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カテゴリ: 早稲田大学「世界史」論述対策

以下が、2010年から2021年にかけて、早稲田大学法学部大問5の論述問題として出題された問題のテーマ・字数・時期の一覧になります。
2021_2010法学部論述出題 - コピー
出題傾向等については、過去の出題傾向に関する記事や、各年の過去問解説の方で言及しておりますので、そちらも併せてご覧ください。
前に出題傾向分析を行った時と大きな違いは今のところ見られませんが、気になる点があるとすれば以下の通りです。

 

2019年に珍しく中世をテーマとした設問が出題された

:早稲田では珍しく、この都市は中世をテーマにした設問が出題されました。2010年以降という長いスパンで見れば12年の中で1年だけなので、極めて珍しいと言えますが、過去5年であれば5分の1、過去3年で見れば3分の1ということになりますので、「近現代史以外は決して出ない」とは言えません。以前からあちこちでお話ししている通り、傾向はあくまで傾向であって、絶対にそうなるというものではないので注意が必要です。

 ただし、2019年の問題は中世からの出題ではありましたが、基本的には叙任権などをめぐる聖俗両権の争いという極めて基本的な内容の出題でしたので、過度に気にする必要はないかと思います。

 

2020年の「米墨関係の変遷」は受験生にはややなじみのないテーマであった

:早稲田法学部では、2017年ごろからやや東大チックな、近現代の国際関係を問う出題や、複数の要素を対比し、関係性を問おうとする出題がされ始めていますが、一方でテーマ自体は世界史の王道的テーマが多く、ほとんどの受験生が授業等で深く学習したことがあると思われる設問でしたが、この2020年の問題だけはややそうした傾向とは異質な感じのする出題でした。

 

以上の①・②についてやや気にかかるところではありますが、現状では2019年・2020年の出題がやや浮いている感じがします。全体的な出題傾向については大きな変化はなく、今後も近現代史を中心に国際関係や複数の要素の関係性・変遷を問う設問が出題されると考えて差し支えないのではないでしょうか。

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 2020年の早大法学部論述はかなり変化球を出してきたなという印象でした。過去11年間の出題を見ても、近現代ヨーロッパまたは中国史が中心です。2019年の設問は時代について従来の傾向から外れてきましたが、それでも王道の設問であったので対処できる受験生も多かったのではないかと思えますが、2020年の本設問では受験会場で目が点になった人、天を仰いで神を呪った人などかなりいたのではないかと思います。

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 ただ、メキシコ史については確かに細かいディテールまで抑えている受験生は少なかったのではないかと思いますが、指定語句とその周辺についてある程度まとめていくことで対処できた受験生も一定数いたのではないかと思います。特に、本設問は正確にはメキシコ史ではなく、「アメリカ合衆国との関係」を問う問題でしたので、むしろアメリカ合衆国の歴史を通して知識として身についていた部分も多かったのではないでしょうか。

 本設問について少し注意しておきたいところがあるとすれば、メキシコ革命あたりでしょうか。感覚的にですが、近年メキシコ革命のディテールを問う設問が以前よりも増えてきている印象があります。メキシコ革命については『詳説世界史研究』などでもかなり細かいところまで説明されてきていますので、情報量の拡大が出題の増加につながっている部分もあるのかもしれません。また、これまでと同様「変遷」というテーマでの出題になっています。ただ、本設問の「変遷」は少しとってつけた感がないこともありません。米墨関係については「AだったものがBになったよねー」という大きな関係で語れるものではなく、「Aになって、Bになって、Cになって…」というかなり複雑なものです。たとえば、戦後についてはアメリカからの経済援助を受ける一方で外交的にはややソ連寄りだったり、社会政策についても左派寄りの政策を展開したり、かと思えば第三世界の一員としてふるまったりと色々な性格を見せます。こうしたメキシコと合衆国の変遷を200年近くにわたって述べるのに、250字から300字はいかにも少なすぎますね。出題者の方は、「高校受験生はメキシコのことなどあまり知らないから300字でいいだろう」くらいのつもりで出したのかもしれませんが、しっかり勉強している受験生は意外に書ける量が多すぎて、情報の取捨選択に困ったのではないでしょうか。逆に、メキシコ史が書けない受験生は300字どころか100字も書けなくて困ったとなってしまうのではないでしょうか。そういう意味でも、悪い問題だとは言いませんが、やや設問としてのバランスに欠ける印象がありました。少なくとも、良問ではないと思います。

 

【1、設問確認】

・時期:メキシコの独立(1821)~20世紀末(2000

メキシコとアメリカ合衆国の関係はどのように変遷したか

・指定語句:テキサス併合 / メキシコ革命 / キューバ革命 / 北米自由貿易協定

250字以上~300字以内

 

:上述しました通り、本設問でもっとも大切なのは「メキシコとアメリカ合衆国の関係の変遷」を問うているのであり、メキシコ史を概観すれば済む設問ではありません。字数も限られているので、かなりシビアに米墨関係に絞って書いていく必要があるでしょう。

 

【2、メキシコ史(独立以後)の確認】

:設問を解く上では、米墨関係に的を絞って関連事項を列挙していくだけでもそれなりの解答が作れるのではないかと思いますが、メキシコ史についての復習をする機会というのもそう多くはありませんので、ここでは簡単にメキシコの独立以降の歴史を概観してみたいと思います。もちろん、これからお話しする内容をすべて覚えていなければならないとか、そういうことではありません。(ですから、これからお話しするメキシコ史の概観では、教科書や参考書に載っているレベルの人名・単語についてのみ青字で示しました。)そもそも、世界史の教科書や参考書に書かれているメキシコ関係の記述はそれほど多くなく、記述箇所もあちらこちらに散らばっています。ですが、近年はメキシコ関係の記述が増えてきていることも確かです。一例をあげますと、1995年版の『詳説世界史研究』(山川出版社)ではメキシコ革命についての記述は以下の通りでした。

 

 「1911年マデロによるメキシコ革命がアメリカのウィルソン大統領の支援のもとに初めて成功し、大統領は強力な権限を持ち、民主的な憲法が制定された。」(p.414

 

今読むと色々「おいっ」って突っ込みたくなる記述ではあるのですが、この程度しか書いていなかったのです。ですが、最新版(2017年版)の『詳説世界史研究』では、メキシコ革命についてかなり詳しく(と言っても10行程度ですが)書かれており、用語の面でもマデロに限らず、「サパタ / ウエルタ / カランサ / 1917年に制定された憲法とその内容」 など、かなりメキシコ革命の流れや実態がつかみやすい文章になっています。この辺の情報量の拡大が早稲田に「よし、メキシコ史出そう」と思わせた一つの原因かと思われますので、今後もメキシコ史についてはところどころで目にする機会が(劇的にではないにせよ)増えてくるのではないかと思います。

 

① (前史):神父イダルゴ、神父モレーロスの独立運動

:宗主国スペインにおいてナポレオン支配に抵抗する半島戦争(1808-1814)が発生すると、この混乱の中でクリオーリョの司祭(神父)であったイダルゴに率いられた独立運動が開始され、メキシコ独立戦争(1810-1821)がはじまります。イダルゴは独立闘争の開始後まもなく捕らえられて処刑されますが、その後はメスティーソの司祭であったモレーロスの起こした反乱などが拡大していきます。モレーロス自身もヨーロッパにおいてナポレオン戦争が終結し、スペイン本国が落ち着きを取り戻し始めると逮捕・処刑されます。その後、独立運動は次第に鎮静化していきますが、1820年にスペインで立憲革命が発生し、自由主義的な改革が進められたことがメキシコの保守派クリオーリョを刺激し、元々は王党派のクリオーリョとして反乱軍を鎮圧する側であった人物(アグスティン=デ=イトゥルビデ)が皇帝に即位して立憲君主国として独立を果たすことになります。

 

② 独立と合衆国のモンロー宣言

1821年に立憲君主国として独立を果たしたメキシコでしたが、皇帝アグスティン1世(アグスティン=デ=イトゥルビデ)は建国後まもなく議会と対立し、後に独裁権力を握ることになるサンタ=アナなどが反乱軍を組織して共和政を宣言し、共和国として再出発します。メキシコが独立したころのラテンアメリカは、他の諸国でも独立を宣言する国があいつぎ、これに対して旧宗主国スペインだけでなく、ヨーロッパ諸国の干渉が懸念されました。これについては、成立したばかりのウィーン体制が正統主義を掲げて自由主義やナショナリズムを抑圧する体制であったことも想起すると良いかと思います。そして、1823年にスペイン立憲革命(1820)の波及を恐れた神聖同盟諸国がスペインへの武力干渉を決定し、フランス軍がスペインに侵入して自由主義勢力を破ると、ヨーロッパによるラテンアメリカへの干渉はさらに現実味を帯びて懸念されるようになりました。こうした中、アメリカ合衆国第5代大統領ジェームズ=モンローはいわゆる「モンロー宣言」を発してヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉を唱え、ラテンアメリカ諸国の独立を支持しました。

 

③ テキサスをめぐる対立と米墨戦争

 独立後まもなく共和政へと移行したメキシコでしたが、サンタ=アナによる独裁的中央集権体制が構築され始めると、これに反発する各地域で独立の機運が高まっていきます。中でも、アメリカ合衆国と境を接していたテキサスには、スペインが支配していた時代から土地の払い下げなどを受けてかなりの数の入植者が入り込んでいました。こうした中で、テキサスに住むアメリカ系住民とメキシコ政府の間に様々な対立が生まれていきます。(たとえば、宗教的自由を尊重するアメリカ系入植者に対してクリオーリョを中心とするメキシコ政府はカトリック信仰を押し付けましたし、奴隷制が依然として認められていたアメリカ南部から来た入植者に対し、メキシコをはじめとするラテンアメリカ諸国は奴隷制を廃止していきます。[メキシコでは1829年に廃止]

 こうした対立と独立闘争を経て、テキサスは1836年にテキサス共和国として独立します。そして、テキサス住民の意思に従って1845年にはアメリカ合衆国の28番目の州として併合されました。しかし、テキサス共和国の独立を認めていなかったメキシコはこれに反発し、翌1846年から米墨戦争(アメリカ=メキシコ戦争)が始まります。この戦争に敗れたメキシコは、さらにカリフォルニアとニューメキシコなどを失うことになりました。

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(アメリカ合衆国の領土拡張:Wikipediaより、一部改変)

 

④ 自由主義者の諸改革とナポレオン3世のメキシコ出兵(メキシコ内乱)

1850年代半ばにサンタ=アナの独裁が終わりを告げると、メキシコでは(ベニート=)フアレスら自由主義者の活動が活発化します。これに対し、保守派が抵抗を行った結果、メキシコは内戦へと突入します。アメリカはフアレスを支援し、この支援を受けて彼は先住民族から選出された初のメキシコ大統領に就任します。ところが、このフアレス政権が外債の利子の不払いを宣言したことを口実にフランスのナポレオン3世が軍事介入を行います。それまでフアレスの支援を行ってきた合衆国でしたが、当時は合衆国でも南北戦争(18611865)が開始されたばかりでしたので、このナポレオン3世の軍事介入に対しては効果的な手を打つことができませんでした。ナポレオン3世は、戦争を優位に進めるためにメキシコの保守層を取り込むことを画策し、メキシコの旧宗主国スペインの旧主であったハプスブルク家のマクシミリアン(当時のオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の弟)をメキシコ皇帝に据えた君主制国家をつくることを提案し、マクシミリアンもこれを受諾して1864年にはメキシコ皇帝の座につき、メキシコには二度目の帝政が成立します。

 ところが、1865年にアメリカ合衆国の南北戦争が終結すると、合衆国はフアレスら自由主義者への支援を再開し、モンロー主義に基づいてフランス軍の撤退を要求します。その結果、戦争はフアレスらに優位に展開し、フランス軍は撤退し、最終的には皇帝マクシリアンは捕縛され、諸国からの除名嘆願要求も無視されて処刑されました。この「マクシミリアンの処刑」を描いたエドゥアール=マネの絵画は非常に有名です。弟マクシミリアンの処刑の報を、オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世はオーストリア=ハンガリー二重帝国の成立にともなう祝賀式典に際して受け取り、弟を見捨てて撤兵したナポレオン3世に対し強い悪感情を抱いたと言われています。

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(「皇帝マクシリアンの処刑」Wikipediaより)

⑤ メキシコ革命

:フアレスが1872年に亡くなりしばらくすると、メスティーソの出身であったディアスが武装蜂起によって大統領に就任(在:1876-1911)し、その後数十年にわたって独裁を行います。ディアスは地主階級の指示と英米の資本に依存して鉄道・電信網の整備や銀行の設立、鉱工業をはじめとする経済の発展を達成し、国内の近代化を進めることに成功します。しかし、それらの発展は外債への依存度が高かったためその権益の多くが外国資本に握られることとなり、メキシコの経済発展の恩恵に浴することができたのはディアスと彼によって保護された一部の特権階級のみで、貧富の差は大きく拡大することとなりました。

 このような中で、貧富差の拡大やディアスの長期政権に反対する人々など、様々な層において不満が蓄積していきます。その結果、マデロカランサ、オブレゴンといった自由主義的で裕福な地主層から、サパタ、ビリャなどの貧しい農民層まで広範囲にわたる人々が参加する革命へとつながっていきます。

 

【メキシコ革命の流れ】

1910 革命の勃発

マデロを国外追放にしたディアスの強権政治に反対して全国で蜂起

1911 マデロ政権の成立

→農地改革をめぐりサパタと対立

サパタがゲリラ活動を展開し、ビリャが合流

1913 ウエルタ将軍のクーデタ

:公金の使い込み問題で対立し、クーデタを起こし、マデロを処刑し軍事独裁開始

アメリカ合衆国大統領ウィルソンはウエルタ政権を認めず

→反ウエルタ派がカランサを中心に反乱軍が形成され、ウエルタ政権を打倒

カランサ率いる自由主義的地主層とサパタ、ビリャ率いる農民層が対立

→自由主義的地主層のカランサ政権が成立1915

1917 1917年憲法の制定

   :大土地所有者の土地分配(農地改革)の実施に消極的なカランサに対し、オブレゴンなど周囲の将軍たちは農地改革や労働者の権利保護、信教の自由などの進歩的内容を盛り込んだ憲法制定を要求した結果できた憲法

   →憲法を無視して政治を行おうとするカランサの求心力が低下

   →サパタ・ビリャの暗殺(サパタ[1919]、ビリャ[1923]

   →オブレゴンと対立したカランサが殺害される(1920

 

 簡単に上記の通りまとめてみましたが、大切なところは「自由主義的地主層が大土地所有などに寛容で保守的であるのに対し、農民層は土地分配や旧来の制度の打破を目指して急進的であることから対立が絶えない」という点と、1917年憲法は当時の国の実態を知っていたカランサ側近によってカランサの意に反して民主的な憲法になったが、実態をともなって実施はされなかった」ということです。土地分配についてはこの後しばらくしてからカルデナス政権下で実施されていくことになります。

 

⑥ 内戦の終結とカルデナス政権の成立

:カランサが1920年に殺害されると、オブレゴンが大統領となりますが、その後も政治混乱は続きます。メキシコをはじめ、ラテンアメリカではカウディーリョと呼ばれる武力を背景に諸地域に支配力を及ぼす指導者が多数存在していました。19世紀初めに独裁権力を握ったサンタ=アナもカウディーリョの一人として数えられますし、農民指導者ビリャ、オブレゴンの後に大統領となったカリェスなどもそう考えられているようです。正直なところ、カウディーリョとは何かと言った場合にはっきりとした定義があるわけではなく、たとえば『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年版)では「農村部や地方都市を中心にカリスマ的権威と独自の武装集団を持つ」(p.349)とされていますし、コトバンク(日本大百科全書[小学館])では「独立後の旧スペイン領ラテンアメリカ諸国に輩出した強大なボス的政治指導者のこと」とされています。いずれにしても、カリスマ性を備えて雄弁さなどの個人的魅力や金、暴力などで多くの人間を従えた頭目、ボス的存在(ゴン蔵みたいですがw)であるカウディーリョがあちこちに存在していたラテンアメリカでは、独裁権力をめぐる争いが長く続くことになります。イタリアンじゃないけどゴッドファーザー的な世界ですねw

最終的に、メキシコに安定を取り戻したのは1934年に大統領となったカルデナスでした。カルデナスは大統領に就任すると、民主的な内容を定めながらも半ば空文化していた1917年憲法の中身を現実のものとしていきます。カルデナスの業績としては

・鉄道、石油産業の国有化

・中小企業の保護育成

・労働環境の整備

・教育改革

などが挙げられます。また、スペイン内戦に際して人民戦線政府を支援したり、内戦終結後の亡命者や、スターリンの粛清を逃れたトロツキーの亡命を受け入れた人物としても知られています(もっとも、それでもトロツキーはスターリンの刺客に襲われて殺されてしまうのですが)。全体としてやや左派寄りの印象を受ける政治姿勢ですが、共産主義者というわけではありません。ただ、カルデナスが実施した石油国有化は利権を有していたアメリカ合衆国などの反発を買い、両国関係は悪化します。

 

⑦ 第二次世界大戦後の制度的革命党(1946~)支配と米国との関係改善

:カルデナスの所属政党であった国民革命党は、その後メキシコ革命党(1938)、さらに制度的革命党(PRI1946に名称を変えてその後半世紀以上にわたってメキシコを支配します。すでに、第二次世界大戦でメキシコが連合国側で参戦したことでアメリカとの関係改善が進んでいましたが、戦後についてもメキシコはアメリカからの資本を受け入れつつ、産油国として工業化を達成し、経済発展を続けていきます。外交的には、アメリカ主導の米州機構(OASへの参加や、キューバ革命後の「進歩のための同盟」への参加など、親米路線をとることもありましたが、一方で第三世界の一員としての行動をとったり、時にはラテンアメリカの社会主義政権に接近するなど、親米一辺倒の路線を取っていたわけではありませんでした。制度的革命党の政治と外交は、右派と左派、資本主義と社会主義の様々な側面を包括したものでしたので、イデオロギー的にどちらと定義できるようなものではありませんでした。

 

⑧ 1980年代以降のメキシコ経済と北米自由貿易協定

:産油国として工業化を達成していたメキシコでしたが、1970年代の第三世界外交の展開によるアメリカとの関係悪化や、経済が石油価格の変動に影響を受けやすい脆弱な構造であったことなどが災いして、1980年代には累積債務問題が表面化し、国民生活は窮乏します。こうした中で、制度的革命党は従来の社会改革路線よりも市場経済重視の路線に転換します。大雑把に言えば、人々の生活にセーフティネットを拡充するよりも、貧富の差は拡大しても国全体の経済が発展するような方向にシフトします。このような流れの中で、メキシコは1992年に北米自由貿易協定(NAFTAをアメリカ合衆国(締結時はブッシュ[パパの方]、発効はクリントンの時[1994])とカナダとの間に締結します。これにより、メキシコは北米との経済的結びつきを強めましたが、NAFTAによって生活基盤が破壊されると考えた貧しい先住民や農民たちはサパティスタ民族解放軍(名称はサパタにちなむ)を結成し、1994年には武装蜂起を行います。さらに、制度的革命党の大統領候補が選挙中に殺害されるなど、政情不安が高まる中で、メキシコ経済の将来に不安を感じた投資資金が一挙に海外に流出し、ペソの価値が暴落するメキシコ通貨危機(1994年末、テキーラ=ショック)が発生します。こうした中、もともとは制度的革命党から派生した団体に過ぎなかった国民行動党(PAN)が、1990年代を通して政治の腐敗を批判し、政治の民主化を掲げると急速に支持が高まり、2000年の大統領選挙に勝利を収めたことで半世紀以上にわたった制度的革命党の支配は幕を閉じました。

 

(⑨ ドナルド=トランプとメキシコの壁問題)

:本設問とは時期的に無関係なのですが、トランプ大統領の就任とともにメキシコの壁についてもクローズアップされましたので、補足的にこちらに書いておきたいと思います。(実際、トランプが「NAFTA見直すどー」と言いまくっていたこともあったので、「メキシコ、NAFTAくらいだったら出るかもわからんでー」と一部では言っておりましたが、実際にはそこまで目にしませんでしたね↓) アメリカとメキシコ国境に壁を建設する計画は1990年代からすでに進められていましたが、その目的は麻薬の密輸と不法移民対策にありました。壁の建設にはむしろ国境警備隊員の増員や、移民を受け入れる制度の整備などの対策に予算を使うべきであるとする反対意見などもありましたが、2016年のアメリカ大統領選挙でドナルド=トランプが国境の壁建設を公約として掲げたことで大きな争点となりました。その後、壁の建設が完了することはなく、2020年にジョー=バイデンが大統領選挙に勝利したことで建設ならびに移民政策の見直しが打ち出されました。

 

【3、アメリカとの関係の変遷】

:これまで、メキシコ独立後の歴史について概観してきましたが、設問が要求しているのはあくまでも「メキシコとアメリカ合衆国の関係はどのように変遷したか」ですので、上記のメキシコ史の中から、特にアメリカ合衆国との関係の変化がわかるような部分を抜き出して整理する必要があります。いろいろな書き方がありうるかとは思いますが、重要なのは以下の内容でしょう。

 

① モンロー宣言によるラテンアメリカの独立支持

② メキシコ出兵におけるフアレス政権支持

③ メキシコ革命時の宣教師外交の失敗

④ カルデナス政権の石油国有化政策などによる米墨関係悪化

⑤ 第二次世界大戦による関係改善

⑥ 冷戦下での(原則としての)親米路線と米国資本の導入

⑦ 第三世界外交をはじめとする独自外交と経済の悪化

⑧ 北米自由貿易協定によるアメリカとの経済統合、諸問題の発生

 

【解答例】

米はモンロー宣言でメキシコ独立を支持したが、テキサス併合をめぐる対立から米墨戦争が起こると、メキシコはカリフォルニアなどを奪われた。メキシコ出兵では、米は南北戦争後にフアレス政権を支援しモンロー主義を堅持したが、パン=アメリカ会議を皮切りにラテンアメリカへ影響を拡大し、ウィルソンは宣教師外交でメキシコ革命に介入したが失敗した。カルデナス政権の石油国有化政策などで米墨関係は悪化したが、第二次世界大戦でメキシコが連合国として参戦すると関係が改善し、戦後の米州機構参加やキューバ革命後の進歩のための同盟を通して米からの経済援助を受け入れ、北米自由貿易協定の締結締結で米との経済的結びつきをさらに強めた。(300字)

 

    補足:メキシコ通貨危機(テキーラ=ショック)とは

 

本設問とは直接関係ないのですが、少しメキシコの通貨危機(1994)のお話をしてみたいと思います。近年、経済のグローバル化にともなってある国で発生した通貨危機が地域または世界全体へと波及する大規模な金融危機に拡大することが増えてきています。こうした世界規模の金融危機は特に冷戦後、経済のグローバル化や取引のIT化にともない、各国間の資金の流出入がより容易かつ迅速になったことと無関係ではありません。1994年に発生したメキシコの通貨危機(テキーラ=ショック)はそのような背景の下で起こった通貨危機でした。

大雑把な構造をお話ししますと、1990年代前半のアメリカでは景気の後退が見られたため、金利の引き下げ政策が展開されていました。1990年の段階で8%を超えていたFFレート(Federal funds rate:米国の政策金利)は、1993年までに3%まで引き下げられました。つまり、当時のアメリカでは銀行にお金を預けていても儲かりません。今の日本で銀行にお金を預けることを想像してもらえれば分かるかと思いますが、低金利のもとでは雀の涙程度の利息しかついてこないのです。こうした中で、アメリカのお金は有望な投資先を探し始めます。そのお眼鏡にかなったのが1992年に北米自由貿易協定を結び、アメリカとの経済的な結びつきを強めて経済の拡大が予想されたメキシコでした。実際のところ、当時のメキシコは貿易赤字が拡大し、財政状況も良くなかったのですが、それ以上に将来の経済的拡大と安い労働力を求めたアメリカ企業の投資資金がメキシコに勢いよく流れ込みます。つまり、アメリカに置いておいてもたいして儲からないお金を、新興国で高い成長が見込まれるメキシコにぶっこんだ方が高いリターンが得られると当時のアメリカの人びとは考えたわけです。

74戦後史③(戦後の世界経済)

 ところが、こうしたメキシコへの大量の資金流入は1994年に入ると急速に逆回転を始めていきます。まず、アメリカでは1994年ごろから低金利策が功を奏したのか景気の拡大がみられるようになっていました。クリントン政権のもと、多くのIT関連ベンチャー企業が設立され、いわゆるドットコム=バブルが本格化するのは1990年代の後半ですが、1994年はその端緒についた時期でした。

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(「NASDAQ総合指数の変遷」、Wikipediaより)

 景気の拡大局面においてそのまま低金利政策を続ければ極度のインフレやバブルを誘発することになってしまいますので、FRBFederal Reserve Board、連邦準備制度理事会、アメリカの中央銀行にあたる)は利上げを行います。当時のFRB議長のグリーンスパンは急な利上げが市場にダメージを与えることを避けるために緩やかに金利を引き上げましたが、それでも94年初頭に3%だったFFレートは95年初頭には6%に達しました。このように、アメリカ国内の金利が上がると、①まず資金の調達が難しくなります。(金利が上がれば銀行からの借り入れをした場合の返済利息も上がるから。) また、②国内に資金をとどめておいてもそれなりのリターンが見込めます。(極端な話、預金した場合の金利が上がるのであれば、安定して高いリターンが見込めるので、あえてリスクをとって高配当を求めに行くモチベーションは弱まります。) そのため、アメリカからメキシコに流れ込んでいた資金の流れは急速に弱まっていきます。

 また、1994年にはメキシコの政情不安が一気に顕在化します。NAFTAの発効に反対するサパティスタ民族解放軍の蜂起や、PRI(制度的革命党)の大統領候補の暗殺などが起こると、それまでアタマお花畑でメキシコにお金をつっこんできたアメリカの投資家は「はっ、おれは何をしてるんだ。こんなアブねー国に金突っ込むよりも大人しくアメリカの銀行に預金して高い利息つけてもらうか、景気の拡大し始めたアメリカの株式に金突っ込んだ方が良くないか。メキシコ投資とかハイリスクすぎるだろ。」と思い直します。その結果、ものすごい勢いでそれまでメキシコに突っ込まれていたお金がアメリカへと引き上げられていくわけです。

74戦後史③(戦後の世界経済)1

 メキシコ経済に対する信用の低下と資金の流出によってメキシコ=ペソは大暴落し、メキシコ政府はペソ買いによる為替介入を行いましたが暴落を止めることができず財政が破綻します。これがいわゆるメキシコ通貨危機(1994)です。この「外国から流入していた資金がカントリーリスクの顕在化によって急激に流出し、信用不安が止まらずに通貨危機が起こる」という構図は後のアジア通貨危機(1997)ともよく似ています。アジア通貨危機についてはポール=ブルースタイン著、東方雅美訳の『IMF』(楽工社、2013年)上・下巻を読むと、当時のIMF内部の動きや通貨危機を防ごうとする各国の対応や状況がよくわかります。ノンフィクションですがとても面白い本です。世界史の勉強というと、とかく暗記ものみたいなイメージがありますが、これからの歴史学を理解するためには簡単な経済のしくみを理解することは必須だと思います。

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2020年早稲田大学政治経済 Ⅳ-B-7(論述問題)】

 こちらの解説は早稲田大学政治経済2020の問題解説(http://history-link-bottega.com/archives/cat_397528.html)にも同じものを掲載しています。


(1、設問概要)

・世界恐慌時の米「大統領の実施した経済政策(ニューディール政策)」の具体的内容

・その政策は合衆国において支配的であった考え方とどのように異なるものであったか

・「大統領の名(フランクリン=ローズヴェルト)」を示す

160字以内

→問題より、経済政策がニューディール政策であることと、大統領がフランクリン=ローズヴェルトであることはすぐにわかるので、これらは明記しておきたい。

 

(2、ニューディール政策の「具体的内容」を整理)

①価格調整[デフレ対策=インフレ誘導]のための生産制限

  ・AAA(農業調整法)‐農業生産制限

  ・NIRA(全国産業復興法)‐工業生産制限

②労働者保護

 ・NIRA‐全国復興局(NRA)設立と、最低賃金、週40時間労働制を定める

     労働組合結成と団体交渉権を認める

③失業者対策

 ・TVA‐テネシー川流域開発公社

 (・NIRAも公共事業局を設立して道路、学校、病院などの公共事業を促進)

 

(3、合衆国において支配的だった考え方との相違)

①従来‐自由競争を進め、独占を禁止する(革新主義または自由主義的資本主義)

②ニューディール政策‐修正資本主義(ケインズ)

            ・国家の経済への介入

            ・自由競争の抑制

            ・不況下のカルテルの公認

 →世界恐慌までの従来の合衆国における支配的な考え方が正確に示せるかどうかで少し差がついたかもしれませんが、その他の要素は基本的なものなので全体としては受験生が高得点を狙える論述問題だったと思います。古典派経済学の自由放任などを書いても必ずしも誤りではないですが、19世紀末から20世紀初めのアメリカで独占資本に対する一定の制限がかけられたことや、シャーマン反トラスト法(1890)、クレイトン反トラスト法(1914)などの知識は高校世界史の知識でも出てくる内容なので、これについてはどこかで言及したいところです(独占を禁止するということは、完全な「自由放任」ではない)。また、よく勉強している受験生であればセオドア=ローズヴェルトからの「革新主義(または進歩主義:高度な資本主義発達により生じた弊害を抑えるために野放しの自由放任主義を改めて独占の制限や抑制、労働者の保護を進めようとした考え方)」などについての知識もあるかもしれません。

 

【解答例】

 フランクリン=ローズヴェルトのニューディール政策は、農業調整法や全国産業復興法で生産や価格を調整し、労働条件を規制して労働者の保護を進め、失業対策としてTVAなどの公共事業拡大を行うなど、修正資本主義の影響を受け国家が経済に強力に介入するもので、独占を禁止して自由競争を保障する従来の自由主義的資本主義を転換するものだった。(160字)


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今年度の早稲田法学部問題を見た時の感想は、一言でいうと「普通」です。何だか突然よく見たことのある問題が出されました。(批判しているわけではありません。頻出ということは、その分、何度も使われるくらい良い問題だということでもあります。)ただ、過去9年間で近代よりも前の時代をテーマにした出題は一度もありませんでしたので、今回の中世という時代設定は意表を突いたものではあります。もしかするとそれもあって、問題の内容自体を過度に難しくすることは避けたのかもしれません。早稲田の論述については試験時間についての制約もありますので。

 ただ、それにしてもワセ法の受験生にとっては基本的に解ける「よっしゃ来た」問題だったかもしれません。逆に差がつかない分世界史で点を稼ぎたい人は「何だと―!」という気分だったかもしれないです。たとえば、今手元にある『段階式世界史論述のトレーニング』の問題の中には京都府立大の過去問が載っていますが、この問題概要は以下のようなものです。

 

・中世ヨーロッパにおける教皇権の確立の過程について200

・指示語:インノケンティウス3世、ヴォルムス協約、カノッサ

 

まぁ、こんな感じでそのものズバリではなくても、中世ヨーロッパにおける教皇権の確立や神聖ローマ帝国における帝国教会制などはあちこちの問題集に転がっている問題だと思います。ただ、早稲田の問題について注意しておきたいのは、聖俗関係の「変遷」を聞いているところです。指示語にオットー1世が入っていることも、この「変遷」に注意を払うように警告していますね。叙任権闘争ばかりに目が行ってしまうとこの「変遷」の部分は見逃しがちです。やはり、早稲田も物事の変化や関係性といったものを重視する姿勢は変わっていないようで、世界史のメインテーマの一つを問題として持ってくるところなどを見ても、以前に書いた出題傾向から大きく外れて、ガラッと出題の本質が変わった感じはありません。個人的には2017年の時みたいには萌えませんでした。

 また、この聖と俗との関係や叙任権闘争については、2010年の一橋大問1でも出題されています。こちらの問題は単に叙任権闘争や聖俗関係の変遷を問うものではなく、この争いが「現実の政治・社会生活に持った意義とは何か」を問う問題となっていて、より突っ込んだ難しい内容になっています(時期は11世紀~13世紀)。今回の問題の発展形として練習してみるのも良いかもしれません。

 

【問題概要】

・時期:10世紀~12世紀(901-1200

・中世ドイツにおける「聖(教皇権)」と「俗(世俗権力)」の関係の歴史的変遷

・指示語:オットー1世、グレゴリウス7世、カノッサの屈辱、ヴォルムス協約

250字~300

 

【解答手順1:全体の流れの確認】

:今回のように、歴史のメインテーマで大きな枠組みをすぐに思い浮かべることができるものについては、まずは全体の流れを把握してしまうことから入りましょう。と言っても、今回確認すべき大枠は下に示したもの程度で十分です。

 

①神聖ローマ帝国の成立と帝国教会制

②叙任権闘争の展開とその結果

 

【解答手順2:聖俗の関係性の変遷とは何かに注目する】

:これについては、解答手順1に沿って聖俗関係を整理すれば足ります。

 

①帝国教会政策の下では、聖職者の任免権(叙任権)は神聖ローマ帝国に属し、神聖ローマ皇帝は叙任権を通して帝国内の教会勢力を支配することによってその権力基盤を強化していたこと。

②グレゴリウス7世の教会改革において、教皇が叙任権を自らが持つことを主張したことから神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との間に対立が起き、「カノッサの屈辱」では皇帝ハインリヒ4世が一時的にではあっても膝を屈して教皇の至上性が示されたこと。

③その後も教皇と皇帝の対立は続いたが、最終的には1122年にカリストゥス2世とハインリヒ5世の間でヴォルムス協約が結ばれて、叙任権は教皇が持つ一方で、世俗権力の授与やドイツ地域内の教会支配権を保持することで両者の妥協が図られた。

 

【解答手順3:細かい部分に注意する】

:解答手順1と2でほとんど解答の大枠は用意できるのですが、十分に注意を払って書かなくてはならない場所や、手順1と2では拾い切れていない細かい部分がありますので、そうした部分をきちんと詰めていきます。

 

①帝国教会政策

:レヒフェルトの戦い(955)に勝利してマジャール人を撃退し、962年に教皇ヨハネス12世から皇帝冠を授けられたオットー1世は神聖ローマ帝国の基礎を形作っていきます。その際、オットー以下歴代の神聖ローマ皇帝が聖職者の叙任権を利用して中央集権を進めた背景には以下のようなものがありました。

 

・各部族勢力に対抗するため、聖職者とそれに付随する教会領の力を利用する

 ‐レヒフェルトの戦い前の東フランクは、各部族の対立が深刻で国王オットーの指導力も十分に確立されてはいませんでした。異民族マジャールの侵入が対立していた各部族の結束を強める方向に働きました。

・ゲルマン社会において、教会はその建設に貢献したものに属するという考え方が一般的であったこと

・キリスト教を国教にしたのは古代ローマの皇帝テオドシウスであり、皇帝には教会関連の事柄に対する決定権があるという考えが存在したこと

10世紀頃の教会が腐敗の温床となっていたこと

 

このような背景の中で神聖ローマ皇帝が帝国教会政策を進めることは、皇帝に近い者を聖職者として叙任することによる勢力の拡大、聖職者を中心とする官僚制の整備と世襲化の防止、腐敗した教会の立て直しなど、統治に必要な様々な効果が得られることになりました。よく、神聖ローマ帝国と聞くと「分裂している」とか、「皇帝の権力が弱い」などのイメージが先行しがちですが、帝国教会政策が展開している頃の神聖ローマ帝国は、もちろん各部族勢力は強い力を有していましたがそれなりに帝権の強化が進んだ時期でもありました。

 

②「世俗権力」とは何か

:「世俗権力」と聞くとすぐに教皇に対比して皇帝を思い浮かべます。それはそれでよいのですが、「世俗権力」といった場合には皇帝に限らず、各地の諸侯をも内包している点には注意が必要かと思います。

 

③カノッサの屈辱の意義

:教科書的にはカノッサの屈辱は教皇グレゴリウス7世が皇帝ハインリヒ4世を屈服させ、皇帝権に対して教皇権が優越した事件として説明されることがあります。ただ、ことはそう単純ではありません。この時ハインリヒが膝を屈した背景には当時の神聖ローマ帝国の国内事情など、複雑な事情が絡み合った結果であり、「教皇権VS皇帝権」で教皇権が強かった、という単純な対立構図では説明できないものです。現に、カノッサでは「勝利」したはずのグレゴリウス7世は、国内のまとまりを強化した後のハインリヒ4世が率いる軍によってローマからサレルノへ追放されてしまいますし、叙任権闘争自体もその後数十年にわたって解決されませんでした。この辺の事情は惣領冬美『チェーザレ』の中でとてもイメージ豊かに描かれています。

 

④ヴォルムス協約の正確な理解

:ヴォルムス協約についての正確な理解ができている受験生はそう多くはありません。これはなぜかというと、教科書や参考書がこれまであまりヴォルムス協約の内容や叙任権闘争の終結について正確な記述を行ってこなかったからです。ただこれは、別にそうした教科書や参考書が劣っているというわけではなく、高校生に教えるにあたっては正確さよりもある程度の単純さを追い求めた方が分かりやすいと判断した結果なのではないかと思います。例を挙げますと、「ヴォルムス協約で政教分離の妥協が成立し、皇帝は聖職者の任命権を失った。」(東京書籍『世界史B』平成30年度版、p.152)、「1122年、司教杖での司教叙任と王笏での封土授与とを区別するヴォルムス協約によって一応の解決を見た。」(『詳説世界史研究』山川出版社、2017年度版、p.165)などとなっています。この点について比較的正確に説明されていたのは山川の『改訂版世界史Ⓑ用語集』(ちなみに私が見たのは手元にあった2012年度版)で、「聖職叙任権について、教皇カリクトゥス2世と皇帝ハインリヒ5世の間で結ばれた協約。叙任権そのものは教皇が持つが、ドイツ領内では皇帝が教会・修道院の領地の承認権を持つという内容の妥協案で、これにより叙任権闘争は一応終結した。」とあります。

 ヴォルムス協約についてのポイントは以下のようになります。

 

・叙任権は教皇が持つ

・授封権(封土支配権などの世俗的諸権利の付与)は皇帝が持つ

・ただし、ドイツにおける叙任に際しては、それに先んじて皇帝が授封する

 (つまり、皇帝が認めた者しか教皇は叙任することができない)

・神聖ローマ帝国内のドイツ以外の地域(イタリアなど)については教皇が叙階し、叙階されたものはその後速やかに皇帝により授封される

 

つまり、このヴォルムス協約では、たしかに教皇は叙任権を有し、特にイタリア地域については教皇の叙任権が皇帝に優越することを互いに確認しましたが、一方でドイツ国内の叙任は皇帝が授封した者に限られたため、叙任にあたっては実質的に皇帝の承認が必要なシステムになっていました。ですから、ヴォルムス協約によって皇帝のドイツ教会に対する影響力が教皇に完全に奪われたと考えるのは誤りです。むしろドイツについては皇帝が実質的な叙任権を保持し、イタリアなどその他の地域については教皇の叙任権が優先するという一種の住み分けがなされたということです。

 

⑤ヴォルムス協約以降はどうか

 ヴォルムス協約は1122年で、12世紀の前半です。12世紀、という設問の時代設定ですと、その後丸々80年近くは残っているわけですが、この間の聖俗両権の関係はどのようなものだったのでしょうか。少なくとも、ヴォルムス協約は完全な決着ではありませんでしたし、12世紀のイタリアはシュタウフェン朝のイタリア政策に頭を悩ませることになります。また、その過程でゲルフ(教皇党)とギベリン(皇帝党)の対立なども発生します。

 一方で、ヴォルムス協約以降、長らく開かれていなかった公会議(宗教会議)が開かれることとなり、公会議において決定されたカノン(教会法など)は教会内部や信徒の生活などを規定し、それは各地域の教会にも採用されて徐々に教会組織のヒエラルキーが確固としたものになると同時に、教皇権も強化されていきます。教皇権の絶頂期と言われるインノケンティウス3世が教皇に選出されたのは1198年のことです。ただ、それまでの間は、ヴォルムス協約によって叙任権をめぐる問題に決着がついたとはいっても、聖俗両権のせめぎ合いは12世紀を通じて長く続いていたと考えていいと思います。

 

【解答例】

オットー1世が創始した神聖ローマ帝国では、皇帝が帝国内の聖職者を任命する帝国教会政策により皇帝権を強化したが、教会改革を進める教皇グレゴリウス7世は聖職叙任権が教皇に属すると主張し皇帝と対立した。ハインリヒ4世が教皇に膝を屈したカノッサの屈辱は教皇権の世俗権に対する優越を印象付けたが、叙任権闘争は続いた。カリストゥス2世とハインリヒ5世によるヴォルムス協約では、叙任権は教皇が持つとされて皇帝は帝国教会政策を放棄したが、帝国内のドイツ地域では実質的な教会支配権を保持したため、聖俗両権のせめぎ合いが続いた。その後、公会議や教会法を通して教会の組織化と民衆支配の浸透が進み、次第に教皇権が強化された。(300字)

 

解説のところで公会議云々の話をしたので、解答に盛り込んでみましたが、高校世界史の知識では公会議がどうの、ということを知ることは難しいと思います。ですから、もし書くのだとすればゲルフとかギベリンなどを入れつつ、「その後も北イタリアではゲルフやギベリンの対立が続くなど聖俗両権のせめぎあいは続いたが、次第に教皇がその権威を高めた。」なんて書き方もできるのではないでしょうか。

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 今年度の早稲田の法学部論述も300字(250字以上)となりました。2016年の入試以降、3年連続で300字論述が出題されたことになりますので、この形式はほぼ定着したと言っても良いかと思います。

 また、今回の論述もかなり「東大くさい」出題となりました。いわゆるロシアの「南下政策」については、東大ではたびたび出題される頻出問題です。つい最近でも、2014年の「ロシアの対外政策とユーラシアの国際情勢」が記憶に新しいところかと思います。以前、早稲田の法学部の出題傾向でもお話ししましたが、東大の問題をマイナーチェンジしたような出題がされることが多いので、東大の過去問(特に大論述)に目を通しておくことはわりと役に立つ気がします。また、2017年の問題解説で「今回はイギリスを中心に複数の要素を抱えるテーマについて説明するという形のものでしたが、場合によってはむしろ地理的に広い範囲のもの同士の関係を問う(いわゆるグローバルな展開の)設問が出題される可能性もあると思います」とお話ししていましたが、今回の設問はまさにその通りの形になりました。同じ「南下政策」でもバルカン方面に視点を集中させるのではなく、東アジア方面に目を向けろ、と言うことですね。ただ、それ以外の部分では特に大きな注意点はないかと思います。ロシアの南下政策の基本をおさえた上で、東アジア方面でのポイントを示せれば良いわけですね。「東アジア」ですので、字数的にも2014年の東大で要求されていた「中央アジア」の部分については(原則)示す必要がありません。ロシアの「南下政策」のような言葉は使われる文脈によって何を意味するかが変わってくるので、注意が必要です。

難度で言えば昨年の問題の方が難しかったかと思います。

 

 ちなみに、「東アジア」というのはユーラシア大陸の東部にあたるモンゴル高原、中国大陸、朝鮮半島、台湾などの「極東」と呼ばれる地域とほぼ同義です。私が世界史で説明するときにはおおまかに「東アジア=日中韓」で説明します。地理的には以下の地域です。


1

Wikipedia「東アジア」より)

 

 もっとも、地理的な概念も同じく幅や揺れのあるものですから、使われる文脈によっては変化します。例えば、外務省のHPでは東アジアとして以下の地図が示されていたりします。これはつまり、日中韓を含む極東地域を「北東アジア」、その南にあるインドシナ半島やマレー半島、フィリピン、スマトラ、ジャワなどを含む地域を「東南アジア」として全体を「東アジア」としてとらえているということです。


2

(外務省HPより)

 

 もっとも、世界史で東アジアをこうした形で認識することはまれですので、みなさんは「東アジア≒日中韓(+台湾・モンゴル)」で理解してもらってそれほど差し支えありません。いずれにしても、論述を解く際には「設問の要求にこたえる」ことが最優先になりますので、個々の言葉・用語がどういう意味をもっているかをとらえるということはとても重要です。時代だけでなく、「東アジア」、「中央アジア」、「南アジア」などの地理概念が世界史ではどのような意味で使われているかということには普段から注意を向けておく必要があると思います。

 

早稲田大学法学部世界史2018年論述問題

(問題概要・解説とポイント)

 

【問題概要】

・時期は18世紀から19世紀末(17011900

・同時期のロシアの「南下政策」の経緯を示せ

・同じく、ロシアの「東アジア進出」について示せ

・指定語句を全て用いよ(クリミア戦争/サン=ステファノ条約/ベルリン条約/北京条約)

・指定字数は250字から300

・指定語句には下線を付せ。句読点、数字は1字に数える。

 

問題の全文は早稲田大学の入学センターのHPにもありますし、各予備校が公開していますので、そちらも参照してください。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

 設問の要求

:設問の要求は明快です。ただし、時期には注意した方が良いでしょう。問題文を正確におこすと、<18世紀から19世紀末までの時期におけるロシアの「南下政策」の経緯と「東アジア進出」について>説明せよとなっています。ですので、よく出てくる19世紀のロシアの「東方問題」だけではなく、18世紀の進出についても言及しなくてはならない点はきちんとおさえておきましょう。

 

【解答手順2:南下政策の経緯をまとめる】

 ロシアの南下政策については、大枠をしっかりとらえておくことが良いかと思います。18世紀以降ということになると、その大枠は以下の通りです。

 

① 18世紀

 エカチェリーナ2世のときにクリミア半島に進出(キュチュク=カイナルジャ条約)

② 19世紀

  不凍港と地中海への出口を求めて、

  A:ウンキャル=スケレッシ条約でボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡の独占通行権を得た、かと思いきや

  B:その後のロンドン会議、クリミア戦争後のパリ条約で挫折し、

  C:露土戦争後のベルリン会議で再度挫折した

 

ものすごく単純化すると以上のようになります。ロシアの南下政策と東方問題の詳細については「2014年東大の問題解説」と、「あると便利なテーマ史⑦(東方問題とロシアの南下政策)」に述べてありますので、こちらをご参照ください。

 

ちなみに、地理的な情報としてクリミア半島を示しておきます。


3

 
  
赤い丸で囲まれた部分がクリミア半島です。青い丸で囲まれている部分は問題の中で言及されていたアゾフ海になります。また、オレンジ色で囲んだ部分にあるのがボスフォラス海峡、緑色で囲んだ部分がダーダネルス海峡になります。ギリシア独立戦争でロシア・トルコが締結したアドリアノープル条約や、同じくロシア・トルコが締結した相互援助条約であるウンキャル=スケレッシ条約などで通行に関する諸権利を得た部分です。見ての通り、黒海からエーゲ海(地中海方面)に抜けるための超重要な海峡です。

 

【解答手順3:ロシアの東アジア進出についてまとめる】

続いて、ロシアの「東アジア進出」についてまとめます。厳密にいえば、ロシアの東方への進出はすでに17世紀のピョートル1世の頃(ネルチンスク条約)から始まっています。18世紀には、1727年のキャフタ条約やベーリングのカムチャッカ・オホーツク探検などもありますが、字数や設問の意図を考えても、本設問では省いてしまって良いと思います。

「東アジア進出」の中心になるのは指示語にも見られる「北京条約」と「旅順」でしょう。ここでいう北京条約は1860年にロシアがアロー戦争の仲介を行ったことで清との間に締結した露清間での北京条約のことです。また、「旅順」については日清戦争後の三国干渉と、その後のロシアによる租借を思い浮かべればよいかと思います。ですから、この設問での「東アジア進出」は、教科書や参考書でよく出てくる(露清)北京条約締結にいたるまでのロシアの動きと、日清戦争後のロシアの南下についてまとめれば十分、ということになります。

 

<露清北京条約締結までの流れ>

1847 ムラヴィヨフの東シベリア総督就任

1858 アイグン条約:アロー戦争(1856-1860)に乗じて結ぶ

 ‐アムール川(黒竜江)以北をロシア領に

 ‐沿海州が清とロシアの共同管理に

1860 (露清)北京条約:アロー戦争の講和を調停した見返り

 ‐沿海州がロシア領に→ウラジヴォストークの建設開始

 

<三国干渉とロシアの南下>

 1895 三国干渉:ロシア・フランス・ドイツの圧力により日本が遼東半島を清に返還

    乙未事変:ロシアを背景に権力奪回を図ろうとした閔妃を日本が暗殺

 1896 東清鉄道の敷設権獲得→露仏同盟以降建設が進められていたシベリア鉄道と連結

 1898 遼東半島の旅順・大連を租借

 

 それぞれ、地理情報を掲載しておきます。まず、したの赤丸で囲まれた部分が沿海州です。現在はロシア領となっています。「海沿いの州」なので、ある意味わかりやすいネーミングです。ちなみに、この沿海州の西の境にはウスリー川(ウスリー江)が流れていて、現在の中国とロシアの国境となっています。1969年に発生した中ソ国境紛争の舞台となったダマンスキー島(珍宝島)はこのウスリー江の中州です。

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(沿海州)

 
また、下の地図はロシアが敷設権を獲得した東清鉄道の本線と支線を簡略化した図です。青い色の支線のうち、長春‐旅順間は日露戦争後のポーツマス条約で日本へと譲渡され、これが南満州鉄道(満鉄)になります。

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(東清鉄道)

 
ロシアは17世紀末から日本にも進出しています。日本も「東アジア」ですから、もし字数に余裕があったり、上記の内容が思い出せないようでしたら、以下のことに言及するのも手ではあります。ただ、指示語からうかがえる設問の意図は明らかに上に書いた「北京条約」や「三国干渉」だと思われますので、下に挙げたものは何も書けないときの緊急避難的なものだと思ってください。

 

<日本周辺へのロシアの進出>

1792 ラクスマンの根室来航と大黒屋光太夫の帰国

1804 レザノフの長崎来航

1855 日露和親条約

1875 樺太千島交換条約  など

 

【解答例】

 18世紀にトルコに勝利したエカチェリーナ2世は、キュチュク=カイナルジャ条約でクリミア半島を奪った。19世紀には、ギリシア独立戦争やエジプト・トルコ戦争に介入し、ボスフォラス・ダーダネルス海峡を通る地中海への出口を確保したが、ロンドン会議やクリミア戦争の敗北で妨げられた。その後、露土戦争に勝利しサン=ステファノ条約で再度南下を図ったが、列強とのベルリン条約で挫折した。東アジアでは、アロー戦争に乗じた北京条約で沿海州を獲得し、ウラジヴォストーク建設に着手した。日本の開国後、樺太にも進出し、三国干渉の見返りとして旅順・大連を租借し、東清鉄道の敷設権を得て、露仏同盟後に建設したシベリア鉄道と連結させた。(300字)

 

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