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カテゴリ:テストで差がつくワンポイント > 15_冷戦と第3世界の独立

時折勘違いされるのですが、ベルリン封鎖(19481949)とベルリンの壁建設(1961)は同時期ではありませんし、原因も全く異なります。知っている人にとっては「なーんだ」な知識ですが、現代史に不慣れな現役生などは意外と見落としがちでもあるので、この点、注意しておかないと私大の時代整序問題などで間違えることになります。前者が西側占領地域での通貨改革にソ連が反発したことから、西ベルリンへの交通を検問などの方法によって遮断したのに対し、後者は東西ドイツの経済格差が拡大し、東ベルリンから西ベルリンへの亡命者が急拡大した時期に、そうした亡命を防ぐ目的で西ベルリン全域を取り囲む壁を築いたことによります。

 まず、この両者を理解するためには、当時のベルリンがどのような状態に置かれていたのかを正確に理解する必要があります。当時のベルリンは、ドイツ全域同様に四か国の分割占領下におかれたのですが、ベルリンの周辺地域は全てソ連の占領下にあり、そのためベルリンの米・英・仏による管理地域はソ連によって交通を遮断された場合、陸の孤島になることとなり、これがソ連によるベルリン封鎖を可能にさせた地理的条件でした。下の地図の白い丸で囲まれた部分がベルリンで、そのうちの青・緑・オレンジのついている部分が西ベルリンです。その周辺が真っ赤なソ連占領地域に囲まれているのがお分かりになるかと思います。

1920px-Map-Germany-1945.svg

Wikipedia「連合軍軍政期(ドイツ)」より、一部改変)

 一方、ベルリンの壁というのはこの西ベルリンを完全に壁で囲んでしまうというものです。もちろん、「壁」ですから転生物よろしく「いでよ!壁!」みたいに一夜のうちにできるわけではなく、壁の建設に際しては軍による各所の封鎖が行われます。

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Wikipedia「ベルリンの壁」より)

 封鎖以前は、西ベルリンとその周辺地域は物理的には閉鎖されていないので、人が行き来できる状態だったわけですが、その封鎖が急遽行われたために、急いで西側への脱出を試みようとする人がいたり、本来いるべき場所に戻れない人が出るなどして、多くの人々が東西に引き裂かれる結果を生みました。その後、封鎖された地域には最初は鉄条網、後には壁が建設されて、東側から西側へ亡命しようとする人を防ぐことになりました。壁の西側は何もないのに対し、壁の東側には逃亡者を防ぐための監視塔や、市域から数十メートルに及ぶ無人地帯、逃亡防止用の各種仕掛けが施されていたことは象徴的です。この壁は、1989年のベルリンの壁崩壊にいたるまで、ベルリン市民を東西に引き裂き続けることになります。

Structure_of_Berlin_Wall.svg

Wikipedia「ベルリンの壁」より)

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冷戦の展開の話をするときには、とかくマーシャル=プランとか、コメコンとか、NATOとかワルシャワ条約機構とか、分裂国家とかいうテーマに目が行きがちです。もちろんそれらも大切なのですが、そうした燦然ときらめく重要事項の中に一人ぽつんとたたずんでいるかのように見えるヤツがいます。そう、チェコスロヴァキアクーデタ(1948です。ですが、このチェコスロヴァキアのクーデタは実は結構な重要事項、冷戦構造を形作っていくきっかけの一つであり、いろいろなことと結びついています。何より、出題頻度が高い。早慶などの難関校では、特に正誤問題や並べ替え問題などの常連さんです。ここをしっかりおさえているかで点数に差がつくことも少なくない。

 

 第二次世界大戦期には、ミュンヘン会談(1938)だの、その後のドイツの支配だのでけちょんけちょんにされたチェコスロヴァキアですが、戦後にはミュンヘン会談後に亡命していた大統領ベネシュの下、再度議会制民主主義が復活し、非共産党系政党と共産党との連立政権が成立します。ところが、アメリカの出した欧州復興計画であるマーシャル=プランが打ち出されると、この受け入れをめぐって共産党が反発し、他勢力との対立が起こります。ソ連の後押しを受けた共産党は大衆を動員してデモ活動を行い、政府に圧力をかけます。共産党の様々な圧力に抗議した連立内閣の非共産党系政党の閣僚12名は、抗議の意思を示すため、ベネシュが受理しないであろうことを想定して辞表を提出しますが、国内の分裂と内戦、またソ連の介入を恐れたベネシュはこの辞表を受理してしまうんですね。これにより共産党勢力からなる政権が成立し、さらにその後の総選挙で共産党系の諸政党が圧倒的多数の得票を獲得したことを受けて、ベネシュは大統領を辞任しました。ベネシュはその数か月後に亡くなります。ベネシュはすでに1947年に脳卒中を患っており、その後も高血圧等の持病に悩まされて健康状態は非常に悪かったと言われています。どうもミュンヘン会談を含めていまいち根性入ってないように見えるベネシュですが、チェコスロヴァキアクーデタ当時にはこうした健康状態も影響していたのではないかと言われます。

Edvard_Beneš-1945
(ベネシュ:Wikipedia UKより)

 

 いずれにしても、一時はマーシャル=プランを受け入れるかに見られていた議会制民主主義国家チェコスロヴァキアが、急転直下共産化してソ連の影響下に入ることとなったことは、チャーチルをはじめとする西側首脳にとってはとんでもない衝撃でした。このことが、英・仏・ベネルクス三国による西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約:1948)という集団安全保障を結ぶにいたります。これがのちにアメリカを巻き込んで拡大すると北大西洋条約機構(NATO1949)になるわけです。

 

 ですから、このチェコスロヴァキアクーデタは、①マーシャル=プランをきっかけとし、②東西冷戦が避けられないと西側諸国に明確に知らしめ、③西ヨーロッパ連合条約締結のきっかけとなる、とかなり重要な位置を占める出来事になっています。ところが、これがストーリーとして理解できていないと並べ替え問題などには太刀打ちできないんですね。チェコスロヴァキアクーデタも西ヨーロッパ連合条約も1948年ですから、年号で覚えようとしてもどうにもなりません。現代史は情報量が多くそれぞれの出来事の間も詰まっていますから、現代史ほど年号ではなくストーリーで前後関係を把握することが大切です。チェコスロヴァキアクーデタをめぐる出来事の流れとして、少なくとも以下の流れはしっかりと確認しておくとよいでしょう。

 

①マーシャル=プラン

②チェコスロヴァキアクーデタ(共産党独裁の成立)

③西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)

④さらにNATOに拡大

 

 

 

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