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カテゴリ: 上智大学TEAP対策

(注意:本記事は2015年~2021年分を分析した記事になります。)

 

 上智のTEAP利用型が始まって今年で7回目です。上智は2015年度からTEAPを活用した試験を導入してきましたが、この試験では世界史が採用されています。かなり本格的な史料読解と論述試験が採用され、多少の試験形式の変更はあるものの、史資料を提示し、それに関する5問程度の小問と2題の論述問題を課すというスタイルに変更はありません。開始から7年分が出そろったということで、データとしてもかなりまとまったものになってきておりますので、以前書いた分析記事の更新を行ってみようかと思います。もっとも、以前から2年分しか追加されておりませんので、内容的に変わらない部分もあるかと思います。年ごとの設問解説は別途掲載しております(一部、抜けている年があります)ので、そちらをご覧ください。

過去7年分の上智TEAP型の設問データは以下の通りです。

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(試験時間、設問数、論述字数と全体のテーマ、扱われた主要な時代)

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(論述問題内容一覧)

試験形式については、初年度と2年目についてはやや安定を欠きましたが、その後は概ね小問5問前後、論述2題の形式に落ち着いています。ただし、リード文として示される文章の量と、論述として要求される字数についてはかなりの差があるので注意が必要です。また、試験時間については当初60分試験であったものが、ここ4年間は90分試験に変更されています。そうした意味で、過渡期であった2017年の設問は論述の難度、字数、試験時間を考慮した場合にややアンバランスなものとなり、受験生にはかなり厳しい年となりました。おそらく、この2017年問題がこれまで出題された設問の中では条件も含めて考えた場合に最も難しかったものだと思います。

上智TEAP利用型世界史の問題では、小問には特別見るべきものはありません。2020年にやや難化したかと思われましたが、2021年の小問ではむしろ簡単になりましたので、平均してみれば旧センター試験または中堅私大クラスの出題がされているかと思います。問題数が少ないことを考えても、取りこぼすことなく全問を正解したいところです。論述問題については意外に一橋に通じるものがあり、史料読解と世界史の知識を合わせて適切な解答を用意するというプロセスを受験生に要求します。史料を読ませる、という意味では東京外語の問題とも似たところがありますが、外語の問題よりも解答作成に際して史料に依拠する割合が高い(史料から読み取った内容を解答に反映させる必要があることが多い)です。また、外語の小問数が多いのに対して上智の小問数は少なく、論述が占める割合が非常に高くなっています。(もっとも、それが配点の面においてもそうであるかは定かではありません。)また、こうした史料読解型の設問はこれまで東大ではあまり出題されてこなかったのですが、つい最近東大でも史料の読み取りと利用を要求する設問が出題されました2020年)。もっとも、東大ではその後通常の出題形式にもどりましたので、今後どうなるかは分かりませんが、大学共通テストでも史資料を用いた出題が増加していることを考えると、今後こうした出題が全ての大学において増えてくることはほぼ確実かと思います。上智の世界史論述問題は、年によって良し悪しはありますが、全体的に論述問題としてはよく練られていて、質はかなり高いと思います。

 全体のテーマも論述も近現代史が中心です。今のところは16世紀以降しか出題がされておらず、また16世紀について出題された2020年を除けば、18世紀以降からしか出題されていません。また、地域としてはヨーロッパとその周辺が主です。前回の解説では「アジア・アフリカでも植民地史や独立のプロセスなどはしっかり追っておくべきでしょう。」としておりましたが、2021年問題はまさにロシアの進出と中央アジア(一部イギリスの進出)が主要なテーマでした。また、2020年問題はアジアも関連はしていましたが主要なテーマはフランシスコ=ザビエルやイエズス会宣教師の布教活動で、やはり主軸が置かれているのはヨーロッパであったと思います。テーマ自体は一橋よりも東大や外語に親和性がある気がします。類似の設問として、前回解説では2016年のスペイン領と13植民地の「対照的な」という表現が1998年東大のアメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国の対照的発展についての問題と類似していること、2018年のヨーロッパ統合の「加速」・「抑制」要因という表現が、2006年東大の戦争の助長要因と抑制要因についての問題を思い出させることなどを指摘しましたが、これに加えて2021年のロシアの進出とユーラシアの国際関係というテーマが2014年の東大で出題されたロシアの対外政策とユーラシア各地の国際関係変化について述べるという問題と似通っていることも追記しておきたいと思います。やはり、「別の大学の過去問は見る必要がない」とすぐに切り捨てるのではなく、余力があればですが、幅広く様々な問題に触れておくことが結果として対応力の底上げにつながるのではないかと思います。

 注意点としては、2020年から2年続けて論述問題の質が変化しています。2019年までは史料読解の必要はありつつも基本的には世界史の知識と読み取った情報を整理してまとめれば十分であったのに対し、2020年と2021年の論述問題では解答者自身の見解や用意された文章の文脈を考慮する必要があるなど、解答者自身が自分の言葉で語る必要のある設問が続けて出題されています。この傾向が今後も続くかどうかは分かりませんが、今後も続くとすれば受験生はかなりの文章読解力と文章作成力を要求されることになります。また、今後は同様の問題が出題されない場合でも、これまでの上智の出題を見るに何かしら実験的な出題や変化が起こってくる可能性は十分に考えられます。過度に過去問の傾向に頼りすぎるのは禁物です。目先の変わった問題に出くわしたときに焦らない気構えと対応力を備えておくべきかと思います。一方で、時代と場所・テーマについては近世以降のヨーロッパ史が主であることは確かです。ただ、これも7年分しかデータがないということは肝に銘じておくべきかと思います。

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2021年の上智TEAP利用の問題でリード文に選ばれたのはロシアのユーラシア内陸部(中央アジア)における南下とイギリスとの対立、いわゆるグレートゲームを扱った文章でした。このテーマについては、東大がかなり真正面から取り扱った設問が2014年に出題されていますので、こちらの解説が参考になるかと思います。また、ロシアの南下政策や東方問題についてもこちらで解説しています。もっとも、上智のこの年の設問で問われている内容はロシアの南下政策とイギリスとの対立そのものではありません。ただ、小問の方ではそれに関連して身につく知識で解けるものが多く出題されておりますし、最後の論述問題についても英露の対立の状況を理解している方が書きやすいかなと思います。いずれにしても、ロシアの南下は19世紀史の一大テーマなので、他大の受験を併願することを考えても、うろ覚えにすることなくしっかりと確認しておくにこしたことはないでしょう。

この年の設問として非常に興味深かったことは、最後の論述問題が世界史の知識と本文、設問をベースとしつつも、基本的には受験生自身の言葉で書かせることを目的として出題されているという点でしょう。この点については、上智大学の2020年TEAP利用型世界史で出題された「香料と霊魂」について「解答者自身の考えを述べよ」とした設問と同じ流れをひいているかと思います。ただ、2021年の設問では、ある文章の段落末尾の文章を受験生に作らせるという形式であり、さらにこの文章に加えて「冒頭の問題文(リード文)の論旨を踏まえよ」となっていますから、受験生自身が文章を作る反面、その内容については完全な自由回答ではなく、一定の基準の中で解答を作成することが要求されています。この点、ほぼ解答者の自由回答となっていた2020年の論述問題とは大きく異なります。(2020年問題は「香料と霊魂」といった受け止められ方が一般になされているのはなぜか、という点については暗黙のうちにリード文等を参考にすることが求められていますが、その後の「解答者自身がそのような受け止め方に対してどのように考えるか」という部分については特に問題文を参照にしろなどの指示は出ておりませんので完全な自由回答です。) 2020年と違い、2021年の問題では解答作成のための基準・指針が示してあることになりますので、ある意味安心して解答を作成できることになります。いずれにしても、大学側としては「受験生自身の情報整理能力と文章作成能力」を見たいと考えていることは明らかで、そのための出題が2年連続で続いたことになります。まだ2年しか続いていないので、2022年の問題もそうなるかは未知数ですが、同じ形式の出題が出てきたときに戸惑わないようにしておく必要はあると思います。

その他の形式には大きな変更はなく、小問が5題、200字論述が1題、300字論述が1題の90分試験でした(2020年は小問6、200字論述1,350字論述1の90分試験)。 小問の内容は2020年の問題と比べるとかなり易化しているように思いますので、1問の取りこぼしもないようにしたい設問です。論述問題のうち、200字論述についてはすでに何度か他大でも出題されているもので目新しいものではありませんし、テーマとしても難しいものではない標準的な設問です。受験生の間で差がついたとすれば、やはり最後の300字論述でしょう。こちらの論述は単なる英露対立ではなく、カフカースやトルキスタンといった中央アジア地域における地域秩序の本来の姿がいかなるものであったかを、同地域における少数勢力の抵抗運動を参照しながら説明する必要があり、高校世界史で通常学習する知識に加えて、リード文や設問の説明文など色々な情報を取り入れ、整理する必要のある設問です。あまり抽象的になってしまうととりとめのない文章になってしまうので、適度に具体例なども示す必要があり、要求されている内容は(知識面というよりは文章を作る力という面で)かなり高いと思います。こうした設問に対応するためには、普段から論述問題や、その他文章を書くことに慣れておく必要があるでしょう。

 

【小問(設問1、⑴~⑸)】

設問1

問⑴ a

:クリミア半島がロシアの支配下に入るのはエカチェリーナ2世(在:1762-1796)の時で、ピョートル1世(在:1682-1725)の時ではありません。ピョートル1世の時にはたしかにロシアの南下政策の端緒が開かれますが、この時の進出は黒海北岸のアゾフ海まででした。

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 これに対し、クリミア半島を支配下に置いたのがエカチェリーナ2世でした。同地の領有を目指したエカチェリーナ2世はトルコに宣戦を布告して勝利をおさめ、1774年にはキュチュク=カイナルジャ条約(キュチュク=カイナルジ条約)で講和し、オスマン帝国はクリミア半島に存在した属国クリム=ハン国に対する宗主権を喪失します。この結果、クリム=ハン国に対するロシアの影響力は急速に高まり、エカチェリーナ2世の愛人であったグリゴリー=ポチョムキンの進言によってクリミア半島併合(ロシアによる直接統治)が決定・実行されました(1783)。

 

問⑵ b

:アレクサンドル2世(在:18551881)は1861年の農奴解放令で良く知られています。クリミア戦争(18531856)中に亡くなったニコライ1世にかわって皇帝となったアレクサンドル2世は、クリミア戦争の敗北でロシアの後進性が明らかとなると、ロシアの近代化を目指した諸改革を進めます。内容的には不十分であったものの、農奴解放令はロシアで産業革命が始まる原動力となりましたし、地方の自治機関であるゼムストヴォの設置によって地方レベルではより広い範囲の人びとが政治に参加することになりました。しかし、こうした諸改革は1863年に起こったポーランドの反乱(一月蜂起)をきっかけに後退し、アレクサンドル2世の政策は反動化したというのが一般的な理解となっています。(もっとも、これについては諸説あります。)

ですから、bの文章の「一貫して自由主義的であった。」の部分が誤りとなります。念のため、山川の用語集と『詳説世界史研究』(山川出版社)の該当箇所のみ引用します。

 

 「アレクサンドル2世」の項目より

 …63年のポーランド反乱鎮圧後も改革は進められたが、次第に反動化した…

  (全国歴史教育研究協議会編『世界史用語集:改訂版』山川出版社、2018年版)

 

  …631月、革命派の主導で武装蜂起が始まり…ロシアは軍を派遣して蜂起を制圧する一方、…1866年、革命派の青年カラコーゾフによる皇帝暗殺未遂事件が起こると、政府は反動的姿勢を強めた。

  (木村靖二ほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、p.334

 

実は、このアレクサンドル2世の改革とポーランド蜂起に関するくだりは、以前の詳説世界史研究と比べて大幅に加筆・修正が加えられたところです。19世紀の東欧各国の状況についてはかなり詳しい解説が加えられており、これまでの画一的な理解に対して最新の研究動向を踏まえての記述となっているので注意が必要です。ロシアのこの部分についても、アレクサンドル2世の改革を単に「反動化した」で片付けていいのかという視点から、多角的に丁寧に述べられているように思います。ただ、こうした微妙な記述の変化が教員や受験生の間に浸透するには時間がかかりますし、アレクサンドル2世の改革が一定のレベルで後退したことも事実です。また、用語集にもある通り基本的には反動化したと考えられていますので、本設問ではbを誤り(正解)として選ぶのが妥当かと思います。

 

問⑶ c

:インド大反乱(18571859)中の1858年にムガル帝国が滅亡したことならびに東インド会社が解散させられたことは基本事項です。そのため、cの文の「イギリス東インド会社は従来の活動を継続した」は誤りです。

 

問⑷ b

:イギリスは19世紀の2度にわたるアフガン戦争でアフガニスタンを保護国としますが、当時のアフガニスタンはイギリスの進行にかなり激しく抵抗し、一部においては勝利を収めるなどしており、イギリスがアフガニスタンを保護国化できたのは外交交渉の部分も大きいものでした。そのため、イギリスによるアフガニスタン支配の基盤はかなり弱く、第一次世界大戦でイギリスの余力が失われるとアフガニスタンは1919年にイギリス領東インドに逆侵攻を開始し、戦闘の末、イギリスとの交渉によって外交権を回復し独立を達成します。つまり、アフガニスタンは1919年の段階ですでに独立国となっておりますので、二次大戦後までイギリスやロシアの勢力争いの舞台になる理由が(本当はないことはないのですが)ありません。

 また、第二次世界大戦後のイギリスは国力を大きく衰退させ、中東やアジア方面への支配力を失っていきます。たとえば、アメリカ合衆国がギリシア・トルコへの支援表明を行ったトルーマン=ドクトリンは、同地域への影響力行使をイギリスが放棄したことがきっかけでした。(英の支援が途切れたことで同地域が共産化することを防ごうとしたもの) また、イギリスはパレスティナ地域についても手に余って国連に丸投げ(国連のパレスティナ分割案)しますし、インド・パキスタンの独立も認めていきます。こうした文脈が理解できていれば、直接アフガニスタンの状況を世界史で習っていないにしても、「イギリスとロシア(ソ連)の間でアフガニスタンへの支援競争が続いた」という文章が極めて不自然であるということには気づけるはずです。

 

問⑸ c

:ソ連の承認が最も遅かった主要国はアメリカ合衆国です(1933年に承認)。イギリスのソ連承認はマクドナルド労働党政権が成立した1924年、日本のソ連承認は日ソ基本条約の締結された1925年です。当時日本では大正デモクラシーが盛り上がりを見せて政党内閣が続いていた時期であり、関東大震災後の不況やアメリカにおける排日移民法制定(1924)を受けて経済回復を図る必要のある時期でした。こうしたことが日本のソ連承認を認めた背景にありましたが、同時に共産主義の高まりを恐れる当局は同年に治安維持法を制定(加藤高明内閣)して、国内の共産主義者の取り締まりを強化していきます。

 

設問2(論述問題、150字~200字)

【1、設問概要】

・二重波線部(綿花)について、

① 1860年代のロシアにおける供給不足の原因を含めて論述せよ

② 19世紀を通じての国際的な綿花生産・供給の事情を論述せよ

・指定語句

 アメリカ / インド / 産業革命 / 南北戦争

 

【2、ロシアにおける供給不足の原因】

:ロシアにおける綿花の供給不足の原因を直接的に世界史の教科書や授業の中で学習することはありませんが、1860年代の綿花不足がアメリカの南北戦争にあったことは近年よく出題されるようになりました。また、南北戦争がアメリカ南部の綿花生産に打撃を与えたことによって、インドやエジプトがそれにかわる綿花供給地となったこと、南北戦争の開始と終結が綿花国際価格の乱高下につながったことなどについても参考書等で言及されるようになっています。

 

 …南北戦争がアメリカでの綿花生産に大きな打撃を与えたことから、インドでは空前の綿花ブームが生じた。ブームは短期間で終わり、その後深刻な不況がおそったが、ブーム中に商人たちによって蓄えられた資金が工場制の綿製品生産にも向けられることになった…

(前掲『詳説世界史研究』、p.376、インド製造業の発展に関する文章で) 

 

【3、19世紀を通じての国際的な綿花生産・供給の事情】

19世紀前半における綿花の主要な供給地はアメリカ合衆国南部です。ホイットニーの綿繰り機発明(18世紀後半)以来、アメリカ南部では綿花プランテーションが拡大し、同地域はコットン=ベルトを形成していきます。一方、1813年に東インド会社のインド貿易独占権が廃止をされたことを機に、インドには産業革命で機械化された安価なイギリス制綿布が大量に流入し、手作業で作られるインド綿工業は壊滅的な打撃を受けます。これにより、インドは綿織物の生産地ではなく、原料となる綿花の供給地へと変貌を遂げていきます。

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(『世界史B』東京書籍、2016年版、p.324より引用)

 インドへのイギリス産綿布輸出が拡大していった背景には、それまでイギリス産綿布を輸入していた欧米諸国で産業革命が進み、自国で綿製品を生産し始めたことなども影響しています。アメリカ合衆国は1812年~1814年の米英戦争をきっかけに北部の工業化が進んで英経済から自立していきますし、ヨーロッパでも1830年ごろからベルギーやフランスなどで産業革命が進んでいきます。下の表を見ると、イギリスの綿布輸出先が欧米諸国から「低開発地域」へと急激にシフトしていく様子がわかります。この場合の「低開発地域」というのはインドをはじめとするアジア地域などでした。

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1861年に南北戦争が発生すると、綿花供給地であるアメリカ合衆国南部の生産・輸出が打撃を受けたことから国際的な綿花価格が急騰し、南部にかわる綿花の安定供給地が必要となりました。これを主に担ったのはインドでしたが、さらにエジプトも合衆国南部にかわる綿花供給地としての役割を果たしていきます。(下の表の「地中海地域」の割合が60年代後半に急上昇しているのはエジプトからの輸出が急増したためです。)

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(※ただし、なぜか1806-10に限り、合計が100%を超えてしまう。)

 

ですから、19世紀の国際的な綿花生産・供給の事情について押さえておくべきことは以下の点になります。

① アメリカ南部の綿花プランテーションが最重要の供給地であったこと

② 19世紀前半頃からインドが重要な綿花供給地となっていたこと

③ 南北戦争で南部からの綿花供給が急減したことが綿花の国際市場を動揺させたこと

④ ③により、インドやエジプトなどの綿花供給地としての重要性が増したこと

 

また、リード文中にはロシアのフェルガナ地方への進出が綿花不足を補うことを目的としていたことが示されていますので(本文第8段落を参照)、高校世界史の学習内容を越えてくる内容ではありますが、これについても言及してよいかと思います。フェルガナ地方には当時コーカンド=ハン国がありましたが、これが隣接していたブハラ=ハン国やヒヴァ=ハン国とともにロシアの支配下に置かれるのは1860年代後半から1870年代にかけてのことでした。

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フェルガナ地方の位置

 

【解答例】

英の産業革命の本格化で綿花需要が高まると、アメリカ合衆国南部は奴隷制に依拠した綿花プランテーションにより主要な綿花供給地となった。その後、東インド会社のインド貿易独占権廃止で英産綿布が大量に流入し、綿工業が壊滅したインドも生産を拡大した。南北戦争で合衆国南部が打撃を受けるとインドやエジプトなどがシェアを拡大したが、国際価格が乱高下し露への供給は滞ったため、露は綿花生産地のフェルガナ地方へ進出した。200字)

 

設問3(論述問題、250字~300字)

【1、設問概要】

・冒頭の問題文と以下の文の論旨を踏まえ、「このように」で始まる段落の末尾の空欄に入る文章を完成させなさい。

250字から300

 

(「冒頭の問題文(以下、リード文または文章Aとする)」の概要)

:本設問のリード文については、その冒頭で「ロシアからの視点を中心に、19世紀の国際関係の動向やユーラシア内陸部における大国と少数勢力との関係についてまとめたもの」となっていますが、実際にはその内容の半分近くはロシアの南下政策とこれに対立するイギリスの対応について書かれたものです。これについてはいわゆる世界史の勉強で学習する内容ですので、ここでは言及しません。一方、本設問でより重要なのは、後に示します通りカフカ―ス地方やトルキスタンにおける少数勢力の活動の実態の方です。そこで、このリード文(文章A)で示されている少数民族に関連する情報をまとめると以下のようになります。

 

① 18世紀以降のロシアのカフカ―ス地方への進出は、オスマン帝国支配下で同地に住むイスラームを信奉する様々なエスニック集団(民族集団)にとって、自分たちの従来の生活や信仰が制約される可能性があることだった。

② ムスリムが退いた土地にはロシア帝国拡張の尖兵としてコサックが定住した。

③ クリミア戦争敗北はロシアの関心をユーラシア内陸部(トルキスタン)へと向けたが、ロシアの出身者がトルキスタンの諸勢力に拉致、拘束される事例がたびたび見られたことはロシアの同地への勢力拡張を正当化する論拠となった。

④ ロシアのトルキスタンへの進出はムスリムの抵抗や過酷な自然環境に妨げられたが、鉄道の敷設などを通して19世紀後半には同地の支配が確実なものとなった。

⑤ ロシアのトルキスタン進出の背景には、綿花の供給不足を補うため一大生産地であったフェルガナ地方をおさえる実利的目的が存在した。

(⑥ アフガニスタンでもイギリスからの自立を目指す動きが続き、20世紀に入ってようやく独立した。)

 

ここで、アフガニスタンをカッコつきにしてある理由は二つあります。一つは、それまでの話がロシアとの関係を中心に語られているのに対し、アフガニスタンは主としてイギリスとの関係の中で語られていること。また、カフカ―スやトルキスタンについては少数民族の実態について言及されているのに対し、アフガニスタンではそれが見られず、基本的に英露関係のみが示されていることです。

 

(設問3で示された「以下の文(以下、文章Bとする)」の概要)

:設問3の方では、「カフカ―スや中央アジアにいる少数勢力の立場について叙述したもの」という説明書きがあり、基本的にはその通りに話が進んでいきます。文章Bの概要と構成は以下の通り。

 

<第1段落(カフカ―スのエスニック集団について)>

・クリミア戦争の最中、カフカ―スのエスニック集団はオスマン帝国とロシア帝国のはざまで闘争をつづけた。

・なかでも、チェチェン人の指導者シャミールはロシアに抵抗しつつ、オスマン帝国のスルタンやイギリスの女王(ヴィクトリア)に働きかけ、軍事支援を求めた。

<第2段落(チェチェン人シャミールの活動)>

・シャミールの勢力はグルジアにあるロシア拠点に対抗できるほどになった。

・当初イギリスはシャミールを支援していたが、深入りを避けた。

・その結果、ロシアがカフカ―ス全域を制圧し、シャミールは降伏した。

・シャミールは投降後、ロシア貴族や軍人と交流しつつ、カフカ―スのムスリムを懐柔する役割を負った。

<第3段落(トルキスタンの諸部族の抵抗と服従)>

・メルヴ一帯の抵抗運動はロシアを苦しめたが、最終的に族長たちはサンクトぺテルブルクへ連行され、アレクサンドル3世の即位式典に参列した。

 

これら3つの段落を受けて、最終第4段落は以下のように続きます。

 「このように、大国の動きだけを見ていてはユーラシアの地域秩序の本来の姿を把握することはできないだろう。カフカ―スやトルキスタンの諸勢力は、        

 

【2、空欄       に入る文章の方向性を見定める】

:以上を踏まえて空欄       に入る文章を書くことになるわけですが、当然のことながら、文脈を踏まえる必要があります。設問3の文章Bでは、大部分がカフカ―スのシャミールの活動についてであり、一部トルキスタンの諸部族について言及がありますので、基本的にはカフカ―スとトルキスタンの状況について書けばよいことになります。一方で、第4段落からは、大国の動き(つまり、英露対立やオスマン帝国など)だけでは「地域秩序の本来の姿」を把握することはできないとありますので、大国の動きに加えてカフカース、トルキスタンの諸勢力の活動の実態を示すことで「地域秩序の本来の姿」を描き出すことが要求されていると考えるべきです。

 そこで大切になってくるのが上記文章Aの概要でまとめた①~⑤までのカフカ―ス地方やトルキスタンにおける少数民族の情報と、文章Bの概要でまとめた少数民族の活動です。文章Bをまとめると分かる通り、基本の路線は「現地ムスリムの大国の動向も交えての抵抗→ロシアの同地制圧と少数民族の服従→ムスリム支配者を厚遇してロシア支配に利用」という流れになります。

 

【3、全体の流れに具体的事例を肉付けする】

:上記の2で示した「現地ムスリムの大国の動向も交えての抵抗→ロシアの同地制圧と少数民族の服従→ムスリム支配者を厚遇してロシア支配に利用」という流れに、文章Aや世界史の知識で知っている具体的事例を肉付けしていきます。すると、以下のような話の筋が出来上がってくるかと思います。


① カフカ―スやトルキスタンの諸勢力は、ロシアの進出をムスリムとしての生活や信仰が制約する可能性のあるものととらえて抵抗した。

② 事実、ムスリムが退いた土地にはコサックが定住して、ロシア帝国進出の尖兵となった。

③ カフカ―スのシャミールは19世紀前半から対ロシア闘争を行い、ムスリムとしての立場からオスマン帝国の支援を、ロシアとの対抗関係からイギリスの支援を得るなど、大国間の対立を利用して抵抗したが、イギリスの関心が中央アジアから離れるにしたがってロシアに制圧された。

④ また、クリミア戦争におけるロシアの敗北と南北戦争による綿花供給の激減はロシアの関心をトルキスタンへと向けたが、同地におけるロシア臣民の拉致、拘束はかえってロシアに進出のための口実を与えることとなった。

⑤ 19世紀後半には、ウズベク3ハン国(ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国)の制圧やイリ事件など、中央アジア方面におけるロシアの活動が活発化し、鉄道の敷設は同地の支配を強固なものとした。

⑥ カフカ―スやトルキスタンの現地諸勢力指導者を厚遇することで、ロシアは同地の抵抗勢力の懐柔と支配の安定化を図った。

 

だいたい、こんなところではないでしょうか。ウズベク3ハン国がロシア支配下に入ることや、イリ事件については通常の世界史の学習で身に着く知識なので、盛り込んでも問題ないと思います。

 

【4、アフガニスタンには言及するべきか】

:先にばらしちゃいます。上智の模範解答はアフガニスタンについて言及しています。(「ただし、アフガニスタンのように20世紀に独立を勝ち得た国もあった。」→上智大学公開の標準的な解答例より)

 ですが、それでもあえて言わせてください。なぜ、この設問設定でアフガニスタンについて言及しなくてはならないのか。もしこれが必須の加点要素となっているようであれば、それはどうなのかと思います。(「標準的な解答例」なので、別に必須の加点要素でない可能性もあります。)
 たしかに、文章Aでは後半にアフガニスタンについての言及がありますが、上述のように、アフガニスタンはロシアとの関係よりはイギリスとの関係の中でのみ語られており、かつ本設問の重要な要素である少数民族についての言及が全くなされていません。また、文章Bの中にはアフガニスタンの影も形も見えません。ためしに、文章Bに上智の「標準的な解答例」をくっつけてみるとしましょう。ざっと2000字前後の文章の中に、アフガニスタンについて言及する文章は一番最後に唐突に出てくる数十字のみ。蛇足もいいところになってしまいます。

設問では以下の文は「カフカースや中央アジアにいる少数勢力の立場について叙述したものである」とあります。「アフガニスタンは中央アジアなのだから当然言及すべきだ」とする理屈もあるかもしれませんが、そもそもアフガニスタンを中央アジアに分類するか南アジアに分類するかというのは非常に曖昧です。たとえば、国際連合による地理区分では、アフガニスタンは南アジアの国として分類されています。(対して、ユネスコの区分ではアフガニスタンの大部分は中央アジアに分類されます。)

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Wikipedia「国連による世界地理区分」より)

だとすれば、受験生にアフガニスタンを記述することを要求するためには、アフガニスタンに言及する必然性がリード文や設問の指示から読み取れなくてはなりません。ところが、文章A、文章Bともに主要なテーマは一貫してロシアに対抗する少数勢力、少数民族であり、空欄の直前には「大国の動きだけを見ていてはユーラシアの地域秩序を把握することはできない」とあった上で「カフカ―スやトルキスタンの諸勢力は       」とくるわけですから、空欄の中にロシアとの関係、少数勢力の実態に言及されていないアフガニスタンが入る余地はありません。以上の理由から、私としてはアフガニスタンに言及せずに解答例を作成したいと思います。(アフガニスタンを書いたらいかん、というわけではありませんが、少なくとも採点者の立場からはアフガニスタンを必須の要素として加点要素とすべきではないと考えます。)

 

【解答例】(「カフカ―スやトルキスタンの諸勢力は」に続けて)

ロシアの進出をムスリムの生活や信仰の脅威ととらえて抵抗した。カフカ―スのシャミールはイスラーム国家であるオスマン帝国やロシアの南下政策に危機感を抱くイギリスのヴィクトリア女王に支援を仰いで抵抗したがロシアに制圧された。クリミア戦争敗北と南北戦争による綿花供給の減少はロシアをトルキスタンへ向かわせ、ロシア臣民保護を口実に綿花生産地フェルガナのコーカンド=ハン国をはじめとするウズベク3ハン国を破り、鉄道敷設でその支配を強化し、新疆ではイリ事件を引き起こすなど積極的に中央アジアへ進出した。さらに、ロシアはカフカ―スやトルキスタンの現地諸勢力指導者を厚遇し、同地の抵抗勢力の懐柔と支配の安定化を図った。(300字)

 

こんな感じでしょうか。フェルガナに位置していたのがコーカンド=ハン国であったなどは受験生には多分書けませんので、ウズベク3ハン国についての言及があれば十分かと思います。また、上智の模範解答のように「ユーラシアの地域秩序の本来の姿」を少数勢力の英露関係の対立の中で翻弄されたものととらえるやり方もあると思います。ですが、文章Bは「ロシア‐少数勢力」の関係を軸として書かれておりますので、たとえば「地域秩序の本来の姿」を、かつて抵抗した現地指導者を厚遇して懐柔の道具として使うロシアという文脈でとらえることも可能な気がします。実際、このように現地の支配層を取り込むことによって、地域支配の土台とする統治のあり方はイギリスのインド支配や、フランスのアルジェリア支配などの中でも見られます。なにより、「標準的な解答例」の方は結局「英露が進出して、対立した」以上のことは何も言ってないように見えます。もっとも、それくらいのことが読み取れれば採点基準としては十分ということなのかもしれません。実際の採点基準がどうなっているかはやや気になるものの、文章や世界史の知識をもとにかなり自由度の高い解答を受験生に書かせるスタイルの設問は、受験生にとっては対策がしにくく、かつかなり高い能力が求められることになります。新しいことに挑戦する非常に攻めた出題だと思いますが、次も似たような問題が出るとすれば受験生は大変ですね(汗

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今回は2016年の上智TEAP利用型世界史についての解説を進めたいと思います。

上智TEAP利用型世界史については、年によってかなり設問の難易度に差があります。まだ導入されて間もなく、問題の内容・形式ともに落ち着かない様子でしたので、先に特に難しい設問である2017年、2019年、2020年などの解説からUPしておりました。そんなわけで、今回解説する2016年の問題はそれらと比べるとやや取り組みやすい内容かと思います。要求されている問いもそこまで難しい内容ではありませんし、リード文自体も比較的内容を理解しやすい設問であるかと思います。ただ、2016年は試験時間が60分でしたので、設問1と設問2を素早く解き、論述問題にしっかりと時間を使って丁寧に解き進める必要があったかと思います。

また、上智については近年入試方式の大幅な変更がなされています。詳しくは2020年解説の方に書いておきました(というか、上智の用意した動画を紹介しておきました。丸投げですみませんw)ので、そちらもご確認いただくとよいかと思います。

 

<設問1>

:典型的な空欄補充問題です。全て基本問題かと思います。しっかり勉強している人はおそらく全問正解してくるので、この年の小問は一つも落としてはいけなかった内容かと思います。

 

( ア )-② [フランス]

:インドシナ戦争は宗主国フランスに対してベトナム民主共和国の独立宣言を行ったホー=チ=ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)が起こした戦争。ディエンビエンフーの戦い(1954)でベトナム側の勝利が決定的となり、ジュネーヴ休戦協定(1954)で休戦へ。

 

( イ )-② [パキスタン]

1947年のインド独立法に基づいて分離独立。

また、アフガニスタンは1919年に独立、バングラデシュは第3次印パ戦争(インド=パキスタン戦争)で1971年に独立しているので、省くことができる。

 

( ウ )-① [南アフリカ共和国]

:人種隔離政策からアパルトヘイトを想起すべき。

 

( エ )-① [スカルノ]

:シハヌークはカンボジア、マルコスはフィリピン、リー=クアンユーはシンガポール。

 

( オ )-④ [ガーナ]

:アフリカの黒人国家の独立としては、ガーナ(1957、ンクルマ[エンクルマ]の指導)、ギニア(1958、セク=トゥーレの指導)を経て1960年のアフリカの年で17か国が独立。

 

( カ )-② [アッバース朝]

:イラクの首都バグダードが都であったのはアッバース朝。(アッバース朝第2代カリフ、マンスールの時に建設された)

    ウマイヤ朝の都はダマスクス、マムルーク朝はカイロ、イル=ハン国はタブリーズ。

 

( キ )-[サイクス=ピコ協定]

:第一次世界大戦中の中東地域をめぐる取り決めとしては、フサイン=マクマホン協定(1915、アラブ人の独立を約束)、サイクス=ピコ協定(1916、英・仏・露による中東分割支配)、バルフォア宣言(1917、ユダヤ人に対する民族的郷土建設を約束)は頻出なのでおさえておく。

 

( ク )-[モノカルチャー]

:エンクロージャーはイギリスで起こった土地の囲い込み、マニュファクチュアは工場制手工業、コルホーズはソ連の集団農場。

 

( ケ )-[ナスル朝]

1492年、ナスル朝のグラナダが陥落してレコンキスタが終了。

 

( コ )-[ジャクソン]

1830年、インディアン強制移住法はジャクソン大統領の時。

 

<設問2>

:こちらの設問も、リード文に対する基本的な読解力と世界史の基礎的知識があれば、特に問題なく解ける設問です。全問正解も十分に可能です。

 

a

(解答例1)武力によって外部へと追いやられた(16字)

(解答例2)植民地社会の外部にいる存在とされた(17字)

(解答例3)植民地社会の外部に位置づけられていた(18字)

:南北アメリカの事情について書かれた文章の第3段落に書かれています。また、設問より「植民地社会の内部に位置付けられていた」と「対照的」であるわけですから、反対の内容を示せばOK

 

b

(解答例)プランテーションの労働力(12字)

 

c

(解答例1)選挙権や公共施設利用についての黒人差別(19字)

(解答例2)ジム=クロウ法よる黒人差別や公民権制限(19字)

 

d (例)非暴力主義を掲げた黒人の公民権運動(17字)

 (例)黒人差別の完全な撤廃を求める公民権運動(19字)

 

<設問3>

:こちらの設問も、他の年の上智TEAP利用型の論述問題と比べると平易な内容です。リード文の読解がしっかりできれば問題はありません。設問では、「スペイン領ラテンアメリカ」と「イギリス13植民地」では「対照的な」社会構造が形成された理由を述べよと言っています。「対照的」という言葉は他の大学の論述問題でもよく出てくる言葉ですが、「ABという二つのものに著しく異なる特徴がある、または二つのものを比較検討する余地がある」ことを示す言葉です。もしリード文の内容がうまく頭に入ってこない場合には、「スペイン領ラテンアメリカ」と「イギリス13植民地」には、いくつかの要素について異なる特徴があるのだ、ということを意識して読み進めてみるとよいでしょう。

 

【1、設問確認】

・メキシコとアンデス高原を中心とするスペイン領ラテンアメリカでは、なぜイギリス13植民地と対照的な社会構造が形成されたのか論ぜよ

・具体的な歴史上の事実を補足せよ

・「先住民が狩猟・採集にもとづいて部族単位で分散的に生活していたこと」がイギリス13植民地の構造に影響を与えたとする仮説を参考にせよ

 

【2、リード文の読解】

リード文全体の構造は以下の通りです。

 

① 非ヨーロッパ地域の独立の多様性

② アジア・アフリカ諸国と南北アメリカの相違

  (宗主国からの独立と国家形成の担い手について)

③ スペイン領植民地(南部アメリカ)とイギリス領13植民地(北部アメリカ)の相違

  (定住白人と先住民の関係のあり方)

④ 13植民地における先住民関係性の背景

 

これらのうち、本設問に直接関係があるのは③と④です。以下は、③と④の内容を表にしてまとめたものになります。

 

(③・④のまとめ)
上智2016 - コピー

 

【解答例】

スペイン領ラテンアメリカでは、アンデス高原にインカ帝国、メキシコにアステカ王国が存在し、トウモロコシやジャガイモの栽培を行い、マチュピチュ、クスコやテノチティトランなどの都市も存在し一定の人口が集中して居住していた。そのため、狩猟・採集に従事して分散して生活していたイギリス13植民地とは異なり、先住民を労働力に転化し搾取することが容易で、キリスト教に教化しつつ支配するエンコミエンダ制が発達した。しかし、ヨーロッパ人の持ち込んだ疫病で人口が激減したため西アフリカから農場や鉱山の労働力として黒人奴隷が輸入された。クリオーリョが支配層を形成しつつも、先住民や黒人奴隷は労働力として社会の内部に包摂されて人種間の混血が進み、先住民を社会外部へ排除したイギリス13植民地とは異なる複雑な社会構造が形成された。(350字)

 

大切な部分は、スペイン領ラテンアメリカでは先住民や黒人奴隷などの労働力が植民地社会の中に組み込まれていったのに対し、イギリス13植民地では先住民を外部の世界へ追いやり、排除していったということと、なぜそのような差異が生じたかを説明する理由として、前者が農耕社会でまとまった人口の確保が容易だったため、労働力に転化しやすい環境にあったのに対し、後者は狩猟・採集社会で分散して住んでいたため、労働力に転化するにはコスパが悪かったということをきちんととらえられていたかということです。世界史の授業や教科書ではこうした内容はあまり習いませんが、リード文から十分読み取れる内容かと思います。世界史の知識をベースにして、国語的な読解力を問う設問です。平易ではありますが、試験時間と照らしても無理のない良問かと思います。

 

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久しぶりに上智のTEAP利用型解説の作成に取り組みます。普段から目を通して解いてはいるのですが、解説を作るとなるとざっと1日~2日はかかるので、まとまった時間がないと作る気が起きないんですよねw 2020年の問題は、これまでの出題傾向と若干の変更が見られたことと、論述の出題がちょっと面白いスタイルの出題でしたので、書いてみたいとは思っていました。詳しくは後ほど解説します。

また、上智大学については2021年度入試の学部学科試験の方で、入試科目等について大きな変更がありました。変更点については、あっちこっちの塾やら個人やらで行った分析等ネットにも転がっていますので、yahooあたりで「上智 入試 変更」などと入れればご覧になれるかと思います。ちょっとこれらの変更については平沼騏一郎風に言えば「上智の情勢は複雑怪奇」で、見ていると総辞職したくなるので分析はパスしたいと思いますw 

Kiichiro_Hiranuma

Wikipedia「平沼騏一郎」より)

学科ごとに独自の試験を用意するのはかなり大きな冒険・改革だとは思います。大胆にそれを実行したその実行力は評価したいところですが、一方でその効果については、個人的には「う~ん?」と懐疑的です。そもそも、学部ごとの専門的な知識や特性って、大学入学後に学生自身や教授する側が見出して育むものではないですか?入学段階では高校で学ぶ教科に沿った知識・能力を図るべきかと思いますし、あまり細分化するのは良くない気がします。(神学部のような特殊な学部であれば別ですが。) また、受験生は多くの場合、上智だけを受験するわけではないわけですから、受験生の実態面を考慮しても、あまり優しくないやりようだと感じます。「オラ!おれは上智だ!おれに入りたいなら上智用の対策をとれ!他大学?そんなもんは気にすんな!黙って叫べ、ビバ・ソフィア!」って言われている気になるのは気のせいでしょうかw うん、気のせいですね、きっと。

もっとも、上智の入試にはTEAP利用型もありますし、共通テスト利用型の試験もありますから、それでバランスをとっているのかもしれません。多様な学生をとりたいということなのでしょうが、そもそも教育機関の本分は「多様な才能をとること」ではなく、「多様な才能を見出し、育むこと」にあるわけです。(もっとも、大学は研究機関としての側面もありますが。)入学の際の選抜は「その大学で学ぶ内容を理解し、自身の能力を伸ばすのに必要な基礎的能力を有しているか」が分かれば十分であると思います。もちろん、要求される基礎的能力の基準が大学ごとに異なることは自然ですし、当然なことです。学習や議論の前提となる言語能力・情報処理能力が、学生間である程度は同じレベルで共有されていないと「よい学び」にはつながりませんので。ですから、大学ごとに問題が難しかったり、易しかったりすること自体は問題ありません。ですが、教科・科目を学部ごとに細分化するのはいささかやりすぎな気がします。大学側は、そのような「丁寧な」出題と採点の方が、各受験生の特性をよりはっきりと判断することができるし、採点は大変になるけれどもそれについては「採点側が苦労すれば良い」と考えているのかもしれません。ですが、それに付き合わされる受験生の身になって考えると、受験生の方は「上智のためだけの入試方式を理解したり、特殊な対策をするのは、手間がかかるしめんどくさいので勘弁してほしい」と思うのではないですかねw ぶっちゃけ、「丁寧に人をとること」よりも「丁寧に人を育てること」に主眼おいた方が良いのではないでしょうか。

まだ始まったばかりで、運用の実態や試験問題の中身を検討してみないと何とも言えませんが、試験の形式や手続きはあまり煩雑になりすぎない方が、受験生の負担を考えた上では良いように思います。そうでないと、「たくさんの教科・科目で多くの知識を覚えなければならず、受験生は大変だ」と言っていた状態から「各大学ごとに細かい入試方式がたくさんあって、それを理解しなければならない受験生は大変だ」にかわってしまうだけです。どうせ大変なら、大学ごとの入試の手続きよりも各教科の知識を蓄えた方がまだ有用な気がします。

もっとも、上智の方でもこの点についてはかなり気を遣っているようで、入試方式についての動画をyou-tubeで公開するなど、いろいろな方法で受験生が迷わないような工夫もしています。上智の受験を考えている人は、まずは上智大のHPや入試要項に加えて、これらの動画を視聴することをおすすめします。動画の方は、大変わかりやすく作られていると思います。

 

【上智大学】2022年度一般選抜の概要


【上智大学】2022年度一般選抜学部学科試験・共通テスト併用型

 

いつものことですが、だいぶ脱線してしまいましたw そんなわけで、私自身が受験生に助言するとすれば、「上智の特定の学部に行きたい・第一志望だ」と言ってくる受験生でない限り、上智の学部試験(学部学科試験・共通テスト併用型)の受験はあんまりお勧めしません。(特定の学部に絞れていて、比較的志望順位が高いのであれば、ある程度の対策を行うのは、アリかと思います。)上智の志望順位が低かったり、他大学との併願を考えている場合には、TEAP利用または共通テスト利用型を使った方が効率的でしょう。TEAP利用型に今後大きな変更がない限りは、TEAP利用型は上智を受験する際の有力な選択肢の一つになるのではないでしょうか。

 

さて、そんな上智のTEAP利用型ですが、2020年の問題はいくつかの点でこれまでの問題と若干異なる点が見られました。それらをまとめると以下の3つになります。

 

① 論述について、近現代史中心の出題から、近世史(16世紀)の出題になった

:これは、別に大騒ぎするほどのことではありません。以前書いた出題傾向でもお話しした通り、わずか5年程度連続で近現代史からの出題となったからと言って、その次もそうなるとは限らないわけです。しかも、別に古代史など全然時代の異なるところから出題されたというわけでもありませんので、これについては「ああ、上智のTEAP利用は近現代史以外からも出ることがあるんだなぁ」程度の理解で良いかと思います。要は「何が出てもおかしくない」ということです。

 

② (個人的には)小問の方に「悪問」と感じられる設問が増えた

:私は個人的には「高校受験生がしっかり世界史を学習したとしても、解きようがない、正解の選びようがない問題」は「悪問」の類だと考えています。その意味で、2020年上智TEAP利用の小問はこの傾向がやや強いように感じました。これまでのTEAP利用の小問ではそこまで「うわー、これはアカンわー」と感じさせる問題はなく、比較的安定していたのですが、この年はどうしちゃったのでしょうね。リード文や論述問題のテーマといい、もしかすると神学部の先生がおつくりになったのでしょうか。高校世界史についてもう少し配慮していただくと、受験生の学習の成果をきちんと拾える設問になると思うのですが。

 

③ 論述問題に「解答者自身の考え」を述べさせる設問が出題された

これがこの年の設問で一番面白いところですね!知識の整理ではなく、「受験生自身の考えを述べよ」という設問は、かなり多くの大学の世界史論述問題を解いてきていますが、めったに見られません。通常、世界史の論述問題は「世界史の知識」を一定のテーマに沿って説明させるという形で、基本的な知識を備えているかに加えて情報処理能力と伝達能力をはかるものになっています。ところが、こちらの設問では、「あなたはどう考えますか?」という解答者自身の自由な思考・思想を問うているわけです。「小論文」などではこうした問題も出題されますが、「世界史」の設問としては非常に珍しく、大胆で、面白い設問です。

 ただ、この「思考・思想」の部分をどう採点するつもりなのだろうという点は気にかかりました。ぶっちゃけ、個人がどういう考えや思想を持とうと自由なわけでして、それをどのようにして「世界史」の採点にのっけているのでしょう?正直なところ、私にはその採点基準が分かりません。もしかすると、よほどぶっ飛んだ論理の飛躍などがない限りは思考・思想の部分は採点の対象となっていないのでしょうか。もし、一定の論拠に従って示した思考や思想を「イケてない」、「危険思想だ」として低評価にしているとすれば、それは「世界史」の採点としていかがなものかと思います。神学部等でこれを問うのであればともかく、他学部を志望する受験生も受けるわけですから、取り組みとしては面白いのですが、採点基準次第では問題として「う~ん?」と思わざるを得ません。もっとも、上智大学では過去3年分のTEAP利用型問題の「解答および標準的な解答例」を示していて、こちらの方の解答はごく普通の内容でした。参考にしてみるとよいかと思います。

 

【設問概要】

リード文として「ある人物(フランシスコ=ザビエル)」の評伝を踏まえて書かれた文章が紹介されます。文章は赤本で3ページ分程度ですので、ざっとですが4000字程度でしょうか。小問が6問、論述問題が2問(200字程度と350字程度)で構成されており、分量については例年と大きな差はありません。文章の内容から、「ある人物」がフランシスコ=ザビエルであることを特定するのは難しくはありません。文章中、以下のような内容から特定することができます。

 

・アンジロウという日本人に出会い、日本での宣教を目的に滞在したが挫折した

・ゴアやマラッカ、マカオなどに滞在し、中国での布教を目指した

・元軍人の宣教師(イグナティウス=デ=ロヨラ)に説得され、新たな修道会(イエズス会)を創設したこと

 

丁寧に読み解けばこれがザビエルについての文章であることに気づきますし、上智大学自体が元々はイエズス会によって開設された大学で、神学部まで備えていますので、非常に上智らしいリード文と設問です。

小問については、例年と比べてやや難しい設問が多かったように思います。大学入学共通テストレベルの知識ではちょっと対応できないので、もし今後このレベルの小問が出てくるようであれば、早慶向けレベルくらいの学習が必要になるかと思います。また、いくつかあまり質の良くない設問が見られました。(設問2、5など) 実際の受験でこうした設問が出るのは仕方のないことですし、条件は受験生みな同じですので、落ち着いて、少なくとも2択まで確実に絞り込める学力を身につけることが大切かと思います。

 

【小問(設問1~6)】

設問1 b

:消去法で解くのが適切です。

a-「×ヴァスコ=ダ=ガマが到達したこの地…」

 :ガマが1498年に到達するのはカリカットで、ゴアではありません。

c-「×この地もイギリス領となった」

 :ゴアはインドに返還される1961年までポルトガル領です。

d-「×インドが…独立を果たした際にようやく、この地もインドに返還され…」

 :上記の通り、ゴアのインドへの返還はインド独立から十数年後です。

 

設問2 b

:消去法。選択肢cについてはあまり良い文だとは思えません。やや悪問ではないかと思います。

a-「×イスラーム勢力を一掃して成立したマラッカ王国…」

 :マラッカ王国自体がイスラーム化する国であり、周辺地域のイスラーム化を促進しますので、内容的に誤りです。

c-「×1670年代にはオランダ東インド会社による香辛料貿易の拠点となった」

 :まず、オランダ東インド会社の香辛料貿易の拠点は1619年にオランダが拠点を築いたバタヴィアです。このことから判断させたいのでしょうが、「拠点」というのは一つとは限らないわけですから、「バタヴィアが拠点である」ことをもってこの文章を否定するのはどうかと思います。また、1670年代はたとえば胡椒の生産量はピークを迎える時期ですので、「拠点」を貿易上の経由地として考えた場合、マラッカがそのひとつであることを否定できる材料を受験生は持ち合わせていないのではないでしょうか。(実際にはマラッカは地方港の一つに転落しますので、事実として誤りであるのは間違いありません。)

d-「×18世紀後半には、この地からオランダ勢力が一掃され、…」

 :オランダがマラッカから撤退し、かわってイギリスが同地を支配するきっかけとなったのは1824年の英蘭協定ですので、19世紀前半。イギリスの海峡植民地についてよく勉強している人であれば判断は可能です。

 

設問3 a

:消去法。

b-「×この地はイギリスに割譲されることになった。」

 :マカオは1999年に中国に返還されるまでポルトガル領です。(正確には、当初は居住権を得た後、19世紀末に領有。)

c-「×1887年にイギリスとポルトガルで協議し、ポルトガルがこの地を、イギリスが香港島をそれぞれ領有…」

 :イギリスとポルトガルとが協議して領地を領有した事実はありません。1887年については、中葡和好通商条約(清とポルトガル間の不平等条約、ポルトガルのマカオ領有が定められた)のことを意識しているのだと思います。また、イギリスが香港島を領有するのはアヘン戦争後の南京条約(1842、清‐イギリス間)によるものです。

d-「×香港島は…今もポルトガルの信託統治下に置かれている」

 :香港を領有したのはイギリスで、1997年に中国に返還されています。

 

設問4 c

:消去法。dの選択肢については、時々他の私大でも見られるものですが、個人的にあまり好きではありません。

a-「×:隋代末期…市舶司が置かれ…」

 :市舶司が初めて置かれるのは広州(広東)ですが、おかれるのは714年、唐の玄宗の時で、隋代ではありません。

b-「×明代の半ば、ムスリム商人がこの地に入り、これ以降、南海交易がさかんに…」

 :明代の半ば以降にさかんに交易を行ったのは東アジア地域の人々(後期倭寇などを含む)やポルトガルが中心で、ムスリム商人ではありません。

d-「×五・三〇事件における民族意識の高揚をうけて、孫文の率いる国民党が…国民政府を樹立した。」

 :五・三〇事件と広東国民政府の樹立は1925年で、孫文の死後。

 

設問5 c

:消去法。adの文章についてやや悪問だと思います。設問中の「この人物」はマテオ=リッチ。

a-「×この人物は、マカオ来航後すみやかに…万暦帝から…布教活動を許された」

 :マテオ=リッチのマカオ来航が1582年、万暦帝への謁見が1601年ですから、「すみやかに」ではないです。ただ、マテオ=リッチのマカオ来航の時期と、万暦帝への謁見の時期が離れていることを知るすべや機会はほとんどの受験生にはないものと思われますので、要求すること自体に無理があります。

b-「×宋応星とともに…『幾何原本』を…」

 :『幾何原本』の作成に尽力したのは徐光啓。宋応星は『天工開物』の著者。

d-「×この人物の影響を受けた徐光啓は、暦法所書の編纂事業に着手し、みずからの手で『崇禎暦書』を完成させた。」

 :おそらく、これを×とする根拠は「『崇禎暦書』作成に貢献したのはマテオ=リッチではなく、アダム=シャールであるから」ということだと思います。ですが、上記の通り徐光啓はマテオ=リッチとも交流があり、たしかに暦法については無関係かもしれませんが、マテオ=リッチからも一定の「影響を受けて」います。(実際、マテオ=リッチからの教授の際に幾何学だけでなく天文学や地理学、暦法などについて教えをうけているようです。)また、『崇禎暦書』はアダム=シャールが他の宣教師や中国人学者と協力して西洋天文学の知識を翻訳したものを、徐光啓が集大成して『崇禎暦書』として編纂したものですから、「自らの手で完成させた」と言えなくもありません。つまり、読み方によっては誤りとできない可能性がある文章ではないかと思います。ただまぁ、実際に解く段階では、違和感を感じると思うので消去しますけどね。

 

設問6 d

:消去法。

a-「×この地に大学が発足したが…ヨーロッパ…最古の…」

 :ヨーロッパ最古の大学はイタリアのボローニャ大学であって、パリ大学ではありません。

b-「×ジュネーヴの神権政治を批判した。」

 :カルヴァンはジュネーヴで神権政治を展開する人物です。

c-「×三部会の開催は…この地で行われた。」

 :1789年の三部会はヴェルサイユで開催されます。もっとも、パリとヴェルサイユってかなり近いのですが。

 

【論述問題(設問7、8)】

設問7(論述問題:200字程度)

■ 設問概要

・文中下線部(このお方を取り巻く世界は大きく動いていて、それがこのお方の行動の背景をなしているのかもしれない。)に関連して「このお方(フランシスコ=ザビエル)を取り巻く世界」の動きとはどのようなものであったか答えよ。

・指定語句:イスラーム教 / 国家事業 / 宗教改革 / 大航海時代

 (指定語句を使用の際は初出の1箇所のみ下線を引く)

200字程度

 

  分析と解法

:ややアバウトな設問の要求ですが、ザビエルを「取り巻く世界」とあることや、指定語句の内容から、「世界」とはいっても中心的に書く必要があるのは16世紀ヨーロッパの状況、特にザビエルを取り巻く宗教にかんする事柄・世界と結び付けて書くことが妥当かと思います。馬鹿正直に世界全体の様子を書き出すと際限がありませんし、200字という字数を考えても内容をしっかり絞った方が良いでしょう。

 内容的には、近世ヨーロッパが始まる頃の大航海時代や宗教改革など、お定まりのテーマに沿って書けばよいですが、指定語句に「イスラーム教」があることや、ザビエルがポルトガル王の要請で派遣されていることなどから、ザビエルの時代よりも少々早いですが大航海時代が本格化する一つの契機となるレコンキスタの完了に言及しても良いかと思います。また、ザビエルがロヨラとともに創設したイエズス会が、プロテスタントに対抗するカトリック側の自己改革である対抗宗教改革の流れの中にあることから、対抗宗教改革やカトリック・プロテスタント間の宗派対立にも言及すべきでしょう。指定語句にある「国家事業」については色々な形で使うことが可能ですが、ザビエルが主に活動したのが16世紀半ばであることを考えると、大航海時代におけるスペイン・ポルトガルなどの新大陸・アジア進出について使用するのが良いのではないかと思います。

 

  解答例

イベリア半島からイスラーム教勢力を駆逐しレコンキスタを完了したスペイン・ポルトガルを中心に、国家事業として新大陸やアジアへ進出する大航海時代が本格化し、香辛料貿易独占や鉱山開発を通して莫大な富が西欧に流入した。一方で、ルターが始めた宗教改革で旧教と新教の対立が深まると旧教側はトリエント公会議を機に対抗宗教改革を開始し、異端撲滅を目指すとともに、イエズス会を中心に海外やヨーロッパへの布教を展開した。(200字)

 

200字程度なので、ぴったりにこだわることはないのですが、このくらいの内容で十分かと思います。テーマがザビエルなので、対抗宗教改革については言及したいところですね。上智大学が出している標準解答例には用語としては出ていませんでしたが(汗)、後半部分で内容的には言及されていますね。

 

設問8(論述問題:350字程度)

■ 設問概要

・文中下線部(このお方は、何を望み、何を期待して、こんな遠き異邦の地までやってきたのだろう)に関連して、ザビエルのような宣教師の活動を「香料と霊魂」といった受け止め方が一般にみられる。この件にかんする解答者自身の考えを述べよ。

350字程度

 

  分析と解法

:冒頭部分で述べた通り、非常に面白い設問だと思いますが、採点基準がよくわからない設問です。基本的にはよほどの危険思想や論理が破綻した主張でなければ「解答者自身の考え」で減点されることはないと思いますので、ここはやはり、基本となる前提条件(宣教師の活動が「香料と霊魂」と受け止められていること)はどういうことかということをしっかりと示しておくべきだと思います。

「香料と霊魂」という言葉自体が世界史の教科書等でそのまま言及されることはあまりないかと思います(少なくとも、東京書籍『世界史B』、山川『詳説世界史研究』ならびに用語集の索引部分には見られませんでした)が、用語から内容を推測することは十分に可能かと思います。「香料」というのは香辛料のことで、たとえば香辛料の原産地であるモルッカ諸島は「香料諸島」の名前で知られています。モルッカ諸島は下の地図の赤い丸で囲まれたあたりがおおよその位置です。

モルッカ諸島

モルッカ諸島

香辛料といっても様々ですが、モルッカ諸島ではたとえば丁子(クローブ)やナツメグなどの原産地です。

ClovesDried

Wikipedia「丁子」より)

Muscade

Wikipedia「ナツメグ」より)

このモルッカ諸島には香辛料貿易の独占を狙ったポルトガルが16世紀前半に進出していますが、ポルトガル商人の進出とともに、イエズス会の宣教師たちもインドのゴアなどを拠点に各地に布教のために進出していきます。つまり、当時ポルトガルによるアジアへの貿易の拡大とイエズス会によるカトリック布教は並行して行われていました。

ただ、ここで気をつけておきたいのは、これは単にイエズス会がポルトガルの貿易商人にくっついてアジアにやってきたというレベルにとどまらない点です。実は、イエズス会士自身が主体的に香辛料貿易をはじめとする各種経済活動に従事していたことが研究から明らかになっています。この時期のイエズス会の実態を分かりやすく知りたいのであれば、高橋裕史『イエズス会の世界戦略』講談社選書メチエ、2006年がまとまっていて良いかと思います。高橋氏が本書の第六章で述べるところでは、イエズス会士はその生計の手段としてポルトガル国王から香辛料(丁子)貿易の認可を受けており、この認可に基づいて香辛料貿易に従事していたことがわかります。高橋氏が本書で紹介しているイエズス会インド管区協議会議事録のうち、「諮問第45 我がイエズス会員たちがマルコでおこなっている丁子貿易と、日本でおこなっている生糸貿易を全面的に廃止すべきかどうか」の一説を引用します。

 

 モルッカのさまざまな窮状を目にすれば、我がイエズス会員たちは、以前行っていたように丁子を発送しなければならなかった。この貿易によって大勢のキリスト教徒たちが維持され、救われているからである。したがって、国王陛下が我がイエズス会員たちが生計を立てられるようにと、この丁子貿易を認可されている以上、これは言われているような躓きにはならない。この貿易は長年にわたっておこなわれてきたもので…(中略)…したがって、これはすべての[モルッカとサン・ロッケのイエズス会]修道会氏による共同貿易なのである。

(高橋、前掲書、p.164.より、中略部分は私の方で略したものです。)

 

これを見ると、当時アジアにやってきたイエズス会宣教師たちが、「ちょっと送ってみた」のレベルではなく、生計を立てるための経済活動として丁子貿易に参入していたことや、そのための認可を国王から受けていたことが読み取れます。また、丁子貿易以外にもイエズス会が様々な経済活動に従事していたことを高橋氏は指摘しています。そして、本設問の「このお方」ことフランシスコ=ザビエル自身も、貿易活動についての視点を持っていました。高橋氏は、同書において高瀬弘一郎氏による諸研究の概要をまとめていますが、その中で、ザビエルが鹿児島からアントニオ=ゴメス宛に書いた書簡を紹介しています。

 

もしも日本国王が私たちの信仰に帰依することになれば、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神において信じているからである。[堺は]非常に大きな港で、たくさんの商人と金持ちがいる町である。日本の他の地方よりも銀や金がたくさんある[ので]この堺にポルトガルの商館を設けたらよいと思う。

(高橋、前掲書、p.163より)

 

このザビエルの書簡からは、ザビエルが対日貿易の重要性を感じていただけでなく、布教の成功やカトリック信仰の拡大がポルトガルの経済的・物質的利益を増大させることを認識していたことが示されています。

こうしたことの何が問題なのかと言いますと、実は当時のイエズス会の規則(『イエズス会会憲』)の中では、清貧の堅持と遵守が説かれていて、営利目的の経済活動は厳密にいえば禁止されていました。たとえば、高橋氏の研究では、コレジオ(神学校)の収入をそこで学ぶ修学生の養育以外の目的に充当することを『イエズス会会憲』が厳に禁止していたことや、定期性のある収入の保有を禁じていたことなどを紹介しています。(高橋、前掲書、pp.37-143.)ですから、生計を立てるためであり、かつ国王から認可されていることとはいえ、香辛料貿易のような営利活動に従事することは、イエズス会士にとって彼らの信仰の純粋さに抵触する恐れのある行為であり、まさに「霊魂」にかんする問題であったわけです。こうしたイエズス会の現実主義的な対応を高橋氏は「適応主義政策」としていくつかの事例を紹介しています。)このような事情があったからこそ、前述の議事録の中で示された通り、イエズス会士にとって丁子貿易を行うことは「丁子を発送しなければならなかった」と、ある種の後ろめたさを感じる行為でした。また、当時は対抗宗教改革が進んでいた時期であり、聖職者についても信仰・道徳面での刷新が求められていた時期でもありました。さらに、同じイエズス会の中でも、現地で辛苦の中活動した宣教師たちと、比較的安全な地域で現地の実態を知らない宣教師との間では認識の違いもあったと思われます。このような中で、アジアで布教に従事するイエズス会士の営利活動は彼らの「霊魂」を穢す行為であるととらえられることもありました。(たとえば、ヨーロッパの聖職者と現地で活動するイエズス会との認識のズレは、高校世界史の中でも「典礼問題」などで示されています。)そうであるからこそ、先に紹介した議事録の中で、「したがって、国王陛下が我がイエズス会員たちが生計を立てられるようにと、この丁子貿易を認可されている以上、これは言われているような躓きにはならない。」とやや言い訳じみた言葉が出てくることになります。つまり、当時のイエズス会士にとって、香辛料貿易などの経済活動とそこから得られる利益は、かれらの生計をたてるために必要不可欠なものである一方で、彼らの「会憲」や信仰の純粋さを保つためには本来あってはならないもの(躓き)でもありました。イエズス会は、異邦の地でカトリックを広めるためには不本意ながらも経済活動に従事しなければならないというジレンマを抱えていたことになります。

 

さて、少し「香料と霊魂」について詳しくご説明してきましたが、当然のことながらこれまでお話ししてきた内容を高校生の受験生が知っていることを期待するのは無理があります。最低限、以下のことをおさえておけば十分でしょう。

 

「香料」

:香辛料のことで、ポルトガルは16世紀前半、モルッカ諸島をおさえて香辛料貿易を独占していた。

「霊魂」

:イエズス会によるカトリック信仰と布教のこと。

 

そして、この「香料」と「霊魂」がセットであったと考えられていることが「香料と霊魂」という一般における受け止められ方(言い方を変えれば歴史のとらえ方)なわけですが、この受け止め方について解答者はどう考えますか、というのが設問の問いになります。当然、答えとしては様々な答え方があり得るわけです。たとえば、「実際にイエズス会の活動と経済活動は切っても切れない関係にあったので香料と霊魂というとらえ方は妥当だ」という考え方もあり得ます(上智大学好みの解答ではないでしょうがw)し、上智の示した解答例のように宣教師の信仰や使命感に理解を示しつつ実際には経済活動に従事せざるを得ないジレンマ、信仰の貫徹の難しさを指摘するような解答でももちろん良いと思います。

私自身が(受験生の立場で)書くのであれば、事実としてイエズス会の布教活動がポルトガルの貿易活動の拡大と並行して展開していたことを示しつつも、当時のイエズス会宣教師たちが、彼らのかかわっていた香辛料貿易などの経済活動(香料)をどのようにとらえていたのかについては、イエズス会士の書簡や活動の諸記録、当時のイエズス会が置かれていた状況などを読み取ることができる様々な史料に基づかない限り憶測にすぎないのであり、イエズス会士にとっての信仰生活(霊魂)が香料とどの程度まで深くかかわっていたのかは分からない、またはその関係がどのような史料から見て取れるのか興味がわいた、などの解答を作成するかと思います。解答例はその路線にしたがって作ってみたいと思います。

 

  解答例

当時、ポルトガルの支援を受けて各地での布教活動を展開したイエズス会にとって、カトリック信仰を守り清貧を保つという「霊魂」の問題と、莫大な経済的利益をもたらす香辛料貿易を表す「香料」は密接に関係していた。また、新教の拡大に直面していたポルトガルにとっても、海外進出とカトリック布教は国家政策の一部であった。こうした中、ザビエルのようなイエズス会の宣教師たちが自分たちの信仰生活や布教活動が経済活動に依存していることをどのようにとらえていたのかは分からない。清貧を旨としつつも信仰を守るために経済活動に頼らざるを得ないことを心苦しく感じていたかもしれないが、その実態を知るためには、当時の彼らの思いや置かれた状況を知るための書簡や記録を精査するしかない。どのような史料が残されているのか強い関心を抱いた。(350字)

 

こんな感じでどうですかね。こちらも350字程度なので、ピッタリである必要はないのですが合わせてみました。いろいろと書いてきましたが、七面倒くさいことや不安定なところがありつつも、実験的で面白いことにチャレンジしている雰囲気を感じるというのがこの年の上智の問題だったのではないでしょうか。


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2017年のTEAP利用型世界史の試験は、これまでに出題されたTEAP利用型世界史問題の中でも、受験生にとって一番きつい試験だったのではないかなと思います。テーマ自体が難解でしたし、史料の読解もかなりの力を必要とします。試験時間が十分に確保されていれば論述問題自体は難しくともどうにか問題として成立するのではないか(むしろ、論述の一つ目、設問2は良問ではないか)と思うのですが、一番あり得ないと思ったのは試験時間です。この問題を60分で解けというのは正直ピーの所業なのではないかと思います。日常生活でもたまにいますね、そういう無茶ぶりをする人。本人全く悪気がないのに「うそぉ!?」っていうふりをする人がいます。私は昔、サークルの先輩に寝ている間にすね毛にライターで火をつけられたことがありまして、「痛ぇっ!」と思ってガバ起きしたら足元に先輩がジッポ構えて座ってました。「何してるんすか!?」と言ったら「いや、燃えるかと思って…」と悪びれもせず言ってましたが、上智の問題を見てるとたまにそういうムードを感じます。

 論述問題は時間の制約がなければまだ分かるのですが、私がおおいに疑問を感じたのはむしろ小問の方です。後述しますが、何を対象として聞いているのか判然としない部分があるために、正答が選びにくい、下手すると選べないのです。回答者全員が正解となった今年(2020年)のセンター問5なんかよりよっぽど判断がつきづらいですよ。私、試験会場でこの問題の正解を導く自信あんまりありません。まぁ、色々な意味でこの年のTEAP利用問題は実は悪問なのではないかと密かに考えているのですが、単に私の理解力が足りないだけなのかもしれませんので、「うーん?悪問かもなぁ?」くらいで留めておきます。でもやっぱり悪問だと思う。

ちょっとこの年の受験生はかわいそうですね。そのせい?か、翌年からは同じ字数で90分に試験時間が変更になりました。問題形式等についてはすでにこちらでご紹介しています。

 

設問1-1 (c)

:下線部周辺は「(あの)世界を震撼させた野蛮な遊牧民(が、ヨーロッパを襲う前にわれわれの住む土地を横切らなかったら)」とある。この「われわれの住む土地」は著者がチャアダーエフ(ロシア人)なのでロシア。ロシアを横切りヨーロッパを襲った民族であるので解答はモンゴル人である。

 

設問1-2 

:下線部の「偉大な人物」は「われわれを文明化しようと試み」、「啓蒙に対する興味を喚起させ」たが、ロシア人は「啓蒙に少しも触れることはなかった」とあります。文明化(西欧化・近代化)をロシアで進めた君主と言えばピョートル1世とエカチェリーナ2世がまず思い浮かびますが、これらのうちロシア人が「啓蒙に少しも触れることがない」と評価されるとすれば時期的にもピョートル1世でしょう。もっとも、選択肢がピョートルの他は

・イヴァン4世(16世紀半ば~後半、雷帝)

・ウラディミル1世(10世紀末~11世紀のキエフ大公、ギリシア正教に改宗)

・ストルイピン(第一次ロシア革命後にミールの解体などを進める一方、革命運動を弾圧した首相)

 ですので、選ぶことはそう難しくありません。

 

設問1-3 

:下線部の「偉大な君主」は、「われわれを勝利者としてヨーロッパの端から端まで導き」ましたが、凱旋後のロシアは「もろもろの愚かな思想と致命的な誤り」により「われわれを半世紀も後ろへ放り投げてしま」ったとあります。ヨーロッパの端から端まで軍を展開することができたのはナポレオン戦争時のアレクサンドル1世ですし、その後の反動体制(ウィーン体制、「ヨーロッパの憲兵」)を思い浮かべれば内容も合致します。「反動化」ということばは世界史では頻出しますが、進歩的変革やそれを行う諸勢力の動きに反対し、既存の体制の維持や旧体制の復活などの保守的行動に出ることを指します。

 

設問1-4 

:設問としてはアバウトで、どの地域・時代のことを指しているか明確ではないのであまり良い問題とは言えません。下線部は「農民を土地つきで解放する」とあり、この文章を書いているのはロシアの作家ドストエフスキーなので、おそらくロシアのことを指すのだろうと類推することは可能ですが、選択肢には「西ヨーロッパに」など異なる地域についての言及もあり、設問の指示にも「ロシアで」などの明示がないためにロシアのことを指しているのかどうか、またいつ頃の話をしているのかどうかをはっきりさせる確証のない設問です。

それでも、正しいのは⒟で、農民は多くの場合、身分的に解放されても土地を有償で買い取る必要がありました。この文章は「どこで」という指定がないので、ヨーロッパ全般を指すのかロシアの状況を指すのか不明ですが、ヨーロッパ全般で考えたとしてもフランス革命後の封建的諸特権の有償廃止や、プロイセン改革における農奴解放を考えた場合、間違いではありませんし、ロシアの場合だとしても1861年のアレクサンドル2世による農奴解放令は土地の有償分与とミールへの帰属が示されましたから問題ありません。

 

⒜:エカチェリーナ2世はプガチョフの乱以降反動化し、農奴に対する締め付けを強化します。

⒝:上記にあるようにロシアで農奴解放令が出されたのはクリミア戦争(1853-1856)後の1861年です。もっとも、クリミア戦争に参加したのは英・仏・伊・オスマン帝国などの諸国も同様なので、ここでいう「解放令」がどの国の解放令なのかは上記の類推と、「ああ、多分1861のロシアの農奴解放令のことを聞きたいんだろうなぁ」という回答者側が気を利かせること以外にロシアであると判断する方法はありません。

⒞:西ヨーロッパ全土に当初から独立自営農民がいたわけではありませんし、独立自営農民(イギリスではヨーマン)が比較的多かったイギリスにおいても、農民全てがヨーマンだったわけではありません。ただ、これも時期と地域によっては異なる判断が出る余地があるため、あまり良い問題ではありません。

 

設問1-5 ⒝

:この設問は本当にどうなのかと思います。下線部は「正教」で、たしかにロシア正教会の総主教座はモスクワに置かれました。ですが、そもそも正教会は東ローマ帝国の国教であるギリシア正教から発展してくるものであり、総主教座はコンスタンティノープルなどに、しかも複数置かれていました。モスクワに総主教座がおかれるのは16世紀末のことですし、そもそもロシア正教の出発点がどこにあるのかといったことが曖昧です。さらに、設問では「正教」がそもそもロシア正教のことを指すのかギリシア正教のことを指すのか、他の定義で使っているのかはっきりしません。そのため、この⒝の文章は見方によって正しいとも誤っているとも取れてしまう文章です。

⒜:グラゴール文字を考案したのはキリル文字の名前の由来ともなったキュリロスという人物です。「グラゴール」というのは人名ではなく、当初文字自体に名称はついていなかったようですが、後に古スラヴ語の「話すこと、言葉」といった意味から名づけられたものです。また、キュリロスが当初布教の目的地としたのはモラヴィア王国(現在のチェコ周辺)ですから、南スラヴではなく西スラヴです。

⒞:微妙な文章です。「モスクワ大公国の時に正教がロシアの国教となった」とあります。何が微妙かと言いますと、そもそも「ロシアとは何か」が曖昧です。文章自体が曖昧というより、厳密な意味を考えた時に「ロシア」が何を指すかはっきりさせようがないのですね。そもそも、モスクワ大公国は「ロシア」という国家なのか(イヴァン4世自身はそれを自称しましたが)、また仮にこれを「ロシア地域」だと考えた場合、そもそもロシア地域とはどこを指すのか、そしてモスクワ大公国は「ロシア地域」全土を支配していたのか、それはいつの時期か、などまぁ、キリがありません。また、「キエフ公国とモスクワ大公国との間に<ロシア>としてのまたは一つの国家としての連続性を見出すことができるか」ということになるともっと曖昧です。また、そもそもこの「正教」は何を指しているのか以下略(上記の説明をご覧ください)。 たしかに、ロシア地域に存在した国家としてはキエフ公国の方が先で、そのキエフ公国はギリシア正教を国教として受容していますから、キエフ公国とモスクワ大公国にロシアとしての一体性を見出すのであればモスクワ大公国の時にはじめて正教がロシアの国教となったという表現は誤りを含むものです。(もっとも、設問の方には「はじめて」という表現もありません。おそらく「なった」という表現に「はじめて」のニュアンスがあるから読み取れということなのだと思いますが、もし、モスクワ大公国がキエフ公国から独立した存在だと考えた場合、モスクワ大公国のとき[にも]、正教はロシア[地域]の国教になっていますから、正しい文として読むこともできてしまいます。)あまり良い選択肢ではないと思います。もし、選択肢として用意するなら「モスクワ大公国の時に、正教がはじめてロシア地域において国教として導入された。」くらいにしないと間違いとして選べません。

⒟:ローマ=カトリック教会とギリシア正教会の完全分裂は1054年で11世紀ですので誤っています。この選択肢で「ギリシア正教会」なんて書くからますます「正教」が何を指すのか曖昧になるんですよね…。

 

設問2(論述1)

【設問概要】

・チャアダーエフとドストエフスキーの考えの相違点について説明せよ。

19世紀のロシアの国内の現実とロシアをめぐる国際関係に即して説明せよ。

・指示語は「西欧化政策 / 農奴制 / 農村共同体(ミール) / 帝国主義 / 東方問題」で、初出の場合には下線を付せ。

250字以上300字以内

 

【手順1:チャアダーエフとドストエフスキーの考えの整理】

(チャアダーエフ:時期は1836

・冒頭の文章に「ロシアにおける西欧の自由主義的な価値を範とする思想の先駆け」とあります。

・「われわれ(=ロシア)」の思想的現状に極めて悲観的です。

 ①社会的意識にどのような痕跡も留めなかった

 ②自らの思想が拠り所とすべき固有のものは何もない

 ③人類の伝統的思想も受容しなかった

 ④われわれの賢者や思想家はいったいどこにいるのか(反語。つまり、どこにもいない)

 ⑤科学の領域でさえも、ロシアの歴史は何物にも結び付かず、説明せず、証明しない。

 ⑥歴史的にも、偉大な君主が文明の光をたびたび投げかけるが、ロシアはそれを受容しない。

 →つまり、ロシアは思想的に重要なものは何も持っていない。

・これに対し、彼はロシア以外のヨーロッパが不完全ながらも文明的で個性や歴史、思想的遺産を持つと考えます。

 ①ロシアと異なり他の諸民族は文明的で個性を持つ

 ②諸民族は、ロシアが持たない思想を礎石とし、これから未来が現れ、精神的発展が生じる

 ③ヨーロッパの(ロシア以外の)諸民族には共通の相貌や家族的類似性(一般的性格)があるが、この他にも固有の性格、つまり歴史と伝統を持ち、これが諸民族の思想的遺産をなす。

 ④その思想的遺産とは、義務・正義・権利・秩序に関する考え方のことである。

 ⑤こうした思想的遺産が、これらを持つ国々の社会体制の不可欠な要素を形作っている。

 ⑥今日のヨーロッパ社会には不完全・欠点・とがめるべきものがあるが、それでも神の王国が実現している。

 ⑦ヨーロッパは、自らのなかに無限の進歩という原理や、しっかりした生に不可欠な要素を内包している。

 

 つまりチャアダーエフは、ヨーロッパが持つ思想的遺産(歴史と伝統)は、人々が進歩し、根を下ろした生を営むにあたって不可欠な要素であるにもかかわらず、ロシアはこれを持っていないと考えています。ですから、ロシアが「他の文明的な諸民族のように個性を持ちたいなら、人類が受けた全教育を何らかの方法で再度施すことが不可欠」なのであり、東洋と西洋が持つ想像力と理性という知的本質、偉大な原理を「自らの中で融合し、われわれの歴史の中に結合させるべき」であると考えます。

 

(ドストエフスキー:時期は1873-81

・冒頭の文章に「ロシアの伝統に根ざした発展を志向する思想へとつなが」るものであるとあります。

・また、設問からチャアダーエフの考え方とは対極にある考え方であることは明白です。

・ロシア以外のヨーロッパの思想や現状に対しては批判的または懐疑的です。

 ①ヨーロッパの農奴解放は、有償であったり、暴力や流血を伴う不十分なもの、または人格的には解放されても経済的には搾取されたもの(「プロレタリアの原理に基づいて、完全に奴隷の姿で解放された」もの)にすぎず、そもそもわれわれ(=ロシア)が学ぶようなものではない

 ②ヨーロッパはロシアがこれを愛そうと努めたにもかかわらず、一度もロシアを愛したことがなく、そもそも愛するつもりがない

 ③ロシアにとってヨーロッパは、「決定的な衝突」をする相手であると同時に「新しく、強力で、実り多い原理に立った最終的な団結」をなす相手でもある

・一方で、ロシアの歴史的な遺産と、近年達成された視野の拡大に対しては極めて肯定的です。

 ①「世界のいかなる国民にも前例のない、視野の拡大という結果を得た」

 ②18世紀以前のロシアは、活動的で堅固であり、統一を成し遂げて辺境を固め、「他にまたとない宝物たる正教」を持ち、キリストの真理の守護者であることを「ただひとり」理解していた

 ③ロシアが数世紀の遺産として受け継ぎ、遵守してきた偉大な理念(スラヴ民族の大同団結)は裏切ることのできないものである

 ④また、スラヴ民族の大同団結は「侵略でも暴力でもない、全人類への奉仕のためのもの」

 ⑤ロシアは、全東方キリスト教や地上における未来の正教の運命全体と団結のためになくてはならない存在

 ⑥東方問題には、ロシアの課題がすべて含まれ、この解決こそが「歴史の完全さにつながる唯一の出口」につながる

 ⑦ロシア、またはロシア人はヨーロッパの矛盾に最終的和解をもたらすよう努めるべきであり、それは「全人類的な、すべてを結合させる」ロシア的精神のなかにヨーロッパを包摂し、「兄弟愛をもって」スラヴ民族、最終的にはすべての民族を「キリストの福音による掟にしたがって」完全に和合させることによって達成される

 

 つまり、ドストエフスキーはヨーロッパの思想よりもロシアの伝統、歴史、宗教(正教)といった遺産こそがキリスト教的な真理を体現するものであると考えています。一方で、彼にとって長らくロシアでもてはやされてきたヨーロッパの進歩的思想、自由や平等の理念などは見せかけだけのものに過ぎず、参考に値するものではありませんでした。彼は、「ヨーロッパの矛盾」、つまり普遍的であることを装いつつ、その実自己の利益を追求する姿勢はロシアの精神によって解決されるべきであり、最終的には広い視野を獲得し、すべてを結合させる愛と真理を持ち合わせたロシアこそがスラヴ民族をはじめ全ての民族を包摂すべきなのであり、それはスラヴ民族の大同団結と同じく「侵略でも暴力でもない、全人類への奉仕のためのもの」と考えています。

 

【手順2:チャアダーエフとドストエフスキーの考え方の相違点を整理】

(異なっている点)

チャアダーエフが、西洋の自由主義的価値観を模範とすることで、ロシアが持てなかった個性や歴史を持つことができ、文明化が可能となると考えるのに対し、ドストエフスキーはロシアの伝統、歴史、正教という遺産こそがキリスト教的真理を唯一保持するものであり、スラヴ民族の大同団結やその後の諸民族の和合のために欠かせない要素であると考えています。

(共通する点)

 どちらも、ロシアは現状の諸問題は将来においてロシアが解決すべきまたは解決しうるという未来志向型の考えを持っています。ロシア独自の個性を「いつか持たなくてはならないvsすでに持っている」という点では対立していますが、個性それ自体を重視する姿勢は同じです。

 

【手順3:手順1、2で整理した両者の考えを、ロシアの国内問題、国際関係に即して考える】

・指定語句には注意しましょう。

「西欧化政策 / 農奴制 / 農村共同体(ミール) / 帝国主義 / 東方問題」

 

①西欧化政策

:これについては両者ともに関係づけることが可能です。ロシアの西欧化はピョートル1世の頃やエカチェリーナ2世の頃などに進められますが、反発や反動化が起こるなどして必ずしも十分なものではありませんでした。これを不十分なものだからさらに進めるべきだというのがチャアダーエフで、逆にそれまでの西欧化の努力は無駄とまでは言えないが間違った方向性であるとするのがドストエフスキーなので、彼らの主張に絡めて述べればよいと思います。

 

②農奴制

:農奴制についてはロシアの農奴解放令についての言及は必須。ロシアではクリミア戦争の敗北などを受けてアレクサンドル2世が1861年に農奴解放令を出します。これにより農奴は身分的自由を得ましたが、土地の取得は有償で地代の十数倍に及ぶ対価を支払う必要がありました。多くの場合、一度に対価を支払うことができないため、政府が年賦で資金の貸し付けを行うなどの方法で支払われましたが、取得した土地は取得費用を連帯保証したミールに帰属するために個人は依然としてミールに行動を制約されることになりました。

 

③農村共同体(ミール)

:ロシアの地縁的共同体である農村共同体(ミール)は、租税や賦役の連帯責任を負う農民の自治・連帯基盤ですが、農民個人の生活を縛るものでもありました。上記の通り、ミールは土地取得の連帯保証を行うことで農民個人の解放の実質的な障害となっていたため、ロシアの農奴解放は十分に進展しません。第一次ロシア革命(1905)以降、近代化・工業化を進めるために農奴解放のさらなる進展を必要としたロシアはストルイピンの指導のもと、ミールの解体を進めることになります。

 

④帝国主義

:こちらは、時期的にも内容的にもドストエフスキーの論と絡めて書く方が良いでしょう。帝国主義は産業革命やその後の独占資本の形成が各国の植民地拡大政策と結びついていくものですから、その中心は19世紀の後半から20世紀の前半です。チャアダーエフの議論は1836年のものですから、こちらを帝国主義政策云々と結びつけるのは無理があるかと思います。対して、ドストエフスキーの論では東方問題や「ヨーロッパの矛盾」についての言及があります。文章中には、土地付きでの農奴解放を主張しながら歴史的にはそのような解放がなされるには暴力や流血に頼らざるを得なかったこと、カトリック(カトリックの語義はギリシア語の「普遍的」に由来)的な同胞愛を説きながらロシアを決して愛そうとはしなかったことなどの「矛盾」が示されていますから、ここでドストエフスキーが示したいのは普遍的であることを装いつつ、その実は自己の利益を追求するヨーロッパの偽善であり、これはそのまま「文明化」などを掲げつつ植民地支配を正当化するヨーロッパの帝国主義政策に通じるものがありますので、その点を指摘すればよいでしょう。

 

⑤東方問題

:東方問題については同じくドストエフスキーが言及しています。時期を考えればクリミア戦争後~露土戦争の時期を考えておけばよく、彼の議論からは東方問題にロシアが解決すべき課題があり、ヨーロッパの帝国主義政策はロシアの遺産によって形作られるスラヴ民族の大同団結によって打ち破られるべきであり、それがあってこそヨーロッパとの最終的な和合、つまりロシア的伝統によるヨーロッパの一体化が図れると考えていることがうかがえますので、そこを指摘しましょう。

 

【解答例】

 西欧の自由主義的な価値に重きを置くチャアダーエフは、西欧化政策や啓蒙思想がロシアに根付かないことを嘆き、進歩にはヨーロッパの思想的遺産とこれが作る個性・歴史が不可欠と考えた。クリミア戦争敗北後、アレクサンドル2世は農奴解放令で農奴制を廃止したが、個人が農村共同体(ミール)に縛られる不十分なものだった。ドストエフスキーは自由・平等を謳う西欧諸国も当初は農奴解放が十分な形ではなく、普遍性を標榜しつつ帝国主義政策を進めるなど矛盾を抱えていることを指摘。堅固な伝統と歴史、キリスト教的真理を宿す正教を有する稀有な国であるロシアがパン=スラヴ主義を通して西欧列強を破り、東方問題を解決すべきであると考えた。(300字)

 

設問3(論述2

【設問概要】

・チャアダーエフとドストエフスキーが書いた文章の持つ文明論的意味について、実例を挙げて論ぜよ

 

(ヒント[リード文から]

・両者のようなタイプの知識人、社会改革家が、近代以降は日本やトルコなどのアジア地域に現れて論争し、政治社会運動に加わっていた

 

【手順1:設問の意図を理解する】

 まず、何よりも設問が言う「文明論的意味」とはどのようなことを聞いているのかを把握する必要があるのですが、おそらく多くの受験生がここで「?」となったことと思います。文明論という言葉自体があまり明確に定義されていないように思います。(検索すると福沢諭吉の『文明論之概略』がよく出てくるけれども、150年も前の著作の定義をそのまんま鵜呑みにするわけにもいかないでしょう)

 

「文明」を辞書で引きますと以下のように出てきます。(三省堂『スーパー大辞林3.0』)

 

①文字をもち、交通網が発達し、都市化が進み、国家的政治体制のもとで経済状態・技術水準などが高度化した文化を指す。

②人知がもたらした技術的・文化的所産。[「学問や教養があり立派なこと」の意で「書経」にある。明治期に英語civilizationの訳語となった。西周「百学連環」(18701871年)にある。「文明開化」という成語の流行により一般化]

 

 また、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典」の「文明」の項目では以下のようにあります。

 

「文化と同義に用いられることが多いが,アメリカ,イギリスの人類学では,特にいわゆる「未開社会」との対比において,より複雑な社会の文化をさして差別的に用いられてきた。すなわち国家や法律が存在し,階層秩序,文字,芸術などが比較的発達している社会を文明社会とする。しかし今日では,都市化と文字の所有を文明の基本要素として区別し,無文字 (前文字) 社会には文化の語を用いる学者も多い。この立場では文明は文化の一形態,下位概念とされる。」

 

 つまり、「文明」という言葉自体が時代や状況によって指す内容や使われ方、伝わるニュアンスが異なるものですので、本来は設問の方で「ここでいう文明論とはなんぞや」ということをある程度指し示してやる必要があると思うのですが、そこは上智のことですので「わかってんだろ?言わなくても」みたいなお前はチャラ男かホストかみたいに阿吽の呼吸を要求してきます。すげえ。

 こういう場合、正確な定義を読み取ろうとする努力は徒労に終わってしまいますので、ひとまず、文明論というのは上記にあげた①の「文字をもち、交通網が発達し、都市化が進み、国家的政治体制のもとで経済状態・技術水準などが高度化した文化」それ自体や、そこに暮らす人々の共通の価値観について論ずること・またはその理論を指すと考えておきましょう。

 

【手順2:チャアダーエフとドストエフスキーの「タイプ」を考える】

 両者を知識人や社会改革家として類型化した場合、どのような型にはまるかということを考える必要があります。一番整理しやすいのは、ヒントに日本やトルコが上がっているので、これらの地域において西洋思想を取り入れようとした論者とチャアダーエフもしくはドストエフスキーの共通点を探すことでしょう。このように考えると、チャアダーエフとドストエフスキーは以下の二つのタイプとして分類することができます。

 

①チャアダーエフ型

:自国の後進性を指摘し、西欧的価値観や思想の積極的導入による近代化を図ろうとする思想家

 

②ドストエフスキー型

:自国の文化・伝統・歴史を重視し、価値あるものと考えてそれをもとに西欧に打ち勝とうとする思想家

 

 ①のタイプについては枚挙にいとまがありません。日本でいえば幕末の開国派や蘭学者、明治維新以降の進歩的思想家や改革者は多かれ少なかれそういう要素を持っています。トルコでいえば実例はタンジマートでしょう。また、タンジマートのもとで西欧の教育を受けた新オスマン人などもそうです。一方、②の場合には水戸学や尊王攘夷論者、イスラーム圏ではアフガーニーのパン=イスラーム主義(その立憲主義などは範を西欧にとるわけですが)、中国なら洋務運動の「中体西用」の思想(もっとも、技術については西洋技術を積極的に導入)などに近いものを見ることができるかもしれません。

 気をつけておきたいのは、②のタイプの論者であってもその中身は様々です。上にも書いたように、「中体西用」のような発想は、「体」つまり根幹となる部分については自国の伝統的制度・思想を重視しますが、西欧的なものを全て拒絶するわけではなく、技術面については積極的に西洋のものを導入します。こうした発想は「和魂洋才」のような言葉にも見ることができますが、19世紀末から20世紀前半にかけての時期に国家の近代化を図ろうとした場合、多かれ少なかれ西欧の何かを導入せざるを得ないケースが大半でしたから、「Aは西欧LoveBは西欧拒絶」といった形で完全に区分けするのはなかなか難しいということには注意しておくべきでしょう。

 

 ①・②のいずれにせよ、自身が属する文明とそれとは異なる文明について、独自の考え方(文明論)を持っていたことは間違いありません。チャアダーエフのような見方は、後にロシアで西欧派と呼ばれる西欧市民社会を理想化し、個人の自由の実現を目指す一派を形成していきますし、ロマン主義の流れから生まれた国粋主義的な思想潮流を持つスラヴォフィル(スラヴ派)と呼ばれる一派は西欧派と対立し、のちのパン=スラヴ主義を形成する一つの要素となっていきます。ドストエフスキーはこの思想的潮流にあるわけですね。

 

 設問は、チャアダーエフの文章とドストエフスキーの文章の持つ文明論的意味を、実例を挙げながら論ぜよとなっています。「実例をあげながら」となっておりますので、①と②に分類した上でアジア地域における実例を挙げればよいのではないかと思います。

 

【解答例】

 西欧近代文明に直面したアジアでは、ロシアの論者と同様に対照的な二つの議論とそれに基づく改革が進められた。チャアダーエフのように自国の後進性を指摘し、西欧的価値観や思想の積極的導入を図ろうとする立場には、日本の開国派や明治維新期の進歩的思想家、トルコのタンジマートやミドハト憲法制定に尽力した新オスマン人などが挙げられる。ドストエフスキーのように自国の文化・伝統・歴史を重視し、保持する立場は日本の水戸学派や尊王攘夷論者、アフガーニーのパン=イスラーム主義、中国の洋務運動が掲げた「中体西用」などに見ることができる。どちらも、自己の属する文明に西洋文明を対置して直面する課題の克服を試みた点で共通する。(300字)

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