世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

各校の過去問対策、受験対策のほか、世界史を理解する上で役に立つ視点や勉強法についての情報を随時更新していきます。
Twitter→https://twitter.com/HISTORY_LINKAD7 フォロー大歓迎です♪

※ 目標に向けて頑張る受験生の皆さんの一助になればと思って頑張って更新し、情報もチェックしておりますが、人間ですのでミスなどが出ることもあります。当サイトの情報をご利用の際はあくまでも自己責任でお願いいたします。

※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw また、大手予備校のHP等からも閲覧できるかと思います。問題全てが手元にあった方がわかりやすいと思います。

ヘッダーイラスト:かるぱっちょ様

【概観】

 今回は、2021年の東京外国語大学の問題解説を進めたいと思います。大問1は、冷戦体制下における核兵器開発をめぐる史料3つ(ニュージーランド、ソ連、アメリカ合衆国)を参考に関連する問題を解くというものでした。小問数は6でしたが、答えるべき箇所は7なので5点×735点で例年と変わりません。また、論述問題が1で、25点というのも変更はありません。文字数は500字以内で、2019年以降の形式を踏襲しています。

 設問の内容についてですが、小問についてはごく基本的な内容です。ある程度世界史をしっかり勉強している受験生であれば十分全問正解できる内容かと思いますので、この35点はしっかりとキープしておきたいところです。論述問題についても内容としては基本的な内容ではあるのですが、特に現役の受験生は現代史、中でも核や環境についての設問は後回しになりがちな分野でもあります。こうした中で、核をめぐる国際関係とがっぷり四つで向き合わねばならない本設問には抵抗感を持つ受験生も少なくなかったのではないでしょうか。また、人によっては核関連の知識が年代別に整理されていないこともあるかもしれませんので、時期が「1960年代半ばまで」と区切られていることも、障害の一つとなったかもしれません。ただ、核関連の知識を完全に放棄してしまったなどがなければ、丁寧に自分の知っている知識を整理していけば、多少の誤りや勘違いがあったとしても得点が入らないということはなかったのではないかと思います。また、東京外国語大学では、2018年の災害史に関する設問中で核を扱った設問が出ていますから、過去問に触れたことのある受験生にとっては全くノータッチで出てくる知識でもなかったと思います。そういう意味でもこの論述問題はごく標準的な設問であったように思います。

 大問2は、歴史学の分野ではよく知られた「長い19世紀」論についての文章を読んで、設問に答えるというものです。小問数は6なので5点×6=30点、これに40字の論述(10点)が加わって計40点。2019年以降のスタイルと同じです。「長い19世紀」論は『創られた伝統』で知られるホブズボームというイギリスの歴史学者が提唱した考え方で、1801年から1900年までという機械的に区切られた19世紀ではその時代の特徴や連続性を十分に説明することができないという考え方から、時代区分についてもそれぞれの実態に即した区分を考えるべきであり、このような考え方に沿えばフランス革命から第一次世界大戦の開始までは一定の連続性と特徴を持った「長い19世紀」ととらえることができるという考え方です。私が大学院生だった頃に専門としていた分野は17世紀末から18世紀のイギリスでしたが、ここでは「長い18世紀」(たとえば、17世紀末の名誉革命の頃から、19世紀に向けての展開までの流れ[ナポレオン支配の終わりとウィーン体制の成立頃まで]を一連の時代ととらえる)という見方がかなり意識されていたように思います。よく、地理的な概念についても「一国史」という機械的に限定された空間で歴史をとらえるのではなく、より広域で、「国家」という概念にとらわれない世界で考えなくてはならない(たとえば、「地中海世界」のような)という話が出てきますが、「長い〇〇世紀」、「短い〇〇世紀」論というのは、その時代区分バージョンだと考えることができます。
 もっとも、本設問においてこの「長い〇〇世紀」論についての知識は不要で、基本的には紹介されているユルゲン=オースタハメルの文章を読めば時代区分を機械的にではなく、その内容に応じて行うべきであるという議論は理解できるはずですし、その見方自体が設問を解く上で必要になるのも設問740字論述のみとなりますので、全体に大きな影響を与えるものではありません。(読み物としては面白いですが。) 大問1、2ともに標準的な問題で、東京外語の問題としてはむしろ、比較的平易な設問と言えるのではないでしょうか。

 

【小問概要と解説】

(大問1-1)

概要:日本の漁船が被爆した水爆実験をアメリカが行った環礁はどこか。

解答:ビキニ環礁

 

:設問では色々とぼかした形で聞いてきていますが、日本の漁船が核実験で被爆したと言えば第五福竜丸事件(1954)のことだということはピンときます。この原因となったアメリカ合衆国の水爆実験(キャッスル作戦のブラボー実験)がビキニ環礁で行われたというのは基本知識です。

 

(大問1-2)

概要:文章の空欄に入る形で( A )・( B )の適語を答える・

( A )のヒント…サハラ / 7年に及ぶフランスからの独立戦争の末、建国

( B )のヒント…フランス大統領 / 独自外交の展開 / ( A )独立に対処

解答:A‐アルジェリア B‐ド=ゴール

 

:空欄の(  A  )が独立したことでサハラにおける核実験ができなくなったとあるので、アルジェリアであると分かります。第二次世界大戦後のフランス植民地の独立については、インドシナ戦争(1946-1954)とアルジェリア戦争(1954-1962)がよく出てきます。東京外語ではありませんが、東大の2012年問題の大論述はこの二つについての知識がないと書けない問題でした。また、フランスの戦後「独自外交」と言えばド=ゴールですね。これも基本知識だと思いますが、第五共和政の開始とド=ゴール政権の成立がアルジェリア戦争と密接に関係していることはよく勉強していないと見落としがちな部分なので注意が必要です。

 

(大問1-3)

概要:1956年のソ連共産党大会で批判された人物は誰か。

解答:スターリン

 

:フルシチョフによるスターリン批判は超重要な基本事項です。また、スターリン批判はその影響が各方面に波及したことでも知られていますので、簡単にではありますが以下にまとめておきます。

 

✤ スターリン批判の影響

・「雪解け」

:ソ連国内での言論抑圧が弱まり、東西冷戦の緩和と平和共存路線の模索へとつながる。

・反ソ暴動の発生(1956

:ポーランドとハンガリーで発生。ポーランドについてはゴムウカが事態を収拾。ハンガリーではソ連の軍事介入を招き、首相のナジ=イムレが処刑された。

・中ソ対立の開始

:平和共存路線をとるフルシチョフに対し、中国が批判的姿勢をとり始める(1962年頃から公開論争の開始)

 

(大問1-4)

概要:1963年に米・ソ・英が締結した調印した核実験をめぐる条約は何か。

解答:部分的核実験禁止条約(PTBT

 

:基本問題。1962年のキューバ危機との関係も含めて受験に際しては必須の知識。

 

(大問1-5)

概要:史料[]の史料中にある「私」とは誰か。

ヒント:史料のタイトルに「アメリカ合衆国大統領からソヴィエト連邦指導部への書簡」とあり、その日付が19621022日とある。また、内容がキューバにおけるミサイル基地配備の問題についてソ連側に適切な対処を求める内容。

解答:ケネディ

 

1962年のキューバ危機が思い浮かべば答えられる基本問題。

 

(大問1-6)

概要:史料[]の史料が出された当時のキューバの首相は誰か。

解答:カストロ

 

1959年のキューバ革命でカストロがバティスタ親米政権を倒したことがキューバとアメリカの緊張激化の原因。カストロはその後キューバの指導者となった。基本問題。

 

(大問2―1)

概要:米西戦争時のアメリカ合衆国大統領は誰か

解答:マッキンリー

 

:砲艦外交で知られる人物です。ハワイの併合や門戸開放宣言などもこの大統領の統治した時期に起こった出来事です。米西戦争はどの大学でも意外なほど出題頻度が高いので、注意が必要です。

 

(大問2-2)

概要:1917年のロシア革命勃発時のロシア皇帝は誰か

解答:ニコライ2

 

:基本問題です。

 

(大問2-3)

概要:インドで「非暴力・不服従」運動を指導した人物は誰か

解答:ガンディー

 

:基本問題です。

 

(大問2-4)

概要:フランス革命後に導入された度量衡法は何か。

解答:メートル法

 

:基本問題です

 

(大問2-5)

概要:1802年にヴェトナムを統一し、皇帝になったのは誰か

解答:阮福暎(嘉隆帝)

 

(大問2-6) 

概要:南京条約(1842)で清がイギリスに割譲した島はどこか

解答:香港島

 

:基本問題です

 

【小論述解説(40字、大問2-7)】

(設問概要)

:内容的に19世紀をとらえた場合に、1842年の南京条約締結を中国近代史の始まり(同時に帝国主義的侵略の始まり)とし、1919年の反帝国主義闘争の始まりを「現代史」ととらえることができるため、中国史については「長い19世紀」は当てはまらない(「短い19世紀」となる)が、同様のことは日本史にも言える。なぜ日本史に「長い19世紀」論が当てはまらないかを述べよ。

(解答)

:日本では1868年の明治維新の開始が近世史の終わりと近代史の始まりととらえられるため。(40字)

 

:あまりなじみのない設問かと思いますが、本文の内容と設問の内容がしっかり確認できれば難しい問題ではありません。ただ、意外に設問の意味が取りづらい可能性はあります。(上記の「設問概要」は設問を要約したもので、実際の設問は下線部⑦「これによれば、内容的に規定される19世紀は1840年代に始まることになる」を受けて、中国史同様、日本史に「長い19世紀」論が当てはまらない理由を述べよというものでした。) 解答については明治維新が日本近代史の始まりであることを示せば十分ですが、「短い19世紀」であることを示す必要がありますので、明治維新の開始時期を明示する必要はあると思います。

 

【大論述解説(500字、大問1-7)】

(設問概要)

・時期:第二次世界大戦中から1960年代半ばまで

・核軍備の増強、反発、均衡の歴史を具体的に説明せよ

・史料[][]と問1~問6の設問文をふまえること

・指定語句(使用箇所には下線)

:原子爆弾 / 北大西洋条約機構 / 放射能汚染 / 原水爆禁止運動 / フルシチョフ / 中華人民共和国

500字以内

 

<史料A:ニュージーランド元首相デービッド=ロンギの回想>

:史料自体は高校世界史では見慣れないものです。また、デービッド=ロンギの名前を聞くこともありません。内容はいたって平易なもので、ニュージーランドのオークランド近郊にいた若き日のロンギが、1962年に米国が遠く太平洋上のジョンストン島で行った核実験の残光を見て、非核への思いを強くした、というものです。また、ロンギは同年にフランスが核実験場をサハラから仏領南太平洋の島に移すことに対する反発についても語っています。

 本史料で注目すべき点としては、以下のような内容があげられます。

 

① 米国の太平洋上における核実験と、それに対する批判

 (特に、問1の第五福竜丸事件とその後の非核運動と絡めること)

② 1962年がキューバ危機の年であり、翌年の部分的核実験禁止条約へとつながること

 (問46や史料[]とも関係している点に注意)

③ 1962年はアルジェリアの独立年であり、仏の核実験場移転の背景となっていること

 (特に問2との関係が深い)

 

 また、解答作成と直接の関係はありませんが、ANZUS(太平洋安全保障条約)に当初加盟していたニュージーランドは、本史料の書き手であるデービッド=ロンギが首相に在任していた頃にニュージーランドの非核化を進めたため、ANZUSから実質的に離脱しています。現在は、オーストラリア・ニュージーランド間の防衛相会合(The Australia-New Zealand Defence Ministers' Meeting [ANZDMM])や、米国・ニュージーランド間の安全保障協力によってその関係の再構築が進んでいますが、ニュージーランドの非核化は継続しています。こうしたことが、本史料が提示されたことに背景にあるのだということを知っておくとより深い読みができるかと思いますが、設問は1960年代半ばまでが対象ですから、ニュージーランドのANZUS離脱までは書く必要はありません。(余談ですが、ANZUSはなぜか日本語では太平洋安全保障条約と訳されますが、正式名称はAustralia, New Zealand, United States Security Treaty[オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ合衆国安全保障条約]です。Aがオーストラリア、NZがニュージーランド、USがアメリカ合衆国ですから、参加国を記憶するのは簡単ですね。)

 

<史料B:サハロフの回想>

:サハロフはソ連の物理学者で、水爆の父とも称される人物です。一方で、後に反核運動に従事し、その平和活動や人権擁護活動が評価されて1975年にノーベル平和賞を受賞しましたが、ソ連内部ではこうしたサハロフの活動は冷ややかな目で受け止められました。ブレジネフの指導下で起こったアフガニスタン侵攻に反対したことから一時流刑とされましたが、ゴルバチョフの指導体制にかわると流刑が解除され、ペレストロイカに協力したため「ペレストロイカの父」とも称された人物です。

本史料はそんなサハロフの回想録で、「原水爆の開発に従事」→「第20回党大会をきっかけとする平和・反核運動への方針転換」→「核実験をめぐる自身の提言と1963年の米ソによるモスクワ協定の締結」という内容になっています。冷戦史や核関連の歴史について基本的知識が備わっていれば、この回想録の内容を理解することは難しいことではありません。ソ連の原爆開発が1949年、水爆開発が1953年ですから、サハロフがこれらの開発に関わっていたことは読み取れますし、1956年の第20回(共産)党大会はフルシチョフがスターリン批判を行い、平和共存を唱えた年です。また、1962年は上述の通りキューバ危機の発生した年であり、翌1963年には米・英・ソの間で部分的核実験禁止条約(PTBT)が締結されますから、資料中の「モスクワ協定」がこれのことを指しているのだろうということもわかるはずです。本史料の大切な部分をまとめると以下のようになります。

 

① ソ連による原水爆開発

② サハロフなど、科学者による反核運動

③ キューバ危機をきっかけとした部分的核実験禁止条約(PTBT)の締結

  PTBTというのは、Partial Test Ban Treatyの略です。(「部分的=Partial」ですね。Partが部分なので分かりやすいです。Testは試験とか実験、Banが禁止、Treatyが条約です。これに対して、1996年の包括的核実験禁止条約は「包括的=Comprehensive」ですので、CTBTとなります。世界史や政経などで出てくる略称は英語の正式名も知っておくと意外に英語なんかで役に立ったりします。

 

<史料C:米大統領からソ連指導部への書簡[19621022]

:本史料は一人称が「私」で、これは問5の内容にもなっていますが、1962年当時の米国大統領なのでケネディです。資料の内容もキューバ危機当時における米国の立場を示すもので、読み取り自体は平易です。本史料は資料の読み取りを要求するために示されたというよりは、これを示すことによって史料としては読み取りにくい史料A・Bの意味や方向性に気付かせるためのものと考えた方がいいでしょう。

 

(解答手順1:核開発と反核運動に関連する歴史を概観)

:核の歴史は教科書や参考書などではぶつ切りで出てくるので、なかなか全体像を把握しにくいのですが、少なくとも一度は何らかの形で全体の流れを知っておく方が良いと思います。おおよその流れは以下のようになります。また、これらの流れは自然に設問の要求する「核軍備の増強、反発、均衡の歴史」にも対応するものとなっています。

 

① 冷戦の拡大と核開発の進展[核軍備の増強の歴史]

:トリニティ実験(1945.7)で原爆の実験に成功したアメリカが広島に続いて長崎にも原爆を投下し(1945.8)、第二次世界大戦は終結しましたが、その後米ソ両大国の対立が先鋭化して冷戦構造が構築されていく中で、ソ連をはじめとする大国が核兵器の開発を進めていきます。各国の核兵器開発に成功した時期は以下の表の通りです。

画像1 - コピー (2)

② 反核平和運動の拡大[核軍備への反発の歴史]

:アメリカに次いでソ連が1949年に原爆の保有宣言を出し、これに対抗したアメリカが水爆製造を開始すると、大国間の核開発・軍拡競争を危惧した人々から反核の声が上がり始めます。1950年にストックホルム(スウェーデン)で開催された平和擁護世界大会は、核兵器の禁止を訴えるいわゆる「ストックホルムアピール」を表明します。その後、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験(キャッスル=ブラボー実験)に巻き込まれて被爆した第五福竜丸事件などもあり、反核運動は勢いを増していきました。広島では1955年に第1回原水爆禁止世界大会が開催されました。また、同年、哲学者のバートランド=ラッセルと物理学者アルベルト=アインシュタインが中心となってラッセル=アインシュタイン宣言が出され、科学者や第一級の知識人により核兵器の廃絶が訴えられました。さらに、1957年にはこれに刺激を受けてカナダでパグウォッシュ会議が開かれ、日本からも湯川秀樹や朝永振一郎らが参加して核兵器の使用に反対しました。

 

③ 核軍縮の進展[核軍備の均衡の歴史]

:多くの人が危惧していた核戦争の危険は、1960年代に入ってにわかに現実味を帯びてきます。1950年代半ば以降、フルシチョフの平和共存提唱から次第に関係が改善され、1959年にはフルシチョフの訪米が実現したものの、翌1960年に発生したU2型機撃墜事件(アメリカの偵察機U2型機が撃墜された事件)をきっかけに米ソ関係が緊張し、1961年のベルリンの壁構築、1962年のキューバ危機などを通して米ソ関係、東西関係は緊張の度を一気に増すこととなりました。なかでもキューバ危機において明らかになったキューバでの長距離ミサイル基地建設は、その射程にアメリカ東海岸が入ることが明白なことから当時の合衆国大統領ケネディにとっては看過し得ない事態でした。史料Cを見ると、当時のケネディの緊張感が伝わってくるのではないかと思います。このキューバ危機において、米ソ両国は核戦争の危機に直面したのですが、最終的には米ソ首脳の歩み寄りによって事態は収束へと向かっていきます。しかし、一歩間違えれば世界を巻き込む核戦争に突入しかねない状況にあることを再認識した両国は、首脳同士の直接対話回線(ホットライン)の設置に合意し、さらに核開発競争に一定の歯止めをかけるために1963年には部分的核実験禁止条約(PTBT)の締結にこぎつけました。これにより、条約に調印した米・ソ・英は地下以外(宇宙空間・大気圏・水中)での核実験を停止することとなりました。

一方、まだ十分に核実験を行えていなかったフランスや中国(上の表を参照)はこれに反発し、同条約への参加を見送ります。しかし、その後フランス、中国が水爆実験に成功すると、今度は米・英・仏・ソ・中以外の国が核兵器を持つことが懸念され始めました。こうした中、核の無秩序な拡大を嫌った核保有国は、核拡散防止条約(NPT)を締結し、核保有国(米・英・仏・ソ・中)以外の国が核兵器を持つことを禁止しました。


画像2 - コピー (2)
画像3 - コピー
Wikipedia「核拡散防止条約」より、投稿者Allstar86CC表示‐継承3.0

 

ですが、本設問では「1960年代半ばまで」となっておりますので、NPTについては解答に盛り込む必要はありません。(NPTの最初の調印は1968年ですが、「1960年代の半ば」といった場合、1965年頃までとなるはずで、1968年まで行ってしまうとさすがに「1960年代後半」になるかと思います。) ただ、設問要求にある「核軍備の均衡」ということを考えた場合、NPTまであった方がバランスはいいんだよな~、という気はします。(PTBTだと仏・中不参加で全然均衡してないじゃないか、となりますしね。) 核の不拡散については国連で採択されるのは1963年ですので、書いてあっても減点はされないかなぁという気もしますが、設問の設定時期は明確に「1960年代半ばまで」となっていますので、多少バランスの悪さを感じつつもPTBTで止めておくのが正解かと思います。

 

(解答手順2:指定語句の分析)

:問題概要でも書いた通り、指定語句は「原子爆弾」、「北大西洋条約機構」、「放射能汚染」、「原水爆禁止運動」、「フルシチョフ」、「中華人民共和国」です。解答手順1で示した流れのどの部分でも使える用語が多いですが、原爆については核開発の最初の部分で、北大西洋条約機構(NATO)については冷戦構造の形成の中で使うのが良いかと思います。また、「放射能汚染」や「原水爆禁止運動」については第五福竜丸事件などに絡めつつ反核平和運動の拡大の流れの中で述べれば良いですし、「フルシチョフ」についてはキューバ危機周辺の米ソ関係の中で使用すればOKです。問題は「中華人民共和国」ですが、定番の使い方はPTBT(部分的核実験禁止条約)への反対と不参加について述べることかと思いますが、書き方によっては中ソ間の技術協力とその後の関係破棄(中ソ技術協定の破棄)や、フランスや中国が核開発に成功したことによる核拡散への危惧について述べるというやり方もアリかなと思います。

 

(解答手順3:史料の分析)

:史料の分析についてはすでに上記の問題概要のところであげていますが、手順としては軽く史料の内容を確認したら、まずは「核関連史の概要把握」、そして「指定語句の確認」、最後に資料をより深く読解して、全体の中でどのように位置づけるかを検討するとバランス良く書き進めることができるように思います。

 

(解答例)

米国が第二次世界大戦中に広島と長崎に原子爆弾を投下すると、ソ連も続いて原爆を開発した。また、ソ連や東欧など共産圏の広がりを危惧した西側資本主義諸国が北大西洋条約機構を組織し、冷戦構造が作られたことは、核戦争や放射能汚染の拡大を危ぶむ人々に深い不安を与え、平和擁護世界大会でストックホルムアピールが表明されるなど、反核運動が強まった。さらに、米国がビキニ環礁で行った水爆実験により第五福竜丸事件が起こると、広島の原水爆禁止世界大会、ラッセル=アインシュタイン宣言に刺激を受けたパグウォッシュ会議など、原水爆禁止運動は勢いを増した。ソ連のフルシチョフによるスターリン批判と平和共存提唱により、一時は関係改善に向かった米ソであったが、1962年のキューバ危機で核戦争の危機に直面した。米大統領ケネディとフルシチョフは危機を回避したが、核の扱いに脅威を覚えた両首脳は、ソ連のサハロフの提言もあり、英国も巻き込んで部分的核実験禁止条約を締結して地下以外の核実験を禁止し、核兵器の制御を試みた。また、核の不拡散も目指したが、依然として原水爆開発を進めていたフランスや中華人民共和国は反発し、同条約への不参加を表明した。(500字)

 

書き方は色々あろうかと思いますが、基本は設問の要求通り、核軍備の「増強、反発、均衡」というフェーズにそってまとめていき、それに具体例を示しながら肉付けしてくことになります。(増強→米ソの原水爆開発と保有、キューバ危機など、反発→ストックホルムアピール、原水爆禁止世界大会、ラッセル=アインシュタイン宣言、パグウォッシュ会議など、均衡→部分的核実験禁止条約) 史料については、無理に解答の中に盛り込まなくても良いですが、使えるものがあれば書き入れても良いかもしれません。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 今回は、学習院大学文学部の第5問(200字論述×2)の分析をしてみたいと思います。同大学の論述分析をしてみようと思い立った理由ですが、「①傾向がかなりはっきりしている」、「②100点満点中30点と全体の中でかなりの比重を占めている」、「③2016年以降は試験時間が90分となっており、解き方次第ではしっかり論述に取り組むことができる」などがあげられます。

 学習院大学文学部の第5問は、毎年テーマA・Bの論述問題となっており、各200字が割り当てられています。内容的にはごく基本的なものですが、同大の傾向としてやや社会史的なテーマや国際関係史が好んで出題されますので、用語集頼みで用語のみ覚えていて、それぞれの事象のつながり、全体のストーリーをよく把握していないという受験生はやや苦戦するかもしれません。(例:唐から宋にかけての社会経済上の変化について / 11世紀末から13世紀末までにおけるヨーロッパ世界の拡大について) また、各テーマごとに3つのキーワードが与えられていますので、ややテーマに偏りがあることを除けば、200字前後の論述問題の練習問題としては適している内容かと思います。各年度のテーマA・Bとキーワードの一覧は以下の通りです。

学習院大学論述テーマ一覧 - コピー

 さて、全体の傾向ですが、Aの方ではほぼ中国史、Bの方ではヨーロッパ史が出題されます。どちらも王道のテーマが出題されており、特に奇をてらった出題などはされていません。その分、地力が試される問題であるといえるでしょう。Aのテーマ過去14年分(2009年~2022年)を『詳説世界史研究』の単元別に分類したものが以下の表とグラフになります。分類に際しては、出題の意図に沿って適していると考えた単元に分類しました。(たとえば、2018年Aの「唐から宋にかけての社会経済上の変化について」は「内陸アジア世界・東アジア世界の形成(唐末期)」という単元でも少し触れられる内容ではありますが、明らかに要求されている内容が「内陸アジア世界・東アジア世界の展開(宋代)」の方で語られる内容になりますので、後者でのみカウントしています。ただし、2022年Aの「魏晋南北朝時代から宋代に至るまでの官吏登用制度の変遷」だけは複数の時代にまたがっていることから、「内陸アジア世界・東アジア世界の形成」と「内陸アジア世界・東アジア世界の展開」の両方でカウントしました。(そのため、合計が15となっています。) ですが、ほとんどの年度ではどこか1か所のテーマに分類できましたので、複数のテーマが絡んだ複雑な出題は基本的にされていないことが分かります。

テーマ分析表 - コピー

(各テーマの分類表[2009-2022]

学習院大学文学部テーマA分布 - コピー

(テーマAの分類グラフ[2009-2022]

ご覧のように、基本中国史なので、イスラームなどの出題もありません。(これは、今後もないことを保障するものではなく、過去14年については出題されていないと言っているだけです。) もう少しわかりやすく、中国のいつ頃の時代がテーマとなっているかを整理し直したのが以下の円グラフになります。

学習院大学文学部テーマA円グラフ - コピー

上述したテーマ一覧と合わせてご覧いただけると良くお分かりになるかと思いますが、中国古代史と宋代に関係した出題が多く、半分以上はこれらをテーマとして出題されています。対して、明・清と近現代は全体の2割程度にすぎませんので、論述問題に限って言うのであれば、もし「ヤマをはりたい」、「コスパを重視したい」のであれば宋代までの中国史を重点的に勉強することになるでしょう。(これは、「ヤマをはれ」と言っているのではなく、もし時間がない・余裕がないので、論述について偏った対策の仕方をしたいというのであれば、ということです。)

 一方、テーマBのヨーロッパ史についてはもう少し分野・テーマに広がりがあるように思われます。以下はBのテーマ過去14年分(2009年~2022年)を『詳説世界史研究』の単元別に分類したグラフです。

学習院大学文学部テーマB分析 - コピー

 多少、テーマAの中国史よりは散らばりがあるとはいえ、それでもかなりの部分が「オリエントと地中海世界」ならびに「ヨーロッパ世界の形成と発展」に集中しています。中でも、「オリエントと地中海世界」から出題されたのは4回中ギリシア史が2回(2012年、2021年)、ローマ史が2回(2017年、2019年)と、古代ヨーロッパ史の王道というべき内容が出題されています。一方、「ヨーロッパ世界の形成と発展」については2015年に出題されたイギリス議会制度の発展を除けば、「西欧の拡大」、「封建社会の衰退」、「中世都市における市民と権力」というように、どちらかと言えば社会経済史にかかわる出題がされています。全体に傾向がはっきりしていますが、教授陣の入れ替えなどによって専門分野ががらりと変わったりした場合には出題傾向が変わり可能性も否定できませんので、そのあたりには注意が必要かと思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2022年の一橋大学の設問は、非常に難しい読み取りを必要とする設問と、ごく基本的な設問が入り混じったものでした。特に、大問Ⅰの神聖ローマ帝国のイタリア政策と大学の自治の関係を材料に、当時の北イタリア周辺の文化的・政治的状況を問う設問は非常に難しい問題でしたので、これに時間を取られてしまうと全体が総崩れになってしまう恐れがあったのではないかと思います。一方で、大問2のニューディール政策とその後の経済政策を問う問題は、一部高校受験生には厳しい内容を含んでいたものの、全体としては標準的な内容のものでしたし、大問Ⅲの19世紀後半における朝鮮・清・日本の関係を問う問題は一橋受験者にとっては基本問題と言える内容でした。もしこれらの問題に出くわしたときの戦略としては、やはり大問Ⅱと大問Ⅲをしっかりとした形で解き、ある程度の点数を確保した上で大問Ⅰにじっくりと取り組むという流れになるのではないでしょうか。実際に問題にあたる時には、時間配分をどうするか、まずは全ての問題の内容を確認して、どの問題から片づけるか優先順位をつけておく必要があると思います。個人的には、この年の問題は大問Ⅰという非常に「一橋らしい」問題が出てくれたおかげで、解いていて楽しいと思えるものではありましたw

 

2022 一橋Ⅰ

 

【1、設問確認】

・神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が発した勅法(ハビタ)が発せられた文化的・政治的状況を説明せよ。

・指定語句:ボローニャ大学 / 自治都市 (使用箇所に下線を付す)

400字以内。

 

【2、史料の確認】

:本設問で要求されているのは紹介されている勅法(ハビタ)が発せられた文化的・政治的状況ですので、その肝心のハビタの内容を吟味する必要があります。通常であれば、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世はイタリア政策を展開したシュタウフェン朝の皇帝として知られますので、北イタリア諸都市が結成したロンバルディア同盟との戦い(ex.レニャーノの戦い[1176])や、ゲルフ(教皇党)とギベリン(皇帝党)の抗争などが頭に浮かぶところです。ところが、本ハビタを読み進めていくと、なかなか一筋縄ではいかないことが分かってきます。そこで、まずはしっかりとこの勅法と向き合うことが大切です。本設問で紹介されている勅法の論旨・ポイントは以下のようなものになります。

 

(勅法の根拠)

・本勅法は皇帝フリードリヒ(1世)が司教・修道院長・諸侯・裁判官・宮宰などの助言に基づいて出されたものである。

(目的)

・学識によって人々を啓発し、神と皇帝(神の下僕)に恭順させ、教導する「善を行う者たち(学生や教師)」をすべての不正から保護する。

(背景)

・学生たちは、異邦人扱いされ、財産や生命に危害が加えられることがある。

(内容)

① 学問を修める学生および市民法の教師たちとその使者に対して、学問を習得する場所におもむき、滞在するにあたっての安全を保障する。

② 学生たちに不正を働き、学生たちの同国人の債務のために損害を与えることを禁ずる。

③ この法に違反したものは、損害を補填しない限り、その都市の長官に(損害の)四倍の賠償金を払い、特別な判決なしに当然にその身分を失う。

④ 学生たちを訴追したい者は、皇帝から裁判権を与えられた学生たちの師または博士や都市の司教に訴え出る必要があり、その他の裁判官に訴え出た場合には訴因が正当でも敗訴する結果となる。

 

さて、この史料から読み取れることは何かということですが、以下のようなことが重要であると思われます。

 

A:当時の北イタリアに対して神聖ローマ皇帝が勅法を出したということ。

B:その法的根拠は、「市民法」や「都市・大学に対する皇帝からの特許」に求められたと考えられること。

C:「市民法」を教える教師たちやそれを学ぶ学生は、「善を行うもの」であり「臣民を教え導く」ものであり、皇帝の権威を高めるのに有用であると考えられていたこと。また、そのため皇帝は彼らを保護すべき対象と考えていたこと。

D:一方で、旅をし、北イタリアにやってきた異邦人の学生たちが一部の人々から身体や財産に危害を加えられていたこと。

E:皇帝は、学生の裁判にあたって、大学の教師または都市の司教が行うのが妥当であり、他の権力が介入することを良しとしなかったこと。

 

【3、高校世界史で学習する当時の状況と、史料読解】

:さて、【2】では本史料から直接的に読み取れることをご紹介しましたが、これを「読み解く」には当時の政治・経済・社会についての知識が必要となります。そこで、まずは高校世界史で学習する、当時の神聖ローマ皇帝とイタリアとの関係を中心に、当時の状況をまとめてみたいと思います。途中、所々で補足説明を加えていきますが、引用が示されている箇所は、基本的には本設問の勅法の引用元である勝田有恒「最古の大学特許状 Authenticum Habita」『一橋論叢』第69号第1巻、1973年の中に示された内容です。勝田論文はWebで検索すると普通に読めます。そう長いものではないので、一度お読みになっても良いかと思います。)

 

① 神聖ローマ皇帝とローマ教皇との勢力争い(イタリア政策)

:本勅令が出されたのは1158年のことです。当時は、カノッサの屈辱(1077)、クレルモン公会議の開催(1095)と第1回十字軍の成功(10961099)、ヴォルムス協約(1122)などが終わった後であり、それ以前と比べて教皇の権威が高まりつつあった時期でした。一方で、教皇権は当時絶対的なものではなく、新たに神聖ローマ皇帝となったばかりのフリードリヒ1世(皇帝位:11551190)はドイツ諸侯やイタリア諸都市に対する支配権をめぐって教皇派(ゲルフ)と対立を繰り広げていました。フリードリヒ1世即位前後の歴史については、2017年版『詳説世界史研究』(山川出版社)で、旧版と比べて大幅な加筆修正が加えられましたので、そちらをお読みになると内容がよくつかめるのではないかと思います(同書、pp.185-186)。

 さて、こうした教皇派(教皇党、ゲルフ)と皇帝派(皇帝党、ギベリン)の争いの中、1154年に教皇となったハドリアヌス4世は、たびたび教皇は皇帝よりも上位の存在であることを主張したため、1157年に両者の対立が決定的となり、1158年にフリードリヒはイタリアに侵攻して北部を支配下におきました。本設問の勅法はまさにこの時期に出されたものですので、本史料の読み取りは皇帝フリードリヒがイタリア北部に対する皇帝の支配権を確立しようとしたという文脈の中で読み取る必要があります。

 また、必ずしも本設問で盛り込む必要はないのですが、ゲルフとギベリンの別は都市の内部にも存在しました。つまり、ある都市が基本的にはゲルフに与する都市で、それが多数派であったとしても、同じ都市の中に少数派としてのギベリンが存在する、というケースは存在しましたし、その逆のケースも当然あったと思われます。一般的には、貴族は皇帝派が多く、都市市民は教皇派が多かったとされますが、必ずしも一様ではなく、だれがどの派閥に属するかはケースバイケースだったと思われます。

さて、そうしますとボローニャ大学の学生たちが市民から危害を加えられていたのは、単純に異邦人に対する反感や嫌悪、または学生たちの横暴なふるまい(史料から、借金を踏み倒して帰国した学生がいたと推察されます)が原因の可能性もありますが、一方で皇帝の権威を高める「市民法」を学ぶ学生を、都市内部のゲルフ(教皇党)的な心情を持つ一部市民が嫌って危害を加えたという可能性もあるわけです。(当時のボローニャにおいて、都市または大学が全体としてゲルフであったかギベリンであったかは、高校受験生には判断しようもない情報なので、ここではそれについては考えません。あくまでも本設問の史料からのみ考え得る可能性であって、実態がどうだったかということはここではおいておきます。) 本史料はそれほど長いものではないのですが、当時の状況についての基本的な知識を合わせて読むことで、色々と当時の大学や都市、学生と市民の関係に想像をめぐらせることができます。

② 中世における大学の形成

:カロリング朝期以降、修道士や司祭といった聖職者は修道院や大聖堂付近の付属施設で学問を学び、これがしだいに発展していきます。こうした中、11世紀末頃に北イタリアのボローニャに最古とされる大学が成立し、その後同様の大学がヨーロッパ各地に広がっていきます。特に、12世紀を中心に最初期の大学が設立されていったことから、こうした動きは当時の12世紀ルネサンスの一部としても考えられています。

 中世に成立した大学と主な特徴は以下の通りです。

ヨーロッパ中世大学 - コピー
(赤は12世紀までにできた大学)


中世大学一覧 - コピー (2)

さて、本史料はロンカリア(現在のピアチェンツァ郊外)で出されたものです。ロンカリアという地名は高校世界史では出てきませんので、受験生にはなじみがありませんが、本ハビタを出したのが神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世であること、出されたのが12世紀半ばであること、ロンカリアが北イタリアであること、「市民法」を教える大学が対象となっていることなどから考えて、ここで保護されようとしている学生と教師は、ボローニャの大学に所属している人々を指しているということが推測できます。ま、何より指定語句に「ボローニャ大学」がありますので、当時の大学をめぐる状況の説明は「文化的状況」の一要素として必須です。

③ 当時の都市や大学における「自治」

:中世の都市がその経済力を背景として周辺の封建領主(皇帝・国王・司教・諸侯など)に自治権を請願し、特許状を得て自治都市となり、都市の役人の選出や司法などについて一定の権利を得たのと同様に、11世紀頃から各地で発展した大学も一定の自治を許されるようになりました。教師と学生からなるギルド(ウニウェルシタス[Universityの語源])が形成されますが、実はこのウニウェルシタスの存在を初めて公認したとされるのが本設問のフリードリヒ1世によるハビタだったりします。『詳説世界史研究』(2017年版)では、「大学の男性は都市の世俗裁判ではなく、教会裁判に服しており、大学は特権を得て自治団体となり、各都市と摩擦を起こすこととなった。(p.190)」とありますが、本史料を見る限りでは、大学に所属するものが世俗裁判権と教会裁判権のどちらに服するかはまだ判然としていないように見えます。

そもそも、本ハビタは皇帝が皇帝の支配権を強めるため、「市民法」を学ぶ教師・学生を守る、という内容ですので、教会法の権威をあまり前面に出す意図はなかったように思われます。ここで言う「市民法」とは、実はユスティニアヌスがまとめたとされる『ローマ法大全』のことです。「ローマ法」は皇帝の権威によってまとめられた普通法で、これは東ローマ帝国だけではなく、西ヨーロッパでも教会法(カノン法)やレーエン(封建法)などと混じりあいながら、主にヨーロッパの「大陸側」の法制度の基礎となり、いわゆる「大陸法」を形づくっていきます。対して、イングランドなどでは慣習や判例を軸としたコモン=ローが形成されていき、いわゆる英米法のもととなっていきます。(昔に法学部在学中にどちらかというと法制史や法哲学に興味があったのでたまたまとった講義でめっちゃ聞かされました。大木雅夫『比較法講義』東京大学出版会、1992年あたりを参考にしています。)

何が言いたいかと言いますと、皇帝フリードリヒ1世が本ハビタで「市民法」の大切さを示し、「朕が裁判権を与えた」と皇帝の名のもとに教師に対して裁判権を付与している以上、本ハビタは教会法の権威を高めるよりは、むしろ皇帝の権威を高める意図で出されていると解釈する方が妥当だと考えられます。

このあたりについて、勝田論文では以下のように注が付されています。

 

 この部分は大学団に対する裁判権の賦与を意味するものではないが、教師に対して裁判権が与えられたことは、重要であり、古くユスチニアヌスがベリトスの法学教師に裁判権を委託したことを想起させる。

 学生による司教、教師いずれかの選択は大学における裁判権の法理について、その後の非常に興味深い展開をもたらすことになる。学生が司教と教師以外に、都市の長官ポデスタを選ぶことは禁止されていない。さらに13-14世紀に、学生組合の学頭 rector の力が増大すると、学頭が裁判官に選ばれることになる。このように、学生は、特許状による司教と教師、普通法上のポデスタと学頭、都合4つの選択可能性をもつことになる。裁判官の順位については、何も規定されていないが、実際上は司教が最上位にあり、判決執行はポデスタの助力を必要とした。(勝田、p.49

 

このように、学生がどのような法理によって守られるかについてはいくつかの選択肢が用意されていたと解されるようです。

 また、本ハビタの根拠となったロンカリアの帝国議会は高校世界史には出てきませんが、一般に、フリードリヒ1世がイタリア諸都市に対して支配権を強化しようとしたものとみられています。(以下、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より、ロンカリア帝国議会の項目より引用。)

 

最も有名なのは 1158 11月フリードリヒ1 (赤髯王) が招集したもので,イタリアとドイツの諸侯,司教,コムーネの参事会員,ボローニャの法学者が集り,「レガリア憲章」 Costitutio de regalibusが制定された。イタリア諸都市に対する皇帝の支配権を確定しようとしたもので,コムーネの行政支配の権限および財政上の諸権限が皇帝に属すことが宣言された。

 

ゆえに、フリードリヒ1世の出した本ハビタは、皇帝の支配権を強調する意図で出されたと解釈すべきかと思います。ただ、大学における複数の裁判権は、大学に所属している教師・学生が叙任の有無にかかわらず聖職者であると当時認識されていたことから、基本的には教会法が優越する形でまとめられていき、世俗法が介入する余地は限られていたようです。これについて、勝田論文は以下のように注を付しています。

 

教師の裁判権は元来強力なものではなく、早くも12世紀末には、刑事裁判権を学生に対して行使し得なくなり、…(中略)…民事事件のみがこの特許状[本ハビタ]での対象であるとした。…(中略)…聖職者の学生が、世俗裁判権を選択し得たであろうか、ローマ法の規定によれば可能であったが、教会法額の発展によって、聖職者個人に与えられた恩恵を放棄することは許されるが、一般性をもつ特権を放棄し得ないという立論がなされ、世俗裁判官を選ぶことは、教皇が皇帝裁判に服することを意味するとして、全面的に否定され、さらにフリードリッヒ2世が、聖職者を世俗裁判権からの免除特権をもつという勅法を出すに及んで、議論の余地はなくなった。反教皇主義者といわれるチヌスでさえ、聖職者の特権的地位に反論しえなかった。(勝田、p.49.

 

④ <発展> 外国人に対する迫害とnatio(国民団)の形成

:これは通常、高校世界史では登場しないのですが、当時の大学には、外国から学問を学びに来た学生が出身地ごとにまとまって形成し、相互扶助を行うnatioと呼ばれるグループを形成していました。マンガ『チェーザレ 破壊の創造者』(惣領冬実)を読むと、フィレンツェ出身のフィオレンティーナ、スペイン出身者のスペイン団などが登場しますので、当時の雰囲気を感じ取ることができます。もっとも、当時は「同郷の出身者」くらいのイメージでいわゆる近代的な意味を持つ「国民」という意識は持っていなかったと考えられますので、国民団という言葉は必ずしも適切ではないかもしれません。(ここらへん、専門ではないので用語については詳しくないので、ご勘弁ください。) そして、これらの国民団が選出した代表者が運営するウニウェルシタス[大学団]が形成されていきます。勝田によれば、当時外国人は法的にかなり不利な立場に置かれており、市民との間に軋轢が生じると危害を加えられたり、不当な訴えを出されたりすることがあったそうです。(身体的な危害、侮辱、騒音や悪臭をめぐる軋轢、他の学生が残した借金返済が同郷の学生に迫られるなど。[勝田、p.48ほか]

 

【4、高校世界史で学習する範囲で、本史料から読み解くべきもの】

:さて、これまで本史料に関連する事柄について確認してきましたが、当然のことながらこれらを高校受験生のレベルで把握し、かつ同様のレベルで深く読み解けというのは無理な話です。ですが、一方で高校世界史のレベルできちんとおさえておくべき内容や、頑張ればおさえられるかもしれない内容はあります。そこで、これまでお話してきたことをもとに、高校世界史のレベルでおさえておくべき内容は何か、設問の要求する文化的状況と政治的状況、そして史料読解に分けてまとめてみたいと思います。

 

(文化的状況)

① 11世紀頃からヨーロッパの各地に大学が形成されていったこと

② 大学では、教師や学生によって運営される一種のギルド(ウニウェルシタス)が形成されたこと

③ ウニウェルシタスや大学が一定の自治権を有するようになっていったこと

④ 大学の形成の背景に、当時「12世紀ルネサンス」と呼ばれた一連の知の革新運動が存在したこと

⑤ 「12世紀ルネサンス」が、イスラーム世界との交流によるアラビア語文献のラテン語訳流入などによる刺激を受けていたこと

(政治的状況)

① 北イタリア諸都市が東方貿易などによって得た経済力を背景に自治権を得て、コムーネを形成していったこと

② 11世紀後半から、神聖ローマ皇帝とローマ教皇との間の叙任権闘争が激化していたこと(1077、カノッサの屈辱 / 1122、ヴォルムス協約)

③ 第1回十字軍の成功以降、ローマ教皇の権威が高まってきていたこと

④ シュタウフェン朝の皇帝フリードリヒ1世がイタリア政策を展開していたこと

⑤ 北イタリア諸都市はゲルフ(教皇党)とギベリン(皇帝党)に分かれて対立していたこと

⑥ ゲルフの中心であったミラノが、ロンバルディア同盟を結成し、レニャーノの戦い(1176)でフリードリヒ1世を破ったこと

  ただし、本設問は「この勅法(フリードリヒ1世が1158年に出したハビタ)」が発せられた状況を問うものであるので、⑥のレニャーノの戦いを直接用いることはできない。

(史料読解)

① 本ハビタは皇帝が北イタリア諸都市への支配権を強化する意図で出されたものであるということ

② 本ハビタは「市民法」を教える教師、学ぶ学生を皇帝の権威を高める「善なるもの」としてその保護を命じているということ

③ 都市または大学内部において、異邦人の教師・学生と市民の間に対立が生じていたということ

④ 教師や学生を迫害から守るために、学生についての裁判権を大学に所属する教師や博士に与えていること

 

上記の内容については高校世界史の学習内容で十分に確認できるものですので、あとはこれをもとに解答をまとめていくことになります。

 

【解答例】

11世紀ごろ、東方貿易による繁栄を背景に北イタリア諸都市は封建領主から自治権を獲得しコムーネと呼ばれる自治都市に成長した。また、学生と教師の自治組織から発展した大学では、イスラームからの文化的刺激を受け、12世紀ルネサンスと呼ばれる革新運動が起こっていた。同時期、叙任権闘争はヴォルムス協約で妥協したものの、十字軍成功以降、その権威を高めるローマ教皇と、イタリア支配をもくろむ神聖ローマ皇帝との対立は続き、北イタリア諸都市は教皇派のゲルフと皇帝派のギベリンに分かれていた。新たに皇帝となったシュタウフェン家のフリードリヒ1世は、イタリア政策を展開する中で、ローマ法を学ぶボローニャ大学の学生が異邦人であることを理由に市民から危害を加えられていたことに介入し、ローマ法を学ぶ学生を讃え、大学の教師に皇帝の名のもとに裁判権を付与することで、皇帝の権威を高め、北イタリア諸都市に対する支配権を拡大しようとした。(400字)

 

 

2022 一橋Ⅱ

 

【1、設問確認】

・史料として引用されているバイデン演説が念頭に置いている、「米国雇用計画」に比肩しうるような20世紀の経済政策の内容について論ぜよ。

・同経済政策が実施された背景について論ぜよ。

・同経済政策のそれ以降の経済政策への影響を説明せよ。

・同経済政策とその影響が、後に強く批判されるようになった理由を説明せよ。

400字以内。

 

:少々回りくどい設問です。いずれにしても、まずこの「バイデン演説が念頭に置いている経済政策とは何か」ということを確定させる必要があります。もっとも、これは何となく「ニューディール政策のことかな」と思いつく人もかなりいらっしゃるかと思いますので、問題を解く上ではそう難しいことはないのですが、確実に「ニューディール政策だ!」と言い切るためにはいささか面倒な確認が必要となります。

 まず、バイデン演説は「米国雇用計画」は「第2次世界大戦以来最大の雇用計画だ」と言っておりますので、これに「比肩しうるような20世紀の経済政策」は当然のことながら戦前に展開された経済政策でなければなりません。また、「米国雇用計画」の内容が「①交通インフラを更新し、近代化し、建設するための雇用を生み出し」、「②何百万人もの人々が仕事やキャリアに戻れるよう支援するもの」であるという以上、これに「比肩する経済政策」も同様の内容を持っている必要があります。この条件に当てはまるのはやはりニューディール政策ですので、「何となくカンで」ニューディール政策かなとおもっていたものが、文章をしっかり読むことによって確実なものとなってくると思います。何となくカンで済ませていると、解いている間ずっと、何となくモヤモヤしたものがのこるので、できればはっきりとさせてから設問に取り組みたいところです。

 さて、そうすると本設問は、ニューディール政策の「①内容」、「②実施された背景」、「③ニューディール政策以降の経済政策への影響」、「④ニューディール政策以降の経済政策が後に批判された理由」、の4点を問うものです。①と②についてはごく基本的な問題ですので、ここでの取りこぼしは避けたいですね。一方、③と④についてはやや丁寧に解き進める必要が出てきます。

 

【2、ニューディール政策の内容】

:ニューディール政策の主な内容は以下になります。(ワグナー法などを含めても良いと思います。また、『詳説世界史研究』などには銀行の連鎖倒産を防ぐための緊急銀行法[銀行の一時閉鎖を命じる]や、銀行再建のための復興金融公社の設立などについても言及がありますが、本設問ではそこまで書かなくても、ごく基本的な内容の確認で十分かと思います。)

 

① フランクリン=ローズヴェルト大統領(民主党)の下で実施

② 救済(relief)、回復(recovery)、改革(reform)の3Rを掲げる

③ 国家が積極的に経済活動に介入し、公共事業の増大などで雇用の創出と経済の回復を目指す(自由放任主義からの方針転換)

④ 世界経済よりもアメリカ合衆国の国内経済を優先する

⑤ 農業調整法(AAAAgricultural Adjustment Act

⑥ 全国産業復興法(NIRANational Industrial Recovery Act

⑦ テネシー川流域開発公社(TVATennessee Valley Authority

 

  よく、ケインズの修正資本主義の影響などが言われることがありますが、フランクリン=ローズヴェルト自身はニューディール政策の実施に当たってケインズの影響があったことについては否定的だそうです。また、ケインズの理論が広く知られることになる『雇用、利子および貨幣の一般理論』の発表は1936年で、ニューディール実施よりも後のことです。

 

基本的には上に書いたものが主な内容になりますが、具体的な政策については、それぞれがどのような目的で出されたかをおさえておくことが大切です。まず、ニューディールが始められるきっかけとなった世界恐慌ですが、その根本的な原因の一つに農産物・工業製品の生産過剰と、それにともなう価格下落による農家・企業業績の悪化、そして農民・労働者の貧困化がありました。そこで、AAANIRAでは生産制限による農産物価格の引き上げや、産業の国家統制を行うことにより、生産の立て直しと国内市場の活性化、そして雇用の増大を目指しました。また、TVAでは、テネシー川流域の総合開発を公共事業によって進めることで、より直接的に失業者救済が進められました。また、NIRAでは労働者の保護や待遇の改善も盛り込まれましたが、AAANIRAの生産制限や産業統制が公正な競争を阻害するという理由で最高裁により違憲とされたため、NIRAの中にある労働者保護の部分を維持するためにワグナー法が制定され、労働者の待遇に関する諸規定に加え、労働者の団結権と団体交渉権が保障されました。また、金融不安の解消と金の流出を防ぐため、アメリカは1933年に金本位制の停止に踏み切り、これによってドルが切り下げられた(ドル安になった)結果、アメリカからの輸出が勢いを取り戻すとともに、国内の物価が上昇傾向へと向かいました。

本設問が要求している「ニューディール政策の内容」の部分については、国家が経済活動に介入するとともに公共事業を増大するという本質的な部分を紹介しつつ、AAANIRATVAの内容を示せば十分でしょう。

 

【3、ニューディール政策が実施された背景】

:世界恐慌を示せば十分だと思いますが、ニューディール政策が展開される前にアメリカのフーヴァー政権(共和党)が実施していたスムート=ホーレー法(高関税政策)が国際貿易をさらに悪化させてしまったこと、イギリスによる金本位制の停止とブロック経済の形成を皮切りに各国が保護主義に走り、国際貿易のさらなる縮小を招いてしまったこと、従来からの自由放任政策に効果が見られなかったことなどにも注目できれば、なお良いかと思います。

 

【4、ニューディール政策以降の経済政策への影響】

:さて、ニューディールの影響ということになると、短期のものから長期のものまでいろいろあるわけですが、本設問ではニューディール「以降の経済政策」となっていますので、基本的には長期の影響を考える方向性で良いと思います。また、問いの部分では「それ(ニューディール)以降の経済政策への影響」となっていますが、その直前のリード文で「それ以降のアメリカの経済政策の基調を作った」とありますので、基本的にはアメリカの経済政策を中心に考えることになるかと思います。

だとすれば、ニューディール政策以降の経済政策への影響というのは、ニューディールで見られたような経済への国家介入や労働者保護、社会福祉の拡充などをきっかけにして、その後のアメリカをはじめとする各国において、いわゆる「福祉国家」や「大きな政府」が目指されたことを言っているのでしょう。また、修正資本主義的な経済政策や福祉国家論への批判については、アメリカについていえば、70年代ごろからの財政悪化と不況をきっかけに政府の財政拡大に対する批判がおこり、80年代からのレーガンによる小さな政府を目指す新たな経済政策(レーガノミクス)への転換を意識しているのだと思います。他の国ではイギリスのサッチャーなどに見られる経済政策(サッチャリズム)ですね。

 ところが、ニューディールの長期の影響(その後のアメリカ経済政策への影響)として、修正資本主義的な経済政策が戦後とられたことや、いわゆる「大きな政府」または福祉国家政策が出てきたという文脈の記述というのは、意外に教科書や参考書の目立つところには載っていないんですね。とりあえず、山川の『新世界史B』(2017年版)、『詳説世界史B』(2012年版・ちと古いな…。新しいやつどこ行った。)、『世界史用語集改訂版(2018年版)』、『詳説世界史研究(2017年版)』の方を調べてみましたが、少なくとも通常ニューディールが登場してくる箇所(世界恐慌でF=ローズヴェルトが新規巻き直しだー、のあたり)ではそれらしい記述を見つけることができませんでした。

 

該当する記述があったのは、(他にもあるのかもしれませんが)とりあえず手元にあるもので見つけたものは東京書籍の『世界史B』(2016年版)と、『最新世界史図説タペストリー』(帝国書院、19訂版、2021年)です。たとえば、東京書籍の方では以下のような文章がニューディール政策の最後のところで加えられています。

 

国家が積極的に経済に介入して景気回復をはかる動きは、今日にいたる修正資本主義政策の端緒となった。自由放任の経済にかわるこのような動きは、イギリスの経済学者ケインズによって理論化された。(『世界史B』東京書籍、2016年版、p.371

 

一方、上述の『タペストリー』の方では「世界恐慌後のスタンダード」というタイトルで、ケインズの主張、有効需要の原理などが紹介され、その中でニューディールがその後の経済政策にどのような影響を与えたのかについてまとめられています。

 

[有効需要の原理]

→ニューディールを理論的にあと押しし、第二次世界大戦後の欧米諸国の福祉国家政策の基盤となる。(『最新世界史図説タペストリー 19訂版』帝国書院、2021年、p.251

 

ここには、ケインズを批判する理論として、一般に新自由主義の論者として紹介されるハイエクの思想などもあわせて紹介されているので、受験生が見て全体の内容を把握しやすいのは『タペストリー』の方かなと思います。ですが、通常の受験生は、歴史の流れや理論的部分については教科書や、学校や塾の先生が作ったプリントなりの教材をベースにして学習することが多いですから、学校や塾の先生がこうした経済政策の変遷を意識して教えでもしない限り、ニューディールがその後のアメリカ経済政策にどのような影響を与えたのかという視点をもつことは、受験生にとってはかなり難しいことである気がします。(サッチャーだのレーガンだの中曽根だのがリアルタイムだったおっさんであれば話は別ですが…。生まれたときからJRNTTの世代には実感わかない気がします。)

 ただ、それでは「大きな政府」とか福祉国家的な経済政策、そしてそれらが批判されて新自由主義へとつながることが教科書等に書いていないのかというと、これは書いてあるんですね。たとえば、以下は山川出版社『新世界史B』の記述です。

 

戦後は多くの先進国で、国家の役割を重視する経済政策が採用され、経済成長を前提とした分配(公共事業など)と再分配(福祉など)の政治が展開され、政府の財政規模は拡大してきた。また政府による規制が支持されていた。しかし、1970年代からは各国で財政赤字がめだちはじめたため、歳出削減、福祉の切り詰め、あるいは規制緩和ないし撤廃を主張する政治勢力が台頭した。(『新世界史改訂版』山川出版社、2017年版、p.399

 

また、以下は山川出版社の『詳説世界史研究』の記述です。

 

 1930年代以来、不況に直面すると、公共投資や社会保障費などを拡大して景気を刺激する「福祉国家」的な手法が一般化していたが、70年代のアメリカの場合、財政赤字の拡大によるインフレーションと不況が同時進行するスタグフレーションと呼ばれる現象が発生した。そのため、81年に大統領に就任した共和党のレーガンRegan(任198189)は、民間経済の再生のための規制緩和や減税を重視し、「小さな政府」の実現をめざす「新自由主義」的な政策を追求した。同様な政策は、イギリスのサッチャーThatcher(任19791990)保守党政権、西ドイツのコールKohl(任19821998)中道保守連立政権、日本の中曽根康弘(任19821987)自民党政権でも導入され、規制緩和や国営企業の民営化が推進された。この「新自由主義」政策は、90年代の冷戦終結後に進行するグローバリゼーションの有力な1タイプとなっていく。

 

問題は、これらをすぐに「ニューディール政策の影響」としてまとめられる受験生がどれだけいるかということです。これは少々厳しいかなぁという気がします。なぜなら、上述したように「ニューディール政策」と「福祉国家から新自由主義へ」はそれぞれ戦前と戦後の部分で一見すると別のこととして紹介されることが多く、両者のつながりを強調したり、想起させるような書き方にはあまりなっていないんですね。一応、「1930年代以来」という言葉はあるので、カンのいい受験生や、そうしたつながりを教えてくれる先生に習った受験生であれば気づくかもしれませんが、そうでないと正直厳しい。

 それでは、この流れに気付かない受験生は白旗をあげるしかないのかということになると、そうでもない。ヒントは「その後の経済政策」です。つまり、ニューディール政策以降に(特にアメリカで)展開された経済政策を丁寧におっていくことができれば、その特徴をとらえることができるかもしれません。ですから、もし「ニューディール政策→大きな政府・福祉国家政策→小さな政府・新自由主義」という流れがすぐに思い浮かばない時には、まず世界史で学習した有名な経済政策をいくつか思い浮かべるところから始めてみると良いでしょう。アメリカで戦後展開された経済政策としては以下のものがよく知られています。

 

A フェアディール政策

:トルーマン(民主党)政権、ニューディール政策を継承して社会保障を充実させる。

B ニューフロンティア政策

:ケネディ(民主党)政権、必ずしも経済政策のみではないが、経済成長促進・教育・貧困・人種差別など、まだアメリカが解決していない分野をニューフロンティアととらえ、これらの解決に向けた諸政策を展開。この中で、雇用の拡大や社会保障の拡充などが目指された。

C 偉大な社会政策

:ジョンソン(民主党)政権、ケネディ政権の基本路線を引き継ぎ、「大きな政府」による社会福祉の拡充、教育改革、人権擁護の方向性を打ち出す。

D レーガノミクス(小さな政府)

:レーガン(共和党)政権、自由主義市場経済に信頼を置き、国家による経済への介入を最小限にして、財政規模の縮小をめざす。

 

こうして並べてみると、A~Cまでが社会福祉・社会保障の拡充を図ろうとしているのに対し、Dのレーガンの頃から経済政策の毛並みが変わっていることに気付きます。あとは、これらとニューディールがどのような関係になっているのかを考えれば、A~Cがニューディール政策と似ているということには気づくと思いますので、その関係性を述べてあげればよいと思います。

アメリカ以外の経済政策を考えてみても、たとえばイギリスのアトリー(労働党)政権による社会福祉拡充政策(cf. 「ゆりかごから墓場まで」)から、70年代以降のサッチャーによるサッチャリズム(産業民営化による政府の財政支出縮小、規制緩和による外資参入の許可など)へ変わっていったことを思い浮かべれば良いでしょう。そこまでできれば、あとはDがなぜA~Cと違うのか(経済政策の方向性が変わったのか)を書けばよいわけで、これについては上述の通り、教科書なり参考書にも記述があるものになりますので、それを書いてあげれば良いことになります。アメリカについていえば、ベトナム戦争への介入による財政悪化、ドルの信用低下とニクソンショック、オイルショックなどによる物価高と不況(スタグフレーション)、80年代からの「双子の赤字」など、レーガン時代のアメリカが財政支出を削減して「小さな政府」を目指さなければならなかった理由は十分に思い浮かぶはずです。

 

【5、ニューディール政策以降の経済政策への批判】

:これについてはすでに【4】の部分で説明してしまいましたが、要は、「大きな政府」または「福祉国家政策」というのは政府にとって金がかかりすぎるんですね。特に、アメリカで1970年代にスタグフレーション(インフレ+不況)が起こると、それまでの経済政策の見直しが図られ、物価上昇をおさえるための金融政策(高金利政策、下のグラフを参照のこと)がとられるとともに、福祉や公共サービスの縮小や公共事業の民営化などを通した均衡財政政策がとられ、政府による個人や市場への介入は最低限とすべきとする新自由主義(ネオリベラリズム)が強く主張されることになります。代表的なのがサッチャーやレーガンで、日本でも中曽根康弘首相の下、国鉄(日本国有鉄道)や電電公社(日本電信電話公社)、日本専売公社などの民営化が図られた結果、現在のJR・NTT・JTが出来上がりました。

FFレート - コピー

(花田功一「戦後アメリカ経済とスタグフレーション」『商学討究』45(2)
pp.85-1421994年、p.95の第1-11表より作成)

 

 もちろん、新自由主義云々が書けるにこしたことはありませんが、「福祉政策は金がかかるので経済や国家財政が悪化すると批判が高まり、緊縮財政が目指された」という内容が示せれば十分だと思います。ただ、レーガンの名前くらいは基本事項なのでしっかり出しておきたいところですね。

 

【6、解答の枠組みをまとめる】

:これまで書いてきた内容のうち、重要な要素をまとめていくと以下のようになるかと思います。

 

(ニューディール政策の内容)

・自由放任主義から方針を転換し、国家が積極的に経済活動に介入し、公共事業の増大などで雇用の創出と経済の回復を目指す。

・具体例:AAANIRA(後にワグナー法へ)・TVA

(ニューディール政策が実施された背景)

・世界恐慌

・フーヴァー大統領の政策に効果がなかったこと

・ブロック経済の形成による国際貿易の縮小

(ニューディール後の経済政策への影響)

・経済への国家介入や労働者保護、社会福祉の拡充などを実施したニューディール計画をきっかけにして、戦後アメリカなどでは福祉国家や大きな政府を目指す政策がとられた

・具体例

[アメリカ]フェアディール政策、ニューフロンティア政策、偉大な社会政策

[イギリス]アトリー政権の「ゆりかごから墓場まで」など

(ニューディールに影響を受けた経済政策への批判)

・新自由主義の高まり(自由主義市場経済に信頼を置き、国家による経済への介入を最小限にして、財政規模の縮小をめざす)

・具体例:レーガノミクス、サッチャリズムなど

 

【解答例】

世界恐慌が起こると、フーヴァーが高関税政策を展開したが効果はなく、各国がブロック経済を形成して国際貿易が縮小すると経済はさらに悪化した。民主党のフランクリン=ローズヴェルトは従来の自由放任主義を転換するニューディール政策を打ち出し、農業調整法による生産調整や全国産業復興法による産業統制と労働者保護、テネシー川流域開発公社を利用した公共事業による失業者救済など、経済への国家介入を進めた。この後の米国では同様に、労働者保護や社会福祉拡充を行う「大きな政府」を目指し、ケインズの修正資本主義的な経済政策がとられた。しかし、「偉大な社会」政策を進めたジョンソンがベトナム戦争に介入して財政が悪化し、さらにニクソン=ショックや石油危機でスタグフレーションが広がると財政支出拡大への批判が高まり、自由主義市場経済に信をおいて、国家の経済介入を最小限にして財政規模縮小を目指す、新自由主義的な考えが主張された。(400字)

 

本設問では、ニューディールの背景と内容が問われていますので、世界恐慌の背景(過剰生産、農産物価格の下落と農家の困窮、企業業績悪化、購買力低下、輸出不振、株価暴落など)については不要だと思います。むしろ、恐慌発生後に米国が問った従来式の自由放任型の経済政策または保護関税による国内産業の保護という手法が効果を生み出さなかったことや、世界恐慌が悪化した原因(ブロック経済の形成と国際貿易縮小など)を示した方が良い気がします。また、同様に本設問では米国のニューディール以降の経済政策が後に批判されるようになった「理由を説明せよ」とあるので、新自由主義についてはなぜそれが修正資本主義的な経済政策に対する批判になりうるのかがわかる程度の内容を示しておけば良く、レーガンとレーガノミクスなどの具体例は不要だと思います。また、上述した通り、設問はリード文よりアメリカの経済政策を念頭において作られていると思いますので、解答例もアメリカの経済政策についてまとめ、他の各国の事例は省きました。もしどうしてもアメリカの事例で解答を作ることができない、字数を満たすことができない場合に補助的に用いるのはアリかなと思います。

 

2022 一橋Ⅲ

:一橋で単に用語を問う設問でなく、複数の文章を書かせる形で問が複数設定されたのは2014年の問題以来です。一橋大学で中国・朝鮮が頻出であるというのは、一橋受験者にとっては周知の事実でしょうから、本当に基本的な問題だと思います。字数の配分をどうしようかなぁということに迷う程度でしょうか。内容についても、一番内容的に濃いと思われる問3についてはかなり近い時代・内容の問題が2013年の大問3、2020年の大問3の問2で出題されていますし、一橋を受験するにあたり朝鮮近現代史に注意が必要だということは、どこの学校や塾でも言っていることなのではないかと思いますので、この問題はちょっと取りこぼせない気がします。

 

【設問確認】

1979年から1980年までの韓国における政治の動向について述べよ(問1)

1592年~1598年の戦乱の、朝鮮側における名称を記せ。また、同戦乱の展開過程と明に与えた影響について述べよ。(問2)

1880年代から1894年までの朝鮮・清・日本の関係について述べよ。(問3)

・問1~問3すべてで400字以内。

 

(問1)

:朴正煕暗殺から光州事件までの流れを問う設問です。それほど難しい部分もないので、解答例を作ってみたいと思います。

【問1・解答例】

開発独裁を進めた朴正煕の暗殺をきっかけに、ソウルを中心に民主化運動が激化したが、軍を掌握した全斗煥が光州事件でこれを弾圧し、その後大統領に就任した。(74字)

 

(問2)

:壬辰・丁酉の倭乱(豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役)について問う問題です。基本問題ですが、展開過程については世界史onlyで学習を進めている人には少し厳しいかもしれません。教科書には李舜臣と亀甲船の活躍や明の援軍のことしか書いていませんし、『詳説世界史研究』でもこれに加えて義兵の抵抗、秀吉の死や、陶芸技術(朝鮮→日本)や鉄砲技術(日本→朝鮮)などが伝わったことがあるくらいです。日本史をしっかり勉強したことがある人であれば、だいたいの流れくらいは書けたかもしれません。「秀吉の出兵と緒戦の勝利→亀甲船を用いた李舜臣率いる水軍の抵抗や明の援軍→日本軍の撤退と再出兵→秀吉の死と戦乱の終結」くらいが書けていれば十分でしょう。また、明に与えた影響についてはその大きな戦費が負担となり、滅亡へとつながっていくことを示せばOKです。

【問2・解答例】

壬辰・丁酉の倭乱。豊臣秀吉の命で朝鮮に出兵した日本軍は、はじめ優勢であったが、亀甲船を用いる水軍を率いた李舜臣の活躍や明の援軍に苦戦して一時撤退し、再度出兵したが秀吉の死により完全に撤退した。また、明はこの時の戦費で財政が悪化した。(116字)

 

(問3)

1880年代の朝鮮史ということになると、最初に起こる大きな事件は壬午軍乱(1882)です。また、1894年までということですから日清戦争が開始される年ですね。このあたりの朝鮮・清・日本の関係について述べる設問ということですから、「閔氏政権と大院君」、「事大党と独立党」、「清と日本」などの対立軸を示しながら各国関係を説明すればよいでしょう。一橋では上述した通り、2013年の大問3で甲申政変から甲午改革にいたるまでの開化派(独立党)の改革を問う設問が出ておりますので、周辺のことがらを学習した人であれば十分に解答できたと思います。今後も、朝鮮の近現代史には注意を払う必要がありそうです。19世紀後半の朝鮮史については、以前書いたものもありますが、もう少し簡略化したものを以下にあげておきます。本設問は朝鮮・清・日本の関係についてとありますので、ロシアに言及する必要はないでしょう。また、1894年までとありますので下関条約(1895)については言及できません。

 

1863 大院君(国王高宗の父)が摂政として実権掌握、鎖国政策の展開

1873 閔妃政権の成立(大院君に対するクーデタ)、開国政策への転換

1875 江華島事件→日朝修好条規(1876)と開国

1882 壬午軍乱(大院君のクーデタ)

   ・清の袁世凱の支援で鎮圧

・閔氏が親日から親清へ

→事大党(清の勢力下で李朝の安全維持を図る一派)の形成

→急進改革による朝鮮の近代化を図る金玉均・朴泳孝らが独立党を形成

1884 甲申政変(独立党による対閔妃のクーデタ)

  →閔妃を支援する清が鎮圧

→金玉均は亡命(1894年に亡命先で暗殺される)

→この事件をうけて日清両国は天津条約(1885)締結

:日清両国の朝鮮からの撤兵と出兵時の事前通告を規定

1894 甲午農民戦争(東学の信徒を中心とする農民反乱)

  →鎮圧に日清両軍が出兵、日清戦争

   →朝鮮では日本軍が出兵して閔氏を追放

・大院君を中心とする開化派政権が成立

・甲午改革の実施[両班制・科挙廃止、奴婢・人身売買の禁止など発表]

 

【問3・解答例】

開国政策を進める閔氏政権と対立していた大院君が壬午軍乱を扇動すると、閔氏は反乱鎮圧の力となった清に接近し事大党を形成した。これに不満を覚えた改革派の金玉均ら独立党は日本に近づき、甲申政変を起こして政権掌握を図ったが清に鎮圧された。朝鮮をめぐり対立を深めた日清両国は一時天津条約を結んだものの、甲午農民戦争をきっかけに朝鮮に派兵して日清戦争が発生した。また、日本の占領下に置かれた朝鮮では開化派による甲午改革が進められた。(210字)

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ