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※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw 問題全てが手元にあった方がわかりやすいと思います。

ヘッダーイラスト:かるぱっちょ様

2024年の早稲田大学法学部の大論述は、前年に引き続きある国や地域について、長期にわたるタテの流れを意識した設問となりました。(2014年中国の外交関係の展開、2016年の19世紀ドイツ史、2020年のメキシコ近現代史、2023年の南アフリカとアパルトヘイトなど。) 16世紀ごろの貿易拠点としての働きにせよ、19世紀末から20世紀にかけての独立をめぐる動きにせよ、受験世界史では頻出事項なので、早稲田の法学部を受けるレベルの受験生であれば「全く書くことが無くて困った」ということはなかったのではないかと思います。ただし、高校世界史では、この両時期の間の期間についてはあまり記載がなく、すっぽりと穴になっているため、そこに不安を感じたり、バランスの悪さを感じる人はいたかもしれません。ですが、そもそも記載されていないことは書けませんので、両時期のつながりを無理に意識する必要はなく、本設問については単純にそれぞれの時期で起こった出来事を併記すればまずそれなりの点数は来ます。頻出事項であることを考えれば、内容的にそう難しいものではありません。もし点差がつくとすると、米西戦争前後の動きをどこまで正確に書けるかということと、最終的にフィリピンの独立はアメリカ合衆国による法整備の下で達成されたことがきちんと示せるかというところではないかと思いますが、とは言え指定語句に「アメリカ=スペイン戦争」と「独立の約束」がありますので、これについても特に問題なく引き出せるのではないかと思います。

蛇足ですが、東京大学2021年世界史の第2問⑵はこのフィリピンの独立に関する小論述が、同じく⑶では2023年の早稲田法学部で出題されたのと同じアパルトヘイト撤廃までの流れが出題されています。まぁ、たまたまだと思いますが、大学にこだわらず色々な問題に手を出しておくといいことがあるかもしれないっていうことですね。

 

【1、設問確認】

・時期:16世紀~第二次世界大戦直後

・①フィリピンが16世紀以来アメリカ大陸と深い交易関係を持ったこと

 ②そうでありながら第二次世界大戦直後に独立を果たしたこと

 →これらについての政治的経緯ならびに経済的経緯を説明せよ。

・その際、17世紀半ば以降の歴史的経緯をともに説明せよ。

250字以上300字以内

・指定語句(語句には下線を付す)

/ アギナルド / アメリカ=スペイン戦争 / 独立の約束

 

:本設問については、「16世紀にフィリピンのマニラがアカプルコ貿易の拠点となると同時に、アジア交易の拠点としての役割を果たしたこと」と、「米西戦争を機に支配者がスペインからアメリカに変わり、この時に展開された独立運動が鎮められたこと」、そして「20世紀に入りアメリカがフィリピンの独立を認め、法整備を通して独立が達成されたこと」の3点がきちんとおさえてあれば大きな問題はありません。また、指定語句もこれらをまとめる中で自然に使用できると思います。その上で、できれば19世紀のマニラ開港による商品作物の生産基地としてのフィリピンに目を向けられればそれに越したことはないと思いますが、これについては目立った事件や用語などがあるわけでもないので、少々ハードルが高い気がします。解説する側としてはいささか面白みに欠けるのですが、以下ではこれらに関連する事柄をまとめてみたいと思います。

 

【2、時期ごとのフィリピンをめぐる出来事の整理】

① 16世紀フィリピンとアカプルコ貿易・アジア交易

・マニラの建設(1571年)

:総督レガスピによるマニラ市の建設と市政の開始

・アカプルコ貿易の拠点

:メキシコのアカプルコ港からガレオン船によって運ばれたラテンアメリカの銀(メキシコ銀)をもとに中国の絹織物や陶磁器などと交易

・アジア貿易における重要拠点

:国際的な交易都市として発展し、中国人などが活躍した。また、小規模ながらも一時期日本人町なども形成された。

 

② スペインによる支配とマニラの開港

・スペインはフィリピンにおいてもラテンアメリカと同様の支配を行い、次第に白人による大土地所有支配が拡大された。また、こうした支配層にはカトリック教会や修道院も含まれており、大きな影響力を持った。

・本国スペインの衰退や、英・蘭などの進出にともない、アカプルコ貿易は衰退へと向かい、19世紀にはマニラは諸外国に港を開き、その結果フィリピンはイギリスやアメリカなどの国々へ砂糖やマニラ麻、タバコなどを輸出する生産基地へと性格を変化させた。

 

③ フィリピンの独立運動と米西戦争

・開港により諸外国の船が入ってきたことも一つの要因となって、フィリピンでは19世紀後半から自由主義的な動きや独立運動などが活発化。特に、ホセ=リサールによる活動の中でこれらの動きが本格化した。

19世紀末から20世紀にかけてのフィリピンの主な独立運動家

〇ホセ=リサール

:小説『ノリ=メ=タンヘレ』などの文筆活動や「フィリピン民族同盟」の結成などを通し、スペインの圧政や地主・教会の支配を批判した。その後、秘密結社カティプーナンの蜂起にともない関与を疑われて処刑された。

〇ボニファシオ

:秘密結社カティプーナンを結成し、1896年に蜂起。(フィリピン独立革命の開始)

〇アギナルド

:フィリピン民族同盟やカティプーナンに参加して独立闘争を展開していたが、米西戦争(1898)が始まるとアメリカ軍と共闘してスペイン軍を撃退し、フィリピン共和国(マロロス共和国)の独立を宣言した。(1898) しかし、米西戦争後のパリ条約でグアムやプエルトリコとともにフィリピンのスペインからアメリカへの割譲が決定すると、1899年からアメリカ=フィリピン戦争(米比戦争)が開始され、これに敗れた。

・米西戦争(1898)とアメリカ合衆国支配の開始

:キューバの独立運動をきっかけに開始された米西戦争に勝利したアメリカは、パリ条約でスペインからグアム・フィリピン・プエルトリコを獲得し、さらにアギナルドの抵抗を排してスペインの支配を開始した。

 

④ アメリカ合衆国によるフィリピン独立準備と独立

・アメリカ側の事情

:アメリカでは、フィリピンで続く抵抗や米国内での革新主義の広がりなどから、フィリピンへの自治を容認する声が次第に広がる。こうした中、1916年にはジョーンズ法が制定され、フィリピンに大幅な自治が認められた。さらに、1929年に世界恐慌が発生すると、米国内ではフィリピンからの安価な作物・労働力の流入を懸念する声も広がり始め、こうした声を受けてフランクリン=ローズヴェルトは1934年にフィリピン独立法(タイディングズ=マクダフィー法)を制定して10年後のフィリピン独立を認めた。(当時のアメリカ外交が善隣外交の流れの中にあった点にも注意。) これにより、フィリピンには独立準備政府が発足した。

・日本軍の支配

1941年に太平洋戦争が始まり、日本はフィリピンも占領して軍政下においた。日本は大東亜共栄圏を掲げてフィリピンに形式的独立を認めたが、実質的な日本軍政下におかれたフィリピンでは、フクバラハップ(フィリピン共産党が組織した抗日武装組織)が抗日闘争を続けた。

・フィリピンの独立(1946

:フィリピン独立法に基づき、アメリカ合衆国とフィリピン間で条約が取り交わされ(マニラ条約)、フィリピンが独立を達成した。一方で、アメリカへの経済依存や米軍基地は残存した。

 

【解答例】

16世紀にスペインが植民地化を開始したフィリピンにはマニラが建設され、メキシコと中国の絹織物や陶磁器を交換するアカプルコ貿易の拠点となった。19世紀のマニラ開港により英米に輸出する砂糖などを生産するためのプランテーションが拡大する一方で自由主義思想も拡大し、地主や教会の大土地支配を批判したホセ=リサールの活動に影響を受けてフィリピン革命が開始された。アギナルドアメリカ=スペイン戦争に乗じ共和国樹立を宣言したが、パリ条約で同地を領有したアメリカに敗れた。世界恐慌を機にアメリカがフィリピン独立法により独立の約束を示すと独立準備政府が作られたが、太平洋戦争時に日本に占領され、終戦後に独立を達成した。

 

設問の要求が「アメリカ大陸と(の)深い交易関係」を中心とするものでしたので、マニラのアジア交易の拠点としての役割の説明は削り、アメリカ大陸との関係性が極力前面に出るように書いてみました。また、基本は教科書や用語集に載っている内容をベースに組み上げています。(多分、パリ条約だけは載っていません。「新たに同地を領有した~」とかでもいいんじゃないでしょうか。)

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2023年の早稲田大学法学部の大論述は、南アフリカのアパルトヘイトをテーマとした設問でした。早稲田の法学部では時々ある国のタテの流れと特定のテーマを意識した設問が出されています。(2014年中国の外交関係の展開、2016年の19世紀ドイツ史、2020年のメキシコ近現代史など。) 南アフリカというのは300字近い論述問題では比較的珍しいものですが、それほど入り組んだ難しい内容ではありません。ごく常識的なラインをきちんとおさえてあれば一定レベルの得点は得られる設問だと思います。

ただ、当日の受験生の中には、意外にこの「ごく常識的なラインをおさえる」ということが難しかった人も多かったのではないかと推測します。あまりにも普通の内容過ぎて、逆に書ける内容がないということがあり得たのではないかと。色々と関係が入り組んでいたり、情報量にあふれたテーマであれば、情報の取捨選択が重要で、「書く内容がない」ということはあまりないのですが、アパルトヘイトということになると、「あー、南アフリカね。うんうん。アパルトヘイトね。人種隔離ね。うんうん。…あと何書けばいいんだ(汗)?」となってしまった受験生が意外にいたんじゃないかなぁという気がします。重箱の隅をつついたような知識を用意する必要はないのですが、その分自分が持っている知識を丁寧に整理していく必要のあった問題という気がします。

 

【1、設問確認】

・時期:17世紀半ば~1990年代初頭

1990年代初頭に南アフリカで行われた大きな社会変革について説明せよ。

・その際、17世紀半ば以降の歴史的経緯をともに説明せよ。

250字以上300字以内

・指定語句(語句には下線を付す)

ケープ植民地 / 南アフリカ戦争 / 白人少数者 / アフリカ民族会議

 

:本設問では、何と言っても「1990年代初頭に南アフリカで行われた大きな社会変革」というのがアパルトヘイトの撤廃であるということをしっかりつかむことが大切です。その上で、17世紀半ば以降の南アフリカの歴史的経緯を示す必要があるのですが、出発点が17世紀半ばに設定されているところから、「オランダによるケープ植民地建設(1652)」が意識されていることに気づく必要があります。この2つを思いつけば、基本的には「ケープ植民地(南アフリカ)の支配の変遷→南ア戦争と南アフリカ連邦の形成→アパルトヘイトとアフリカ民族会議(ANC)の抵抗→アパルトヘイトの撤廃」という流れは想像がつくので、あとは肉付けをしていくだけです。

 

【2、南アフリカ連邦形成までの歴史的経緯を概観する】

:最初に、オランダによるケープ植民地建設から、イギリスの自治領である南アフリカ連邦形成までの流れを確認する必要があります。意外にウィーン議定書でケープ植民地がイギリス領になっていることを把握していなかったりすることがあるので注意が必要です。基本的な流れは以下の通りとなります。

 

1652 オランダによるケープ植民地建設

1815 ウィーン議定書でケープ植民地がイギリス領に

(ナポレオン戦争中に英が占領していたため、実質的には1806年から領有)

19世紀半ば トランスヴァール共和国、オレンジ自由国建国

      (圧迫されたオランダ系白人[ブール人]が北上したことによる)

19世紀後半 トランスヴァール共和国やオレンジ自由国で金・ダイヤモンドが発見される

       →ケープ植民地首相セシル=ローズの北上策(ローデシアの建設)

18991902  南アフリカ戦争

       →英植民地相ジョゼフ=チェンバレンの主導によるブール人国家の制圧

1910 南アフリカ連邦の形成(イギリスの自治領)

 

ただし、本設問においてはあくまで設問の中心はアパルトヘイトをめぐる動きです。ですから、こうしたケープ植民地(または南アフリカ連邦)をめぐる領有権の変遷については最小限にとどめ、これらの地域にオランダ系白人(ブール人/またはアフリカーナー)とイギリス系白人が住むようになったという事実を、本設問の指定語句にもある「白人少数者」である彼らが多数派の黒人を支配するにあたって人種隔離政策をとったことにつなげるように意識することが大切です。


南アフリカ連邦_名称つき

 

【3、アパルトヘイトとアフリカ民族会議】

:アパルトヘイトについて、受験生は「南アフリカで展開された人種隔離政策」ということまでは把握していると思いますが、意外にそのディテールまでは把握していなかったりします。アパルトヘイトが本格的に国の体制として整備されるのは第二次世界大戦後ですが、南アフリカ連邦が成立する頃からすでに実態としては白人の優越と黒人の隔離政策は始まっていました。人口比で言えば1割強ほどであったイギリス系・オランダ系の白人たちが支配階層となり、それ以外の有色人種(大半は黒人、一部インドなどのイギリス植民地からの移住者あり)を差別する形は、南アフリカ社会の様々な面で、長い時間をかけて作られていくことになります。

 

(アパルトヘイト)

:アパルトヘイトの具体的な差別・隔離の態様としては、

 

・黒人に対する経済的搾取(低賃金労働など)

・選挙権の制限、剥奪

・居住地の制限や隔離

・人種差別的な教育

・白人と非白人の性交渉・婚姻の禁止

 

などが挙げられます。

 また、黒人の居住区は次第に大規模に部族ごとに制限され、黒人居住区と白人居住区が分離されていきます。最終的には、黒人は部族ごとにホームランドと呼ばれる非常に狭い自治区に押し込められることになります。

 

(アフリカ民族会議[ANC]などによる抵抗運動)

:南アフリカの黒人たちは、こうした自治領政府の人種隔離政策に早くから反対し、1912年には南アフリカ先住民会議を組織し、その後これが1923年にアフリカ民族会議(ANCAfrican National Congress)に改称されました。当初は、インドのガンディーによる非暴力・不服従運動の影響を受けた非暴力主義的運動を展開しますが、第二次世界大戦後にアパルトヘイトの本格的な制度化が進むと性格を変えはじめ、ネルソン=マンデラなど若手の指導者を中心に1960年代ごろには武力闘争へと方針を転換していきます。これがきっかけでマンデラは逮捕され、その後30年近くにわたって獄中にとらわれました。

 もっとも、本設問ではこうした細かい内容は不要で、ANCがアパルトヘイトに対する抵抗運動を行ったことと、その指導者にマンデラがいたことが示されていれば十分だと思います。

 

(アパルトヘイトへの国際的な非難と撤廃まで)

① 国際的な批判と南アフリカ共和国の成立

:戦後にアパルトヘイトの本格的な制度化に乗り出した南アフリカ連邦に対し、国際社会は批判の目を向けていきます。特に、イギリス連邦はこれを強く非難したため、南アフリカ連邦は共和政に移行して南アフリカ共和国となり、1961年にイギリス連邦を離脱します。

 

② ソウェト蜂起(1976

:南アフリカでは1960年代から黒人の学生運動を中心とした権利要求運動が高まっていましたが、こうした南アフリカ政府がアフリカーンス語(オランダ系白人などの言語)を学校教育に導入することを決定すると、これに反発した黒人学生の抵抗運動とこれを弾圧する警察隊の間で衝突が生じ、暴動が拡大しました。この結果、多くの人々が死傷したため、南アフリカに対する国際社会の目は一層厳しいものになり、たびたび経済制裁などが課せられました。

 

③ 冷戦の終結とアパルトヘイト諸法の撤廃

:アパルトヘイト撤廃に大きな力となったのは、冷戦の終結でした。実は、南アフリカは様々な希少金属が産出される国なのですが、こうした希少金属の中にはソ連などの共産圏でしかまとまった量が産出されないものもあり、冷戦が展開されている中で南アフリカを完全に排除することは西側諸国にとって望ましいことではありませんでした。しかし、1980年代の後半に入り、冷戦終結への道筋がはっきりしてくると、国際社会の南アフリカに対する風当たりや経済制裁はさらに厳しいものとなりました。

 こうした中で、1989年に大統領となったデクラーク(白人)は従来の方針を転換し、アパルトヘイトの撤廃に向けて動き始めます。1990年には長らく獄中にいたマンデラを釈放し、さらに翌1991年にはアパルトヘイト関連諸法が廃止されてアパルトヘイトは法的に撤廃されました。その後、1994年には選挙権を取り戻した黒人たちなどの全人種参加による選挙が実施されて、マンデラが大統領となりました。このあたりの事情を知っていると映画『インビクタス』はより面白く見ることができます。

 

 さて、アパルトヘイトの撤廃までの流れは上記①~③までなのですが、当然これらを全て本設問に盛り込む必要はありません。もし書くとすれば、「南アフリカ共和国のイギリス連邦からの離脱」、「冷戦終結への動きとアパルトヘイトに対する国際批判の高まり」、「デクラークによるアパルトヘイト関連諸法の撤廃」あたりを考えると良いでしょう。本設問は「1990年代初頭の…大きな社会変革」とありますので、このアパルトヘイトの撤廃までで十分で、マンデラの大統領就任は基本的には不要だと思います。(書いても多分大きな差支えはない気がしますが。)

 

【補足:教科書・用語集などのアパルトヘイト関連記述】

:アパルトヘイトがらみの話というのは、世界史探究に限らず歴史総合などでも出て来ますし、中学高校生活をしていれば何らかの社会科科目で目にすることもあると思いますし、ちょっと問題意識を持っている人であれば、映画やら書籍やらマンガやらで関連するものを目にしたことのある方もいらっしゃるかと思いますので、別に厳密に教科書に従う必要もないとは思うのですが、一応教科書にはどの程度の記載があるのか確認してみたいと思います。

 

 また、第2次世界大戦後に南アフリカは、多数派である黒人を隔離するアパルトヘイト政策をとり、アフリカ民族会議(ANC)の抵抗や国際連合の経済制裁を受けてきたが、1980年代末に白人のデクラーク政権が政策の見直しを始めた。91年に差別法を全廃し、94年には平等な選挙権を認めた結果、アフリカ民族会議が過半数を制して、その指導者であるマンデラが大統領に当選した。

(『詳説世界史探究』、山川出版社、2023年、p.347

 

他にもp.3303行ほど記述がありますが、南アフリカでアパルトヘイトやってた程度の記述しかありません。用語集はもう少し記述がありましたが、用語などの情報量という面では大差ありません。

 

【解答例】

17世紀半ばに成立したオランダのケープ植民地がウィーン議定書で英領になると、オランダ系白人のブール人は北部にトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を建国した。金やダイヤモンドの発見に伴い、イギリスはジョゼフ=チェンバレンが主導する南アフリカ戦争で両国を併合して自治領南アフリカ連邦を形成した。ブール人を含む白人少数者は黒人差別を強化し、第二次世界大戦後にアパルトヘイトとして本格化される人種隔離政策を進めた。これに批判的な英連邦を離脱して南アフリカ共和国を建国し、マンデラ率いるアフリカ民族会議を弾圧したが、冷戦が終結に向かう中で国際的批判が厳しくなると、デクラークはアパルトヘイト関連諸法を廃止した。(300字)

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ここ最近仕事がめちゃくちゃ忙しく、記事の更新をさぼりまくっておりましたが、「さすがに共通テストは書こう」と思いまして、今年も解いてみました。また例によってダブルチェック等は行っておりませんので、「チェックが不十分でところどころ見落としや誤りなどあるかもしれませんので、ご覧になる際はご注意ください。」というエクスキューズを入れさせて…(以下略)

共通テストも2021年から導入されてかなりたち、問題の形式・難度ともに「まぁ、こういうものか」というある種の「型」ができて安定してきた感じがあります。それでも、今年は新課程対応のため昨年度までの「世界史B」が「歴史総合・世界史探究」という形に変更となり、その影響がどの程度出るかなぁということが一つの注目点ではありました。

もっとも、私は普段世界史を教えることが多い(時に流水算をやったり滑車・輪軸やったり2次関数解説したりもしてますが)のですが、正直なところ「歴史総合になっても範囲やテーマなどの面ではこれまでの世界史Bと大きな違いはあるまい」と考えておりましたので、世界史履修の生徒に「歴史総合ってなんかやった方がいいですか?」と質問された場合には「う~ん、どうしてもっていうなら歴史総合の教科書見直してみるのも良いけど、正直コスパ悪いから世界史探究の近現代史中心にしっかりやっておけばいいんでないかい?」と答えておりました。

なぜかと申しますと、まず1点目として歴史総合という科目自体が世界の歴史と日本の歴史を有機的に結合すること、つまり世界と日本の歴史がつながっていることを理解させることを目的にしている以上、「世界の中の日本」という視点から出題されるのが自然で、日本史に特化した重箱の隅をつついたような内容から出題されることをいまいち想像しにくいという点。2点目が、同じく歴史総合は「社会の形成者となる生徒が,現代的な諸課題の形成に関わる近現代の歴史を主体的に考察,構想できるように配慮した科目」(「高等学校学習指導要領解説:地理歴史編」、平成30年、文部科学省)である以上は近現代史寄りの出題になるのではないかなぁと推察されるという点です。まぁ、実際今後どうなるかはよく分かりませんが、少なくとも「歴史総合」導入初年度の今回は、ほぼ見立て通りの内容で出てきたと考えています。ただ、配点は大きかったですね。25点て。「初めてだから、そっとしてあげよう」ではなく、「これやるぞ。黙ってついてこい。」って感じのゴリ押し感を感じますねw

問題の難易度や形式については、非常に良く練れた問題が多かったように感じます。例の「答えが二つある問題」も今回は見られず、たしかに丁寧な読み取りが必要なので時間はかかりますが、煩雑な手続きのせいで時間をとられるタイプの設問はなかったように思いました。知識偏重型でもなく、かといって過度に手続きが面倒なわけでもなく、その上でそれなりの難易度を維持できている問題だったと感じます。個人的に好きだったのは、「機械制綿糸の生産量と自給率」のグラフを用いた  4  の問題です。世界史を勉強して用語を「覚える」ことばかりにこだわっていると、「ジェニー紡績機」や「力織機」は覚えていても、「紡績とは何か」とか、「織機とは何か」という具体的なイメージが持てていない場合などが、学習歴の浅い学習者の中には見受けられるのですが、そうした中で「綿糸を生産するということはどういうことか」などを考えさせるこの問題は、単に国語の読解問題というレベルを超えて、「きちんと歴史的事象をはっきりしたイメージとしてとらえているかを問いたい」という気持ちが感じられる設問だったように思いました。

良問であるにせよ、そうでないにせよ、「共通テストは時間がかかる」というのは周りの先生方とも共通した認識としてありまして。そこで今回は「試しに見栄をはらずに丁寧に解いてみた場合、どれくらい時間がかかるかなぁ」ということで時間はかってみました。そうしたところ、以下のようになりました。

 

・第1問、第2問:あわせて20分

・第3問:9分

・第4問:4分

・第5問:8分

・合計:41分

 

 単純に、はやく解こうと思えばもっとスピーディーに解けるとは思いますが、正確さと丁寧さを重視したかったことと、途中「この問題ってどういう解説の仕方しようかしら」とか余計なことを考えつつ解いておりましたので、妥当なラインかなぁと思います。共通テストになってからは、だいたい35分~4243分くらいのペースで解いていますので、間違いなく旧センター試験のころよりは時間のかかる問題です。(旧センター試験は30分かからないこともしばしば。) 仮にも世界史を教えることを生業にしているおっさんが解いて40分以上かかるわけですから、受験生は冗談抜きで時間いっぱいかかったとしてもおかしくありません。だから、「問題数減らせばいいのになぁ」とは毎年思っていますw 実際、28題くらいでいい気がする。何より、この問題作るのにめっちゃ手間暇かかっているはずで、率直に言って解くことを考えるよりも作ることを考えるとガクブルするw 解いた方も作った方もお疲れ様でした…。

 

2025年 大学入学共通テスト「歴史総合、世界史探究」 解答と解説】

 

  1   

  ア  は「オスマン帝国の近代化政策」とあるのでタンジマート。基本知識です。ちなみに、「ドイモイ」は1980年代にベトナムで導入される市場経済化策ですね。

そこで、問題になるのは  イ  の方になります。まず、図21878年のベルリン会議の様子ですので、すでにオスマン帝国ではミドハト憲法が停止されて、アブデュルハミト2世によるパン=イスラーム主義を利用したスルタン専制が始められています。また、文章中で「先生」がトルコ帽のつばがない理由を「礼拝の邪魔にならないよう」と説明していますので、「イスラームの儀礼に配慮する」のほうが正しい。「急速な世俗化」では理屈に合いません。 

 

  2   

:組み合わせを考えればよいので、比較的平易な設問です。

まず、辮髪は女真族が中国を支配した際に漢民族に強制する髪型で、辛亥革命で清が滅ぶとすたれていきます。ですから、「辮髪=清の時代」と考えてよいので、「あ-W」が妥当です。

一方、日本に積極的に洋装が取り入れられていくのは明治維新以降、文明開化の時期です。この頃日本は、条約改正交渉の助けとするために鹿鳴館の建設のほか、積極的な西洋化を進めていきます。ですから、「い-Y」となります。よって答えは①。

 

  3   

:「ノートについて」とありますが、実際にはほぼ知識だけをもとに消去法を用いれば解ける問題です。できるだけスピーディーに解きたい設問。消去法は以下の通り。

×:ヴェルヘルム2世の即位は1888年。ヴィルヘルム2世の祖父であるヴィルヘルム1世がドイツ帝国を成立させて皇帝となるのが1871年なので、これを確認するだけでも間違いに気づく。

×:シンガポールはイギリスの行政官ラッフルズが入手(1819)してから20世紀後半に独立するまではイギリス領。

×:安政の五カ国条約の交渉にあたっていたのは大老井伊直弼のもとの幕府。また、これらの条約は天皇の勅許を得ていなかったことから、これに憤った人々の反発を買い、最終的には桜田門外の変で井伊直弼は暗殺された。

 

  4   

:まず、綿糸は綿花の種子の周辺についている綿(わた、木綿)をつむぐことによって得られます。この「糸をつむぐ」工程を「紡績」といいます。ですから、ジェニー紡績機も、水力紡績機も、ミュール紡績機も、やっていることは「綿(わた)を紡いで綿糸にする」ということをやっています。一方、力織機などの「織機」はいわゆる「はた織機」のことです。鶴の恩返しで、鶴が「絶対にあけてはいけません…(フリ)」と言ってぱったんぱったん使いだすアレです。つまり、布を織る機械が「織機」。ですから、綿糸の生産量に関係があるのは紡績機の方ですから、選ぶべきは「い」

 また、グラフを見ると、帝国議会開設(1890年)後の10年間で、日本の国内生産量は「211890年)→1281900年)」で明らかに5倍以上になっているのに対し、1910年の段階での中国の綿糸自給率はグラフより50%を割っています。(グラフ左の目盛りから) 自給率は、100%以上の場合は「国内生産量≧国内消費量」ですが、100%未満の場合は「国内生産量<国内消費量」ですので、「国内生産量が国内消費量を上回っていた」は誤りなので選ぶべきは「Y」。よって答えは④。

 

  5   

:こちらもほぼ知識と消去法で解けます。ただし、「モダンガール」については歴史総合の教科書には出ていますが、世界史探究の教科書(山川)ならびに用語集(山川)にはありませんので、知らないという人もいたかと思います。

×:モダンガール(モガ)の髪形はショートボブなどが主流で、ロングヘアーは特徴的なものではありません。(下写真参考) 

×:統監府は1910年の韓国併合以前の第2次日韓協約(1905年)で日本が大韓帝国の外交権を掌握したことで置かれたもので、1910年以降は朝鮮総督府による統治が行われました。

×:パネル1より、『玲瓏』創刊は1931年なので、当時の中国は中華民国。(中華人民共和国成立は第二次世界大戦後の1949年。)

モガ
1928年、銀座通りのモダンガール(Public Domain, Wikipedia

 

  6   

「あ」は

:文章と資料より、ムッソリーニ政権(ファシズム体制)下の目標として「衣服産業の国内市場の制圧」が示されているので、国産衣服の生産は間違いなく奨励されている。

 

「い」は

:フランスは1930年代にブルム人民戦線内閣が成立したことをはじめとして、ファシズム体制ではない。また、資料に「フランスびいきの消費者がイタリア製品に下す過小評価に対抗」する(イタリアの)商人は「最大限の支援を必要としている」とあるので、フランスの影響は歓迎されていない。

 

  7   

:まず、パネルではイスラームの聖典『クルアーン』が女性に家族以外の男性に「美しい部分」を画することを正しいとしていることや、イラン=イスラーム革命以降、女性のヴェール着用が義務となったことなどが示されている。このことから、

・イラン=イスラーム革命以前:ヴェールは不要(クルアーンの教えは厳格に適用されず)

・イラン=イスラーム革命以降:ヴェール着用が義務(クルアーンの教えに厳格)

という区別があることが分かる。ゆえに「う」と「え」のうち正しいのは「え」

 また、イランでは元々国王パフレヴィー2世による「白色革命」と呼ばれる開発独裁と西洋化・近代化が進められ、これによる貧富差の拡大やイスラームの価値観の破壊に不満を感じた人々がホメイニを指導者にイラン=イスラーム革命を起こしたので、挿絵1の指導者がホメイニであり、挿絵2の指導者がパフレヴィー2世であることも分かる。よって、挿絵の順は「挿絵2→挿絵1」。よって正しいのは「い」

 

  8   

:年代順の並べ替えではあるが、かなり大幅に時期が離れているので、比較的平易。

 

メモⅠ:SDGsの国連総会における採択は2015年。

メモⅡ:男女雇用機会均等法は1986年。

メモⅢ:公民権運動の高揚は1960年代、ウーマン=リブは1960年代~1970年代が主。

 

よって、「Ⅲ→Ⅱ→Ⅰ」の順なので答えは⑥。

 

  9   

:やや資料の読み取りが難しい設問。資料より、  ア  はスルタンが拠点としていること(疫病流行とともに郊外へ避難)、またアズハル=モスクがあることからカイロ。アズハル=モスクは通常用語としては登場しないが、アズハル学院がファーティマ朝下のカイロに建設されたことは重要事項なので、そこから連想すればよい。

 また、  イ  14世紀半ばに流行した疫病とあるので、黒死病(ペスト)。こちらは基本事項。

 

  10   

:「資料に記された時期の」とあることに注意。資料に記された時期は「14世紀半ばの都市の状況」とあるので、14世紀頃にカイロを支配していた王朝を思い浮かべればよい。カイロを中心とする諸王朝は以下の通りで、14世紀頃はマムルーク朝の時代。マムルーク朝はバイバルスがアイン=ジャールートの戦いでモンゴルのフラグの軍勢を撃退したので、答えは③。

 ちなみに、①はムラービト朝やムワッヒド朝、②はファーティマ朝、④はアイユーブ朝。

カイロの諸王朝


  11   

:こちらも少々資料の読み取りに注意を要する問題。普通の受験生であれば、プーシキンやゴーゴリ、ドストエフスキーなどのヒントから  ウ  を導くのは困難。しかし、「準備メモ」は  ウ  の歴史についての情報とあるので、「準備メモ」の他の情報から導き出せばよい。重要なヒントとして、

 

・「血の日曜日事件」が起こった

1918年に他の都市に首都が移された

1991年に都市の名称が改めて変更された

 

とあるので、特に「血の日曜日事件」をヒントに  ウ  がペテルブルクであることが分かる。

また、ペテルブルクについては1918年にボリシェヴィキが権力強化のためにモスクワへ遷都したことや、1924年のレーニン死去に際してレニングラードに改称されたこと、さらにソ連崩壊後の1991年にサンクト=ペテルブルクに改称されたことなども、詳しく覚えていれば判断材料になる。あとは、これに基づいて消去法で答えを導くことになる。

 

×:ペテルブルクの建設は、ロマノフ朝のピョートル1世の頃なので、ギリシア正教への改宗が行われたキエフ公国(ウラディミル1世)時代にはない。 

×:上記の通り、ピョートル1世時代であり、初めてツァーリを自称したイヴァン3世(モスクワ大公国)の時代ではない。

×:首都をモスクワに移転したのは臨時政府ではなくボリシェヴィキ(ロシア共産党)。

 

 

  12   

:知識だけで解ける、ほぼ即答の問題で、あまり時間はかけたくありません。地球球体説を唱えたフィレンツェの天文・地理学者トスカネリは15世紀の人物。トスカネリの活躍した時代までは把握していない人が多いと思われますが、トスカネリの説に影響を受けたコロンブスが新大陸を発見したのが1492年であることは基本事項なので、それが分かれば17世紀では無理があることに気づけるはず。

 

  13   

:会話文中の  エ  は「ラタナコーシン朝が成立した時期の人々が首都バンコクの防衛を強く意識した」理由に当たる部分なので、「タイが外敵に攻められる」という構図になっている文章を選ぶ必要がある。 これに当てはまるのは、ビルマのコンバウン朝がタイのアユタヤ朝を滅ぼした①。

 

×:阮福暎も西山政権もベトナム。 

×:イギリスとビルマの話で、タイは無関係。

×:インドシナ出兵はフランスVSベトナム。

 

  14   

「あ」は

:まず、地図2を見ると、城壁外南東部に外国領事館を示す「●」の記号がいくつか見られる。また、文章中の「諸外国との貿易も一因となって市街地が拡大するなど」、「対外関係で大きな変化がありました」などの部分は「あ」の文章と合致する。

 

「い」は

:文章中に「北と真南に新しく道路と水路が拡大しているように見えます」、「城壁と並行して走る運河のさらに外側に、パドゥンクルンカセーム運河が建設されました」とあるので、「い」の文章の「水上交通路は衰退しており」が間違いだとわかる。

 

  15   

(佐藤さんのメモ)…

:インドシナ戦争の休戦協定はジュネーヴ休戦協定(1954)なので、バンコクと  ア  (カイロ)にはあてはまらない。

 

(中原さんのメモ)…

:バンコクは上述の  14  の通り、対外貿易が発展の一因となったことが読み取れる。ちなみに、タイはラーマ4世(モンクット)時代の1855年にバウリング条約(ボーリング条約)という不平等条約をイギリスと締結して開国、近代化を進め、さらにラーマ5世(チュラロンコン)の時代のチャクリ改革でさらなる近代化を進めている。また、  ウ  のペテルブルクは西欧化を進めたピョートル1世の築いた「西欧への窓」であり、中原さんのメモの言う「西欧との結びつきを意識して建設」という内容と合致する。

 

  16   

:資料からも解けるが、知識だけでも対応可能な問題。まず、  ア  は『ハムレット』で知られるイギリスの劇作家とあるので、「あ」のシェークスピア。(ラブレーは『ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語』で知られるフランスの人文主義者。) また、クレオパトラはプトレマイオス朝の女王でセレウコス朝の人物ではないので、「X」は誤りと分かる。資料からも、勝利者(オクタウィアヌス)側の見方として、アントニウスは「自分のために戦いそして死んでいこうとする者たちを裏切って、さっさと逃げ出」す無能な指揮官として描かれているので、「Y」が正しいとわかる。よって、答えは「あーY」の②。

 

  17   

:基本的な知識問題。

 

「あ」は

:九品中正法は魏の時代に導入されたもの。唐の則天武后は科挙官僚を重用したことで知られる。

 

「い」は

:マリア=テレジアはオーストリア継承戦争(1740-1748)でプロイセンのフリードリヒ2世にシュレジェンを奪われた後、その復讐戦である七年戦争(1756-63)では、それまでの宿敵フランスと結ぶ「外交革命」を準備して戦いに臨んだ。オーストリア継承戦争と七年戦争時の「墺・普・英・仏」間の国際関係の変化については入試では頻出事項。(下表参照) 

オーストリア継承戦争構図

七年戦争構図

  18   ④ 

:知識と資料読解の両方が必要な問題。まず、『五経正義』の編纂者は孔穎達と顔師古。特に孔穎達と、「太宗の命を受けて」の編纂であったことは頻出。また、理由については資料2より「学問に多くの学派があり、経書の解釈が煩雑なので」注釈である『五経正義』を制定させたとあるので、解釈の統一を図ることを目的としている「Y」が正しい。よって答えは「いーY」で④。

 

『五経正義』は覚えにくいかもしれないが、儒学の重要な経典である「五経」の「正しい意味・解釈(正義)」を示したもの、と意識すると比較的頭に入りやすい。

 

  19   

「あ」は可能

:文章中に「註」には「鄭玄の注釈」があると説明されている。鄭玄は訓詁学を大成させた後漢の頃の人物なので、鄭玄の解釈のある「註」から漢代の研究を行うことは可能である。

 

「い」は可能

:文章中に「疏」には孔穎達(  イ  )の注釈があると説明されている。上述の通り、孔穎達は唐の時代の人物なので、当然唐代についての研究は可能である。

 

  20   

:文章中の  ウ  7世紀に「(インドの)仏教の歴史や伝統に関わる…遺跡を訪れている」 とあるので、玄奘。また、文章中に『大唐西域記』の著者であることも記されているので、ここからも判断できる。中国からインドに渡った仏僧は以下の通り。

 

法顕(東晋の僧):グプタ朝の時期、陸路→海路、『仏国記』

玄奘(唐僧):ヴァルダナ朝期、陸路で往復、『大唐西域記』

義浄(唐僧):ラージプート時代、海路で往復、シュリーヴィジャヤに立ち寄る、『南海寄帰内法伝』

 

  ウ  が玄奘と判別できれば、あとは消去法。

×:チャンドラグプタがパータリプトラに都を定めたのはマウリヤ朝。 

×:マヌ法典が成立したのは前2世紀~後2世紀頃。

×:ナーガールジュナ(竜樹)による大乗仏教体系化はクシャーナ朝の頃。

 

  21   

:まず、イギリスのインド学発展から出てきたインド史研究者は「18世紀以降」であることは文章より明らかなので、  エ  に入る語句はムガル帝国でなければ時代が合わない。また、文章中で「インド学の学者」と「カニンガム」は以下のように対比されていることが分かる。

 

「インド学の学者」:インドの人々の記したサンスクリット語古典文献を用いる

「カニンガム」:玄奘(中国人)の旅行記である『大唐西域記』を史料として用いる

 

つまり、「カニンガムの手法」とは、「現地の人が記した史料ではなく、外部の人間がある土地について記した史料を分析すること」であるとわかるので、それに当てはまる方を選べば良いから、「ルブルック(ヨーロッパ人)が残した記録を用いてモンゴル帝国を研究する」という「Y」が正しい。よって「いーYとなるので④が正解。

 

  22   

:いくらかの資料読解が必要な問題。資料4より以下のことがわかる。

 

8か国連合軍が都を占領した時は、外国人は好き勝手にふるまった。

8か国共同出兵は1900年の義和団事件の時。北京議定書(1901)で外国軍隊の北京駐兵が認められたことは頻出事項。

・今日(義和団事件から30年近く後)では、敦煌文書や仏像を研究することは許されるが、これらは国家の財産なので盗み去る(勝手に国外に持ち出す)ことは不法行為で許されない。

 

以上の内容に合致するのは「い」

また、資料4が書かれたのは上記より1930年前後と推定されるので、正しいのは北伐の「Z」。(変法運動または光緒新政は1898年または20世紀初頭で、改革開放路線は戦後の鄧小平時代。)

 

  23   

  ア  に入る言葉が「あ」なのはグラフを比べれば明らか。(1850年のアメリカ合衆国からの輸入量は約500だが、1880年のそれは約1250なので、3倍以上には達していないから「い」は×。)また、イギリスの綿花輸入量増加の背景は産業革命が正しいので、「X」が正。(第1次囲い込みは羊毛生産をイギリス内で増やす動きで、16世紀頃。)

 

  24   

(木村さんメモ)…

:グラフより、1862年から1865年の時期にイギリスは1860年の綿花輸入総量の水準(約13001400)を満たした年は一つもない。

 

(加藤さんメモ)…

:グラフより明らか。南北戦争(1861-1865)がこの時期の綿花価格や輸入量に大きな影響を与えたことは頻出事項。

 

  25   

:基本的な知識問題。ロロはノルマンディー公国の建国者。(イングランドを征服したノルマンディー公はウィリアム[即位してイングランド王ウィリアム1]) また、ブルガール人はもともとトルコ系の遊牧民であったものがスラヴ化した民族で、そのルーツにヴァイキングは関係ない。

  

  26   ④

:こちらも知識問題。消去法。また、鉄製品はアメリカ大陸には本来ないはずのものだったので、鉄の釘が遺跡に残されていることは外部からの来訪者がいたことの証明となる。

 

×:ジャガイモはアメリカ大陸原産なので、アメリカ大陸外から人が来たことの証拠にはならない。 

×:牛や馬はコロンブスがアメリカ大陸にたどり着く頃までアメリカ大陸には存在していない。

×:トウモロコシもアメリカ大陸原産。

 

  27   ②

:年代を覚えていてももちろんできるが、大航海時代の話の流れや出てきた順が頭に残っていればそれでも対処は可能。

 

下線部ⓐ:コロンブスのサン=サルバドル島到達は1492

Ⅰ:ポルトガルのエンリケ航海王子などのアフリカ西岸探検は15世紀前半から。

(西端のヴェルデ岬到達が1445年。)

Ⅱ:アカプルコ貿易は16世紀が中心。(マニラ建設が16世紀後半。)

 

よって、「Ⅰ→下線部ⓐ→Ⅱ」となるので、答えは②。

 

 

  28   ④

:丁寧に資料を読み解くことが要求される問題。数字が出てきた場合には何となくではなく、きちんと計算してみた方が良い。

 まず、  ア  は地図上の扶余の位置から百済と分かる。(下地図参照。)また、メモ1の内容から、以下の情報を整理することができる。

 

・百済において貸し付けた穀物量を1とすると、返済量(返済済+返済予定)は1.5

=1の5割(50%)は0.5なので、5割の利息が付いたと推定できる。

・唐では穀物貸付規定はあったと思われるが、返済時に5割の利息をつけるとする明確な規定は見つかっていない。

・日本の規定では穀物を貸し付けた場合、返済時には5割の利息が付くことになっていた。

 

よって、  イ  には朝鮮半島が、  ウ  には唐が入ると考えられるので、「アー百済、イー朝鮮半島、ウー唐」で答えは④。

三韓

4世紀~5世紀の朝鮮半島の諸勢力のおおよその位置関係)

 

  29   

:基本的な資料読解と、世界史知識の組み合わせ。資料に「漁業の奨励には…海軍力を強化する目的もあった。」とあるので、①は正しいと推定できる。

 

×:肉食を禁じる規定を出したヘンリ8世とエリザベス1世は、それぞれ首長法(1534)や統一法(1559)を出してイギリス国教会の成立と確立を進めた人物なので、カトリックを復活する狙いはない。カトリックを復活させたのはエリザベス1世の前のメアリ1世の時。

×:エリザベス1世統治下のイギリスとスペインに対する独立戦争中のオランダは、共通の敵スペインを抱えるプロテスタント国家同士であったことから友好関係。両国の対立が生まれるのは17世紀から。(cf. アンボイナ事件、航海法、英蘭戦争など)

×:航海法制定は1651年なので16世紀末ではない。

 

  30   

:基本的な知識問題。(資料からも読み取り可。) 北米の先住民(インディアン)は、合衆国の拡大と西漸運動によって保留地へと追いやられていくので、エは「保留地に隔離」が正しい。(cf. 先住民強制移住法[1830]など) また、先住民は「土地を追われ」、「バッファローの乱獲によって…深刻な食糧難」となっているので、自給自足はできないから、オは「供給された食料に依存」が正しい。よって答えは②。

 

  31   

:知識問題ならびに資料読解問題。第一次世界大戦の特徴として、初の総力戦であったことがあげられる。総力戦とは、国家や組織の人的・物的力などの総力を動員して行なう戦争のことで、国により経済等が統制され、銃後にまで戦争が拡大するなどの特徴がある。

 

「あ」‐上記の説明により、

「い」‐ドイツ革命ののち成立するのはヴァイマル共和国で、立憲君主制ではないので

「う」‐表より、ライ麦は約27倍、牛肉は4.75倍なので

「え」‐メモ2には「配給された切符の分だけ…購入でき」、「切符で購入できる量」とあるので、無料ではないことが分かるから

 

よって、「あ・う」の組み合わせが正しいので正解は①。

 

  32   

:問1~問4の各班の活動を簡潔にまとめると以下の通り。

 

問1:古代東アジア諸国における、国家による穀物貸付に対する利息規定

問2:16世紀イングランドにおける国家による肉食禁止と漁業奨励

問3:アメリカ合衆国政府による先住民弾圧が先住民の食文化に与えた影響

問4:第一次大戦中のドイツにおける国家による食糧価格と食糧配給

 

これらから、  α  には「政治権力が食糧事情や食生活に与えた影響」が入るのが正しい。

 

また、「政治権力が食糧事情や食生活に与えた影響」を研究するにあたって適切な題材は「大躍進政策により中国で生じた飢饉」であるから、「あ-Z」の組み合わせとなるので③が正解。

(「多国籍企業による品種改良」は民間の動きによるものなので✘、また、「気候の寒冷化と凶作」は自然現象によるものなので✘。)

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