[設問概要]

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

 問題の概要は以下の通り。

 

・「ナポレオンによるドイツ支配からドイツ帝国の誕生にいたるまでの歴史的過程」を250字から300字で説明せよ。

・条件1:オーストリアの歴史的役割に留意しなさい。

・条件2:指定語句を列記した順に用い、所定の語句には下線を付せ。

    (指定語句:ライン同盟 / ウィーン体制 / 1848年革命 / ビスマルク)

 

【解答手順1:設問内容の確認】

:設問の要求はナポレオンによるドイツ支配~ドイツ帝国の誕生に至るまでの歴史的過程を記述せよというものです。「オーストリアの役割に留意せよ」という部分を以下に処理するかが問題となります。

 

【解答手順2、指定語句分析】

:簡単に指定語句についてまとめておくと以下のようになります。

 

1、ライン同盟

1806年にナポレオンが西南ドイツ諸邦支配のために結成させた傀儡同盟

 これを受けて神聖ローマ皇帝フランツ2世が退位し、神聖ローマ帝国が完全消滅した

2、ウィーン体制

181415年にかけて開催されたウィーン会議によって成立した国際体制

 メッテルニヒの主導によって成立した反動体制

 タレーランの提唱による正統主義と勢力均衡を基本原理とする

31848年革命

1848年に発生したフランス2月革命が各地へ波及

ベルリン3月革命・ウィーン3月革命

メッテルニヒ亡命、ウィーン体制の一部が崩壊

その後、ドイツではフランクフルト国民議会、ヨーロッパ各地でも自由主義と民族主義の運動が高揚

4、ビスマルク

:ヴィルヘルム1世によって宰相に任命される

自由主義的な議会と対立しながらも鉄血政策を推進
  (プロイセンによる「上からの統一」)

デンマーク、オーストリア、フランスを戦争で打ち破ってドイツ帝国を成立させる

 

3、関連事項の把握と必要事項の整理】

:それでは、指定語句にそって関連事項を整理していきましょう。設問では、「オーストリア」に注意するように言っておりますので、オーストリアの動きで特に関連するものは赤字で、その他のものでドイツ統一に深く関連する事項は青地で示していきます。双方に関連するものもありますが、ここではあまり気にしないでください。

 

A、ナポレオンのドイツ支配の開始

アウステルリッツの戦い(1805年)

ライン同盟の結成(1806年)

神聖ローマ帝国の消滅(フランツ2世の退位)

・イエナの戦いティルジット条約(1807年)

プロイセン領の削減とワルシャワ大公国成立

 プロイセン改革(シュタイン・ハルデンベルク)

ナショナリズムの高揚(フィヒテ)

 

 ナポレオンがドイツ支配を始めるためには、当時のドイツ地域における二大領邦であるプロイセンとオーストリアを撃破しなければなりません。また、この両国はフランス革命(1789)の起こった後にルイ16世を支援してフランスに干渉戦争をしかけてきていますから、その流れからしてもナポレオンは両国と敵対します。

 こうした中で、ナポレオンはオーストリアとロシアをアウステルリッツの三帝会戦(1805年)で撃破し、これがきっかけでオーストリアのドイツ諸邦に対する影響力が弱まると同時に西南ドイツ諸邦はナポレオンの占領下におかれました。そして、名目上神聖ローマ帝国に属していた諸邦にナポレオンが強制的に締結させたのがライン同盟です。ライン同盟の成立によって完全にその存在意義をなくした神聖ローマ帝国は、皇帝フランツ2世の退位をもってその幕を下ろします。

 つづいて、ナポレオンは北ドイツの雄、プロイセンをもイエナの戦い(1806年:またはイエナ=アウエルシュタットの戦い)で撃破します。これによりナポレオンはプロイセンの首都ベルリンに入城し、大陸封鎖令(1806年)を発してイギリスとの戦いに備えるのです。続く1807年にはナポレオンはティルジット条約をプロイセン・ロシアと締結して、プロイセンの領土の大幅な削減(エルベ川東岸はウェストファリア王国となり、ナポレオンの弟ジェロームが王となる。また、ポーランド分割で手にしていたプロイセン領ポーランドはワルシャワ大公国となり、ザクセン公が大公位を兼ねた)と、ダンツィヒの自由市化、ロシアによる大陸封鎖令の順守などが決定され、ドイツからポーランドにかけてはナポレオンの影響下に入ることになりました。

 

 ワンポイント

 勘違い、というか正確に把握していない受験生も多いのですが、当時のプロイセンとオーストリアは同じドイツ地域にありますが別の国(領邦)です。ですから、オーストリアを撃破したからといって自動的にプロイセンも支配下に入るわけではありません。プロイセンがナポレオンの影響下に置かれるのはイエナの戦いの後です。イエナの戦いでプロイセンを破ったからこそ、ナポレオンは「ベルリン勅令(大陸封鎖令)」を発することができるわけです。ベルリンはプロイセンの都ですから。また、この後のシュタインとハルデンベルクらによる「プロイセン改革」もあくまで「プロイセン」での出来事なのだということは確認しておきましょう。

 同じようなことは、1848年のベルリン3月革命やウィーン3月革命にも言うことができますね。つまり、当時はドイツ各地の領邦で同じような革命運動が起きていて、その代表的なものがプロイセン首都のベルリンやオーストリア首都のウィーンで起こったものなわけです。こうしたドイツ各地の自由主義者が集まって結成するのがフランクフルト国民議会、というわけですね。日本の幕末で言えば、西郷隆盛や桂小五郎に坂本龍馬といったお歴々が京都に集まってもし「議会をつくるどー」って言ったら京都国民議会、みたいなイメージでしょうか。

 

B、ウィーン体制(ワーテルローでのナポレオンの敗北による)

メッテルニヒ(オーストリア外相)が主導

オーストリアが国際協調を主導する中で、ドイツ連邦の盟主としてドイツへの影響力回復

(ただし、これはオーストリアがドイツ地域の支配権を手に入れたことを意味するのではなく、むしろ「勢力均衡」の縮図)

プロイセンは関税同盟(1834)をリストの提唱で結成=北ドイツの経済的統一進む

 

ウィーン体制は入試でも頻出の箇所で内容も盛りだくさんですが、ここではドイツ統一の過程を、オーストリアを中心に見ればよいので、関連する事項も絞られます。やはり、ここではオーストリアがこの会議を主導したことに注目した上で、ドイツ地域にどのような影響を及ぼしたかを考えるべきでしょう。

 その際、注目すべきはドイツ連邦です。ドイツ連邦は確かにオーストリアを連邦議会議長とするドイツ諸邦の連邦国家で、ライン同盟とフランスの影響力は消失しました。ですが、これはオーストリアが連邦に所属する諸邦を支配したことを意味しません。ホルシュタインの君主はデンマーク王国でしたし、ハノーファーはイギリス国王の実家です。むしろ、このドイツ地域は会議に参加した大国同士の「勢力均衡」の場とされ、ドイツ統一からはむしろ遠ざかるものでした。これは、ナショナリズムを嫌悪する多民族国家オーストリアの宰相となるメッテルニヒの目的にも敵ったものであったといえます。

 一方で、地域的な統合はまず経済面から達成されていきます。それが経済学者リストの提唱によって成立したプロイセンを中心とする北ドイツ諸邦の関税同盟であるドイツ関税同盟(1834)です。

 

C、1848年革命

・ウィーン体制の崩壊

・ドイツナショナリズムの高揚(ベルリン3月革命、ウィーン3月革命)

フランクフルト国民議会(大ドイツ主義と小ドイツ主義)

小ドイツ主義の勝利と、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の戴冠拒否によるフランクフルト国民議会の自然消滅と「下からのドイツ統一」の挫折

 

 フランス2月革命のあおりをうけて、それまで抑圧されてきた自由主義運動とナショナリズムが高揚、ドイツ地域ではフランクフルト国民議会による「下からの統一」が模索されます。

 この際、オーストリアを含む(大ドイツ主義)か含まない(小ドイツ主義)かが議論されましたが、多民族国家でドイツ統一によるナショナリズムの高揚が国家分裂につながりかねないオーストリアが統一ドイツに参加する見込みも立たず、議論は小ドイツ主義が優勢となり、国民会議はあらたな旗印としてプロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世にドイツ皇帝就任への要請を行います。しかし、革命的な自由主義者に国王であるフリードリヒが好意を抱いているはずもありませんし、まして彼らに担がれてオーストリアを敵に回すのもまっぴらごめんということで、この就任要請はすげなく断られてしまい、ドイツにおける「下からのドイツ統一」は挫折を余儀なくされてしまいました。

 

D、ビスマルクの鉄血政策とドイツ帝国の誕生(「上からのドイツ統一」の完成)

・フランクフルト国民議会によるドイツ統一の挫折「上からのドイツ統一」へ

・デンマーク戦争(1864

・普墺戦争(1866

ドイツ連邦の解体と北ドイツ連邦の成立(1867

オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立(1867

・普仏戦争(1870-1871

ナポレオン3世を破る(セダンで捕虜に)

アルザス・ロレーヌ獲得、ドイツ帝国の成立

  (オーストリアが統一ドイツから除かれる)

 

 あとは、ビスマルクとヴィルヘルム1世が率いるプロイセンによるドイツ統一の過程を書いていけばよいことになりますね。やはり注目しておくべきなのは北ドイツ連邦の成立と、オーストリア=ハンガリー帝国の成立、さらにドイツ帝国の成立でしょう。オーストリアに注目することを要求されている本設問では、やはりオーストリアが統一ドイツから除外されたことは強調しておきたいところです。

ここまでまとめられれば、以上のA~Dの内容を設問の要求に沿って整理していくだけになります。いろいろ情報があって取捨選択が難しいですが、「当初ナポレオンが支配を及ぼしたことで影響力をそがれたオーストリアが、ウィーン体制によって新たな国際秩序を築いたものの、自由主義とナショナリズムを抑えきれずにその体制も崩壊した。しかし、「下からの統一」も挫折した後に、鉄血政策によって国力を増強させたプロイセンがドイツ帝国を成立させてドイツ統一を成し遂げ、オーストリアはドイツ地域から除外された」(ちなみにこれで171字)のような大きな流れをつくってしまえば、あとはどこをどう肉付けするかという問題だと思います。できるだけ本論にそった事柄を選んで、余計な情報は極力カットしていかないと300字以内でまとめるのは難しいかと思います。頑張ってください。

 

3、解答例】

 ライン同盟の成立で神聖ローマ帝国が消滅したことで墺はドイツ地域への影響力を失ったが、ウィーン体制下ではドイツ連邦を成立させて影響力を回復し、自由主義やナショナリズムとともに高揚した統一への動きを抑圧した。一方、北ドイツではプロイセンがドイツ関税同盟結成で経済的統一を進めた。1848年革命の余波を受けて墺が混乱したことで、フランクフルト国民議会では小ドイツ主義による統一が模索されたが挫折した。その後、ビスマルクの鉄血政策を通して統一を進めていたプロイセンは普墺戦争に勝利して北ドイツ連邦を成立させてドイツ地域に影響力を拡大した後、普仏戦争に勝利しオーストリアを除くドイツ地域はドイツ帝国として統一された。(300字)

解答例はたしか自前でつくったはずですが、ちょっと昔過ぎて覚えていません。(解答例=2020.3.7追加) もし勘違いだったら消しますね。