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ヘッダーイラスト:かるぱっちょ様

2024TEAP利用型のリード文は「世界史の世界史」について述べる文章でした。この文章の中で述べられている<「世界史」(または「歴史」)とはどのような描き方をすべきで、また「新しい世界史」はどうあるべきか>ということは、近年の歴史学にとっての一大テーマといってもいいもので、超重要です。しかも、難しい。多くの歴史学者が今も頭を悩ませながら自分なりの答えを模索している問題といっても良いでしょう。

たとえば、ミネルヴァ書房から出ている『「世界史」の世界史』(2016年)などはタイトルもそのままにこうした問題関心と向き合っている大変興味深い書籍です。章立てを見ても、第2章「中華の歴史認識」、第5章「ヘロドトスの世界像」、第6章「キリスト教的世界像」、第7章「イスラームの世界観」、第12章「啓蒙主義の世界(史)観」、第13章「実証主義的『世界史』」、第15章「マルクス主義の世界史」、総論「われわれが目指す世界史」など、もしかして本設問のリード文はこの本を参考に書いたのではないかと思わせるくらいです。高校生が読むには少し難しいですが、歴史学にご興味のある方はご一読いただいても良いかと思います。良著です。

2024年度の設問3(350字論述)ではこのテーマに沿って「現代において世界史の過去の在り方を学ぶ意義はいかなるものか」という問いが立てられています。こうしたテーマを正面から扱わせようとするあたりに出題者の問題意識を感じますし、高校生に「世界史とは何か」ということを感じさせる入り口としては大変良いテーマだと思います。また、特に細かな予備知識がなくても思索を巡らせることができ、リード文によって十分なヒントも与えられ、かつ国語力も試すことができる良問だといってよいと思います。


ただ、いかんせん文章・テーマともに高校生が初見で扱うにはかなり難解です。テーマ自体は特に予備知識がなくても自分なりの思考をめぐらせ、考えることができるテーマではあるのですが、何の予備知識もない人が自分の手持ちの武器だけで勝負しようとすると「なんとなくそれっぽい文章だけど中身スカスカ」という、見当はずれ・不十分な内容を書いて終わるだけになってしまいます。ですから、本設問は一見自由度が高いように見えて、実際にはリード文の精緻な読解と把握、設問要求の分析、それらに基づいた高い構成力と作文能力が要求される、高難度の「国語の問題」といって良いと思います。ハイ。はっきりいって「国語の問題」です。もちろん、世界史の知識があるにこしたことはないのですが、中途半端な世界史の知識・認識ではおそらくかけらほどの役にも立たない気がします。啓蒙思想やランケの近代歴史学と史的唯物論の相違点を丁寧に把握できている高校生とかそうはいないと思います。(大学生でも怪しい。)

 

試験の基本的な形式については大きな変化はありません。小問が5題、200字論述が1題、350字論述が1題の90分試験でした。こちらは出題傾向の方で述べましたが、2018年以降、試験の形式自体には大きな変化はなく、安定してきています。小問の内容についても例年通りごく基本的なもので、大学入学共通テストやGMARCHクラスの設問が解けるのであれば難問といえるものはありません。また、設問2の200字論述についても、論述問題としてはごく基本的な内容です。まずは、第1問や第2問でしっかりとした点数を取れる学力を身につけ、設問の要求をとらえ損なわない注意力と読解力を養い、設問3については高得点は狙えなくとも大きく的を外さずに設問要求に対して一定程度きちんと答えになっている文章が書けるようになる、くらいが目指すべき目標なのではないでしょうか。

 

【小問(設問1、⑴~⑸)】

 

設問1

問⑴ 正解は⒝

:司馬遷の『史記』が紀伝体で書かれた正史の最初であることや、前漢武帝期に成立したことは基本事項。

 

⒜ 『春秋』は儒教の「五経」の一つ。「四書」は『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』。

⒞ 班固の『漢書』は前漢の歴史を記した正史の一つであるが、中国の二十四史と呼ばれる正史は全て紀伝体。高校世界史で出てくる中国の歴史書のうち、編年体で有名なものは孔子によるとされる『春秋』や司馬光による『資治通鑑』など。

⒟ 司馬光は王安石の新法に反対した旧法党の指導者。

 

問⑵ 正解は⒟

:従来の俸給を支払うアター制にかえて、土地の徴税権を与えるイクター制の導入を始めたのは、10世紀にバグダードに入城してアッバース朝カリフから大アミールの称号を得たブワイフ朝。その後、11世紀にブワイフ朝にかわってバグダードに入り、スルタンの称号を得たセルジューク朝期により広く普及した。

 

⒜ タラス河畔の戦いは、751年に成立した間もないアッバース朝が唐の高仙芝率いる軍隊を打ち破り、製紙法の西伝につながった戦い。また、ヒジュラは622年なので時期が大きく違う。

⒝ ウマイヤ朝の成立は4代正統カリフのアリーの死後、ムアーウィアによるものなので、ウマイヤ朝の4代目がアリーではおかしい。また、アリーとその子孫のみを正統な指導者と認めるのはシーア派。

⒞ アッバース朝はウマイヤ朝のアラブ人優遇政策をあらため、ムスリムの平等を達成したが、それはハラージュ(地租)の支払いをアラブ人とマワーリー(非アラブ人ムスリム)に平等に課すことで達成されたのであり、ズィンミー(異教徒)に課すジズヤ(人頭税)はアッバース朝下ではマワーリーには課せられなかった。

 

問⑶ 正解は⒜

:ヴォルテールの『哲学書簡(イギリス便り)』はイギリスの進んだ政治・経済・文化を紹介しフランス社会を批判した書物で、難関校では出題頻度が高い。また、ヴォルテールは啓蒙思想家としてヨーロッパの王侯貴族や文化人と広く交流し、フリードリヒ2世の宮廷に招かれたが、間もなく関係が悪化し、短い期間でプロイセンを去った。

 

⒝ 北方戦争(17001721)の頃のロシア皇帝はピョートル1世。

⒞ モンテスキューが三権分立を主張した書物は『法の精神』。『リヴァイアサン』はホッブズが社会契約について論じたもの。

⒟ テュルゴーはケネーとともに重農主義者として知られる。

 

問⑷ 誤りを含むのは

:ギリシア独立戦争後にギリシアの独立が国際承認されるのは1830年のロンドン会議。サン=ステファノ条約は露土戦争(18771878)後のロシア・オスマン帝国間の講和条約。サン=ステファノ条約とそれに続くベルリン会議とその内容は難関校では頻出事項なので注意。

 

問⑸ 正解は⒝

:イギリスでは19世紀前半の自由主義の拡大の流れの中、コブデンやブライドが指導する反穀物法同盟の動きによって穀物法が廃止され(1846)、さらに1849年に航海法が廃止されたことで自由貿易体制が確立した。頻出事項。

 

⒜ オランダが強制栽培制度を展開したのはジャワ島。マレー半島はイギリスが支配。

⒞ 蒸気船はフルトンの発明。スティーブンソンが実用化したのは蒸気機関車。

⒟ モノモタパ王国はザンベジ川流域、現在のジンバブエなので、アフリカ東岸。

 


設問2(論述問題、200字以内)

 

【設問概要】

 

・大航海時代に世界と結びつくことで16世紀ヨーロッパの経済に生じた変化を説明せよ。

200字以内。

・指定語句:商業革命 / 価格革命 / 地中海沿岸 /

 

:大航海時代がヨーロッパに与えた影響はあちこちの大学で出題される超頻出事項です。(当ブログでも東大2007年問題一橋2017年問題などでたびたびご紹介しています。) 論述問題としては基本問題といってよく、この問題は取りこぼしたくありません。指定語句も内容をつかみやすいものですが、その分、指定語句に頼りすぎず、関連知識や内容を丁寧に説明したいところ。また、「経済」に生じた変化とあるので、きちんと経済に焦点をあわせて説明できるかが重要となります。

 

(大航海時代のヨーロッパへの影響)
大航海時代の影響

:「経済」についてとあるので、これらのうち生活革命を除く部分を中心にまとめてやれば良いでしょう。生活革命の内容も一部は経済と結びついていると言えなくもありませんが、字数と内容を考えた場合、「商業革命」、「価格革命」、「国際分業体制の成立」の内容を示せば基本的には十分だと思われます。

 

(解答例)

大航海時代にスペインやポルトガルが海洋進出し、新大陸の金やアジア産の香辛料などの流入が拡大すると、貿易の中心地が地中海沿岸諸都市から大西洋沿岸諸都市に移る商業革命が起こり、東方貿易に従事していた北イタリア諸都市は衰退し、リスボンやアントワープが反映した。の大量流入と人口増加が、貨幣価値の下落と物価高騰を招く価格革命が起き、商工業のする西欧との経済格差が拡大する中、東欧は西欧向けの穀物供給地となる国際分業体制が形成された。(200字)

 

設問3(論述問題、350字以内)

 

【1、設問概要】

・架空の先生と二人の高校生の会話文を読み、会話文最後の空欄(   )に入る文章を自分で考えて書け。

・会話文は問題文を踏まえてなされている。

・問題文の内容を踏まえよ。

300字以上350字以内。

 

【2、問題文の内容を整理】

:先生と生徒の会話は、問題文の内容を踏まえてのものになるので、まずは問題文の内容を正確につかんでいないと彼らの会話の内容や意図を正しくつかむことはできません。(つまり、会話に入っていくことができません。)

そこで、まずは問題文(リード文)の内容を正しく把握し、整理する必要があります。制限時間がありますので、残り時間に注意する必要はありますが、この年の問題は上述の通り設問2が論述問題としては基本問題になりますので、おそらく時間的な余裕はいくらかあるはずです。リード文について、ざっとではありますが段落ごとの内容を整理していきます。

 

《1段落:問題提起》

・「世界史」の中身は古今で同じか。

・「世界史」というとらえ方は昔から自明のものであったか。

・現代の「世界史」が成立するまでの歴史(「世界史の世界史」)はどのようなものか。

:最初の段落において、現在「世界史」という概念は当たり前のものとなっているが、実はこの概念自体が昔は自明のものではなかったということが暗に示されます。その上で、現代的な「世界史」概念が成立するまでにはどのようなプロセスがあったのか、すなわち「世界史の世界史」を振り返ることが提案されています。


《2段落~5段落:大航海時代以前の歴史(自分たちの文明や地域に限定された歴史)》

(2段落)

・大航海時代以前は人々が地球全体の姿を把握することがなく、そのため現代的な意味での「世界」は把握されていなかった。

・「世界史」という意識は希薄。

・描かれる歴史は、その歴史を描く人物の属する文明や地域などに限定された。

:大航海時代以前の世界に住む人々は、現在われわれが認識する「世界」像とは異なるものとして彼らの「世界」を認識していました。そして、彼らの「世界」は現代的な感覚から見れば極めて限られたな文明や地域におさまるものでした。(たとえば、古代ギリシア人にとっての「ポリス」社会や、古代中国における「中華」などの概念です。)

そのため、彼らの描く「歴史」もまた、彼らが認識していた「世界」の枠内にとどまることが多かったことが本段落では指摘されます。

 

(3段落)

・中国の歴史(「自分たちの文明や地域に限定された歴史」の例示の一つとして)

・中国の正史に描かれたのは「中華」の歴史

・「中華」の歴史は王朝ごとに編纂された(正史)

・「中華」は単なる地理的領域ではなく、文化的共有がなされている場を示す語

・そのため、「中華史」を描くことは、「中華」の文化(儒教文化)をどこまでの地域・民族が共有しているかという認識と不可分

:この段落では、「自分たちの文明や地域に限定された歴史」として中国において王朝ごとに編纂された正史(「中華」の歴史)が紹介されています。その中で、「中華」とは地域的にどこからどこまでかを指すものではなく、地域も含めてそこに住む人々が「中華」の文化、その中心となる儒教文化に基づく価値観や習俗などをどこまでの人が共有しているかを指す概念であって、「中華」の歴史を描くためには「中華」の範囲がどこからどこまでとなるかを認識する必要があったということが述べられます。

 

(4段落)

・知識人個人が書く歴史
 =自らが属する国・文化圏を超えた別の地域・文化圏を記述する場合も

 ex.) ヘロドトス『歴史』

・各地域に共通する年代的枠組みが存在しないため、各地の王の在位年などを基準に

・ヘロドトスの歴史記述はギリシア中心主義ではない異文化観を示していた

 =現代における「世界史」の先駆けをなすもの

・ただし、辺境地域への偏見や空想も多くみられる

:3段落で示された、王朝が編纂した歴史と対比して、知識人個人がまとめた歴史の代表例としてヘロドトスの歴史が紹介され、こうした歴史記述の中には、その人が属する地域・文化圏の見方(ヘロドトスの場合にはギリシア中心主義)を超えた、別世界の視点が盛り込まれることもあることが示されます。

重要なことは、こうした歴史記述を指して、現代の「世界史」概念の先駆けであるとされていることです。このことから、リード文の筆者は現代の「世界史」を一部の地域や文化圏にとらわれず、複数の地域を描く視点を持ったものだと理解していることが分かります。

 

(5段落)

・「地域史」とは異なる「普遍史」の紹介

・「普遍史」は宗教的視点から世界の創造を起点として描かれる歴史

 ex.) キリスト教の『聖書』が描く、「世界の創造」から「最後の審判」・「神の救済」まで

 ex.) アウグスティヌス『神ノ国』

  :聖書で描かれる「神の国」の歴史と、アッシリア・ローマなどの「地上の国」の歴史

 ex.) タバリー『預言者と諸王の歴史』

  :イスラーム成立以前の諸王の列伝と『クルアーン』の宗教的歴史を年代順に並記

・「普遍史」では、(現代的意味での)歴史的事実と宗教的教義の接合に腐心

:3段落、4段落で示された王朝の編纂する歴史にせよ、知識人個人が編纂する歴史せよ、ある地域における記述を中心とした「地域史」によって構成されているわけですが、5段落ではこれとは一線を画す「普遍史」について紹介されています。「普遍史」は地域的な区分けにこだわるのではなく、世界の創造から終わりまでという人類の歴史を描こうとした歴史です。これらの歴史を描く人々にとって、彼らの生きる時代はすでに定まっている「世界の始まりから終わりまで」という歴史の一つの通過点というとらえ方がされていました。

一方で、「普遍史」は『聖書』や『クルアーン』などの宗教経典に依拠していたわけですが、そこの記述は必ずしも彼らが生きていた世界の歴史的事実(もっとも、普遍史を描く人々にとっては聖書などの記述も「歴史的事実」であるという認識なので、ここでいうものは現代的な意味での「歴史的事実」になりますが)と一致するものではなかったため、その整合性をどのようにとるかということが問題となっていました。

 

6段落~8段落:大航海時代以降の歴史(より広い「世界史」記述の始まりと変化》

6段落)

・大航海時代を経た啓蒙思想の広がりが「世界史」記述の転機となった

・科学的知識や博物学的知識の発展にともない、普遍史の試みが衰退

・啓蒙思想家によるより広いスケールでの「世界史」記述の開始

 :アジア・アフリカを含む諸民族のほか、動植物などの全自然を網羅しようとする

・啓蒙思想家の描く歴史

=「未開」から「文明」への移行を意識した進歩史観的・思弁的歴史としての側面

6段落以降では、大航海時代とその後の啓蒙思想の広がりが、「地域史」や「普遍史」にかわって「世界史」が描かれ始める転機となったことが示されます。地理上の発見のほか、博物学的・科学的見地が蓄積され始めると、聖書の記述と現実世界との矛盾や誤りが多く認識されるようになり、このことが聖書に依拠する「普遍史」を衰退させていきます。

18世紀を中心に活躍した啓蒙思想家たちは、聖書から離れて現実世界を実際に見て、調べることを通して、あらたな世界像を構築しようと試みます。本文中には登場しませんが、百科全書派による「百科全書」編纂の試みなども同じ方向性を持ったものと考えてよいでしょう。こうした中で、彼らは新たに彼らの世界に加わったアジアやアメリカ大陸なども含めた、従来よりも広い「世界」認識のもとに歴史を描こうとしたことが示されます。一方で、啓蒙思想が持っていた楽観的・進歩的世界観、いわば「世界はどんどん<良くなって>いく、<未開>から<文明>へと<進歩>していく」という価値観が根底にあって描かれる歴史であったため、「現実に即している」というよりはやや「頭の中で想像された」(思弁的な)歴史として描かれがちだったことが指摘されます。

 

7段落)

・ランケに始まる近代的な実証主義的歴史学の始まり(19世紀)

・史料と証拠に基づき、厳密に過去の事実を明らかにする姿勢

 =啓蒙思想の進歩史観の否定

・各時代、各地域の個性の価値を訴える

 →各国、各地域の(史料と証拠に基づいた)詳細な歴史学的研究が進む

・さらに、ランケは諸民族の歴史の寄せ集めを超えた「世界史」の記述を目指した

・一方で、ランケの「世界史」はヨーロッパ中心主義的な性格を持っていた

 7段落では、6段落で示された啓蒙思想家の描く進歩史観的で思弁的な「世界史」に対し、19世紀の歴史家ランケが史料に厳密に依拠する実証主義歴史学を始めることが紹介されます。ランケは、史料批判による科学的な歴史学を確立したとされ、「近代歴史学の祖」とも呼ばれる人物です。つまり、ここでは18世紀の啓蒙思想家の描く歴史が、世界の実像を描くと言いつつもどこか自分たちの進歩的世界観に引っ張られがちで、推測や憶測に基づきがちであったことに対して、昔の人が実際に残した史料を証拠として徹底した実証研究を行う近代歴史学の基礎が築かれたことが示されます。

また、啓蒙思想が、様々な事柄を「普遍的」な価値観によって本質的には同じもの、最終的には「進歩」した「文明」へと至るものと考えがちだったことに対して、ランケはそれぞれの地域や国に他とは違う個性が存在し、その個性を明らかにするためにも厳密な史料批判が必要との立場を示したことが述べられます。本文中には述べられていませんが、この「個性」(歴史)を重視する立場は以前ご紹介した19世紀前半のドイツの歴史学派などと共通するものがありますので、あわせておさえておくと内容がつかみやすくなるかと思います。

ランケ自身は厳密な史料批判を通して描き出した各国・各地域の歴史を最終的には「世界史」というつながりやまとまりをもった一つの歴史としてまとめることを思い描いていました。しかし、そうした「世界史」を描いたランケにしても、ヨーロッパ中心主義的な価値観からは逃れることができなかったことが示されます。また、本文中には示されていませんが、ランケは厳密な史料批判を主張しつつ、実際には恣意的に用いる史料を選択したり、特定の史料を偏って用いたりすることで、彼が「描きたかった」歴史を描こうとした傾向があったことなども指摘されています。こうした問題は現代における世界史記述においても起こりうる問題点で、「史料がある」、「証拠がある」から正しいとは必ずしも言えず、「史料・証拠をどう使うか」によって歴史は様々に描かれ得るという点には注意が必要かと思います。いずれにせよ、本文ではランケの創始した近代的な実証主義的歴史にも、限界があったことを指摘しています。

 

8段落)

・マルクス主義による歴史(史的唯物論[唯物史観])…19世紀におけるもう一つの試み

・史的唯物論 = 「生産力と生産関係の矛盾によって歴史が展開する」とする理論

・ランケが否定した、理論的・目的論的な歴史が再び提示される

・マルクス主義的世界史観は20世紀の歴史学に影響を与えた一方、ヨーロッパ中心主義的な性格がぬぐえない「世界史」だった

8段落では、ランケが提唱した実証主義的歴史とは別に、19世紀後半に成立するマルクスによる史的唯物論が紹介されています。史的唯物論では、本文中には紹介されていませんが、政治・法律・文化・思想などの「上部構造」が、経済的な関係(生産様式)である「下部構造」に大きく影響されると考えます。そのため、本文で述べられているように、「生産力と生産関係の矛盾によって歴史が展開する」と考えました。

このような唯物史観では、「Aという生産様式があればBという歴史になる」、「Cという生産様式に代わるとDという歴史にかわる」といったように、歴史はある程度理論的に分析可能な事象ととらえられています。本文では、こうした点を指して「理論的・目的論的な歴史が再び提示され」たと述べているわけです。

また、ランケの実証主義的歴史にせよ、マルクスの史的唯物論にせよ、彼らが生きていた「ヨーロッパ」を中心とする世界観からは脱却しきれなかったということが示されて本文は終わります。

 

【3、先生と高校生二人の会話を整理】

:続いて先生と高校生二人の会話を整理します。本設問の要求となっている空欄の文章は、高校生の一人が「現代において世界史の過去の在り方を学ぶ意義について、自分の考えを述べなさい」というレポートの内容の一部として示されていますので、先生や高校生たちが本文中に示された「世界史の世界史」についてどのようにとらえていたのかを正確につかまなければ適切な答えを用意することができません。彼らの会話・主張の要点をまとめると以下のようになります。

 

(先生)

20世紀後半に、本文中で示されている19世紀までの世界史の試みについての問題点を批判する新しい立場が登場したこと

・西洋中心主義を批判し、グローバル化は決して最近のものではなく、昔から国や地域を超えた動きが存在したという視点から歴史を描こうとするグローバルヒストリーと呼ばれる新しい世界史が見られるようになったこと

・グローバルヒストリーでは、従来の世界史が中心としてきた政治的な動きだけでなく、文化や生活なども含めた様々なテーマを扱い、ダイナミックな世界の動きを描こうと試みていること

・「グローバル」という地理的に広い概念からのアプローチだけでなく、長期的な時間の区分から世界史を考える視点も見られるようになったこと

 

(生徒A

・先生や本文の主張に同意する立場

・キーワードとして「世界の一体化」、「国家の枠を超えた会場ネットワーク」などを示す

・今の新しい世界史ではなく、過去の世界史に目を向ける意味とは?(問題提起)

 

(生徒B[レポートの書き手]

・先生や本文の主張に同意する立場

・「家畜・病原菌が世界の在り方に与えた影響」を指摘

・地球全体の姿を知らない世界において、「世界史」という意識が乏しいことを指摘

 

【4、生徒Bが書いたレポートのテーマをとらえる】

:続いて、先生と生徒の会話をもとに、生徒Bが書いたレポートのテーマが意味するところはどういうことなのかをとらえることが重要となります。

先生と生徒の会話は、基本的には先生が話のまとめ役となっていますので、先生の指摘した内容を確認することが中心となります。重要な点は、先生が本文中には書かれていない、「20世紀後半に登場した新しい世界史」の存在を指摘していることです。

また、生徒Bが書いたレポートのテーマが「現代において世界史の過去の在り方を学ぶ意義について、自分の考えを述べなさい」という内容であることを考えると、本文中に示されている事柄が「世界史の過去の在り方」や「世界史の世界史」であり、先生が指摘した20世紀後半から登場する新しい世界史やグローバルヒストリーが「新しい世界史」であるという分類のもとに、「新しい世界史」登場以前の「世界史の世界史」を学ぶことで、現代における「新しい世界史」にどのような意義をもたらすことができるか、ということが本設問の中心的なテーマとなっていることが分かります。

  

(生徒Bのレポートの導入)

:つづいて、生徒Bがどのような視点でレポートを書いたのかのヒントとして、生徒Bのレポートの導入部を確認する必要があります。生徒Bのレポートの導入部の内容をまとめると以下のようになります。

・従来は各国の歴史年表を横並びにすればよいと思っていた

・本文を読み、世界史はもっと広い視点や多様な描き方が必要と考えるようになった

・過去の世界史の問題点を批判する一方で、現代の世界史とのつながりや過去の世界史の試みに見られた視点を再評価する必要がある

これらは生徒Bが「これからこういう立場でレポートを書くぞ」という意思表明にあたる部分です、基本的には空欄の内容はこれらの視点に基づいて構築する必要があります。

 

【5、空欄の内容を構築し、文章化する】 

・レポートのテーマは「現代において世界史の過去の在り方を学ぶ意義」

:上述の通り、「新しい世界史」登場以前の「世界史の世界史」を学ぶことで、現代における「新しい世界史」にどのような意義をもたらすことができるか、を考える必要があります。

 

・生徒Bの導入にそって論を構築する

:生徒Bの導入には「過去の世界史の問題点を批判することも必要」だけれども「一方で、過去の世界史と現代の世界史とのつながりや過去の世界史の試みに見られた視点を再評価する必要」があると述べられていますので、基本的な論調は以下のようになります。

 

① 過去の歴史(世界史)には〇〇の点で批判されるべきところもあるが、××の点で評価すべき点もある

② 過去の歴史(世界史)の評価すべき××の点を見ることで、新しい世界史に必要な△△のような視点が見えてくる

③ 過去の歴史(世界史)を学ぶことは、新しい世界史をより豊かなものにするのに資する

 

あとは、過去の世界史の「批判されるべきところはどこか」と「評価すべき点はどこか」、新しい世界史の「問題点は何か」、「過去の世界史のどのような点を考えるとより良いものとなるか」などをとらえることが重要となります。その際にヒントとなるのが、生徒Bがレポートの導入で示した「従来は各国の歴史年表を横並びにすればよいと思っていた」、「本文を読み、世界史はもっと広い視点や多様な描き方が必要と考えるようになった」という視点です。つまり、「各国、各地域を別のものとして峻別してしまうこと」は「良くないこと(批判されるべきこと)」、「広い視点」や「多様な描き方」を示すことは「良いこと(新しい世界史の参考になること)」と考えているということですから、過去の世界史からこれらの要素を抜き出し、新しい世界史に不足している点を補うものとして活用するというまとめ方をすればよいわけです。

文章中に示された、過去の世界史の批判すべき点と評価すべき点をまとめると以下のようになるかと思います。


2024_上智_過去の世界史_長所短所

また、本文中には書かれなかった内容であっても、妥当性のある問題点の指摘や評価の仕方であれば、それを用いることは可能かと思います。たとえば、啓蒙思想の世界史や史的唯物論に見られるような、現実の分析を十分に行っていない過度な理論化やモデル化は批判の対象となるべきですが、一方で、近年盛んになってきた「新しい歴史」が、あまりにも多くの事柄を対象としていて全体としてのまとまりに欠けたり、逆に「つながり」や「交流」に焦点を当てるあまり地域社会の独自性が軽視されたりなど、様々な問題点を抱えていることも事実です。こうした「新しい歴史」の問題点に対して、ある一定の「モデル化」や「理論化」を通してまとまりをもたせたり、逆に地域社会の独自性の重要性を指摘するための材料として、過去の歴史の特徴を活用するべきだ、といった議論は成り立ちうると思います。

ただ、「新しい世界史」の問題点と展望というのは、現代の歴史学会でも一つのテーマとなるような難しい議論で、初めてこのテーマに出会う高校生がわずか90分の間に深く考えて独自の見解を示すには少々荷が勝ちすぎる内容かと思いますので、無理に独自の見解を出そうとせず、素直に本文の内容に沿って適切な議論を組み立てられれば十分かと思います。それで十分に評価の対象となる解答を作成できるはずです。

 

【解答例】

過去の人々は自分の認識できる範囲を世界として捉えたため、中華史や普遍史のように、地理的に限定されたり事実と乖離した宗教的・決定論的な面を持つなど、「世界史」としては不十分であった。近代以降、地理的・空間的認識が拡大し「世界」を意識した歴史叙述が始まったものの、ヨーロッパ中心主義の残存、啓蒙思想家やマルクス主義者の歴史の目的論的側面、実証を重視したランケによる地域史統合の挫折など、いくつかの問題は残った。しかし、過去の歴史叙述にも、中華史の地域・民族を超えた文化的枠組みに注目する視点、ヘロドトスなどが示した広域にわたる世界認識、自然全体の包含を目指した啓蒙思想の視点などが見られた。こうした多様な視点を学ぶことは、世界のダイナミズムを描く「新しい世界史」に豊かな視座を提供する一助となると考える。(350字)

 

ちょっといろいろ盛り込みすぎてバランスが悪くなってしまった気もしますが、方向性としてはこんな感じでまとめるのが妥当ではないかと思います。また、やや発展的内容ではありますが、上述の通り「新しい世界史」が抱える問題点を先に指摘し、それを解決するために過去の歴史叙述の視点が役に立つのではないか、という視点・論のたて方はあり得ます。ですが、おそらく高校生がこれを指摘してまとめるのは相当難しいかと思いますので、無難にリード文の主旨に沿って過去の歴史叙述の問題点を指摘し、その上で「新しい世界史」にどのような面で有用な視点があり得るかをひとつふたつ示してやる、というのが落としどころのような気がします。

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ビザンツ帝国については、どうも情報をまとめにくいと感じている人が多いようで、正誤問題などで細かいところが出題されると対応できないというケースもあるようです。ですが、ビザンツ帝国は実はたいして情報量の多い箇所ではありません。

 

ユスティニアヌスだけは別格で、ローマ法大全とトリボニアヌスだの、ヴァンダルや東ゴートの征服だの、養蚕業の導入だの、ハギア=ソフィアの建設だのいろいろありますが、それでも秦の始皇帝や前漢武帝と比べればはるかに覚えやすいはずです。また、ユスティニアヌスについては、その事績とともに時期(6世紀)とホスロー1世との抗争をしっかりおさえておくと、ヨコのつながりの理解に役立ちます。ユスティニアヌスだけはあきらめてしっかり覚えておきましょう。

 

その他については、概ね歴代皇帝ごとにポイントになりそうな部分をまとめてしまえば終わりです。

ビザンツ帝国の歴代皇帝

厳密に言えば、テマ制や屯田兵制が完成を見るのはヘラクレイオスの時ではありませんし、プロノイア制もアレクシオスの時ではありません。ただ、導入の開始時期が「それくらい」であることと、どちらも防衛に深く関連するものであることから7世紀のイスラームの拡大11世紀のセルジューク朝の進出と関連付けるとまとまりが良く、覚えやすいと思います。

 

以上のことをおさえておけば、あとはせいぜいギリシア正教布教とキュリロスとか、ブルガリア帝国とか、第4回十字軍とパラエオロゴス朝あたりが絡んでくるくらいですので、ビザンツ帝国メイン雄の設問には十分対処することができます。

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多分、受験に出る知識ではないのですが、勉強をしっかりしている人ほど気になるみたいで、「先生、何でパリ条約でいきなりスペインがしゃしゃり出てくるんですか?」とか「スペインってブルボン家だからフランス寄りのはずなのに何でミシシッピ以西のルイジアナをフランスからぶんどってるんですか?」などの質問が時々寄せられます。(年に1~2回でしょうか。)

そんなわけで、今回のテーマは「なぜパリ条約(1763年)でミシシッピ以西のルイジアナがスペイン領になるのか」です。ぶっちゃけ、多分受験には出ませんがw(2度言ったw) いやいや、こういう疑問を持つことって大事ですよね。それに、何か気持ち悪いって気持ちも分かります。

一言で言うなら、それは「事前にフランスがスペインに『ルイジアナをあげるね』って約束していたから」です。フランスのショワズール公爵とスペインのグリマルディ侯爵(後に公爵)との間に1762年に結ばれたフォンテーヌブロー条約において、フランスはスペインに対してミシシッピ川流域のルイジアナ全域(ミシシッピ以東も含む)を割譲するという秘密条約を締結します。

なぜ、そんな条約を締結したのかということですが、北米大陸で展開されていたフレンチ=インディアン戦争は主にイギリスとフランスの間の戦争で、スペインは距離を置いていました。ところが、フランスは同じブルボン家であったスペインを同盟国として同戦争にある意味で引きずり込み、1762年にイギリスからの宣戦布告を受けたスペインは同年にこの戦争に参戦します。しかし、ニューファンドランドや西インド諸島での戦いで敗北し、ヨーロッパ大陸でもスペイン東部に敵の侵入を許すなど、敗北が必至の状況に陥ると、フランスはイギリスとの講和を模索します。

ですが、戦局が不利な状況での講和は、フランス・スペインともにイギリスからかなり厳しい条件が提示されることが予想されました。(実際、スペインが当時北米に領有していたフロリダをはじめとするミシシッピ川以東の領土はパリ条約で全てイギリス側に割譲されます。)こうした状況下でスペインに講和を納得させるためのいわば補償として、フランスはスペインに対してルイジアナを割譲することを約束したのです。当時、この約束は交戦国であるイギリス側にはふせられていました。

その後、パリ条約が締結されると、ミシシッピ以東のルイジアナはイギリス側に割譲されることとなりましたが、フォンテーヌブロー条約によりミシシッピ以西のルイジアナ領有が決まっていて大損はこかなかったスペインは、これを黙認します。結果的に、パリ条約以降の北米植民地は、ミシシッピ以東とカナダをイギリスが、ミシシッピ以西をスペインが領有するということで落ち着き、北米植民地からフランス勢力は駆逐されることになりました。
(1763年 パリ条約以前の北米大陸)
1763_パリ条約以前_地名入

(1763年 パリ条約以降の北米大陸)
1763_パリ条約後_地名入
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