世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

大学受験向け世界史情報ブログ。 受験のティータイム・コーヒーブレイクに目を通して、一味違う歴史的視点を我が物に!

カテゴリ: あると便利なテーマ史

 先日ご要望が寄せられたことからこちらの方では世界史の中でも経済・金融に関する事柄を中心にまとめたものを示していきたいと思います。元々はプリントの形にしていたものをブログ記事として改変しているので、面白みに欠けるまたは読みづらいなどの部分もあろうかとは思いますが、その辺は勘弁してください。また、本当の意味で通貨や金融の歴史を書いていくとすれば、内容や地域など他にもたくさん書くことが出てくると思うのですが、こちらでご紹介する話は原則として「教科書や参考書に登場するものとその周辺」の話であり、受験に出てくるようなものと、直接受験には出てこないのだけれども、知っておくと理解がしやすいことが中心になっているとご理解いただきたいと思います。

 もともと、この内容でまとめてみようと考えたのは、この内容をまとめた時期にちょうど金融に関する事柄が大きくクローズアップされていた(リーマンショックだのアベノミクスだのFRBだの)こともあり「もしかして金融とかぼちぼち受験に出るんでねーべか」と思ったからです。実際にいくつかのテーマはあちこちの入試問題で散見されたわけですが、もうECBではドラギの任期も終わろうかとしている現在では、やや賞味期限切れの感があるかもしれません。(でも近いうちにまた金融関係のニュースが吹き荒れそうな気はします。)

金融関連のニュースの流行り廃りもあるのですが、高校生が経済史(というより、経済的な仕組み全般)を苦手としているというのは確かにそうなのかなとも思うので、簡単に概要をまとめておいて損はないでしょう。かなりの分量がありますので、「中国通貨史」、「中国産業史・交易史」、「西洋・西アジア通貨金融史」などいくつかの項目に分けて書いていきたいと思います。

 

【中国通貨史1:鋳造貨幣の使用と普及】

 鋳造貨幣の使用以前には一部地域で貝貨が用いられておりましたが、これは商業のために流通させるというよりは、儀礼上や贈答用として用いられていたようです。

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Wikipedia「貝貨」より)

 

春秋・戦国時代に入り、商業の発展が見られるようになると、物々交換以外にも各地で鋳造された青銅貨幣が用いられるようになります。この青銅貨幣の種類と流通地域については、時折入試などでも出題されるものになるので注意が必要です。

 

(青銅貨幣の種類と流通地域)

・刀銭(貨):斉・燕・趙で使用(東北部)

・蟻鼻銭:楚で使用(南部)

・布銭[鋤を模したもの]:韓・魏・趙で使用(中央部)

・環銭[円銭]:秦・趙・魏で使用(西北部)

 

戦国の七雄の位置関係が最もよく問われるところはここでしょうね。出題頻度としてはやはり環銭(円銭)と蟻鼻銭が一番高いのかなぁと思いますが、その他のものも早稲田などでは出ています。写真もよく出ますよね。個別に国と青銅貨幣を結び付けて覚えるやり方だと忘れてしまいますので、戦国の七雄の位置関係をしっかり把握した上で、どの通貨がどの地域(東北部・南部・中央部・西部)で使われていたのかを理解した方が忘れずに定着しそうな気がします。

 

 ところが、秦の始皇帝によって中国全土が統一されると、地域によって異なっていた貨幣は度量衡や文字などとともに統一されることになります。これが半両銭です。


 半兩錢

Wikipedia「半両銭」)

「半両」というのは重さの単位を示したもので、約8gです。秦では孝公に仕えた商鞅の頃に一斤(約250g)を16両とし、1両(約16g)を24銖とする重さの単位が定められていましたから、1両の半分(16g÷28g)で半両となるわけですね。ちなみに、武帝の時の「五銖銭」も重さの単位を表しています。(ちなみに、「五銖」は武帝期の重さでは3.35g相当だそうです。)いずれにしても、この秦の半両銭の円形方孔(円の形で中央の穴は四角)の形状はその後の東アジア地域において流通する鋳造貨幣の基本形になります。受験では、始皇帝の半両銭と武帝の五銖銭の区別をしっかりつけることが大切になりますので、注意してください。(もっとも、この両者の区別は銭に限ったことではなくあらゆる面で重要です。)

 

 その後、漢代に入ると軽量化が図られます。軽い方が便利ということもありますが、軽量化された原因の一つとして、漢王朝が民間での貨幣鋳造(私鋳)を認めたこともあるようです。原料となる銅を使う量が少なければ少ないほど、鋳造する人間にとっては旨味が大きいですからね。ところが、品質の粗悪な私鋳銭の流通はインフレにつながりやすくなりますし、国家以外の通貨発行主体が複数存在することは、国家体制の安定を脅かすことにつながりかねません。実際、紀元前154年に発生した呉楚七国の乱において、呉が一時大きな勢力を持つことができたのは、呉が銅貨鋳造と製塩によって莫大な富を有していたところが大きいと言われています。(実はこの辺の話は以前ご紹介した横山光輝『史記』にも出てきます。マンガすげぇ。)

ちなみに、「塩」というのは経済上重要な意味を持つ商品です。塩は、人間にとって必需品ですが、特に内陸部においては塩分の摂取方法は限られます。(日本でも、「敵に塩を送る」の由来として武田信玄と上杉謙信のエピソードは有名です。史実としての信用性は怪しいようですが。)ですから、確実に必要であるという意味で、塩は時に通貨に匹敵する価値を持つ商品です。その重要性は古代中国王朝が塩の専売制を取り入れていることからも見て取れます。(ただ、これも国の専売制の目を逃れて勝手に塩をつくる密売人はいつの時代も存在したわけです。このように考えると唐末の黄巣の乱の首謀者である黄巣が塩の密売人であった事実も意味を持って理解することができます。)

 話が脱線しましたが、以上のような理由から漢の時代、中央集権化が進むと文帝の頃には私鋳が禁止されていきます。そして武帝の頃には五銖銭の鋳造が行われました。武帝期は、前漢の全盛期とされますが、外征や土木工事の増加により国家財政は逼迫していました。こうした中で、桑弘羊(そうくよう)の活躍などにより均輸・平準法の導入や塩・鉄・酒の専売制が行われ、財政の立て直しが図られます。これにより、国家財政は安定しましたが、一方で商人層はこうした施策を国家による利益の不当な独占であると反発し、武帝死後の塩鉄会議などで桑弘洋ら財務官僚と対立します。この内容は『塩鉄論』にまとめられていますが、今からはるか二千年も前の時代に国家による経済統制の是非、経済の自由と規制、物価統制と民生の安定などの極めて高度な経済事象が議論の俎上にのせられていることに驚かされます。また、財政の安定と国防の関係や当時の生活・文化の様子がうかがい知れる部分も非常に興味深いものです。(『塩鉄論』は岩波などから文庫版も出ています。ただ、岩波の文庫版は高校生には難しくて扱えないと思います。)

 

 前漢は王莽(莽の字の草冠の下は「大」ではなく「犬」)の簒奪と新の建国によって幕を閉じました。王莽の政策については色々と評価は分かれますが、教科書的には「周代の政治を理想とし」など、復古主義的な政策を採ったことが書かれていることが多いです。そうした内容と関連させて王莽の政治を見てみると、刀銭・布貨などをあらたに鋳造し、さらに金銀や貝までもまじえた30種近い貨幣の採用(王莽銭)がなされましたが、この政策は複雑かつ不便であったために五銖銭の私鋳と流通を招きました。さらに、王田制(周の井田制にならった土地の国有化)や奴婢売買の禁止などを打ち出しますが、どれも当時の経済の状況にそぐわなかったことから経済混乱へとつながりました。


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王莽による小刀を模した貨幣(Wikipedia「王莽」)

 その後の中国の通貨は、安定した統一王朝による通貨政策が持続しなかったことから、五銖銭を模した形状の銭が国家や私鋳され、統一された形の通貨は作られませんでした。隋代に入ってようやく通貨の統一が図られましたが、隋は短い年月で滅亡してしまったため、律令制や科挙などとと同じく、統一通貨も唐のもとで作られます。これが開元通宝です。開元通宝の重さは約3.7gほどでしたが、この通貨は従来の通貨とは異なり、重さが表示されない貨幣でした。開元というと玄宗の開元の治を想定してしまいますが、開元とは唐という国家が新たに建国されたことを喜ぶもので、発行されたのは唐の高祖李淵の時代です。また、この開元通宝を模して日本でも和同開珎などの貨幣が鋳造されたことも知られています。


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開元通宝(Wikipedia「開元通宝」)

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和同開珎(写真は銅銭鋳造前に一時鋳造された銀銭:Wikipedia「和同開珎」)

 開元通宝は唐末の混乱と五代十国時代にも流通し、宋代に入ってからも使われましたが、宋代に入ると新たに大量の貨幣(宋元通宝など)が鋳造され、いわゆる宋銭の鋳造量は歴代の中国王朝で最大となりました。これらの宋銭はアジアの多くの国々で流通し、日本でも平安時代末期に平清盛が日宋貿易を行ったころからその流通が拡大し、鎌倉時代には絹などにかわる決済手段としても用いられるようになっていきます。

 一方、中国の四川地方や陝西地方では銅貨ではなく鉄銭が用いられたこともあったようです。この背景には、四川や陝西に面する地域に存在した西夏や遼といった異民族との対立関係から銅銭の流出を警戒したこと、経済地域として四川、陝西がその他の地域とは異なる独自の経済圏を形成していた(こうした地方の商業圏・商業都市が形成され始めるのが宋代で、さらにそれらが結ばれる遠隔地交易が発展していくのは明代に入ってのことになります)ことなどが挙げられています。いずれにせよ、唐末から宋代にかけて、銅や鉄で鋳造された貨幣は決済手段として極めて重要になりますが、経済規模や地域の拡大とともにその重量や輸送の手間などが問題になってくると様々な工夫が生み出されることになり、飛銭などの手形決済や紙幣の誕生につながることになります。


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(現在の四川省と陝西省:Wikipediaより)



 

 東大2014年度問題解説の方でもお話していた通り、今回は受験生にはイマイチ理解できない露土戦争以降のサン=ステファノ条約とベルリン会議(ベルリン条約)の意味を確認しておきたいと思います。ついでといっては何ですが、ロシアの南下政策と東方問題を含めてまとめておいた方が良いかなと思いますので、19世紀全体にわたるロシアの黒海・バルカン方面進出とそれに対するイギリスの対応をまとめておきましょう。

 

 高校世界史で扱われる東方問題は基本的に19世紀のオスマン領をめぐる国際的諸問題を指します。山川の『改訂版 世界史Ⓑ用語集』(2012年版)には「東方問題」について「19世紀にオスマン帝国の領土と民族問題をめぐって生じた国際的諸問題を、西欧列強の側から表現した言葉。オスマン帝国の衰退に乗じて、支配下の諸民族の独立運動が激しくなり、それに西欧列強が干渉して起こった。」となっています。ただ、これは狭義の定義で、歴史学的には東方問題といった場合、もう少し広くとって18世紀ロシアの拡大政策から考えることもありますし、さらに広くとって14世紀頃からのオスマン対ヨーロッパの対立図式を指してこのように言うこともあります。

 実際に「東方問題」という言葉が歴史上作られていくのはギリシア独立戦争(1821-1829)が始まった時期です。大学受験をする際には、原則として山川大明神の言うことに従っておけば良いわけですが、より深い歴史的理解のためには、18世紀からのロシアの拡大が視野にある方が良いかもしれません。

 

 高校世界史では「東方問題」の書き出しをエジプト=トルコ戦争から書き出すことが多いです。ただ、前述の通り、ロシアの南下はすでに18世紀の段階から着実に進んでおります。中でも注目しておくべきなのはキュチュク=カイナルジ(カイナルジャ)条約(1774です。エカチェリーナ2世の時代に戦われたロシア=トルコ戦争(1768-1774、露土戦争は高校世界史では1877-1878の露土戦争だけが紹介されていますが、実際にはロシアとトルコの間には18世紀から19世紀を通して数次にわたる戦争が展開されています)の結果、両国はキュチュク=カイナルジ条約を締結し、①ロシアの黒海自由通行権、②ロシア商船のボスフォラス=ダーダネルス両海峡の通行権、③オスマン帝国内のギリシア正教徒保護権付与(ロシア皇帝に対して)、④オスマン帝国のクリム=ハン国に対する保護権、などの内容を取り決めました。これにより、ロシアは大きく黒海方面へと進出し、オスマン帝国が宗主権を放棄したクリム=ハン国は、この条約から間もない1783年にロシアによって併合されることになります。

こうしたロシアの南下はギリシア独立戦争とその末期におけるトルコーロシア間の戦争の結果としてのアドリアノープル条約によって一時的には成功をおさめたかに見えます。しかし、こうしたロシアの南下成功は、この後のイギリスを中心とする諸国の外交と干渉によって再三阻止されていくことになり、1877-1878年にかけての露土戦争とその後の戦後処理によって、ロシアのバルカン半島における南下は一時完全に停滞することになります。この一連の流れは19世紀を通して「ギリシア独立戦争→エジプト=トルコ戦争(第1次・第2次)→クリミア戦争→露土戦争」と続くわけですが、この流れ自体はかなり有名な流れですし、みなさんご存じのところでもあると思いますので、簡単に図示した上で、わかりにくい、または気づきにくいポイントをいくつか示しておきたいと思います。

 
東方問題年表
(クリックで拡大)

 

ポイント① ギリシア独立戦争とその結果

 

 さて、ギリシア独立戦争はギリシアがオスマン=トルコ帝国から独立しようとしたことがきっかけで起こる戦争ですが、このギリシアの独立は当時ヨーロッパ周辺で高揚していたナショナリズムと強い関連があります。ナポレオンのヨーロッパ大陸支配とフランス革命の理念である自由・平等という考え方の伝播は、「ナショナリズム」と「自由主義」という二つの大きな思潮を生み出しました。1815年のウィーン体制は、多民族国家を瓦解させかねない「ナショナリズム」と、君主による専制政治と貴族支配を脅かしかねない「自由主義」を抑圧するために墺・露が中心となって作り上げた体制でしたが、早くも1810年代からこれらの動きは大きなうねりとなってヨーロッパの各地で噴出します。1820年代にはデカブリストの乱(露)、カルボナリの運動(伊)、ラテンアメリカ諸国の独立など、各地でナショナリズム、自由主義の動きが渦巻いているわけですが、こうした動きの中にギリシアの独立運動も位置付けることができるわけです。当時、ギリシア独立を率いていたのはイプシランティ(イプシランティス)という人物でしたが、彼が所属した秘密結社「フィリキ=エテリア」はオスマン=トルコの「専制」支配から「ギリシア」と「ギリシア人」の政治を取り戻すための戦いを準備するわけで、これはまさに当時の風潮とピッタリなわけですね。

 

 こうしたギリシアの独立を支援したのもヨーロッパのロマン主義者でした。ところで、このロマン主義というのは実はナショナリズムと密接に関連しています。ロマン主義の起こる前、18世紀におけるヨーロッパの文化的トレンドはロココ、そして新古典主義でしたが、これらはどちらもその中心はフランス、ヴェルサイユでした。ロココなどはルイ15世の愛人、ポンパドゥール夫人を中心とする宮廷人のサロン文化の中で花開きますし、新古典はナポレオンが皇帝に即位したことで英雄主義的側面を強く打ち出すために発展します。18世紀のヨーロッパの人々はフランス文化、特にフランス絶対王政期の宮廷文化を最先端のモードとして受容していたわけです。

 ところが、ナポレオンの大陸支配以降は様子が違ってきます。旧支配階層はもちろんのこと、解放者かと思いきや結局は他国からやってきた支配者に過ぎなかったナポレオンに「自由・平等」を求めたヨーロッパの人々は失望し、反ナポレオン・反フランス感情を高めていきます。そうした中で、「最先端のフランス」に対する「憧れ」は消え失せ、新たに「自分たち自身のルーツや、良さとは何か」を探求するようになっていきます。これがつまり、土着の文化に価値を見出し、恋愛賛美・民族意識の称揚、中世への憧憬などの特徴を持つロマン主義になっていきます。グリム兄弟が土着の民話を収集していくなどを想定するとわかりやすいです(もっとも、グリムはどちらかというと後期ロマン主義に分類される人々ですが)。こうしたロマン主義者にとって、ヨーロッパの源流たる「ギリシア人」たちがイスラームの帝国オスマン=トルコの専制支配から自由と平等を取り戻すために闘う、というテーマはとても甘美で、彼らの心を動かすテーマだったわけで、バイロンなんかは熱に浮かされて燃え尽きちゃうわけですね。とっても中二病で素敵ですw

 
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「バイロンの死(Wikipediaより)」

 

 こうした中で戦われたギリシア独立戦争ですが、ギリシアを支援した露・英・仏など各国の思惑は当然ロマン主義の熱によるものだけではありません。それぞれ、バルカン半島や黒海沿岸、地中海東岸地域へ進出する機会をうかがってのことです。ですが、オーストリアだけは自国が多民族国家であることもあり、ギリシアのナショナリズムを容認するわけにもいきません。ここはウィーン体制の原則に従い静観、ということになりました。

 1827年に英仏露連合艦隊とオスマン帝国との間に偶発的な衝突が起き、ナヴァリノの海戦が発生します。この戦争にトルコ軍が敗北したことで、この戦争は大きく転換していきます。戦争終盤の1828年に、ロシアはトルコと戦端を開きます。これに勝利した露は、オスマン帝国との間にアドリアノープル条約を締結します。戦勝による講和条約ですから、その内容は以下のようにロシアに有利な内容となっていました。

 

  ギリシアの自治承認

:トルコの影響力が減少する半面、独立運動を支えてきた露の影響力は大きく増大

  黒海沿岸地域の一部を露へ

  モルダヴィア、ワラキア(両地域が後のルーマニア)、セルビアの自治承認

:同じく、歴史的にスラヴ系民族が多く、ギリシア正教とも多い地域に対する露の影響力が増大します。


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1793-1812頃のルーマニア地域[モルダヴィア・ワラキア・トランシルヴァニア]

Wikipedia

 

  ボスフォラス、ダーダネルス両海峡のロシア船舶の通行権

:これは、ロシアの船舶が黒海からエーゲ海に出て地中海方面に進出することを可能にします。


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(赤い部分がボスフォラス海峡、黄色がダーダネルス海峡:Wikipedia

 

 つまり、アドリアノープル条約は明確にロシアの南下を成功させた条約だったのですが、これにイギリスがかみつきます。特に、ギリシアの自治国化は、国としての立場が弱く、ロシアの影響力を受けやすくなると考えたことから、イギリスはギリシアの完全独立を主張してすでに1827年から開催されていたロンドン会議の席上でこれを認めさせます。これにより、ギリシアは1830年に完全な独立国として出発することになりました。

 

ポイント② エジプト=トルコ戦争とその結果

 

 続いて、このギリシア独立戦争でオスマン帝国の属国という立場で戦争協力をしたエジプトのムハンマド=アリーが見返りを要求したことが発端となって、2度にわたるエジプト=トルコ戦争が展開されます。戦争の経過については図表を参照していただければよいのですが、ポイントはやはりウンキャル=スケレッシ条約です。この条約の性質をよく理解できていない受験生が実は多いのですね。ウンキャル=スケレッシ条約というのは、トルコとロシアの間で締結された相互援助条約であり、一種の軍事同盟です。なぜ、ギリシア独立戦争では敵同士で、かつ南下政策を展開するロシアとトルコとの間でこのような条約ができたのでしょう。

 実は、この時期ロシアはトルコの属国化を狙っています。また、トルコの方では弱体化する中でエジプトをはじめとする外敵に対応するためにうまくロシアからの援助を引き出そうと狙っていました。こうした中で、エジプトとトルコの戦争が始まるとロシアはトルコの側を支援します。ところが、ロシアの東方地域におけるさらなる影響力拡大を懸念する英仏はトルコに圧力をかけて無理やり講和を結ばせます。これがキュタヒヤ条約(1833)ですが、この条約でトルコはエジプトにシリアをはじめとする広大な領域を割譲させられる羽目になりました。これに怒ったトルコはロシアとの相互援助条約であるウンキャル=スケレッシ条約を結び、その秘密条項においてロシア艦隊のボスフォラス、ダーダネルス両海峡の独占通行権を与えます。これは同地域におけるロシアの軍事的プレゼンスを大きく高める内容であったことから、英はこれに不満を持つことになります。

 その後、二度目のエジプト=トルコ戦争が起き、その講和会議であるロンドン会議が開かれると、イギリスの外相で、後に首相を務めることにもなるパーマストンがこの問題の調整に乗り出します。その結果、ここで締結されたロンドン条約では以下の内容が取り決められます。

 

  エジプトはエジプト・スーダンの世襲統治権が与えられた(オスマン宗主権下)

  シリアはエジプトからトルコに返還

  ボスフォラス、ダーダネルス両海峡の軍艦通行を禁止

 

 中でも、③の条項は先にロシアがトルコと単独で結んだウンキャル=スケレッシ条約を無効化することを意味していました。さらに、この時点では英・露・墺・普の間の取り決めにすぎませんでしたが、翌年に仏を加えて五国海峡協定として承認させます。これにより、パーマストンは「フランスが影響力を高めるエジプトが勢力を強めることを防ぐ」ということと、「ロシアの地中海東岸地域における軍事的プレゼンスの排除」という二つの目的を見事に達成し、外交的な勝利を手にしたのです。

 

ポイント③ クリミア戦争とパリ条約

 

 クリミア戦争は「聖地管理権問題が発端」ということはよく言われますが、これも受験生にはイマイチよくわからないところです。当時、キリスト教の聖地イェルサレムはオスマン帝国の支配下にあるのですが、オスマン帝国というのはイスラーム国家ではありますがその帝国内に多数の異教徒を抱えていました。カトリックもそうですし、旧ビザンツ領ではギリシア正教徒も多くいます。また、北アフリカやシリア・パレスチナ地域を中心に単性論の系統をひく諸宗派なども存在していました。イェルサレムにはこうしたキリスト教徒たちにとって信仰の対象となる街区(聖墳墓教会など)があるのですが、こうした部分の管理権は、16世紀ごろからフランス王がカピチュレーションの一環としてオスマン帝国から管理を認められていました。しかし、フランス革命の混乱の中でこの聖地管理権の所在がうやむやになります。こうした中で、ロシアの援助を受けた現地のギリシア正教徒たちが聖地管理権を1851年に獲得すると、国内のカトリックに対する人気取りを画策したフランスのナポレオン3世が横からしゃしゃり出てきてオスマン帝国に再度フランスが聖地を管理することを認めさせ、1852年にこれを回復します。これに不満をもったロシアが聖地管理権を要求し、またカトリックの多いフランスの管理やイスラームであるオスマン帝国の支配からギリシア正教徒を保護するのだということを口実に開戦するというのがクリミア戦争の直接の契機です。

 

 この戦争は難攻不落と思われたセヴァストーポリ要塞を落とされたロシアの敗色が濃い中で終結します。その講和条約として締結されたパリ条約では、1840-41年の取り決め(ロンドン条約や五国海峡協定)の内容が再確認されたほか、黒海の中立化・非武装化が新たに加えられた結果、黒海周辺にあるロシアの軍事施設はすべて撤去されることになりました。さらに、ロシアは1812年にトルコから獲得していた黒海北岸のベッサラビア(現モルドバ、一部はウクライナ)をモルダヴィアに割譲することになりました。

 

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20世紀のベッサラビア」(Wikipedia

 

 このようにして黒海周辺からはロシアの影響力がかなり排除されることになりました。一方で、すでにアドリアノープル条約で認められていたモルダヴィア、ワラキア、セルビアの自治は再度承認、確認されています。特に、モルダヴィアとワラキアは後にルーマニアとなる地域ですが、この地域は、形式上はオスマン帝国が宗主権を持っていますが、長らくロシアの軍政下に置かれていました。ところが、1840年代に入ると外国(ロシア)による保護制に反対する民族運動が高揚し、反乱が発生します。当時のモルダヴィアならびにワラキアはこれを鎮圧したロシア・トルコ両軍の制圧下にある状態でしたので、その扱いを再度確認する必要があったのです。ですから、これらの地域の自治を承認するということは、再度ロシアが同地域に影響力を与えるきっかけを与えかねないのですが、これを他の諸国は承認します。この段階において、同地域が自治権をもつことは、ロシアのみならずオーストリアをはじめとする諸国にもトルコに代わって同地域に影響力を及ぼすためには悪くないことだからです。つまり、たしかにパリ条約においてロシアは黒海沿岸地域から大きく後退させられましたが、一方的な敗北条約をのませられたというよりはいくらかの妥協の産物としてパリ条約を受け入れたわけです。

 

ポイント④ サン=ステファノ条約とベルリン会議

 

 さて、やっと私が本来書きたかった内容にやってこれました。と言っても、正直一言で済んでしまうのですが。この一言を書くために調子に乗って東方問題のまとめに首を突っ込んでしまったことを今はものすごく後悔していますw 自分の中では把握していることでも、説明するとなるとえらい手間がかかりますし、長くなるものです(;´・ω・)

 さて、それではサン=ステファノ条約とベルリン会議(またはベルリン条約:1878)とは一体何なのでしょうか。以下に、この二つの条約を理解するためのポイントをいくつか紹介していきます。

 

  サン=ステファノ条約は、露土戦争の講和条約で、二国間条約である。

:ある意味当たり前のことなのですが、サン=ステファノ条約はロシアとトルコ間の講和条約です。つまり、戦勝国であるロシアに有利な内容になっています。中でも、ブルガリアについての規定は決定的でした。スラヴ系民族の多いこの地域は、形式上はオスマン帝国の宗主権下で自治国となることが決められましたが、これを履行させるためという名目で、ブルガリアにはロシア軍が駐留することが決められました。実は、ご存じない方が多いのですが、ある地域に他国の軍隊が駐留するということは、「事実上保護国になる」ということとほぼ同義です。例えば、イギリスのエジプト支配についてもウラービー=パシャの反乱を鎮圧した後に「事実上保護国化した」という表現が出てきます。これは、軍隊がその地に駐屯することによって、同地域の治安維持ならびに外交権などに大きな影響を及ぼすことが可能になるためです。つまり、ブルガリアはこのサン=ステファノ条約で実質的にロシアの保護下に置かれることが決まりました。そして、問題であったのはその大ブルガリア公国の領土です。

 

 Bulgaria-SanStefano_-(1878)-byTodorBozhinov

Wikipedia

 

黒い太線でくくられれている部分がサン=ステファノ条約で決められたブルガリアの領土ですが、この領土がエーゲ海に面しているところが重要です。つまり、ロシアはこのブルガリアを事実上の保護下に置くことで、ボスフォラス、ダーダネルス両海峡を経ずして地中海に面する地域に進出することが可能となりました。これはロシアにとって南下政策の大きな進展に他ならなかったのですが、だからこそ英・墺の反発を呼ぶことになったのです。

 

  ベルリン会議(ベルリン条約)では、ブルガリアの性質が大きく変更となった。

(ロシアは地中海への道を閉ざされた)

  :さて、再度上のブルガリアの地図に注目してください。ベルリン会議の結果、ブルガリアの領土は3分割され、大きく縮小されます。ブルガリアは黒海に面した北部の緑がかった部分(うすーく「Principality of Bulgaria」とあるのが見えるでしょうか)のみとなり、黒海に面した南部の赤い部分(東ルメリア)と西南部の茶色っぽい地域(マケドニア)は別のものとされ、東ルメリアはオスマン帝国化の自治州となり、マケドニアはオスマン帝国に返還されてしまいました。つまり、新しいブルガリアは地中海に面する部分をすべて失ってしまったのであり、ロシアの南下政策は再度挫折してしまったのです。また、この時に領土を削減されたブルガリアは失った領土の奪還を目指し、執念を燃やす(大ブルガリア主義)ことになりますが、こうしたことが20世紀に入ってからのバルカン戦争へとつながっていきます。

 

  ベルリン条約では気づいたら英・墺が進出して楔を打ち込む形になっていた。

:これは皆さんご存知のことと思いますが、このベルリン会議でエジプトに利権を持ち、3C政策を展開するイギリスと、パン=ゲルマン主義に基づいて国家統合とバルカン進出を狙うオーストリアがどこを手に入れたのかを再度確認しておきましょう。

 

 キプロス

(キプロス島:イギリスが獲得)
 

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(ボスニア=ヘルツェゴヴィナ:墺が統治権を獲得)

http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/map/Bosnia_Herzegovina/Map_of_Bosnia_Herzegovina_and_neighboring_countries.htm

 

 英はエジプトの北、地中海東岸に位置し、オスマン帝国の首根っこをおさえるキプロス島を、墺はバルカン進出の要となるボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権を手に入れます。この状態ではロシアの南下政策は完全に「死に体」です。このベルリン会議をうけてロシアの南下政策は「挫折した」と表現されるのはこのような内容によるわけです。「東方問題」は時期によって国際関係の変化(露・墺関係の変化、ウィーン体制の意味など)もありますし、条約の内容もかなり細かいもので、なかなか把握しづらいものです。大きな枠組みは「ロシアの南下政策の挫折」で良いのですが、やはりしっかりと当時の政治状況を理解するためには地理的理解も含めた各条約の内容をしっかりと消化しておくことが大切でしょう。また、このあたりのことをしっかりと把握しておくと、青年トルコ革命や、そのどさくさに紛れた様々な動き(墺のボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合など)、さらにはバルカン戦争なども理解しやすくなると思います。


 


 先日、ブログを友人に見せたところ「イタリア戦争の項目って面白いけど、これ両シチリア王国の話でイタリア戦争の部分ほとんどなくねw」と言われましたw しかり、ごもっとも。ただ、これは何もHANDが手抜きをしたからとかいうことではなくて、単純に受験生に必要な情報に絞って書いたらこうなりましたよ、ということなんです。イタリア戦争については戦争の経過自体よりも「戦争に至るまでのイタリア周辺の政治状況の概略」と「イタリア戦争中に形成される大きな構図(ヴァロワ家フランスvsハプスブルク家)」、「イタリア戦争の意義(ルネサンスの衰退・主権国家体制の形成開始など)」が世界史では問われるので、そこに情報を絞ったんですね。ただ、こちらをご覧になる方の中にはイタリア戦争自体の概略を知りたい、という方もいらっしゃるかと思いますので、少し視点を変えてイタリア戦争について詳述しておきたいと思います。(この部分は特に世界史で頻出というわけではありませんし、おそらく知らなくてもどうにかなる部分かとは思いますので注意して下さい。ただし、稀に一橋などでちょっとはっちゃけちゃった場合に出題されることがありますw)

 

 まずは、イタリア戦争までのイタリア周辺の政治状況を概観してみましょう。おおざっぱにいうと、11世紀頃までのイタリアは北イタリアを神聖ローマ帝国、南イタリアを東ローマ帝国、シチリアをイスラーム勢力、さらには教皇領と4分されていました。ただし、この勢力図は実際には名目上のもので、イタリアの各地にはコムーネをはじめとする小国家が成立しており、これがその時々の勢力に応じて神聖ローマ帝国ないし東ローマ帝国の権威に服したり、逆に同盟を組んでこれらに対抗したりしていました。簡単に整理すればこのようになります。

 

(北イタリア)

 フランクによる制圧までは東ゴート王国→東ローマ帝国→ランゴバルドの支配、9世紀以降は中部フランクの支配下に入ります。この時期において特筆すべきことは、ラヴェンナが東ローマのイタリア支配の拠点となっていくことでしょう。本来、東ローマの派遣した部隊長的立場にあった東ゴート王国(テオドリックは東ローマ皇帝ゼノンによって派遣されています)のイタリア支配に否定的だったユスティニアヌスは東ゴートを征服してラヴェンナを占領。以降、この地は東ローマのイタリア支配の中心となる総督府がおかれる都市となります。サン=ヴィターレ聖堂(548年完成)に例のユスティニアヌスと皇后テオドラの肖像が描かれたモザイクがあるのはこのことによります。


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Wikipedia「サン=ヴィターレ聖堂」より引用)

 

 ですが、東ローマの影響力の低下とローマ教皇との対立の中で、東ローマのイタリア支配は難しくなり、8世紀の前半にはランゴバルド族にここを奪われます。その後は、フランク王国の侵入とピピンの寄進にいたるまでの受験生にはおなじみの流れになりますね。10世紀頃からは神聖ローマ帝国のイタリア政策に悩まされます。典型的なものがシュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝)のフリードリヒ1世などですが、これに対抗してイタリアでは1167年にロンバルディア同盟がミラノを中心にボローニャ・パルマ・マントヴァ・パドヴァなどのロンバルディア諸都市により結成され、1176年にレニャーノの戦いでフリードリヒ1世の軍を撃退した後も継続され、イタリアの教皇党(ゲルフ)の中心となります。一方で、イタリア内の皇帝党(ギベリン)の存在や、ローマ教皇との関係などにより、神聖ローマ皇帝がどの程度の影響力を有していたかは時代によってたえず変化しました。

 

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クリーム:ビザンツ帝国

オレンジ:ランゴバルド系の諸国

ピンク:係争地

Wikipediaより引用、8世紀初頭のイタリアです。)

 

(中部・南イタリア)

 南イタリアの多くの部分はランゴバルド系のベネヴェント公国の支配下に入りましたが、周辺諸地域は東ローマ(ビザンツ)帝国や、これから派生したアマルフィ公国、イスラームが支配するシチリア首長国などが乱立していました。理解しておきたいのは東ローマの影響力低下にともない、イスラーム勢力の浸透が見られたことです。もともとは東ローマの支配下におかれていたシチリアでしたが、この島を治めていた総督が東ローマに反乱を起こした際に援助を求めたことがきっかけで、アッバース朝支配下の独立政権アグラブ朝がシチリア島に侵入、これを段階的に制圧します。これにより、シチリアにはおよそ200年にわたってアグラブ朝系のイスラーム勢力であるシチリア首長国(831-1072)が成立することになりました。よく、シチリア島で育ったシュタウフェン朝のフリードリヒ2世の宗教的寛容性やイスラーム文化の受容、近代的視点などが言われ、テレビの特集番組などで紹介されることがありますが、その背景にはこうしたシチリア島や南イタリアの歴史的背景があるのです。

 

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10世紀末イタリア」

WikipediaList of historic states of Italy」より引用)

 

 その後、こうした様々な勢力が割拠していたイタリアに、ノルマン人たち、なかでもフランス・ノルマンディー公国で次第に貴族化したノルマン系貴族たちが入り込んできます。そのきっかけははっきりしませんが、「サレルノ伝承」と呼ばれる半伝説的な記録によれば、イスラームからの貢納要求に困っていた当地の領主のために働いたことがきっかけで、南イタリアで傭兵として働けばかなりの褒賞を得ることができるという噂が当時ヨーロッパで盛んになってきていた巡礼者の口を通して伝わったことからであるようです。このようにして入り込んできたノルマン系貴族の中に、ロベール=ギスカールとルッジェーロ1世がいたわけですね。彼らは、教皇のお墨付きをいただいて南イタリアの各地を統合していきます。


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1112年イタリア」

WikipediaList of historic states of Italy」より引用)

 

 その後、彼らが征した南イタリアをルッジェーロ1世の子、ルッジェーロ2世が継承して(両)シチリア王国となったことは以前「あると便利なテーマ史に書いた通りです。


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http://imillecoloridinapolii.blogspot.jp/より引用)

 

13世紀以降のイタリア)

 さて、それ以後のイタリアですが、皆さんもご存じの通り、北イタリアでは各地にコムーネと呼ばれる都市共和国や、シニョリーア制(もともとは都市共和国などであったものが、臨時に独裁官を任命することをきっかけに終身、世襲の僭主となること)などから発展した公国が成立します。代表的なものにはヴェネツィア、フィレンツェ、ジェノヴァ、シエナなどのコムーネやミラノ公国(ヴィスコンティ家)やフェラーラ公国(エステ家)などがあります。

 

 また、南イタリアでは、12世紀から13世紀にかけてはシュタウフェン朝が統治していた(両)シチリア王国(当時はシチリアと後のナポリ王国の領域を含めた全域が「シチリア王国」とよばれていました)でしたが、フリードリヒ2世死後の後継者争いの中で、教皇の支持を受けたフランス貴族アンジュー家のシャルル(シャルル=ダンジュー、ルイ8世子、ルイ9世弟)が兄ルイ9世の承認を受けてシチリア王国に侵入し、フリードリヒ2世の庶子であったマンフレーディを敗死させてカルロ1世としてシチリア王に即位しました(1266年)。

 

 ところが、突然やってきたこのフランス系貴族の支配にシチリア王国の民衆は不満を募らせていきます。当時、カルロ1世(シャルル=ダンジュー)は姻戚関係から滅亡したラテン帝国(1261年滅亡、最後の皇帝ボードゥアン2世の息子フィリップがシャルル=ダンジューの娘婿)の継承権を主張して東ローマ帝国のミカエル8世(パラエオロゴス朝)と対立していたため、住民から強制徴発などを行っていたとも言われます。こうしたカルロ1世に対する不満が噴出したのが1282年のシチリアの晩鐘(晩祷)とよばれる暴動事件です。事件の背後にはアンジュー家による地中海支配を恐れるイベリア半島のアラゴン家や、東ローマ皇帝ミカエル8世の謀略があったとする説もありますが、いずれにせよこの暴動事件に端を発する混乱の中でカルロ1世はシチリア島からの撤退を余儀なくされ、シチリア島にはこの混乱に乗じてカルロ1世を破ったアラゴン家のペドロ3世が侵入して、カルロ1世に敗れて死んだかつてのシチリア王マンフレーディの娘婿であることを理由として王位につきました。一方、シチリア島を追い出されたカルロ1世は南イタリアに逃れてこの地を確保し、あらためてナポリ王として即位します。その結果、それまでは「シチリア王」という称号のもとに統治されていたシチリア島とイタリア半島南部は「シチリア王国(アラゴン家)」と「ナポリ王国(アンジュー家)」の二つの王国に分割されていくことになります。

 

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14世紀イタリア」

https://jp.pinterest.com/pin/534309943262026426/より引用)

 

 

 その後、しばらくの間ナポリ王国はアンジュー家の支配下にありますが、15世紀に出たジョヴァンナ2世(女性)に後継者がなく、ジョヴァンナがその後継者に一度はアラゴン王アルフォンソ5世を指名したことなどがきっかけとなって、ジョヴァンナの死後にアンジュー家とアルフォンソ5世がナポリの領有をめぐって争います。この戦いに勝利したアルフォンソ5世はナポリ王位を獲得し、これ以降シチリア、ナポリともにアラゴン系の家系がこれを領有していくことになります。このように、南部においてシュタウフェン家→アンジュー家→アラゴン家とそれぞれ神聖ローマ帝国、フランス、イベリア半島と縁の深い家系が覇を競う一方で、北方のコムーネや諸侯国も周辺の大国や教皇との力関係の中で割拠する状態にありました。

 

 ですが、15世紀半ばのルネサンスが花開かんとしつつも群雄が割拠する時代に、イタリア半島全土を揺るがす大事件が起こります。オスマン帝国のメフメト2世によるコンスタンティノープル占領(1453)です。この事件が起こる前兆はすでに十数年前からイタリアにも届いていました。東ローマ皇帝ヨハネス8世(パラエオロゴス朝)が参加したバーゼル公会議(1431)とフェラーラ公会議(1438-39)です。両公会議は、1054年の正式分裂以来東西に分かれていたギリシア正教会ならびにローマ=カトリック教会の合同を餌として、オスマン帝国に対する十字軍の協力を西欧諸国から得るためにヨハネス8世が画策して開かれたものでした。ちなみに、この会議の際に多くのギリシア人学者がイタリアに来たことが、ルネサンスをさらに促進させることにつながったと言われています。一時は東西教会合同の署名が交わされるまでにいたった両会議でしたが、東ローマにおける人々の反対は根強く、ヨハネス8世の意に反してこの署名は教会、人民の総反対のもとで反故にされてしまいます。また、何とかこの合意に基づいて教皇の要請により派遣されたハンガリー王兼ポーランド王ウラースロー1世(ヴワディスワフ3世)の軍はオスマン帝国のムラト2世の軍に敗れ、ウラースロー自身も戦死してしまいました。

 

 実は、オスマン帝国のバルカン半島への進軍は15世紀の初めにある事情で停止していました。アンカラの戦い(1402)です。ムラト1世以来、アドリアノープル遷都(1366)、コソヴォの戦い(1389)、ニコポリスの戦い(1396)と、14世紀後半に着実にバルカン半島の奥へと侵攻してきていたオスマン帝国でしたが、後方に起こったティムールと雌雄を決したアンカラの戦いで皇帝バヤジット1世は捕らえられ、帝国は一時大混乱に陥ります。このため、バルカン半島への進行もストップします。

 

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ムラト1世時代の支配域の拡大

Wikipedia「ムラト1世」より引用)

 

 オスマンの攻勢に手を焼いていた東ローマ帝国では、ヨハネス8世の父であるマヌエル2世がこの好機をとらえて外交交渉に腐心し、オスマン帝国メフメト1世との間に友好的な外交関係を築き上げることに成功しました。しかし、その子のヨハネス8世はオスマン帝国に対する強硬策を主張し、メフメト1世の後を継いだばかりのムラト2世に対抗する、対立スルタンを擁立するという奸計を巡らせた上に失敗します。つまり、寝かしつけた虎の尾を踏んで起こしてしまったのです。先のバーゼル公会議、フェラーラ公会議は、オスマン帝国に追い詰められたヨハネス8世の苦肉の策でした。しかし、それも成果を上げることはなく、東ローマ帝国はヨハネス8世の次のコンスタンティノス11世がコンスタンティノープルでその命を散らした時に長い歴史に幕を下ろしました。

 

さて、この事態に驚いたのがイタリアの諸国です。それまでは自分たちの利益ばかり考えて半島内の勢力争いを行っていましたが、オスマン帝国が迫ってくるとなると話は別です。当面の争いは置いておいて、まずは共同戦線をはろうということで、イタリア半島の国際関係を安定させることにしました。その結果結ばれたのが「ローディの和(1454)」と呼ばれる和約です。イタリアを代表する当時の五大国(教皇領、ナポリ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア)が交わしたこの和平協定によりイタリアの政局は安定し、その後数十年にわたる盛期ルネサンス時代が訪れます。ボッティチェリも、レオナルド=ダ=ヴィンチも、ミケランジェロも、ラファエロもみんなこの時代に現われたのです。「イタリア戦争」が始まったのは、こうした15世紀の繁栄が終わりを告げようという、また一方では新たな世界への扉が開かれんとする、そんな時代だったのです。

 

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1494年、イタリア半島

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Italy_1494_AD.pngより引用)

 

(イタリア戦争)

ローディの和の一角が崩れ始めたのは1492年、コロンブスが新大陸を「発見」したこの年に、フィレンツェのロレンツォ=デ=メディチが病没します。メディチ家を継いだのは若干20歳のピエロ=デ=メディチでした。

 

 ロレンツォの死

©惣領冬実『チェーザレ』(一部編集)

 

このことが周辺諸国の不安を煽ります。中でも不安に陥ったのはミラノ公国の実質的な支配者であったルドヴィーコ=スフォルツァでした。背後に大国フランスを抱えるミラノ公国の状況をよく知るルドヴィーコは、ロレンツォのいなくなったフィレンツェとの同盟関係の見直しに入ります。当時、ルドヴィーコは、甥のジャン=ガレアッツォから実権を奪う形でミラノ公国を取り仕切っていました。そして、そのジャンが1494年に亡くなったことをきっかけに正式にミラノ公位につきます。ところが、ジャンの妻であるイザベラ=ダラゴーナがナポリ王アルフォンソ2世の娘であったことからアルフォンソがこれに異議を唱えます。こうして、イタリア半島内における自身の立場が怪しくなったことを悟ったルドヴィーコはフランスに接近し、フランス王シャルル8世にナポリ王位の正式な継承権はフランス王家にあるのではないかとたきつけて自領の通行権を認め、フランス軍を北イタリアに引き入れます。フィレンツェのピエロはこの際、戦乱を嫌うフィレンツェ市民によって追放されてしまいました。フィレンツェはナポリ王位を要求して南イタリアへと進軍するシャルル8世のフランス軍の通行を許可します。イタリア戦争の始まりです。(ちなみに、この出来事を予見していたとされたサヴォナローラがその後フィレンツェで信望を集め、フィレンツェでは数年間彼の神権政治が展開されます。)

 

一時は2万を超す大軍を擁してイタリア入りしたシャルル8世でしたが、ナポリをはじめ、ナポリの親類筋のスペイン(カスティーリャ・アラゴン)や、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ教皇、神聖ローマ帝国、さらに一度はフランスについていたはずのミラノ公国のルドヴィーコらが連合軍を組織したことで追い詰められ、目的(ナポリ王位の継承)を果たせぬままに撤退します。その後、シャルル8世の後を継いだルイ12世(シャルル8世の義兄)は、再度遺恨の残るミラノ公国やナポリ王国への進軍を計画しますが、失敗に終わります。

その後もいくつかの小競り合いが続きますが、イタリア情勢が新展開を見せるのは1519年の神聖ローマ皇帝選出選挙です。この選挙ではフランスのフランソワ1世が対立候補として名乗りを挙げましたが、ハプスブルク家を継いだカール5世(カルロス1世)がこれを撃退し、神聖ローマ皇帝に選出されます。このことで、自領をハプスブルク領に囲まれることになったフランソワ1世は、自国防衛の拠点を確保するため、ピレネー山脈やネーデルラントで軍事行動を起こし、さらに停止していたイタリアでの戦闘も再開されました。

 

 ハプスブルク家

http://tabisuru-c.com/travel/germany_201205/germany_history/germany6.htmより引用した地図を一部改変)

 

この戦いの中で、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国とスペイン、教皇とそれに味方するイタリア諸侯、イングランド(当時はヘンリー8世)などを敵に回し、国際的に孤立したフランソワ1世は、遠く離れたオスマン帝国のスレイマン1世の宮廷へ使節を派遣し、カール5世と対抗させる同盟関係を構築することになります。(この中で、後のカピチュレーション[オスマン帝国による恩恵的諸特権]の素地が作られていくことになるわけです。)このようにしてヨーロッパのみならず、地中海全域を巻き込んだ戦いはヴァロワ家、ハプスブルク家の双方を疲弊させ、財政難にあえがせることになりました。カール5世の退位(1556年)をきっかけとして、これらの国々の次代の王たち(フランスのアンリ2世、スペインのフェリペ2世)によってカトー=カンブレジ和約が締結されたのは1559年のことです。イタリア戦争は、アンジュー家のシャルルの頃から続くイタリア領有の夢をかなえることなく、ハプスブルク家の優位を16世紀ヨーロッパにつくりだして終わりました。フランスが、ハプスブルク家に対してその遺恨を晴らすのは、三十年戦争後の1648年、ウェストファリア条約を締結するブルボン家の統治においてでした。

 



 今回は、中国儒学史について簡単にまとめてみようかと思う。一見するとさして重要ではないように思えるテーマだが、アジア思想史については東大ではたびたび出題されている。たとえば、東京大学1987年第2問のA「宋学(朱子学)が正統学派としてその後の中国の諸王朝や近隣諸国で受容された理由」や2010年第2問、問(1)-(a)「前漢半ばに儒学が他の思想から抜きんでた存在となった理由」などである(2003年の第2問にも朱熹を答えさせてその後の宋学の影響を答えさせる問題がある)。文化史の一部として出てくることが多く、東大でもその出題は宋学に集中していることからあまり儒学について古代から通してまとめようとする人はいないように思うので、ごく簡単にまとめておきたい。

 

[儒学史]

 

(春秋・戦国)

・孔子による儒学創始

:周代の政治の理想化、道徳(孝・悌)、礼、仁の重視

・孟子(性善説)、荀子(性悪説)による発展

 

(秦)

・始皇帝による焚書・坑儒[BC213212]

→儒教を伝える者や文書が一部離散

 

(漢)

[前漢] 武帝期

・董仲舒の献策で儒学官学化、統治理念として採用

・五経(詩経・書経・易経・礼記・春秋)と五経博士の設置

 

[後漢] 光武帝による保護・奨励

・国教化にともなう教義の固定化

・春秋左氏伝の発見と訓詁学の発展

:それまでの口伝である春秋公羊伝に対して秦以前の古代文字で書かれた左氏伝が発見され、以降古典の字句解釈を行う訓詁学が発展(訓詁学は後漢の馬融、鄭玄が大成)

 

(魏晋南北朝)

・漢の崩壊で儒学の権威失墜

→かわりに老荘思想が流行(清談・竹林の七賢)

 

(隋)

・九品中正を廃して科挙が整備される

 

(唐)

・太宗の指示で訓詁学の整理

孔穎達『五経正義』:解釈の統一

 -顔師古:五経の定本作成

  →儒学思想の固定化と思想的停滞

 

(唐代中期以降)

・古文復興運動[韓愈・柳宗元]

:門閥貴族に対抗する新興の科挙官僚が主導

・一方で、仏教や老荘思想を導入した古典の再解釈

→宋学の始まり

 

(宋代)

[北宋]

周敦頤『大極図説』

:宇宙の生成~士大夫の道徳までの論理体系

程顥・程頤

 

[南宋

異民族の圧迫(金・元)

→朱熹による朱子学の大成

「理気二元論」、「性即理」、『四書』の重視

(四書:論語・孟子・大学・中庸)

君臣の別・長幼の序・華夷の別・男尊女卑・大義名分論

 

(元)  

・科挙の廃止(1313 復活)

:モンゴル人第一主義・色目人の重用

 

(明)

・朱子学の官学化

→永楽帝の『四書大全』・『五経大全』編纂(解釈の固定化)

・陽明学の成立

:王陽明(王守仁)がはじめる

「致良知」(良心を磨く)

「知行合一(行いを一致させる)

「心即理」

・明末における宋学の観念論化と陽明学の行動主義

 →一時衰退

・考証学(古典の実証研究)の発展 「経世致用の学」

:黄宗羲・顧炎武など(明末)

 

(清)

・満漢偶数官制、科挙実施

・『古今図書集成』(康熙帝)、『四庫全書』(乾隆帝)編纂

・一方で文字の獄(思想・出版統制)

 →考証学が古典の字句解釈に没頭、経世致用の精神を喪失

・清末に公羊学派が孔子を社会改革者として再評価

 →清末の改革運動に影響(魏源・康有為など)

 

(アジア)

[朝鮮王朝(李朝)]

小中華思想・朱子学官学化・科挙導入・両班

[黎朝(ヴェトナム)]

科挙導入

[日本]

尊王論、『神皇正統記』北畠親房

明清交代期に明の学者が亡命

→江戸幕府へ

-湯島昌平坂学問所

-寛永異学の禁(松平定信)…官学化


(ヨーロッパ)
・ヴォルテール、ライプニッツなど 

 
 本当は理気二元論をはじめ、ポイントとなる思想について焦点をあてて詳述して世界史というよりはむしろ倫理にしたかったのですが、新学期が始まったこともあってめちゃくちゃ忙しいことと、東大と東京外語の過去問分析をまとめている最中で正直時間がありませんw リクエストなどあればそのうち加筆していきたいと思いますが、とりあえず今日は簡潔に箇条書きしたものでとどめておきます。 

 経済理論について、通り一遍の知識を身につけることはそれほど難しいことではない。レッセ=フェールといえばアダム=スミスだし、マルサスといえば『人口論』だ。だが、こうした経済学の流れや、そもそもなぜ種々の経済理論が生み出されては消えていったのかを理解することはなかなかに難しい。そこで、今回は特に近世以降のヨーロッパ経済の発展とともに変化してきた経済理論について簡単にまとめてみよう。

 

16世紀~18世紀)

 ・重商主義

-重金主義:スペイン・ポルトガル

-貿易差額主義:コルベール(仏)、クロムウェル(英)

(-産業保護主義:コルベール、ジョン=ケアリ[英・キャリコ論争]

 

18世紀後半)

・重農主義…ケネー・テュルゴー(仏)

:重商主義のような国家による経済介入を批判

「レッセ=フェール」による自由放任主義を唱える

 -ケネー(仏)『経済表』

 -テュルゴー(仏)

  ・古典派経済学(自由主義経済学)

:重農主義の自由放任主義を継承、近代資本主義の発達

-アダム=スミス(『諸国民の富』、レッセ=フェールの継承、労働価値説)

-リカード

(労働価値説、19世紀英自由貿易主義、『経済学および課税の原理』)

-マルサス(『人口論』)

JSミル(功利主義)

                

19世紀~、ドイツ)

・歴史学派経済学

:経済を発達段階的に理解する

経済後進国における保護貿易主義を説く

-リスト:ドイツ関税同盟(1834

 

19世紀後半~)

・マルクス経済学

:資本家による労働者搾取批判

 労働価値説の批判的継承による「剰余価値説」

-マルクス『資本論』

20世紀)

・修正資本主義

:国家による経済介入を肯定

-ケインズ:ニューディール政策

      『雇用、利子および貨幣の一般理論』

 

 ここがポイント

 

近代的な経済学が発展するのは16世紀に入ってからだが、これはいわゆる大航海時代(または大交易時代)の始まりと軌を一にしている。その萌芽はすでに15世紀イタリアにも見られるのだが、16世紀以降、商業革命が起こってからの交易はその規模が圧倒的に異なる。いずれにせよ、これ以降の近代経済学の発展は、それぞれの国が直面した経済状況に応じて変化してきた。新大陸の鉱山経営を進めてヨーロッパやアジアに莫大な銀をもたらしたスペインやポルトガルにおいて重金主義という考え方が生まれたことはその典型である。

 

 ところで、貴金属こそが国富であり、この国外流出を防ぐことが経済的繁栄をもたらすという考え方を重金主義であるとするなら、同じく16世紀のイギリスのトマス=グレシャムなどもこれに含めることができる。彼は王室財務顧問としてエドワード6世期からエリザベス1世期にかけて王室債務の軽減に尽力した人物だが、彼の「悪化は良貨を駆逐する」という考え方がどうも受験生には苦手らしい。簡単に説明すると、「悪化(品位の低い貨幣)と良貨(品位の高い)貨幣を比較したとき、人は通常良貨を退蔵して悪化を取引に用いるため、取引市場においては、良貨は姿を消し悪貨のみが流通することになる」ということを言っている。具体的に説明してみよう。たとえば、下は江戸時代に流通した小判であり、さらに表は2013年の慶應義塾大学経済学部の日本史で出題された江戸期の小判の金の含有量を示したものである。


Koban
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/A017c.htm

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 http://blog.livedoor.jp/otakarajoho/archives/6607231.html
 

 さて、仮にこれらの小判の額面が全て「1両」であったとして、同じ時期に流通したとしよう。金・銀・銅などの中で「金」が最も価値を持つと考えられるとした場合に、みなさんは取引の際に「慶長小判」と「元禄小判」のどちらを使うだろうか。多くの人は、「同じ1両として通用するなら、慶長小判の方が金をたくさん含んでいるからこれはタンスにでもしまっておいて、取引には金があまり含まれていない元禄小判を使おう」と考えるはずだ。これが続けば、実際の流通貨幣からは「良貨(慶長小判)」は駆逐され、「悪貨(元禄小判)」のみが取引で用いられるようになる。これがグレシャムの法則の基本的な考え方であり、かれはこの考え方に基づいてイギリスの通貨価値の是正を進言して王室財政の立て直しに成功する。このような考え方は基本的に「通貨それ自体」に価値がある場合に当てはまるものであり、通貨自体の価値(紙)が額面上の価値におよばない現在の信用貨幣の場合には当てはまらない。

 

 さて、話を戻すと、こうした重金主義の後に出てくるのが貿易差額主義である。17世紀に入って英・蘭・仏はそれぞれ東インド会社を設立して海外交易に乗り出すが、当初海外交易の覇権をにぎったのはオランダであった。これには、それぞれの会社の質も関係している。英・仏の東インド会社が当初は王室からの特許によって成立した一部の特権商人の集団であったにすぎなかったのに対し、商人貴族(レヘント)が国政を牛耳るオランダでは当初から国家的な後押しを期待することができた。フランスの東インド会社は15年の有限の特許状によるもので間もなく消滅してしまう(後にコルベールによって再建される[1664])。また、イギリスの東インド会社はジョイント=ストック=カンパニーと呼ばれる形態の会社で、各商人が無限責任を負って投資し、その投資した資金によって会社組織(施設、従業員など)を維持するというものであったのに対し、オランダの東インド会社は株式会社であった。要は、組織面や資金力において当初からオランダの方が強力だったのである。

 

こうした状況に変化が生まれるのはオリヴァー=クロムウェルが政権を担当するようになってからだ。航海法でよく知られるクロムウェルであるが、クロムウェル自身は航海法には反対だったようである。熱心なピューリタンとしてカトリックのアイルランド制圧などに乗り出し、同じくカトリック国フランスと対峙していたクロムウェルは、同じプロテスタント国家であるオランダと対立することにはあまり乗り気ではなかったらしい。むしろ、この航海法制定をクロムウェルに迫った(もしくは懇請した)のは議会の側だった。そして、その議会を構成する貴族やジェントリの多くは航海法による取引の拡大に少なからぬ利害関係を有していたのである。[Barry Coward, The Stuart Age : England 1603-1714 Third Edition (London: Longman, 2003) ほか]

アジア交易や大西洋交易が発展するに従い、輸出は良く、輸入は国富の流出につながるから良くないとする貿易差額主義が重金主義にかわってあらわれる。また、輸出を促進するための国内産業の育成が図られる中で、産業保護主義が唱えられるようになるのである(コルベールによるゴブラン織りの王立マニュファクチュア設立など)。

 

 一方、18世紀になるとフランスでは重農主義が、イギリスでは古典派経済学が出現する。実はこの二つの経済理論は密接に関連している、いやもしかすると発展の仕方こそ違えど本質的には同じものであったかもしれない。重農主義は、重商主義に対する批判の中で生まれてきた経済理論である。『経済表』を著したケネーは特に以下の点を経済発展の阻害要因として批判した。

 

 ・絶対王政の重商主義政策による一部特権商人の保護

 ・強力な地主の存在と過剰な統制による経済活動(流通など)の鈍化

 

要は、強大な権力が一部の特権を有するものに便宜を図ることで物価の上昇を招いたり新規参入の商人が現われなくなるなどの経済活動の萎縮が起こり、さらにこれが地方レベルにおいては地主権力による過剰な課税や関税徴収などの搾取により、経済発展を阻害すると言っているのだ。こうした考え方はイギリスの自由貿易主義とか、もっと乱暴に言ってしまえば楽市楽座の発想にも共通するものがある。しかし、当時は絶対王政下のフランスだ。経済が発展しないのは「あんたのせいだ!」と王室や貴族・聖職者連中に言ったところでまともに聞いてもらえないのはわかっている。そこでケネーは社会を地主・生産者(農民)・非生産者(商人)に大まかに区分し、「富の源泉は農業にある」と唱えてその富を最大効率で配分するために、「交易の自由化」や「関税の廃止」などによる経済の自由化(レッセ=フェール)を主張したのである。

 

 そして、この重農主義のレッセ=フェールを継承したのが古典派経済学であった。古典派経済学は産業革命による資本主義の発達に対応するために発展した経済理論である。アダム=スミスはケネーの重農主義を継承しつつ、国家の富の源泉を農業ではなく農地や設備に投下された労働にあると考えた。つまり、「どれだけ働いてものを作りだしたか」がそのものの価値を決めると考えたのである(労働価値説)。またスミスは、重農主義者のレッセ=フェールを発展させて、「個人が自由な市場において個々の利益を最大限にしようと経済活動を行う場合、最終的に全体としては最適な富の配分が達成される」という「見えざる手」を想定し、『国富論』の中で紹介した。

 

こうした考え方は、18世紀後半から19世紀初頭において展開するイギリスの自由貿易主義ともマッチするものであった。ここで、なぜこの時期にイギリスでは自由貿易主義が台頭してくるのかというその社会経済的背景について解説しておかなくてはならない。受験生はあまり把握していないことが多いのだが、この時代に台頭してくるのは「産業資本家」であって、「地主」や「東インド会社」はむしろこうした「産業資本家」とはその利害において対立関係にある。単純に図示すると下のような状態である。


貴族・地主・産業資本家
 

 

 単純に「支配層」と言っても一様ではなく、その中での対立が国の方針や政策に影響を与えることはある。こうした諸階層の対立や、18世紀イギリスの自由貿易主義などは商業・経済系の大学などでもたびたび出題される個所である(2012年一橋大学「世界史」大問32015年慶応経済学部「世界史」大問2の問6「キャリコ論争」など)。直接の因果関係があるとまでは言わないが、1832年に第1回選挙法改正があった翌年の1833年に東インド会社の諸特権(中国貿易独占権など)が廃止されることは印象的である。こうした19世紀の自由貿易主義を支えた古典派経済学はアダム=スミスの労働価値説を大成したリカードにおいて頂点に達した。ところが、古典派経済学は次第にその説得力を失っていく。新たに成立した資本主義経済下で定期的に発生する恐慌や、大規模な失業問題に対処することができなかったからである。

 

 その結果、世界には資本主義を前提とする古典派経済学を基礎としながらも、あらたな理論が各国の経済状況などに応じて考え出されていく。ナショナリズムが高揚する後発国ドイツにおいては、歴史学的に経済を考察した結果発展段階論にたどり着く。原始的未開→牧畜→農業→農工業→農工商業というように国家が段階的に発展すると考えたのである。もしそうであるとすれば、すでに高度に商業化されたイギリスと同様に後発国であるドイツが自由貿易を行った場合、イギリスの製品によってドイツ国内の産業が打撃を受けることは避けられない。ゆえに、リストはドイツが自国の産業を守るためには国内的には経済の自由化、対外的には関税政策を行うという保護貿易主義をとった。この考えに基づいて成立するのが1834年のドイツ関税同盟である。一方、資本主義の抱える矛盾を「資本家」と「労働者」間の階級闘争としてとらえ直し、共産主義を生み出したのがマルクスであり、その協力者エンゲルスであった。先に一橋の問題解説で示したように、共産主義においても発展段階説は継承されている。共産主義の理論は資本主義経済学と全く無関係に生まれたのではないということには注意が必要になるだろう。

 

 しかし、19世紀までの経済学は結局、20世紀に入ってからも経済の規模の拡大に十分に対応することができなかった。特に、1929年に始まる世界恐慌のような極端な需要と国際貿易の縮小の下では古典派経済学の言うようなレッセ=フェールでは対応できなかったのである。それまでの経済の常識に即して展開されたフーヴァー大統領の「なすにまかせよ」式の経済的無策と国内産業保護のための関税の引き上げはかえって世界貿易の縮小を促し、恐慌を拡大してしまう結果につながった。これを受けて、続くフランクリン=ローズヴェルトによる経済への積極的な国家介入政策であるニューディール政策がケインズの新たな修正資本主義経済学に基づき、展開されるのである。この後の第二次世界大戦後の新たな経済体制については後日執筆する金融史の方に譲りたいと思う。

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