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カテゴリ: 大学入学共通テスト(センター試験)

今年の共通テストも解いてみました。また例によって「チェックが不十分で、ところどころ見落としや誤りなどあるかもしれませんので、ご覧になる際はご注意ください。」というエクスキューズを入れさせてくださいw 昨年の問題がかなり手間のかかる(難しいというよりは時間のかかる)内容でしたので、空気が読める人が作ればおそらく少し簡単になるのではないかなぁと思っていましたが、やはり全体として易しくなった印象を受けます。大手予備校の講評も概ね易化したとの評価のようです。(ベネッセ・駿台:易化、東進:昨年並、河合塾:やや易化、代ゼミ:やや易化) 特に、史資料の読解問題にかかる時間が昨年と比べるとかなり短くなりました。また、設問の文章も比較的平易で、出題者の意図や内容が分かりやすく書かれているものが多く、判断に迷うようなところもほとんどありませんでした。その分、高得点を狙いたい人にとってはミスが怖い問題だったように思います。落ち着いて時間配分をし、史資料や文章の読解と見直しを丁寧に行ってミスを減らすことができたかが一つのポイントになったのではないかなと思います。そういう意味で、国語的な要素が多く含まれているのは相変わらずでした。
 その他の特徴としては、平易になったとはいえ全体として史資料の読解を必要とする設問が多く、注意深く文章を読んでいく必要があるため、昨年ほどではないにしてもそれなりに時間がかかります。そのため、ところどころにある世界史知識のみで解ける設問についてはできるだけ短時間で解いたり、選択肢を選ぶ際の根拠にチェックをいれるなどして後で見直しをするときに素早く見直せるようにするなど、時間配分に工夫が必要だと思います。また昨年のように内容が難化することもないとは言えませんから、今後も時間配分を気にして解くことが必要になってくるでしょう。

 必要とされる世界史知識についてはそれほど難しいものは見られず、基本的なものがほとんどでした。ただ、より詳しい知識や背景を知っている方が、史資料を読解する際にすぐに「ピーン」とくるかと思いますので、重箱の隅をつついたような知識まで仕入れる必要はないにしても、ある程度深いところまで学習しておいた方が良いでしょう。一問一答的な知識よりは、教科書を読んで全体の流れ、背景を知るスタイルの学習をしている人の方が有利かもしれません。

 

2024年 大学入学共通テスト世界史B 解答と解説】

 

  1   

:読み取りに少々時間がかかるかもしれませんが、内容は基本的なものです。設問が資料1・2の読解を要求しているのでこれを読み取ると、以下のような議論になっていることが分かります。

資料1:李斯が周の封建制を批判し、始皇帝の制度を称賛している

資料2:周王朝が長く続いた原因を封建制に見ている(封建制を肯定している)

つまり、資料1・2の議論は「周の封建制」と「秦の郡県制」のどちらが正しいかという議論であることが分かります。「封建制=諸侯に封土を与え、かわりに軍役や貢納を課す制度(分権的)」、「郡県制=全国を郡県に分け、中央から役人を派遣する制度(中央集権的)」の違いは繰り返し強調される重要ではありますが基本的な内容ですので、これも参考に見ていくと、①の文が正しいことが分かります。

×:周は郡県制でなく封建制ですし、資料1の内容とも合致しません。

×:資料2で博士は一族や功臣に封土を与えて諸侯とし、王室を補佐する枝葉とすべきと言っているので、一族にはむしろ政治的権力を与えるべきだとしているので、③と合致しません。

×:郡県制が採られたのは秦の始皇帝の時ですが、この下では一族は「一介の庶民にすぎない」ことが分かりますので、④と合致しません。

 

  2   

:できるだけ素早く解きたい設問です。  ア  は魏から帝位を奪った人物ですので西晋の建国者である司馬炎。資料3ではその西晋における一族の争いについて言及しているので八王の乱が正解。

    呉三桂は清の康煕帝の頃に三藩の乱を起こした人物なので時代的にも大きく異なります。

 

  3   

 明のはじめの官僚が問題としていたのは「一族の諸王」であり、「古を引いて今を証する」(昔の事例を挙げて今の状況を明らかにする)と言っていますので、反乱の性質として「皇帝に対して皇帝の一族が反乱を起こす」という構図が一致している必要があります。こうした構図に従えば、「あ」~「う」のうち当てはまるのは呉楚七国の乱の「う」。また、X・Yでは建文帝に燕王(永楽帝)が反乱を起こした「靖難の役」が正しいので「Y」が当てはまる。

→よって、正しい組み合わせは「うーY」となるので正解は⑥。

※ 黄巾の乱(184):太平道の張角が起こした乱なので一族の内紛は無関係。

※ 赤眉の乱(18-27):王莽の新で起こった農民反乱なので一族の内紛は無関係。

 

  4   

  イ  の人物は、この人物がローマ教皇から皇帝冠を授けられたことが神聖ローマ帝国の起源となったとあるのでオットー1世。オットー1世はその戴冠の前にレヒフェルトの戦い(955)でマジャール人を打ち破っているのでが正しい。

×:メロヴィング家の王を廃位させてカロリング朝を起こすのはピピン(3世)。

×:レオ3世が冠を授けるのはカール大帝。

×:カタラウヌムの戦いは5世紀にヨーロッパに侵入したフン族のアッティラを退けた戦い(451)。

 

  5   

:下線部ⓑの人物はノルマンディー公であり、その後の文章から1066年の「ノルマン=コンクエスト」について述べている資料であることもわかる。よって、ノルマンディー公ウィリアムが正しいので「あ」。X~Zについては以下の通り。

X:誤。資料1の中でハロルドは「イングランド中の最有力の貴族たちによって国王に選ばれた」と書かれており、資料全体を通してハロルドに対して好意的な文章が並ぶ。このことから、資料1はイングランド側(ハロルド側)の視点で書かれたものであると解釈できる。

Y:。資料2には「ハロルドが…自ら行った宣誓を破り、嘘をついた」、「ハロルドは…王国を譲らなかった」とあるので「Y」の内容と合致する。また、全体を通してハロルドに対して否定的・敵対的な内容であることからノルマンディー側(ウィリアム側)の視点で書かれていると解釈できる。

Z:誤。上述の通り、「資料1=イングランド側」、「資料2=ノルマンディー側」なので不適。

 

  6   

:羊毛はイングランドにとって毛織物の産地フランドル地方へ輸出する重要な商品であったので、正しい文章。

×:エリザベス1世はフェリペ2世とは結婚していない。(アルマダ海戦で敵対していることからも明らか。) フェリペ2世の妻であったのはエリザベスの姉のメアリ1世。

×:英王ジョン(失地王)が敗れたのは仏王フィリップ2世。フィリップ4世は三部会の招集(1302)を行ったり、アナーニ事件(1303)や教皇のバビロン捕囚(13091377)、テンプル騎士団事件(1312)などを引き起こして王権を強めた14世紀の人物。

×:英蘭戦争を引き起こしたのは共和政期クロムウェルが出した航海法(1651)。大陸封鎖令(1806)はフランスのナポレオン1世が出したもの。

 

  7   

:下線部ⓓの直後に老齢年金制度は「後に『世界政策』の名の下に海軍を増強した皇帝の治世下」で導入されたと書かれている。「世界政策」を行ったのはドイツのヴィルヘルム2世。ヴィルヘルム2世は1888年に即位し、その即位と入れかわるようにして1890年にビスマルクが引退している。さらに、文章よりドイツの事例はイギリスの「先例」とあるので、イギリスの1908年老齢年金法よりは早いと考えることができるから、年表より該当する時期はであるとわかる。

 

  8   

:設問に「文章を参考にして」とあるので文章を読むと、イギリスで公的年金制度が導入されたのは1908年の老齢年金法成立によるものであると分かる。また、これを成立させた政権がグラッドストンと同じ政党(自由党)であることもわかる。時期的にも、同時期には自由党アスキス内閣が議会法制定(1911)やアイルランド自治法制定(1914、ただし延期) などを進めた時期と同じなので、アスキス内閣だと判断できる。

 

×:マクドナルドは労働党の党首。保守党を「率いて」いてはおかしい。また、時期も異なる。

×:スエズ運河会社株買収(1875)は保守党のディズレーリ内閣の時。

×:フェビアン協会を基盤として発展するのは労働党。

 

  9   

:インタビューに答えている資料は「20世紀に国営企業の民営化を推し進めた首相」とあるので、「い」のサッチャー。サッチャーをはじめ、1980年代には「小さな政府」をめざして国営企業の分割民営化や規制緩和を行う一方で社会保障費の削減などを進めるケースが多く見られた。(米のレーガンや日本の中曽根康弘など。)

X:誤。「ゆりかごから墓場まで」はアトリー(労働党)のスローガン。

Y:誤。救貧法はエリザベス1世の時代のものが有名。その他にも救貧法は数多く制定されているが、高校生世界史には登場しない。また、少なくとも本設問の内容には合致しない。

Z:正。上述の通り。

→よって、「いーZ」の組み合わせが正しいので、正解は⑥。

 

  10   

:資料2に「ペルシアの諸地域の子どもたちはソフォクレスやエウリピデスの劇作品を歌うことを学んだ」とあるので正。ソフォクレスとエウリピデスはアイスキュロスとともにギリシアの3大悲劇作家。

×:「自身が滅ぼした王朝によるバビロン捕囚」とあるが、バビロン捕囚を行ったのは新バビロニア王国のネブカドネザル2世。アレクサンドロスが滅ぼしたのはアケメネス朝ペルシアであるので不適。

×:「150年前にペルシア人がアテネの神殿を焼き払った」とあるので、時期として該当するのはペルシア戦争。ペロポネソス戦争は「アテネVSスパルタ」が基本構図であり、時期的にもアレクサンドロスの遠征のおよそ100年前なので不適。

×:フィリッポス2世が率いたのはコリント同盟(ヘラス同盟)であり、デロス同盟ではない。

 

  11   

:一見すると読み取りが大変なように見えるが、本設問では評価Ⅰ・Ⅱの正誤は問われておらず、単純に時期を示す指標として用いられている。そのため、「あ」・「い」の文章の真偽と、「あ」の文章が「ローマ共和政期」に、「い」の文章が「19世紀後半」に合致するかどうかだけを確認すればよいので、内容的には平易。

「あ」:誤。マニ教の成立はササン朝成立後の3世紀のこと。3世紀のローマはすでに軍人皇帝時代に入るころで、共和政の時代ではない。

「い」:正。文明化の使命は主にフランスなどがアフリカなどの植民地化を進める際に掲げた正当化の理論。

 

 

  12   

:ミシシッピ以西のルイジアナは1803年にフランスによって合衆国に対して売却された。 また、資料1は「北緯3630分以北」において奴隷制度を禁止するとするものであるので「ミズーリ協定(1820)」であるとわかる。ミズーリ協定では、「北緯3630分以北」にあったにもかかわらずミズーリ州だけは奴隷州とされたので、 ア に入るのはミズーリ。

    ミズーリ協定において、ミズーリが奴隷州であるという知識は頻出事項こちら

合衆国の発展 - コピー
 


  13  
 または

:この設問も「あ」・「い」の真偽などを問う必要はないので、平易。「あ」のインディアン強制移住法(1830)は、ジャクソン大統領によって制定されたものなので、「Y」をその背景と考えることができるため、解答は。また、「い」のカンザス=ネブラスカ法(1854)は、新しくできる州における奴隷制度の有無を住民投票によって決定しようというもので、1820年に決められていたミズーリ協定の合意を無効化するものであったので、「X」を背景と考えることができるため、解答は。(カンザス=ネブラスカ法についてこちら

    ちなみに、Zの内容は1862年のホームステッド法の内容と考えることができる。

 

  14     13  の解答がの場合→①   13  の解答がの場合→⑤

:インディアン強制移住法の場合、同法の制定の結果、チェロキー族がミシシッピ東岸から西部の居留地へ追いやられた「涙の旅路」と呼ばれる苦難の旅を強いられたので、①が適切。

一方、カンザス=ネブラスカ法の場合には、同法制定によりミズーリ協定が無視されて奴隷州拡大の可能性が増したことに憤慨した奴隷反対派が共和党を結成するので、⑤が適切。

 

  15   

:資料より、  イ  がスターリンの敵側、  ウ  がスターリン側であることが読み取れる。また、その後の文章から  ウ  の派遣によってアメリカと中国の「熱い戦争」に変化したとあるので、  ウ  人民義勇軍。そのため、  イ  国連軍。また、同時期にアメリカが防共圏構築のために結成された国際組織とあるので東南アジア条約機構(SEATO1954が正解。(東南アジア諸国連合[ASEAN]1967年にベトナム戦争に対処するために東南アジア諸国が結成した反共同盟。)よって、正解は

 

  16   

  エ  に入るのはチェコスロヴァキア。1948年のチェコスロヴァキアクーデタは冷戦初期の出来事としては頻出事項(こちら)。チェコスロヴァキアについては1968年の「プラハの春」(ドプチェク政権の自由化への動きを、ブレジネフがワルシャワ条約機構軍を介入させて潰した事件。)も頻出なのであわせておさえておく必要があります。また、「プラハの春」についてはブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)も頻出です。

×:ポズナニ暴動(1956)が起こったのはポーランド。スターリン批判後のポーランドにおけるポズナニ暴動(ゴムウカによる収拾)とハンガリーのブダペスト暴動(ナジ=イムレの処刑)は頻出。

×:チャウシェスクが独裁を敷いていたのはルーマニア。

×:フランスのブルム人民戦線内閣は第二次世界大戦前の1930年代。

 

  17   

:本設問では「あ」・「い」の真偽をまず確認する必要がありますが、平易な内容なのでむしろ選択肢が絞れてラク。「あ」の文章は明らかに誤文であるため、①~③は除外されます。X・Y・Zについては以下の通り。

X:誤。内容的に戦時共産主義の内容で第1次五か年計画ではない。

Y:正。

Z:誤。農業調整法(AAA)はアメリカのニューディール政策の内容。

 

  18    

  ア  の人物のヒントとして、文章中に「マウリヤ朝の君主であること」、「磨崖碑・石柱碑を刻ませたこと」が示されているので、  ア  アショーカ王。アショーカ王はインド古代史では頻出の超重要人物です。その事績には以下のようなものが挙げられます。

・カリンガ国を征服して南端部を除くインドの統一

・ダルマ(法)に基づく統治(勅令を磨崖碑・石柱碑に刻む)

・仏教の保護(第3回仏典結集 / ストゥーパ建立 / 王子によるセイロンへの布教)

よって、アショーカの治世の出来事として正しいのは③の仏典結集。

×:マウリヤ朝が前4世紀~前2世紀であるのに対し、サータヴァーハナ朝は前1世紀~後3世紀なので、アショーカの治世に交流があったとするのは誤り。ただ、サータヴァーハナ朝の成立時期については諸説あり、その黎明期にはマウリヤ朝と交流がなかったとも言えないようなので微妙な選択肢。設問に「最も適当なものを」とあるので、解答は③で問題なし。

×:エフタル(4世紀~6世紀)が活発に活動したのはインドにグプタ朝が存在している頃。また、エフタルがササン朝のホスロー1世と突厥の挟撃で滅んだことなども思い浮かべれば、紀元前のマウリヤ朝とは時期が違うことがつかめるはず。(→こちら

×:『仏国記』の著者である東晋の僧、法顕が訪れたのはインドにグプタ朝が存在していたころ。東晋の成立が4世紀なので、これもマウリヤ朝とは時期が違うことが分かる。

 

  19   

:単純な知識問題なので、時間をかけずに解ける設問。下線部ⓐ「デリー」に関係があるのはデリー=スルタン朝の最初の王朝である奴隷王朝なので答えは④。デリー=スルタン朝は「奴隷王朝→ハルジー朝→トゥグルク朝→サイイド朝→ロディー朝」の順で、アイバクが建国した奴隷王朝と、ムガル帝国にとってかわられる最後のロディー朝が比較的よく出る。その他の王朝は順番のみ気を付けること。

×:第1回インド国民会議(1885)が開かれたのはボンベイで、デリーではない。高校世界史に登場する有名なインド国民会議派の大会については以下の通り。

1885 ボンベイ大会:親英団体として発足

1906 カルカッタ大会:ティラクの下での急進化と4大綱領の決議

1929 ラホール大会:ネルーの下でのプールナ=スワラージ(完全独立)要求

×:上述の通り、4大綱領(民族教育・スワラージ・スワデーシ・英貨排斥[ボイコット])が決議されたのはカルカッタ大会で、デリーではない。

×:タージ=マハルを建設したのはムガル帝国の5代目シャー=ジャハーンの時で、建設された場所は旧都アグラ。シャー=ジャハーンは都をデリーに遷したことでも知られる。

 

  20   

:まず、世界史の知識としてマウリヤ朝の最大版図はインドの南端部までは及んでいない。 さらに、図1の主要道もインド南端には及んでいないことが見て取れるので、メモ1の内容は誤。一方、「黄金の四角形」は図2よりボンベイ・マドラス・カルカッタという沿岸都市を結んでおり、文章中の会話からも沿岸都市の重要性やそれらを起点に鉄道が伸びていくことが示されているのでメモ2の内容は正。よって解答は

 

  21   

:「グラフの時期の~」と書かれているが、設問は3つの出来事を順番に並べ替える単純な整序問題なので、素早く解くことが重要。内容的にも平易。

「あ」:アメリカが債務国から債権国になるのは第1次世界大戦(1914-1918)がきっかけ。これにより1920年代にはアメリカのウォール街が世界金融の中心となっていく。

「い」:武器貸与法は第2次世界大戦中の1941年のこと。

「う」:TVAは世界恐慌対策としてフランクリン=ローズヴェルトが打ち出したニューディール政策の一環で、1933年。

よって、順番は「あ→う→い」となるので正解は②。

 

 

  22   

:世界史の知識よりはグラフの読み取りと国語の問題です。文章は全体として「交通手段の変化」を話題にしています、また、1920年代は1909年に大量生産が開始されたフォードT型が急速に普及して自動車が大衆化した時代であることは高校世界史でも出てくる内容になりますので、1920年代前半からの鉄道旅客輸送量減少の要因は「自動車の普及」であると考えられるので適切なのは「お」。また、文章からは冷戦下で全国に幹線道路網が整備されたこと、戦後に民間航空が成長し長距離国内移動の手段となったことが読み取れ、さらに1940年代以降はグラフから鉄道による旅客輸送量が減少していくのに対して貨物輸送量は横ばいかむしろ増えていくことが読み取れますので、適切なのは「X」。

→よって、「おーX」の組み合わせが正しいので正解は③。

 

  23   

:世界史の知識と読み取りの双方で解く設問。まず、資料1の「  エ  とオーストリアとの同盟」については、藤井と先生の会話(1873年に締結され、一度失効した後1881年に再締結されるとある)より三帝同盟のことだとわかるので、  エ  ドイツ。

 また、フォン=メックの書いた手紙である資料1にはロシアが「フランスと仲良くした方が良いのは確か」とあり、資料2では「ロシアと同盟するしかない」フランスがそれを理解しないことを「物分かりの悪い」「何たる愚かな!」国と批判していることから、ロシア・フランス両国が同盟することが正しいのにそれを理解しないフランスにいら立っていることが分かるので、「X」が正しい。

→よって、「あーX」の組み合わせが正しいので正解は①

 

  24   

:基本的には知識問題で解けますが、文章とグラフの読み取りも含みますので、メモの内容がグラフ・文章と整合性がとれているかはきちんと確認する必要があります。

(藤井さんメモ)…誤り

・「1860年代~1870年代と1890年代に鉄道の年平均建設距離数が伸びている」

→グラフより正

・「ロシアがクリミア戦争で黒海北岸地域を得た」

→ロシアはクリミア戦争では敗北している。また、講和条約のパリ条約(1856)では黒海北西岸にあたるベッサラヴィアをモルダヴィアに割譲しており、むしろ領土を失っているので、誤文。

・「1890年代の鉄道建設が進んだのはシベリア鉄道建設のせい。」

→露仏同盟をきっかけにフランス資本が導入されてシベリア鉄道建設が進んだことは基本知識。正。

(西原さんメモ)…正しい

・「1860年代から1870年代にかけて、鉄道建設のためにアラスカ売却の資金を利用した。」

→グラフより、1860年代後半より1870年代前半にかけて鉄道建設が伸びていることが分かる。また、先生の話からロシアが領土の一部を鉄道建設に利用したことが分かる。また、ロシアによる米へのアラスカ売却は1867年なので、内容に問題はない。正。

・「露仏同盟の締結が1890年の鉄道建設を推進した。」

→上述。正。

 

  25   

:キリスト教の公認は313年のミラノ勅令で、この時の皇帝なので、  ア  はコンスタンティヌス。コンスタンティヌスの事績としておさえておきたいのは以下の通り。

・四分統治を終わらせてのローマ帝国の再統一

・ミラノ勅令(313

・ニケーア公会議(325):アタナシウス派が正統、アリウス派が異端に

・コンスタンティノープルへの遷都(330

・コロヌス土地緊縛令(332

・ソリドゥス金貨の発行

上述の通り、コロヌスの移動の禁止とアリウス派を異端としたのがコンスタンティヌスの事績なので、組み合わせは「いーY」となり、正解は⑤。

※ 軍管区制(テマ制)はビザンツ帝国の制度で、中央から各軍管区に将軍を派遣する中央集権的なシステム。7世紀のヘラクレイオス1世の頃から徐々にととのえられたとされている。

※ ネストリウス派が異端とされるのは431年のエフェソス公会議、また単性論が異端とされるのは451年のカルケドン公会議。

 

  26   

:マドラサは実際にイスラーム世界各地で建設されていく。高校世界史で出てくる代表的なマドラサはファーティマ朝のアズハル学院とセルジューク朝のニザーミーヤ学院。

×:ゼロの概念をイスラーム世界に伝えたのはインド。

×:イスラーム世界で発達したミニアチュール(細密画)は中国絵画の影響を受けたと考えられている。

×:イクター制はブワイフ朝で導入され、セルジューク朝で各地に広がったと考えられている。

 

  27   

:先生の話より、8世紀後半のイラクでキリスト教徒がシリア語を用いてギリシア語文献をアラビア語に翻訳したことなどが示されている。アッバース朝統治下のバグダードの「知恵の館(バイト=アルヒクマ)」でもネストリウス派キリスト教徒などが活躍していたことが知られている。

×:「シリア語が使われ始めたのは1世紀頃から」と先生の話の中にあるので、シュメール人が使ったとは考えられない。シュメール人の活動した時期は前3000年代~前1800年ごろと考えられている。

×:パルティアの活動時期は前3世紀~後3世紀で、この頃にはまだイスラームは誕生していない。当然、ジズヤも存在しない。

×:相田の「ギリシア語からアラビア語への翻訳が普及すると、シリア語は使われなくなったのか」という問いに対し、先生は「いいえ。」と明確に否定し、11世紀から13世紀にかけてのシリア語文献の登場や、モンゴル支配下での西アジアにおけるシリア語の学術分野における活躍が示されている。

 

  28   ①

:ルターが行うのは聖書のドイツ語訳であって、フランス語ではない。ほぼ瞬間的に解くべき問題で、ほとんど時間はかからない。基本問題。(ただし、念のため他の選択肢が正しいことをしっかり確認した方が良い。)

 

  29   

:バルトロメウ=ディアスの喜望峰到達は1488年。コロンブスがアメリカ大陸に到達する1492年よりも早く、整合性がとれる。

×:「自国内の」とあるが、ポルトガル領内には当時すでにイスラーム勢力は基本的には存在しない。イスラーム勢力(ナスル朝)と隣接していたのはスペイン。

×:トルデシリャス条約はコロンブスのアメリカ大陸発見の後、1494年に締結されたので不適。

×:スペインがポルトガル王位を継承するのは1580年のフェリペ2世のときで、コロンブスの時代よりも百年近く後なので不適。

 

  30   

:文章から内容を読み解く国語の問題。コロンブスがスペイン人であるという説は「コロンブスがほとんどの文書をスペイン語で書いていた」ことが根拠であると文章に明示されている。また、彼がスペイン語で文書を書いていた理由も故郷のジェノヴァにおいて書き言葉が成立していなかったことが理由となっており、スペインがジェノヴァを支配していたからではない。(また、そのような事実もない。)よって、正しいのは「あ」。

また、こうした思い込みとその理由の関係を考えれば、「国民国家に属する国民が同一言語(国語)を話すはず」という先入観があることが思い込みの原因として適切と考えることができるので、正しいのは「X」。

→よって、「あーX」の組み合わせが正しいので正解は①。

 

  31   

  イ  が何かをきちんと把握できれば、世界史の基本知識で解ける問題。  イ  に関して述べている文章で「逆賊」は安禄山のことを指すといっているので、  イ  安史の乱(755-763)。また、この反乱はウイグルの協力によって鎮圧されたことも良く知られている。

×:塩の密売人が起こした反乱として知られているのは黄巣の乱(875-884)。

×:反乱を起こした安禄山が節度使であったことからも分かるように、唐の末期には節度使やそれが独立化した藩鎮勢力はむしろ力を増し、唐の滅亡と五代十国時代へとつながっていく。

×:「反乱を鎮圧した節度使が新王朝を建設した」のは黄巣の乱を鎮圧した後、唐を滅ぼして後梁を建国した朱全忠を指すと考えられるので、安史の乱とは無関係。

 

  32   

:ほぼ世界史知識のみで解けるので、できる限り短時間で解きたい設問。唐代中期頃から、科挙官僚の台頭とともに魏晋南北朝時代の頃から続く四六駢儷体などの貴族文化を批判的にとらえ、漢代以前の「古文」の復興を主張する文化人が登場する。その代表的な人物が唐宋八大家として知られる韓愈と柳宗元であるので、 ウ には「い」の「古文」を入れるのが正しい。また、 エ  に入るのは「唐代後半期から宋代にかけての文化の流れ」に当たるものが入るので、「X」の「貴族的な形式美を否定的に捉え、力強さや個性を尊重する」が正しい。

→よって、「いーXの組み合わせとなるので正解は

 

  33   

:文章や資料の読み取りではなく、世界史の知識で解く問題。

(メモ1)…誤り

・乾隆帝をはじめ、清の文化政策は「文字の獄」などの思想統制でも知られているので、「漢人に対して自由な言論活動を認め」というのは誤り。

(メモ2)…誤り

・北魏の漢化政策は自文化を維持しつつ行われたのではなく、むしろ漢民族の文化と同化していく中で進められたので誤文。北魏と清の違いについては、いわゆる「浸透王朝」と「征服王朝」の違いなどの議論でも知られていますが、近年はこうした区別はあまり使われていないようです。

※「浸透王朝」…遊牧騎馬民族としてのアイデンティティを失い、漢民族と同化していった五胡十六国や北魏などの北朝

※「征服王朝」…自民族のアイデンティティを保ちつつ中国を支配した遼・金・元・清などの諸王朝

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もう色んな方が解いて解答出しているようですが、今年もひとまず解いてみました。解説も用意しましたが、結構手間がかかったのでチェック後回しにしています。もしかすると血迷って間違えているところなどあるかもしれませんので、お読みになる場合には自己責任でお願いします。

全体の感想ですが、ところどころに資料問題として良質な設問が見られました。単なる国語の問題や史料の読み取りが主で世界史の知識は表面的な浅い知識があればいいというスタイルの設問ではなく、かなり深い知識まで駆使して丁寧に情報を整理する必要のある設問ですね。一方で、単なる国語の問題にとどまっている設問も相当数ありました。

今年の問題は、世界史の知識として難しいかと言われるとそうではないけれども、とにかく時間がかかるのでそれがしんどい、というタイプの問題ではないかと思います。60分で解けないことはないと思いますが、実際の受験生は自己採点のためのチェックとか、見直しの時間なども必要になるので、これまでのセンター試験では十分に確保できていた、こうしたことに費やす余裕がかなり圧迫されたのではないかと思います。その分、見逃しやミスの増加、自己採点の精度が悪くなるなどの影響が出そうだなぁと思いました。問題数が34問とそう多いわけではないのは救いと言えば救いですが、これだけ読み取りを要求する問題を出すのであれば、30問くらいにしても良いかなという気もします。各予備校は「やや難化した」としているところが多いようですが、上記のような理由で妥当な評価である気がします。
 3年分出てきましたので、概ねこの出題スタイルで固まってきているのではないでしょうか。1年分とか2年分だと次もそうなるか不確かなところがありますが、3年分もデータが出そろったのであればそろそろ、分析をしてもいいころかもしれません。

2023年 大学入学共通テスト世界史B 解答と解説】

 

 1  

:フィンランドは1815年のウィーン議定書でロシア領になっているので、アはロシア。BRICSはブラジル(Brazil)・ロシア(Russia)・インド(India)・中国(China)でロシアは入っている。2001年にゴールマン=サックスのジム=オニールが使い始めたのが最初とされる。

 

① 北方戦争で戦ったのはロシアのピョートル1世とスウェーデンのカール12世なので、イギリスではない。

② シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州をプロイセンと争ったのはオーストリアなので×。また、オーストリアはこれらを争った普墺戦争(1866)でプロイセンに敗れている。

③ ピウスツキはポーランドの人物。

 

 2  

:イギリスがインドから兵士・物資を出させた代わりに自治を約束したものの、戦後その約束が果たされなかったことからインドの民族運動が激化したことを思い出すと良い。

 

① オスマン帝国は同盟国側なので×。第一次世界大戦の同盟国はドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアなので注意。また、オスマン帝国に対する独立闘争を繰り広げていたアラブ人の運動をイギリスが支援していたことなどを想像すれば、「オスマン帝国 VS イギリス」という構図が思い浮かぶので、協商国ではあり得ない。

② タンネンベルクの戦いはドイツとロシアの戦いで、東部戦線での出来事。西部戦線でドイツ軍の進軍を阻んだのはフランスで、マルヌの戦いが有名。

④ レーニンが出したのは平和に関する布告(1917)で、無併合・無賠償・民族自決などを主張した。アメリカのウィルソンが出した十四か条の平和原則(1918)にも民族自決の理念が見られるが、これは平和に関する布告よりも後のことだった。

 

 3  

 

室井さん:誤。ニュージーランドが自治領になるのは20世紀に入ってから(1907)なのに対し、女性参政権の獲得は19世紀末(1893)。

 

渡部さん:正。イギリスの第4回選挙法改正(1918、ロイド=ジョージ挙国一致内閣)で女性参政権が認められた。ただし、男性が満21歳以上とされたのに対し、女性は満30歳以上という年齢による差があったことには注意。

 

佐藤さん:誤。キング牧師の主導した公民権運動は1960年代、ケネディの頃。ケネディ暗殺後の1964年、ジョンソン大統領の頃に公民権法が制定された。第一次世界大戦は19141918年。

 

 4  

:史料中最後に、北方の女性の振る舞いが「平城に都が置かれていた時代からの習わしであろうか」と書かれている。平城は北魏の最初の都なので、②が正しいとかんがえるべき。匈奴も北方の異民族、隋ももともとは北朝の流れをくむので、よく勉強している人ほどやや難しく感じるかもしれない。

 

 5  

:難しいが、良問。文章中、中村さんは中国の女帝について言及しているが、中国史の女帝と言えば則天武后のことなので、唐を意識して話していると考えることができる。唐に関連する文章には①と②があるが、科挙官僚が門閥貴族に代わって力を持ち出すのは則天武后によって科挙官僚が重用される唐中期以降の話であって、則天武后が「出現する」原因にはなりえない。

対して、唐の建国者李淵は、北朝時代に鮮卑系軍人と漢民族の土着勢力が融合して形成された関隴(かんろう)集団の血を引いており、唐の門閥貴族にはこうした出身者が多かった。関隴集団については高校世界史では用語としてはあまり出てこない。(山川と東書の教科書、山川用語集には記載がないが、山川の『詳説世界史研究』には記載有り。[p.124] こうして共通テストで出てくるところを見ると、難関大ではもしかすると今後、関隴集団やその視点を問う設問が増えてくるかもしれない。) しかし、上述の通り、②が消去できるので①が正解。また、家の中における女性の傾向という、本文の内容とも合致する。

 

 6  

:この時代(北魏、都が平城の頃)以降とあるので、それ以前のものは消去する。『五経正義』は唐の時代に孔穎達らが編纂した儒学のテキスト五経の注釈書なので問題なし。

 

① 清談がはやるのは魏・晋の時代。

② 董仲舒による儒学官学化は前漢・武帝の時代。

③ 新天師道を興した寇謙之は北魏3代目の太武帝の頃の人物だが、道教の指導者で儒者ではない。

 

 7  

:基本的には消去法で解くことになる。

 

① 文章をよく読むと、以下のようになっていることが分かる


画像1 - コピー
 

フランス王家であるカペー朝と、ナバラ王家は、家系図からも別家系なのは明らかなので、右の図柄がクレシーの戦いにおける図柄(左の図柄)と同じとする①は誤り。

 

③ 上述の通り、両図柄はフランス王家とナバラ王家のものであり、イギリス王家は無関係。

④ 家系図より、ナバラ王であったのはアンリ4世の母であって、父ではない。

 

 8  ①

:サン=バルテルミの虐殺は、ユグノーとの和解を図ったカトリーヌ=ド=メディシスにより進められたナバラ王アンリと、フランス王妹マルグリット(カトリーヌの娘)の結婚式のために集まったユグノーたちが、カトリックの首領ギーズ公アンリに虐殺された事件。このあたりのことについては以前一橋の2012年解説で詳しくお話ししました。

 

② ドイツ農民戦争の指導者はトマス=ミュンツァー。ツヴィングリはスイスのチューリヒでカルヴァンに先んじて宗教改革を展開した人物。

③ 首長法を制定したのはヘンリ8世。

④ 文章自体は正しいが、イエズス会はカトリック。(対抗宗教改革の文脈で出てくることを忘れないように。)設問はプロテスタントについて聞いているので不適。

 

 9  

:文章中に「宰相マザランが死去した後、親政を始めた」とあるので、該当するのはルイ14世(あ)。ネッケルはルイ16世の頃に活躍したスイス生まれの銀行家で、財務長官(財務総監)を務めた人物なので、文章Xは不適。よって、組み合わせは「あ」と「Y」の②。

 

 10  

:史料の中で、 ウ の支配者は自分のことを「わたしたちウマイヤ家」と呼んでいる。しかし、ファーティマ朝が成立している時期なので、ウマイヤ朝ではありえないので、この王朝は後ウマイヤ朝であることが分かる。よって、支配していた半島はイベリア半島であるから、該当するものを選べばよい。ムワッヒド朝はその前のムラービト朝と同じく、ベルベル人が中心となって建てた国なので、③が正。

 

① ルーム=セルジューク朝はアナトリア半島に成立する王朝で、イベリアの王朝ではない。

② イベリア半島最後のイスラーム王朝はナスル朝。イベリア半島では西ゴート王国というゲルマン王国が後ウマイヤ朝に倒された後、「後ウマイヤ朝→ムラービト朝→ムワッヒド朝→ナスル朝」と変遷し、1492年にナスル朝の都グラナダが陥落してレコンキスタが終結すると、イベリア半島からイスラーム王朝が消滅した。

④ ワッハーブ王国はアラビア半島に建設された王国。

 

 11  

:ムハンマドの後継者である正統カリフは「アブー=バクル→ウマル→ウスマーン→アリー」の順。

 

② アブデュルハミト2世は、スルタン=カリフ制とパン=イスラーム主義を利用して専制の強化を図った人物。カリフ制の廃止はトルコ共和国が成立して間もなくの1924年。

③ ブワイフ朝の君主は、アッバース朝のカリフから大アミールの称号を与えられて政治的諸権利を委譲されたので、カリフは名乗っていない。

④ サファヴィー朝が活動していたころにカリフを保護していたとされるのはオスマン帝国。また、サファヴィー朝はシーア派王朝なので、アッバース朝(スンナ派)カリフを擁立する必然性がない。

 

 12  

:シーア派であるファーティマ朝がアッバース朝カリフの権威を否定してカリフを自称したことは世界史の教科書等でも学習する内容。さらに、史料2はファーティマ朝がアリーの子孫によるものであることの証拠としてアッバース朝カリフの手紙を挙げているので、④の内容は正。

 

① ファーティマ朝(909年)の成立はアッバース朝成立(750)の後。

② 上述の通り、ファーティマ朝はシーア派。

③ 史料を読むと、「シリアやエジプトを取り戻せない無能力」の主語はアッバース朝であってファーティマ朝ではない。国語の問題。

 

 13  

:図は、「ナポレオンの帰還」を描いたもの。これはエルバ島を脱出したナポレオンを描いたもので、当時フランス国王であったのはルイ18世。

 

① アルジェリアがフランスによって侵略されるのは、シャルル10世の頃に始まるアルジェリア出兵(1830~)がきっかけだが、占領までにはかなり長い時間がかかる。いずれにせよ、アルジェリアがフランス支配下とされていく時期は「七月王政(国王:ルイ=フィリップ)~第二共和政~第二帝政(皇帝:ナポレオン3世)」の頃なので不適。

② ルイ18世は恐怖政治を敷いていない。

③ ヴァレンヌ逃亡事件で捕まったのはルイ16世。

 

 14  ②

 ア に入るのは「トゥサン=ルヴェルチュールが独立運動」とあるのでハイチ(a)。また、ナポレオンが最終的に流されるのはセントヘレナ島(c)。

 

 15  

:文章より、宋代に興った新しい学問であることが分かるので ウ は宋学(朱子学)。宋学は北宋の周敦頤から始まり、南宋の朱熹(朱子)の時に大成されたので朱子学とも呼ばれる。朱子学は『五経』に加えて『四書』を重視したことでも知られる。また、臨安は南宋の都なので③が正しい。

 

① 科挙が創設(導入)されたのは隋の時代なのでおかしい。

② 金の支配下で儒・仏・道の三教融合を目指したのは王重陽が創始した全真教。

④ 王守仁(陽明)は陽明学を大成した人物で、知行合一は陽明学における基本的な考え方。

 

 16  

:文章中には顧炎武が紹介されている。顧炎武は明から清へと王朝が変わる時代に、考証学の祖として黄宗羲とともに知られる人物。『日知録』で知られる顧炎武も、『明夷待訪録』で知られる黄宗羲も、早慶などでは頻出の人物。また、17世紀とあることからも、王朝交替が明→清であることが分かる。

 同時期に起こった「書院を拠点とした争い」とあるので、東林書院のことを言っていることが分かる。明の末期には、東林書院に反宦官派の官僚や文人が集い、東林派と呼ばれる集団を形成していたが、これが宦官魏忠賢に弾圧される事件が起こった。

 

① 張角の太平道が起こした黄巾の乱(184)は後漢の末期。

② 秦檜(和平派)と岳飛(抗戦派)の対立が生じたのは南宋の時代。

③ 土木の変(1449)は明の時代ではあるが、明の中期である6代目正統帝(英宗)の時代で、15世紀。

 

 17  

:丁寧に読み解かないと足元をすくわれそうな問題。まず、科挙以前の官吏任用制度として知られるのは、前漢の武帝の頃に導入される郷挙里選と、魏の時代に始まる九品中正法で、「あ」が郷挙里選、「い」が九品中正法を指していると考えられる。「あ」の文章に問題はないが、「い」は最終的には中央の高官の意図が反映されやすく、門閥貴族を形成したことで知られている。cf.「上品に寒門なく、下品に勢族なし」) そのため、「貴族の高官独占が抑制された」という部分が誤り。

 また、朝鮮・日本における人材登用制度に対する考えについては、「日本の社会には中国で理想とされる周代と共通する要素があると考え、周代の制度を参考にして…」とあるので、日本は周の制度を肯定的にとらえていることが分かる。そのため、「Y」の「日本の儒学者が、周の封建制を否定的に考え…」という部分は明らかな誤り。こちらは国語の問題。よって、正しいのは「あ」と「X」の組み合わせである①。

 

 18   

:『四書大全』は明の永楽帝の時代に編纂された『四書』の注釈書。『四庫全書』は清の乾隆帝の時に編纂された叢書。叢書とは、世間にある書物を集めて、各書の一部を引用するなどして一定の形式に整えて、編纂し直したものを言う。

『四庫全書』がどんなものか、ということは用語を覚えているだけだとイメージしにくいが、『四書大全』が『四書』の注釈書であるということをおさえてさえあれば、文章の言っている「四」が『四庫全書』の話をしているのは明らか。また、時代は清の時代なので、該当するのは辮髪について述べている方。よって、組み合わせより④が正しい。(中書省の廃止は明の初代皇帝である洪武帝による。)

 

 19  

:これは、すぐに解ける人と時間のかかってしまった人とがかなり分かれる設問。普通は、文章を丁寧に読んで解くことになります。文章を読むと、以下のことが分かります。

 

『隋書』経籍志の中に『漢書』があり、この『漢書』芸文志の中に『易経』をはじめとする五経(書経・詩経・易経・春秋・礼記)が含まれている。

 

よって、「あ」の『詩経』は含まれているとかんがえるべき。対して、『資治通鑑』は北宋の司馬光が著した歴史書で、これが『漢書』に含まれているはずがありません。(文中にあるように、『漢書』は1世紀にできた書物だが、司馬光は11世紀の人物) 勘のいい人は、『資治通鑑』は初めから入っていないということを理解した上で、『詩経』の有無のみ確認する作業に集中すればよいですが、文章を一から丁寧に読んで両方の情報を探そうとすると思わぬ時間がかかってしまう可能性があります。

 

 20  

:あまり良い問題ではありません。他のところでは世界史の知識を用いて解く設問も多く出しているわけですから、この問題を解いている受験生にとっては「書いてあること=正しい」とは判断できても、「文章に書いていないこと=間違っている」とは必ずしも判断できないと思われます。そのため、②と③で迷った人が多かったのではないでしょうか。③に書かれている「本紀」と「列伝」を主体とする歴史書とは、紀伝体で書かれた歴史書のことなので、これが正。

 

① これは、文章の最後の方で「1世紀にはまだ四部分類がなかったのですか。」→「その通りです。当時は史部という分類自体、存在しませんでした。」とあるので、明らかに誤り。

② 文章中には歴史書が増加したことは書かれているが、その原因が木版印刷の普及にあったとは書かれていない。また、木版印刷が中国で普及するのは唐代以降なので、3世紀から6世紀にかけて歴史書が増加した理由にはならない。ただし、中国における木版印刷の普及がいつごろからかという知識は通常の高校受験生は持ち合わせていないと思われるので、判断材料が問題の会話文にしかないことになるので、②を誤文とする根拠はやや弱い。

④ 文章中には宣教師については書かれていない。また、『四庫全書』が編纂されたのがそもそも18世紀の乾隆帝時代なので、この時代に四部分類が用いられなくなったとするのはおかしい。

 

 21  

:それぞれの貨幣についての説明(貨幣1=ソリドゥス金貨、貨幣2=発行したのがムアーウィアの開いた王朝)から、貨幣1を発行したのは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、貨幣2を発行したのはウマイヤ朝で、貨幣はディナール金貨と分かる。当てはまるのは、ユスティニアヌスの時にトリボニアヌスが編纂した『ローマ法大全』など、ローマ法の集大成をビザンツが行ったことから③。

 

① ゾロアスター教が国教とされたのはササン朝ペルシアであってビザンツ帝国ではない。

② パルティアを征服したのもササン朝。ウマイヤ朝ではない。

④ ウマイヤ朝の都はダマスクスであってバグダードではない。(バグダードはアッバース朝の都として有名。)

 

 22  

:よく読めば答えはわかるのですが、正直に言って設問の文章が読みにくいです。「情報処理能力が必要とされている」と言えばたしかに聞こえはいいのですが、日常においてこの手の情報処理能力が必要かと言われると…。いや、相手の国語が怪しい場合にはあり得るのか…。「父親が解読できない母親の言いたいことを、なぜか息子は即座に解読できてしまう(我が家の場合)」みたいな能力なのか…。いや、これはまた別か…。ヤバイ顧客やヤバイ上司への対応には必要になる力なのかも…。あれ?やっぱり必要な能力なのか?これ。

 何が分かりにくいのかというと、「貨幣2を発行した王朝」と「貨幣2の発行者」が別の存在を示していることを読み取れないと、選択肢の読み取りを間違えてしまう可能性があるのです。前者はウマイヤ朝ですが、後者はウマイヤ朝の5代カリフであるアブド=アルマリク(アブドゥルマリク)のことを指しています。ですが、貨幣2を発行した王朝はウマイヤ朝なわけですから、「貨幣2の発行者」=ウマイヤ朝と読み取ることもできてしまうため、「貨幣2を発行した王朝」と「貨幣2の発行者」が同一の主体なのだととらえてしまう可能性があります。(実際、私は最初そのように読み、そこで「ん?行政において別言語を認めたのに、同じ存在が行政で用いる言語をアラビア語に統一している?しかも逆接で結ぶ?」と矛盾を感じ、「ん~?」と30秒ぐらいにらめっこしてから「ああ。(ピコーン)」となりました。)

読み取らせたいのはわかるのですが、本設問は国語ではなく、世界史の設問なので、最低限、妙な形でミスリードしない程度の舞台装置はととのえていただきたいものです。(「貨幣2の発行者」ではなくて、「貨幣2を最初に発行した王(王がまずければ政治的指導者)」とか。)

 さて、そうしたわけで三人の言っていることの正誤は以下のようになります。

 

佐々木さん:正。

鈴木さん:正。

広田さん:誤。ソリドゥス金貨を最初に発行したのはローマ帝国のコンスタンティヌス帝。ヴァンダル王国を滅ぼすのはビザンツ帝国のユスティニアヌス。

 

 23  ⑤

:資料1を書いたのは『対比列伝』の著者とあるのでプルタルコス。プルタルコスは文中にもあるようにローマ帝政期(五賢帝の時代は1世紀~2世紀)の人物で、文章より史料2の著者も同時代人と分かる。対して、アリストテレスは古代ギリシアの哲学者で、前4世紀の人物であるから、その弟子のヘラクレイデスが生きた時代は史料12の著者の時代よりも古い。( ア に入れる語句は「い」)

 だとすれば、よりマラトンの戦いに近い時代を生きたのはヘラクレイデスになるので、その言の方が信憑性が高いことになるので、テルシッポスが使者であるとする方が妥当。( イ に入れる人物名は「Y」) エウクレス説は「今の多くの人」が言っていることで、ヘラクレイデスの言ではないので注意。

 

 24  ①

:マラトンの戦いがあったのはペルシア戦争(第2次)。ペルシア戦争のきっかけはイオニア(アナトリア半島南西部の地方)の都市国家ミレトスのアリスタゴラスが起こした反乱がきっかけ。

 

② エフタルを滅ぼすのは突厥とササン朝の挟撃によるもので、6世紀。

③ コリントス同盟が結成されたのはマケドニアのフィリッポス2世が主導したもので、カイロネイアの戦いの後。

④ プラタイアイの戦いはペルシア戦争中だが、この戦いでギリシア軍は勝利している。

 

 25  ③

:上述の通り、資料1ならびに『対比列伝』の著者プルタルコスは、ヘラクレイデスと「今の多くの人」の説を併記している。

 

① ペイシストラトスは前6世紀のアテネの僭主で、ペルシア戦争が起こるよりも前の人物であるから知りようがない。アテネについては「ドラコン→ソロン→ペイシストラトス→クレイステネス→テミストクレス→ペリクレス」の流れは必須なので注意。(アテネ民主政の発展についてはこちら

② トゥキディデスの『歴史(戦史)』はペロポネソス戦争について書いたもの。

④ 文中にある「 ウ (ペルシア戦争)を主題とした紀元前5世紀の歴史家の著作」がヘロドトスの『歴史』で、これには資料2でマラトンの戦いの使者とされるフィリッピデスの名前はマラトンの戦い以前にスパルタにつかわされた使者として出てくると書いてあるので、正確に反映しているとは言い難い。

 

 26  

 エ に入るのがゲルマン人の大移動であるのは基本事項なので、資料1と資料2の読み取りに集中すればよい。

資料1は、アングル人がサクソン人とジュート人とともに渡ってきたゲルマン人であることは書かれているが、言語については一切言及がないので、こちらが「あ」。

これに対して、資料2にはサクソン人とジュート人の名前はあがっていないが、異なる言語を話す5つの民族が書かれている。ゆえに、資料2の「アングル人」にはゲルマン人として同じ言語を話すサクソン人やジュート人も含まれる表現であると考えるべきなので、こちらが「い」。

 

 27  

:資料1は「マルキアヌスが即位した年」はカルケドン公会議が開かれた年であると注にあるので451年。資料2はベーダが執筆している時期なので731年頃。資料3はゲルマン人への布教で知られるグレゴリウス1世についての話なので、6世紀~7世紀。(グレゴリウス1世の在位年は590年~604年。)

グレゴリウスの時期特定がやや難しいが、文章よりグレゴリウスの時期にはすでにブリテン島にはアングル人が渡って暮らしていることがわかるので、少なくともグレゴリウスは資料1よりは後の人。あとはベーダとの比較だが、通常教科書などではグレゴリウスのゲルマン人への布教は6世紀頃とされ、ベーダの時代の8世紀ではさすがに遅すぎる。(8世紀前半というと、トゥール=ポワティエ間の戦い[732]が起こるころ。)

よって、時代順は資料1→資料3→資料2となる。

 

 28  

:ジョン=ボールはワット=タイラーの乱の際の思想的指導者の一人。ウィクリフの影響を受けたロラード派の聖職者であったとされる。

 

① クローヴィスの改宗は5世紀末で、この頃にはまだノルマン人の移動は起こっていない。先住だったのはローマ系の人々。

③ 統一法(1559)を発布したことで知られるのはイギリスのエリザベス1世。

④ 第1回十字軍が提唱されたのはウルバヌス2世によるクレルモン公会議(1095)。ボニファティウス8世はアナーニ事件(1303)でフィリップ4世に幽閉され、憤死する教皇。

 

 29  

:マラヤの宗主国はイギリス。もっとも、選択肢が全部イギリス絡みなので実質的には選択肢の正誤判断のみでOK。シンガポールは19世紀前半(1819)にイギリスのラッフルズがジョホール王国から獲得したもの。

 

② 東インド会社の貿易上の諸特権が廃止されるのは19世紀前半。(対インド貿易特権廃止が1813年、対中国が1833年。)東インド会社自体がインド大反乱(18571859)を契機に解散される(1858)ので、これをおさえてあれば19世紀後半に貿易特権廃止はおかしいと気づける。

③ 公行の廃止が決められるのはアヘン戦争の後の南京条約(1842)。北京議定書は義和団事件の時(1901年)。

④ オタワ会議でスターリング=ブロック(ポンド=ブロック)の構築が決定されたので×。

 

 30  

:フィリピンの輸出が圧倒的に多いので、 ア はフィリピンの当時の宗主国であったアメリカ合衆国と判断できる(「い」)。アメリカ合衆国でゴムの需要が伸びたのはフォードT型の大量生産によるタイヤ需要が増加したためと考えるのが妥当なので、適当な文は「X」。

 

 31  

:インドシナの輸出額上位5地域は表より香港・フランス・マラヤ・インドネシア・中国であるので、正しい。本設問は丁寧に読み解く必要があり、正誤の判断よりそちらが大変。

 

① インドネシア(オランダ領東インド)の宗主国はオランダで、その割合は21.0%。これは、マラヤの宗主国イギリスの14.3%より高いので、×。

③ 強制栽培制度が導入されていたのは1830年に総督ファン=デン=ボスによって導入されたジャワ島で、フィリピンではない。また、この強制栽培制度も19世紀後半には見られなくなっていく。

④ インドシナの輸出額最大の相手は香港。インドシナの宗主国がフランスであるのに対し、香港の宗主国はイギリスだったので同じではない。

 

 32  ①

:表から読み取れる事実をしっかり確認することが大切。表1を見ると、都市人口比率が上昇しているので、①と②では②が×となる。また、表2を見ると、農村農業人口100人当たりの総人口は上昇しているので、③と④では④が×となる。よって、①か③の2択となるが、③のウで述べられている農業調整法(AAA)はアメリカのニューディール政策で行われるものなので、イギリスの話としては適切ではない。よって、①が正解。(①で述べられている「新農法」とはノーフォーク農法のこと。)

 

 33  

:アイルランドのジャガイモ飢饉とアメリカ合衆国への移民の増加、またそれに関連するグラフ読み取り問題は頻出と以前にも書きました。(→「史資料問題でよくみる」

 

② クロムウェルによるアイルランドの征服は17世紀半ばのピューリタン革命後のこと。

③ 南北戦争は18611865なので、1870年代ではない。

④ グラフより、1895年の移民数は1890年の時点の移民数より減少しているので×。

 

 34  

:ダービー父子によるコークス製鉄法が正だが、基本は消去法で解く。

 

① 大西洋三角貿易の品目にアヘンはない。アヘンが入るのはアジア三角貿易。

③ ラダイト運動は機械の打ちこわし運動で、選挙権獲得運動ではない。イギリスで起こった選挙権獲得運動としてはチャーティスト運動が有名。

④ 1833年の工場法(一般工場法)は労働条件の改善を定めたもので、環境汚染の問題については触れていない。

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河合塾、駿台・ベネッセともに今回の大学入学共通テストの世界史B予想平均点は66点(昨年比+3点)とのこと。先日の解答解説の記事の中で「問題が難しかったのかというとそういうわけではなく、時間がかかったのは設問の条件や情報の整理を注意深く行う必要のある個所で時間がかかっただけで、設問を解くにあたって必要な世界史の知識については、昨年度の設問よりもやや易化したのではないかと思います。」と書いた後で、世間ではめっちゃ難化したという話を聞いたので、「あれ?もしかしたら適当なことを書いてしまったかしら…」と心配していたのですが、だいたい感じたとおりだったようです。

(河合予想)
https://www.keinet.ne.jp/center/average/22_index.html

ただ、今回は特に数学をはじめとして受験生はかなり苦戦した様子。自分も受験生の時に似たような目にあった(現役生と浪人生の数学平均点差が鬼)ので他人事とは思えませんが、自分のできなった分は周りも同じようにできなかったととらえて、前を向いてこれから頑張ってほしいと思います。


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さて、今年で2度目の実施になります「大学入学共通テスト」です。昨年の共通テスト世界史Bでは史資料を用いた設問が多く出て、従来のセンター試験の出題よりもアタマを使わせる設問となっていたため、情報の整理を素早く行うことが苦手な人にとっては難しくなっていたことについては、昨年の問題解説を行った際にお話しをいたしました。

では、今年度はどうだったか。受験生の実感をつかむために、解説を作る前に時間を図って解いてみました。何分で解けたとかはここでお話しすることではありませんが、概ね、従来のセンター試験の問題を解くよりも35分は多くかかったように思います。曲がりなりにも歴史を専門にしている人間が解くのに35分余分にかかるわけですから、受験生であればかなりの負担感があったのではないでしょうか。

ですが、それでは問題が難しかったのかというとそういうわけではなく、時間がかかったのは設問の条件や情報の整理を注意深く行う必要のある個所で時間がかかっただけで、設問を解くにあたって必要な世界史の知識については、昨年度の設問よりもやや易化したのではないかと思います。これが何を意味するかといえば、ミスが怖いということです。知識面でそれほど難しいことが問われていないのであれば、一定レベルの知識を身に着けた受験生同士で差がつくとすれば、情報の読み取り違えや、注意不足による誤答などで差がつくことになり、今年の問題でも昨年と同じく、頭の中でだけ処理しようとすると答えを選ぶのに時間がかかる、またはミスをしてしまいがちな設問が多く見られました。特に、複数の要素を組み合わせた答えを選択肢の中から選ぶスタイルの設問では、確実に自分の選んだ選択肢が何だったのか、一つ一つチェックしながら解き進めることが大切だったように思います。全体としては、昨年と比べてとんがったところが少なくなった、ごくごくオーソドックスなタイプの設問だったように感じました。

 

 1 ‐①
:下線部は、「解剖学、植物学、薬学」となっておりますので、これに関する書物を選ぶことになります。『本草綱目』は明の李自珍による薬学に関する百科事典です。明の時代の実用書には他に宋応星による『天工開物』や徐光啓の『農政全書』などがありますが、どれも頻出のものになりますので、覚えておくようにしましょう。

 

②‐北宋の司馬光が著した『資治通鑑』は歴史書なので×

③‐明の宋応星が著した『天工開物』は産業技術書なので× 産業技術とは具体的にどんなものかといえば、錬鉄、製紙、製陶などで、Wikipediaの『天工開物』を調べれば実際にどんなものか見ることができますので、イメージもわきます。

④‐梁の昭明太子による『文選』は詩文集なので×

Chinese_Fining_and_Blast_Furnace

Wikipedia「天工開物」より)


 2 ‐②
:空欄 ア はオランダの東南アジア拠点とあるのでジャワ島のバタヴィアなので、b


 3 ‐②
隋の煬帝による高句麗遠征(612614)は有名。この遠征に失敗したことなどが隋衰退の原因となります。一本釣りでも解けますが、丁寧に消去法で解きましょう。

 

①‐楽浪郡を置いたのは前漢の武帝。楽浪郡はその後も続きますが、4世紀に高句麗に滅ぼされました。また、唐の時代の朝鮮半島は新羅が支配しています。

③‐南京条約(1842)は清、イギリス間のアヘン戦争の講和条約(1840-1842)で、朝鮮は無関係です。清が朝鮮の独立を認めさせられることになるのは、日清戦争(1894-95)の講和条約である下関条約(1895)。

④‐朝鮮王朝は確かに科挙を導入しますが、科挙が始められたのは隋の頃とされていて、明の時代が最初ではありません。

 

 4 ‐②

:ウラマーとはイスラーム世界の知識人のことですが、基本的にはクルアーンに基づくシャリーアやハディースに精通した法学者・神学者のことです。対して、スーフィーとは、イスラーム神秘主義(スーフィズム)の修行僧のことを指します。ウラマーがクルアーンの一言一句とその意味するところにこだわるのに対して、スーフィーは儀式や感覚的な神との一体化を追求します。史料を読めば、ハサン=ブン=イーサーがウラマーであるのは明らか(「法学者やハディース学者が彼を高く評価」、「彼のハディース講義は…」など)ですので、選ぶべき記号は「あ」と「Y」の組み合わせである②になります。

 

 5 ‐②

:ネストリウス派はエフェソス公会議(431)で異端とされて以降、イランを経由して中国にまで伝わり、景教と呼ばれます。

 

①‐サファヴィー朝はシーア派の十二イマーム派を奉じる王朝です。

③‐カニシカ王はインドのクシャーナ朝の王で、第4回仏典結集を行ったことで知られています。

④‐イスラームと融合してシク教になるのはヒンドゥー教です。シク教はカビールの改革の影響を受けたナーナクが創始しました。

 

 6 ‐④(基本問題)

:ウマイヤ朝が「アラブ帝国」と呼ばれアラブ人に免税特権を与えるなど優遇していたのに対し、アッバース朝がムスリムの平等を達成して「イスラーム帝国」としての性格を有したことは小論述などでもよく出題される基本事項です。その他の選択肢もアッバース朝の時代とはかけ離れています。

 

①‐バーブ教徒の乱(18481850)はカージャール朝の時。

②‐ダレイオス1世はアケメネス朝ペルシアの人物で、まだイスラーム教が成立していない。

③‐アフガーニーは19世紀の人物。

 

 7 ‐①

:空欄 エ は、契丹と並んで『遼史』、『金史』に書かれているとあるので、金を建国した女真族であるのは明らか。猛安・謀克(ミンガン・ムケ)は金の時代の部族制度。

 

②‐ソンツェン=ガンポはチベットに存在した吐蕃の建国者。

③‐テムジンはチンギス=ハンのことでモンゴル帝国の創始者。

④‐冒頓単于は匈奴の人物。前漢の高祖、劉邦を白登山で打ち破ったことで知られる。

 

 8 ‐③

:ダライラマ14世の亡命でも正解は選べますが、確実に消去法を用いた方が良いです。

 

①‐ワッハーブ派はアラビア半島のイスラーム改革運動。

②‐ガザン=ハンはイル=ハン国の君主でイスラームを受容した人物。

④‐北魏では3代太武帝の時に寇謙之の下で道教が国教化されたが、その後の文成帝の頃からは仏教が保護され、雲崗や竜門の石窟寺院がつくられた。

 

 9 ‐①

:「あ」については、中国の魏の歴史書である『魏志』に現在の日本にあたる邪馬台国の記述があるので問題はないが、「い」のパスパ文字はモンゴルで行政官も兼ねたチベット仏僧パスパが考案し、かつモンゴルの公文書に用いられた文字であるため、「別の民族や集団」が記述したとはいいがたい。そのため正しいのは「あ」のみ。

 

 10 ‐③(基本問題)

:空欄 ア はその直前に「ナポレオンの侵略がもたらした悲惨な苦難の記憶」とあるのでフランス、 イ はジブラルタルを奪った国になるのでイギリスです。ジブラルタルはスペイン継承戦争の講和条約であるユトレヒト条約の際にイギリスに奪われました。ユトレヒト条約については→こちら

 

 11 ‐③

:リード文には「スペインの最後の植民地」とありますが、厳密にはスペインの植民地は20世紀に入ってもアフリカの一部(スペイン領サハラなど)に維持されています。ですが、リード文では「アメリカ合衆国に奪われた」と書いてありますので、そのことを考慮すれば、ここでいう「スペインの最後の植民地」とは1898年の米西戦争で失われた植民地であることが分かります。

 米西戦争の講和条約であるパリ条約で、スペインはキューバの独立を承認し、さらにフィリピン・グアム・プエルトリコをアメリカ合衆国に割譲しました。ですから、地図上からこれらに該当するものを選べばOKです。地図を見ますと、aはアルジェリア、bはタイ、cはフィリピン、dはペルーを指していますので、該当するのはフィリピンのcとなります。

 

 12 ‐②

:史資料が示す、ソ連がミサイル基地を建設しようとしたことでアメリカとの一触即発の危機に陥ったとする内容から、このことがキューバ危機(1962を指していることが分かります。そのやめ、空欄 ウ はキューバです。②のバティスタはキューバ革命においてカストロ・ゲバラによって倒される親米政権ですので、キューバについて述べているのは②が正解です。

 

①‐北大西洋条約機構は基本的に北米・ヨーロッパ(発足当初は西ヨーロッパ)を中心とした軍事同盟になりますので、キューバは参加していません。

③‐文章からは、ハイチ(フランス領サン=ドマング)を指すものです。

④‐ナセルはエジプトの大統領です。

 

 13 ‐④

:設問自体がやや読み取りづらいので、丁寧に事実を確認していく必要があります。「この演説中で述べられている交渉相手国の首相」とは史料中にあるマクミラン首相のことです。マクミランはイギリスの首相なので、「交渉相手国の首相の国」は「い」のイギリスなのですが、本設問の史資料がキューバ危機についてのものであり、かつその後の核軍縮についての内容を示すものだということに注意する必要があります。

 キューバ危機はソ連のフルシチョフとアメリカのケネディとの間で核戦争の危機を回避しますが、その後、米ソにイギリスを加えた3国間で部分的核実験禁止(停止)条約[1963PTBTPartial Test Ban Treaty]が締結されます。この条約は地下核実験を除くすべての核実験を禁止するというものでした。この辺の事情が分かれば、マクミランがイギリスの首相であるということはマクミランの名前が分からなくても判断できます。また、史料中では「包括的な核実験禁止条約に関する早期の妥結を目指し…」となっていますが、実際に締結されたのはPTBTでしたので、締結した条約の内容は「Y」の「核実験の部分的な禁止」が正しいということになります。史料の内容と、その後実際に取り交わされた条約の内容が異なるので、その点に注意を払う必要があるやや難しい設問です。

 また、包括的核実験禁止条約(CTBTComprehensive Nuclear Test Ban Treaty)が国連総会で採択されたのは1996年のことです。

 

 14 ‐①

:ソ連は、中国との間に中ソ国境紛争(1969)を引き起こしています。

 

②‐ソ連はサンフランシスコ講和会議に出席はしていますが、条約は調印していません

③‐ソ連がクウェートに侵攻した事実はありません。

④‐アラスカはアメリカ合衆国がロシア帝国[当時はアレクサンドル2]から購入した土地です(1867)。また、当時ソ連は存在していません。

 

 15 ‐③

:文章中の空欄 ア は、その直後にコッシュートが活躍した時期とありますので、1848年の諸革命(諸国民の春)のことだということが分かります。この時期に起こったこととして正しいものは、ウィーン三月革命やベルリン三月革命など、ドイツの諸革命に続いて開催されたフランクフルト国民会議(18481849)です。

 

①‐ロシアで立憲民主党(カデット)を中心に臨時政府が建てられたのはロシア二月(三月)革命でニコライ2世が対した時のことで、1917年の出来事です。

②‐ 青年トルコ革命は1908年。よく出ます&使います。

④‐ディズレーリはイギリスの首相で、オーストリアの人物ではありません。ディズレーリがメッテルニヒであれば、ウィーン三月革命(1848)のことを指す文章になります。

 

 16 ‐④

:組み合わせタイプの設問としては比較的易しい問題です。空欄 イ は「1881年にエジプトで民族運動を起こしたのものの鎮圧され」とありますので、ウラービーのことだと分かります。ウラービーは1881年~1882年にかけて「エジプト人のためのエジプト」というスローガンを掲げ、当時スエズ運河会社を買収(1875)してエジプトへの経済的搾取を行っていたイギリスに抵抗する民族運動を起こしました。(ウラービーの乱、18811882 この歴史的事実を知っていれば組み合わせも容易に解けます。

 

 17 ‐②

:少し文章の読み取りが必要となります。空欄 ウ は「1880年代というと、領事裁判権を含む、日本に有利な ウ を結んだ時期である」とありますので、日本が日本にとって有利な内容の条約を他国に結ばせたものであると分かります。この条件に合うのは日朝修好条規(1876です。日朝修好条規は1870年代なので少し変な感じもしますが、もう一つの選択肢である日清修好条規も1871年ですし、日清修好条規は日本との対等条約なので、選ぶとすれば日朝修好条規しかありません。

 また、1880年代は日本が欧米と結んだ不平等条約の改正に向けて働きかけを強めた時期でもありました。対して、南樺太の領有が問題となるのは日本が日露戦争に勝利してポーツマス条約(1905)を締結した頃になります。

 

 18 ‐③

:「表」より、1700年の中国の人口15000万人、1800年の中国の人口は32000万人ですので、1800年の時点で1700年の時点の人口の2倍は超えています。清の時代の人口増加が、サツマイモやトウモロコシといった新大陸由来の作物の導入と山間部開発にあったことはよく知られていますので、これも問題はありません。たしかに、当時は地丁銀の導入で丁税が廃止されたことが統計上の人口増加を急激にさせる一因となったともいわれていますが、そのことは「トウモロコシやサツマイモの普及が人口増加を支えた」という事実を否定するものでも、相反するものでもありません。

 

①‐マラッカ王国の繁栄していた時期は14世紀末から16世紀初めごろで、1800年代には存在していません。

②‐インドでヴィクトリア女王がインド皇帝に即位(インド帝国の成立)したのは1877年のことで、19世紀後半です。

④‐1900年時点のインドの人口は28000万人、ヨーロッパの人口は27100万人とありますので、「表」の内容と食い違います。

 

 19 ‐②(やや難)

:読み取りの面でも歴史的知識の面でもやや細かい作業・知識を求められる設問です。まず、1850年時点の東南アジアの人口は「表」より4200万人、日本の人口は文章より3071万人(推定)です。対して、面積については「日本の面積は…東南アジアのおよそ11分の1」とありますので、東南アジアと日本の面積比は111となります。複雑な計算は必要なく、もし東南アジアが日本と同じ人口密度を持つとすれば日本の人口の11倍の人口が必要になり、人口密度は日本の方が高い(東南アジアの方が低い)ことがわかりますので、選ぶべきは「あ」です。間違えて現在の人口で判断したり、複雑な計算をして時間を浪費することがないように注意が必要です。

 また、日本が北部仏印に進駐するのはフランスがドイツに降伏した後(その後のフランスではペタンのヴィシー政権が成立)で「X」の文章は誤っているので、正しい文章は「Y」となります。

 

 

 20 ‐④(基本問題)

:単純な知識問題です。オーストラリアの先住民はアボリジニー、ニュージーランドはマオリ。


 21 ‐③(読解問題)

:史料の文章を正しく読めばそれでOKです。

 

 22 ‐③

:オセアニア地域の探検者としてはオランダのタスマン[17世紀]やイギリスの(ジェームズ=)クック[18世紀]が知られています。

 

①‐白豪主義が廃止されるのは1960年代~1970年代にかけてです。

②‐ハワイが併合されるのは1898年、アメリカ合衆国によってです。最近は最後の女王リリウオカラニの名前も以前と比べて出てくるようになりました。

④‐カナダはイギリス最初の自治領(1867)です。ニュージーランドが自治領になるのは1907年。

 

 23 ‐②

:標準的な問題ではありますが、文章の読み取りには注意が必要です。オーウェルの史料では「この10年に満たない数年間、民主的と言われる国々はファシズムに負け続けるという歴史を歩んできた。例えば、日本人の思うままの行動が容認されてしまった。」とあります。本史料はスペイン内戦(19361939)の最中に書かれたとありますので、「この10年に満たない数年間」に「日本が行った行動」は、概ね1920年代の後半から1930年代の後半までの間に起こった出来事である必要があります。時期・内容ともに当てはまるのは満州国の建国(1932のみです。

 

①‐ノモンハン事件は19395月の出来事で、スペイン内戦(スペイン内戦は同年4月まで)の後です。また、ノモンハン事件はソ連軍の勝利に終わっていますので、「日本人の思うままの行動が容認されてしまった。」という史料の内容とも食い違います。

③‐日本が台湾を獲得するのは日清戦争(18941895)後の下関条約(1895)です。

④‐日本の真珠湾攻撃は1941年のことで、スペイン内戦の後です。

 

 24 ‐①

:文章の表現に注意が必要ですが、設問としては難しくありません。オーウェルの言う「ヒトラーは権力の座に上りつめ、あらゆる党派の政敵の虐殺に手を付け始めた」とはどういうことかということですが、これはヒトラー内閣の成立とその後の共産党弾圧を示しています。共産党は、当時多くの政治党派と敵対関係にありましたので、そのことを「あらゆる党派の政敵=共産党」とオーウェルは表現したわけです。

 

②‐九か国条約はワシントン会議(19211922)の中で締結された、中国の領土保全、主権の尊重などを定めた条約なので、エチオピア問題とは無関係です。

③・④‐第一インターナショナルはマルクスが主体となって作られた共産主義者の団体ですが、これが成立していたのは19世紀後半(18641876)で、ヒトラーの「虐殺」の対象とはなり得ません。

    

 25 ‐①(やや難)

:歴史的な知識というよりは、読解力・情報整理の面で多少注意が必要な設問です。事実に対する異なる見方と根拠を正しく選ぶ必要があるので、ファシズムまたはファシズム国家の特徴や行動とは何かが理解できていないと正確に根拠を選ぶことができません。また、組み合わせの仕方もかなり多く出てきますので、情報を素早く整理する力が問われます。重要なことは、Z(軍事力による支配圏拡大を行わなかった)を含む選択肢を全て排除できることに気づくかどうかです。Zは、そもそも歴史的事実と異なる(日本は実際には軍事力により支配圏の拡大を行っている)とはっきりわかりますので、どちらの見方をとったとしても根拠としては不適切です。すると、実質的には選択肢としては①、②、⑥の3択となります。

 

W:日本は治安維持法(1925)で共産主義者を弾圧したり、ドイツと防共協定を結ぶ(1936)など、明らかに共産主義に対抗する運動に加わっています。また、これはファシズム国家の特徴を示す内容ともなります。

X:国民社会主義は国家社会主義ともいわれ、ナチス(国民[国家]社会主義ドイツ労働者党)とも深いかかわりを持ちますが、日本が国家としてこれを掲げた事実はありません。

Y:日本の軍事独裁体制における形式上(とはいえ、完全に形式だけのものというわけでもないのですが)の指導者は天皇で、政策立案者は軍部とかかわりの深い人物が首相となる形で進められていきます。また、日本では1932年の五・一五事件で犬養毅首相が殺害されて以降、政党内閣ではなくなっていますので、「政党の指導者」が独裁者として権力行使をしているわけではありません。この点は、ナチスという政党の指導者であるヒトラーが総統(フューラー)として権力を握ったドイツ、ファシスト党の指導者として政権の座に就いたムッソリーニのイタリアとは異なりますので、これを根拠としてヨーロッパのファシズムとは異なると議論することは可能です。

 

以上の理由から、「あ‐W、い‐Y」の組み合わせとなり、①が正解です。

 

 26 ‐④

:空欄 ア モスクワ大公国のイヴァン4です。イヴァン4世は自分の息子を錯乱して殴り殺したことで知られています。ただ、このエピソードはそこまで有名なものではないので、実際の判断は「ロシアで初めて正式にツァーリを称した」とか「雷帝」などの部分で判断することになります。また、イヴァン3世もツァーリを称しますが、これは自称であって正式に(皇帝を意味する称号として公式に)称したものではなかったと世界史ではされています。

 

①‐ステンカ=ラージンの乱(16701671)はロマノフ朝ロシアの成立後、皇帝アレクセイの時です。この反乱の約100年後に起こるプガチョフの乱(17731775、エカチェリーナ2世の時)との区別はしっかりつけておきましょう。

②‐ロシアでギリシア正教が国教とされるのはキエフ公国のウラディミル1世がバシレイオス2世の妹アンナを妻としてからのことです。

③‐モスクワ大公国はキプチャク=ハン国の支配を受けてきましたが、この「タタールの(くびき)」を脱して独立するのはイヴァン3世の時です。(1480

 

 27 ‐⑤

:空欄 イ は、明の建国者とあるので洪武帝(朱元璋)です。朱元璋の徴税政策、土地管理政策としては賦役黄冊や魚鱗図冊が知られています。対して、一条鞭法は明の末期、万暦帝時代の宰相張居正が導入したものです。

 また、税制一般の歴史について述べたX~Zの文章については以下の通りです。

 

X‐誤。ザミンダーリーは徴税の際に地主(ザミンダール)をはさむ制度。農民からの直接徴税はライヤットワーリー制。(ザミンダーリー制とライヤットワーリー制について→こちら

Y‐正。騎士身分はエクイテスとも呼ばれます。

Z‐誤。イギリスは印紙法を撤回します。

 

 28 ‐②

:二つの根拠から、②が正しいと判断できます。一つ目は、ドイツ騎士団を撃退した将軍を英雄視する映画が上映禁止となっていることから、対ドイツ関係を気遣ってのことだと判断できます。また、独ソ不可侵条約が締結されたのは1939年、ヒトラーがこれを破棄して独ソ戦が始まるのが1941年なので、上映禁止期間とも一致します。

 

①‐世界恐慌は1929年で時期が離れていますし、ソ連は世界恐慌の影響を受けていません。

③‐コメコン(経済相互援助会議、1949結成)は戦後の冷戦下で組織されるものなので、時期が不適切です。

④‐十月革命(十一月革命)は1917年のこと。その後の内戦とはロシア帝国の残党との内戦や、これに介入した諸外国との対ソ干渉戦争を指しますが、これも1922年までには終結しますので不適切です。

 

 29 ‐③

800年にローマで戴冠したとあるので空欄 ア の人物はカール大帝(シャルルマーニュ)。カールがアーヘンに神学者アルクインや歴史家アインハルトらを招いて文芸を奨励したことはカロリング=ルネサンスと称されます。

 

①‐フン人のアッティラがヨーロッパに撃退されるのは、カタラウヌムの戦い(451)やレオ1世の説得(452)、アッティラの死(453)を経てからのことで、カールの時代とは時期が異なります。

②‐イングランド王国はそもそも成立したのが829年、ウェセックス王エグバートによる七王国(ヘプターキー)の統一によるものです。カールがこれを征服した事実はありません。

④‐文章はメロヴィング朝のクローヴィスを指すものです。

 

 30 ‐②

:標準的な知識と読み取りが要求される設問です。空欄 イ はイングランド王ジョンから大陸領の大半を奪ったとあるのでフィリップ2。文より、南にはメロヴィング朝、カロリング朝の王を、北にはカペー朝の王をとあるので、南の空欄 ウ にはメロヴィング朝またはカロリング朝の王が入ります。今回はたまたま図の下方が南でしたが、必ず方角を指す記号は確認してください。もし、今回方角を確認せずに何となく上が北、下が南と判断して問題を解いて正解していた場合、それは運が良かっただけかもしれません。設問によっては方位記号をずらしてくることも十分考えられるので、丁寧に確認しましょう。

 選択肢で空欄 ウ にはいる候補であるもののうち、ロロはノルマンディー公国を建国したノルマン人、ピピン(小ピピン)はカール大帝の父でカロリング朝の創始者ですから、選ぶべきはピピン

 

 31 ‐③

:フィリップ2世~ルイ9世までの時期は、おおよそ12世紀末~13世紀の後半です。これらの王の統治期として重要な出来事は以下の通り。

 

・第3回十字軍への参加(フィリップ2世)

・ジョンとの抗争と大陸領の回復(フィリップ2世)

・インノケンティウス3世からの破門(フィリップ2世)

・アルビジョワ十字軍(フィリップ2世~ルイ9世)

・ルブルックの派遣(ルイ9世)

・第6回、第7回十字軍(ルイ9世)

 

①‐アナーニ事件はフィリップ4世の時(1303

②‐ジャックリーの乱は百年戦争中の14世紀後半(1358

④‐トリエント公会議は対抗宗教改革のために開催(15451563

 

 32 ‐③

:清では、遷海令の解除後も、中国人の海外渡航は原則禁止で、取引等で渡航する場合にも厳格な制限が課せられていました。ただ、設問としては消去法で解くのが良いかと思います。

 

①‐合衆国の1882年移民法は中国人移民を禁止する内容でした。

②‐興中会はハワイで結成(1894)。東京で結成されたのは中国同盟会(1905)。

④‐マレーシアではマレー人と中国系移民との対立からシンガポールの独立につながっていきます。優遇政策はマレー人に対してとられたもので、ブミプトラ政策と呼ばれます。

 

 33 ‐②

:空欄 エ は乾隆帝が征服したということと、ムスリムが多いという内容からジュンガル部であると分かります。ジュンガル部は制圧された後、新疆として理藩院の監督下に置かれます。新疆の位置は地図中のbが適切なので答えは②

 

 34 ‐③

:山西商人の活動が活発化するのは明の時代なので、空欄 オ は「い」の明。彼らは、遠隔地商業を円滑に進めるために各地に会館や公所を設置しますので、適切な文は「X」。また、明の都は金陵(南京)または北京で、黄河と大運河の交差する地点ではないので「Y」は明らかに不適。

 

取り急ぎ、作成いたしましたが、まだ印刷してのチェック等はしておりませんので、もしかすると誤り等があるかもしれません。後ほどもし誤り等があれば修正していきますが、ご利用は自己判断でお願いいたします。

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今年度もさっそく「大学入学共通テスト」の世界史Bを解いてみました。今年度からこれまでの「センター試験」から「大学入学共通テスト」になったわけですが、さすがに問題の形式・内容は大幅に変わったようです。予備校の分析の方ははっきりと「難化した」、「平均点は下がるだろう」としているようですし、私自身が解いてみた感想も「そりゃ、平均点は下がるだろうな」という感触です。ただ、確かに難しくはなっているのですが、要求される知識などがこれまでと変わっていますかと言われると「そんなことはないね」というのが印象です。結局、要求される「世界史の知識や理解」については変わりがなく、学習の仕方も特に変更の必要はないと考えています。

今回の問題の長所と短所について考えてみたのですが、長所については何といっても「①史資料問題が豊富に出ている」、「②解く人間にアタマを使わせる設問になっている」という点でしょう。史資料問題がたくさん出ている点については、世界史の知識をきちんと活用して理解するところまでできているかを問う上で非常に有用だと思いますし、多くの情報を整理したり、推測したりして正解を導き出すという作業は、その人の情報処理能力をはかる上で有益だと思います。一方で、短所についてですが「①結局、思考力というよりは読解力を問うだけの問題になっていないか(世界史の問題ではなく、国語力の問題ではないか)」という点と「②設問自体が煩雑になっていないか」という2について強く感じました。①についてですが、文章の読解能力についてはすでに受験生は「現代文」という科目で問われているわけで、世界史でさらにその能力を問うのはいかがなものか、という気がしないわけではありません。ただ、一方で大学生になる(あるいは社会人になる)と、きちんと文章や情報を読み取り正確に理解することがとても、とても、とても、とても大切になります。本をきちんと読めないと(理解できないと)高等教育を受けることはできません。(というより、教授や「分かっている奴」と話がかみ合いません。)ですが、実際にはそれが「大学生でもできない」ということがよくあるわけですので、そういった能力を求める、ということは(「世界史」という科目でそれを図る必要があるかどうかは別として)妥当な気もします。ただ、人間の能力は様々あるわけでして、「人の言ってることはよく理解してくれないけどやたらたくさんのことを覚えることができて知識が豊富な奴」もいれば「人の言うことはよく理解できるけどさっぱりものを覚えられない奴」もいるわけです。その辺のことを考えたときに、今回のテストはちょっと偏ってないか?と感じる部分もありますが、変革の時期なので仕方ない部分もあるのかもしれません。①については一長一短という部分もあるのかな、という気がします。②についてですが、あちこちに空欄があって、かつあちこちに(下手をすると前のページに)参考にするべき文章やらグラフがあったりして、設問自体がボコボコのパズルのようになってしまっています。もちろん、アタマを使わせるためだというのはわかるのですが、あまりに煩雑で「アタマを使わせる以前に無駄な労力を使わせてやしませんか?」と感じました。正直、もう少し洗練してほしかったなぁという気がします。ですが、全体としては高いレベルにまとめられた問題だったのではないかと思います。解く方は大変だったかと思いますが、結果に差が出る問題だったのではないでしょうか。

今年も解いたうえで、解答を導くのに必要な知識、考え方についてまとめてみましたので、参考にしてみてください。(ただし、急いで解いたこともあり[というか、眠いです。現在AM3:30]、チェックが行き届いていない部分もあるかと思います。書いてある内容に間違い・勘違い・見落としなどあるかもしれませんが、そのあたりのところには責任を負えませんので自己責任でお願いいたします。)今年度は本当にたくさんのイレギュラーがあって受験生のみなさんは大変なのではないかと思いますが、からだにだけは気をつけて頑張ってください。 

 

 1 ‐③
:史料(資料)より、空欄アに入れる人物が「始皇帝が亡くなった時の大臣(宰相)」であることは明らかですので、このヒントからだけでも李斯(う)であることは導けます。また、李斯は法家として知られていますので、「統治のために重視したこと」は「法律による秩序維持」について示してあるZが正解となります。(う)とZの組み合わせですから、解答は③となります。

 ちなみに、孟子は性善説を唱えた儒家であり、張儀は各国に秦との同盟(連衡)を唱えた縦横家です。また、Xは儒家の思想、Yは墨家の思想(兼愛)です。

 

 2 ‐③(消去法)
①:始皇帝の思想弾圧(焚書)では医薬・占い・農業書以外の書物が焼かれた。

②:エフェソス公会議(431)はネストリウス派キリスト教を異端とした公会議。この時期にはまだ教皇権は強くない。また、禁書目録などが定められて異端審問が強化されるのは16世紀の対抗宗教改革の時期。(cf. トリエント公会議[1545-63]

④:マッカーシズムの語源となった上院議員マッカーシーはアメリカの人物。

 

 3 ‐②(やや難)
:武帝の時期の政策は②と③。これらのうち、司馬遷が批判の対象としている政策は設問より「商人・経済活動の自由を奪うような政策」であることが読み取れるので、正解は②。

 

①:呉楚七国の乱が起こったのは景帝の時で、武帝の即位より前。

②:武帝の経済政策としては、均輸法・平準法や塩・鉄・酒の専売制などが有名。

③:董仲舒は武帝に五経博士の設置などを進言して儒学の官学化を達成した人物。

④:三長制や均田制は北魏の孝文帝の政策で導入された。(5世紀)

 

 4 ‐③

:世界史の知識というよりは半分は文章読解の問題です。

 

(前提としたと思われる歴史上の出来事)-「あ」が正解

:「1790年以降、聖職者市民法の適用によって、一連の文書は領地と同様に、没収されたに違いないでしょう」とあるので、文書が没収されたのは1790年以降と分かる。1790年当時は国民議会の時代。(次の立法議会になるのは1791年憲法に基づく制限選挙の後)

:また、「い」の総裁政府の時代に国王が処刑されたという文章は明確な誤り。ルイ16世の処刑は国民公会の時代(17931月)であるというのは頻出。

 

(文書資料についてのブロックの説明)―「Z」

:「最も望ましいのは第1の場合」とあり、それは「領主の所領が教会に属していた場合」であり、「亡命した者(俗人)に属していた」という場合も「悪くない」、一番まずいのは「きわめて厄介」である「俗人だけれども…亡命しなかった者に属していた場合」とあるので、使いやすい資料の順に「教会に属していた場合>俗人で亡命した者に属していた場合>俗人で亡命しなかった者に属していた場合」なのは明らか。文章読解により正解はZ。

 

→「あ」と「Z」の組み合わせなので③が答え。

 

 5 ‐④

:「せいぜい、嫌われた体制の遺物として、意図的に破壊されたことが危惧される程度でしょう。」という文章があるが、文書を「破壊する」のは文書を没収した革命政府(国民議会)またはその支持者であると考えられるので、それらが「嫌う体制」は「アンシャン=レジーム(旧体制)」であることがわかる。

 

①:産業資本家の社会的地位の向上が起こるのは産業革命後だが、フランス革命当時のフランスではまだ産業革命は進展していない。

②:ヘイロータイは古代ギリシアのスパルタにおける隷属民。

③:強制栽培制度はジャワ島で1830年からファン=デン=ボスが行った制度。

 

 6 ‐②

:初めて500万ポンドに達したのはグラフより1776年頃と読み取れる。

 

①:イダルゴの蜂起からメキシコの独立への一連の動きは1810s1820s

②:茶法制定とボストン茶会事件は1773年。

③:トルコマンチャーイ条約は1828年。

④:アレクサンドル1世の神聖同盟提唱はウィーン会議(18141815)において。

 

 7 ‐③

:やや設問の説明自体が分かりづらい問題。内容は平易。

 

① グラフ1より、金貨鋳造量が10年以上にわたって100万ポンドを下回った時期は1799年から1813年の時期しかない(他の時期は10年に達する前にどこかで100万ポンドを上回っている)。

② さらに、グラフ2でその時期を見てみると、紙幣発行量は一貫して増加している。

 

以上の読み取りから「ア」はフランス(対仏大同盟やナポレオン戦争を思い浮かべればよい)、「イ」は紙幣を大量に発行するとなるので、正解は③.

 

 8 ‐①

:設問やイギリスの金本位制導入が19世紀であるという知識などから、19世紀の事柄を選べばよい。ちなみに、肖像はヴィクトリア女王。インド帝国成立(1877)によりインド皇帝となった。(ディズレーリ内閣の時)

 

②:グレートブリテン王国成立はスコットランドを併合した1707年(アンの時)。

③:統一法は1559年でエリザベス1世の時。

④:ハノーヴァー朝が始まったのはジョージ1世の時。(1714~)

 

 9 ‐③

:「16世紀に」とあるので、消去法でも解ける。

 

①:銀は中国に「日本銀やメキシコ銀」が流入したのであり、中国から日本へ流入したわけではない。

②:地丁銀制の導入は清の康煕帝の頃から。(18世紀前半)

③:正解。書かれているのは張居正が導入した一条鞭法(頻出)で、明末の万暦帝の頃。16世紀後半の出来事なので問題なし。

④:アヘンの密貿易が問題になるのは19世紀前半。(cf. アヘン戦争1840-42

 

 10 ‐③

:半両銭は秦の始皇帝がつくった統一貨幣で、青銅製。また、元の交鈔は紙幣なので材料は紙。

 

 11 ‐④

:「キ」の人物はムスタファ=ケマルで、「アタテュルク(トルコの父)」の称号を持つ。アンカラで国民議会を率いてギリシア軍を撃退し、セーヴル条約を破棄して対等なローザンヌ条約を締結し、トルコ共和国を建国した彼は、カリフ制の廃止などの世俗化政策を進め、ラテン文字(ローマ字)の採用などの近代化策を展開した。(アラビア文字は廃止された。)

 

 12 ‐④

:史料中に出てくる「ア」の病はペスト。『デカメロン』はペストを逃れて非難した人々が様々なエピソードを語るという筋書きの話で、作者はボッカチオ。ボッカチオはルネサンス期の人物なので、人文主義(ヒューマニズム)の影響を受けていると考えられる。該当する答えは、「イ」と「T」の組み合わせなので、正解は④。

 ちなみに、ペトラルカは『叙情詩集』で知られる人物で、エラスムスは『愚神礼賛(讃)』などで教会批判を展開し、ルターの宗教改革に影響を与えた人物。(どちらもルネサンス期の人物。)

 

 13 ‐⑤

:ペストは、東西交流が進む中でアジアからもたらされたと考えられている。(起源は諸説あり。) ここで示されているペストの流行は14世紀半ばの流行なので、まだヨーロッパ人のアメリカ大陸進出は始まっていない。また、資料より症状が様々であったことは明らかである。

 

 14 ‐②

①:モンテ=カッシーノに修道院をつくったのはベネディクトゥスで、6世紀のこと。

③:クローヴィスはアタナシウス派に改宗したフランク王で、5世紀の人物。クリュニー修道院設立は10世紀はじめなので時期が数百年単位で違う。

④:修道院を解散したのはヘンリ8世。

 

 15 ‐④

:隋・唐の科挙は儒学の理解を問う内容。

cf. 『五経正義』孔穎達・顔師古の編纂→科挙の試験で解釈の基準に)

 

 16 ‐②

「イ」-農民の覚醒を促す

「ウ」-農民の覚醒を防遏する(防止する)

→これがはっきりと分かれば、19世紀の半ば以降農民の覚醒を促したのはナロードニキと呼ばれた革命家であったことと結びつけて解くことができる。

 

 17 ‐③

:ロシアの農奴解放令(1861)はアレクサンドル2世による。クリミア戦争(18531856)での敗北後に近代化を目指す中で出された。彼の統治下での出来事なので樺太・千島交換条約(1875)。

:クリミア半島がロシア領となるのは、キュチュク=カイナルジ(カイナルジャ)条約[1774]でクリム=ハン国に対するオスマン帝国の宗主権が否定された後の1783年で、エカチェリーナ2世の時期。

 

 18 ‐①

:「作者(オーウェル)は、トロツキーの影響を受けた組織の一員としてスペイン内戦に参加したが、ソ連からの影響を受けた共産党と対立し、弾圧された」とあることから、オーウェルが批判の対象としていたのはトロツキーと対立していたソ連共産党の指導者(スターリン)であったことがわかる。該当するのは①のみ。

 

 19 ‐②(やや難)

18世紀の中国の朝廷なので、清朝であることを確認する。

 

(図書の名称)

:清代に編纂されたのは『四庫全書』のみ。

(『永楽大典』は明の永楽帝の時期、『資治通鑑』は北宋の司馬光によるもの)

 

(史料の改竄)

「皮衣を着て禄を食み」→「遼朝の禄を食み」

「左前の服を脱ぎたい」→「中国に身を投じたい」

「漢人の衣装を着て」→「先祖の墳墓に参り」

=中国とは異なる遼の習俗を下に見る、または漢人の習俗を上に見る表現から、当たりさわりのない表現に変更されている。

 

 20 ‐②

:「結ばれた後に破棄された」という条件からも、露土戦争の後に結ばれたロシア・トルコ間で結ばれたサン=ステファノ条約が、その後のベルリン会議によって破棄されたことを想起することができる。また、条約の内容からもそれが分かる。

 

(サン=ステファノ条約の主な内容)

・セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立(オスマン帝国から)

・ロシアが黒海沿岸に領地を拡大

・ブルガリアの自治(実質的にはロシアの保護下)

 

サン=ステファノ条約とベルリン会議の関係については過去の記事を参照してください。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_253756.html

 

 21 ‐②

 20 の解説にも示した通り、「ア」に入るのはブルガリア。

 

 22 ‐③

:ボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権を得て、1908年の青年トルコ革命時の混乱に乗じて併合したのはオーストリアであってイタリアではない。

 

 23 ‐①

:別に資料を参考にしなくても「イ」はアメリカで「ウ」はソ連であるということはわかる。

 

 24 ‐③

(資料について)

資料X:アメリカのニクソンによる米中接近の時期の資料

1970年代前半(ニクソン訪中が1972年)

資料Y:中ソが友好関係(資料を特定する必要はない)

   →少なくとも、「中ソ論争(中ソ対立)」が起こる前(cf. スターリン批判[1956]

資料Z:日中共同声明(1972)はニクソン訪中と同年だが、米中接近を受けて日本が中国との関係を改善するので、順番としてはX→Z

    

 25 ‐②

:サンフランススコ講和会議は1951年のこと。

①:第一次国共合作は1924年で第二次世界大戦前の出来事。

③:中華人民共和国が支援したのは大韓民国ではなく朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)。

④:中国の民主化運動弾圧には天安門事件などがあるが、サンフランシスコ講和会議の時期ではない。

 

 26 ‐①

:「エ」は古代インドで文学作品が多く書かれたとあることからもサンスクリット語であることがわかる。(cf. サンスクリット文学[グプタ朝期]

 

(文学作品)―「あ」

:「あ」の『シャクンタラー』はカーリダーサによるサンスクリット文学。「い」のルバイヤートはイランのウマル=ハイヤームによる詩集。

 

(資料から読み取れる事柄)―「W」

:文章読解問題(世界史の知識は不要)。

「残りの半数はアラビア語…を推しています」=アラビア語を有用と考える委員はいる。

「西洋の図書館のたったひと棚分が、インドやアラビアの言語で書かれたすべての文献に相当することを」委員たちは誰も否定しなかった。→「否定する者がいる」という文と矛盾

 

 27 ‐③

(英語教育導入の動機)-「え」

:史料によらなくても、「う」の「(英語が)ペルシア語とともにイギリス統治以前の諸王朝で用いられていた」ことが誤りであることはわかる。(この文章の主語が英語でないなら「英語教育導入の動機」にはなりえない。)

 

(インドにおける植民地政策の特徴)-「Y」

:「Z」のベンガル分割令(1905、カーゾン法)は、ムスリムとヒンドゥーを対立させる内容で、仏教徒が対象ではない。

 

 28 ‐②

①:タミル語は南インドのドラヴィダ系言語であり、起源も古いため、ペルシア語は基になっていない。

③:ワヤンはジャワ島の民俗芸能(影絵芝居)。

④:ウルグ=ベクはティムール朝の君主。

 

 29 ‐①

:「地域1」は、ガリバルディの名前があることからシチリア島とわかる。シチリア島でラテン語がトルコ語に翻訳され、盛んとなった事実はない。

 

 30 ‐①

:「地域2」は、ヨーロッパの島国であることや万国博覧会などからイギリスであると分かる。ゆえに、14世紀から15世紀までの戦争は百年戦争のことであるため、「ア」はフランスであると分かる。

 

(「ア」の国の歴史)-「あ」

・「あ」のルール占領は1923年。問題なし。

・「い」のカルマル同盟を結成したのはデンマーク・スウェーデン・ノルウェー。

 

(「イ」にいれる文)-「X」

:ノルマン朝成立は1066年で、百年戦争とは無関係。

 

 31 ‐②

:「地域3」はオリンピックなどの記述からアテネであるとわかる。

(「地域1」=シチリア、「地域2」=イギリス[ブリテン島]、「地域3」=アテネ)

 

(時期確定のポイント)

① ローマ最初の属州はシチリア(第一次ポエニ戦争時、頻出)

② ギリシアがローマの支配下に入るのは第三次ポエニ戦争の頃(BC2世紀)

③ カエサルの頃にようやくガリア遠征→おそらく、ブリテン進出が一番遅い

 

 32 ‐④

:朝鮮の大院君による鎖国政策と攘夷論は、昨年の東大・一橋でも出題された近年の頻出問題。詳しくは以下を参照。

・一橋2020年解説(http://history-link-bottega.com/archives/cat_399056.html

・朝鮮史(http://history-link-bottega.com/archives/cat_213698.html

 

(「ウ」に入る人物)-「い」

:西太后は中国の人物なので×。

 

(「エ」にいれる文)-「Y」

:文の内容から攘夷思想について述べられていることはわかる。

 

 33 ‐②

:「オ」は朱子学(詳しくは上記「一橋2020年解説」を参照)。王守仁(王陽明)は「心即理」を唱えて朱子学の「性即理」を批判する陽明学のもとを作った。

 

①:寇謙之は北魏の太武帝の頃に新天師道(道教)を国教化した人物。

③:義浄は唐の時代の仏僧。

④:王重陽は金の支配下で全真教(道教の一派)を起こした人物。

 

 34 ‐①

「う」-壬午軍乱(1882):大院君による閔氏に対するクーデタ事件

「え」-甲申政変(1884):開化派(独立党)による閔氏に対するクーデタ事件

「お」-甲午農民戦争(1894):日清戦争の契機となった朝鮮の農民反乱(東学党の乱)

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