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カテゴリ: 東京外語大対策

 2018年から、東京外国語大学の出題形式に変化があり、従来の「400字論述+100字論述」から2018年は「600字論述+30字論述」、2019年は「500字論述+40字論述」となったことについてはすでに述べました。2020年はどうなるのだろうと思っていましたが、2020年も2019年と同じく「500字論述+40字論述」となりました。また、このスタイルは2021年の問題でも共通しています。3年連続で「500字論述+40字論述」となっておりますので、しばらくはこのスタイルで定着するのではないかと思っています。東京外国語大学の過去問については、東京外国語大学の方で過去3年分の過去問を掲載しています(→こちら)が、問題文の一部が欠落している部分などもありますので、やはり赤本を購入されるか、各学習塾の過去問データベースなどを利用されるのが良いかと思います。

 ところで、2020年の東京外国語大学の出題ですが、これはかなり注目すべきものでした。と言いますのも、500字論述として出題された「オスマン帝国の政治的統合と思想」というテーマはほぼ前年の東京大学の出題の焼き直しと言ってもよい内容でしたし、類似の出題はさらにその前年の2018年の京都大学でも出題されていました。以前こちらのブログでも書きましたが、このテーマは以前から「ホットだな」と感じていたテーマで、当ブログではすでに2017年に予想問題として掲載していました(→こちら。実際に作成したのは2016年ですが)。また、2020年に東京外国語大学で出題された設問の史料の一つであるユスフ=アクチュラの『三つの政治路線』(1904年、所収は歴史学研究会編『世界史史料8』より)についても、当ブログで紹介した予想問題で使用した史料そのままでした。

 もっとも、資料が同じものになること自体は、このテーマに関心を持ってこのテーマに関する出題をしたいと思って史料を探せば、かなり高い確率で『世界史史料』(『世界史史料』については→こちら)は用いることになりますので、別に特筆すべきことではありません。重要なことは、東京大学、京都大学、東京外国語大学という主要な国公立大学において、3年という短い期間の間に同一のテーマで出題がなされるくらい、このテーマはホットであったということです。

 私が、本テーマについて「ホットだな」と感じた理由はいくつかあります。まず、一つ目は「以前よりもオスマン帝国近代史に関する教科書、参考書の記述量が増えてきた」こと。二つ目は「以前は、やや難しいと感じられていた近代オスマン帝国がらみの用語の出題が、むしろ一般的でよく出題されるものに変わってきている」こと。三つめは「帝国やナショナリズムについての注目度や出題頻度が上がっている」こと。四つ目は「受験生が出題に耐えるだけの環境が整った(教科書、参考書の記述の増加や、出題頻度の増加により、きちんと学習さえしていればやや込み入った内容のオスマン帝国近代史でも対応できるようになってきている。)」ことなどです。

 たとえば、『詳説世界史研究』などにおけるオスマン帝国の近代史についての叙述は、以前のものと比べると目に見えて詳しく、その実態が分かるような記述にかわってきています。私は、オスマン帝国史を中心とする歴史学は専門外なのですが、その背景には近年のオスマン帝国史の隆盛があるようです。近年のオスマン帝国史の発展については、Web上のものですが永田雄三「近年のオスマン史研究の回顧と展望」(→こちら)などをごらんになると概要がつかみやすいでしょう。また、各種史料についての紹介は公益財団法人東洋文庫研究部イスラーム地域研究史料室の「オスマン帝国史料解題」(→こちら)などで見ることができます。

 重要なことは、たしかにこうした歴史学会における研究の隆盛などもあるのですが、先にあげた東京大学・京都大学・東京外国語大学などは高校で教えられている世界史の実態も鑑みて、歴史学的にも重要でかつ受験生も解くことができる出題とそのテーマはどのあたりかという感覚を共有しているということです。それはかなり、現場の感覚とも近いものだということが言えるわけで、だとすれば教科書や参考書の中で「最近、記述の分量が増えてきた」と感じる部分や、「叙述の仕方に変化が表れてきた」と感じる部分には注目するべきだと思われます。中でも、単に記述量が増えたというだけでなく、全体としてそれらの変化がこれまでの世界観やストーリーを上書きするような内容となってきている部分には注意が必要でしょう。そういう意味では、東京大学の2020年問題で出題され、東京外国語大学の2020年問題でも40字論述(小論述)として出題された琉球の日清両属など、東アジアがヨーロッパの主権国家体制に巻き込まれていく過程での伝統的関係の変化などは注目すべきテーマの一つであると思います。

 

2020 東京外国語大学

【概観】

:大問1は、オスマン帝国内外の動向にかかわる三つの史料を用いて、関連する事項について問うもので、小問数7と大論述1(500字)という構成は前年と同様のものでした。また、大問2は、東アジアの境界地域とそこに暮らす人々についての文章を読み、関連事項を問うもので、小問数6に対して小論述1(40字)と、こちらも前年と同様のものでした。

 内容は、大問1の方がほぼ近代オスマン帝国の周辺史のみで解答できる内容であったのに対し、大問2の方は時代的にも地域的にもややバラエティーに富んだ出題がなされていました。問題の難易度についてですが、小問のレベルは前年よりもやや難しくなったのではないかと感じます。易しい問題と難しい問題がはっきりと分かれていて、難しい問題はかなりしっかりと世界史の勉強をしてきていないと解けないのではないかと思います。また、すでに前年、前々年と京都大学や東京大学で立て続けに出題されたとはいえ、オスマン帝国における帝国維持の動きと思想を問うテーマは、おそらく英語主体の勉強を進めてくるであろう東京外国語大学志望の受験生にとってはまだまだとっつきにくいテーマであったかと思いますので、大論述もやや難しいと感じたのではないでしょうか。例年であれば、小問は基本全問正解、落としても1、2題までにしたいところですが、この年はそれよりも取りこぼしたとしても仕方なかったのではないかと思います。

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【小問概要と解説】

(大問1-1)

概要:以下の絵を描いた人物と、その人物に代表される理性や規範よりも個性に重きを置く思潮の名称を答えよ。

解答:ドラクロワ / ロマン主義

Eugène_Delacroix_-_Le_Massacre_de_Scio
Wikipedia「キオス島の虐殺」より)

:ギリシア独立戦争に関連する頻出問題で、基本問題かと思います。強いて言えば、ドラクロワは出てもロマン主義が書けない人はいるかもしれません。関連事項としては、同時期に活躍し、ギリシア独立戦争に義勇兵として参加したものの熱病で亡くなったバイロンをおさえておくとよいでしょう。バイロンの代表作としては『チャイルド・ハロルドの巡礼(遍歴)』などがあります。

 

(大問1-2)

概要:ベルリン会議(1878)の調停を担当したドイツ帝国宰相は誰か。

解答:ビスマルク

 

:基本問題です。ただし、ベルリン会議の内容は私大などでも頻出事項ですから、細かいところまでしっかり確認しておきましょう。

 

(大問1-3)

概要:一時ロシアに割譲された後、パリ条約(1856)で一部が放棄され、ベルリン条約で改めて獲得した地域はどこか。

解答:ベッサラビア

 

:この設問は難しいです。各種模試で偏差値70UPなど、よく勉強している人であれば解けるかもしれませんが、そうでなければほとんどの受験生は書けないと思います。

 

(大問1-4) 

概要:アブデュルメジト1世により開始された改革の名称を答えよ。

解答:タンジマート

 

:基本問題です。これが解けないと正直この年の世界史は苦しいです。

 

(大問1-5) 

概要:エジプト遠征を指揮し、ピラミッドの戦いで勝利した軍人は誰か。

解答:ナポレオン=ボナパルト

 

:基本問題です。ですが、実際の設問は他にも多くの情報があり、それに惑わされると意外に思い浮かばないかもしれません。

 

(大問1-6) 

概要:反帝国主義とイスラーム世界の統一を訴え、当時のムスリム知識人に大きな影響を与えた思想家は誰か。

解答:アフガーニー

 

:一昔前であれば難しい設問でしたが、最近はすっかり定番の問題になりました。知識がきちんとアップデートされている先生の授業を受けていれば多分解けるはずです。

 

(大問1-7) 

概要:サイクス=ピコ協定を結んだ参加国はどこか

解答:イギリス、フランス、ロシア

 

:基本問題です。この協定は英・仏・露で結ばれましたが、よく出てくる下の地図にはロシアの支配地が描かれていません。これは、ロシアの支配地とされたのがボスフォラス・ダーダネルス両海峡周辺とされてこの地図の中におさまらないことが原因で、ロシアは同協定に参加しています。ですが、1917年にロシア革命が発生すると、この秘密協定は暴露されて、この協定を締結した主体であるロシア帝国は滅亡します。その結果、第一次世界大戦後の中東地域は英・仏を中心にその実質的支配下に置かれることとなりました。

Sykes-Picot-1916

Wikipedia「サイクス・ピコ協定」より)

(大問2-1) 

概要:倭寇の頭目、王直の拠点や、ポルトガル、オランダ、イギリス商船の拠点となった日本の島はどこか

解答:平戸

 

:この設問は少し難しいかと思います。ポルトガルが1550年に平戸を拠点に商館を設置した話は教科書、参考書等で出てくるので、そうした知識を丁寧に拾った人であれば解けるかもしれません。

 

(大問2-2) 

概要:アメリカ大陸(新大陸)の発見者は誰か。

解答:コロンブス

 

:超基本問題です。

 

(大問2-3) 

概要:7世紀前半に陸路でインドにおもむいた仏僧とその著作

解答:玄奘 / 『大唐西域記』

 

:基本問題です。同じく唐の時代の仏僧として義浄がいますが、義浄は海路での往復になりますのですぐに玄奘と特定できるはずです。漢字にだけ気をつける必要があるでしょう。

 

(大問2-4) 

概要:金を成立させた人物は誰か

解答:完顔阿骨打

 

:標準的な問題です。唐・宋の時代の周辺諸民族とその建国者はわりと良く出題される割に受験生が区別できていない&漢字の書けない部分です。逆に言えば、そこを身に着ければ点数になるということですので、どこかで確実に身につけておく必要があるでしょう。

 

(大問2-5) 

概要:大黒屋光太夫と親交のある、1792年に来日したロシア使節は誰か

解答:ラクスマン

 

:基本問題です。

 

(大問2-7) 

概要:2019年の法律で、日本で初めて法的に「先住民族」と認められた民族は何か

解答:アイヌ

 

:あまり世界史で出てくる内容ではなく、どちらかというと時事問題ですが、設問の文章から類推することは可能です。そもそも、「日本の先住民族」といった時にアイヌ以外の単語が思い浮かぶ受験生はそう多くないでしょうし、最近では『ゴールデンカムイ』なんかも人気でしたので、解けた人も多いのではないでしょうか。

 

【小論述解説(40字、大問2-6)】

概要:1870年代に琉球を舞台に発生した日清の対立について、その契機を指定語句を用いて40字以内で説明せよ。

解答例:日本が日清両属琉球王国沖縄県を設置する琉球処分を行ったため、清と対立した。(39字、下線部は設問の指定語句)

 

:標準的な小論述かと思います。40字と字数がややタイトなのでまとめるのに苦労するかもしれませんが、内容については知っていてほしい内容です。また、上述の通り2020年の東京問題の大論述でもテーマの一つとして出題された内容です。

 

【大論述解説(500字、大問1-8)】

(設問概要)

オスマン帝国に体制改革を必要とさせた当時の国際情勢について説明せよ。

19世紀~20世紀はじめのオスマン帝国で、為政者や知識人の間にあらわれた、人々を政治的に統合する思想について論ぜよ。

・史料[][]と問1~7の設問文を参考にせよ。

500字以内

・指定語句:ギュルハネ勅令 / ミドハト憲法 / 青年トルコ / パン=イスラーム主義 / ムスタファ=ケマル(使用した箇所全てに下線を付せ)

 

(史料[]) ベルリン条約

:第1条、第3条、第25条、第26条が示されています。出典は歴史学研究会編『世界史史料6』です。大論述を解くにあたって特に注意すべき内容はありませんが、セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立やブルガリアの自治、ボスニア=ヘルツェゴヴィナに対するオーストリアの統治権承認など、オスマン統治下にあったバルカン半島の諸民族が独立、自立化したことによる帝国の分裂や、それにつけこんだ列強の進出など、基本事項はしっかり押さえておくべきです。(もっとも、本史料は読まなくとも、持っている世界史の知識で事足ります。)

 

(史料[B]) ユスフ=アクチュラ『三つの政治路線』(1904年)

:この史料の詳細とその解釈の仕方については、以前掲載した予想問題とその解説の方に示してあります(→こちら)。東京外国語大学が引用した箇所もほぼ同じ個所(少し東京外国語大学の方が長く引用していますが)です。本史料から読み取れる重要なことは以下の3点です。

 

①三つの政治路線とは「オスマン国民」の創出、「パン=イスラミズム」、「トルコ人の政治的ナショナリティ」の形成の三つ

:この三つの政治路線がどういうものかということについては、東京大学2019年の問題解説で詳しく解説済みですので、こちらをお読みください。

 

②「オスマン国民」とは、オスマン政府の名のもとに多様な諸民族を同化すること

:つまり、オスマンの分裂の原因であった多様な民族の混在の原因を、諸民族の同化によって根本から絶つことを意図しています。その際、同化の中心にあるのは「オスマン政府」であり、これはつまり「オスマン帝国に所属していること」を根拠としてそこに住まうものはみな同じく同化されるべきであるという発想です。これは、主としてタンジマートの期間中に新オスマン人が追い求めた「オスマン主義」に他なりません。それまで複数の民族や宗教によって多種多様な民族の坩堝であったオスマン帝国を、法の下の平等をはじめとする諸改革によって等しくオスマン臣民(オスマン人)とし、一つにまとまった国民国家を形成しようとする考え方で、だからこそタンジマートは西欧式の行政・司法改革を進めていきます。

ところが、これについてアクチュラは「実行不可能である」と言い切っています。これは、当時オスマン帝国内の諸民族がその文化、宗教などの違いから分裂傾向にあったことを考えれば、現実的ではなかったからです。アクチュラによれば、「オスマン国民」という概念は「オスマン国家のすべての民族の意思に反して、外国の妨害にもかかわらず、オスマン政府の指導者の何人かが、いくつかのヨーロッパ諸国…を頼って創出しようとしたものなのだ!」と述べており、オスマン帝国の分裂を避けたいオスマンの指導層による無理な創出物に過ぎないと指摘し、「オスマン国民」という単一の民族・国民の創出は現実的に不可能であることを主張しています。

 

③「パン=イスラミズム」は、全てのイスラームを政治的に統一するが、オスマン朝はこれを自身の権力の強化に利用しようとしていること

:アクチュラは、パン=イスラミズム(パン=イスラーム主義)について「カリフ権がオスマン朝の君主にあることを利用して」とオスマン朝のスルタンがスルタン=カリフ制を利用してイスラームの連帯を隠れ蓑に自身の専制政治の強化を図っていることをはっきりと認識しています。史料中にそれについての言及はほとんどありませんが、世界史の教科書や参考書にはその点記載があるはずです。また、同時代にアブデュル=ハミト2世自身が示した『政治的回顧録』や彼の政策(ミドハト憲法の停止、アフガーニーの招聘、皇帝専制の強化など)、そしてその後の青年トルコ革命などを思い浮かべれば、アクチュラがパン=イスラミズムに対して期待を寄せていないであろうことは想像がつきます。

 

(史料[]) T..ロレンス『知恵の七柱』(1922年)

:トマス=エドワード=ロレンスは俗に「アラビアのロレンス」として知られるイギリスの軍人で、オスマン帝国に対抗して独立を目指すアラブ人の反乱を支援した人物です。昔の映画は場合によっては感覚が古すぎて見るのがつらいものもあるのですが、映画『アラビアのロレンス』は映像・音楽ともに今見ても新鮮さを感じさせる部分も多く、わりと安心してみることができます。ただ、昔の映画はとにかく長い!w この映画も今調べたら完全版227だそうなので、もしご覧になるのであれば、覚悟して鑑賞する必要があるかもしれません。

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Wikipedia「アラビアのロレンス」より、1963年のポスター)

本史料はそのロレンスから見たオスマントルコの状況について言及した部分になりますが、論述に関連するポイントを示すと以下のようになります。

 

① 「青年トルコ」革命はアラブにとって視野が明るくなるものだった

② パン=イスラーム主義を統治に利用しようとしたアブドュルハミトの野心

③ トルコは、ソヴィエトが公開したサイクス=ピコ協定を西欧に対抗する武器とした

 

ただし、注意しておきたいのはロレンスの史料は基本的にイギリス側からの見方であるということと、オスマン帝国内の諸民族をヨーロッパ的な「オリエント」という視点で混同しがちなことです。たとえば、①についてですが、たしかに青年トルコ革命はロレンスの史料内で述べられているように「主権国家の憲法理論に駆られ」た「自治と民族の自由を目指す」ものでありましたが、その基本理念はパン=トルコ主義(トルコ民族主義)でした。とすれば、青年トルコによる政権はトルコ人以外の民族についても帝国内の人々をトルコ人として扱おうとする、つまり同化圧力がかかるのであって、必ずしもアラブ人の自立や独立にプラスの影響を与えるものではなかったと言えます。(そもそも、青年トルコ革命にアラブ人が満足するのであれば、アラブ大反乱がおこる理由がありません。)そうした部分を割り引く必要はありますが、それでもパン=イスラーム主義とアブデュルハミト2世の専制強化との関係や、それに対する青年トルコの対抗、サイクス=ピコ協定に対するトルコ人の不満などは本史料から読み取ることが可能です。

 

(解答手順1:オスマン帝国に体制改革を必要とさせた当時の国際情勢を整理)

:本設問の要求は19世紀~20世紀はじめとなっていますので、「当時」とはこの時期で考えればよいでしょう。オスマン帝国の体制改革は、すでに18世紀末から19世紀はじめにかけて、セリム3世のニザーム=ジェディット(西洋式軍隊)の創設やマフムト2世によるイェニチェリの全廃などによって進められておりましたが、より大きな改革としてはアブドュルメジト1世のギュルハネ勅令を機に開始されたタンジマート(恩恵改革)があります。ですから、本設問は、なぜオスマン帝国がタンジマートをはじめとする諸改革を始めることになったのか、その背景となった国際情勢について言及すればよいことになります。それらをまとめれば以下のようなものになるでしょう。また、タンジマートは非常に長い期間にかけて展開された諸改革ですので、その過程において影響を与えた事柄として⑤についても言及するとよいかと思います。

 

① ロシアの南下

② ギリシアの独立をはじめとする各地域の自立化傾向

③ エジプト=トルコ戦争の敗北とエジプトの実質的独立

④ 欧州列強の進出と脅威

⑤ クリミア戦争

 

(解答手順2:政治的統合についての思想を整理する)

:上述の通り、政治的統合についての思想には以下の三つがあります。これは、設問に史料として提示されているユスフ=アクチュラの思想が『三つの政治路線』となっていることもヒントになるかと思います。

 

① オスマン主義

② パン=イスラーム主義

③ パン=トルコ主義(トルコ民族主義)

 

これらが、当時のオスマン帝国でどのような意味をもったのかについては、上述の通り、すでに2019年の東京大学大論述解説で示しておりますので、そちらをご覧ください(→こちら)。

 

(解答手順3:記述すべき内容の整理)

:今回は細かい部分の解説を過去の記事(東大2019年過去問や予想問題)に任せてしまったので、ここでどういった内容を解答に盛り込むべきか整理しておきたいと思います。

 

① ロシアの南下

② ギリシアの独立をはじめとする各地域の自立化傾向

③ エジプト=トルコ戦争の敗北とエジプトの実質的独立

④ 欧州列強の進出と脅威

:①~④によるタンジマートの開始

⑤ クリミア戦争

:オスマン帝国の財政破綻、西欧諸国への経済依存度の高まり

⑥ オスマン主義

:立憲制樹立に向けての「新オスマン人」の活動、国民国家創出を目指す

⑦ ミドハト憲法の制定と停止

:露土戦争を契機としたミドハト憲法の停止

⑧ アブデュルハミト2世によるスルタン専制とパン=イスラーム主義の利用

⑨ パン=イスラーム主義の内容

:アフガーニーによる反帝国主義とイスラーム世界の統一を目指す思想

⑩ 青年トルコの活動

:アブデュルハミト2世の退位とミドハト憲法の復活

⑪ パン=トルコ主義(トルコ民族主義)

⑫ 西欧の中東分割に対するトルコ人の反発

:サイクス=ピコ協定に対する反発、セーヴル条約とこれを締結したスルタン政府に対する反発

⑬ ムスタファ=ケマルとアンカラ国民議会による抵抗

:イズミルに侵入したギリシア軍の撃退、ローザンヌ条約(1923)の締結

⑭ スルタン制の廃止

⑮ トルコ共和国の樹立

⑯ 政教分離策と西欧的近代化の推進

 

時代的にどこまで書くべきかという問題がありますが、指定語句に「ムスタファ=ケマル」があることから考えても、トルコ共和国の建国までは書くべきだと思います。また、ムスタファ=ケマルの政教分離策が、スルタン専制支配につながるイスラーム色の排除を意図したものであったと考えれば、新しい国民統合の形として政教分離を選んだという部分もありますので、これについても言及して差し支えはないかと思います。

 

【解答例】

オスマン帝国は黒海北岸へのロシアの南下やギリシアの独立、ムハンマド=アリーとのエジプト=トルコ戦争の敗北などで衰退の度を増したため、アブドュルメジト1世のギュルハネ勅令でタンジマートを始めた。広範な西欧化改革を進めた背景には、法の下の平等により多様な民族をオスマン帝国臣民として統一せんとする新オスマン人と呼ばれる知識人層のオスマン主義があった。クリミア戦争敗北を機に立憲君主制を志向するまでに改革は進み、ミドハト憲法が制定されたが、財政破綻は西欧列強への依存度を高めた。露土戦争を口実にアブデュルハミト2世が憲法を停止し、パン=イスラーム主義を利用して専制を強化すると、失望した青年知識人層はトルコ民族主義を軸に憲政復活を目指す統一と進歩委員会を結成し、青年トルコ革命で憲法を復活させた。議会はスルタンから主導権を奪ったが、第一次世界大戦の敗北で解体した。権力の奪還を図るスルタン政府が連合国とセーヴル条約を締結すると、反発したムスタファ=ケマルとアンカラ国民議会はトルコ民族主義を高めて抵抗し、スルタン制を廃止してセーヴル条約を破棄し、トルコ共和国を建国して政教分離政策に基づく近代化を開始した。(500字)

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2018年の東京外大の問題が斬新な内容であった件についてはすでに前の記事で書きましたが、2019年も従来とはやや違った設問形式での出題となりました。従来の問題は400字論述と100字論述の計500字による出題、2018年が600字論述と30字論述の計630字による出題であったのに対し、2019年は500字論述と40字論述の計540字と、昨年度よりは字数を削っての出題となりました。

小問については大問1で論述(500字)を除いて7問、大問2で小論述(40字)を除いて6問の計14問で、内容的に難しいものはほとんどありませんでした。ですから、この年は論述以外の小問は全問正解または落としても1問までにとどめたい内容だったのではないかと思います。

また、大論述・小論述ともに難解な資料読解や知識は必要のないものでした。大論述の方は多少知識の整理に手間取ったり、見落としなどが出る可能性はありましたが、基本的には東京外大クラスを受験する受験生の知識で十分対応できる内容で、2018年度問題のようなとっつきにくさ、難しさはなかったのではなかったように感じます。ただ、やはり60分という時間を考えると知識整理をかなり迅速に行わなければならず、丁寧さと正確さと速さが要求されるという意味で大変な設問だったのではないでしょうか。小問にかけられる時間は長くても5分といったところでしょう。小論述に2分でしょうか。実際に私の方でやってみたところ、「小問、小論述(5分強)→リード文の冒頭部分を読む(1分)→大論述の設問部分[8]を読む(1分)→リード文をかなり丁寧に読む(8分)」の計15分でしたので、論述の構想・記述にかけられる時間は45分でした。実際に会場で解く受験生は緊張やらもあると思いますので実際にはもっと時間がかかるとして、それでも論述の構想・記述に35分はかけたいところでしょう。そうやって書いた論述が半分~3分の2くらいの点数をもらえれば御の字といった感じでしょうか。

理想形は「小問・小論述取りこぼしなしの75点+大論述3分の2で16点程度の90点前後」、落としたとして「小問・小論述で2問落としての6065点、大論述で半分もらっての1213点の計75点~80点」は確保したいですね。あとは英語でどの程度補えるか(または英語[]どの程度補えるかw)でしょうか。

もっとも、これはあくまでも2019年問題についての感想です。年によっては難しかったり、より時間のかかる問題もあると思います。ですから、本番で小問をかなりの数落としてしまったり、時間が予想していたよりもかかったからといって、落ち込んだり焦ったりする必要はありません。結果は出るまでだれにも分からないのですから、結果が出るまでは「自分がこれだけ苦戦しているのだから、周りも似たようなもんだろう」と思って解くのが吉です。もっとも、なかなかそう上手く感情のコントロールができるものではないのですが、コントロールできた方が良いことも確かですから、それくらいの心構えで臨むのが良いということですね。

 

 2019東京外大小問

  

【小問解説】

(大問1-1) 魯迅、『阿Q正伝』

:白話運動は1910年代の新文化運動(文学革命)における中心的な運動で、それまで士大夫階層において正統と重んじられてきた文語文から脱して、それまで低俗な民衆語と蔑まれていた白話により文章を書くことを重視しようという文化運動です。白話運動の提唱者というとまず胡適が出てきますが、具体的な作品名まで出てくるとなると世界史の教科書・参考書ではまず魯迅の『狂人日記』と『阿Q正伝』しか出てきません。あとは、作品の内容から『狂人日記』か『阿Q正伝』かを判断することになりますが、一応用語集にはそれぞれの作品の内容が簡単には載っておりますので、解けないこともないと思います。気の利いた先生であれば教える時に簡単な概要は伝えるでしょうし(文化史は、人物・作品について最低限他のものと区別できるだけの情報を与えないことには学習する意味がありません)、もし判断材料がなかったとしてもまぁ、2分の1の確率で当たりますw

 ちなみに、胡適、魯迅ともに留学経験ありですが、胡適がアメリカのデューイに師事したプラグマティストであることや、魯迅が日本に留学したことや『藤野先生』の著者であることはわりと有名な話ですので、そちらの知識から特定できた人もいるかもしれません。

 

(大問1-2) 平和に関する布告

:大問1-8の指定語句にも指定されているくらいですので、おそらく解ける前提の設問です。

 

(大問1-3) 治安維持法

:日本史をやっている人にはさほど難しい知識ではありませんが、世界史の授業の中ではあまり強調されないこともあるかと思いますので、解きにくい設問かもしれません。ただ、一応教科書等には記述があります。1925年に普通選挙法と抱き合わせで制定されたことから「飴と鞭」の関係で言及されることがあります。

 

(大問1-4) 山東半島

:半島名を答えよとのことですから、山東半島で問題ないでしょう。山東半島には膠州湾とその都市青島があります。

 

(大問1-5) 蔣介石

 

(大問1-6) 対ソ干渉戦争

 

(大問1-7) チョイバルサン

:モンゴル人民党の指導者としてはチョイバルサンとスヘバートルがいますが、スヘバートルは用語集の方でもチョイバルサンの項目でチラリと出てくるだけですので、そもそもチョイバルサンしか知らないという受験生も多かったかもしれません。スヘバートルは1923年には亡くなっておりますから、設問の「1930年代後半にモンゴル人民共和国の最高指導者として…」の部分からもチョイバルサンで問題ないことが確認できます。

 

(大問2-1) コモン=センス

 

(大問2-2) リンネ

:リンネを覚えている受験生はあまり多くないでしょうが、実は設問としてはわりとよく出題される人物です。「分類学の父であること」と「スウェーデンの博物学者」ということをおさえておけば十分で、出題される場合も概ねこのヒントで出題されます。植物の学名では学名の後に命名者が記されますが、そこに「L.」とある場合はリンネが命名したことを示します。一文字の略称があるのはリンネのみだそうです。何だかデスノートみたいですが。

 

(大問2-3) アリストテレス

 

(大問2-4) カピチュレーション

 

(大問2-5) アンゲラ=メルケル

:メルケルさん、もう2005年からずーっと首相やっていますので、時事問題ですらない気がします。普段からニュースに関心を払っている人であれば難なく解ける問題だと思います。

 

(大問2-6) ジョン

 

【小論述解説(40字、大問2-7)】

(解答例1)

:ユダヤ系軍人ドレフュスがドイツのスパイとされた冤罪事件で、ゾラにより批判された。(40字)

(解答例2)

:ユダヤ系軍人ドレフュスがドイツのスパイとされたが、後に無罪となった冤罪事件。(38字)

 

【大論述解説(500字、大問1-8)】

(設問概要)

・アジア各地域の人々が、成立後間もないソヴィエト=ロシアをどのように受け入れ、関係を築いたのかについて論ぜよ。

・上記を論ずるにあたり、以下の3点について留意せよ。

①アジアと資本主義の関係

②ソヴィエト=ロシアと資本主義列強の関係

③アジア各地の運動家とソヴィエト=ロシアの関係

・史料[A][B]と出題者による注記、問1~7の設問文を参考にせよ。

500字以内

・指定語句:三一運動 / 民族解放 / 陳独秀 / 大問12の解答(平和に関する布告)

 

(史料[][]

史料A=陳独秀「社会主義批評―広州公立法政学校での演説」『新青年』第9巻第3号、192171

:陳独秀は『新青年(発刊当初は青年雑誌)』を創刊した新文化運動の指導者で、次第にマルクス主義に傾倒して1921年には中国共産党の初代委員長となった人物です。本史料は中国共産党が結成された年のものですから、当然社会主義・共産主義的な視点が史料中には盛り込まれています。

 

史料B=極東勤労者大会で採択された決議「ワシントン会議の結果と極東の情勢」(出典はコミンテルン編、高屋定国/辻野功訳『極東勤労者大会』合同出版、1970年)

:極東勤労者大会は1922年にコミンテルンがモスクワとペトログラードで開催した国際会議で、日本・中国・モンゴル・朝鮮などの社会主義者を招いて開かれたものです。基本的にはアジア諸地域での共産主義運動の拡大を目指すことを確認するもので、日本共産党結成の原点とも称される大会でした。

 

(解答手順1:ソヴィエト=ロシアと他地域との関係の大まかな構図を思い浮かべる)

:東京外語大の大論述は、場合によっては資料をかなりしっかりと読み取らないと十分な解答が得られないこともあります。ただ、本設問は特に史料を精緻に読み込まなくても、世界史の知識のみで大まかな構図を思い浮かべることは可能です。(細かい部分については資料を読んで確認する必要が出てきます。)そこで、まずは大まかにソヴィエト=ロシアを受け入れないものと受け入れたものに分けて整理してみると良いと思います。ここで、ソヴィエト=ロシアとは、1917年のロシア十一月(十月)革命から1922年までのソ連成立までの時期のロシアを便宜上指す(この期間はロシア帝国ともソ連ともいえないため)言葉です。

 

①受け入れない

列強諸国 / 帝国主義 / 資本家 など

②受け入れる

陳独秀・李大釗 / 中国共産党 / モンゴル人民党 / ホー=チ=ミン / インドネシア共産党 など

 

ものすごく大雑把ですが、このような区分けで良いと思います。設問は「アジア各地域がいかにソヴィエト=ロシアを受け入れたか」を問うていますが、同時に「ソヴィエト=ロシアと資本主義列強」の関係も踏まえよと言っています。当時の資本主義列強とはすなわち欧米の(あるいは日本も含む)帝国主義諸国を指しますので、ソヴィエト=ロシアを受け入れなかった側に言及しても全く問題ありません。となると、大きな枠組みとしては「資本主義列強はソヴィエト=ロシアを受け入れずに対ソ干渉戦争となったが、ロシア革命の影響やコミンテルンの活動からアジア各地で社会主義・共産主義の運動が活発化し、次第にソヴィエト=ロシアを受け入れる個人・集団・国が出現した」という構図で問題ないのではないでしょうか。この構図は、大問1のリード文の冒頭の一部「民族解放運動や反帝国主義運動の展開、英米などの資本主義列強とソヴィエト=ロシアとの対立といった情勢の下で、20世紀のアジアの歴史はロシア革命、ソヴィエト=ロシアと結びつきながら展開されていくことになる」という内容ともぴったり一致します。

 

(解答手順2:留意すべき①~③について検討する)

:続きまして、留意すべき①~③の要素について検討してみます。

 

①アジアと資本主義の関係

 暗記主体の知識ですと一番まとめにくいのがこの部分なのではないかと思います。何となくは分かっていても文章にはしづらい部分です。設問の文章にはいくつかヒントが示されていますので、まずはそちらを確認してみましょう。

 史料[]には以下のような記述がみられます。

 

「資本主義の生産と分配の方法がなくならなければ、侵略的な軍国主義がなくなる道理はない。アメリカのウィルソン大統領の十四ヵ条(の平和原則)という大言が実現を見なかったのはなぜか。資本制度が国際的な侵略や戦争の根本の原因であることを、彼が分かっていなかったからである。」

「彼ら(文中より英・仏のこと)の国家組織は資本主義の上に成り立っており、もしも侵略主義や軍国主義を放棄したりすれば、彼らの国の大量の余剰生産物はどうやって売ればよいのか、経済危機をどうやって救えばよいのか、彼ら資本階級の地位はどうやって維持すればよいのか。」

 

ここで確認しておきたいのは、資本主義世界の発展と帝国主義政策の拡大は非常に密接な関係を持っていたということです。産業革命によって生み出された大量の資本や、産業資本家の台頭と労働者の増加という社会変化は、それまでの世界とは異なる新たな資本主義社会を生み出すに至ります。その中で、各国では(程度の差こそあれ)独占資本が形成されますが、成長した資本家たちは彼らが利益を最大限に享受できる環境を用意できるように政治に対して様々な形で働きかけます。最大限に享受できる環境とはつまり、「安価に原材料を手に入れること」ができ、「自分たちの生産物を売りつける市場」を確保し、「得た資本を投下して利益をさらに拡大する投資の場」を得ること、すなわち植民地を獲得することでした。植民地を獲得するためには、競合する諸国を力尽くで退ける軍事力と工業力を持つ必要があります。こうした中で経済と工業の発展ならびに軍備の拡張を国是とする帝国主義政策が各国において採用されることになるわけですが、[]の史料で書かれていることはそのことを指摘しているわけです。

 また、[]の史料でも以下のような記述がみられます。

 

「…ワシントン会議は、極東問題が現在、世界の帝国主義者たちの政治の最も重要な問題であるということを具体的に証明した。[中略]ワシントン会議は太平洋の支配をめぐる新しい帝国主義戦争の勃発を一時延期した。しかし、この条件付きの延期は、すでに抑圧されている極東の人民をさらに奴隷化することによって得られた。ワシントン会議では、…朝鮮に関して一言も語られていない。[中略]…中国の「門戸開放」政策実行についての合意は、中国の略奪における帝国主義者の強盗の特権の平等を公式に認めたものであり…その代わり日本は、朝鮮、(  ④:山東半島  )、満州での搾取を続け、自治モンゴル…や、ソヴィエト=ロシアの方向へ、その支配を広げていく特権を与えられた。」

(「…」部分は問題文を適宜省略した)

 

こちらの史料では、帝国主義諸国によるアジアへの進出についてより具体的に語っています。もっとも、世界史で勉強するワシントン体制と内容的にはほぼ合致するので、史料が読み取れなくてもある程度世界史の知識だけで対応することもできます。まずは、ワシントン会議についてその概要をご紹介しておきましょう。

 

ワシントン会議では、3つの条約が締結されます。四か国条約、九か国条約、ワシントン海軍軍縮条約です。これらの条約によって成立したいわゆるワシントン体制は「アメリカが主導した東アジア・太平洋地域における新しい国際秩序」であり、その意味することろは「急激な日本のアジア・太平洋地域への進出抑制」と「同地域に対するアメリカの発言力増大と進出の拡大」です。四か国条約は米・英・仏・日間で太平洋における領土・権益の相互尊重と現状維持を取り決めたものでしたが、この条約により1902年以来、日本拡大の背景となってきた日英同盟は更新されず発展的に解消されたとされました。また、「九か国条約」は中国に対する門戸開放、機会均等、主権尊重、領土保全などを求めたものです。アメリカはすでに1899年と1900年の2度にわたり国務長官ジョン=ヘイがしめした門戸開放宣言(門戸開放通牒)の中で九か国条約と同様の内容を示していますが、門戸開放宣言が単なる外交通牒に過ぎず、各国から無視をされたのに対して、九か国条約は第一次世界大戦により東アジア・太平洋地域に対する英仏の影響力が後退し、アメリカがそのプレゼンスを増す中で締結された国際条約でした。つまり、この九か国条約は単なる掛け声にすぎなかった門戸開放宣言を国際条約(国際法)のレベルで具体化させたものでした。この条約により、第一次世界大戦中に結ばれた石井=ランシング協定は解消され、この条約に基づく形で日本は山東懸案解決に関する条約(1922)を中華民国と締結して山東省権益を中国に返還することとなりました。また、ワシントン海軍軍縮条約では各国の主力艦保有トン数比は5:5:3:1.671.67(米・英・日・仏・伊)とされ、対米7割を主張した日本の主張は容れられませんでした。

 一般に、ワシントン体制は上述の通り日本の進出をアメリカが中心となって抑制したものと考えられています。(たとえば、平成31年度版東京書籍『世界史B』のP.356にはワシントン体制について「合衆国が中心となって日本の進出をおさえ、各国の利害を調整するとともに、高揚する民族運動に共同で対処しようとするものであった」と書かれています。)実際、その通りなのですが、一方で日本は満蒙における特殊権益については列強から容認されることになった点は注意が必要です。また、太平洋の現状維持が認められたということは、日本は第一次世界大戦中に占領下ドイツ領南洋諸島についてもその実質的な領有(委任統治による)が認められました。ですから、確かにワシントン体制は日本の進出を抑制はしましたが、日本が勢力を戦前と比べて拡大していなかったわけではありません。そして、中国・太平洋地域に大きく進出した日本と、特に中国への経済進出を考えるアメリカとの関係は、ワシントン会議以降次第に悪化していきます。

 

さて、以上がワシントン会議の概要になりますが、それを踏まえて上述の史料[]を見ますと、「帝国主義諸国が太平洋支配をめぐり争っているが、一定の妥協を成立させたこと」、「朝鮮半島への言及がないこと」、「門戸開放についての合意は帝国主義列強による中国の反植民地化をさらに進めること」、「日本が朝鮮、山東半島、満州での搾取と、モンゴル、ソヴィエト=ロシア方面への進出を進めることが認められたこと」などが読み取れます。以上の内容をまとめますと、アジアと資本主義の関係については、「資本主義の発展が帝国主義政策の原因となっていること」、「アジアは列強の帝国主義政策の餌食となっていること」、「具体的な例としてアメリカの中国進出(九か国条約)や、日本の進出が挙げられること」などを確認しておけば良いでしょう。

 

②ソヴィエト=ロシアと資本主義列強の関係

 第一次世界大戦の頃のソヴィエト=ロシアと資本主義列強の関係としてまず思い浮かべなければならないことは、対ソ干渉戦争(19181922)です。これについては直接史料中には出てきませんが、超重要事項(かつ基本事項)ですし、リード文の冒頭にも「英米など資本主義列強とソヴィエト=ロシアの対立」と書かれておりますので、思い浮かべるのはそう難しいことではないと思います。対ソ干渉戦争には英・仏・米・日などが参加し、英・仏軍はザカフカースやウクライナ、バルト海方面などから、日・米はシベリア方面から進軍しましたが、対ソ干渉戦争が開始された19188月当時はまだ第一次世界大戦が終了しておりませんでした(戦争の終結は1918年の11月)から、西部戦線で依然としてドイツと戦う英・仏は効果的な進軍はできず、主力となったのは日・米のシベリア方面軍であり、またロシア国内の反革命派(白軍)に対しての支援も行われました。一方のソヴィエト=ロシアは、赤軍の組織化、戦時共産主義の実施、コミンテルンの創設などによって対抗し、中でもコミンテルンは資本主義諸国における共産主義者との連携による革命の達成のために活動することになりました。

 干渉戦争自体は1922年に日本が撤兵したことで終結します。その後の資本主義諸国とソヴィエト=ロシアの関係については、1922年にドイツがラパロ条約によってソヴィエト=ロシアを承認したことで敗戦国ドイツと共産主義国ソヴィエト=ロシアの孤立化を他の列強が危惧したことや、ヨーロッパが国際協調路線に転じたこと、ソヴィエト=ロシアのネップ(新経済政策)への転換をイギリスなどが歓迎したことなどから次第に国際承認が進み、英仏は1924年、日本は1925年にソ連を承認し、遅かったアメリカがソ連を承認するのが1933年、1934年にソ連は国際連盟に加盟しました。ただ、本設問についてはソ連成立前の「ソヴィエト=ロシア」と資本主義列強の関係となっていることから、いわゆる「ソ連の承認」については言及の必要はないと思います。

 

③アジア各地の運動家とソヴィエト=ロシアの関係

 この部分は本設問の中では比較的書きやすいところかなという気がします。要は、ソヴィエト=ロシアまたはコミンテルンの活動などがアジア各地の共産主義運動や民族運動に影響を与えたことと、その具体的な例を示せば良いでしょう。史料に陳独秀があることから、中国共産党の結成については書けると思いますし、史料中や設問でモンゴルについての言及もあることから、モンゴル人民党やスヘ=バートル、チョイバルサン、モンゴル人民共和国(世界で2番目の社会主義国家)などについて(全ては無理にしても)思い浮かべることは可能だと思います。最近、アジアにおける社会主義・共産主義の話をする際にモンゴルについて言及する設問が増えてきている印象があります。設問全体の傾向として、一国史的な観点をやめてより広範な視点でモノを見ようという流れがありますから、主流の内容を抑えつつその周辺にも気を配るという形の設問はおそらく増加してくるのではないでしょうか。その意味でも、今後はやはり地理的な理解をしっかりしておかないと、全体像をイメージしにくくなって、点数に差が出てくるかもしれませんね。

 さて、史料中、アジア各地の運動家とソヴィエト=ロシアの関係についてわかる部分というと以下のようなところがあげられるかと思います。

 

[]

「それ(=資本主義)に取って代わるのは当然に社会主義の生産、分配の方法であり、そうしてはじめて、剰余価値や余剰生産といった弊害をとりのぞけるのだと断言することができる…」

 

[]

「…彼ら(=朝鮮、中国、モンゴル)自身の団結と、すべての侵略者に対する組織的な闘争と、国際プロレタリアートやソヴィエト=ロシアとの団結によってのみ、彼らは独立と自由を獲得できるということを証明したのである。」

「革命的華南はその民族的存在のために闘っており、華北の軍国主義者から攻撃される危険に常にさらされており、国全体の民族的、民主主義的革命の勝利なしには、その地位を強化するのぞみはない。」

「…中国の勤労大衆は、ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国を指導者にして、帝国主義に対する断固たる戦いをすでに始めている。」

「武装闘争と友好的なソヴィエト=ロシアの赤軍との協力によって、外国人抑圧者―ロシア白軍や日本帝国主義の案内人である中国の帝国主義者―の支配から自らを解放して、モンゴルはついに自らのことを自らの方法で決める機会を確保した。」

 

[設問]

・陳独秀 / 『新青年』が後に共産党の機関紙としての役割果たす / 民族自決に対するソヴィエト=ロシアの肯定的姿勢 / 日本では労働運動や農民運動が活発化 / 極東勤労者大会には中国国民党からも代表 / 孫文による共産党の受け入れ強化 / モンゴル人民党(モンゴル人民革命党)…etc.

 

以上の記述から、中国、朝鮮、モンゴル、日本についてはかなりの部分記述することが可能になると思います。また、ソヴィエト=ロシアが設立したコミンテルンと当時のアジアにおける社会主義運動を考えた場合、インドシナ(ベトナム)のホー=チ=ミン(パリ講和会議にグエン=アイ=クォック(阮愛國)として参加した後、1920年にフランス共産党の結成に参加、その後ソ連にわたりコミンテルンの指示でベトナム青年革命同志会を結成)や1920年結成のインドネシア共産党に言及することも可能ではあります。ただ、設問と史料から考えた場合、必須の内容ではないかもしれません。

 

(解答手順3:指定語句の使いどころを検討する)

指定語句は、「三一運動 / 民族解放 / 陳独秀 / 平和に関する布告」の四つでした。使い方としては以下のような使い方があるでしょう。

 

・三一運動

:ロシアの平和に関する布告やウィルソンの十四ヵ条の平和原則の中に謳われた「民族自決」に刺激を受けた朝鮮の民衆と、その運動を抑えようとした日本との摩擦から発生した民族運動、それを黙殺したパリ講和会議やワシントン会議における資本主義・帝国主義諸国の論理

 

・民族解放

:民族自決に刺激を受けた各地での民族解放運動、その方法の一つとしての共産主義

 

・陳独秀

:中国共産党の初代委員長、中国共産党の結成、コミンテルンの指導と国民党との接近

 

・平和に関する布告

:ロシア革命とボリシェヴィキ、帝国主義諸国に対する非難、民族自決、ウィルソンの十四ヵ条の平和原則への影響

 

上に書いたもの以外にももちろんあると思いますが、一般にすぐ思いつく内容としてはこんなところでしょう。解答手順1でつくった大きな枠組みに肉付けをしていくとすれば、以下のような感じではないでしょうか。

 

①ロシア革命と平和に関する布告の民族自決が、アジア諸国の民族運動と共産主義を刺激

②ソヴィエト=ロシアは資本主義・帝国主義列強を批判

③資本主義列強はソヴィエト=ロシアを受け入れずに対ソ干渉戦争

④コミンテルンの創設とアジア各地の共産党への指導

⑤パリ講和会議やワシントン会議は資本主義諸国の論理を優先して民族自決を顧みず

⑥民族運動の激化とともにソヴィエト=ロシアを受け入れる個人や団体が増加

⑦アジア各地で共産主義運動の高揚や共産党の結成が見られる

⑧ロシアに続く社会主義国としてのモンゴル人民共和国の建国

 

概ね、このような流れで解答を作成することを意識していきます。

 

(解答例)

 ロシア革命で一党独裁を達成したボリシェヴィキが平和に関する布告で民族自決を呼びかけると、資本主義列強の支配下にあったアジアでは民族運動と共産主義が刺激された。共産主義拡大を危惧した列強は対ソ干渉戦争を起こしたが、ソヴィエト=ロシアは赤軍の組織化、戦時共産主義やコミンテルン創設による共産主義者の連携で対抗した。秘密外交暴露などで帝国主義政策と批判された第一次世界大戦への参戦を決めたアメリカのウィルソンは十四ヵ条の平和原則で秘密外交廃止や民族自決を訴え、これに刺激された朝鮮では日本からの独立運動である三一運動が発生したが弾圧された。さらに、戦後のヴェルサイユ・ワシントン体制では資本主義列強の論理が優先され民族自決が顧みられなかったため、中国の五四運動やインドのサティヤーグラハなどの民族解放運動が激化した。コミンテルンの活動でソヴィエト=ロシア受け入れも進み、陳独秀を委員長とする中国共産党の結成、ホー=チ=ミンのコミンテルン参加、孫文による国共合作への動きが見られ、モンゴルでは日本が支援するウンゲルンをチョイバルサンらのモンゴル人民党が赤軍の支援を受けて駆逐し、モンゴル人民共和国を建国した。500字)

 

こんな感じでしょうか。赤字のところが「アジアと資本主義列強の関係」、青字のところが「ソヴィエト=ロシアと資本主義列強の関係」、緑字のところが「アジア各地の運動家とソヴィエト=ロシアの関係」を主に示しています。アジア各地の「運動家」とありましたので、できるだけ個人名が出るようにしてみました。メインのソヴィエト=ロシアの受け入れと関係については、民族運動や共産主義の刺激につながったことやソヴィエト=ロシアを受け入れる動きにつながったことで示せているかと思います。

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2018年の東京外語の問題は、とても斬新な問題でした。形式的には、従来400字論述と100字論述を各大問に一問ずつ配置していた形式を改め、大胆にも東大の大論述と同じ600字論述として課してきました。下の表は過去の東京外国語大学の論述問題の字数の変遷です。

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ただ、この年の外語の問題の新しさは形式だけの問題ではありません。この問題が本格的な史料の読解と「分析」を要求する設問になっているという点です。東大の大論述がかなりの世界史知識を短時間の間に「整理」しなくてはならないのに対して、外語の問題は短時間で必要な情報を拾い上げて分析する力を問われています。極論を言ってしまえば、東大の問題は原則として「知識がないと解けない」問題であるのに対し、外大の問題は「知識がなくても読めば(ある程度は)解ける」設問になっているところが大きな違いだと思います。もっとも、レベルの高い解答に仕上げるためにはある程度の世界史知識がなければならないのは言うまでもありません。(ただの読解であれば国語にしてしまえばよいので。) 60分という時間を考えれば、かなり高いレベルの総合力を問われる良問だと言えると思います。

 

 さて、それに加えてこの年の小問は例年と比べるとかなり難度が上がっています。普段であれば東京外語の小問は「易」~「標準」レベル、おおよそセンターレベルの一問一答問題がほとんどなのですが、2018年の小問は「易」に分類される問題が少なく、一部に難問もあるなど、全体的なレベルがかなり高くなりました。この年のレベルであれば、小問のうち何問かは落とす覚悟をしておかなくてはならないでしょう。小問を取りこぼしてしまった人は、その分論述にかかるウェートが重くなることを覚悟しなくてはなりません。例年と比して、論述の出来が合否を左右する面が大きかったのではないかと思います。

 

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【小問解説】

(大問1-1) ケネディ家

:この設問は意外に解けないと思います。ケネディがアイルランド系であることは知っている人は知っていますので、ちょっと気の利いた先生であれば授業の中で軽く触れることはあるでしょうが、いわゆる穴埋め式の知識重視型で、あまり関連した事柄を紹介したり横道にそれたりすることがない先生だと、授業で扱わない人もいるでしょう。また、とりあえず今手元にある教材にさっと目を通しましたが、ケネディがアイルランド系であることに触れた教材はありませんでした。(東京書籍『世界史B』、『詳説世界研究』最新版、山川『世界史Ⓑ用語集』(2012版) ただ、用語集が「カトリック初の」という説明だけは載せていました。(「アメリカ最初のカトリック教徒の大統領で、最年少で大統領に当選した。」)

 設問の方を見ても、ケネディを導けるヒントは「アイルランド系カトリック初のアメリカ大統領」以外には見当たりませんから、受験生には少し難しい問題だと思います。また、設問は「家門の名」を答えなさいとあるので、正確には「ケネディ家」となります。

 

(大問2-2) 茶

:ヒントが「19世紀にオーストラリアに輸出されていた中国の商品作物」ということしかありませんので、すぐにピンとくる人には簡単ですが、ドツボにはまってしまうとなかなか出てこないかもしれません。ただ、設問の中にオーストラリアとアメリカ合衆国の関係について答えさせる問題がありますし、オーストラリアがイギリスの自治領であることを考えれば、答えを導くことは十分可能です。

 

(大問2-5)メルヴィル 『白鯨』

:この設問は出題の意図がいまいち読めません。世界史的な知識としてはメルヴィルと『白鯨』は全くというほど出てこないものだと思います。比較的本を読む人やアメリカ文学が好きな人であれば知っているかもしれませんし、サブカルにどっぷりつかった人ならモビー・ディックについてのオマージュでエイハブ船長とかは何となく知っているという人もいるかもしれません。落として当然の問題で、この手の問題にこだわっても意味はありません。飛ばしましょう。多分、出題した側が後で内部の会議で反省するないしは叩かれる系の問題ですw

 

(大問2-4:30字論述)

アメリカ合衆国の独立で、新たな流刑植民地が必要になったから。(30字)

:オーストラリアが流刑植民地となった背景を問う問題です。知っている人はすぐに解けますし、設問から時期を確認すればアメリカ独立直後の話だと分かりますので、知らない人でも勘の良い人であれば解けると思います。

 

【大問1論述】

(設問概要)

・(飢餓を経験した人々と社会の対応ならびに核エネルギーの軍事利用が起こしうる、破滅的な災害への対応という)歴史的事例にふれながら、災害に対する社会の対応がどのようなものであったか史料[A][C]の順に分析し、論ぜよ。

・史料だけでなく、各史料の解説文、出題者による注記、設問の文章および解答を考慮せよ

・指示語:移住 / 人道支援 / 政府 / 国際社会

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(解答手順1:災害に対する社会の対応を史料ごとに読み取る[史料A]

①史料A(アイルランドのジャガイモ飢饉、1840年代)の読み取り

 史料として使われているIllustrated London Newsは、19世紀イギリスの社会を知る上での基本史料の一つです。ちょっとした規模の大学であれば図書館においてあるところもあるかと思います。こちらの史料や注意書きから読み取れることは以下のような内容です。

 

・アイルランドでジャガイモの凶作が起こり、貧農層が被害を受けた

100万人が死亡、150万人が移民によってアイルランドを離れた

・宗教団体(フレンド会[クウェーカー教徒])が炊き出し所の設置など慈善事業を展開

・慈善事業の資金は施してとなる人々から集められている(寄付)

・炊き出しに効果があったことから国費により炊き出し所が設置、運営された

・肉、米、エンドウ豆、野菜などで作ったスープとパンの提供

・提供の際には清潔さが求められる

・調理に際して蒸気機関が活用されている

・アイルランド内外で多くの募金組織が設立された

・義援金はヨーロッパ諸地域、オスマン帝国、インドなどからも寄せられた

 

 また、史料Aに関連した設問から読み取れることは以下の通りです。

・コーク=アイルランドから多くの移民が旅立った港町

・凶作と飢饉により生活が困難になった人々→海外へ移住

・移民の一部は移住先でコミュニティ形成→社会的、政治的影響力拡大(ex.合衆国)

・新しい科学技術の活用により、大規模な食糧供給が可能に

・国費による炊き出し所の運営に先立ち、アメリカからトウモロコシを緊急輸入

 →アイルランドに供給するも、無償提供が自由貿易原則に反するという批判

 →最初は原価で、のちに市場価格で提供

・自由貿易原則に則り、穀物法を撤廃

 →アイルランドからの穀物輸出を助長し、かえって食糧不足を悪化させた

 

②史料Aの分析

:こうした多くの情報から、特に設問の要求に応えるにあたって重要な部分を拾い上げていきます。設問が要求しているのは「災害に対する社会の対応」です。このあたりに注目して情報をまとめると以下のようになります。

・飢饉に対する対応

 [個人、被災者]―移民による新天地開拓で対応

 [慈善団体など]-炊き出し、寄付を募る、募金組織の設立

 []     -トウモロコシの緊急輸入(米から)

         国費による炊き出し

 [世界]    -各地から義援金(オスマン帝国やインドからも)

 

:また、この史料からは他にも重要な情報を読み取ることが可能です。それは、慈善のような活動でも、その根底には当時力をつけてきていた産業資本家層の価値観や倫理観が色濃く反映されているということです。たとえば、こうした慈善事業に蒸気機関のような最新の技術が取り入れられていることからは、この慈善事業に産業資本家層が関係していることをにおわせています。また、慈善事業をはじめに展開したのがフレンド会だということもそのことを示唆しています。フレンド会、またはクウェーカーは17世紀半ばごろから活動を開始したプロテスタント宗派ですが、神秘的側面を持つことから国教会からは異端視され、時に迫害されました。1689年の寛容法で国教会以外のプロテスタント諸派も信仰を認められたことからクウェーカーも信仰の自由を得ましたが、公職につけなかった彼らは実業界で活躍したり、社会的な改革運動に従事する人が多くいたと言われています。

 また、産業資本家層の価値観は慈善だけでなく、むしろ災害を拡大する方向にも働いていたことには注意が必要でしょう。たとえば、「自由貿易」というのは当時の産業資本家層が追求した価値観の一つですが、この価値観が人々を基金から救う方向とは逆の方向の力として働いたことが史料や設問からは読み取れます。特に、問3の問題は以下のように書かれています。

 

 下線部③に関連して、イギリス政府は、国費による炊き出し所の運営に先立ち、アメリカからトウモロコシを緊急輸入してアイルランドに供給した。しかし、無償提供は自由貿易の原則に反するとして、トウモロコシの供給は原価で、のちに市場価格で行われた。同様に、この自由貿易の原則に則り、イギリス政府は1846年に穀物法を撤廃したため、アイルランドからの穀物輸出を助長し、かえって食糧不足を悪化させたと非難された。この自由貿易主義の理論的支柱を形成した経済学者で、『経済及び課税の原理』(1819年)の著作で知られる人物の名を答えなさい。

 

 この設問からは、「自由貿易の原則」という理念に沿って

・トウモロコシの無償提供は行われず、最終的には市場価格で供給されたこと

・穀物法の撤廃がかえって食糧不足を悪化させたこと

などが読み取れ、産業資本家層の一部は確かに積極的に飢餓に瀕した人々の救済に関わったけれども、一方でむしろ飢餓を拡大させる要因も作ってしまっていることをうかがい知ることができます。

 最後に、この史料がIllustrated London Newsであることを考えると、こうした飢饉などの災害において、報道と情報の伝達、世論の形成などが重要な役割を果たしている点を付け加えても良いかもしれません。

 

(解答手順2:災害に対する社会の対応を史料ごとに読み取る[史料B]

①史料B(中国華北の飢饉、1919年以降)の読み取り

 この史料は、中国占領地の社会調査に関する史料で、日本人が上海に創設した東亜同文書院の研究部が行った『北支那飢饉救済の調査』がもとになっていることは説明文からわかります。こちらの史料や注意書きから読み取れることは以下の通りです。

 

・中国華北の広大な地域で大飢饉が発生した。(1919年~1920年またはそれ以降)

・飢饉の被災者は2000万人、犠牲者は50万人にのぼった。

・民衆は居住地を捨てて移住するなど、独自に救済を模索した。

・平糶(へいちょう:設問中に注意書き有「政府や地方行政機関などの備蓄米穀を市場価格より安く販売し、飢饉で混乱した米穀価格を調整すること」)が飢饉救済のために行われ、効果を発揮した。(と、東亜同文書院研究部は考えていた。)

・日本領事館が救済に当たった。この際、流民は6万余で、うち4万は帰郷、1万は移民、1万は施療所の世話になった。

・馬のえさの不足により車馬の運賃が高騰した。

・土匪が出没した。

・米国が特に目覚ましい救済活動を行った。

・中国政府及び貴紳は外国救済団に刺激を受けて漸く救済に取り掛かった。

・中国側の救済で顕著なものは賑務処(災害救援局)が行った急募借款である。

・一部有識者階級である学生新聞の記者は、中央政府、地方官、各地富豪の冷淡を攻撃し、被災者の苦境を天下に訴えた。

・中国政府の動きが当初鈍かった背景には、元来中国の下級農民が天災を運命とあきらめて役人に期待せず自衛により対処する傾向があったことによる。

・日英米仏の公使は共同で国際統一救済会の運営にあたり、国際的義援金を募集した。

・この義援金の中では、アメリカおよび米国赤十字社が募集した義援金が最も多かった。

 

②史料Bの分析

 ①の内容を分析すると、以下のことが読み取れます。

 

[民衆]-自衛の手段として移住を選択

    元々、役人に期待せず自衛手段を講じる傾向

    一部は土匪となって暴徒化した

[日本領事館]-救済に当たる

[中国政府など]-当初は無関心→後に活動(賑務処による急募借款など)

[諸外国]-早くから活動

米国や国際統一救済会、アメリカ赤十字などによる国際義援金

[一部の有識者]-学生新聞が政府や地方官などの無関心を糾弾

[その他]-平糶による価格調整が救済に役立つ

     車馬の価格上昇などの社会的影響が見られた

 

 こうした内容からは、史料Aとの相違点がいくつか見えてきます。たとえば、民衆が自衛のための手段として移住を決断するところはアイルランドのケースと類似しています、ただ、その移住先は外国よりは隣接する中国内の省であることも多かったようです。さらに、一部は土匪となって襲撃を行うなど、治安の悪化につながったこともわかります。

また、救済のための慈善活動は、当初米国を中心とする外国または外国の団体によって担われていました。その活動にはやはり国際義援金の募集があったようです。ただ、この段階ではすでにアメリカ赤十字や国際統一救済会などの諸団体が形成されており、アイルランドの時のように一部の宗教団体の活動や自然発生的な義援金に依拠するだけではなかったことがわかり、こうした救済活動が20世紀初頭の段階では組織化されてきていることが分かります。

 一方、外国が主体となった救済活動は中国ではあまり一般的ではなかったようで、政府、地方官、各地の有力者は当初救済に無関心でした。ですが、諸外国の活動や、中国内の学生新聞など、一部有識者からの糾弾もあって、賑務処と呼ばれる災害救援局が急募借款を行うなどして救済活動を行うようになります。また、救済活動においては平糶とよばれる備蓄米穀の安値放出による価格調整が効果を発揮したことが分かります。さらに、飢饉が車馬価格の上昇を引き起こすなど社会的影響も見られました。

 

 また、設問からは以下のことが読み取れます。

・他省への大量の移民が受け入れ先の地域社会に深刻な影響を及ぼした。

(例:北方のモンゴル人居住区に南方からの農民が流入した結果、遊牧民地域に定住農耕が拡大するという事態を引き起こした)

 

(解答手順3:災害に対する社会の対応を史料ごとに読み取る[史料C]

①史料C(ラッセル=アインシュタイン宣言)の読み取り 

 ラッセル=アインシュタイン宣言は核兵器と戦争の廃絶を訴えた科学者や哲学者の連名による宣言です。物理学者のアインシュタインや哲学者バートランド=ラッセル、日本の物理学者湯川秀樹などが参加しています。本史料から読み取れることは以下の通りです。

 

・科学者たちが核戦争の危機を回避するために国際社会の連携を呼びかける声明を発表

・ビキニ環礁での核実験を契機とした水爆使用への危機感を表明

・核兵器の放棄を目的とする協定は東西冷戦の緊張緩和や奇襲攻撃への懸念の緩和に資するとの声明を出す

・各国政府に対し、戦争によらない平和的手段による紛争解決の模索を勧奨

・赤十字国際委員会の派遣したスイス人医師ジュノーが原爆投下後の広島で医療支援活動を展開

 

②史料Cの分析

 正直、ここで災害と合わせて核戦争の被害を並置することは、まとまりに欠けるというか、やや唐突な感があります。ただ、設問の方でパグウォッシュ会議やPTBT(部分的核実験禁止条約:Partial Test Ban Treaty)やNPT(核拡散防止条約)についての記述があるので、災害防止のための有識者の呼びかけが国際的な対応を促した点などに中国の飢饉における学生新聞の糾弾を受けた中国政府の対応などとの共通点を見出しても良いのかもしれません。

 

・有識者の声明がパグウォッシュ会議の開催とその後の議論など、核兵器廃絶を目指す運動の呼び水となった。

1960年代には部分的核実験金条約や核拡散防止条約など、核兵器の国際管理に向けた動きが始まった。

 

(解答手順4:総合)

 以上の内容を総合し、まとめていきます。設問の方には「史料[A][C]の順に分析し」という指示があるので、基本的には「アイルランドの事例→中国の事例→核」の順に書き進めて言って良いと思います。余裕があれば、その相違点などについての分析を入れても良いかと思いますが、必須ではありません。

 

(解答例)

 飢饉に際し、民衆は移住で対処した。アイルランドのジャガイモ飢饉で米に移住した人々はコミュニティを形成し、大統領を輩出するなど少なからぬ影響力を保持した。また、中国では他省に移住した人々の影響で遊牧地帯に定住農耕が拡大するなどの社会的影響を及ぼした。民衆の自助に限界がある時には慈善活動や政府の支援、各地からの募金が行われた。アイルランド飢饉では、フレンド会による炊き出しや募金、これに刺激を受けた国費による穀物の緊急輸入や炊き出しが行われたが、これらを指導する産業資本家層の価値観が反映されて有償供給に変更されるなど、救済とは逆行する面も見られた。中国の事例では、従来から政府による救済を期待しない民衆の自助努力に加え、アメリカなど国際社会による人道支援が展開された。有識者たちは学生新聞の記事で政府を糾弾したため、中国政府も平糶による対応を行い一定の成果を挙げたが、一部民衆は土匪となって周辺を襲撃するなど暴徒化した。災害救済組織の国際化も進み、国際義援金は国際統一救済会、赤十字などの活躍で届けられ、赤十字は原爆投下後の広島でも医療支援を行うなど活動の幅を広げた。ビキニ環礁における水爆実験は核戦争に対する危機意識を高め、科学者たちが発したラッセル=アインシュタイン宣言は核廃絶への世論を喚起してパグウォッシュ会議開催へとつながり、核の平和利用意識の高揚や、PTBTNPTなど米ソ主導型の核管理が進んだ。(600字)

 

 素直な読み取りの羅列でも良いとは思いますが、ここでは極力特に飢饉という共通のつながりをもつABとの関係(地域や時代による対応の差として史料から読み取れること)を中心にまとめてみました。ですが、最後まで「核」をどう使いたいのかという出題者の意図はくみ取れませんでした。おそらく、大問の最初に示されているリード文で「人類はこれまでにじつに多くの災害を経験してきた。そのなかには、人智の及ばない原因による自然災害もあれば、人為的な原因による災害もあった。…(中略)…そのような努力はしばしば被災した地域だけでなく、周辺社会にまで変化をもたらし、ときには広く国際社会にまで影響を及ぼして、世界史上の画期となることもあった。」という文章があることと、史料[C]の紹介文の中で「核エネルギーの実用化は、広島、長崎への原爆投下が示すとおり軍事面で先行した。その非人道性への反省から推進されだした平和利用も、チェルノブイリ原発が冷笑したように事故の危険性から無縁ではない。その用途が何であれ核の超絶的破壊力と放射能は人類の存続を脅かしかねず、核実験、核戦争、または原発事故の惹起しうる大災害が現実の脅威となったことで、20世紀は災害史の新時代を画したと言える。…」とあります。(下線部は私の方で付しました。)ですから、おそらく核の出現が災害史という歴史にとって画期になったという視点を受験生に示したかった&解答に盛り込んで欲しいということは分かるのですが…。何と言うか、違和感を感じるんですよね。

 核を災害史の一部として考察してみようという視点は歴史学の中では比較的新しい視点です。(そりゃそうだ、最も長かったとしても原爆使用後からですからせいぜい70年程度ですし。)ですから、そうした新しい視点を、次代を担う受験生たちに紹介したいというのは意欲的ですし、理解もできます。違和感の原因はそこではなくて、設問の構成や史料の質なんですよね。まず、[A][B]の史料が災害(というかどちらも飢饉です)に対する人々や社会の対応として、移住、義援金など全体的な共通項が多いのに対して、[C]はそうした共通項はあまりありません。せいぜいが世論形成と国際組織の形成程度が共通項として見えるくらいで、[A][B]が互いに強い親和性を有している一方で、[C]だけが極端に浮き上がって見えてしまっています。また、逆に対比や差異を見出せるような史料の内容ではありません。何より史料の選定の仕方に違和感を覚えます。[A][B]が災害に対する人々や社会の具体的行動やその実態が比較的見える史料であるのに対して、[C]だけはラッセル・アインシュタイン宣言という極めて理念的な史料であって、災害に際しての人々や社会の実態が見えるものではなく、史料の質が大きく異なります。前者が実態を精査するための史料であるのに対して、後者はどちらかというと言説研究に属するもので、双方から読み取れる情報の質が違うんですね。ですから、解答を作ってみると、前半部分が人々や社会の動きなど、ミクロな部分が見える生々しい記述になるのに対し、後者の方は何だかマクロな話になってしまってものすごくバランスが悪く、「出題者が何を受験生に求めて何をさせたいのかわからない」設問になっている気がします。まぁ、「チェルノブイリや福島では、多くの人々が移住を余儀なくされ、被災者には多くの義援金などが寄せられた」とかすれば共通項は見出せるわけですが、[C]の史料からチェルノブイリや福島まで言及するのは字数的にも無理がありますし、いくら何でも飛躍しすぎでしょうw

 そんなわけで、解答を作りながらも「なんかモヤモヤする」という気分を払拭できない設問でした。会話のかみ合わない人とのコミュニケーションではよくこういう感情を抱くことがありますw 私が受験生だったら、できる・できないはともかく、この年の論述はあんまり解きたくないなぁと思いながら解いていました。600字論述になったことは意欲的な実験ですが、やはり600字論述と300字論述というのは作る側にとっても解く側にとっても別物なのだなぁと実感させられました。

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2017年の東京外語は、ある意味ではいつも通りの設問なのですが、例年と比べると時間的な制約を感じる部分が多く、これまで以上に設問を解くにあたってある種の「コツ」が必要になることを意識させる問題となりました。

 東京外語の問題で重要なのは、何と言っても「小問」です。「小問」をいかに取りこぼさないようにするかというのが最重要だと考えてください。外語の小問は「ほぼ」史料とは無関係の一問一答形式で、問題の難度もそれほど高いものではなく、かつ配点の比率が非常に高いです。(2017年については100点満点中70点が小問) ですから、この小問で満点、悪くても1問の取りこぼしですめば、あとは論述で3割~半分も点数が取れれば80点に届きます。それでなくても東京外語は英語がメインの大学で、他の受験生も基本的に「英語好き」、「英語得意」な人で、いわゆる「世界史マニア」が紛れ込んでいる率はそれほど高くありません。ですから、論述のような高度な問題については「どうせ周りもたいしたことは書けやしねぇ」とある程度開き直ることも必要です。ただ、小問の多くのレベルは本当にセンターレベルですので、ここはしっかり拾える勉強くらいはしないと、世界史で足を引っ張ってしまいかねませんので注意してください。

 2017年の問題のレベルを個人的な体感で表にすると以下のようになります。

 2017東京外語設問一覧

 

 以下の解説では、このうち特に解説の必要な小問と、各論述問題について取り上げていきます。

 

【小問解説】

 何度も言いますが、東京外語の小問の多くは、史料を読まなくても、場合によっては設問の大部分を読まなくても解ける一問一答形式の設問がほとんどです。たとえば、以下は大問1の問2の設問です。

 

 下線部②に関連して、アメリカ大陸の銀を掌握したスペインは、香辛料の獲得とカトリック布教を目指して東南アジアに進出し、先行するポルトガルと競合しつつ、フィリピン諸島の領有に成功した。当時、中国商人が運んでくる生糸や陶磁器などの奢侈品を、大型帆船(ガレオン)で太平洋を横断してメキシコのアカプルコまで運び、商品の対価としてメキシコ銀を積載してフィリピンに戻り、これを中国商人が自国の船で中国へ持ち帰っていた。こうしたガレオン交易の拠点で、スペインが1571年にルソン島に建設した都市の名を答えなさい。

 

 長ぇーよw まぁ、この設問を解くのに必要な情報は、ぶっちゃけ赤で示した部分だけです。(これだけでも十分「マニラ」という答えを導くことは可能です。)このように、外語の小問はそのほとんどが設問の末尾の部分だけ見ればわかるようになっています。(このあたりは親切な問題の作りですね。)もし末尾だけ見てもわからない場合には、一通り設問に目を通せばよいわけです。

 普段から外語は時間的な制約がかなりキツイ学校ではあるのですが、今回の設問では大問1の論述が妙に凝っているためにかなり手間がかかり、いつもよりも時間的な制約がタイトになっています。というより「無茶言うな」って感じです。私がこの年の受験生であったならば、まずダッシュで小問を解き、ついで大問2の論述を10分~15分程度で片付けたあとで残り時間は全部大問1の解答作成に使います。それでは、外語の小問を解く時間は何分くらいと想定すべきかというと、かかっても5分です。大問1の論述を考えるとそれ以上はかけられません。なかなか思い出せない問題やわからない問題はとりあえず置いておいて、論述問題に試験時間60分のうちの大半を使うことになると思います。

 

(大問1-問3)

:ポイントは「南ドイツの銀山経営」という部分です。これでアウクスブルクのフッガー家の話をしているということはわかりますが、設問を丁寧に確認しないとミスをします。設問は「(  ③  )の商人」という表現を用いているので、③にはアウクスブルクを入れることができますが、設問が要求しているのはあくまでも「(  ③  )の商人の家名」ですので、解答はフッガー家です。

 

(大問1-問4)

:これはおそらく、マドラスかボンベイかで迷わなければ問題ありません。イギリスのインド拠点はボンベイ・マドラス・カルカッタですが、このうち、「ベンガル湾に面していて南インドにある」という条件を満たすのはマドラス(現チェンナイ)だけです。

 

インド拠点
 

(大問2―問2)

:この問題は難しいですね。つい最近、国立西洋美術館は世界遺産登録をされましたが、その時のニュースをよく見ていた人や美術に普段から関心のある人であれば解けたかもしれません。西美(国立西洋美術館)を設計したのは近代建築の巨匠、ル=コルビュジエです。下は西洋美術館です。

国立西洋美術館
(「国立西洋美術館」Wikipedia)

 

問題とは全く無関係なのですが、私は同じく近代建築の巨匠であるフランク=ロイド=ライトのデザインが好きで、ペンや名刺入れなどもACMEのフランク=ロイド=ライトのデザインをモチーフにしたものを使ったりしていますw とても好きですが、ペンは替え芯の値が少し張ります。もうちょっと安いと嬉しいのですが…。



 フランクロイドライト2

ⒸACME
(大問2-問4)

:一見難しいのですが…。設問の中でも「リーバイ・ストラウス社」と言っているではないですかw リーバイスですよね…。これで違ったら完全に悪意があるとしか思えませんw

 急いで解くと、小さな見落としやミスが生じがちですので注意してください。「急いで解く」と「丁寧に解く」は十分に両立する行為です。この年の小問で、落としていいのは大問2の問2だけだと思います。それで65点を確保し、あとは残りの論述30点のうち何点をもぎ取れるか、という問題ではないでしょうか。

 

【大問1論述(400字)】

(設問概要)

・新大陸の銀がどのような経路をたどってアジアに到達したか説明せよ

・(新大陸の銀が)世界の交易にどのような影響を与えたのか説明せよ

[A][D]の史料、問1~8の設問やそれらの解答を参考にし、利用せよ

・解答の冒頭で、史料[A]の記述をもとに、新大陸産の銀がスペイン本国に運ばれるまでの具体的な流れを簡潔に説明せよ(★)

・指定語句:黒人奴隷、生糸、ガレオン交易(使用した箇所に下線)

400字以内

 

 時期は明示されてはいませんが、新大陸の銀の流入がテーマであることと、冒頭のリード文に「現代のグローバルな市場経済の成立の起点は、16世紀半ばのアメリカ大陸における銀山の開発(新大陸銀)と、銀の世界市場への大量流入にあった」とありますので、16世紀以降を想定しておけば良いと思います。この論述は、かなり細々と条件が付いていて、これらを完全にクリアするには相当な手間がかかります。そもそも、外大の論述で完全解答を目指せるのは相当な世界史の知識と短時間で情報を整理し、それを文章として表現するかなりの国語能力を持った人だけです。ですから、完璧な解答を作成することを目指すよりも、まずは小問で確実に得点すること、そして論述ではある程度の点数を確実にキープすることを狙う方が良いと思います。

 その上で、確実に点数をのばすには、設問の要求をきちんとおさえて、それに答えることが重要となります。ですが、史料の読解や設問をなめるように見ながら同時に論述の構成を考えることは非常に困難で時間を使います。そこで、本設問では困難を分割し、まずは解答の大枠をつくること、そして設問要求として挙げられている(★)の部分の答えを考えること、最後に史料をチェックして細かい見落としや話の流れに間違いがないかを確認する、という3段階で進めることをおすすめします。

 

(解答手順1:「解答の大枠」をつくる)

 まずは本設問の二つの主な要求である「①新大陸の銀がどのような経路をたどってアジアに到達したか」と「②新大陸の銀が世界の交易にどのような影響を与えたのか」を考えてみたいと思います。これは、世界史的な知識の問題ですし、少なくとも現在のところは歴史的事実と考えられている内容ですから、史料の内容によって大きく左右される内容ではありません。細かい修正は必要になるでしょうが、全体の流れをまず把握した上で史料に目を通した方が、各資料の「使いどころ」もわかりますし、頭も整理しやすいかと思います。

 

①新大陸の銀がどのような経路をたどってアジアに到達したか

:いろいろなルートはありますが、主要なルートは次のようなものでしょう。

・アカプルコ貿易(ポトシ→メキシコ[アカプルコ]→フィリピン[マニラ]→アジア各地)

・インド航路(喜望峰→インド)→アジア各地

・地中海→レヴァント地方→紅海ルートまたは内陸を経由してアラビア海→アジア各地

・シルクロード、ステップロード

 

このうち、アカプルコ貿易とインド航路が大航海時代以降に特徴的なルートです。対して、伝統的に東方貿易で使われたルートやシルクロード・ステップロードは古くから使われてきたルートです。本設問では設問の意図を考えた場合、アカプルコ貿易やインド航路を利用したルートに重点を置くことを想定しておくと良いでしょう。

 ちなみに、銀の大循環については以前東大への世界史」の中で非常に重要なテーマとしてご紹介したことがあります。こちらに示したAG・フランクの『リオリエント』に掲載されている銀の流入ルートを見ると、当時15世紀~18世紀の銀のおおまかな動きを理解することができると思います。

 

②新大陸の銀が世界の交易にどのような影響を与えたのか

 これについては、実は大問1の冒頭リード文にヒントらしき文が載っています。「国際的な決済手段として十分な量が供給された銀は、国際通貨として、世界各地に展開していた交易圏どうしを結びつけ、大西洋・インド洋・太平洋という3つの大洋を連結する国際的市場経済への道を開いた」という文章からは、銀流入の影響の一つとしてばらばらだった各地の交易圏を結び付けてグローバルな市場経済を成立させたことを想定していることがわかります。また、その舞台として、大西洋・インド洋・太平洋があることもわかります。

 

 これを踏まえた上で、まずは新大陸の銀が各地に与えた影響に関して、教科書的な内容だけさっと挙げてみましょう。

 

[大西洋(ヨーロッパ・新大陸)]

・価格革命

・商業革命(地中海から大西洋沿岸地域へ)

・生活革命

・大西洋三角貿易の成立

・アフリカにおける奴隷市場の形成と人口バランスの崩壊

・アメリカ大陸におけるプランテーションの発展とモノカルチャー経済

[インド洋]

・ヨーロッパの進出とムスリム商人との競合

・中継点としてのイスファハンの繁栄

・インドにおける英仏の進出

・ムスリム商人の交易ルート変更と東南アジアのイスラーム化(スンダ海峡ルート)

[太平洋]

・ヨーロッパの進出(香辛料貿易の独占、日中などをつなぐ中継貿易)

・中国などにおける税制の変化(一条鞭法、地丁銀)

・沿岸部の都市か発展と内陸部の穀倉地帯化

・商品経済の発展や都市化にともなう物価の高騰と農村の窮乏

 

これらは、必ずしも「世界の交易」に影響を与えた内容ではないので、特に「世界の交易」に対する影響として注意した方がいいものをこの中からピックアップすることになります。その辺を意識しながら大枠をまとめると、だいたい以下のような流れは骨組みとして用意できるかと思います。

 

ボリビアのポトシ銀山で採掘された銀は、メキシコのアカプルコ港を通してアジアに、カリブ海を経由してヨーロッパに流入し、商業の中心が北イタリア諸都市から大西洋岸の都市に移った。新大陸では鉱山やプランテーション経営の労働力として西アフリカから黒人奴隷が運ばれ、銀や商品作物をヨーロッパへ送り、ヨーロッパの製品が新大陸やアフリカに輸出される大西洋三角貿易が成立した。アジアには、スペインがマニラに運んだ銀が交易を活発化させ、日中間の中継貿易などが盛んにおこなわれた。銀は香辛料貿易を独占したポルトガルによってインド航路経由でももたらされ、陸海交易の中継点であるイスファハンの繁栄や、インド沿岸諸都市の発展を促し、英仏のインド進出につながった。また、ポルトガルがマラッカ海峡を押さえたことでムスリム商人たちは交易をスンダ海峡経由のルートに変化させ、周辺地域のイスラーム化が進んだが、17世紀からはオランダが代わって香辛料貿易を独占し、台湾を拠点に東・南シナ海域の中継貿易を展開した。(435字)

 

これはあくまで、頭の中で「だいたいこんな流れかなー」というものを文章化したもの(実際の試験場では書きません!そんな時間はありませんw)で、解答というわけではありません。(そもそも設問が400字以内ですから。) この骨組みを確認しつつ、設問の条件や史料の内容に合わせて削ったり、つけ足したりしていきます。

 

(解答手順2:「★」の部分の答えを用意する)

 本設問では、解答の冒頭に「史料[A]の記述をもとに、新大陸産の銀がスペイン本国に運ばれるまでの具体的な流れを簡潔に説明せよ」という要求があります。これは比較的はっきりとした答えを用意できる部分(少なくとも、史料を読めば答えが書いてある部分)なので、取りこぼしのないように丁寧に作っておきたい部分ですね。ただ、この設問の言う「具体的な流れ」というのが何のことを示しているのか漠然としています。この「流れ」というのが、「手順・手続き上の流れ」なのか、「交易のルートや商品が運ばれる流れ」なのかが判然としません。ただ、史料[A]を読むと、出てくる地名は新大陸の中で完結していて、ヨーロッパにいたる交易のルートを読み取ることはできませんので、求められているのは「手順・手続き上の流れ」であることが分かります。

 史料[A]において、鉱脈が発見された後、ヨーロッパに銀が運ばれるまでの描写を読み取ると、以下のような内容を読み取ることができます。

 

①発見した鉱脈を登記し、坑打する

(坑打は問題文中に注有:採鉱者が一定の空間を自己のものとして印付けすること)

②法廷で申告する

③採掘分の五分の一を税として王室に支払う

④スペイン人、インディオが集い、採掘のための街が形成される

⑤船団によって本国に運ばれる

(⑥会計局で課税のための計量が行われ、王室帳簿に記される)

 

これらのうち、⑥はラテンアメリカから運び出されるときに行われたのか、本国に運ばれてから行われたのか判然としなかったのでカッコにしました。ですから、銀が本国に運ばれるまでの流れをまとめると以下のようになるでしょう。

 

 銀鉱を登記・坑打して法廷で申告して採掘された銀は五分の一が王室に納められ、ガレオン船団で本国に運ばれた。(52字)

 

(解答手順3:史料、設問、指示語をチェックする)

 さて、解答手順1と2をまとめるだけでも、内容がしっかりしたものであれば、おそらく設問全体の半分くらいの点数は来るはずです。この論述問題が20点なので、小問に取りこぼしがなければそれだけでも80点ですね。たしかに、この年の問題は時間的にはかなり厳しく、問題のレベルも高く難しいのですが、他の受験生との相対的な評価でとればそれほど焦る必要はなく、あきらめずに丁寧に解答を作ることはやはり大切なのだなぁと思います。

 ただ、解答手順1はもともと自分の中にある世界史的な知識をもとにつくったもので、本当に本設問の史料の内容に沿っているかどうかは分かりません。そこで、最後に史料、設問、指示語を確認して解答の精度を上げていくことになります。[A][D]の史料のうち、[A]の史料には交易ルートに関する記述がほとんどないことは解答手順2で確認済みですので、史料[B][D]を確認していきます。

 

①史料B(「カール5世への手紙」(16世紀)

:この史料は一読するとフッガー家からカール5世に対する借金返済の督促にすぎませんので、内容を熟読する必要はなく、時間もそうはかかりません。

 ただ、この史料については2点注意が必要です。1点目は、商取引の決済だけでなく国家の戦費の貸し出しをフッガー家などの豪商が担っていたことです。もっとも、フッガー家の債権回収は失敗しますし、この史料からはフッガー家が戦費の供出をしていたことは分かっても、その戦費が国外へと流出したことやその経路などは示されていませんから、これをもとに銀の流れの中に組み込むのはどうかなぁと思います。(大航海時代の銀の大きな流れを作ったのは、やはりヨーロッパ産の金銀よりも新大陸産の金銀に求めるべきでしょう)

また、フッガー家の文書であることには注意を払うべきでしょう。フッガー家はアウクスブルクの富豪ですが、その財の源はティロルの銀山やシュレジエンの金山などの鉱山経営でした。フッガー家は、新大陸からの大量の銀が流入したことで経営が悪化して没落します。この点に注目して、商業革命(商業の中心地が北イタリアなどの地中海沿岸都市から大西洋岸都市へ移る)などと結びつけてフッガー家の没落に言及するのはアリかなと思います。

 

②史料C(『ムガル帝国誌』17世紀)

:この史料は銀の経路と交易については多くの情報をもたらしてくれます。特に、受験生があまりイメージできていない中東からインドにかけての交易の様子が具体的に描かれていますので、全部とはいかないまでも一部は解答に取り入れたいところです。この史料から読み取れることは以下の通りです。

 

・インド(ヒンドゥスターン)では米、麦がとれる

・絹、綿、インディゴ、その他エジプトの商品であふれている

・インドでは絨緞、錦、刺繍、金銀糸の布や絹、綿を用いた工業製品が生産、輸出される

・金銀は世界をめぐった後に一部がインドに流入、蓄積される

・金銀の流入経路は「新大陸→ヨーロッパ→トルコ→インド」

または「スミルナ→ペルシア→インド」(地中海航路)

・トルコ、イエーメン(イエメン)、ペルシア(イラン)はインドの商品を購入するため、自国の金銀をインドに運ぶ

・バーブ=エル=マンデブの都市モカ、ペルシア湾に臨むバスラ、ホルムズに近いゴメロン(バンダル=アッバース)から金銀はインドに輸出される

・インドの商品は、インド、オランダ、イギリス、ポルトガルの船によってペグー、テナッセリム、シャム、セイロン、アチェン、マカッサル、モルディヴ群島、モザンビクなどに運ばれる(逆に、これらの地域からは金銀がインドに流れ込む)

・日本の金銀もオランダによりインドに流れ込む

・ポルトガルやフランスなど、ヨーロッパから直接インドに流入する

・インドは、銅、クローブ、ナツメグ、シナモン、象のほか、オランダ人が日本やモルッカ諸島、セイロンから運ぶ品々を購入する

・インドは馬を大量に必要としている(カンダハールからペルシアを経由したり、エティオピア、アラブ諸国からモカ、バスラ、バンダルアッバースの港を経由してインドへ)

 

 よく知らない地名もあると思うので、地名については解答を一通りしめした後に解説したいと思います。ここで注意したいことは、「インドにかなりの量の金銀が流入していること」、「取引の決済手段として金銀が用いられていること」、「流入ルートは大きく三つ(①東地中海地域やアラビア半島から紅海、ペルシア湾を経由、②アジア方面からの流入、③ヨーロッパから直接運ばれる喜望峰をまわるインド航路)」などの情報を読み取ることです。

 

③史料D(『折りたく柴の記』、18世紀初)

:史料Dは主に東アジア地域に関する情報です。史料Cと比較すると情報は少ないですが、大切な情報も含まれています。

・鎖国が行われたこと

・一方で、密貿易が増加したこと

・日本から海外に金銀が大量に流出していたこと

 

④指定語句(「黒人奴隷」、「生糸」、「ガレオン交易」)

:最後に指定語句ですが、「黒人奴隷」はすでに解答手順2で示した大枠の中に出てきますね。新大陸の労働力となったこと、大西洋三角貿易を入れれば十分でしょう。

「生糸」については基本的には中国産と考えて良いと思います。日本でも生糸は生産されてはいますが、大航海時代の頃の日本の生糸の品質は中国産には全く及ばず、むしろ日本は中国産生糸の輸入国です。鎖国によって中国産生糸がそれまでより入手しづらくなったことから、日本の各藩は養蚕業の改良に乗り出してその質が改善されるのは江戸時代の中期以降のことです。また、ビザンツ帝国をはじめヨーロッパの各地でも養蚕業自体はありますが、やはり中国産生糸や絹の品質は抜きんでていました。

 最後に、「ガレオン交易」は新大陸からの銀の輸送船団として用いれば十分だと思います。

 

(解答例:大問1論述)

 新大陸スペイン領では、銀山経営者は銀鉱を登記・坑打して法廷で申告し、採掘した銀の五分の一を王室に納め、本国に運んだ。カリブ海経由での銀流入で商業の中心は北伊から大西洋岸に移り、物価が高騰し、フッガー家没落や東西ヨーロッパの国際分業につながった。西アフリカからの黒人奴隷を労働力に産出したポトシの銀はガレオン交易でアカプルコからマニラに運ばれ、中国産生糸などを扱う中継貿易を活発化させ、日本銀もアジアに流入した。銀はポルトガルの香辛料貿易や西アジア諸国の絨毯や錦などインド物産購入によってインド航路や紅海、ペルシア湾経由でアジアに流入し、陸海交易の中継点であるイスファハンや、インド沿岸諸都市の発展を促した。欧州諸国の進出と銀の大量流入は銀を決済手段として世界各地の交易圏を連結した国際的市場経済を成立させたが、ムスリム商人が交易をスンダ海峡経由のルートに変化させるなど従来の交易ルートの変更も促した。(400字)

 

 この設問については出題者の意図がくみ取りづらいところがありました。それは、出題者が史料の深い読み取りを要求して、時代ごとの変遷や各交易ルートにおける商品、担い手などの変遷まで書かせようとしているのか、それとも史料はあくまでも味付け程度で、一般的に理解されている世界史の知識をつかって、設問の要求に合わせた概要を書けばよいと考えているのか、どちらなのかいまいち読めませんでした。設問の指示を素直に読めば、求められているのは前者の解答なのですが、正直なところ、前者の解答を用意するには400字では無茶もいいところですし、まして60分では到底仕上がりません。ですから、あまり細部にこだわりすぎてガタガタな文章になってしまうよりも、早い段階で見切りをつけて後者の視点で解答を作ってしまう方が良いと思います。上の解答例はそうした妥協の産物だとご理解くださいw 解いてみての感想ですが、例年と比べてこの年の設問は練れていないというか、実際の受験生や解く側のことをあまり考えていないような気がするというか、バランス悪い感じがしました。

 東京外語は本当に交易と世界の一体化好きですね。また、他の大学ではインド洋海域って問題が作りづらいせいかあまり出ないのですが、東京外語はわりとがっぷり四つに組んだインド洋海域問題出してきます。2014年の外語の問題もヨーロッパのインド洋、アジア諸地域への進出と世界の一体化がテーマの問題でした。まだご覧になっていないかたは是非一度ご覧になると良いと思います。

 

(補足:史料中に示された地理的要素について)

 さて、それでは特に史料Cの中で示された地名やルートがどういったものなのかを確認したいと思います。まず、トルコ、イエメン、ペルシアのおおよその位置関係です。イエメンはアラビア半島の南端、ペルシアは今のイランですね。ただ、この時代の「トルコ」はオスマン帝国のことですから、厳密には東地中海一帯はトルコの扱いになりますね。また、「ペルシア」は16世紀以降はサファヴィー朝のことだと考えて差し支えありません。

紅海アラビア海1


 オスマン帝国

(「オスマン帝国」Wikipedia

 

史料の中に登場するバーブ=エル=マンデブはアラビア半島と東アフリカによって作られた紅海の出口の海峡のことで、モカというのはそこにあるイエメンの都市です。世界史でも出てくるアデンがすぐそばにあります。

モカ
「モカ」(Wikipedia

また、バスラはイラン南東部、ティグリス・ユーフラテス両河川の合流してできるシャトゥルアラブ川の沿岸都市、さらにゴメロンことバンダル(レ)=アッバースはホルムズに面してイラン側にある港湾都市です。

ペルシア湾岸


つまり、何のことはない、要はこの史料で書かれているのは世界史でよく出てくる紅海ルートと、東地中海からティグリス・ユーフラテス両河川を下ってペルシア湾岸に出てくるルートで銀がインド方面に流入していく様子を描いているにすぎません。

 また、ペグーはビルマ、テナッセリムはマレーシア、シャムはタイ、アチェンは多分アチェーでスマトラ北部、マカッサルはインドネシア(スラウェシ島)の都市ですし、モルディヴはインド西南の島、モザンビ(-)クは東アフリカですから、これらはインド洋海域をぐるっと取り囲むような各地域を示しています。史料からは、インドを中心に各地域に放射上にインドの物産が出ていく様子(逆に銀がインドに集中していく様子)を思い描くことができます。(もっとも、実際には沿岸を行くので、インド洋をドカンと横断するような命知らずな航路を思い描かれると困りますがw)

インド洋交易
 

また、取引されていた商品についてです。

・インディゴ

:植物性の青い染料です。藍のことですね。

・絨緞

:ペルシア絨緞は有名ですね。イラン周辺では羊毛や綿を用いた織物生産が盛んです。

320px-Ardabil_Carpet
(「ペルシア絨毯」Wikipedia)

・クローブ(丁子)

:モルッカ諸島原産の香辛料です。名前の通り「丁」の字に似ているのが面白いです。

丁子
(「クローブ」Wikipedia)

・ナツメグ

:同じくモルッカ諸島原産の香辛料で、肉や魚料理の匂い消しなどに使われます。

natumegu
(「ナツメグ」Wikipedia)

・馬

:インドでは従来は戦闘などでも象が使われていましたが、インドにムスリムが進出する中で次第に先頭の中心が馬へと変化します。ヴィジャヤナガル王国などは西アジアからかなりの頭数の馬を輸入していたようで、これについては近年あちこちの教科書に記載されるようになりましたが、教科書によっていくらか記述の仕方には差があるようです。(東京書籍『世界史B』平成30年度版には、本文ではなく注の部分に写真付きで「交易するポルトガル商人」のレリーフの写真と解説文が掲載されています。(p.222) 東京外語で出題されたところを見ると、今後もしかすると出題の頻度が上がるかもしれませんね。

 

【大問2論述(100字)】

(設問概要)

・(1920年代から1930年代にかけての)アメリカの繁栄がもたらされた経緯について説明せよ。

・その後の社会の変化について説明せよ。

・指定語句:第一次世界大戦 / フォード / 移民法

100字以内

 

(解答手順:指示語の分析)

 えらくアバウトな条件設定の設問です。そもそも、1930年代のアメリカは世界恐慌のまっただ中ですので、とても「アメリカ社会の繁栄」の時期ではないような気がします。おそらく出題者は1920年代の繁栄を意図しているのでしょうが、1929年には世界恐慌ですし、その後はニューディール政策ですから、1930年代と言われると、「その時期にかけてのアメリカ社会の繁栄」って言っちゃっていいものなのかなぁと疑問を感じます。

また、「1930年にかけて」であれば1920年から1930年で時期を設定してもいいのですが、「1930年代にかけて」と言われると「1930年代のどこまでにかけてじゃい」と突っ込みたくなります。多分、元々は「アメリカ的生活様式は1920年代から30年代にかけて形成されるものなんだよな~」、と何となく考えて文章をつくりつつ、「1920年代から30年代にかけて<の>アメリカ社会の繁栄」と文章をつないでしまったためにおかしなことになってしまったんじゃないかなぁと思います。

 ただ、設問自体が100字ですし、それほど入り組んだことを聞いているわけでもないと思いますので、基本的には1920年代のアメリカ社会の繁栄について書けばよいだろうと思います。また、字数が短いので指定語句を分析・活用していけば自然に解答の輪郭は見えてくるでしょう。

 

①第一次世界大戦

:第一次大戦中の物資供給による債権国への上昇や、戦後のヨーロッパの荒廃と、ヨーロッパに物資を輸出したアメリカの繁栄について書けばよいでしょう。1920年代、アメリカはハーディング・クーリッジ・フーヴァーと3代続く共和党政権のもとで経済界の利益を重視する政策がとられ、国内的には自由放任、対外的には高関税を課す保護貿易政策がとられました。高関税政策にもかかわらずアメリカの輸出が不振にならなかった原因は、終戦直後のヨーロッパでは荒廃がひどく、物資の輸入やアメリカ資本を受け入れざるを得なかったからです。ですが、ヨーロッパ経済が回復するとアメリカでは生産過剰によるモノ余りが進行し、これが価格下落と企業業績の悪化につながり、世界恐慌の背景となります。1920年代の成功に味をしめたフーヴァー大統領のスムート=ホーレー法(超高関税による国内産業の保護政策)は逆にアメリカの輸出不振を招き、さらに欧州のブロック経済形成による国際貿易の急激な縮小につながり不況を長引かせることになりました。

②フォード

:ベルトコンベア方式による大量生産によるフォードT型の普及について言及するべきでしょう。当然、大衆消費社会の到来についても合わせて示すべきです。

③移民法

:アメリカへの移民の増加は、奴隷解放宣言によって終了した奴隷制に代わる安価な労働力の供給源として重要でした。労働力が安価に供給されることでアメリカの工業化はその推進力を得ていたわけです。ですが、移民の増加は移民に対する風当たりを強くし、その制限などが行われました。1924年の移民法では日本人移民の禁止に加えて南欧・東欧系の移民の実質的な制限が行われました。

 

(解答例)

 第一次世界大戦中の物資供給で米は債権国となり繁栄した。フォードの大量生産は自動車普及に象徴される大衆消費社会を現出したが、WASPなどは保守的価値観を持ち、移民の入国を禁止・制限する移民法制定につながった。(100字)

 

まぁ、100字ならこんなものではないでしょうか。

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2015年 東京外国語大学「世界史」解説

記述問題概要

2015年の各記述問題(小問)概要は以下の表の通りです。

2015東京外語大学小問一覧
 

印象としては、この年の小問は比較的難しい(または答えにくい)内容が多かったように思います。大問1では問6、大問2では問1・問5あたりは答えられない受験生が多かったかもしれません。以下、注意すべき点について解説していきます。

 

(大問1、問1)

まず、大問1の問1ですが、史料読解問題になっています。本文(史料)中に空欄()が配置されており、これについて様々なヒントが示された上で、()に入る国名を答えなさい、というものです。史料全てを掲載するのは煩雑ですので、そちらは赤本なりを参照していただくとして、本設問を解くにあたり重要なヒントを示したいと思います。

 

ヒント1:史料から読み取れるヒント

では、奴隷貿易が存続しており、英国の反対にもかかわらず、それを継続しようとしている。

で奴隷貿易が存続している原因は、原生林を切り開き、土を耕し、炎天下で働き、サトウキビや綿花やキャッサバなど、熱帯気候の農作物を育てることができる勤勉な人々、人口が不足しているからである。

 

ヒント2:設問から読み取れるヒント

1822年にポルトガルから独立したラテンアメリカのある国である。

・イギリスはの独立を承認する代わりに、に奴隷貿易を廃止させようとして1826年に奴隷貿易禁止条約を締結したが、条約は死文化して、では1850年代まで奴隷貿易が存続した。(大問1の問1より)

の皇帝はペドロ1世である。(大問1の問2より)

 

本設問で決定的なのはまず、ラテンアメリカに存在したポルトガルの植民地という部分です。これだけで「ブラジル」という答えを導くことは可能です。また「君主国」であり、その皇帝が「ペドロ1世」であるということからも情報を確定することができます。もちろん、ラテンアメリカで奴隷制が続いていて、サトウキビなどの栽培が行われているという情報からでもある程度は答えを導くことが可能ですが、完全に答えを確定させるには固有名詞や個別の事実に依拠する方が確実でしょう。

 

ブラジルは元々ブラガンサ朝ポルトガルの植民地でしたが、ナポレオン戦争にイベリア半島が巻き込まれた結果、当時のポルトガル宮廷は植民地であるブラジルのリオデジャネイロに一時避難します。この街は、18世紀の前半に内陸部で金が発見されたことから金採掘のための拠点都市として急速に発展した街です。

 

宮廷が移転したことで、イベリア半島からやってきた本国ポルトガル人とブラジル人との間で次第に確執が生じます。また、この宮廷の避難やその後のイベリア半島の奪回などにイギリスが深くかかわっていたことなどからポルトガルやブラジルではイギリスへの経済的従属が進みます。さらに、宮廷がリオに遷ったことでポルトガルブラジル間の関係が微妙なものになります。「本国植民地」の関係が「植民地本国」へと変化してしまったのです。

 

こうした変化に対する不満からポルトガルで自由主義革命(1820)が起こると、革命政権は国の秩序を回復するためにリオのポルトガル王家にポルトガルへの帰還を要請し、宮廷はこれに応えてポルトガルへと戻りますが、帰国したのは国王ジョアン6世とその近臣たちで、皇太子ペドロはリオに残されました。しかし、その後「本国」の立場に復帰したポルトガルは、ブラジルを再度「植民地」の立場へと追いやる施策を続けたため、これに不満を感じたブラジル人たちは残されたペドロを担ぎ出し、ポルトガルから独立します(1822)。

 

 だからと言って、ペドロとポルトガル王室の関係が極端に険悪になった、というわけではなかったようです。このことは、父ジョアン6世が死んだ際にペドロが一時的にではありますがポルトガル王(ペドロ4世)として即位したことからもうかがえます(1826)。ペドロ自身はブラジルがポルトガルから独立したとはいえ、対等な関係での「同君連合」を取り結び、その王に父王ジョアンがつくことを想定していたようです。しかし、ブラジルのクリオーリョたちにその意思はなかったため、最終的にはペドロ自身がブラジルの「皇帝(ペドロ1世)」として即位する立憲君主国が成立しました(1824)。

 

(大問1、問6

奴隷貿易にたずさわった黒人王国としてよく出てくるのはベニン王国ですが、用語集や『詳説世界史研究』あたりだとアシャンティ王国やダホメ王国も出てきます。名前は知っている受験生も位置関係を視覚的に把握している受験生は少ないのではないでしょうか。これらの国々のおおまかな位置関係は以下のようになります。


黒人王国
 

 

念のためおことわりしておきますと、ものすごくアバウトな位置関係になります。特にベニン王国はひどいですねw ベニン王国はニジェール川の下流西岸一帯くらいで考えておくと良いかと思います。いずれにしても、

 

ベニン王国=ニジェール川下流(現ナイジェリア)

ダホメ王国=現ベナン共和国

アシャンティ王国=現ガーナ共和国

 

という位置関係になっています。どこも奴隷貿易で栄えた国ですが、ベニン王国の繁栄が早く15世紀末以降であるのに対し、18世紀に入るとベニン王国にかわりダホメ王国やアシャンティ王国が勢力をのばします。

最近はこれとは別に内陸にあったブガンダ王国(現ウガンダ)なども用語集の中には見られますね。

 

(大問1、問7)

クックですが、以下の二人がいることに注意して下さい。

・ジェームズ=クック

18世紀イギリスの航海者。ベーリング海峡からニュージーランドを探検し、ハワイで先住民に殺害された。

・トマス(トーマス)=クック

19世紀イギリスの旅行業者。ロンドン万博(1851)にちなんで国内の夜行列車や乗合馬車を利用したツアー旅行を計画、成功させた。その後はパリ万博(1855)、スエズ運河開通などを機とする海外旅行も計画。今でも彼にちなむトーマス=クック=グループという旅行者は存在する。

 

(大問2、問1)

津田梅子は日本史の設問としては平易ですが、世界史の設問としては少々厳しいです。ですが、津田塾大学(旧女子英字塾)の創始者、日本の女子教育の先駆者として常識の範疇といえば確かにその通りですし、「明治期の女子教育の先駆者」ということになれば他に浮かぶ名前もないということで、書けた受験生も案外多かったのではないでしょうか。

 

(大問2、問5)

イプセンをおさえている人はそう多くないのではないでしょうか。「近代演劇の父」と呼ばれる人ですが、世界史で出てくるのはノルウェー出身の人物であるということと『人形の家』の作者であることだけです。『人形の家』は、夫である弁護士の示す愛情は表面的で上っ面のものであることを薄々感じつつも平穏に日々を過ごす妻が、ある事件をきっかけに自分に対する態度を豹変させた夫を見て(社会的地位が脅かされると感じた夫がそれまで寵愛していた妻をなじり始める)、自分を一個の人間として見ず、可愛い「人形」としてしか見ていない夫に絶望して家を出るという物語です。こうした物語の内容もありますので、北欧史や女性史に関連する設問ではわりに出題しやすい人物であると言えるでしょう。

 

論述問題解説

【大問1、問9】

(設問概要)

・カニングが史料[A]において、(ブラジル)の独立を認めようとしつつ、ブラジルが行っている奴隷貿易の廃止を訴えた理由を400字で説明せよ。その際、ウィーン体制発足後の国際関係についても言及せよ。

・指定語句

:メッテルニヒ / モンロー / 安価な労働力 / 1807 / 工業製品

 

(条件・前提・与えられている材料)

1822年にポルトガルから独立を宣言したある国(    )[設問1でブラジルとわかる]について言及した3つの史料(の独立承認をめぐるカニングの覚え書きの一部、に立ち寄ったビーグル号船長フィッツロイの航海記、同じく、に立ち寄ったダーウィンの航海記)が示される。

・イギリスは人道主義だけでなく経済的な利害関心から、特に砂糖生産をめぐる国際競争の観点からポルトガルに奴隷制度を廃止させようとした点が設問で示されている。

・以下のグラフが示された上で、ブラジルの砂糖輸出が拡大する一方で英領西インド諸島の砂糖生産が衰退傾向にあったことが設問内で説明される。

 
砂糖輸出

 

[A]-[C]の史料と設問1~8を参考にせよ。

・アラビア数字、アルファベットは1マスに2文字ずつとする。

・指定語句を使用した箇所全てに下線を付すこと

 

(史料)

史料については解説の都合上必要な部分、注意すべき部分のみ抜粋します。

 

[史料A:A. G. Stapleton, The Political Life of the Right Honourable George Canning, 1831. およびLeslie Bethell, The Abolition of the ******Slave Trade, 1970]

※  ちなみに、設問には「表題を一部伏せた」という注がつけられていますが、これは何も差別用語や放送禁止用語がつかわれているからというわけではなく、******の部分に’Brazilian’の語が入るためですw 表記すると答えがばれちゃうのですねw

※  史料中、( )で略、中略とされているのは私が省略した部分、[ ]で略されているのは設問の段階で省略されていた部分です。

 

ブラジルは合法的奴隷貿易の一大中心地です。(中略)しかし、諸々の事情により、奴隷貿易全廃の可能性が見えてきました。(中略)それは、イギリスの決断がブラジル独立の成否を左右すると考えられるからです。しかし、もし、われわれが判断を遅らせ、オーストリア皇帝が娘の要請に応えることになったら、あるいは、フランスが奴隷貿易の存続を支持し、それを支援することになったら、イギリスが独立を認めるかわりに、ブラジルは奴隷貿易を廃止するという我々の提案は時宜を失ってしまいます。[中略]③西インド植民地を救う方法は、奴隷貿易を全廃することであり、それはブラジルに奴隷貿易を廃止させることによってしか達成できないのです。

 

[史料B:Robert FitzRoy, Narrative of the Surveying Voyages of his Majesty’s Ships Adventure and Beagle, 1839.]

 (略)ブラジルにおいて奴隷制度が存続しているのは、人口が不足しているからです。もちろん、それだけが奴隷制度の原因というわけではありませんが、やはり原生林を切り開き、土を耕し、炎天下で働き、サトウキビや綿花やキャッサバなど、熱帯気候の農作物を育てることができる、勤勉な人々が不足しているのです。

 人口不足を解消するのは非常に困難なため、ブラジルなどでは、自分のことしか考えない、行き当たりばったりの大地主が、不運にみまわれた人々を、何百人、何千人と連行してくるのです。(略)

 

[史料C:Charles Darwin, Journal of Researches into the Natural History and Geology of the Countries visited during the Voyage of H.M.S. Beagle round the World, 2nd ed., 1845.]

 (省略)

 

(採点基準と解説)

・本設問で要求されていることを整理します。本設問での要求は「カニングがブラジル独立を認める一方で、ブラジルの奴隷貿易廃止を訴えた理由を説明すること」、「ウィーン体制発足後の国際体制に言及すること」、「指定語句としてメッテルニヒ / モンロー / 安価な労働力 / 1807 / 工業製品」を用いることの3点です。(あと、指定語句に下線を忘れないように)

 

・まず、本設問を解く上でスッキリさせておきたいのは、=ブラジルということです。これを導くことは上に書いた設問1の解説からもわかる通り、それほど難しいことではありません。仮にこれが導けなかったとしても当時のとイギリスとの関係は設問中にかなり示されていますし、当時のイギリスとラテンアメリカ、ヨーロッパをめぐる国際関係は受験ではありきたりのテーマですから、解答を作成することは十分に可能ですが、やはり分からないままで解くとなると、何となくスッキリしない、ムズムズした感じが残るのではないかと思いますので、ここははっきりブラジル、としておきたいですね。

 

・次に、設問の周辺にかなりのヒントがちりばめられていることに注目しましょう。すでに設問のうちヒントになりそうな部分は上で示してありますが、整理すると以下のようになります。

 

カニングはブラジルの独立を承認しようとしていた。

カニングはブラジルの奴隷貿易をやめさせたいと考えていた。

カニングがブラジルの奴隷貿易に反対した理由は人道主義からのみではないこと。

カニングがブラジルの奴隷貿易に反対した理由に砂糖生産をめぐる国際的な競争があったこと。

当時、ブラジルが砂糖輸出を拡大していたのに対し、ジャマイカ(設問中で英領西インド諸島であることが明示されている)の砂糖生産は衰退していたこと。

 

・つづいて、史料から読み取れることを検討します。

 

まず、史料Aですが、この史料だけを読まされたとすれば非常に難解な史料であるかもしれませんが、設問の中でカニングの意図()については明確に解説されています。

それでもよくわからない箇所があるとすれば、下線部で示されている「オーストリア皇帝が娘の要請に応えることになったら」という部分でしょうが、これについても大問1の問2の問題文において「オーストリア皇帝フランツ2世の娘マリア・レオポルディーネは(ブラジル皇帝)ペドロ1世の皇后だった。」と書いてあります。さらに、「そのため、スペインから独立したラテンアメリカの新生共和国は、オーストリアを中心とする神聖同盟の再植民地化政策を警戒した。」とまで書かれています。当時の事情をしっかりと思い出せない人も、こうしたことをヒントにすれば、ラテンアメリカの独立とウィーン体制の関係、さらには当時の合衆国やイギリスの外交政策をある程度正確に思い出すことができるのではないでしょうか。

 

さらに、上に書いた史料Bの赤字で示した部分を読めば、当時のブラジルにおいて黒人奴隷は「原生林を切り開き、土を耕し、炎天下で働き、サトウキビや綿花やキャッサバなど、熱帯気候の農作物を育てることができる、勤勉な人々」として重要であり、地主によって絶えず輸入され、酷使される存在であったことが読み取れます。このことから、当時のブラジルにおけるプランテーション経営と黒人奴隷の関係について述べることは比較的容易でしょう。

 

ただ、ここで問題となるのは史料Cです。史料Cは進化論で有名なダーウィンが書いたビーグル号での航海記です。ダーウィンは確かに奴隷反対論者で、このビーグル号の航海でもフィッツロイと奴隷制をめぐり意見の対立があったといわれます(もっとも、本設問の史料ではそのあたりがはっきりとは見えてきませんが)。ですが、今回この史料Cを見る限りでは設問の要求に答える際に必要となるようなヒントは特に見当たりませんでした。強いて言えば、当時のイギリスの人々が持っていた奴隷制に対する見方や感情がどのようなものであったかという具体例からエヴァンジェリカル(福音主義的)な要素を導くことくらいでしょうか。エヴァンジェリカリズムについては後で述べることにして、ここでは、「史料C」を配置した意図が気になる、とだけ示しておきたいと思います。設問を作る側からすれば、何らかの意図があってこの史料を配置したと思うんですが、この史料からはそれが明確に見えてこないんですよね。私が何か見落としているのかもしれません。

 

・さて、以上のことをベースとして採点基準になりうるポイントを考えていきましょう。これらのポイントの中には通常の受験世界史を勉強していれば書ける内容と、史料・設問がヒントになって書ける内容の両方があると思いますが、今回の設問では必ずしもその境界がはっきりしません。そこで今回は「世界史の(東京外語レベルを目指した)基本的な学習からすれば書けるはずの事柄」のみ赤字で強調することにしてポイントを列挙してみたいと思います。

 

①    カニングがブラジルの独立を承認しようとしていた背景にはイギリスの自由貿易主義が背景にあったこと。

②    一方で、カニングがブラジルの奴隷貿易に反対した背景には、英国内の奴隷制反対の世論があったのみならず、イギリス領西インドの砂糖輸出がブラジル産砂糖輸出の拡大によって圧迫されているという事情があったこと。

③    ②のような状態に陥った背景には、イギリスが奴隷制を廃止しつつあった(奴隷貿易廃止は1807年、奴隷制廃止は1833年)ために、農場経営に不可欠な安価な労働力を確保できず、砂糖生産のコストが上がったのに対し、ブラジルでは奴隷制が維持されたことから安価な砂糖を生産でき、国際競争においてブラジル産砂糖が優位に立っていたこと。

④    ウィーン体制発足後のヨーロッパではナショナリズム・自由主義を抑圧するための神聖同盟・四国同盟が結成されたこと。

⑤    ウィーン体制は1820年代までのヨーロッパ内ナショナリズム・自由主義の弾圧には成功した(ギリシア独立を除き)ものの、ラテンアメリカ諸国の独立を防ぐことができなかったこと。

⑥    ⑤の一因に、当初は四国同盟の一員であった英国が自由主義貿易、自由主義外交への転換によって四国同盟を離脱し、メッテルニヒ主導のウィーン体制とは一線を画してラテンアメリカ独立を支持したことがあること。

⑦    英国がラテンアメリカの独立を支持した背景にはラテンアメリカへの経済的関心があったこと。

⑧    同じく、合衆国はモンロー宣言によってアメリカとヨーロッパの相互不干渉を主張し、同じくラテンアメリカの独立を支持したこと。

⑨    イギリスでは、18世紀末から19世紀初頭にかけて、ウィルバーフォースをはじめとする福音主義者やクウェーカー教徒の活動によって奴隷制廃止の運動が高まっていたこと。

 

こんな感じでしょうか。極論を言ってしまえば、ラテンアメリカの独立についての部分をしっかり勉強していた人であれば、仮に設問の要求している史料読み取りができなかったとしても、まぁ多少の点数は入りそうな雰囲気です。採点する側からすると残念な(質が、というよりも自分の意図を理解してもらえなかったことが)答案に見えるでしょうがw

 

 脱線しますが、いつも申し上げている「論述はコミュニケーション」というのは実は出題する側も同じで、出題する側は「これくらいの材料を提供すれば、きっとこちらの誘導に乗って、これくらいの内容を書いてきてくれるかな。どれくらいの人が正解にたどり着けるかな。」と意地悪な気持ち半分、期待半分でわくわくして待っていたりします。肝試しの脅かし役みたいな気分ですねw 脅かしてやろうとワクワクして待っているところに、正規のルートではないショートカットを通ってゴールされたのでは「あ、うん。そうね。そっちの道を通っても確かに着くかもしれないけどさぁ。せっかく待ってるんだからこっちに来てよ」とがっかりするわけですねw

 
小暮
 © 井上雄彦『SLAM DUNK』集英社

 

解答例

ナポレオン没落後に発足したウィーン体制を主導するメッテルニヒは、ラテンアメリカの独立運動が欧州の自由主義とナショナリズムを刺激することを恐れて干渉を試みたが、英外相カニングは産業革命の進展と産業資本家の成長により国内で高まっていた自由貿易要求を受け、四国同盟と一線を画し諸国の独立を支持した。また、独立して間もないアメリカ合衆国大統領モンローも欧州による干渉を恐れアメリカ・ヨーロッパの相互不干渉を主張したため、メッテルニヒは干渉を断念した。こうした中で、ブラジルの独立を工業製品輸出による経済支配拡大の好機と捉えたカニングはその独立を支持した。一方で1807に奴隷貿易を廃止したことで国際競争力が低下していた英領西インド諸島の砂糖産業救済のため、ブラジルの砂糖プランテーションで安価な労働力である黒人奴隷が使用されることを止めようと奴隷貿易廃止を訴え、英国内の福音主義者などの奴隷廃止論者はこれを支持した。(400[18074字で2字扱い]

 

(おまけ:奴隷制廃止)

 奴隷制の廃止について、受験世界史で出てくる人物としてはウィルバーフォースがあげられます。もっとも、彼の名前は用語集には出てきますが、『詳説世界史研究』(2016年版)にはまだ登場していないようです。『詳説世界史研究』の奴隷制廃止に関する箇所を見てみると、以下のように出ています。

 

18世紀末からの革命思想によって人間の尊厳に対する人道主義的世論が高まり、1807年イギリスにおける奴隷貿易が禁止され、さらに33年植民地も含む奴隷解放令がグレーGrey1764-1845、任1830-34)内閣のもとで成立し、38年有償方式による全奴隷の解放が実現した。」(同書p.362

「イギリスでは18世紀からクウェーカー教徒によって奴隷反対運動が進められていた。デフォーやアダム=スミスなども反対を表明した。」(同書p.362,3

18世紀後半から非国教各派による奴隷制と奴隷貿易の廃止を求める運動が展開された。ナポレオン戦争中に奴隷貿易が停止され、1833年、イギリス帝国全体で奴隷制度を廃止することが決定されたのは、この運動の成果である。奴隷貿易廃止への動きは、ヨーロッパにおける産業と社会の構造変化を反映するものであった。19世紀前半に西アフリカからのアブラヤシの輸出が急速に拡大したように、アフリカはもっぱら工業化を進めるヨーロッパにとってのヤシ油・ピーナッツ油・綿花などの原料供給地と工業製品市場の役割を果たすことになった」(p.435

「イギリスはウィーン会議(1814-15)で奴隷貿易の禁止を提起した。その背景には、解放奴隷を産業化推進のための労働力として確保しようという意図があったと考えられる。フランスではフランス革命の時にいったん奴隷制度が廃止されたが、最終的には1820年に奴隷貿易が、48年の二月革命において奴隷制が廃止された。スペイン植民地における奴隷制廃止は1883年であった。」(p.435,注1)

 

『詳説世界史研究』のレベルで奴隷制廃止について書いてあるのがこの程度ですから、かなりよく勉強している受験生でも奴隷制廃止の経緯とその周辺の物事の詳細についてはご存じない方が多いのではないでしょうか。

 

 まず、イギリスで奴隷制廃止論が高まっていくのは18世紀末のことです。イギリスで奴隷制度反対の動きが高まった背景としては様々な原因が考えられます。学問的には諸説あるとは思いますが、わかりやすく話を理解することを重視すれば(w)、大きく以下の点をあげることができると思います。

 

早くから農奴制が消滅していたこと。

二度の「革命」を経て人々の「自由」、特に人身の自由にかんする意識が高まっていたこと。

黒人奴隷取引の実態が非常に悲惨で酸鼻にたえない状態であったこと。

イギリス本国内に連れてこられた黒人奴隷の法的扱いをめぐってたびたび世論を巻き込む議論が巻き起こったこと。

クウェーカー教徒を中心とした奴隷制反対運動が起こったこと。

ウィルバーフォースをはじめとする福音主義者たちのキリスト教的な博愛主義が、同じく奴隷制反対運動へと向かわせたこと。

産業革命の進展により、イギリス本国の産業構造が変化していたことと、産業資本家の勢力が国政に対する圧力として働いたこと。

 

まぁこんな感じでしょうか。世界史で時々言及される「クウェーカー教徒」や「福音主義」はある意味当時のイギリスを知る上ではとても重要なのですが、これらの全体像を把握しようとすると下手するとそれだけで小冊子が一冊書けてしまうことになるので、ここでは深入りしません。ここでは、18世紀以降のイギリス(またはアメリカ)においてはたびたび信仰覚醒運動と呼ばれる動きが起きて主流の教会・宗派とはことなる宗派が分離、または対立していくことと、19世紀において大衆の運動に大きな影響を与えたものに福音主義があるのだということだけおさえておけば十分だと思います。詳しいことが知りたいということでしたら、それこそ大学でイギリス史近代史を専攻してみるのも面白いと思います。高校で勉強する世界史は歴史の本当にほんの一部分にすぎません。もっとも、史学科に進学するのであれば、「就職向けのスキル・勉強もしておいて、大学の歴史はあくまでも趣味の一環と割り切って勉強する」、「大学院(修士)くらいまではいくつもりであらかじめ教員免許も取っておく」、「本気で研究者になるつもりでガンガン留学したり生の史料から読み漁っていく」など、卒業後に最低限の「物の役に立つ」レベルまで持っていっておかないとあとで何にも残らないということがあり得ますのでお気をつけてw

 
あおえく
 © 加藤和恵『青の祓魔師』(集英社)

 

 受験用の世界史として奴隷制廃止を理解するのであれば、上の原因をさらに整理して「A:革命や啓蒙思想、自然法思想などの様々な要因から人間の自由や最低限の待遇を重視する[人道主義]とも呼ぶべき考え方が広まり始めていたこと」、「B:こうした[人道主義]と、クウェーカー教徒や福音主義者などのキリスト教的博愛の実践を重視するセクトが奴隷制廃止に向けた運動を精力的に展開したこと」、「C:工業化が進展したイギリスで必要であったのはむしろ流動的な労働力で、固定の維持費がかかる奴隷制度は(少なくとも本国では)必要なかったこと」の三点を理解しておくべきでしょう。

 

 個人的にはCの工業化と必要とされる労働力とのマッチングが、19世紀の欧米の変化を理解する上で大切なポイントなのではないかなと思っています。たとえば、南米で16世紀以降展開した金・銀の採掘や商品作物のプランテーションといった農作業は基本的に一日中、一年中作業することが期待される労働です。こうした環境下においては、多少の維持コスト(住居費、食費、衣類など)がかかったとしても、休まず徹底して酷使することが可能な黒人奴隷は理想的な「安価な労働力」となりえます。ですから、クリオーリョによるプランテーション経営が中心的な産業であった旧スペイン植民地、19世紀以降同じくコーヒーのプランテーション栽培が拡大したブラジル、綿花プランテーションが発展したアメリカ合衆国南部といった地域では奴隷制の維持は最重要の前提でしたし、実際にこれらの地域で奴隷制が廃止されたのも19世紀の後半から末にかけてと、かなり遅れてのことでした。

 一方、工業化が進むとこうした奴隷を抱えることは必ずしもコストの削減にはつながりません。工場で製品を生産する場合、好不況の波や、流行り廃りといった要因にも影響を受けて、工場をフル稼働させるべき時期と、むしろ生産を縮小するべき時期に差が出てきますので、一年中同じように工場で労働させれば良い、というわけにはいきません。1年中同じように働かせ続けないのであれば、労働力を「所有物」として維持し続けることはむしろコスト高へとつながります。つまり、工業化された地域で必要とされる理想的な「安価な労働力」となるのはむしろ「流動的な」労働力、雇いたい時に安く雇うことができて、クビにしたい時にはすぐにクビにできる、そういう労働力です。それがつまり、イギリスでは「都市に流入する余剰人口」であり、アメリカ合衆国であれば「移民」ということになるわけです。

 このように考えれば、産業革命をいち早く達成したイギリスや、工業化の進展した合衆国北部でなぜ、早くに奴隷制が廃止されたのかをよく理解することができます。もちろん、人道主義や博愛主義というものの影響もあったのでしょうが、これらの地域の支配層にとってもはや奴隷制は必要なものではなかったことも理由としてあげられます。むしろ、特に合衆国においては、南部のプランターの所有から解放された奴隷たちが流動的な労働力に転化していく方が、工業化が進んだ北部の利益にかなうという側面があったのです。南北戦争に発展するほど北部が奴隷制に反対した理由が、人道主義とアンクルトムの小屋だけだなんて、ねぇ。

近代経済学についてテーマ史を書いたところでもご紹介したように、当時の工業化や産業資本家の台頭は、既存権力との対立や社会システムの変化と密接に関連しています。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_216372.html)このあたりを深く理解していくと社会・経済史は俄然面白くなりますし、「歴史って何の役に立つの?」という残念な疑問も自然と解消されてきます。

 

【大問2 問4】

(設問概要)

・インド大反乱の結果を受けてイギリスのインド統治はどのように変化していったか100字以内で説明しなさい。。

・パクス=ブリタニカ期の英国女王の名と、指定語句(東インド会社 / ムガル皇帝 / インド帝国)を用いなさい。

・語を使用した箇所全てに下線を引きなさい。

 

(解説)

ちょっとびっくりしたのは、本設問にジャーンシー藩王国王妃ラクシュミー・バーイーの名前が登場したことです。ラクシュミー・バーイーは、ジャーンシー藩王ガンガーダル・ラーオの妃でしたが、せっかく生まれた子が病没した後に夫にも先立たれた結果、当時の東インド会社が展開していた「失権の原則」という、後継ぎがいない場合にその王国を東インド会社の所有とするとする取り潰し政策にあって追放されてしまいます。ですが、それから数年後にシパーヒーの乱が起こるとこれに加わり各地を転戦、大活躍をしたインドの英雄です。超有名人なんですが、なぜか世界史にはあんまり出てきません。

ですから、大学の試験問題で、しかも東京外語などというA級大学で出題されたことにHANDは萌えましたw ラクシュミーを想像するときの私のイメージ図は私が中学生の頃に出版され始めたラノベ『風の大陸』に出てくる、祖国を出奔して男装のまま主人公と旅を続ける少女、ラクシです。いのまたむつみのイラストが美麗だったのですが、途中から多少話が退屈になってきたので10巻あたりで読むのをやめましたw 今調べたら完結したそうです。1990年に始まって2006年完結って

 
風の大陸
 © 竹河聖『風の大陸』(富士見書房) 

イラスト:いのまたむつみ

 

脱線しました。あ、ちなみに今回の設問では残念ながらラクシュミーの出番はまったくありません。というより、リード文となっている2次文献全体がそれほど必要ないですね。きわめてオーソドックスな問題です。要は、それまで東インド会社が行っていたインド統治権がイギリス国王へ移譲されてインド担当大臣が新設されて統治される方式へと変わり、さらに反乱の途中でムガル帝国が滅亡したことを示して、最終的にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国が成立したことを述べればそれで十分です。論述としては基本問題の部類に入るものだと思います。

 

一点、設問について難癖をつけるとすれば、設問では「インド大反乱の結果をうけて、イギリスのインド統治はどのように変化していったか(原文ママ)」とありますが、指定語句にムガル帝国を入れる意図から考えれば、「結果を受けて」ではないですね。ムガル帝国はインド大反乱(シパーヒーの乱:1857-59)中の1858年にバハードゥル=シャー2世が形式的にではありますが反乱軍の指導者に擁立されたことを咎められてビルマに追放されたことにより滅亡しますから、設問は本来「インド大反乱の経過と、その結果を受けてイギリスのインド統治がどのように変化したか」とすべきです。実は、2015年の設問は2016年や2014年の設問と比べると、どことなくその辺のきめ細やかさというか、設問に対する愛に欠けているようなところを解いていて感じます。根拠はありませんw ただ何となく、そんな感覚がするだけです。忙しかったのかもしれませんねぇw

 

ちなみに、イギリスの帝国支配またはインド支配については少し古い本になりますがデイヴィッド=キャナダイン(David Cannadine)による『オーナメンタリズム』(Ornamentalism)という本が面白い知見を提供してくれています。イギリスがインドをはじめとする植民地統治をおこなう際に、現地の人々をどのようにその支配機構に取り込んでいくのかについて考察したものですが、単なる力による支配ではなく、自分とは異なる他者が持つ類似性をもとに再秩序化していく過程を丹念に見ていった研究書で、邦訳も出ています(平田雅博、細川道久訳『虚飾の帝国:オリエンタリズムからオーナメンタリズムへ』日本経済評論社、2004年)。そのうちこれについてもご紹介したいですがと言いつつ全然できてないですよね、すみませんw

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