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※ 問題解説では、著作権で怒られても困るので、解説に必要な最小限の問題概要のみを示してあります。あくまでも解答にいたるまでの「考え方」を示すためのものでありますので、過去問の正確な内容については各大学にお問い合わせいただくか、赤本買ってくださいw 問題全てが手元にあった方がわかりやすいと思います。

ヘッダーイラスト:かるぱっちょ様

2024年東京大学世界史の第1問大論述ですが、すでに話題になっている通り大きな変化がありました。これまでの600字論述が「360字論述+150字論述」と二つに分けられ、さらに合計の字数も大幅に減りました。この変化は、過去問対策をしっかり行って会場に臨んだ受験生からすると「マジか…Σ(゚Д゚)」とある種の感動を覚えるほどの変化だったように思います。てか、自分だったら多分20秒くらいは浸ります。大論述が二つに分かれたのは1989年以来35年ぶりのことで、私が現役時代にも見た記憶がありません。

内容については戦後のアジア・アフリカや南北問題が出されました。ただ、たしかに戦後史は受験生には取り組みにくい面があるとはいえ、東大では似たような内容の設問が2012年に出ていますし、東大がどちらかといえば近現代史寄りの出題をしていたことなどを考えると、内容的に局単位難しかったようには思いませんでした。指定語句も比較的分かりやすいものが示されていたように思います。むしろ、内容的には第3問などの方にやや難しめの出題があったのではないかと思います。サイードと『オリエンタリズム』なんかは高校生の受験生にはしんどそうです。用語集を見たら載ってはいますが、燦然と輝く「①」。そらそうだ。第1問はウォーラーステインを思わせる設問設定でしたし、全体的にちょっとアカデミックな雰囲気を感じます。それ以上に東大の側が現代的な問題を考える一助として歴史と向き合って欲しいと考えて出題を作成しているような印象も受けました。

設問自体に大きな形式上の変更はありましたが、ここ数年東大が実験的というか、従来とはちょっと変わった設問の出し方をしてきていたことや、旧課程最後の年となることなどを考えた場合に、「何もないかもしれないけど、何かあるかもしれない」くらいのことを想定していた人も多かったのではないでしょうか。何より、試験始まってしまえばあとは解くしかないわけですので、ちょっとした感動にひたりつつも、もうガツガツ解かないといかんわけですから、多少試験の形式が変わったとしても、結局は普段と同じように解き、普段と同じくらいの難度と感じるような設問だったかなぁと感じました。

 

〇第1問 問⑴

【1、設問確認】

・時期:1960年代

・アジアとアフリカにおける戦乱や対立について記述せよ。

・「戦乱や対立」=(戦後に)独立を得る過程での戦乱や独立した国どうしの対立

・指定語句:アルジェリア、コンゴ、パキスタン、南べトナム解放民族戦線

 (語句に下線を付すこと)

12行(360字)以内

 

:こちらの設問には、1964年に国連事務総長ウ=タント(ビルマ出身)が行った演説が示されていて、それを受けてのものでした。冒頭にウ=タントとか出てくると「うげ。」ってなりそうですよね。演説の内容はアジア・アフリカ・ラテンアメリカなど、かつて政治的植民地や半植民地とされていた諸民族の政治的解放が進んでいることを示しつつ、これらの地域の経済的な後進性が問題となっているとする、いわゆる「南北問題」について述べたものでした。

設問自体は、一見何を書いてもいいように見えて、少々自由度の低い設問かもしれません。設問の文章では、「諸民族どうしの政治的開放が進んだが、独立を得る過程では戦乱が起こっただけでなく、独立した国同士が対立を深めるなど…」とあり、これを受けて「このような戦乱や対立」について記述せよとあるので、記述すべき戦乱や対立は(原則として)「独立を得る過程での戦乱」や「独立した国どうしの対立」などでなければなりません。また、演説では「戦後には、植民地および半植民地とされていた諸民族の政治的解放が、すみやかに進みました。」とあるので、ここで言う「独立した国」とは戦後の独立国を指すものと基本的には解釈されます。さらに、1960年代という限定がついていることや、360字という字数を考えた場合、おそらく指定語句に関連する事柄を丁寧にまとめるだけでも解答の大半は仕上がってしまう可能性があります。そういった意味では非常に誘導的で、事実を知っている人にとっては書きやすい設問、単純に知識量の差がそのまま出てしまう設問だったような気もします。また、2016年の問題に「1970年代後半から1980年代にかけての東アジア、中東、中米・南米の政治状況の変化」→こちらが、2012年の問題に「アジア、アフリカにおける植民地独立の過程と独立した後の動向」→こちらを問う設問がありましたから、過去問演習を丁寧に行ってきた受験生には書きやすかった設問だったように思います。

 

 

【2、指定語句の整理】

そんなわけで、指定語句の整理を進めてみます。

 

(アルジェリア)

:アルジェリアについてはアルジェリア戦争(1954-1962)に言及すればよいのですが、1960年代と限定されていますので、アルジェリア戦争後のエヴィアン協定によるフランスからの独立が中心になると思います。FLN(民族解放戦線)くらいは言及しても良い気がしますが、高校世界史ではそれ以上の情報はアルジェリアに関しては出てこないので、アルジェリアにこだわりすぎるよりはアフリカの他の地域や、1960年の「アフリカの年」などに言及するなどして字数を稼ぐ方がよさそうです。

 

(コンゴ)

:コンゴ動乱の話をすればOKです。コンゴ動乱についてはその背景と、場合によってはルムンバ、モブツあたりが示せれば十分でしょう。コンゴ動乱の概要については以下の通り。

 

1960年 コンゴ独立(→直後からコンゴ動乱の発生)

 ・希少金属(銅・コバルトなど)を産出するカタンガ州の分離を、旧宗主国ベルギーが支援

 ・カタンガの分離を防ぐべく首相ルムンバが国連に支援を要請

  →国連は介入に消極的

  →ルムンバはソ連に接近し、親米派の大統領カサブブと対立

  →軍部のモブツがクーデタを起こし、カサブブと結び、ルムンバは殺害される(1961

 ・その後のコンゴの混乱と、国連軍、米・ベルギー軍の介入

1965年 モブツの2度目のクーデタ

 ・カサブブとカタンガの指導者チョンベの対立と政局混乱

  →政局混乱収拾を名目にモブツがクーデタ、西側諸国の支持

  →モブツ独裁の確立(1971年には国号はザイールへ変更)

画像1

 

(パキスタン)

:パキスタンについては、1960年代ですので第2次インド=パキスタン(印パ)戦争について言及すれば大丈夫です。当然、インドとの係争地であるカシミールについては言及する必要があります。印パ戦争は3次にわたりますが、概要は以下の通りです。

 

① インドとパキスタンの分離独立(1947

:ヒンドゥー教徒を中心とするインドとムスリムを中心とするパキスタン(東パキスタンと西パキスタン)の分離独立

 

① 第1次印パ戦争(1947-1949

:藩王がヒンドゥー教徒、住民の多数がムスリムという構成のカシミール地方をめぐり、インド・パキスタン両国が交戦した戦争

・国連の仲裁で停戦

・カシミールはインドとパキスタンで分割

 

② 第2次印パ戦争(1965-1966

:カシミールをめぐりインド・パキスタン両軍が再度交戦

・国連の仲裁で停戦

 

③ 第3次印パ戦争(1971年)

:東パキスタンの独立運動をインドが支援し、西パキスタンと交戦

・インドの勝利と東パキスタン(バングラデシュ)の独立

 画像2

(カシミールの位置)


画像1

(カシミールの支配状況)

 

(南ベトナム解放民族戦線)

:南ベトナム解放民族戦線の結成は1960年。 南ベトナムで結成された、南ベトナムを当時のゴ=ディン=ジェム政権の支配から「解放」することを目的とした反米の民族統一戦線です。北ベトナム(ベトナム民主共和国)と連携することになるので、関係性を丁寧に把握しておく必要があります。この南ベトナム解放民族戦線と南ベトナム(ベトナム共和国)との対立が開始された1960年、またはアメリカの本格介入(ジョンソンの北爆)が始まる1965年などがベトナム戦争の開始年とされていますので、ベトナム戦争について冷戦構造と絡めながら言及することになります。ただし、1960年代と限定されているので、1973年のパリ和平協定によるアメリカの撤退や、北ベトナムによるサイゴン陥落(1975)とベトナム社会主義共和国の建国(1976)までは述べられないので注意が必要です。

画像3

(戦後のベトナムに成立した国家)


画像4

(ベトナム戦争の基本構図)

 

【3、1960年代のアジア・アフリカの確認】

:基本的には、上記2の指定語句確認だけで書けてしまうと思いますが、設問は「アジアとアフリカにおける」とありますので、念のため「独立を得る過程での戦乱」と「独立した国同士の対立」に該当する事例が他にないかの確認をしておきます。

 

(アジア)

:第3次中東戦争(1967)がありますが、一方の当事者であるイラクとシリアは(一応)戦前からの独立国ではあるんですよね。まぁ、これは書いてしまってもいいのかな。他には、強いて挙げればシンガポールの独立(1965)がありますが、「独立した国同士の対立」ではないですし、独立の際に戦乱も起こっていませんから、該当しないと思います。

 

(アフリカ)

:目立つものはビアフラ戦争(またはナイジェリア内戦、19671970)が発生したナイジェリアくらいでしょうか。クーデタとかまで含めたらほかにもありますけど、「戦乱」ってことですから気にしない方がよいですね。もちろん、ビアフラ戦争は書いても良いのですが、ビアフラ戦争の年代や内容を正確に把握している受験生がどれくらいいるかなぁということを考えると、無理に解答に盛り込まずに指定語句と関連情報のみで丁寧に解答を作成した方が間違いは少ないかもしれませんね。書ける人はもちろん書いてしまって良いとは思います。ちなみに、ビアフラ戦争の概要は以下の通りです。

 

1960年代 ナイジェリアのイボ族に対する迫害が強まる

1967年 ナイジェリア東部がイボ族を中心にビアフラ共和国として独立宣言

      →米・英・ソなどがナイジェリア政府軍を支援

      →ナイジェリア正規軍による「兵糧攻め」とビアフラの飢餓本格化

1970年 ナイジェリアの勝利とビアフラ共和国の崩壊

 

3次中東戦争やビアフラ戦争を書くべきかどうかについてですが、これらを「たしかに1960年代に起きた戦乱であり、対立だ」と考えるのであれば書いた方が良いでしょう。一方で、これらをアルジェリア戦争やコンゴ動乱、印パ戦争やベトナム戦争とならべて書く共通の要素が見いだせるかどうか。ビアフラ戦争は問題ない気がしますが、第3次中東戦争はちょっと質が違うような気がしなくもないです。第3次中東戦争と印パ戦争は「植民地支配の負の遺産と内部対立」っていう意味でかなり共通項が見出せる気がしますが、ベトナム戦争はどちらかというと冷戦や資本主義と共産主義っていうイデオロギー対立が前面に出ていて、かつてのフランス支配が直接的に関わっているかというと微妙な気がする、という意味で、です。もっとも、視点の変え方次第でいくらでも共通項は探せるでしょうし、1960年代の戦乱対立であることには変わりないので、書いて問題になることはないと思います。

 

【解答例】

アフリカでは、アルジェリアで民族解放戦線が独立を目指したが、仏のド=ゴール政権成立後のエヴィアン協定で独立した。1960年の「アフリカの年」に独立したコンゴでは、銅やコバルトの産地カタンガの分離運動をベルギーが支援したことでコンゴ動乱が発生し、首相ルムンバが殺害され、米の支援を受けたモブツの独裁が始まった。ナイジェリアではイボ族への迫害からビアフラ戦争が発生した。アジアでは、分離独立したインドとパキスタンの間でカシミール地方をめぐる争いが再燃し、第2次インド=パキスタン戦争が発生した。また、ベトナムで南のベトナム共和国に反対する南ベトナム解放民族戦線が結成されて内戦が始まり、北のベトナム民主共和国やソ連、中国の支援を受けて内戦が拡大し、さらに米がジョンソン大統領による北爆を機に本格介入して、ベトナム戦争が泥沼化した。(360字)

 

ひとまず、中東戦争を除いて解答例を作ってみました。何か、散文的だ…。むしろ、ビアフラ戦争を除いて指定語句のみで解答作っちゃってもいいのかなという気がしなくもない。ですが、「アジア・アフリカの」とありますので、指定語句以外の+αを入れておく方が安心はできますね。

 

〇第1問 問⑵

【設問確認】

・演説中の経済的問題の歴史的背景を記述せよ。

・演説中の経済的問題解決のため、1960年代に国際連合が行った取り組みを記述せよ。

5行以内

 

(演説中の経済的問題-要約)

・発展途上国と呼ばれる地域は、実際には発展していないか、十分な速さでは発展していない。

・程度の差はあれど、深刻かつ持続的な低開発の状態に苦しんでいる。

・発展途上国は工業化された社会に比べてますます遅れをとっている。

・人口増加を考慮に入れれば、生活水準が絶対的に悪化している場合もある。

 

:ここで言う経済問題がいわゆる南北問題であるのは明らかなので、南北問題の歴史的背景を示した上で、この問題解決のために国際連合が1960年代に行った取り組みに言及すれば終わりです。非常にシンプルで明瞭な設問だと思います。また、この設問がウォーラーステインの「近代世界システム論」を意識したものであるのは、はっきり見て取ることができます。「近代世界システム論」についてはその概要をかなり前にご紹介したものがありますので、ご覧ください。→「東大への世界史①(世界システム論、13世紀世界システム、銀の大循環)」

 

【解答例】

16世紀以降の欧州諸国の海外進出と18世紀以降の産業革命を起点とする工業化は、列強の帝国主義的政策もあり、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの植民地を原料供給地兼市場とする経済支配構造を生み出し、発展途上国と先進国間の南北問題という経済格差につながった。国際連合はUNCTADを創設し途上国の開発と経済発展を図った。

 

こんな感じでどうでしょうかね。「近代世界システム」は一つの学説ですし、教科書(『世界史探究』山川出版社)や用語集(『世界史用語集』山川出版社)などにも索引見る限り記載はないようですから書きませんでした。むしろ、いわゆる発展途上国がなぜ経済的に劣後することになったのかという経済構造上の問題点(工業製品の輸出などで経済的利益を確保する先進国と、原料の供給地や先進国の市場として利益を搾取される発展途上国)と、こうした経済構造がなぜ作られていったのかという歴史的背景(欧州の海外進出とラテンアメリカの植民地化、産業革命による欧州の工業化、帝国主義政策によるアジア・アフリカの植民地化など)をできるだけ丁寧に示してあげた方が設問の要求に合致するのではないかと思いましたので、そのようにしてみました。

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【共通テスト・難関大】

「13世紀はモンゴルの世紀」です。実はかなり使える呪文です。たとえば、以下のようなことが時期としてつかみやすくなります。

・チンギス=ハンの活躍した時期(13世紀前半)
・元の成立時期やフビライ=ハンの活躍時期(13世紀後半)
・モンゴルとかかわる様々な事柄が13世紀であることに気づく。
 (例):ワールシュタットの戦い(1241年)
・「13世紀はモンゴルの世紀」→「次の世紀で衰退」→「明の建国時期を把握(14世紀後半)」
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今年の共通テストも解いてみました。また例によって「チェックが不十分で、ところどころ見落としや誤りなどあるかもしれませんので、ご覧になる際はご注意ください。」というエクスキューズを入れさせてくださいw 昨年の問題がかなり手間のかかる(難しいというよりは時間のかかる)内容でしたので、空気が読める人が作ればおそらく少し簡単になるのではないかなぁと思っていましたが、やはり全体として易しくなった印象を受けます。大手予備校の講評も概ね易化したとの評価のようです。(ベネッセ・駿台:易化、東進:昨年並、河合塾:やや易化、代ゼミ:やや易化) 特に、史資料の読解問題にかかる時間が昨年と比べるとかなり短くなりました。また、設問の文章も比較的平易で、出題者の意図や内容が分かりやすく書かれているものが多く、判断に迷うようなところもほとんどありませんでした。その分、高得点を狙いたい人にとってはミスが怖い問題だったように思います。落ち着いて時間配分をし、史資料や文章の読解と見直しを丁寧に行ってミスを減らすことができたかが一つのポイントになったのではないかなと思います。そういう意味で、国語的な要素が多く含まれているのは相変わらずでした。
 その他の特徴としては、平易になったとはいえ全体として史資料の読解を必要とする設問が多く、注意深く文章を読んでいく必要があるため、昨年ほどではないにしてもそれなりに時間がかかります。そのため、ところどころにある世界史知識のみで解ける設問についてはできるだけ短時間で解いたり、選択肢を選ぶ際の根拠にチェックをいれるなどして後で見直しをするときに素早く見直せるようにするなど、時間配分に工夫が必要だと思います。また昨年のように内容が難化することもないとは言えませんから、今後も時間配分を気にして解くことが必要になってくるでしょう。

 必要とされる世界史知識についてはそれほど難しいものは見られず、基本的なものがほとんどでした。ただ、より詳しい知識や背景を知っている方が、史資料を読解する際にすぐに「ピーン」とくるかと思いますので、重箱の隅をつついたような知識まで仕入れる必要はないにしても、ある程度深いところまで学習しておいた方が良いでしょう。一問一答的な知識よりは、教科書を読んで全体の流れ、背景を知るスタイルの学習をしている人の方が有利かもしれません。

 

2024年 大学入学共通テスト世界史B 解答と解説】

 

  1   

:読み取りに少々時間がかかるかもしれませんが、内容は基本的なものです。設問が資料1・2の読解を要求しているのでこれを読み取ると、以下のような議論になっていることが分かります。

資料1:李斯が周の封建制を批判し、始皇帝の制度を称賛している

資料2:周王朝が長く続いた原因を封建制に見ている(封建制を肯定している)

つまり、資料1・2の議論は「周の封建制」と「秦の郡県制」のどちらが正しいかという議論であることが分かります。「封建制=諸侯に封土を与え、かわりに軍役や貢納を課す制度(分権的)」、「郡県制=全国を郡県に分け、中央から役人を派遣する制度(中央集権的)」の違いは繰り返し強調される重要ではありますが基本的な内容ですので、これも参考に見ていくと、①の文が正しいことが分かります。

×:周は郡県制でなく封建制ですし、資料1の内容とも合致しません。

×:資料2で博士は一族や功臣に封土を与えて諸侯とし、王室を補佐する枝葉とすべきと言っているので、一族にはむしろ政治的権力を与えるべきだとしているので、③と合致しません。

×:郡県制が採られたのは秦の始皇帝の時ですが、この下では一族は「一介の庶民にすぎない」ことが分かりますので、④と合致しません。

 

  2   

:できるだけ素早く解きたい設問です。  ア  は魏から帝位を奪った人物ですので西晋の建国者である司馬炎。資料3ではその西晋における一族の争いについて言及しているので八王の乱が正解。

    呉三桂は清の康煕帝の頃に三藩の乱を起こした人物なので時代的にも大きく異なります。

 

  3   

 明のはじめの官僚が問題としていたのは「一族の諸王」であり、「古を引いて今を証する」(昔の事例を挙げて今の状況を明らかにする)と言っていますので、反乱の性質として「皇帝に対して皇帝の一族が反乱を起こす」という構図が一致している必要があります。こうした構図に従えば、「あ」~「う」のうち当てはまるのは呉楚七国の乱の「う」。また、X・Yでは建文帝に燕王(永楽帝)が反乱を起こした「靖難の役」が正しいので「Y」が当てはまる。

→よって、正しい組み合わせは「うーY」となるので正解は⑥。

※ 黄巾の乱(184):太平道の張角が起こした乱なので一族の内紛は無関係。

※ 赤眉の乱(18-27):王莽の新で起こった農民反乱なので一族の内紛は無関係。

 

  4   

  イ  の人物は、この人物がローマ教皇から皇帝冠を授けられたことが神聖ローマ帝国の起源となったとあるのでオットー1世。オットー1世はその戴冠の前にレヒフェルトの戦い(955)でマジャール人を打ち破っているのでが正しい。

×:メロヴィング家の王を廃位させてカロリング朝を起こすのはピピン(3世)。

×:レオ3世が冠を授けるのはカール大帝。

×:カタラウヌムの戦いは5世紀にヨーロッパに侵入したフン族のアッティラを退けた戦い(451)。

 

  5   

:下線部ⓑの人物はノルマンディー公であり、その後の文章から1066年の「ノルマン=コンクエスト」について述べている資料であることもわかる。よって、ノルマンディー公ウィリアムが正しいので「あ」。X~Zについては以下の通り。

X:誤。資料1の中でハロルドは「イングランド中の最有力の貴族たちによって国王に選ばれた」と書かれており、資料全体を通してハロルドに対して好意的な文章が並ぶ。このことから、資料1はイングランド側(ハロルド側)の視点で書かれたものであると解釈できる。

Y:。資料2には「ハロルドが…自ら行った宣誓を破り、嘘をついた」、「ハロルドは…王国を譲らなかった」とあるので「Y」の内容と合致する。また、全体を通してハロルドに対して否定的・敵対的な内容であることからノルマンディー側(ウィリアム側)の視点で書かれていると解釈できる。

Z:誤。上述の通り、「資料1=イングランド側」、「資料2=ノルマンディー側」なので不適。

 

  6   

:羊毛はイングランドにとって毛織物の産地フランドル地方へ輸出する重要な商品であったので、正しい文章。

×:エリザベス1世はフェリペ2世とは結婚していない。(アルマダ海戦で敵対していることからも明らか。) フェリペ2世の妻であったのはエリザベスの姉のメアリ1世。

×:英王ジョン(失地王)が敗れたのは仏王フィリップ2世。フィリップ4世は三部会の招集(1302)を行ったり、アナーニ事件(1303)や教皇のバビロン捕囚(13091377)、テンプル騎士団事件(1312)などを引き起こして王権を強めた14世紀の人物。

×:英蘭戦争を引き起こしたのは共和政期クロムウェルが出した航海法(1651)。大陸封鎖令(1806)はフランスのナポレオン1世が出したもの。

 

  7   

:下線部ⓓの直後に老齢年金制度は「後に『世界政策』の名の下に海軍を増強した皇帝の治世下」で導入されたと書かれている。「世界政策」を行ったのはドイツのヴィルヘルム2世。ヴィルヘルム2世は1888年に即位し、その即位と入れかわるようにして1890年にビスマルクが引退している。さらに、文章よりドイツの事例はイギリスの「先例」とあるので、イギリスの1908年老齢年金法よりは早いと考えることができるから、年表より該当する時期はであるとわかる。

 

  8   

:設問に「文章を参考にして」とあるので文章を読むと、イギリスで公的年金制度が導入されたのは1908年の老齢年金法成立によるものであると分かる。また、これを成立させた政権がグラッドストンと同じ政党(自由党)であることもわかる。時期的にも、同時期には自由党アスキス内閣が議会法制定(1911)やアイルランド自治法制定(1914、ただし延期) などを進めた時期と同じなので、アスキス内閣だと判断できる。

 

×:マクドナルドは労働党の党首。保守党を「率いて」いてはおかしい。また、時期も異なる。

×:スエズ運河会社株買収(1875)は保守党のディズレーリ内閣の時。

×:フェビアン協会を基盤として発展するのは労働党。

 

  9   

:インタビューに答えている資料は「20世紀に国営企業の民営化を推し進めた首相」とあるので、「い」のサッチャー。サッチャーをはじめ、1980年代には「小さな政府」をめざして国営企業の分割民営化や規制緩和を行う一方で社会保障費の削減などを進めるケースが多く見られた。(米のレーガンや日本の中曽根康弘など。)

X:誤。「ゆりかごから墓場まで」はアトリー(労働党)のスローガン。

Y:誤。救貧法はエリザベス1世の時代のものが有名。その他にも救貧法は数多く制定されているが、高校生世界史には登場しない。また、少なくとも本設問の内容には合致しない。

Z:正。上述の通り。

→よって、「いーZ」の組み合わせが正しいので、正解は⑥。

 

  10   

:資料2に「ペルシアの諸地域の子どもたちはソフォクレスやエウリピデスの劇作品を歌うことを学んだ」とあるので正。ソフォクレスとエウリピデスはアイスキュロスとともにギリシアの3大悲劇作家。

×:「自身が滅ぼした王朝によるバビロン捕囚」とあるが、バビロン捕囚を行ったのは新バビロニア王国のネブカドネザル2世。アレクサンドロスが滅ぼしたのはアケメネス朝ペルシアであるので不適。

×:「150年前にペルシア人がアテネの神殿を焼き払った」とあるので、時期として該当するのはペルシア戦争。ペロポネソス戦争は「アテネVSスパルタ」が基本構図であり、時期的にもアレクサンドロスの遠征のおよそ100年前なので不適。

×:フィリッポス2世が率いたのはコリント同盟(ヘラス同盟)であり、デロス同盟ではない。

 

  11   

:一見すると読み取りが大変なように見えるが、本設問では評価Ⅰ・Ⅱの正誤は問われておらず、単純に時期を示す指標として用いられている。そのため、「あ」・「い」の文章の真偽と、「あ」の文章が「ローマ共和政期」に、「い」の文章が「19世紀後半」に合致するかどうかだけを確認すればよいので、内容的には平易。

「あ」:誤。マニ教の成立はササン朝成立後の3世紀のこと。3世紀のローマはすでに軍人皇帝時代に入るころで、共和政の時代ではない。

「い」:正。文明化の使命は主にフランスなどがアフリカなどの植民地化を進める際に掲げた正当化の理論。

 

 

  12   

:ミシシッピ以西のルイジアナは1803年にフランスによって合衆国に対して売却された。 また、資料1は「北緯3630分以北」において奴隷制度を禁止するとするものであるので「ミズーリ協定(1820)」であるとわかる。ミズーリ協定では、「北緯3630分以北」にあったにもかかわらずミズーリ州だけは奴隷州とされたので、 ア に入るのはミズーリ。

    ミズーリ協定において、ミズーリが奴隷州であるという知識は頻出事項こちら

合衆国の発展 - コピー
 


  13  
 または

:この設問も「あ」・「い」の真偽などを問う必要はないので、平易。「あ」のインディアン強制移住法(1830)は、ジャクソン大統領によって制定されたものなので、「Y」をその背景と考えることができるため、解答は。また、「い」のカンザス=ネブラスカ法(1854)は、新しくできる州における奴隷制度の有無を住民投票によって決定しようというもので、1820年に決められていたミズーリ協定の合意を無効化するものであったので、「X」を背景と考えることができるため、解答は。(カンザス=ネブラスカ法についてこちら

    ちなみに、Zの内容は1862年のホームステッド法の内容と考えることができる。

 

  14     13  の解答がの場合→①   13  の解答がの場合→⑤

:インディアン強制移住法の場合、同法の制定の結果、チェロキー族がミシシッピ東岸から西部の居留地へ追いやられた「涙の旅路」と呼ばれる苦難の旅を強いられたので、①が適切。

一方、カンザス=ネブラスカ法の場合には、同法制定によりミズーリ協定が無視されて奴隷州拡大の可能性が増したことに憤慨した奴隷反対派が共和党を結成するので、⑤が適切。

 

  15   

:資料より、  イ  がスターリンの敵側、  ウ  がスターリン側であることが読み取れる。また、その後の文章から  ウ  の派遣によってアメリカと中国の「熱い戦争」に変化したとあるので、  ウ  人民義勇軍。そのため、  イ  国連軍。また、同時期にアメリカが防共圏構築のために結成された国際組織とあるので東南アジア条約機構(SEATO1954が正解。(東南アジア諸国連合[ASEAN]1967年にベトナム戦争に対処するために東南アジア諸国が結成した反共同盟。)よって、正解は

 

  16   

  エ  に入るのはチェコスロヴァキア。1948年のチェコスロヴァキアクーデタは冷戦初期の出来事としては頻出事項(こちら)。チェコスロヴァキアについては1968年の「プラハの春」(ドプチェク政権の自由化への動きを、ブレジネフがワルシャワ条約機構軍を介入させて潰した事件。)も頻出なのであわせておさえておく必要があります。また、「プラハの春」についてはブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)も頻出です。

×:ポズナニ暴動(1956)が起こったのはポーランド。スターリン批判後のポーランドにおけるポズナニ暴動(ゴムウカによる収拾)とハンガリーのブダペスト暴動(ナジ=イムレの処刑)は頻出。

×:チャウシェスクが独裁を敷いていたのはルーマニア。

×:フランスのブルム人民戦線内閣は第二次世界大戦前の1930年代。

 

  17   

:本設問では「あ」・「い」の真偽をまず確認する必要がありますが、平易な内容なのでむしろ選択肢が絞れてラク。「あ」の文章は明らかに誤文であるため、①~③は除外されます。X・Y・Zについては以下の通り。

X:誤。内容的に戦時共産主義の内容で第1次五か年計画ではない。

Y:正。

Z:誤。農業調整法(AAA)はアメリカのニューディール政策の内容。

 

  18    

  ア  の人物のヒントとして、文章中に「マウリヤ朝の君主であること」、「磨崖碑・石柱碑を刻ませたこと」が示されているので、  ア  アショーカ王。アショーカ王はインド古代史では頻出の超重要人物です。その事績には以下のようなものが挙げられます。

・カリンガ国を征服して南端部を除くインドの統一

・ダルマ(法)に基づく統治(勅令を磨崖碑・石柱碑に刻む)

・仏教の保護(第3回仏典結集 / ストゥーパ建立 / 王子によるセイロンへの布教)

よって、アショーカの治世の出来事として正しいのは③の仏典結集。

×:マウリヤ朝が前4世紀~前2世紀であるのに対し、サータヴァーハナ朝は前1世紀~後3世紀なので、アショーカの治世に交流があったとするのは誤り。ただ、サータヴァーハナ朝の成立時期については諸説あり、その黎明期にはマウリヤ朝と交流がなかったとも言えないようなので微妙な選択肢。設問に「最も適当なものを」とあるので、解答は③で問題なし。

×:エフタル(4世紀~6世紀)が活発に活動したのはインドにグプタ朝が存在している頃。また、エフタルがササン朝のホスロー1世と突厥の挟撃で滅んだことなども思い浮かべれば、紀元前のマウリヤ朝とは時期が違うことがつかめるはず。(→こちら

×:『仏国記』の著者である東晋の僧、法顕が訪れたのはインドにグプタ朝が存在していたころ。東晋の成立が4世紀なので、これもマウリヤ朝とは時期が違うことが分かる。

 

  19   

:単純な知識問題なので、時間をかけずに解ける設問。下線部ⓐ「デリー」に関係があるのはデリー=スルタン朝の最初の王朝である奴隷王朝なので答えは④。デリー=スルタン朝は「奴隷王朝→ハルジー朝→トゥグルク朝→サイイド朝→ロディー朝」の順で、アイバクが建国した奴隷王朝と、ムガル帝国にとってかわられる最後のロディー朝が比較的よく出る。その他の王朝は順番のみ気を付けること。

×:第1回インド国民会議(1885)が開かれたのはボンベイで、デリーではない。高校世界史に登場する有名なインド国民会議派の大会については以下の通り。

1885 ボンベイ大会:親英団体として発足

1906 カルカッタ大会:ティラクの下での急進化と4大綱領の決議

1929 ラホール大会:ネルーの下でのプールナ=スワラージ(完全独立)要求

×:上述の通り、4大綱領(民族教育・スワラージ・スワデーシ・英貨排斥[ボイコット])が決議されたのはカルカッタ大会で、デリーではない。

×:タージ=マハルを建設したのはムガル帝国の5代目シャー=ジャハーンの時で、建設された場所は旧都アグラ。シャー=ジャハーンは都をデリーに遷したことでも知られる。

 

  20   

:まず、世界史の知識としてマウリヤ朝の最大版図はインドの南端部までは及んでいない。 さらに、図1の主要道もインド南端には及んでいないことが見て取れるので、メモ1の内容は誤。一方、「黄金の四角形」は図2よりボンベイ・マドラス・カルカッタという沿岸都市を結んでおり、文章中の会話からも沿岸都市の重要性やそれらを起点に鉄道が伸びていくことが示されているのでメモ2の内容は正。よって解答は

 

  21   

:「グラフの時期の~」と書かれているが、設問は3つの出来事を順番に並べ替える単純な整序問題なので、素早く解くことが重要。内容的にも平易。

「あ」:アメリカが債務国から債権国になるのは第1次世界大戦(1914-1918)がきっかけ。これにより1920年代にはアメリカのウォール街が世界金融の中心となっていく。

「い」:武器貸与法は第2次世界大戦中の1941年のこと。

「う」:TVAは世界恐慌対策としてフランクリン=ローズヴェルトが打ち出したニューディール政策の一環で、1933年。

よって、順番は「あ→う→い」となるので正解は②。

 

 

  22   

:世界史の知識よりはグラフの読み取りと国語の問題です。文章は全体として「交通手段の変化」を話題にしています、また、1920年代は1909年に大量生産が開始されたフォードT型が急速に普及して自動車が大衆化した時代であることは高校世界史でも出てくる内容になりますので、1920年代前半からの鉄道旅客輸送量減少の要因は「自動車の普及」であると考えられるので適切なのは「お」。また、文章からは冷戦下で全国に幹線道路網が整備されたこと、戦後に民間航空が成長し長距離国内移動の手段となったことが読み取れ、さらに1940年代以降はグラフから鉄道による旅客輸送量が減少していくのに対して貨物輸送量は横ばいかむしろ増えていくことが読み取れますので、適切なのは「X」。

→よって、「おーX」の組み合わせが正しいので正解は③。

 

  23   

:世界史の知識と読み取りの双方で解く設問。まず、資料1の「  エ  とオーストリアとの同盟」については、藤井と先生の会話(1873年に締結され、一度失効した後1881年に再締結されるとある)より三帝同盟のことだとわかるので、  エ  ドイツ。

 また、フォン=メックの書いた手紙である資料1にはロシアが「フランスと仲良くした方が良いのは確か」とあり、資料2では「ロシアと同盟するしかない」フランスがそれを理解しないことを「物分かりの悪い」「何たる愚かな!」国と批判していることから、ロシア・フランス両国が同盟することが正しいのにそれを理解しないフランスにいら立っていることが分かるので、「X」が正しい。

→よって、「あーX」の組み合わせが正しいので正解は①

 

  24   

:基本的には知識問題で解けますが、文章とグラフの読み取りも含みますので、メモの内容がグラフ・文章と整合性がとれているかはきちんと確認する必要があります。

(藤井さんメモ)…誤り

・「1860年代~1870年代と1890年代に鉄道の年平均建設距離数が伸びている」

→グラフより正

・「ロシアがクリミア戦争で黒海北岸地域を得た」

→ロシアはクリミア戦争では敗北している。また、講和条約のパリ条約(1856)では黒海北西岸にあたるベッサラヴィアをモルダヴィアに割譲しており、むしろ領土を失っているので、誤文。

・「1890年代の鉄道建設が進んだのはシベリア鉄道建設のせい。」

→露仏同盟をきっかけにフランス資本が導入されてシベリア鉄道建設が進んだことは基本知識。正。

(西原さんメモ)…正しい

・「1860年代から1870年代にかけて、鉄道建設のためにアラスカ売却の資金を利用した。」

→グラフより、1860年代後半より1870年代前半にかけて鉄道建設が伸びていることが分かる。また、先生の話からロシアが領土の一部を鉄道建設に利用したことが分かる。また、ロシアによる米へのアラスカ売却は1867年なので、内容に問題はない。正。

・「露仏同盟の締結が1890年の鉄道建設を推進した。」

→上述。正。

 

  25   

:キリスト教の公認は313年のミラノ勅令で、この時の皇帝なので、  ア  はコンスタンティヌス。コンスタンティヌスの事績としておさえておきたいのは以下の通り。

・四分統治を終わらせてのローマ帝国の再統一

・ミラノ勅令(313

・ニケーア公会議(325):アタナシウス派が正統、アリウス派が異端に

・コンスタンティノープルへの遷都(330

・コロヌス土地緊縛令(332

・ソリドゥス金貨の発行

上述の通り、コロヌスの移動の禁止とアリウス派を異端としたのがコンスタンティヌスの事績なので、組み合わせは「いーY」となり、正解は⑤。

※ 軍管区制(テマ制)はビザンツ帝国の制度で、中央から各軍管区に将軍を派遣する中央集権的なシステム。7世紀のヘラクレイオス1世の頃から徐々にととのえられたとされている。

※ ネストリウス派が異端とされるのは431年のエフェソス公会議、また単性論が異端とされるのは451年のカルケドン公会議。

 

  26   

:マドラサは実際にイスラーム世界各地で建設されていく。高校世界史で出てくる代表的なマドラサはファーティマ朝のアズハル学院とセルジューク朝のニザーミーヤ学院。

×:ゼロの概念をイスラーム世界に伝えたのはインド。

×:イスラーム世界で発達したミニアチュール(細密画)は中国絵画の影響を受けたと考えられている。

×:イクター制はブワイフ朝で導入され、セルジューク朝で各地に広がったと考えられている。

 

  27   

:先生の話より、8世紀後半のイラクでキリスト教徒がシリア語を用いてギリシア語文献をアラビア語に翻訳したことなどが示されている。アッバース朝統治下のバグダードの「知恵の館(バイト=アルヒクマ)」でもネストリウス派キリスト教徒などが活躍していたことが知られている。

×:「シリア語が使われ始めたのは1世紀頃から」と先生の話の中にあるので、シュメール人が使ったとは考えられない。シュメール人の活動した時期は前3000年代~前1800年ごろと考えられている。

×:パルティアの活動時期は前3世紀~後3世紀で、この頃にはまだイスラームは誕生していない。当然、ジズヤも存在しない。

×:相田の「ギリシア語からアラビア語への翻訳が普及すると、シリア語は使われなくなったのか」という問いに対し、先生は「いいえ。」と明確に否定し、11世紀から13世紀にかけてのシリア語文献の登場や、モンゴル支配下での西アジアにおけるシリア語の学術分野における活躍が示されている。

 

  28   ①

:ルターが行うのは聖書のドイツ語訳であって、フランス語ではない。ほぼ瞬間的に解くべき問題で、ほとんど時間はかからない。基本問題。(ただし、念のため他の選択肢が正しいことをしっかり確認した方が良い。)

 

  29   

:バルトロメウ=ディアスの喜望峰到達は1488年。コロンブスがアメリカ大陸に到達する1492年よりも早く、整合性がとれる。

×:「自国内の」とあるが、ポルトガル領内には当時すでにイスラーム勢力は基本的には存在しない。イスラーム勢力(ナスル朝)と隣接していたのはスペイン。

×:トルデシリャス条約はコロンブスのアメリカ大陸発見の後、1494年に締結されたので不適。

×:スペインがポルトガル王位を継承するのは1580年のフェリペ2世のときで、コロンブスの時代よりも百年近く後なので不適。

 

  30   

:文章から内容を読み解く国語の問題。コロンブスがスペイン人であるという説は「コロンブスがほとんどの文書をスペイン語で書いていた」ことが根拠であると文章に明示されている。また、彼がスペイン語で文書を書いていた理由も故郷のジェノヴァにおいて書き言葉が成立していなかったことが理由となっており、スペインがジェノヴァを支配していたからではない。(また、そのような事実もない。)よって、正しいのは「あ」。

また、こうした思い込みとその理由の関係を考えれば、「国民国家に属する国民が同一言語(国語)を話すはず」という先入観があることが思い込みの原因として適切と考えることができるので、正しいのは「X」。

→よって、「あーX」の組み合わせが正しいので正解は①。

 

  31   

  イ  が何かをきちんと把握できれば、世界史の基本知識で解ける問題。  イ  に関して述べている文章で「逆賊」は安禄山のことを指すといっているので、  イ  安史の乱(755-763)。また、この反乱はウイグルの協力によって鎮圧されたことも良く知られている。

×:塩の密売人が起こした反乱として知られているのは黄巣の乱(875-884)。

×:反乱を起こした安禄山が節度使であったことからも分かるように、唐の末期には節度使やそれが独立化した藩鎮勢力はむしろ力を増し、唐の滅亡と五代十国時代へとつながっていく。

×:「反乱を鎮圧した節度使が新王朝を建設した」のは黄巣の乱を鎮圧した後、唐を滅ぼして後梁を建国した朱全忠を指すと考えられるので、安史の乱とは無関係。

 

  32   

:ほぼ世界史知識のみで解けるので、できる限り短時間で解きたい設問。唐代中期頃から、科挙官僚の台頭とともに魏晋南北朝時代の頃から続く四六駢儷体などの貴族文化を批判的にとらえ、漢代以前の「古文」の復興を主張する文化人が登場する。その代表的な人物が唐宋八大家として知られる韓愈と柳宗元であるので、 ウ には「い」の「古文」を入れるのが正しい。また、 エ  に入るのは「唐代後半期から宋代にかけての文化の流れ」に当たるものが入るので、「X」の「貴族的な形式美を否定的に捉え、力強さや個性を尊重する」が正しい。

→よって、「いーXの組み合わせとなるので正解は

 

  33   

:文章や資料の読み取りではなく、世界史の知識で解く問題。

(メモ1)…誤り

・乾隆帝をはじめ、清の文化政策は「文字の獄」などの思想統制でも知られているので、「漢人に対して自由な言論活動を認め」というのは誤り。

(メモ2)…誤り

・北魏の漢化政策は自文化を維持しつつ行われたのではなく、むしろ漢民族の文化と同化していく中で進められたので誤文。北魏と清の違いについては、いわゆる「浸透王朝」と「征服王朝」の違いなどの議論でも知られていますが、近年はこうした区別はあまり使われていないようです。

※「浸透王朝」…遊牧騎馬民族としてのアイデンティティを失い、漢民族と同化していった五胡十六国や北魏などの北朝

※「征服王朝」…自民族のアイデンティティを保ちつつ中国を支配した遼・金・元・清などの諸王朝

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