トルキスタン史というものは常に受験生の悩みの種であるようだ。そもそも、高校生の段階で「トルキスタン」というものを理論的かつ感覚的に理解できるとしたら、それはかなり熟練の学習マニアか、熱狂的なトルキスタンオタクか、親戚がトルキスタンの出身かだ。これは別に、高校生を侮って言っているのではない。人間の「理解」にはまず知識として体得する「知る」という段階と、その知識をイメージし、感覚として染み込ませる「実感」する段階があるわけだが、一般的な高校生がこうした実感をともなってトルキスタンを理解するには、あまりにも時間が足りなすぎるし、身近でもない。現に、私が高校の頃はトルキスタンとは何かと問われた時、正確なことを1語る間にウソや見当はずれのことを5つは語ったかもしれない。いや、そもそも「トルキスタンを正確に理解せねばならない」などとは思ってもみなかっただろう。

 

 しかし、志望校として東大を目指すものにはそれが求められる。なぜなら、東大は近年明確にユーラシアという領域を意識しているからだ。ユーラシアを意識してその中央に位置する中央アジア、トルキスタンが問題にならないなどということがあるだろうか。誠に不条理な世の中である。だが、ある一定のレベルを超えて正しく必要な情報を整理してインプットすることができれば、比較的早期にこの実感をともなうレベルの理解をすることも十分に可能だ。そこで、今回はトルキスタンとその歴史をある程度イメージとして保持できるようなトルキスタン史の整理を、世界史の枠組みの中で行ってみたいと思う。

 

[トルキスタン史1:トルキスタンの地理的理解]

 

 トルキスタンのような日常我々がなじみのない地域についてのイメージを確固たるものにする手段として有効な方法が二つある。それは、

 

・正確な地理情報を把握する

・その土地の風土、風俗についての追加情報を得る(映像が望ましい)

 

この二つである。世界史についての理解がもう一つ進まない場合、この手の地理情報がきちんと把握できていないことが多い。具体的な例をあげるのであれば、イリ事件でいうイリ地方とはどこか、沿海州とはどこか、ホラーサーンとはどのあたりか、ライン川はどこを流れているか…etc.

 

 そこで、まずはトルキスタンとはどこかということを漠然とでもよいので把握しておきたい。もちろん、トルキスタンという用語は歴史的なものでもあるため、時代によりその意味するところや地理的な範囲も異なるが、おおよそのイメージを示しておこう。

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http://www.silkroad-caravan.net/coa.history.htmlより引用、一部改変)

 

上の地図は中央アジアの地図を示したものであるが、このうち現在の新疆ウイグル自治区にあたる部分の東トルキスタンと、そこから西、アラル海とカスピ海に至る西トルキスタンがトルキスタンと呼ばれる地域である。この地図自体がややアバウトなものであるし、一枚だけではイメージしきれない部分もあるだろうから、さらに別の角度から見てみたい。


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Wikipedia「トルキスタン」より引用、一部改変)

 

 上の図にあるように、黄色の部分が新疆ウイグル自治区、すなわち東トルキスタンである。東西トルキスタンの間にある緑の矢印が示しているのはパミール高原で、この高原が東西トルキスタンを分ける一つの目印になる。このあたり一帯はいわゆるシルクロードの通る道としても有名なわけだが、それではこの東西トルキスタンをシルクロードという視点から把握しようとするとどうなるのか、別の地図で確認してみよう。
 

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https://twitter.com/HistoryMinstrelより引用)

 

上の地図中央にパミール高原があるので、その東、「タリム盆地」というのが東トルキスタンとほぼ同じ地域であることが確認できると思う。このタリム盆地の大部分はタクラマカン砂漠と呼ばれる砂漠地帯であり、この地域がよくシルクロードに関する設問で出てくるオアシス都市が点在する地域だ。


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Wikipedia「タリム盆地」より引用)

 

タリム盆地の南北には天山山脈と崑崙山脈があり、このうち天山山脈のふもとを南北に通るのが天山北路と天山南路、崑崙山脈の北側を通るのが西域南道である。


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http://www.club-t.com/kansai/special/abroad/silk-road/spot.htmより引用)

 

上の地図を見ると、中央のタクラマカン砂漠にいたる中国側の入り口が敦煌、パミール高原をまたいで西トルキスタン川の入り口がサマルカンドになっていることがわかると思う。このように、様々な方面から地理的情報を把握すると、無味乾燥な「敦煌」、「サマルカンド」「天山南路」などの用語は生きた知識として自身の身体に定着してくる。

 

[トルキスタン史2:トルキスタンの歴史的形成]

 

 これまで紹介した地域がなぜトルキスタンと呼ばれるのかといえば、この地域にテュルク系民族が移住し、いわゆる「トルコ化」が進んだためである。トルキスタンとはすなわち、トルコ人(テュルク人)の住む土地を指すわけだが、このトルコ人たちは、元々はシベリア方面に居住していたモンゴロイドであったらしい。これが、9世紀頃からのトルコ系民族であるウイグルの移住と定住によって現在のトルキスタン周辺に住みつき、イラン系ソグド人などとの混血を進めた結果、現在のような形になっていったとされる。下の地図は現在のテュルク系民族の分布を示したものである。

 

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Wikipedia「テュルク系民族」より引用、一部改変)

 

こうしたテュルク系民族はかなり早い時期から歴史の中に登場してくる。中国の文献資料上に登場する丁零(紀元前3世紀頃)とか高車(5世紀頃)、鉄勒(6世紀頃)などはこのルーツである。この頃のトルコ系民族は隣接するモンゴル系民族の匈奴や柔然に従属する弱小民族でしかなかった。

 

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Wikipedia「丁零」より引用、一部改変)

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Wikipedia「高車」より引用、一部改変)

  

 しかし、こうしたテュルク系民族は6世紀の突厥の出現によってモンゴル高原の覇者としての地位を築き上げる。突厥は、柔然を滅ぼして建国し、さらにササン朝と結んで中央アジアに存在したエフタルを挟撃して滅ぼして強大化するのである。そのご突厥は東西に分裂の上、東に起こった唐に圧迫されたために次第に衰退するが、この突厥にかわって起こったウイグルも同じくトルコ系民族であった。

 

 だが、突厥やウイグルは基本的に遊牧民族であり、決まった土地に定住するということはなくその活動域もモンゴル高原が主であったため、その広大な支配域に現在で言うトルキスタンが含まれていたにしても、この地域が「トルコ化」されることはなかった。状況に変化が生まれるのはこのウイグルが同じくトルコ系のキルギスによって滅ぼされてからである。モンゴル高原を追われたウイグルは西へと逃れ、9世紀頃に現在のトルキスタン方面に定住した。その結果、それまで同地で交易の民として暮らしていたイラン系ソグド人との混血を繰り返す中で同地が次第にトルコ化されていき、現在のトルキスタンの原型が形成されていったのである(ソグド人はトルコ人と同化する中で民族としての独自性を失い、消滅していく)。

 
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(ソグド人はソグディアナ[またはトランスオクシアナ]と呼ばれる上の赤い地域を中心に活動していた。地図はWikipedia「ソグディアナ」より引用。)

 

 そして、このようにトルコ化が進んだ中央アジアにはもう一つの大きな変化が進行していた。それが同地域のイスラーム化である。すでに同地域には8世紀頃からアラブ人たちが侵入し始め、東方の唐との間でタラス河畔の戦い(751)を戦うなどしていたが、本格的に同地の支配を始めるのはイラン系サーマーン朝の頃からである。サーマーン朝は支配したトルコ人を奴隷軍人として活用し始める。これがマムルークである(実際には、マムルーク自体はすでにアッバース朝期から存在した)。テュルク系民族(トルコ人)と境を接するサーマーン朝はさかんにマムルークを導入し、マムルークはイスラーム世界に定着していったが、一方でこうしたマムルークか軍事的に力を持ち始めると支配者であるイラン系のサーマーン朝に対抗しうる力を有するようになった。その結果、中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝であるカラ=ハン朝の成立を見ることになり、これ以降トルキスタンにおいてはトルコ化とイスラーム化が促進されることになる。

 

[トルキスタン史3:中国史から見たトルキスタン]
 

それでは、トルキスタンとは何か、ということがある程度整理できたところで、高校世界史上で頻出の中国とトルキスタンとの関わりについて簡潔にその概要を示しておきたいと思う。


(前漢)

・武帝:匈奴遠征(タリム盆地獲得:住民はイラン系)

-天山南北路、西域南道(シルクロード・オアシスの道)

    →前漢末に西域都護設置


(後漢)

・班超:甘英を大秦国派遣(条支国[シリア?]止まり)


(魏晋南北朝)

・仏図澄、鳩摩羅什などが亀茲から来訪

 ・6世紀に突厥が強大化(552に柔然を滅ぼして建国)

  →隋の建国期に東西に分裂(583

   [東突厥]:唐に服属(7c)→自立(突厥第二帝国)→ウイグルにより滅亡(8c

    [西突厥]:唐に服属(657)→滅亡(8c)


(唐)

 ・羈縻政策[唐に限らず類似の政策は歴代王朝でも]

  :都護を中央から派遣し、在地の族長を都督・刺史に任命

(自治を許す間接統治策)

→六都護府設置

1、    安東(平壌)

2、    安南(ハノイ)

3、    安西(亀茲)

4、    安北(外モンゴル)

5、    単于(内モンゴル)

6、    北庭(新疆ウイグル自治区方面)

 ・8世紀にウイグルが東突厥を滅ぼして建国、唐とは同盟関係


(唐末)

・キルギスにより、ウイグル国家が滅亡

→ウイグル人[トルコ系]が現在のトルキスタンに移住

→ソグド人などのイラン系住民と混血(トルコ化)

   =トルキスタンの形成

・サーマーン朝の侵入

 →イスラーム化の進行


(宋)

 ・カラ=ハン朝:東西トルキスタンを支配した初のトルコ系王朝

 →トルキスタンのイスラーム化を促進

11世紀に東西に分裂

 (東は西遼、西はホラズムにより滅亡)

・カラ=キタイ(西遼:モンゴル系、仏教):遼の王族・耶律大石が建国

→ナイマンに滅ぼされる

→チンギス=ハンの征服(ホラズムに至る通り道である点に注目)

→トルキスタンは後にチャガタイ=ハン国の支配下に

(明)

・ティムール帝国の勃興

・ティムール衰退後

[トルキスタン西部] チャガタイ=ハン国の残存勢力が割拠
           →のちにウズベク人が台頭 

[トルキスタン東部] オイラートが勢力拡大

→エセン=ハンの時に土木の変[1449]:正統帝捕虜に

→エセン暗殺後に分裂・再統合

(ジュンガル部の形成[ガルダン=ハン]

[さらに東部(モンゴル)] タタールが勢力拡大

  

  ※ 上記のうち、オイラート・タタールが「北虜」となる


(清)

・乾隆帝によるジュンガル部平定[1758]

→藩部に編入して「新疆」、理藩院による支配

1871 イリ事件

[流れ]

  太平天国の乱[1851-64]に乗じて新疆でコーカンド=ハン国のヤクブ=ベクほかイスラーム勢力の反乱が発生

  太平天国鎮圧後に左宗棠を派遣、鎮圧後に直轄化

  混乱に乗じてロシアが出兵、イリ地方占領[1871]

  左宗棠による再占領(ロシアが露土戦争で身動きできないうちに)

→イリ条約(1881):事態の収拾[東西に分割]

 以前にイリ事件をテーマとした設問が出題されたことから高3向けに中国とトルキスタンとの関わり合いを考えるために作った授業をベースにトルキスタン史を概観してみたが、こうしたくくりだけでなく、「トルコ民族史」としてのトルキスタン史を考えることももちろん可能である。トルコ民族というくくりで考えた場合には、地域的にはトルキスタンからは外れるが、ガズナ朝や奴隷王朝(アフガン~北インド)、セルジューク朝、ホラズム朝(イラン・西アジア)、マムルーク朝(エジプトなど)などのイスラーム王朝が名前としてあがることになるだろう。その場合、まず中央アジア地域でイスラーム化したトルコ人勢力が各地に拡大していく過程としてとらえると全体像をより把握しやすくなるだろう。それについては別稿に譲ることにしたい。