世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

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カテゴリ: 東京大学対策

東大が解答を公表しましたね。解答や出題の意図については以下のページに公表されています。

https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/admissions/undergraduate/e01_04_18.html

これを見ての感想ですが、「あれ、これだけか」というのが正直なところ。世界史に関しては出題の意図が少し示されたのみで、解答については公表されませんでした。ただ、「これだけか」と思いつつも、「これで良かった」というのと「そりゃそうだわな」という気持ちが混じった気持ちを抱きました。

というのも、東大世界史論述の解答にはもちろんある一定の基準なりは設けられているのでしょうが、答え方は一つではなく、多様な見方、解答の書き方が存在するはずです。仮に、東大が「あくまでも一例として」と言ってなんらかの解答を示したとしても、そのあたりのところがわからない人がそれを見れば「だって東大の解答には〇〇って書いてありましたよ」と言って、他の見方を受け付けない思考停止状態に陥ることは十分に考えられますし、それはより深い理解や思索を求める東大の意図するところではないと思います。

ですから、東大が解答を公表することに決めたという報道を聞いた時には「え、やるの?やめといたほうがいいのに」と思いつつ、もし出すのであれば自分の思考過程がどの程度東大の求めていることとシンクロしているのか確かめられると期待もしました。ですから、今回のように出題の意図の公表のみにとどめて、突っ込んだ解答・解説が示されなかったことには、残念な気持ちもありますが、「さすが東大、学問をよくお分かりで…」とほっとした気持ちの方が強い気がします。今後どうなるかは分かりませんが、個人的にはあんまり画一的な見方を生むような解答例の提示はして欲しくないなぁと感じています。


 先日、雑感の方でも申し上げましたが、ようやくオスマン帝国史が出題されました。19世紀以降のオスマン史は近年教科書や参考書の記述も充実してきて、教員・受験生ともに認知度の高まってきていた分野です。しかも、東大が好きな帝国、ボーダーレス、民族問題、思想や宗教など美味しい題材がてんこ盛りなので、いつ出てくれるかなぁと思う反面、あまりにもベタな内容なので逆に裏かいて出さないかなぁと思ったりもしていました。

 もっとも、そのように長い間「待望」されていた問題なので、おそらくこの分野についてノータッチで受験する人の数は、昔と比べるとかなり減っていたのではないでしょうか。もしこの問題が10年前に出題されていたとしたら、おそらくかなりの人数が返り討ちにされた可能性が高いですが、今年度は受験生の側もそれなりに対応できるだけのものをもって受験していたのではと推測します。そういう意味では東大がこの問題を今年度出題したことはタイミング的にはちょうど良かったのかもしれません。

 また、問題の内容としても概ね標準の内容です。近年多かった比較の視点など、整理に時間がかかるような条件もついていませんので、それほど面倒な整理でもありません。トルコ史をしっかりやっていった人にとっては逆に物足りなさを感じた可能性があります。本設問で注意しなくてはならないところは、パン=イスラーム主義とスルタン専制の関係性と、その後に出てくるパン=トルコ主義との関連をどのように処理するかでしょう。多くの受験生がこの部分については正確には知らないと思います。また、18世紀半ばから1920年代までのオスマン史と、170年近いスパンでの「動き」を記述するわけですから、東大が日頃気にしている「変化・変遷」といったものも伝わるようにできれば言うことはありません。

 形式上の大きな変化としては、大論述が22行(660字)と解答欄いっぱいに使わせるように変更になりました。もっとも、東大はたびたび大論述の字数を変更していますし、全体としては増加傾向にありましたから、このこと自体はそれほど驚くべき変化ではありません。おそらく、会場の受験生もある程度は対処可能だったのではないでしょうか。ただ、22行の文章を書くにはそれなりの文章力を必要としますので、日頃から文章を書き慣れていない人にとっては苦しかったかもしれません。

 全体としては、第1問よりも第2問の方が難しさを感じました。受験生が何となく知っていることではあるものの、正確に記述するのは難しい部分を間接的に問うというやり方で出題されていて、応用力がある人や勘の良い人はある程度対処できる反面、ピンとこない人にとっては下手をすると丸々1問落としかねない出題のされ方がされています。(ニュージーランドの政治的地位の変化などはその典型ですね。) 第3問についてはおおむね基本問題でした。第3問では、落として許されるのはせいぜい1問か2問ですが、できれば全問正解を目指したいところです。

 

【第1問】

(設問概要)

・時期:18世紀半ばから1920年代

・オスマン帝国の解体過程について記述せよ。

・オスマン帝国内の民族運動に注目せよ。

・オスマン帝国内の帝国の維持を目指す動きに注目せよ。

・指示語:アフガーニー / ギュルハネ勅令 / サウード家 / セーヴル条約 / 日露戦争 /

フサイン=マクマホン協定 / ミドハト憲法 / ロンドン会議(1830

・用いた語句には下線を付せ。

22行以内(660字)

 

 リード文は今回あまりヒントにはなりません。なぜか唐突に冷戦30周年とか言ってますが、とってつけたようですねw つい最近冷戦期の問題出したばかりですから、そうそう冷戦に持っていくこともできなかったのでしょう。今回の設問はあくまでオスマン帝国の解体過程について問う問題ですから、その後の影響などについては記述の必要はありません。指示語のうち、使い方が難しい(というよりは、使い方を誤りがち)のはロンドン会議でしょうか。あとはオスマン帝国の衰退と改革の試み、そして解体を一連の流れで書けばよいので、比較的平易です。もっとも、完全解答を作ろうとすると、難度は急激に上がりますw あくまでも、「他の受験生が書ける+αを書く」という意味ではそこまで難しくはないだろうという意味で平易と言っておりますので、「簡単だから誰でも満点近くとれる」と言っているわけではありません。東大の問題でそんな問題はそもそもないでしょう。

 

(解答手順1:全体の流れを構築)

 まずは、全体の骨組みとなる流れを構築します。ただし、本設問は「オスマン帝国の解体過程」を要求する内容ですから、そこに焦点を合わせて書く必要があるでしょう。ですから、いわゆる「東方問題」のような内容をひたすら書いてもそれは得点とはなりません。あくまでも、オスマン帝国がどのように衰退、分裂、解体するのかを意識して流れを構築することが大切です。このような視点で考えた時に、全体の骨組みとして必須なものは以下のような部分かと思います。

 

18世紀半ば以降のオスマン帝国の衰退

:オスマン帝国の力が弱まる一つのきっかけとしてよく出てくるのは17世紀末の第2次ウィーン包囲の失敗(1683)とその後のハプスブルク家からの追撃を受けて締結するカルロヴィッツ条約(1699)におけるオスマン帝国領ハンガリーならびにトランシルヴァニアの喪失ですが、これらは時期的に今回の流れには使えません。オスマン帝国はその後もかなりの力を維持していますが、18世紀半ば以降はその衰退を隠すことができなくなります。

 まず、黒海北岸においてはエカチェリーナ2世の統治下にあったロシアの南下にさらされ、1774年のキュチュク=カイナルジ(カイナルジャ)条約ではクリム=ハン国の宗主権を放棄して、実質的にクリミア半島を喪失します。(クリム=ハン国はその後1783年にロシアに併合されます。)

 また、アラビア半島ではイスラーム改革運動が起こり、ムハンマド=イブン=アブドゥルワッハーブが興した復古主義的、原理主義的なワッハーブ派と、アブドゥルワッハーブと盟約を結んだムハンマド=イブン=サウードのサウード家が中心となってワッハーブ王国(第1次)が建国されます(1744)。ワッハーブ派は次第に勢力を拡大し、メッカ、メディナを占領(18031804)しますが、最終的にはオスマン帝国の要請を受けたエジプト総督ムハンマド=アリーによって滅ぼされます(1818)。 聖地の奪回を一地方総督に頼らざるを得なかったことはオスマン帝国の退潮を如実に示すものであり、また、ワッハーブ派の活動はアラブ人たちの民族主義を自覚させる契機となるものでした。(もっとも、私自身はこれを「アラブ民族主義」と表現することにはかなり抵抗を覚えます。20世紀半ば以降のアラブ民族主義との混同を招きますし、その他いろいろとワッハーブ派の活動にともなうアラブ人の民族的自覚をアラブ民族主義という一言で表現することには色々と問題がありそうな気がします。)

 

・エジプトの独立とムハンマド=アリー朝の成立

:ムハンマド=アリーは1805年にエジプト総督の地位につきます。実質的にはこれがムハンマド=アリー朝の開始とされますが、宗主国であるオスマン帝国や国際的に正式承認されたものではありません。ムハンマド=アリーはその後1811年に自身に反抗的で、近代化の障害となっていたマムルーク勢力を謀略によって一掃し、本格的な自立を始めます。社会全体に影響を及ぼしていたマムルーク勢力を一掃したことで、ムハンマド=アリーは本格的な近代化を開始します。その改革は教育改革、殖産興業(近代的工場の導入や紡績業の育成、軍需品生産の拡大)、税制の改革(政府による直接徴税)、西欧の学問の取り入れなど多岐にわたり、依然としてアーヤーンやイェニチェリなどの保守勢力の存在によって改革が進まなかったオスマン帝国と力の差は縮まっていきました。

 こうした中で、ギリシア独立戦争に際してオスマン帝国の要請に応じた見返りとしてムハンマド=アリーはシリアの行政権を要求します。その結果、第一次エジプト=トルコ戦争(18311833)が起きてオスマン帝国はシリアを奪われます。さらにその後、シリア奪回を目指して出兵したオスマン帝国軍を打ち破ったムハンマド=アリーはエジプト・シリアの総督世襲権を要求すると、エジプトの強大化とフランスの接近を嫌った諸国(英・露・普・墺)がオスマン帝国を支持した結果、この戦争ではエジプト側が敗北します(第二次エジプト=トルコ戦争:18391840)。その後開かれたロンドン会議(1840)において、エジプトはシリアの領有権については放棄しましたが、エジプトならびにスーダン(スーダンは182022にかけての外征で軍事占領していた)の世襲権を認められ、独立国として承認されます。これにより、長らくオスマン帝国の版図であったエジプトはその支配下から完全に離れることとなりました。

 

・ギュルハネ勅令とタンジマート(恩恵改革[原語の意味は「再編成」]

:第一次エジプト=トルコ戦争の敗北に加え、第二次エジプト=トルコ戦争の緒戦でも、シリアにおいて敗北を喫したオスマン帝国では、マフムト2世が病死し新たなスルタンとしてアブデュルメジト1世が即位します。このもとで、当時外交問題を担当していたムスタファ=レシト=パシャ(後に大宰相)の起草により、オスマン帝国の改革案であるギュルハネ勅令(1839)が発布されました。この勅令はオスマン帝国の司法・行政・財政・軍事に関する一連の西欧化改革の方針を示したもので、具体的にはムスリムと非ムスリムの法の下の平等、生命・財産の保障、裁判の公開、イルティザーム(徴税請負制)の廃止などが示されており、形の上ではオスマン帝国はこれ以降近代的法治国家としての体裁を整えていくことになります。

重要な点は、このタンジマートはギュルハネ勅令が出された時に一気に進められた一過性の改革ではなく、これ以降のオスマン帝国が進める法制改革、殖産興業、軍事改革など一連の諸改革の総称を指すということです。その集大成となるのがミドハト憲法の制定(1876)と帝国議会の設置による西欧型の立憲君主制樹立でした。

また、もう一つ重要な点に、この改革の進展の中でオスマン帝国に対する外国資本の流入が急激に進んだことが挙げられます。さらに、オスマン帝国の産業育成は綿花・小麦・オリーブなどの商品作物栽培が中心で、工業製品は安価なイギリス製製品を購入するという関係が続いたことから、次第に欧州資本に対する経済的従属が進行していきます。さらに、クリミア戦争の戦費や、1860年代の綿花価格の乱高下(アメリカ南北戦争の影響による)などで国際価格の変動が大きい綿花などの一次産品に依存した経済は大きな打撃を受けることになりました。

 

・クリミア戦争(185356)と財政破綻

:クリミア戦争では、オスマン帝国は英仏の支援によりどうにか勝利を収めることができましたが、戦争中にイギリスから借款を行ったことでオスマン帝国の財政は破綻へと向かい、ヨーロッパ依存型経済への変化が加速します。

 

・露土戦争の敗北と帝国領の縮小

:露土戦争に敗北したトルコは、サン=ステファノ条約ならびにベルリン会議における諸決定により、バルカン半島の一部とアナトリアならびにアラブ人居住地域(シリア・パレスティナ・アラビア半島西岸・イラク周辺など)にその領有地域が狭まりました。(ベルリン会議ではセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの完全独立、ブルガリア公国の自治領化、キプロス島におけるイギリスの支配権、ボスニア=ヘルツセゴヴィナのオーストリアによる統治権などが承認されました。)

 

・ミドハト憲法の停止とアブドュル=ハミト2世の専制

:ミドハト憲法の停止とアブデュル=ハミト2世の専制は、オスマン帝国における民族運動や帝国維持の議論と密接に関わっています。これについては、思想史的な要素が多分に含まれて複雑なので、次の(解答手順3)の方で詳述します。

 

・青年トルコ革命(1908

:同じく、次の(解答手順3)で解説します。

 

・バルカン戦争(第一次:191213、第二次:1913

:ここではバルカン戦争勃発の背景については踏み込むことはしませんが、この戦争に敗北したオスマン帝国はイスタンブルを除くバルカン半島領土を喪失します。スラヴ人たちの民族主義については、続く(解答手順2)で解説します。

 

・第一次世界大戦と敗戦、セーヴル条約(1920

:第一次世界大戦でオスマン帝国は同盟国として参加しますが、敗北します。その講和条約であるセーヴル条約において、領土の大部分を失い、その統治範囲はイスタンブルとアンカラ周辺のアナトリア中央部に限られます。その細かい内容まで知る必要はありませんが、一応その内容のうち、主要なものを示すと以下のようになります。

 

 1、トルコ領はアナトリアの一部とイスタンブル(下の地図の黄色部分)

 2、ボスフォラス海峡とその沿岸地域は国際管理とする。また多くの地域が英仏伊などの勢力圏に入る(下の地図の縦線がひかれた地域)

 3、イラク・パレスティナはイギリス、レバノン・シリアはフランスの委任統治領とする

 4、アラビア半島におけるヒジャーズ王国の独立を容認する

 5、アルメニアの独立を容認する(下の地図の水色部分)

 6、クルディスタン建国のための地域を設定する

 

ぶっちゃけ、5と6はここに示さなくてもよいのですが、これらが当時ロシア革命における共産主義波及の防波堤として定められたことや、現在のクルド人問題などと関わりがあることなどを考えると、ちょっとしたことでどこかの私大などで関連知識を問われる可能性もあるので、一応示しておきます。このセーヴル条約を締結したのはイスタンブルのスルタン政府でしたが、この条約の締結によりスルタン政府は完全に列強の傀儡と化しました。

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セーヴル条約下のアナトリア(「セーヴル条約」Wikipedia

 

・ムスタファ=ケマルとトルコ共和国の建国

:列強の言いなりに国土のほとんどを譲り渡したスルタン政府に対し、アンカラを中心に開催された国民会議はムスタファ=ケマルを指導者に革命政権を樹立します。革命政権は外国の占領軍やスルタン側の軍隊と戦い、1922年にはギリシア軍を駆逐してイズミル(スミルナ)を回復、外国軍を駆逐してアナトリアを回復することに成功します。(ちなみに、イズミルは下の地図です)

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(「イズミル」Wikipedia

 ムスタファ=ケマル率いるアンカラ政府は、スルタン制を廃止(メフメト6世の退位)、ここにオスマン帝国は完全に滅亡します。(ただし、カリフ制はまだ存続しています。) さらに、1923年のローザンヌ条約で、先のセーヴル条約で失っていたトルコの独立と領土を回復、確定し、さらにそれまで存在した不平等な国際関係を完全に精算することにも成功します(治外法権の廃止、関税自主権の回復など)。同年、トルコ共和国が成立すると、新国家は西欧化と政教分離を進めたため、残されていたカリフ制も廃止され、メフメト6世の皇太子で最後のカリフとなったアブデュル=メジト2世は廃位され、国外に亡命します。

 

 以上が、オスマン帝国解体までのおおまかな流れになります。途中、解説を挟んでしまって流れが分かりづらくなってしまったかと思いますので、再度まとめておきます。

 

18世紀半ば以降のオスマン帝国の衰退

・エジプトの独立とムハンマド=アリー朝の成立

・ギュルハネ勅令とタンジマート(恩恵改革[原語の意味は「再編成」]

・クリミア戦争(185356)と財政破綻

・露土戦争の敗北と帝国領の縮小

・ミドハト憲法の停止とアブドュル=ハミト2世の専制

・青年トルコ革命(1908

・第一次バルカン戦争(191213

・第一次世界大戦と敗戦、セーヴル条約(1920

・ムスタファ=ケマルとトルコ共和国の建国

 

(解答手順2:帝国内の民族運動とは何か)

 続いて、「帝国内の民族運動」とは何かについて考えてみたいと思います。オスマン帝国が解体へと向かう時期に、オスマン帝国の内部で生じた民族運動には大きく3つの動きがあります。

 

①バルカン半島におけるスラヴ人たちの民族主義

②アラブ人居住地におけるアラブ人たちの民族主義

③「トルコ人」たちの民族主義

 

これらのうち、③の「トルコ人」たちの民族主義は、少々複雑な話になるのでパン=イスラーム主義と合わせて(解答手順3)の方で説明したいと思います。

 

[①バルカン半島におけるスラヴ人たちの民族主義]

 バルカン半島において民族主義が高まってくるのは、ヨーロッパでナショナリズムの高揚が見られた19世紀前半の頃からです。この先駆けとなったのがギリシア独立戦争(18211829)でした。ただし、ギリシア人は正確にはスラヴ人ではありません。また、それまでギリシア人は自分たちを古代ローマないしは東ローマ帝国の末裔と考えていて、古代ギリシアの系統をひいているとは考えていませんでしたが、この頃から自分たちの起源を古代ギリシアに求めた新たなナショナリズムの構築が進められていきます。

 いずれにしても、オスマン帝国の衰退とギリシア独立戦争によるギリシアの独立、そしてヨーロッパ各地で高揚するナショナリズムが、オスマン帝国の支配下にあったスラヴ民族のナショナリズムを刺激したことは疑いがありません。オーストリア=ハンガリー帝国下で西スラヴ人がナショナリズムを高揚させた(ex.スラヴ民族会議:1848)のと同じように、オスマン帝国支配下にあったバルカン諸地域も一つの民族としての自覚を強めていくことになります。同じスラヴ人であるロシアの支援を得ながら、バルカン半島の南スラヴ人たちは次第にオスマン帝国から自治や独立を勝ち得ていくことになります。(1856年のパリ条約によるセルビアの自治獲得や、1878年のサン=ステファノ条約ならびにベルリン条約によるセルビア・ルーマニア・モンテネグロの独立やブルガリアの自治獲得、1908年の青年トルコ革命の混乱に乗じたブルガリアの独立宣言[正式独立は翌年]など)

 このような中、1912年に依然としてオスマン帝国の支配下にあったアルバニアが反乱を起こすと、アルバニア人の独立を支援すべく、すでに独立を勝ち得ていた周辺諸国(セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシア)が同盟を結成します。これがバルカン同盟です。さらに、同じスラブ民族でかつ正教を信仰し、さらにオスマン帝国によるボスフォラス・ダーダネルス両海峡の封鎖を懸念するロシアがバルカン同盟側に加勢して、オスマン帝国との戦争となりました。第一次バルカン戦争です(19121913)。このあたりの話をきちんと理解するためには、やはりバルカン周辺の地図をしっかりと頭に入れておく必要があると思います。

barkan

 上の地図がバルカン戦争後のバルカン半島を示した地図です。基本の構図は「バルカン同盟(セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシア)VSオスマン帝国」です。

 さて、この戦争ではバルカン同盟側の勝利となり、戦後のロンドン条約(1913)ではアルバニアは独立が認められましたが、アルバニア人が多数住むコソヴォ地域はセルビアが領有することとなりました。(こうした事情が後にコソヴォ紛争の遠因となっていきます。)この時、アルバニアの独立が認められた背景には、セルビアのアドリア海進出を阻もうという英・伊の意向が働いたのではないかと言われています。また、マケドニアは上の地図にもあるように、セルビア・ブルガリア・ギリシアに分割されてしまい、独立した国家を形成することはできませんでした。これらのうち、セルビア領マケドニアは後にユーゴスラヴィアの一部となりますが、冷戦後にユーゴスラヴィアから独立します。そしてその後、ギリシア領マケドニアとブルガリア領マケドニアは歴史的に「マケドニア」であると主張して、現在の領土問題へとつながっていきます。

 この戦争により、ベルリン条約(1878)で領土を削減されていたブルガリアの勢力が再び南方へ拡大しましたが、マケドニアは十分な領土を獲得できなかったと考えて不服でした。また、同じく南方への拡大による大セルビアの実現を企図していたセルビアと対立するようになります。マケドニア分割に不服を感じたブルガリアは、まもなくセルビア・ギリシア領に侵入します。これが第二次バルカン戦争の開始です。この戦争では、ブルガリアの強大化を恐れる周辺国(オスマン帝国、モンテネグロ、ルーマニア)が連合を組んで参戦したため、ブルガリアは国際的に孤立し、敗北します。ブカレスト講和条約では、ブルガリアの領土が縮小されます。このことで、セルビアに対する敵意を強めたブルガリアは、その後の第一次世界大戦ではセルビアと敵対したオーストリアの側、つまり同盟国側で参戦することになります。

 あまりバルカン戦争の詳細について話す機会がないので簡単にバルカン戦争についてお話ししましたが、本設問では以下のような内容をオスマン帝国内におけるスラヴ人たちの民族主義とオスマン帝国の解体に関して示しておくと良いと思います。

 

・ギリシアの独立

・バルカン半島におけるスラヴ人たちのナショナリズムと自立

・ベルリン条約とセルビア・ルーマニア・モンテネグロ独立とブルガリアの自治

・アルバニアの反乱と2度にわたるバルカン戦争

 

[②アラブ人居住地域におけるアラヴ人たちの民族主義]

 これについては、大きく3つに分けておくと良いかと思います。

18世紀半ば以降から始まるワッハーブ派の改革運動

19世紀後半から拡大するアフガーニー主導のパン=イスラーム主義

:もっとも、これはパン=イスラームを「民族主義」と言っても良いのであれば、の話。厳密にはイスラームは「民族」ではないですし、アフガーニー自身はイラン人であり、アラブ人でもトルコ人でもありません。パン=イスラーム主義はむしろそうした各民族を越えたイスラームによる紐帯をベースに西欧諸国に対抗していくことを目指した運動なので、「民族運動」という分類は正確ではありません。ただ、アラブ人たちの民族としての自覚や、前後の民族運動との密接な関連を考えた場合、ここに入れておいた方が頭の整理はしやすくなるかと思います。

・第一次世界大戦とアラブ民族主義

 :第一次世界大戦がはじまると、オスマン帝国支配下で民族的自覚に目覚めたアラブ人たちは活動を活発化させます。ムハンマドの血をひくハーシム家の出身であるフサイン(フサイン=イブン=アリー)は、イギリスと結んでアラブ人国家の樹立を目指し、フサイン=マクマホン協定の密約に基づいて反乱を起こします。1918年にはアラビア半島西岸のヒジャーズ地方を中心にヒジャーズ王国を建国しました。一方、第二次ワッハーブ王国の滅亡後、クウェートで亡命生活を行っていたサウード家のイブン=サウードは、ワッハーブ派信奉者の支持を得ながらアラビア半島東岸地域で勢力を拡大し、一大勢力を築いていきます。後に、イブン=サウードはカリフ宣言を行ったフサインのヒジャーズ王国に対する侵攻を開始し、これを滅ぼしてヒジャーズ=ネジド王国を建国(1924)、さらに1932年にはこれをサウジアラビア王国に改称しました。ただ、本設問ではオスマン帝国の解体と民族運動の関係となっているので、ここではイブン=サウードやワッハーブ派がアラビア半島で勢力を拡大したこと程度の言及で十分でしょう。

 

(解答手順3:帝国の維持を目指す動きとは何か)

さて、続いて「帝国の維持を目指す動き」について検討してみたいと思います。オスマン帝国を維持しようとする動きということで真っ先に頭に浮かぶのはタンジマートですが、オスマン帝国の末期には帝国の維持を図るいくつかの思想的な動きが見られました。それは、以下の3つにまとめることができます。

 

①オスマン主義

②パン=イスラーム主義

③パン=トルコ主義

 

 これらは、いずれもオスマン帝国を西欧に対抗するために一つにまとめ上げ、国力を強化していこうとする中で生まれた思想的潮流でしたが、発生した時期や発生の背景はかなり異なっていました。以下では、この3つの思想的潮流がいかなるものであったか、またオスマン帝国を維持しようとする動きとどのように関わってきたのかについて簡単に紹介していきたいと思います。

 

[①オスマン主義]

 :「オスマン主義」はオスマン帝国内に住む人々は宗教・民族の別なく、すべて平等な「オスマン人」であり、「オスマン人」の連帯を基礎として祖国(オスマン帝国)の政治的一体性を維持していこうという発想です。ただ、このような主張は必ずしも当時のオスマン帝国の実態には合致していませんでした。当時のオスマン帝国はバルカン半島のスラヴ系民族や西アジアにおけるアラブ人など複数の民族を抱える多民族国家であり、少なくともオスマン帝国内の人々が全て同じような「オスマン人」としては存在していませんでした。つまり、オスマン主義とは、実態としては多民族国家であったオスマン帝国が各地のナショナリズムの高揚や民族間の対立によって分裂の危機に瀕した時に、帝国を維持するために「創出」されたものであって、「オスマン人」というのもそのために「想像」ないしは「創造」された概念でした。(関連する知識として「創造の共同体」論)

 こうした「オスマン主義」を唱えた人々は、タンジマートによって西欧式教育の導入が進んだことにより、新しい思想に触れた「新オスマン人」と呼ばれる人々でした。この「新オスマン人」は、伝統的な官僚・ウラマーとは一線を画し、ヨーロッパの自由主義思想の影響を受けた改革派の官僚や知識人で、次第にスルタン専制に対する批判を強め、立憲制の導入を進めることになります。このような思想家の一人に、ナムク=ケマル1840-88)がいました。彼は、憲法制定を目指す「新オスマン人協会」を設立(1865)し、各国を亡命する中で当時のスルタンであるアブドュルアジーズの専制を批判する言論活動を展開しました。このような流れの中で、ミドハト=パシャを中心とする改革派の運動が展開し、アブドュルアジーズはこの改革派のクーデタによって廃位され、その後幽閉の後に亡くなります。さらに、アブドュルアジーズのあとを継いだムラト5世も、病のため即位3か月で退位し、その弟であるアブドュルハミト2世が即位することになります。

 こうした一連の動きを見てみると、タンジマート自体に大きな矛盾が存在したことに気づきます。タンジマートは、たしかに法の下の平等など、西欧的な自由主義的思想を積極的に取り入れる改革運動で、歴代のスルタンも国力を強めるための西欧化には積極的でした。一方で、スルタンたちは自身の権力基盤を弱めるような諸改革、たとえば憲法制定による君主大権の制限や議会の設置などには消極的で、このような姿勢はよりドラスティックな改革を求める「新オスマン人」などの改革派には不満の残るものでした。アブドュルハミト2世が即位したときの状況は、このスルタンと改革派の対立とぴったり符合します。アブドュルハミト2世自身は自身の権力を弱めることになる「ミドハト憲法」の制定には極めて消極的でした。ですが、これに先立つクーデタなど、自身が即するに至った経緯を考えると、強く大宰相ミドハト=パシャらの改革派に異を唱えることもできません。一方、ミドハト=パシャら改革派の側でも、ムラト5世の退位などスルタン位をめぐる混乱が長引けば保守派の巻き返しを招く恐れがありました。ミドハト憲法は宗教の別を問わない全オスマン人の平等、人権の保障、二院制議会の設置など、極めて進歩的なアジア初の近代憲法となりましたが、一方できわめて強力な君主大権が残され、スルタンは戒厳令を発し、危険人物を国外追放に処することが可能とされました。これは当時のスルタンと改革派の関係がある種の妥協を要求されるものであったことを示しています。こうした、近代化を求めながらも自身の権力維持を追求する君主と、君主大権の制限など急進的な改革を進めたい改革派の協力と対立の構図は、19世紀以降のアジアの各地で見られる現象ですので、比較してみるのも面白いかもしれません。(中国における洋務運動~変法運動~光緒新政や朝鮮における閔氏政権など)

露土戦争が開始されるとアブドュルハミト2世は憲法の規定に従いミドハト=パシャを追放し、さらに露土戦争敗北によってスルタンに対する批判が高まったことに危機感を覚えたアブドュルハミト2世は議会を解散し、憲法を停止してスルタン専制へと復帰します。この新たに展開されたスルタン専制において、アブドュルハミト2世が利用しようと考えた思想がパン=イスラーム主義でした。

 

[②パン=イスラーム主義]

 :パン=イスラーム主義自体は19世紀の後半にアフガーニーを中心として高揚したイスラーム改革運動で、オスマン帝国のスルタン専制とは直接的な関係はありませんでした。ですが、当時のオスマン帝国のスルタンはイスラームの宗教的な最高権威であるカリフを兼ねており、これに目をつけたアブドュルハミト2世は自らを中心として民族・宗派をこえたイスラームの連帯を呼び掛けることで、自身の権威・権限の強化とスルタン専制の復活を目指しました。一方、それまでに「新オスマン人」たちが「創出」してきた「オスマン主義」は、いくつかの理由からその勢いが弱まっていきます。一つは、「オスマン主義」による帝国の維持を推進してきたミドハト=パシャの追放に見られるように、スルタン専制に批判的な「新オスマン人」たちがアブドュルハミト2世のスルタン専制(あるいはそれ以前から)によって政治の中心から遠ざけられ、弾圧されてしまったことです。そして、もう一つは、「オスマン主義」を掲げる「新オスマン人」たちの急激な西欧化改革がイスラーム社会の伝統や価値観を無視して進められたことから、ウラマーの一部やムスリムの民衆の間に強い不満が生まれることになり、その結果「オスマン主義」が目指した宗教・民族の区別のない平等なオスマン人の創出は挫折し、むしろ宗教的・民族的な対立を生み出すことになります。

 このような背景の中で、アブデュルハミト2世が掲げたパン=イスラーム主義は、西欧化改革に不満を持つムスリム層を取り込み、中央集権を強化して帝国の維持を図ろうとしたものでした。そのために、アブドュルハミト2世はパン=イスラーム主義の指導者であったアフガーニーをイスタンブルへ招聘します。ですが、アブデュルハミト2世のパン=イスラーム主義はアフガーニーの主張とは根本的に異なるものでした。アフガーニーは、確かにイスラームを紐帯として連帯することを主張しますが、一方でカージャール朝やオスマン帝国の専制については批判的でした。アフガーニーは宗教運動家でもありましたが、その主張はイスラーム社会の直面する様々な問題を解決しようとする目的のために展開されたものでした。彼の主張は、イスラーム社会に蔓延する矛盾や悪弊を一掃するためにイスラームの原点に回帰する復古主義・原理主義的な部分を持ちつつも、政治的には専制支配ではなく立憲制の樹立を主張し、イスラームの解釈についても時代に合わせた解釈のあり方を追求するなど、極めて進歩的で現実的なものでした。このようなアフガーニーの主張は、スルタンの権力強化の道具としてパン=イスラーム主義を利用しようとするアブドュルハミト2世の考えとは相いれないものでしたので、次第に両者の対立が明らかになっていきます。こうした中、イラン(カージャール朝)のナーセロッディーン=シャーがアフガーニーに影響を受けたケルマーニによって殺害される事件が起こると(1896)、かねてからアラブ人指導者などスルタンに批判的な勢力と接触を持っていたアフガーニーは幽閉され、イスタンブルで亡くなります(1897)。

 

[③パン=トルコ主義]

:アブデュルハミト2世が掲げたパン=イスラーム主義は、アフガーニーが本来主張したものとはかけ離れたものでしたが、それでもカリフ/スルタン権威をある程度高めることには成功しました。ですが、列強による各種利権の独占や、オスマン債務管理局の設立により帝国税収が直接的に列強に搾取されるなど、オスマン帝国の植民地化はさらに進行し、西欧化も進みました。スルタン専制と植民地化を阻止しようとする改革派は、「統一と進歩委員会(統一と進歩団)」などの秘密結社を中心に「青年トルコ人」運動を展開します。この運動の大きな目的は、憲政の回復(具体的にはミドハト憲法の復活)により、スルタン専制を打倒しようというものでしたが、運動の性質上、弾圧の対象となり、多くはヨーロッパ各地に亡命して運動を展開しました。この運動において、彼らが民族の団結と祖国の維持のために掲げた思想が「パン=トルコ主義」でした。彼らのような改革派は、民族対立や宗教対立を生む原因となった「オスマン主義」の幻影を追うことはもはやできませんでした。また、スルタン専制の道具とされてしまった「パン=イスラーム主義」も、彼ら改革派の目には時代遅れのものとして映りました。そんな彼らが団結のために掲げたものが「トルコ人、トルコ民族による連帯」により民族国家を成立させようという考え方である「パン=トルコ主義」でした。青年トルコの運動は、日論戦争における日本の勝利などにも刺激されて次第にオスマン帝国軍内の青年将校にも浸透し、1908年の青年トルコ革命へとつながっていきます。エンヴェル=パシャ率いる反乱軍の鎮圧に失敗したアブデュルハミト2世はミドハト憲法の復活を宣言し、スルタン専制は瓦解して憲政復活が実現しました。さらに、その翌年にはこの年に起こった反革命クーデタに関与した疑いでアブデュルハミト2世の退位が決定しました。このように、パン=トルコ主義はスルタン専制の打破には成功しましたが、「トルコ人」としての民族意識を要求する思想は各地の多民族の不満を強め、バルカン半島におけるスラヴ民族の独立運動や西アジアにおけるアラブ人たちの独立運動につながっていくことになります。

 

以上、タンジマートやアブドュルハミト2世のスルタン専制、そして青年トルコ革命にも絡むオスマン帝国末期の三つの思想的潮流(オスマン主義、パン=イスラーム主義、パン=トルコ主義)について概観してみました。このあたりの事情については以前ご紹介した予想問題で用いた史料とその解説をご覧いただくとより雰囲気がつかめるかと思います。

また、最近の教科書や参考書(詳説世界史研究)などではこのトルコ末期の状況については新しい用語や記述が目立って増えてきています。たとえば、東京書籍の『世界史B』(平成30年度版)には以下のような記述があります。

 

帝国解体の危機にさらされたオスマン帝国では、1860年代から、オスマン帝国の臣民は民族・宗教のちがいをこえて一つの集団である、という主張があらわれた。このように主張した知識人は、自らを「新オスマン人」と称して、スルタンの専制を廃して立憲政をめざす運動を展開した。(p.319

 

オスマン帝国は元来、多民族、多宗教の国家であった。しかし、バルカン半島を失ったのち、オスマン帝国の住民の多数派であったトルコ人の間にも民族意識が広まり、帝国をトルコ人の民族国家ととらえ、それにふさわしい体制を求める知識人の運動がはじまった。彼らは自らを「青年トルコ人」と称し、1889年に「統一と進歩委員会」を結成して、スルタン専制を批判した。(p.320

 

 教科書の方にはパン=トルコ主義の記述はありませんが、図説の方には上に示した三つの思想的潮流を端的に示した図も出ています。下の図は、帝国書院の『最新世界史図説タペストリー(十六訂版)』の223ページに出ているものです。

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(『最新世界史図説タペストリー(十六訂版)』、p.223

 図ですので多少単純化されてはいますが、わかりやすい図だと思います。ただ、それぞれの思想がどのようなものかといった詳細については書かれていませんし、まだまだ図説のページの端っこにちょっぴり載せられているに過ぎませんので、生徒が自学自習でこれを把握するのはかなり難しいでしょう。オスマン帝国末期の思想について生徒がきちんと把握できるかどうかはこうした図説や教科書、プリントなどを教える側がどう扱うかによってかなりの差が出るような気がします。また、『詳説世界史研究』(2017年版)の方には上述のナムク=ケマルなどの人名やオスマン債務管理局などの新出の用語も掲載されています。

 

(解答例)

 18世紀後半に入ると、アラビア半島ではワッハーブ派と結んだサウード家にメッカ・メディナを制圧され、ロシアにはクリミア半島を奪われるなど帝国の衰退が加速した。さらに、欧州での民族主義高揚を受けてギリシアがロンドン会議(1830で独立し、ムハンマド=アリーの下で近代化したエジプトも独立するなど帝国の分裂は進んだ。アブデュルメジト1世はギュルハネ勅令を発しタンジマートを開始したが、外国資本流入による経済的従属も進んだ。新オスマン人と呼ばれる進歩的知識人層はオスマン主義による国家統一を図ったが、急激な西欧化に反発するムスリムとの対立も生じた。タンジマートはミドハト憲法制定に結実したが、専制復帰を目論むアブドュルハミト2世は、セルビアなどスラヴ諸国独立を許した露土戦争の敗北を機にミドハト憲法を停止し、アフガーニーを招いてパン=イスラーム主義を利用した専制強化を図った。不満を抱く改革派は、統一と進歩委員会を中心にパン=トルコ主義と憲政復活を軸とした青年トルコ運動を展開、日露戦争での日本の勝利にも刺激されて革命を起こし憲政を復活させたが、トルコ民族優先は他民族の反発を招いた。アルバニアの独立運動から発生したバルカン戦争や、第一次世界大戦中のフサイン=マクマホン協定に基づいてアラブ人がヒジャーズ王国を建国するなど分裂は続き、大戦後のセーブル条約では領土の大半を列強に奪われた。これに抵抗するムスタファ=ケマルとアンカラ政府はセーブル条約を破棄し、スルタン制を廃止したためオスマン帝国は滅亡し、新たにトルコ共和国が建国された。(660字)

 

 なんだか、東大の問題解説というよりもまたパン=イスラーム主義とパン=トルコ主義総復習みたいになっちゃいましたね。解答の方も、できるだけそのあたりの部分がきちんと出るように作りましたので、逆に「どこに領土を取られた」とか「何戦争があった」とかいう部分は必要最低限になっています。そのせいで不足している部分もあるかとは思いますが、間違いなく言えることは、出題者の意図は受験生がただひたすらに東方問題を書き連ねて、何戦争でどこが独立したとかを書いてくるといったところにはないだろう、ということです。アフガーニーが招かれたとか、ミドハト憲法が制定・停止されたとか、青年トルコ革命が起こったとか、フサイン=マクマホン協定が結ばれたとかいう単なる歴史的事実ではなく、それらが、オスマン帝国の維持と解体の中でどのような意味を持ったのかということが十分に説明できているかの方がより重要ですし、単にベルリン条約でセルビア・ルーマニア・モンテネグロが独立し云々を説明するのではなく、このスラヴ系民族の独立が長い期間にわたる帝国の分裂において、どのような意義を持ち、どこに位置づけられるかを説明する方がより重要だということです(多分)。ですから、上の解答例もあくまでも一例に過ぎません。帝国における3つの思想的潮流をもっと後ろの方に追いやって、スラヴ系諸民族やアラブ民族の民族的自覚を前面に押し出した解答の書き方ももちろんありうるとは思います。ただ、設問の要求は「オスマン帝国の解体過程」であって、対象とされているものはあくまでもオスマン帝国であるということと、今さらパン=スラヴ主義だの中東の多重外交だのを書き連ねても面白みに欠ける気がしたものですから、むしろ新しい知見を中心に解答を組み立ててみました。


 この2年くらい「パン=イスラミズムくる(かもしれない)で~。くる(かもしれない)で~」と言い続けて、特に誰にも要求されていないのに講習でもトルコトルコしてたのに女性参政権とかでかわされ続けてましたが、ようやく出てくれましたね。これで「全然出ないじゃないですかw」と嘲笑されずにすみますw もっとも、はじめから予想する気ないし、当たってもどうせまぐれ当たりとは言い続けていますが、それでも出ると嬉しいw
 これで多分、私大の方でもアフガーニーの出題頻度また増えるんでしょうねぇ。問題としてはすごく普通でしたが、トルコ史がっつりパン=イスラム&パン=トルコ込みでやっていく受験生は少数派かもしれないから大変だったのかもしれません。 

 個人的には、むしろ大問2の方が難しいな、と感じました。知っているようでいて正確には書けない問題が多いですね。いずれにしても近いうちにUPしたいと思います。(仕事に余裕があれば)

パン=イスラーム主義やパン=トルコ主義については、

http://history-link-bottega.com/archives/cat_329049.html

http://history-link-bottega.com/archives/cat_213042.html


東方問題については 

http://history-link-bottega.com/archives/cat_253756.html

など、あちこちに言及していますのでご参考までに。 


 

 2017年の東大大論述はある意味では珍しく、ある意味では東大らしい設問となりました。珍しかったのは、東大で古代史が出題されたことです。東大大論述で古代史が出たのは2001年のエジプト通史と1999年のイベリア半島史以来です。ただ、これもエジプトについては5000年の歴史を、イベリア半島についても2000年近くに及ぶ歴史を述べる中で古代も含まれる程度のもので、正面から古代を取り扱ったものではありませんでした。それ以前ということになると、1995年に出題されたローマ帝国の成立からビザンツ帝国滅亡までの地中海とその周辺地域における諸文明の交流と対立を問う問題までさかのぼることになりますので、実に20年以上も扱われていなかったことになります。このあたりを考えてみても、いわゆる問題の「傾向」なるものは傾向に過ぎないのであって、その年に何がテーマになるかを「予想」することは難しく、仮に当たったとしてもそれは偶然に過ぎないわけです。(もちろん、ある程度確率を高めることはできるのでしょうが、第2問、第3問があること、多くの人は私大を併願することを考えれば、「予想」に頼ってヤマはるよりも、きめ細かい学習を進めた方が無難な気がします。近現代史をあつく学習すべきなのは当然ですが。)当日、問題を見た受験生たちはきっと面食らったかと思います。ローマと春秋戦国ということですから、テーマとしては古代史の中でも頻出の部分なので、そこまでは身構えなかったかもしれませんけれども。

東大らしい、と感じた部分はまずテーマが「帝国」であったことです。これについては以前から東大が意識している大テーマとして「帝国」があるということは指摘してきましたので、ある意味納得のテーマではありました。もう一つ、東大らしい部分はこの設問に二つの仕掛けが施されていることですね。「二地域の(比較)」と「社会変化」という部分です。この部分が示す内容をしっかりと理解して、その要求に対してきちんと応えられたかどうかで、似たようなことを書いていたとしても点数はかなり変わったと思います。

 

【設問概要】

・時期:BC2C以後(ローマ)

    春秋時代以後(春秋時代含む、BC770~:黄河、長江流域)

・「古代帝国」が成立するまでの二地域の社会変化を論ぜよ。

 

(ヒント)

・各地域社会の歴史的展開は一つの法則の枠組みに収まらない(違いがある)

 Ex. 「帝国」統治者の呼び名の登場する経緯の違い

・指示語:漢字 / 私兵 / 諸侯 / 宗法 / 属州 / 第一人者 / 同盟市戦争 /

 

 設問自体は比較的短く、あっさりしたものですが、内容の方は読み解くのがかなり手ごわいです。焦って取り掛からないことをおすすめします。まず、最も重要なのは「社会変化を論ぜよ」ということは「政治変化(のみ)ではない」ということです。ここをはき違えて政治変化ばかり述べるとおそらく点数は伸びないと思います。ですから「犬戎の侵入で都が鎬京から洛邑(陽)に遷って春秋時代となり、覇者は尊王攘夷を掲げてどーたら、戦国時代には戦国の七雄がうんたら」などと書いてしまうとほとんど点が入らないことになると思います。設問が求めているのが、政治なのか、経済なのか、文化なのか、社会なのか、あるいはそれらのうち複数なのかを確認する作業は東大の大論述を解く際の基本であり、作法のようなものです。

 次に重要な点は古代帝国が成立する「まで」とありますので、「帝国期は(厳密には)含まない」ということを確認することが大切です。ローマでいえば、せいぜいオクタウィアヌスがプリンケプスを称するあたり、黄河・長江流域であれば秦王政が始皇帝を名乗るあたりまでですね。ですから、パクス=ロマーナとか五賢帝とか焚書坑儒とか言ってはいけません。

 また、「二地域」ということに注意するべきです。これはつまり、両者の間に「違いがある=比較できる」ということを暗示しています。東大の好きな比較の視点ですね。これは、リード文が従来は「帝国」というものが「法則的な」ものと見られていたけれども、実際には各地域社会がたどった歴史展開は一つの法則の枠組みにとどまるものではなく、大きな違いがあるものだ、という趣旨のことを語っていることからも明らかです。つまり、東大はこれまではモデル化されて語られてきた帝国だが、実際には違いがあることをローマと中国(黄河・長江流域)を例にとって示せ、と言っているわけです。ですから、設問に「比較せよ」と書かれていなくても比較の視点で両者を分析してその違いを示さなくてはなりません。

 

【手順1:各時期のフレームワークを確認】

 いきなり両地域の社会変化を思い浮かべてみても良いのですが、ローマと春秋戦国という頻出箇所であることを考えれば、政治史が中心になってしまうかもしれませんが、まずは大きな流れを確認してみましょう。

 

(ローマ):BC200~帝政成立まで[BC27]

 ローマで要求されているのは、共和政の時期ですが、この時期はいろいろなことが入り組んでいる複雑な時期ですので、まずは全体像をとらえてみましょう。

古代ローマ

 すんげぇアバウトですけど、でもまぁ、上の赤い部分が対象となる時期ですね。この時期にどんなことがあったのか大まかにまとめてみたいと思います。

 

BC2Cはすでに半島が統一され、属州経営が始まる頃

:第二次ポエニ戦争(BC219-201)がちょうどBC3Cの末期です。ということは、ローマはすでにシチリアを、そして新たにヒスパニアを属州として統治し始める時期ですね。ポエニ戦争は三度にわたって展開されますが(BC264-241218-201149-146)、第一次でシチリアを、第二次でヒスパニアを獲得し、第三次でカルタゴ本国を滅ぼします。また、この第三次ポエニ戦争の頃にローマはマケドニアとギリシアが合わせて属州とされます。合わせて覚えておくと時期を確認しやすいと思います。

 

・平民の政治参加は進み、新貴族(ノビレス)が登場する頃

:紀元前3世紀のローマでは、すでにリキニウス=セクスティウス法(BC367)、ホルテンシウス法(BC287)などが制定されて平民の政治参加が進んでいます。平民からもコンスルになるものが出始めましたが、当時のローマ官職は無給でしたから、実際に高官につき、ノビレスとなる者たちの数は少なく、プレブス(平民)の富裕層に限られました。こうしたノビレスたちは属州統治による大土地所有(ラティフンディア)で奴隷を酷使し、そのための徴税請負人としてエクイテス(騎士)と呼ばれる新興の商人たちが使われました。さらに、権力維持のために市民の支持拡大を必要としたノビレスと、ノビレスからの経済的援助や保護を必要としたプレブス下層の人々の間には相互依存関係が成立し、次第にノビレスの保護を受ける代わりにノビレスのために働く被保護者層(クリエンテス)と呼ばれる人々が形成されていきます。親分と子分みたいな関係ですね。こうした取り巻きが形成されると、次第に貴族感の対立が激化していくことになります。

 

・属州統治、ラティフンディア経営による貧富差拡大とグラックス兄弟の改革の失敗

:紀元前2世紀頃から、ローマは獲得した属州でラティフンディア経営を展開します。そのきっかけになったのはポエニ戦争です。上述した通り、ポエニ戦争ではシチリアやヒスパニアなどの広大な土地を属州として獲得します。こうした土地は原則としてローマが公有地として所有することになるのだが、その多くは富裕な市民に貸し出されることになりました。この借り受けた公有地に奴隷を投入してブドウやオリーブ、穀物などの食糧生産を行ったのがラティフンデイア(単数形はラティフンディウム)です。

 ラティフンディアでは奴隷という安価な労働力の使役、大規模で効率的な農場経営によって、中小規模の農民たちが作る作物よりも安価に作物を栽培することが可能でした。こうしてつくられた安価な穀物がローマに流入すると、中小農民は太刀打ちすることができません。結果、多くの中小農民は没落して土地を失い無産市民化します。対して、貴族(パトリキ・ノビレス)はそうした没落農民の土地を吸収してますます大土地所有を拡大します。このようにして市民間の貧富差が拡大してくわけです。また、それまで自腹を切って重装歩兵としての装備をととのえて市民軍の中核を担ってきた農民たちの没落は、そのままローマ市民軍の弱体化を意味していました。

 こうした中で、貧富差の拡大を抑えてローマの弱体化を防ごうと改革を行ったのがグラックス兄弟です。グラックス兄弟(ティベリウスとガイウス)の改革は「貴族による大土地所有を抑えて農民層の没落を防ぐ」ということにつきます。このために兄ティベリウスはかつてのリキニウス=セクスティウス法の「公有地占有は500ユゲラ(約125ヘクタール)までとする」という規定の厳格化を打ち出します。(この法の公有地占有の部分は長い間に半ば死文化していました) しかし、こうした改革(BC130sBC120sごろ)は元老院議員をはじめとする保守派や貴族の反感を買い、兄弟の改革は失敗しました。その結果、ローマの構造的な弱体化(共和政の原則の崩壊[政治の寡占化進行]、農民層の没落と貧富差の拡大、市民軍の弱体化、市民権をめぐる不平等など)はさらに進み、内乱の1世紀へと続いていきます。

 

・内乱の1世紀(シチリア奴隷反乱、同盟市戦争、平民派・閥族派の争いなど)

:すでに示した通り、ローマはその内部に構造的な問題を抱えていました。さらに、その問題を解決しようとしたグラックス兄弟の改革が挫折したことから、続く1世紀にはその問題が顕在化し、噴出します。「内乱の1世紀」です。内乱の1世紀は時期としては通常、グラックスの死からオクタウィアヌスによる帝政の開始までを指しますが、その開始の時期と終わりの時期については議論があります。また「内乱の」とあるのでどうしても国内の反乱事件などに目が行きがちですが、実際には共和政が危機にさらされて国内が動揺した時期のことを指しますので、そのような視点でこの時期にローマを動揺させて事件を列挙すると以下のようになります。

 

 ・シチリアの奴隷反乱(BC139

 ・ティベリウス=グラックスの死(BC133

・同盟市戦争(BC91-88

・マリウス(平民派:ポプラレス)とスラ(閥族派:オプティマテス)の闘争

 ・スパルタクスの反乱(BC73-71

 ・第1回三頭政治(BC60-49)

 ・カエサルの独裁と暗殺(暗殺がBC44

 ・第2回三頭政治(BC43-32)

 ・アクティウムの海戦とプトレマイオス朝エジプトの滅亡(ヘレニズム世界の終わり)

 ・元首政(プリンキパトゥス)の開始(BC27

 

(中国):BC770~秦による統一[BC221]

 中国についてはローマほど複雑ではないと思います。実際、解答を作ってみたらローマ7、中国5くらいの割合になりました。世界史の教科書レベルで載っている春秋戦国時代の情報はそこまで多いわけではありません。いきなり社会変化を見るのも難しいと思いますので、まずはこの時代に何があったのかということだけ確認するところから始めます。

 

・周の東遷と春秋時代の始まり(BC770

・春秋五覇の出現と「尊王攘夷」

:封建制による支配を作り上げた周は、BC770年に北方の遊牧民犬戎により都であった鎬京が落とされ、幽王が殺害されたために東の洛邑(後の洛陽)へと遷都します(周の東遷)。しかし、周王室の力は衰え、かわって諸侯が力を持ち、一部の諸侯は他の諸侯に対する指導的立場を確立して「尊王攘夷(周王室を支え、異民族を打ち払うこと)」を唱えて覇者となりました(春秋の五覇)。春秋の五覇は諸説ありますが、「管鮑の交わり」の名宰相管仲が支えたことで有名な斉の桓公や、長い亡命生活の後で晩年に覇者となった晋の文公が有名です。このあたりのことについては横山光輝『史記』を読むとわかりやすく面白いと思います。

 

・晋の三分と戦国時代の開始(BC5C~)、下剋上

:周王室の血をひく晋(かつて晋の文公が覇者となった国)が、家来筋にあたる韓・魏・趙によって三分された時から戦国時代が始まったと言われています。春秋時代の末期からは、それまでの「尊王攘夷」にかわり「下剋上」の風潮が強くなっていました。諸侯の下には卿・大夫・士と呼ばれる家臣がいたわけですがこれらの家臣の力が諸侯を凌駕したり、上下関係が崩れ始めて、それまでの封建制にほころびが見られるようになったのです。

 

 

・諸子百家の出現、法家の登場と秦の統一

:戦国時代にはいわゆる戦国の七雄(斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙)が現れてしのぎを削りますが、こうした諸国は富国強兵によって他国に勝る力を得ようとします。こうした中で、春秋時代の末期から戦国時代にかけて旧来の社会秩序が変化し、新しい道徳・世界観が求められるようになると諸子百家と呼ばれる思想家が出現し、一部の人々は国政に関わるようになります。

このうち、西方の秦を強国に押し上げたのが法家と呼ばれる思想家たちでした。秦の孝公の時代、法家の商鞅は「商鞅の変法」と呼ばれる改革を断行し、什伍の制という隣保組織をつくり、軍功爵により功績次第で爵位を与える実力主義をとり、一部では郡県制がすでに実施されました。商鞅は孝公が亡くなると改革に反対した保守派によって殺害されますが、秦の強国化の基盤をつくり、さらに秦王政の時代には李斯が登場して法家改革が進められていきます。このようにして徹底した実力主義と中央集権化を進めた秦は、BC221年に中国を統一しました。

 

【手順2:社会変化として挙げられるものを列挙】(最重要)

【手順3:「変化」として見られる部分を意識】(重要)

 さて、手順1では設問の扱う時期にどんなことがあったのかをローマと黄河・長江流域のそれぞれに分けてみてきましたが、それだけだは本設問の解答を作ることはできません。なぜなら、本設問が求めているのは「社会変化」であって、政治的な事柄のみを求めているからではないからです。言ってみれば、手順1で示した内容しか書かれていない解答は「あまり点数の入らない解答のお手本」のようなものになってしまいます。

 そこで、全体の流れを確認したら続いて絶対に行わなければならないのは、この時期に起こった社会変化はどのようなもので、全体の流れとどのように関連しているのかを確認することです。ですから、手順1の作業は極めて短い時間で確認する必要があります。早ければ1~2分、長くても5分弱でしょうか。ここでは解説や予備知識をご紹介するために長々と書いていますが、実際にはすべてを思い浮かべる必要はありません。中国については、手順1で頭に浮かべる必要があるのは下の表程度のことです。

春秋戦国

 このくらいであれば、短期間で確認することは十分可能なはずです。さて、それでは最も時間をかけて確認すべき「社会変化」について、どのようなものがあるかをローマと黄河・長江流域について確認していきましょう。

 

(ローマ)

・属州の獲得、奴隷制とラティフンディアの拡大

:これがローマ共和政期の社会を変える根本とも言っていい部分だと思います。ラティフンディアの拡大は、すでに述べた通り大きく分けて二つの影響を与えました。

 

①ノビレス・エクイテスなどの新しい社会階層の台頭と、貧富の差の拡大

②属州からの安価な穀物流入によるローマ本国の中小農民の没落

→市民軍の弱体化(かつては軍備を自弁する強固な市民軍)

 

この二つが大きな部分ですが、個々から派生して様々な変化が生じます。

 ・大土地所有の進展と貧富の差の拡大

→ノビレスの登場とパトリキとの階層同化

・政治権力の貴族層(パトリキ、ノビレス)による独占

・貴族層と平民の相互依存(パンとサーカス)

 

・分割統治や奴隷制に対する不満と内乱

:さて、ラティフンディアの拡大とは別に、当時のローマは人々の権利をめぐり大きな問題を抱えていました。そのうちの一つが分割統治によるローマ市民権をめぐる不平等です。ローマはローマ人と同等の市民権を与える「植民市」、一部の権利(自治・民法)が認められたが、軍事・裁判権はローマに握られていた「自治市」、諸権利を剥奪されていた「同盟市」などを支配下に置いていましたが、こうした待遇の差に不満を感じた同盟市は紀元前BC91-BC88年にかけて同盟市戦争を起こしました。最終的にはスラによって鎮圧されましたが、この後イタリア半島にすむ自由民全てがローマ市民権を持つことになります。教科書などにはあまり出てきませんが、同盟市戦争によって都市国家ローマのあり方は以下のように大きく変化していくことになります。

①都市国家ローマが本格的な領域国家へ

(都市ローマが他都市を支配するのではなく、半島内全ての都市市民が「ローマ人」)

②民会が実質的な機能不全に陥る

(各地の「ローマ人」がローマの民会に参加することは事実上不可能)

③ローマ法の適用される範囲が劇的に拡大

(「ローマ人」に対しては「ローマ法」が適用される→万民法としての発展の端緒)

 

・軍の「私兵化」と権力闘争の拡大

:ローマの軍の弱体化が進んでいく一方で、各地では反乱や対外戦争が頻発していました。先の同盟市戦争もそうですが、それ以前にもシチリアの奴隷反乱、キンブリ=テウトニ戦争(BC113-101:異民族キンブリ人・テウトニ人との戦争)、ユグルタ戦争(BC112-106:ヌミディア王ユグルタとの戦争)が、また同盟市戦争以降にはスパルタクスの反乱(BC73-71)がありました。

 こうした中、特にキンブリ=テウトニ戦争とユグルタ戦争に際してコンスルとなったマリウスは大規模な軍制改革を実施します。それまでの自弁で武具を持ち寄る市民軍制度から、国家が武器を配布し、志願者を統一的に訓練、指揮する志願兵制度へと変え、これにより没落していた無産市民を職業軍人として再編成することに成功します。このことは、弱体化していたローマ軍を立て直すことにつながりましたが、一方で装備や給与を支給し、日々の保護をしてくれる有力者のもとに兵が集中し、「私兵化」する現象が起こり、その結果政治的な権力闘争は武力を背景とした激烈なものへと変化し、マリウス(平民派)とスラ(閥族派)の対立へとつながっていきます。また、大土地所有、貴族(パトリキ・ノビレス)としての家柄、クリエンテスによる支持、私兵化された軍などの基盤を得た一部の政治家が発言力を増大させることにつながり、政治の寡占化が進んでいきます。後の二度にわたる三頭政治やカエサルの独裁などもこのような背景の中で現れてきます。

 つまり、「平民派VS閥族派」や、「三頭政治」、「カエサルの独裁」といったことは、ただ並べても政治的な事実の羅列にすぎず、「社会変化」を述べたことにはなりません。しかし、ローマの社会変化が軍の私兵化につながった結果、政治の寡占化へとつながったという文脈で語った場合、これらの政治的事実は「社会変化によるローマ共和政の変化」として強力な説得力を持つことになります。同じ歴史的事実でも、どのように述べるかが大切だというのは、つまりはそういうことなのです。

 

・地中海世界統一

:さて、紀元前2世紀から紀元前後に至る時期はローマの支配拡大が続き、地中海世界の統一が進められていく時期です。もちろん、本格的に地中海世界全体の統一が進んでいくのはその後のパクス=ロマーナの時期ですが、すでに紀元前1世紀頃にはその前提となる動きは生じていたと考えるべきでしょう。たとえば、交易圏の拡大です。プトレマイオス朝が滅亡するのがBC30ですから、まだアジア方面までは進出していません。(インド洋の季節風交易が始まるのは紀元前後からと言われています) ただ、地中海沿岸地域の交易が盛んになっていたことは想像に難くありません。また、それにともなう貨幣経済の発展と浸透も見られたことでしょう。さらには、ローマ支配が拡大するのかでラテン語圏の拡大なども見られたと考えることができます。

 

(中国)

・農業技術の改良(鉄製農具、牛耕)と農業生産力の向上(超重要)

:中国については、この部分が非常に重要です。もしかすると、これが書けていない場合には中国の部分ではほとんど点数が入らないのではないか、というくらいの根本となる変化です。ここにしっかり気づいたか、そうでなかったかで大きな差がつくものと思われます。教科書には書いてありますし、学校の先生がプリントを作るとしたらめちゃくちゃ強調する部分でもあるので、知らないということはないのでしょうが、政治史を中心に考えてしまったり、一問一答系の学習に慣れてしまっていると、こうした社会変化や経済変化は目立たないので見逃してしまうかもしれません。この農業技術改良と生産力の向上によって起こった社会変化には以下のようなものがあります。

 ①生産単位の縮小(宗族単位から家族単位の経営へ=氏族共同体の解体)

→宗族、宗法の影響力低下

②商工業の発展

 →都市の成長、青銅貨幣の流通

ちなみに、この時期の中国の社会変化に関する問題としては、1991年東大の第2問に3行問題で春秋戦国期の技術上・経済上の変化が出題されています。

 

 

・邑制国家の崩壊と領域国家の形成(諸侯の権力と国力の強化、富国強兵)

:さて、上述のような社会変化は政治の分野にも及んできます。というよりも、当時の政治自体が宗族といった氏族共同体と密接に関連したものですから、それが変化すれば否応なしに政治の在り方も変わっていくことになります。宗族の解体は、宗族のつながりを基本単位とする邑制(ゆうせい)国家の崩壊へとつながります。「邑制国家」というのは殷や周に代表されるように、数多くある邑(都市国家)の連合体として成立していた国家のことを言います。周の封建制も、周王が支配する邑と、諸侯の邑との相互の支配被支配関係のもとに成り立っています。また、諸侯の邑についても、その配下にある小邑と同じような相互関係を結んでいて、一種のネットワークによって国家としての体を為しています。周王は、諸侯にたいして命令を発し、諸侯はそれに従いますが、周王が諸侯の邑の内部についてあれこれ口出しをしたり、諸侯の配下にある小邑を直接管理するといったことはされません。中身には大きな違いがありますが、モデル化すると何となく社団国家に近い気もします。

 さて、各邑を構成しているのは宗族と呼ばれる氏族共同体です。氏族共同体って言われてもいまいちイメージわきづらいのですが、血縁で結ばれた大規模な集団ですよね。日本史でいうところの物部氏とか蘇我氏とかをイメージするとわかりやすいのでしょうか。昔は農作業の効率が悪いので、少ない人数で細々と農業やっても食べていけません。そこで、治水するにしても作業するにしてもそこに住んでいる人々全員で取り掛かる必要があります。かれらは数人単位の家族ではなく、数十人とか数百人とかからなる一族であり、部族です。ここからはじまれては食べていけませんから、宗族の掟(宗法)には厳格に従わなくてはなりませんし、ものすごい影響力を持ちます。邑っていうのは基本的にこの宗族によって形成されているわけですね。

 ところが、農業生産力が向上すると、必ずしも宗族単位で行動しなくても食べていけるようになります。十数人程度の家族単位(戸)でも食べていけるとなると、宗族の掟に絶対服従をしなければならないということはなくなっていきます。こうした流れの中で宗族などの氏族共同体が解体すると、それまではそれなりの自立性を維持していた小さな邑は力を失っていきます。そこに、より大きな力を持っていた諸侯が、各戸単位の支配の強化に乗り出すと、諸侯の命令がよりダイレクトに各戸、各個人に届く支配体制が形成されていきます。これがつまり、邑制国家の崩壊(諸侯が自立性の強かった旧来の邑の支配を強化)であり、都市国家の連合体から領域国家への変化です。

 このような社会全体の変化は、そこに暮らす人々の認識も大きく変えていくことにつながります。宗族的つながりを強く意識していた春秋時代には「尊王攘夷」が貴ばれていましたが、次第に人々は「下剋上」の風潮を持つようになります。また、それまでの社会道徳が通用しない中で諸子百家が登場し、戦国の世を生き抜くために諸侯はこうした諸子百家を招いて新たな思想を統治に活用しようと試み、富国強兵を進めたわけです。

 

・秦による統一、中央集権の完成と中国的な専制支配体制の成立

:戦国の七雄のなかで、最終的に強国化を達成して中国を統一することになったのは秦の王である政でした。秦は各国に先駆けて中央集権化を強力に推し進めた国で、中国を統一した後はそれまでの封建制に代わる郡県制を導入して徹底した中央集権と専制政治を進めていきます。それを象徴しているのが始皇帝という称号であり、度量衡や文字(小篆)、貨幣(半両銭)の統一でした。

 

【手順4:「二地域」の相違は何かを意識】(重要)

 以上がローマと中国の社会変化に関わる部分です。特にローマの社会変化に関しては有名な部分でもあるのでわりと書けた受験生が多いと思います。ですが、中国については農業技術の変化を氏族共同体の解体から邑制国家の崩壊へつなげることができなかった受験生の方が多かったのではないでしょうか。

 さて、最後に二つの地域の相違として考えられることは何か、検討してみたいと思います。これについてはリード文の方にすでにヒントが示されています。つまり、「各地域社会がたどった歴史的展開は一つの法則にあてはまらない」のであり、まずは両地域の社会変化を丁寧に述べることから始めましょう。さらに、両地域ではどちらも「帝国」が成立するが、「<帝国>統治者の呼び名が登場する経緯にも大きな違いがある」とあります。ですから、なぜローマでは「プリンキパトゥス」であり「プリンケプス」だったのか、なぜ中国では「始皇帝」だったのかその経緯に違いがあると言っているわけです。その違いについて考えてみると、概ね以下のような違いになると思います。

 

(ローマ)

:政治的寡占化は進むが、権力者と「市民」は相互依存関係にある。また、「市民」は法によって権利義務関係がはっきりと定められている。

→オクタウィアヌスは元老院からアウグストゥスという称号は送られるものの、元老院や市民に対する配慮から「第一の市民(プリンケプス)」を名乗る必要がある。

 

(中国)

:秦による統一は氏族社会の解体によって生じた戸という小さな民衆単位に対する支配権を諸侯が強化し、中央集権化が進んでいく中で達成され、統一した秦も郡県制を通して徹底した中央集権化と専制支配を展開した。

→諸侯をしのぎ、絶対的な権力を握った専制君主としての称号、「始皇帝」を名乗る

 

 表現の仕方はいろいろあると思いますが、この二つも、単に片方が「プリンケプス」で片方が「始皇帝」だと書くだけでは違いを示したことにはなりません。そのような名乗りをした背景には何があったのかという点について、どこまで社会変化と結びつけて論ずることができるかということが大切になります。また、こうした理由から私は本設問の解答では「アウグストゥス」を示すよりは「プリンケプス(第一の市民)」または「プリンキパトゥス(元首政)」の語を示すことを優先するべきだと思います。

 

【解答例】

 ローマ属州で拡大した、奴隷を用いた大規模農場経営であるラティフンディアの安価な穀物の流入は、中小農民の没落と市民軍の弱体化を招いた。属州の徴税請負を担ったエクイテスや、大土地所有と政界進出により貴族化したノビレスが出現し、貧富差拡大と権力寡占化が進んだ。市民権独占や奴隷制が抱える矛盾は内乱の形で噴出し、同盟市戦争後に市民権が拡大され、ローマ法拡大の端緒となった。内乱鎮圧のためのマリウスの兵制改革は軍の私兵化と権力闘争を招き、平民派と閥族派の抗争や三頭政治の原因となった。権力は市民の支持に依存したため、権力者は食と娯楽を提供し、オクタウィアヌスは市民の第一人者を自称する元首政を開始した。地中海世界統一と産業力向上は交易圏拡大につながり、貨幣経済が発展し、ラテン語やギリシア語が各地に広がった。一方、鉄製農具の使用や牛耕の開始により農業生産を向上させた黄河・長江流域では、生産単位縮小により宗族や宗法の影響力が低下し氏族共同体が解体した。また、商工業や都市が発展し、青銅貨幣が流通した。諸侯は自立性の強かったに対する支配を強化して周王朝からの自立性を強めたため、封建制は動揺し、諸侯の方針も尊王攘夷から下剋上へと変化した。諸侯は諸子百家を登用し富国強兵を進めたが、中国を統一した秦王政は、分裂していた度量衡や文字の統一を進めて漢字文化圏形成の基礎を築き、始皇帝を称して集権的専制支配を展開した。(600字)

2018年の問題は「ついに来たなー」という感じのテーマでしたね。「女性」をテーマにした出題です。説明会などでは散々「女子学生の比率を増やしたいのだ―。」とのたまっている割に、女子の全体に対する比率は依然として18.6%と、アメリカ軍と同レベルの女子比率である東大でもついに女性が扱われました。もっとも、たぶん東大では以前から大論述で扱いたかったのではないかなーと思います。ただ、大論述で扱うには2つほど問題があったのではないでしょうか。

一つには、従来の教科書記述では女性に関する情報量が少なすぎて、大論述を構成するだけの情報がないという問題があったのではないでしょうか。この点、最近の教科書ではフランス革命期のグージュをはじめ、女性の活動についての記述が増えてきました。(山川の用語集の2012年版にはグージュについての記述はありません) 二つ目は、高校の教員や受験生側の認識の問題があります。たとえ教科書に新しく載ったとしても、高校の教員や受験生の側でそれは当然知っておくべき情報だという認識へと変化していくためにはいくらかの時間差が必要となりますから、そのあたりもある程度は考慮してくれていたのではないでしょうか。まぁ、この辺は推測にすぎませんけど。

 

ところで、今回の問題は採点の方で色々あったようで、どうもある程度何でもよいので具体例をひたすら書き込んだ答案の方が、点数が高く出る傾向にあったようです。これは、そもそも設問が「具体的に記述しなさい」という形で東大にしては珍しく「具体的に」という指示を出していたことと、女性の権利の歴史という慣れないテーマのせいで、一般論で終わってしまう受験生が多数であったことから、とりあえず設問条件を満たす具体例が入っている場合には一定の基準で加点したのではないか、という報告が某予備校の研究会ではされていました。本当かどうかは分かりませんが、そうしたこともあったのかもしれません。ただ、東大の設問の傾向は原則としてあくまでも設問が提示した一定のテーマに沿ってまとめた解答を評価するタイプのものですので、具体例をただ連ねただけの解答は本来であれば低評価となるはずです。そのあたり、今回の設問は東大の側でも一つのチャレンジであり、試験的なものだったのかもしれません。マイノリティの権利に関してはここのところホットな話題ですし、何かのきっかけでまた出るのかもしれませんね。黒人の歴史とか。少数民族史とか。…いや、可能性は低いかな。テキトー言いました、ごめんなさい。今回の問題は、テーマや求められている内容ともに非常にレベルの高いもので、「やや難」といったところかなと感じます。

それから、すでにあちこちで指摘されていることでもありますが、女性参政権については過去に一橋の方でこれを扱った問題が出題されています(一橋大2010年、大問2)。これについては別のところで解説していきたいと思います。

 

2018年第1

【問題概要】

19世紀~20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について具体的に記述せよ。

・女性参政権の歩みについて具体的に記述せよ。

・女性解放運動について具体的に記述せよ。

・指示語として、キュリー(マリー) / 産業革命 / 女性差別撤廃条約(1979 / 人権宣言 / 総力戦 / 4次選挙法改正(1918 / ナイティンゲール / フェミニズム

 

 設問を見ると、一橋と違って参政権のみを問題にしているのではないことがわかります。女性の活動全般についてかなり幅広く聞いてきています。これについて、東大ではリード文を長めに提示して受験生にヒントを与えていますね。受験生が不慣れであろう事柄について問う際には、東大の側でこのようにリード文を通してヒントを与えてくれることもあります。(例えばですが、2012年の宗教的標章法が指示語として与えられた、アジア・アフリカの植民地独立とその後などはリード文がかなり丁寧でした。また、この年の世界史平均点は例年と比較して高かったようですので、おそらく採点基準についても当初のものからかなり易化したのではないでしょうか。)

 

【解答手順1:リード文(中段)から、おおよその流れを確認】

・最初の段落の部分は18世紀までを意識して書かれているものです。ですが、設問の方の時期は19世紀~となっていますので、18世紀の内容はただ書いても加点要素とはなりません。フランスの人権宣言に女性の権利が明記されていないことに抗議して、『女性および女性市民の権利宣言』を発表したグージュなどはフランス革命期に処刑されていますので対象外です。

 

・中段をまとめると以下の通りです。

 

① 19世紀以降、男性の普通選挙要求と並行して進められた。

② 19世紀末から20世紀初頭に一部の国で女性参政権が認められた。

③ 日、仏では第二次世界大戦末期以降に女性参政権が認められた。

④ 参政権のみでは女性の権利や地位の平等は達成されず、20世紀後半には根強い差別からの解放運動が繰り広げられた。

 

 つまり、リード文自体が設問の要求する女性の活動、女性参政権獲得の歩み、女性解放運動のおおまかな流れを示していることに気づきます。このうち、②と③については一連のものとみなしてもいいと思います。大きく分けて3つの時期と内容に分けると比較的すっきりしますね。つまり、「女性が男性優位社会の中で活躍の場を見出そうとする時期(19世紀前半~後半にかけて)」、「女性の活動が参政権獲得運動と本格的に結びつき、運動が高揚して女性参政権が実現する時期(19世紀後半~第二次世界大戦)」、「参政権を獲得した女性が残存する差別の撤廃のために運動を展開する時期(第二次世界大戦後)」です。女性の権利のように、教科書に一つのテーマとしてまとめられていないことについて論述を構成する際には必ずこうした大きな見取り図を用意する必要がありますが、これをリード文が用意してくれるのはとても助かります。実際、ほっとしましたw

 

【解答手順3:解答手順2の①~④を意識しつつ、整理していく】

 解答手順2で示した①~④がおおまかな流れを示しているので、あとはそれに従って加点要素になりそうなものを整理していくと良いでしょう。

 

(①‐19世紀前半~:女性の地位と社会的活動)

:この時期は、まだ女性の参政権獲得運動は本格的には展開していません。(あったとしても男性の活動に付随する形で進んでいきます) ですから、この時期については女性がどのような地位にあったのかの確認と、男性中心社会における女性の社会的活動に焦点を当てると良いでしょう。

 

・産業革命以降、労働を担当する男性と家事を担当する女性の分業が進む

:従来、女性は、つねに労働の場から遠ざけられていたわけではありませんでした。たとえば、農村社会において農作業は男女共同で行う作業で、女性だけでなく子どもたちにすら何らかの役割があります。もうすでに古典となっていますが、フランスの歴史家であるフィリップ=アリエスは『アンシャン=レジーム期の子どもと家族生活(邦題:子供の誕生)』という研究書において、中世には大人と子どもの線引きが曖昧であったことを指摘しています。

 ところで、農村での共同の農作業の場合、家事労働は必ずしも生産労働から区別されません。乳児を背負いながら農作業を手伝うことも可能ですし、食事の支度はそのまま農作業を補助する役目となります。つまり、家事労働をこなしながら生産活動に従事することが可能で、こうした社会においては、時代や地域により差はあるものの、女性は一定の役割と権利を認められています。

 ところが、産業革命によって労働が賃雇いの工場労働に変化すると、特にイギリスでは家事労働は次第に生産活動の場から切り離されていきます。賃雇いの場合、時間と効率が重視されますから、子育てを片手間に行いながら労働していると工場長から睨まれます。また、労働者は家から離れた工場で働きますので、働きながら家事をこなすことはできません。さらに、工場労働は多くの場合、重労働の力仕事や過酷で劣悪な勤務条件であることが多く、子どもや女性に必ずしも適したものとは認められません。こうした流れの中で、シャフツベリ伯アシュリー=クーパーの尽力で1833年にイギリスで一般工場法が制定されたことを皮切りに女性やこどもに対する保護条項が定められていきます。(1844年と1847年の改正で女性と若年労働者の労働時間が制限された) つまり、この法律は重労働から女性やこどもを守る目的からのものでしたが、農村的生活から都市的生活への変化や、製造業を中心とする労働環境の厳しさは、家事労働と生産活動の分化を促進し、女性を家に閉じ込める結果にもつながっていきます。

「女性は家庭にいるのが理想」という発想は、福音主義のような倫理的・道徳的観念からも出てきますが、当時の社会的状況からも強化されていきます。当時の工場法が女性労働を制限しているのは、女性に対する過酷な労働環境が存在していたことの反映でもあります。労働者階級の女性たちは様々な困難があり生産活動の場から遠ざけられようとしながらも、家計を支えるためには何らかの形で稼ぎに出なくてはなりませんでした。そうした女性たちにとって、労働は権利というよりは「つらいこと」でした。それに対して、ジェントルマン階級の家庭では、女性が外に働きに出ることはありません。女性は子どもの教育をはじめ、来客の接待、家宰の一切を任されて、(実際には大変なのでしょうが)優雅に暮らしています。こうした対比がなされた時、「労働者階級の女性はつらいのに働きに出てかわいそう、裕福な家の女性は家のことだけしていいね」というイメージが「女性は家庭に」という理想像をさらに強化していくことにつながりました。このあたりの事情について読みやすいものとしてはジューン=パーヴィスの『ヴィクトリア時代の女性と教育』(ミネルヴァ書房)あたりが良いかと思います。

 

・女性の権利はなかなか認められなかった。

:これについてはいくつか具体例を挙げることができます。上述したグージュの『女性および女性市民の権利宣言』は、女性の権利が認められないことに対する抵抗としては良い例ですが、18世紀の例なので本設問では書きにくいです。同じフランスですが、フランス民法典(ナポレオン法典)などは良い例でしょう。ナポレオン法典は極めて近代的な内容の法典でしたが、家父長権を設定するなど古い家族関係を維持しようとする内容が含まれていたため、女性の権利は尊重されていませんでした。また、イギリスではメアリ=ウルストンクラフトが『女性の権利の擁護』(1792)で女性教育の重要性と教育の機会均等をを説き、その他にも男女同権を主張する著作を発表して有名になりましたが、この人も18世紀末に亡くなっています。

 

・一部の政治的活動に参加する女性の姿も見られたが、多くの場合女性の権利は黙殺されたり、社会活動を展開する女性が蔑視されたりもした。

:女性の政治的活動に対して否定的な社会においても、政治的権利を求める女性たちの活動は展開されましたが、男性優位の社会において、その活動はある種の妥協を強いられました。よくあるパターンは、男性たちが権利の主張をする際にそれに乗じる形で女性の権利を主張するパターンです。18世紀にはフランス革命期に女性の活動が見られましたし、19世紀に入ってからはイギリスのチャーティスト運動などでは女性チャーティスト協会などの婦人団体が参加していました。これは、その時の権利をめぐる対立構図の中心が「権利を持つ支配階層または資本家層 VS 権利を持っていない被支配階層または労働者」であって、「男性 VS 女性」という構図ではなかったことが原因です。ところが、ひとたび男性たちが権利を手にしてしまうと、共に闘っていた男性たちはそれに満足して女性の権利については無頓着になってしまいます。(似たような構図にアメリカにおける奴隷解放があります。奴隷を解放し、自由にするという流れの中で女性の解放というものも問題となりました。公民権運動にも似たような部分はあります。)

 

・女性たちが参加を許されたチャリティーなどの社会活動が存在した。

:このように、政治的活動や労働など、女性は社会的活動の場を19世紀の前半には失ってしまっていますが、そうした中でも許された社会活動にチャリティー(慈善活動)があります。家庭にいることを理想とされた女性たちでしたが、こうした発想のもとには福音主義や、当時の道徳観・倫理観がありました。聖書の中には、見方によっては女性が社会に出たり、指導的立場に立つことを否定していると解釈しうる部分や、家庭を維持し子育てをする女性や、弱者救済を行う人を称賛していると解釈できる部分があります。(例えば、「婦人たちは、教会では黙っていなさい」[コリント人への手紙。1434]など)こうしたことから、当時の倫理観では「女性は家庭にいて子育てや家事に従事すべきだが、弱者を救済する慈善活動は神の御心にかなう活動であり、女性が行ってもよい」という発想があったようです。女性を中心テーマにしたものではありませんが、イギリスのチャリティーについては金澤周作の『チャリティとイギリス近代』は非常に細かく近代イギリスにおけるチャリティのあり方を示しています。金澤周作先生については『海のイギリス史』なども読みやすくていいかと思います。金澤先生は元々は難破船に対する周辺社会の対応の在り方などを研究されていた方ですが、その後チャリティへと関心をむけられた研究者です。

 話がやや横道にそれましたが、このような背景を知っていると、19世紀前半のイギリスにおける自由主義運動とその成果は、必ずしも別のものではなく深く結びついていることが見えてきます。1833年は一般工場法が制定された年ですが、イギリスで奴隷制が廃止された年でもあります。工場法を推進したシャフツベリ伯も、奴隷制廃止運動を展開したウィルバーフォースも福音主義者でした。つまり、自由主義と福音主義は当時において密接に関連しています。また、女性の活動、といったときに真っ先に名前が思い浮かぶのはナイティンゲールですが、彼女が行っていたのも「看護活動」で政治的活動ではありません。もっとも、ナイチンゲール自身は単なる「召使い」としての看護婦ではなく、衛生状況の改善などを政府や軍に打診して実行し、統計学者や看護体制の改革者として力を発揮しました。ただ、そうした力のある女性であっても、教育を受ける際に姉の看護を口実としたり、社会的活動を行うにあたってその入り口が看護活動であったことは当時の世相を反映しているものです。

 

19世紀に活躍した女性の具体例(参政権や女性解放以外の分野で)

:世界史の教科書に出てくるような人で調べてみると、意外にその数が少ないことに驚きます。指示語にあるナイティンゲールとキュリー(マリ=キュリーまたはキュリー夫人)については良いでしょう。キュリーはラジウムの発見とノーベル物理学賞の受賞で有名ですが、政治的な活動は目立ったものがありません。このあたりのことを考えてみても、ナイティンゲールとキュリーについては、女性による参政権獲得運動が本格化する以前の、政治色のない女性の活動の例として挙げるにとどめるべきでしょう。また、指示語として示してある以上は、名前を挙げるだけでなく、関連した事項に触れておくことが大切です。ナイティンゲールについては、クリミア戦争への従軍、彼女の活動の影響を受けたアンリ=デュナンによる国際赤十字の設立などを挙げることができると思います。

 そのほかの19世紀女性となるとあまり見当たりません。使えそうなのはストウ夫人(『アンクルトムの小屋』の著者)で、奴隷解放運動と結びつけることは可能です。他だとヴィクトリア女王と津田梅子(岩倉使節団とともに渡米、留学。女子英学塾[現在の津田塾大学]の創始者で女子教育の先駆者)くらいしか思い浮かばないですねぇw ナイティンゲール・キュリー・ストウ・ヴィクトリア・津田梅子って何の脈絡もなくてガッタガタのラインナップ過ぎて笑えませんw

 ちなみに、看護活動などの社会活動で重要な人物として、世界史の教科書には出てきませんがアメリカのクララ=バートンがいます。南北戦争中に看護活動を行い、その後のアメリカ赤十字の設立に尽力した人物です。この人が世界史などでおなじみだと使い勝手が良いのですけどね。

 

(②19世紀末~20世紀初頭:女性参政権獲得への歩み)

・女性の権利の主張

:さて、19世紀は女性が活動するには世間の目や色々な制限があり難しい時代でしたが、それでもナイティンゲールやキュリーのように、慈善活動などの社会活動や学問の分野で活躍する人たちは見られました。19世紀後半ごろからは、政治的な権利を求める女性の活動が次第に熱を帯びていくことになります。その一つが、2010年の一橋大学出題の大問2リード文で示されたセネカ=フォールズ会議です。これ以降、アメリカでは女性参政権獲得運動が進められていきます。

女性参政権の歩み
(アメリカの女性参政権獲得の歩み)

 

 これらのうち、一般的な世界史の知識で引っ張り出せそうなのは「アメリカでは州単位では早い段階で女性参政権の導入があったこと」と「総力戦である第一次世界大戦への参戦と女性の戦争への協力が女性参政権の成立につながったこと」、「その時の政権がウィルソン政権であったこと」くらいでしょうか。また、一橋の問題を解いたことがあったという人であればセネカ=フォールズ会議について言及できた人もいたかもしれません。(そんなに数は多くはないでしょうが)

 一方、同じ時期にイギリスでも女性参政権獲得運動が展開していきます。一次大戦がきっかけで女性参政権が成立(第4回選挙法改正:1918)するのも同じですね。おおまかな流れは以下の通りです。


イギリスの女性参政権

 (イギリスの女性参政権獲得の歩み)

 

このうち、パンクハースト夫人は一部の教科書に掲載されています。また、2017年に改定された『詳説世界史研究』(山川出版社)にもパンクハーストは出てきます。また、第一次世界大戦と第4回選挙法改正の関係は教科書でもはっきり示してある重要箇所ですから、これについて記述することは十分可能ですし、必須です。総力戦であったこと、女性の軍需工場への動員が行われていたことなどは基本事項になりますので確認をしておきましょう。

 注意しておきたいのは、アメリカ・イギリスと同じく第一次世界大戦の時期に女性参政権が成立した国としてロシアとドイツがありますが、この二つの国については革命が大きな役割を果たしています。1917年にロシア革命が起こると、ソヴィエト政権は女性参政権を導入していきます。一方、ドイツでは20世紀初頭からすでにドイツ婦人参政権協会(1902)がアニタ=アウクスブルクの手により設立されていました。また、大戦中にはローザ=ルクセンブルクが社会主義運動を展開するなど政治的な動きも展開していきます。ドイツ革命の後、1919年にヴァイマル共和国が成立すると、女性参政権が成立します。社会主義の動きの拡大と男女同権論は密接な関連をもったものですから、19世紀後半からの社会主義の拡大と結びつけて論を展開することも可能です。

                                                      

・その他の地域における女性参政権

:女性参政権については、第一次世界大戦との関連が極めて重要ですが、その文脈からは離れた女性参政権の成立についてもまとめておきましょう。まず、世界で初めて女性参政権が成立した国は英領ニュージーランドです。ただし、被選挙権は1919年からの導入でした。続いてオーストラリア(1902)、フィンランド(1906)と続きます。女性解放の動きとしては、近年出題頻度が増えているなと感じるものにイプセンの『人形の家』(ノルウェー、1879があります。弁護士に猫かわいがりに可愛がられていた妻が、あることを境に夫の愛情が表面的なもの、妻の人格を尊重してのものではなく、人形に向けられるようなものと感じて、自立していくという内容のもので、女性の自立を一つのテーマにしています。イプセンは男性で、厳密には「女性の活躍」には含まれませんが、女性解放運動は女性だけが推進するものではありませんから、「女性参政権の歩み」や「女性解放運動」の一環として示すのであれば加点されるのではないでしょうか。

 そのほかにも、上述したように社会主義運動は女性同権と結びつきやすく、パリ=コミューンなどによる一時的導入が見られました(1871年)。ロシア革命を通して女性参政権が実現するのもこのあたりが関連していますね。また、トルコの近代化政策の中で、ムスタファ=ケマルが女性参政権を導入していきます。この際には、参政権だけではなく、チャドルの禁止や一夫一婦制の導入などが進められますが、こうした動きは女性解放というよりはむしろ当時のトルコ政府の政教分離政策(世俗化)と西欧的近代化志向の流れの中で出てきたもののようです。また、一部の教科書にはココ=シャネルについての記述がみられます。実は、シャネルというのは第一次世界大戦と女性の社会進出をテーマにするにあたっては非常に良い例です。シャネルはファッションの分野で有名になった人物ですが、1910年代に相次いで開店したシャネルは、コルセットが多用されていた当時のファッションに疑問を感じ、機能的で動きやすいシャネルスーツを発表してその後発展していきます。


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ココ=シャネル(Wikipedia)

 また、日本史を勉強している人であれば、日本における女性解放運動については比較的書きやすかったのではないかなと思います。たとえば、平塚らいてう(雷鳥)による『青鞜』創刊(1911)、や新婦人協会の設立(1919)、同じく新婦人協会設立に関わった市川房枝による婦人参政権獲得期成同盟(1924)などでしょうか。ちょうどこの頃は大正デモクラシーの時期でもありますね。1925年に普通選挙法が制定されますが、女性参政権は認められることがなく、さらに抱き合わせで治安維持法が制定されます。日本以外のアジア地域ではインドのラーム=モーハン=ローイがサティー(寡婦殉死)の禁止を訴えますし、インドネシア(オランダ領東インド)のカルティニはジャワ人の民族意識高揚や女性教育に尽力して若くして亡くなっています。

 

(③第2次世界大戦末期からの女性参政権)

:第二次世界大戦の末期から戦後にかけては、フランスと日本での女性参政権導入が進められます。フランスでは、パリがナチスから解放された後に、ド=ゴール臨時政府のオルドナンス(政令)による女性参政権導入が行われます。(1944) 日本では、1945年の選挙法改正で満20歳以上の男女に選挙権が与えられ、1946年には女性議員39名が当選します。ちなみに、上述の市川房江は1953年の参議院選挙から議員として当選しています。
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市川房枝(Wikipedia) 



(④女性解放運動)

:これまでに示した通り、第二次世界大戦の終わりごろまでには世界の主要国のほとんどで女性参政権が成立しますが、それが女性の完全な自由と解放を意味するものではありませんでした。これ以降、女性たちの新たな権利獲得のための闘争が始まります。

 ところが、多くの受験生はあまりこの部分が書けていないようです。設問が「1920世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について、また女性参政権獲得の歩みや女性解放運動について」と記しているところに注目したいところです。(もっとも、女性解放運動は広い意味でとらえた場合、参政権獲得を含めたあらゆる活動が含まれるものではあります)

 1950年、国連総会で世界人権宣言(指示語の「人権宣言」はここで使うことも可能です)が採択され、男女同権についての理念が明記されましたが、女性は政治的権利を手に入れたものの、さまざまな社会的制約(女性蔑視、賃金格差、労働環境、女性固有の諸権利への無理解など)に悩まされていました。こうした中で、1960年代から展開されるのがウーマン=リブ活動です。これは、女性を拘束する「家庭」や「女らしさ」イメージ、や男女の役割分担などの考えを打破することを目指したもので、黒人解放の公民権運動やベトナム反戦運動などと連動して拡大し、堕胎やピルの解禁運動などにもつながっていく運動です。このような運動によって、次第にポジティブ=アクション(性差別をなくすための積極的是正措置、アファーマティブ=アクションの一種)が拡大して次第に女性に対する差別が撤廃されていきます。1979年の女性差別撤廃条約はこうした中で国連総会において採択されました。
 ところが、戦後のこうした女性解放運動について、受験生はほとんど書けません。というよりは武器を与えられていないんですね。フェミニズムやウーマン=リブなどは教科書には基本載っていませんし、指示語の女性差別撤廃条約なども通り一遍の説明しかされていないことが多く、そのままでは文章にできません。ここで大切なことは二つのことに注意することです。

 

 ① 指示語は示しただけでは得点にならない。(追加情報を示す必要がある)

 ② 一般的に、女性に対するどのような差別があり、何が撤廃されてきたのかを想像する

 

 まず、①についてですが、条約の名前から女性に対する差別が撤廃された多国間条約であることは何となく想像できます。(あまり二国間で締結する類の条約ではありませんよね) ですから、かなり高確率で国連総会における採択だろうという予想はつきます。また、ちょっと公民や倫理・政経の授業を真面目に聞いてきた人であれば男女雇用機会均等法(1985)や男女共同参画社会基本法(1999)などの名前は聞いたことがあるはずです。だとすれば、「女性差別撤廃条約が国連総会で採択され、日本でも男女雇用機会均等法が制定されて就業機会の平等が図られ、さらに男女共同参画社会基本法により女性が能力を十分に発揮できる社会が目指された。」などの文章を作ることは十分に可能です。

 また、②については参政権以外で女性が直面した様々な差別を思い浮かべればよいと思います。最近よく話題となったのは「ガラスの天井」(資質や成果に関わらず、性別などの要素によって組織内での昇進が阻まれる現象や構造のこと)でしょうか。だとすれば、このガラスの天井を排除してきた女性の活躍について言及すれば良いので、女性政治家の活躍などはその最たるものでしょう。バンダラナイケ、インディラ=ガンディー、サッチャー、メルケル、日本なら土井たか子(社会党)とか。また、他にも産休・育休の取得などの職場内の環境改善や、女性に対する社会意識の変化に触れてもいいのではないでしょうか。「東大も積極的に女子学生の比率向上に努めるなど、教育現場においても女性の地位向上が図られている。」なんて書いたら東大の先生方はどんな顔するんでしょうねw こうしたことは、世界史の知識というよりは、普段から世界史という限られた範囲の学習ではなく、さまざまな知識に触れ、それを総合的に自分の血肉としているかどうかが問われる部分なのかなと思います。まさに、南風原東大副学長が言う「本分かり」ですね。それは「探究活動を通じて身につくこともあるし、本やネットで、ということもある。知識を深めるにも多様な方法があります。」ということですよね。だから、マンガで身につけても映画で身につけても世界史リンク工房で見たものであってもw、それがしっかりとした根拠、論拠に裏付けられたものであり、検証を怠りさえしなければそれでよいのです。リテラシーは大切ですが。

 

【解答例】

 仏の人権宣言で無視された女性の権利は、家長権を認めたフランス民法典でも抑圧された。産業革命は女性を労働から遠ざけて男女分業化を促進し、福音主義は男性に従い家庭に縛られる女性観を強化した。チャーティスト運動など男性主導の運動に加わり女性の権利拡大を求める動きも見られたが、社会進出はクリミア戦争で看護制度改革を進めたナイティンゲールや、ラジウム発見でノーベル賞を受賞したキュリー(マリー)など、慈善活動や教育といった一部の分野に限られた。米ではセネカ=フォールズ会議を皮切りに、奴隷解放運動と結びつき女性参政権を求める運動が拡大し、一部の州では導入された。英でもミルの男女同権論などから運動が拡大し、パンクハースト結成の女性社会政治同盟が闘争を展開した。総力戦となった第一次世界大戦に女性が貢献すると、米はウィルソン政権下で、英は4次選挙法改正(1918で、独・ソでは革命を通して女性参政権を導入し、戦間期にはムスタファ=ケマルのトルコへ拡大した。導入が遅れていた仏・日でも第二次世界大戦後に実現し、国連総会は世界人権宣言で性差別禁止を呼び掛けた。しかし、不当な蔑視や就職・賃金・昇進での差別などが残存したため、公民権運動やベトナム反戦運動と連動してフェミニズム運動が展開され、国連総会の女性差別撤廃条約(1979採択を契機に性差別の是正が進み、日本では男女雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法が成立した。(600字)

 

 解答は設問の要求している「女性の活躍」、「女性参政権獲得の歩み」、「女性解放運動」を意識してみました。上の「手順1」で示した3つないし4つの時期ですね。社会主義や、個別の活動など十分にカバーしきれていない部分もありますが、そこはある程度妥協しました。実際の入試では、サッチャーとか、カルティニとか、平塚らいてうとか指示語以外の女性を羅列した回答がそれなりに高い点数を取っていたらしいということは述べましたが、東大はあくまでも設問の意図に沿った、テーマを意識した解答を求めていると思いますので、おそらく今後東大で類似の問題が出題された場合、そうした構成の解答は点数が低く出ることになると思います。そのあたりのことを考慮して、あえて個別の人物名などを必要以上に挙げることよりも、設問の要求の方にこだわってみたわけです。「具体的に」述べよとありますので、ある程度各国の状況の詳細や固有名詞を出す必要がありますので、なかなか難しかったです。この年の東大の合格者ベース平均点は66%(文三)~69%(文一)とかなり高かったようですが、本来であれば歴史的事実に対する深い理解と、事柄を整理する総合力が要求されるレベルの高い良問だったのではないかと思います。

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