さて、昨日イタリア戦争の中でバーゼル公会議とフェラーラ公会議について書いていて思い出しましたので、HANDがこれまでに扱った一橋の難問・奇問の中でもとびきりの悪問であると感じている一橋「世界史」過去問(2003年、大問1)を取り上げてみたいと思います。この問題を取り上げたいのは、確かに「おいおい、それはいくら何でも無茶ってもんだろっ!」というツッコミにも似た感情を皆さんにも共有していただきたいという、いささか野次馬根性的な部分も確かにございますが、それ以上に、このレベルの悪問に対して受験生はいったい何をして、どう対処すべきか、ということを示してみたいと思うからです。

 

 受験というのは非情です。先日、HANDが浪人した時のセンター試験旧課程数学がいかに凶悪であったかというお話をしましたが、どんなに凶悪な事態が発生したとしても、「お上(大学当局など)」が「特に対応はいたしません」といえば何の救済もなされないわけで、受験生は泣き寝入りするしかありません。だからHANDはその時のことをセンター試験に「失敗した」と書くわけです。結局当時HANDは二次試験で挽回する自信はありながらも「足切りで試験すら受けられない」という事態を回避するために東大を受けずに一橋を受験したわけですが、その判断もセンターで点数が取れなかったことも含めて結局は「自分の失敗」なのです。同じように受験しながらも堂々と怪しげもなく東大に進学する人もいるわけですから、なぜ失敗したのですかと言われればそれはセンター試験のせいではなく自分の失敗なのですね。

ちなみにHANDは「家から遠い」という理由で、結局一橋ではなくワセ法に進学しましたw ぶっちゃけ、学歴とかは後からどうにでもなります(多分)。極論言ってしまえば、大学をどこに進学したとしても、ハーバードやケンブリッジに留学してそこを出てしまえば最終学歴はハーバードです。大学に進学して最も大切なのは、そこでどのような先生や学問と出会い、それを突き詰めて自分を高めていけるかということにつきます。そう考えると、マーチクラスの大学にも優秀な先生方はたくさんいますし、東大・早慶であっても学問的・人間的にどうしようもない教授陣もいます。受験に成功する、自分の目標を達成することはもちろん大切なことですし、立派なことですが、多分一番大切なのは入ってからどの先生について何の勉強をするかということですね。それをはき違えてしまうと妙な学歴信仰者、お受験マニアで終わってしまうので気をつけましょう。ただ、設備や国からの助成、研究費の支給、留学などはやっぱり東大・早慶は強いですね。これらの難関大学の他より優れているところあげなさいと言われれば、そうした面で優遇されているということと、教授陣や学生たちのインテリジェンスの平均値が高いために学習しやすいという面があるということでしょう。

 

脱線してしまいましたが、受験生としては、一見すると不公正な問題の格差や「悪問」に出会うという「不測の事態」に遭遇する危険性は常に付きまとうわけで、だとすればそこでどういう対応をするか、その対応力も含めて問われることになります。問題が「悪問」だからというのは慰めにはなっても言い訳にはならないのです。そこで、そうした場合にどういう対処が可能なのか、2003年一橋の問題を例に取り上げてみたいと思います。

 

 2003年一橋の大問1は、問題自体が短いものですし、内容を見てみないとどの辺が「まずい」のかというニュアンスが伝わらないかと思いますので、概要を示すのではなく全文を示したいと思います。

 

  Ⅰ

 15世紀イタリア社会の動向は、オスマントルコの小アジア、バルカン地方への進出と深く関係していた。トルコ勢力の攻勢の前に領土縮小を余儀なくされたビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き、援軍の要請を行ってイタリア社会に大きな影響を与えたし、この時期多数のギリシヤ人が到来して、この地の文化活動にも影響を与えたからである。オスマントルコの進出に伴うこの東西キリスト教世界の交流と、それが15世紀イタリア社会に与えた影響について論じなさい。(400字以内)

 

 これがその問題です。ちなみに、私は一橋の設問が常に悪問や奇問の類だとは思わないと考えています。一橋が、受験生に材料を示した上で「歴史学的なものの考え方をさせたい」と考えたある意味では良問とも言える設問を出題しているということについては、一橋大学「世界史」出題傾向②で示した通りですが、それにしてもこの2003年の問題はひどいです。何がひどいかといえば、まず、近年の設問では必ず用意されている「受験生の知らない歴史的知識のヒントとなる材料」が全く示されていません。近年の問題では与えられた史資料などをもとに読解・推量によってある程度解答への道筋をつけることができるのですが、本設問では全くそれがありません。さらに、本設問が要求している内容は完全に高校生の学習内容を逸脱しており、教科書・参考書のどこをみてもほとんど記述らしい記述がありません。

 

 それでは、どのような設問なのか解説を進めていきましょう。まず、設問の内容を確認します。

 

[設問の要求]

 ①「オスマントルコの進出に伴うこの東西キリスト教世界の交流」について論ぜよ

 ②「①が15世紀イタリア社会に与えた影響について答えよ」

 

 ここで、①の「この」とは何かを確認すると、直前に「トルコ勢力の攻勢の前に領土縮小を余儀なくされたビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き、援軍の要請を行ってイタリア社会に大きな影響を与えたし、この時期多数のギリシヤ人が到来して、この地の文化活動にも影響を与えた」とあります。ここでさらに「この地」がどこかを確認すると「多数のギリシヤ人が到来し」た地であるからこれは「イタリア」のことを指しています。ですから、「この」東西キリスト教世界の交流とは一言で言えば「イタリアとビザンツ(ローマ=カトリック教会とギリシア正教会)の交流」ということなのですが、そもそも問題文自体が「このこのこの」状態なのでとてもわかりづらいです。大学受験レベルの設問で指示語連発は正直やめて欲しいです。言葉の一語一句、その意味にこだわるべき歴史家が作る設問だとは思えません。

 設問とほぼ同じ内容をわかりやすく書くとこうなります。「オスマン=トルコの攻勢により領土縮小を余儀なくされたビザンツ帝国では、皇帝が自ら西欧に赴いてイタリアの社会に大きな影響を与えるとともに、帝国内のギリシア人が多数イタリアに到来したことで、文化活動にも影響を与えた。」です。だいぶ意味が取りやすくなりませんか?あんまり変わらないですかねw 

 

 さて、本設問のイカンところは何も設問の文章が稚拙だということにあるのではありません。設問の要求について分析してみましょう。

 

[設問の要求に対する分析]

・まず、①に該当する内容は世界史の教科書・参考書・用語集ともに全く載っていません。受験生にとって、「ビザンツ帝国からイタリアへの援軍要請」というと真っ先に思い浮かぶのはアレクシオス1世ですが、これは11世紀にセルジューク=トルコにより圧迫されたことが原因ですから、本設問とは無関係なのは明らかです。「15世紀に皇帝自らが西欧に赴いて援軍要請した」ということになると、該当するのは昨日のイタリア史補足の中で紹介したパラエオロゴス朝のヨハネス8世です。彼が、バーゼル公会議(1431)、フェッラーラ・フィレンツェ公会議(1438-1439)で西欧からの援助を得るために東西教会の統合を提案してオスマン=トルコに対する十字軍を要請したことは書いた通りです。彼のこの提案にローマ教会側も同調し、最終的には東西教会の合同会議と将来の東西教会合同の署名を交わすことが実現しました。

・次に、②についてですが、東西教会による公会議の影響と成果についてまとめると、おそらく以下のようになると思います。

 

A 最終的に東西教会の合同は実現せず

:東側が十分な合意形成を行わず反対論が噴出したこと、政治的な思惑から来たものであったことから失敗。

B アルメニアの教会の一部がローマ教皇の教皇権を認めるアルメニア典礼カトリック教会が成立。

C ルネサンスへの刺激

:ギリシアから多くの知識人が亡命し、ギリシア語文献が伝わったことで、これまでプラトン哲学などに関心を示しながらもギリシア語が読めなかったフィレンツェなどの人文主義者たちがギリシア哲学に触れることが可能に。

   

以上の3点になります。中でも、Cについてはまず、ビザンツ学者のプレトンによるプラトン哲学講義によってフィレンツェのプラトン熱が高揚したため、コジモ=デ=メディチによるプラトン=アカデミーがはじめられます。この中で、フィチーノをはじめとする人文主義者が集い、愛や美をめぐる知的な討論、異教的な思想が醸成されていきます。また、フィレンツェでは美術面でもボッティチェリ「春」、「ヴィーナスの誕生」などが生まれる思想的土壌を育んだと言えるでしょう。ですが、上にあげたA~Cのうち、設問の要求である「15世紀イタリア社会に与えた影響」として適切なものはCのみです。また、かろうじて世界史の教科書に出てくるレベルの知識もCのみですが、それにしても内容的には薄いでしょう。「東西キリスト教世界の交流」については書きようがありません。バーゼル公会議(1431)にフェラーラ公会議・フィレンツェ公会議(1437-39)なんて『詳説世界史研究』にすら一字も出てきません。ちなみに、比較的2003年に近い2000年版の『詳説世界史研究』にはこのあたりの事情について以下のような記述になっています。

 

P.191に「後期ビザンツ帝国」の項目があり、パラエオロゴス朝(1261-1453)についても記述がありますが、「…ニコポリスの戦い(1396)で敗れ、その後も敗退を続けた。そして1453年メフメト2世率いるオスマン軍によりコンスタンティノープルが陥落…」と、見事に該当箇所はすっ飛ばされています。

P.306に「オスマン帝国の拡大」の項目がありますが、ここも「1402年アナトリアに侵入したティムールにアンカラの戦いにおいて敗れ、捕虜のみのまま死去し、これによってオスマン朝の征服戦は一時中断した。メフメト2世は、1453年コンスタンティノープルを約10万の兵を率いて包囲…」とあり、こちらも一字も言及されていません。

P.228には「参考」としてメディチ家のプラトン=アカデミーについてのコラムがやや詳しく載っています。コジモ、ロレンツォなどのパトロンの名やブルネレスキ・ギベルティ・マルシリオ=フィチーノといった文化人の名はいくらか挙げられていますが、ビザンツとの絡みは一切かかれていません。

・おそらく、唯一当時のビザンツのルネサンスへの影響について示されているのは、P.192の「ビザンツ文化」の項目です。ここにはビザンツ文化の歴史的意義のひとつとして12世紀ルネサンスをあげた上で「さらにイタリア=ルネサンスの開花にも影響を与えた」としか書いていません。

 

 つまり、2003年当時の受験生にとって、この年の一橋の大問1は「どうしようもない」、「手の出しようがない」のです。では、彼らにはどんな道が残されていたのでしょうか。解答作成への道を探ってみたいと思います。

 

[解答作成の道順] 

・高得点を取ることは至難。というより不可能に近い。

・世界史の参考書レベルの知識でどうにかするとすれば以下の流れがベスト。

 

  オスマンのバルカン進出について軽くアピールする

:もっとも、コソヴォの戦い(1389)、ニコポリスの戦い(1396)はともに14世紀末なので厳密には不適切な上、アンカラの戦い(1402)でオスマンのバヤジット1世はティムールに敗れるので、使い方が難しいです。実際のところ、アンカラの戦いでオスマンのバルカン進撃が停滞したということをきちんと把握している受験生がどれだけいるでしょうか。

  とりあえず、ビザンツ皇帝が援軍を求めにやってきたことを書く。

:これは、設問に書いてあるから書けますね。ヨハネスの名前は出せなくても、時期的にビザンツの最後の王朝ですからパラエオロゴス朝の名前をあげることは不可能ではありません。

  ギリシアの学者や文献の流入がルネサンスを刺激したことを示す。

:これも、12世紀ルネサンスの流れが理解できていれば、イタリア=ルネサンス期に 同様の流れがあったことを理解することは難しくありませんし、多分きちんと勉強している受験生なら知っていることです。

   ルネサンスとギリシア哲学を結びつけることが可能な具体例を探す。

:なかなか実例が出てこなくて困るかもしれませんが、幸いなことにルネサンスの中心であるフィレンツェがこうした舞台なわけですから、フィレンツェにおけるルネサンスの展開を思い出してみましょう。その中で「プラトン=アカデミー」の名前を思いだせたらしめたものです。「プラトン→ギリシア!」の連想から、少し膨らませて書いてみましょう。『詳説世界史研究』を舐めるように読んでいる人であれば、他にもフィチーノ、人文主義者などのキーワードを思いつくことは可能なはずです。『チェーザレ』を読んでいれば『ニコマコス倫理学』なんていうワードももしかしたら出てくるかもしれませんw

 

以上の①~④をふまえて、「何とか周りの受験生とは差がつかない程度の不時着的な解答をつくるとすればどのあたりが限界か」を考えてつくった解答が以下のものになります。

 

[解答例]

 コソヴォの戦いやニコポリスの戦いでセルビアやハンガリーの一部を支配したものの、ティムールにアンカラの戦いで敗れたことでバルカン半島への進出を停滞させていたオスマン帝国は、15世紀前半にバルカン地域への拡大を再開した。この動きに脅威を抱いたパラエオロゴス朝の皇帝は、西欧諸国に対して援助を請うため自ら西欧へと赴いたが、これを契機に多くのギリシア人学者が東方貿易によって富を蓄積して発展していた北イタリア諸都市の貴族や人文主義者たちと交流することになった。ビザンツ帝国の学者との交流や書籍の流入はイタリアの人々の古代ギリシア哲学への理解を深めさせることにつながり、イタリア=ルネサンスが花開く一つの原因ともなった。特に、銀行業などによってメディチ家が力をつけてきていたフィレンツェでは、当主であるコジモによってプラトン=アカデミーと呼ばれる人文主義者の集まりが開かれ、フィチーノなどの人文主義者を輩出した。(400字)

 

正直、このあたりが限界でしょう。逆に言えば、このくらいの解答であれば「書こうと思えば書ける」レベルのものであるということになります。当然、上の解答は十分に設問の要求には答えきれていない、満点解答にはほど遠い内容のものです。(たとえば、「東西キリスト教世界の交流」のあたりはほぼスルーしていますね)。ですが、「周りの受験生と比べたときに、大きく減点はされない」という視点から見れば、この解答は十分に合格答案なのです。俗に「悪問」と呼ばれる類の問題が出た場合、「いかに他の受験生と差がつかないようにするか」を考えることが最善手です。なぜなら、その問題が本当に「悪問」であれば「他の受験生も同じように書けない」からです。ここは重要です。もし他の受験生が書けてしまうようであればそれは「悪問」ではなく、単に「その人にとって難しい設問」であるにすぎません。

 では、どうすれば「他の受験生と差がつかない」ようにすることができるでしょうか。方法はいくつかありますが、まず何よりも大切なのは「設問の要求を外さない」ことです。これは何度も言いますが論述問題を解く際の基本です。どんなに無茶な要求であっても、大きな方向性として設問の要求から外れてはいけません。次に、「歴史的事実に基づいて書く」ということです。いくらわからないからと言って全くのウソを書いてしまっては意味がありません。自分の知っている知識の範囲で、関連するものはないか必死に絞り出してみましょう。さらに「設問から読み取れることをヒントにする」ことも大切です。今回の設問は、情報的には少ないとはいえ、「ビザンツ皇帝が西欧に自ら援軍を求めてきたこと」は読み取れました。ここからは「オスマン帝国がバルカン半島への進出を再開したこと」がかなり確証をもって推測できますので、これを15世紀初頭のアンカラの戦いと結びつけて書けば、一定の歴史的事実をしめすことができます。また、「パラエオロゴス朝」が導かれたのも設問をヒントとしてです。そして最後に「情報を総合して確度の高い推量を行う」ことです。今回で言えば、「イタリア社会に与えた影響」というのがルネサンスへの刺激であったこと、そしてそれがギリシア文化人とフィレンツェを中心とする人文主義者との交流にあったことなどはおそらく間違いのないことだということは推量できます。こうしたことを積み重ねていけば、2003年のようなどうしようもない「悪問」が出たとしても何とか対処することはできるわけです。

 

いかがだったでしょうか?「そんなことできるわけがない」と思うかもしれませんし、「何だ、この程度しか書けないのか」と思われるかもしれません。もちろん、先に示した解答例ほどのものが書けなくてもよいのです。要は、「周りの受験生と比べて遜色ないものに仕上げること。」この部分をしっかりとらえていけば、どんな事態にも落ち着いて対処できると思います。そしてこれは多分、「悪問」や「奇問」が出たときだけのことではありません。結局受験というものは、「(その大学を受験する)平均的受験生よりも、自分は一歩先を行けたか」ということに尽きるからです。もし「不測の事態」に出会ったとしても自信を持って対処してください。みなさんの努力はきっとそういう時に何かしらの形で力になってくれると思います。

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