【問 題】

 早稲田の過去問の一部は大学の入学センターで公開されています。

https://www.waseda.jp/inst/admission/undergraduate/past-test/

 

 問題の概要は以下の通りです。

・中国をめぐる外交関係の展開を説明せよ。

ただし、設問導入部分の文章から以下の条件が想定できます。

・中華人民共和国の成立以降の話であること。

・その時々の国際関係による影響や、逆に中国が他国の外交政策に影響を及ぼしたことなどを考慮せよ。

・指定語句として、

「中ソ友好同盟相互援助条約」

 「中ソ論争」

 「ニクソン・ドクトリン」

 「日華平和条約」

 の四語が示されている。これを「列記した順に用いて」解答(順番は設問通り)

・指定字数は200字から250字です。

・所定の語句には下線を付せ。

 

 早稲田はなんだかんだ言って中国好きそうですね。

 

【解答手順1:設問内容の確認】

・設問の要求

:(中華人民共和国の成立以降の)中国をめぐる外交関係の展開を記せ

 ・留意点

:その時々の国際関係から中国の外交政策はどのような影響を受けたか。また、他国の外交政策にどのような影響を及ぼしたかに注目。

 

【解答手順2:指定語句分析】

・指定語句についてだが、「列記した順に用いて」とあるにもかかわらず、日華平和条約(1952)があるなど、起こった年代順ではないので注意が必要。もっとも、このことが逆にヒントにもなっている。

 

 ・中ソ友好同盟相互援助条約(1950

:台湾の国民党政府がアメリカの支援を受けて「大陸反攻」を狙うことに対抗。米ソ冷戦下での軍事同盟、「向ソ一辺倒」。本条約のもとに中国は朝鮮戦争に「義勇軍」を派遣。

→アメリカはアジアにおける防共圏の形成に腐心(対中封じ込め)

   アメリカによる太平洋集団安全保障構想に基づく反共同盟や、関連する条約などは以下の表の通り。

 

1951

米比相互防衛条約

太平洋安全保障条約(ANZUS

日米安全保障条約(サンフランシスコ講和条約とともに)

1952

日華平和条約(本設問での使いどころはここではない)

1953

米韓相互防衛条約

1954

米華相互防衛条約

東南アジア条約機構(SEATO

 

★ ワンポイント

 一見すると脈絡がなくて覚えにくい反共同盟にも、背景がある。たとえば、1951年の諸同盟について言えば、アジアでの冷戦激化にともない、米英は対日早期講和論が台頭してこの実現に向けた動きが強まったが、これに対し日本の軍国主義の再度の台頭を恐れるオーストラリア・ニュージーランド・フィリピンが反対し、むしろ「対日防衛」圏構築の必要性を訴えた。アメリカとしても集団安全保障体制に基づいて講和後も米軍が日本に駐留できれば日本の防衛と日本における軍国主義の抑制の双方を達成しうると判断して、日本を含めたNATO型の集団安全保障体制を形成しようとしたが、オーストラリアとニュージーランドは日本と同盟国になることを拒否した。このため、アメリカは両国との間にANZUS(オーストラリアのA、ニュージーランドでNZ、アメリカ合衆国でUSですね)を、フィリピンとの間に米比相互防衛条約を締結の上で、日本と講和して日米安全保障条約を締結する、という流れになったわけです。

 1953年の米韓相互防衛条約は朝鮮戦争の影響ですね。実は、この太平洋集団安全保障構想は1949年初めに、フィリピンの提案に賛同した朝鮮の李承晩や台湾(中華民国)の蒋介石から持ち込まれたものでした。ところが、アメリカは1949年の段階では、これらの国が内政の安定化のためにアメリカを利用しようとしているのではないかと考えて消極的だったんですね。アメリカが対日講和に本腰をいれるのは1949年の後半からで、反共同盟構築が促進されたのは朝鮮戦争が開戦した後のことです。また、米華相互防衛条約は、当初台湾に対する軍事援助を打ち切っていたアメリカが、中国の他の周辺事態が鎮静化(1953年朝鮮戦争終結、1954年第1次インドシナ戦争停戦)したことで、その矛先が台湾に向かうことを懸念したから締結されたものです。教科書的には「反共防衛圏を形成した」の一言で片づけられてしまうのですが、背景にはその時々での国際関係の変化や国民感情、国家間の利害対立が複雑に作用していました。結局、アメリカはこの太平洋集団安全保障構想の実現に失敗し、個別の対応をとらざるをえなくなりました。

1950年代以降の中ソ対立(中ソ論争)と米ソ接近

1953年のフルシチョフによるスターリン批判と平和共存路線に毛沢東が反発

 (中国の独自路線と米ソの接近)

1954 周・ネルー会談「平和五原則」

1955 バンドン会議「平和十原則」

1959 フルシチョフの訪米(アイゼンハウアーとの会談)

→中ソ技術協定破棄(1959):ソ連技術者の中国からの引き上げ

→中国は大躍進政策に失敗

 

 ・1960年代の中ソ対立激化

1962 キューバ危機:米ソ再対立とその解決

   中印国境紛争:ソ連がインドに武器支援

1963 部分的核実験停止条約

1969 中ソ国境紛争(ウスリー川のダマンスキー島での軍事衝突)

 

1970年代の米中接近

:ヴェトナム戦争の泥沼化とアメリカの財政赤字

→アメリカが戦争を「ヴェトナム化」することを企図、中国への接近を図る

1969 ニクソン=ドクトリン

:ヴェトナムへの過度な軍事介入を避けることを言明→中国に接近

1971 国連代表権が台湾から中華人民共和国へ

   1972 ニクソンの訪中:事実上の中国との国交正常化

日中共同声明と国交正常化

日華平和条約の失効、日本が台湾と断交

   1978 日中平和友好条約

   1979 米中国交樹立

 

【解答手順3:解答のポイント】

 設問の要求と指定語句を鑑みれば、ここでは中国(中華人民共和国)をめぐる国際関係の大きな変化を示せばよいことがわかるので、基本の流れは「当初は冷戦構造が成立する中でソ連に接近→1950年代前半から中ソ論争→中ソ論争の激化と軍事衝突(中ソ国境紛争)→ヴェトナム戦争の泥沼化によるアメリカの方針転換と中国への接近→1970年代に入り、日米中の平和共存」という流れになります。この流れ自体は早稲田の法学部を受験するのであれば作れるようにしておきたい。問題になるのは「日華平和条約」の使い方です。設問に「列記した順に用いて」とあるので、時系列で書いていくと締結時(1952)のタイミングでは使えません。やはりここは、日本と中国の関係改善にともなって本条約が失効した、という流れで話をまとめるべきでしょう。実際、これが論述の方向性のヒントにもなっているのですが、問題はかなりの数の受験生が「日華平和条約って何だ?」となってしまっていることですね。正直、試験会場でも日華平和条約に反応してきちんと内容も把握できた受験生は少数派で、世界史の得意な人たちでしょう。だとすれば、仮に日華平和条約の部分が書けなかったとしてもそれほど気にすることはありません。上述した大きな流れさえ外さずに書けていれば、きちんと7割~75分くらいは確保できるはずです。最悪でも6割を下回ることはありません。いつも申し上げていることですが、論述は満点解答を作成するよりも、大幅な点数の取りこぼしをしないことが重要です。まして、早稲田は他にも数多くの小問がありますから、全体として合格点にたどり着くことを重視してください。