2021年の一橋の問題です。結論から申し上げますと、これまでの一橋の問題と比べて特別難しいと感じさせる設問ではありませんでした。かなり「手ごたえがある」と感じたのは第2問でしたが、これも例の「一橋の無茶ぶり」っぷりからいえばまだかわいい方で、文化史をしっかり理解している受験生であれば「とっかかりもない」ような設問ではなかったように感じます。難しいですけどねw 第1問、第3問についても標準的な問題の範囲内ではありますが、ところどころに細かい注意を払うべき点や、細かな知識が必要となる部分がありました。全体としては、普段からの勉強と知識量の差・丁寧な理解・丁寧な設問の読み解きが少しずつ積み重なってかなり大きな差となる設問であったように感じます。選抜試験という意味では良問の類に入るのではないでしょうか。逆に、取り組む側からすれば、個々の設問の難度はそこまで高いものではないにもかかわらず、総合すればかなりの注意力と集中力を必要とした設問だと思います。

 

2021 一橋Ⅰ

 

1、設問確認】

・アヤ=ソフィア=モスク(ハギア=ソフィア聖堂)建造の時代背景を説明せよ。

・モザイク(聖母子像)の銘文設置の政治的、社会的背景を説明せよ。

・複数回にわたる転用がなぜ起こったのかを念頭におけ。

・この建物の意味の歴史的変化を論ぜよ。

400字以内

 

【2、建造の時代背景】

:現在のアヤ=ソフィアはユスティニアヌスによって再建されたものです。山川用語集などにも「6世紀にユスティニアヌス大帝が再建したもの」(2018年版)となっていますので、再建前のものについては気に留める必要はありません。ですから、時代背景についてはユスティニアヌス時代のビザンツ帝国を取り巻く背景をまとめておけば問題ありません。

 

(まとめるべき事項)

・ユスティニアヌスが再建

・コンスタンティノープルはギリシア正教の中心地に(総主教座の設置)

・ビザンツ様式

 

【3,モザイク銘文設置の政治的・社会的背景】

:これについてはレオン3世による聖像禁止令(726)にかんする内容がしっかり頭に入っていればそれほど問題なかったかと思います。ビザンツ皇帝レオン3世が発した聖像禁止令によってビザンツ帝国各地で聖像(イコン)の破壊運動(イコノクラスム)が発生しました。このことがローマ教会との対立の一因となったことは模試や大学入試では頻出事項です。また、イコン崇拝の正統性は787年に皇后エイレーネーによって一時確認されたものの、815年には再度発令され、843年には皇太后テオドラによって撤回され、それ以降ビザンツ帝国ではイコン崇拝が復活します。

テオドラとエイレーネーについては、私の確認した限りでは『詳説世界史B』(山川出版社、平成28年度版)、『世界史B』(東京書籍、平成28年度版)ともに記載がありませんでした。聖像禁止令の撤回については東京書籍版『世界史B』には「聖像崇拝をめぐる論争ののちに843年に聖像崇拝禁止令が解除されると、神や聖人を描いた聖像画(イコン)がさかんに制作された。」(p.141)とあります。また、『詳説世界史研究』(山川出版社、2017年版)の方には「イコノクラスム」についてのコラムがあり、そこに「ときの皇帝が主導し、2度にわたったイコンに対する制限は、それぞれテオドラとエイレーネーという2人の女帝が解除した。」(p.167)とありますので、上記に示した情報の概要は確認することができます。[ちなみに、旧版の『詳説世界史研究』(2008年版)では「8世紀の末、女帝イレーネ(797-802)は聖像崇拝を復活し、その後、一時論争が再燃したものの、843年には聖像崇拝が正統と認められ論争は終わった。」]とあります。ですから、かなり突っ込んで学習している人であればエイレーネー(イレーネ)やテオドラの名前まで出すことも可能であったかもしれません。もっとも、ここでは二人の名前はまったく重要ではなく、大切なことは「レオン3世の聖像禁止令で聖像破壊運動が起こったが、その後聖像崇拝は復活した」ということを示せるかどうかです。そもそも、ビザンツでイコノクラスム(聖像破壊運動)が維持されたままであるならばモザイク画などのビザンツ美術の発展が見られるわけがありません。そのあたりのところを丁寧に確認できているかどうかは大切な要素であったと思います。

 また、そもそもレオン3世がなぜ聖像禁止令を出したのかということについては、いろいろと議論は出されていますが、結論は出されていません。この点について、『詳説世界史B』は「…偶像崇拝を禁ずるキリスト教の初期の教理に反すると考えられたこと、また偶像をきびしく否定するイスラーム教と対抗する必要にせまられたことから…(中略)…聖像禁止令を発布した。」(p.125)と、わりと言い切っちゃってますw 『詳説世界史研究』(2017年版)の方では「イコノクラスムの動機については、偶像崇拝を強く拒否するイスラームの影響や、イコンや聖遺物を用いる教会・修道院の影響力や経済力の拡大を制限しようとしたものとする見解が並び、結論は出ていない。」としています。

ただ、本設問では「政治、社会的背景を説明せよ」とありますので、何らかの説明はしておきたいものです。まず、事実として間違いなくあるのは、この聖像禁止令が修道院(聖像作成などに深くかかわっていた)からの反発を受けたことと、修道院が弾圧の対象となってその没収された領地が皇帝領とされたことです。また、聖像禁止令がすでに悪化しつつあった東西教会の対立をさらに悪化させ、いわゆる「カールの戴冠」へとつながっていく要因の一つとなったことも定説となっています。また、当時ビザンツ帝国がイスラームの脅威にさらされていたことも間違いのないところです。ですから、たとえば「イスラームの圧迫を受け宗教の統制を図ったレオン3世が聖像禁止令を出し、修道院を弾圧して集権化を進めたが、ローマ教会との対立を招いた。」くらいの内容であれば、事実に反することを書くことなく、学説上議論のある部分にも触れずにまとめられるかと思います。

もっとも、山川教科書にあるように「偶像崇拝を禁ずるキリスト教の初期の教理に反すると考えられたこと、また偶像をきびしく否定するイスラーム教と対抗する必要にせまられたことから」って書いちゃってもいいですけどね。学説的に議論があろうがなかろうが、何といっても教科書に書いてあるわけですからw 「受験生が学説上の議論まで気にしていられるか」ってことですもんねw ただ、私は歴史畑の出身のせいか、どうしてもその辺はこだわりたいのですよ。となると、与えられた材料の中での落としどころを探すことになります。

 

(まとめるべき事項)

・レオン3世の聖像禁止令(726

・聖像禁止令によってイコノクラスム(聖像破壊運動)が起こった

・聖像禁止は東西教会の対立を招いた

・聖像禁止令が出された当時はイスラームの圧迫にさらされていた

・ビザンツ帝国の修道院勢力が弾圧され、皇帝権力の強化が図られた

・聖像禁止令は9世紀半ばに撤回され、イコン崇拝が復活した

 

【4、複数回にわたる転用】

:続いて、「複数回にわたる転用」とは何を指すかを確認します。ハギア=ソフィア聖堂がアヤ=ソフィア=モスクに転用されたことはよく知られていますが、「複数回」ということになればこれだけでは不十分です。ハギア=ソフィアの「転用」については、以下の②・③は最低限必要な内容で、その詳細についても記述する必要のある部分です。

 

① 第4回十字軍後のカトリックによる接収(1204年~1261年)

② メフメト2世によるモスクへの転用(1453年)

③ トルコ共和国建国後の博物館への転用(1935年)

④ エルドアン政権下でのモスクへの転用(2020年)

 

 これらのうち、第4回十字軍についてはキリスト教のカトリックが接収するものになるので、考え方によっては記述する必要はないかもしれません。(これを「転用」と言ってよいのか、ということですね。カトリックとギリシア正教は儀式等についてかなりの違いがありますので、「転用」に含めて問題ないかとは思いますが。) 13世紀はじめに始まった第4回十字軍は教皇インノケンティウス3世の提唱で始まりましたが、実際の運用面についてはヴェネツィアが行っており、実利を追い求めた諸侯とヴェネツィアが本来の十字軍の目的から逸脱し始めます。そうしたところにビザンツ帝国で帝位継承争いに敗れた皇子がやってきて、十字軍に助力を乞うたことがきっかけとなり、この十字軍はビザンツ帝国の帝位継承問題に首を突っ込むこととなりました。最終的にビザンツ帝国の都コンスタンティノープルは陥落し、略奪の限りを尽くされた上で、この地には十字軍諸侯の一人であったフランドル伯ボードゥアンを皇帝に、財政・軍事部門をヴェネツィアが実質的に担当するラテン帝国が成立します。この時、都を追われたビザンツ勢力は小アジアにニケーア(ニカイア)帝国やトレビゾンド帝国、バルカン半島西岸にエピロス専制侯国などの亡命政権が成立します。最終的に、これらのうちのニケーア帝国が1261年にコンスタンティノープルを奪回してラテン帝国を滅ぼした結果、ビザンツ帝国最後の王朝であるパラエオロゴス朝がミカエル8世によって復興されます。これによってハギア=ソフィアは再びギリシア正教によって回復されることになります。(このあたりの事情も、一応新版『詳説世界史研究』には簡潔ではありますが示されています。)

1ニケーア帝国

Wikipedia「ニカイア帝国」より)

 

続くメフメト2世によるコンスタンティノープル占領とビザンツ帝国の滅亡、モスクへの転用などは基本事項になります。基本的な事柄ではありますが、重要事項ですので書き漏れのないようにしましょう。また、ミナレットの増設などにも言及しておくとよいと思います。

その後、20世紀に入ってオスマン帝国が滅亡します。オスマン帝国の滅亡については以前東大の2019年問題解説の方で簡単にではありますが言及しています。オスマン帝国滅亡後に建国されたトルコ共和国の下でアヤ=ソフィア=モスクは博物館へと転用されるわけですが、これについては単に「博物館に転用された」と書いても、すでに設問の方に示されている事実ですので、おそらく加点はされないと思います。(もっとも、「トルコ共和国」や「ムスタファ=ケマル」については加点対象かもしれません。) ここで大切なことは、トルコ共和国の初代大統領となったムスタファ=ケマルがトルコ民族主義に基づく世俗化と近代化を進めたことです。(なぜ、トルコ民族主義がイスラームと距離を置くことになったのかについては、以前オスマン帝国末期の「オスマン主義」、「パン=イスラーム主義」、「パン=トルコ主義(トルコ民族主義)」について言及した箇所でお話ししていますので、詳しくはそちらをご覧ください。) つまり、アヤ=ソフィア=モスクの博物館への転用は、ムスタファ=ケマル政権下のトルコ共和国における世俗化という文脈の中で起こった出来事になりますので、それを理解して明示しておく必要があるかと思います。

最後に、エルドアン政権下でのモスクへの転用(復帰)についてです。これについては、博物館へ転用された時とは逆の力が働いています。トルコでは建国以来、長らく政教分離の世俗主義が貫かれてきました。しかし、この20世紀の後半になると、この世俗主義がトルコ人口のほとんどを占めるムスリムの生活・社会を壊し、格差の拡大を助長していると考えられ、イスラームの教えに基づく社会への回帰をもとめる保守層や生活の安定を求める貧困層などを中心にエルドアンへの支持が拡大しました。(→このあたりの事情についてまとめた記事がありましたので紹介します。)このような背景から、2003年から首相、2014年から大統領を務めるエルドアンは、女性のスカーフ着用の解禁や酒類の販売制限など、イスラーム回帰的な政策を強く打ち出しています。こうした事柄についてはもちろん教科書等には出ていませんが、わりと頻繁にニュースでも出てきますし、多少気の利いた先生なら授業の合間に紹介してくれることもあるかもしれません。また、ものすごくよくできる受験生であれば、もしかするとこのあたりのことを解答に盛り込んだ受験生もいたかもしれません。

もっとも、本設問ではエルドアン政権下でのモスク回帰については書く必要はないと思います。(書いても問題ないですし、場合によっては加点されるかもしれません。)ただ、出題者が上記のトルコ情勢に関心をもって出題したことは明らかです。トルコについては2018年の京大、2019年の東大でも出題されましたし、今の歴史学会の学者たちがトルコ問題(に限ったことではないでしょうが)にかなりの関心を向けていることが感じられます。

 

【解答例】

 ビザンツ帝国のユスティニアヌスが建造したビザンツ様式のハギア=ソフィア聖堂には総主教座がおかれギリシア正教の中心地だった。イスラームに対抗して宗教統制を図るレオン3世の聖像禁止令はローマ教会との対立を招き、帝国内部でもイコノクラスムが起こったが、9世紀半ばに禁令が撤回されてイコン崇拝が復活し、モザイク画などの宗教芸術が発展した。第4回十字軍によるラテン帝国成立で一時カトリックの支配下に置かれたが、パラエオロゴス朝の下で奪還された。しかし、1453年にメフメト2世がコンスタンティノープルを占領してビザンツ帝国が滅亡すると、聖堂はモスクに転用されミナレットが増設された。第一次世界大戦後にオスマン帝国が滅亡しトルコ共和国が成立すると、世俗化を進めるムスタファ=ケマルはアヤ=ソフィアを博物館に転用した。しかし、20世紀後半にイスラーム回帰を求める声が強まるとエルドアンは博物館をモスクにすることを決定した。(400字)

 

とりあえず、上記の解答例では最近のエルドアン政権によるモスク化の内容も含めて解答にしてみました。モスク化の決定は2020年の7月ですので、20213月の試験時点では解答に盛り込むことも可能です。もしエルドアンによるモスク化を書かないのであれば、それ以外の記述を充実させて、たとえば聖像禁止令後の修道院弾圧などを加えてあげるとよいでしょう。

 

2021 一橋Ⅱ

:第2問は、近年一橋で出題されるようになった、二つの時代の比較を提示した史資料から行わせるというものです。近年ですと2018年第2問の「歴史学派経済学と近代歴史学の相違」や2016年第1問の「聖トマスとアリストテレスの都市国家論の相違」などが挙げられます。このスタイルの設問では、単なる世界史の知識を示すことではなく、問題中の史資料を駆使して情報を拾い上げ、持っている世界史の知識と総合して解答を作ることが想定されていると思います。そのためか、このスタイルの設問では「述べよ」とか「説明せよ」ではなく、「考察せよ」という指示が使われています。また、2018年でもそうでしたが、「歴史的コンテクスト」(2016年では歴史的実態となっていましたが)や「社会的コンテクスト」に注目するように要求されています。単に、史資料に書かれていることをそのまま提示するのではなく、そこに書かれた事柄を世界史で学んだ歴史的・社会的コンテクストと照らし合わせて適切に解釈・解説せよということが要求されているわけです。このスタイルの設問はかなり難しいことが多いので、覚悟を決めて注意深く解くか、先にほかの二つの設問を仕上げてから取り組むか、最初に問題を見て判断するようにしておきましょう。

 

【1、設問確認】

・リード文中の「ゲーテの時代」と「レムブラント時代」の文化史的特性の差異を考察せよ。

・当該地域の社会的コンテクストを対比せよ。

400字以内

・史料1および史料2を参考にせよ。

(史料1):レンブラント作「織物商組合の幹部たち」

2レンブラント

Wikipedia「レンブラント」より)

 

(史料2):ゲーテ『詩と真実』より引用の一文[一部改]

 

【2、リード文と史料の分析(「ゲーテの時代」、「レムブラント時代」とは何か)】

:リード文では、「シェークスピーアのイングランド」や「ゲーテの時代」などの言葉が用いられた時、これらの言葉には人々に「ある特色によって内面的に統一された文化現象の全体的印象」を与える力がある、としています。そして、これらの言葉は後代の人々に「歴史的な最良の時代」を思い浮かべさせるのであって、より具体的に言えば、

 

・(後代には)すでに失われた青春の活力

・(後代の人々が僅かに感じることができる)当時における新しい指導価値

・これらが突然に国民の中に芽生え、それまでの伝統的・動脈硬化的生活を一新する

 

などの特徴を備えた時代として紹介されていて、「レムブラント[レンブラント]時代」という言葉も同様の時代として使われていると述べられています。

 「ちょっと何を言っているのだかわからない」と思う受験生も多いのではないかなぁと思うのですが、これについては国語力を磨いていただくしかありません(汗)。国語力、というより人とコミュニケーションをとる力というのは全ての学問・活動の基礎になるので磨いておいて損はありません。多分。

 もう少し簡潔に言えば、ドイツにもオランダにも、それまでの先入観や伝統に凝り固まった価値観(これがつまり「動脈硬化的」と表現されているわけですが)を一新して、新しい指導価値や青春の活力にあふれた時代、後代の人々からは歴史的に最良の時代ととらえられる一時期があったのであって、そうした時代はドイツでは「ゲーテの時代」、オランダでは「レムブラント時代」と端的に表現されることがあり、またこれらの言葉自体にその時代を想起させる力がある、ということを言っています。

 つまり、「ゲーテの時代」という言葉は、ハッピーでパワフルだったドイツの素敵な時代を示しているし、思い出させる力があるってことを言っとるわけです。それを踏まえて、史料を参考にしつつ、「ゲーテの時代」や「レムブラント時代」はどういう時代なのかを検討してみましょう。

 

(レムブラント時代)

:時代的にはレンブラントが活躍した時代の方が古いです。レンブラントが活躍したのは17世紀前半のオランダで、当時のオランダはスペインから独立を達成したばかりの新興国家であり、中継貿易によって栄えた商人貴族を中心とする連邦共和国でした。よく、17世紀前半はオランダが覇権を握った時代、とされますが、レンブラントが活躍したのはまさにそういう時代だったわけで、これは史料の「織物商組合の幹部たち」に商人が描かれていることからもわかります。

レンブラントはバロック期の画家に分類されますが、通常バロック画家は宗教画以外には王侯貴族や宮廷生活を描くことが多くありました。これは、当時のヨーロッパが絶対王政の時期であったためで、たとえば代表的なバロック画家であるルーベンス、ファン=ダイク、エル=グレコ、ベラスケスなどは、当時のフランス・イギリス・スペイン宮廷の様子を描いた絵画を多く製作しています。こうした中で、オランダで「商人たちの日常」が描かれたのは、当時のオランダが商人の支配する国家であることを示しています。

では、当時のオランダはどのような時代で、「レムブランント時代」はどのような文化史的特性を持っているといえるのでしょうか。以下にまとめてみましょう。

 

[A、レムブラント時代のオランダ]

・新興国(1568年から独立戦争、1581年にスペインから独立宣言)

・プロテスタント国家(カルヴァン派[ゴイセン]の主導により独立)

・連邦共和国(ただし、実質的には「商人貴族(レヘント)」による寡頭支配)

・世襲のオランダ総督が実質的な国家元首に

・スペイン、ポルトガルに代わり海洋覇権を握り、中継貿易で繁栄

 cf.) グロティウス『海洋自由論』

・首都アムステルダムは世界の中心に

 

[B.レムブラント時代の文化]

・バロック美術

:ルネサンス期の調和・均整から、強調・誇張・逸脱などドラマティック・ダイナミックな要素を取り入れる、豪華・華麗

・オランダでは、商人貴族などの都市富裕層が文化の担い手

・プロテスタント(カルヴァン派)の価値観を反映

 

このように見てくると、「レムブラント時代」が否定した「伝統的・動脈硬化的生活」が何かということも見えてきます。つまり、レムブラント時代のオランダにおいて否定された価値観とは、文化的には「ルネサンス的な調和と均整」であり、政治・社会的には「カトリック」や「封建領主・君主による支配」でした。これに対して、当時のオランダで新しく息づいていたのは、文化的にはドラマティックでダイナミックなバロック美術であり、政治・社会的には「プロテスタントの価値観」や「商人としての行動規範・進取の精神」であったといえるでしょう。

 

(ゲーテの時代)

:では、「ゲーテの時代」というのは、ドイツにとってどんな時代だったのでしょうか。また、その時代はオランダの「レムブラント時代」と比較したときにどのような対比ができるのでしょうか。

 ゲーテ(17491832)は、文化史的にはロマン主義の先駆けとなる古典主義の作家・詩人として知られる人物です。18世紀後半からのドイツにおける「疾風怒濤(シュトルム=ウント=ドランク)」を主導したことでも知られていて、古典主義からロマン主義への架け橋のような役割を果たした人物です。また、ヴァイマル公国の宰相としても活動しました。と、まぁ、ここまでが概ね高校世界史の教科書や参考書で書かれていることなのですが、本設問では「ゲーテの時代」としてどのようなことが要求されているのでしょうか。まずは史料を確認してみます。ゲーテにかんする史料は「史料2」の方で、こちらはゲーテの『詩と真実』の方から引用されています。設問の方には訳書の出典が示されていなかったので、おそらくドイツ語の原文から出題者が訳出したのだと思いますが、岩波文庫から訳書も出版されています。こちらの史料で注意すべき点は以下の内容です。

 

・ゲーテ自身は神聖ローマ帝国の体制の方がフランスの体制よりも優れていると考えているということ

・「フランス文化追従に熱心に王と同じく、ドイツ人全般に趣味が欠けているという、繰り返し述べられる無礼な主張」によって、われわれ(ドイツ人)はフランス人から遠ざかりたいと考えていること

・フランス文学は「努力する青年を引きつけるよりは反発」させるものであり、「年老い、高貴」であり、「生の享受と自由を求める青年を喜ばせるようなものではない」と、ゲーテは考えている

 

この史料の内容を簡単に図示するとこうなるかと思います。

3図1

では、ゲーテが史料中で以上のように評価している「ゲーテの時代」はどのような時代だったのか、簡単にまとめてみたいと思います。その際、史料ではフランスとの対比の中でドイツについて語られていますので、フランスの文化史的特徴も確認すると良いでしょう。

 

[A.ゲーテの時代のドイツとヨーロッパ]

・時期:18世紀後半~19世紀初頭

18世紀半ば~)

・プロイセン、オーストリアでは啓蒙専制君主の登場

 ex.) フリードリヒ2世、マリア=テレジア、ヨーゼフ2

・啓蒙思想の広まり

18世紀後半)

・アメリカ独立革命、フランス革命→自由・平等の理念

19世紀初頭)

・ナポレオン支配

 cf.) アウステルリッツの戦い

イエナの戦い、ティルジット条約

・ナショナリズムの高まり

 ex.) フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』

・プロイセン改革(1808~)

 cf,) シュタイン、ハルデンベルク

 

[B.ゲーテ時代の文化]

18世紀後半から19世紀前半

・疾風怒涛(シュトルム=ウント=ドランク

・古典主義→ロマン主義へ

・ナショナリズムの高揚

 

18世紀から19世紀初頭の文化史)

:さて、ここで18世紀から19世紀初頭にかけての文化史、特に「啓蒙思想」ならびに「古典主義とロマン主義の関係」について確認しておいた方が良いでしょう。特に、ゲーテは古典主義からロマン主義への橋渡しを行った人物で、ドイツ古典主義の代表的な詩人・作家でありながら、次代のロマン主義者たちに多大な影響を人物として知られています。ちなみに、古典主義とロマン主義については以前に東方問題について書いた記事と、一橋の2018年第2問「歴史主義経済学と近代歴史学」でも触れています。近年の一橋の出題を見ると、こうした文化史に対する深い理解が必要になる部分が出てくるかもしれません。(実際、文化史をよく理解できると、同時代の政治史・経済史・社会史の流れや変化が良く見えるようになります。歴史学会で社会史が重視されるようになって久しいですが、こうしたなかで文化史はもはや単語や用語を覚えるだけのおまけ的要素ではなくなりつつあります。)

 18世紀ヨーロッパにおいて、思想的に大きな影響をあたえたのが啓蒙思想であったことは疑いの余地がないでしょう。啓蒙思想は、西ヨーロッパではアメリカ独立革命やフランス革命といった市民革命を準備しますし、東ヨーロッパでは啓蒙専制君主の出現や近代化をもたらしました。この啓蒙思想をヨーロッパに広めた人物として有名なのがヴォルテールです。名誉革命後のイギリスに滞在したヴォルテールはその先進性に打たれるとともに、いまだにアンシャン=レジーム下にあったフランスの後進性に気付き、『哲学書簡(イギリス便り)』を通してフランスの政治・社会を批判します。

彼が広めた啓蒙思想の特徴はその合理性・普遍性・進歩的で楽観的な視点にありました。啓蒙思想が攻撃したのは非合理的な伝統や権威です。アンシャン=レジーム下にあって、フランスを支配していたのは貴族や教会でしたが、これらの力の源泉は彼らの伝統や権威でした。つまり、「どうして貴族に従わなければならないのか」という問いに対しては、「あの家は代々貴族なのだから」とか「あの家は、はるか昔、ご先祖の誰々が武功を挙げ…」とかが答えになるわけです。教会も同じで、「なぜ地球が世界の中心なのですか」という問いに対しては、(極論を言えば)「聖書に書いてあるのだから、だまって信じなさい」という答えになります。つまり、貴族や聖職者の力の源泉である伝統や権威というのは、実はかなり非合理的なのですね。理屈じゃないのです。ブラック校則みたいなもんですね。「何で野球部は丸坊主にしなければいけないの?」→「昔からの伝統で、決まりなんだから刈れ。嫌なら入るな。」という発想に近いです。こうした伝統や権威は、発生した当初はわりと合理的である場合も多いです。たとえば、武功をたてた本人が貴族として特権を享受する場合、これは非常に合理的です。「あの人は手柄を立てたのだから、その分ご褒美としていい思いをする。」というのは、分かりやすく、理にかなっています。逆に、手柄を立てた人や有能な人がいい思いをできないとしたら、それはすごく理不尽な感じがしますよね?ですが、当初は合理的理由から発生した出来事も、時代を経ていくとむしろ非合理的で理不尽な状態になってしまうことがあります。たとえば、「明らかに無能で下劣な貴族のドラ息子が、人格高潔で有能な平民の上司としてデカい面をしている」とうことが日常的にみられるようになった場合、合理的に考えれば「家柄ではなく、有能な人間が重要なポストを占めるべきだ」という発想になります。つまり、アンシャン=レジームと啓蒙思想の関係はこういう関係なわけです。

貴族のドラ息子たち

4貴族

ⓒ田中芳樹『銀河英雄伝説』

 

啓蒙思想は合理的ですから、伝統や権威だからと安易には従いません。実験や観察を通して世界をとらえようとする、理性的で科学的な思考を基礎としています。ですから、聖書の世界観を鵜呑みにするのではなく、「実際に見た・確かめた」(実験と観察)ことに基づいて世界の事象を示そうとします。これが『百科全書』ですよね。ですから、いわゆる「百科全書派」は教会と対立します。また、啓蒙思想は楽観的で進歩的です。人間も社会も、様々な手段でより良くしていくことができると考えています。そういう考え方ですから、普遍的な世界の見方をします。つまり、人間を宗教・国籍や身分によって差別するようなことは「イケてない」と考えます。宗教に対しては寛容であるべきだし、文化人同士は国をまたいで文通するし、サロンでは身分にかかわらず自由に知的議論に花を咲かせます。(とはいっても、一定の制限や個々人によるとらえ方の差はありますが…) このような考え方が、最終的には人とは自由で平等であるという考え方につながっていきます。

ところが、啓蒙思想が理性と合理性を追求するあまり、おいてきてしまったものがありました。それが、歴史や伝統、感情などです。啓蒙思想の合理性や普遍性は、非合理的で特殊な特権身分の力の源泉を攻撃する時には非常に役に立ちましたが、一方で多くのものを普遍化・一般化してしまう傾向がありました。個々のことがらを、本質的な部分を抽出したり一般化することで、基本的には「みんな同じもの」として扱うようになるのですね。ところが、現実世界では「みんな同じ」では片付かないこともあります。実際には、一つ一つの物事には個性というものが存在します。そうした個性や特性を無視して、全て同じように「普遍的に」物事をとらえることは、アンシャンレジーム下で権威や伝統などの特殊性を強調しすぎたことと同様に歪みや軋轢を生むことにつながります。

「ゲーテの時代」のフランスとドイツの関係でいえば、フランスは革命を達成して自由と平等の理念を守り、ヨーロッパに広げるという考えのもと、ドイツ諸邦と争いを繰り返していました。それを実際に達成していくのがナポレオン=ボナパルトです。ナポレオンは、フランス革命の自由と平等の体現者を標榜しつつ、ヨーロッパ各地の支配を進めていきます。こうした中、各国で発生したのがナショナリズムの高揚でした。自由・平等を標榜するフランスの進出が、実際にはナポレオンによる強圧的な支配であった時、ヨーロッパの人々はフランスから広まり、かつてはヨーロッパを席巻した啓蒙思想に深い失望を抱きます。「おれたちはなぜ、フランス野郎に支配されなければならないのか…。」こうした思いは、自分たちの拠り所である祖国や民族のアイデンティティ、つまり歴史や伝統を大切にしようという動きにつながっていきます。これがナショナリズムの高揚です。

また、このナショナリズムはフランスの支配を脱し、自分たち自身の自由と誇りを回復するという目標を原動力として高まっていきます。そうした中で高められていったナショナリズムは、その目的に合致した国家像や歴史像を「生み出して」いきます。フランスに対抗するためには、各領邦の力を結集しなければならないのであって、その時彼らはバイエルン人やヴァイマル人であることを目指しません。つまり、「ドイツ人」としてまとまることを目指すのであって、だからこそ『ドイツ国民に告ぐ』は響くわけです。ですから、実は19世紀初頭から高まるナショナリズムは、実は歴史的実態を踏まえたものというよりは、かなり「創られたもの」なわけです。歴史的実態としては、ドイツの各領邦は宗教も、歴史的発展も、それぞれがかなり異なったものであったにもかかわらず、ナショナリズムを掲げる人々は「一つのドイツ民族・ドイツ国家」を目指すことになります。このあたり、黒船がやってきてからの日本に似てる部分があるなぁと思いますね。それまで「おいどんは薩摩でごわす」とか「こちとら江戸っ子でぇ」とか言っていて、お互いを別の国の人間だと考えていた人々は、外圧と明治維新を経て一つの「日本」と「日本人」という意識を形成していく、という展開を想像するとわかりやすいのではないかと思います。

さて、こうしたナショナリズムが高まっているドイツでは、かつて啓蒙思想によって攻撃された歴史・伝統は攻撃の対象ではなく、自分たちのルーツやアイデンティティを特定するための重要な要素になります。自分たちは誰を祖先としていて、どんな国を築き、(方言などの多少の違いはあれど)同じ言語を話し、同じ活動をしてきたという共通する要素、つまり歴史や伝統を共有する人々が「ドイツ人」なのであり、共有していない人々は「ドイツ人ではない」わけです。このようにして創られたナショナリズムは、内部に対しては強力な同化圧力を働かせる一方で、外部に対しては非常に排他的です。(これについては、以前書いた「想像の共同体」の記事についても参照していただくともう少しわかるかと思います。)つまり、啓蒙思想が大切にしていた普遍性は跡形もなく打ち砕かれます。啓蒙思想の行き過ぎた(と当時の人々が考えた)合理性・普遍性にかわって、ドイツであればドイツにおける「特殊性」が重視され、そこでは理性以上に情緒や感情といった要素が注目されるようになります。ナショナリズムとは、パッションの発露なのですw

 

 それでは、こうした啓蒙思想からナショナリズムへというドイツのみならず19世紀初頭のヨーロッパで広く見られた思潮の変化は、古典主義とロマン主義にはどうかかわってくるのでしょうか。古典主義は、それまでの甘ったるい、装飾主義的なロココ主義に対する反発からフランスで始まったもので、古代ギリシアやローマの文化を理想とし、調和や均整を重視した文芸思潮・様式のことを指します。「古代ギリシアやローマの文化を理想とする」というと、どこかで聞いたことがありますね。そうです、ルネサンスと似てるんですね、発想が。ルネサンスでも均整・調和が重視されましたが、それに飽きてくるとすこーしバランスを崩して強調や誇張、ダイナミックでドラマティックな要素を取り入れ始めます。これがバロック様式と呼ばれるもので、その豪華な雰囲気は当時の王侯貴族に流行り、各国で絶対王政が始まる17世紀に全盛を迎えます。その後、より装飾性の強いロココ様式がフランス発で広まりますが、こうしたものに反発して出てくるものが古典主義というものです。ですから、一種の揺り返しのようなものとしてとらえると分かりやすくなります。

 ところで、この古典主義は、当時ヨーロッパで流行りだしていた啓蒙思想と親和性が高いのですね。また、成金趣味的に思えるバロックや貴族の贅沢の象徴のようなロココに対して、落ち着いて、バランスの取れた古典主義は啓蒙思想や理性にかぶれ始めていた18世紀後半の文化人の心をとらえていきます。たとえば、フランスの(新)古典主義の画家としてダヴィドが良く知られていますが、こうした絵画は王政を打倒し、理性や啓蒙思想に基づく革命の理念を表現するには都合の良い表現様式なわけで、フランス革命の体現者を自認するナポレオンはダヴィドをお抱えの画家にしていきます。理屈でお話してもイメージがつかめないかと思いますので、実際に絵を並べて確認してみましょう。

 

まず、ルネサンス絵画より、ラファエロ「アテネの学堂」です。

左右の対称性なども含めて、非常に均整・調和が重視された画面構成になっています。

5アテネ

Wikipediaより)

 

バロック絵画からはルーベンスの「キリストの昇架」と、本設問のテーマにもなっているレンブラントの「夜警」です。題材自体がドラマティックであったり、画面の一部に強調・誇張がされていることが見て取れるかと思います。

 6キリスト

Wikipediaより)

 7夜警

Wikipediaより)

ロココからは、フラゴナールの「ぶらんこ」とブーシェの「ポンパドゥール夫人」です。ポンパドゥール夫人はルイ15世の愛人(公妾)ですが、彼女を中心とするサロンからこのロココ様式が最新の流行として広まっていったともいわれます。それは、フランスにとどまらず東欧へも伝わって、たとえばサン=スーシ宮殿(プロイセン)やシェーンブルン宮殿(オーストリア:外装がバロックで内装がロココ)にも取り入れられていきます。ロココ様式の絵画は何というか、お花シャラーン、リボンやレースふりっふり、くるくるくるー、きらきらきらーなイメージですw

 8ぶらんこ

Wikipediaより)

 9ポンパドゥール

Wikipediaより)

 

そして、古典主義からはダヴィドの「球戯場の誓い」に「ナポレオンの戴冠式」です。

10球戯場

Wikipediaより)

 11戴冠式

Wikipediaより)

 

いかがでしょう?なんとなーくそれぞれの文化の特徴や違いを感じていただけたでしょうか。

 

 さて、これまでのお話の中で、18世紀後半から19世紀初頭にかけて流行る古典主義がどういうものかということについてお話してきましたが、この古典主義に対する反発として出てくるのがロマン主義です。古典主義が啓蒙思想と親和性が高かったのに対して、ロマン主義はナショナリズムと非常に密接に結びついています。形式美や調和・均整を重視した古典主義に対し、ロマン主義は人間の個性や感情を重視し、また理性や普遍性ではなく歴史や民族文化の持つ固有性や特殊性に注目し、これを尊重します。これを、簡単に図示すると以下のようになります。

12図2

 

さて、この図ですが、最初にあげたゲーテのフランス文学ならびにドイツ文学の見方と比べてみると、似ていると思いませんか。もう一度出してみましょう。

3図1

つまり、ゲーテはフランス文学というものがあまりに理性的・合理的・普遍的であるけれども、それはどこか取り澄ましていて、お高くとまっていて、人間が本来持っている力強い感情を無視しがちだと考えているわけです。対して、ドイツ文学には生の力強さ、若々しい感情のエネルギー、理性から解き放たれた自由への衝動といったものを感じているわけで、そのことを史料の中で述べているわけですね。ちなみに、本設問で史料として引用されているゲーテの『詩と真実』は1811年のもので、当時のドイツはナポレオン支配の下でナショナリズムが高まりつつある時期でした。

 ここまでくると、ゲーテをただ単に「ドイツ古典主義の作家・詩人」としてしか覚えていない人には変な感じがするかもしれません。「古典主義ならゲーテは啓蒙思想とか、フランス文学の側なんじゃねーの?」と思いますよね。たしかに、ゲーテはドイツ古典主義文学を大成した作家・詩人として知られています。ですが、ゲーテ(17491832)が活躍したのは18世紀後半から19世紀前半にかけてです。そして、ゲーテはドイツにおいて「疾風怒濤(シュトルム=ウント=ドランク)」として知られる、人間性や感情を解放し自由に発展させるべきだとする1770年代のドイツで展開された文学運動を主導した人物でもありました。つまり、ゲーテは古典主義の精神・形式・作法をしっかりと踏まえた上でそれに飽き足らず、さらに先に進んで感情や人間性を重視する「ロマン主義の先駆」ともなった人物であって、古典主義にどっぷりつかって凝り固まっている作家たちとは一線を画したわけです。だからこそ、ゲーテは彼に続く多くのロマン主義作家から範とされただけでなく、ロマン派音楽家たちが彼の詩に音楽をつけることになりました。ゲーテの詩に音楽をつけたロマン派音楽家としては「おとーぅさん、おとーさん」の曲で知られる『魔王』を作曲したシューベルトが良く知られています。

 

【3、ゲーテの時代とレムブラント時代の文化史的対比】

:さて、長々と文化史について述べてきました。箇条書きとか図示をしてあっさり解説をするのも良いのですが、そういう解説による理解って底が浅いんですよね。物事を理解して、活用するためには、やはり言葉や知識が「実感」をともなって身体に染み入ってこないといけないのです。そうしないと使い物にならないんですね。ですから、ここではくどいくらい丁寧にお話をさせていただきました。

ところで、「ゲーテの時代」と「レムブラント時代」を文化史的に対比するとどのように整理できるのでしょうか。すでにご紹介したことではありますが、まとめてみましょう。

 

(レムブラント時代[17世紀]

・バロック美術

:ルネサンス期の調和・均整から、強調・誇張・逸脱などドラマティック・ダイナミックな要素を取り入れる、豪華・華麗

・オランダでは、商人貴族などの都市富裕層が文化の担い手

・プロテスタント(カルヴァン派)の価値観を反映

 

(ゲーテの時代[18世紀後半から19世紀前半]

・疾風怒涛(シュトルム=ウント=ドランク

・古典主義→ロマン主義へ

:合理・形式・普遍から感情・自由・特殊(歴史や伝統)へ

・ナショナリズムの高揚

 

おそらく、このような対比をすることができるかと思います。あとは、これらを当時の社会状況や、どのような文化史的コンテクストの中で出てきたのか、史料1・2から読み取れることなどと合わせて整理してあげれば解答が書けるかと思います。

 

【解答例】

 レンブラントが活躍した17世紀オランダはバロック美術の隆盛期であり、調和や均整を重視するルネサンス文化に対し、強調や誇張などドラマティックでダイナミックな要素を取り入れた、豪華で華麗な文化が流行した。各国では絶対王政のもとで宮廷文化が描かれたが、スペインから共和国として独立し、商人貴族が支配するオランダではカルヴァン派の価値観を反映させ、商人の生活を描いた絵画がよく描かれた。ゲーテの活躍した18世紀後半から19世紀のドイツは、調和や均整を重視する古典主義から感情や自由を重視するロマン主義への過渡期にあった。また、フランス革命後に自由・平等の理念が伝わったことや続くナポレオン支配からナショナリズムが高揚した。ゲーテは啓蒙思想や古典主義などのフランス文化の合理性・普遍性を「年老い、高貴」だと批判し、ドイツ文化に生を享受し自由と豊かな感情を取り入れるべく疾風怒濤運動を主導してロマン主義の先駆となった。(400字)

 

:解答の方は、設問の「対比しつつ」考察せよという指示を少し意識して、バロック以前ならびにロマン主義以前についても丁寧に示しました。(ルネサンスも古典主義も「調和・均整」を重視し、それを克服しようとした点でバロックやロマン主義に共通点があるため。)また、バロックの典型的な画家としてのレンブラントと、古典主義詩人でありながらロマン主義の先駆となったゲーテとの違いも見えるように工夫しています。政治史については、本設問では要求されていないので書く必要はありませんが、設問のリード文より「レムブラント時代」も「ゲーテの時代」も、従来の「動脈硬化的生活」を一新する、後代から憧れられる最良の時代であり、若々しい青春の活力の時代であると示されていることから、「古い価値観を克服して新しい価値観へ」という社会的コンテクストが見えるように気を付ける必要があると思います。「レムブラント時代」でいえば、スペイン支配やカトリックの価値観から独立・共和政やプロテスタントの価値観へというものがそれにあたるでしょうし、「ゲーテの時代」でいえば啓蒙思想や古典主義の合理・普遍性やフランスによる支配からロマン主義による感情・歴史の重視やナショナリズムの高揚がそれにあたるかと思います。

 

 もちろん、これまでにお話してきた文化史を、受験生が「がっつり深く把握している」ように要求するのは無理があると思います。たしかに、教科書や参考書にはそれらしいことがところどころに書かれているのですが、体系的にまとめてあるわけではありませんから、自分の力だけで今までお話した流れをきっちり把握するのは難しいと思います。おそらく、学校や塾の先生による解説によるところが大きいのではないでしょうか。きちんとお話してくださる先生に運よく当たれば理解できるかもしれませんが、いまいちな人にあたると多分アウトですw また、先生の良しあしにかかわらず、かなり熱心にかつ適切に勉強している受験生であれば、全てではなくても入口くらいは理解できていてもおかしくはないと思います。

 ただ、深いところまでは理解できなくても、世界史の基礎知識で賄える部分もあります。そうした基礎知識ならびにリード文や史料から読み取れば、それなりに書ける部分も多い設問なのではないかと思います。たとえば、上の解答例を例にとれば、以下の赤字で示した部分あたりは十分に書ける内容なのではないでしょうか。そういう意味では、この設問は確かに難しい問題ではありますが、個々の受験生が歴史のどのあたりまで理解しているか(言葉や上っ面を覚えるにとどまっているか、内容まで踏み込んで実感をともなって理解しているか)を図ることができる良問と言えるかと思います。できる人が極端に少ないでしょうから選抜用として適切かどうかは別ですがw

 

赤字は基礎的な知識や読み取りで書ける部分)

レンブラントが活躍した17世紀オランダはバロック美術の隆盛期であり、調和や均整を重視するルネサンス文化に対し、強調や誇張などドラマティックでダイナミックな要素を取り入れた、豪華で華麗な文化が流行した。各国では絶対王政のもとで宮廷文化が描かれたが、スペインから共和国として独立し、商人貴族が支配するオランダではカルヴァン派の価値観を反映させ、商人の生活を描いた絵画がよく描かれた。ゲーテの活躍した18世紀後半から19世紀のドイツは、調和や均整を重視する古典主義から感情や自由を重視するロマン主義への過渡期にあった。また、フランス革命後に自由・平等の理念が伝わったことや続くナポレオン支配からナショナリズムが高揚した。ゲーテは啓蒙思想や古典主義などのフランス文化の合理性・普遍性を「年老い、高貴」だと批判し、ドイツ文化に生を享受し自由と豊かな感情を取り入れるべく疾風怒濤運動を主導してロマン主義の先駆となった。400字)

 

2021 一橋Ⅲ

:こちらの問題はいわゆる「プロレタリア文化大革命」と「4つの近代化」を問う設問でした。一橋の第3問では、昔から清朝以降の近代史が出題の中心で、最近ではその周辺(朝鮮など)についても問う問題が出題されていました。一方で、これまでの出題で概ね出題できるところはし尽してしまった感があるので、次第に内容やテーマが現代に近づいてきているという話は従来からしていました。(一橋大学「世界史」出題分析[2014-2020]参照)

ですから、辛亥革命や五四運動、戦間期や戦後中国史は気を付けた方が良いかもしれないと考えていましたが、いきなり「4つの近代化」(1970年代末~)まで現代に近づいてくるとは少し意外でした。一橋を受験する受験生にとっては「予測可能ではあったけれども、他と比べるとやや手薄かも」というテーマの出題だったかと思います。もっとも、内容的には文化大革命の経緯と4つの近代化の影響を述べればよいだけです。特に史資料を活用したり、知識として持っていない部分を読み取りや推測で補うなどの高度な情報処理能力・思考力は要求されないので、比較的平易な設問だったかと思います。

 

【1、設問確認】

・「第1次文化大革命」の経緯を述べよ。

・「4つの近代化建設」が1980年代の中国に与えた影響を説明せよ。

400字以内。

 

【2、第1次文化大革命】

:文化大革命は、一度は共産党の経済政策において主導権を失ってしまった毛沢東が仕掛けた中国における革命の徹底運動であり、同時に資本主義的な経済を導入した劉少奇や鄧小平などの実権派・走資派を一掃する粛清運動としての側面も持っていました。

 1950年代のいわゆる「大躍進」運動(第二次五か年計画)で壊滅的な失敗をおかした毛沢東は、党主席にはとどまったものの、1959年に国家主席の座を劉少奇に明け渡して、実質的な政策決定権を失います。その結果、国家主席の座についた劉少奇と事務方の責任者であった鄧小平は調整政策と呼ばれる一部資本主義を取り入れた経済政策(農家の部分的自主生産など)によって経済の立て直しを図り、一定の成果を上げていきます。しかし、資本主義を嫌う毛沢東は調整政策などの一連の新政策を自身が進めてきた革命の否定としてとらえ、劉少奇や鄧小平との対立を深めていきます。こうした中、中ソ論争が深まる中で中国独自の革命理論、つまりは毛沢東の革命理論が強調される(つまり、ソ連型の革命よりも中国型の革命が優れていると主張する中で毛沢東の理論がことさらに強調される)ようになると、毛沢東の革命理論や実践と相反する劉少奇や鄧小平に対する党内の批判が見られるようになりました。これを好機ととらえた毛沢東は彼らを「走資派(資本主義に走る連中)」、「実権派(権力を握り革命を否定する連中)」と批判して党内の反感を煽っていきます。

 

毛沢東(左)と劉少奇(右)
毛

Wikipediaより)

 

その結果起こったのがいわゆるプロレタリア文化大革命(19661976)で、この批判にさらされた劉少奇は失脚しただけでなく迫害され、軟禁され、悲惨な状態で「病死」を遂げます。また、鄧小平は左遷され、地方で強制労働に従事させられましたが、有能であったことから命を奪われるには至りませんでした。また、鄧小平に理解のあった周恩来の働きかけによって党の役職に復帰し、周恩来のサポート役に返り咲くことになります。一方、「走資派」を追い出した毛沢東は再度実権を回復し、これを毛沢東夫人である江青や姚文元・王洪文・張春橋などの四人組と紅衛兵が支持する体制が、毛沢東がなくなる1976年まで続いていきます。ただし、文革中も文革派一色だったわけではありません。1971年には林彪による毛沢東暗殺未遂事件が起こります。また、なんとかして紅衛兵をはじめとする極端な文革派をおさえて事態を収拾しようとする周恩来のような人たちも一定数存在していました。こうした周恩来の態度を良しとしない一派は、批林批孔運動などを通して間接的な周恩来批判を展開していきます。

 そして、1976年に党内の調整役として活動していた周恩来が亡くなり(ちなみに、この時に発生した第1次天安門事件[四五天安門事件]の責任を問われて鄧小平が失脚します)、続けて毛沢東が亡くなると、周恩来にかわって新しく首相となった華国鋒は党内の一部有力者の後押しを得て、脅威であった四人組を逮捕し、さらに党主席に就任して文化大革命を終結させます。

 設問の資料では1977年における華国鋒の報告が紹介されておりますので、「第一次文化大革命」は上記のプロレタリア文化大革命を指すと考えて問題ありません。世界史の知識としてまとめておいた方が良い情報は以下のようなものになるでしょう。

 

(まとめるべき事柄)

・大躍進の失敗と毛沢東の実権喪失

・劉少奇、鄧小平による調整政策とその内容(資本主義を一部復活)

・プロレタリア文化大革命の開始と劉少奇、鄧小平ら走資派の失脚

・林彪事件(1971

・批林批孔運動

・周恩来の死と第1次天安門事件、鄧小平の失脚

・毛沢東の死

・華国鋒による四人組逮捕と文革終結

 

【3、4つの近代化(現代化)】

:文化大革命が終わったとき、残されていたのは疲弊した中国の社会・経済でした。文革中の粛清などを通して分断された社会については、新たな共産党指導部によって政治犯への名誉回復が進められました。一方、疲弊した経済については鄧小平が党副主席に復帰して立て直しを図ることになりました。文革で強制労働に送られ、第一次天安門事件で失脚しながら「あいつ有能だから使おう」って呼び戻されるとか「一体どんだけ有能なんだ」と思いますw やはり実力のある人間は何をやらせても食うに困らないのでしょうか。うらやましい話ですw

 そして、華国鋒を党主席、首相とし(国家主席は劉少奇死後、1983年まで基本的に空席)、鄧小平を党副主席とする新体制が発足します。この体制が掲げた経済政策が「4つの近代化(現代化)」で、農業・工業・国防・科学技術の4つについて「近代化(現代化)」を進めていきます。(「4つの近代化」自体は劉少奇や周恩来の頃から出ていた概念ですが、それが実行に移されることになります。)また、並行して改革・開放政策が進められ、積極的な経済改革が進展しました。1979年には深圳・珠海・汕頭・厦門に経済特区を設置し、さらに1984年委は上海などに経済開発特区を設置して外資や技術の導入が進められます。また、人民公社が解体されて生産責任制が導入され、農産物価格の自由化が進められた結果、万元戸と呼ばれる裕福な農家が出現するなど、中国の社会経済は大きな変貌を遂げていくことになります。ところで、華国鋒と鄧小平についてですが、華国鋒の指導力は間もなく低下していきます。その理由として大きいのが、文革中に党の中心にいた華国鋒はどうしても「文革」臭が強く、新しい経済改革を進めるには適切ではないと周囲から見られたことがあります。このあたりは、本設問の資料の中でも「ここでの華国鋒の主張は、まさに彼が毛沢東の威信に依拠したために毛の遺産を背負いながら、同時に混乱した経済・社会、そしてむろん政治の混乱を建て直さねばならないというディレンマを物語っていたのである。」という部分で示されています。

かわって、経済再建を担うことになったのは鄧小平でした。劉少奇の調整政策から何度も失脚を味わいながらも経済政策を担った人物でしたので、華国鋒と違って「文革」後の中国を率いるには適切だったのでしょう。このことについても、本設問資料は「他方、鄧小平の戦略は極めて明確であった。政治闘争に明け暮れる雰囲気をいかに一掃して経済再建、経済発展に力を集中するかであった。」と示されていますし、「そのためには、文革路線、毛沢東路線さえ、事実上、否定してもかまわない。」と、華国鋒との政治的スタンスの違いが明示されています。

1980年代は基本的に「鄧小平による指導体制」と考えられていますが、注意しておきたいこととして、鄧小平は中国の代表的な地位(国家主席・党主席・国務院総理[首相])には一度もついていません。(ちなみに、これらの役職はたとえていうなら国家主席が大統領、党主席が共産党の党首、国務院総理が行政長官としての役割だと考えられます。) また、党内の序列1位になることもありませんでした。にもかかわらずなぜ、鄧小平が実質的な最高指導者として行動できたのかと言えば、それは鄧小平が共産党中央軍事委員会の主席として軍部をおさえ、自身に従う経済政策に明るい官僚を重要なポストにつけていきます。(例えば、1982年~1987年まで党主席を務める胡耀邦や1980年から1987年まで首相を務める趙紫陽[1987-1989までは党主席]などです。)

 さて、鄧小平の改革・開放路線が進められた結果、中国には外資が導入され、経済特区などもおかれて、中国は政治的には人民民主主義(共産党による一党独裁)を堅持しながらも経済的にはかなりの部分で市場経済化(市場を通して財やサービスが提供される経済のこと、計画経済の対立概念)していきます。これは、鄧小平がはっきりと意識して行っていたことで、たとえば1990年代の初めには、鄧小平が「南巡講話」で積極的な改革推進を提唱したことが影響して、当時の党指導部が「社会主義市場経済(政治的には共産党独裁、政治的には市場経済)」の導入を本格的に進めることになります。中国の市場経済化が進むと、社会自体も大きく変わっていきます。貧富の差の拡大や資本主義諸国との関わりが増えるなどの変化がもたらされました。また、1980年代後半の党指導部では、共産党一党独裁を堅持しようと考える鄧小平に対し、硬直化した政治体制・国家運営を立て直すためには政治改革や言論の自由化が必要だと考える胡耀邦との意見のズレが目立つようになってきました。このことの背景には、当時のソ連でゴルバチョフが就任し、ペレストロイカを推進したことや、東欧諸国の民主化が進んでいったことが影響を与えています。某スポーツの祭典なんかもそうですが、案外その時代を生きる世界の人々はその時々の時代の空気に敏感で、簡単に影響されていくようです。当時の中国でも、「中国も民主化・自由化が進むのではないか」と期待感が増し、胡耀邦は民主化を導いてくれる指導者になると国民からの期待がよせられていました。こうした中、各地で学生デモなどが発生すると、この責任を問われて胡耀邦は1987年に失脚し、その後軟禁状態に置かれたまま1989年に亡くなります。これを追悼すべく、天安門広場に集まった学生たちが民主化を要求したことがきっかけとなって起こったのが第二次天安門事件(六四天安門事件)でした。市場経済の導入には積極的でありながらも、政治的には共産党独裁の堅持を考えた鄧小平をはじめとする党保守派は、民主化や自由化を求める学生たちの運動を危険なものとみなし、その意をうけた李鵬首相(在:19871998)によって運動は武力弾圧をうけました。また、この運動に同情的で、鄧小平からの戒厳令発令要請を拒否した趙紫陽は事件後に失脚します。

 以上が、鄧小平による4つの近代化が進められて以降の中国の大きな流れになりますが、ここで問題なのは、設問の解答として「第二次天安門事件を書くべきか」ということです。確かに、第二次天安門事件が発生した一つの背景として4つの近代化に始まる経済改革と社会の変動がありましたが、一方で上記の通り、共産党指導部における政治改革に対するスタンスの違いや、胡耀邦による自由化推進、なにより1980年代後半における共産主義諸国の変動と民主化が大きな影響を与えていました。第二次天安門事件はこうした複数の要因が組み合わさって起こった事件ですから、「4つの近代化建設によって第二次天安門事件が起こった」とすると、いくら何でも短絡的すぎますし、正確さを欠くといわざるを得ません。ですから、私の個人的な意見としては、本設問では第二次天安門事件の詳細を書く必要はないと思います。市場主義経済化や貧富差の拡大などの社会変動、またそれにともなう自由化要求、対して共産党指導部による人民民主主義(共産党一党独裁)の堅持あたりを示せば十分だと思います。一方で、上記の通り、第二次天安門事件へとつながる人々の民主化・自由化への期待の高まりの背景として、当時の社会変動や4つの近代化などの経済改革が少なからぬ影響を与えたのは確かです。また、出題者も「1980年代の」という時代の区切りにしておりますので、第二次天安門事件(1989)を書いても「差支えはない」と思います。おそらく、加点要素にもなると思います。ただ、胡耀邦だの趙紫陽だの李鵬だのゴルバチョフだのを書く必要は全くないです。(それらは主に政治的な影響・政治史であって、4つの近代化の影響からは遠いと思います。)4つの近代化以降の中国について、世界史の知識としてまとめておいた方が良い部分としては以下のようになると思います。

 

(まとめるべきこと)

・華国鋒失脚

・鄧小平による経済再建(改革・開放路線)

4つの近代化=農業・工業・国防・科学技術

・経済特区や経済開発区の設置(上海など)

・外資や技術の導入と市場経済化

・人民公社の解体と生産責任制の導入

・万元戸の出現

・政治的な共産党一党独裁の堅持

・民主化・自由化要求の高まり

・第二次天安門事件

 

【解答例】

 資本主義を一部導入する調整政策が反革命的と批判され始めると、大躍進政策失敗で実権を失っていた毛沢東と彼を支持する江青ら四人組、紅衛兵を中心に、調整政策を進める指導部を走資派と弾劾する「第一次文化大革命」が発生し、劉少奇や鄧小平は失脚した。文革中は政治闘争で経済が混乱し、社会は分断された。走資派に理解を示し、党内調整をしていた周恩来が死に、毛沢東も死ぬと、華国鋒が四人組を逮捕して文化大革命は終結した。経済再建のため農業・工業・国防・科学技術の4つの近代化が掲げられると、文革中のイメージが強く支持を得られなかった華国鋒に代わり、復権した鄧小平が指導者として改革・開放を進め、経済特区設置や人民公社解体などで、外資・技術導入と市場化を進めたが、万元戸の出現や貧富差拡大など社会は変動した。経済改革を進めつつも、政治的な共産党独裁を堅持する指導部に対し、民主化要求が強まると第二次天安門事件が発生した。(400字)

 

:本設問では、文化大革命については「経緯」、4つの近代化については「1980年代への影響」を聞いていますので、文革については文革が起こった背景も含めてその展開を、4つの近代化については、その内容と影響を中心に書きました。教科書や参考書を見ても、通常は第一次天安門事件以降の共産党内部における権力移譲や、事件の詳細について詳しく書いているものはないので、胡耀邦だの趙紫陽だのを書く必要はないかなと思いますし、「4つの近代化の影響」を問われているので、第二次天安門事件の詳細などを書く必要もないかともいます。ただ、華国鋒と鄧小平の違いについては、資料中からある程度読み取れる内容なので示しました。世界史の教科書や参考書に出てくる知識で十分に書けるという意味で平易な問題ではあるのですが、中国の現代史を受験生がどこまでしっかり把握できているかについては少し不安が残ります。出題者がどれくらいの年齢の先生かは知りませんが、私たち世代にとって、第二次天安門事件は子どもの頃に実際にニュースで触れたリアルタイムの出来事なので、わりと細かいところまで実感をともなって知っているというか、「このくらいのことは常識として知っているよね」感を、つい持ちがちです。ですが、現在の高校生はベルリンの壁崩壊どころか911テロですらリアルタイムではご存じない世代なので、そこには間違いなくジェネレーションギャップが存在しており、実際には受験生にとって我々や出題者側が感じる以上に「解きづらい」と感じさせる設問かもしれません。