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カテゴリ: 東京大学対策

かなり古い設問ですが、この年の設問は冷戦、中でも分断国家の形成と統合についての問題でした。1989年当時私はちょうど中学生になるかならないかくらいの頃でしたが、こども心に「何かすごいことが起こっている」と考えさせられる時期でした。やはり、ベルリンの壁の崩壊はとても印象的で、きっとこれからすごいことが起こるんだろうなぁと思ったものです。あの頃にむしろITとかアップルとかに関心を持っていれば今頃大金持ちだったかもしれないのにw 脱線しましたが、あの頃は子どもも大人も無邪気に「もしかしたら世界はもっと良くなるかもしれない」と思ったものです。もっとも、すぐに湾岸戦争やら各地の民族紛争で「どうも、そうではないのかもしれない」と感じさせられることになったわけですが。いずれにせよ、本設問が出題された背景にもおそらく、当時の出題者の問題関心が冷戦後の世界がどうなるか、また冷戦がどういうものであったか受験生は知っているだろうかとうことに向けられていたのではないでしょうか。当時の雰囲気は実際にニュース映像などをご覧いただいた方が文章で追うよりも手っ取り早いのではないかと思います。

 

ベルリンの壁崩壊→https://www.youtube.com/watch?v=1YJDvpWL4AY

ソ連崩壊→https://www.youtube.com/watch?v=3l3QxfZHPTQ

 

冷戦については、2016年の東京大学でも出題されていますが、1993年から2016年まで冷戦を真正面から暑かった出題はされていません。この理由はよくわかりませんが、実際のところ一般的な認識として冷戦をどこか終わったものとして理解していた向きはあるのかもしれません。2016年の設問については、すでに過去の記事でご紹介していますので、そちらをご覧ください。今後冷戦に関する問題が東大で登場するか、はっきりとしたことは分かりませんが、もしかしたら冷戦終結40周年とか50周年当たりでは出るのかもしれませんねw 少なくとも、私の中ではそれほどは警戒してないです。ただ、冷戦は早慶などの次第では頻出の設問になりますので、メインになる話は整序も含めてしっかりと確認しておきたいところです。世界が平和になりますようにw

 

【1、設問確認】

・二つの分断国家(ベトナムとドイツ)の形成から統合への過程を略述せよ。

・冷戦の展開と関連付けよ。

・指定語句:ゴルバチョフ / ジュネーヴ会議 / 封じ込め政策 / 平和共存 / ベルリンの壁

・指定語句に下線を付せ

20行(600字)以内で記せ

 

:設問は非常にシンプルです。少し気を遣わないといけないのは、冷戦との関連付けでしょうか。ただ、ベトナムとドイツの分裂が書けないと話になりませんので、いろいろ考えてごちゃごちゃになるよりは、まず両国の分裂と統合の過程をしっかり確認した上で、それらを冷戦の文脈の中に位置づけるという方法が無難かと思います。

 

【2、ベトナムの分裂と統合について整理】

 まず、ベトナムの分裂と統合について整理します。文章で書くよりも、表でまとめちゃった方が良いかなと思いますので、とりあえず以下の表にまとめてみます。

分裂国家(ベトナム) - コピー

受験生がよく混乱しがちなのが、ベトナム民主共和国とベトナム国、ベトナム共和国の区別です。かなり乱暴な区分けではあるのですが、「民主」と名前に着くのは共産主義の国に多いです。後にあげるドイツ民主共和国(東ドイツ)もそうですし、民主カンプチア、朝鮮民主主義人民共和国…、結構ありますねw 世界史で出てくるレベルの国であれば特に問題はないので、「ベトナム民主共和国(北ベトナム)=共産主義の国=ホーチミン」というように理解しておけば問題ないかと思います。その上で、残った南部ベトナムについては、「最初の方はフランスが阮朝最後の皇帝バオ=ダイを元首に担ぐので典型的な共和国ではない=ベトナム国」、「後の方はアメリカの後ろ盾を持ち、ゴ=ディン=ディエム(ジェム)を大統領とする共和国=ベトナム共和国」と理解すれば、間違えることは少なくなるかと思います。

ベトナム史については、後ほど地域史か何かで上の表を文章にしましょうか。ただ、それほど分かりにくいところはないので、上の表の内容が理解できていれば本設問を解くには十分かと思います。

 

【3、ドイツの分裂と統合について整理】

ドイツについても、以下の表にまとめておきます。

分断国家(ドイツ) - コピー

こちらについては、いくらか分かりにくいところもあるかと思いますので何点か補足しておきます。

 

① 西側占領地域の通貨改革とベルリン封鎖

 ドイツについては、米・英・仏・ソの四か国による分割占領がされたことはよく知られています。ここでしっかり理解しておかなければならないのは、ベルリンも同様に四か国の分割占領下におかれたのですが、ベルリンの周辺地域は全てソ連の占領下にあり、そのためベルリンの米・英・仏による管理地域はソ連によって交通を遮断された場合、陸の孤島になってしまうということです。(下の地図、白い丸で囲まれた部分がベルリン。そのうち、西部の青・緑・オレンジが西側占領地域)これが、後のベルリン封鎖を可能にすることになります。

1920px-Map-Germany-1945.svg

Wikipedia「連合軍軍政期(ドイツ)」より、一部改変)

て、当初、ドイツに対しては米の占領地域においても積極的な工業復興は支援せず、農業国化することが想定されていました。しかし、ソ連との対立が深まるにつれて、占領地域を貧困のままにとどめておくことは、占領国(米・英・仏)に対する反発を呼ぶだけでなく共産主義の拡大を招く恐れがありました。(共産主義は、一般的に経済がパッとしない場合に広まる傾向が強いです。みんなが日雇い労働者や失業者の場合、失うものがないので「金持ちの財産をオラに分けてくれー」という思想は共感を呼びやすいですが、みんながそこそこの財産を所有している場合にはむしろ「財産を取られて誰かに分け与えられるのは嫌だなぁ」という発想につながりますので、共産主義の勢いはそがれることになります。) そこで、いわゆる西側(米・英・仏)の占領地域については経済再建が目指されることになります。また、その副産物というわけでもないのですが、かつてのナチ時代の企業による対ナチ協力についても「んー、まぁ、ナチに強制されてた分はしょうがないよね」という形で「何でもかんでも厳罰!」というムードではなくなってきます。(もちろん、ホロコーストにかかわっていたとか、どうしようもない場合は除きますが。) 戦争中のドイツ人はほとんどの場合何らかの形でナチスにかかわっていましたので、それらを片っ端から挙げてしまうと復興のための人材が極端に不足してしまうんですね。実際、ドイツの3代目首相となったキージンガーなども内心はユダヤ人迫害などに批判的であったようですが、若いころに一時ナチスに在籍した経歴があり、かつ後の外務省勤務時代にゲッベルスなどと交流があったことから、就任時はかなり批判を受けたようです。いずれにしても、西側占領地域では占領政策が経済復興に転換されたことによって急速に暮らし向きが良くなっていきます。

 一方、ソ連の占領地域では土地改革をはじめとして社会主義化が図られていきます。企業は解体され、非ナチ化は徹底していました。これは、そもそもファシズム(ナチス)と共産主義が相容れない存在であったことを考えれば容易に理解できることです。ドイツはたしかに一時ソ連と独ソ不可侵条約を結びましたが、これは戦争を有利に進めるための一時的なもので、ナチスは根っこのところから反共産主義でしたし、ソ連も同じく反ナチスでした。そのため、ソ連による占領地の社会主義化と非ナチ化は西側諸国の占領地域と比べるとはるかに徹底したものでしたが、このことがソ連占領地域の経済復興を遅らせることになります。

 その結果、西側と東側には次第に復興速度に格差がみられるようになりました。西側が、西側占領地域でのみ通用するドイツ・マルクの発行(通貨改革)を計画したのはこうした時期です。この西側の通貨改革に対し、ソ連は西側経済に東側が吞まれ、その後の占領政策で西側に主導権を握られることを恐れ、占領地は統一したものとして扱われるべきものと元来の連合国の合意でされていることを主張し、通貨改革を批判します。そして、ソ連が採った手段がいわゆるベルリン封鎖でした。これにより、ベルリンの西側占領地域までの交通が遮断された結果、西側占領地域は陸の孤島となることになりました。これに対し、西側諸国はベルリン西部への大空輸作戦を実施し、西ベルリン市民に必要な物資を届ける作戦を1年弱にわたって繰り広げ、最終的にソ連はベルリン封鎖を解除します。

C-54landingattemplehof - コピー

Wikipedia「ベルリン封鎖」より)

注意しておきたいのは、この時のベルリン封鎖ではベルリンの壁は建設されていないということです。このベルリン封鎖は、ソ連軍による各所の検問や、鉄道・地下鉄・運河・高速道路の封鎖によって行われたもので、壁によって遮られたのではありません。下に書くように、ベルリンの壁建設は西ドイツの奇跡の経済復興によって東西の経済格差が明らかになった1950年代末から1960年代初めにかけて東ドイツから西ドイツへの市民流出が問題となった結果、1961年に建設されるもので、ベルリン封鎖からは10年以上も後のことである点は注意しておいた方が良いでしょう。

 

② ベルリンの壁建設

:ベルリンの壁建設については、先日簡単に別記事の方に書いておきましたので、こちらをご覧ください。

 

③ ヨーロッパ=ピクニック

1989年の東欧革命とドイツについては、とかくベルリンの壁崩壊がクローズアップされがちですが、実はそれ以前から東側諸国と西側諸国の国境にはほころびが生じておりました。ソ連でゴルバチョフが就任し、ペレストロイカを進める一方で東側諸国に対しても各国の自由裁量を容認したことで、ワレサの率いる「連帯」に理解を示し始めたヤルゼルスキの指導下にあったポーランドや、1960年代ごろから寛容な政治路線を打ち出し、市場経済の導入を模索していたハンガリーなどでは次第に自由化へと進み始めます。しかし、東ドイツは分断国家であり、「なぜ、西ドイツと別国家であるのか」を問われた場合、それは「共産主義体制であるから」というイデオロギー的部分に拠るところが大きく、自由化を進めること自体が国家の存在意義を問われる問題であったため、ソ連と同様の改革路線を拒絶します。もちろん、同様のことは西ドイツにも言えたわけですが、当時の東西ドイツの経済状況は圧倒的に西ドイツが優勢であったため、仮に東ドイツが自由化に着手して西とのイデオロギー上の差異が希薄となった場合、西ドイツに吸収されて国家自体が消滅することを東側首脳部は危惧したわけです。

 こうした政治状況のなか、ハンガリーでは中立国オーストリアとの国境管理が負担となっていました。国内旅行の自由化も進められていたハンガリーでは、中立国オーストリアとの国境管理の必要性は極端に乏しく、数百キロに及ぶ国境の警備費用は無駄な出費であると考えられるようになりました。しかし、ハンガリーには他の東側諸国からやってくる旅行者なども存在したため、ハンガリーが単独で国境を開放することは考えられませんでした。こうした中、ハンガリーのネーメト首相はゴルバチョフにハンガリー国境の警備を緩めることについて意見を確認しましたが、すでに西側への窓を開くことを考え始めていたゴルバチョフはこれを黙認します。

 これを受けて、ハンガリーはオーストリア国境地帯にあった鉄条網の撤去に入ります。これは、ハンガリーとオーストリア国境の通行が半ば黙認されたことを示す出来事でした。これに敏感に反応したハンガリーへの旅行許可を受けた東ドイツの人々は大挙ハンガリー国内のオーストリア国境地帯へと殺到し、最終的にはハンガリー政府の黙認の下で「ヨーロッパ=ピクニック」と称されるイベントを口実に強引に両国国境を突破して、多数の東ドイツ市民がオーストリアを経由して西ドイツへと亡命していきました。

ヨーロッパ・ピクニック - コピー

Wikipedia「東ドイツ」より引用の地図を一部改変)

この出来事は、西側諸国と東側諸国の間の国境封鎖が形骸化したことを強く東ドイツの人々に印象付け、後のベルリンの壁崩壊へとつながっていきます。この時の様子を示したフォトギャラリーは以下のサイトなどで見ることができます。

https://www.rferl.org/a/hungary-1989-east-germany/30156892.html

またEuropeanaで「Pan European Picnic」を検索するといくつかの動画も見ることができます。

 

【4、冷戦の展開とどのように関連するか考察】

:最後に、上記のベトナムやドイツの分断と統合が、冷戦の展開とどのように関連していたかを確認していきます。冷戦については大きな区分けになりますが、概ね「①冷戦構造の形成期(~1950年代前半)」、「②スターリン批判と雪解け(1950年代後半)」、「③再緊張と危機(1960年代前半から後半にかけて)」、「④デタント(緊張緩和:1960年代末~1979年)」、「⑤新冷戦(19791985)」、「⑥ゴルバチョフ就任後の共産圏の改革と冷戦の終結(19851989)」に区分すると理解がしやすいかと思います。これらの時代区分に基づいて、ドイツやベトナムの分断・統合に深くかかわってくる出来事をピックアップしていくと以下のようになるかと思います。

 

① 冷戦構造の形成期(~1950年代前半)

・チャーチルの「鉄のカーテン」演説(1946

・トルーマン=ドクトリンと対ソ「封じ込め政策」(1947

・マーシャル=プラン(1947

・チェコスロヴァキアクーデタ(1948.2)と西ヨーロッパ連合条約(1948.3

 

→ドイツ西側占領地域の通貨改革とソ連によるベルリン封鎖(1948.6

:東西の緊張関係は、当時四か国による分割占領中だったドイツにも影響を与えます。

 

→ソ連と中国によるベトナム民主共和国(北ベトナム)支援と、フランスによるベトナム国建設

:元々は宗主国フランスからの独立闘争であったインドシナ戦争(1946~)にも、東西冷戦構造の形成が影響を与え、ホー=チ=ミンの率いるベトナム民主共和国の側をソ連ならびに成立したばかりの中華人民共和国が支援します。一方、ドミノ理論に基づくアジアの共産化を恐れたアメリカは1950年代初めに相次いで反共同盟を成立させ、防共圏の形成を進めます。(1954、東南アジア条約機構[SEATO]など。)

 

② スターリン批判と雪解け(1950年代後半)

・ソ連のスターリン批判

・フルシチョフの平和共存路線

・ジュネーヴ会議(1954

 

→インドシナ戦争の終結と北緯17度線を境とする南北ベトナムの分断

1953年にスターリンが亡くなったのち、ソ連では1956年にスターリン批判がおこなわれ、当時の指導者フルシチョフの下で平和共存路線が打ち出されました。これに先立ち、1954年にスイスのジュネーヴで開かれたインドシナ問題を話し合う会議(ジュネーヴ会議)では、北ベトナムが当時圧倒的に優勢で国土の大部分を掌握していたため、北緯17度線の軍事境界線設定に難色を示していたものの、スターリンの死により外交方針を転換させつつあったソ連政府の説得によって最終的には軍事境界線の設定に合意し、南北ベトナムは北緯17度線で分断されました。ですが、この段階では一定の準備期間を経て1956年に南北ベトナム統一のための自由選挙が行われる予定であり、南北ベトナムの分断は決定的なものではありませんでした。南北の分断が決定的になるのは、南ベトナムにおいてそれまでのベトナム国の元首バオ=ダイを追放して成立したベトナム共和国のゴ=ディン=ディエム大統領が北ベトナムとの統一のための自由選挙を無視し、これをフランスに代わってアメリカが支援したことによるものでした。

 

③ 再緊張と危機(1960年代前半から後半にかけて)

U-2機撃墜事件(1960)と米ソの再緊張

:スターリン批判以降、改善されつつあったアメリカとの「雪解け」ムードはアメリカのU-2偵察機がソ連に撃墜された事件をきっかけに急速に冷え込みます。その後、1962年にはキューバ危機(1962)が発生し、核戦争の危機に直面するなど、1960年代前半を通して世界は危機の時代を迎えます。

 

→ベルリンの壁建設(1961

:直接の原因は東西の経済格差と東ドイツからの市民流出ですが、上記のように当時が東西の緊張関係が高まっていた時期であったことには注意する必要があります。

 

→ベトナム戦争の開始(1960~)とアメリカの本格介入(1965~)

:同様の時期に、ベトナムでは南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成されます(1960年)。これを北ベトナムや共産主義諸国が支援し、一方で南ベトナム(ベトナム共和興)をアメリカのケネディ政権が支援することになりますが、ジョンソン大統領の時代に入って発生したトンキン湾事件(1964)とその翌年の北爆(1965)を機にアメリカ軍が本格的に介入を進めます。

 

④ デタント(緊張緩和:1960年代末~1979年)

:デタントへと至った要因は複数ありました。たとえば、1960年代の中ソ対立の激化、ソ連経済の停滞、ベトナム戦争の長期化・泥沼化と反戦運動などです。こうした中で、アメリカ側はベトナム戦争の解決とソ連への牽制を狙った対中接近をキッシンジャーとニクソンが進めますし、米・中を敵に回すことを避けたいソ連も一定の妥協を強いられます。こうした状況下で大きく東西の関係をデタントへと導いたのが西ドイツの首相ブラントによる東方外交でした。

 

→西ドイツのブラントの東方外交(1970~)

:ソ連=西ドイツ武力不行使条約(1970)、西ドイツ=ポーランド国交正常化条約とポーランド国境問題の解決(1970)、東西ドイツ基本条約(1972)と東西ドイツの国連同時加盟(1973)などが進められました。

 

→パリ協定(1973)による米軍のベトナム戦争からの撤退

:すでに選挙時からベトナム戦争の「ベトナム化」を主張して戦線の縮小を図っていたニクソン政権は、米中接近を通して北ベトナムに圧力をかけ、最終的にはパリ協定によって泥沼化していたベトナム戦争からの離脱に成功します。その後、米国の再介入を警戒していた北ベトナム政府は、再介入はないと判断すると1975年から南に対する大攻勢に出て首都サイゴンを陥落させ、ベトナム戦争は北ベトナムの勝利で終結し、1976年にベトナム社会主義共和国として統一されました。

 

⑥ ゴルバチョフ就任後の共産圏の改革と冷戦の終結(19851989

:ゴルバチョフのペレストロイカは、ソ連国内にとどまらず、それまでソ連が主導権を握ってきた共産諸国全体に対しても、その自主性を認め、自由化を容認するものでした。特に、1988年の新ベオグラード宣言では、ゴルバチョフはブレジネフによる制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン:1968年のプラハの春におけるソ連の介入に際してブレジネフが表明した考え方で、共産圏全体の維持のためには一国の主権は制限されうるという考え方)を撤回し、ソ連は東欧諸国に関与しないことを明確に示しました。これにより、ソ連の介入の恐れが亡くなった東欧諸国では急速に自由化と民主化が進展し、1989年の東欧革命へとつながっていきます。

 

→ベルリンの壁崩壊(1989)とドイツの統一(1990

:上記の通り、ゴルバチョフ就任による共産圏の変化の中で、東ドイツは西側へと亡命する市民の流出を防ぐことができず、最終的にはベルリンの壁崩壊とドイツ統一へとつながっていきます。

 

→ドイモイと市場経済の導入

:すでに統合後のことになるので本設問では書く必要のないことではありますが、ベトナムでも1970年代から1980年代にかけての共産圏の停滞の中で、他の共産主義諸国同様に市場経済の導入が図られ、1986年からドイモイ(刷新)と呼ばれる市場経済の導入政策が進められていきます。

 

【解答例(オリジナル)】

トルーマンがギリシア・トルコ支援と対ソ封じ込め政策を表明し、マーシャル=プランによる欧州復興計画が示されると東西対立は深まった。分割統治下にあった独の西側占領地域で通貨改革が断行されるとソ連はベルリン封鎖で対抗し、翌年には西にドイツ連邦共和国、東にドイツ民主共和国が成立した。ベトナムではホー=チ=ミン率いるベトナム民主共和国が仏とインドシナ戦争を戦い、ディエンビエンフーで勝利したものの、平和共存を企図するフルシチョフの意向を受けたジュネーヴ会議の決定で、北緯17度線を境に南北が分断された。U-2機撃墜で米ソの緊張が再度高まると、東独は亡命者を防ぐベルリンの壁を築いた。また、南ベトナム解放民族戦線と戦うベトナム共和国政府支援のため、トンキン湾事件を口実に米が北爆を開始しベトナム戦争に本格介入すると、ベトナムでも分断が深まった。しかし、ニクソンが中国に接近してベトナム戦争からの離脱を図り、パリ協定により軍を完全撤退させると、北ベトナムはサイゴンを陥落させて南北を統一し、ベトナム社会主義共和国を成立させた。また、西独のブラントによる東方外交から東西ドイツ基本法が制定され、欧州でもデタントが進んだ。さらに1980年代半ばにゴルバチョフがペレストロイカを打ち出し、新ベオグラード宣言で東欧諸国の自主性尊重を示すと、急速に東欧の自由化が進み、ベルリンの壁崩壊を機にコール首相の下で東西ドイツも統一された。(600字)

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 2002年の東大の大論述は、19世紀から20世紀にかけて海外に移住した中国系移民が増加した背景と、移住した人々の本国への政治的影響を問う設問でした。ちょうどこの21世紀に入る頃から、冷戦後の世界は冷戦終結直後に人々が思い描いたようなバラ色の平和な世界ではなく、民族紛争をはじめとして新たな諸問題に直面する時期なのだということがはっきりと意識され、それにともなって、民族問題のほかにこの移民・ディアスポラの問題が歴史学や社会学の分野でクローズアップされるようになったように思います。(もちろん、それ以前から研究はされていました。実際、私のエディンバラでのお師匠さんは移民史が専門の一つでした。ただ、一種の「トレンド」になって研究者の話題やメディアに登場する機会が増加してきたのは、ちょうど世紀の移り変わりの時期であったように思います。) 

さらに、2001年はいわゆる「9.11」の同時多発テロが発生した年でもありますので、その傾向はこれ以降加速したように思います。そうした影響か、最近では教科書や参考書、あるいは教員の意識なども「移民」というテーマには敏感になってきているので、おそらく現在の受験生でしっかりとした世界史の勉強をしてきた人がこちらの設問に取り組む場合、もちろん難しくはあるのでしょうが「さっぱりわからない」という感想を抱くことはあまりないはずです。ですが、2002年時点の受験生にとってこちらの設問はかなり解くのに苦労した設問だったのではないかと思います。後述しますが、指定語句からだけではストーリーを明確に描くことができないため、自分自身の知識と力である程度のストーリーや大枠を作ることが必要になるのですが、当時の受験生でこうしたストーリーを作れた人は稀だったのではないかと感じます。同一の問題でも出題された時期や解く人間によって難易度が変化する一つの良い例ではないでしょうか。

 

【1、設問内容確認】

・時期:19世紀から20世紀はじめ(1801-190?

・中国からの移民が南北アメリカで急増した背景

・中国からの移民が東南アジアで急増した背景

・海外移住者が中国本国の政治的動きにどのように影響を与えたのか
・15行以内(450字)
・指定語句
 植民地奴隷制の廃止 / サトウキビ・プランテーション / ゴールド・ラッシュ / 海禁 / アヘン戦争 / 海峡植民地 / 利権回収運動 / 孫文

 

:「はじめ」という表現はいささかアバウトです。「前半」であれば50年なのですが、「はじめ」といった場合、どこまでなのかはっきりしません。ただ、1950年により近くなる1930年代や40年代まで入るとすれば、「前半」や「半ば」といった表現が妥当となりますので、長くとも20年代に入るか入らないかくらいまでと考えてよいでしょう。指定語句に「孫文」があることや「中国本国の政治的動き」などが設問に示されていることから、おそらく辛亥革命の前後あたりまでになるかと想定しておくとよいかと思います。

 

【2、整理(移民のpush要因とpull要因を意識する)】

:さて、指定語句自体には時系列をはっきり示すものやストーリーを示すものはあまりありません。やや散文的といってよい指定語句ですから、指定語句をベースにしただけでは全体像はつかみにくいかと思います。そこで、ここでは南北アメリカならびに東南アジアへ移民が増えた原因として、移民側が中国から移住したがった理由(Push要因)と、移住先が移民をひきつけた理由(Pull要因)に分けて検討してみるのが良いかと思います。

 

① 共通の背景

・アヘン戦争後の開国(海禁の崩壊)と中国人の海外渡航の自由化

・アヘン戦争後の政情不安や経済混乱

・買弁をはじめとするブローカーによる移民契約

 

:清の海禁は、基本的には鄭氏台湾の平定された翌年に遷海令が解除されたことでなくなりましたが、民間人の海外渡航は厳重に管理されており、渡航する乗員の身元や数、渡航期間などはチェックされ、自由に海外に渡航できたわけではありませんでした。また、18世紀には人口流出を防ぐ目的から東南アジアへの渡航が禁止(南洋海禁)され、ヨーロッパとの交易も乾隆帝の時代に広州一港に限定されました。しかし、アヘン戦争とその講和条約である南京条約で5港が開かれたことで、中国人の海外渡航を阻む制限は実質的になくなりました。(清政府は中国人の海外移住を禁止していましたが、南京条約、虎門寨追加条約、望厦条約、黄埔条約などで欧米の諸特権が認められ、特に領事裁判権が承認されたことで、外国商人が中国人を拐かす行為を取り締まることは難しくなりました。)

南京条約の開港場

(赤い文字が開港場、青い文字の香港は割譲地)

 

また、アヘン戦争後には江南で太平天国の乱、華北では捻軍の乱が発生するなど政情不安が続き、さらに1856年にはアロー戦争が開始されます。こうした政情不安が続く中で当然経済も混乱し、生活苦にあえぐ農民たちは外国商人によって表向きは自由契約の契約移民などとして、労働力とされるために海外へと移住していきました。こうした苦力貿易には、ラッセル商会などの外国商人や、外国商人の手助けをする買弁とよばれる中国人商人の存在がありました。当時の苦力貿易が必ずしも「自由」契約でなかったことは、1852年に発生したロバート=バウン号事件(中国人を運ぶアメリカの奴隷貿易船で虐待された中国人が反乱を起こして石垣島に漂着した事件)や、1872年のマリア=ルス号事件(横浜に停泊中のペルー船マリア=ルス号から奴隷扱いされた中国人が逃亡し、日本側に保護された事件)などからもうかがい知ることができます。

OE_Taku

(マリア=ルス号事件で裁判長として清国人232名を解放した大江卓[Wikipediaより]

 

② 南北アメリカで急増した背景

(北アメリカ)

 ・ゴールドラッシュ

 ・南北戦争と奴隷制廃止

 ・南北戦争後の急速な経済発展と安価な労働力の需要

 

(カリブ海)

 ・英領植民地における奴隷制廃止

 ・サトウキビ=プランテーションにおける労働力不足

 

(南アメリカ)

 ・ラテンアメリカ諸国の独立と奴隷制の廃止

 ・鉱山やプランテーションの労働者として(ex.ボリビアの鉱山労働者など)

 

:北米のゴールド=ラッシュや大陸横断鉄道建設に際して、クーリー(苦力)の労働力としての需要が高まったことは世界史の教科書や参考書等でもよく言及されておりますので、そのあたりについては基本事項かと思いますが、設問では北米だけではなく「南北アメリカ」となっておりますので、北米の事情だけを書いたのでは不十分です。そのため、当然南アメリカ(または、この場合当然中米も含むと考えるのが妥当かと思いますので、中南米)の状況についても言及しなければならないのですが、意外に19世紀の中南米の状況について言及している教科書や参考書がないのですね。ですから、この部分についてはある程度の根拠に基づいた類推で書くことが必要になるかと思います。事実から言えば、イギリスが1807年に奴隷貿易を廃止し、1833年に奴隷制度を完全廃止したことにともない、カリブ海における英領植民地でも奴隷制度が廃止されます。その結果、ジャマイカをはじめとするサトウキビ=プランテーションの労働力としてアジア系労働者の数が増えていきます。また、ラテンアメリカ諸国でも、1888年まで奴隷制を継続するブラジルなどを除いて、多くの国で奴隷制が廃止されます。その結果、鉱山やプランテーションの労働力として中国人労働者が連れてこられるようになります。上述したマリア=ルス号事件の船もペルー船籍でした。(

この事件は日本政府が国際裁判の当事者となった初めての事例と言われており、ペルー政府との間で争われましたが、最終的にはロシア皇帝アレクサンドル2世の仲介による国際仲裁裁判が開催され、日本側の措置を妥当とする採決が下されました。)

 

③ 東南アジアで急増した理由

(英領植民地:海峡植民地から発展しつつあったマレー連合州[1895]

 ・植民地経営(錫やゴム)

 ・華僑資本の進出

 

(オランダ領東インド[インドネシア]

 ・植民地経営への転換

1830以降の強制栽培制度

19世紀後半にはプランテーション経営へ[コーヒー、サトウキビ、藍など]

 

(その他)

 ・米領(旧スペイン領)フィリピン、仏領インドシナなど

 

:東南アジアについても、世界史の教科書などでクーリーなどの移住について直接言及している箇所はほとんどないですが、これらの地域についてはマレー半島の英領植民地や、オランダ領東インドなど、プランテーションや鉱山採掘などの植民地経営がなされている地域がたくさんありますので、それらの地域の実態を書きつつ、移民が増加したことを指摘してあげればよいでしょう。特に、英領マレーの錫鉱山やゴムのプランテーションと、複合社会(イギリス人、中国人、インド人、マレージン)の形成や、蘭領東インド(ジャワ島)の強制栽培制度[政府栽培制度]からプランテーション経営への転換などは重要です。

注意しておきたいこととしては、ジャワ島でファン=デン=ボスが導入したとされる強制栽培制度は、「現地住民に指定の農作物(コーヒー、サトウキビ、藍など)を強制的に栽培させ、植民地政府が独占的に買い上げる」制度で、ここにクーリーの入りこむ余地は基本的にはありません。(実態面では、半ばプランテーション化した地域などへの移住者等はいたかと思いますが。)栽培の強制のされ方自体にはいろいろな形態があったようですが、おおよそ村落ごとに5分の1程度までの耕地がこれら商品作物の栽培のために利用されたと考えてよいようです。この制度は商品作物を安価に仕入れて転売することができたオランダ当局に大きな利益をもたらしはしましたが、非効率的で、かつ現地の食糧事情などを考慮せずに実施したことがもとで飢饉などを引き起こしたことから批判が高まり、1870年代には廃止され、新たに私企業がプランテーションを経営する方式に切り替えられていきます。実際には、この変化は1870年代に急に進んだのではなく、すでにそれ以前から徐々に進んでいた変化であろうとは思いますが、形式上は、プランテーション経営への切り替えがあって初めて中国からの労働力供給が問題となりますので、「強制栽培制度により中国人移民が増加した」と書くのは避けて、「強制栽培制度に代わりプランテーション経営がなされた結果、中国人労働者の需要が増した」とする方が、理屈の上ではすっきりします。

また、マレーやジャワ以外の地域でということであれば、フィリピンやフランス領インドシナを想定するとよいかと思います。

 

④ 海外移住者の中国本国の政治的動きに対する影響

:この設問の一番の問題点がこの部分かと思います。出題者が意図しているのかどうかはわからないのですが、「海外に移住した中国の人々」は全く同じような立場だったわけではありません。当時、海外に移住していた中国人は大きく分ければ以下のように分類できるかと思います。

 

A、設問の指定時期以前からの海外移住者(南宋以降の南洋華僑[12-16世紀]

cf.) 「南洋」とは、浙江省以南の福建省や広東省を指す

(華北の北洋[遼東・直隷・山東]に対する語)

B、19世紀以降クーリー(労働者)として渡航したもの

C、19世紀以降海外(特に東南アジア)に進出した中国資本

 

これらのうち、Aについては、地縁、血縁を利用した交易活動に早くから従事していました。しかし、清朝の時代に入ると海禁が厳格化されたために対立の原因となり、反清傾向を強めていきます。本設問の「海外に移住した人々」がこれらの人々を含むかという問題ですが、その直前に「19世紀から20世紀はじめに中国からの移民が南北アメリカや東南アジアで急増した背景には」とありありますので、時期的に「含まない」と考えるのが妥当でしょう。

一方、Cはいわゆる民族資本家として成長していきます。通常、民族資本家とはその土地に住む土着資本のことを指しますが、この時期に東南アジアに移住した華僑については、完全に本国との関係を断つのではなく、本国にも多くの血縁、地縁に基づき密接な関係を残している資本家が多いため、民族資本家と表現しても差し支えはないかと思います。民族資本家と表現するのが気持ち悪い場合には「華僑」の語を用いても良いかと思いますが、上記のようにひとことで「華僑」と言っても、その内容は一様でないことには注意を払うべきでしょう。

さて、AやCは移住してきたBを吸収して現地社会におけるコミュニティを強化し、影響力を拡大していきます。AもCも経済活動の自由を求め、また当時の清の方針と対立していたことから様々な形で反清運動や反植民地運動に協力することになります。こうした中で、資金面や人的資源の面などから、孫文の率いる革命運動の支援や中国における利権回収運動などを支援していくことになります。これが、辛亥革命(1911)へとつながっていくことになります。

 また、「海外に移住した人々」は商売を目的としたり、労働力として移住した人々以外にも、日本などに留学した留学生が多数おりました。1905年に科挙制度が廃止されたこともあり、清では西欧式の教育を導入するとともに留学を奨励しました。1900年代の清国では日本に留学する人々があとを絶たず、辛亥革命直前には数万人が日本で留学していたとされています。こうした留学生の多くは、留学先で新しい思想に触れる中で革命思想に傾倒する人が増えていきます。中国同盟会成立時には、その会員の大部分が日本で学ぶ留学生でした。孫文だけでなく、華興会を作って中国同盟会に合流した黄興、後の国民党指導者である宋教仁、国民党左派として後に蒋介石と対立する汪兆銘など、辛亥革命に際して重要な役割を果たした指導者の多くは日本への留学経験者でした。ですから、海外に移住した人々が本国の政治に与えた影響としては、以下の2点を中心に具体例を交えて書けば良いかと思います。

 

・華僑による革命運動支援

:資金面、人脈面での革命組織支援、利権回収運動などへの資金提供

・留学生による革命運動の指導

:孫文による中国同盟会結成(1905)など

 

【解答例】

 アヘン戦争後の海禁崩壊で中国人の海外渡航が可能となり、太平天国の乱やアロー戦争で政治と経済の混乱が続き、買弁などの仲介者が移民契約を進めたことから、海外渡航者数が増加した。北米のゴールド・ラッシュ、南北戦争後の奴隷制廃止と急速な経済発展、大陸横断鉄道敷設などはクーリーと呼ばれた中国人労働者をひきつけた。中南米の旧スペイン領やカリブ海の英領植民地奴隷制の廃止によりサトウキビ・プランテーションや鉱山労働者の需要が増加した。東南アジアでも、当初強制栽培制度を実施したオランダが19世紀後半からコーヒー、サトウキビ、藍などのプランテーション経営に切り替えたことや、海峡植民地から発展したマレーの英領植民地でゴム栽培や錫採掘の進展したことから、増加した中国人労働者をすでに同地に居住していた南洋華僑が組み込みコミュニティを形成した。光緒新政が進む中で留学生も日本などに移住した。成長した華僑や留学生は、啓蒙運動や利権回収運動などを支援し、孫文の中国同盟会結成などの革命運動の力となり、辛亥革命の一因となった。(450字)

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2001年東大の問題は、エジプト5000年の歴史をわずか540字で書け、という設問でした。最近はあまり見ていませんが、東大は時々こうした「ある特定の地域の歴史的発展」について書きなさいという設問を出題していました。たとえば、1995年の「ローマ帝国成立からビザンツ帝国滅亡までの地中海世界」や1999年に出題された「紀元前3世紀~紀元15世紀にかけてのイベリア半島史」などがあります。また、少し毛並みは違いますが、イスラーム世界をテーマにかなり長い期間を設定してその歴史的展開を問う設問などもたびたび出題されています。

注意しておきたい点は、これらの設問のどれもが「世界史的視点」からその歴史的発展を問うものであって、ある特定の地域がテーマとなっているからと言って決して一国史的な視点から問われているものではない、ということです。本設問でも、周辺の政治勢力との関係が非常に重要な視点であることが明確に示されており、広域にわたって諸文明や異なる民族同士が交流や対立を繰り広げる中で、どのように歴史が展開されてきたのかという世界史のダイナミズムを問う東大の出題スタンスについては、近年の出題と比較しても大きなブレはありません。

エジプト史は、高校世界史でも比較的情報量が多い分野で、かつ複数の民族が入り交じる地理的な要地でもあります。ですから、相当に情報の取捨選択を行わないと、5000年の歴史的展開をわずか540字でまとめることは不可能だと思います。幸い、設問は「政治勢力の侵入」に対してエジプト側がどのような対処をしたのかと、テーマをかなり限定してきていますので、経済・社会・文化史的要素はかなりの部分省略することができます(政治的勢力の変遷にかかわる部分はその限りではありませんが)が、それでも、何がテーマとなっているのかを見落とすとただの情報の羅列になってしまったり、的外れな解答を書き上げてしまう危険性がありますので、論述を書き始める前に全体像をある程度は見定めておきたい設問かと思います。

 

【1、設問確認】

・エジプト文明発祥以来の歴史的展開を概観せよ

・エジプトに到来した政治勢力の関心や進出にいたった背景を考慮せよ

・進出をうけたエジプト側がとった政策や行動を考慮せよ

・指定語句(一度は用いて下線を付せ)

:アクティウムの海戦 / イスラム教 / オスマン帝国 / サラディン / ナイル川 / ナセル / ナポレオン / ムハンマド・アリー

18行(540字)以内

 

(ヒント)

・エジプトに到来した政治勢力=エジプトに深い刻印を残した勢力

 

【2、指定語句の整理(時代的な)】

:冒頭でもご紹介した通り、エジプト5000年の歴史をイチから全て描き出すことは容易ではありません。そこで、本設問については、指定語句をヒントにしてこれらを整序し、おおよその流れを組み立てた上で、どの分が抜けているかを検討するという方法が一番時間的なロスも少なく解答を仕上げられるのではないかと思います。時代順に並べ替えてみると、おおよそ以下のような形になるのではないでしょうか。

東大2001_エジプト史整理 - コピー

さて、この表を見てみると、次の①~⑤の点に気づきます。

 

①紀元前がすっぽり抜け落ちていること【重要】

②ローマ帝国~イスラームによる占領までが抜け落ちていること

③オスマン帝国によるマムルーク朝滅亡からナポレオンのエジプト遠征までが抜けていること

④近現代史がやや手厚いこと【わりと重要】

⑤ナセル以降のエジプト現代史が抜けていること(ただし、出題は2001年当時)

 

以上の点を考慮すると、大まかではありますが時代的なくくりは以下のようなものが必要になります。

 

A、エジプトの文明発祥~プトレマイオス朝の滅亡まで

B、ローマ帝国支配下~イスラームによる占領まで

C、イスラームによる占領~アイユーブ朝・マムルーク朝の統治まで

D、オスマン帝国による占領~ナポレオンのエジプト遠征まで

E、ムハンマド=アリーの自立~イギリスによる植民地化(保護国化)まで

F、イギリス支配~独立運動やナセルによるスエズ運河国有化まで

G、ナセル以降

 

そこで、次の手順ではこの抜けている箇所も含めて時代順に何を書くべきか、情報の取捨選択について検討していきたいと思います。

 

【3、時代ごとに書くべき内容を検討】

(A、エジプトの文明発祥~プトレマイオス朝の滅亡まで)

:この時期のエジプトについての大きな流れは「文明発祥」→「古王国・中王国・新王国」→「海の民の侵入」→「アッシリアによるオリエント統一」→「四国分立(メディア・リディア・新バビロニア・エジプト)→「アケメネス朝によるエジプト征服」→「アレクサンドロスの遠征」→「ヘレニズム時代とプトレマイオス朝」となります。東大受験を目指すのであれば、できればこれくらいの流れは頭の中で出せるようにはしておきたいところです。全部が難しくても8割くらいは思い浮かべられるようにしておくべきかと思います。

もっとも、これらをただ並べればよい、ということではなく、外部の政治勢力の関心や進出に注目してまとめるとすれば、以下のような内容になるでしょう。

 

① ナイルの恵みによる文明の発生

cf.)「エジプトはナイルの賜物」(ヘロドトス)

② 古代王朝の発生 

cf.) 都市国家(ノモス)の統一、ファラオ

③ ヒクソスの侵入 

cf.) 中王国の末期、騎馬と戦車を伝える

④ 新王国とヒッタイトの抗争 

cf.) カデシュの戦い、鉄器

⑤ 海の民の侵入

⑥ クシュ王国の侵入 

cf.) ヌビア(スーダン)の黒人王国、第25王朝

⑦ アッシリアのオリエント統一

⑧ アケメネス朝のエジプト征服 

cf.) カンビュセス2

⑨ アレクサンドロスの遠征 

cf.) アレクサンドリアの建設

⑩ プトレマイオス朝 

cf.) ヘレニズム文化、ムセイオン

⑪ ローマ(オクタウィアヌス)によるプトレマイオス朝の滅亡

cf.) アクティウムの海戦

 

(B、ローマ帝国支配下~イスラームによる占領まで)

:オクタウィアヌス(アウグストゥス)以降、エジプトはローマの属州となります。ここでおさえておきたいことは、エジプトが重要な穀倉地帯(小麦の生産地)となっていくことです。その後、395年にローマは東西に分裂しますが、その頃にはすでにローマ帝国の中心地は西のローマから東のコンスタンティノープルにうつっていました。476年に西ローマ帝国はオドアケルに滅ぼされますが、エジプトはそのまま東ローマ帝国の統治下にとどまります。この時代に書くべきことは、以下のような内容で十分でしょう。

 

① ローマ(オクタウィアヌス)によるプトレマイオス朝滅亡とヘレニズム時代の終焉

cf.) アクティウムの海戦、クレオパトラ

② ローマの属州

cf.) 穀倉地帯化(小麦の生産地)

③ 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下

 

(C、イスラームによる占領~アイユーブ朝・マムルーク朝の統治まで)

:エジプトに新たな支配者がやってくるのは7世紀の正統カリフ時代で、第2代ウマルの時にエジプトはアラブ人たちイスラーム勢力に占領されました。イスラーム勢力はジハードに際して各地に軍営都市(ミスル)を築きましたが、そのうちの一つがフスタート(後のカイロ)です。

その後、エジプトの支配者はウマイヤ朝、アッバース朝、さらにアッバース朝から一時独立したトゥールーン朝と続きますが、カイロを中心としたその後のエジプト支配の基礎が築き上げられるのはファーティマ朝がエジプトに侵入してからのことです。シーア派を信奉していたファーティマ朝は、自王朝の正当性を確保するためにカイロにアズハル学院を建設します。しかし、ファーティマ朝が11世紀頃から衰退を始めると、かわってスンナ派のアイユーブ朝がエジプトの支配者となります。この頃、その世界を膨張させ始めていた西ヨーロッパは第3回十字軍を派遣しますが、これはアイユーブ朝を建てたサラディンによって撃退されました。その後、アイユーブ朝からマムルーク朝へと王朝が引き継がれる頃にイル=ハン国のフラグ率いるモンゴル勢力がシリア、パレスティナあたりまで迫りますが、これをアイン=ジャールートの戦い(1260)で退け、その後はモンゴルを撃退した5代スルタンのバイバルスの下でまとめられていきます。アイユーブ朝、マムルーク朝の頃にはカイロを拠点として紅海からインド洋にかけて交易したムスリムのカーリミー商人たちが保護され、彼らはこの頃からエジプトの特産となった砂糖(サトウキビ)などを交易品として扱い、カイロはアッバース朝時代のバグダードに代わって政治・経済・文化の中心地となっていきます。また、彼らが扱う東方からの香辛料や絹織物、陶磁器などは北イタリア商人たちの東方貿易によってヨーロッパにももたらされました。

 

① イスラームによる占領

cf.) 正統カリフ時代(ウマル)、フスタートの建設

② カイロの繁栄

cf.) ファーティマ朝(シーア派)、アズハル学院、バグダードにかわる中心地

③ アイユーブ朝、マムルーク朝

cf.1) 第3回十字軍の撃退、アイユーブ朝(サラディン)、スンナ派

cf.2) モンゴルの撃退(ただし、モンゴルはエジプトまでは到達していない)

cf.3) カーリミー商人の活躍とカイロの繁栄、サトウキビの栽培、東方貿易

 

(D、オスマン帝国による占領~ナポレオンのエジプト遠征まで)

:マムルーク朝は16世紀の初めにオスマン帝国のセリム1世によって滅ぼされます。その後、エジプトはオスマン帝国の支配下に入ることになり、この地にはエジプト総督が置かれました。18世紀に入り、オスマン帝国の衰退がすすむ中で地方の自立が進みつつありました。こうした中で18世紀末に発生したナポレオンによるエジプト遠征はエジプト人の民族意識を刺激することになります。

 

① セリム1世によるマムルーク朝滅亡とオスマン帝国支配

② ナポレオンのエジプト遠征とエジプト民族意識の覚醒

 

(E、ムハンマド=アリーの自立~イギリスによる植民地化[保護国化]まで)

:ナポレオンのエジプト遠征が起こったころ、アルバニア人の傭兵隊長としてこれに対処して台頭したムハンマド=アリーは、カイロ市民の支持を背景に1805年にエジプト総督の地位につくと、独自の近代化策を打ち出します。それまでエジプトの統治を担っていたマムルークの一掃に成功した彼は、アラビア半島のワッハーブ王国を滅ぼし、スーダンにも遠征するなど、その勢力を拡大しました。ギリシア独立戦争ではオスマン帝国側について戦いましたが、その見返りとしてシリアを要求し、一時は支配下に入れるなど独立傾向を強め、最終的には第二次エジプト=トルコ戦争後のロンドン会議でエジプトとスーダンの総督世襲権を手に入れてオスマン帝国から独立し、ムハンマド=アリー朝が開かれました。

 その後、領内の近代化やインフラ整備が進み、フランスのレセップスの提案と支援により1869年にスエズ運河も開通しますが、こうした開発のためには外国資本が導入され、外債が積みあがっていきました。1860年代はアメリカの南北戦争の影響で綿花価格の乱高下など、コモディティの国際価格は不安定で、小麦、綿花、砂糖といった一次産品に依存する形の経済であったエジプトは、同様の経済体制であったオスマン帝国とともに1870年代に財政破綻します。この結果、1875年にイギリスはスエズ運河会社株を買収することに成功し、エジプトに対するイギリスの経済進出が進んでいくことになりました。

 

① ナポレオンのエジプト遠征とエジプトの民族意識の覚醒

② ムハンマド=アリーの台頭と自立化

③ エジプト=トルコ戦争とムハンマド=アリー朝の開始

④ スエズ運河の開通

⑤ 英によるスエズ運河会社株買収とエジプトの財政破綻

 

(F、イギリス支配~独立運動やナセルによるスエズ運河国有化まで)

:イギリスの経済支配が進むと、これに抵抗するエジプト人の民族運動が高まります。その結果、エジプトでは「エジプト人のためのエジプト」を掲げるウラービーの反乱(18811882)が発生しますが、これはイギリスによって鎮圧され、エジプトにイギリス軍が展開した結果、エジプトは事実上イギリスの保護国となりました。同時期には、スーダンでマフディーの乱(18811899)が発生していますが、本設問の対象は「エジプト」ですから、本設問では書かなくても良いかと思います。

 その後、第一次世界大戦の終わるころからエジプトではワフド党の民族運動が展開されます。こうした運動に対して、イギリスは1922年には条件付きでエジプトの独立を認め、1936年にはエジプトの完全主権を認めるエジプト=イギリス同盟条約を締結するなど、段階的なエジプトの独立を認めつつ、スエズ運河ならびにスーダンの駐兵権を維持して実利を維持しようと試みました。

1024px-Cairo-Demonstrations1919

Wikipedia「エジプト革命(1919年)」より、カイロでのデモ行動)

 

第二次世界大戦中にも、エジプトは基本的にはイギリスの拠点として機能しましたが、戦後のパレスティナ戦争(第一次中東戦争)でのアラブ諸国のイスラエルに対する敗北が強い衝撃となって、旧態依然とした王政に対する批判が高まり、エジプトではナギブ、ナセルらの率いる自由将校団によるエジプト革命が発生します。その後、ナギブとの関係が悪化したナセルはナギブを失脚させて軟禁し、ナセルが首相、次いで大統領に就任します。大統領に就任したナセルは、かねてから計画されていたアスワン=ハイ=ダムの建設費用のための融資が撤回された(イスラエルとの対立に加えて、当時、非同盟主義にたって第三勢力の一角となりつつあったエジプトは、武器供与に関する問題で西側諸国の一部と対立していた)ことをきっかけに、スエズ運河の国有化宣言を行いました。これを契機として発生したスエズ戦争(第二次中東戦争、1956-57)では、英・仏・イスラエルがエジプトを攻撃したものの、国際世論の批判に加えてソ連の介入と強硬姿勢を危惧したアメリカのアイゼンハウアーが国連を介して英・仏・イスラエルを批判して撤退を迫ったため、三国は撤退します。これによりスエズ運河国有化を実現して実質的勝利を収めたナセルの声望は増し、ナセルを中心とするアラブ民族主義の高揚がこのしばらく続くことになります。

 

① ウラービーの反乱

cf.) 「エジプト人のためのエジプト」、事実上の保護国化、マフディーの乱

② ワフド党の民族運動と段階的独立

cf.) 条件付き独立(1922)、エジプト=イギリス同盟条約(1936

cf.) ムスリム同胞団

③ 英のスエズ運河利権確保

④ 第1次中東戦争とエジプト革命

cf.) ナギブ、ナセル、自由将校団

⑤ ナセルのスエズ運河国有化と第2次中東戦争

cf.) アラブ民族主義の高揚

 

(G、ナセル以降)

:ナセルを中心に高まったアラブ民族主義でしたが、早くも1960年代には挫折に直面することになります。ナセルは、1958年にシリアと合同してアラブ連合共和国を成立させましたが、エジプト寄りの政策に失望したシリアが1961年にはこれを離脱し、合同は解消されていきます。また、1967年に発生した第3次中東戦争ではイスラエルの奇襲に敗れ、シナイ半島を失うなど、その領土を大きく減らすことになり、ナセルの名声は失墜します。

 ナセル死後、シナイ半島奪還を目指したサダト大統領でしたが、1973年の第4次中東戦争でもこれを果たせず、うち続く戦争によりエジプトの経済は疲弊しました。これを解決するためにサダトはアメリカへの接近と、それを通した外交交渉によるシナイ半島の回復を考えます。最終的にはアメリカのカーター大統領の仲介により、1978年のキャンプ=デーヴィッド合意がサダトとイスラエルのベギン首相との間でなされ、これに基づいて翌1979年にエジプト=イスラエル平和条約が締結されてシナイ半島の返還が約束され、順次返還されました。サダトは、この条約に反発したイスラーム主義組織によって暗殺されますが、その後成立したムバラク政権でも、アメリカ、イスラエル寄りの外交政策は維持されることになります。

 

【キャンプ=デーヴィッド合意の後、記者会見を行うカーター、サダト、ベギン(Wikipedia「キャンプ=デーヴィッド合意」より)】

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?title=File%3APresident_Carter%27s_Remarks_on_Joint_Statement_at_Camp_David_Summit_(September_17%2C_1978)_Jimmy_Carter.ogv

 

 さて、本設問がもし現在(2021年時点)で出題されたとしたなら、かつ字数が現在の東大で出題されるように600字の論述であるならば、ムバラク政権下で発生したアラブの春あたりまでを視野に入れた解答作りをする必要があるかと思います。ですが、本設問が出題されたのは2001ですので、書いてもエジプト=イスラエル平和条約あたりまでを想定しておけば良いかと思います。外部の政治勢力の進出について書くことが想定されていること、シナイ半島を奪われたことなどを考えれば、できれば第3次中東戦争には言及しておきたいところで、ナセルのスエズ運河国有化で終わるのはどうかなぁ、と思います。ただ、いかんせん字数が540字とかなりタイトなので(もっとも、この年はそれまでと比べてやや増量されているのですが)、情報の取捨選択によってはスエズ運河国有化で終わってしまってもやむなし、という気もします。大切なことは満点解答を作成することではなく、合格点に至る解答を作成することですから、各自の状況に応じて検討し、必要な点数を確保しに行くべきかと思います。

 

① アラブ民族主義の高揚と衰退

cf.) アラブ連合共和国、第3次中東戦争

② 第3次中東戦争(1967)の敗北とシナイ半島の喪失

③ サダト政権下の方針転換

cf.) 4次中東戦争(1973

キャンプ=デーヴィッド合意(1978

エジプト=イスラエル平和条約(1979

シナイ半島返還、アラブ諸国内での孤立化

 

【解答例】

ナイル川により農耕の発展したエジプトでは、ノモスを統一したファラオの下で王国が築かれ、ヒクソスやヒッタイトと抗争しつつ発展したが、海の民襲来で衰退した。アッシリアやアケメネス朝支配の後、アレクサンドロスの遠征で築かれたアレクサンドリアは、ヘレニズム世界の中心として栄えた。アクティウムの海戦で勝利したオクタウィアヌスがプトレマイオス朝を滅ぼすと、重要な穀倉地帯としてローマ、ビザンツ経済を支えた。イスラム教勢力進出以降は、アズハル学院を築いたファーティマ朝、十字軍を撃退したサラディンのアイユーブ朝、モンゴルを撃退したマムルーク朝がカイロを中心地とし、カーリミー商人を保護してヨーロッパとも交易した。セリム1世の征服以降はオスマン帝国支配下に入ったが、ナポレオンのエジプト遠征で台頭したムハンマド=アリーの下で自立化した。財政破綻でスエズ運河会社を英に買収され、ウラービーの反乱鎮圧後に事実上の保護国とされてからは英に搾取されたが、エジプト革命後に実権を握ったナセルのスエズ運河国有化宣言から発生したスエズ戦争で英は撤退した。第3次中東戦争の敗北でアラブ民族主義が勢いを失った後には、サダトがシナイ半島奪還のために米に接近してエジプト=イスラエル平和条約を締結し、これを達成した。(540字)

 

指定語句が「イスラム教」でしたので、そちらは指定のままにしてあります。今なら「イスラーム」でしょうね。それにしても、キッツキツですねw ちなみに、とりあえず全部入れてみようかなとおもって何も考えずに書いた最初の解答例は950字くらいありましたw そらそうだよー、エジプト5000年の歴史だもん。500字で書いたら「1字=10年分」よ?東大さんも無茶言ってるなってことに気づきましょうね?多分、素直な人ほど苦労するタイプの設問だったんじゃないかなぁと思います。思い切って大胆に省略しちゃうことも大切ですよ!「ソ連」みたいにw

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2007年の東大大論述は、農業生産の変化が各地の社会にどのような変化をもたらしたのか、でした。東大では、小論述ではわりにこうした農業史についての出題があるのですが、大論述でここまで農業が社会に及ぼした変化をガッツリ書かせようという問題は比較的珍しいように思います。経済史・社会史というくくりにしてしまえば大論述でも良く出題されますが、その場合は交易や移民といった要素が前面に押し出された設問で、この年のように「農業!」という設問は新鮮にうつりました。その昔、農業型サイボーグ「サイボーグじいちゃんG」が異彩を放ったのと同様かと思います。ちなみに、大好きでした。コミックスばっちり買いましたw

 G

(ⓒ土方茂[小畑健]CYBORGじいちゃんG』、集英社)

 

さて、東大の大論述としては比較的珍しい設問ではあったものの、実は内容的には世界史の王道を行く内容です。特に、「農業技術の進歩」が「農業生産の向上」につながり、それが「人口増加」や「商工業の発展」を促して最終的に社会を大きく変化させていく、という構図は世界史を勉強していると「またか!お前~」と思いたくなるほどたくさん出てきますので、きちんと世界史を勉強している人であれば「ああ、あれね」と思えるテーマであるかと思います。今回の設問とは時期が違いますが、たとえば古代中国における「牛耕と鉄製農具の導入」が「農業生産の向上」につながり、それが「家族単位の農業経営を可能にした」ことが、それまで人々が生きていくにあたって依存せざるを得なかった「氏族共同体の解体や価値観の変化」につながるという社会変化をもたらす、あるいは、「余剰生産物の発生」が「商工業の発展」につながり、「青銅貨幣の流通や都市の成長」につながる、などというのは、11世紀ヨーロッパの農業技術の進展から商業ルネサンスへの流れとそっくりです。非常にわかりやすい構図で汎用もきくので、世界史を勉強している受験生は意識しておくと話が分かりやすくなるかと思います。

ただ、まぁ、わかりやすいんですけどね…、下部構造(生産様式)に上部構造(社会制度、組織、イデオロギー)が影響されるという過度にモデル化された図式にはマルキシズムの残滓を感じますねぇ~w ま、分かりやすいからいいんですけど、いつも上に書いたような流れを説明しながら「まぁ、本当にそうかどうかは眉唾だけどね…」と思っていますw 教科書に書いてあることが常に歴史的に正確であるとか、実態を表しているとは限りません。(もっとも、史資料に基づいた研究の蓄積ですから、根拠のない荒唐無稽な話ではないですが。)

少し脱線します。小学校、中学校、高校で使ういわゆる「歴史の教科書」は基本的には「歴史学に厳密に照らして、正確であるか」よりも、「その教科書を使う人にとって、分かりやすいか」を基準に書かれています。そのよい例が日清戦争の講和条約(下関条約)です。中学受験する小学生は、日清戦争を学ぶときには決まって「賠償金2(テール)(日本円で3億円)をもらってその金で八幡製鉄所ダー」と覚えさせられるのですが、高校世界史ではなぜかそれは鳴りを潜めて、むしろ「朝鮮の独立を認める」といった内容がむしろ強調されます。これは、朝鮮への進出を考える日本が朝鮮の宗主国であった清にその宗主権を放棄させるという意味で非常に重要な内容なのですが、中学受験向けの教科書では書いていないか、あまり強調されません。それは、「清の宗主権を放棄させて…」と小学生に言ったところでわからんのに対し、「戦争で買ったから賠償金ゲットだぜ!製鉄所もたてちゃうぜ!フー!」の方が分かりやすいからです。このように、文章を書くという行為は(誰かに読まれることを前提としている限りは)双方向のコミュニケーションですから、書き手は常にだれに向けてのものなのかを考えて書く必要がありますし、読み手はその文章が何を目的に書かれたのかを意識する必要があります。そうでないと、その文章の持つ奥底の深い部分、行間からにじみ出る雰囲気や感性を感じることはできないからです。

また脱線してしまいましたが、この年の設問は、多少時間や地域の設定の仕方に無理はあるものの、その難易度といい、農業という基本的な生産手段がいかに広い範囲に影響を与えるかというテーマを受験生に考えさせる点といい、良問かと思います。

 

【解答手順1:設問内容確認】

・時期は11世紀から19世紀

・指定語句から、少なくとも中国とヨーロッパについては時期を明確にしておくとよい

 中国:宋代~清代(1000年代~1800年代)

 欧州:中世中期~近代

・農業生産の変化について述べよ。

・農業生産が変化したことの意義について述べよ。

 

ヒント1:農業生産の変動は人口の激減と密接に連動した。

ヒント2:耕地の拡大

ヒント3:農地の改良

ヒント4:新作物の伝播

→これらは「人口増加」、「商品作物栽培」、「工業化」、「分業発展と経済成長」につながった

 

:上のヒントについて言うなら「ヒント1~4」が「農業生産の変化」であり、→以降の内容がその意義ということになりますね。また、

ヒント5:凶作による飢饉が世界各地にたびたび危機をもたらした

と、凶作・飢饉についても言及するように述べられています。

 

【解答手順2:指定語句と設問から関連地域を予測】

(中国) 湖広熟すれば天下足る / 占城稲

(ヨーロッパ) アイルランド / 農業革命 / 三圃制 / 穀物法廃止

(新大陸) アンデス / トウモロコシ

 

【解答手順3:各地域について考察】

:設問自体は「世界各地」とか「農業」といったアバウトな設定しかしていないのですが、指定語句を分析すると、基本的には「中国」、「ヨーロッパ」、「新大陸」に絞ってよいことが分かります。そこで、ここでは「中国」、「ヨーロッパ」、「新大陸」のそれぞれについて、世界史で学習する農業関連の重要事項を簡単にまとめてみたいと思います。

 

(中国)

宋代

・蘇湖熟すれば天下足る(長江下流域の穀倉地帯化)

・背景として、占城稲などの新品種の導入、竜骨車などの新技術

・干拓による囲田・圩田・湖田などの開発

→重税、副業としての手工業発達、商品作物の栽培(綿花・桑など)、都市化と人口増加

明代

・湖広熟すれば天下足る(長江下流域の都市化にともない、長江中流域が新穀倉地帯に)

・沿岸地域の商工業発展と海外貿易の増加による銀の流入

→中国における銀経済の発達

 

清代

・新作物の導入(トウモロコシ:山地で栽培、他にサツマイモ・ジャガイモなど)

  →人口増加、東南アジア地域への流出(華僑)

 

(ヨーロッパ)

11世紀頃

・三圃制、重量有輪犂の導入

→人口増加→西欧の膨張(大開墾時代、十字軍、東方植民、レコンキスタ)

 

16世紀頃

・「商業革命」と「価格革命」

→国際分業体制の成立(グーツヘルシャフト)

・アジア・新大陸産物の流入による「生活革命」

→コーヒー・茶・砂糖・綿織物などの需要急増

→世界各地での栽培開始(プランテーション、モノカルチャー化)

 

18世紀後半以降~

・農業革命(ノーフォーク農法、第2次囲い込みなど)

  →人口増加、農村労働者の増加と資本主義的農業経営の拡大

  →ナポレオン戦争中の穀物価格急騰と地主による利益追求

  →小麦輸出とアイルランドのジャガイモ飢饉、アイルランド人移民

  →一方で、さらなる人口増加と、産業革命時の労働力供給

  →台頭する産業資本家と地主層の対立

  →自由主義の高揚とコブデン・ブライトの反穀物法同盟結成、穀物法廃止(1846

  →航海法廃止(1849)による英の自由貿易体制確立

 

(新大陸)

・大航海時代→アンデス原産の作物が各地へ伝播(清・日本:青木昆陽『蕃諸考1735』)

・商品作物のプランテーション栽培(サトウキビ・タバコ・綿花・コーヒー)

 

おおよそ、上記の内容を丁寧に配置すれば解答は書けるかと思います。

 

【解答例】

 中国では、宋代の占城稲や竜骨車の導入、干拓による耕地拡大から、長江下流域が穀倉地帯化し「蘇湖熟すれば天下足る」と言われ、重税に対処するための副業から綿花・桑などの商品作物栽培や手工業も発達した。明代には、都市化した長江下流域から中流域に穀倉地帯が移り、「湖広熟すれば天下足る」と言われた。西欧でも、11世紀頃から三圃制や重量有輪犂導入で農業生産が向上して人口が増加し、十字軍や東方貿易などの西欧の膨張につながった。大航海時代到来は、商業革命と価格革命による東西ヨーロッパの価格格差をもたらし、東欧のグーツヘルシャフト発展を促して国際分業体制を成立させた。生活革命とコーヒー・茶・砂糖・綿織物などの需要急増は、アジアや新大陸における商品作物栽培とモノカルチャー化を促した。トウモロコシやジャガイモなどのアンデス産作物の伝播は、清の人口増加や華僑流出、アイルランドの飢饉と合衆国への移住など、各地の人口動態に影響を与えた。18世紀の英に始まるノーフォーク農法や第二次囲い込みによる農業革命は、資本主義的農業経営の拡大をもたらし、地主の利益追求型の経営は台頭する産業資本家の反発を買い、穀物法廃止や英の自由貿易体制確立に影響した。

510字)

 

正確には、トウモロコシはアンデス原産ではなくもともとはメキシコなどで育てられていたものがアンデス地方の重要な作物になっていくものですが、目をつぶりました。(そもそも、アメリカ大陸「原産」であることはわかりますが、実際のところは判然としません。栽培自体はメキシコの方がアンデスよりもかなり早かったようですが、後にアンデスでも重要な作物になっていきます。解答では「原産」の語を使わずに「アンデス産」としてごまかしましたw)

解答の作り方は、もちろん「中国では~」と中国について宋代から清代までを書き、「ヨーロッパでは~」とヨーロッパ中世から近代までを書く、といった書き方もできるのですが、ここで注意したいのは大航海時代の影響です。大航海時代の引き起こす商業革命・価格革命は、ヨーロッパの国際分業体制を成立させるきっかけとなりますし、生活革命は需要の急増した砂糖などをカリブ海プランテーションで栽培させるなど、世界各地の耕作の状況や産業構造を大きく変えるきっかけになります。また、新大陸からアジアへもたらされた文物は、各地に大きな影響を与えます。たとえば、産地でも栽培可能なトウモロコシの栽培は「清の人口増加と、土地不足に起因する中国人の海外流出(華僑の増加)」をもたらしますし、ジャガイモの栽培はこれを主食としていたアイルランドで大飢饉を引き起こし、合衆国へのアイルランド系移民の増加を招きます。ケネディやレーガン、クリントンはアイルランド系ですね。『グレート=ギャツビー』の作者として知られるF=スコット=フィッツジェラルドもアイルランド系です。

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(ⓒバズ=ラーマン『華麗なるギャツビー』/原作F=スコット=フィッツジェラルド)

 

何がいいたいかと言いますと、大航海時代をきっかけに世界の農業のあり方が大きく変化するんですね。ですから、「中国は~」、「ヨーロッパは~」とぶった切って書いてしまうと、そのあたりのダイナミズムがいまいち表現できない、ただの情報の羅列になってしまう可能性があります。解答例はその辺のところに注意してみたとお考え下さい。あとは、指定語句と相談してどのあたりまで書けばよいか、情報を取捨選択することになります。

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1990年、ずいぶん古いですね。ただ、古いとはいえ東大など国公立大学では類似のテーマがたびたび出題されるので注意が必要です。もっとも、テーマ自体は同じでもやはり時代が違うと、その時に主流な歴史学上の議論・争点も違ってきたりします。それにともなって設問が要求する視点も大きく変わってくるため、一見すると似たようなテーマではあっても要求されている内容が全く違うということがあるので、「過去問を20年、30年分と解いています!」という人はそのあたりに注意が必要です。本ブログで何度もお話ししているように、論述はコミュニケーションなのであって、流れ作業ではありません。つまり、一つとして同じ解答はないということなので、一問一問に対して新鮮な気持ちで「何が聞かれているのだろうか」を愚直なまでに丁寧につかみ取ることが大切になります。

 さて、この年の設問は19世紀初頭の大衆運動がテーマです。このテーマは、早慶などの私大でも頻出のテーマですので、古い問題とは言え少し掘り下げてディテールを確認しても良い設問かと思います。以前と比べると少し鮮度は落ちた(出題頻度が下がった)印象があるとはいえ、アジアの大衆運動・民族運動は依然として良く出ます。特に、中国とインドの大衆・民族運動はかなり長いスパンに渡って流れを把握する必要がありますので、しっかり覚えておくとよいでしょう。(覚えただけの見返りはあるはずです。)また、近年ではトルコ史の出題頻度が増しているように感じますので、できればギュルハネ勅令(タンジマートの開始)~トルコ共和国の建国あたりまでは確認しておく良いでしょう。

 

【解答手順1:設問内容確認】

1914ごろ~1920年代半ば(1925ごろ)の約10年間

・ヨーロッパにおける大衆的な政治運動の展開について論ぜよ

・アジアにおける大衆的な政治運動の展開について論ぜよ

具体的な事例を挙げよ

 

:設問の要求はいたってシンプルです。注意したいことは以下の③点です。

① 「ヨーロッパにおける大衆的な政治運動」と「アジアにおける大衆的な政治運動」は同じものではない。

発生した時期が同じであるにしても、ヨーロッパにおける大衆運動とアジアにおけるそれでは、その意義が異なることを意識しておいた方が良いかと思います。

 

② 「大衆」とは何かに注意を払う必要がある

 「大衆」という言葉を無自覚に使用すべきではありません。歴史学では、一見自明のように見える言葉でもその中身に注意を払う必要があります。では、「大衆」とは何かといえば、この文脈(1910年代~1920年代の政治運動)という文脈で言えば、都市市民、学生、労働者、農民などを指すと考えてよいかと思います(国と地域によって重要度は多少変わってきますが)。このあたりを理解しておかないと、1910年代~1920年代半ばに起こった事件の中から何を書いたら良いのか、書くべき内容が定まりません。

 

③ 第一次世界大戦(総力戦)とその後の影響について考慮する

 設問でも出てきていますが、時期的に第一次世界大戦の影響を丁寧に確認する必要があるかと思います。ロシア革命、ドイツ革命はもちろんですが、アジアでもインドや、ウィルソンの十四か条やパリ講和会議に刺激された中国・朝鮮など、ほとんどの国・地域でその影響が確認できます。

【解答手順2:ヨーロッパの大衆運動、政治運動について整理】

:設問ではまとめられているのでわかりにくいのですが、ヨーロッパにおける大衆政治運動とアジアにおける大衆政治運動はその背景も意義も異なってくるので、二つに分けてディテールを確認した方が良いと思います。最近の東大の設問では先に大テーマがはっきりと見えるパターンが多いのですが、この1990年の問題ではむしろディテールを整理した上でヨーロッパにおけるテーマとアジアにおけるテーマを見つけた方が分かりやすいのではないかと思います。また、設問もそのあたりを考慮して「具体例を挙げよ」としているのかと思います。そこで、まずはヨーロッパ各国における列挙してみましょう。

 

 ロシア:ロシア革命(1917

 これはもう、鉄板ですね。1917年のロシア革命ではまず二月革命(三月革命)が起こりニコライ2世が退位してロマノフ朝が滅亡し、かわって臨時政府が建ちますが、各地に自然発生的に出現したソヴィエトとの間で二重権力状態が続きます。その後、四月テーゼなどを示してボリシェヴィキをまとめたレーニンによる十月革命(十一月革命)が起こり、最終的にはボリシェヴィキ(ロシア共産党)の一党独裁が成立します。この時に出された「土地に関する布告」と「平和に関する布告」は頻出です。特に「平和に関する布告」はウィルソンの十四か条との関係でも重要ですので、注意が必要です。

 

② ドイツ:ドイツ革命(1918

 ドイツ革命のきっかけは「キール軍港での水兵反乱」ですが、その後の革命の広がりは必ずしも兵士によるものだけではありません。高い失業率に不満を抱えていた労働者たちがこれに呼応して各地にレーテ(評議会:ロシアにおけるソヴィエトと同義)が結成され、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は亡命してヴァイマル共和国が成立します。ただ、大衆による政治運動ということであればドイツについては革命だけではなく、大戦前から続いていた社会主義運動の高まりとその分裂、スパルタクス団[1918.12にドイツ共産党に改称]の蜂起(1919)やこれに対する弾圧、1920年代から高まるファシズム運動とナチス結成やミュンヘン一揆などにも目を向けなくてはなりません。

 

③ イタリア:労働運動に対抗する形でのファシズムの高揚

 イタリアでは、第一次世界大戦後にイタリア社会党(1921にはイタリア共産党分離)による北イタリアストライキ(19191920)が発生しますが、この動きは当時の中産階級や保守層の警戒心を強める結果となりました。こうした中で、復員兵や貴族を中心とし、反社会主義を前面に打ち出したファシスト党(1920年結成)への支持が拡大し、ローマ進軍(1922)とムッソリーニ政権の成立につながっていきます。

 

④ フランス:社会党の分裂と共産党の成立

 フランスでは、第一次世界大戦末期からフランス社会党内で戦争協力について意見が対立し、分裂して左派は共産党を結成します。そのため社会党としての党勢は衰えますが、一方で、周辺諸国並びに国内におけるファシズムの高まりを受けてこれに対する危機感が高まり、1930年代の人民戦線内閣(ブルム)結成へとつながっていきますが、本設問は1920年代までなので、フランスについてはほとんど触れなくても差し支えないかと思います。触れたとしても共産党の結成まででしょう。

 

⑤ イギリス:第4回選挙法改正(1918)と労働党政権の樹立 / アイルランド自治問題

 イギリスの大衆運動は必ずしも同じ方向性を持ったものではありません。一番重要なのは総力戦の影響を受けての女性の社会進出拡大と、女性参政権の成立かと思います。また、参政権の拡大は労働党に有利に働き、1924年には第1次マクドナルド労働党内閣が成立することになります。女性参政権と一次大戦の関係については、東大の2018年問題や一橋の2010年問題(大問2)など、たびたび出題されているテーマでもありますので確認しておきましょう。

一方で、アイルランドの自治の問題については分けて考えるべきでしょう。ですが、時期としては同じ時期、しかも自治や独立を目指す運動なので、重要度が低いわけではなく、むしろ植民地における大衆運動や民族運動と性格的には近いものがあります。1916年に発生したイースター蜂起や、一次大戦後のアイルランド自由国の成立などには言及しても良いかと思います。

  アイルランドでは、その後アイルランド自由国容認派と完全独立派の対立が深まり、完全独立派はアイルランド共和党(党首デ=ヴァレラ)を結成し、党勢を拡大します。最終的には1937年の選挙に勝利してデ=ヴァレラ政権が成立し、完全独立を宣言(エールの成立)しますが、これも1930年代の話になるので、本設問では言及は不要です。

 

さて、ひと通りヨーロッパの情勢についてみてきましたが、これらを眺めてみるといくつかの共通するテーマが浮かび上がってきます。すなわち、

A、「社会主義運動の高揚」

B、「ファシズムの台頭」

C、「一部における女性解放運動や民族運動の高揚」

   cf.) 女性参政権はロシア・ドイツ・イギリス

   cf.2) 民族運動としてはアイルランド問題

などが、この時期のヨーロッパの大衆運動としては重要なテーマであると考えてよいでしょう。

 

【解答手順2:アジアの大衆運動、政治運動について整理】

では、続いてアジアの大衆を中心とした政治運動に目を向けてみましょう。こちらについては、ディテールを確認するまでもなく民族運動・独立運動が重要であるということがわかるかと思いますが、一方でロシア革命にも影響を受けた社会主義の高揚など、ヨーロッパとも共通する要素が浮かび上がってくるかと思います。

 

① 中国

‐五・四運動(1919)→中国国民党の結成(1919、孫文)

  ‐コミンテルンの指導による中国共産党の結成(1921、陳独秀)

  ‐第一次国共合作(192427、連ソ・容共・扶助工農)

  ‐五・三〇運動(1925、上海における反日ストライキに始まる反帝国主義運動)

 

② 韓国:三・一独立運動(1919

 

③ 日本:大正デモクラシー(191226:大正時代)

→護憲運動の高まりや政党政治、選挙権獲得運動、女性解放運動

→一方で社会主義運動の活発化

 

④ ベトナム:ホー=チ=ミンの活動とベトナム青年革命同志会結成

 ベトナムについては、20世紀初頭については東遊(ドンズー)運動を展開したファン=ボイ=チャウや東京(ドンキン)義塾を設立したファン=チュー=チンらの活動が有名ですが、一次大戦をはさんで1910年代から1920年代ということであれば、ホー=チ=ミンで良いかと思います。ホー=チ=ミンの主な活動については以下の通り。
(本設問では1930年以降は不要)

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⑤ インドネシア

インドネシアについては以下の3つをおさえればOK。女性解放にからめて女性教育の先駆者カルティニを書きたくなるところですが、カルティニは(1879-1904)没なので不可です。

 

・サレカット=イスラーム(1911) ジャワの商人が中心、華僑に対抗

・インドネシア共産党(1920):弾圧で壊滅

・インドネシア国民党(1927):スカルノによる

 

流れとしては、華僑に対抗する中でジャワ島の民族団体サレカット=イスラームが結成されますが、これは「ジャワ」というくくり(民族主義)にとらわれすぎたために、蘭領東インド全体に拡大することができず衰えていきます。こうした中で、アジア全般で高まっていた社会主義の高揚を受けて共産党が結成されますが、これはオランダ当局による徹底弾圧により壊滅します。その結果、スカルノが創設したインドネシア共産党が民族運動の受け皿となって支持を拡大していきます。

 

⑥ インド

 インドは中国と同様に非常に重要です。かなり入り組んでいるので注意が必要です。特に、戦中から自治の約束があったことに対する反応と、ヒンドゥーとムスリムの対立についてはできれば描写したいところ。

‐インド担当相モンタギューによる大戦後のインド自治の約束(1917

‐ローラット法(1919)とアムリットサル事件

   ‐ガンディーによるサティヤー=グラハ(1919-1922

    →ハルタル(同盟休業、商人や労働者など)

   ‐ヒラーファト運動(1920-、イスラーム教徒によるカリフ擁護運動)

    →一時的にヒンドゥーとムスリムの連携(1924カリフ制の廃止後はまた対立へ)

   ‐全インド労働組合会議(1920、ボンベイ)などによる社会主義運動の開始

    →インド共産党(1925)結成

 

⑦ イラン:英がイランの保護国化を計画(1919、イギリス=イラン協定)

      →民衆の反英、革命運動高揚

      →レザー=ハーンのクーデタ(1921)とパフレヴィ―朝(1926)創始

  

イランについては、対ソ干渉戦争の前線となったことで、半ば無政府状態になり軍事勢力が台頭する素地が作られました。

 

⑧ トルコ

トルコについては、何といってもセーヴル条約に反対するアンカラの国民議会とこれを率いるムスタファ=ケマルによるトルコ共和国建国までの一連の流れが重要です。

‐トルコ大国民議会招集(1920、アンカラ)→ギリシア軍撃退

‐スルタン制廃止(1922

‐ローザンヌ条約の締結とトルコ共和国建国(1923

 

アジアについてひと通り示してきましたが、これらを眺めると以下の3つが大きなテーマとして見えてくるかと思います。

A、「民族自決」の理念に刺激された民族運動、独立運動高揚

B、ロシア革命の影響やコミンテルンの指導による社会主義・共産主義の高まり

C、イスラームなどの宗教の民族運動への影響

 

【解答例】

 ヨーロッパでは、国内経済の疲弊した国で革命が起き、露では二月革命でロマノフ朝が滅亡し、十月革命でレーニンのボリシェヴィキが一党独裁を確立した。独でも革命に際し社会主義の高揚が見られたが、ヴァイマル共和国政府はスパルタクス団の蜂起鎮圧で弾圧した。社会主義に危機感を抱いた各国の中間層や資本家はファシズムを支持し、ナチスやファシスト党が党勢を拡大した。総力戦で女性の社会進出が進むと英の第4回選挙法改正をはじめ、独ソなど女性参政権を認める国も増加した。一方、アイルランドではイースター蜂起が発生し、アイルランド自由国成立後も国内対立が続いた。アジアでは、ウィルソンの十四か条の平和原則に刺激を受け、朝鮮で三・一運動、中国で五・四運動など民族自決を求める反帝国主義運動が発生した。また、ロシア革命の影響やコミンテルンの指導で、中国の陳独秀、ベトナムのホー=チ=ミンなどが指導する共産党が各地で結成されたが強い弾圧を受けたため、地域によってはインドネシアのスカルノ率いるインドネシア国民党など民族主義団体が強い指導力を発揮した。インドではローラット法制定とアムリットサル事件を契機にガンディーが非暴力・不服従運動を進めたが、ヒンドゥー中心の国民会議派とムスリムの対立は根強く残った。敗戦国トルコではセーヴル条約への反感からムスタファ=ケマル率いるアンカラ国民議会がスルタン制を廃止し、トルコ共和国を建国した。(600字)

 

ひと通り、解説に沿ってまとめるとこんな感じかと思います。情報量としてはやや少ない気もしますが、無理にいろいろなことを詰め込むと本当にただの箇条書きや事実の羅列になってしまいます。本来であれば、出題の側でもう少しどのような流れで書くかを示したり、指定語句を示すなどして、書くべき情報量を絞ってあげるべき設問かともいますが、1990年当時はもしかすると受験生の側が十分に論述に対応できるスキルを持ち合わせておらず、書いてきたものはとりあえず拾ってあげるというスタンスの設問だったのかもしれません。

 

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