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ヘッダーイラスト:かるぱっちょ様

正直に言ってそこまで頻出というわけでもないのですが、たまたま図表と地図をつくったのでw 地図の方はかなり前に作ったものなので、クラクフ大学のってません。

ヨーロッパ中世の大学はたくさん数がありますが、出題頻度が圧倒的に多いのは北イタリアのボローニャ大学と南イタリアのサレルノ大学である気がします。ボローニャは最古の大学とされますし、南イタリアは医学との関係でイスラームなどとも結びつけやすいので、出題しやすいのだと思います。できた時期については、当時大学がいつ形成されたのかは判然としないところもありますので、必ずしも「○○世紀」ということにこだわらなくても良いと思います。12世紀までにはできていて、ボローニャがおそらく最古、サレルノがそれと同時期くらいの理解で大丈夫かと。実際、『タペストリー』あたりを見るとサレルノは「?世紀」となっていますが、ここでは便宜上同大の名声が高まる12世紀に分類しました。

対して、パリ、オクスフォード、ケンブリッジは超有名で専門も神学のため、いまいち出題しにくい。オクスフォードがパリから移住した学生によって形成された話や、ケンブリッジがオクスフォードから派生したという特徴があるにはありますが、これをネタとした出題、そんなに頻繁には見ませんね。

それよりは、むしろプラハ大学あたりの方が特徴があって出やすい気がします。(ベーメン王カレル1世こと神聖ローマ皇帝カール4世による。)また、近年ですとシュタウフェン朝の参考書等での記述量が増しているので、フリードリヒ2世によるナポリ大学なんかもアリですね。クラクフ大学は正直まだあまり出題で見かける気はしません。ポーランドなので今後増えてくるかもしれませんが。

 

・中世の大学はまずボローニャ大学(北イタリア・最古・法学)とサレルノ大学(南イタリア・医学)をおさえる

・パリ、オクスフォード、ケンブリッジは神学

・余裕があればプラハ大学、ナポリ大学の特徴をおさえておくとよい


中世大学一覧 - コピー (2)

ヨーロッパ中世大学 - コピー
(赤は12世紀までにはできていた大学)
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2022年の早稲田法学部の論述問題は「北アジアおよび中央アジアのトルコ系民族集団の興亡」について問う問題でした。中央アジア史は一般的な受験生は十分に理解を進めるのが遅くなりがちな分野で、これが20年前に出題されたのであれば「エグイなぁ」と感じる設問だったかと思います。しかし、中央アジアに対する関心は年々高まってきています。同地域には石油・天然ガス・ウラン・レアメタルなど豊富な天然資源があることでもしられていますし、地政学上も重要な地域で、ヨーロッパへのエネルギー供給のためのパイプラインも通っているため、欧州の安定にも深くかかわっています。おそらく、こうした関心の高まりと、同地域の歴史研究の進展という双方の要因から、近年では中央アジアとその周辺を論述問題で出題する大学が増えてきています。何より、2022年は東大でも「トルキスタンの歴史的展開」が大論述で出題されましたので、今後中央アジア史をより丁寧に学習することが、難関大を受験する受験生には必要なことになってくると思われます。

また、2022年早稲田法学部の論述問題は、トルコ系民族をテーマとした出題でもありました。トルコ系民族やトルキスタンについては、2019年や2022年の東京大学大論述のテーマともなるなど、近年出題が増えている分野でもあります。時間が許せばですが、以前に早稲田法学部の出題傾向などでもお話した通り、早稲田法学部の論述の練習材料として東大の過去問に挑戦する(または問題と解答を見てどんなテーマがありうるのか確認しておく)ということも有用かなと思います。

 

【1、設問確認】

・時期:6世紀から10世紀末(501年~1000年)

・北アジアおよび中央アジアのトルコ系民族集団の興亡と移動について説明せよ。

250字以上300字以内。

・指定語句(要下線)

:唐の建国 / 安史の乱 / キルギス / パミール高原 / イスラーム王朝

 

本設問では、時期だけではなく「北アジアおよび中央アジア」と「トルコ系民族」という地域的な限定と民族的な限定がされている点に注意を払う必要があります。

 

(北アジア)…通常、アルタイ山脈以北のシベリア地域を言う

(中央アジア)…通常、東西トルキスタンを中心とする地域を言う

 

【2、指定語句の整理】

:通常の高校世界史でよく登場するトルコ系民族の流れと言えば、「突厥→ウイグル→キルギス」かなと思います。とりあえず、頭の中で「突厥→ウイグル→ウイグルがキルギスに敗れた後に中央アジアに定住して同地がトルコ化、ついでにイスラーム化の流れかなぁ」という漠然としたイメージが即座に作れるのであればこの問題はかなり取り組みやすかったのではないかと思います。この流れが浮かんだのであれば、これをもとに指定語句とからめて肉付けをしていきます。この流れが浮かばない場合でも、まずは指定語句を確認して周辺知識の洗い出しや、時代順の並べ替えを進めていくことになるでしょう。

 

・唐の建国(618

:唐が建国された7世紀前半に北アジア~中央アジアにかけて存在したのは突厥です。ただし、この突厥はすでに東西に分裂(583)した後でした。設問は時期を「6世紀から」としていますので、もう少し前から突厥の様子を探る必要があります。また、上記の通り、突厥以降は「突厥→ウイグル→キルギス」(全てトルコ系民族)という形でうつり変わっていきます。これらのトルコ系民族の興亡についての簡単なまとめは以下の通りです。

 

(突厥以前)

 ・アルタイ山脈付近を起源とする遊牧民族

 ・丁零、高車などと呼ばれ、匈奴や柔然の支配下に置かれていた

 

(突厥)

 ①柔然(モンゴル系)から独立して建国[552、突厥第一帝国]

 ②エフタルを滅ぼしてパミール高原まで勢力を拡大
 ③建国当時、中国は南北朝時代

→隋が文帝[楊堅]によって中国を統一する過程で突厥は圧迫される。(東西に分裂)

 ④隋の滅亡による勢力回復と、唐の建国への協力

 ⑤唐の太宗[李世民]の時代に東突厥が平定される(630、天可汗の称号)

→唐は羈縻政策を導入

 ⑥唐の高宗の時代に西突厥滅亡(657

 ⑦世紀後半に唐に服属していた東突厥が自立化[682、突厥第二帝国]

 ⑧ウイグルによって滅亡(744
 
(ウイグル)

 ①744年に自立化、東突厥(突厥第二帝国)を滅ぼす

 ②安史の乱で唐に協力

 ③マニ教の信仰

 ④ソグド商人の保護

 ⑤キルギスによって滅ぶ(840

 ⑥以降、タリム盆地方面に移住、ソグド人と混血(中央アジアのトルコ化)

 

(キルギス)

 ウイグルを滅ぼす。その後は小部族が乱立、13世紀にモンゴル帝国の支配下に入る

 

・安史の乱(755763 

・キルギス

:これら二つの指定語句については、上述した箇所で使用すればOKです。

 

パミール高原

:東西トルキスタンを分ける地域です。

 

・イスラーム王朝

:中央アジアのイスラーム化は、ウマイヤ朝・アッバース朝やサーマーン朝の流入によって進んでいきます。サーマーン朝はイラン系の王朝ですが、サーマーン朝と言えば、よく「中央アジア初のイスラーム王朝」という形で紹介されることが多く、今でもよくフレーズとしては出てきます。これは、「初めて中央アジアを拠点として誕生(または自立化)したイスラーム王朝」という意味で、それまでに中央アジアにイスラーム王朝の支配や影響力が及んでいなかったというわけではありません。(もしそうであれば、「何でタラス河畔の戦い[751]が起こるんだ」ということになってしまいます。)最近は、教科書の記述もこの辺丁寧になってきていて、サーマーン朝について「中央アジア初のイスラーム王朝」という記述は減ってきています。たとえば、東京書籍の『世界史B』(2016年版、2022年印刷)では、「ソグド人」についてのコラムの中で、ソグド人の故地(サマルカンドとその一帯[西トルキスタン])についての記述で以下のように示されています。

 

 なお、ソグド人の故地では8世紀からウマイヤ朝のもとでイスラーム化がはじまり、サーマーン朝のもとでイスラーム教への改宗が進んだ。さらに10世紀のカラ=ハン朝以降トルコ化がすすみ、今日西トルキスタンと呼ばれる地域の一部となった。(東京書籍『世界史B2016年版、p.101

 

一方、上記の引用にも登場しますが、カラ=ハン朝の場合には「中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝」というフレーズでよく紹介されますし、多分今後もそのような形で出てくることになると思います。今回はトルコ系民族が求められている主題ですので、これはおさえておきたいですね。カラ=ハン朝は最近「カラハン朝」の表記も見られるようになってきましたが、まだ安定しません。(東京書籍版『世界史B』ではカラ=ハン朝ですが、山川の世界史用語集ではカラハン朝となっています。)まぁ、習ったときの表記で良いのではないでしょうか。

他に中央アジアと関係するイスラーム王朝というと、もし中央アジアにアフガニスタンを含めて考えるのであればガズナ朝を視野に入れても良いかもしれません。本設問では10世紀までとなっていますので、同じトルコ系でも11世紀以降に成立するセルジューク朝やゴール朝は含みません。

 すると、本設問に関係してきそうなイスラーム王朝はウマイヤ朝・アッバース朝・サーマーン朝・カラ=ハン朝・ガズナ朝あたりということになります。

 

【3、中央アジアのイスラーム王朝の整理】

:上記の通り、本設問に関連しそうなイスラーム王朝はウマイヤ朝・アッバース朝・サーマーン朝・カラ=ハン朝・ガズナ朝あたりということになります。もっとも、ウマイヤ朝については高校世界史ではほとんど中央アジアに関係する出来事の記述は出てきませんので、実質的にはアッバース朝の進出、つまりタラス河畔の戦いから考える形で良いと思います。また、トルコ系のイスラーム王朝が始まるのはカラ=ハン朝からです。そこで、これらのイスラーム王朝について、中央アジア(または北アジア)に関係する事柄を簡単にまとめてみたいと思います。

 

(アッバース朝)

751 タラス河畔の戦い

:西域に駐屯していた唐の高仙芝の圧力に対し、これに抵抗した西トルキスタンの部族が西に存在していたイスラーム勢力に援助を要請。これに応えたアッバース朝の総督が軍を派遣して唐の軍隊と交戦した戦い。製紙法西伝のきっかけとなった戦いとして有名だが、これ以降、特に西トルキスタン地域へのアッバース朝の影響力は拡大したが、実態としては現地の土着部族が同地を統治していた。

 

(サーマーン朝)

・「中央アジア初のイスラーム王朝」(イラン系)

:イスラームに改宗したイランの土着貴族がアッバース朝の総督(アミール)であったターヒル朝の下で勢力を拡大し、875年にアッバース朝から事実上独立。アッバース朝やサーマーン朝の頃からトルコ人軍人奴隷をマムルークとして導入することが増える。

 

(カラ=ハン朝)

・「中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝」

10世紀半ばに成立し、イスラームに改宗。サーマーン朝を滅ぼす。(999

 

(ガズナ朝)

:サーマーン朝のマムルーク出身であるアルプテギンが、10世紀後半(962)にアフガニスタンのガズナに建てた独立政権から発展したイスラーム王朝。 

 

【解答例】

モンゴル系柔然に支配されていたトルコ系民族の突厥は、6世紀に自立し、エフタルを滅ぼしてパミール高原まで勢力を拡大したが、東西に分裂し、唐の建国後は押され、東突厥は太宗に制圧され羈縻政策下に入り、西突厥は高宗により滅んだ。その後台頭したマニ教を奉ずるトルコ系ウイグルは、安史の乱鎮圧に協力し唐と友好を保ったが、キルギスに敗れて以降はタリム盆地周辺に定住してソグド人と混血し、同地のトルコ化が進んだ。同地では、タラス河畔の戦い以降、イラン系サーマーン朝などの進出が進み、トルコ人は軍人奴隷マムルークとしてイスラーム世界に導入された。10世紀には初のトルコ系イスラーム王朝カラハン朝がサーマーン朝を滅ぼした。(300字)

 

上記の解答にはガズナ朝は入れませんでした。要素としては中途半端かなぁと思ったので、バランス重視で削りましたけど、書いても別に間違いではないかなと思います。解答はえらい前に作ったのでほんのちょっぴり自信ないですが、自分で作ったはずw たしかw

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【共通テスト】

 

明と清では国による大編纂事業がなされますが、これが結構たくさんあります。簡単な表を作ると以下のようになります。


画像1

もっとも、これらの編纂事業で編まれたものが、記述式で出題される機会はかなり少ない気がします。国公立の論述問題でこれらの細かい違いをおさえていないと問題自体が解けないというケースはまれですし、私大の問題や共通テストの問題は選択式であることがほとんどですので、実際に出題されるとすれば、「①その編纂事業が行われたのは明の時代か清の時代か」または「②その編纂事業が行われたのはどの皇帝の時代か」が問われることになるので、その区別さえついていれば概ねどうにかなると思われます。

 

そこで、どうやったらその区別がつくかということなのですが一番のポイントは「明代の編纂事業が何かを確実に覚えておく」ということです。たくさんのものを区別する時に効果的なのは、いくつかあるもののうち一つだけでも確実にしておくやり方です。特に、選択式問題の場合、これができれば確実に、ある選択肢について「選ぶ」または「はじく」ことができます。

では、明代の永楽帝時代における編纂事業をどうすれば覚えられるかですが、ここで思い出してほしいのが「明は朱子学を官学化した」ということです。明代には南宋の朱熹が大成した朱子学が国家によって保護されます。朱子学は儒学の一派なわけですので、当然『五経』(詩経・書経・易経・春秋・礼記)は重要な書物です。また、朱子学ではそれまでの儒学のテキスト『五経』に加えて『四書』(論語・孟子・中庸・大学)を重視しました。そして、人間に内在する本質である「性」を、感情や欲望に流されず、宇宙の根本原則たる「理」に合致させることが理想とされ、これを「性即理」と称したことから朱子学は「性理学」とも呼ばれました。さて、ここで明代の永楽帝時代に行われた大編纂事業を並べてみましょう。

 

五経大全』(五経の注釈書)

四書大全』(四書の注釈書)

性理大全』(性理学[朱子学]の大全集)

『永楽大典』(百科事典)

 

お気づきかと思いますが、これらはほとんど朱子学と関係した編纂事業なのですね。ですから、明の永楽帝時代の編纂事業については「朱子学と永楽がついたらそれは明の永楽帝時代」と理解しておくだけでいいわけです。

これだけでもかなり効果的なのですが、この区別がつくようになったら少し発展して清代の編纂事業の区別も行ってみましょう。清代の有名な編纂事業は以下になります。

 

『康煕字典』(漢字辞典

『古今図書集成』(百科事典[類書]:あらゆる事物・現象などについて説明したもの)

『四庫全書』(叢書:複数の書物を編纂しまとめたもの)

『五体清文鑑』(5つの言語の対照辞典

 

一番上の表にも示しましたように、『康煕字典』が康煕帝時代だというのは大きな問題がありません。では、その他のものについてはどのように考えたらよいでしょうか。

ここから先の話は、分かりやすくとらえるためにウソというかフィクションを交えてのお話になります。ご存じの方も多いかと思いますが、清は漢民族の建てた国ではなく、女真族によって建てられた国です。ですが、清は元と違って儒学や科挙を貶めたり廃止するようなことはせず、漢民族に対する一種の懐柔策として儒学や科挙は重要なものとして位置づけられました。本来は周辺の夷狄とされた女真族でしたが、易姓革命説を重視して「明にかわって支配者となった清こそが中華である」とされましたし、満漢併用制(満漢偶数官制)により、漢民族は科挙によってエリートになることも可能でした。さて、そうすると、支配者となった女真族の方でも漢民族の文化や学問を完全に無視することはできないわけで、こうした中で、最初に字(漢字)を学び、次に物事についての知識を深め、最後に多くの書物に書かれた教養を吸収するという形で漢民族の文化・学問を知る必要が出てきます。

このように考えると、「字(漢字辞典)」→「物事(百科事典)」→「書物・教養(叢書)」という順序で編纂事業がなされるのはごく自然なことなのですね。(ホントかよ。) まぁ、このようにストーリーだてて理解すると、『康煕字典』→『古今図書集成』→『四庫全書』が康煕帝→雍正帝→乾隆帝の順で編纂されたことをいくらかイメージしやすくなります。(もっとも、そのためには「漢字辞典とは何か」とか「百科事典とは何か」とか「叢書とは何か」を具体的にイメージできることが前提になるのですが。)

 それでは、『五体清文鑑』についてはどのように理解したらよいのでしょうか。これについても『五体清文鑑』とは何か、をしっかり把握することが大切になります。『五体清文鑑』が「5つの言語の対照辞典」であることは上に示しましたが、ではその5つの言語とは何かといいますと、「満(女真族)・漢(漢民族)・蒙(モンゴル)・蔵(チベット)・回(ウイグル[新疆])」5言語となります。お気づきの方もいるかと思いますが、これらは清の直轄支配地に住む女真族・漢民族と、藩部として支配しているモンゴル・チベット・新疆に住む諸民族の言語なわけで、清はこれらの5つの地域の統治のために対照辞典を作らせたわけです。ということは、『五体清文鑑』が編纂された時点でこれらの地域が清の支配下に入っていなければならないわけで、そうするとこれが編纂されるのはジュンガル部に対する遠征の後に新疆を設置した乾隆帝の時代であるということになります。(モンゴルとチベットはそれ以前にすでに清の支配下に入っています。)

 もちろん、「こんなに理屈くさい覚え方では覚えにくい」、「語呂合わせなどで覚えたい」という人も多いのではないかと思いますし、そうしたい方はそれでよいと思いますが、こうしたストーリーによる覚え方をしておくと、各時代の理解に深みが出ますし、何より他の事柄と結びつけて覚えることができる(明代の儒学官学化 / 乾隆帝のジュンガル遠征と新疆の設置など)ので応用が利くようになるのではないかと思います。

 

(明清の編纂事業を覚える際のポイント)

① 明の永楽帝時代の編纂事業(朱子学関係と永楽)を覚える【最重要】

② 『康煕字典』(漢字辞典)→『古今図書集成』(百科事典)→『四庫全書』(叢書)を覚える

③ 『五体清文鑑』は新疆を設置した乾隆帝の時代であることを把握する

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