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カテゴリ: あると便利なテーマ史

 すでに通貨・産業・金融史として自分である程度まとめていたことを忘れていたために、間違えて通貨史から書きだしてしまった記事です。ただ、古代通貨についてわりと細かく書いたものだったので、一応追記としてそのまま掲載しておきます。)

 

【中国通貨史1:鋳造貨幣の使用と普及】

 鋳造貨幣の使用以前には一部地域で貝貨が用いられておりましたが、これは商業のために流通させるというよりは、儀礼上や贈答用として用いられていたようです。

  800px-Chinese_shell_money_16th_8th_century_BCE

Wikipedia「貝貨」より)

 

春秋・戦国時代に入り、商業の発展が見られるようになると、物々交換以外にも各地で鋳造された青銅貨幣が用いられるようになります。この青銅貨幣の種類と流通地域については、時折入試などでも出題されるものになるので注意が必要です。

 

(青銅貨幣の種類と流通地域)

・刀銭(貨):斉・燕・趙で使用(東北部)

・蟻鼻銭:楚で使用(南部)

・布銭[鋤を模したもの]:韓・魏・趙で使用(中央部)

・環銭[円銭]:秦・趙・魏で使用(西北部)

 

戦国の七雄の位置関係が最もよく問われるところはここでしょうね。出題頻度としてはやはり環銭(円銭)と蟻鼻銭が一番高いのかなぁと思いますが、その他のものも早稲田などでは出ています。写真もよく出ますよね。個別に国と青銅貨幣を結び付けて覚えるやり方だと忘れてしまいますので、戦国の七雄の位置関係をしっかり把握した上で、どの通貨がどの地域(東北部・南部・中央部・西部)で使われていたのかを理解した方が忘れずに定着しそうな気がします。

 ところが、秦の始皇帝によって中国全土が統一されると、地域によって異なっていた貨幣は度量衡や文字などとともに統一されることになります。これが半両銭です。


 半兩錢

Wikipedia「半両銭」)

「半両」というのは重さの単位を示したもので、約8gです。秦では孝公に仕えた商鞅の頃に一斤(約250g)を16両とし、1両(約16g)を24銖とする重さの単位が定められていましたから、1両の半分(16g÷28g)で半両となるわけですね。ちなみに、武帝の時の「五銖銭」も重さの単位を表しています。(ちなみに、「五銖」は武帝期の重さでは3.35g相当だそうです。)いずれにしても、この秦の半両銭の円形方孔(円の形で中央の穴は四角)の形状はその後の東アジア地域において流通する鋳造貨幣の基本形になります。受験では、始皇帝の半両銭と武帝の五銖銭の区別をしっかりつけることが大切になりますので、注意してください。(もっとも、この両者の区別は銭に限ったことではなくあらゆる面で重要です。)

 その後、漢代に入ると軽量化が図られます。軽い方が便利ということもありますが、軽量化された原因の一つとして、漢王朝が民間での貨幣鋳造(私鋳)を認めたこともあるようです。原料となる銅を使う量が少なければ少ないほど、鋳造する人間にとっては旨味が大きいですからね。ところが、品質の粗悪な私鋳銭の流通はインフレにつながりやすくなりますし、国家以外の通貨発行主体が複数存在することは、国家体制の安定を脅かすことにつながりかねません。実際、紀元前154年に発生した呉楚七国の乱において、呉が一時大きな勢力を持つことができたのは、呉が銅貨鋳造と製塩によって莫大な富を有していたところが大きいと言われています。(実はこの辺の話は以前ご紹介した横山光輝『史記』にも出てきます。マンガすげぇ。)

ちなみに、「塩」というのは経済上重要な意味を持つ商品です。塩は、人間にとって必需品ですが、特に内陸部においては塩分の摂取方法は限られます。(日本でも、「敵に塩を送る」の由来として武田信玄と上杉謙信のエピソードは有名です。史実としての信用性は怪しいようですが。)ですから、確実に必要であるという意味で、塩は時に通貨に匹敵する価値を持つ商品です。その重要性は古代中国王朝が塩の専売制を取り入れていることからも見て取れます。(ただ、これも国の専売制の目を逃れて勝手に塩をつくる密売人はいつの時代も存在したわけです。このように考えると唐末の黄巣の乱の首謀者である黄巣が塩の密売人であった事実も意味を持って理解することができます。)

 話が脱線しましたが、以上のような理由から漢の時代、中央集権化が進むと文帝の頃には私鋳が禁止されていきます。そして武帝の頃には五銖銭の鋳造が行われました。武帝期は、前漢の全盛期とされますが、外征や土木工事の増加により国家財政は逼迫していました。こうした中で、桑弘羊(そうくよう)の活躍などにより均輸・平準法の導入や塩・鉄・酒の専売制が行われ、財政の立て直しが図られます。これにより、国家財政は安定しましたが、一方で商人層はこうした施策を国家による利益の不当な独占であると反発し、武帝死後の塩鉄会議などで桑弘洋ら財務官僚と対立します。この内容は『塩鉄論』にまとめられていますが、今からはるか二千年も前の時代に国家による経済統制の是非、経済の自由と規制、物価統制と民生の安定などの極めて高度な経済事象が議論の俎上にのせられていることに驚かされます。また、財政の安定と国防の関係や当時の生活・文化の様子がうかがい知れる部分も非常に興味深いものです。(『塩鉄論』は岩波などから文庫版も出ています。ただ、岩波の文庫版は高校生には難しくて扱えないと思います。)

 前漢は王莽(莽の字の草冠の下は「大」ではなく「犬」)の簒奪と新の建国によって幕を閉じました。王莽の政策については色々と評価は分かれますが、教科書的には「周代の政治を理想とし」など、復古主義的な政策を採ったことが書かれていることが多いです。そうした内容と関連させて王莽の政治を見てみると、刀銭・布貨などをあらたに鋳造し、さらに金銀や貝までもまじえた30種近い貨幣の採用(王莽銭)がなされましたが、この政策は複雑かつ不便であったために五銖銭の私鋳と流通を招きました。さらに、王田制(周の井田制にならった土地の国有化)や奴婢売買の禁止などを打ち出しますが、どれも当時の経済の状況にそぐわなかったことから経済混乱へとつながりました。


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王莽による小刀を模した貨幣(Wikipedia「王莽」)

 その後の中国の通貨は、安定した統一王朝による通貨政策が持続しなかったことから、五銖銭を模した形状の銭が国家や私鋳され、統一された形の通貨は作られませんでした。隋代に入ってようやく通貨の統一が図られましたが、隋は短い年月で滅亡してしまったため、律令制や科挙などとと同じく、統一通貨も唐のもとで作られます。これが開元通宝です。開元通宝の重さは約3.7gほどでしたが、この通貨は従来の通貨とは異なり、重さが表示されない貨幣でした。開元というと玄宗の開元の治を想定してしまいますが、開元とは唐という国家が新たに建国されたことを喜ぶもので、発行されたのは唐の高祖李淵の時代です。また、この開元通宝を模して日本でも和同開珎などの貨幣が鋳造されたことも知られています。


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開元通宝(Wikipedia「開元通宝」)

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和同開珎(写真は銅銭鋳造前に一時鋳造された銀銭:Wikipedia「和同開珎」)

 開元通宝は唐末の混乱と五代十国時代にも流通し、宋代に入ってからも使われましたが、宋代に入ると新たに大量の貨幣(宋元通宝など)が鋳造され、いわゆる宋銭の鋳造量は歴代の中国王朝で最大となりました。これらの宋銭はアジアの多くの国々で流通し、日本でも平安時代末期に平清盛が日宋貿易を行ったころからその流通が拡大し、鎌倉時代には絹などにかわる決済手段としても用いられるようになっていきます。

 一方、中国の四川地方や陝西地方では銅貨ではなく鉄銭が用いられたこともあったようです。この背景には、四川や陝西に面する地域に存在した西夏や遼といった異民族との対立関係から銅銭の流出を警戒したこと、経済地域として四川、陝西がその他の地域とは異なる独自の経済圏を形成していた(こうした地方の商業圏・商業都市が形成され始めるのが宋代で、さらにそれらが結ばれる遠隔地交易が発展していくのは明代に入ってのことになります)ことなどが挙げられています。いずれにせよ、唐末から宋代にかけて、銅や鉄で鋳造された貨幣は決済手段として極めて重要になりますが、経済規模や地域の拡大とともにその重量や輸送の手間などが問題になってくると様々な工夫が生み出されることになり、飛銭などの手形決済や紙幣の誕生につながることになります。

 


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(現在の四川省と陝西省:Wikipediaより)



 

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通貨・金融に関する事柄は受験生の間では「ある国・皇帝の時代の政策の一部」であるとか、「文化史の中の一部」といった理解の仕方でとどまってしまうことが多く、極めて断片的なものとして捉えられてしまうことが多いように思われます。また、交易に関する事柄も多くは「東西交流」や「他の地域との交流」という、文化的伝播の手段としての側面が強調され、交易自体が本来有する経済的側面に対する理解が十分になされずに終わってしまうこともしばしばです。

 一方で、近年の受験問題では通貨・金融・交易(そしてさらには生産[農業史・工業史]・情報伝達史・交通史)などの経済・社会史に対して、上っ面の理解にとどまらず、より深い理解を要求する設問が増えてきているように思われます。これは、近年の西洋史・東洋史の分野が経済・社会史の理論的な部分だけではなく、その実態面を充実させるための多様な研究を進めてきていることと無関係ではありません。

 そこで本稿では、「中国通貨史」、「中国産業・交易史」、「西洋・西アジア通貨史ならびに近現代金融史」などについてご紹介したいと思います。途中、ところどころに抜けもあるかと思いますが、生暖かい目で見てあげてください。
 

1 鋳造貨幣の使用と普及

 

【古代】 貝貨(貨幣鋳造以前)→青銅貨幣(春秋・戦国時代)

 壊れやすい貝に代わり、実用価値のある青銅器へ、それを模した貨幣へ


青銅貨幣の種類

・刀貨 (斉・燕・趙で使用:東北部)

・蟻鼻銭 (楚で使用:南部)

・布銭[鋤を模したもの] (韓・魏・趙で使用:中央部)

  ・環銭[円銭] (秦・趙・魏で使用:西北部)

 

 中国貨幣分布

 

【秦(始皇帝)】 貨幣の統一(半両銭)

:鋳造貨幣は環銭が多くなる

→漢代に入ると重くて不便な半両銭から軽量化が図られる


半両銭
 (写真はWikipedia「半両銭」より引用)

 

【前漢(武帝)】 文帝期[5]に私鋳禁止廃止

→粗悪な私鋳銭の流通と貨幣の暴落

→貨幣の私鋳の禁止

→五銖銭の鋳造(武帝[7]期)

 

 五銖銭

(写真はWikipedia「五銖銭」より引用)

 

【新】 王莽による貝貨・布貨などの復活(復古主義の表れ)

→不便なため流通せず、五銖銭が私鋳される

 

【唐】 開元通宝:はじめての重さが表示されない貨幣(重さは2.4銖)

    →日本の和同開珎などに影響


開元通宝
 (写真はWikipedia「開元通宝」ならびに「和同開珎」より引用)

 

【宋】 宋銭の鋳造量が歴代王朝で最大に

→銅銭の普及、アジア諸国が信用価値の高い宋銭を輸入して自国で流通

    [一部地域(四川など)では遼・西夏への銅の流出防止のために鉄銭を使用]

 

鉄銭
 Wikipedia中国語版、「遼朝」所収の地図を改変して作成)

 

2 紙幣の成立

 

【唐】 飛銭(役所発行の送金手形)の使用

:両税法(原則銭納)の施行・遠距離取引の増加による

(徳宗の宰相、楊炎の時)

 

【宋】 交子(北宋・仁宗の頃~)・会子(南宋~):世界最初の貨幣

 :宋代の貨幣経済・商業の発達、鉄銭の流通による輸送の困難

(鉄銭の使用が強制された四川・陝西地方で特に重要)

→後に大量発行による価値下落とインフレ

 

【金】 交鈔(海陵王の治世)

    →濫発によるインフレ

 

  交子・会子・交鈔までは使用年限が決められていた補助貨幣

  「交鈔」という言葉は狭義では金の海陵王の時代に発行された紙幣を指すが、それ以外にも「金・元の時代に発行された紙幣の総称」または「宋代以降、明までの諸王朝で用いられた紙幣の総称」としても使われるので注意しましょう。

 

 cf. 2015年早稲田大学「世界史」大問1、設問5

  :「下線部a(元)の元代に関する事項として誤っているものはどれか」という設問に対し、選択肢③は「交鈔は宋・金・元・明で発行された紙幣の総称で、元では主要通貨となった。」とあります。これは上にも書いた通り、広義の意味では正しい記述ということになるので、解答としては当てはまりません。赤本では「難問」としていますが、個人的には解釈次第で正文とも誤文ともとれる内容を設問に盛り込むのはいかがなものかと思います。「正解となる選択肢④が誤文であるから判断はつくだろう」ということかもしれませんが、その肝心の選択肢④も「モンゴル帝国では支配領域にジャムチをしいたが、元では中国に適用しなかった」というもので、そもそも日本語としてイマイチ意味が取れません。言いたいことは「モンゴル帝国では支配領域にジャムチをしいたが、元では支配領域のうち中国(地域)にジャムチをしかなかった」ということなのでしょうが、そもそも「元」自体が「チンギスハーンが建設したモンゴル帝国のうち、フビライ以降の皇帝政権のこと」とされることもあり、この場合「元≒モンゴル帝国」となりますし、逆に「元≒当時の中国」の意味で用いられることも多いわけですから、文章中の「中国」が地域名としての中国であることを明示しなければその意図がくみ取れません(当時の「元」はモンゴル高原と中国地域の双方を支配領域としていた)。こうした曖昧な表現のもとに文章を構成しているわけですから、少なくとも「適用しなかった」の目的語として「これ(ジャムチ)を」ということを示すのは必須ではないでしょうか。入試ではこの手の明らかに出題者側に起因する悩ましい問題はたびたび出てくるので、それを乗り越えて正解にたどり着く鋭敏な感覚を養うことも受験生には要求されます。

 

【元】 中統鈔の発行(交鈔の一種、フビライの治世)

:色目人をはじめとする財務官僚の力量で積極的な経済政策

(従来の紙幣が補助通貨(有効期限あり)だったのに対し、有効期限なし)

=通貨としての紙幣の本格流通、金銀との兌換を保証

 

(その後の元における通貨政策)

・南宋征服の際の大量発行で兌換準備の不足

→インフレーション

   ・至元鈔(中統鈔の5倍の価値)の発行と塩の紙幣による購入の義務づけ(銀不足対策)

→一時的に通貨価値安定

   ・政治混乱やパスパ(赤帽派[サキャ派]の法王)によるチベット仏教の隆盛と国費濫用

→再度インフレ進行、交鈔使用禁止(1356

 

  パスパはチベット仏教の指導者と説明されることが多いが、実際にはチベット仏教のみならず中国地域全域の寺院の監督権と、旧西夏領の行政権を与えられた人物で、国政に対する影響力も大きかった。

 

【明】 

(明初[1368]

・元末の混乱(貨幣制度の崩壊)による実物依存型経済

・洪武帝の農本主義と通貨流通に対する知識不足

:宝鈔(不換紙幣)と銅銭(永楽通宝など)の併用

→貨幣価値の下落(紙幣の価値を保つための政策行われず)

→次第に銀が通貨として流通するように(外国からの銀流入[下記]

 

(明後期[16c]

・後期倭寇の活動、海禁策の緩和[1567]

→日本銀・メキシコ銀の流入(石見銀山、ポトシ銀山など)

  →一条鞭法の成立(万暦帝期、宰相張居正)

 =銀が東アジアにおける国際通貨に(東アジア交易網の形成)

 

 倭寇

(コトバンク「倭寇」の項目より引用小学館]

 

  前期倭寇と後期倭寇の区別はついている受験生も多いだろうが、前期倭寇と後期倭寇の活動域を地理的に見るとその違いがより鮮明になります。鎌倉末期~南北朝騒乱という日本の政情混乱と元末の政情混乱がもとで沿岸地域の略奪行為が行われた前期倭寇では朝鮮半島ならびに華北の沿岸地域が主要な活動域となっています(当然、李成桂もここで活躍することになります)のに対し、海禁下における密貿易が主体の後期倭寇では経済の中心である江南沿岸、台湾・琉球などがその主要な活動域となっています。

 

【清】 

地丁銀制の成立(明代後期以降の銀経済の成立による)

  康熙帝の頃から「盛世慈世人丁」数を確定(丁=成人のこと)

仮の人口数から割り出した丁税を地税に繰り込み、地税に一本化

丁銀がなくなったことで人口隠しが無くなったことによる人口増加?

 
中国人口推移
 
 

・銀不足が起こると実質的な税負担の増加に(銀ベースの納税で額面が一定のため)

→時期によっては抗租運動(税の不払い運動)の増加

 

3 経済活動の拡大と銀経済の浸透

 

【南宋~明】

・宋代以降における江南沿岸地域の商業的発展・都市化

  →長江下流域では商品作物の栽培が進む

(宋代に最大の穀倉地帯であったことから重税がかけられ、副業として綿花・茶・桑栽培が盛んに)

→手工業が発達(綿織物・絹織物・陶磁器)

 

  ペルシア起源のコバルトの活用

:釉を塗り、低温焼成したのは唐三彩、高温が染付(青花)

 

・陶磁器では明代に染付(藍色の絵模様)・赤絵(五色の釉による文様)の技法が発達(景徳鎮を中心産地として)        

→長江下流域の人口が増加・都市化し、周辺の田園地帯では商品作物への転作が進む

→穀倉地帯が長江中流域に移動「湖広熟すれば天下足る」 

 ・遠隔地交易の発展

  :宋代に各地で都市(鎮・市・店など)が発達したものの、沿岸地域を除く各地域は比較的独立した経済圏にとどまっていた。

  [宋代の3大経済圏]

1、北宋の都開封を中心とする北部

2、江南の臨安[杭州]・蘇州を中心とする南部

3、四川・関中を中心とする西部

→宋末~明代に入ると、銀の流通と貨幣経済の発達、経済規模の拡大から内陸の遠隔地商業が発展、遠隔地商人(客商)の出現

→こうした遠隔地商人のうち、同郷・同業の者が集まって各地に相互扶助組織や共用の建物を設置(=会館・公所)。これらの建物は集会所・宿泊所・倉庫を兼ね、見知らぬ土地での交易を進める上で役立った。

 

★二大客商

・新安商人(安徽省)

:もともとは江浙地方の塩を扱う商人だったが、明代には海外との貿易にも従事して金融業に進出

・山西商人(山西省)

:洪武帝の頃、北辺防衛軍への物資供給代行の見返りとして得た塩の専売権で大きな利益をあげ、その後は明・清両王朝の資金を操る政商として活躍、金融業に従事した

  

・銀経済の拡大と浸透

 (宋・元)

:ユーラシア大陸・中国内における「銀の大循環」の形成

 (明中期[16世紀以降]

:日本銀・メキシコ銀の流入による銀経済の拡大と浸透

 Cf1 石見銀山(日本、1530年発見:実際には鎌倉期から存在は知られた。地方領主・小笠原長隆が奪取したのが1530年、後に大内氏・尼子氏らが争奪)

   CF2 ポトシ銀山(ボリビア、1545年発見→アカプルコ貿易でマニラ[1571]へ)

   

【影響】

  税制の変化 

両税法[唐~明初]→一条鞭法[明・万暦帝期・張居正]→地丁銀制[清中期~]

  明末の銀価値高騰による抗租運動の増加(佃戸の反地主・政府闘争)、奴隷反乱(奴変)、都市下層民反乱(民変)

:税の銀納化が進んだことや銀の価値高騰により、農民[佃戸]の実質的な税負担が拡大

ex. 鄧茂七の乱[15世紀半ば]

 

4 明清期の対外政策

 

【中国の伝統的対外関係】

・冊封体制(朝貢と冊封に基づく、中国を中心とした東アジアの国際秩序)

(冊封)周辺諸国・部族に官爵を与えるなどして形式上の君臣関係を結ぶこと

 (朝貢)周辺諸国の君主が中国の皇帝の徳に対して敬意を表して貢物をすること

※古くは後漢(光武帝-漢委奴国王)・三国(魏[曹叡]-親魏倭王)時代にその例が見られる。唐代には東アジア全域に拡大し、渤海・新羅・南詔などが冊封国に、日本・真臘・林邑(チャンパー)・シュリーヴィジャヤ(スマトラ南部)などが朝貢国として唐と関係を結び、東アジア文明圏が確立。

 

【明】

(初期):前期倭寇対策と海禁

・洪武帝による海禁策(元末混乱や日本の鎌倉幕府弱体化や南北朝騒乱によって発生し た前期倭寇対策、洪武帝の農本主義)

・永楽帝・鄭和の南海遠征

→朝貢貿易の促進、日本の冊封(勘合貿易[足利義満の時期~、建文帝の頃に使節、永楽帝が継続]

 

(中・後期):銀の大量流入と後期倭寇の発生→海禁の緩和

       Cf. 1523 寧波の乱

:応仁の乱以降、大内・細川両氏の間の勘合貿易をめぐる争いが武力衝突に発展

(細川管領家=堺、大内家=山口・博多などを拠点としていた)

      →一時勘合貿易が停止(1536年に大内義隆が再開)

・日本人商人との私貿易(密貿易)が活発化

・北虜に対抗するための軍事費の増大(支払いのための銀需要の拡大)

→密貿易による銀の調達(中国・日本・ポルトガル商人[1557年、マカオ居住]による日本銀・メキシコ銀の大量流入)

1567 海禁の緩和

 

【清】

(初期)

・海禁策の強化(1661年、遷界令)              

(中期以降)

鄭氏台湾の制圧(1683)と遷界令の解除(1684

→海関の設置(1865)上海、定海、厦門、広州の4港で朝貢貿易

乾隆帝が貿易港を広州一港に限定(1757

(公行と呼ばれる少数の特許商人に貿易管理を独占させる[広東十三行]

18世紀末からのイギリスの自由貿易要求(マカートニー[1793]、アマースト[1816]、ネイピア[1834]派遣)、東インド会社の中国貿易独占権廃止(1833)によるジャーディン=マセソン商会の活動活発化

→片貿易から三角貿易への転換による中国からの銀流出とアヘン流入量の急増

→アヘン戦争の敗北による冊封体制の終焉

(南京条約[1842]5港開港と公行廃止=貿易完全自由化)

 

5 明清期の東シナ・南シナ海域 

(東南アジア諸国の繁栄とイスラーム化)

 

14c末 マレー半島周辺にマラッカ王国成立

1411   明の鄭和が入港したのを機に明に朝貢・冊封(1411

(マレー半島を南下してくるアユタヤ朝を牽制)

ヒンドゥー教からイスラーム教に改宗

2代目:イスカンダル=シャーの時)

      東南アジアのイスラーム化を促進 

 

★東南アジアのイスラーム化

  
  ・
アチェ王国成立(15c末~20c初、スマトラ北部)

  ・マタラム王国成立(16c末~1755、ジャワ東部)

  ・バンテン王国成立(16c初~1813、ジャワ西部)

  ・ジャワ島最後のヒンドゥー王国であるマジャパヒト王国崩壊

 

16世紀ポルトガルの進出)

 

1510 ポルトガルがゴア(インド西岸)を占領

:初代総督アルメイダがディウ沖海戦(1509)でマムルーク朝に勝利

→アラビア海への進出

1511 マラッカ王国を占領(滅亡)

:ゴアを建設したポルトガル総督アルブケルケ(2代目)による

1512 ポルトガルがモルッカ諸島に進出

→香辛料貿易に乗り出す

1517 コロンボ(セイロン)占領

 1543 ポルトガル人の種子島来航

 1550 平戸で交易開始

1557 ポルトガル人がマカオに居住権

(来航は1513頃、19世紀末にはポルトガル領に)

1571 マニラ建設

(スペイン人の初代フィリピン総督レガスピがルソン島に)

→メキシコ銀の中国流入

 

17世紀 オランダの経済覇権確立期)

 

・アントウェルペンなどへのアクセスを断たれたオランダは独自にアジア進出

・ヨーロッパではアムステルダムが世界の商業・金融中心に

 

1602 オランダ東インド会社(連合東インド会社[VOC])設立

1619 オランダがジャワ島に拠点バタヴィアを建設

   (オランダ東インド会社総督クーンによる)

1623 アンボイナ事件

:オランダ人がアンボイナ島(モルッカ諸島)でイギリス商館を襲い、商館員を処刑

    →オランダによる香辛料貿易の独占

    →イギリスがアジア経営の比重をインドに傾ける

  

  同時期、オランダは新大陸にも進出


   1614
 ニューネーデルラント植民地建設

   1621 オランダ西インド会社設立

 1625 ニューアムステルダム建設

             

 1624 オランダ東インド会社が台湾を占領

:ゼーランディア(安平) 城を建設

(フィリピンを領有するスペインに対抗、対日貿易の拠点)

→鎖国下の日本と交易(長崎・出島:1639 ポルトガル人追放)

1641 オランダ東インド会社がマラッカ王国を占領

1652 ケープ植民地建設

1658 セイロン島をポルトガルから奪取

  16611662 鄭成功がオランダ勢力を台湾から駆逐

       →清の康熙帝は封じ込めのために遷界令発布(1661)

       →三藩の乱(1673-1681)鎮圧後に台湾が清の直轄領に(1683

=清の中国統一の完成
              →遷界令解除(1684)

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 2020年の東京外語大の問題、実はまだ見ていなかったのですが、先日見て驚きました。ここでもオスマン帝国が出ていたのですね。しかも、以前作成した一橋向けの予想問題とクリソツでした。2017年にこの問題を作ってから、京大(2018)でも、東大(2019)でも、外語(2020)でも同様の内容が出題されたことになります。「問題の予想はそもそもできない、当たったらそれはたまたま」と自ら言いつつも、目の付け所は悪くなかったことが証明されて地味に嬉しい反面、何で肝心の一橋では出んのじゃコラと悲しく思うわけです。東大、京大で出たからさすがに何かしらで出るかなぁ。でも出るとしたら大問Ⅲだろうな。

 

 そんなわけで、オスマン帝国の近代化に際して現れた三つの思想的動き、すなわちオスマン主義、パン=イスラーム主義、パン=トルコ主義は非常にHOTなテーマであるわけです。もうすでに東大では出題されてしまったので今後出るかどうかはわかりませんが、トルコの近代化や東方問題、ナショナリズムやイスラームなど広げ方はいくらでもできる内容なので、他の大学でもおそらく形を変えて同様の内容が出題されることが増えてくると思います。そんなわけで、すでに東大2019解説に書いてある内容をテーマ史として独立させることにしました。

 

【オスマン帝国末期の三つの思想的動きについて】

 

オスマン主義

パン=イスラーム主義

パン=トルコ主義

 

 これらは、いずれもオスマン帝国を西欧に対抗するために一つにまとめ上げ、国力を強化していこうとする中で生まれた思想的潮流でしたが、発生した時期や発生の背景はかなり異なっていました。以下では、この3つの思想的潮流がいかなるものであったか、またオスマン帝国を維持しようとする動きとどのように関わってきたのかについて簡単に紹介していきたいと思います。

 

[①オスマン主義]

 :「オスマン主義」はオスマン帝国内に住む人々は宗教・民族の別なく、すべて平等な「オスマン人」であり、「オスマン人」の連帯を基礎として祖国(オスマン帝国)の政治的一体性を維持していこうという発想です。ただ、このような主張は必ずしも当時のオスマン帝国の実態には合致していませんでした。当時のオスマン帝国はバルカン半島のスラヴ系民族や西アジアにおけるアラブ人など複数の民族を抱える多民族国家であり、少なくともオスマン帝国内の人々が全て同じような「オスマン人」としては存在していませんでした。つまり、オスマン主義とは、実態としては多民族国家であったオスマン帝国が各地のナショナリズムの高揚や民族間の対立によって分裂の危機に瀕した時に、帝国を維持するために「創出」されたものであって、「オスマン人」というのもそのために「想像」ないしは「創造」された概念でした。(関連する知識として「創造の共同体」論)

 こうした「オスマン主義」を唱えた人々は、タンジマートによって西欧式教育の導入が進んだことにより、新しい思想に触れた「新オスマン人」と呼ばれる人々でした。この「新オスマン人」は、伝統的な官僚・ウラマーとは一線を画し、ヨーロッパの自由主義思想の影響を受けた改革派の官僚や知識人で、次第にスルタン専制に対する批判を強め、立憲制の導入を進めることになります。このような思想家の一人に、ナムク=ケマル(1840-88)がいました。彼は、憲法制定を目指す「新オスマン人協会」を設立(1865)し、各国を亡命する中で当時のスルタンであるアブドュルアジーズの専制を批判する言論活動を展開しました。このような流れの中で、ミドハト=パシャを中心とする改革派の運動が展開し、アブドュルアジーズはこの改革派のクーデタによって廃位され、その後幽閉の後に亡くなります。さらに、アブドュルアジーズのあとを継いだムラト5世も、病のため即位3か月で退位し、その弟であるアブドュルハミト2世が即位することになります。

 こうした一連の動きを見てみると、タンジマート自体に大きな矛盾が存在したことに気づきます。タンジマートは、たしかに法の下の平等など、西欧的な自由主義的思想を積極的に取り入れる改革運動で、歴代のスルタンも国力を強めるための西欧化には積極的でした。一方で、スルタンたちは自身の権力基盤を弱めるような諸改革、たとえば憲法制定による君主大権の制限や議会の設置などには消極的で、このような姿勢はよりドラスティックな改革を求める「新オスマン人」などの改革派には不満の残るものでした。アブドュルハミト2世が即位したときの状況は、このスルタンと改革派の対立とぴったり符合します。アブドュルハミト2世自身は自身の権力を弱めることになる「ミドハト憲法」の制定には極めて消極的でした。ですが、これに先立つクーデタなど、自身が即するに至った経緯を考えると、強く大宰相ミドハト=パシャらの改革派に異を唱えることもできません。一方、ミドハト=パシャら改革派の側でも、ムラト5世の退位などスルタン位をめぐる混乱が長引けば保守派の巻き返しを招く恐れがありました。ミドハト憲法は宗教の別を問わない全オスマン人の平等、人権の保障、二院制議会の設置など、極めて進歩的なアジア初の近代憲法となりましたが、一方できわめて強力な君主大権が残され、スルタンは戒厳令を発し、危険人物を国外追放に処することが可能とされました。これは当時のスルタンと改革派の関係がある種の妥協を要求されるものであったことを示しています。こうした、近代化を求めながらも自身の権力維持を追求する君主と、君主大権の制限など急進的な改革を進めたい改革派の協力と対立の構図は、19世紀以降のアジアの各地で見られる現象ですので、比較してみるのも面白いかもしれません。(中国における洋務運動~変法運動~光緒新政や朝鮮における閔氏政権など)

露土戦争が開始されるとアブドュルハミト2世は憲法の規定に従いミドハト=パシャを追放し、さらに露土戦争敗北によってスルタンに対する批判が高まったことに危機感を覚えたアブドュルハミト2世は議会を解散し、憲法を停止してスルタン専制へと復帰します。この新たに展開されたスルタン専制において、アブドュルハミト2世が利用しようと考えた思想がパン=イスラーム主義でした。

 

[②パン=イスラーム主義]

 :パン=イスラーム主義自体は19世紀の後半にアフガーニーを中心として高揚したイスラーム改革運動で、オスマン帝国のスルタン専制とは直接的な関係はありませんでした。ですが、当時のオスマン帝国のスルタンはイスラームの宗教的な最高権威であるカリフを兼ねており、これに目をつけたアブドュルハミト2世は自らを中心として民族・宗派をこえたイスラームの連帯を呼び掛けることで、自身の権威・権限の強化とスルタン専制の復活を目指しました。一方、それまでに「新オスマン人」たちが「創出」してきた「オスマン主義」は、いくつかの理由からその勢いが弱まっていきます。一つは、「オスマン主義」による帝国の維持を推進してきたミドハト=パシャの追放に見られるように、スルタン専制に批判的な「新オスマン人」たちがアブドュルハミト2世のスルタン専制(あるいはそれ以前から)によって政治の中心から遠ざけられ、弾圧されてしまったことです。そして、もう一つは、「オスマン主義」を掲げる「新オスマン人」たちの急激な西欧化改革がイスラーム社会の伝統や価値観を無視して進められたことから、ウラマーの一部やムスリムの民衆の間に強い不満が生まれることになり、その結果「オスマン主義」が目指した宗教・民族の区別のない平等なオスマン人の創出は挫折し、むしろ宗教的・民族的な対立を生み出すことになります。

 このような背景の中で、アブデュルハミト2世が掲げたパン=イスラーム主義は、西欧化改革に不満を持つムスリム層を取り込み、中央集権を強化して帝国の維持を図ろうとしたものでした。そのために、アブドュルハミト2世はパン=イスラーム主義の指導者であったアフガーニーをイスタンブルへ招聘します。ですが、アブデュルハミト2世のパン=イスラーム主義はアフガーニーの主張とは根本的に異なるものでした。アフガーニーは、確かにイスラームを紐帯として連帯することを主張しますが、一方でカージャール朝やオスマン帝国の専制については批判的でした。アフガーニーは宗教運動家でもありましたが、その主張はイスラーム社会の直面する様々な問題を解決しようとする目的のために展開されたものでした。彼の主張は、イスラーム社会に蔓延する矛盾や悪弊を一掃するためにイスラームの原点に回帰する復古主義・原理主義的な部分を持ちつつも、政治的には専制支配ではなく立憲制の樹立を主張し、イスラームの解釈についても時代に合わせた解釈のあり方を追求するなど、極めて進歩的で現実的なものでした。このようなアフガーニーの主張は、スルタンの権力強化の道具としてパン=イスラーム主義を利用しようとするアブドュルハミト2世の考えとは相いれないものでしたので、次第に両者の対立が明らかになっていきます。こうした中、イラン(カージャール朝)のナーセロッディーン=シャーがアフガーニーに影響を受けたケルマーニによって殺害される事件が起こると(1896)、かねてからアラブ人指導者などスルタンに批判的な勢力と接触を持っていたアフガーニーは幽閉され、イスタンブルで亡くなります(1897)。

 

[③パン=トルコ主義]

:アブデュルハミト2世が掲げたパン=イスラーム主義は、アフガーニーが本来主張したものとはかけ離れたものでしたが、それでもカリフ/スルタン権威をある程度高めることには成功しました。ですが、列強による各種利権の独占や、オスマン債務管理局の設立により帝国税収が直接的に列強に搾取されるなど、オスマン帝国の植民地化はさらに進行し、西欧化も進みました。スルタン専制と植民地化を阻止しようとする改革派は、「統一と進歩委員会(統一と進歩団)」などの秘密結社を中心に「青年トルコ人」運動を展開します。この運動の大きな目的は、憲政の回復(具体的にはミドハト憲法の復活)により、スルタン専制を打倒しようというものでしたが、運動の性質上、弾圧の対象となり、多くはヨーロッパ各地に亡命して運動を展開しました。この運動において、彼らが民族の団結と祖国の維持のために掲げた思想が「パン=トルコ主義」でした。彼らのような改革派は、民族対立や宗教対立を生む原因となった「オスマン主義」の幻影を追うことはもはやできませんでした。また、スルタン専制の道具とされてしまった「パン=イスラーム主義」も、彼ら改革派の目には時代遅れのものとして映りました。そんな彼らが団結のために掲げたものが「トルコ人、トルコ民族による連帯」により民族国家を成立させようという考え方である「パン=トルコ主義」でした。青年トルコの運動は、日論戦争における日本の勝利などにも刺激されて次第にオスマン帝国軍内の青年将校にも浸透し、1908年の青年トルコ革命へとつながっていきます。エンヴェル=パシャ率いる反乱軍の鎮圧に失敗したアブデュルハミト2世はミドハト憲法の復活を宣言し、スルタン専制は瓦解して憲政復活が実現しました。さらに、その翌年にはこの年に起こった反革命クーデタに関与した疑いでアブデュルハミト2世の退位が決定しました。このように、パン=トルコ主義はスルタン専制の打破には成功しましたが、「トルコ人」としての民族意識を要求する思想は各地の多民族の不満を強め、バルカン半島におけるスラヴ民族の独立運動や西アジアにおけるアラブ人たちの独立運動につながっていくことになります。

 

以上、タンジマートやアブドュルハミト2世のスルタン専制、そして青年トルコ革命にも絡むオスマン帝国末期の三つの思想的潮流(オスマン主義、パン=イスラーム主義、パン=トルコ主義)について概観してみました。最近の教科書や参考書(詳説世界史研究)などではこのトルコ末期の状況については新しい用語や記述が目立って増えてきています。たとえば、東京書籍の『世界史B』(平成30年度版)には以下のような記述があります。

 

帝国解体の危機にさらされたオスマン帝国では、1860年代から、オスマン帝国の臣民は民族・宗教のちがいをこえて一つの集団である、という主張があらわれた。このように主張した知識人は、自らを「新オスマン人」と称して、スルタンの専制を廃して立憲政をめざす運動を展開した。(p.319

 

オスマン帝国は元来、多民族、多宗教の国家であった。しかし、バルカン半島を失ったのち、オスマン帝国の住民の多数派であったトルコ人の間にも民族意識が広まり、帝国をトルコ人の民族国家ととらえ、それにふさわしい体制を求める知識人の運動がはじまった。彼らは自らを「青年トルコ人」と称し、1889年に「統一と進歩委員会」を結成して、スルタン専制を批判した。(p.320

 

 教科書の方にはパン=トルコ主義の記述はありませんが、図説の方には上に示した三つの思想的潮流を端的に示した図も出ています。下の図は、帝国書院の『最新世界史図説タペストリー(十六訂版)』の223ページに出ているものです。

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(『最新世界史図説タペストリー(十六訂版)』、p.223

 

図ですので多少単純化されてはいますが、わかりやすい図だと思います。ただ、それぞれの思想がどのようなものかといった詳細については書かれていませんし、まだまだ図説のページの端っこにちょっぴり載せられているに過ぎませんので、生徒が自学自習でこれを把握するのはかなり難しいでしょう。オスマン帝国末期の思想について生徒がきちんと把握できるかどうかはこうした図説や教科書、プリントなどを教える側がどう扱うかによってかなりの差が出るような気がします。また、『詳説世界史研究』(2017年版)の方には上述のナムク=ケマルなどの人名やオスマン債務管理局などの新出の用語も掲載されています。

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 さて、ここからはすでに紹介した「通貨・産業・金融史について、理解や把握のポイントとなる部分を示していきたいと思います。

 まず、商業が発展してくると次第に貨幣の重要性が増してくるわけですが、そうなるとそれまでは実用の取引に用いられるというよりは、一種の儀礼的なもの、もしくは贈答用や権威の象徴として用いられてきた「貨幣(というよりはこの段階では「おたから」)」に、実用としての機能が必要になってきます。

 よく、最古の貨幣はタカラガイ(子安貝)であった、という記述があります。これは間違いではないようですが、実際には貝貨は取引に使われたというよりは地方権力者に対する贈与用や埋葬品として用いられたようです。確かに、あれを実際の取引に使用すると破損したりで使い勝手が悪いと思われます。青銅貨幣も最初のうちは当時としては貴重な「青銅器(鋤・刀など)」を物々交換の手段として用いていたところ、後にそれを模した青銅の塊を通貨として用いるようになったようです(布貨、刀貨など)。ただ、これも実際の取引に使用すればごつごつしていて使い勝手が悪いため、その後の中国では環銭(円銭)が用いられるようになっていきます(さらに、保管の際に銭がすれて摩耗することを防止するために穴は円ではなく方形が採用されるようになったという説もあります)。

 戦国期にはおなじみの青銅貨が各地で使用されることになるわけです。センターや私大などではこうした青銅貨の写真を示した上で、これが用いられた国を問う問題が良く出題されますが、これも覚えられない人はまず戦国の七雄の位置を把握しましょう。その上で、「東北部は刀貨、中央部は布貨、秦は円銭、楚は蟻鼻銭」と視覚的に覚えた方が覚えやすいと思います。


中国貨幣分布
 

 戦国の七雄が覚えられない、という人はまず「斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙」の順で唱えて覚えることを徹底しましょう。そして、これが山東半島からぐるりと中国全土を東→南→西→(東)北と一周した後で中央部を南から北に三国ならぶイメージを持つと全体の位置が把握しやすく、二度と迷わないと思います。

 
戦国七雄覚え方
 

Wikipedia「戦国の七雄」より引用の地図を改変して作成)


 複数のものを一度に覚えるときのコツですが、必ずその順番を変えないようにセットで覚えることが大切です。思い出すたびに順番を変えたり、別々に思いだそうとすると混乱の元となるので注意しましょう。(たとえば、高校生の頃バルト三国などは頭文字一つずつ取って北から順に「エラリーさん(三)」と覚えました。[エストニア・ラトヴィア・リトアニア]

 その後の貨幣は軽量化が進み、特に各王朝の中央集権が進んだ際に私鋳銭の防止のために統一通貨が出されることが多いようです。実際の取引の際にはこうした通貨が使われつつ、混乱期にはこれらに加えて私鋳銭が混じって使用されるような状態だったようです。ただ、やはり取引の都合上、円形のものが用いられたようで、そのため王莽の行った復古政策にともなって古代の布貨・刀貨などを復活させた政策はすこぶる評判が悪かったと言われています。(実際に王莽銭を見てみたい、という人はhttp://www.geocities.jp/hiranocolt/page008.htmlの「中国古銭」というサイトに実際に王莽銭の写真がたくさん載っています。)よく、「王莽は周代の政治を理想とし」みたいなことが言われますが、よくよく考えてみれば王莽の時代に青銅貨が周代のものなのか戦国期のものなのかといった区別はおそらくつかない(どっちにしても当時からすれば古代なので)わけで、こうしたこともあわせてイメージしておくと、漢代の途中にヒョイと顔を出す程度で覚えにくかった王莽にも一定のイメージがわいてきます。 

 宋銭の鋳造量がそれまでの貨幣流通量と比べてはるかに多くなる、というのも北宋の都開封の繁栄など、商業の発達を考えればわかりやすいと思います。唐代の交易は主に西方のムスリム・ソグド人たちとの交易であり、こうした人々との交易には当然銅銭よりは物々交換や金銀による決済が行われます。彼らにしてみれば中国でだけ通用する銅銭を持って帰ったところでたいした利益にはなりません。ところが、宋代は中国人がジャンク船などを用いて沿岸交易に乗り出した時代で、さらに内地の地方経済圏も拡大しはじめます。たとえば、元々は唐代末から登場する城外の無認可市場であった草市が次第に各大都市を結ぶ中継点(日本で言えば宿場のようなもの)として機能し始めた結果、それ自体が地方都市としての機能を有する鎮・市・店などとして発展するのが宋代です。よく言われる区別ですが、北魏~唐までの都市が「政治都市(政治的に管理され、営業時間や場所なども厳格に管理されている)」としての性格を有しているのに対し、宋代以降の都市は「商業都市(自然発生的に都市が拡大)」としての性格が強いです。このような内地経済の発展があるから当然そこで用いられる鋳造貨幣の量も増大します。 

東アジアの中心であった中国でこうした動きがあれば、いまだに貨幣経済自体が未成熟でかつ鋳造技術の未熟な周辺諸国は、この宋銭を中国との交易のためや国内の通貨の代用として入手し始めることになります。平清盛が始める日宋貿易などはそうした流れの中に組み込まれるわけです。(日本において、和同開珎以降、基本的に[たとえば天皇または朝廷が]自ら貨幣を鋳造するという動きがないことに注意すべきです。日本においてはまだ貨幣経済・鋳造技術ともに未熟で自前の鋳造貨幣を用いようということにはならなかったからです。実際、和同開珎などは寺院の基壇などに用いられていたことがわかっており、実際の取引以外に儀礼用としての性格が強かったのではないかという説もあります。

  こうした商業圏がさらに拡大していったのは明代に入ってからです。詳しくは「通貨・産業・金融史の「3、経済活動の拡大と銀経済の浸透」を参照して下さい。宋代に発展した華北・江南・四川の各地方都市圏は客商とよばれる遠隔地商人たちによって結びつき始めます。ところが、こうした商人たちが別の土地で商売を行うには様々な困難がつきまといます。たとえば、現在ですら地方によって全く言葉が異なると言われる中国ですから、当時はるか遠くの地方に向かえば言語も相当に違ったはずで、まず言葉が通じません。さらに、商品の輸送をどうするか、運んだ品はどこに置くか、さらにそれらを保管する場所はどこか、現地での情報収集をどうしようかなど、商売を進めるにあたって突き当たる困難は数多くあります。読者のみなさんがこれから突然「イスラーム圏にいってモノ売ってこい」と言われた時の困難を想像すれば概ねオッケーです。そうすると、これらを何とかするために現地にいる同業者や同郷者同士が次第に集まり、相談したり、商品を一括で管理する場所が発展することになります。これが「公館・会所」です。

そして、こうした遠隔地商人の代表格が「新安商人」と「山西商人」です。彼らは明代~清代にかけて現われた商人ですが、その特徴や区別を具体的にイメージできずに一括で覚えている人が大半ではないでしょうか。まず、「新安商人」はもともと下の安徽省を拠点として活動した客商です。

 安徽省

Wikipedia「安徽省」より引用)

 

これを見ると、江南の沿岸部(南京など)に近く、さらに内陸の運河の南北を結ぶ結節点に位置していることがわかります。(下が中国の運河[京杭大運河は現在の運河の姿]

 
中国運河
 (http://www.oceandictionary.jp/scapes1/scape_by_randam/randam8/select898.htmlより引用)

このような立地条件から、新安商人は当初は江浙地方の塩を扱っていましたが、その富と、江南沿岸部の都市化にともなって沿岸交易にも乗り出していきます。

 

  余談ではありますが、「塩」は古来から貨幣に信用価値がなくなってきた際の代替手段に用いられることが多いです。なぜなら、「塩」は生活必需品である(日本にも武田信玄と上杉謙信の間の「敵に塩を送る」のエピソードが有名ではある)にもかかわらず、中国はその大半が内陸部にあるため、「塩」は交換手段としての信用性が非常に高く、たとえば政治混乱や財政混乱などで紙幣の信用が大幅に下落してしまった時には国家が塩を専売制にすることでその通貨の信用を保とうとしました。

 

さて、一方の山西商人はその名の通り山西省を拠点とした客商です。(山西省は山東半島の西と考えれば位置はわかりやすい。) 

山西省
 山西商人が北方の防衛軍に対する物資供給を請け負ったことは書きましたが、この頃「北虜」に悩まされていた明ではこの防衛費の出費がバカになりませんでした。防衛費の決済は膨大な額にのぼることから、当時決済は銀で行われたわけですが、この銀がどんどん消費されるために北方では銀は不足しがちで、他地域よりも交換比率が良くなっていました。こうした中、明には日本銀やメキシコ銀が大量に流れ込んでくるという現象が起こるわけです。また、山西商人は北方防衛の見返りとして商売として外れの少ない塩の専売権を手に入れ、これにより莫大な富を得ます。さらに、都からも地理的に近い位置にいる山西商人は清代にかけて政商としての側面を強く併せ持っていくことになります。

とまぁ、こんな感じでイメージすると理解しやすいのではないでしょうか。どこまでが史実かというのは研究書にあたってみないと怪しいところもありますが、何も中国史を専門に研究するわけではないので、とりあえず受験用「世界史」の大枠をイメージするという意味ではこれで十分だと思います。大切なことは、個々の用語や意味を当時の政治・経済・文化などや環境と結びつけて考えることです。そうすることによってみなさんの世界史に対する理解は動きをともなわない静かなものではなく、よりダイナミックなものとしてイメージされることになるでしょう。そしてそのことは東大などが求める世界史像ともつながってきます。

こうして明代には国内の経済圏の結びつきが進むとともに、海外諸国との交易も拡大しました。この過程において、日本と新大陸からの銀を加えた交易圏の拡大によって、13世紀にすでに現れ始めていたユーラシア大陸全体を結ぶ交易圏(13世紀世界システム)は真の意味でグローバルなものに変化したと言えます。結果として、世界の銀はヨーロッパの西部~北部にかけてと、東アジアの中国へと集中することになります(『リオリエント』)。このあたりのところは「東大への世界史で述べたとおりです。

もっとも、明の建国者である洪武帝は、当初こうした交易の拡大には消極的というよりむしろ否定的で、明ははじめ海禁策(私貿易の禁止。倭寇討伐が目的のため、朝貢貿易は可。)をとっていたと言われます。(前期)倭寇に対抗するための措置です。ただ、洪武帝自身が貧しい階層の出身(一説によれば乞食から寺の小僧となった後に元末の紅巾の乱に身を投じて頭角をあらわしたとされる)であり、経済に明るくなかったことから、農業重視の政策をしていたこともその背景にはあるのかもしれません。(洪武帝の政策の多くが農村統治に関するものである[賦役黄冊・魚鱗図冊・六諭etc.]) もっとも、明は民間貿易については禁止しましたが、朝貢貿易は禁止していません。これには、崩壊してしまった冊封体制の再編という意味もあったのかもしれません。また、洪武帝が貿易に積極的でなかったのは、単に国内問題が落ち着いていなかったために対外貿易に注力する余裕がなかったからだという説もあります。

 いずれにせよ、永楽帝の時代にムスリム宦官であった鄭和による南海遠征で周辺諸国の朝貢貿易が促進されたことから、明周辺の交易の規模は拡大していきます。この中で、「自分もこの貿易のおこぼれにあやかりたい」と思いつつも、朝貢という国の正式な使節に随伴することが許されなかった中小の商人や沿岸部の有力者たちは次第に密貿易に手を染めることになります。後期倭寇の発生です。想像してみてください。真っ暗な夜、今から数百年前の中国沿岸部で数隻の船が出港したとしてそれを誰が見とがめることができるでしょうか。こうして、後期倭寇による私貿易の拡大は半ば公然のものとなり、統制がきかなくなってきました。こうなると、むしろこれを取り締まるよりも管理してその利益を吸い上げた方が良いという議論が説得力を持つことになります。最終的に1567年には海禁が緩和され、明の商人たちは呂宋(ルソン)、暹羅(タイ)、旧港(パレンバン)、柬埔寨(カンボジア)などの港に出航することが許されることとなりましたが、日本と明をダイレクトにつなぐ交易は認められていませんでした。そのため、日本の堺や博多の商人たちはルソンをはじめとする各地へ出向いていき、ここで「出会い交易」と呼ばれる形式の交易で中国の物産を持ち帰るのです。16世紀という時期が戦国末期~安土桃山期であったことを思い出して、この時期には千利休やら古田織部やらが中国からやってきた茶器に「ハァハァ、天目萌え~」とか、信長が「九十九髪茄子にシビれる!あこがれるゥ~!」と言っていたことを考えると結びつきやすいと思います。もう完全に「へうげもの」の世界ですねw 

 

  さらに余談ですが、日本と明との交易は正式には当初足利義満による勘合貿易の形で進められました。日本における南北朝の争乱が収まり、西日本の武士団に対する統制もある程度とれるようになったことで、明の要求する倭寇討伐の目途もたったためです。しかし、しばらくするとこの勘合貿易は、応仁の乱以降は幕府自体が行うものというよりも西国の有力守護、中でも大内氏と細川氏が取り仕切るようになっていきます。下は、応仁年間における細川、大内の所領ですが、細川の所領に堺が、大内の所領に山口・博多といった重要な港町があるのが見て取れます。 

夏期講習2016(金融・経済史3)
 

http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/50362065.htmlより引用)

 

こうした両氏の勘合貿易をめぐる利権争いが高じて中国、寧波でおこった武力衝突事件が寧波の乱(1523)です。この事件では大内方が細川方もろともに明の役人を殺害し、一時日明貿易は停止されますが、当時倭寇の取り締まりを行っていた大内氏に対する配慮から1536年には日明貿易が大内義隆により再開されました。この事件がおこった寧波は実は明代における日本の朝貢貿易の指定港でした。

寧波
 (コトバンク「勘合貿易」より引用、一部改変 ©小学館)
 
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 東大2014年度問題解説の方でもお話していた通り、今回は受験生にはイマイチ理解できない露土戦争以降のサン=ステファノ条約とベルリン会議(ベルリン条約)の意味を確認しておきたいと思います。ついでといっては何ですが、ロシアの南下政策と東方問題を含めてまとめておいた方が良いかなと思いますので、19世紀全体にわたるロシアの黒海・バルカン方面進出とそれに対するイギリスの対応をまとめておきましょう。

 

 高校世界史で扱われる東方問題は基本的に19世紀のオスマン領をめぐる国際的諸問題を指します。山川の『改訂版 世界史Ⓑ用語集』(2012年版)には「東方問題」について「19世紀にオスマン帝国の領土と民族問題をめぐって生じた国際的諸問題を、西欧列強の側から表現した言葉。オスマン帝国の衰退に乗じて、支配下の諸民族の独立運動が激しくなり、それに西欧列強が干渉して起こった。」となっています。ただ、これは狭義の定義で、歴史学的には東方問題といった場合、もう少し広くとって18世紀ロシアの拡大政策から考えることもありますし、さらに広くとって14世紀頃からのオスマン対ヨーロッパの対立図式を指してこのように言うこともあります。

 実際に「東方問題」という言葉が歴史上作られていくのはギリシア独立戦争(1821-1829)が始まった時期です。大学受験をする際には、原則として山川大明神の言うことに従っておけば良いわけですが、より深い歴史的理解のためには、18世紀からのロシアの拡大が視野にある方が良いかもしれません。

 

 高校世界史では「東方問題」の書き出しをエジプト=トルコ戦争から書き出すことが多いです。ただ、前述の通り、ロシアの南下はすでに18世紀の段階から着実に進んでおります。中でも注目しておくべきなのはキュチュク=カイナルジ(カイナルジャ)条約(1774です。エカチェリーナ2世の時代に戦われたロシア=トルコ戦争(1768-1774、露土戦争は高校世界史では1877-1878の露土戦争だけが紹介されていますが、実際にはロシアとトルコの間には18世紀から19世紀を通して数次にわたる戦争が展開されています)の結果、両国はキュチュク=カイナルジ条約を締結し、①ロシアの黒海自由通行権、②ロシア商船のボスフォラス=ダーダネルス両海峡の通行権、③オスマン帝国内のギリシア正教徒保護権付与(ロシア皇帝に対して)、④オスマン帝国のクリム=ハン国に対する保護権、などの内容を取り決めました。これにより、ロシアは大きく黒海方面へと進出し、オスマン帝国が宗主権を放棄したクリム=ハン国は、この条約から間もない1783年にロシアによって併合されることになります。

こうしたロシアの南下はギリシア独立戦争とその末期におけるトルコーロシア間の戦争の結果としてのアドリアノープル条約によって一時的には成功をおさめたかに見えます。しかし、こうしたロシアの南下成功は、この後のイギリスを中心とする諸国の外交と干渉によって再三阻止されていくことになり、1877-1878年にかけての露土戦争とその後の戦後処理によって、ロシアのバルカン半島における南下は一時完全に停滞することになります。この一連の流れは19世紀を通して「ギリシア独立戦争→エジプト=トルコ戦争(第1次・第2次)→クリミア戦争→露土戦争」と続くわけですが、この流れ自体はかなり有名な流れですし、みなさんご存じのところでもあると思いますので、簡単に図示した上で、わかりにくい、または気づきにくいポイントをいくつか示しておきたいと思います。

 
東方問題年表
(クリックで拡大)

 

ポイント① ギリシア独立戦争とその結果

 

 さて、ギリシア独立戦争はギリシアがオスマン=トルコ帝国から独立しようとしたことがきっかけで起こる戦争ですが、このギリシアの独立は当時ヨーロッパ周辺で高揚していたナショナリズムと強い関連があります。ナポレオンのヨーロッパ大陸支配とフランス革命の理念である自由・平等という考え方の伝播は、「ナショナリズム」と「自由主義」という二つの大きな思潮を生み出しました。1815年のウィーン体制は、多民族国家を瓦解させかねない「ナショナリズム」と、君主による専制政治と貴族支配を脅かしかねない「自由主義」を抑圧するために墺・露が中心となって作り上げた体制でしたが、早くも1810年代からこれらの動きは大きなうねりとなってヨーロッパの各地で噴出します。1820年代にはデカブリストの乱(露)、カルボナリの運動(伊)、ラテンアメリカ諸国の独立など、各地でナショナリズム、自由主義の動きが渦巻いているわけですが、こうした動きの中にギリシアの独立運動も位置付けることができるわけです。当時、ギリシア独立を率いていたのはイプシランティ(イプシランティス)という人物でしたが、彼が所属した秘密結社「フィリキ=エテリア」はオスマン=トルコの「専制」支配から「ギリシア」と「ギリシア人」の政治を取り戻すための戦いを準備するわけで、これはまさに当時の風潮とピッタリなわけですね。

 

 こうしたギリシアの独立を支援したのもヨーロッパのロマン主義者でした。ところで、このロマン主義というのは実はナショナリズムと密接に関連しています。ロマン主義の起こる前、18世紀におけるヨーロッパの文化的トレンドはロココ、そして新古典主義でしたが、これらはどちらもその中心はフランス、ヴェルサイユでした。ロココなどはルイ15世の愛人、ポンパドゥール夫人を中心とする宮廷人のサロン文化の中で花開きますし、新古典はナポレオンが皇帝に即位したことで英雄主義的側面を強く打ち出すために発展します。18世紀のヨーロッパの人々はフランス文化、特にフランス絶対王政期の宮廷文化を最先端のモードとして受容していたわけです。

 ところが、ナポレオンの大陸支配以降は様子が違ってきます。旧支配階層はもちろんのこと、解放者かと思いきや結局は他国からやってきた支配者に過ぎなかったナポレオンに「自由・平等」を求めたヨーロッパの人々は失望し、反ナポレオン・反フランス感情を高めていきます。そうした中で、「最先端のフランス」に対する「憧れ」は消え失せ、新たに「自分たち自身のルーツや、良さとは何か」を探求するようになっていきます。これがつまり、土着の文化に価値を見出し、恋愛賛美・民族意識の称揚、中世への憧憬などの特徴を持つロマン主義になっていきます。グリム兄弟が土着の民話を収集していくなどを想定するとわかりやすいです(もっとも、グリムはどちらかというと後期ロマン主義に分類される人々ですが)。こうしたロマン主義者にとって、ヨーロッパの源流たる「ギリシア人」たちがイスラームの帝国オスマン=トルコの専制支配から自由と平等を取り戻すために闘う、というテーマはとても甘美で、彼らの心を動かすテーマだったわけで、バイロンなんかは熱に浮かされて燃え尽きちゃうわけですね。とっても中二病で素敵ですw

 
_1826
 

「バイロンの死(Wikipediaより)」

 

 こうした中で戦われたギリシア独立戦争ですが、ギリシアを支援した露・英・仏など各国の思惑は当然ロマン主義の熱によるものだけではありません。それぞれ、バルカン半島や黒海沿岸、地中海東岸地域へ進出する機会をうかがってのことです。ですが、オーストリアだけは自国が多民族国家であることもあり、ギリシアのナショナリズムを容認するわけにもいきません。ここはウィーン体制の原則に従い静観、ということになりました。

 1827年に英仏露連合艦隊とオスマン帝国との間に偶発的な衝突が起き、ナヴァリノの海戦が発生します。この戦争にトルコ軍が敗北したことで、この戦争は大きく転換していきます。戦争終盤の1828年に、ロシアはトルコと戦端を開きます。これに勝利した露は、オスマン帝国との間にアドリアノープル条約を締結します。戦勝による講和条約ですから、その内容は以下のようにロシアに有利な内容となっていました。

 

  ギリシアの自治承認

:トルコの影響力が減少する半面、独立運動を支えてきた露の影響力は大きく増大

  黒海沿岸地域の一部を露へ

  モルダヴィア、ワラキア(両地域が後のルーマニア)、セルビアの自治承認

:同じく、歴史的にスラヴ系民族が多く、ギリシア正教とも多い地域に対する露の影響力が増大します。


Rom1793-1812


1793-1812頃のルーマニア地域[モルダヴィア・ワラキア・トランシルヴァニア]

Wikipedia

 

  ボスフォラス、ダーダネルス両海峡のロシア船舶の通行権

:これは、ロシアの船舶が黒海からエーゲ海に出て地中海方面に進出することを可能にします。


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(赤い部分がボスフォラス海峡、黄色がダーダネルス海峡:Wikipedia

 

 つまり、アドリアノープル条約は明確にロシアの南下を成功させた条約だったのですが、これにイギリスがかみつきます。特に、ギリシアの自治国化は、国としての立場が弱く、ロシアの影響力を受けやすくなると考えたことから、イギリスはギリシアの完全独立を主張してすでに1827年から開催されていたロンドン会議の席上でこれを認めさせます。これにより、ギリシアは1830年に完全な独立国として出発することになりました。

 

ポイント② エジプト=トルコ戦争とその結果

 

 続いて、このギリシア独立戦争でオスマン帝国の属国という立場で戦争協力をしたエジプトのムハンマド=アリーが見返りを要求したことが発端となって、2度にわたるエジプト=トルコ戦争が展開されます。戦争の経過については図表を参照していただければよいのですが、ポイントはやはりウンキャル=スケレッシ条約です。この条約の性質をよく理解できていない受験生が実は多いのですね。ウンキャル=スケレッシ条約というのは、トルコとロシアの間で締結された相互援助条約であり、一種の軍事同盟です。なぜ、ギリシア独立戦争では敵同士で、かつ南下政策を展開するロシアとトルコとの間でこのような条約ができたのでしょう。

 実は、この時期ロシアはトルコの属国化を狙っています。また、トルコの方では弱体化する中でエジプトをはじめとする外敵に対応するためにうまくロシアからの援助を引き出そうと狙っていました。こうした中で、エジプトとトルコの戦争が始まるとロシアはトルコの側を支援します。ところが、ロシアの東方地域におけるさらなる影響力拡大を懸念する英仏はトルコに圧力をかけて無理やり講和を結ばせます。これがキュタヒヤ条約(1833)ですが、この条約でトルコはエジプトにシリアをはじめとする広大な領域を割譲させられる羽目になりました。これに怒ったトルコはロシアとの相互援助条約であるウンキャル=スケレッシ条約を結び、その秘密条項においてロシア艦隊のボスフォラス、ダーダネルス両海峡の独占通行権を与えます。これは同地域におけるロシアの軍事的プレゼンスを大きく高める内容であったことから、英はこれに不満を持つことになります。

 その後、二度目のエジプト=トルコ戦争が起き、その講和会議であるロンドン会議が開かれると、イギリスの外相で、後に首相を務めることにもなるパーマストンがこの問題の調整に乗り出します。その結果、ここで締結されたロンドン条約では以下の内容が取り決められます。

 

  エジプトはエジプト・スーダンの世襲統治権が与えられた(オスマン宗主権下)

  シリアはエジプトからトルコに返還

  ボスフォラス、ダーダネルス両海峡の軍艦通行を禁止

 

 中でも、③の条項は先にロシアがトルコと単独で結んだウンキャル=スケレッシ条約を無効化することを意味していました。さらに、この時点では英・露・墺・普の間の取り決めにすぎませんでしたが、翌年に仏を加えて五国海峡協定として承認させます。これにより、パーマストンは「フランスが影響力を高めるエジプトが勢力を強めることを防ぐ」ということと、「ロシアの地中海東岸地域における軍事的プレゼンスの排除」という二つの目的を見事に達成し、外交的な勝利を手にしたのです。

 

ポイント③ クリミア戦争とパリ条約 

 
 クリミア戦争は「聖地管理権問題が発端」ということはよく言われますが、これも受験生にはイマイチよくわからないところです。当時、キリスト教の聖地イェルサレムはオスマン帝国の支配下にあるのですが、オスマン帝国というのはイスラーム国家ではありますがその帝国内に多数の異教徒を抱えていました。カトリックもそうですし、旧ビザンツ領ではギリシア正教徒も多くいます。また、北アフリカやシリア・パレスチナ地域を中心に単性論の系統をひく諸宗派なども存在していました。イェルサレムにはこうしたキリスト教徒たちにとって信仰の対象となる街区(聖墳墓教会など)があるのですが、こうした部分の管理権は、16世紀ごろからフランス王がカピチュレーションの一環としてオスマン帝国から管理を認められていました。しかし、フランス革命の混乱の中でこの聖地管理権の所在がうやむやになります。こうした中で、ロシアの援助を受けた現地のギリシア正教徒たちが聖地管理権を1851年に獲得すると、国内のカトリックに対する人気取りを画策したフランスのナポレオン3世が横からしゃしゃり出てきてオスマン帝国に再度フランスが聖地を管理することを認めさせ、1852年にこれを回復します。これに不満をもったロシアが聖地管理権を要求し、またカトリックの多いフランスの管理やイスラームであるオスマン帝国の支配からギリシア正教徒を保護するのだということを口実に開戦するというのがクリミア戦争の直接の契機です。

 

 この戦争は難攻不落と思われたセヴァストーポリ要塞を落とされたロシアの敗色が濃い中で終結します。その講和条約として締結されたパリ条約では、1840-41年の取り決め(ロンドン条約や五国海峡協定)の内容が再確認されたほか、黒海の中立化・非武装化が新たに加えられた結果、黒海周辺にあるロシアの軍事施設はすべて撤去されることになりました。さらに、ロシアは1812年にトルコから獲得していた黒海北岸のベッサラビア(現モルドバ、一部はウクライナ)をモルダヴィアに割譲することになりました。

 

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20世紀のベッサラビア」(Wikipedia

 

 このようにして黒海周辺からはロシアの影響力がかなり排除されることになりました。一方で、すでにアドリアノープル条約で認められていたモルダヴィア、ワラキア、セルビアの自治は再度承認、確認されています。特に、モルダヴィアとワラキアは後にルーマニアとなる地域ですが、この地域は、形式上はオスマン帝国が宗主権を持っていますが、長らくロシアの軍政下に置かれていました。ところが、1840年代に入ると外国(ロシア)による保護制に反対する民族運動が高揚し、反乱が発生します。当時のモルダヴィアならびにワラキアはこれを鎮圧したロシア・トルコ両軍の制圧下にある状態でしたので、その扱いを再度確認する必要があったのです。ですから、これらの地域の自治を承認するということは、再度ロシアが同地域に影響力を与えるきっかけを与えかねないのですが、これを他の諸国は承認します。この段階において、同地域が自治権をもつことは、ロシアのみならずオーストリアをはじめとする諸国にもトルコに代わって同地域に影響力を及ぼすためには悪くないことだからです。つまり、たしかにパリ条約においてロシアは黒海沿岸地域から大きく後退させられましたが、一方的な敗北条約をのませられたというよりはいくらかの妥協の産物としてパリ条約を受け入れたわけです。

 

ポイント④ サン=ステファノ条約とベルリン会議

 

 さて、やっと私が本来書きたかった内容にやってこれました。と言っても、正直一言で済んでしまうのですが。この一言を書くために調子に乗って東方問題のまとめに首を突っ込んでしまったことを今はものすごく後悔していますw 自分の中では把握していることでも、説明するとなるとえらい手間がかかりますし、長くなるものです(;´・ω・)

 さて、それではサン=ステファノ条約とベルリン会議(またはベルリン条約:1878)とは一体何なのでしょうか。以下に、この二つの条約を理解するためのポイントをいくつか紹介していきます。

 

  サン=ステファノ条約は、露土戦争の講和条約で、二国間条約である。

:ある意味当たり前のことなのですが、サン=ステファノ条約はロシアとトルコ間の講和条約です。つまり、戦勝国であるロシアに有利な内容になっています。中でも、ブルガリアについての規定は決定的でした。スラヴ系民族の多いこの地域は、形式上はオスマン帝国の宗主権下で自治国となることが決められましたが、これを履行させるためという名目で、ブルガリアにはロシア軍が駐留することが決められました。実は、ご存じない方が多いのですが、ある地域に他国の軍隊が駐留するということは、「事実上保護国になる」ということとほぼ同義です。例えば、イギリスのエジプト支配についてもウラービー=パシャの反乱を鎮圧した後に「事実上保護国化した」という表現が出てきます。これは、軍隊がその地に駐屯することによって、同地域の治安維持ならびに外交権などに大きな影響を及ぼすことが可能になるためです。つまり、ブルガリアはこのサン=ステファノ条約で実質的にロシアの保護下に置かれることが決まりました。そして、問題であったのはその大ブルガリア公国の領土です。

 

 Bulgaria-SanStefano_-(1878)-byTodorBozhinov

Wikipedia

 

黒い太線でくくられれている部分がサン=ステファノ条約で決められたブルガリアの領土ですが、この領土がエーゲ海に面しているところが重要です。つまり、ロシアはこのブルガリアを事実上の保護下に置くことで、ボスフォラス、ダーダネルス両海峡を経ずして地中海に面する地域に進出することが可能となりました。これはロシアにとって南下政策の大きな進展に他ならなかったのですが、だからこそ英・墺の反発を呼ぶことになったのです。

 

  ベルリン会議(ベルリン条約)では、ブルガリアの性質が大きく変更となった。

(ロシアは地中海への道を閉ざされた)

  :さて、再度上のブルガリアの地図に注目してください。ベルリン会議の結果、ブルガリアの領土は3分割され、大きく縮小されます。ブルガリアは黒海に面した北部の緑がかった部分(うすーく「Principality of Bulgaria」とあるのが見えるでしょうか)のみとなり、黒海に面した南部の赤い部分(東ルメリア)と西南部の茶色っぽい地域(マケドニア)は別のものとされ、東ルメリアはオスマン帝国化の自治州となり、マケドニアはオスマン帝国に返還されてしまいました。つまり、新しいブルガリアは地中海に面する部分をすべて失ってしまったのであり、ロシアの南下政策は再度挫折してしまったのです。また、この時に領土を削減されたブルガリアは失った領土の奪還を目指し、執念を燃やす(大ブルガリア主義)ことになりますが、こうしたことが20世紀に入ってからのバルカン戦争へとつながっていきます。

 

  ベルリン条約では気づいたら英・墺が進出して楔を打ち込む形になっていた。

:これは皆さんご存知のことと思いますが、このベルリン会議でエジプトに利権を持ち、3C政策を展開するイギリスと、パン=ゲルマン主義に基づいて国家統合とバルカン進出を狙うオーストリアがどこを手に入れたのかを再度確認しておきましょう。

 

 キプロス

(キプロス島:イギリスが獲得)
 

 Map_of_Bosnia_Herzegovina_and_neighboring_countries

(ボスニア=ヘルツェゴヴィナ:墺が統治権を獲得)

http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/map/Bosnia_Herzegovina/Map_of_Bosnia_Herzegovina_and_neighboring_countries.htm

 

 英はエジプトの北、地中海東岸に位置し、オスマン帝国の首根っこをおさえるキプロス島を、墺はバルカン進出の要となるボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権を手に入れます。この状態ではロシアの南下政策は完全に「死に体」です。このベルリン会議をうけてロシアの南下政策は「挫折した」と表現されるのはこのような内容によるわけです。「東方問題」は時期によって国際関係の変化(露・墺関係の変化、ウィーン体制の意味など)もありますし、条約の内容もかなり細かいもので、なかなか把握しづらいものです。大きな枠組みは「ロシアの南下政策の挫折」で良いのですが、やはりしっかりと当時の政治状況を理解するためには地理的理解も含めた各条約の内容をしっかりと消化しておくことが大切でしょう。また、このあたりのことをしっかりと把握しておくと、青年トルコ革命や、そのどさくさに紛れた様々な動き(墺のボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合など)、さらにはバルカン戦争なども理解しやすくなると思います。


 

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