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カテゴリ: 早稲田大学法学部「世界史」論述対策

 さて、本日はこれまでも当ブログで解説してまいりました早稲田大学法学部の2017年「世界史」のうち、大問5の論述問題について焦点を当てたいと思います。問題はすでに各予備校HPで公開されていますので、そちらをご覧ください。

 今回の問題を見た第一印象ですが、「お、ワセ法もちょっと洗練されてきたぞ」というのが私の印象です。私の早稲田法学部論述に対するこれまでの印象は一言で言うと「無骨」です。「直球どストレート工夫なし!」という雰囲気であったわけで、イメージ的にはモブ化した後のタイガーショットであり、鳳翼天翔です。

 

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参考資料:タイガーショットで吹っ飛ばされる森崎
 

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©車田正美『聖闘士星矢』(集英社)

 

今回の問題ではその雰囲気が少し変わりました。たしかに、航海法は「ベタ」な設問で頻出の箇所です。これまでの設問では、この航海法は主に17世紀イギリスの重商主義政策の典型、または英蘭戦争の原因という流れの中で出題されることが多かったものです。ところが、今回の設問では、まずイギリスの国内事情への視点が追加されました。つまり、重商主義政策から自由貿易主義への転換という視点です。(これが近年一橋などでは頻出のテーマであることはすでにご紹介しました) さらに、ここでは19世紀前半の反穀物運動や選挙法改正という別視点も加わってきます。また、制定された17世紀の状況から19世紀半ばまでという時期的な長さも確保されています。つまり、これは航海法をテーマとした設問というよりは、イギリスの通商政策の変化とその背景として存在した工業化の進展と産業資本家の台頭という社会構成の変化を説明せよ、という設問なわけで非常に複合的な設問です。

もっとも、ワセ法がこうした変化をする兆しを見せているということはすでに出題傾向の中でも指摘していました。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_231096.html)それまでの単線的な出題が、次第に多面的、多角的な設問になってきているという点には注意が必要だと述べたかと思いますが、今回の設問でこの傾向が今後も続いていく可能性がさらに高まったと思います。今回はイギリスを中心に複数の要素を抱えるテーマについて説明するという形のものでしたが、場合によってはむしろ地理的に広い範囲のもの同士の関係を問う(いわゆるグローバルな展開の)設問が出題される可能性もあると思います。いずれにしても、一つの物事を一つの側面からのみ理解するような勉強の仕方では今後のワセ法の論述を解くことは難しくなってきそうですね。レベル的には東大の方が高いと思いますが、東大の過去問演習などは役に立つかなぁと思います。

 また、形式的な点としては、昨年に続いて上限は300字となりました。どうやらこちらもこの変化で固定されるようです。

 

早稲田大学法学部「世界史」2017年論述問題(問題概要・解説とポイント)

 

【問題概要】

17世紀半ばに制定されたイギリスの航海法が制定された理由を答えよ。

19世紀半ばに航海法が廃止された理由を答えよ。

・当時の政治と経済の情勢に関連付けよ。

・指定語句を全て用いよ。(選挙法改正/重商主義/自由貿易/中継貿易)

・指定字数は250字から300字。

・指定語句には下線を付せ。句読点、数字は1字として数える。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

 設問の要求

:イギリスの航海法が制定・廃止された理由を当時の政治・経済と関連付けて説明せよという、きわめて明快な問題設定です。実は、類似の設問はすでに2012年早稲田大学法学部の論述問題で出題されています。(17世紀における英蘭両国の友好関係と敵対関係) ですから、過去問をしっかりやってから臨んだ受験生であれば、今回の設問の「制定の理由」を答えることはそう難しくなく、こちらの部分で差がつくことはなかったと思います。

 

【解答手順2、設問の二つの要素ごとに事実関係を整理】

:今回の設問のテーマは、問題設定自体も明確ですし、頻出の箇所ですから、大きなフレームワークを描くことはさほど困難ではありません。まずは、指定語句に頼ることなく、素直に設問の要求している「制定の理由」と「廃止の理由」、そして関連事項の整理をしてしまうのが解答作成への近道だと思います。

 

 もっとも、今回の要求のうち「廃止の理由」については漠然としか理解していなかった受験生も多いのではないでしょうか。「何となく穀物法廃止の3年後くらいに航海法が廃止されたことは覚えているけど…何でだ?」と固まってしまった受験生と、「よっしゃ、来た!自由貿易の流れね!」とすぐに判断のついた受験生で差がついたものと思われます。固まってしまった場合でも、半分は書けるわけですから、ここは焦らず半分+αを狙いましょう。どんなに頑張っても、人間の記憶には限界というものがあります。たまたま、自分の記憶からすっぽり抜け落ちてしまっている、というところから出題される可能性は常にゼロではありません。そうした時に大切なのは、周囲との差を最小限にすること。まずは不時着解答を作成するためにも、できる整理、「制定の理由」を整理することからしておくべきです。

 

1、制定の理由

 オランダの中継貿易を妨害するため。

(関連事項)

  航海法の内容:イギリスへの輸入をイギリスの船か原産国の船に限定すること。(正確には、アジア・アフリカ・アメリカからの輸入についてはイギリス船のみ、ヨーロッパからの輸入についてはイギリス船または生産国か最初の積載を行った国の船に限定する)

  制定の時期:クロムウェル統治下の1651年。議会に影響力を及ぼした貿易商の要望によるもの。

  政治的関連:クロムウェル、議会、重商主義、英蘭戦争

  経済的関連:貿易商、重商主義、中継貿易、海洋覇権

 

 制定の理由については上に書かれたようなことが盛り込まれていれば十分でしょう。注意しておきたいのは、航海法はたしかにクロムウェルの政権下で成立しましたが、クロムウェル自身は航海法制定に対しては否定的であった点です。クロムウェルは、同じプロテスタント国家であるオランダと積極的に敵対する政策には内心反対でした。貿易商の働きかけを受けた議会の要請で仕方なく、というのが本当のところであるようです。ですから、ここをはき違えてクロムウェルが積極的に航海法制定を行った、という風に書いてしまうと実態とのずれが生じてしまいます。

「そんな細かいこと知らないってw」と思うなかれ。実は、このクロムウェルの態度は17世紀イギリス史を研究している人間が読む基本の概説書にはきちんと載っています。ですから、おそらくこの設問を作成した先生はすぐにこうした点に違和感を持つと思います。

脱線ついでに書いておくと、独裁者のイメージが強いクロムウェルですが、この独裁自体もクロムウェルが望んだ形ではなかったようです。国王を殺害してしまった議会派でしたが、慣れない「共和政」なる政体に完全に戸惑ってしまい、意見がまとまりません。かれらは、自ら政策を立案決定などしたことがなかったので、それを任された時に途方に暮れてしまいます。何だかこのあたり、突然政権を担当することになった万年野党のようですね。そこで議会は強力なリーダーシップを持つ指導者を待望するようになります。そして議会は、あろうことかクロムウェルに「どうか僕たちの国王陛下になってください!」とお願いをします。せっかく苦労して王政を打倒したにもかかわらず、です。

これには、クロムウェルの方が面食らってしまいます。厳格なピューリタンで清貧と節制を良しとしたクロムウェルは、この要請を断ります。当然ですねw 自分で国王を殺しておいて自分が国王になってしまったら全く自己を正当化することができません。完全な簒奪者、弑逆者になってしまいます。まるでシェイクスピアのリチャード3世みたいな立ち位置になることはクロムウェルの本意ではありません。ところが、あきらめきれない議会は「それなら、国王陛下ではなくて、国を守るために僕らを導くリーダーになってください!」と要請します。これはさすがにクロムウェルも断るわけにはいかず、承諾します。これが「護国卿(Lord Protector)」というあの地位です。

ですから、クロムウェルの独裁というのは、絶対王政における国王による統治とは異なりますし、ヒトラー的な強権による独裁とも全く異なります。たしかに、クロムウェルは軍を握り強力なカリスマを持ってはいましたが、その権力は議会からの委任とその後の調停役としての力量によるものであって、彼自身が何でも自由にすることができた、というのとは根本的に違うのです。ですから、彼自身が望まなかった航海法が制定されたというのも、そうしたコンテクストの中で考える必要があります。このあたりのやや突っ込んだイギリス史の概説が読みたいという時には、色々な本がありますが、私のお勧めは17世紀についてはBarry Coward, The Stuart Age: England 1603-1714 (London: Longman, 2003)17世紀末から19世紀初頭についてはFrank O’Gorman, The Long Eighteenth Century: British Political & Social History 1688-1832 (London, Hodder Arnold, 1997)18世紀史を中心としてはH.T. Dickinson(ed.), A Companion to Eighteenth-Century Britain (Oxford, Blackwell, 2002)あたりがしっかりしていて面白いと思います。

 

だいぶ話がそれましたw 問題なのは廃止の理由ですね。これについては、かねてからお話ししていた19世紀初頭のイギリスの自由貿易体制、自由主義外交の動きをしっかり頭に入れてあるかがカギになります。すでに、当ブログの「あると便利なテーマ史③:近現代経済学の変遷」の「ここがポイント」のところで詳しく説明してありますし、一橋の問題解説の方でも似たようなことをお話しした記憶があります。

http://history-link-bottega.com/archives/cat_216372.html

 イギリスでは産業革命の進展に伴い、産業資本家が台頭してきます。その中で、既存の特権を持った集団との軋轢が生まれてくるわけです。

 
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 ですが、産業資本家は選挙法改正前には選挙権は持っていません。(昔、この時期について指摘して「19世紀の議会においては貴族などの旧来の支配階層による寡頭制は崩された」とする説を、図表などを駆使して批判せよ、という設問が慶応で出ましたねぇ。記憶曖昧ですが、たしか1994年でしたか。「ジェントルマン資本主義」論が流行ってたからですかね。)ですが、彼らは「圧力団体(Pressure Group)」として議会に対して効果的なロビー活動を行うことは可能でした。こうした中で、産業資本家が要求する自由貿易主義論が高まっていきますし、選挙法改正も達成されるわけです。産業資本家に選挙権がないからと言って議会に対して無力であったなら、いつまでたっても選挙法が改正されるわけがありませんからねw ですから、航海法廃止の理由も、基本の路線は「産業革命→産業資本家の台頭→自由貿易要求の高まり」で良いと思います。この動きに当時の穀物法廃止運動をからめて、選挙法改正による産業資本家の選挙権獲得がこうした自由貿易への動きを加速したとしておけばまずまずの解答が仕上がるでしょう。まとめると、以下のようになります。

 

2、廃止の理由

 産業資本家の台頭と自由貿易要求の高まり

(関連事項)

  産業資本家台頭の背景:産業革命

  自由貿易要求の背景:長年の保護貿易による物価高騰に対する労働者、産業資本家の反感

  廃止の時期:1849年、ラッセル内閣(ホイッグ党)の時

  政治的関連:19世紀初頭ヨーロッパの自由主義の波、第1回選挙法改正(1832

  経済的関連:反穀物法同盟(1838結成)、コブデン・ブライト、穀物法廃止

 

【解答例】

 オランダと海上交易の覇権を争っていた貿易商の要請を受け、クロムウェル統治下の議会はイギリスへの輸入をイギリス船または原産国の船に限定する航海法を制定し、オランダの中継貿易を妨害する重商主義政策を展開した。その後の英蘭戦争に勝利し海洋覇権を握ったイギリスであったが、産業革命による工業化が進み産業資本家が台頭すると、長年の保護貿易による物価高騰に対する不満から自由貿易要求が高まった。第1回選挙法改正により産業資本家にまで選挙権が拡大されると運動は勢いを増し、コブデンやブライトが攻撃した穀物法とともに航海法も自由貿易の障害と批判され、1849年に航海法が廃止されたことでイギリスでは自由貿易体制が確立した。(300字)

【問 題】

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

 問題の概要は以下の通りです。

・中国をめぐる外交関係の展開を説明せよ。

ただし、設問導入部分の文章から以下の条件が想定できます。

・中華人民共和国の成立以降の話であること。

・その時々の国際関係による影響や、逆に中国が他国の外交政策に影響を及ぼしたことなどを考慮せよ。

・指定語句として、

「中ソ友好同盟相互援助条約」

 「中ソ論争」

 「ニクソン・ドクトリン」

 「日華平和条約」

 の四語が示されている。これを「列記した順に用いて」解答(順番は設問通り)

・指定字数は200字から250字です。

・所定の語句には下線を付せ。

 

 早稲田はなんだかんだ言って中国好きそうですね。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

・設問の要求

:(中華人民共和国の成立以降の)中国をめぐる外交関係の展開を記せ

 ・留意点

:その時々の国際関係から中国の外交政策はどのような影響を受けたか。また、他国の外交政策にどのような影響を及ぼしたかに注目。

 

【解答手順2:指定語句分析】

・指定語句についてだが、「列記した順に用いて」とあるにもかかわらず、日華平和条約(1952)があるなど、起こった年代順ではないので注意が必要。もっとも、このことが逆にヒントにもなっている。

 

 ・中ソ友好同盟相互援助条約(1950

:台湾の国民党政府がアメリカの支援を受けて「大陸反攻」を狙うことに対抗。米ソ冷戦下での軍事同盟、「向ソ一辺倒」。本条約のもとに中国は朝鮮戦争に「義勇軍」を派遣。

→アメリカはアジアにおける防共圏の形成に腐心(対中封じ込め)

   アメリカによる太平洋集団安全保障構想に基づく反共同盟や、関連する条約などは以下の表の通り。

 

1951

米比相互防衛条約

太平洋安全保障条約(ANZUS

日米安全保障条約(サンフランシスコ講和条約とともに)

1952

日華平和条約(本設問での使いどころはここではない)

1953

米韓相互防衛条約

1954

米華相互防衛条約

東南アジア条約機構(SEATO

 

★ ワンポイント

 一見すると脈絡がなくて覚えにくい反共同盟にも、背景がある。たとえば、1951年の諸同盟について言えば、アジアでの冷戦激化にともない、米英は対日早期講和論が台頭してこの実現に向けた動きが強まったが、これに対し日本の軍国主義の再度の台頭を恐れるオーストラリア・ニュージーランド・フィリピンが反対し、むしろ「対日防衛」圏構築の必要性を訴えた。アメリカとしても集団安全保障体制に基づいて講和後も米軍が日本に駐留できれば日本の防衛と日本における軍国主義の抑制の双方を達成しうると判断して、日本を含めたNATO型の集団安全保障体制を形成しようとしたが、オーストラリアとニュージーランドは日本と同盟国になることを拒否した。このため、アメリカは両国との間にANZUS(オーストラリアのA、ニュージーランドでNZ、アメリカ合衆国でUSですね)を、フィリピンとの間に米比相互防衛条約を締結の上で、日本と講和して日米安全保障条約を締結する、という流れになったわけです。

 1953年の米韓相互防衛条約は朝鮮戦争の影響ですね。実は、この太平洋集団安全保障構想は1949年初めに、フィリピンの提案に賛同した朝鮮の李承晩や台湾(中華民国)の蒋介石から持ち込まれたものでした。ところが、アメリカは1949年の段階では、これらの国が内政の安定化のためにアメリカを利用しようとしているのではないかと考えて消極的だったんですね。アメリカが対日講和に本腰をいれるのは1949年の後半からで、反共同盟構築が促進されたのは朝鮮戦争が開戦した後のことです。また、米華相互防衛条約は、当初台湾に対する軍事援助を打ち切っていたアメリカが、中国の他の周辺事態が鎮静化(1953年朝鮮戦争終結、1954年第1次インドシナ戦争停戦)したことで、その矛先が台湾に向かうことを懸念したから締結されたものです。教科書的には「反共防衛圏を形成した」の一言で片づけられてしまうのですが、背景にはその時々での国際関係の変化や国民感情、国家間の利害対立が複雑に作用していました。結局、アメリカはこの太平洋集団安全保障構想の実現に失敗し、個別の対応をとらざるをえなくなりました。

1950年代以降の中ソ対立(中ソ論争)と米ソ接近

1953年のフルシチョフによるスターリン批判と平和共存路線に毛沢東が反発

 (中国の独自路線と米ソの接近)

1954 周・ネルー会談「平和五原則」

1955 バンドン会議「平和十原則」

1959 フルシチョフの訪米(アイゼンハウアーとの会談)

→中ソ技術協定破棄(1959):ソ連技術者の中国からの引き上げ

→中国は大躍進政策に失敗

 

 ・1960年代の中ソ対立激化

1962 キューバ危機:米ソ再対立とその解決

   中印国境紛争:ソ連がインドに武器支援

1963 部分的核実験停止条約

1969 中ソ国境紛争(ウスリー川のダマンスキー島での軍事衝突)

 

1970年代の米中接近

:ヴェトナム戦争の泥沼化とアメリカの財政赤字

→アメリカが戦争を「ヴェトナム化」することを企図、中国への接近を図る

1969 ニクソン=ドクトリン

:ヴェトナムへの過度な軍事介入を避けることを言明→中国に接近

1971 国連代表権が台湾から中華人民共和国へ

   1972 ニクソンの訪中:事実上の中国との国交正常化

日中共同声明と国交正常化

日華平和条約の失効、日本が台湾と断交

   1978 日中平和友好条約

   1979 米中国交樹立

 

【解答手順3:解答のポイント】

 設問の要求と指定語句を鑑みれば、ここでは中国(中華人民共和国)をめぐる国際関係の大きな変化を示せばよいことがわかるので、基本の流れは「当初は冷戦構造が成立する中でソ連に接近→1950年代前半から中ソ論争→中ソ論争の激化と軍事衝突(中ソ国境紛争)→ヴェトナム戦争の泥沼化によるアメリカの方針転換と中国への接近→1970年代に入り、日米中の平和共存」という流れになります。この流れ自体は早稲田の法学部を受験するのであれば作れるようにしておきたい。問題になるのは「日華平和条約」の使い方です。設問に「列記した順に用いて」とあるので、時系列で書いていくと締結時(1952)のタイミングでは使えません。やはりここは、日本と中国の関係改善にともなって本条約が失効した、という流れで話をまとめるべきでしょう。実際、これが論述の方向性のヒントにもなっているのですが、問題はかなりの数の受験生が「日華平和条約って何だ?」となってしまっていることですね。正直、試験会場でも日華平和条約に反応してきちんと内容も把握できた受験生は少数派で、世界史の得意な人たちでしょう。だとすれば、仮に日華平和条約の部分が書けなかったとしてもそれほど気にすることはありません。上述した大きな流れさえ外さずに書けていれば、きちんと7割~75分くらいは確保できるはずです。最悪でも6割を下回ることはありません。いつも申し上げていることですが、論述は満点解答を作成するよりも、大幅な点数の取りこぼしをしないことが重要です。まして、早稲田は他にも数多くの小問がありますから、全体として合格点にたどり着くことを重視してください。

[問 題]

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

 概要を紹介すると以下のようになります。

・民族自決の考え方の世界への波及の仕方について述べなさい。

・時期は20世紀初頭から20世紀前半まで

 (表現としてどうかと思いますが、要は1901-1950まで)

・指定語句として、

「平和に関する布告」

 「十四か条の平和原則」

 「三・一独立運動」

 「国際連合」

 の四語が示されています。(順番は設問通り)
 所定の語句に下線を付せという指示は例年通りです。 

・指定字数は200字から250字です。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

 設問の要求

20世紀前半までにどのように民族自決という考え方が波及していったか

(期間は1901-1950年)

 

【解答手順2、指定語句分析】

 設問がややアバウトなので、まずは方向性を把握するために指定語句を精査します。正直なところ、「民族自決」について書こうと思えば東欧だろうとアジアだろうと中近東だろうとあらゆるところをテーマに書けることが山ほどあるので、もう少し範囲や路線を絞って方向性を確認しないと書きようがありません。ですから、書き始める前に出題者が何を意図しているかを指定語句から推し量ることが必須です。

 逆に、指定語句の分析とその整理という作業さえ済んでしまえば、聞かれていることは基本的なことが多いのである程度は体裁を整えて自然に書くことができると思います。

 

1、 平和に関する布告(1917

:ロシア十一月革命(十月革命)を達成したボリシェヴィキが発布

「無併合・無賠償・民族自決」の原則による講和の提唱

  →1918 ブレスト=リトフスク条約によるドイツとの講和

 

2、 十四か条の平和原則(1918

:ロシアの平和に関する布告に衝撃を受けた連合国側のウィルソンがこれに対抗するために発表

 [①影響]

 ・第一次大戦後のパリ講和会議ならびにヴェルサイユ体制下において、フィンランド・エストニア・ラトヴィア・リトアニア・ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(1929年からユーゴスラヴィア)などの東欧諸国が独立

アジア諸国やエジプトなどで民族自決を求める運動

 [②問題点]

 一民族一国家の原則に基づいて東欧に国民国家が形成された結果、少数民族問題が発生

民族自決の適用はヨーロッパのみであり、アジアには適用されなかった

 

 ★ ワンポイント

  あまり世界史の教科書などでは言及されませんが、ウィルソンの十四か条の平和原則は、その前年にロシアのボリシェヴィキ(1918年からはロシア共産党)が発表した平和に関する布告に対抗する必要性から出された側面があります。ボリシェヴィキが第一次世界大戦を帝国主義戦争と断罪し、その証拠としてロシア帝国時代に締結された秘密外交(サイクス=ピコ協定など)を次々に暴露したことで連合国側の戦争に対する大義名分は大きく揺らぎ、またロシアの戦争からの離脱によって東部戦線の維持が困難になり、協商国側は不利な立場に置かれることになりました。こうした中でウィルソンは新たな戦争目的として十四か条を示したのです。だから十四か条にも「秘密外交の禁止」という項目があるのですね。

 ですが、共産主義者であるレーニンが示した平和に関する布告と、英・仏などの植民地を多く抱えた協商国に配慮しなくてはならないウィルソンの十四か条では内容に大きな差がありました。本設問に関係する民族自決について言えば、平和に関する布告が民族自決を全面承認する内容になっていたのに対し、十四か条では「関係住民(植民地住民など)の利害が、法的権利を受けようとしている政府(支配国政府)の正当な請求と同等の重要性を有する」として、民族自決の重要性を認めながらも、それはあくまで本国政府が「正当」に有する権利と比較衡量された上で認められるべきものだとされています。さらに、その適用範囲も、第10条から第13条によって示されているように、基本的に敵対国の民族集団に適用されるものでした。

 ちなみに、第10条から第13条の内容をかいつまんで示すと以下のようになります。

 

 第10条:オーストリア=ハンガリー帝国の自治

 第11条:バルカン諸国の回復

 第12条:トルコ少数民族の保護

 第13条:ポーランドの独立

 

 ね?もう何というか、そのまんまドイツ・オーストリア・オスマン帝国が利害を持っている地域でしょ?ですから、民族自決がヨーロッパにのみ適用されたというのは、何のことはない、要はこれら敵対国の解体を進めたに過ぎなかったからなんです。ですから、民族自決がアジアなどに適用されなかったのも無理はありません。だって、これらの地域は戦勝国の支配地なんですから。

 いずれにしても、ヴェルサイユ条約によって東欧諸国は独立を果たしました。もっとも、これはロシア革命がヨーロッパに波及することを防ぐこともその目的としていました。以下がこの時に独立した諸国です。

ヴェルサイユ体制(東欧)

 「東欧の地図なんて覚えても…」と思う人がいるかもしれませんが、私は多くの受験生が世界史を覚えられない原因の一つに「地図を把握していない」ということがあると考えています。「中央アジア」とか「イベリア半島」と言われた時に「パッ」とその地域が目に浮かぶようにすると、イメージ付けも簡単ですが、知らない情報の上に知らない情報を重ねようとしてもうまくいきません。また、東欧は中世では神聖ローマ帝国、近現代ではオスマントルコ、ロシアの南下政策、ドイツ・オーストリアの進出や戦後の共産化など、様々な分野で出題される地域にもなりますから、せめて「ポーランド」、「チェコスロヴァキア(このうち東部がチェコ[≒ベーメン])」、「ハンガリー」の位置関係くらいは把握しておきましょう。バルト三国が覚えづらい時は、エストニア・ラトヴィア・リトアニアの順だけ覚えておくと、「リトアニア=ポーランド大公国」があるからポーランドに近い方がリトアニアだ、と判断がつきます。ものを覚えるときに重要なのは、語呂合わせなどももちろん良いですが、常に同じ順番で覚えるなど、自分なりのルールを決めておくことです。

 

3、 三・一独立運動(1919

[①背景] 

・朝鮮総督府による武断政治と土地調査事業

・パリ講和会議に対する期待(東京で留学生が独立宣言とデモ)

[②事件の発生と経過]

・高宗(ハーグ密使事件後日本の監視下に)の死

→ソウルで数千人規模のデモ、独立宣言

3月から5月で延べ50200万人参加、死者数百~1万弱を出す全国規模の運動に発展

→日本は文化政治への転換

→李承晩は上海で大韓民国臨時政府を結成

 

4、国際連合成立(1945

  [①成立の背景と民族自決]

・大西洋憲章(1941

=枢軸国との戦争目的と戦後の国際協調についての英・米合意→民族自決の明記

  ・サンフランシスコ会議(1945

→国際連合憲章採択、半年後の10月に発足

  [②国際連合成立の民族自決にとっての意義]

  それまでは理念に過ぎなかった民族自決に国際法上の根拠が成立

インド・朝鮮の独立、その他東南アジア各国で独立運動

 

【解答手順3、解答のポイント】

 本設問のポイントは、何といっても「民族自決」を軸に解答を整理するということです。これにつきます。さらに、もう一点ポイントをあげるとすれば「国際連合の使い方」ですね。「平和に関する布告」や「十四か条の平和原則」、「三・一独立運動」が比較的近い時期(23年の間)におこった出来事であるのに対して、残り一つ「国際連合」だけは1945年設立と数十年もの開きがあります。流れでいったら「国際連盟」があってもいいのですが、そうではないのですね。そこにどのような意味を見出すか、これがポイントではないでしょうか。

 だとすれば、基本的な流れは「ボリシェヴィキの発表した平和に関する布告の中で民族自決が示されたことに対抗して、ウィルソンは十四か条の平和原則を発表したが、これは民族自決を敵対国の支配地であった東欧諸国に限定し、アジアなどの植民地には適用しないという限界があった。これに期待を裏切られたアジアなどの植民地では民族運動が激化し、朝鮮では三・一独立運動が起こった。(ちなみにこれで165字)」という流れだと思いますが、これに国際連合設立によって民族自決に国際法上の根拠が示されたこと、英仏に植民地を抑える力が残っていなかったことなどから、インドや朝鮮の独立や各地での独立運動へとつながったとまとめるとすっきりすると思います。様々な情報があって取捨選択することが難しいのは相変わらずですが、大切なことは設問の要求する大テーマを外さないこと、そして設問に含まれる意図をどこまで正確にくみ取るかということです。やはり、ここでもコミュニケーションが大切になるのですね。出題者の側は多少そっけないですがw

 

[問 題]

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

 問題の概要について説明しますと、「ナポレオンによるドイツ支配からドイツ帝国の誕生にいたるまでの歴史的過程」を250字から300字で説明せよというものですが、以下の条件が付されています。

条件1:オーストリアの歴史的役割に留意しなさい。

条件2:指定語句を列記した順に用い、所定の語句には下線を付せ。

   (ライン同盟 ウィーン体制 1848年革命 ビスマルク)

 

【解答手順1:設問内容の確認】

 設問の要求

:ナポレオンによるドイツ支配~ドイツ帝国の誕生に至るまでの歴史的過程の記述

 注意点:オーストリアの役割に留意せよ

 

【解答手順2、指定語句分析】

 簡単に指定語句についてまとめておくと以下のようになります。

 

1、ライン同盟

1806年にナポレオンが西南ドイツ諸邦支配のために結成させた傀儡同盟

 これを受けて神聖ローマ皇帝フランツ2世が退位し、神聖ローマ帝国が完全消滅した

2、ウィーン体制

181415年にかけて開催されたウィーン会議によって成立した国際体制

 メッテルニヒの主導によって成立した反動体制

 タレーランの提唱による正統主義と勢力均衡を基本原理とする

 31848年革命

1848年に発生したフランス2月革命が各地へ波及

→ベルリン3月革命・ウィーン3月革命

→メッテルニヒ亡命、ウィーン体制の一部が崩壊

→その後、ドイツではフランクフルト国民議会、ヨーロッパ各地でも自由主義と民族主義の運動が高揚

 4、ビスマルク

:ヴィルヘルム1世によって宰相に任命される

→自由主義的な議会と対立しながらも鉄血政策を推進
    (プロイセンによる「上からの統一」)

   →デンマーク、オーストリア、フランスを戦争で打ち破ってドイツ帝国を成立させる

 

3、関連事項の把握と必要事項の整理】

 それでは、指定語句にそって関連事項を整理していきましょう。設問では、「オーストリア」に注意するように言っておりますので、オーストリアの動きで特に関連するものには二重線を、その他のものでドイツ統一に深く関連する事項には下線を付してあります。

 

 A、ナポレオンのドイツ支配の開始

  ・アウステルリッツの戦い(1805年)

ライン同盟の結成(1806年)

神聖ローマ帝国の消滅(フランツ2世の退位)

  ・イエナの戦い→ティルジット条約(1807年)

→プロイセン領の削減とワルシャワ大公国成立

         →プロイセン改革(シュタイン・ハルデンベルク)

→ナショナリズムの高揚(フィヒテ)

 

 :ナポレオンがドイツ支配を始めるためには、当時のドイツ地域における二大領邦であるプロイセンとオーストリアを撃破しなければなりません。また、この両国はフランス革命(1789)の起こった後にルイ16世を支援してフランスに干渉戦争をしかけてきていますから、その流れからしてもナポレオンは両国と敵対します。

  こうした中で、ナポレオンはオーストリアとロシアをアウステルリッツの三帝会戦(1805年)で撃破し、これがきっかけでオーストリアのドイツ諸邦に対する影響力が弱まると同時に西南ドイツ諸邦はナポレオンの占領下におかれました。こうした中で、名目上神聖ローマ帝国に属していた諸邦にナポレオンが強制的に締結させたのがライン同盟です。ライン同盟の成立によって完全にその存在意義をなくした神聖ローマ帝国は、皇帝フランツ2世の退位をもってその幕を下ろします。

  つづいて、ナポレオンは北ドイツの雄、プロイセンをもイエナの戦い(1806年:またはイエナ=アウエルシュタットの戦い)で撃破します。これによりナポレオンはプロイセンの首都ベルリンに入城し、大陸封鎖令(1806年)を発してイギリスとの戦いに備えるのです。続く1807年にはナポレオンはティルジット条約をプロイセン・ロシアと締結して、プロイセンの領土の大幅な削減(エルベ川東岸はウェストファリア王国となり、ナポレオンの弟ジェロームが王となる。また、ポーランド分割で手にしていたプロイセン領ポーランドはワルシャワ大公国となり、ザクセン公が大公位を兼ねた)と、ダンツィヒの自由市化、ロシアによる大陸封鎖令の順守などが決定され、ドイツからポーランドにかけてはナポレオンの影響下に入ることになりました。

 

 ★ ワンポイント

  勘違い、というか正確に把握していない人が多いのですが、当時のプロイセンとオーストリアは同じドイツ地域にありますが別の国(領邦)です。ですから、オーストリアを撃破したからといって自動的にプロイセンも支配下に入るわけではありません。プロイセンがナポレオンの影響下に置かれるのはイエナの戦いの後。イエナの戦いでプロイセンを破ったからこそ、ナポレオンは「ベルリン勅令(大陸封鎖令)」を発することができるわけです。ベルリンはプロイセンの都ですから。また、この後のシュタインとハルデンベルクらによる「プロイセン改革」もあくまで「プロイセン」での出来事なのだということは確認しておきましょう。

  同じようなことは、1848年のベルリン3月革命やウィーン3月革命にも言うことができますね。つまり、当時はドイツ各地の領邦で同じような革命運動が起きていて、その代表的なものがプロイセン首都のベルリンやオーストリア首都のウィーンで起こったものなわけです。こうしたドイツ各地の自由主義者が集まって結成するのがフランクフルト国民議会、というわけ。日本の幕末で言えば、西郷隆盛や桂小五郎に坂本龍馬といったお歴々が京都に集まってもし「議会をつくるどー」って言ったら京都国民議会、みたいなイメージでしょうか。

 

 B、ウィーン体制(ワーテルローでのナポレオンの敗北による)

  ・メッテルニヒ(オーストリア外相)が主導

オーストリアが国際協調を主導する中で、ドイツ連邦の盟主としてドイツへの影響力回復

(ただし、これはオーストリアがドイツ地域の支配権を手に入れたことを意味するのではなく、むしろ「勢力均衡」の縮図)

  ・プロイセンは関税同盟(1834)をリストの提唱で結成=北ドイツの経済的統一進む

 

:ウィーン体制は入試でも頻出の箇所で内容も盛りだくさんですが、ここではドイツ統一の過程を、オーストリアを中心に見ればよいので、関連する事項も絞られます。やはり、ここではオーストリアがこの会議を主導したことに注目した上で、ドイツ地域にどのような影響を及ぼしたかを考えるべきでしょう。

   その際、注目すべきはドイツ連邦です。ドイツ連邦は確かにオーストリアを連邦議会議長とするドイツ諸邦の連邦国家で、ライン同盟とフランスの影響力は消失しました。ですが、これはオーストリアが連邦に所属する諸邦を支配したことを意味しません。ホルシュタインの君主はデンマーク王国でしたし、ハノーファーはイギリス国王の実家です。むしろ、このドイツ地域は会議に参加した大国同士の「勢力均衡」の場とされ、ドイツ統一からはむしろ遠ざかるものでした。これは、ナショナリズムを嫌悪する多民族国家オーストリアの宰相となるメッテルニヒの目的にも敵ったものであったといえます。

   一方で、地域的な統合はまず経済面から達成されていきます。それが経済学者リストの提唱によって成立したプロイセンを中心とする北ドイツ諸邦の関税同盟であるドイツ関税同盟(1834)です。

 

 C、1848年革命

  ・ウィーン体制の崩壊

ドイツナショナリズムの高揚ベルリン3月革命ウィーン3月革命)

フランクフルト国民議会(大ドイツ主義と小ドイツ主義)

→小ドイツ主義の勝利と、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の戴冠拒否によるフランクフルト国民議会の自然消滅と「下からのドイツ統一」の挫折

 

 :フランス2月革命のあおりをうけて、それまで抑圧されてきた自由主義運動とナショナリズムが高揚、ドイツ地域ではフランクフルト国民議会による「下からの統一」が模索されます。

 この際、オーストリアを含む(大ドイツ主義)か含まない(小ドイツ主義)かが議論されましたが、多民族国家でドイツ統一によるナショナリズムの高揚が国家分裂につながりかねないオーストリアが統一ドイツに参加する見込みも立たず、議論は小ドイツ主義が優勢となり、国民会議はあらたな旗印としてプロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世にドイツ皇帝就任への要請を行います。

しかし、革命的な自由主義者に国王であるフリードリヒが好意を抱いているはずもありませんし、まして彼らに担がれてオーストリアを敵に回すのもまっぴらごめんということで、この就任要請はすげなく断られてしまい、ドイツにおける「下からのドイツ統一」は挫折を余儀なくされてしまいました。

 

 D、ビスマルクの鉄血政策とドイツ帝国の誕生(「上からのドイツ統一」の完成)

  フランクフルト国民議会によるドイツ統一の挫折「上からのドイツ統一」へ

  デンマーク戦争(1864

普墺戦争(1866ドイツ連邦の解体と北ドイツ連邦の成立(1867

オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立(1867

  普仏戦争(1870-1871→ナポレオン3世を破る(セダンで捕虜に)

→アルザス・ロレーヌ獲得、ドイツ帝国の成立

  (オーストリアが統一ドイツから除かれる)

 

 :あとは、ビスマルクとヴィルヘルム1世が率いるプロイセンによるドイツ統一の過程を書いていけばよいことになりますね。やはり注目しておくべきなのは北ドイツ連邦の成立と、オーストリア=ハンガリー帝国の成立、さらにドイツ帝国の成立でしょう。オーストリアに注目することを要求されている本設問では、やはりオーストリアが統一ドイツから除外されたことは強調しておきたいところです。

 

 あとは、以上のA~Dの内容を設問の要求に沿ってまとめていくだけになります。いろいろ情報があって取捨選択が難しいですが、「当初ナポレオンが支配を及ぼしたことで影響力をそがれたオーストリアが、ウィーン体制によって新たな国際秩序を築いたものの、自由主義とナショナリズムを抑えきれずにその体制も崩壊した。しかし、「下からの統一」も挫折した後に、鉄血政策によって国力を増強させたプロイセンがドイツ帝国を成立させてドイツ統一を成し遂げ、オーストリアはドイツ地域から除外された」(ちなみにこれで171字)のような大きな流れをつくってしまえば、あとはどこをどう肉付けするかという問題だと思います。できるだけ本論にそった事柄を選んで、余計な情報は極力カットしていかないと300字以内でまとめるのは難しいかと思います。頑張ってください。

 最近、私大でも論述問題が課せられることが多く、その対策に苦労しているらしい教え子たちからの相談が多いもので、最近では結局早稲田の法学部と慶応の経済学部を中心に講習を行っています。まぁ、歴史的な知識と理解さえしっかり身につければ、各校ごとの対策というのは出題傾向の確認と練習程度の意味合いしかないのですけれどもw ただ、大学によっては出題傾向を把握してその周辺の歴史に強くなっておくことで、ある程度の耐性をつけることは確かにできると思います。侮らず、過信せず程度で考えておくのが良いでしょう。まして、「ヤマをはればイケる!」なんていうのは運任せのギャンブル的な発想ですね。嫌いではないですがw

今回は早稲田法学部の論述問題の紹介と出題傾向の分析、過去問の解説などを行っていきたいと思います。まずは出題傾向なのですが、下の表が早稲田の法学部で過去7年間に出題された問題のテーマです。


早稲田出題(2016-2010)
 

[形式1]

 過去6年間では必ず大問5に設置されています。2010年から2015年までは一貫して200字以上250字以内という字数指定でしたが、昨年の問題では250字から300字と50字分量が増しましたただ、それも決して大きな変化とは言えず、基本的な形式に変化はありません。

[形式2]

 例年、4語の指定語句が示されています。設問の要求がかなりアバウトなこともありますので、この指定語句がないと論述の方向が定まらないこともあり、早稲田法学部の論述を解く上でこの指定語句の分析と整理は極めて重要になります。

[出題傾向1]

 大きく分けて、ヨーロッパ近現代史と中国近現代史から出題されています。時期的には16世紀以降を意識しておくとよいでしょう。内容も教科書や参考書の中で一大テーマとなるような重要な箇所が多く、あまりマイナーなテーマが出題されることはありません。

      東大のように非常に大きな枠組みを意識しないと解けないような広い視点も必要なく、一橋のように特定の分野についてやや深い歴史的理解や知識が求められることもありません。オーソドックスな問題で、よく言えばシンプル、悪く言えば単純でアバウトな出題になっていると思います。

[出題傾向2]

 あまり言い方は良くありませんが、東大や一橋で出題された問題をやや簡単にしてアレンジしたような出題がされることがあるように感じます。ですから、早稲田の法学部の論述を解いてしまって練習材料がなくなってしまった、ということがもしあれば、その時は東大の論述対策用テキスト(ベタですが、『東大の世界史25カ年』とか、『テーマ別東大世界史論述問題集(駿台受験シリーズ)』など)のうち、近現代史を重点的に練習しておくとよいでしょう。ここ7年の間、近現代史しか出ていないからといってそれ以外の範囲から出題されない保証はありませんが、仮に近現代史以外から出題されたとしても、だれでも一度は聞いたことのあるテーマからの出題になるでしょうから、基本的な知識さえまとめてあれば他の受験生に大きく差をつけられることにはならないのではないかと思います。

 

[解法・その他]

 基本的な解法としては指定語句を参考に関連事項を思い浮かべ、設問が求める解答へ導くために整理するという手順となります。設問に多少の変化が出たとしても、200字から300字程度で経過説明や背景・理由説明、結果・影響説明などを行う設問であると考えれば、特に戸惑う必要はなく、ブレイン・ストーミングからの整理、論述をいつもと同じようにこなせばよいでしょう。ただし、時間配分には注意すること。

内容としては、かつては一国史が多かったのですが、近年は近現代の国際関係を問うものなどが多く、複数の要素の対比や関係性を問おうとする出題者の意図が感じられます。正直、まだ過渡期にあるのではないでしょうか。東大などと比べると「まだ練れていないな」といった印象のある出題ですが、次第に洗練されてきている印象で、どこかでレベルが大きく変化するということもあり得るのかもしれません。早稲田は近年グローバル化への対応を大学全体で打ち出しているので、今後も国際関係史やそれに準ずる内容が出る可能性は高いと思います。

 

出題傾向については以上です。各年の過去問解説については早稲田大学法学部「世界史」論述対策(問題・解説と分析)をご参照ください。

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