一橋2011年の問題です。2011年っていうと、ちょうど私がエディンバラの大学院に通っている時期に出された設問なので、リアルタイムでは見ていません。リアルタイムで見ていないといえば、私がリーズに行っていたあたりでAKBが出始めて、帰ってきてから「これってアキバって読む感じ?」と友達に聞いたら、微妙な顔をされて「まぁ、ある意味間違ってはいない」と返されました。エディンバラにいる頃はたしか金爆の女々しくてが流行りまくっていたころで、PVを見た私が「日本大丈夫か?」と言ったら、「それは熱を感じることができない外部の人間の感想だ」と言って怒られました。怒らなくたっていいじゃないか( ゚Д゚)

この年の設問についてですが、テーマとしてはいかにも一橋らしい設問です。特に、大問Ⅰのフス戦争なんかは一橋らしさが全開でハァハァしちゃいます。また、中世の農民反乱を資料から読み解かせるという点では、2014年のワット=タイラーの乱を題材とした設問とも通じるものがありますね。

フス戦争については、マンガなんですけど『乙女戦争(ディーヴチー=ヴァールカ)』が出てますね。「フス戦争をテーマにしたマンガなんて、コアすぎて続くのかな?」と思っていたら、がっつり12巻まで続いて全巻買ってしまいましたw 少々エログロ表現きついので、そういうのが苦手すぎる方は向いてないかもしれませんが、中世の戦争ってそういうものかもしれません。大問Ⅲも、この頃の一橋は清の歴史をよく取り扱っておりましたので、おそらくこの年の受験生にとってはそれほど大変さを感じるものではなかったように思います。大問Ⅱのみ、少し考えさせる設問になっていますね。多分、差がつくとすれば大問Ⅰか大問Ⅱなのではないかと思いますが、設問が小分けになっているので、しっかりと小さい設問を拾った上でじっくり取り組めれば、まったく解けないという類の設問ではないです。標準的な設問かと思います。

 

2011 一橋 Ⅰ

【設問概要】

・フス戦争へと至った経緯を踏まえよ

・フス派が何に対して戦っていたかに重点を置け

・フス戦争の結果と歴史的意義を論ぜよ 

 

:設問は非常にシンプルで、フス戦争に至る経緯、結果、歴史的意義を問う設問です。ただし、注意したいのは史料(プラハの四か条)を示した上で、「フス派が何に対して戦っていたか」という、単純な世界史知識だけでは十分に答えようがない問いを発しているところでしょう。また、フス派やフス戦争については通り一遍の知識で済ませている受験生も多数いると思われますので、それなりに手ごたえのある設問だったように思います。

 

【手順1、史料の読解】

手順としては、本当は先に解答の全体像というか、大きな流れを考えるべきかもしれませんが、受験生にとってフス戦争の全体像はその他の王道を行くテーマと比べるとすんなりとは作れないことが予想されますので、まずは史料の読解を行ってみたいと思います。史料の引用されている『西洋中世史料集』ですが、東京大学出版会から出されています。というか、手元にありますw 史料問題なんかを作るのに便利なのでわりと重宝します。

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「そんなに値の張るものではないので…」と言おうと思って今アマゾンで調べてみたら、「単行本6,722/ 6,630円より中古品14」。…は?たっかw ちなみに、私が買った時は2300円でした。定価は…3200円。価格崩壊してないかw この手の史料を自腹で買わなきゃいけない環境ってどうかしていると思いますけどね…。史資料にいくら自腹切っとるんじゃ、わし。

 さて、本設問では、同史料のうち「チェコの共同体(と、神のもとに忠実なキリスト教徒たち)」がこの4か条以外には求めず、何もなさないことを示す冒頭の文章と、第4条のみが示されています。この史料からは、以下の内容が読み取れれば十分でしょう。

 

① 「チェコの共同体」とは何かを考察する

:フス派は、農民など庶民のみに波及した宗教勢力ではなく、チェコの貴族を巻き込んだ大規模なものでした。また、ベーメン(チェコ)の「ドイツ化」にともなって貴族・庶民の広い層が一定の「民族意識」と言えるものを醸成していたことにも注意が必要です。これについては後述します。

 

② 「死に値する罪」

:このプラハの4か条では、第4条で「死に値する罪」とは何かを列挙しています。それは聖職者による聖職売買、サクラメント(秘跡:洗礼、堅身、告解、聖体拝領、結婚など)やその他の儀式にあたっての金銭の徴収(金銭の徴収が繰り返し示される点に注意)などとされています。このことからは、当時のチェコ(ベーメン)において、これらのことが横行しており、フス派はこれら聖職者の堕落行為については取り締まられるべき行為であると考え、カトリック教会を批判していたことがうかがえます。

 

【手順2、フス戦争にいたった経緯の確認】

:つづいて、フス戦争にいたった経緯ですが、これについては政治的な側面と宗教的な側面の両方を確認する必要があります。もっとも、この頃の政治と宗教って厳密には分けられないものなのだと思いますが、高校生にはきっとその方がまとめやすいかと思いますので。

 

① 政治面

14世紀)

ベーメン王カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)の統治

‐チェック人としてのアイデンティティを強く持つ

   ‐ルクセンブルク家

   ‐プラハ大学設立、金印勅書の制定、教皇のローマ帰還に尽力(教皇のバビロン捕囚終結)

 =非常に強い力を有していたがゆえに、ベーメンの君主としての性格を損ねずに皇帝位を利用

 

15世紀)

同じルクセンブルク家の統治だが、強い指導力を発揮できず

→ベーメンの‘ドイツ化’の進展(ドイツ系貴族や聖職者の影響力拡大)

→ドイツやカトリック教会による抑圧への反発、チェック人の「民族意識」醸成

 

② 宗教面

A 教会の分裂と腐敗に対する不満

130977 教皇のバビロン捕囚

:カール4世(カレル1世)は教皇がアヴィニョンからローマに帰還するよう尽力

13781418 大シスマ

・教会、聖職者の豪奢な生活

 

B ウィクリフによる教会財産の否定と聖書主義

 

C ウィクリフの影響を受けたフスの改革とフス派の形成

・プラハ大学でウィクリフ支持・不支持の論争

→フス派の優勢、チェコ語による説教、フスのプラハ大学学長就任

(教会の世俗化批判、聖書主義、平信徒もパンとワインによる聖餐)

     ※当時のカトリックの聖餐はワインのみ

→フスのことは貴族も支持

 

D コンスタンツ公会議(14141418)とフスの火刑(1415

:公会議主義と教皇権の衰退もあるが、フス戦争の展開と直接的な関係はない

 

【手順3、フス戦争の展開(本設問では戦争の詳細については不要)】

:続いて、フス戦争の展開について簡単にまとめてみたいと思います。もっとも、本設問では戦争に「至った経緯」と「結果」だけ聞いているので、戦争の詳細については不要です。ただ、フス戦争の簡単な流れを知っておくと、「経緯」や「結果」についての理解も深まると思いますので、示しておきたいと思います。

 神聖ローマ皇帝ジギスムントが会議中の身の安全を保障したにもかかわらず、コンスタンツ公会議でフスが異端とされ火刑に処せられたことに憤激したベーメンのフス派たちは、1419年にプラハ窓外投擲事件(第1回、プラハ城を襲った民衆によって王の使者5名が城3階の窓から投げ落とされた事件)を引き起こしてフス戦争を開始します。ちなみに、この「プラハ窓外投擲(放出)事件」は世界史の教科書には出てきませんが、三十年戦争開始の発端となったベーメンの新教徒反乱(1618)開始の際にも発生しています。これは、1618年に反旗を翻したベーメンの新教徒たちが、1419年の事件を意識して行ったことは想像に難くありません。この第2回の事件の時にはなぜか下に干し草が積んであって、投げ落とされた使者たちは一命をとりとめたそうです。

Defenestration-prague-1618

Wikipedia「プラハ窓外放出事件」より)

 

その後、フス派はフス戦争の英雄で傭兵上がりのヤン=ジシュカによる新戦法(銃・弩・装甲馬車の使用、軍紀の徹底)を導入して、神聖ローマ皇帝ジギスムントの率いる十字軍と対決することになります。当初は、チェコのフス派貴族と庶民も協力し、ジシュカの新兵器と新戦術、強い信仰心によって非常に強力な軍隊となり、神聖ローマ皇帝ジギスムントの十字軍をたびたび破りました。このあたりのことをイメージしたいと思ったら、上述した大西巷一『乙女戦争/ディーヴチー・ヴァールカ』(双葉社)がおすすめです。たしかに、フィクション的要素も多く、また描写にどぎつい部分(拷問、処刑、性暴力、性奴隷などの描写が多く登場します)も多くあり、評価の分かれる作品かと思います。ところどころ歴史的題材についての描写が丁寧に描かれていますし、何よりフス戦争を事細かに描いたサブカルチャーが限られている中で、フス派の内紛やジギスムント配下の貴族の力関係までマンガで描かれているというのは希少かと思います。

 

さて、当初は快進撃を続けたフス派でしたが、次第にフス派内部の急進派(ターボル派)・穏健派(ウトラキスト)の対立やジギスムントの調略工作によって内部分裂が激しくなってきます。その結果、フス派は急進派と穏健派に分かれることになりました。

 

  急進派:厳格な信仰、財産共有制などの社会変革と徹底抗戦を主張

  穏健派:戦争の終結を望む、貴族や都市上層、商人層など

 

こうした中、1434年のリパニの戦いでは、カトリックとフス派穏健派が手を結んで作られた連合軍がフス派急進派を打ち破ります。これによってフス戦争は実質的には終結し、その後のバーゼルの誓約(1436)が結ばれて、フス派穏健派の聖餐が承認されたことによって講和が成立します。また、フス派穏健派に対する異端認定も、その後しばらくして解除されることになりました。重要なことは、フス戦争の終結はフス派の根絶を意味しなかったということです。上述の通り、フス派穏健派は神聖ローマ皇帝やカトリック勢力と妥協することで、フス派式聖餐を承認され、かつ異端認定を取り消されます。つまり、1618年に三十年戦争のきっかけを作る「ベーメンの新教徒」というのは、このフス派穏健派の流れをくんでいるわけです。

Hussites

ベーメンにおけるフス派支配領域の変遷(Wikipedia「ウトラキスト」より)

 

【手順4、フス派が戦った対象】

:では、フス派が戦った対象とは、何だったのでしょうか。これについては、世界史の知識や史料の読み取りなどから以下のことを導くことが可能です。

 

①教会の腐敗、堕落(史料より)

:フス自身は教皇の権威を否定していませんでしたが、フス派はカトリック教会を否定、批判します。

 

②ドイツ化からの脱却、チェコ人の民族意識と自由(vs神聖ローマ皇帝)

:フス派は、当初ベーメンへの影響力を強めようとする神聖ローマ皇帝ならびにドイツ系諸侯と対立していました。また、宗教・文化的にもたとえば「大学におけるチェコ語の使用」などが求められたことは、後の宗教改革にもつながる聖書主義的要素が認められるだけではなく、チェコ(ベーメン)人としての民族意識を垣間見ることができます。ただ、フス派穏健派は最終的にはカトリックとの妥協の中でジギスムントのベーメン王即位を認めることとなりました。

 

③封建社会の変革を求める

:これは、たとえば急進派による共有財産制の主張などにはっきりと認めることができます。後のドイツにおいて発生するドイツ農民戦争で掲げられた「12か条」に見られるような諸要求が、フス戦争の最中にも見られた点については確認しておくべきかと思います。

 

【手順5、フス戦争の結果と歴史的意義】

:以上を踏まえた上で、フス戦争の結果と歴史的意義をまとめると以下のようになるかと思います。結果については十分に書けない受験生が多い気がします。せいぜい「フス派は鎮圧された」くらいで終わってしまうのではないでしょうか。もともと与えられている情報が少ないので、それはそれで問題ないかと思いますが、その分、歴史的意義については後の三十年戦争へとつながる宗派対立の残存について、しっかりと示しておきたいところです。

 

(結果)

 ・ベーメンにおけるフス派穏健派ならびに神聖ローマ皇帝との妥協

 ・フス派の聖餐承認と異端認定の解除(一定の信仰の自由)

 ・ベーメンの国土荒廃

 

(歴史的意義)

 ・カトリックとの宗派対立の残存

 ・支配権をめぐる神聖ローマ帝国とチェコ貴族とのせめぎあい

 1618年のベーメン新教徒反乱(第2回プラハ窓外投擲事件)と三十年戦争へ

 (1620年の白山[ビーラー=ホラ]の戦いでフス派壊滅後はカトリック化)

 

【解答例】

 14世紀にベーメン王カレル1世が神聖ローマ皇帝となって以降進展したドイツ化と、聖職者の堕落や大シスマで混乱するカトリックによる支配にチェック人は不満を募らせた。英のウィクリフの影響を受けたプラハ大学のフスは、聖書主義やチェコ語の使用、パンとワインによる聖餐などを訴えたが、神聖ローマ皇帝ジギスムントが主催したコンスタンツ公会議でウィクリフとともに異端とされ、火刑に処せられた。憤慨したフス派信徒はフス戦争を起こし、聖職者の堕落を批判してローマ教会の権威を否定し、チェック人としての民族意識を高めてジギスムントに反抗した。フス派の一部急進派は財産共有や信徒の平等などの社会変革を求めたが次第に穏健派との対立が高まり、穏健派を懐柔したジギスムントが急進派を壊滅させてフス戦争は終結した。ベーメンではフス派穏健派の信仰が認められ、チェコ貴族の勢力も維持されたため、後の三十年戦争へ続く火種を残すこととなった。(400字)

上の解答について補足しますと、「フスは…コンスタンツ公会議でウィクリフとともに異端とされ、火刑に処せられた。」とありますが、これは「異端とされた」部分のみが「ウィクリフとともに」のかかっている部分として読んでください。なぜかと言いますと、ウィクリフはコンスタンツ公会議時点ではすでに死んでおり、火刑とされたのはフスのみだからです。ただ、異端とされたウィクリフの墓も暴かれ、遺体は掘り起こされて焼かれ、その灰は川に流されたと伝えられています。

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遺体を焼かれ、灰を川に流されるウィクリフ
Wikipedia「ウィクリフ」より)
 

2011 一橋 Ⅱ

:大問Ⅱでは、『特命全権大使米欧回覧実記』からうかがえる岩倉使節団の様子が示されています。私は専門ではないので通り一遍の情報しか知らず、手に取ったこともありませんが、あちこちの入試で引用される史料なのでよほど魅力的な史料なのでしょうか。「歴史総合」の新設で日本史と世界史の融合的要素が増えてくることになると思いますので、その意味からも今後も良く出題される史料になると思われます。

 

【1-1、設問確認[問1]

大問Ⅱは、問1(50字以内)と問2(350字以内)に分かれています。

(問1)

・明治6年の2年足らず前にパリを舞台にして起こった出来事について説明せよ。

 

【大問Ⅱ、問1の解答例】 

問1、普仏戦争後にパリ市民が樹立した世界初の社会主義政権パリ=コミューンは、ティエールに鎮圧された。(「問1、」の部分を含めて50字)

 

(ポイント)

・まずは、年代を確認します。明治4年は1871年です。

・さらに、ヒントとして「大規模な戦闘」が行われたことや、マルクスが『フランスにおける内乱』で議論したことなどが紹介されています。これだけでもパリ=コミューンのことが問題となっていることは明らかで、基本問題かと思います。マルクスはパリ=コミューンを主導していたのが労働者たちであり、史上初めて「プロレタリア独裁」を宣言した政府であったこととの関係を想起すれば良いかと思います。

 

【1-2、設問確認[問2]

(問2)

・明治6年(1873年)に先立つ十数年間におけるヨーロッパの国際関係の変化について

①「この変化」を説明せよ

②「この変化」が準備し、この世紀の末(19世紀末)に顕著になる国際関係上の趨勢を視野に入れよ

 

後述しますが、設問の意図が非常にとらえにくい設問です。読みようによってどうとでも取れてしまう部分があり、もう少し丁寧に設問の指示を出してほしいなぁというのが正直な感想になります。「この変化」、「この世紀」などの表現も、もうちょっとどうにかしてほしいですね。読みにくいです。素直に読み取れば、19世紀末に顕著になる国際関係上の趨勢を準備した、1873年に先立つ十数年間におけるヨーロッパの国際関係の変化について説明せよ。」となります。

 

【2、1860年代~1870年代前半の国際関係の変化】

・時期:意外に時期の特定が難しいです。1873年に先立つ「十数年間」ということで、20年はありません。とすれば、11年前~19年前だとして1862年~1854年あたりが本設問の開始時期となり、想定されている時期は[1854-1862]1873ということになります。

・時期を特定しても設問の意図が読めないので、とりあえずこの時期に起こった世界史上の大きな出来事を列挙してみると、世界史の教科書的には以下のような内容が想像できるかと思います。

 

クリミア戦争(185356

ビスマルクの主導によるドイツ統一

サルディニアの主導によるイタリアの統一

フランス第二帝政の展開

パクス=ブリタニカの展開

ロシアの改革とその後の反動化

(南北戦争とアメリカの発展):設問では「ヨーロッパの」とされているので、アメリカは念のため

 

・この時期にヨーロッパの国際関係が「変化」したのであるから、「変化前」と「変化後」があると考えるべきです。ただし、これも1854年が始点なのか1862年が始点なのかでかなり様子が変わります。

 

1854年が始点の場合)

 ウィーン体制の崩壊とそれにともなう変化

1862年が始点の場合)

 独・伊による「上からの統一」とヨーロッパにおける国民国家形成の進展

 

→すぐには特定できないので、やや広く時期を取った上で、特に「19世紀末に顕著になる国際関係上の趨勢」と関連しそうな事柄を整理していくことにします。

 

【3、19世紀末に顕著になる国際関係上の趨勢とはなにか】

:これについては、各国の帝国主義と植民地獲得競争を想定すれば良いかと思います。1880年代まではいわゆる「公式帝国主義」の時代で、欧米先進国による領土の単独・直接支配が進められていきます。また、外交的にはビスマルクによる外交調整が展開して、ヨーロッパの国際関係は一応の安定を保っていきます。

しかし、1890年代に入ると「非公式帝国主義」の時代に入り、資本投下を通じた間接的支配が拡大していきます。また、外交的にはビスマルクの引退とヴィルヘルム2世の世界政策の展開によって、欧米先進諸国間の緊張が急速に高まっていきます。こうした中で、英・露・仏などの先進帝国主義間では支配権の調整が進められ、独・伊などの後発帝国主義諸国は植民地の再分割要求を行い、軍事衝突の危機が拡大していきます。

また、世界の一体化の「実質化」が進展し、アジア・アフリカなどの従属地域にヨーロッパなどの支配地域の価値基準が導入されて、伝統的な社会構造や、文化体系の破壊・再編が進んでいく点にも注意が必要です。日本の「文明開化」などはその例の一つですし、東大の2020年の問題が「東アジアの伝統的な国際関係の変化」というテーマで示したものも広くとればこの例として見ることもできるかと思います。

 

【4、指定語句の確認】

:設問の意図が、どうやら19世紀末の帝国主義(政策)拡大と、各国間の緊張の高まりを準備した「ある変化」にあるらしい、ということは見えてきましたが、肝心の「ある変化」とは何か、がいまいち見えてこないので、試しに指定語句と関連する知識を整理してみます。

 

・教皇

:おそらく、普仏戦争時の教皇領併合(1870年)とイタリア統一の完成の文脈で用いる

 

・ヴェルサイユ

:ヴェルサイユ宮殿鏡の間におけるドイツ皇帝の戴冠式(ドイツ帝国成立)

 

・資本

:植民地への資本投下、独占資本の形成など(各国の帝国主義政策の拡大と関連付ける)

 

・バルカン

:スラヴ系諸民族の独立や、パン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義の対立など

 

・アフリカ

:ベルリン会議(18841885)とアフリカ分割、ビスマルクの主導

1890年代~、ヴィルヘルム2世の世界政策と緊張の高まり

 

【5、3と4を踏まえた「変化」の再確認】

:ここまで来て、ようやく「1873年に先立つ十数年間に起こったヨーロッパの国際関係の変化とは何か」が見えてきます。予想の範囲内ではありましたが、これはやはり、ウィーン体制の崩壊にともなって国際協調が崩れ、各国の利害対立が前面に出やすくなり、争いへと発展しやすくなる環境が出現したことを言っているのだと考えてよいでしょう。教科書的には、1848年革命によってウィーン体制は崩壊したとされることが多く、それは必ずしも間違いではないのですが、より正確に言えば、「正統主義」に基づく各国の専制支配が1848年革命によって大きく変化したのに対し、「勢力均衡」が完全に崩壊するのはクリミア戦争によってです。クリミア戦争前までは、まだウィーン体制の屋台骨となってきた露・墺の対立が顕在化することはありませんでした。しかし、この戦争では、ロシアの後進性が明らかとなったことや、オーストリアが外交的調整力を発揮できなかったことから、両国の国際的地位が大きく低下します。また、クリミア戦争の終戦間際にオーストリアが連合国側(英・仏・サルディニア側)で参戦する用意があると表明したことや、その後のバルカン半島をめぐるパン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義の対立が高まったことなどから、墺露関係は急速に冷え込んでいくことになりました。つまり、ウィーン体制の二大原則のうちの「勢力均衡」はオーストリアとロシアの協調関係が完全に崩壊したクリミア戦争で消え去ったと、とらえることもできるわけです。

 以上のことを踏まえて、1854年以前と以降の世界の違いを表にすると以下のようになります。

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わかりにくいところもあるかと思いますので補足しますと、たとえば、正統主義に基づく各国の君主による専制支配は、1848年革命を境に大きく変わりますが、どの国でも一気に変化したのかといえばそうではなく、地域によっては緩慢な、時として反動化をともないながら諸改革が進められていきます。その一つの例がオーストリアの状況です。『詳説世界史研究』(山川出版社)の2017年版に書かれている、この時期のオーストリアの状況を引用してみましょう。

 

 1850年代はドイツ・オーストリアとも政治的反動期になった。とりわけ、オーストリアでは1848年革命のさなかに即位したフランツ=ヨーゼフ皇帝(位18481916)のもとで、先の欽定憲法すら撤回され、カトリック教会の復権、出版の規制などの露骨な反革命政策がとられ、「新絶対主義」とよばれた。しかし、新絶対主義はたんなる反動ではなく、上からの近代化が推進された時期でもあり、身分制特権の廃止、パリにならったウィーンの都市改造・行政改革も実施された。一方、オーストリアは対外的にはクリミア戦争で友好関係にあったロシアを支持しなかったため、以後両国関係が冷却化し、サルデーニャ王国との戦争で北イタリアを失うなど、国際的地位を低下させた。(前掲書、p.342

 

実は、このくだりは、これまでの教科書や参考書ではあまり詳しく書かれてこなかった部分です。お読みいただければ、上で述べたこととの整合性も確認でき、ご納得いただけるのではないかと思います。

また、これとは別に、19世紀後半のパクス=ブリタニカの下でも、イギリスの自由貿易政策に対抗して保護関税政策を進める独・米のような国がある点には注意が必要です。

19世紀末に顕著になる国際関係上の趨勢」は各国の帝国主義政策の拡大と、緊張の高まりを示していると考えられるので、それを準備するような「変化」を示すのが良いでしょう。「変化」として考えることができるのは以下のような内容としてまとめることができます。

 

①ウィーン体制の完全崩壊と国際協調の崩壊(ただし、1870年代からビスマルクが一時再構築)

②各国の国内改革と近代化の進展

③独・伊の統一によるヨーロッパにおける国民国家体制の成立

④第二次産業革命の進展と産業構造の変化、資本主義の発展と独占資本の形成

 →原料供給地・市場・投資の場としての植民地を獲得するための各国の競争が激化

 →イギリス1強(パクス=ブリタニカ)に対抗する新興勢力の出現(ドイツなど)

 

【大問Ⅱ、問2の解答例】

問2、1848年革命でウィーン体制が崩壊し、クリミア戦争で列強体制が消滅すると、ヨーロッパ諸国は国内改革や経済発展に専念した。英仏がアジア進出、露が南下政策で勢力拡大を図る一方、普仏戦争に勝利したヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の戴冠式を行い、イタリア王国は教皇領併合で統一を完成して国民国家形成に成功した。ビスマルクがヨーロッパの列強体制を再構築したものの、バルカンをめぐるパン=ゲルマン主義とパン=スラブ主義の対立は高まりつつあり、第二次産業革命の進展と独占資本の形成は、原料供給地・市場・投資先としての植民地拡大圧力を強めたため、帝国主義政策を採用した列強はアジア・アフリカへと進出した。さらに、後発国ドイツのヴィルヘルム2世の世界政策は植民地獲得競争を激化させ列強の緊張関係を高めた。(「問2、」の部分を含めて350字)

 

こんな感じではないでしょうか。この設問は、設問自体が読み取りにくい上、教科書や参考書からも読み取りにくい内容がテーマとして設定されているため、非常に難しい設問です。ただ、どちらかといえば意地悪な設問に属する問題であるため、いわゆる「できる人とできない人で差のつく問題」ではありません。つまり、世界史のできる人も、あまり世界が得意でない人も、おそらく最大限欠ける内容にあまり差がでないタイプの設問ではないかと思います。以前から申し上げている通り、この手の設問では「設問の指示をしっかり守り」、「自分の可能な限りの知識を整理して」、「他の受験生と差のつかない」、不時着的な解答を作成できれば十分だと思います。そういう意味で、大問Ⅱは確かに苦労させられる設問ではありますが、全体として障害になるほどの設問ではないかと思います。

2011年 一橋 Ⅲ

2011年の第3問は、基本的には清とその周辺史で、この時期の一橋では頻出の箇所で受験生も十分な準備をしてきたところではないかと思います。また、設問自体も空欄補充を含む200字論述が二つと小ぶりで、頭をつかって複雑な組み立てを必要とする設問ではありませんでした。おそらく、この年の一橋対策をしてきた受験生でこちらの設問が「めちゃくちゃ難しい」と感じた人はあまり多くなかったのではないでしょうか。清朝史については、過去記事にも掲載しておりますので、細かい解説はそちらに譲り、ここではポイントだけ示していきたいと思います。

 

問1

【1、設問確認】

:空欄補充は以下の通りです。鄭芝竜のみ、少し難しいかなと感じる設問で、あとは基本問題です。

 

A 鄭芝竜

2行目の「息子の(B  )は…」という部分で判断可能です。

 

B 鄭成功

:国姓爺とも呼ばれますね。1662没で、息子は鄭経です。(1681没、その後は鄭克[こくそう]

近松門左衛門の人形浄瑠璃は『国性爺合戦』と、少し字が違うのは「史実とは異なる」話だからだそうで。

 

C 遷界令

 

D オランダ

:Dがオランダになりますので、問1の残りの論述は「オランダが17世紀アジアにおいて展開した活動について述べよ」という要求だと分かります。このDを埋められないと問1が丸々解けないことになるので、そういう意味ではきついですね。

 

【2、オランダとアジア進出】

:設問の要求にしたがって、オランダのアジアでの活動を地域ごとに簡単にまとめてみます。

 

(東アジア~南アジア)

1602 連合東インド会社(VOC)設立

1619 バタヴィア(ジャワ島)

1623 アンボイナ事件 

   :モルッカ諸島の香辛料貿易独占

1624 台湾(ゼーランディア城)

1641 マラッカ 1656 セイロン:ポルトガルから奪う

1652 ケープ植民地を建設

 

(対日貿易)

1609 平戸:生糸、銀を中心に取引(1639の「鎖国」以降はヨーロッパ貿易を独占)

1641~ 長崎(出島)

 

(西アジア)

・オスマン帝国のカピチュレーションを得る(1613

・サファヴィー朝とも交易(イスファハーンの建設は1597

    余談ですが、イスファハーンでのオランダの活動について言及した史料を用いた設問が2014年の東京外国語大学の設問で出題されています。こちらの東京外語の問題は結構手ごたえのある問題です。

 

【解答例】

A鄭芝竜B鄭成功C遷界令Dオランダ:オランダは連合東インド会社を設立し、ジャワ島のバタヴィアに総督府をおき、アンボイナ事件で英を駆逐し香辛料貿易を独占した。日本の鎖国完成後は平戸から長崎の出島へ移り、欧州諸国として唯一貿易を許されて生糸と銀の取引で利益をあげた。アジア東部への中継点として台湾にゼーランディア城を築き、ポルトガルからマラッカやセイロンを奪い、オスマン帝国やサファヴィー朝とも交易した。(全て含め、200字)

 

問2 

【1、設問確認】

・三藩の乱(反乱名自体も設問の対象)の経緯と清朝史において有した意味

 

【2、三藩の乱(1673-81)】

:三藩の乱については、清朝史の前半における基本です。鄭氏台湾の平定と、この三藩の乱の鎮圧によって、ついに清は中国全土の完全支配を達成します。三藩の乱では、基本的には呉三桂をおさえておけば十分なのですが、参考書によってはその他の藩王たちも紹介されていることがありますので、一応データだけ示しておきます。解答に尚可喜だの耿精忠だのを盛り込む必要はないと思います。

 

・呉三桂(雲南、平西王)

・尚可喜(広東、平南王)  

[尚可喜(老いて引退を申請したところ廃藩を言い渡される)→尚之信(反乱の中心)]

・耿精忠(福建、靖南王)  

[耿仲明(初代)→耿継茂(1671没)→耿精忠(反乱時)]

 

・康煕帝の即位後、三藩の廃止が決定されたために反乱

・台湾の鄭氏(鄭経)と連動

・フェルビースト(南懐仁)による清への協力と大砲の製造

 

【3、清朝史において有した意味】

・長江以南の制圧による中国大陸の完全支配

・台湾の制圧

→中国全土の直轄化の完成 

→海禁の終了(遷界令の解除1684、海関の設置1685

 

【解答例】

三藩の乱。李自成の乱鎮圧に際し山海関を開いて功をあげた明の降将呉三桂は、平西王として雲南に封ぜられたが、康煕帝即位後に三藩廃止が決定されると興明討虜を掲げ、尚之信や耿精忠ら他の藩王と三藩の乱を起こした。反清復明を目指す台湾の鄭経とも連動して清打倒を図ったが、フェルビーストの大砲なども用いた清軍により鎮圧され、長江以南と台湾を制圧した清は中国全土の直轄支配を完成し、遷界令を解除して海禁を終わらせた。(200字)