東大2014年度問題解説の方でもお話していた通り、今回は受験生にはイマイチ理解できない露土戦争以降のサン=ステファノ条約とベルリン会議(ベルリン条約)の意味を確認しておきたいと思います。ついでといっては何ですが、ロシアの南下政策と東方問題を含めてまとめておいた方が良いかなと思いますので、19世紀全体にわたるロシアの黒海・バルカン方面進出とそれに対するイギリスの対応をまとめておきましょう。

 

 高校世界史で扱われる東方問題は基本的に19世紀のオスマン領をめぐる国際的諸問題を指します。山川の『改訂版 世界史Ⓑ用語集』(2012年版)には「東方問題」について「19世紀にオスマン帝国の領土と民族問題をめぐって生じた国際的諸問題を、西欧列強の側から表現した言葉。オスマン帝国の衰退に乗じて、支配下の諸民族の独立運動が激しくなり、それに西欧列強が干渉して起こった。」となっています。ただ、これは狭義の定義で、歴史学的には東方問題といった場合、もう少し広くとって18世紀ロシアの拡大政策から考えることもありますし、さらに広くとって14世紀頃からのオスマン対ヨーロッパの対立図式を指してこのように言うこともあります。

 実際に「東方問題」という言葉が歴史上作られていくのはギリシア独立戦争(1821-1829)が始まった時期です。大学受験をする際には、原則として山川大明神の言うことに従っておけば良いわけですが、より深い歴史的理解のためには、18世紀からのロシアの拡大が視野にある方が良いかもしれません。

 

 高校世界史では「東方問題」の書き出しをエジプト=トルコ戦争から書き出すことが多いです。ただ、前述の通り、ロシアの南下はすでに18世紀の段階から着実に進んでおります。中でも注目しておくべきなのはキュチュク=カイナルジ(カイナルジャ)条約(1774です。エカチェリーナ2世の時代に戦われたロシア=トルコ戦争(1768-1774、露土戦争は高校世界史では1877-1878の露土戦争だけが紹介されていますが、実際にはロシアとトルコの間には18世紀から19世紀を通して数次にわたる戦争が展開されています)の結果、両国はキュチュク=カイナルジ条約を締結し、①ロシアの黒海自由通行権、②ロシア商船のボスフォラス=ダーダネルス両海峡の通行権、③オスマン帝国内のギリシア正教徒保護権付与(ロシア皇帝に対して)、④オスマン帝国のクリム=ハン国に対する保護権、などの内容を取り決めました。これにより、ロシアは大きく黒海方面へと進出し、オスマン帝国が宗主権を放棄したクリム=ハン国は、この条約から間もない1783年にロシアによって併合されることになります。

こうしたロシアの南下はギリシア独立戦争とその末期におけるトルコーロシア間の戦争の結果としてのアドリアノープル条約によって一時的には成功をおさめたかに見えます。しかし、こうしたロシアの南下成功は、この後のイギリスを中心とする諸国の外交と干渉によって再三阻止されていくことになり、1877-1878年にかけての露土戦争とその後の戦後処理によって、ロシアのバルカン半島における南下は一時完全に停滞することになります。この一連の流れは19世紀を通して「ギリシア独立戦争→エジプト=トルコ戦争(第1次・第2次)→クリミア戦争→露土戦争」と続くわけですが、この流れ自体はかなり有名な流れですし、みなさんご存じのところでもあると思いますので、簡単に図示した上で、わかりにくい、または気づきにくいポイントをいくつか示しておきたいと思います。

 
東方問題年表
(クリックで拡大)

 

ポイント① ギリシア独立戦争とその結果

 

 さて、ギリシア独立戦争はギリシアがオスマン=トルコ帝国から独立しようとしたことがきっかけで起こる戦争ですが、このギリシアの独立は当時ヨーロッパ周辺で高揚していたナショナリズムと強い関連があります。ナポレオンのヨーロッパ大陸支配とフランス革命の理念である自由・平等という考え方の伝播は、「ナショナリズム」と「自由主義」という二つの大きな思潮を生み出しました。1815年のウィーン体制は、多民族国家を瓦解させかねない「ナショナリズム」と、君主による専制政治と貴族支配を脅かしかねない「自由主義」を抑圧するために墺・露が中心となって作り上げた体制でしたが、早くも1810年代からこれらの動きは大きなうねりとなってヨーロッパの各地で噴出します。1820年代にはデカブリストの乱(露)、カルボナリの運動(伊)、ラテンアメリカ諸国の独立など、各地でナショナリズム、自由主義の動きが渦巻いているわけですが、こうした動きの中にギリシアの独立運動も位置付けることができるわけです。当時、ギリシア独立を率いていたのはイプシランティ(イプシランティス)という人物でしたが、彼が所属した秘密結社「フィリキ=エテリア」はオスマン=トルコの「専制」支配から「ギリシア」と「ギリシア人」の政治を取り戻すための戦いを準備するわけで、これはまさに当時の風潮とピッタリなわけですね。

 

 こうしたギリシアの独立を支援したのもヨーロッパのロマン主義者でした。ところで、このロマン主義というのは実はナショナリズムと密接に関連しています。ロマン主義の起こる前、18世紀におけるヨーロッパの文化的トレンドはロココ、そして新古典主義でしたが、これらはどちらもその中心はフランス、ヴェルサイユでした。ロココなどはルイ15世の愛人、ポンパドゥール夫人を中心とする宮廷人のサロン文化の中で花開きますし、新古典はナポレオンが皇帝に即位したことで英雄主義的側面を強く打ち出すために発展します。18世紀のヨーロッパの人々はフランス文化、特にフランス絶対王政期の宮廷文化を最先端のモードとして受容していたわけです。

 ところが、ナポレオンの大陸支配以降は様子が違ってきます。旧支配階層はもちろんのこと、解放者かと思いきや結局は他国からやってきた支配者に過ぎなかったナポレオンに「自由・平等」を求めたヨーロッパの人々は失望し、反ナポレオン・反フランス感情を高めていきます。そうした中で、「最先端のフランス」に対する「憧れ」は消え失せ、新たに「自分たち自身のルーツや、良さとは何か」を探求するようになっていきます。これがつまり、土着の文化に価値を見出し、恋愛賛美・民族意識の称揚、中世への憧憬などの特徴を持つロマン主義になっていきます。グリム兄弟が土着の民話を収集していくなどを想定するとわかりやすいです(もっとも、グリムはどちらかというと後期ロマン主義に分類される人々ですが)。こうしたロマン主義者にとって、ヨーロッパの源流たる「ギリシア人」たちがイスラームの帝国オスマン=トルコの専制支配から自由と平等を取り戻すために闘う、というテーマはとても甘美で、彼らの心を動かすテーマだったわけで、バイロンなんかは熱に浮かされて燃え尽きちゃうわけですね。とっても中二病で素敵ですw

 
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「バイロンの死(Wikipediaより)」

 

 こうした中で戦われたギリシア独立戦争ですが、ギリシアを支援した露・英・仏など各国の思惑は当然ロマン主義の熱によるものだけではありません。それぞれ、バルカン半島や黒海沿岸、地中海東岸地域へ進出する機会をうかがってのことです。ですが、オーストリアだけは自国が多民族国家であることもあり、ギリシアのナショナリズムを容認するわけにもいきません。ここはウィーン体制の原則に従い静観、ということになりました。

 1827年に英仏露連合艦隊とオスマン帝国との間に偶発的な衝突が起き、ナヴァリノの海戦が発生します。この戦争にトルコ軍が敗北したことで、この戦争は大きく転換していきます。戦争終盤の1828年に、ロシアはトルコと戦端を開きます。これに勝利した露は、オスマン帝国との間にアドリアノープル条約を締結します。戦勝による講和条約ですから、その内容は以下のようにロシアに有利な内容となっていました。

 

  ギリシアの自治承認

:トルコの影響力が減少する半面、独立運動を支えてきた露の影響力は大きく増大

  黒海沿岸地域の一部を露へ

  モルダヴィア、ワラキア(両地域が後のルーマニア)、セルビアの自治承認

:同じく、歴史的にスラヴ系民族が多く、ギリシア正教とも多い地域に対する露の影響力が増大します。


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1793-1812頃のルーマニア地域[モルダヴィア・ワラキア・トランシルヴァニア]

Wikipedia

 

  ボスフォラス、ダーダネルス両海峡のロシア船舶の通行権

:これは、ロシアの船舶が黒海からエーゲ海に出て地中海方面に進出することを可能にします。


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(赤い部分がボスフォラス海峡、黄色がダーダネルス海峡:Wikipedia

 

 つまり、アドリアノープル条約は明確にロシアの南下を成功させた条約だったのですが、これにイギリスがかみつきます。特に、ギリシアの自治国化は、国としての立場が弱く、ロシアの影響力を受けやすくなると考えたことから、イギリスはギリシアの完全独立を主張してすでに1827年から開催されていたロンドン会議の席上でこれを認めさせます。これにより、ギリシアは1830年に完全な独立国として出発することになりました。

 

ポイント② エジプト=トルコ戦争とその結果

 

 続いて、このギリシア独立戦争でオスマン帝国の属国という立場で戦争協力をしたエジプトのムハンマド=アリーが見返りを要求したことが発端となって、2度にわたるエジプト=トルコ戦争が展開されます。戦争の経過については図表を参照していただければよいのですが、ポイントはやはりウンキャル=スケレッシ条約です。この条約の性質をよく理解できていない受験生が実は多いのですね。ウンキャル=スケレッシ条約というのは、トルコとロシアの間で締結された相互援助条約であり、一種の軍事同盟です。なぜ、ギリシア独立戦争では敵同士で、かつ南下政策を展開するロシアとトルコとの間でこのような条約ができたのでしょう。

 実は、この時期ロシアはトルコの属国化を狙っています。また、トルコの方では弱体化する中でエジプトをはじめとする外敵に対応するためにうまくロシアからの援助を引き出そうと狙っていました。こうした中で、エジプトとトルコの戦争が始まるとロシアはトルコの側を支援します。ところが、ロシアの東方地域におけるさらなる影響力拡大を懸念する英仏はトルコに圧力をかけて無理やり講和を結ばせます。これがキュタヒヤ条約(1833)ですが、この条約でトルコはエジプトにシリアをはじめとする広大な領域を割譲させられる羽目になりました。これに怒ったトルコはロシアとの相互援助条約であるウンキャル=スケレッシ条約を結び、その秘密条項においてロシア艦隊のボスフォラス、ダーダネルス両海峡の独占通行権を与えます。これは同地域におけるロシアの軍事的プレゼンスを大きく高める内容であったことから、英はこれに不満を持つことになります。

 その後、二度目のエジプト=トルコ戦争が起き、その講和会議であるロンドン会議が開かれると、イギリスの外相で、後に首相を務めることにもなるパーマストンがこの問題の調整に乗り出します。その結果、ここで締結されたロンドン条約では以下の内容が取り決められます。

 

  エジプトはエジプト・スーダンの世襲統治権が与えられた(オスマン宗主権下)

  シリアはエジプトからトルコに返還

  ボスフォラス、ダーダネルス両海峡の軍艦通行を禁止

 

 中でも、③の条項は先にロシアがトルコと単独で結んだウンキャル=スケレッシ条約を無効化することを意味していました。さらに、この時点では英・露・墺・普の間の取り決めにすぎませんでしたが、翌年に仏を加えて五国海峡協定として承認させます。これにより、パーマストンは「フランスが影響力を高めるエジプトが勢力を強めることを防ぐ」ということと、「ロシアの地中海東岸地域における軍事的プレゼンスの排除」という二つの目的を見事に達成し、外交的な勝利を手にしたのです。

 

ポイント③ クリミア戦争とパリ条約 

 
 クリミア戦争は「聖地管理権問題が発端」ということはよく言われますが、これも受験生にはイマイチよくわからないところです。当時、キリスト教の聖地イェルサレムはオスマン帝国の支配下にあるのですが、オスマン帝国というのはイスラーム国家ではありますがその帝国内に多数の異教徒を抱えていました。カトリックもそうですし、旧ビザンツ領ではギリシア正教徒も多くいます。また、北アフリカやシリア・パレスチナ地域を中心に単性論の系統をひく諸宗派なども存在していました。イェルサレムにはこうしたキリスト教徒たちにとって信仰の対象となる街区(聖墳墓教会など)があるのですが、こうした部分の管理権は、16世紀ごろからフランス王がカピチュレーションの一環としてオスマン帝国から管理を認められていました。しかし、フランス革命の混乱の中でこの聖地管理権の所在がうやむやになります。こうした中で、ロシアの援助を受けた現地のギリシア正教徒たちが聖地管理権を1851年に獲得すると、国内のカトリックに対する人気取りを画策したフランスのナポレオン3世が横からしゃしゃり出てきてオスマン帝国に再度フランスが聖地を管理することを認めさせ、1852年にこれを回復します。これに不満をもったロシアが聖地管理権を要求し、またカトリックの多いフランスの管理やイスラームであるオスマン帝国の支配からギリシア正教徒を保護するのだということを口実に開戦するというのがクリミア戦争の直接の契機です。

 

 この戦争は難攻不落と思われたセヴァストーポリ要塞を落とされたロシアの敗色が濃い中で終結します。その講和条約として締結されたパリ条約では、1840-41年の取り決め(ロンドン条約や五国海峡協定)の内容が再確認されたほか、黒海の中立化・非武装化が新たに加えられた結果、黒海周辺にあるロシアの軍事施設はすべて撤去されることになりました。さらに、ロシアは1812年にトルコから獲得していた黒海北岸のベッサラビア(現モルドバ、一部はウクライナ)をモルダヴィアに割譲することになりました。

 

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20世紀のベッサラビア」(Wikipedia

 

 このようにして黒海周辺からはロシアの影響力がかなり排除されることになりました。一方で、すでにアドリアノープル条約で認められていたモルダヴィア、ワラキア、セルビアの自治は再度承認、確認されています。特に、モルダヴィアとワラキアは後にルーマニアとなる地域ですが、この地域は、形式上はオスマン帝国が宗主権を持っていますが、長らくロシアの軍政下に置かれていました。ところが、1840年代に入ると外国(ロシア)による保護制に反対する民族運動が高揚し、反乱が発生します。当時のモルダヴィアならびにワラキアはこれを鎮圧したロシア・トルコ両軍の制圧下にある状態でしたので、その扱いを再度確認する必要があったのです。ですから、これらの地域の自治を承認するということは、再度ロシアが同地域に影響力を与えるきっかけを与えかねないのですが、これを他の諸国は承認します。この段階において、同地域が自治権をもつことは、ロシアのみならずオーストリアをはじめとする諸国にもトルコに代わって同地域に影響力を及ぼすためには悪くないことだからです。つまり、たしかにパリ条約においてロシアは黒海沿岸地域から大きく後退させられましたが、一方的な敗北条約をのませられたというよりはいくらかの妥協の産物としてパリ条約を受け入れたわけです。

 

ポイント④ サン=ステファノ条約とベルリン会議

 

 さて、やっと私が本来書きたかった内容にやってこれました。と言っても、正直一言で済んでしまうのですが。この一言を書くために調子に乗って東方問題のまとめに首を突っ込んでしまったことを今はものすごく後悔していますw 自分の中では把握していることでも、説明するとなるとえらい手間がかかりますし、長くなるものです(;´・ω・)

 さて、それではサン=ステファノ条約とベルリン会議(またはベルリン条約:1878)とは一体何なのでしょうか。以下に、この二つの条約を理解するためのポイントをいくつか紹介していきます。

 

  サン=ステファノ条約は、露土戦争の講和条約で、二国間条約である。

:ある意味当たり前のことなのですが、サン=ステファノ条約はロシアとトルコ間の講和条約です。つまり、戦勝国であるロシアに有利な内容になっています。中でも、ブルガリアについての規定は決定的でした。スラヴ系民族の多いこの地域は、形式上はオスマン帝国の宗主権下で自治国となることが決められましたが、これを履行させるためという名目で、ブルガリアにはロシア軍が駐留することが決められました。実は、ご存じない方が多いのですが、ある地域に他国の軍隊が駐留するということは、「事実上保護国になる」ということとほぼ同義です。例えば、イギリスのエジプト支配についてもウラービー=パシャの反乱を鎮圧した後に「事実上保護国化した」という表現が出てきます。これは、軍隊がその地に駐屯することによって、同地域の治安維持ならびに外交権などに大きな影響を及ぼすことが可能になるためです。つまり、ブルガリアはこのサン=ステファノ条約で実質的にロシアの保護下に置かれることが決まりました。そして、問題であったのはその大ブルガリア公国の領土です。

 

 Bulgaria-SanStefano_-(1878)-byTodorBozhinov

Wikipedia

 

黒い太線でくくられれている部分がサン=ステファノ条約で決められたブルガリアの領土ですが、この領土がエーゲ海に面しているところが重要です。つまり、ロシアはこのブルガリアを事実上の保護下に置くことで、ボスフォラス、ダーダネルス両海峡を経ずして地中海に面する地域に進出することが可能となりました。これはロシアにとって南下政策の大きな進展に他ならなかったのですが、だからこそ英・墺の反発を呼ぶことになったのです。

 

  ベルリン会議(ベルリン条約)では、ブルガリアの性質が大きく変更となった。

(ロシアは地中海への道を閉ざされた)

  :さて、再度上のブルガリアの地図に注目してください。ベルリン会議の結果、ブルガリアの領土は3分割され、大きく縮小されます。ブルガリアは黒海に面した北部の緑がかった部分(うすーく「Principality of Bulgaria」とあるのが見えるでしょうか)のみとなり、黒海に面した南部の赤い部分(東ルメリア)と西南部の茶色っぽい地域(マケドニア)は別のものとされ、東ルメリアはオスマン帝国化の自治州となり、マケドニアはオスマン帝国に返還されてしまいました。つまり、新しいブルガリアは地中海に面する部分をすべて失ってしまったのであり、ロシアの南下政策は再度挫折してしまったのです。また、この時に領土を削減されたブルガリアは失った領土の奪還を目指し、執念を燃やす(大ブルガリア主義)ことになりますが、こうしたことが20世紀に入ってからのバルカン戦争へとつながっていきます。

 

  ベルリン条約では気づいたら英・墺が進出して楔を打ち込む形になっていた。

:これは皆さんご存知のことと思いますが、このベルリン会議でエジプトに利権を持ち、3C政策を展開するイギリスと、パン=ゲルマン主義に基づいて国家統合とバルカン進出を狙うオーストリアがどこを手に入れたのかを再度確認しておきましょう。

 

 キプロス

(キプロス島:イギリスが獲得)
 

 Map_of_Bosnia_Herzegovina_and_neighboring_countries

(ボスニア=ヘルツェゴヴィナ:墺が統治権を獲得)

http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/map/Bosnia_Herzegovina/Map_of_Bosnia_Herzegovina_and_neighboring_countries.htm

 

 英はエジプトの北、地中海東岸に位置し、オスマン帝国の首根っこをおさえるキプロス島を、墺はバルカン進出の要となるボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権を手に入れます。この状態ではロシアの南下政策は完全に「死に体」です。このベルリン会議をうけてロシアの南下政策は「挫折した」と表現されるのはこのような内容によるわけです。「東方問題」は時期によって国際関係の変化(露・墺関係の変化、ウィーン体制の意味など)もありますし、条約の内容もかなり細かいもので、なかなか把握しづらいものです。大きな枠組みは「ロシアの南下政策の挫折」で良いのですが、やはりしっかりと当時の政治状況を理解するためには地理的理解も含めた各条約の内容をしっかりと消化しておくことが大切でしょう。また、このあたりのことをしっかりと把握しておくと、青年トルコ革命や、そのどさくさに紛れた様々な動き(墺のボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合など)、さらにはバルカン戦争なども理解しやすくなると思います。