世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

カテゴリ: あると便利な地域史

 トルキスタン史というものは常に受験生の悩みの種であるようだ。そもそも、高校生の段階で「トルキスタン」というものを理論的かつ感覚的に理解できるとしたら、それはかなり熟練の学習マニアか、熱狂的なトルキスタンオタクか、親戚がトルキスタンの出身かだ。これは別に、高校生を侮って言っているのではない。人間の「理解」にはまず知識として体得する「知る」という段階と、その知識をイメージし、感覚として染み込ませる「実感」する段階があるわけだが、一般的な高校生がこうした実感をともなってトルキスタンを理解するには、あまりにも時間が足りなすぎるし、身近でもない。現に、私が高校の頃はトルキスタンとは何かと問われた時、正確なことを1語る間にウソや見当はずれのことを5つは語ったかもしれない。いや、そもそも「トルキスタンを正確に理解せねばならない」などとは思ってもみなかっただろう。

 

 しかし、志望校として東大を目指すものにはそれが求められる。なぜなら、東大は近年明確にユーラシアという領域を意識しているからだ。ユーラシアを意識してその中央に位置する中央アジア、トルキスタンが問題にならないなどということがあるだろうか。誠に不条理な世の中である。だが、ある一定のレベルを超えて正しく必要な情報を整理してインプットすることができれば、比較的早期にこの実感をともなうレベルの理解をすることも十分に可能だ。そこで、今回はトルキスタンとその歴史をある程度イメージとして保持できるようなトルキスタン史の整理を、世界史の枠組みの中で行ってみたいと思う。

 

[トルキスタン史1:トルキスタンの地理的理解]

 

 トルキスタンのような日常我々がなじみのない地域についてのイメージを確固たるものにする手段として有効な方法が二つある。それは、

 

・正確な地理情報を把握する

・その土地の風土、風俗についての追加情報を得る(映像が望ましい)

 

この二つである。世界史についての理解がもう一つ進まない場合、この手の地理情報がきちんと把握できていないことが多い。具体的な例をあげるのであれば、イリ事件でいうイリ地方とはどこか、沿海州とはどこか、ホラーサーンとはどのあたりか、ライン川はどこを流れているか…etc.

 

 そこで、まずはトルキスタンとはどこかということを漠然とでもよいので把握しておきたい。もちろん、トルキスタンという用語は歴史的なものでもあるため、時代によりその意味するところや地理的な範囲も異なるが、おおよそのイメージを示しておこう。

スライド4
 

http://www.silkroad-caravan.net/coa.history.htmlより引用、一部改変)

 

上の地図は中央アジアの地図を示したものであるが、このうち現在の新疆ウイグル自治区にあたる部分の東トルキスタンと、そこから西、アラル海とカスピ海に至る西トルキスタンがトルキスタンと呼ばれる地域である。この地図自体がややアバウトなものであるし、一枚だけではイメージしきれない部分もあるだろうから、さらに別の角度から見てみたい。


1

 

Wikipedia「トルキスタン」より引用、一部改変)

 

 上の図にあるように、黄色の部分が新疆ウイグル自治区、すなわち東トルキスタンである。東西トルキスタンの間にある緑の矢印が示しているのはパミール高原で、この高原が東西トルキスタンを分ける一つの目印になる。このあたり一帯はいわゆるシルクロードの通る道としても有名なわけだが、それではこの東西トルキスタンをシルクロードという視点から把握しようとするとどうなるのか、別の地図で確認してみよう。
 

 スライド6

https://twitter.com/HistoryMinstrelより引用)

 

上の地図中央にパミール高原があるので、その東、「タリム盆地」というのが東トルキスタンとほぼ同じ地域であることが確認できると思う。このタリム盆地の大部分はタクラマカン砂漠と呼ばれる砂漠地帯であり、この地域がよくシルクロードに関する設問で出てくるオアシス都市が点在する地域だ。


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Wikipedia「タリム盆地」より引用)

 

タリム盆地の南北には天山山脈と崑崙山脈があり、このうち天山山脈のふもとを南北に通るのが天山北路と天山南路、崑崙山脈の北側を通るのが西域南道である。


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http://www.club-t.com/kansai/special/abroad/silk-road/spot.htmより引用)

 

上の地図を見ると、中央のタクラマカン砂漠にいたる中国側の入り口が敦煌、パミール高原をまたいで西トルキスタン川の入り口がサマルカンドになっていることがわかると思う。このように、様々な方面から地理的情報を把握すると、無味乾燥な「敦煌」、「サマルカンド」「天山南路」などの用語は生きた知識として自身の身体に定着してくる。

 

[トルキスタン史2:トルキスタンの歴史的形成]

 

 これまで紹介した地域がなぜトルキスタンと呼ばれるのかといえば、この地域にテュルク系民族が移住し、いわゆる「トルコ化」が進んだためである。トルキスタンとはすなわち、トルコ人(テュルク人)の住む土地を指すわけだが、このトルコ人たちは、元々はシベリア方面に居住していたモンゴロイドであったらしい。これが、9世紀頃からのトルコ系民族であるウイグルの移住と定住によって現在のトルキスタン周辺に住みつき、イラン系ソグド人などとの混血を進めた結果、現在のような形になっていったとされる。下の地図は現在のテュルク系民族の分布を示したものである。

 

 スライド1

Wikipedia「テュルク系民族」より引用、一部改変)

 

こうしたテュルク系民族はかなり早い時期から歴史の中に登場してくる。中国の文献資料上に登場する丁零(紀元前3世紀頃)とか高車(5世紀頃)、鉄勒(6世紀頃)などはこのルーツである。この頃のトルコ系民族は隣接するモンゴル系民族の匈奴や柔然に従属する弱小民族でしかなかった。

 

 スライド2

Wikipedia「丁零」より引用、一部改変)

スライド3
 

Wikipedia「高車」より引用、一部改変)

  

 しかし、こうしたテュルク系民族は6世紀の突厥の出現によってモンゴル高原の覇者としての地位を築き上げる。突厥は、柔然を滅ぼして建国し、さらにササン朝と結んで中央アジアに存在したエフタルを挟撃して滅ぼして強大化するのである。そのご突厥は東西に分裂の上、東に起こった唐に圧迫されたために次第に衰退するが、この突厥にかわって起こったウイグルも同じくトルコ系民族であった。

 

 だが、突厥やウイグルは基本的に遊牧民族であり、決まった土地に定住するということはなくその活動域もモンゴル高原が主であったため、その広大な支配域に現在で言うトルキスタンが含まれていたにしても、この地域が「トルコ化」されることはなかった。状況に変化が生まれるのはこのウイグルが同じくトルコ系のキルギスによって滅ぼされてからである。モンゴル高原を追われたウイグルは西へと逃れ、9世紀頃に現在のトルキスタン方面に定住した。その結果、それまで同地で交易の民として暮らしていたイラン系ソグド人との混血を繰り返す中で同地が次第にトルコ化されていき、現在のトルキスタンの原型が形成されていったのである(ソグド人はトルコ人と同化する中で民族としての独自性を失い、消滅していく)。

 
スライド11
 

(ソグド人はソグディアナ[またはトランスオクシアナ]と呼ばれる上の赤い地域を中心に活動していた。地図はWikipedia「ソグディアナ」より引用。)

 

 そして、このようにトルコ化が進んだ中央アジアにはもう一つの大きな変化が進行していた。それが同地域のイスラーム化である。すでに同地域には8世紀頃からアラブ人たちが侵入し始め、東方の唐との間でタラス河畔の戦い(751)を戦うなどしていたが、本格的に同地の支配を始めるのはイラン系サーマーン朝の頃からである。サーマーン朝は支配したトルコ人を奴隷軍人として活用し始める。これがマムルークである(実際には、マムルーク自体はすでにアッバース朝期から存在した)。テュルク系民族(トルコ人)と境を接するサーマーン朝はさかんにマムルークを導入し、マムルークはイスラーム世界に定着していったが、一方でこうしたマムルークか軍事的に力を持ち始めると支配者であるイラン系のサーマーン朝に対抗しうる力を有するようになった。その結果、中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝であるカラ=ハン朝の成立を見ることになり、これ以降トルキスタンにおいてはトルコ化とイスラーム化が促進されることになる。

 

[トルキスタン史3:中国史から見たトルキスタン]
 

それでは、トルキスタンとは何か、ということがある程度整理できたところで、高校世界史上で頻出の中国とトルキスタンとの関わりについて簡潔にその概要を示しておきたいと思う。


(前漢)

・武帝:匈奴遠征(タリム盆地獲得:住民はイラン系)

-天山南北路、西域南道(シルクロード・オアシスの道)

    →前漢末に西域都護設置


(後漢)

・班超:甘英を大秦国派遣(条支国[シリア?]止まり)


(魏晋南北朝)

・仏図澄、鳩摩羅什などが亀茲から来訪

 ・6世紀に突厥が強大化(552に柔然を滅ぼして建国)

  →隋の建国期に東西に分裂(583

   [東突厥]:唐に服属(7c)→自立(突厥第二帝国)→ウイグルにより滅亡(8c

    [西突厥]:唐に服属(657)→滅亡(8c)


(唐)

 ・羈縻政策[唐に限らず類似の政策は歴代王朝でも]

  :都護を中央から派遣し、在地の族長を都督・刺史に任命

(自治を許す間接統治策)

→六都護府設置

1、    安東(平壌)

2、    安南(ハノイ)

3、    安西(亀茲)

4、    安北(外モンゴル)

5、    単于(内モンゴル)

6、    北庭(新疆ウイグル自治区方面)

 ・8世紀にウイグルが東突厥を滅ぼして建国、唐とは同盟関係


(唐末)

・キルギスにより、ウイグル国家が滅亡

→ウイグル人[トルコ系]が現在のトルキスタンに移住

→ソグド人などのイラン系住民と混血(トルコ化)

   =トルキスタンの形成

・サーマーン朝の侵入

 →イスラーム化の進行


(宋)

 ・カラ=ハン朝:東西トルキスタンを支配した初のトルコ系王朝

 →トルキスタンのイスラーム化を促進

11世紀に東西に分裂

 (東は西遼、西はホラズムにより滅亡)

・カラ=キタイ(西遼:モンゴル系、仏教):遼の王族・耶律大石が建国

→ナイマンに滅ぼされる

→チンギス=ハンの征服(ホラズムに至る通り道である点に注目)

→トルキスタンは後にチャガタイ=ハン国の支配下に

(明)

・ティムール帝国の勃興

・ティムール衰退後

[トルキスタン西部] チャガタイ=ハン国の残存勢力が割拠
           →のちにウズベク人が台頭 

[トルキスタン東部] オイラートが勢力拡大

→エセン=ハンの時に土木の変[1449]:正統帝捕虜に

→エセン暗殺後に分裂・再統合

(ジュンガル部の形成[ガルダン=ハン]

[さらに東部(モンゴル)] タタールが勢力拡大

  

  ※ 上記のうち、オイラート・タタールが「北虜」となる


(清)

・乾隆帝によるジュンガル部平定[1758]

→藩部に編入して「新疆」、理藩院による支配

1871 イリ事件

[流れ]

  太平天国の乱[1851-64]に乗じて新疆でコーカンド=ハン国のヤクブ=ベクほかイスラーム勢力の反乱が発生

  太平天国鎮圧後に左宗棠を派遣、鎮圧後に直轄化

  混乱に乗じてロシアが出兵、イリ地方占領[1871]

  左宗棠による再占領(ロシアが露土戦争で身動きできないうちに)

→イリ条約(1881):事態の収拾[東西に分割]

 以前にイリ事件をテーマとした設問が出題されたことから高3向けに中国とトルキスタンとの関わり合いを考えるために作った授業をベースにトルキスタン史を概観してみたが、こうしたくくりだけでなく、「トルコ民族史」としてのトルキスタン史を考えることももちろん可能である。トルコ民族というくくりで考えた場合には、地域的にはトルキスタンからは外れるが、ガズナ朝や奴隷王朝(アフガン~北インド)、セルジューク朝、ホラズム朝(イラン・西アジア)、マムルーク朝(エジプトなど)などのイスラーム王朝が名前としてあがることになるだろう。その場合、まず中央アジア地域でイスラーム化したトルコ人勢力が各地に拡大していく過程としてとらえると全体像をより把握しやすくなるだろう。それについては別稿に譲ることにしたい。

[19世紀~20世紀の朝鮮] 

・案外、朝鮮王朝(李氏朝鮮)がいつ頃からかがつながっていない人がいたりするので確認。

 1392 建国:両班による支配

    (倭寇討伐に功のあった李成桂が高麗を滅ぼして建国)

 

・その後の李氏朝鮮は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役/壬辰・丁酉の倭乱[1592-931597-98])と、清への服属(ホンタイジの時)のあたりで出てくる。

 

・世界史でその後李朝が問題になるのは19世紀後半に入ってから。このあたりは大学受験でも頻出の箇所なので、注意しておくとよいでしょう。ただ、教科書や参考書だと時期ごとにぶつ切りになっていたり、情報が不足していてなかなか全体像をとらえることができません。そこでまず、当時の朝鮮で起こった事件を追いながら、朝鮮国内またはそれに与する外国の勢力図がどのように変化していくのか見ていくことにしましょう。

 

1863 大院君(国王高宗の父)が摂政として実権掌握

:鎖国政策

 1873 閔妃政権の成立(大院君に対するクーデタ)

:開国政策への転換

 1875 江華島事件

→日朝修好条規(1876

  朝鮮の自主独立

  釜山・仁川・元山開港

  治外法権

  関税自主権喪失(双方無関税)

 1882 壬午軍乱:大院君のクーデタ

・賃金未払いを不満とする兵士の暴動を利用

・日本公使館員も多数殺傷される

   →清の袁世凱の支援で鎮圧

→閔氏が親日から親清へ

(事大党の形成=清の勢力下で李朝の安全維持を図る)

   ※以降、清は6000名の軍隊を朝鮮に駐留させる

    一方で、開化派の不満が高まる

→急進改革による朝鮮の近代化を図る金玉均・朴泳孝らが独立党を形成

 1884 甲申政変:独立党による対閔妃のクーデタ

・日本公使竹添進一郎と独立党が共謀、清仏戦争の隙をつく

    →高宗を擁立、閔氏の要人を殺害

  →閔妃を支援する清が鎮圧

(清仏戦争に敗北した清はメンツにかけても朝鮮へ出兵)

→金玉均は亡命(1894年に亡命先で暗殺される)

    ※この事件をうけて日清両国は天津条約(1885)締結

:日清両国の朝鮮からの撤兵と出兵時の事前通告を規定   

1894 甲午農民戦争

:東学を中心とする農民反乱

(創始者:崔済愚[チェジェウ]、指導者:全琫準[チョンボンジュン]

   →鎮圧に日清両軍が出兵、日清戦争

   →朝鮮では日本軍が出兵して閔氏を追放

・大院君を中心とする開化派政権が成立

・甲午改革の実施

     [両班制・科挙廃止、奴婢・人身売買の禁止など発表]

        →政権内部の対立、三国干渉によるロシアの影響力を利用した閔氏派の巻き返しで失敗。

1895 下関条約:朝鮮の完全独立承認

1896 乙未事変:日本の指揮下の訓練隊(朝鮮軍)と日本人士官が閔妃暗殺

(背景)ロシアの力を背景に巻き返しを図る閔妃と大院君が対立

 ・甲午改革を推進した金弘集内閣が再度近代化策を実施

 →開化派を支持する大院君と高宗の対立が決定的に

(守旧派が担ぐ高宗はロシアに接近:露館播遷[1896-97]

 1897 大韓帝国と国号を改称

 1898 1896年以降、朝鮮の立憲君主制樹立を目指してきた独立協会が弾圧される

1904-1905 日露戦争

  →日本の優勢によって朝鮮が日本の影響下に

1904 第1次日韓協約:日本からの財政・外交顧問の受け入れ

1905 ポーツマス条約:日本の韓国保護国化承認

→第2次日韓協約(1905

:韓国の外交権接収(保護国化)、統監府の設置(初代:伊藤博文)

   →反日義兵闘争の高まり、愛国啓蒙運動が激化

1907 ハーグ密使事件

   →第3次日韓協約(1907):韓国軍の解散、内政権を失う

1909 伊藤博文暗殺(安重根による)

1910 韓国併合:朝鮮総督府(初代:寺内正毅)

→武断政治、土地調査事業

 

ここがポイント 朝鮮内の勢力関係

 

朝鮮近代史を読み解く上で難しいのが朝鮮内における勢力関係ですね。たとえば、当初は保守派とされていた大院君が後になってなぜか開化派と仲良くしていたりとか、国王なのに高宗は開化派に担がれたり、後に対立したり…「いったいどっちなんだ!」と思うこともあるかと思います。でも、日本も幕末期には公武合体だー、とか攘夷だー、とか開国だーとか、やってますよね。当時の朝鮮も、諸外国の圧力の中で将来をどういう方向へ持って行ったら良いか模索している時期です。その時々の立場や情勢によって各人の立場が変わっていったのだと考えれば、それほど変なことでもないのですね。

 ここでは、頭をすっきりさせるために、いくつかの時期についてその勢力図を図示してみたいと思います。

 

[初期(1860年代~1870年代)の対立関係]

地域史②(朝鮮史)

 初期の対立関係は意外にシンプルです。幼少であった国王高宗の父である大院君が実権を握ると、大院君は保守的な鎖国政策を実施します。ところが、大院君の独裁に対する反発や、日本でも起こったような進歩的な考え方を持つ開化派からの反発が高まっていくんですね。そうした中で、もともとは大院君のお声がかりで妃におさまった閔妃は、舅との折り合いが悪くなって次第に険悪になっていきます。閔妃とその一族(閔氏)は反大院君の勢力を結集してクーデタを決行、これにより大院君が失脚してしまうのが1873年です。

 

[1870年代~1880年代]

 

地域史②(朝鮮史)2
 

 ところが、閔氏政権のもとでの開化政策は必ずしもうまくはいきませんでした。おりしも、江華島事件以降、朝鮮では清朝の冊封国としての地位を維持すべきとする守旧派(事大党)と、日本の力を利用して近代化を達成しようとする開化派の二派に分かれて争っていました。そんな中、開化派政策を推進する閔氏政権は大胆な軍制改革に着手し、旧式の軍隊とは異なる西洋式の新式軍隊「別技軍」を組織します。しかし、別技軍が好待遇を受ける一方でないがしろにされていると感じた旧軍の一派は、続いていた給与不払いをめぐる不満を暴発させて暴動を起こします。これに乗じて閔氏政権の転覆をはかったのが先に失脚させられていた大院君でした。これが壬午事変(壬午軍乱:1882)です。

 

 この事件に対して日本側は対応することができませんでした。反乱に巻き込まれた日本公使館員たちは何名かの死傷者を出しながら命からがら挑戦を脱出します。これに対し、清国側は当時洋務運動によって増強していた軍隊を朝鮮に出動させ、これを率いた袁世凱が反乱を鎮圧し、大院君を軟禁しました。この結果、政権に復帰した閔氏一派は、自分たちの政権維持を重視してそれまでの親日姿勢から親清姿勢へと鞍替えします。要は、「開化政策の推進」と「政権と権力の維持」を天秤にかけた結果、後者を選択したわけです。

地域史②(朝鮮史)3
 
 

 しかし、こうした閔氏政権の変節に不満を感じたのが親日派の開化派たちです。朝鮮でも日本式の近代化を実現しなくてはならないと考える開化派の金玉均(キムオッキュン)、朴泳孝(パクヨンヒョ)らは独立党を結成します。清への依存をはかる事大党に対して、朝鮮の自主独立を目指したわけですね。かれらのこの目標は当時開化派を支援していた日本政府の目的とも、最終的な利害はどうあれ合致します。そして、独立党は次第に閔氏政権との対立を深め、その中で同じく閔氏と対立する大院君と接近します。つまり、開化派(独立党)と大院君を結びつけたのは「敵の敵は味方」という構図です。

 そして、この両者は日本の力を借りて清が清仏戦争にかまけて朝鮮に目が向かない間隙をぬって、閔氏政権打倒のクーデタを敢行します。これが甲申政変です。

 

 ところが、この政変も清の軍隊によって鎮圧されてしまった結果、再度閔氏が政権に返り咲きます。そしてこれ以降、朝鮮国内では「閔氏政権vs開化派+大院君」と「清vs日本」という対立が深まっていきます。

 

[1890年代(日清戦争以降)]

 

 こうした中で日清戦争が勃発し、日本の勝利に終わると開化派と大院君は勢いづき、甲午改革と呼ばれる近代化策を進めます。ところが、一度は日本の力を借りて閔氏一派を一掃したと思われたのですが、閔氏一派は新たに朝鮮進出を狙うロシアの力を借りて巻き返しをはかります。こうした両派の対立の中で発生したのが乙未事変(1896:いつびじへん)です。この事件で閔妃が暗殺されてしまったわけですが、これに激怒したのが妻を殺された国王高宗です。これまでも父と妻の一族の間の権力争いでどこか蚊帳の外に置かれてきた高宗は怒り心頭、開化派と大院君とは決別して守旧派とともにロシア公館に遷り、ここで政務を執りました。この期間のことを露館播遷(1896-97)と言っています。嫁さん殺されてムキーってことですね。こうした流れの中で、それまでの清vs日本という構図はロシアvs日本という構図に置き換わってその後の朝鮮を巻き込んでいき、1904年からの日露戦争へとつながっていくのです。

 
地域史②(朝鮮史)4
 

 

 ここでは、教科書や参考書になかなかまとまった記述のないベーメン(ボヘミア)の歴史についてまとめていきたいと思います。教科書や参考書にあまり記述がないので、受験にも出ないと思われがちですが、このベーメンという地域はハプスブルク家との絡みで出題されることも多く、その際にぶつ切りの単語を覚えているだけよりは大きな流れを知っておく方が何倍も理解が深まり、実際の試験の場でも役に立つと思います。

 ベーメン、というと神聖ローマ皇帝やハプスブルク家という連想をしがちですが、神聖ローマ皇帝が常にベーメン王位を兼ねていたわけではないですし、ベーメン王位を常にハプスブルク家が継承していたわけでもありません。神聖ローマ皇帝位、オーストリア大公位やハンガリー王位と同様に、ベーメン王位は別に存在していたわけで、それを誰が継承したのかは時代によっても異なります。地域的に北方のポーランドなどとも以外に関わりの深い地域です。とはいっても、あまり深入りしてもきりがないので、簡単な通史を紹介した上で、注目すべきポイントをいくつか示しておきたいと思います。

 

[ベーメン王国の王朝の変遷]

まず、ベーメンの王位については、大きく4王朝の交代があったことを確認しておきましょう。

  プシェミスル朝(10c-14c

:建国、シュタウフェン朝の弱体化に乗じた拡大、東方植民の受け入れ

  ルクセンブルク朝(14c-15c

:神聖ローマ皇帝カール4世(カレル1世)によるベーメン王兼任

    ジギスムント(ニコポリスの戦い・コンスタンツ公会議、フスの火刑)

  ヤゲヴォ朝(15c-16c初)

:モハーチの戦い(1526)におけるラヨシュ2世戦死
(ラヨシュ2世はハンガリー王位も兼ねた)

  ハプスブルク朝:(15c16c~)

:ジギスムントの死後にハプスブルク家のアルブレヒト2世が一時ベーメン王となるが、フス派の混乱の中でヤゲヴォ朝に交代。モハーチの戦い以降再度ハプスブルク家のフェルディナント1世がベーメン王となった。

 

[ベーメン王国史]

 8c-9c   チェック人がモラヴィア王国(建国者:モイミール)の支配下に入る

10c初めにモラヴィアがマジャール人によって衰退してチェック人が自立

 10c    チェック人(プシェミスル家)によるベーメン国家の成立、ベーメン公を名乗る

11c後半に「ベーメン王」号を認められ、神聖ローマ帝国を構成する一部に

 13c半ば  神聖ローマ帝国のシュタウフェン朝が弱体化し、かわってベーメン王国が強大化

      ドイツ人による東方植民の積極的受入れと領内の開拓

→神聖ローマ帝国内の最有力諸侯に

(大空位時代にハプスブルク家を擁する諸侯と対立)

  

神聖ローマ皇帝をうかがうベーメン王

(オタカル2世)

VS

これを阻止する諸侯の推すハプスブルク家

(ルドルフ1世)

   

1278   マルヒフェルトの戦い

:オタカル2世の戦死

→ベーメン(プシェミスル朝)の弱体化

 14c    プシェミスル朝断絶→ルクセンブルク朝の成立

      ベーメン王カレル1世が神聖ローマ皇帝に(カール4世)
       ・「金印勅書」でベーメン王を選帝侯に

・都プラハの繁栄、プラハ大学(カレル大学)の設立
       ・最盛期を迎えるも、ヨーロッパ全体としては戦乱・分裂期
        [百年戦争、大シスマ]

 14c-15c フス派の台頭

1414-1418 コンスタンツ公会議(神聖ローマ皇帝ジギスムントが主導して開催)

       ・大シスマの終了(1417

・ウィクリフ、フスの異端決定、フスの火刑

       ・フス戦争(1419-1436) フス派過激派 vs フス派穏健派 vs カトリック

 15c半ば ハプスブルク家との対立の中でフス派のイジーがベーメン王に選出される

      →フス派諸侯と教皇が対立する中で教皇派のハンガリー王マーチャーシュ1世(フニャディ朝)がベーメンの対立王に推されるが、急死

      →ベーメン、ハンガリー地域の政治的混乱

 1526   モハーチの戦い

      :ベーメン王兼ハンガリー王ラヨシュ2世が戦死
(オスマン帝国のスレイマン1世に敗れる)

      →後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世(カール5世弟)がベーメン王に

=ハプスブルク朝の成立

 16c半ば  兄であるカール5世の退位に伴い、オーストリア大公にしてハンガリー王、ベーメン王であったフェルディナントが神聖ローマ皇帝フェルディナント1世として即位

      →ベーメンはオーストリア=ハプスブルク家の一部に

 1618   三十年戦争:ベーメンで新教徒の反乱

→反乱は鎮圧されて、以降はハプスブルク家の支配力が強化された

 

 

 以上がベーメンの簡単な通史です。普通の教科書や参考書では一連の流れがなかなかとらえづらいのでまとめ直してみました。必要があれば参考にして下さい。ベーメン史は特に一橋の受験を考える受験生には必須の(2016年時点では)知識かと思われます。一橋2011年の大問1などは良い例でしょう。一応以下に問題をあげておきますので、参考にしてみて下さい。また、17世紀以降のベーメン史については一橋大学過去問「世界史」2014年(問題、解答、解説解法分析の大問2の解説中に示しておきました。

 やはり、ポイントになるのはジギスムントとフス派や三十年戦争あたりでしょうか。そういえば、フス戦争を題材にした『乙女戦争』なるマンガがあるらしいのですが、なぜか本屋に行くと常に最新刊しか置いていないので、大人買い派の私としては未だに食指が動きません。個人的には、厳密にはハンガリー史ではあるものの、ハンガリーの水戸黄門ことマーチャーシュ1世が好きです。ハンガリーでその手の番組をやってたりしないのでしょうか…。

01


 

[一橋大学2011年 大問1]

 

次の文章は、フス戦争の直前に、フス派(フシーテン)によって作成された「プラハの4ヵ条」の一部である。この文章を読んで、問いに答えなさい。

 チェコの共同体と、神のもとに忠実なキリスト教徒たちは、……主イエス・キリストによって新約聖書のなかで命じられている以下の4ヵ条以外には何もなさず、求めず、自らのあらゆる財産および生死をかけて、可能な限り、神の加護を得て、これに反対するあらゆる人々に対抗しようとするものである。……
 4. 死に値する罪を犯した人々、とくに公然とあるいはそうでなくても神の法に背いた人々は、どのような身分であれ、しかるべき方法で、そのための職務を有する人々によって捕えられ、取り締まられるべきであり、……
 それらの罪とは、……聖職者においては、聖職売買の異端、そして洗礼や堅信、告解、神の体[聖体]や聖油[の付与]と結婚に際しての金銭の徴収、……死者のためのミサ、徹夜の祈祷、その他の祈祷などを有料として金銭を徴収すること、埋葬、教会の歌、鐘[を鳴らすこと]のための金銭の徴収、教会や礼拝堂、祭壇、墓地の聖職者の叙階における金銭の徴収、贖宥による金銭の徴収……などである。
  (ヨーロッパ中世史研究会編『西洋中世史料集』より、一部改変)

問い フス戦争へと至った経緯を踏まえるとともにフス派が何に対して戦っていたかに重点を置きつつ、その結果と歴史的意義を論じなさい。(400字以内)

 


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