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カテゴリ: 東京大学対策

 今回の東大大論述では、昨年の660字から600字と元の形に戻りました。そのかわり、東大にしては珍しく史料読解をさせる問題でした。ただ、こうした形式がこれまでにまったくないというわけでもなく、例えば2000年のフランスの啓蒙思想と中国の思想や社会制度との関係について問う問題では、リード文の中に挿入される形ではありましたがヴォルテール、レーナル、モンテスキューの中国文化に対する評価が示されており、今回の設問と類似の形をとっていると見ることができます。また、1992年問題では、史料ではありませんが、南北アメリカ・東ヨーロッパ・東南アジアにおける主権国家体制の下にある地域の変遷を地図で示してその読解を求めるものでした。ただし、本設問では「○○は××だった(史料A)。」のような形で史料番号を挙げて論述問題の事例として用いよという指示があるので、こうした指示をきちんと見落とさずに対応することが大切かと思います。

 テーマ自体は明・清時代の冊封体制を中心に記述させるもので、地域的・時代的な広がりを考慮しなければならないことを除けば一橋などでは頻出のテーマです。史料を読ませるあたりもかなり一橋くさい設問で、たびたび申し上げておりますが最近東大と一橋の設問が何となく似てきたなぁという印象があります。奇しくも、2020年の一橋の大問3も小中華思想について問う問題でした。史料の内容自体は分量も少なく、意図も比較的はっきりとくみとれますので、扱いが難しいものではありません。また、テーマも一般の教科書や授業のテーマとしてもかなりしっかりと扱われる部分でもありますので、特に書きにくいという類のものではなかったと思います。ただ、そのわりに本設問の解答をしっかり書こうとするとかなり深いです。特に明代から清代にかけての東アジア国際秩序の変容はいろいろな分野にまたがるもので、本当の意味で示そうとすると各事象に対する非常に深い理解が必要となります。そうした意味で、本設問は半分くらいまでは多くの受験生が書けるけれども、満点を取ろうとするとえらく難しい設問かなと思います。多くの受験生が基本となる部分はしっかりおさえてくるはずですので、いかに基本を外すことなく、他の受験生が十分に書けない部分を示すことができるかで差がついてくるのかなという設問でした。

 第2問、第3問も含めた全体の印象としては、第2問の比重がやや重いかなという気がします。第2問は難しいとまでは言えませんが、受験生が正確にスンナリ書けるかと言われるとかなり怪しいと思います。書ける人と書けない人で設問ごとに細かい差がついて全体としてかなりの差が出る設問だったのではないでしょうか。一方、第3問は設問自体に特にひねりもなく、平易です。もちろん、東大の設問だから平易と思うのであって、他の大学や学部で出されたのであれば正答率はかなり低くなるのは間違いないと思います。第3問で間違えたとしても1問まで、第2問で2問分程度失点したとして、第1問の大論述で半分確実に取りに行ったとして3741点というところでしょうから、全体としても得点は取りやすい(その分、基本を取りこぼしてはいけない)設問のように感じます。一応、某予備校さんの評価を見ますと全て「標準」となっていますね。妥当な評価だと思いますが、上述のように個人的には第1問はかなり奥深い設問だなぁと感じました。

 

【第1問】

(設問概要)

・時期:15世紀頃から19世紀末(1401年ごろ~1900年)

・東アジアの伝統的な国際関係のあり方について具体的に記述せよ。

・近代における東アジアの伝統的な国際関係の変容について具体的に記述せよ。

・朝鮮とベトナムの事例を中心に記述せよ。

20行以内(600字)

・指定語:薩摩 / 下関条約 / 小中華 / 条約 / 清仏戦争 / 朝貢

 

(ヒント[リード文より]

・東アジアの伝統的な国際関係は、各国の国内支配とも密接なかかわりを持ち、国内支配の強化や異なる説明による(支配の)正当化に用いられた。

・近隣諸国の君主は中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味したわけではなかった。

・東アジアの伝統的な国際関係は、近代にヨーロッパで形づくられた国際関係(=主権国家体制)が近代になって持ち込まれると、現実と理念の両面で変容を余儀なくされた。

 

(解答手順1:文章の読みかえ)

:とりあえず、設問の中心である「東アジアの伝統的な国際関係」とは何かですが、これについては冊封体制と朝貢関係で特に問題はないと思います。リード文の方にも「近隣諸国の君主は中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだ」とありますので、冊封体制のありかたについてはしっかりと記述しておきましょう。

 また、この冊封体制と朝貢関係を近代に入って変容させる「ヨーロッパで形づくられた国際関係」とは何かということですが、これについても主権国家体制で良いと思います。

 そうしますと、本設問は「中国を中心とする冊封体制のあり方を示し、その上で冊封体制がヨーロッパで形づくられた主権国家体制によりいかに変容するかを朝鮮・ベトナムの事例を中心に示す」という設問であるということになります。

 

(解答手順2:冊封体制のあり方について整理)

:つづいて、冊封体制について整理する必要があるでしょう。冊封体制は「中国の皇帝が周辺諸国の支配者に位階を与え、君臣関係を結ぶことによって形成された国際秩序。東アジア諸国は朝貢国として交流を保障される一方、中国の権威を内政の安定に利用した。」(全国歴史教育研究協議会編『世界史用語集:改訂版』山川出版社、2018年、p.126)です。「冊封体制」という言葉自体は戦後中国古代史研究者である西嶋定生が提唱した歴史用語です。西嶋は東アジア社会に一定の相互連関があることを指摘した上で、その背景に何があるのかを考察するために儒教が国際関係をどのようにとらえているかというその論理構造に着目して、冊封とそれを支える論理(中華思想)が「東アジア世界」という他の世界とは区別される完結した世界を作っていたと主張しました。この冊封体制について早稲田大学の東洋史学者である李成市の説明では「…中国の皇帝は、漢代以降、周辺諸国、諸民族の君長にも中国の官爵(爵位・官職)を与えて君臣関係を結び、そのことを通して両者に国書(外交文書)を媒介とする朝貢関係が必然化することによって、それに基づき中国の文物が伝播・受容されたのである。こうして皇帝と周辺諸国、諸民族の君長との間に官爵の授受を介して結ばれた関係は、冊命(任命書)によって封ぜられる行為にちなんで冊封体制と名付けられている。」とまとめています。(歴史学研究会編『史料から考える世界史20講』岩波書店、2014年、p.3、李成市「諸王たちのモニュメント‐東アジア世界の形成」) いずれにせよ、冊封体制については

 

・中国皇帝と周辺国が形式的な君臣関係を結んだこと

・その際には朝貢が行われることが一般的であったこと

・朝貢国はこの関係を国内支配の強化や支配の正当化、朝貢貿易などに利用したこと

 

などが示してあれば、フレームワークとしては十分でしょう。

 

(解答手順3:近代以降の冊封体制の変容について整理)

:冊封体制と朝貢関係がいかに変容するかということは本設問の重要なテーマの一つです。もちろん、最終的にはヨーロッパの進出によって清の外交政策が大きく転換したことや、それまで清の宗主権下にあった諸国が新たにヨーロッパなど主権国家体制のもとにある国家の影響下に入ったことなどによって崩壊するというのが大きなフレームワークです。(ちなみに、この清朝末期における冊封体制の崩壊については、近いところでは2015年の一橋大3が扱っています。また、本ブログでもテーマ史など所々で言及しています。)ただ、そこにいたるまでにも段階的な変容が見られるわけで、そうした変容をどこまで示せるかで他の受験生との差がついてくるかと思います。ただ、最初にそうした細かい変容について突っ込んでしまうと収拾がつかなくなってしまう(これについては手順6で後述します)ので、まずは全体の大きなフレームワークを確実に作っておくべきでしょう。清末における冊封体制の崩壊については、

 

・イギリスによる自由貿易要求と清による拒否(マカートニー、アマーストetc.

・アヘン戦争後の開国と不平等条約

・北京条約(1860)による外国公使の北京駐在と翌年の総理各国事務衙門設置

・阮朝の宗主権移動(清仏戦争と仏領インドシナの形成)

・朝鮮に対する清の宗主権否定(1895、下関条約)

 

あたりが具体的な事例として挙げられる内容かと思います。この時点で、設問の言う「朝鮮とベトナムの事例を中心に」の意図が見えてきますね。少なくとも、朝鮮とベトナムがそれぞれ日本、フランスの進出によって清の宗主権下から離れていくことは具体的な事例として記述する必要があります。それぞれ、簡単にまとめていくと以下のようになるでしょう。

 

[阮朝]

1858-62 仏越戦争(1862:サイゴン条約[1]

:仏によるコーチシナ東部3省割譲

1867 コーチシナ西部3省占領

1874 第2次サイゴン条約

:ベトナムの独立主権を認め、一方でフランス支配下にあるコーチシナ全省の割譲を承認

18831884 第1次ユエ条約(アルマン条約)、第2次ユエ条約(パトノートル条約)

:ベトナムの保護国化(アンナン[ベトナム中部]、トンキン[ベトナム北部]を支配下に)

1884-85 清仏戦争(1885:天津条約)

:清のベトナムに対する宗主権放棄、仏による保護権の承認(李鴻章‐パトノートル)

1887 フランス領インドシナ連邦の形成



仏領インドシナ1

Wikipedia「仏領インドシナ」より、フランスの支配下に入った年代)

 仏領インドシナ2

Wikipedia「仏領インドシナ」より、トンキン・アンナン・コーチシナ)

 

[朝鮮]

1875 江華島事件

1876 日朝修好条規

:日本・朝鮮間で朝鮮の自主独立の確認、朝鮮3港開港(仁川・元山・釜山)、不平等条約

1894-95 日清戦争(1895、下関条約)

:清の朝鮮に対する宗主権の否定、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲

(伊藤博文・陸奥宗光‐李鴻章)

 

いずれにせよ、これらの事例を挙げることによって清の冊封体制と朝貢関係が崩壊することを示すことができます。南京条約による開国と自由貿易の開始によって朝貢貿易は崩壊していきますし、総理各国事務衙門設置による欧州諸国との対等な外交関係成立により清朝は主権国家体制の枠内に組み込まれていきます。また、朝鮮や阮朝が日本やフランスの影響下におかれる過程で清は宗主権を放棄し、周辺の朝貢国との関係が断ち切られていきました。(日本はヨーロッパではありませんが、設問は「ヨーロッパで形づくられた国際関係[=主権国家体制]」としておりますので問題はないかと思います。)おおよそ、このあたりのことがしっかり書けていれば全体の三分の一程度は点数として確保できると考えてよいでしょう。

 

(解答手順4:指定語の確認・整理)

:指定語と史料は当然設問の確認時に目を通すべきだと思いますが、最初からこれだけを手掛かりに解答を作ってしまうと時々設問の要求から外れてしまったり、細かい点の指摘に終わってしまって大テーマを見失ってしまうことがあるので、一通り目を通して何となくの方向性を確認したら、まずは(手順1)~(手順3)のようにして設問全体のフレームワークを意識し、その上で指定語や史料をどのように活用するか考える方が、間違いが少ないかと思います。指定語は「薩摩 / 下関条約 / 小中華 / 条約 / 清仏戦争 / 朝貢」ですが、これらのうち「下関条約 / 清仏戦争 / 朝貢」はすでにお話した内容で十分に使えるかと思いますので、あとは「薩摩 / 小中華 / 条約」をどう使うかという問題になるかと思います。

 

(薩摩)

:これについてはやはり尚氏が支配する琉球王国の日中両属関係について述べるのが良いでしょう。琉球王国は1609年に薩摩家久による侵攻を受けて薩摩藩ならびに江戸幕府に従属しましたが、中国との密貿易がもたらす利益を薩摩藩が重視したことから琉球の明・清に対する朝貢を認めていました。しかし、明治政府が成立すると、西欧式の主権国家として主権の所在を明確にすることを考えた日本は、琉球王国を自国の主権下に組み込むために琉球藩を設置(1872)し、さらに1879年には琉球藩を廃止して沖縄県を設置(琉球処分)し、日本支配下の一地域としました。

 

(小中華)

:小中華思想は朝鮮が唯一中国の伝統文化を継承しているという考え方です。中華思想を自国の統治の正当化に用いる事例自体は珍しいものではなく、中国の周辺諸国では国内統治に儒教や中華思想を援用して、自身の統治が「天命」によるものであり、周辺諸地域は夷狄であるとする考え方を示すことがよくありました。上述した李成市の文章(李成市「諸王たちのモニュメント‐東アジア世界の形成」)では、高句麗や新羅の世界観を例にとってそのあたりのところを紹介しています。

 明滅亡後の朝鮮王朝では、女真族である清の征服によって中国が夷狄化し、明以降の正当な中華を継承しているのは自分たちであるという考え方が成立します。こうした考え方は、リード文にある「異なる説明による(支配の)正当化」と対応しますので、小中華はこの事例の一つとして挙げれば良いでしょう。

 

(条約)

:一見すると何の変哲もない用語ですし、受験生によっては「まぁ、下関条約で条約使っているし」とか、「なんでもいいから適当な条約挙げて消化してしまおう」と考えるかもしれません。ただ、この「条約」という指定語はなかなか曲者です。指定語に示すからには、東大としてもそれなりの意図をもってこの用語を指定していると考えなくてはなりません。ですから、行き当たりばったりでこの用語を使ってもおそらく加点にはつながらないでしょう。そのように考えると、やはりこれはヨーロッパ式の主権国家体制に中国(清)が組み込まれていく過程で用いるべきだと思います。一般に、条約は文書による国家間合意であり、このような合意自体は古代から存在していました。ですが、中華思想と冊封体制に支えられた東アジア世界、中でも中国においては、周辺諸国との間に「主権」を認め合い、「対等な」立場から締結される近代的意味での条約は原則として存在していません。もちろん、周辺諸国との取り決めは存在していましたが、それはあくまでも世界の中心たる中国の皇帝とその徳を慕う周辺国の長という関係の下でなされる約束事でした。これは、実質的に遼や西夏に圧迫されていた北宋が結んだ澶淵の盟(1004)や慶暦の和約(1044)が形式的な兄弟関係や君臣関係のもとでかわされたことなどからも見て取れます。また、南宋が結んだ紹興の和約(1141)では南宋が臣下で金が君主という関係性の逆転こそ見られたものの、朝貢関係とそれを支える論理構造自体が破綻していたわけではありませんでした。(もっとも、こうした事例を従来の冊封体制論の中でどのように考えるか、という問いはあってしかるべきかと思います。)

 ですから、ヨーロッパでウェストファリア条約(1648)以降成立する、たがいに主権を持つ国家同士が国際法的な効力を持つ条約を締結するという近代的国際関係は、イギリスが中国に持ち込む(というか強要する)ことによってはじめて成立するのであり、その意味で本設問の「条約」は、イギリスに強要された南京条約(1842)もしくは初めて主権国家間で対等に展開される外交を取り扱う官庁として設立された総理各国事務衙門を成立させるきっかけとなった北京条約などと絡めつつ、清が主権国家体制のもとに組み込まれたことを示す際に用いるのが適切な使い方だと思います。

 

(解答手順5:史料の確認・整理)

:上述の通り、指定語・史料は当然設問の確認と同時に行うものですが、じっくり吟味するのは全体のフレームワークを何となく組み立ててからでも遅くはありません。これまでにしめした(手順1)~(手順4)の内容をおさえながら、各史料について検討してみましょう。

 

(史料A)

 なぜ、(私は)今なお崇禎という年号を使うのか。清人が中国に入って主となり、古代の聖王の制度は彼らのものに変えられてしまった。その東方の数千里の国土を持つわが朝鮮が、鴨緑江を境として国を立て、古代の聖王の制度を独り守っているのは明らかである。(中略)崇禎百五十六年(1780年)、記す。

 

 こちらの史料は史料中に「わが朝鮮」とありますし、時期が1780年とありますので明らかに朝鮮王朝(李氏朝鮮)の史料です。文章の内容からも、小中華思想を示すにあたって適切な史料であることが見て取れます。ちなみに、「崇禎」は明の最後の皇帝である崇禎帝(毅宗)の頃に用いられた元号[1628-1644]です。崇禎帝が自害するのが李自成の乱による1644年のことですから、百五十年以上も使ってたのですね。それはそれですごいですがw まぁ、西暦なんかもう2020年ですが、元号で百年超えるとすごいなぁって思います。

 

(史料B)

 1875年から1878年までの間においても、わが国(フランス)の総督や領事や外交官たちの眼前で、フエの宮廷は何のためらいもなく使節団を送り出した。そのような使節団を3年ごとに北京に派遣して清に服従の意を示すのが、この宮廷の慣習であった。

 

 史料Bについては、「フエ」(ユエ)とありますし、フランスの総督や領事とありますので、阮朝越南国についての史料であることが分かります。1875年から1878年当時の阮朝は、上述の通り1874年の第2次サイゴン条約によって「ベトナムの独立主権」が確認され、さらにコーチシナ全域をフランスに奪われて、実質的なフランスの保護下にありました。

ところで、1876年の日本‐朝鮮間で締結された日朝修好条規にも「朝鮮の自主独立」が内容に入ってきますが、こうした内容は受験生は何となく見過ごしがちなのですけれども、実は「清の宗主権を否定する」という重要な性格を持っています。あくまでも二国間条約ではありますが、日本と朝鮮、またはフランスと阮朝の間では「わたしの国(朝鮮、阮朝)は自主独立の国ですよー」と認めさせることで「清は関係ないだろう、引っ込んでろ」という理論を展開するわけです。ただ、こうした取り決めはあくまでも日本と朝鮮、またはフランスと阮朝という二国間でのみ確認された内容であって、条約を締結していない清の立場を拘束するものではないんですね。ですから、清との間に対立が生じて清仏戦争(1884-85)や日清戦争(1894-1895)が起こることになりますし、清が敗れた後の講和条約である天津条約(1885)や下関条約(1895)では、清の宗主権放棄が確認され、フランスによる阮朝保護国化の承認や、朝鮮の自主独立の確認がなされることになるわけです。

さて、少し話がそれましたが、そんなわけですからフランスはこの史料が言及している時期に実質的に阮朝を保護下においているし、清の宗主権を否定させているわけですね。にもかかわらず、阮朝の人間は臆面もなくそれまでの慣習にしたがって清に対して朝貢の使節を派遣するわけです。これは清の宗主権を認める行為にほかなりませんから、フランスの総督・領事・外交官からすれば「いったいこいつらは何を考えているんだ?」となるのでしょうが、東アジアにはヨーロッパとは異なる東アジアの世界観・論理が存在しているわけです。この史料の背景としては以上の通りですので、この史料を用いるとすれば清との朝貢関係を示す事例や後の清仏戦争を導く原因として扱うのが良いでしょう。

 

(史料C)

 琉球国は南海の恵まれた地域に立地しており、朝鮮の豊かな文化を一手に集め、明とは上下のあごのような、日本とは唇と歯のような密接な関係にある。この二つの中間にある琉球はまさに理想郷といえよう。貿易船を操って諸外国との間の架け橋となり、異国の珍品・至宝が国中に満ちあふれている。

 

 この史料は日中両属についてと、朝貢貿易に携わることにより、朝貢国が利益を受ける事例として示すのが良いと思います。琉球の両属関係については、(手順4)の(薩摩)の項目ですでに示してありますので、そちらをご覧ください。設問は「朝鮮とベトナムの事例を中心に」とありますが、この史料があることから記述の内容を朝鮮・ベトナムに限定する必要はないことが見て取れます。(もっとも、史料中には琉球が「朝鮮の豊かな文化を一手に集め」ていることや「南海の恵まれた地域に立地して」いることなどが示されていますので、朝鮮やベトナムを結ぶ中継地として示すことも可能ではあります。琉球は華北・朝鮮・日本を含む東シナ海交易圏と江南・ベトナム・タイ・東南アジア島嶼部などを含む南シナ海交易圏の結節点にあり、明の海禁の緩和(1567)によって中国とアジア諸国(日本を除く)の直接取引が認められ、東南アジア方面をポルトガルによって抑えられるまでは東アジアから東南アジア諸国を中継貿易で結ぶ重要拠点でした。ただ、大航海時代でヨーロッパ商人の進出が顕著になるとマラッカをはじめとする東南アジア方面の貿易は打撃を受けますし、17世紀には日本と清双方の海禁策(鎖国と遷界令)により東アジア交易の規模縮小に見舞われることとなります。このあたりの事情については、最近(2017年)全面改訂された『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年)のp.226にある「琉球」というコラムに詳しく書かれています。

 

(解答手順6:東アジアの伝統的な国際関係の「変容」を確認)

:これまでの(手順1)から(手順5)で概ね全体の流れは作れると思います。

 

・明が朝鮮や黎朝などと形式上の君臣関係を結ぶ冊封体制を形成

・朝貢による文物の交流を通して漢字・儒教文化圏による東アジア世界の一体化

・朝貢国は朝貢貿易により莫大な利益を得る

・明との貿易で巨利を得つつも交易の拡大とともに中国と薩摩藩の双方に臣従した琉球のような国も現れた(史料C)

・周辺国は中国の権威を利用して自国支配の強化に努める

・明に代わって正当な中華文化を継承したと考える朝鮮王朝の小中華思想のように、中国の儒教や中華思想を援用して支配正当化の理論とする国も存在した(史料A)

・当初はヨーロッパ諸国も朝貢関係の下で交易

・自由貿易要求を拒否されたイギリスがアヘン戦争を起こして南京条約によって清に開国と自由貿易を強要

・アロー戦争後の北京条約を機に対等な外交関係を扱う官庁として総理各国事務衙門が設置されると、中国は主権を持つ対等な諸国が条約によって国際関係を形成するヨーロッパ式の主権国家体制に組み込まれた

・清は、フランスによる実質的な保護下に置かれながらも自国に使節を派遣した(史料B)阮朝の宗主権をめぐる清仏戦争で敗れてベトナムに対する宗主権を放棄

・日清戦争と下関条約で朝鮮の自主独立を認めて宗主権を放棄

・中国と周辺国との朝貢・冊封関係も崩壊した。

 

こんなところでしょうか。これらが示せていれば少なくとも半分は点数がもらえるのではないでしょうか。大きなテーマはやはり「冊封体制・朝貢関係→主権国家体制・自由貿易」なんですよね。ただ、いわゆる冊封体制と朝貢関係からなる東アジアの伝統的な国際秩序は、イギリスの進出によって急激に変化したわけではなく、徐々にその形を変えていった部分もあります。これはたとえば、琉球の日清両属関係もその一つですし、朝鮮王朝における小中華思想も中華思想や儒教的世界観が変容した一形態ととらえることもできます。また、中国の支配者が明から清へと変容したことも大きな変化です。(手順3)の冒頭でもお話ししましたが、こうした様々な変容がありますので、時系列に沿って明・清代の対外関係に注目して関連事項を整理する必要があるでしょう。

 

(明)

・海禁策(倭寇対策としての民間貿易取り締まりと朝貢貿易による海上秩序再編)

・永楽帝の大越国支配

・鄭和の南海遠征と朝貢国の増加

・日明貿易(足利義満と勘合貿易)

・黎朝の独立と朝貢

・北虜南倭と明の冊封・朝貢体制の動揺

・壬辰・丁酉倭乱

・李自成の乱

 

明についてはこのようなところでしょうか。注意しておきたいのは、ひとことで冊封関係といっても各王朝において常に一様ではないという点です。何が言いたいかと言いますと、本設問では15世紀から19世紀末までにおける東アジアの伝統的な国際関係の変容を聞いています。これはつまり、明から清にかけての変容を聞いているわけですが、明の前には宋・元が構築した国際関係が存在したのであり、これは必ずしも明の築き上げた国際関係と全く同一のものではありませんでした。つまり、明の建国とそれにともなう国際秩序の再編があったのであり、明の成立した時期も東アジアの国際関係は変容の過渡期にあったととらえることも可能なのです。『詳説世界史研究』(2017年)はこのあたりのことを「朝貢関係の形成」の中で以下のように示しています。

 

 「宋・元時代の東アジアでは、朝貢といった国家間の正式の関係よりは、民間の商業ベースの交易の方が盛んであった。それに対し、明朝においては、民間の海外貿易を禁じて朝貢貿易に一本化しようとする政府の厳しい対外貿易禁止政策がとられた点に特徴がある。元末の動乱期、東アジアの海上秩序は乱れ、「倭寇」とよばれる海賊集団が東アジア海域に多数出没していた。洪武帝の一つの課題は反明勢力とも結びつきかねないこのような海賊集団を取り締まり、海上の秩序を回復することであった。すなわち、「海禁」(民間海上貿易の禁止)をおこなって海賊集団の財源を絶つとともに、明の新政権に対する周辺諸国の支持を取りつけ、それら諸国の協力を得て海上秩序を再建することが目指された。したがって明は建国当初より周辺諸国に対し朝貢勧誘をおこなった。しかし、洪武帝の時代は国内の統治を固めることに重心がおかれ、積極的な対外政策をとる余裕はあまりなかった。明の対外関係が大きく発展するのは永楽帝の時代になってからであった。…」(木村靖二ほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年、pp.224-225

 

たとえば、上記のような流れの中で朝鮮王朝・黎朝・琉球を扱うことも可能でしょう。

 

(清)

・支配地域の拡大(中国東北・直轄領・藩部・朝貢国)

・藩部の支配[モンゴル・新疆・チベット]

:中国皇帝としての顔と北方・西方民族のハンとしての顔

・朝貢関係の多様化

:琉球(日清両属)、互市の国(朝貢ではなく貿易を行うのみ)

・朝鮮における小中華思想の形成

・ロシアの接近(ネルチンスク条約、キャフタ条約)

・イギリスによる自由貿易要求

・アヘン戦争後の開国と自由貿易体制

・アロー戦争後の総理衙門設置と主権国家体制

・朝鮮、越南(阮朝)に対する宗主権の放棄と冊封体制の崩壊

 

清についてはおおよそこのような内容になるかと思います。注意しておきたいことは、清は確かに中国の伝統的な諸制度・世界観を継承しましたが、それは必ずしもそれまで存在していた冊封体制、朝貢関係、中華思想をそのままの形で受け継いだわけではないということです。上記にあるように冊封・朝貢関係は多様化していきますし、それらを理論面で支えた中華思想(または華夷思想)も大きく変化していきます。これらについては、『詳説世界史研究』(2017年)のp.236の記述と、p.237のコラム「多民族国家清朝」に詳しく書かれています。

 

「…清朝支配者の目から見て、その支配地域は必ずしもこの範囲にとどまるものではなかった。朝鮮・琉球など、清朝に定期的に朝貢使を派遣する周辺諸国も、またベトナムやタイのように政権交代や国内の紛争などで清朝の権威を借りることが必要なときのみ朝貢してくる国々も、現実の支配はおよばなかったとはいえ、理念的には天子の勢力のもとにあった。また、広州に来航するヨーロッパ船など、朝貢でなく貿易をおこなうのみの外国(「互市の国」)も、清朝の目から見れば、天子の徳を慕ってはるばるやってくるという意味で、潜在的な支配関係の枠組みのなかで認識されていた。…」(『詳説世界史研究』、p.236

 

「清朝の皇帝は…多民族国家清朝の正当性を支える統一的な論理をつくり上げようと試みた。例えば雍正帝は、『大義覚迷録』という書物の中で、おおむねつぎのように述べている。[満州人は満州人の、漢人は漢人の、モンゴル人はモンゴル人の、それぞれの言語や風俗をもつ。もし漢人を華としそれ以外を夷とよぶなら、そうよんでもよいが、その場合、華と夷は価値の上下をあらわすものではなく、たんに出自の集団や地域の違いをあらわすだけである。人としての上下は、言語や風俗の違いにかかわらず、目上を敬い、罪を犯さず、秩序を守ってなごやかに暮すという、普遍的な倫理を守っているかどうかにある。天は、華夷の別なく、もっとも徳のあるものに天命を下して天下を支配させるのであり、現に清朝が広大な領域を平和に統治しえているという事実こそ、清朝皇帝の徳の証明である。…]」(『詳説世界史研究』、p.237

 

このように、清における冊封、朝貢関係では、「周辺国が偉大な中国皇帝の徳を慕って従う」という儒教的道徳観や理論的な柱に変化はありませんが、その形態は「藩部」、「朝貢国」、「互市の国」など様々だったのであり、また朱子学が官学であった明代には「華夷の別」が明による支配正当化理論の柱の一つであったのに対し、女真族による征服王朝であった清代にはこの「華夷の別」の重要性はむしろ否定されました。しかし、一方で易姓革命論的な天命論を重視することによって中国皇帝が中心であり、その徳を慕う周辺諸国という構図自体は維持されました。以下に示すのは清の時代の直轄領・藩部・朝貢国を示す図ですが、清の冊封・朝貢関係がアジアのかなり広範囲(東アジア・東南アジア・中央アジアの多くの地域)にわたっていたことが分かります。

 清領域

(『詳説世界史研究』山川出版社、2017年、p.234

 

以上のような明から清にかけての様々な変容を全て示すのは限られた時間の中で整理して答案を仕上げる本番の試験では至難だと思います。ですから、戦略としては(手順1)~(手順5)で示したような大きなフレームワークを意識しながら、(手順6)の中に出てきた細かな変容をどれだけ自分の論述の中に組み込み、それらをどのように意味づけるかで他の受験生に差をつけていく解答をつくる、ということを目指すことになるでしょう。

 

【解答例】

明は海禁策の一方で周辺国に朝貢を促し、朝鮮や黎朝と形式上の君臣関係を結ぶことで冊封体制を再編した。南海遠征後は日本・琉球・マラッカなどとの朝貢貿易が拡大し東アジアの一体化が進んだが、北虜南倭や壬辰・丁酉倭乱への対処で明の冊封体制は動揺し、明の滅亡後は清がこれを継承・再構築した。朝貢関係は多様化し、清と対等なネルチンスク条約を結んだロシアや広州で交易するイギリスなどの互市の国、朝貢貿易の利益を得るために清と薩摩藩双方に臣従する琉球が現れ(史料C)、藩部など支配形態も多様化したが、その根本には伝統的な中華思想が存在した。しかし、征服王朝である清は儒教を保護しつつも、支配正当化のために華夷の別より易姓革命論的世界観を重視した。一方、小中華思想で正当な中華文明の継承者を自認する朝鮮(史料A)や皇帝を称する阮朝など、中華思想の援用で支配を正当化する周辺国も存在した。自由貿易要求を拒否されたイギリスが19世紀にアヘン戦争で勝利すると、清は開国を迫られて自由貿易を強要された。アロー戦争後には外国公使の北京駐在が決定して清は総理衙門を設置し、対等な国家が条約によって国際関係を形成する主権国家体制に組み込まれた。さらに、清に朝貢を続ける阮朝(史料B)をめぐって清仏戦争が起こり、清は敗れてベトナムに対する宗主権を放棄し、日清戦争後の下関条約では朝鮮に対する宗主権を放棄したため、冊封体制は完全に崩壊した。(600字)

 

時系列でひたすら朝鮮とベトナムとの関係のみに焦点を合わせて書き連ねていく人もいるのでしょうが、それだと地域的な広がりが見えなかったり、変化がうわべだけのものに見えてしまったりするかなぁと思ったので、個々の歴史的事実はいくらか削ってでも、論述内で示す事象が「明・清の冊封・朝貢関係の中でどのような意味を持つのか」ということを示す方に重点をおいて書いてみました。しっかり詰め込もうとするとかなり体力のいる設問だと思います。ぶっ通しで解説作った後でやっつけ仕事で解答作ったので疲れ果てましたw 今日はもう寝ます。

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先日ご依頼がありましたので、今回は東大2012年問題(アジア・アフリカにおける植民地独立とその後)を取り扱ってみたいと思います。こちらの設問は当時話題になっていたフランスの宗教的標章法が注付きとはいえ指示語として登場したということで話題になった問題ですが、それだけでなく、例年になく東大世界史の平均点が高かったということでも話題になった問題です。ですが、それは本設問が簡単だったかというわけではありません。むしろ、本設問は真正面から取り組むと例年になく難しい、まとめるのが非常に困難な設問であったと思われます。にもかかわらず平均点が例年より高く出たということは、もしかすると採点基準の方にいくらかの配慮がなされたのではないか、とも言われたりしています。実際のところはどうなのかわかりませんが、大切なことは平均点がどうのとか言うよりも、東大の側では受験生に何を求め、そして与えられた問題を解く側はどのようにすれば出題者の求めに応じることができ、かつ他の受験生よりも一歩先んじることができるのかを検討することでしょう。

 

【設問概要】

・アジア、アフリカにおける植民地独立の過程について論ぜよ。

・アジア、アフリカが独立した後の動向について論ぜよ。

・地域ごとの差異について考慮せよ。

・指示語は

 カシミール紛争 / ディエンビエンフー / スエズ運河国有化 / アルジェリア戦争

 ワフド党 / ドイモイ / 非暴力・不服従運動 / 宗教的標章法

 の8つで、下線を付すことが求められている。

・また、宗教的標章法には注で「公立学校におけるムスリム女性のスカーフ着用禁止」などを決めたフランスで制定された法律という簡単な説明が付されている。

18行(540字)以内で記せ。

  

(リード文から読み取れる留意点)

  旧宗主国(旧植民地本国)への経済的従属

  同化政策のもたらした旧宗主国との文化的結びつき

  旧植民地からの移民増加による旧宗主国内の社会問題

 以上のが植民地主義の遺産としてアジア、アフリカ諸国の独立後も長い影を落としており、また、

 A:植民地政策の差異

 B:社会主義や宗教運動

などの影響により地域により異なる様相を呈することが示されている。

 

【手順1:アジア、アフリカの植民地整理】

 指示語から整理しても良いのですが、設問は対象を「ヨーロッパ列強により植民地化されたアジア・アフリカの諸地域」と非常にアバウトに示しており、旧宗主国の限定などは行っていません。だとすれば、指示語につられ過ぎてしまうと手落ちになる部分が出てきてしまう可能性もあるので、簡単にでもよいのでヨーロッパ諸国によって植民地化されたアジア・アフリカの諸地域について確認してみると、世界史の教科書レベルで出てくるものとしてはおおよそ以下のようになります。

 

(アジア) 

植民地:仏領インドシナ(ディエンビエンフー、ドイモイ)

    英領マレー、インド(非暴力・不服従、カシミール紛争)

    蘭領東インド

   (保護国、委任統治領:中東、イランほか 自治領:ASNZ

(アフリカ)

植民地、保護国

:英領エジプト(ワフド党、スエズ運河国有化)、スーダン、南アフリカ

   南アフリカは1910以降自治領

 仏領サハラ(アルジェリア戦争、宗教的標章法)、モロッコ

 独領トーゴ、カメルーン、タンザニア、ナミビア

 その他ベルギーのコンゴ、ポルトガルのアンゴラ、モザンビークetc.

 

 上記のうち、( )付きで赤い文字になっているのは本設問の指示語です。ご覧になってわかるように、指示語8つすべてが英領植民地または仏領植民地に関連するものです。また、540字で「地域ごとの差異」について考慮せよ、と言っているところからも、ベースは英仏植民地政策の差異を受けて独立後の各地域がどのような様相を呈したか、で良いように思います。ただ、設問はあくまで英仏ではなくヨーロッパ諸国と言っていますので、そのほかの国と植民地の状況についても適宜さしはさむ必要はあるのではないでしょうか。

 

【解答手順2:手順1の整理、指定語、設問要求から、中心的な話題を選別】

 上述の通り、ベースは英仏でOKだと思います。だとすると指示語から絶対に欲しいのは

 

インド帝国(インド・パキスタン・ビルマ)、エジプト

仏領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)、アルジェリア

 

でしょう。まずは、この両者に差異がないかを検討してみることになります。ただ、一概に英は〇〇で、仏は××と言い切れるものではないので、いくつか差異として考えられるテーマを挙げてみたいと思います。

 

「英交渉や外交を通しての自治や独立」、「仏独立戦争などの武力闘争」

:イギリスは、民族運動が高まりを防ぐ際に一定の譲歩をしながら実質的な支配や利益を確保するという方法をとる傾向があります。エジプトの形式的な独立や、インドにおける度重なる譲歩(そして他方での弾圧)、中東支配のありかたなどを考えればそれは明白です。また、いずれの植民地においても激烈な独立戦争などは起こっていません。

 これに対し、フランス植民地では必ずしもそうではありません。特に、指示語と深いかかわりをもつ仏領インドシナではインドシナ戦争が、アルジェリアではアルジェリア戦争がそれぞれ発生しています。この背景としていわゆる「文明化の使命(アジア・アフリカの劣等人種に近代社会・思想を与えて<文明化>していくことが優越種たる白人やフランスの使命であるという考え方)」というフランスの統治姿勢が存在したことは平野千果子をはじめとする複数の研究者によって指摘されていますし、学会でもよく言及されます(学生時代、周りが猫も杓子も「文明化、文明化」言ってたので、「一体なんだ?」と思った記憶がありますw)ので、おそらく本設問でも意識していると思われます。(別に解答に文明化の使命云々を書く必要はありません。一つの視点として知っておくとよいでしょう。)

 

「英分割統治(宗教、民族、地域、階層)」

:イギリスのインドにおける分割統治は有名です。特に、ヒンドゥー教徒を中心とするインド国民会議派とムスリムを中心とする全インド=ムスリム連盟の対立を生み出したベンガル分割令などはよく知られています。ですが、イギリスの分割統治はそうしたことに留まらず、多岐にわたっていたことについては注意が必要でしょう。たとえば、藩王国間での競合を促したり、藩王国の支配層をインド帝国内において箔付けし、イギリス人と同じ支配階層として遇することで民衆との間に断絶を生み出したり、カースト間でも上位カーストと下位カースト間での差別意識や対立を植え付けたりと、かなりきめ細かな「分割」を行っています。(このような分割の仕方についてはたびたび言及していますが、デイヴィッド=キャナダイン[David Cannadine]の『オーナメンタリズム』[Ornamentalism]が面白いです。紹介すると言ったままになっちゃってますね。もうずいぶん古い本になってしまいましたが。

こうした「分割」は、その土地の人々が一丸となって支配者であるイギリスに反抗することを防ぐ効果を持っていました。こうした統治が最も組織立って行われたのはもちろんインド帝国でしたが、何もインドに限ったことではなく、他の土地でも見られました。(たとえば、南アフリカのブーア人を取り込んで黒人を支配させるなど)

 こうした英の植民地統治は、インドのコミュナリズムや階層間対立、南アフリカのアパルトヘイト、中東におけるアラブとイスラエルの対立、マレーにおける複合社会の形成とシンガポールの独立など、現代にもつながる諸問題へとつながっていきます。一方、フランスの側ではイギリスほど細かな社会の分断政策はとられませんでした。これもまた、フランス植民地における対立が「フランス人または入植者vs植民地の先住民」という形に比較的はっきりと分かれる原因であるかもしれません。

 

同化政策

:同化政策については、多かれ少なかれ試みられています。ただ、それが国家の主導で行われたかどうかや、ずっと同じように継続して行われたかどうかについては、時期や地域によって差があります。たとえば、インドにおける英語の導入についても、これが比較的広い範囲に導入されたのは偶然の要素も強かったようです。イギリスはインドにおけるイギリスの「協力者」は一部のエリート層であればよいと考えていたようです。一部エリートが英語を理解し、そして英国の統治に協力してくれれば良いという発想で、上述した分割統治のありかたにも合致します。それにもかかわらず、広範に一般の初等教育にまで英語教育が拡大した背景の一つとして、従来から機能していたインド独自の教育体制(日本の寺子屋的なもの)が、インド産業と農村の疲弊・崩壊によって機能不全に陥ったこと、またこれにかわる形でイギリス側が公教育機関を英式教育(英語含む)で整備したことなどがあるようです。この公教育の整備についてはイギリス本国ならびに植民地政府の間でも意見が割れていたようで、とても国をあげて同化政策を進めたと言い切れるようなものではありません。

 ただ、イギリスにせよフランスにせよ、本国と植民地の間で本国への「同化」をめぐる問題は独立前にも独立後も植民地社会に大きな影響を与えたことは間違いありません。独立前の影響としては、本国への留学を通した植民地支配層の形成や、知識人・民族資本家の成長、本国言語の習得などがあります。また、独立後の問題としては移民に対する旧宗主国内での「同化」圧力などがあげられます。たとえば、フランスのライシテ(政教分離)と宗教的標章法をめぐる問題などがそれです。

 ライシテについては、フランスではフランス革命以来、たびたびカトリック勢力を政治の場から切り離そうとする努力が行われてきました。(もっとも、それはウィーン体制下や第二帝政下などでは逆にカトリック勢力の復活が見られるなど一方通行の物ではなかったわけですが。)特に、19世紀の後半には従来から教育を担ってきたカトリック勢力と公教育を通して国民国家を確立させたい政府の間で学校教育をめぐる対立が先鋭化し、フェリー法(1882、小学校の無償化、義務化に加えて非宗教化が確立された)などの諸法などによって教育の場をはじめとする公共空間からは宗教性を排することが確立しました。つまり、ライシテとはもともとはカトリック勢力の排除のために進められていたものです。

 ところが、フランスへの移民の増加と、9.11テロ以降のムスリムに対する偏見の増大などから、公共の場からムスリムを排除することを正当化するための理論としてライシテが使われ始めます。その一つが宗教的標章法で、特にムスリムの女性のスカーフ(ヒジャブ)が標的にされ、何名かの女子生徒が退学処分となるなど大きな社会問題となりました。つまり、「フランスでは伝統的にキリスト教徒も学校では宗教的なものは排しているのだから、ムスリムもそうせい。」ということで、一見すると「同化」を要求しているのですが、実際にはフランス社会に亀裂を生み、むしろムスリムに対する差別を助長する要因の一つになっているようです。(フランスではその後もブルキニ[ヒジャブの一種ブルカとビキニの合成語で、ムスリム女性の水着]禁止令などが問題となりました。)

 

「英原材料調達のための植民地経営と市場化」

:イギリスは、比較的植民地を目的別に効率よく運用しようという意図が感じられます。そのせいか、その土地の名目的な支配権よりはむしろ、実質的な支配権や経済的利権の維持に腐心していました。原料供給地兼市場としてのインド帝国、錫や天然ゴムの生産基地としてのマレー連合州、スエズ運河という巨大利権を有するエジプトなど、イギリスの植民地経営がいかに経済的利益を追求していたかについては世界史の教科書レベルでもはっきりと出てきます。このことが、植民地に対して譲歩を重ねつつ実質的な支配権を維持するイギリス式植民地支配へとつながっていたように思われます。これに対し、フランスの植民地支配には目立った経済的利益獲得のための戦略のようなものが見られません。

 

社会主義との関係

:英仏ともに、独立した植民地においては多かれ少なかれ社会主義運動が展開されました。ただ、その運動のあり方や植民地支配との関係にはやはり英仏植民地間で差があるように思われます。たとえば、イギリスの植民地の独立については、社会主義政党はそれほど大きな力となって出てきていません。これはそもそも、イギリス植民地の独立の多くが交渉や外交によって成立したということもあるのですが、独立運動が激しく展開したインドやエジプトをとってみてもその中心は民族主義政党で社会主義政党ではありません。(もっとも、民族主義政党の指導者の中に社会主義思想の影響を受ける者がいなかったというわけではありません。)むしろ、イギリスの植民地は独立後に冷戦構造の展開の中で社会主義路線やソ連への接近を見せる国が多いように思われます。(インドの対ソ接近、ナセルのスエズ運河国有化、ガーナのエンクルマによる社会主義経済と一党独裁、ビルマのネ=ウィンなど。)

 これに対し、フランス植民地の場合、社会主義運動ははっきりと独立運動の中心に出てきます。最も有名なものはホー=チ=ミンが指導するインドシナ共産党やベトナム独立同盟でしょう。ベトナムと同じく独立戦争を戦ったアルジェリアのアルジェリア民族解放戦線も社会主義政党です。また、独立後のインドシナではポル=ポトのクメール=ルージュやラオスのパテト=ラオ(ラオス愛国戦線)などの共産主義革命勢力の活動が活発でした。

     

【解答手順3:ベースの4地域において独立過程とその後を整理】

 手順2のは、英仏すべての植民地で常に当てはまるというものではありません。ただ、大きな流れとして「これは使える」というものを適宜各植民地の状況に合わせて示しておくとよいでしょう。

 次の手順として、指示語が示しているベースとなる英仏の4つの植民地(インド・エジプト・インドシナ・アルジェリア)の独立過程を整理してみましょう。実際の試験の時には下に示すほど丁寧に整理するのは不可能ですので、手順2で示したのいずれかを意識しながら、それと特にかかわる部分は何か考えながら要所をまとめておくとよいでしょう。私がまとめるときには、「イギリスの分割統治や多重外交と交渉による植民地独立/独立後の植民地に残した問題」「フランスの強圧的統治がもたらした社会主義運動の激化と独立戦争/独立後の諸問題」のような形でまとめると思います。多分一番やりやすいので。

 

.英植民地と分割統治

(インド)

・藩王国と民衆

・宗教的分割(ex.ベンガル分割令)

 →1906 インド国民会議カルカッタ大会「スワラージ(自治)」

  同年 全インド=ムスリム連盟(親英団体)

    1909 モーリー=ミントー改革

     :インド参事会議員の一部にインド人を参加させる一方で、ムスリムに有利

 自治の約束(ex1919制定、1921施行のインド統治法)

  不十分な自治に対してたびたびインドの民族運動激化

  1927 サイモン委員会(憲政改革調査委員会):インド人なし

  1929 インド国民会議派ラホール大会「プールナ=スワラージ(完全独立)」

  1930~塩の行進、英印円卓会議

ハリジャンに対する選挙特別枠とガンディーの差別固定化に対する危惧

  1935 新インド統治法(地方自治に参加)

 →1937年地方選挙でインド国民会議派の圧勝、ムスリムの危機感

 アトリー労働党内閣成立(1945)とマウントバッテンによる分離独立裁定(1947

・独立後

  印パ間の対立(カシミール地方の帰属問題から印パ戦争19471965

  パキスタン(ジンナー)は西側(東南アジア条約機構[SEATO]、バグダード条約機構[METO]参加)

インド(ネルー)は東側に接近ネルーの社会主義経済路線

  バングラデシュの独立(1971、第3次印パ戦争)

  印パの核武装化

  中印国境紛争(イギリスによるシムラ条約1914とマクマホンライン[中国は拒否]がベース)

  カースト制度の残存、宗教対立の残存

近年のムスリム差別の激化(インド人民党の台頭、アヨーディヤ問題などのコミュナリズム)

インド人民党(BJP):ヒンドゥー至上主義、上位カースト出身者多数の民族主義政党

社会主義経済的なインド国民会議派に対して、自由主義経済の徹底を主張、首相にパジパイ(核実験再開)、モディ

コミュナリズム:宗教集団(コミュナルcommunal)が他の集団を排除しようとする動き

 

(エジプト)

・エジプトにおける民族運動激化と支配層の取り込み

 1919~ ワフド党(サアド=ザグルールの流刑をめぐり)

 1922  エジプト王国の独立を承認

(ムハンマド=アリー朝、エジプト防衛権、スーダン・スエズ駐兵権維持、経済的従属)

      ワフド党の与党化とムスリム同胞団の成立(1929、ハサン=アルバンナ)

  1936  エジプト=イギリス同盟条約(スエズ、スーダン駐兵権の維持)

  大戦後 アラブ民族主義の台頭と腐敗した王政への疑問

  1952 エジプト革命

    :ナギブ、ナセルなどの自由将校団による親英王政の打倒

  1956 ナセルによるスエズ運河国有化とスエズ戦争(1956-57

     :アラブ民族主義の高揚

  中東戦争:イギリスによる多重外交の産物

  アラブ民族主義に対するイスラーム原理主義の台頭(サダト暗殺)

  アラブの春

 

B、仏の強圧統治と独立闘争

(ベトナム)

 ・仏領インドシナにおける民族運動、独立運動の弾圧

  (ファン=ボイ=チャウ、ファン=チュー=チン、ホー=チ=ミン)

 ・ベトナム民主共和国の成立と社会主義

  インドシナ戦争(1946-54)、ディエンビエンフーの戦い、ジュネーヴ休戦協定

 ・ベトナム戦争と南北統一(ベトナム社会主義共和国1976

 ・冷戦構造の転換とともにドイモイ(共産党一党独裁を維持した市場経済の導入)

 ・ASEANへの加盟と経済的結びつきの強化

 

(ラオス・カンボジア)

 ・民族主義と社会主義の混在

 ・冷戦構造の影響を受ける

 ・冷戦終結による市場経済導入(政治的にはラオスはラオス人民革命党による一党独裁)

 

(アルジェリア)

 ・フランス統治と「文明化」 

cf).アブド=アル=カーディルに対するレジオン=ドヌール勲章

    ナポレオン3世の「アラブ王国」構想

 ・大戦後、FLN(アルジェリア民族解放戦線)結成1954?、ベン=ベラ)

  アルジェリア戦争開始(1954-62

 ・フランス人入植者(コロン)とFLNの対立

  フランス人入植者の反抗を抑えるためにド=ゴールが大統領就任、第五共和制発足

   大統領権限を強化したド=ゴールはコロンの不満を抑えてFLNと交渉、エヴィアン協定(1962

 ・ベン=ベラとその後のクーデタ政権下での社会主義路線

 ・経済の行き詰まり

  イスラーム原理主義の台頭(イスラーム救国戦線、FISの成立)

  →FLNによる一党独裁とアラブ化への不満からベルベル人との対立

  経済の行き詰まりとフランスの経済成長によりフランスへの移民増加

   (フランスにおけるライシテと人種差別問題:宗教的標章法)

 

【解答手順4:その他の地域で目立つ部分をテーマに沿って肉付け】

 正直なところ、手順の1~3の内容をまとめるだけでも540字では収まりません。また、この字数で「差異」を意識的に示さなくてはならないのに、複数の物の差異を無理に示そうとすると結局脈絡のない事実の羅列に終わってしまって、何が「差異」なのか伝わらないままになってしまいます。指示語を考えてもやはりここは英仏植民地とその差異を何らかの形でしっかりと示した上で、そのテーマに乗っけられるような部分をベースとして使った植民地(インド・エジプト・インドシナ・アルジェリア)以外の植民地から持ってきて示すくらいで良いのではないかと思います。その場合、使いやすいのは以下のような地域と事柄でしょう。

 

・マレー半島の植民地経営と人種間の分割(英人、華人、マレー人、印僑)

・ベルギー領コンゴとコンゴ動乱

・蘭領東インドと、独立後のナサコム(民族主義、共産主義、イスラーム) など

 

 解答例示すべきなのですが、昔作った解答がどこかに行ってしまいまして、ちょっと時間もないことからとりあえず割愛して、時間のある時に追加したいと思います。また、本稿自体あまりまとめる時間がありませんでしたので、ところどころ時間のある時に手直しするかもしれません。余裕がなくてすみませんw



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東大が解答を公表しましたね。解答や出題の意図については以下のページに公表されています。

https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/admissions/undergraduate/e01_04_18.html

これを見ての感想ですが、「あれ、これだけか」というのが正直なところ。世界史に関しては出題の意図が少し示されたのみで、解答については公表されませんでした。ただ、「これだけか」と思いつつも、「これで良かった」というのと「そりゃそうだわな」という気持ちが混じった気持ちを抱きました。

というのも、東大世界史論述の解答にはもちろんある一定の基準なりは設けられているのでしょうが、答え方は一つではなく、多様な見方、解答の書き方が存在するはずです。仮に、東大が「あくまでも一例として」と言ってなんらかの解答を示したとしても、そのあたりのところがわからない人がそれを見れば「だって東大の解答には〇〇って書いてありましたよ」と言って、他の見方を受け付けない思考停止状態に陥ることは十分に考えられますし、それはより深い理解や思索を求める東大の意図するところではないと思います。

ですから、東大が解答を公表することに決めたという報道を聞いた時には「え、やるの?やめといたほうがいいのに」と思いつつ、もし出すのであれば自分の思考過程がどの程度東大の求めていることとシンクロしているのか確かめられると期待もしました。ですから、今回のように出題の意図の公表のみにとどめて、突っ込んだ解答・解説が示されなかったことには、残念な気持ちもありますが、「さすが東大、学問をよくお分かりで…」とほっとした気持ちの方が強い気がします。今後どうなるかは分かりませんが、個人的にはあんまり画一的な見方を生むような解答例の提示はして欲しくないなぁと感じています。


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 先日、雑感の方でも申し上げましたが、ようやくオスマン帝国史が出題されました。19世紀以降のオスマン史は近年教科書や参考書の記述も充実してきて、教員・受験生ともに認知度の高まってきていた分野です。しかも、東大が好きな帝国、ボーダーレス、民族問題、思想や宗教など美味しい題材がてんこ盛りなので、いつ出てくれるかなぁと思う反面、あまりにもベタな内容なので逆に裏かいて出さないかなぁと思ったりもしていました。

 もっとも、そのように長い間「待望」されていた問題なので、おそらくこの分野についてノータッチで受験する人の数は、昔と比べるとかなり減っていたのではないでしょうか。もしこの問題が10年前に出題されていたとしたら、おそらくかなりの人数が返り討ちにされた可能性が高いですが、今年度は受験生の側もそれなりに対応できるだけのものをもって受験していたのではと推測します。そういう意味では東大がこの問題を今年度出題したことはタイミング的にはちょうど良かったのかもしれません。

 また、問題の内容としても概ね標準の内容です。近年多かった比較の視点など、整理に時間がかかるような条件もついていませんので、それほど面倒な整理でもありません。トルコ史をしっかりやっていった人にとっては逆に物足りなさを感じた可能性があります。本設問で注意しなくてはならないところは、パン=イスラーム主義とスルタン専制の関係性と、その後に出てくるパン=トルコ主義との関連をどのように処理するかでしょう。多くの受験生がこの部分については正確には知らないと思います。また、18世紀半ばから1920年代までのオスマン史と、170年近いスパンでの「動き」を記述するわけですから、東大が日頃気にしている「変化・変遷」といったものも伝わるようにできれば言うことはありません。

 形式上の大きな変化としては、大論述が22行(660字)と解答欄いっぱいに使わせるように変更になりました。もっとも、東大はたびたび大論述の字数を変更していますし、全体としては増加傾向にありましたから、このこと自体はそれほど驚くべき変化ではありません。おそらく、会場の受験生もある程度は対処可能だったのではないでしょうか。ただ、22行の文章を書くにはそれなりの文章力を必要としますので、日頃から文章を書き慣れていない人にとっては苦しかったかもしれません。

 全体としては、第1問よりも第2問の方が難しさを感じました。受験生が何となく知っていることではあるものの、正確に記述するのは難しい部分を間接的に問うというやり方で出題されていて、応用力がある人や勘の良い人はある程度対処できる反面、ピンとこない人にとっては下手をすると丸々1問落としかねない出題のされ方がされています。(ニュージーランドの政治的地位の変化などはその典型ですね。) 第3問についてはおおむね基本問題でした。第3問では、落として許されるのはせいぜい1問か2問ですが、できれば全問正解を目指したいところです。

 

【第1問】

(設問概要)

・時期:18世紀半ばから1920年代

・オスマン帝国の解体過程について記述せよ。

・オスマン帝国内の民族運動に注目せよ。

・オスマン帝国内の帝国の維持を目指す動きに注目せよ。

・指示語:アフガーニー / ギュルハネ勅令 / サウード家 / セーヴル条約 / 日露戦争 /

フサイン=マクマホン協定 / ミドハト憲法 / ロンドン会議(1830

・用いた語句には下線を付せ。

22行以内(660字)

 

 リード文は今回あまりヒントにはなりません。なぜか唐突に冷戦30周年とか言ってますが、とってつけたようですねw つい最近冷戦期の問題出したばかりですから、そうそう冷戦に持っていくこともできなかったのでしょう。今回の設問はあくまでオスマン帝国の解体過程について問う問題ですから、その後の影響などについては記述の必要はありません。指示語のうち、使い方が難しい(というよりは、使い方を誤りがち)のはロンドン会議でしょうか。あとはオスマン帝国の衰退と改革の試み、そして解体を一連の流れで書けばよいので、比較的平易です。もっとも、完全解答を作ろうとすると、難度は急激に上がりますw あくまでも、「他の受験生が書ける+αを書く」という意味ではそこまで難しくはないだろうという意味で平易と言っておりますので、「簡単だから誰でも満点近くとれる」と言っているわけではありません。東大の問題でそんな問題はそもそもないでしょう。

 

(解答手順1:全体の流れを構築)

 まずは、全体の骨組みとなる流れを構築します。ただし、本設問は「オスマン帝国の解体過程」を要求する内容ですから、そこに焦点を合わせて書く必要があるでしょう。ですから、いわゆる「東方問題」のような内容をひたすら書いてもそれは得点とはなりません。あくまでも、オスマン帝国がどのように衰退、分裂、解体するのかを意識して流れを構築することが大切です。このような視点で考えた時に、全体の骨組みとして必須なものは以下のような部分かと思います。

 

18世紀半ば以降のオスマン帝国の衰退

:オスマン帝国の力が弱まる一つのきっかけとしてよく出てくるのは17世紀末の第2次ウィーン包囲の失敗(1683)とその後のハプスブルク家からの追撃を受けて締結するカルロヴィッツ条約(1699)におけるオスマン帝国領ハンガリーならびにトランシルヴァニアの喪失ですが、これらは時期的に今回の流れには使えません。オスマン帝国はその後もかなりの力を維持していますが、18世紀半ば以降はその衰退を隠すことができなくなります。

 まず、黒海北岸においてはエカチェリーナ2世の統治下にあったロシアの南下にさらされ、1774年のキュチュク=カイナルジ(カイナルジャ)条約ではクリム=ハン国の宗主権を放棄して、実質的にクリミア半島を喪失します。(クリム=ハン国はその後1783年にロシアに併合されます。)

 また、アラビア半島ではイスラーム改革運動が起こり、ムハンマド=イブン=アブドゥルワッハーブが興した復古主義的、原理主義的なワッハーブ派と、アブドゥルワッハーブと盟約を結んだムハンマド=イブン=サウードのサウード家が中心となってワッハーブ王国(第1次)が建国されます(1744)。ワッハーブ派は次第に勢力を拡大し、メッカ、メディナを占領(18031804)しますが、最終的にはオスマン帝国の要請を受けたエジプト総督ムハンマド=アリーによって滅ぼされます(1818)。 聖地の奪回を一地方総督に頼らざるを得なかったことはオスマン帝国の退潮を如実に示すものであり、また、ワッハーブ派の活動はアラブ人たちの民族主義を自覚させる契機となるものでした。(もっとも、私自身はこれを「アラブ民族主義」と表現することにはかなり抵抗を覚えます。20世紀半ば以降のアラブ民族主義との混同を招きますし、その他いろいろとワッハーブ派の活動にともなうアラブ人の民族的自覚をアラブ民族主義という一言で表現することには色々と問題がありそうな気がします。)

 

・エジプトの独立とムハンマド=アリー朝の成立

:ムハンマド=アリーは1805年にエジプト総督の地位につきます。実質的にはこれがムハンマド=アリー朝の開始とされますが、宗主国であるオスマン帝国や国際的に正式承認されたものではありません。ムハンマド=アリーはその後1811年に自身に反抗的で、近代化の障害となっていたマムルーク勢力を謀略によって一掃し、本格的な自立を始めます。社会全体に影響を及ぼしていたマムルーク勢力を一掃したことで、ムハンマド=アリーは本格的な近代化を開始します。その改革は教育改革、殖産興業(近代的工場の導入や紡績業の育成、軍需品生産の拡大)、税制の改革(政府による直接徴税)、西欧の学問の取り入れなど多岐にわたり、依然としてアーヤーンやイェニチェリなどの保守勢力の存在によって改革が進まなかったオスマン帝国と力の差は縮まっていきました。

 こうした中で、ギリシア独立戦争に際してオスマン帝国の要請に応じた見返りとしてムハンマド=アリーはシリアの行政権を要求します。その結果、第一次エジプト=トルコ戦争(18311833)が起きてオスマン帝国はシリアを奪われます。さらにその後、シリア奪回を目指して出兵したオスマン帝国軍を打ち破ったムハンマド=アリーはエジプト・シリアの総督世襲権を要求すると、エジプトの強大化とフランスの接近を嫌った諸国(英・露・普・墺)がオスマン帝国を支持した結果、この戦争ではエジプト側が敗北します(第二次エジプト=トルコ戦争:18391840)。その後開かれたロンドン会議(1840)において、エジプトはシリアの領有権については放棄しましたが、エジプトならびにスーダン(スーダンは182022にかけての外征で軍事占領していた)の世襲権を認められ、独立国として承認されます。これにより、長らくオスマン帝国の版図であったエジプトはその支配下から完全に離れることとなりました。

 

・ギュルハネ勅令とタンジマート(恩恵改革[原語の意味は「再編成」]

:第一次エジプト=トルコ戦争の敗北に加え、第二次エジプト=トルコ戦争の緒戦でも、シリアにおいて敗北を喫したオスマン帝国では、マフムト2世が病死し新たなスルタンとしてアブデュルメジト1世が即位します。このもとで、当時外交問題を担当していたムスタファ=レシト=パシャ(後に大宰相)の起草により、オスマン帝国の改革案であるギュルハネ勅令(1839)が発布されました。この勅令はオスマン帝国の司法・行政・財政・軍事に関する一連の西欧化改革の方針を示したもので、具体的にはムスリムと非ムスリムの法の下の平等、生命・財産の保障、裁判の公開、イルティザーム(徴税請負制)の廃止などが示されており、形の上ではオスマン帝国はこれ以降近代的法治国家としての体裁を整えていくことになります。

重要な点は、このタンジマートはギュルハネ勅令が出された時に一気に進められた一過性の改革ではなく、これ以降のオスマン帝国が進める法制改革、殖産興業、軍事改革など一連の諸改革の総称を指すということです。その集大成となるのがミドハト憲法の制定(1876)と帝国議会の設置による西欧型の立憲君主制樹立でした。

また、もう一つ重要な点に、この改革の進展の中でオスマン帝国に対する外国資本の流入が急激に進んだことが挙げられます。さらに、オスマン帝国の産業育成は綿花・小麦・オリーブなどの商品作物栽培が中心で、工業製品は安価なイギリス製製品を購入するという関係が続いたことから、次第に欧州資本に対する経済的従属が進行していきます。さらに、クリミア戦争の戦費や、1860年代の綿花価格の乱高下(アメリカ南北戦争の影響による)などで国際価格の変動が大きい綿花などの一次産品に依存した経済は大きな打撃を受けることになりました。

 

・クリミア戦争(185356)と財政破綻

:クリミア戦争では、オスマン帝国は英仏の支援によりどうにか勝利を収めることができましたが、戦争中にイギリスから借款を行ったことでオスマン帝国の財政は破綻へと向かい、ヨーロッパ依存型経済への変化が加速します。

 

・露土戦争の敗北と帝国領の縮小

:露土戦争に敗北したトルコは、サン=ステファノ条約ならびにベルリン会議における諸決定により、バルカン半島の一部とアナトリアならびにアラブ人居住地域(シリア・パレスティナ・アラビア半島西岸・イラク周辺など)にその領有地域が狭まりました。(ベルリン会議ではセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの完全独立、ブルガリア公国の自治領化、キプロス島におけるイギリスの支配権、ボスニア=ヘルツセゴヴィナのオーストリアによる統治権などが承認されました。)

 

・ミドハト憲法の停止とアブドュル=ハミト2世の専制

:ミドハト憲法の停止とアブデュル=ハミト2世の専制は、オスマン帝国における民族運動や帝国維持の議論と密接に関わっています。これについては、思想史的な要素が多分に含まれて複雑なので、次の(解答手順3)の方で詳述します。

 

・青年トルコ革命(1908

:同じく、次の(解答手順3)で解説します。

 

・バルカン戦争(第一次:191213、第二次:1913

:ここではバルカン戦争勃発の背景については踏み込むことはしませんが、この戦争に敗北したオスマン帝国はイスタンブルを除くバルカン半島領土を喪失します。スラヴ人たちの民族主義については、続く(解答手順2)で解説します。

 

・第一次世界大戦と敗戦、セーヴル条約(1920

:第一次世界大戦でオスマン帝国は同盟国として参加しますが、敗北します。その講和条約であるセーヴル条約において、領土の大部分を失い、その統治範囲はイスタンブルとアンカラ周辺のアナトリア中央部に限られます。その細かい内容まで知る必要はありませんが、一応その内容のうち、主要なものを示すと以下のようになります。

 

 1、トルコ領はアナトリアの一部とイスタンブル(下の地図の黄色部分)

 2、ボスフォラス海峡とその沿岸地域は国際管理とする。また多くの地域が英仏伊などの勢力圏に入る(下の地図の縦線がひかれた地域)

 3、イラク・パレスティナはイギリス、レバノン・シリアはフランスの委任統治領とする

 4、アラビア半島におけるヒジャーズ王国の独立を容認する

 5、アルメニアの独立を容認する(下の地図の水色部分)

 6、クルディスタン建国のための地域を設定する

 

ぶっちゃけ、5と6はここに示さなくてもよいのですが、これらが当時ロシア革命における共産主義波及の防波堤として定められたことや、現在のクルド人問題などと関わりがあることなどを考えると、ちょっとしたことでどこかの私大などで関連知識を問われる可能性もあるので、一応示しておきます。このセーヴル条約を締結したのはイスタンブルのスルタン政府でしたが、この条約の締結によりスルタン政府は完全に列強の傀儡と化しました。

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セーヴル条約下のアナトリア(「セーヴル条約」Wikipedia

 

・ムスタファ=ケマルとトルコ共和国の建国

:列強の言いなりに国土のほとんどを譲り渡したスルタン政府に対し、アンカラを中心に開催された国民会議はムスタファ=ケマルを指導者に革命政権を樹立します。革命政権は外国の占領軍やスルタン側の軍隊と戦い、1922年にはギリシア軍を駆逐してイズミル(スミルナ)を回復、外国軍を駆逐してアナトリアを回復することに成功します。(ちなみに、イズミルは下の地図です)

izmir

(「イズミル」Wikipedia

 ムスタファ=ケマル率いるアンカラ政府は、スルタン制を廃止(メフメト6世の退位)、ここにオスマン帝国は完全に滅亡します。(ただし、カリフ制はまだ存続しています。) さらに、1923年のローザンヌ条約で、先のセーヴル条約で失っていたトルコの独立と領土を回復、確定し、さらにそれまで存在した不平等な国際関係を完全に精算することにも成功します(治外法権の廃止、関税自主権の回復など)。同年、トルコ共和国が成立すると、新国家は西欧化と政教分離を進めたため、残されていたカリフ制も廃止され、メフメト6世の皇太子で最後のカリフとなったアブデュル=メジト2世は廃位され、国外に亡命します。

 

 以上が、オスマン帝国解体までのおおまかな流れになります。途中、解説を挟んでしまって流れが分かりづらくなってしまったかと思いますので、再度まとめておきます。

 

18世紀半ば以降のオスマン帝国の衰退

・エジプトの独立とムハンマド=アリー朝の成立

・ギュルハネ勅令とタンジマート(恩恵改革[原語の意味は「再編成」]

・クリミア戦争(185356)と財政破綻

・露土戦争の敗北と帝国領の縮小

・ミドハト憲法の停止とアブドュル=ハミト2世の専制

・青年トルコ革命(1908

・第一次バルカン戦争(191213

・第一次世界大戦と敗戦、セーヴル条約(1920

・ムスタファ=ケマルとトルコ共和国の建国

 

(解答手順2:帝国内の民族運動とは何か)

 続いて、「帝国内の民族運動」とは何かについて考えてみたいと思います。オスマン帝国が解体へと向かう時期に、オスマン帝国の内部で生じた民族運動には大きく3つの動きがあります。

 

①バルカン半島におけるスラヴ人たちの民族主義

②アラブ人居住地におけるアラブ人たちの民族主義

③「トルコ人」たちの民族主義

 

これらのうち、③の「トルコ人」たちの民族主義は、少々複雑な話になるのでパン=イスラーム主義と合わせて(解答手順3)の方で説明したいと思います。

 

[①バルカン半島におけるスラヴ人たちの民族主義]

 バルカン半島において民族主義が高まってくるのは、ヨーロッパでナショナリズムの高揚が見られた19世紀前半の頃からです。この先駆けとなったのがギリシア独立戦争(18211829)でした。ただし、ギリシア人は正確にはスラヴ人ではありません。また、それまでギリシア人は自分たちを古代ローマないしは東ローマ帝国の末裔と考えていて、古代ギリシアの系統をひいているとは考えていませんでしたが、この頃から自分たちの起源を古代ギリシアに求めた新たなナショナリズムの構築が進められていきます。

 いずれにしても、オスマン帝国の衰退とギリシア独立戦争によるギリシアの独立、そしてヨーロッパ各地で高揚するナショナリズムが、オスマン帝国の支配下にあったスラヴ民族のナショナリズムを刺激したことは疑いがありません。オーストリア=ハンガリー帝国下で西スラヴ人がナショナリズムを高揚させた(ex.スラヴ民族会議:1848)のと同じように、オスマン帝国支配下にあったバルカン諸地域も一つの民族としての自覚を強めていくことになります。同じスラヴ人であるロシアの支援を得ながら、バルカン半島の南スラヴ人たちは次第にオスマン帝国から自治や独立を勝ち得ていくことになります。(1856年のパリ条約によるセルビアの自治獲得や、1878年のサン=ステファノ条約ならびにベルリン条約によるセルビア・ルーマニア・モンテネグロの独立やブルガリアの自治獲得、1908年の青年トルコ革命の混乱に乗じたブルガリアの独立宣言[正式独立は翌年]など)

 このような中、1912年に依然としてオスマン帝国の支配下にあったアルバニアが反乱を起こすと、アルバニア人の独立を支援すべく、すでに独立を勝ち得ていた周辺諸国(セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシア)が同盟を結成します。これがバルカン同盟です。さらに、同じスラブ民族でかつ正教を信仰し、さらにオスマン帝国によるボスフォラス・ダーダネルス両海峡の封鎖を懸念するロシアがバルカン同盟側に加勢して、オスマン帝国との戦争となりました。第一次バルカン戦争です(19121913)。このあたりの話をきちんと理解するためには、やはりバルカン周辺の地図をしっかりと頭に入れておく必要があると思います。

barkan

 上の地図がバルカン戦争後のバルカン半島を示した地図です。基本の構図は「バルカン同盟(セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシア)VSオスマン帝国」です。

 さて、この戦争ではバルカン同盟側の勝利となり、戦後のロンドン条約(1913)ではアルバニアは独立が認められましたが、アルバニア人が多数住むコソヴォ地域はセルビアが領有することとなりました。(こうした事情が後にコソヴォ紛争の遠因となっていきます。)この時、アルバニアの独立が認められた背景には、セルビアのアドリア海進出を阻もうという英・伊の意向が働いたのではないかと言われています。また、マケドニアは上の地図にもあるように、セルビア・ブルガリア・ギリシアに分割されてしまい、独立した国家を形成することはできませんでした。これらのうち、セルビア領マケドニアは後にユーゴスラヴィアの一部となりますが、冷戦後にユーゴスラヴィアから独立します。そしてその後、ギリシア領マケドニアとブルガリア領マケドニアは歴史的に「マケドニア」であると主張して、現在の領土問題へとつながっていきます。

 この戦争により、ベルリン条約(1878)で領土を削減されていたブルガリアの勢力が再び南方へ拡大しましたが、マケドニアは十分な領土を獲得できなかったと考えて不服でした。また、同じく南方への拡大による大セルビアの実現を企図していたセルビアと対立するようになります。マケドニア分割に不服を感じたブルガリアは、まもなくセルビア・ギリシア領に侵入します。これが第二次バルカン戦争の開始です。この戦争では、ブルガリアの強大化を恐れる周辺国(オスマン帝国、モンテネグロ、ルーマニア)が連合を組んで参戦したため、ブルガリアは国際的に孤立し、敗北します。ブカレスト講和条約では、ブルガリアの領土が縮小されます。このことで、セルビアに対する敵意を強めたブルガリアは、その後の第一次世界大戦ではセルビアと敵対したオーストリアの側、つまり同盟国側で参戦することになります。

 あまりバルカン戦争の詳細について話す機会がないので簡単にバルカン戦争についてお話ししましたが、本設問では以下のような内容をオスマン帝国内におけるスラヴ人たちの民族主義とオスマン帝国の解体に関して示しておくと良いと思います。

 

・ギリシアの独立

・バルカン半島におけるスラヴ人たちのナショナリズムと自立

・ベルリン条約とセルビア・ルーマニア・モンテネグロ独立とブルガリアの自治

・アルバニアの反乱と2度にわたるバルカン戦争

 

[②アラブ人居住地域におけるアラヴ人たちの民族主義]

 これについては、大きく3つに分けておくと良いかと思います。

18世紀半ば以降から始まるワッハーブ派の改革運動

19世紀後半から拡大するアフガーニー主導のパン=イスラーム主義

:もっとも、これはパン=イスラームを「民族主義」と言っても良いのであれば、の話。厳密にはイスラームは「民族」ではないですし、アフガーニー自身はイラン人であり、アラブ人でもトルコ人でもありません。パン=イスラーム主義はむしろそうした各民族を越えたイスラームによる紐帯をベースに西欧諸国に対抗していくことを目指した運動なので、「民族運動」という分類は正確ではありません。ただ、アラブ人たちの民族としての自覚や、前後の民族運動との密接な関連を考えた場合、ここに入れておいた方が頭の整理はしやすくなるかと思います。

・第一次世界大戦とアラブ民族主義

 :第一次世界大戦がはじまると、オスマン帝国支配下で民族的自覚に目覚めたアラブ人たちは活動を活発化させます。ムハンマドの血をひくハーシム家の出身であるフサイン(フサイン=イブン=アリー)は、イギリスと結んでアラブ人国家の樹立を目指し、フサイン=マクマホン協定の密約に基づいて反乱を起こします。1918年にはアラビア半島西岸のヒジャーズ地方を中心にヒジャーズ王国を建国しました。一方、第二次ワッハーブ王国の滅亡後、クウェートで亡命生活を行っていたサウード家のイブン=サウードは、ワッハーブ派信奉者の支持を得ながらアラビア半島東岸地域で勢力を拡大し、一大勢力を築いていきます。後に、イブン=サウードはカリフ宣言を行ったフサインのヒジャーズ王国に対する侵攻を開始し、これを滅ぼしてヒジャーズ=ネジド王国を建国(1924)、さらに1932年にはこれをサウジアラビア王国に改称しました。ただ、本設問ではオスマン帝国の解体と民族運動の関係となっているので、ここではイブン=サウードやワッハーブ派がアラビア半島で勢力を拡大したこと程度の言及で十分でしょう。

 

(解答手順3:帝国の維持を目指す動きとは何か)

さて、続いて「帝国の維持を目指す動き」について検討してみたいと思います。オスマン帝国を維持しようとする動きということで真っ先に頭に浮かぶのはタンジマートですが、オスマン帝国の末期には帝国の維持を図るいくつかの思想的な動きが見られました。それは、以下の3つにまとめることができます。

 

①オスマン主義

②パン=イスラーム主義

③パン=トルコ主義

 

 これらは、いずれもオスマン帝国を西欧に対抗するために一つにまとめ上げ、国力を強化していこうとする中で生まれた思想的潮流でしたが、発生した時期や発生の背景はかなり異なっていました。以下では、この3つの思想的潮流がいかなるものであったか、またオスマン帝国を維持しようとする動きとどのように関わってきたのかについて簡単に紹介していきたいと思います。

 

[①オスマン主義]

 :「オスマン主義」はオスマン帝国内に住む人々は宗教・民族の別なく、すべて平等な「オスマン人」であり、「オスマン人」の連帯を基礎として祖国(オスマン帝国)の政治的一体性を維持していこうという発想です。ただ、このような主張は必ずしも当時のオスマン帝国の実態には合致していませんでした。当時のオスマン帝国はバルカン半島のスラヴ系民族や西アジアにおけるアラブ人など複数の民族を抱える多民族国家であり、少なくともオスマン帝国内の人々が全て同じような「オスマン人」としては存在していませんでした。つまり、オスマン主義とは、実態としては多民族国家であったオスマン帝国が各地のナショナリズムの高揚や民族間の対立によって分裂の危機に瀕した時に、帝国を維持するために「創出」されたものであって、「オスマン人」というのもそのために「想像」ないしは「創造」された概念でした。(関連する知識として「創造の共同体」論)

 こうした「オスマン主義」を唱えた人々は、タンジマートによって西欧式教育の導入が進んだことにより、新しい思想に触れた「新オスマン人」と呼ばれる人々でした。この「新オスマン人」は、伝統的な官僚・ウラマーとは一線を画し、ヨーロッパの自由主義思想の影響を受けた改革派の官僚や知識人で、次第にスルタン専制に対する批判を強め、立憲制の導入を進めることになります。このような思想家の一人に、ナムク=ケマル1840-88)がいました。彼は、憲法制定を目指す「新オスマン人協会」を設立(1865)し、各国を亡命する中で当時のスルタンであるアブドュルアジーズの専制を批判する言論活動を展開しました。このような流れの中で、ミドハト=パシャを中心とする改革派の運動が展開し、アブドュルアジーズはこの改革派のクーデタによって廃位され、その後幽閉の後に亡くなります。さらに、アブドュルアジーズのあとを継いだムラト5世も、病のため即位3か月で退位し、その弟であるアブドュルハミト2世が即位することになります。

 こうした一連の動きを見てみると、タンジマート自体に大きな矛盾が存在したことに気づきます。タンジマートは、たしかに法の下の平等など、西欧的な自由主義的思想を積極的に取り入れる改革運動で、歴代のスルタンも国力を強めるための西欧化には積極的でした。一方で、スルタンたちは自身の権力基盤を弱めるような諸改革、たとえば憲法制定による君主大権の制限や議会の設置などには消極的で、このような姿勢はよりドラスティックな改革を求める「新オスマン人」などの改革派には不満の残るものでした。アブドュルハミト2世が即位したときの状況は、このスルタンと改革派の対立とぴったり符合します。アブドュルハミト2世自身は自身の権力を弱めることになる「ミドハト憲法」の制定には極めて消極的でした。ですが、これに先立つクーデタなど、自身が即するに至った経緯を考えると、強く大宰相ミドハト=パシャらの改革派に異を唱えることもできません。一方、ミドハト=パシャら改革派の側でも、ムラト5世の退位などスルタン位をめぐる混乱が長引けば保守派の巻き返しを招く恐れがありました。ミドハト憲法は宗教の別を問わない全オスマン人の平等、人権の保障、二院制議会の設置など、極めて進歩的なアジア初の近代憲法となりましたが、一方できわめて強力な君主大権が残され、スルタンは戒厳令を発し、危険人物を国外追放に処することが可能とされました。これは当時のスルタンと改革派の関係がある種の妥協を要求されるものであったことを示しています。こうした、近代化を求めながらも自身の権力維持を追求する君主と、君主大権の制限など急進的な改革を進めたい改革派の協力と対立の構図は、19世紀以降のアジアの各地で見られる現象ですので、比較してみるのも面白いかもしれません。(中国における洋務運動~変法運動~光緒新政や朝鮮における閔氏政権など)

露土戦争が開始されるとアブドュルハミト2世は憲法の規定に従いミドハト=パシャを追放し、さらに露土戦争敗北によってスルタンに対する批判が高まったことに危機感を覚えたアブドュルハミト2世は議会を解散し、憲法を停止してスルタン専制へと復帰します。この新たに展開されたスルタン専制において、アブドュルハミト2世が利用しようと考えた思想がパン=イスラーム主義でした。

 

[②パン=イスラーム主義]

 :パン=イスラーム主義自体は19世紀の後半にアフガーニーを中心として高揚したイスラーム改革運動で、オスマン帝国のスルタン専制とは直接的な関係はありませんでした。ですが、当時のオスマン帝国のスルタンはイスラームの宗教的な最高権威であるカリフを兼ねており、これに目をつけたアブドュルハミト2世は自らを中心として民族・宗派をこえたイスラームの連帯を呼び掛けることで、自身の権威・権限の強化とスルタン専制の復活を目指しました。一方、それまでに「新オスマン人」たちが「創出」してきた「オスマン主義」は、いくつかの理由からその勢いが弱まっていきます。一つは、「オスマン主義」による帝国の維持を推進してきたミドハト=パシャの追放に見られるように、スルタン専制に批判的な「新オスマン人」たちがアブドュルハミト2世のスルタン専制(あるいはそれ以前から)によって政治の中心から遠ざけられ、弾圧されてしまったことです。そして、もう一つは、「オスマン主義」を掲げる「新オスマン人」たちの急激な西欧化改革がイスラーム社会の伝統や価値観を無視して進められたことから、ウラマーの一部やムスリムの民衆の間に強い不満が生まれることになり、その結果「オスマン主義」が目指した宗教・民族の区別のない平等なオスマン人の創出は挫折し、むしろ宗教的・民族的な対立を生み出すことになります。

 このような背景の中で、アブデュルハミト2世が掲げたパン=イスラーム主義は、西欧化改革に不満を持つムスリム層を取り込み、中央集権を強化して帝国の維持を図ろうとしたものでした。そのために、アブドュルハミト2世はパン=イスラーム主義の指導者であったアフガーニーをイスタンブルへ招聘します。ですが、アブデュルハミト2世のパン=イスラーム主義はアフガーニーの主張とは根本的に異なるものでした。アフガーニーは、確かにイスラームを紐帯として連帯することを主張しますが、一方でカージャール朝やオスマン帝国の専制については批判的でした。アフガーニーは宗教運動家でもありましたが、その主張はイスラーム社会の直面する様々な問題を解決しようとする目的のために展開されたものでした。彼の主張は、イスラーム社会に蔓延する矛盾や悪弊を一掃するためにイスラームの原点に回帰する復古主義・原理主義的な部分を持ちつつも、政治的には専制支配ではなく立憲制の樹立を主張し、イスラームの解釈についても時代に合わせた解釈のあり方を追求するなど、極めて進歩的で現実的なものでした。このようなアフガーニーの主張は、スルタンの権力強化の道具としてパン=イスラーム主義を利用しようとするアブドュルハミト2世の考えとは相いれないものでしたので、次第に両者の対立が明らかになっていきます。こうした中、イラン(カージャール朝)のナーセロッディーン=シャーがアフガーニーに影響を受けたケルマーニによって殺害される事件が起こると(1896)、かねてからアラブ人指導者などスルタンに批判的な勢力と接触を持っていたアフガーニーは幽閉され、イスタンブルで亡くなります(1897)。

 

[③パン=トルコ主義]

:アブデュルハミト2世が掲げたパン=イスラーム主義は、アフガーニーが本来主張したものとはかけ離れたものでしたが、それでもカリフ/スルタン権威をある程度高めることには成功しました。ですが、列強による各種利権の独占や、オスマン債務管理局の設立により帝国税収が直接的に列強に搾取されるなど、オスマン帝国の植民地化はさらに進行し、西欧化も進みました。スルタン専制と植民地化を阻止しようとする改革派は、「統一と進歩委員会(統一と進歩団)」などの秘密結社を中心に「青年トルコ人」運動を展開します。この運動の大きな目的は、憲政の回復(具体的にはミドハト憲法の復活)により、スルタン専制を打倒しようというものでしたが、運動の性質上、弾圧の対象となり、多くはヨーロッパ各地に亡命して運動を展開しました。この運動において、彼らが民族の団結と祖国の維持のために掲げた思想が「パン=トルコ主義」でした。彼らのような改革派は、民族対立や宗教対立を生む原因となった「オスマン主義」の幻影を追うことはもはやできませんでした。また、スルタン専制の道具とされてしまった「パン=イスラーム主義」も、彼ら改革派の目には時代遅れのものとして映りました。そんな彼らが団結のために掲げたものが「トルコ人、トルコ民族による連帯」により民族国家を成立させようという考え方である「パン=トルコ主義」でした。青年トルコの運動は、日論戦争における日本の勝利などにも刺激されて次第にオスマン帝国軍内の青年将校にも浸透し、1908年の青年トルコ革命へとつながっていきます。エンヴェル=パシャ率いる反乱軍の鎮圧に失敗したアブデュルハミト2世はミドハト憲法の復活を宣言し、スルタン専制は瓦解して憲政復活が実現しました。さらに、その翌年にはこの年に起こった反革命クーデタに関与した疑いでアブデュルハミト2世の退位が決定しました。このように、パン=トルコ主義はスルタン専制の打破には成功しましたが、「トルコ人」としての民族意識を要求する思想は各地の多民族の不満を強め、バルカン半島におけるスラヴ民族の独立運動や西アジアにおけるアラブ人たちの独立運動につながっていくことになります。

 

以上、タンジマートやアブドュルハミト2世のスルタン専制、そして青年トルコ革命にも絡むオスマン帝国末期の三つの思想的潮流(オスマン主義、パン=イスラーム主義、パン=トルコ主義)について概観してみました。このあたりの事情については以前ご紹介した予想問題で用いた史料とその解説をご覧いただくとより雰囲気がつかめるかと思います。

また、最近の教科書や参考書(詳説世界史研究)などではこのトルコ末期の状況については新しい用語や記述が目立って増えてきています。たとえば、東京書籍の『世界史B』(平成30年度版)には以下のような記述があります。

 

帝国解体の危機にさらされたオスマン帝国では、1860年代から、オスマン帝国の臣民は民族・宗教のちがいをこえて一つの集団である、という主張があらわれた。このように主張した知識人は、自らを「新オスマン人」と称して、スルタンの専制を廃して立憲政をめざす運動を展開した。(p.319

 

オスマン帝国は元来、多民族、多宗教の国家であった。しかし、バルカン半島を失ったのち、オスマン帝国の住民の多数派であったトルコ人の間にも民族意識が広まり、帝国をトルコ人の民族国家ととらえ、それにふさわしい体制を求める知識人の運動がはじまった。彼らは自らを「青年トルコ人」と称し、1889年に「統一と進歩委員会」を結成して、スルタン専制を批判した。(p.320

 

 教科書の方にはパン=トルコ主義の記述はありませんが、図説の方には上に示した三つの思想的潮流を端的に示した図も出ています。下の図は、帝国書院の『最新世界史図説タペストリー(十六訂版)』の223ページに出ているものです。

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(『最新世界史図説タペストリー(十六訂版)』、p.223

 図ですので多少単純化されてはいますが、わかりやすい図だと思います。ただ、それぞれの思想がどのようなものかといった詳細については書かれていませんし、まだまだ図説のページの端っこにちょっぴり載せられているに過ぎませんので、生徒が自学自習でこれを把握するのはかなり難しいでしょう。オスマン帝国末期の思想について生徒がきちんと把握できるかどうかはこうした図説や教科書、プリントなどを教える側がどう扱うかによってかなりの差が出るような気がします。また、『詳説世界史研究』(2017年版)の方には上述のナムク=ケマルなどの人名やオスマン債務管理局などの新出の用語も掲載されています。

 

(解答例)

 18世紀後半に入ると、アラビア半島ではワッハーブ派と結んだサウード家にメッカ・メディナを制圧され、ロシアにはクリミア半島を奪われるなど帝国の衰退が加速した。さらに、欧州での民族主義高揚を受けてギリシアがロンドン会議(1830で独立し、ムハンマド=アリーの下で近代化したエジプトも独立するなど帝国の分裂は進んだ。アブデュルメジト1世はギュルハネ勅令を発しタンジマートを開始したが、外国資本流入による経済的従属も進んだ。新オスマン人と呼ばれる進歩的知識人層はオスマン主義による国家統一を図ったが、急激な西欧化に反発するムスリムとの対立も生じた。タンジマートはミドハト憲法制定に結実したが、専制復帰を目論むアブドュルハミト2世は、セルビアなどスラヴ諸国独立を許した露土戦争の敗北を機にミドハト憲法を停止し、アフガーニーを招いてパン=イスラーム主義を利用した専制強化を図った。不満を抱く改革派は、統一と進歩委員会を中心にパン=トルコ主義と憲政復活を軸とした青年トルコ運動を展開、日露戦争での日本の勝利にも刺激されて革命を起こし憲政を復活させたが、トルコ民族優先は他民族の反発を招いた。アルバニアの独立運動から発生したバルカン戦争や、第一次世界大戦中のフサイン=マクマホン協定に基づいてアラブ人がヒジャーズ王国を建国するなど分裂は続き、大戦後のセーブル条約では領土の大半を列強に奪われた。これに抵抗するムスタファ=ケマルとアンカラ政府はセーブル条約を破棄し、スルタン制を廃止したためオスマン帝国は滅亡し、新たにトルコ共和国が建国された。(660字)

 

 なんだか、東大の問題解説というよりもまたパン=イスラーム主義とパン=トルコ主義総復習みたいになっちゃいましたね。解答の方も、できるだけそのあたりの部分がきちんと出るように作りましたので、逆に「どこに領土を取られた」とか「何戦争があった」とかいう部分は必要最低限になっています。そのせいで不足している部分もあるかとは思いますが、間違いなく言えることは、出題者の意図は受験生がただひたすらに東方問題を書き連ねて、何戦争でどこが独立したとかを書いてくるといったところにはないだろう、ということです。アフガーニーが招かれたとか、ミドハト憲法が制定・停止されたとか、青年トルコ革命が起こったとか、フサイン=マクマホン協定が結ばれたとかいう単なる歴史的事実ではなく、それらが、オスマン帝国の維持と解体の中でどのような意味を持ったのかということが十分に説明できているかの方がより重要ですし、単にベルリン条約でセルビア・ルーマニア・モンテネグロが独立し云々を説明するのではなく、このスラヴ系民族の独立が長い期間にわたる帝国の分裂において、どのような意義を持ち、どこに位置づけられるかを説明する方がより重要だということです(多分)。ですから、上の解答例もあくまでも一例に過ぎません。帝国における3つの思想的潮流をもっと後ろの方に追いやって、スラヴ系諸民族やアラブ民族の民族的自覚を前面に押し出した解答の書き方ももちろんありうるとは思います。ただ、設問の要求は「オスマン帝国の解体過程」であって、対象とされているものはあくまでもオスマン帝国であるということと、今さらパン=スラヴ主義だの中東の多重外交だのを書き連ねても面白みに欠ける気がしたものですから、むしろ新しい知見を中心に解答を組み立ててみました。


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 この2年くらい「パン=イスラミズムくる(かもしれない)で~。くる(かもしれない)で~」と言い続けて、特に誰にも要求されていないのに講習でもトルコトルコしてたのに女性参政権とかでかわされ続けてましたが、ようやく出てくれましたね。これで「全然出ないじゃないですかw」と嘲笑されずにすみますw もっとも、はじめから予想する気ないし、当たってもどうせまぐれ当たりとは言い続けていますが、それでも出ると嬉しいw
 これで多分、私大の方でもアフガーニーの出題頻度また増えるんでしょうねぇ。問題としてはすごく普通でしたが、トルコ史がっつりパン=イスラム&パン=トルコ込みでやっていく受験生は少数派かもしれないから大変だったのかもしれません。 

 個人的には、むしろ大問2の方が難しいな、と感じました。知っているようでいて正確には書けない問題が多いですね。いずれにしても近いうちにUPしたいと思います。(仕事に余裕があれば)

パン=イスラーム主義やパン=トルコ主義については、

http://history-link-bottega.com/archives/cat_329049.html

http://history-link-bottega.com/archives/cat_213042.html


東方問題については 

http://history-link-bottega.com/archives/cat_253756.html

など、あちこちに言及していますのでご参考までに。 


 

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