「17世紀から現在に至るチェコ人・スロヴァキア人の歴史」。一橋大ではドイツ史が頻出だが,ドイツと関わりの深いハンガリー・チェコ・ポーランドなど東欧の歴史が出題されることも多いので,これらの地域については,ドイツとの関係をふまえながらタテの流れを確認しておくことが不可欠である。

・過去にチェコやスロヴァキアが出題された例としては,「フス戦争とその歴史的意義」(2011年の),「近現代のポーランドとチェコスロヴァキア」(1992年の)などがある。

解答のポイント

 要求:エンゲルスが『歴史の歩み』と『歴史なき民』の関係をどのように理解しているか

  ・まず,エンゲルスにとっての「歴史の歩み」=唯物史観であり,唯物史観が「階級闘争による歴史の発展」であることを短い字数で述べる必要がある。

  ・「歴史なき民」が他民族の支配を受け,自民族の国を持たない民族であるということは,資料から分かるだろう。資料中の「およそかれらの全存在が偉大な歴史的革命にたいする一つの異議なのだ」という部分から,「歴史なき民」が自民族の国家を求める動きが,偉大な歴史的革命である階級闘争を妨げるものであるということを読み取ってほしい。国際的な労働者の連帯をめざす動き(インターナショナリズム)と国民主義・民族主義(ナショナリズム)が相容れないものであることについて,しっかり理解しておいてほしい。

 要求1721世紀のポーランドを除く西スラヴ人の政治的地位

  ・ポーランドを除く西スラヴ人がチェック人とスロヴァキア人であることが分かれば,17世紀のベーメン反乱,1848年のスラヴ民族会議,第一次世界大戦後のチェコスロヴァキアの独立,第二次世界大戦直前のナチス=ドイツによる国家解体,第二次世界大戦後は社会主義国となりソ連の影響下に入る,プラハの春,東欧革命時のビロード革命,チェコとスロヴァキアに分離,EUへの加盟など教科書レベルの知識で十分に述べることが可能である。

  ・エンゲルスの歴史観を批判的にふまえる必要があるので,エンゲルスの予測に反して,自民族の国家を持ちながら,歴史の中で一定の役割を果たしているという筋でまとめるようにすればよい。

 

2015 

 問 題 概 要 

久芳崇『東アジアの兵器革命』より引用された、16世紀から17世紀末にかけて変動した東アジア情勢の一端を伝える文章が紹介され、空欄A・Bが示されます。

(Aのヒント)

-万暦47年(1619)年、サルフ山の戦いでの大敗以降、明朝は徐光啓をはじめとする官僚の努力により、( A )のポルトガル人と深い関係を持つ人間を通して新式火器の導入が進められた。

-Aはポルトガルの拠点であった。

(Bのヒント)

 -北京や寧遠などといった軍事拠点と同じ重要な軍事拠点で、( A )から購入した火器が投入された。

・この文章を受けて、設問は以下の問1、問2を要求します。

1 ・空欄(A.   )(B.   )に当てはまる地名を答えよ。

・清朝から明朝への交替の経緯を様々な要因をしめして説明せよ。(240)

2 16世紀末から17世紀末にかけての朝鮮・明朝・女真・清朝との関係の変遷を説明せよ。(160) その際、[壬辰の倭乱 ホンタイジ 冊封]の三語を使用しなさい。

 

 解 答 例 

問1 Aマカオ,B山海関。明は北虜南倭への対応に苦しみ,朝鮮への援軍で財政が悪化,東林党と非東林党の党争で政治も混乱した。また国際商業の発展に伴う産業の発達や銀経済の浸透により貧富の差が拡大,重税も重なり民衆が困窮し,各地で反乱が起こった。中国東北部ではヌルハチが女真族を統合し,八旗を組織して支配体制を整えた。明が李自成の乱で滅びると,清は呉三桂の先導で李自成を倒して北京を占領した。その後,清は呉三桂らの三藩の乱を鎮圧し,台湾で清への抵抗を続ける鄭氏を降して中国支配を確立した。(238字)

問2 朝鮮は明から冊封を受けており,壬辰の倭乱の際は明の援軍を受けて豊臣秀吉の遠征軍を撃退した。女真が後金を建国し,国号を清と改めた後も,明との冊封関係から女真に従うことを拒否したが,ホンタイジの侵攻を受けて清に服属し,冊封国となった。しかし,明の滅亡後は,清を夷とみなし,朝鮮が中華文明の継承者とする小中華思想を強めた。(158字)

 

 採 点 基 準 

問1

空欄(A  )(B  )の語句

 Aマカオ・B山海関

明の衰退・滅亡

 北虜南倭への対応に苦慮

 (豊臣秀吉の侵攻を受けた)朝鮮への援軍財政難に

 政治の混乱:東林党と非東林党の党争

 社会経済の発展:国際商業の発展産業が発達、銀が大量に流入

 民衆の困窮:社会経済の発展に伴う貧富の差の拡大,財政難に伴う重税

清の台頭・中国支配

 清の台頭:ヌルハチが女真族を統一,八旗の整備で支配体制を確立

 中国支配の開始:明が李自成の乱で滅亡呉三桂の先導で北京入城李自成を倒す

 呉三桂らによる三藩の乱を鎮圧

 台湾の鄭氏を平定

 

問2

明との関係

 明から冊封を受ける

 壬辰の倭乱:豊臣秀吉が朝鮮に出兵明は宗主国として援軍を送る

女真・清朝との関係

 女真族が後金を建国国号を清に変更

 朝鮮は女真への臣従を拒否

 ホンタイジの侵攻清の冊封国に

 明の滅亡清を夷とみなし小中華意識を強める

 

 分 析 

出題分野

・問1のテーマは「明清交代の要因と経緯」。明清交代期の中国は頻出テーマであり,過去には「鄭氏の活動と17世紀のオランダのアジア交易」「三藩の乱とその歴史的意義」(いずれも2011年),「清朝の軍事・社会制度」「典礼問題」(いずれも2006年)が出題されている。さらに,1998年には「1644年以降の清朝の中国支配の確立」という今年と類似の問題が出題されている。大問3の出題傾向については一橋大学出題傾向1を参照。

・問2のテーマは「16世紀末~17世紀末の朝鮮と明・女真・清朝との関係」。朝鮮史も頻出テーマで,その中でも19世紀後半~日本の植民地時代がよく出題される。今年のような明清交代期の朝鮮の問題としては,過去には「1719世紀の朝鮮と日本・清との関係の変化」(1998年)がある。

解答のポイント

問1

・空欄補充は,Bの山海関を答えるのが難しい。

 ・要求は「清朝が明朝に替わって中国を支配するようになった経緯」。どこまで言及するのかについては,李自成の乱で明が滅亡して清が北京を占領した所まで,三藩の乱の鎮圧と鄭氏台湾を平定して中国全土の支配を確立した所まで,の2通りが考えられるが,240字という字数を考えるとのパターンで述べるべきだろう。

 ・明の弱体化,女真の台頭,清の中国支配,の3点についてまとめていけばよい。明の弱体化については,北虜南倭,朝鮮への援軍などによる財政難,東林派と非東林党の党争,などに言及する。女真の台頭については,ヌルハチが女真族を統一,八旗の整備,などに言及する。清の中国支配については,李自成の乱で明が滅亡したこと,呉三桂の先導で清が北京に入城したこと,三藩の乱を鎮圧,台湾の鄭氏を平定したことを時系列にまとめていけばよい。教科書レベルの知識のレベルで十分に対応できる問題である。

問2

・明と朝鮮の関係として,明から冊封を受けたこと,壬辰の倭乱の際に明が援軍を派遣したこと,女真との関係として,ホンタイジの侵攻で清の属国(冊封国)となったことは述べられるだろう。

 ・明の滅亡後,小中華意識を強めたことを想起できるかが差のつくポイントである。旧課程の教科書では記述はないが,新課程の教科書には「ついで清が成立すると,侵攻を受けて服属し,冊封・朝貢関係をもったが,清を「夷」とみて,朝鮮が正統な中華文明の継承者であるという意識をもった。」などと記述されているものもある。

 2015年は大問1と大問3が極めてオーソドックスな設問であったのに対して、大問2で一橋としてはかなり毛並みの変わった設問が出題されました。結局のところ、大問13でしっかりと解答を書けたかどうかが合格点をとるカギだったのではないでしょうか。ちなみに、2015年の河合の大問ごとの評価はⅠ-やや難、Ⅱ-やや難、Ⅲ-標準でした。個人的にはⅠ-標準、Ⅱ-難、Ⅲ-標準といったことろ。もっとも、大問2の採点基準がそこまで厳しいとは思えませんし、仮に採点基準が厳しかったところで、受験生間で解答に差がつくとは思われませんので、実際にはⅡもやや難と言ったところかもしれません。難しい問題が出るとつい見落としがちですが、結局その難しい問題を解いて合否の判断を下されるのは当日の受験生なのであり、要は問題の難易にかかわらず、周囲と比べてどれだけのものが用意できるかが問題となるので、会場で「おおぃ!こんな問題解けるかよ!」と焦ってはいけません。逆に、「自分が解けないなら周りもこんなもんだろ」と思えるくらいの準備をしておくことが肝心です。

 

2015 Ⅰ

■ 問 題 概 要 

・『フランク編年史』より引用された、ローマ人民がローマに滞在し、クリスマス・ミサのために聖ペテロ教会に出かけたカールを「至聖なるカール、神により戴冠されたる偉大にして平和を許すローマ人の皇帝に命と勝利を!」と称える様子が描かれた短い文章が示された上で、以下の点について説明することを求めている。(400字)

1、カールはなぜこの時ローマに滞在していたのか。

2、カールはなぜ「ローマ人の皇帝」ローマ人民から歓迎されたのか。

3、この出来事はヨーロッパの歴史にどのような影響を与えたか。

・これらについて、8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢の中で述べよ。

 

■ 解 答 例 

首位権や聖像崇拝問題でビザンツ帝国やコンスタンティノープル教会と対立し、頼るべき政治勢力を求めていたローマ教皇は、8世紀後半にピピンがクーデタでカロリング朝を創始するとこれを承認した。この見返りとしてピピンも教皇を圧迫したランゴバルド王国を討伐しラヴェンナ地方を寄進するなど、両者は次第に結びつきを深めた。その後、ピピンの子カールがランゴバルド王国を滅ぼしてイタリア半島に政治的安定をもたらし、さらにザクセン・アヴァール・後ウマイヤ朝と争って西ヨーロッパの主要部分を統一すると、ローマ人は彼をキリスト教の守護者とみなした。カールを自身の保護者として利用することを考えた教皇レオ3世は、その要請により軍を率いてローマに入ったカールに皇帝の冠を戴せた。カールの戴冠によりローマ教会とはビザンツ教会から自立し、カールの統治地域を中心に古典文化・キリスト教・ゲルマン文化の融合した西ヨーロッパ世界が成立した。(400字)

 

■ 採 点 基 準 

:設問中にある以下の質問や条件を踏まえて適切に答えることできるかどうかがカギ。

(1)『なぜローマに滞在していたのか』

①ローマ教皇レオ3世の要請よるものであったことを示す。

(2)『なぜ「ローマ人の皇帝」としてローマ人民により歓呼されたのか』

②キリスト教(アタナシウス派=カトリック)の守護者であることを示す。

③イタリア半島に政治的安定をもたらしたことに言及する。

→これらを述べる際に⑧と関連付けるとよい。

(3)『8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢のなかで述べる』

④首位権・聖像崇拝問題での東西教会の対立に言及する。④

⑤ローマ教皇が西ローマ皇帝やビザンツ帝国にかわる政治的な保護者を必要としていた

 ことを示す。

→⑤と関連付けて以下の⑥・⑦に言及する。

⑥ローマ教皇がフランク王国のピピンによるカロリング朝創始を承認したことを示す。

⑦ピピンが教皇にラヴェンナ地方を寄進したことを示す。

⑧カール大帝がランゴバルド・アヴァール・ザクセン・後ウマイヤを討伐したことを示す。

⑨カール大帝による西ヨーロッパの主要地域の政治的統一に言及する。

(4)『この出来事がヨーロッパの歴史に与えた影響について説明しなさい』

⑩ローマ教会がビザンツ帝国の影響から分離してローマ=カトリックが成立したことを示す。

⑪西ヨーロッパがビザンツ帝国の政治的影響力を脱して西ローマ帝国が復活したことに

 言及する。

⑫西ヨーロッパに古典(ローマ)文化・キリスト教・ゲルマン文化の融合した独自の

 西ヨーロッパ世界が成立したことを示す。


■ 分 析 

●出題分野

何度も繰り返しますが、一橋の大問1では、神聖ローマ帝国に関わる分野が頻出で、特に中世ドイツ史の出題率が高いです。(2008年度、2010年度、2011年度、2013年度)

今回のようにカール大帝を題材とした出題としては2009年度の問題があります。2009年の出題では「カール大帝の帝国成立の経緯」についてイタリア・東地中海の政治情勢・ムハンマドとの関係に言及しながら述べさせるもので、「西ヨーロッパ世界の成立」という大テーマが共通しているなど、今回の出題と重なる部分も多いです。

 

●解答のポイント

   ・設問に条件が複数示されているので、これらの条件をきちんと踏まえることが大前提となります。「8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢の中で述べる」と時期・コンテクストが指定されていることから、8世紀前半の事項(聖像禁止令など)に必要以上に言及する必要はなく、東西教会の対立の原因として軽く触れる程度で良いでしょう。また、2009年度の問題では重要な要素であったイスラームの影響はここでは主な要素として言及する必要はありません。

   ・カールがローマに滞在していいた理由について問う部分は難しく、教科書のレベルを超えています。カールの戴冠は、戴冠の前年に教皇の反対派から教皇を保護したカールが教皇の要請で軍を率いてローマに滞在していた折に、クリスマスのミサに出席するため訪れたサン=ピエトロ大聖堂における突発的な出来事であったと言われています。そのため、「教皇からローマ皇帝の冠を授かるために」とするのは誤りで、「教皇を保護するため」、「教皇の要請により」などとしておく方が無難。

   ・「ローマ人民がカール皇帝として歓呼した理由」についても直接的に教科書では言及されていないのでやや難しいですが、カールの業績を考慮すればキリスト教(アタナシウス派)の保護者であることやイタリア半島に安定をもたらした人物に対する敬意であることを推測して導くことは十分可能です。

   ・「8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢」について述べる部分では、教会の東西対立と教皇とカロリング朝(ピピン・カール)の接近を軸にまとめればよいので、平易。

   ・「カールの戴冠がヨーロッパに与えた影響」についてはローマ・カトリックの成立と西ヨーロッパ世界の成立という重要なテーマをすぐに思いつく必要があります。

・採点基準の④~⑫については一橋の受験者にとっては基本事項であり、この部分がきちんと書けるかどうかが重要。字数に限りがあるが、単なる事実の列挙にとどまらず各要素の関連も考えながらまとめる必要があるでしょう。各要素の関連や①~③をどう盛り込むかは難しいものの、できれば3分の2程度の得点は確保したいところです。

 

2015 Ⅱ

■ 問 題 概 要 

・ヨーロッパ共同体と東南アジア諸国連合という2つの機構の歴史的役割について、その共通点と相違点を示せ。(400字以内)

 

■ 解 答 例 

ヨーロッパ共同体は、大戦を招いた独仏対立の解消と欧州の平和的復興をその出発点とする。OEECを皮切りに超国家的に資源と市場を共有する経済統合を発展させるにつれ、欧州は米ソ両大国に対する発言力を次第に回復し、多極化の一因をつくった。イギリス加盟以降のEC拡大に伴い、貿易制限撤廃と単一市場形成による競争力強化を目指したECは、冷戦終結後に超国家機構EUを発足させ、単一通貨ユーロを採用した。東南アジア諸国連合は、ベトナム戦争中に東南アジアの共産化を恐れた米国の主導で成立し当初は反共同盟としての性格が強かったが、次第に政治的中立を宣言して経済協力機構としての性格を強めた。冷戦後には社会主義国のベトナムや軍政のミャンマーなど、東南アジア全ての国が参加し、EUと同様に関税障壁撤廃などの市場統合を進めて地域共同体としての役割を強めたが、一方で加盟国の主権に対する拘束力がないため政治的影響力に限界がある。(400字)

 

■ 採 点 基 準 

難問。設問の要求が明確(というよりは単純)な分だけ、ECとASEANについてどれだけ正確な知識を持ち、設問の条件に沿って(または出題者の意図を推し量って)解答を作成できるかで大きな差がつく問題。単純にECとASEANの共通点・相違点を列挙するのではなく、それぞれの歴史的役割をきちんと示しながらまとめる視点と文章力が要求されている。

 

(1) ECの歴史的役割

         2度の世界大戦の原因をつくった独仏両国の対立を解消する目的が、ECの前身たるOEECをはじめとする組織構築のきっかけとなった。

         同じく、大戦によって荒廃したヨーロッパを平和的に復興する目的がECの前身を作り上げた。

         その発展とともに米ソに対抗する第3極として多極化の一端を担ったことを示す。

         冷戦後にEUとして発展したことを示す。

(2) ASEANの歴史的役割

⑤ベトナム戦争中に東南アジアの共産化を恐れた米国が主導して結成された反共色の強い組織であったことを示す。

⑥ベトナム戦争終結期である1971年に中立地帯宣言を発し、その後は経済協力機構としての役割を強めたことを示す。

→この中で、1980年代からのアジア地域の経済発展について述べることもできる。

⑦冷戦終結後のベトナム・ミャンマー加盟などによりさらにイデオロギー色を薄めた地域共同体として活動していることを示す。

(3) ECとASEANの共通点

⑧通商上の障壁を取り除き、市場統合を進めた経済的な地域共同体であり、経済的発展を

もたらした点。

⑨経済的な結びつきを主軸に地域統合をもたらした地域共同体としての性格を持つ点。

(4) ECとASEANの相違点

⑩ECは部分的ではあるが主権国家としての枠組みを超えた超国家的結合であり、それが発展したEUについても加盟国の主権の一部を拘束する中央議会と共通通貨を有する点。

⑪ASEANはEUと異なり各加盟国に対して主権を制限する権限を持たないために政治的な

結合力が弱く、ベトナム戦争以降は主に経済共同体としての役割を担っている点。

 

(⑫域外協力についてはASEANのAPEC参加などが教科書レベルの要素としてあげられるが、ECについても1973年のスイス・リヒテンシュタインなどとのFTAをはじめとする域外協力を行っているので、むしろ共通点として挙げるべきものである。ただ、この設問ではこのことを書けと求められているとは思えない。)

 

■ 分 析 

●出題分野

・大問2は、近現代欧米史が出題されますが、その出題の範囲・形式は非常に多様であるため、的を絞ることは難しいです。ただ、今年度のように戦後史が問われることは比較的少ないです。(2000年、2005年、2012年) 2000年、2005年はそれぞれヴェトナム戦争、冷戦と核兵器についてその歴史的経緯を問う比較的オーソドックスな問題でした。2012年も国際連盟と国際連合設立の歴史的背景と両機関の課題について問う基礎的な問題でしたが、二つの国際機関を比較するという視点を必要とした点で今回の設問と共通する部分も見受けられます。今回のテーマは「ECとASEANの歴史的役割について共通点と相違点を説明」するというもので、2012年の設問と同様に比較的視点が要求されている点では共通しているものの、あまり問われることのない両機構の「歴史的役割」について問う設問で、やや難しいです。ここ最近本格的な戦後史が56年に一度の頻度での出題であったことを合わせると、かなり取り組みづらい設問であったことが予想されます。

 

●解答のポイント

 (1)EC・ASEANの歴史的役割を確認する

   どちらも経済発展をもたらした地域共同体であることは常識的なことなので、ここで要求されていることがより深い内容であることに気付かなくてはならないでしょう。ECが大戦後の欧州復興に際して「大戦を招いた対立を解消する目的で設立されたこと」や「発展の過程において多極化の一因をつくったこと」、ASEANが当初「米国に主導された反共同盟としての性質を有していたこと」などについて思い出す必要があります。

 

(2)EC・ASEANの歴史的役割についての共通点と相違点をまとめる

   設立の背景の違いについては上述の歴史的役割を確認する中で述べることができます。両者の歴史的役割について、共通点については比較的容易に思いつくので、ここでは相違点について深く考える必要があります。その際、この「歴史的役割」とはいったいどの時期を対象としているのかを考えると、特定することは難しいです。ものによっては、ECがOEECとは異なることをことさら強調したり、ECとEUは違うのであるからEUについては言及してはいけないとする解説も見られ、そうした判断にも一理ありますが、ECやASEANはたえずその政治的、経済的性質を変化させてきたものであり、当然その前身である諸組織や発展形態としてのEU、ASEAN10などとも連続性を有するものです。ですから、それらの前身や発展形態と断絶したものとしてとらえることは、ECやASEANの本質を見るにあたって有益なことではないでしょう。だとすれば、設問が指定する視野や時代設定はかなり広いものになる可能性があるので、一時期における歴史的役割のみを取り出してその相違を示すよりも、最終的にECやASEASNがどのように変化していったのかを示す方がよいと思います。そうした観点からすれば、ECやその発展形態であるEUが超国家的結合であり、主権国家の枠を越えたものとなっていった一方、ASEANはあくまでも主権国家間の経済協定の枠内に依然としてとどまるものである点に注意を払う必要があるでしょう。その方が、単純な両組織比較よりも、国民国家という枠組みの崩壊とその後の超国家的紐帯の形成という最近の各大学の問題関心に近く、出題者の意図から外れないものになるのではないでしょうか。

 

2015 Ⅲ

■ 問 題 

イーニアス・アンダーソン著・加藤憲市訳『マカートニー奉使記』より引用された、清朝の対外関係を示すやや長い史料が付された上で、以下の点について説明するように要求されている。(400字)

1、文中に登場する下線①が付された「皇帝」の名前を記せ。

2、また、その皇帝によって語られた清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程を説明せよ。

 

ちなみに、本史料中で「皇帝」が英国使節に謁見する年は1793年である。

 

■ 解 答 例 

乾隆帝。清朝の対外関係は周辺諸国と形式上の君臣関係を結ぶ冊封体制と朝貢国に対する恩恵的な貿易形態である朝貢貿易に基づいており、条約による主権国家間の対等な関係に基づくヨーロッパ諸国の外交関係とは異なっていた。清はイギリスとの貿易を広州一港に限定し、公行という特権商人がこの貿易を独占したが、これに不満を持つイギリスは自由貿易を求めて使節を派遣したが失敗した。その後アヘン戦争に敗れた清は南京条約で開港や公行廃止を強要され、続く諸条約で欧米諸国に領事裁判権・最恵国待遇を与え、清の関税自主権喪失を認める条約関係を結び、自由貿易体制に組み込まれ始めた。続くアロー戦争敗北後の北京条約で外国公使の北京駐在を認め、外交を一元的に処理する総理衙門を設置した。さらに、清仏戦争後の天津条約で阮朝越南国に対する宗主権を、日清戦争後の下関条約で李氏朝鮮に対する宗主権を相次いで失ったことで清朝の冊封体制は崩壊した。(400字)

 

■ 採 点 基 準 

・「清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程」と清朝側からの視点で解答作成することが要求されていることと、400字で一問という字数の長さを考えると、イギリスとの貿易関係の変遷についてのみ述べたのでは不十分であろう。やはりここは、朝貢・冊封体制の特徴とその崩壊過程としてまとめることが要求される。

 

(1) 下線①の皇帝の名前

 乾隆帝

:年代から判断できなくとも、対外交易を広州一港限定した人物で英国の使者と謁見した皇帝であることを考えれば乾隆帝であることはすぐに導ける。イギリスが派遣した人物にはマカートニー(1793)、アマースト(1816)、ネイピア(1834)らがいるが、乾隆帝はこのうちマカートニーと謁見している。乾隆帝の統治期間は17351795とかなり長期にわたるので注意。ちなみに、アマーストは嘉慶帝に三跪九叩頭問題で謁見することができなかった。また、ネイピアは1833年に東インド会社の中国貿易独占権が廃止されたことにともない、英国本国から派遣された貿易監督官であり、当時の中国に対して強硬姿勢であたろうとしていたパーマストン外相とジャーディン=マセソン商会の意向をうけて任につくも、中国側と武力衝突事件を起こした後でマラリヤによって亡くなっている。

(2) 清朝の対外関係の特徴

①朝貢貿易の内容(朝貢してきた国に対する恩恵的な貿易形態)について示す。

②冊封体制の内容(周辺国との形式的な君臣関係)について示す。

→これを示す際に朝貢貿易と冊封体制をはっきり分けて示す方が良い。

(3) 清朝の対英貿易とイギリスとの対立

③イギリスとの交易が乾隆帝の時代に広州一港に限定されたことを示す。

④広州での貿易は公行という清の特権商人によって独占されていたことを示す。

⑤イギリスが自由貿易を要求していたことを示す。

→使節派遣の例を示すのであれば、ここでは乾隆帝が資料中に出てくることからマカートニーが望ましいが、おそらく使節の名前にまで言及する字数の余裕はない。

→設問はイギリスとの対立や通商関係に焦点をあてたものではないので、片貿易や三角貿易の詳細について述べる必要はなく、字数的な余裕もない。

(4) アヘン戦争・アロー戦争による対外関係の変化

⑥アヘン戦争と南京条約の内容

5港開港、公行廃止など。対外・交易関係を考えればよいので香港割譲は述べる必要なし。

⑦アヘン戦争後に締結された諸条約(虎門寨追加条約・望厦条約・黄埔条約)とその内容

→領事裁判権、片務的最恵国待遇、清の関税自主権の喪失などの不平等条約

⑧アロー戦争と天津・北京条約の内容

→天津・南京など11港開港、外交を一元的に処理する外交官庁としての総理各国事務衙門の設置

⑨清がイギリスの自由貿易体制の中に組み込まれていった点を示す。

(5) 清の対外関係の崩壊過程

⑩周辺の朝貢国・冊封国に対する宗主権の喪失による朝貢・冊封体制の崩壊を示す。

→具体例として「琉球王国(台湾出兵、琉球処分)」、「阮朝越南国(清仏戦争)」、「李氏朝鮮(日清戦争・下関条約)」などに対して清が宗主権を失ったことを示せばよい。

 

■ 分 析 

●出題分野

この年の「清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程」というテーマは、過去に清朝の国内情勢・朝鮮をはじめとする周辺諸国との関係・列強のアジア進出などがたびたび出題されていることを考えれば十分予測可能な出題であり、王道的な設問であると言えます。今回の設問に近い出題としては2012年大問3の(2)で出題された「19世紀のヨーロッパ諸国に対する清朝の交易体制とその変化」について200字で述べさせる問題がある。

●解答のポイント

(1)清朝の対外関係=朝貢・冊封体制であることを把握する。

2012年の問題が「対ヨーロッパ交易」に限定されているのに対し、今回の設問は資料中に「外国と条約関係に入るということ=清の伝統的国是にもとる」などの記述があることや設問も「清朝の対外関係」とヨーロッパとの通商に限定していないことなどから、朝貢・冊封体制というより大きな視点で述べるべきです。

(2)対英貿易の変化と朝貢・冊封体制の変化という二つの軸を確認する

 ・資料中にイギリス側からの通商関係の改善要求があったことが示されていることから、清側による対英交易の制限と、その後の戦争による開港と不平等条約の締結という流れを軸として設定します。この際、単に事実を羅列するよりもイギリスが自由貿易体制を確立しようとしていたことに言及すると、清とイギリスとの対立やその後の変化の意味が明確になります。

 ・「清朝の対外関係=朝貢・冊封体制」であるとすれば、「その崩壊」について述べることが要求されているので、いかにして清の朝貢・冊封体制が崩壊するのかを明示する必要があります。そのためには、アヘン戦争後の開港や不平等条約の締結に言及するだけでは不十分であり、朝貢体制とは何か、冊封体制とは何かをはっきり示した上で、これらが崩壊したと言うに足る事実を示す必要があります。ここまで考えることで、「外国と条約関係による国際関係を成立させること(=清の伝統的国是の放棄)」、こうした外国との交渉窓口としての「総理各国事務衙門の設置(対等な主権国家間の外交処理とその一元化)」、「列強の進出による朝貢国・冊封国の喪失(宗主権の放棄)」などによる朝貢・冊封体制の崩壊という図式が見えてきます。特に、最後の朝貢国・冊封国の喪失などは対英交易のみに視点が限定されてしまうとなかなか出てこないので注意が必要です。

 ・要求されている知識は基本的なものであるが、単なる事実の列挙にとどまらない、テーマを理解した文章を作れるかどうかが差をつけるポイントです。最初にテーマを把握しないとイギリスとの通商関係に限定しすぎて片貿易や三角貿易などの詳細を述べるなど、的外れな解答をつくってしまいがちなので注意。
 

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