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カテゴリ: 東京外語大対策

2015年 東京外国語大学「世界史」解説

■記述問題概要

2015年の各記述問題(小問)概要は以下の表の通りです。

2015東京外語小問
 

印象としては、この年の小問は比較的難しい(または答えにくい)内容が多かったように思います。大問1では問6、大問2では問1・問5あたりは答えられない受験生が多かったかもしれません。以下、注意すべき点について解説していきます。

 

(大問1、問1)

まず、大問1の問1ですが、史料読解問題になっています。本文(史料)中に空欄(①)が配置されており、これについて様々なヒントが示された上で、(①)に入る国名を答えなさい、というものです。史料全てを掲載するのは煩雑ですので、そちらは赤本なりを参照していただくとして、本設問を解くにあたり重要なヒントを示したいと思います。

 

ヒント1:史料から読み取れるヒント

・①では、奴隷貿易が存続しており、英国の反対にもかかわらず、それを継続しようとしている。

・①で奴隷貿易が存続している原因は、原生林を切り開き、土を耕し、炎天下で働き、サトウキビや綿花やキャッサバなど、熱帯気候の農作物を育てることができる勤勉な人々、人口が不足しているからである。

 

ヒント2:設問から読み取れるヒント

・①は1822年にポルトガルから独立したラテンアメリカのある国である。

・イギリスは①の独立を承認する代わりに、①に奴隷貿易を廃止させようとして1826年に奴隷貿易禁止条約を締結したが、条約は死文化して、①では1850年代まで奴隷貿易が存続した。(大問1の問1より)

・①の皇帝はペドロ1世である。(大問1の問2より)

 

本設問で決定的なのはまず、ラテンアメリカに存在したポルトガルの植民地という部分です。これだけで「ブラジル」という答えを導くことは可能です。また「君主国」であり、その皇帝が「ペドロ1世」であるということからも情報を確定することができます。もちろん、ラテンアメリカで奴隷制が続いていて、サトウキビなどの栽培が行われているという情報からでもある程度は答えを導くことが可能ですが、完全に答えを確定させるには固有名詞や個別の事実に依拠する方が確実でしょう。

 

ブラジルは元々ブラガンサ朝ポルトガルの植民地でしたが、ナポレオン戦争にイベリア半島が巻き込まれた結果、当時のポルトガル宮廷は植民地であるブラジルのリオデジャネイロに一時避難します。この街は、18世紀の前半に内陸部で金が発見されたことから金採掘のための拠点都市として急速に発展した街です。

 

宮廷が移転したことで、イベリア半島からやってきた本国ポルトガル人とブラジル人との間で次第に確執が生じます。また、この宮廷の避難やその後のイベリア半島の奪回などにイギリスが深くかかわっていたことなどからポルトガルやブラジルではイギリスへの経済的従属が進みます。さらに、宮廷がリオに遷ったことでポルトガル‐ブラジル間の関係が微妙なものになります。「本国‐植民地」の関係が「植民地‐本国」へと変化してしまったのです。

 

こうした変化に対する不満からポルトガルで自由主義革命(1820)が起こると、革命政権は国の秩序を回復するためにリオのポルトガル王家にポルトガルへの帰還を要請し、宮廷はこれに応えてポルトガルへと戻りますが、帰国したのは国王ジョアン6世とその近臣たちで、皇太子ペドロはリオに残されました。しかし、その後「本国」の立場に復帰したポルトガルは、ブラジルを再度「植民地」の立場へと追いやる施策を続けたため、これに不満を感じたブラジル人たちは残されたペドロを担ぎ出し、ポルトガルから独立します(1822)。

 

 だからと言って、ペドロとポルトガル王室の関係が極端に険悪になった、というわけではなかったようです。このことは、父ジョアン6世が死んだ際にペドロが一時的にではありますがポルトガル王(ペドロ4世)として即位したことからもうかがえます(1826)。ペドロ自身はブラジルがポルトガルから独立したとはいえ、対等な関係での「同君連合」を取り結び、その王に父王ジョアンがつくことを想定していたようです。しかし、ブラジルのクリオーリョたちにその意思はなかったため、最終的にはペドロ自身がブラジルの「皇帝(ペドロ1世)」として即位する立憲君主国が成立しました(1824)。

 

(大問1、問6

奴隷貿易にたずさわった黒人王国としてよく出てくるのはベニン王国ですが、用語集や『詳説世界史研究』あたりだとアシャンティ王国やダホメ王国も出てきます。名前は知っている受験生も位置関係を視覚的に把握している受験生は少ないのではないでしょうか。これらの国々のおおまかな位置関係は以下のようになります。


黒人王国
 

 

念のためおことわりしておきますと、ものすごくアバウトな位置関係になります。特にベニン王国はひどいですねw ベニン王国はニジェール川の下流西岸一帯くらいで考えておくと良いかと思います。いずれにしても、

 

ベニン王国=ニジェール川下流(現ナイジェリア)

ダホメ王国=現ベナン共和国

アシャンティ王国=現ガーナ共和国

 

という位置関係になっています。どこも奴隷貿易で栄えた国ですが、ベニン王国の繁栄が早く15世紀末以降であるのに対し、18世紀に入るとベニン王国にかわりダホメ王国やアシャンティ王国が勢力をのばします。

最近はこれとは別に内陸にあったブガンダ王国(現ウガンダ)なども用語集の中には見られますね。

 

(大問1、問7)

クックですが、以下の二人がいることに注意して下さい。

・ジェームズ=クック

18世紀イギリスの航海者。ベーリング海峡からニュージーランドを探検し、ハワイで先住民に殺害された。

・トマス(トーマス)=クック

19世紀イギリスの旅行業者。ロンドン万博(1851)にちなんで国内の夜行列車や乗合馬車を利用したツアー旅行を計画、成功させた。その後はパリ万博(1855)、スエズ運河開通などを機とする海外旅行も計画。今でも彼にちなむトーマス=クック=グループという旅行者は存在する。

 

(大問2、問1)

津田梅子は日本史の設問としては平易ですが、世界史の設問としては少々厳しいです。ですが、津田塾大学(旧女子英字塾)の創始者、日本の女子教育の先駆者として常識の範疇といえば確かにその通りですし、「明治期の女子教育の先駆者」ということになれば他に浮かぶ名前もないということで、書けた受験生も案外多かったのではないでしょうか。

 

(大問2、問5)

イプセンをおさえている人はそう多くないのではないでしょうか。「近代演劇の父」と呼ばれる人ですが、世界史で出てくるのはノルウェー出身の人物であるということと『人形の家』の作者であることだけです。『人形の家』は、夫である弁護士の示す愛情は表面的で上っ面のものであることを薄々感じつつも平穏に日々を過ごす妻が、ある事件をきっかけに自分に対する態度を豹変させた夫を見て(社会的地位が脅かされると感じた夫がそれまで寵愛していた妻をなじり始める)、自分を一個の人間として見ず、可愛い「人形」としてしか見ていない夫に絶望して家を出るという物語です。こうした物語の内容もありますので、北欧史や女性史に関連する設問ではわりに出題しやすい人物であると言えるでしょう。

 

■論述問題解説

【大問1、問9】

(設問概要)

・カニングが史料[A]において、①(ブラジル)の独立を認めようとしつつ、ブラジルが行っている奴隷貿易の廃止を訴えた理由を400字で説明せよ。その際、ウィーン体制発足後の国際関係についても言及せよ。

・指定語句

:メッテルニヒ / モンロー / 安価な労働力 / 1807 / 工業製品

 

(条件・前提・与えられている材料)

1822年にポルトガルから独立を宣言したある国(  ①  )[設問1でブラジルとわかる]について言及した3つの史料(①の独立承認をめぐるカニングの覚え書きの一部、①に立ち寄ったビーグル号船長フィッツロイの航海記、同じく、①に立ち寄ったダーウィンの航海記)が示される。

・イギリスは人道主義だけでなく経済的な利害関心から、特に砂糖生産をめぐる国際競争の観点からポルトガルに奴隷制度を廃止させようとした点が設問で示されている。

・以下のグラフが示された上で、ブラジルの砂糖輸出が拡大する一方で英領西インド諸島の砂糖生産が衰退傾向にあったことが設問内で説明される。

 
砂糖輸出

 

[A]-[C]の史料と設問1~8を参考にせよ。

・アラビア数字、アルファベットは1マスに2文字ずつとする。

・指定語句を使用した箇所全てに下線を付すこと

 

(史料)

史料については解説の都合上必要な部分、注意すべき部分のみ抜粋します。

 

[史料AA. G. Stapleton, The Political Life of the Right Honourable George Canning, 1831. およびLeslie Bethell, The Abolition of the ******Slave Trade, 1970]

  ちなみに、設問には「表題を一部伏せた」という注がつけられていますが、これは何も差別用語や放送禁止用語がつかわれているからというわけではなく、******の部分に’Brazilian’の語が入るためですw 表記すると答えがばれちゃうのですね。

  史料中、( )で略、中略とされているのは私が省略した部分、[ ]で略されているのは設問の段階で省略されていた部分です。

 

ブラジルは合法的奴隷貿易の一大中心地です。…(中略)…しかし、諸々の事情により、奴隷貿易全廃の可能性が見えてきました。…(中略)…それは、イギリスの決断がブラジル独立の成否を左右すると考えられるからです。しかし、もし、われわれが判断を遅らせ、②オーストリア皇帝が娘の要請に応えることになったら、あるいは、フランスが奴隷貿易の存続を支持し、それを支援することになったら、イギリスが独立を認めるかわりに、ブラジルは奴隷貿易を廃止するという我々の提案は時宜を失ってしまいます。[中略]西インド植民地を救う方法は、奴隷貿易を全廃することであり、それはブラジルに奴隷貿易を廃止させることによってしか達成できないのです。

 

[史料BRobert FitzRoy, Narrative of the Surveying Voyages of his Majesty’s Ships Adventure and Beagle, 1839.]

 …(略)…ブラジルにおいて奴隷制度が存続しているのは、人口が不足しているからです。もちろん、それだけが奴隷制度の原因というわけではありませんが、やはり原生林を切り開き、土を耕し、炎天下で働き、サトウキビや綿花やキャッサバなど、熱帯気候の農作物を育てることができる、勤勉な人々が不足しているのです。

 人口不足を解消するのは非常に困難なため、ブラジルなどでは、自分のことしか考えない、行き当たりばったりの大地主が、不運にみまわれた人々を、何百人、何千人と連行してくるのです。…(略)…

 

[史料CCharles Darwin, Journal of Researches into the Natural History and Geology of the Countries visited during the Voyage of H.M.S. Beagle round the World, 2nd ed., 1845.]

 (省略)

 

(採点基準と解説)

・本設問で要求されていることを整理します。本設問での要求は「①カニングがブラジル独立を認める一方で、ブラジルの奴隷貿易廃止を訴えた理由を説明すること」、「②ウィーン体制発足後の国際体制に言及すること」、「③指定語句としてメッテルニヒ / モンロー / 安価な労働力 / 1807 / 工業製品」を用いることの3点です。(あと、指定語句に下線を忘れないように)

 

・まず、本設問を解く上でスッキリさせておきたいのは、①=ブラジルということです。これを導くことは上に書いた設問1の解説からもわかる通り、それほど難しいことではありません。仮にこれが導けなかったとしても当時の①とイギリスとの関係は設問中にかなり示されていますし、当時のイギリスとラテンアメリカ、ヨーロッパをめぐる国際関係は受験ではありきたりのテーマですから、解答を作成することは十分に可能ですが、やはり分からないままで解くとなると、何となくスッキリしない、ムズムズした感じが残るのではないかと思いますので、ここははっきりブラジル、としておきたいですね。

 

・次に、設問の周辺にかなりのヒントがちりばめられていることに注目しましょう。すでに設問のうちヒントになりそうな部分は上で示してありますが、整理すると以下のようになります。

 

①カニングはブラジルの独立を承認しようとしていた。

②カニングはブラジルの奴隷貿易をやめさせたいと考えていた。

③カニングがブラジルの奴隷貿易に反対した理由は人道主義からのみではないこと。

④カニングがブラジルの奴隷貿易に反対した理由に砂糖生産をめぐる国際的な競争があったこと。

⑤当時、ブラジルが砂糖輸出を拡大していたのに対し、ジャマイカ(設問中で英領西インド諸島であることが明示されている)の砂糖生産は衰退していたこと。

 

・つづいて、史料から読み取れることを検討します。

 

まず、史料Aですが、この史料だけを読まされたとすれば非常に難解な史料であるかもしれませんが、設問の中でカニングの意図(①・②・③・④)については明確に解説されています。

それでもよくわからない箇所があるとすれば、下線部②で示されている「オーストリア皇帝が娘の要請に応えることになったら」という部分でしょうが、これについても大問1の問2の問題文において「オーストリア皇帝フランツ2世の娘マリア・レオポルディーネは①(ブラジル皇帝)ペドロ1世の皇后だった。」と書いてあります。さらに、「そのため、スペインから独立したラテンアメリカの新生共和国は、オーストリアを中心とする神聖同盟の再植民地化政策を警戒した。」とまで書かれています。当時の事情をしっかりと思い出せない人も、こうしたことをヒントにすれば、ラテンアメリカの独立とウィーン体制の関係、さらには当時の合衆国やイギリスの外交政策をある程度正確に思い出すことができるのではないでしょうか。

 

さらに、上に書いた史料Bの赤字で示した部分を読めば、当時のブラジルにおいて黒人奴隷は「原生林を切り開き、土を耕し、炎天下で働き、サトウキビや綿花やキャッサバなど、熱帯気候の農作物を育てることができる、勤勉な人々」として重要であり、地主によって絶えず輸入され、酷使される存在であったことが読み取れます。このことから、当時のブラジルにおけるプランテーション経営と黒人奴隷の関係について述べることは比較的容易でしょう。

 

ただ、ここで問題となるのは史料Cです。史料Cは進化論で有名なダーウィンが書いたビーグル号での航海記です。ダーウィンは確かに奴隷反対論者で、このビーグル号の航海でもフィッツロイと奴隷制をめぐり意見の対立があったといわれます(もっとも、本設問の史料ではそのあたりがはっきりとは見えてきませんが)。ですが、今回この史料Cを見る限りでは設問の要求に答える際に必要となるようなヒントは特に見当たりませんでした。強いて言えば、当時のイギリスの人々が持っていた奴隷制に対する見方や感情がどのようなものであったかという具体例からエヴァンジェリカル(福音主義的)な要素を導くことくらいでしょうか。エヴァンジェリカリズムについては後で述べることにして、ここでは、「史料C」を配置した意図が気になる、とだけ示しておきたいと思います。設問を作る側からすれば、何らかの意図があってこの史料を配置したと思うんですが、この史料からはそれが明確に見えてこないんですよね…。私が何か見落としているのかもしれません。

 

・さて、以上のことをベースとして採点基準になりうるポイントを考えていきましょう。これらのポイントの中には通常の受験世界史を勉強していれば書ける内容と、史料・設問がヒントになって書ける内容の両方があると思いますが、今回の設問では必ずしもその境界がはっきりしません。そこで今回は「世界史の(東京外語レベルを目指した)基本的な学習からすれば書けるはずの事柄」のみ赤字で強調することにしてポイントを列挙してみたいと思います。

 

    カニングがブラジルの独立を承認しようとしていた背景にはイギリスの自由貿易主義が背景にあったこと。

    一方で、カニングがブラジルの奴隷貿易に反対した背景には、英国内の奴隷制反対の世論があったのみならず、イギリス領西インドの砂糖輸出がブラジル産砂糖輸出の拡大によって圧迫されているという事情があったこと。

    ②のような状態に陥った背景には、イギリスが奴隷制を廃止しつつあった(奴隷貿易廃止は1807年、奴隷制廃止は1833年)ために、農場経営に不可欠な安価な労働力を確保できず、砂糖生産のコストが上がったのに対し、ブラジルでは奴隷制が維持されたことから安価な砂糖を生産でき、国際競争においてブラジル産砂糖が優位に立っていたこと。

    ウィーン体制発足後のヨーロッパではナショナリズム・自由主義を抑圧するための神聖同盟・四国同盟が結成されたこと。

    ウィーン体制は1820年代までのヨーロッパ内ナショナリズム・自由主義の弾圧には成功した(ギリシア独立を除き)ものの、ラテンアメリカ諸国の独立を防ぐことができなかったこと。

    ⑤の一因に、当初は四国同盟の一員であった英国が自由主義貿易、自由主義外交への転換によって四国同盟を離脱し、メッテルニヒ主導のウィーン体制とは一線を画してラテンアメリカ独立を支持したことがあること。

    英国がラテンアメリカの独立を支持した背景にはラテンアメリカへの経済的関心があったこと。

    同じく、合衆国はモンロー宣言によってアメリカとヨーロッパの相互不干渉を主張し、同じくラテンアメリカの独立を支持したこと。

    イギリスでは、18世紀末から19世紀初頭にかけて、ウィルバーフォースをはじめとする福音主義者やクウェーカー教徒の活動によって奴隷制廃止の運動が高まっていたこと。

 

こんな感じでしょうか。極論を言ってしまえば、ラテンアメリカの独立についての部分をしっかり勉強していた人であれば、仮に設問の要求している史料読み取りができなかったとしても、まぁ多少の点数は入りそうな雰囲気です。採点する側からすると残念な(質が、というよりも自分の意図を理解してもらえなかったことが)答案に見えるでしょうがw

 

 脱線しますが、いつも申し上げている「論述はコミュニケーション」というのは実は出題する側も同じで、出題する側は「これくらいの材料を提供すれば、きっとこちらの誘導に乗って、これくらいの内容を書いてきてくれるかな。どれくらいの人が正解にたどり着けるかな。」と意地悪な気持ち半分、期待半分でわくわくして待っていたりします。肝試しの脅かし役みたいな気分ですねw 脅かしてやろうとワクワクして待っているところに、正規のルートではないショートカットを通ってゴールされたのでは「あ、うん。そうね。そっちの道を通っても確かに着くかもしれないけどさぁ。せっかく待ってるんだからこっちに来てよ…」とがっかりするわけですねw

 
小暮
 © 井上雄彦『SLAM DUNK』集英社

 

■解答例

ナポレオン没落後に発足したウィーン体制を主導するメッテルニヒは、ラテンアメリカの独立運動が欧州の自由主義とナショナリズムを刺激することを恐れて干渉を試みたが、英外相カニングは産業革命の進展と産業資本家の成長により国内で高まっていた自由貿易要求を受け、四国同盟と一線を画し諸国の独立を支持した。また、独立して間もないアメリカ合衆国大統領モンローも欧州による干渉を恐れアメリカ・ヨーロッパの相互不干渉を主張したため、メッテルニヒは干渉を断念した。こうした中で、ブラジルの独立を工業製品輸出による経済支配拡大の好機と捉えたカニングはその独立を支持した。一方で1807に奴隷貿易を廃止したことで国際競争力が低下していた英領西インド諸島の砂糖産業救済のため、ブラジルの砂糖プランテーションで安価な労働力である黒人奴隷が使用されることを止めようと奴隷貿易廃止を訴え、英国内の福音主義者などの奴隷廃止論者はこれを支持した。(400[18074字で2字扱い]

 

(おまけ:奴隷制廃止)

 奴隷制の廃止について、受験世界史で出てくる人物としてはウィルバーフォースがあげられます。もっとも、彼の名前は用語集には出てきますが、『詳説世界史研究』(2016年版)にはまだ登場していないようです。『詳説世界史研究』の奴隷制廃止に関する箇所を見てみると、以下のように出ています。

 

18世紀末からの革命思想によって人間の尊厳に対する人道主義的世論が高まり、1807年イギリスにおける奴隷貿易が禁止され、さらに33年植民地も含む奴隷解放令がグレーGrey1764-1845、任1830-34)内閣のもとで成立し、38年有償方式による全奴隷の解放が実現した。」(同書p.362

「イギリスでは18世紀からクウェーカー教徒によって奴隷反対運動が進められていた。デフォーやアダム=スミスなども反対を表明した。」(同書p.362,3

18世紀後半から非国教各派による奴隷制と奴隷貿易の廃止を求める運動が展開された。ナポレオン戦争中に奴隷貿易が停止され、1833年、イギリス帝国全体で奴隷制度を廃止することが決定されたのは、この運動の成果である。奴隷貿易廃止への動きは、ヨーロッパにおける産業と社会の構造変化を反映するものであった。19世紀前半に西アフリカからのアブラヤシの輸出が急速に拡大したように、アフリカはもっぱら工業化を進めるヨーロッパにとってのヤシ油・ピーナッツ油・綿花などの原料供給地と工業製品市場の役割を果たすことになった」(p.435

「イギリスはウィーン会議(1814-15)で奴隷貿易の禁止を提起した。その背景には、解放奴隷を産業化推進のための労働力として確保しようという意図があったと考えられる。フランスではフランス革命の時にいったん奴隷制度が廃止されたが、最終的には1820年に奴隷貿易が、48年の二月革命において奴隷制が廃止された。スペイン植民地における奴隷制廃止は1883年であった。」(p.435,注1)

 

『詳説世界史研究』のレベルで奴隷制廃止について書いてあるのがこの程度ですから、かなりよく勉強している受験生でも奴隷制廃止の経緯とその周辺の物事の詳細についてはご存じない方が多いのではないでしょうか。

 

 まず、イギリスで奴隷制廃止論が高まっていくのは18世紀末のことです。イギリスで奴隷制度反対の動きが高まった背景としては様々な原因が考えられます。学問的には諸説あるとは思いますが、わかりやすく話を理解することを重視すれば(w)、大きく以下の点をあげることができると思います。

 

①早くから農奴制が消滅していたこと。

②二度の「革命」を経て人々の「自由」、特に人身の自由にかんする意識が高まっていたこと。

③黒人奴隷取引の実態が非常に悲惨で酸鼻にたえない状態であったこと。

④イギリス本国内に連れてこられた黒人奴隷の法的扱いをめぐってたびたび世論を巻き込む議論が巻き起こったこと。

⑤クウェーカー教徒を中心とした奴隷制反対運動が起こったこと。

⑥ウィルバーフォースをはじめとする福音主義者たちのキリスト教的な博愛主義が、同じく奴隷制反対運動へと向かわせたこと。

⑥産業革命の進展により、イギリス本国の産業構造が変化していたことと、産業資本家の勢力が国政に対する圧力として働いたこと。

 

まぁこんな感じでしょうか。世界史で時々言及される「クウェーカー教徒」や「福音主義」はある意味当時のイギリスを知る上ではとても重要なのですが、これらの全体像を把握しようとすると下手するとそれだけで小冊子が一冊書けてしまうことになるので、ここでは深入りしません。ここでは、18世紀以降のイギリス(またはアメリカ)においてはたびたび信仰覚醒運動と呼ばれる動きが起きて主流の教会・宗派とはことなる宗派が分離、または対立していくことと、19世紀において大衆の運動に大きな影響を与えたものに福音主義があるのだということだけおさえておけば十分だと思います。詳しいことが知りたいということでしたら、それこそ大学でイギリス史近代史を専攻してみるのも面白いと思います。高校で勉強する世界史は歴史の本当にほんの一部分にすぎません。もっとも、史学科に進学するのであれば、「就職向けのスキル・勉強もしておいて、大学の歴史はあくまでも趣味の一環と割り切って勉強する」、「大学院(修士)くらいまではいくつもりであらかじめ教員免許も取っておく」、「本気で研究者になるつもりでガンガン留学したり生の史料から読み漁っていく」など、卒業後に最低限の「物の役に立つ」レベルまで持っていっておかないとあとで何にも残らないということがあり得ますのでお気をつけてw

 
あおえく
 © 加藤和恵『青の祓魔師』(集英社)

 

 受験用の世界史として奴隷制廃止を理解するのであれば、上の原因をさらに整理して「A:革命や啓蒙思想、自然法思想などの様々な要因から人間の自由や最低限の待遇を重視する[人道主義]とも呼ぶべき考え方が広まり始めていたこと」、「B:こうした[人道主義]と、クウェーカー教徒や福音主義者などのキリスト教的博愛の実践を重視するセクトが奴隷制廃止に向けた運動を精力的に展開したこと」、「C:工業化が進展したイギリスで必要であったのはむしろ流動的な労働力で、固定の維持費がかかる奴隷制度は(少なくとも本国では)必要なかったこと」の三点を理解しておくべきでしょう。

 

 個人的にはCの工業化と必要とされる労働力とのマッチングが、19世紀の欧米の変化を理解する上で大切なポイントなのではないかなと思っています。たとえば、南米で16世紀以降展開した金・銀の採掘や商品作物のプランテーションといった農作業は基本的に一日中、一年中作業することが期待される労働です。こうした環境下においては、多少の維持コスト(住居費、食費、衣類など)がかかったとしても、休まず徹底して酷使することが可能な黒人奴隷は理想的な「安価な労働力」となりえます。ですから、クリオーリョによるプランテーション経営が中心的な産業であった旧スペイン植民地、19世紀以降同じくコーヒーのプランテーション栽培が拡大したブラジル、綿花プランテーションが発展したアメリカ合衆国南部といった地域では奴隷制の維持は最重要の前提でしたし、実際にこれらの地域で奴隷制が廃止されたのも19世紀の後半から末にかけてと、かなり遅れてのことでした。

 一方、工業化が進むとこうした奴隷を抱えることは必ずしもコストの削減にはつながりません。工場で製品を生産する場合、好不況の波や、流行り廃りといった要因にも影響を受けて、工場をフル稼働させるべき時期と、むしろ生産を縮小するべき時期に差が出てきますので、一年中同じように工場で労働させれば良い、というわけにはいきません。1年中同じように働かせ続けないのであれば、労働力を「所有物」として維持し続けることはむしろコスト高へとつながります。つまり、工業化された地域で必要とされる理想的な「安価な労働力」となるのはむしろ「流動的な」労働力、雇いたい時に安く雇うことができて、クビにしたい時にはすぐにクビにできる、そういう労働力です。それがつまり、イギリスでは「都市に流入する余剰人口」であり、アメリカ合衆国であれば「移民」ということになるわけです。

 このように考えれば、産業革命をいち早く達成したイギリスや、工業化の進展した合衆国北部でなぜ、早くに奴隷制が廃止されたのかをよく理解することができます。もちろん、人道主義や博愛主義というものの影響もあったのでしょうが、これらの地域の支配層にとってもはや奴隷制は必要なものではなかったことも理由としてあげられます。むしろ、特に合衆国においては、南部のプランターの所有から解放された奴隷たちが流動的な労働力に転化していく方が、工業化が進んだ北部の利益にかなうという側面があったのです。南北戦争に発展するほど北部が奴隷制に反対した理由が、人道主義とアンクルトムの小屋だけだなんて、ねぇ。

近代経済学についてテーマ史を書いたところでもご紹介したように、当時の工業化や産業資本家の台頭は、既存権力との対立や社会システムの変化と密接に関連しています。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_216372.html)このあたりを深く理解していくと社会・経済史は俄然面白くなりますし、「歴史って何の役に立つの?」という残念な疑問も自然と解消されてきます。

 

【大問2 問4】

(設問概要)

・インド大反乱の結果を受けてイギリスのインド統治はどのように変化していったか100字以内で説明しなさい。。

・パクス=ブリタニカ期の英国女王の名と、指定語句(東インド会社 / ムガル皇帝 / インド帝国)を用いなさい。

・語を使用した箇所全てに下線を引きなさい。

 

(解説)

ちょっとびっくりしたのは、本設問にジャーンシー藩王国王妃ラクシュミー・バーイーの名前が登場したことです。ラクシュミー・バーイーは、ジャーンシー藩王ガンガーダル・ラーオの妃でしたが、せっかく生まれた子が病没した後に夫にも先立たれた結果、当時の東インド会社が展開していた「失権の原則」という、後継ぎがいない場合にその王国を東インド会社の所有とするとする取り潰し政策にあって追放されてしまいます。ですが、それから数年後にシパーヒーの乱が起こるとこれに加わり各地を転戦、大活躍をしたインドの英雄です。超有名人なんですが、なぜか世界史にはあんまり出てきません。

ですから、大学の試験問題で、しかも東京外語などというA級大学で出題されたことにHANDは萌えましたw ラクシュミーを想像するときの私のイメージ図は私が中学生の頃に出版され始めたラノベ『風の大陸』に出てくる、祖国を出奔して男装のまま主人公と旅を続ける少女、ラクシです。いのまたむつみのイラストが美麗だったのですが、途中から多少話が退屈になってきたので10巻あたりで読むのをやめましたw 今調べたら完結したそうです。1990年に始まって2006年完結って…。

 
風の大陸
 

© 竹河聖『風の大陸』(富士見書房) 

イラスト:いのまたむつみ

 

脱線しました。あ、ちなみに今回の設問では残念ながらラクシュミーの出番はまったくありません。というより、リード文となっている2次文献全体がそれほど必要ないですね。きわめてオーソドックスな問題です。要は、それまで東インド会社が行っていたインド統治権がイギリス国王へ移譲されてインド担当大臣が新設されて統治される方式へと変わり、さらに反乱の途中でムガル帝国が滅亡したことを示して、最終的にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国が成立したことを述べればそれで十分です。論述としては基本問題の部類に入るものだと思います。

 

一点、設問について難癖をつけるとすれば、設問では「インド大反乱の結果をうけて、イギリスのインド統治はどのように変化していったか(原文ママ)」とありますが、指定語句にムガル帝国を入れる意図から考えれば、「結果を受けて」ではないですね。ムガル帝国はインド大反乱(シパーヒーの乱:1857-59)中の1858年にバハードゥル=シャー2世が形式的にではありますが反乱軍の指導者に擁立されたことを咎められてビルマに追放されたことにより滅亡しますから、設問は本来「インド大反乱の経過と、その結果を受けてイギリスのインド統治がどのように変化したか」とすべきです。実は、2015年の設問は2016年や2014年の設問と比べると、どことなくその辺のきめ細やかさというか、設問に対する愛に欠けているようなところを解いていて感じます。根拠はありませんw ただ何となく、そんな感覚がするだけです。忙しかったのかもしれませんねぇw

 

ちなみに、イギリスの帝国支配またはインド支配については少し古い本になりますがデイヴィッド=キャナダイン(David Cannadine)による『オーナメンタリズム』(Ornamentalism)という本が面白い知見を提供してくれています。イギリスがインドをはじめとする植民地統治をおこなう際に、現地の人々をどのようにその支配機構に取り込んでいくのかについて考察したものですが、単なる力による支配ではなく、自分とは異なる他者が持つ類似性をもとに再秩序化していく過程を丹念に見ていった研究書で、邦訳も出ています(平田雅博、細川道久訳『虚飾の帝国:オリエンタリズムからオーナメンタリズムへ』日本経済評論社、2004年)。そのうちこれについてもご紹介したいですが…と言いつつ全然できてないですよね、すみませんw

 

 

今回は東京外国語大学の2016年「世界史」過去問解説を行いたいと思います。本当は

東京外語は先に問題傾向の分析から掲載したかったのですが、なにぶん、データの整理というのは時間と手間がとてもかかるのですよ(汗) 現在は私も受験直前の講習だわ、自分の学校の入試だわで正直データ整理を行っている暇がありません。

 

 それでも、なぜあえて東京外語の設問を取り上げようということになったかといいますと、外語の世界史解説は需要のわりにあまり正面からされていないということがひとつ。正直、外語は世界史よりも英語(外国語)ができるかどうかの勝負というところがありますのでね。そのせいか、あまり取り上げられることがないようです。でも、受験生にとっては、やはり不安の種。それまでに世界史に力を入れていないならなおさらです。そうした人の声に毎年応えたいと思いながらも、なかなか整理する時間が取れませんでしたのでこの機会に数年分くらいは整理しておきたいと思いました。

 

 二つ目の理由としては、外語の論述問題は近年しっかりと史料を読ませ、その情報分析を行わせた上で歴史的知識を整理させる良問が多いように感じていることです。外語の問題は個々の設問も理屈くさくて長い私の文章のようですが、それ以上に史料が長い!ざっと見た印象ですが、大問1の史料だけで50006000字くらいはあるのではないでしょうか。そういう点では毛並みは違うのですが、「史資料の情報を活用して解く」という点では、近年の一橋の設問と相通ずるところがあると思いますので、史料読解練習として使うのはアリかなと思います。(ただし、あくまでも「史料読解」の練習が目的です。外語は基本的に近現代史からの出題になりますし、一橋とは扱われるテーマの傾向もかなり違います。)

 

2016年 東京外国語大学「世界史」解説

■全体

・外語大の過去問は大学HPからたどりつける下記のページで紹介されています。

http://www.cybercollege.jp/tufs/index.php

 

ただし、表示するには同ページに表示されているパスワードが必要となりますので注意してください。(2017128日現在)

 

・構成としては、大問が二つあり、大問1に小問が89問、大問2に小問が7問というのが普通です。各大問には一つずつ論述問題があり、大問1の論述が400字、大問2の論述が100字というのが最近の傾向です。配点は2016年を例にとると以下のようになっています。

 

 大問160点)‐内訳:記述問題(5点×8+400字論述(20点)

 大問240点)‐内訳:記述問題(5点×6+100字論述(10点)

 

・外語の設問は上にも書きましたが、長いです。ただ、聞かれていることは単純で基本的な設問が多いと思います。具体的に示すと、以下のようになります。

 

(例:2016年大問1、問1

 下線部①に関連して[下線部①は「マラッカ市はアチェンから約150リュー(1リュー=約4km)離れています」]、この国際的な交易都市は、中国や琉球王国の貿易商人や西方からのムスリム商人が集散する海上貿易の拠点であり、文化発信の拠点でもあった。ポルトガル占領後にはフランシスコ・シャヴィエル[フランシスコ・ザビエル]がこの地を拠点にして布教活動をおこなっている。このマラッカが大きく発展した理由は、ポルトガルによる占領以前に明の保護下にはいり、北方で勢力を広げていた商業国家アユタヤと対抗できるようになったからである。マラッカを明の保護下に置くことで、永楽帝が企図したインド洋からアフリカに至る遠征を成功させた人物の名を答えなさい。5点)

 

とまぁ、このように長いです。ですが、結局この設問が聞いているのは波線を引いた部分で、「永楽帝の時にマラッカを保護下においてインド洋からアフリカに至った人物は誰ですか」という設問で、答えは「鄭和」ということになるのですが、正直なところ基本問題ですね。外語の小問はこの手の基本問題がほとんどです。ただ、外語の設問は史料とともに他の問題を解くヒントを隠していることもありますので、安易に読み飛ばさないようには注意してください。効率よく問題の要求を把握しつつ、必要な情報はしっかり拾って時間短縮につなげてください。

 

外語を受験する受験生の多くが外国語に力を入れ、歴史にはそこまで力を入れていないと考えると、論述でそこまでの差がつくかは疑問です。ですから、外語の世界史は論述よりもいかにこれらの基本的な記述問題を落とさないかが勝負の分かれ目になります。記述問題に限って言えば、少し気の利いた世界史解答者なら全問正解することも難しくはありません。仮に、記述問題を全て拾ったとすればそれだけで70点、論述が半分弱しか書けなかったとしても優に80点を超えてきます。一方、記述問題で3問(15点)取りこぼしたとすると、論述でよほど質の高い解答を用意できなければ80点を取ることは難しいでしょう。ですから、外語の世界史で高得点を狙うならば、まず基本の記述問題をしっかりとって、論述で並程度の無難な解答を仕上げることです。もちろん、論述も質が高ければいうことはありません。ただ、60分という試験時間と、設問の文章量を考えるとあまり論述の質にこだわりすぎるのも危険かもしれません。記述問題に無駄な時間をかける余裕は全くありませんね。時間配分には十分に気を付けて。

 

■記述問題概要

・次に、2016年の各記述問題を簡略化したものと、その解答を表にしたものを下に示しておきます。

 

 2016東京外語小問一覧

 

難しいのは大問2の問3でしょうか。アヘン戦争の講和条約(1842、南京条約)で開港されるのは広州・福州・厦門・寧波・上海の5港であり、香港はイギリスに割譲された土地です。一応、設問中には「彼(マンソン)が中国生活の最後の7年間を過ごしたある植民地都市で」と、この年がイギリスの植民地であることは示してあるのですが、さりげなさ過ぎてヒントとしてはパンチが弱いですし、マンソンのことを知っている受験生は皆無に近いでしょうから、この問題はほとんど解けなかったのではないでしょうか。また、同じく問5の野口英世はある意味では常識なのですが、いわゆる「受験勉強」の中ではあまり注目することのない人物かもしれません。でも「黄熱病で死んだ」ってありますので、何となくわかりそうではあります。外語の設問は決して難しくはないのですが、ちょっとしたさりげないヒントが問題を解くカギになることがありますので注意が必要ですね。

 

■論述問題解説

1 問8

(設問概要)

・史料A~C(『イエズス会士中国書簡集15』矢沢利彦編訳、平凡社、19701974年、一部改変)を示す。

・宣教師たちが清朝の皇帝や官僚から一定の信頼を得ていたこと、特に史料Cにおいて17世紀の終わりごろにある国と清朝との間でおこなわれた条約交渉に宣教師が清朝側の通訳として関与したことが語られていることを指摘する。

・以上を踏まえて、「この条約」が結ばれた背景とその内容について400字で説明せよ。

・その際、当時の両国(清と「ある国」)がおかれていた情勢、また史料中に登場する「モスコー人たちのツァー」、「皇帝」、「イエズス会士」のそれぞれの立場や意図をふまえよ。

・「モスコー人たちのツァー」の名、「皇帝」の名、この時締結された条約名を必ず使用せよ。

・「鄭成功」、「毛皮」の語を必ず使用し、これらの語を使用した箇所全てに下線を引け。

 

(史料)

・本設問で質の高い論述解答を用意するには、ある程度は史料読解を行うことが不可欠です。史料の全文は上に示した大学関連HPまたは赤本などでご覧いただくことにして、こちらでは説明の都合上、特に注意すべき部分のみを抜粋したいと思います。

 

[史料A:イエズス会の宣教師ド・プレマール師が国王の聴罪司祭である同会のド・ラ・シェーズ師にあてた書簡(1699217日)]

 

……北京朝廷のニュースについては( a )[答:ブーヴェ]師が広東に到着した後に受け取った書簡によって、皇帝はこれまでになかったほどご機嫌麗しくあらせられること、これまでになかったほど赫々たる栄誉に輝いておられること、これまでになかったほど臣下からたたえられていることを知りました。皇帝は大部隊を親率されて西韃靼にお出かけになり、500リュー四方に恐怖の念をお広げになり、彼の二つの国家[満蒙と中国本部]の中に残っていた唯一の敵手を打破されました。…(中略)…しかし、われわれに一層大きな喜びを与えておりますのは、この君主がこれまで以上にキリスト教に好意を示しておられることです。……

 

[史料C:イエズス会の宣教師ド・フォンタネー師が国王の聴罪司祭である同会のド・ラ・シェーズ師にあてた書簡(1703215日、浙江省舟山にて)]

 

(前段の内容:「モスコー人」が東進し、セランガ河を経て黒竜江にまで到ったのち、これらの河を確保するためにニプシュ、ヤクサなどの要塞を築いた)

 万里の長城と黒竜江との間にあるこの広大な地域全体を占している東韃靼人である皇帝の臣民たちは、自分たちが主人であることを主張していた土地にモスコー人が黒貂の猟を争いにやってきて、そこを占領するために築城したのを見て驚きました。…(中略)…双方から両国の境界を調整しようという提議がなされました。モスコー人たちのツァーは彼らの全権大使をニプシュに遣わしました。皇帝も大使とともに、通訳の役を勤めることになっているポルトガル人トメ・ペレイラ師とヂェルビヨン師を派遣されました。そして皇帝がこの両師に対して抱いている敬意をしめすために、両人に御自身の衣服のうちから二揃いを御下賜になり、二人が第二品の高官たちとともに坐することを望まれました。(中略)

 …モスコー人たちは横柄で、尊大な口をききました。中国人の方はまた自分たちが有力な軍隊を伴ってきており、黒竜江を遡航してやってくる東韃靼からの別軍の到来を待っていましたので、自分たちの方が強力であると信じていました。しかしながら彼らの意図は決して戦争することにあったのではありません。なぜならば彼らは西韃靼人がモスコー人と結びつきはしないか、それとも西韃靼人が中国に対してなんらかの陰謀をたくらんだ場合にモスコー人が彼らを助けはしないかと恐れていたからです。…(中略)…中国側全権たちは彼(ヂェルビヨン師)の言葉を聞いて喜び、モスコー人の陣営に赴いて、今司祭が言ったことと同じことを提議してくれと請いました。そして神は彼の企図を祝福なさったのでした。なぜならばモスコー人たちは司祭が彼らにはっきりと示したように、北京に毎年商売をしに来る自由は自分たちの期待できる最大の利益であるということを諒解しましたので、ヤクサを捨て、皇帝が提起した境界線を吞んだのでした。…(中略)…全権たちは二日後には署名し、両方の軍隊の先頭に立ち、天と地の真の主であるキリスト教徒たちの神を証人にして、この条約を守ることを誓いました。

 この和平は両宣教師に多大の名誉を与えました。…(中略)…しかし宣教師たちに一番の愛情を示した人は使節団の長である索額図(ソンゴト)公でありました。彼は自分を大変な窮地から脱却させてくれたことについて何度も礼を言い、とくに、もしあなたがたを喜ばす機会にぶつかったら、その時は自分をあてにしていいと述べたのでした。…彼は数年後、皇帝にキリスト教の自由を公然と請わなければならないと思われたときに、大変立派にこの約束を守ってくれたのでした。

 

(採点基準と解説)

・本設問で要求されていることを整理します。本設問で要求されていることは①史料中の条約が結ばれた背景を説明せよ。②史料中の条約の内容を説明せよ。③その際、当時の「両国(清と相手方の国)」が置かれていた情勢をふまえよ。④同じく、史料中に登場する「モスコー人たちのツァー」、「皇帝」、「イエズス会士」それぞれの立場をふまえよ。⑤「モスコー人たちのツァー」、「皇帝」の名と条約名を示せ。⑥「鄭成功」、「毛皮」の語を使用して下線を付せ、です。

 

・とっかかりになる部分は色々ありますが、最初に注目すべきは以下の点でしょう。

    史料Aの書簡が書かれた時期が1699年であり、当時の清朝の「皇帝」はイエズス会士に対して好意的にふるまっていたということ。

    史料Cの書簡が書かれた時期が1703年であり、当時の清朝は「モスコー人」との間に境界線を確定する条約を締結したということ。

    使用を指定されている語句に「鄭成功」があること。

以上の点から見て、清朝の「皇帝」は康熙帝、史料中の「条約」は「ネルチンスク条約」であることは明らかです。となれば、史料を読むだけではなかなかピンと来ない相手方の「モスコー人たちのツァー」はモスクワ人(ロシア人)たちのツァーリであるピョートル1世であることも読み取れると思います。

 

・ここまで読み取れればあとはもうネルチンスク条約の内容と条約締結の背景を書けばよいだけですね。ただ、注意すべき点としては、その際にピョートル1世・康熙帝・イエズス会士が当時どのような立場を有していたかをふまえなくてはいけない、というところです。まず、ネルチンスク条約の内容ですがこれは教科書通り「両国国境を外興安嶺(そとこうあんれい=スタノヴォイ山脈)とアルグン川の線にそって画定した、清にとって初めての外国との対等条約」であることを示せばよいでしょう。これにより、清は満州全域を確保し、ロシアの南下を阻止することになりました。また、ネルチンスクにおける通商貿易を行うことも決められましたが、このことは史料中からも読み取ることができます。

 

・ネルチンスク条約が締結された背景には以下のようなものがありました。

    康熙帝が三藩の乱や鄭氏台湾の抵抗を鎮圧することに注力した結果、北方の防備がおろそかになっていたこと。

    ピョートル1世の時代にはシベリア探検が進み、その結果アムール川(=黒竜江)周辺においてロシア側の商人が毛皮や金を奪うなどの活動を見せたことが清朝を刺激したこと。

ちなみに、女真が強大化した背景には貂の毛皮や朝鮮人参などの交易を握っていたことがあげられます。確認したわけではありませんが、明が北虜南倭に苦しむ中、北辺防備のために流れ込んだ銀による中国東北部の経済規模拡大なども有利に働いたのかもしれませんね。さらに蛇足ですが(でも私、交易品を理解するにはその「品」を理解してイメージするのが最重要だと思うんですよ)、貂ってこんな感じです。

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 Wikipedia


…可愛い。基本的には黒貂が最高級品とされたそうで、ロシアはこれを積極的に確保しに行きます。そのため、貂の毛皮はヨーロッパにも輸出されて王侯貴族のガウンなどにも使われていきます。

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ヘンリ8世のガウンの白い部分に使われているのがおそらくアーミン(=オコジョ・または白貂)だと思われます。本当は実物見せたかったのですが、現在の画像は商品だったりしますので使うのがはばかられるということと、過去の毛皮は…。ちょっと、ね。実はこの毛皮のアーミン文様のポツポツとある黒い部分は貂のシッポの部分でして。つまり、過去に作成された毛皮の中には本当に貂を丸ごとそのまま使っているのもあってちょっと可哀想な部分もありますので、控えました。もっとも、狩られてしまった時点でどんな使われ方をしようと可哀想なことには変わりないわけですが。昨日も貂ではないですがお肉食べましたし。あー、罪深い罪深い私。

 

・それでは、次に両国がおかれていた情勢についてですが、これはネルチンスク条約についての説明でほとんど終わっています。ただ、史料中からは教科書で通常学習する流れとは異なるもう一つの要素も見えてきます。史料Cの中には「しかしながら彼らの意図は決して戦争することにあったのではありません。なぜならば彼らは西韃靼人がモスコー人と結びつきはしないか、それとも西韃靼人が中国に対してなんらかの陰謀をたくらんだ場合にモスコー人が彼らを助けはしないかと恐れていたからです。」という部分が出てきます。つまり、当時の清朝はロシア人が「西韃靼人」と結びついて行動することを警戒していたわけです。そこで、この「西韃靼人」とは何かということが問題となります。史料と設問7にある記述(清朝は、漢人から見れば異民族[本文にある「東韃靼人」]の王朝であるという記述)から「東韃靼」は満州を指していることがわかります。ですから、「西韃靼人」も同じく中国北方の民族であることがわかりますので、当時の清朝周辺の状況と、ロシアと結びつくかもしれないという記述を考えれば、「西韃靼人」はジュンガル部のことであることが読み取れるはずです。実際、ジュンガルというのは明の時代に活躍したオイラート部族の末裔に当たる部族です。ちなみに、この「ジュンガル」は大問1の問4の答えにもなっています。このように、外語の設問では史料のみならず設問自体がヒントになっていることもありますので、もしわからないと感じることが出た場合には設問の方に読み落としがないかどうかを確認する必要があるでしょう。17世紀後半のジュンガルにはガルダン=ハンが現れてモンゴル高原のハルハ部に侵入し、康熙帝との間に争いを繰り広げることになります。

 

 ジュンガル帝国(ガルダン・ハーン)
(Wikipedia)

 

・最後に、ピョートル1世、康熙帝、イエズス会士の立場をそれぞれまとめておきましょう。

ピョートル1世(位:1682-1725

:ロシアの西欧化と近代化の必要性。領土拡大とシベリア進出。黒貂の毛皮を獲得することによる交易上の利益。

康熙帝(位1661-1722

:南方における三藩の乱[1673-81]と鄭氏台湾(1661-1683:鄭成功など)の鎮圧による北辺防備の再開と強化、北西部ジュンガルとの抗争とこれに対する警戒、イエズス会士の活用

イエズス会士

:中国における布教拡大のための皇帝や中国高官への接近

 

■解答

弱小国ロシアを強大化させるために西欧化と近代化を図る「モスコー人のツァー」、ピョートル1世は、黒貂の毛皮などの交易で得られる利益を確保するためシベリア進出を積極的に行い、アムール川周辺に出没してたびたび清朝と衝突した。三藩の乱と鄭成功をはじめとする台湾勢力の鎮圧により中国全土の統一を完成した清朝の「皇帝」康熙帝は、北辺防備を強化してロシア人と衝突したが、同時に当時抗争中のジュンガル部がロシア人と結びつくことを警戒した。康熙帝はイエズス会士を内政・技術両面で活用し、イエズス会士も中国における布教拡大のために皇帝や中国高官の厚意にすがる必要があった。康熙帝は、ロシアとジュンガルが協力することを防ぐためイエズス会士ペレイラ等を通訳として派遣し、ロシアとの間に清朝初の対等条約であるネルチンスク条約を締結して、両国国境をスタノヴォイ山脈とアルグン川を境として画定する代わりに、ロシアとの交易を認めた。(400字)

 

(おまけ)

 本設問で要求されている内容ではありませんが、設問中の史料からは典礼問題へとつながる様々な情報が読み取れます。史料中に見られる「索額図公(ソンゴト公)」はソンゴトゥ公のことで、清朝初期の重臣で幼少の康熙帝を補佐したソニンの子です。康熙帝の初期治世を支えて出世し、1689年には史料にもあるようにネルチンスク条約を締結しますが、後に康熙帝の後継問題でその意に背いたことが原因で失脚します。本史料中にはこのソンゴトゥが通訳の大役を果たしたペレイラ、ヂェルビヨン両イエズス会士に対して大変感謝をして支えになることを約束し、「数年後、皇帝にキリスト教の自由を公然と請わなければならないと思われたときに、大変立派にこの約束を守ってくれたのでした。」とあります。これはおそらく康熙帝の治世においてイエズス会士が布教を認めたことに口添えしたことを示しています。康熙帝の治世においては後に典礼問題が生じてキリスト教布教は禁止されます(1704)が、イエズス会士のみは布教を許されました。ただ、この際にはすでにソンゴトゥは大きな役割を果たしていないようです。彼が失脚するのは1701年のことであり、1703年には獄死しています。ですから、史料中にイエズス会・キリスト教のことが書いてあるからと言って、典礼問題には触れない方がよいでしょう。設問も論述ではこの点について特に要求していません。

 典礼問題について書きましたのでついでに述べておきますと、雍正帝の時にはイエズス会も含めたカトリック布教が禁止されます(1724)。この背景には雍正帝の対立候補をイエズス会が支持したという後継問題が絡んでいたという話がありますが、出典がどこか忘れてしまいました(汗)。何で読んだんだっけ。ことの真偽はともかくとして、エピソードとしてでも入れておくと、なぜ突然雍正帝の時代にイエズス会が禁止されるのかとか、イエズス会が当時の清朝の内政にまで深くかかわっていた様子などがイメージしやすくなって便利ではあります。また、キリスト教全てが清朝において禁止されたわけではないことには注意が必要です。カトリック禁令も布教の禁止であって日本におけるほど厳しい禁令ではありませんし、中国には古来から伝わってきたヨーロッパにおける異端のキリスト教も伝わっています。また、1727年のキャフタ条約では、「北京における会同館を専用のオロス館(ロシア館)とし、正教会の設置と、聖職者および語学研究の留学生滞在を認める」とする条項が定められています。

 

2 問62

(設問概要)

・東南アジアにおいては、ヨーロッパの利潤追求の在り方に大航海時代と19世紀ごろとで変化がみられるが、その変化の経緯を100字以内で説明しなさい。

・指定語句として「東インド会社」、「香辛料」、「ゴム」、「スズ」を使用して、用いた箇所すべてに下線を付せ。

 

(解説)

・ここで要求されているのは結局以下の差異について述べろ、ということです。

 

大航海時代=香辛料貿易を主とする通商による利潤追求

19世紀以降=植民地経営による利潤追求

 

指定語句として東インド会社なども見られますので、ここでは大航海時代においては東インド会社を設立した英や蘭が当初香辛料交易を中心とする通商利潤を追い求めていたのに対し、19世紀には胡椒価格の暴落などの要因から旨味をうしなった香辛料交易ではなく、むしろ「ゴム」や「コーヒー」、「サトウキビ」、「藍」などのプランテーション経営や「スズ」などの鉱山開発を進める植民地経営による利潤追求に姿勢を変化させたことを示せばよいでしょう。ちなみに、「コーヒー」、「サトウキビ」、「藍」はオランダによるジャワ島をはじめとする後のオランダ領東インド経営でよく言及される作物であり、「ゴム」と「スズ」はイギリスのマレー半島の領域支配下(海峡植民地からマレー連合州成立の過程)で言及されることが多いものです。

最近、外語に限らず他の大学でも、こうしたアジアやアメリカなどの諸地域との関わり合いについて、地域だけではなく時代による変化や違いに注目させる設問が増えています。難関国公立・私立を目指すのであれば、単純にアメリカと言えば鉱山開発、のような発想ではなく、いつ・どこで・どこが、「金・銀」、「砂糖」、「綿花」、「コーヒー」などを利益追求の手段として追求し、その背景には何があるのか、などをつかむ意識を早くから持っておくと良いのではないかと思います。

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