2015年は大問1と大問3が極めてオーソドックスな設問であったのに対して、大問2で一橋としてはかなり毛並みの変わった設問が出題されました。結局のところ、大問13でしっかりと解答を書けたかどうかが合格点をとるカギだったのではないでしょうか。ちなみに、2015年の河合の大問ごとの評価はⅠ-やや難、Ⅱ-やや難、Ⅲ-標準でした。個人的にはⅠ-標準、Ⅱ-難、Ⅲ-標準といったことろ。もっとも、大問2の採点基準がそこまで厳しいとは思えませんし、仮に採点基準が厳しかったところで、受験生間で解答に差がつくとは思われませんので、実際にはⅡもやや難と言ったところかもしれません。難しい問題が出るとつい見落としがちですが、結局その難しい問題を解いて合否の判断を下されるのは当日の受験生なのであり、要は問題の難易にかかわらず、周囲と比べてどれだけのものが用意できるかが問題となるので、会場で「おおぃ!こんな問題解けるかよ!」と焦ってはいけません。逆に、「自分が解けないなら周りもこんなもんだろ」と思えるくらいの準備をしておくことが肝心です。

 

2015 Ⅰ

■ 問 題 概 要 

・『フランク編年史』より引用された、ローマ人民がローマに滞在し、クリスマス・ミサのために聖ペテロ教会に出かけたカールを「至聖なるカール、神により戴冠されたる偉大にして平和を許すローマ人の皇帝に命と勝利を!」と称える様子が描かれた短い文章が示された上で、以下の点について説明することを求めている。(400字)

1、カールはなぜこの時ローマに滞在していたのか。

2、カールはなぜ「ローマ人の皇帝」ローマ人民から歓迎されたのか。

3、この出来事はヨーロッパの歴史にどのような影響を与えたか。

・これらについて、8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢の中で述べよ。

 

■ 解 答 例 

首位権や聖像崇拝問題でビザンツ帝国やコンスタンティノープル教会と対立し、頼るべき政治勢力を求めていたローマ教皇は、8世紀後半にピピンがクーデタでカロリング朝を創始するとこれを承認した。この見返りとしてピピンも教皇を圧迫したランゴバルド王国を討伐しラヴェンナ地方を寄進するなど、両者は次第に結びつきを深めた。その後、ピピンの子カールがランゴバルド王国を滅ぼしてイタリア半島に政治的安定をもたらし、さらにザクセン・アヴァール・後ウマイヤ朝と争って西ヨーロッパの主要部分を統一すると、ローマ人は彼をキリスト教の守護者とみなした。カールを自身の保護者として利用することを考えた教皇レオ3世は、その要請により軍を率いてローマに入ったカールに皇帝の冠を戴せた。カールの戴冠によりローマ教会とはビザンツ教会から自立し、カールの統治地域を中心に古典文化・キリスト教・ゲルマン文化の融合した西ヨーロッパ世界が成立した。(400字)

 

■ 採 点 基 準 

:設問中にある以下の質問や条件を踏まえて適切に答えることできるかどうかがカギ。

(1)『なぜローマに滞在していたのか』

①ローマ教皇レオ3世の要請よるものであったことを示す。

(2)『なぜ「ローマ人の皇帝」としてローマ人民により歓呼されたのか』

②キリスト教(アタナシウス派=カトリック)の守護者であることを示す。

③イタリア半島に政治的安定をもたらしたことに言及する。

→これらを述べる際に⑧と関連付けるとよい。

(3)『8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢のなかで述べる』

④首位権・聖像崇拝問題での東西教会の対立に言及する。④

⑤ローマ教皇が西ローマ皇帝やビザンツ帝国にかわる政治的な保護者を必要としていた

 ことを示す。

→⑤と関連付けて以下の⑥・⑦に言及する。

⑥ローマ教皇がフランク王国のピピンによるカロリング朝創始を承認したことを示す。

⑦ピピンが教皇にラヴェンナ地方を寄進したことを示す。

⑧カール大帝がランゴバルド・アヴァール・ザクセン・後ウマイヤを討伐したことを示す。

⑨カール大帝による西ヨーロッパの主要地域の政治的統一に言及する。

(4)『この出来事がヨーロッパの歴史に与えた影響について説明しなさい』

⑩ローマ教会がビザンツ帝国の影響から分離してローマ=カトリックが成立したことを示す。

⑪西ヨーロッパがビザンツ帝国の政治的影響力を脱して西ローマ帝国が復活したことに

 言及する。

⑫西ヨーロッパに古典(ローマ)文化・キリスト教・ゲルマン文化の融合した独自の

 西ヨーロッパ世界が成立したことを示す。


■ 分 析 

●出題分野

何度も繰り返しますが、一橋の大問1では、神聖ローマ帝国に関わる分野が頻出で、特に中世ドイツ史の出題率が高いです。(2008年度、2010年度、2011年度、2013年度)

今回のようにカール大帝を題材とした出題としては2009年度の問題があります。2009年の出題では「カール大帝の帝国成立の経緯」についてイタリア・東地中海の政治情勢・ムハンマドとの関係に言及しながら述べさせるもので、「西ヨーロッパ世界の成立」という大テーマが共通しているなど、今回の出題と重なる部分も多いです。

 

●解答のポイント

   ・設問に条件が複数示されているので、これらの条件をきちんと踏まえることが大前提となります。「8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢の中で述べる」と時期・コンテクストが指定されていることから、8世紀前半の事項(聖像禁止令など)に必要以上に言及する必要はなく、東西教会の対立の原因として軽く触れる程度で良いでしょう。また、2009年度の問題では重要な要素であったイスラームの影響はここでは主な要素として言及する必要はありません。

   ・カールがローマに滞在していいた理由について問う部分は難しく、教科書のレベルを超えています。カールの戴冠は、戴冠の前年に教皇の反対派から教皇を保護したカールが教皇の要請で軍を率いてローマに滞在していた折に、クリスマスのミサに出席するため訪れたサン=ピエトロ大聖堂における突発的な出来事であったと言われています。そのため、「教皇からローマ皇帝の冠を授かるために」とするのは誤りで、「教皇を保護するため」、「教皇の要請により」などとしておく方が無難。

   ・「ローマ人民がカール皇帝として歓呼した理由」についても直接的に教科書では言及されていないのでやや難しいですが、カールの業績を考慮すればキリスト教(アタナシウス派)の保護者であることやイタリア半島に安定をもたらした人物に対する敬意であることを推測して導くことは十分可能です。

   ・「8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢」について述べる部分では、教会の東西対立と教皇とカロリング朝(ピピン・カール)の接近を軸にまとめればよいので、平易。

   ・「カールの戴冠がヨーロッパに与えた影響」についてはローマ・カトリックの成立と西ヨーロッパ世界の成立という重要なテーマをすぐに思いつく必要があります。

・採点基準の④~⑫については一橋の受験者にとっては基本事項であり、この部分がきちんと書けるかどうかが重要。字数に限りがあるが、単なる事実の列挙にとどまらず各要素の関連も考えながらまとめる必要があるでしょう。各要素の関連や①~③をどう盛り込むかは難しいものの、できれば3分の2程度の得点は確保したいところです。

 

2015 Ⅱ

■ 問 題 概 要 

・ヨーロッパ共同体と東南アジア諸国連合という2つの機構の歴史的役割について、その共通点と相違点を示せ。(400字以内)

 

■ 解 答 例 

ヨーロッパ共同体は、大戦を招いた独仏対立の解消と欧州の平和的復興をその出発点とする。OEECを皮切りに超国家的に資源と市場を共有する経済統合を発展させるにつれ、欧州は米ソ両大国に対する発言力を次第に回復し、多極化の一因をつくった。イギリス加盟以降のEC拡大に伴い、貿易制限撤廃と単一市場形成による競争力強化を目指したECは、冷戦終結後に超国家機構EUを発足させ、単一通貨ユーロを採用した。東南アジア諸国連合は、ベトナム戦争中に東南アジアの共産化を恐れた米国の主導で成立し当初は反共同盟としての性格が強かったが、次第に政治的中立を宣言して経済協力機構としての性格を強めた。冷戦後には社会主義国のベトナムや軍政のミャンマーなど、東南アジア全ての国が参加し、EUと同様に関税障壁撤廃などの市場統合を進めて地域共同体としての役割を強めたが、一方で加盟国の主権に対する拘束力がないため政治的影響力に限界がある。(400字)

 

■ 採 点 基 準 

難問。設問の要求が明確(というよりは単純)な分だけ、ECとASEANについてどれだけ正確な知識を持ち、設問の条件に沿って(または出題者の意図を推し量って)解答を作成できるかで大きな差がつく問題。単純にECとASEANの共通点・相違点を列挙するのではなく、それぞれの歴史的役割をきちんと示しながらまとめる視点と文章力が要求されている。

 

(1) ECの歴史的役割

         2度の世界大戦の原因をつくった独仏両国の対立を解消する目的が、ECの前身たるOEECをはじめとする組織構築のきっかけとなった。

         同じく、大戦によって荒廃したヨーロッパを平和的に復興する目的がECの前身を作り上げた。

         その発展とともに米ソに対抗する第3極として多極化の一端を担ったことを示す。

         冷戦後にEUとして発展したことを示す。

(2) ASEANの歴史的役割

⑤ベトナム戦争中に東南アジアの共産化を恐れた米国が主導して結成された反共色の強い組織であったことを示す。

⑥ベトナム戦争終結期である1971年に中立地帯宣言を発し、その後は経済協力機構としての役割を強めたことを示す。

→この中で、1980年代からのアジア地域の経済発展について述べることもできる。

⑦冷戦終結後のベトナム・ミャンマー加盟などによりさらにイデオロギー色を薄めた地域共同体として活動していることを示す。

(3) ECとASEANの共通点

⑧通商上の障壁を取り除き、市場統合を進めた経済的な地域共同体であり、経済的発展を

もたらした点。

⑨経済的な結びつきを主軸に地域統合をもたらした地域共同体としての性格を持つ点。

(4) ECとASEANの相違点

⑩ECは部分的ではあるが主権国家としての枠組みを超えた超国家的結合であり、それが発展したEUについても加盟国の主権の一部を拘束する中央議会と共通通貨を有する点。

⑪ASEANはEUと異なり各加盟国に対して主権を制限する権限を持たないために政治的な

結合力が弱く、ベトナム戦争以降は主に経済共同体としての役割を担っている点。

 

(⑫域外協力についてはASEANのAPEC参加などが教科書レベルの要素としてあげられるが、ECについても1973年のスイス・リヒテンシュタインなどとのFTAをはじめとする域外協力を行っているので、むしろ共通点として挙げるべきものである。ただ、この設問ではこのことを書けと求められているとは思えない。)

 

■ 分 析 

●出題分野

・大問2は、近現代欧米史が出題されますが、その出題の範囲・形式は非常に多様であるため、的を絞ることは難しいです。ただ、今年度のように戦後史が問われることは比較的少ないです。(2000年、2005年、2012年) 2000年、2005年はそれぞれヴェトナム戦争、冷戦と核兵器についてその歴史的経緯を問う比較的オーソドックスな問題でした。2012年も国際連盟と国際連合設立の歴史的背景と両機関の課題について問う基礎的な問題でしたが、二つの国際機関を比較するという視点を必要とした点で今回の設問と共通する部分も見受けられます。今回のテーマは「ECとASEANの歴史的役割について共通点と相違点を説明」するというもので、2012年の設問と同様に比較的視点が要求されている点では共通しているものの、あまり問われることのない両機構の「歴史的役割」について問う設問で、やや難しいです。ここ最近本格的な戦後史が56年に一度の頻度での出題であったことを合わせると、かなり取り組みづらい設問であったことが予想されます。

 

●解答のポイント

 (1)EC・ASEANの歴史的役割を確認する

   どちらも経済発展をもたらした地域共同体であることは常識的なことなので、ここで要求されていることがより深い内容であることに気付かなくてはならないでしょう。ECが大戦後の欧州復興に際して「大戦を招いた対立を解消する目的で設立されたこと」や「発展の過程において多極化の一因をつくったこと」、ASEANが当初「米国に主導された反共同盟としての性質を有していたこと」などについて思い出す必要があります。

 

(2)EC・ASEANの歴史的役割についての共通点と相違点をまとめる

   設立の背景の違いについては上述の歴史的役割を確認する中で述べることができます。両者の歴史的役割について、共通点については比較的容易に思いつくので、ここでは相違点について深く考える必要があります。その際、この「歴史的役割」とはいったいどの時期を対象としているのかを考えると、特定することは難しいです。ものによっては、ECがOEECとは異なることをことさら強調したり、ECとEUは違うのであるからEUについては言及してはいけないとする解説も見られ、そうした判断にも一理ありますが、ECやASEANはたえずその政治的、経済的性質を変化させてきたものであり、当然その前身である諸組織や発展形態としてのEU、ASEAN10などとも連続性を有するものです。ですから、それらの前身や発展形態と断絶したものとしてとらえることは、ECやASEANの本質を見るにあたって有益なことではないでしょう。だとすれば、設問が指定する視野や時代設定はかなり広いものになる可能性があるので、一時期における歴史的役割のみを取り出してその相違を示すよりも、最終的にECやASEASNがどのように変化していったのかを示す方がよいと思います。そうした観点からすれば、ECやその発展形態であるEUが超国家的結合であり、主権国家の枠を越えたものとなっていった一方、ASEANはあくまでも主権国家間の経済協定の枠内に依然としてとどまるものである点に注意を払う必要があるでしょう。その方が、単純な両組織比較よりも、国民国家という枠組みの崩壊とその後の超国家的紐帯の形成という最近の各大学の問題関心に近く、出題者の意図から外れないものになるのではないでしょうか。

 

2015 Ⅲ

■ 問 題 

イーニアス・アンダーソン著・加藤憲市訳『マカートニー奉使記』より引用された、清朝の対外関係を示すやや長い史料が付された上で、以下の点について説明するように要求されている。(400字)

1、文中に登場する下線①が付された「皇帝」の名前を記せ。

2、また、その皇帝によって語られた清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程を説明せよ。

 

ちなみに、本史料中で「皇帝」が英国使節に謁見する年は1793年である。

 

■ 解 答 例 

乾隆帝。清朝の対外関係は周辺諸国と形式上の君臣関係を結ぶ冊封体制と朝貢国に対する恩恵的な貿易形態である朝貢貿易に基づいており、条約による主権国家間の対等な関係に基づくヨーロッパ諸国の外交関係とは異なっていた。清はイギリスとの貿易を広州一港に限定し、公行という特権商人がこの貿易を独占したが、これに不満を持つイギリスは自由貿易を求めて使節を派遣したが失敗した。その後アヘン戦争に敗れた清は南京条約で開港や公行廃止を強要され、続く諸条約で欧米諸国に領事裁判権・最恵国待遇を与え、清の関税自主権喪失を認める条約関係を結び、自由貿易体制に組み込まれ始めた。続くアロー戦争敗北後の北京条約で外国公使の北京駐在を認め、外交を一元的に処理する総理衙門を設置した。さらに、清仏戦争後の天津条約で阮朝越南国に対する宗主権を、日清戦争後の下関条約で李氏朝鮮に対する宗主権を相次いで失ったことで清朝の冊封体制は崩壊した。(400字)

 

■ 採 点 基 準 

・「清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程」と清朝側からの視点で解答作成することが要求されていることと、400字で一問という字数の長さを考えると、イギリスとの貿易関係の変遷についてのみ述べたのでは不十分であろう。やはりここは、朝貢・冊封体制の特徴とその崩壊過程としてまとめることが要求される。

 

(1) 下線①の皇帝の名前

 乾隆帝

:年代から判断できなくとも、対外交易を広州一港限定した人物で英国の使者と謁見した皇帝であることを考えれば乾隆帝であることはすぐに導ける。イギリスが派遣した人物にはマカートニー(1793)、アマースト(1816)、ネイピア(1834)らがいるが、乾隆帝はこのうちマカートニーと謁見している。乾隆帝の統治期間は17351795とかなり長期にわたるので注意。ちなみに、アマーストは嘉慶帝に三跪九叩頭問題で謁見することができなかった。また、ネイピアは1833年に東インド会社の中国貿易独占権が廃止されたことにともない、英国本国から派遣された貿易監督官であり、当時の中国に対して強硬姿勢であたろうとしていたパーマストン外相とジャーディン=マセソン商会の意向をうけて任につくも、中国側と武力衝突事件を起こした後でマラリヤによって亡くなっている。

(2) 清朝の対外関係の特徴

①朝貢貿易の内容(朝貢してきた国に対する恩恵的な貿易形態)について示す。

②冊封体制の内容(周辺国との形式的な君臣関係)について示す。

→これを示す際に朝貢貿易と冊封体制をはっきり分けて示す方が良い。

(3) 清朝の対英貿易とイギリスとの対立

③イギリスとの交易が乾隆帝の時代に広州一港に限定されたことを示す。

④広州での貿易は公行という清の特権商人によって独占されていたことを示す。

⑤イギリスが自由貿易を要求していたことを示す。

→使節派遣の例を示すのであれば、ここでは乾隆帝が資料中に出てくることからマカートニーが望ましいが、おそらく使節の名前にまで言及する字数の余裕はない。

→設問はイギリスとの対立や通商関係に焦点をあてたものではないので、片貿易や三角貿易の詳細について述べる必要はなく、字数的な余裕もない。

(4) アヘン戦争・アロー戦争による対外関係の変化

⑥アヘン戦争と南京条約の内容

5港開港、公行廃止など。対外・交易関係を考えればよいので香港割譲は述べる必要なし。

⑦アヘン戦争後に締結された諸条約(虎門寨追加条約・望厦条約・黄埔条約)とその内容

→領事裁判権、片務的最恵国待遇、清の関税自主権の喪失などの不平等条約

⑧アロー戦争と天津・北京条約の内容

→天津・南京など11港開港、外交を一元的に処理する外交官庁としての総理各国事務衙門の設置

⑨清がイギリスの自由貿易体制の中に組み込まれていった点を示す。

(5) 清の対外関係の崩壊過程

⑩周辺の朝貢国・冊封国に対する宗主権の喪失による朝貢・冊封体制の崩壊を示す。

→具体例として「琉球王国(台湾出兵、琉球処分)」、「阮朝越南国(清仏戦争)」、「李氏朝鮮(日清戦争・下関条約)」などに対して清が宗主権を失ったことを示せばよい。

 

■ 分 析 

●出題分野

この年の「清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程」というテーマは、過去に清朝の国内情勢・朝鮮をはじめとする周辺諸国との関係・列強のアジア進出などがたびたび出題されていることを考えれば十分予測可能な出題であり、王道的な設問であると言えます。今回の設問に近い出題としては2012年大問3の(2)で出題された「19世紀のヨーロッパ諸国に対する清朝の交易体制とその変化」について200字で述べさせる問題がある。

●解答のポイント

(1)清朝の対外関係=朝貢・冊封体制であることを把握する。

2012年の問題が「対ヨーロッパ交易」に限定されているのに対し、今回の設問は資料中に「外国と条約関係に入るということ=清の伝統的国是にもとる」などの記述があることや設問も「清朝の対外関係」とヨーロッパとの通商に限定していないことなどから、朝貢・冊封体制というより大きな視点で述べるべきです。

(2)対英貿易の変化と朝貢・冊封体制の変化という二つの軸を確認する

 ・資料中にイギリス側からの通商関係の改善要求があったことが示されていることから、清側による対英交易の制限と、その後の戦争による開港と不平等条約の締結という流れを軸として設定します。この際、単に事実を羅列するよりもイギリスが自由貿易体制を確立しようとしていたことに言及すると、清とイギリスとの対立やその後の変化の意味が明確になります。

 ・「清朝の対外関係=朝貢・冊封体制」であるとすれば、「その崩壊」について述べることが要求されているので、いかにして清の朝貢・冊封体制が崩壊するのかを明示する必要があります。そのためには、アヘン戦争後の開港や不平等条約の締結に言及するだけでは不十分であり、朝貢体制とは何か、冊封体制とは何かをはっきり示した上で、これらが崩壊したと言うに足る事実を示す必要があります。ここまで考えることで、「外国と条約関係による国際関係を成立させること(=清の伝統的国是の放棄)」、こうした外国との交渉窓口としての「総理各国事務衙門の設置(対等な主権国家間の外交処理とその一元化)」、「列強の進出による朝貢国・冊封国の喪失(宗主権の放棄)」などによる朝貢・冊封体制の崩壊という図式が見えてきます。特に、最後の朝貢国・冊封国の喪失などは対英交易のみに視点が限定されてしまうとなかなか出てこないので注意が必要です。

 ・要求されている知識は基本的なものであるが、単なる事実の列挙にとどまらない、テーマを理解した文章を作れるかどうかが差をつけるポイントです。最初にテーマを把握しないとイギリスとの通商関係に限定しすぎて片貿易や三角貿易などの詳細を述べるなど、的外れな解答をつくってしまいがちなので注意。