世界史リンク工房:コーヒーを飲みながら歴史を語れ

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カテゴリ:東大への世界史 > 東大の求める世界史像

 今日は朝「高校生新聞online」の方で面白い記事があったので。

 

 http://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/57

 

 かねてから東大、または大学が受験に何を求めているのかということを推し量るということをしてきましたが、こちらの記事は大学からのダイレクトなメッセージなので、とても興味深いものです。(もっとも、メディア向けに味付けされている部分もあるのでしょうが)

 こちらの記事は本来、東大が導入している推薦入試についてのものですが、読んでいくと一般入試に対する東大の意図がどのあたりにあるのかが見えてきます。こちらの記事にある一般入試について気になるところを挙げていくと以下の通りです。

 

① 記述中心型の一般入試には今後も変更がない。高校の各教科で習う内容を本当に深く理解すれば解ける問題を出題する。

② 機械的な暗記による知識ではなく、「高く深い」レベルの知識を問う。東大のアドミッションポリシーとして「知識を詰め込むことよりも、持っている知識を関連付けて解を導く能力の高さを重視」するとある。

③ 「記述試験は受験生との対話」である。

④ 採点の過程も対話であり、元からある採点基準も採点を通じて基準が洗練されていく。

⑤ センター試験があるから安心して深い記述問題が出題できる。

 

 ①については、おそらくそうだろうとかなり前から思っていたことですが、やはりそうなのですね。東大の問題は採点にものすごく手間がかかるであろうことを除けば、試験としての完成度は高いものです。⑤にもありますが、センター試験と併用することで基本的な知識を確認した上で、本人が内容をきちんと把握しているかを問う内容になっています。完成度が高く、蓄積のあるものをわざわざ変えることで何かメリットが生まれるのだろうかとかねてから疑問に思っていました。出題傾向は多少変わるかもしれませんが、大きく変化することはやはりなさそうです。これまでの東大過去問分析の価値が損なわれるものではないのでこちらとしても一安心ですw 無駄な手間が省けます。

 

 ②についても、おそらく多くの人がそのように感じていたであろうことをはっきりと確認できたということです。つまり、「きちんと理解する」のであれば、世界史については、いわゆる一問一答を全て丸暗記するよりも教科書ベースで内容把握する方が東大では点数が取れるということです。時折「一問一答やった方がいいですか?」という質問を受けますが「ケースバイケース」と答えることにしています。一問一答形式のテキストは「自分が覚えているかどうかを確認するため、または自分はこれだけ覚えているんだということを確認して安心感を得るためのツール」としては優れていると思いますが、初めて覚える、身に着けるためのテキストとして特に優れているとは思いません。(ただし、受験まで時間が限られていて緊急避難的にとりあえず知識を入れておきたい、ということであれば便利なツールだと思います。また、東大を受験する人でも早慶といった私大を併願していることがほとんどだと思います。こうした大学の受験をメインで考えている場合、それなりに役に立つ部分があることは否定しません。)

なぜかと言えば、どうしても付随する情報量が不足してしまうんですよね。テキスト、プリント、資料集、授業などでは、時間的なつながり、地域的な広がり、映像、関連する事項などが総合的に、自然に目と耳から入ってきます。一問一答ではそれがないので、一問一答「だけ」で覚えると、どうしても薄っぺらい知識で止まってしまいがちです。こうした知識は問題の形式が少し変わると対応できず、応用力を身につけることができません。何より致命的なこととして「ある情報について人に広く、深く伝えること」ができません。たとえば、友達から「○○って何?」と聞かれたときに、その一問一答に書かれた質問文以上の説明をすることができないことになります。そうすると「フランス革命って何だっけ?」に対して「1789年~1799年に展開された、フランス社会を根底から変革することとなった動き、だよ。」という答えが期待できる最大値で、それ以上が出てこないわけです。エルゴ=プラクシーで言うところのアントラージュっぽい答えになってしまいます。あ、古いしマイナーですね。はい。

 

きちんと勉強している人であれば、一見拙くは見えてもその答えにはいろいろな情報が含まれています。「えっとー、1789年にバスティーユが襲われてー、そんで第三身分の人たちがー、議会をつくってー、人権宣言で―…」のように、各事象や時系列が曖昧さや誤りがあることもあるにせよ見えてきます。しっかりと内容を把握して、かつ質問の意図を的確にとらえる人であれば、その説明はさらに洗練をされてよりはっきりとした像を結ぶことになります。「フランス革命って言ってもさw フランス革命の何が聞きたいのw?…あー、全体的な流れかぁ。私もあんまり覚えてないんだけど、まずは貴族への課税について三部会が開かれたけどモメて、第三身分が国民議会をつくって。そのあと立法議会、国民公会って形でかわっていくけど、それにつれて革命が急進化していく感じ。あれ?バスティーユ襲撃っていつ頃だっけ?」…まぁ、こんな答え方する高校生は一般的ではないでしょうがw

ですが、東大が言う②というのは、結局のところそうした能力です。不十分ではあっても「人に伝え、自分で考えを深められる」レベルで知識を体得している受験生が欲しいのでしょう。よく「知識はなくても考える力があればそれでいい」という人がいますが、これは半分正解ですが半分は誤っています。知識はなくても思考することはできますが、その思考を深め、発展させていくためにはさらに深い知識が必要になります。つまり、多くの知識を身につけていることは、それがない人間よりもより深い思考・思索を可能にする土台を身につけているということだからです。単純に考えて「知識がなく、思考力もない<知識はないが思考力はある<知識があり思考力もある」なのは自明です。(王欣太の『蒼天航路』であまりの書籍の数に驚嘆する劉備が「これ全部頭に入っているの?」と聞くのに対して曹操が「覚えていなくていなくてすごい奴もいるが、最後は覚えている奴が勝つ」という趣旨のことを言うシーンがありますが、まさにその通りだと思います。)

つまり、東大がお求めなのは、この「知識があり思考力もある」というおよそ「一般的ではない」高校生ですw ですがまぁ、しょうがないですよね、東大自体がおよそ一般的な大学ではないので。大学で、つまり高等教育機関で研究を進めるにあたり、「自分が知識を把握し、それを他者に伝え、他者に伝える中で新たな疑問や問題点を発見し、その解決のために新たな知識を求める」というプロセスは必須能力です。そうでなければ研究とは呼べませんし、それにあたって仕入れる知識の量は専門書の1冊や2冊程度では到底すみません。歴史の論文や専門書を読んでみればわかりますが、1200字程度の文章を書く間に注として用いる書籍の数が10冊なんていうのはザラでしょう。そうした環境に身を置くのだから、高校の教科書一冊分の情報量を入れる力は欲しいし、それはまったく詰め込みと言えるほどの量ではない、というのが東大ほか難関大の教員のスタンスだと思います。もっとも、高校生の立場になっていってみれば、確かに1教科で見れば教科書1冊分+α程度の知識かもしれないけれども、それを全教科にわたって要求されるわけですから、決して容易な量ではないことは疑いがありません。大変です。でも、しょうがないですよ、東大だもん。

 

 ③については、各大学の論述解説に際して繰り返しお伝えしてきた「論述はコミュニケーション」だという表現と全く同じ内容です。東大の先生方も同じスタンスなのだと確認出来てほっとしました。ですから、その辺の細かいニュアンスについては各校の論述対策をご覧いただければと思います。今回興味深かったのは、採点にまで踏み込んで説明して下さっているところですね。採点についても対話であって、「もとから採点基準はある」が、それを受験生の解答によっては変更していくこともあるということを示してくださっています。この点については、「多分見てくれてるとは思うよ、天下の東大だもん。」といいつつ、「でもなぁ、何千人もいるからなぁ、そこまで見てくれてるかなぁ。」という一抹の不安を抱いていましたが、副学長がおっしゃるのですから多分大丈夫でしょう。ですから、教科書をはみ出した知識であったり、理解であっても、設問の意図に照らして焦点が合った解答であり、かつ歴史的事実に基づいているのであれば、正解としてくれていると思います。また、東大側が本気で採点をしてくれている限り、多少マニアックな知識であってもちゃんと拾ってくれているはずです。それくらい東大をはじめとする難関大の教員や研究者のレベルはすんげぇのです。

 

 とりあえず、これまでの東大入試に関する認識に大きな誤りはなさそうですし、国からの妙な圧力がない限りは今後も東大世界史の問題について大きな変更はなさそうです。今年はどんな問題が出るんでしょうかねぇ。楽しみでもあります。

 

 HANDはたびたび「東大の世界史では」とか、「東大が受験生に求めているのは」と口にするのだが、これは何も東大の過去問だけから当てずっぽうに推測で述べているのではない。歴史学の近年の動向ももちろんだが、特に東大の教員が行っている諸研究や執筆した書物などから読み取れることを口にしているに過ぎない。ちなみに、歴史学の近年の動向を一般の方が簡単につかみたいと思うなら、財団法人史学会(ちなみに本部は東京大学文学部内)が発行している『史学雑誌』から毎年出される第5号がその前年の歴史学会の「回顧と展望」の号となっているので、これが参考になるだろう。ただし、書かれている内容は極めて専門的な内容(少なくとも、大学の史学部学生がある程度勉強してから理解できる内容)になるので、高校生がちょっと見ただけで全貌をつかむのは難しいかもしれない。もし大学生になって史学系の学問を志す気になった場合は、おそらく最初に触れる学術雑誌になると思うので心にとめておいて欲しい。

 

 ところで、HANDが注目している東大の教員の中でも特に重要なのがたびたび言及している東大副学長(かつての国際本部長)である羽田正教授だ。氏はかねてから大学で行われている歴史学と高校教育における世界史の現状があまりにもかけ離れていること、さらに一般の人に歴史学の成果が十分に伝わっていないことを憂慮しており、いかにすれば歴史学をさらに有意義な学問として発展させていけるか、またどうすれば歴史学と一般の人々との間にある乖離をなくしていくことができるかを考えていた。そうした氏の考えは、たとえば氏の代表的著作である『イスラーム世界の創造』(東京大学出版会、2005年)にも示されている。じつはこの本は当時大学院生として氏のゼミに参加していた私が課題図書の一つとして与えられて討論を重ねたものでもある。要は、氏が当時どのような考えをお持ちだったかを直にお話としてうかがっているわけだ。この『イスラーム世界』の創造は著作自体が「アジア・太平洋特別賞」や「ファラービー国際賞」などの賞を受賞し、「イスラーム世界」という概念の曖昧さを指摘した当時としては画期的な書であったわけだが、この著作には氏の「イスラーム世界」に対する考え方や「世界史」に対する危機感が随所に示されている。本書の内容の紹介はまた別稿で改めてする予定でいるが、氏が本書の中で示している要点を示せば以下のようになる。

 

・「イスラーム世界」というのは一種の「イデオロギー」であって、ある地域の歴史の実態をとらえるための枠組みとしては極めて曖昧なものであるから、こうした枠組みはすでに不要のものである。

・「イスラーム世界」という概念が特にヨーロッパの知識人たちを中心に想像されてきた概念だとすれば、そこには「ヨーロッパ」という対概念が存在し、これもきわめてイデオロギー的かつ曖昧な枠組みであるから再考を要する。

 

つまり、氏は「イスラーム世界」という概念は実際に存在する地理的要素、気候、風土、政治体制、民族、経済的なつながり、文化などの諸要素とその相違を全く考慮することなく、「宗教的にイスラームが主要に信じられている地域であるから」とか「イスラーム法が通用する世界であるから」などといった乱暴なくくりで一つの世界としてまとめてしまう概念であり、こうした曖昧な概念では各地域の歴史的実態を真に把握することはできない、ということを主張している。さらに、こうした「イスラーム世界」という概念が近代歴史学の基礎を作り出した19世紀ヨーロッパ知識人による「ヨーロッパに対するイスラーム」という視点、イデオロギーによるものであることを問題視するのである。わかりづらいかもしれないが、極端な例をあげれば、仏教が信じられる地域を全て「仏教世界」として規定し、かつそこに存在する都市を「仏教都市」として類型化することは果たして可能かどうかを考えればその問題点は明らかになるはずだ。また、タイが仏教国だからといって、タイが文化的にインドやイランよりも日本と類似性が強い、という議論が成り立たないことも明白だろう。にもかかわらず、現在の歴史はこれと同じことを「イスラーム世界」においてしてしまっている。「イスラーム世界」であるからカラ=ハン朝とムワッヒド朝は「同じようなイスラーム王朝」と言えるのだろうか。「イスラーム世界」に存在する都市は全て「イスラーム都市」としての性質を有しているといえるのだろうか。氏はこれを明確に否定している。

 

 「イスラーム世界」には独特の形態と生活様式を持った「イスラーム都市」が存在するという命題が破綻していることを、私はこの本の出版以前にすでに仲間とともに指摘していた。(同書P.289

 

こうした考え方に基づくと、最近の世界史の記述の中に、または東大の設問中に「アラブ=イスラーム文化圏(2011年東大第1問)」であるとか、「トルコ=イスラーム」といった用語が用いられるようになってきている理由が良くわかる。氏は、イスラームという要素のみならず、その時代、各地域における特徴を踏まえた上でその歴史的実態をとらえようとしており、少なくとも現在の歴史学界の潮流としてそうした考え方は一定の支持を得ているのだ。また、氏は世界史の記述に関してこのようにも述べている。

 

 私は別稿で、国や民族などある一つのまとまりを設定し、そのまとまりの内の出来事を時系列に沿って整理し、解釈しようとする現在の歴史研究の限界を指摘し、「不連続の歴史」という考え方と現代の地域研究から示唆を得た「歴史的地域」という概念を提唱した。未だ萌芽的な研究ではあるが、これは、過去のある時代に一つの地域を設定し、その全体像を地域研究的手法によって明らかにしたうえで、現代世界をそのような歴史的地域がいくつも積み重なったうえに成立したものとして理解しようとするものである。

また、歴史的地域を考える際には、環境や生態が十分に考慮されるべきだということも強調した。…(中略)…必要とされる世界史とは人間と環境や生態の関わり方の歴史を説明するものでなければならない。(同書P.298

 

 こうした世界史像からは、氏が詳細かつ緻密な地域史研究に基づいたある時代、ある地域の歴史的実態をもとに、それらが複層的に折り重なって形成される世界史像を求めていることがわかる。東大の出題ではで各地域同士の関連が重視されるとは繰り返し指摘していることではあるが、これは単なる過去問分析からだけではなく、こうした東大教員の歴史観、歴史学会の流れなどをふまえた上で指摘していることである。

 

 もっとも、羽田氏が現在でも同じような歴史観を抱いているかは当然わからない。しかし、つい最近、羽田氏をはじめとする歴史学者たちが興味深い書物を出版した。それが『世界史の世界史』という著作である。内容については『イスラーム世界の創造』と同様、高度に専門的な内容がほとんどであるので高校生には難しすぎるため、また別稿を設けて紹介するが、この著作のタイトルからも見てわかる通り現在の「世界史」をいかにすべきか、という視点が多分に盛り込まれていて、羽田氏をはじめとする歴史学者が現在の世界史をどのような目で見ているのかということをうかがい知ることができる。

 同書の終章にあたる「総論」は「われわれが目指す世界史」というタイトルになっていて、この本の編集委員会を構成する秋田茂、永原陽子、羽田正、南塚信吾、三宅明正、桃木至朗らによる議論の中でまとめられた、彼らが目指すこれからの世界史像の概要を知ることができる。ここには編集委員会のうち桃木至朗・秋田茂・市大樹らが大阪大学で担当する授業のために作成した「現代歴史学を理解するキーワード一覧」が示されている。この中には受験生にはやや難解な用語も含まれるが、高校教員や大学で史学を志す学部生などにとってはある意味ではなじみのある、またある意味では再度歴史学の問題関心を見直す上で非常に便利な表であると思われるので、下に引用する。

 

 世界史の世界史

(同書P.400より引用)

 

さらに、この総論ではこの編集委員会の目指す方向性とその可能性や問題点についての検討がなされている。各節の見出しを見るだけでも、その目指す方向の大枠はつかめるので、同じく下に示す。

 

・国民国家を超える / 疑う

・欧米中心主義と闘う

・「反近代」、「超近代」、「ポスト近代」

・脱中心化

・人間中心主義から離れる

・「世界史の見取り図」の必要性

・「全体像」と「個別研究」の関係

・人文学の限界を方法、組織面で突破する世界史

 

編集委員会はこれらの方向性について、その意義を強調すると同時にどのような問題点があるかを詳細に検討している。たとえば、「国民国家を超える」ことは必ずしも万能ではなく、『「多様性のなかの統一」「多元一体」などをうたう柔らかいタイプ』のナショナリズムへつながる可能性などを指摘するなど、ナショナル・ヒストリーの超克とグローバル・ヒストリーの叙述が常に喜ばしい、望ましい方向へ向かうわけではないことなどを指摘している。いずれにせよ、この「総論」で挙げられている問題関心を見る限り、先に紹介した『イスラーム世界の創造』が執筆された時期(2005年当時)と比較しても、現在(同書は20169月の発行である)の問題関心とその方向性や軸が大きくずれているようには感じられない。こうした歴史観を羽田とその周辺の歴史家たちが共有しているのだということを知ったうえで、東大をはじめとするいわゆる難関校と呼ばれる大学の、ここ数年、あるいは今後数年の出題傾向を見ていくと、なかなか面白いものが見えてくるのではないだろうか。

 

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