[19世紀~20世紀の朝鮮] 

・案外、朝鮮王朝(李氏朝鮮)がいつ頃からかがつながっていない人がいたりするので確認。

 1392 建国:両班による支配

    (倭寇討伐に功のあった李成桂が高麗を滅ぼして建国)

 

・その後の李氏朝鮮は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役/壬辰・丁酉の倭乱[1592-931597-98])と、清への服属(ホンタイジの時)のあたりで出てくる。

 

・世界史でその後李朝が問題になるのは19世紀後半に入ってから。このあたりは大学受験でも頻出の箇所なので、注意しておくとよいでしょう。ただ、教科書や参考書だと時期ごとにぶつ切りになっていたり、情報が不足していてなかなか全体像をとらえることができません。そこでまず、当時の朝鮮で起こった事件を追いながら、朝鮮国内またはそれに与する外国の勢力図がどのように変化していくのか見ていくことにしましょう。

 

1863 大院君(国王高宗の父)が摂政として実権掌握

:鎖国政策

 1873 閔妃政権の成立(大院君に対するクーデタ)

:開国政策への転換

 1875 江華島事件

→日朝修好条規(1876

  朝鮮の自主独立

  釜山・仁川・元山開港

  治外法権

  関税自主権喪失(双方無関税)

 1882 壬午軍乱:大院君のクーデタ

・賃金未払いを不満とする兵士の暴動を利用

・日本公使館員も多数殺傷される

   →清の袁世凱の支援で鎮圧

→閔氏が親日から親清へ

(事大党の形成=清の勢力下で李朝の安全維持を図る)

   ※以降、清は6000名の軍隊を朝鮮に駐留させる

    一方で、開化派の不満が高まる

→急進改革による朝鮮の近代化を図る金玉均・朴泳孝らが独立党を形成

 1884 甲申政変:独立党による対閔妃のクーデタ

・日本公使竹添進一郎と独立党が共謀、清仏戦争の隙をつく

    →高宗を擁立、閔氏の要人を殺害

  →閔妃を支援する清が鎮圧

(清仏戦争に敗北した清はメンツにかけても朝鮮へ出兵)

→金玉均は亡命(1894年に亡命先で暗殺される)

    ※この事件をうけて日清両国は天津条約(1885)締結

:日清両国の朝鮮からの撤兵と出兵時の事前通告を規定   

1894 甲午農民戦争

:東学を中心とする農民反乱

(創始者:崔済愚[チェジェウ]、指導者:全琫準[チョンボンジュン]

   →鎮圧に日清両軍が出兵、日清戦争

   →朝鮮では日本軍が出兵して閔氏を追放

・大院君を中心とする開化派政権が成立

・甲午改革の実施

     [両班制・科挙廃止、奴婢・人身売買の禁止など発表]

        →政権内部の対立、三国干渉によるロシアの影響力を利用した閔氏派の巻き返しで失敗。

1895 下関条約:朝鮮の完全独立承認

1896 乙未事変:日本の指揮下の訓練隊(朝鮮軍)と日本人士官が閔妃暗殺

(背景)ロシアの力を背景に巻き返しを図る閔妃と大院君が対立

 ・甲午改革を推進した金弘集内閣が再度近代化策を実施

 →開化派を支持する大院君と高宗の対立が決定的に

(守旧派が担ぐ高宗はロシアに接近:露館播遷[1896-97]

 1897 大韓帝国と国号を改称

 1898 1896年以降、朝鮮の立憲君主制樹立を目指してきた独立協会が弾圧される

1904-1905 日露戦争

  →日本の優勢によって朝鮮が日本の影響下に

1904 第1次日韓協約:日本からの財政・外交顧問の受け入れ

1905 ポーツマス条約:日本の韓国保護国化承認

→第2次日韓協約(1905

:韓国の外交権接収(保護国化)、統監府の設置(初代:伊藤博文)

   →反日義兵闘争の高まり、愛国啓蒙運動が激化

1907 ハーグ密使事件

   →第3次日韓協約(1907):韓国軍の解散、内政権を失う

1909 伊藤博文暗殺(安重根による)

1910 韓国併合:朝鮮総督府(初代:寺内正毅)

→武断政治、土地調査事業

 

ここがポイント 朝鮮内の勢力関係

 

朝鮮近代史を読み解く上で難しいのが朝鮮内における勢力関係ですね。たとえば、当初は保守派とされていた大院君が後になってなぜか開化派と仲良くしていたりとか、国王なのに高宗は開化派に担がれたり、後に対立したり…「いったいどっちなんだ!」と思うこともあるかと思います。でも、日本も幕末期には公武合体だー、とか攘夷だー、とか開国だーとか、やってますよね。当時の朝鮮も、諸外国の圧力の中で将来をどういう方向へ持って行ったら良いか模索している時期です。その時々の立場や情勢によって各人の立場が変わっていったのだと考えれば、それほど変なことでもないのですね。

 ここでは、頭をすっきりさせるために、いくつかの時期についてその勢力図を図示してみたいと思います。

 

[初期(1860年代~1870年代)の対立関係]

地域史②(朝鮮史)

 初期の対立関係は意外にシンプルです。幼少であった国王高宗の父である大院君が実権を握ると、大院君は保守的な鎖国政策を実施します。ところが、大院君の独裁に対する反発や、日本でも起こったような進歩的な考え方を持つ開化派からの反発が高まっていくんですね。そうした中で、もともとは大院君のお声がかりで妃におさまった閔妃は、舅との折り合いが悪くなって次第に険悪になっていきます。閔妃とその一族(閔氏)は反大院君の勢力を結集してクーデタを決行、これにより大院君が失脚してしまうのが1873年です。

 

[1870年代~1880年代]

 

地域史②(朝鮮史)2
 

 ところが、閔氏政権のもとでの開化政策は必ずしもうまくはいきませんでした。おりしも、江華島事件以降、朝鮮では清朝の冊封国としての地位を維持すべきとする守旧派(事大党)と、日本の力を利用して近代化を達成しようとする開化派の二派に分かれて争っていました。そんな中、開化派政策を推進する閔氏政権は大胆な軍制改革に着手し、旧式の軍隊とは異なる西洋式の新式軍隊「別技軍」を組織します。しかし、別技軍が好待遇を受ける一方でないがしろにされていると感じた旧軍の一派は、続いていた給与不払いをめぐる不満を暴発させて暴動を起こします。これに乗じて閔氏政権の転覆をはかったのが先に失脚させられていた大院君でした。これが壬午事変(壬午軍乱:1882)です。

 

 この事件に対して日本側は対応することができませんでした。反乱に巻き込まれた日本公使館員たちは何名かの死傷者を出しながら命からがら挑戦を脱出します。これに対し、清国側は当時洋務運動によって増強していた軍隊を朝鮮に出動させ、これを率いた袁世凱が反乱を鎮圧し、大院君を軟禁しました。この結果、政権に復帰した閔氏一派は、自分たちの政権維持を重視してそれまでの親日姿勢から親清姿勢へと鞍替えします。要は、「開化政策の推進」と「政権と権力の維持」を天秤にかけた結果、後者を選択したわけです。

地域史②(朝鮮史)3
 
 

 しかし、こうした閔氏政権の変節に不満を感じたのが親日派の開化派たちです。朝鮮でも日本式の近代化を実現しなくてはならないと考える開化派の金玉均(キムオッキュン)、朴泳孝(パクヨンヒョ)らは独立党を結成します。清への依存をはかる事大党に対して、朝鮮の自主独立を目指したわけですね。かれらのこの目標は当時開化派を支援していた日本政府の目的とも、最終的な利害はどうあれ合致します。そして、独立党は次第に閔氏政権との対立を深め、その中で同じく閔氏と対立する大院君と接近します。つまり、開化派(独立党)と大院君を結びつけたのは「敵の敵は味方」という構図です。

 そして、この両者は日本の力を借りて清が清仏戦争にかまけて朝鮮に目が向かない間隙をぬって、閔氏政権打倒のクーデタを敢行します。これが甲申政変です。

 

 ところが、この政変も清の軍隊によって鎮圧されてしまった結果、再度閔氏が政権に返り咲きます。そしてこれ以降、朝鮮国内では「閔氏政権vs開化派+大院君」と「清vs日本」という対立が深まっていきます。

 

[1890年代(日清戦争以降)]

 

 こうした中で日清戦争が勃発し、日本の勝利に終わると開化派と大院君は勢いづき、甲午改革と呼ばれる近代化策を進めます。ところが、一度は日本の力を借りて閔氏一派を一掃したと思われたのですが、閔氏一派は新たに朝鮮進出を狙うロシアの力を借りて巻き返しをはかります。こうした両派の対立の中で発生したのが乙未事変(1896:いつびじへん)です。この事件で閔妃が暗殺されてしまったわけですが、これに激怒したのが妻を殺された国王高宗です。これまでも父と妻の一族の間の権力争いでどこか蚊帳の外に置かれてきた高宗は怒り心頭、開化派と大院君とは決別して守旧派とともにロシア公館に遷り、ここで政務を執りました。この期間のことを露館播遷(1896-97)と言っています。嫁さん殺されてムキーってことですね。こうした流れの中で、それまでの清vs日本という構図はロシアvs日本という構図に置き換わってその後の朝鮮を巻き込んでいき、1904年からの日露戦争へとつながっていくのです。

 
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