世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

カテゴリ:あると便利なテーマ史 > 5、通貨・産業・金融史(中国・アジア)

 すでに通貨・産業・金融史として自分である程度まとめていたことを忘れていたために、間違えて通貨史から書きだしてしまった記事です。ただ、古代通貨についてわりと細かく書いたものだったので、一応追記としてそのまま掲載しておきます。)

 

【中国通貨史1:鋳造貨幣の使用と普及】

 鋳造貨幣の使用以前には一部地域で貝貨が用いられておりましたが、これは商業のために流通させるというよりは、儀礼上や贈答用として用いられていたようです。

  800px-Chinese_shell_money_16th_8th_century_BCE

Wikipedia「貝貨」より)

 

春秋・戦国時代に入り、商業の発展が見られるようになると、物々交換以外にも各地で鋳造された青銅貨幣が用いられるようになります。この青銅貨幣の種類と流通地域については、時折入試などでも出題されるものになるので注意が必要です。

 

(青銅貨幣の種類と流通地域)

・刀銭(貨):斉・燕・趙で使用(東北部)

・蟻鼻銭:楚で使用(南部)

・布銭[鋤を模したもの]:韓・魏・趙で使用(中央部)

・環銭[円銭]:秦・趙・魏で使用(西北部)

 

戦国の七雄の位置関係が最もよく問われるところはここでしょうね。出題頻度としてはやはり環銭(円銭)と蟻鼻銭が一番高いのかなぁと思いますが、その他のものも早稲田などでは出ています。写真もよく出ますよね。個別に国と青銅貨幣を結び付けて覚えるやり方だと忘れてしまいますので、戦国の七雄の位置関係をしっかり把握した上で、どの通貨がどの地域(東北部・南部・中央部・西部)で使われていたのかを理解した方が忘れずに定着しそうな気がします。

 ところが、秦の始皇帝によって中国全土が統一されると、地域によって異なっていた貨幣は度量衡や文字などとともに統一されることになります。これが半両銭です。


 半兩錢

Wikipedia「半両銭」)

「半両」というのは重さの単位を示したもので、約8gです。秦では孝公に仕えた商鞅の頃に一斤(約250g)を16両とし、1両(約16g)を24銖とする重さの単位が定められていましたから、1両の半分(16g÷28g)で半両となるわけですね。ちなみに、武帝の時の「五銖銭」も重さの単位を表しています。(ちなみに、「五銖」は武帝期の重さでは3.35g相当だそうです。)いずれにしても、この秦の半両銭の円形方孔(円の形で中央の穴は四角)の形状はその後の東アジア地域において流通する鋳造貨幣の基本形になります。受験では、始皇帝の半両銭と武帝の五銖銭の区別をしっかりつけることが大切になりますので、注意してください。(もっとも、この両者の区別は銭に限ったことではなくあらゆる面で重要です。)

 その後、漢代に入ると軽量化が図られます。軽い方が便利ということもありますが、軽量化された原因の一つとして、漢王朝が民間での貨幣鋳造(私鋳)を認めたこともあるようです。原料となる銅を使う量が少なければ少ないほど、鋳造する人間にとっては旨味が大きいですからね。ところが、品質の粗悪な私鋳銭の流通はインフレにつながりやすくなりますし、国家以外の通貨発行主体が複数存在することは、国家体制の安定を脅かすことにつながりかねません。実際、紀元前154年に発生した呉楚七国の乱において、呉が一時大きな勢力を持つことができたのは、呉が銅貨鋳造と製塩によって莫大な富を有していたところが大きいと言われています。(実はこの辺の話は以前ご紹介した横山光輝『史記』にも出てきます。マンガすげぇ。)

ちなみに、「塩」というのは経済上重要な意味を持つ商品です。塩は、人間にとって必需品ですが、特に内陸部においては塩分の摂取方法は限られます。(日本でも、「敵に塩を送る」の由来として武田信玄と上杉謙信のエピソードは有名です。史実としての信用性は怪しいようですが。)ですから、確実に必要であるという意味で、塩は時に通貨に匹敵する価値を持つ商品です。その重要性は古代中国王朝が塩の専売制を取り入れていることからも見て取れます。(ただ、これも国の専売制の目を逃れて勝手に塩をつくる密売人はいつの時代も存在したわけです。このように考えると唐末の黄巣の乱の首謀者である黄巣が塩の密売人であった事実も意味を持って理解することができます。)

 話が脱線しましたが、以上のような理由から漢の時代、中央集権化が進むと文帝の頃には私鋳が禁止されていきます。そして武帝の頃には五銖銭の鋳造が行われました。武帝期は、前漢の全盛期とされますが、外征や土木工事の増加により国家財政は逼迫していました。こうした中で、桑弘羊(そうくよう)の活躍などにより均輸・平準法の導入や塩・鉄・酒の専売制が行われ、財政の立て直しが図られます。これにより、国家財政は安定しましたが、一方で商人層はこうした施策を国家による利益の不当な独占であると反発し、武帝死後の塩鉄会議などで桑弘洋ら財務官僚と対立します。この内容は『塩鉄論』にまとめられていますが、今からはるか二千年も前の時代に国家による経済統制の是非、経済の自由と規制、物価統制と民生の安定などの極めて高度な経済事象が議論の俎上にのせられていることに驚かされます。また、財政の安定と国防の関係や当時の生活・文化の様子がうかがい知れる部分も非常に興味深いものです。(『塩鉄論』は岩波などから文庫版も出ています。ただ、岩波の文庫版は高校生には難しくて扱えないと思います。)

 前漢は王莽(莽の字の草冠の下は「大」ではなく「犬」)の簒奪と新の建国によって幕を閉じました。王莽の政策については色々と評価は分かれますが、教科書的には「周代の政治を理想とし」など、復古主義的な政策を採ったことが書かれていることが多いです。そうした内容と関連させて王莽の政治を見てみると、刀銭・布貨などをあらたに鋳造し、さらに金銀や貝までもまじえた30種近い貨幣の採用(王莽銭)がなされましたが、この政策は複雑かつ不便であったために五銖銭の私鋳と流通を招きました。さらに、王田制(周の井田制にならった土地の国有化)や奴婢売買の禁止などを打ち出しますが、どれも当時の経済の状況にそぐわなかったことから経済混乱へとつながりました。


A_knife_coin_of_Wang_Mang

王莽による小刀を模した貨幣(Wikipedia「王莽」)

 その後の中国の通貨は、安定した統一王朝による通貨政策が持続しなかったことから、五銖銭を模した形状の銭が国家や私鋳され、統一された形の通貨は作られませんでした。隋代に入ってようやく通貨の統一が図られましたが、隋は短い年月で滅亡してしまったため、律令制や科挙などとと同じく、統一通貨も唐のもとで作られます。これが開元通宝です。開元通宝の重さは約3.7gほどでしたが、この通貨は従来の通貨とは異なり、重さが表示されない貨幣でした。開元というと玄宗の開元の治を想定してしまいますが、開元とは唐という国家が新たに建国されたことを喜ぶもので、発行されたのは唐の高祖李淵の時代です。また、この開元通宝を模して日本でも和同開珎などの貨幣が鋳造されたことも知られています。


KaiyuanTongbao

開元通宝(Wikipedia「開元通宝」)

Wadogin
和同開珎(写真は銅銭鋳造前に一時鋳造された銀銭:Wikipedia「和同開珎」)

 開元通宝は唐末の混乱と五代十国時代にも流通し、宋代に入ってからも使われましたが、宋代に入ると新たに大量の貨幣(宋元通宝など)が鋳造され、いわゆる宋銭の鋳造量は歴代の中国王朝で最大となりました。これらの宋銭はアジアの多くの国々で流通し、日本でも平安時代末期に平清盛が日宋貿易を行ったころからその流通が拡大し、鎌倉時代には絹などにかわる決済手段としても用いられるようになっていきます。

 一方、中国の四川地方や陝西地方では銅貨ではなく鉄銭が用いられたこともあったようです。この背景には、四川や陝西に面する地域に存在した西夏や遼といった異民族との対立関係から銅銭の流出を警戒したこと、経済地域として四川、陝西がその他の地域とは異なる独自の経済圏を形成していた(こうした地方の商業圏・商業都市が形成され始めるのが宋代で、さらにそれらが結ばれる遠隔地交易が発展していくのは明代に入ってのことになります)ことなどが挙げられています。いずれにせよ、唐末から宋代にかけて、銅や鉄で鋳造された貨幣は決済手段として極めて重要になりますが、経済規模や地域の拡大とともにその重量や輸送の手間などが問題になってくると様々な工夫が生み出されることになり、飛銭などの手形決済や紙幣の誕生につながることになります。

 


800px-China_Sichuan.svg

800px-China_Shaanxi.svg
(現在の四川省と陝西省:Wikipediaより)



 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

通貨・金融に関する事柄は受験生の間では「ある国・皇帝の時代の政策の一部」であるとか、「文化史の中の一部」といった理解の仕方でとどまってしまうことが多く、極めて断片的なものとして捉えられてしまうことが多いように思われます。また、交易に関する事柄も多くは「東西交流」や「他の地域との交流」という、文化的伝播の手段としての側面が強調され、交易自体が本来有する経済的側面に対する理解が十分になされずに終わってしまうこともしばしばです。

 一方で、近年の受験問題では通貨・金融・交易(そしてさらには生産[農業史・工業史]・情報伝達史・交通史)などの経済・社会史に対して、上っ面の理解にとどまらず、より深い理解を要求する設問が増えてきているように思われます。これは、近年の西洋史・東洋史の分野が経済・社会史の理論的な部分だけではなく、その実態面を充実させるための多様な研究を進めてきていることと無関係ではありません。

 そこで本稿では、「中国通貨史」、「中国産業・交易史」、「西洋・西アジア通貨史ならびに近現代金融史」などについてご紹介したいと思います。途中、ところどころに抜けもあるかと思いますが、生暖かい目で見てあげてください。
 

1 鋳造貨幣の使用と普及

 

【古代】 貝貨(貨幣鋳造以前)→青銅貨幣(春秋・戦国時代)

 壊れやすい貝に代わり、実用価値のある青銅器へ、それを模した貨幣へ


青銅貨幣の種類

・刀貨 (斉・燕・趙で使用:東北部)

・蟻鼻銭 (楚で使用:南部)

・布銭[鋤を模したもの] (韓・魏・趙で使用:中央部)

  ・環銭[円銭] (秦・趙・魏で使用:西北部)

  

【秦(始皇帝)】 貨幣の統一(半両銭)

:鋳造貨幣は環銭が多くなる

→漢代に入ると重くて不便な半両銭から軽量化が図られる


半両銭
 (写真はWikipedia「半両銭」より引用)

 

【前漢(武帝)】 文帝期[5]に私鋳禁止廃止

→粗悪な私鋳銭の流通と貨幣の暴落

→貨幣の私鋳の禁止

→五銖銭の鋳造(武帝[7]期)

 

 五銖銭

(写真はWikipedia「五銖銭」より引用)

 

【新】 王莽による貝貨・布貨などの復活(復古主義の表れ)

→不便なため流通せず、五銖銭が私鋳される

 

【唐】 開元通宝:はじめての重さが表示されない貨幣(重さは2.4銖)

    →日本の和同開珎などに影響


開元通宝
 (写真はWikipedia「開元通宝」ならびに「和同開珎」より引用)

 

【宋】 宋銭の鋳造量が歴代王朝で最大に

→銅銭の普及、アジア諸国が信用価値の高い宋銭を輸入して自国で流通

    [一部地域(四川など)では遼・西夏への銅の流出防止のために鉄銭を使用]

 

鉄銭
 Wikipedia中国語版、「遼朝」所収の地図を改変して作成)

 

2 紙幣の成立

 

【唐】 飛銭(役所発行の送金手形)の使用

:両税法(原則銭納)の施行・遠距離取引の増加による

(徳宗の宰相、楊炎の時)

 

【宋】 交子(北宋・仁宗の頃~)・会子(南宋~):世界最初の貨幣

 :宋代の貨幣経済・商業の発達、鉄銭の流通による輸送の困難

(鉄銭の使用が強制された四川・陝西地方で特に重要)

→後に大量発行による価値下落とインフレ

 

【金】 交鈔(海陵王の治世)

    →濫発によるインフレ

 

  交子・会子・交鈔までは使用年限が決められていた補助貨幣

  「交鈔」という言葉は狭義では金の海陵王の時代に発行された紙幣を指すが、それ以外にも「金・元の時代に発行された紙幣の総称」または「宋代以降、明までの諸王朝で用いられた紙幣の総称」としても使われるので注意しましょう。

 

 cf. 2015年早稲田大学「世界史」大問1、設問5

  :「下線部a(元)の元代に関する事項として誤っているものはどれか」という設問に対し、選択肢③は「交鈔は宋・金・元・明で発行された紙幣の総称で、元では主要通貨となった。」とあります。これは上にも書いた通り、広義の意味では正しい記述ということになるので、解答としては当てはまりません。赤本では「難問」としていますが、個人的には解釈次第で正文とも誤文ともとれる内容を設問に盛り込むのはいかがなものかと思います。「正解となる選択肢④が誤文であるから判断はつくだろう」ということかもしれませんが、その肝心の選択肢④も「モンゴル帝国では支配領域にジャムチをしいたが、元では中国に適用しなかった」というもので、そもそも日本語としてイマイチ意味が取れません。言いたいことは「モンゴル帝国では支配領域にジャムチをしいたが、元では支配領域のうち中国(地域)にジャムチをしかなかった」ということなのでしょうが、そもそも「元」自体が「チンギスハーンが建設したモンゴル帝国のうち、フビライ以降の皇帝政権のこと」とされることもあり、この場合「元≒モンゴル帝国」となりますし、逆に「元≒当時の中国」の意味で用いられることも多いわけですから、文章中の「中国」が地域名としての中国であることを明示しなければその意図がくみ取れません(当時の「元」はモンゴル高原と中国地域の双方を支配領域としていた)。こうした曖昧な表現のもとに文章を構成しているわけですから、少なくとも「適用しなかった」の目的語として「これ(ジャムチ)を」ということを示すのは必須ではないでしょうか。入試ではこの手の明らかに出題者側に起因する悩ましい問題はたびたび出てくるので、それを乗り越えて正解にたどり着く鋭敏な感覚を養うことも受験生には要求されます。

 

【元】 中統鈔の発行(交鈔の一種、フビライの治世)

:色目人をはじめとする財務官僚の力量で積極的な経済政策

(従来の紙幣が補助通貨(有効期限あり)だったのに対し、有効期限なし)

=通貨としての紙幣の本格流通、金銀との兌換を保証

 

(その後の元における通貨政策)

・南宋征服の際の大量発行で兌換準備の不足

→インフレーション

   ・至元鈔(中統鈔の5倍の価値)の発行と塩の紙幣による購入の義務づけ(銀不足対策)

→一時的に通貨価値安定

   ・政治混乱やパスパ(赤帽派[サキャ派]の法王)によるチベット仏教の隆盛と国費濫用

→再度インフレ進行、交鈔使用禁止(1356

 

  パスパはチベット仏教の指導者と説明されることが多いが、実際にはチベット仏教のみならず中国地域全域の寺院の監督権と、旧西夏領の行政権を与えられた人物で、国政に対する影響力も大きかった。

 

【明】 

(明初[1368]

・元末の混乱(貨幣制度の崩壊)による実物依存型経済

・洪武帝の農本主義と通貨流通に対する知識不足

:宝鈔(不換紙幣)と銅銭(永楽通宝など)の併用

→貨幣価値の下落(紙幣の価値を保つための政策行われず)

→次第に銀が通貨として流通するように(外国からの銀流入[下記]

 

(明後期[16c]

・後期倭寇の活動、海禁策の緩和[1567]

→日本銀・メキシコ銀の流入(石見銀山、ポトシ銀山など)

  →一条鞭法の成立(万暦帝期、宰相張居正)

 =銀が東アジアにおける国際通貨に(東アジア交易網の形成)

  前期倭寇と後期倭寇の区別はついている受験生も多いでしょうが、前期倭寇と後期倭寇の活動域を地理的に見るとその違いがより鮮明になります。鎌倉末期~南北朝騒乱という日本の政情混乱と元末の政情混乱がもとで沿岸地域の略奪行為が行われた前期倭寇では朝鮮半島ならびに華北の沿岸地域が主要な活動域となっています(当然、李成桂もここで活躍することになります)のに対し、海禁下における密貿易が主体の後期倭寇では経済の中心である江南沿岸、台湾・琉球などがその主要な活動域となっています。

 

【清】 

地丁銀制の成立(明代後期以降の銀経済の成立による)

  康熙帝の頃から「盛世慈世人丁」数を確定(丁=成人のこと)

仮の人口数から割り出した丁税を地税に繰り込み、地税に一本化

丁銀がなくなったことで人口隠しが無くなったことによる人口増加?

  

・銀不足が起こると実質的な税負担の増加に(銀ベースの納税で額面が一定のため)

→時期によっては抗租運動(税の不払い運動)の増加

 

3 経済活動の拡大と銀経済の浸透

 

【南宋~明】

・宋代以降における江南沿岸地域の商業的発展・都市化

  →長江下流域では商品作物の栽培が進む

(宋代に最大の穀倉地帯であったことから重税がかけられ、副業として綿花・茶・桑栽培が盛んに)

→手工業が発達(綿織物・絹織物・陶磁器)

 

  ペルシア起源のコバルトの活用

:釉を塗り、低温焼成したのは唐三彩、高温が染付(青花)

 

・陶磁器では明代に染付(藍色の絵模様)・赤絵(五色の釉による文様)の技法が発達(景徳鎮を中心産地として)        

→長江下流域の人口が増加・都市化し、周辺の田園地帯では商品作物への転作が進む

→穀倉地帯が長江中流域に移動「湖広熟すれば天下足る」 

 ・遠隔地交易の発展

  :宋代に各地で都市(鎮・市・店など)が発達したものの、沿岸地域を除く各地域は比較的独立した経済圏にとどまっていた。

  [宋代の3大経済圏]

1、北宋の都開封を中心とする北部

2、江南の臨安[杭州]・蘇州を中心とする南部

3、四川・関中を中心とする西部

→宋末~明代に入ると、銀の流通と貨幣経済の発達、経済規模の拡大から内陸の遠隔地商業が発展、遠隔地商人(客商)の出現

→こうした遠隔地商人のうち、同郷・同業の者が集まって各地に相互扶助組織や共用の建物を設置(=会館・公所)。これらの建物は集会所・宿泊所・倉庫を兼ね、見知らぬ土地での交易を進める上で役立った。

 

★二大客商

・新安商人(安徽省)

:もともとは江浙地方の塩を扱う商人だったが、明代には海外との貿易にも従事して金融業に進出

・山西商人(山西省)

:洪武帝の頃、北辺防衛軍への物資供給代行の見返りとして得た塩の専売権で大きな利益をあげ、その後は明・清両王朝の資金を操る政商として活躍、金融業に従事した

  

・銀経済の拡大と浸透

 (宋・元)

:ユーラシア大陸・中国内における「銀の大循環」の形成

 (明中期[16世紀以降]

:日本銀・メキシコ銀の流入による銀経済の拡大と浸透

 Cf1 石見銀山(日本、1530年発見:実際には鎌倉期から存在は知られた。地方領主・小笠原長隆が奪取したのが1530年、後に大内氏・尼子氏らが争奪)

   CF2 ポトシ銀山(ボリビア、1545年発見→アカプルコ貿易でマニラ[1571]へ)

   

【影響】

  税制の変化 

両税法[唐~明初]→一条鞭法[明・万暦帝期・張居正]→地丁銀制[清中期~]

  明末の銀価値高騰による抗租運動の増加(佃戸の反地主・政府闘争)、奴隷反乱(奴変)、都市下層民反乱(民変)

:税の銀納化が進んだことや銀の価値高騰により、農民[佃戸]の実質的な税負担が拡大

ex. 鄧茂七の乱[15世紀半ば]

 

4 明清期の対外政策

 

【中国の伝統的対外関係】

・冊封体制(朝貢と冊封に基づく、中国を中心とした東アジアの国際秩序)

(冊封)周辺諸国・部族に官爵を与えるなどして形式上の君臣関係を結ぶこと

 (朝貢)周辺諸国の君主が中国の皇帝の徳に対して敬意を表して貢物をすること

※古くは後漢(光武帝-漢委奴国王)・三国(魏[曹叡]-親魏倭王)時代にその例が見られる。唐代には東アジア全域に拡大し、渤海・新羅・南詔などが冊封国に、日本・真臘・林邑(チャンパー)・シュリーヴィジャヤ(スマトラ南部)などが朝貢国として唐と関係を結び、東アジア文明圏が確立。

 

【明】

(初期):前期倭寇対策と海禁

・洪武帝による海禁策(元末混乱や日本の鎌倉幕府弱体化や南北朝騒乱によって発生し た前期倭寇対策、洪武帝の農本主義)

・永楽帝・鄭和の南海遠征

→朝貢貿易の促進、日本の冊封(勘合貿易[足利義満の時期~、建文帝の頃に使節、永楽帝が継続]

 

(中・後期):銀の大量流入と後期倭寇の発生→海禁の緩和

       Cf. 1523 寧波の乱

:応仁の乱以降、大内・細川両氏の間の勘合貿易をめぐる争いが武力衝突に発展

(細川管領家=堺、大内家=山口・博多などを拠点としていた)

      →一時勘合貿易が停止(1536年に大内義隆が再開)

・日本人商人との私貿易(密貿易)が活発化

・北虜に対抗するための軍事費の増大(支払いのための銀需要の拡大)

→密貿易による銀の調達(中国・日本・ポルトガル商人[1557年、マカオ居住]による日本銀・メキシコ銀の大量流入)

1567 海禁の緩和

 

【清】

(初期)

・海禁策の強化(1661年、遷界令)              

(中期以降)

鄭氏台湾の制圧(1683)と遷界令の解除(1684

→海関の設置(1865)上海、定海、厦門、広州の4港で朝貢貿易

乾隆帝が貿易港を広州一港に限定(1757

(公行と呼ばれる少数の特許商人に貿易管理を独占させる[広東十三行]

18世紀末からのイギリスの自由貿易要求(マカートニー[1793]、アマースト[1816]、ネイピア[1834]派遣)、東インド会社の中国貿易独占権廃止(1833)によるジャーディン=マセソン商会の活動活発化

→片貿易から三角貿易への転換による中国からの銀流出とアヘン流入量の急増

→アヘン戦争の敗北による冊封体制の終焉

(南京条約[1842]5港開港と公行廃止=貿易完全自由化)

 

5 明清期の東シナ・南シナ海域 

(東南アジア諸国の繁栄とイスラーム化)

 

14c末 マレー半島周辺にマラッカ王国成立

1411   明の鄭和が入港したのを機に明に朝貢・冊封(1411

(マレー半島を南下してくるアユタヤ朝を牽制)

ヒンドゥー教からイスラーム教に改宗

2代目:イスカンダル=シャーの時)

      東南アジアのイスラーム化を促進 

 

★東南アジアのイスラーム化

  
  ・
アチェ王国成立(15c末~20c初、スマトラ北部)

  ・マタラム王国成立(16c末~1755、ジャワ東部)

  ・バンテン王国成立(16c初~1813、ジャワ西部)

  ・ジャワ島最後のヒンドゥー王国であるマジャパヒト王国崩壊

 

16世紀ポルトガルの進出)

 

1510 ポルトガルがゴア(インド西岸)を占領

:初代総督アルメイダがディウ沖海戦(1509)でマムルーク朝に勝利

→アラビア海への進出

1511 マラッカ王国を占領(滅亡)

:ゴアを建設したポルトガル総督アルブケルケ(2代目)による

1512 ポルトガルがモルッカ諸島に進出

→香辛料貿易に乗り出す

1517 コロンボ(セイロン)占領

 1543 ポルトガル人の種子島来航

 1550 平戸で交易開始

1557 ポルトガル人がマカオに居住権

(来航は1513頃、19世紀末にはポルトガル領に)

1571 マニラ建設

(スペイン人の初代フィリピン総督レガスピがルソン島に)

→メキシコ銀の中国流入

 

17世紀 オランダの経済覇権確立期)

 

・アントウェルペンなどへのアクセスを断たれたオランダは独自にアジア進出

・ヨーロッパではアムステルダムが世界の商業・金融中心に

 

1602 オランダ東インド会社(連合東インド会社[VOC])設立

1619 オランダがジャワ島に拠点バタヴィアを建設

   (オランダ東インド会社総督クーンによる)

1623 アンボイナ事件

:オランダ人がアンボイナ島(モルッカ諸島)でイギリス商館を襲い、商館員を処刑

    →オランダによる香辛料貿易の独占

    →イギリスがアジア経営の比重をインドに傾ける

  

  同時期、オランダは新大陸にも進出


   1614
 ニューネーデルラント植民地建設

   1621 オランダ西インド会社設立

 1625 ニューアムステルダム建設

             

 1624 オランダ東インド会社が台湾を占領

:ゼーランディア(安平) 城を建設

(フィリピンを領有するスペインに対抗、対日貿易の拠点)

→鎖国下の日本と交易(長崎・出島:1639 ポルトガル人追放)

1641 オランダ東インド会社がマラッカ王国を占領

1652 ケープ植民地建設

1658 セイロン島をポルトガルから奪取

  16611662 鄭成功がオランダ勢力を台湾から駆逐

       →清の康熙帝は封じ込めのために遷界令発布(1661)

       →三藩の乱(1673-1681)鎮圧後に台湾が清の直轄領に(1683

=清の中国統一の完成
              →遷界令解除(1684)

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 さて、ここからはすでに紹介した「通貨・産業・金融史について、理解や把握のポイントとなる部分を示していきたいと思います。

 まず、商業が発展してくると次第に貨幣の重要性が増してくるわけですが、そうなるとそれまでは実用の取引に用いられるというよりは、一種の儀礼的なもの、もしくは贈答用や権威の象徴として用いられてきた「貨幣(というよりはこの段階では「おたから」)」に、実用としての機能が必要になってきます。

 よく、最古の貨幣はタカラガイ(子安貝)であった、という記述があります。これは間違いではないようですが、実際には貝貨は取引に使われたというよりは地方権力者に対する贈与用や埋葬品として用いられたようです。確かに、あれを実際の取引に使用すると破損したりで使い勝手が悪いと思われます。青銅貨幣も最初のうちは当時としては貴重な「青銅器(鋤・刀など)」を物々交換の手段として用いていたところ、後にそれを模した青銅の塊を通貨として用いるようになったようです(布貨、刀貨など)。ただ、これも実際の取引に使用すればごつごつしていて使い勝手が悪いため、その後の中国では環銭(円銭)が用いられるようになっていきます(さらに、保管の際に銭がすれて摩耗することを防止するために穴は円ではなく方形が採用されるようになったという説もあります)。

 戦国期にはおなじみの青銅貨が各地で使用されることになるわけです。センターや私大などではこうした青銅貨の写真を示した上で、これが用いられた国を問う問題が良く出題されますが、これも覚えられない人はまず戦国の七雄の位置を把握しましょう。その上で、「東北部は刀貨、中央部は布貨、秦は円銭、楚は蟻鼻銭」と視覚的に覚えた方が覚えやすいと思います。
 戦国の七雄が覚えられない、という人はまず「斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙」の順で唱えて覚えることを徹底しましょう。そして、これが山東半島からぐるりと中国全土を東→南→西→(東)北と一周した後で中央部を南から北に三国ならぶイメージを持つと全体の位置が把握しやすく、二度と迷わないと思います。
 複数のものを一度に覚えるときのコツですが、必ずその順番を変えないようにセットで覚えることが大切です。思い出すたびに順番を変えたり、別々に思いだそうとすると混乱の元となるので注意しましょう。(たとえば、高校生の頃バルト三国などは頭文字一つずつ取って北から順に「エラリーさん(三)」と覚えました。[エストニア・ラトヴィア・リトアニア]

 その後の貨幣は軽量化が進み、特に各王朝の中央集権が進んだ際に私鋳銭の防止のために統一通貨が出されることが多いようです。実際の取引の際にはこうした通貨が使われつつ、混乱期にはこれらに加えて私鋳銭が混じって使用されるような状態だったようです。ただ、やはり取引の都合上、円形のものが用いられたようで、そのため王莽の行った復古政策にともなって古代の布貨・刀貨などを復活させた政策はすこぶる評判が悪かったと言われています。(実際に王莽銭を見てみたい、という人はhttp://www.geocities.jp/hiranocolt/page008.htmlの「中国古銭」というサイトに実際に王莽銭の写真がたくさん載っています。)よく、「王莽は周代の政治を理想とし」みたいなことが言われますが、よくよく考えてみれば王莽の時代に青銅貨が周代のものなのか戦国期のものなのかといった区別はおそらくつかない(どっちにしても当時からすれば古代なので)わけで、こうしたこともあわせてイメージしておくと、漢代の途中にヒョイと顔を出す程度で覚えにくかった王莽にも一定のイメージがわいてきます。 

 宋銭の鋳造量がそれまでの貨幣流通量と比べてはるかに多くなる、というのも北宋の都開封の繁栄など、商業の発達を考えればわかりやすいと思います。唐代の交易は主に西方のムスリム・ソグド人たちとの交易であり、こうした人々との交易には当然銅銭よりは物々交換や金銀による決済が行われます。彼らにしてみれば中国でだけ通用する銅銭を持って帰ったところでたいした利益にはなりません。ところが、宋代は中国人がジャンク船などを用いて沿岸交易に乗り出した時代で、さらに内地の地方経済圏も拡大しはじめます。たとえば、元々は唐代末から登場する城外の無認可市場であった草市が次第に各大都市を結ぶ中継点(日本で言えば宿場のようなもの)として機能し始めた結果、それ自体が地方都市としての機能を有する鎮・市・店などとして発展するのが宋代です。よく言われる区別ですが、北魏~唐までの都市が「政治都市(政治的に管理され、営業時間や場所なども厳格に管理されている)」としての性格を有しているのに対し、宋代以降の都市は「商業都市(自然発生的に都市が拡大)」としての性格が強いです。このような内地経済の発展があるから当然そこで用いられる鋳造貨幣の量も増大します。 

東アジアの中心であった中国でこうした動きがあれば、いまだに貨幣経済自体が未成熟でかつ鋳造技術の未熟な周辺諸国は、この宋銭を中国との交易のためや国内の通貨の代用として入手し始めることになります。平清盛が始める日宋貿易などはそうした流れの中に組み込まれるわけです。(日本において、和同開珎以降、基本的に[たとえば天皇または朝廷が]自ら貨幣を鋳造するという動きがないことに注意すべきです。日本においてはまだ貨幣経済・鋳造技術ともに未熟で自前の鋳造貨幣を用いようということにはならなかったからです。実際、和同開珎などは寺院の基壇などに用いられていたことがわかっており、実際の取引以外に儀礼用としての性格が強かったのではないかという説もあります。

  こうした商業圏がさらに拡大していったのは明代に入ってからです。詳しくは「通貨・産業・金融史の「3、経済活動の拡大と銀経済の浸透」を参照して下さい。宋代に発展した華北・江南・四川の各地方都市圏は客商とよばれる遠隔地商人たちによって結びつき始めます。ところが、こうした商人たちが別の土地で商売を行うには様々な困難がつきまといます。たとえば、現在ですら地方によって全く言葉が異なると言われる中国ですから、当時はるか遠くの地方に向かえば言語も相当に違ったはずで、まず言葉が通じません。さらに、商品の輸送をどうするか、運んだ品はどこに置くか、さらにそれらを保管する場所はどこか、現地での情報収集をどうしようかなど、商売を進めるにあたって突き当たる困難は数多くあります。読者のみなさんがこれから突然「イスラーム圏にいってモノ売ってこい」と言われた時の困難を想像すれば概ねオッケーです。そうすると、これらを何とかするために現地にいる同業者や同郷者同士が次第に集まり、相談したり、商品を一括で管理する場所が発展することになります。これが「公館・会所」です。

そして、こうした遠隔地商人の代表格が「新安商人」と「山西商人」です。彼らは明代~清代にかけて現われた商人ですが、その特徴や区別を具体的にイメージできずに一括で覚えている人が大半ではないでしょうか。まず、「新安商人」はもともと下の安徽省を拠点として活動した客商です。

 安徽省

Wikipedia「安徽省」より引用)

 

これを見ると、江南の沿岸部(南京など)に近く、さらに内陸の運河の南北を結ぶ結節点に位置していることがわかります。このような立地条件から、新安商人は当初は江浙地方の塩を扱っていましたが、その富と、江南沿岸部の都市化にともなって沿岸交易にも乗り出していきます。

 

  余談ではありますが、「塩」は古来から貨幣に信用価値がなくなってきた際の代替手段に用いられることが多いです。なぜなら、「塩」は生活必需品である(日本にも武田信玄と上杉謙信の間の「敵に塩を送る」のエピソードが有名ではある)にもかかわらず、中国はその大半が内陸部にあるため、「塩」は交換手段としての信用性が非常に高く、たとえば政治混乱や財政混乱などで紙幣の信用が大幅に下落してしまった時には国家が塩を専売制にすることでその通貨の信用を保とうとしました。

 

さて、一方の山西商人はその名の通り山西省を拠点とした客商です。(山西省は山東半島の西と考えれば位置はわかりやすい。) 

山西省
 山西商人が北方の防衛軍に対する物資供給を請け負ったことは書きましたが、この頃「北虜」に悩まされていた明ではこの防衛費の出費がバカになりませんでした。防衛費の決済は膨大な額にのぼることから、当時決済は銀で行われたわけですが、この銀がどんどん消費されるために北方では銀は不足しがちで、他地域よりも交換比率が良くなっていました。こうした中、明には日本銀やメキシコ銀が大量に流れ込んでくるという現象が起こるわけです。また、山西商人は北方防衛の見返りとして商売として外れの少ない塩の専売権を手に入れ、これにより莫大な富を得ます。さらに、都からも地理的に近い位置にいる山西商人は清代にかけて政商としての側面を強く併せ持っていくことになります。

とまぁ、こんな感じでイメージすると理解しやすいのではないでしょうか。どこまでが史実かというのは研究書にあたってみないと怪しいところもありますが、何も中国史を専門に研究するわけではないので、とりあえず受験用「世界史」の大枠をイメージするという意味ではこれで十分だと思います。大切なことは、個々の用語や意味を当時の政治・経済・文化などや環境と結びつけて考えることです。そうすることによってみなさんの世界史に対する理解は動きをともなわない静かなものではなく、よりダイナミックなものとしてイメージされることになるでしょう。そしてそのことは東大などが求める世界史像ともつながってきます。

こうして明代には国内の経済圏の結びつきが進むとともに、海外諸国との交易も拡大しました。この過程において、日本と新大陸からの銀を加えた交易圏の拡大によって、13世紀にすでに現れ始めていたユーラシア大陸全体を結ぶ交易圏(13世紀世界システム)は真の意味でグローバルなものに変化したと言えます。結果として、世界の銀はヨーロッパの西部~北部にかけてと、東アジアの中国へと集中することになります(『リオリエント』)。このあたりのところは「東大への世界史で述べたとおりです。

もっとも、明の建国者である洪武帝は、当初こうした交易の拡大には消極的というよりむしろ否定的で、明ははじめ海禁策(私貿易の禁止。倭寇討伐が目的のため、朝貢貿易は可。)をとっていたと言われます。(前期)倭寇に対抗するための措置です。ただ、洪武帝自身が貧しい階層の出身(一説によれば乞食から寺の小僧となった後に元末の紅巾の乱に身を投じて頭角をあらわしたとされる)であり、経済に明るくなかったことから、農業重視の政策をしていたこともその背景にはあるのかもしれません。(洪武帝の政策の多くが農村統治に関するものである[賦役黄冊・魚鱗図冊・六諭etc.]) もっとも、明は民間貿易については禁止しましたが、朝貢貿易は禁止していません。これには、崩壊してしまった冊封体制の再編という意味もあったのかもしれません。また、洪武帝が貿易に積極的でなかったのは、単に国内問題が落ち着いていなかったために対外貿易に注力する余裕がなかったからだという説もあります。

 いずれにせよ、永楽帝の時代にムスリム宦官であった鄭和による南海遠征で周辺諸国の朝貢貿易が促進されたことから、明周辺の交易の規模は拡大していきます。この中で、「自分もこの貿易のおこぼれにあやかりたい」と思いつつも、朝貢という国の正式な使節に随伴することが許されなかった中小の商人や沿岸部の有力者たちは次第に密貿易に手を染めることになります。後期倭寇の発生です。想像してみてください。真っ暗な夜、今から数百年前の中国沿岸部で数隻の船が出港したとしてそれを誰が見とがめることができるでしょうか。こうして、後期倭寇による私貿易の拡大は半ば公然のものとなり、統制がきかなくなってきました。こうなると、むしろこれを取り締まるよりも管理してその利益を吸い上げた方が良いという議論が説得力を持つことになります。最終的に1567年には海禁が緩和され、明の商人たちは呂宋(ルソン)、暹羅(タイ)、旧港(パレンバン)、柬埔寨(カンボジア)などの港に出航することが許されることとなりましたが、日本と明をダイレクトにつなぐ交易は認められていませんでした。そのため、日本の堺や博多の商人たちはルソンをはじめとする各地へ出向いていき、ここで「出会い交易」と呼ばれる形式の交易で中国の物産を持ち帰るのです。16世紀という時期が戦国末期~安土桃山期であったことを思い出して、この時期には千利休やら古田織部やらが中国からやってきた茶器に「ハァハァ、天目萌え~」とか、信長が「九十九髪茄子にシビれる!あこがれるゥ~!」と言っていたことを考えると結びつきやすいと思います。もう完全に「へうげもの」の世界ですねw 

 

  さらに余談ですが、日本と明との交易は正式には当初足利義満による勘合貿易の形で進められました。日本における南北朝の争乱が収まり、西日本の武士団に対する統制もある程度とれるようになったことで、明の要求する倭寇討伐の目途もたったためです。しかし、しばらくするとこの勘合貿易は、応仁の乱以降は幕府自体が行うものというよりも西国の有力守護、中でも大内氏と細川氏が取り仕切るようになっていきます。下は、応仁年間における細川、大内の所領ですが、細川の所領に堺が、大内の所領に山口・博多といった重要な港町があるのが見て取れます。 

夏期講習2016(金融・経済史3)
 

http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/50362065.htmlより引用)

 

こうした両氏の勘合貿易をめぐる利権争いが高じて中国、寧波でおこった武力衝突事件が寧波の乱(1523)です。この事件では大内方が細川方もろともに明の役人を殺害し、一時日明貿易は停止されますが、当時倭寇の取り締まりを行っていた大内氏に対する配慮から1536年には日明貿易が大内義隆により再開されました。この事件がおこった寧波は実は明代における日本の朝貢貿易の指定港でした。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ